ページが増えてくると保存に時間がかかる。
というわけで新しいbcckに移行。
昨日は新しい蛍光灯ライトバンクのセットをテスト。
一灯あたり六バルブにしては近くから当てても
それほどまぶしくないので人物を撮るにもまあ使える。
ライティングには限りがない。
昨日は南三陸町へ行った。ここもひどい有様。
今日は気仙沼、石巻へ。
石巻で前にお会いした方が偶然八十二歳の誕生日。
写真をプレゼントして、喜んでいただいた。
人を撮った写真は渡したときに
喜んでもらえることが楽しみの一つだ。
撮るときは「どこの馬の骨だ」という顔で見られるが
写真をあげたときに初めて俺はその人たちから
「写真を撮る人」であると認識される。
それがうれしい。
「ラ・ミゼラブル」などに出演している俳優の野島直人くん。
ずっと写真を撮っている。
「ファンが喜ぶようなキメ顔カットは面白くない」と言うので
とにかくおかしなスタイリング、小道具などで十三カットを撮影。
打ち合わせをしたのは昨日。朝から二時間で撮影して、
すぐにレタッチ、デザインしてもうすぐ入稿。
やればできるものだ。
昨日はカメラに望遠レンズをつけてスタンバイ。
晴天で絶好のコンディションです。
天体の写真なんていうのは機材と質において
専門家に叶うわけもなく、自分の記録として
「この日は月蝕だったよね」というだけのものです。
十二月八日 舞山さんの写真展にお邪魔する。
25年前から現在のものまで、たくさんの写真が並ぶ。
写真家はこうして撮った写真にケジメをつけるというか、
自分の中で消化して、また前に進んでいくんだろうなあ。
今は誰でもiPhoneを持ち、コンパクトデジカメを持ち、一眼レフを持っている。
昨日もテレビ朝日の前で大勢の人がイルミネーションを撮っていた。
見ることと撮ることの差がどんどんなくなって、むしろ現実の風景は見ていない。それでもいいんだけど、写真を撮ることは本来、「見る精度を上げる」「眼を鍛える」ことにもつながるのでそれだけだと勿体なくも感じる。
東日本の震災の資料を見ていると、みんながカメラを持っていることであらゆる場所の写真が残っているが、これらの資料としての存在価値は計り知れない。写真はただ撮って残しておけばいいのだとも思う。そこに芸術的な価値があるかどうかなどは普通の人にとって考えなくてもいいしどうでもいい。自分の興味の対象をデータに閉じ込めればいいだけだ。
ブダペストのアンティークマーケットで家族のアルバムを買った。
写真が好きな人のようで、几帳面に家族の日常が記録されていた。どの写真も、とてもいい。家族を家族が撮るのは、カメラマンがモデルを撮るのとはまったく違う。今それがマーケットに流れてしまっていることに若干の寂しさは感じるけれど、自分にとってこれはとても価値のあるポートレートの教科書である。写真を撮ることは技術でも流行でも哲学でもない。なくなってしまうには惜しい、愛しい時間を紙に残すことだ。
もうひとつ買ったのが、何人かの戦時下のパスポート。写真と名前と住んでいた場所、出国スタンプがある。これが市場にあるのはもしかしたら亡くなってしまったからかもしれない。日付は一九四五年前後のものが多いことからも明らか。写真が持ち主を表していることで、本来の写真とは違うけれど、単なる証明写真の固い表情にいろいろな想像を巡らすことができる。
どこに行っても、結局、写真と、写真を巡る物語を探している。
古い方のBCCKSに書いていたことについてメールが来たので説明を。
写真の色調にはある種の流行が存在することは確かです。
森山大道さん、北島敬三さんなどのモノクロのダイナミックなトーンは、当時モノクロをプリントしていた人なら誰でも一度は試したことがあると思います。増感して粒子を荒らしコントラストを強く焼き付ける。これは写っているモチーフにも関係してくる気がします。
北島さんに影響されていた自分も例に漏れず、高校生の時は横須賀のソウルバーに入り浸り、黒人が喧嘩してるところなんかを撮っていました。暗い場所で撮っているので必然的に増感したり、ストロボでコントラストが固くなったりしている。写す条件と出来事と仕上がりが密接でした。
それから藤原新也さんや十文字さんのようなコッテリしたポジの濃い色調が新鮮に見え、スタンダードになりました。そのあと、与田さんのようなスッキリしたトーン、上田さんや藤井さんのように、写っているモノの判別がつかないような暗くゴージャスなトーン、など。時代が変わると写真の雰囲気はどんどん変化していきました。
ホンマさんはドラマチックさを排除し、「心がない」とも見えるほどのナチュラルさを写真のトーンに表現したニュータイプかもしれないです。本人の性格が大きく影響している気がしますが、広告的にコントロールされた写真を撮る仕事を経験したことも大きいと思います。作家的になるにつれ、それとは違う方向へ写真がどんどんピュアに素朴になっていきました。関係ない話ですが、ここで初めて写真の潮流が日本と世界でシンクロし始めたのかもしれません。ティルマンスなどホンマさんの仲間たちが、同時代に同じような感覚で写真の流れを作り上げました。
それから川内倫子さんなどに代表されるナイーブな淡いトーンが「流行」すると、誰もが露出を二段オーバーで撮り始め、印刷所のインクを節約してきました。
ここまで写真の色調や雰囲気が出尽くしてしまうと、先祖返りする人も出てきます。ナイーブ全盛の今になったからこそ森山さんの写真に衝撃を受ける若者もいるだろうし、ポジでアンダーに撮る人も、わざわざボロいハーフ判で撮る人なんかも出てきます。古いとか新しいだけではなく選択肢が増えることはいいことです。絵とは違って、写真の歴史なんてたかだか百年ちょっとくらいのものですからね。
今はコンパクトデジカメにさえ、森山トーンのラフなモノクロのフィルターが装備され、それらしい写真が撮れる。本城さんの疑似ジオラマ風フィルターだってあります。Instagramでは誰もがクロスプロセスの写真をアップしています。これらは写っている出来事を水増ししてドラマチックに見せるので人気があるのでしょう。
次のページの写真はLightroomで自作したクロスプロセスプリセットを使って加工してあります。どうでもいい写真が「それらしく」見えると思います。こういうのは「こんな風にもできるよ」という選択肢の一つなので、これで何かできた気になるのは大間違いで、実際に一番大事なことは昔から変わらず「どれだけいい写真を撮ることができるか」にかかっています。
いい写真の定義は他人に聞くことではないので自分で考えてもらうとして、色調やトーンは最終的に作品に仕上がるための「塩こしょう」であると思っていれば間違いはないでしょう。
photoshopでエフェクトをかけ過ぎるのはよくない、と前に書きましたけど、この説明で理解してもらえるかと思います。photoshopは万能のマジックツールではなく、雑にトゲが飛び出している写真に、過不足ないように仕上げる紙ヤスリみたいなものなのです。
また何か足りないことがあったらメールをいただければ。自分もまだまだ同じようなことで悩んでいる最中です。どこにもゴールはないし、納得もない。立派な写真家でもつねにやり方を模索し、過去の写真から離れ、新しい写真を撮るために変化し続けているのです。
BCCKSはとても面白い仕組みだけど、長い時間をかけて慣れてきたやり方を急に変えるのは、やはりなじめない。ネットではインターフェースが変わることは珍しくないし、何度も経験があるんだけどBCCKSはいつまでも昔のものが残っているのが未練がましい。
すべてが消えてなくなってしまえば忘れてしまうんだけど、たまに古い方に書き込むと「ああ、こうだった」と思い出してしまう。
今日は千葉の印刷所で刷り出しの立ち会い。
特にトラブルは起こったことはないんだけど「ここで何か取り返しのつかない事態が起きていたらどうしよう」という不安がいつもある。臆病さは職業にとって必要だ。ルーチンに慣れてくると手を抜く。痛い目に遭う。それを繰り返すと手を抜かないようになる。手を抜くタイプの人を見ると、痛い目に遭ったことがないか、遭っているのに鈍感、のどちらかだと思ってしまう。
撮影は集中力で乗り切れるから、前日徹夜などをしてしまうが、刷り出しの確認作業は集中力を長時間持続させなければならないので、かならず前日は睡眠を取ることにしている。
全部を完璧にはもちろんできないが、しめるところを効率よくキッチリしめる、というのも職業的な技術かもしれない。そうでないと確実に過労で死んでしまう。
ではなぜそれほどまでして毎日二、三時間の睡眠で仕事をし続けるかと言えば、それが仕事であり、好きなことだからだ。撮影が終わってからも太陽が出ていれば写真を撮り、暗くなったら現像やレタッチなどをする。嫌なことをやれと言われたら同じようにできないかもしれないが、好きなことなので幸福感を持ってやっている。
ロケハンは重労働だ。
フィルムコミッションやネットでの情報を元に、一日に何十カ所もの場所を見て回る。海岸などはほぼ数百メートルおきに表情が変わるので、いちいちチェック。早朝から日没まで、干潮や満潮、光の向きを考えながら写真を撮っていく。この場合の写真はただ場所がわかればいいだけなんだけど、ときどきアングルにこだわって撮ってしまうこともある。宮古島には美しい蝶や鳥が多いのでついそれを追い回してしまう。あとから見るとロケハンの資料としては役に立たないことに気づく。
砂浜で馬の調教師さんに出会う。流鏑馬に使う、とてもいい馬なのだそうだ。
ロケハンで宮古島に来ている。
早朝到着すると、気温は高いのだが雨だった。予定していた場所は九割ほど見ることが出来たのでよしとしよう。新聞の見出しには沖縄を侮辱した発言。さらに昔の少女暴行事件を閣僚が知らないという話。いい加減にして欲しいものだ。
昼食はゴーヤチャンプルー、宮古そば。とても美味しかった。夜も海ぶどうやラフテーなど、こちらの名物料理のベタなところを一通り食べる。「名物にうまいモノなし」などと言うが、沖縄の名物は普段の食べ物だからみな美味しい。ホテルに戻りロケハン写真をまとめて、久しぶりにちゃんと寝よう。いつもロケやロケハンで健康を取り戻す。
今回は初めて羽田からヨーロッパに向かう。パリで乗り換えてブダペストへ。
プラハや旧東ベルリンが気に入ったので、ブダペストも面白いだろうというノンキな考え。ヨーロッパのゴージャスな歴史の中に社会主義的な痕跡を見るのはとても興味深い。チェコ、ドイツ、ハンガリーでもそういう部分は過去になろうとしているはずだが、何かが起きた雰囲気というのはどうしても消せないもの。東京に新しい建物が沢山建ち、都市計画がされても「そこで何も起きていない」という空虚さばかり感じる。何の根拠もなくセンター街を「バスケット通り」と呼んでみたり、渋谷公会堂をCCレモンホールと言ってみたり。都市の記憶は、名前を変えて変わるように簡単なものじゃないと思う。むしろ記憶の断絶に繋がる。
そのあと、ウィーンに行く。なかなか縁遠かった。かなり前に行く計画を立てたが直前でキャンセルしてしまった。そういうことがあると不思議とタイミングが合わなくなる。俺が好きなのは人がノンビリしていて、それをカフェでぼんやり眺めていられる場所。まあヨーロッパでカフェがダメな街なんてないんだけど、自分にとってちょうどいいカフェを探すのが面白い。まず、車の通らない大きな通りに面していて、椅子とテーブルがよくて、できればWiFiもあって、気分のいいおっさんと、張り切ったお姉さんのように2種類以上のタイプの店員がいて、食事はどうでもいいからデザートが充実していて、トイレは「汚くてしょうがないというほどでもない」くらい。まあいろいろ書いたけど最低限のことなのでそれほど探すのに苦労はない。
カフェはホテルのすぐそばというのが基本。たとえ数日でもそこに住んでいる以上は、近所のカフェが重要になる。朝、どこかに出かける前。帰ってきたときにかならず行く。何日かすると「一日二回来るヤツ」という関係が生まれる。何年かしてまた同じホテルに行ったときにワンセットでカフェも懐かしい。若い女性店員は変わっているが、おっさんは同じことが多い。日本は店員どころか、店そのものが変わってしまうのが残念。
今回は仕事なしで遊びに行くだけなのでテキトーにいろいろなものをガッサリと撮ってこよう。フンデルトもワッサーっと撮ってくる。ザッハも撮るて。
なんだか、別のサイトをクロスして会話しているようでややこしいですけど、ここで何か大層な写真集を作っている気もないので、無駄な世間話を。
海と山の人種の違いというのは確かにある気がします。俺は横浜の海の近くで生まれて、湘南の学校に通い、今は東京の臨海地域に住んでいます。ずっと海に縁があるか、無意識に海がある場所を選んできました。これらの海は豊穣の海じゃなくて、観光地や港です。俺にとっての海の定義はビニール袋や重油が浮いていて黒いもの。小学生の頃に伊豆の青緑の綺麗な海を見たとき「こんなの海じゃねえ」と、ある種の不安を感じたほどです。山に関してはほとんど遊んだ記憶がなく、いまだに山奥に行って妙な虫を発見すると女子のような悲鳴を上げてしまいます。
自分を形成している海は港であり、それこそ「移動の民」に位置づけられる育ち方をしたと思います。近所には外国人がなんの違和感もなく住んでいたし、クラスにも外国から転校してきた子供がいました。祖父母は落語や歌舞伎が好きでしたが、それと同じようにジャズやビートルズを聴き、朝はパンを食べ紅茶を飲んでいました。知らない国から新しいモノが入ってくることを否定しない、という根本的な部分は育った環境にあると思っているし、家族の影響も大きいと思います。
自分が大人になって、割となんとなく外国に行って帰ってくるというのもその幼児体験があるからかもしれません。日本の場合、周囲が海で隔てられていますから国内の島であろうと外国であろうと断絶した感覚があります。イメージとして切り離されているから排他的になったりするんですが、港だけは外に向かって開いています。道路の途中でいきなり外国になるヨーロッパなどの感覚は日本人にはないものですから、これだけは行って感じてみないとわかりません。
写真を撮る上でも「これは外国の写真」などと区別をする人もいますが、それこそ無意味です。どこで撮っても自分がカメラを向けている扇の先は変わっても、カナメの部分は変わらないからです。
さて、50mmの話。50mmは35mmライカ判の画角として標準と言われますが、人間が日常見ているのはたぶん35mm位だと思います。風景をぼんやり見ていると28mmくらいかもしれません。人を見ているときに50mm、その人の顔を見ているときは85mmなどと人間の目は無意識にズームをしています。不思議なのは聴覚でも同じことが起きているってことです。耳の指向性も可変します。大勢の中で自分の子供の声だけが聞こえるのは、写真で言う望遠レンズ、ガンマイクを使ったような能力を発揮しているからでしょうね。これがハッキリわかるのは喫茶店などで録音したときです。話している時には相手と自分の会話は何の不自由もなくクリアに聞こえているのですが、録音されたものを聞くと、グラスの音、外を走る車の音、となりの客の声などの聞こえていなかった音が大量に飛び込んできます。
50mmで撮るのは、眼で見ている自然な風景よりも「確定的な何か」を選択する作業になります。
広角で雑多なモノをすべて取り込むことはまた違った手法で、さっきの喫茶店の音に似ています。どちらがいいとは言えず、これもまた自分がイメージする表現の選択です。
さらにカメラが縦位置だと画角を狭めて、より選択的になりますから、撮り手の意志が明確になっていきます。その時に表現したい方法を選ぶために画角の違うレンズがあるので、どれがいいとは言えません。ブツにマクロで寄るときなどは最たるもので「これ以外の物を写したくない」という意志を伝えたいわけですから、そのときは他に意識を散らしてしまうものは映り込まない方がいいのです。どちらが簡単とか難しいとかはありません。
ちなみに山と海の話に戻ると、山奥にロケに行くときは割とマクロレンズを持って行きます。花や昆虫など、寄りたいモノがあるからです(虫は苦手だけど撮るのは大好きです)。海ではあまりマクロは使う気にならないですね。
ここ数日、二台を鞄に入れている。どちらも小さいので軽快。
画角を決めながらジックリ撮れるときはGXRで
すれちがいざまにサッと撮るときはV1。
写真はカメラを替えただけでは上手くならないけど、
撮る対象や気分は大きく変わってくる。
写真を撮る気持ちを活性化するためにいつも新しいカメラを買う。
ギャンブルも酒もやらないから、それしかお金の使い道がない。
最新式がいいとか、古いモノがいいとかいうこだわりはなくて、
自分が使ったことが無ければ、それはすべて新しいカメラだ。
特にGXRだと古いレンズがつくからハイブリッドで面白い。
いまのところV1には27mmが付いているから広角スナップ用。
GXRには40mmをつけて60mmにしていることが多い。
よく「M9を使わないのか」と聞かれるけど、
あれは仕事にも使えそうだからいまいち気分が乗らない。
買うのは時間の問題としても、できるだけ「役に立たない良さ」
みたいな部分を大事にしたいわけです。
かといってストレスがあったり、質が悪いと困るので
とにかくいろいろ試しております。
V1がすごいのは、やはり画質にこだわるならAPS-C以上の
素子じゃないとダメだと思っていたのがくつがえされたこと。
ニコンは相当がんばりましたね。
ニコンのコンパクトミラーレス。
写真で見ていた印象よりも重く、ゴツい。撮像素子が小さいのでそれほど期待していなかったけど
なかなか便利そう。10mmレンズなので換算で27mm。GXRの28mmと方向性は違うけど遜色はない。フォーカスを含めてすべての反応が速い。うれしいのはこんなカメラなのにD7000と同じバッテリーを使ってるってことだ。出かけるときに充電器を兼用できるメリットは大きい。撮影モードを変えたりするのはちょっと面倒だけど、表に出ているボタン類を少なくしているのでまあこのあたりは仕方ないか。
撮影に行くときは仕事用のカメラの他に小さいのも持って行くんだけど、気軽にスナップする用途にはとてもよさそう。これからニコンマウントのアダプターが出るらしいのでレンズもいろいろつけてみることができるし。COOLPIXシリーズなどは今まで何台も買って「やっぱりダメだな」ということが多かった。でもこれはけっこう使える気がする。値段で言えば初心者用の一眼レフが買えるくらいだから当然なんだけど、ニコンはミラーレス機を出すのが遅れた分、かなり気が利いた出来上がりだと思う。GXRのライカマウントが、自分の中でより趣味的な位置づけになってくるなあ。
銀座に行くと何か買って来ずにはいられない。
今日はMヘキサノン28mm、PENTAXのGPSユニットを購入。
被災地で写真を撮っていたとき、住所がまったくわからなく
なっているのでGPSがあれば便利だなと思っていた。
クルマや電車と違って、飛行機でどこかに行くと
どんどん風景が田舎になっていく、みたいな心構えができない。
空港を降りた瞬間に吸い込む不思議な空気で、
知らないところに来たとわかる突然さ。
それが好きだ。
萩庭桂太さんのust「TOKYO PHOTO MESSENGERS」にお邪魔してきた。タイトルの由来でもある考えを萩庭さんに伺って面白いと思ったのは「写真を撮る」という言葉にこだわっていることだった。写真を撮るというのは湯を沸かす、みたいに変な言葉なのではないか、と。
自分がそれまでに見たことのある「写真というお手本」を複写しているように聞こえるというのだ。表現の一つの方法として「写真で伝える人」という意味でメッセンジャーという表現を題名にしているそうだ。なるほどなあ。俺はひたすらくだらない話をしてきたんだけど、写真の世界ではずっと先輩である萩庭さんとの話が、あんなのでよかったのかと少し反省。
録画のアーカイブも残っちゃっているので、ヒマをもてあましたときにでもよろしければご覧ください。
三十日の夕方、仙台のホテルに泊まって、朝から石巻に行く。想像したり、映像で見たものは実体験ではない。すでに半年が過ぎているが自分の目で被災地を見た衝撃は大きかった。驚くべき津波の威力。街は無残にも消えてなくなっていた。門脇小学校、大曲浜保育所、ハリストス教会などの建物は、ある程度原形をとどめていた。形が残っているから以前の平和な環境を思い起こさせる。津波が来る直前まで使っていたと思われる食器の残骸や、メチャクチャになったクルマの山。すべてが悲しいが、背景にある青い空だけが美しい。
台湾のダンサー、FISHが来日。西麻布で食事をした。写真を撮っていて気づいたのは眼の奥の光が美しいということだった。一般的に眼がキレイと言うのは表面をさしているような気がするが、彼女は網膜に近い部分がキレイなのではないかと感じた。
この季節になると、事務所の近所でこの花が咲いている。事務所を始めてから十年経ったから、十回は咲いているところを見たことになる。ここ数年ずっと撮っているけど、それまではあまり気に掛けたことがなかった気がする。花に目をやる余裕がやっとでてきたということか、それともただの老化だろうか。
カメラの機能で写真に日付を入れる設定にしてみた。出来事に日付が付いていると、また違う印象になる。yamamoさん、感想をありがとうございます。日々、つまんないものをアップしていきます。
この天然スタジオっぽい凹みは、前回来たときから気になっていたロケハン済みの場所。味のある人が来たら声をかけて撮る。ごちゃごちゃした背景でも、額縁のように空間が閉じられているとシンプルに見えるものだ。最終的に写真展に展示したのはここにはない一枚のみ。セレクトした際に捨てる写真もたくさんある。十枚撮って十枚見せられるわけじゃない。展示では「これぞ」という選んだモノしか出したくないのが当然だけど、舞台裏であるBCCKSには記念写真として出してしまう。来月台湾に行ったとき、この場所がまだ残っていたらもう一度撮ってみよう。同じ所を何度か訪れると微妙な変化が楽しい。
山梨の山奥へ撮影に行く。環境を考えているなどと言うと「ああ、あなたもですか。私もですよ。わっはっは」と陳腐なカテゴリーに組み入れられかねない昨今、矢野さんはちょっとスケールが違う。庭師のような仕事をしているんだけど、イメージとしてはそれに収まらない。インタビューで「杜師」と書かれているのを見たことがある。多分本人は肩書きには興味ないと思うけど、言い得て妙だ。撮影はすぐに終わり、後は矢野さんの話を聞く。植物の話がどんどん地球から宇宙にまで広がっていく。人間はプリミティブでポジティブであるべきだ、という、ちょっと間違えれば単純過ぎるような話も、矢野さんの小泉純一郎風の顔を見ていると哲学に見えてくる。矢野家の犬は夕陽を見るのが好きらしく、窓から入ってくる光を、目を細めて眺めていた。まるで昭和三十年代のような佇まいだ。
昨日、三人の写真家と話をした。フィルム時代は少しボケていてもブレていても、いい表情が写っているカットを優先したりすることがあった。でもデジタルでブレたりボケたりしているとただの技術的エラーに見えてしまうという話。ハレーションも同様で、ずいぶん前から「ぽぽぽや〜んとしたハレーションの中に人物が写っていればシャレオツ」というノンキな流行があるが、それはフィルムじゃないとうまくいかないことが多い。うまくいくというか失敗なんだけど。ではデジタル特有の破綻をなんとかして開発できないかと思うんだけど、わざとやろうとしても新設計のレンズはハレーションも周辺落ちも出ない。当たり前だ。技術者がそうならないように日夜努力しているんだから。この写真はけっこう乱暴な方法で破綻させてみた。色味とコントラストを軽く調整している以外に特殊なデジタル処理はしてないが、目の腐った人なら「やはりフィルムはいいね」などと言う可能性もある。
2011年9月25日 発行 初版
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