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Watanabe Ani

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南三陸 気仙沼 石巻

十二月十四日
南三陸町に行く。
前回の石巻と比べると自治体によって復旧の速度が違う。被害の大きさと言うよりも片付け方などに差が見られる。宮城県ではすべての漁港を現時点で復旧することを断念し、選択された港から作業を急ぐことになるそうだ。広く浅くで手薄になるよりも集中的に要所を復興させる方法は効果があるかもしれない。しかし、復旧リストから外れた港の人々は「見放された」という意識も持つようだ。自分の港が崩れたまま放置されているのを快く思う人などいないだろう。

仙台から出発して志津川の町へ。かつて中心地だったと思われるところに公立志津川病院があった。大きな病院は骨組みがしっかりしているせいか原形はとどめていた。そのかわり内部はめちゃめちゃに壊れていて、津波の恐ろしさを感じる。玄関先に多くの花や飲み物、子供のおもちゃなどが供えられているところを見ると、多くの方が犠牲になったのだろうと推測できる。まずそこで手を合わせる。

しばらく行くと、鉄骨だけになった防災対策庁舎がある。大きな地震と津波が来て一番忙しく責任が重大だったのはここだろう。ずっとここに残り、三階の屋上に避難した人たちはみんな津波にさらわれて、通信用のアンテナにしがみついていた数人だけが助かったそうだ。ここには線香が置かれていた。

三階建てのマンション。屋根の上に流れてきた家の柱などがビーバーの巣のように絡みついていた。三階なので見上げるとそれなりの高さがあるが、つまり水位はそれより遙かに上だったという証拠だ。一階の部屋の前にはVHSのビデオテープが泥に埋もれていて、ラベルには「結婚式」と書かれていた。通信簿、赤いランドセルもあった。

高台の高校にある仮設住宅。校門の前に立ち、何もなくなった港町を見下ろしている八十歳のおばあさんと話す。自分の店があった場所を毎日朝晩、眺めているそうだ。仮設住宅を転々として、今は六つ目だそうだ。ご家族は全員無事だったそうでなによりだが「自分の町で迷子になるほど目印になる建物がなくなってしまった」と嘆いていた。津波を避けるために避難したが、まさか二度と家に戻れないとは思わなかったので、通帳などを含むすべての家財道具がなくなってしまったそうだ。

高速道路の下に、分別されたゴミ集積場があった。布団、電気製品、家具、ガラスなどに分けられている。粗大ゴミと違うのは、すべてが生活していたそのままの姿で残されているところだ。本棚もからっぽではなく本がぎっしり詰まったままの状態。それを見ると胸が痛む。

水産加工場も手の施しようのない様子だった。いくつか船があったのでそこにいたおじさんに「カキはもう採れるんですか」と聞くと「カキなんかねえよ」と言っていなくなってしまった。もしそれが自分でも、カメラをぶら下げたどこかから来たかわからない人に、何も言う気はしないだろう。

夜は仙台まで戻るつもりだったが「ホテル観洋」という、ボランティアの拠点としても活躍しているホテルに空きがあったのでそこに泊まることにした。警察官やボランティアが泊まっているという情報は知っていたので、悪く言えば期待はしていなかったのだが、実はとても立派なホテルだった。ロビーからは海が見え、食事も美味しいし露天風呂も心地よい。自分は温泉旅行に来ているんだろうか、と思うほどだった。結果として仙台に泊まるよりは地元のホテルでお金を使うことができ、翌日の移動時間も節約できたことになる。

十二月十五日
美味しい朝食ののち気仙沼に向けて出発。
ここも三階建てのマンションの屋上にクルマが乗っていた。様々な場所を見ていると、どこまで水が上がったのかをなんとなく判断できるようになってきた。山は海水をかぶった部分の木だけが茶色く枯れているからわかる。建物は窓ガラスが残っている階には水は来ていない、など。

恐ろしく大きな船が陸に上がっている。この船は何度もニュースで見ていた。道路の方に倒れないように鉄骨の梁が溶接されていたところを見ると、当分、解体撤去までは進まないのだろう。
その船のすぐ奥に住んでいるという方と話した。家が船の真後ろだったせいか、他に比べて浸水の被害が小さくて済んだのではないかと言う。近所の家は本当に一軒も残っていない。
気仙沼は石巻に比べると小さな町だが、だからこそ被害の大きさが目立つ。

昼過ぎ、石巻へ。食事をしてから、前回撮影させていただいた町会長とお会いできることになった。仮設住宅扱いのアパートに娘さん夫婦と四人暮らし。集合住宅に住んだことがないので、気苦労は多いという。会長は今日が八十二歳の誕生日、とてもそんな年齢に見えないほどお元気だ。写真をお渡しすると、とても喜んでいただけた。家族で撮った写真はみんな流されてしまったのだそうだ。取り壊された家をバックにご夫婦と娘さんの三人が微妙な面持ちで立っている。いわゆる「いい写真」ではないが、今ではもう家の残骸もなくなって更地になっているので、それでさえ思い出なのだと会長は言う。俺が撮ったのはいい写真じゃなくて、あの日の家族の時間だったのだと思う。会長の顔を見ていると「ここで撮るべきじゃないかな」と躊躇したが、やはり撮っておいてよかったと思った。
そのときはなんだかわからないカメラをぶら下げた男という扱いだったが、写真を渡してからは俺は「写真撮る人」と認知されたわけで、もう一度、ひとりづつのポートレートを撮らせていただいた。写真を撮り続けてさえいれば、それを渡す目的があるから何度でも会える。会長はまだまだ元気なので何度も会えると思う。

中瀬の石ノ森萬画館へ。知人のラジオパーソナリティが励ましの寄せ書きをしてきたと聞いていたので見に行く。「又来ます」とだけ書いてあって、あの人らしいなあと思った。中瀬には夕日がさし、寄せ書きが書かれたベニア板も空も雲も、全部が美しかった。

仙台へ戻ると、ある意味では東京と同じような雰囲気を感じる。クリスマスムードで華やかだ。そこからすぐ東京に帰らずに、仙山線で山形へ行く。電車の窓から外を見ると雪が降っていた。

三月十日と三月十一日

 震災の前日である三月十日は、母親の誕生日であり東京大空襲の日でもある。
 翌日は、今まで何の意味もない日付だった三月十一日。
 しかしこれから何度も三月十一日がやってきて、毎年何かを感じないわけにはいかなくなった。二〇十一年の三月十一日は人それぞれに違っただろう。俺は東京にいて震度五強という初体験の地震を感じた。あわてて外に出るとまた揺れて、信号や電柱が激しく揺さぶられているのを見た。東北と阪神大震災とで受ける印象が違うのは、自分も同時に似たような揺れを体感したからかもしれない。
 知り合いの写真家たちが現地に撮影に行くのを、半年間ずっと遠巻きに眺めていた。被災地を撮影に行く。報道写真家なら当然の仕事だろうが、そうでない人が「何かフォトジェニックなもの」への期待とともにカメラを持って出かけるのだとしたら、それは不純な気がした。
 写真は遠い現実を連れてくるもので、ネット環境が発達した現在では中東でも南米からでもタイムラグなく映像が送られてきている。そして福島や岩手の写真が、自分にとってニカラグアのニュースと同列になっていることにも気づかされた。そんな状況に煮え切らない思いを抱えていた頃、あるプロデューサーと震災についての話をして、たくさんのヒントをもらった。震災の惨状を撮るのは報道写真家の仕事だが、俺たちにはそれとは違う役割があるのではないか、ということだった。
 写真は仕事だが趣味でもあり、趣味が仕事になるということ以上の幸福はないと思っている。スタジオで撮影を終えて、その日に撮ったすべての写真をパソコンの画面で見る。散歩をしながら撮る。スタジオに行くタクシーの中から撮る。仕事が終わった後の食事風景を撮る。そのいわゆる「無駄な趣味の写真」がスタジオで撮った写真の枚数よりも多いことがある。
 よく「カメラが眼になる」というたとえがあるが、自分の場合は呼吸器のようだと思う。眼で見ることは脳の動きが先に立つ能動だが、呼吸は無意識の領域である。気づいたときにはシャッターを押していた、やや眉唾に聞こえるかもしれないが本当にそういうことがある。
 さて、問題はその後。無意識に撮った写真はどうやっても他人に真意が伝わらない。当たり前だ。自分でもなぜその瞬間にシャッターを切ったのかわからないんだから。その膨大な写真がどんどんハードディスクを占領していき、使いようのない写真が溜まっていく。
 それが三月十一日以降、少し変わったのではないかと思い始めた。今ここで撮っているなんでもない風景は、あの日の前はどうだったんだろうとか、今これを撮っておかないとなくなってしまう、などと、写真を撮る時に「これを記録しておかないと」という意識が少なからず働くようになったのだ。
 子供を持つ親なら、そんなことはわかりきったことかもしれない。誕生から運動会、入学式や卒業式、成人式を撮ることは、その時にしか見ることのできない子供の姿、なくなってしまうには惜しい家族の時間を永遠にとどめておこうとする記録だからだ。写真を撮る人々が日本という故郷に対して、その視線を獲得し始めたのではないかと感じる。

傘がない

 三月十一日以前、たとえば渋谷のセンター街を撮っていると、ああこんな若者がいるんだな、ということしか思わなかった。でも今は違う。ここにいる人は津波にも流されなかったし、放射能から逃げるために避難所にもいないし、家もあって仕事もあるのだ、というように見える。学校に行き、働き、服を買い、CDを買い、牛丼を食べ、今までと何も変わらない日常を生きて、彼氏からメールがないとか、あそこにいいオンナがいるとか、月九のドラマがちっとも面白くないと話している。
 自分が撮るべき写真は被災地の瓦礫だけではない。日本の一%が回復しようもないほど傷ついた事実の裏側には、九十九%は今まで通りの日々を過ごしている事実も同時に存在するからだ。
 井上陽水が『傘がない』で歌ったことは、いまだに日本のメンタリティとしてネガティブな輝きを失っていない。「自殺する若者」のニュースを放射能に置き換えればいいだけだ。どんなに綺麗事を言おうと、自分の身に降りかかっていない事態を想像することには限界があることも理解できる。紋切り型で「震災の被害に遭われた方にお見舞いを申し上げます」と企業のサイトに書かれていても何も心に届かない。その次のページでは、消費させよう、モノを売ろう、と必死になっているんだから。
 面識はないんだけど、もしウィトゲンシュタインが写真を撮ったとしたら「起こっていること」にレンズを向けないのではないか、とずっと前からぼんやりと考えていた。目の前で起こっている特殊な状態は誰でもそれを見つけて反応しやすいが、何の変哲もない「あるべき常態」を見極めて外部からジワジワと囲い込む作業の方が、非常事態を過不足なく精密に描けるのではないかと思うことがある。
 そうやってドラマチックな被写体を避けていった末の自分の写真を、自分で判断することはより難しくなってくる。主観と客観の違いなどという大それた話ではなく、そこに自分にとっての主観があるのかどうかさえおぼろげだからだ。
 仕事でソリッドな目的のある写真を撮っていると、目的のない行動に対して不安が生まれる。目的を達成すると成果があり、そこから報酬が生まれるというのは、どんな仕事でも普通のこと。写真のわかりにくさは、同じ人が同じカメラで同じ物を撮っても、仕事かそうでないかで価値が大きく変わってしまうことだ。価値という言葉に語弊があるなら意味と言い換えてもいい。お父さんが家族を乗せてドライブすることと、タクシーで客を乗せるのとは違うというようなことだ。
 震災について何かを考え、自分の方法であるカメラを手にするとき、いかにそれを仕事と切り離すかを考えないといけない。俺はいわゆる「カメラマン」ではない。極端な話、まだ真剣に写真を撮り始めてから数年しか経っていないのだ。なので「どうでもいいつまらない仕事だけどギャラがいいからやっとくか」というような依頼はこない。あったらやりますけど。
 写真家というのは愛好家のようなもので、目的もなく写真ばっかり撮っている人のことだ。反対に偉そうに聞こえるのかもしれないけど、だからこそ俺はカメラマンじゃなくて「写真家」であろうと思っている。いつだったか「写真を愛することは日常を愛すること」という言葉を雑誌に書いたとき、ああ、これが自分の写真に対するスタンスなんだな、と再確認した。

消える写真

 愛すべき日常が消え去った人々がいる。家も家族も故郷も思い出もすべて消えてしまった人々。家は建て直せる。地域も復興する。暴論だが、人が亡くなってしまった心の傷は時間と共に(完全にではないが)癒やすことができるかもしれない。しかし思い出がなくなってしまうことは過去のアイデンティティの喪失につながる。写真を撮っている自分に引き寄せて見ると、家族の時間を記録した写真がすべて消えてしまう、という悲しい体験は考えられない。
 テレビのニュースでも泥の中から出てきた家族の写真を丁寧に洗っている人の姿が胸を打った。それが「亡くなった子供の写真です」などと聞かされると言葉を失う。過去に関わることならば嘆くことしかできないが、後から見て「あのときは津波の後始末で大変だったなあ」と笑いながら思ってもらえるような写真を残すことも、写真家の役割なのではないかと思う。
 とんでもない状況にいる人に自分は暴力的にカメラを向けられない。半年経った今は様々なことが復旧しつつあるだろうと思い、今回初めて石巻に行くことにした。もちろんまだ震災の爪痕は残っているんだろうけれど、何かスゴイものを見逃したとは思わない。俺が撮りたい写真はフォトジェニックではなく、非日常ではなく、普通の人々、日常の風景だからだ。
 前置きが長くなったが、これから石巻で写真を撮り、東京で撮った三月十一日からの写真を見直してまとめていく。もしかしたら俺が三月十一日以前に撮ってきた膨大な写真には、何も本当のことなんか写っていなかったのかもしれない、などと思いながら。

石巻へ

 三十日の夜に仙台のホテルに泊まり、一日の朝、石巻へ行く。海が近くなり街に入ると、曲がった電柱や崩れた家が現れてきた。中瀬と言われる小さなシテ島のような川の中州がある。そこに建っている未来的なデザインの石ノ森萬画館、ハリストス教会は無残にも津波に洗われて壊れ、その上を無数のカモメがのんきに飛んでいた。なぜそんなところに建っているのか知らないが(たぶんFRPハリボテの)自由の女神は脇腹をえぐられたまま右手のたいまつを高く掲げている。
 今回撮りたかった建物に門脇小学校がある。津波の被害はもちろんだが、火災があったので、白かったはずの校舎が黒く煤けている。実際に行ってみると、校舎の両側が墓地だった。ほとんどの墓石は倒れ、割れ、他の墓と区別が付かない有様だった。ガチャガチャになった墓の前には新しい花が置かれている。
 今回半年が過ぎて初めて被災地にやってきた。ニュースで見て何かわかったと思っていたようなことも、働かせた想像力も、現実の風景の前では何もないに等しい。すでにところどころコンビニやスーパーが建ち始め、道は整備され、信号や電柱も復旧しているから、ここにいても震災直後のことまでは想像がつかない。「夏はすごかった」という異臭もない。googleのストリートビューで見ると学校の周りには住宅や、昔ながらの文房具屋などがびっしりと立っている姿を見ることが出来る。俺はそのストリートビューの映像と、ポツンとした焼け焦げた学校との違いを埋めることが出来ずに、ただ校庭の真ん中に立っていた。
 車で場所を移動し、写真を撮って歩きながら必ず思うのは「ここからだと高台にはどれくらいで着くのだろう」ということだった。津波警報を聞いた子供や老人や車のない人が山に向かって逃げている恐ろしい様子を思う。大曲浜保育所というのがある。ちいさな子供、保育士たちはどうやって逃げたのだろう。
 保育所のそばには一軒の家があった。壁一面が花のイラストで埋まり、二階の壁には大きく「HOME」とスプレーで書かれている。家の壁は一見しっかりしているように見えたのだが、海側に回ってみると窓は壊れ、家財道具がそこらじゅうに散乱していた。アップライトピアノが倒れている。レースのカーテンが風に揺れている。泥に半分埋まったぬいぐるみやピンクのドレスなどを見ると小さな女の子がいたのだろうと思う。ここに住んでいた家族は無事に逃げられたんだろうか。「HOME」。壊れた家を見るともの悲しい響きに聞こえるけど、もし今、他の場所で元気に暮らしているのだとしたらそれはもう一度家族を再生するための希望の言葉にも聞こえてくる。
 今日の空は書き割りのように晴れていた。見たことがない有様で壊れている家や倉庫などが青い空を背景に建っているのが切なさを増す。車だけを集めた集積所があった。ポップアートの絵にそんなのがあったが、交通事故ではこうはならないというほど丸めた紙みたいに圧縮された車が数百台かそれ以上積み重ねられていた。病院の車があったり、可愛らしい顔のスバル三六〇もあった。中には生々しく「捜索済み」と書かれた紙が貼られている車もあった。そこにいない人のメッセージを見ることはリアリティがある。ある道路沿いの会社の壁に赤いテープで文字が書かれていた。「OK 全員 無事」。こういうのを見るときだけホッとすることができる。
 今日は地元の誰とも話をしなかった。墓の手入れをしている人、自分の家らしき場所に立っている人、そういう人に、釣りをしているかのように「釣れますか?」と聞くようなことは出来ない。俺はもしかしたら誰かが亡くなったかもしれない場所に立ち、花が供えてあればそれに手を合わせてから写真を撮っていた。地面に落ちているもの、壊れたもの、壊れてないもの、なんでも撮った。
 夜は仙台のホテルに戻り、明日の朝、また石巻に行く。もし元気がある人がいたらポートレートを撮りたいと思っている。実際にはどうなるかわからない。わからないから行ってみる。

石巻二日目

 朝からまた石巻へ向かう。最初に見た衝撃はやや薄らぎ、壊れた家を見てもさほど驚かなくなっている。たった二日目だが、こういう慣れが人間の強さなのかもしれない。今日は渡波(わたのは)というところへ行く。海苔や牡蠣の養殖がさかんなところ。海のすぐ前まで住宅が密集していた場所なのでほとんどの家が無残にもなくなってしまっている。ところどころに比較的被害の少なかった家がちらほら残っている程度だ。積み重なった材木と瓦礫の上に重機が乗っている家(の痕跡)の前に、そこに暮らしていた家族と思われる人がいた。
 話してみると、渡波の町内会長さんのお宅だった。十八年も会長をされている方なので、この地区の話をたくさんお聞きすることができた。二六〇世帯、八〇〇人ほどの人がここに住んでいたようで、残念ながら八十六人の方が亡くなられたそうだ。ほんの短い時間ではあったが、いかにこの土地が国や自治体、マスコミから見捨てられているかを話してくれた。ここは過去に大きな津波をまったく経験していなかったから油断したのだろうか、津波の避難訓練に参加する住民は一割程度だったという。
 会長の家族は全員無事だったそうだが家財道具はすべて使い物にならず、その中にはお孫さんへのプレゼントであるノートパソコンもあった。買って数日だったのでまだ箱を開けないままだったそうだ。築三十年の家も、半年ほど前にお風呂場などを綺麗にリフォームしたばかり。車も三台が流されたらしい。家族は親戚の家などに三組に分かれて暮らしているが、今の場所にまた家を建て直すかもしれないという。
 次にここに来るときは会長の新築のお宅が建っているといいが「八十過ぎた爺さんに金を貸してくれるところもないしなあ」と笑っていた。ここで撮ったものが写真展や写真集になったら連絡すると伝え、住所を伺った。会長、奥さん、娘さんが顔を見合わせしばらく考えてから、この場所の住所を教えてくれた。八十年暮らした会長の住む場所は、やはりここなんだと思う。

谷川小学校 女川港

 谷川浜の谷川小学校は、海のそばにある。三月以前は昔ながらのガキ大将が遊んでいたことが容易に想像できる素晴らしい環境だ。遠くから校舎を見る。校門へ行く坂道は大きく陥没し、電柱が道をふさぐように倒れている。学校の備品で形をとどめているものが校庭に並べられている。音楽室の前にはアコーディオン、太鼓、メトロノームが置かれていた。二階建ての校舎は津波の脅威を感じさせるのに余りあるほどに全壊していた。やや高台にあり、そこにいる意識としては「海を見下ろす山側に属している」と感じてしまうが、その二階までも津波が洗ったわけだ。よく見ると杉の上の方の枝にまで漁船で使うウキのようなものがひっかかっていた。校庭の半分くらいをグニャグニャの鉄骨が埋めていたが、どうやらそれは体育館の残骸であるようだ。元々の姿を想像することはできない。
 女川港にはマリンパルという大きな商業施設があったが、そこも壊滅状態。地面が沈下しているようで、少し前の台風のせいか大きな水たまりになっている。そこにあった鉄筋コンクリートのビルを撮影していたら、建物の向きがおかしいことに気づく。完全に横倒しになっている。裏側を見ると、普段は見ることのない建物の基礎部分がこちらを向いていた。横倒しになったビルは数件あり、ここの津波の勢いを思わせる。海側に向かって倒れているものもある。ニュースでも解説していたが浜のすぐ近くに山があると、戻ってきた引き波の影響があるのだという。まず津波の直撃を受けた建物は基礎部分が浮く。山にぶつかって戻った波で今度は海側に力がかかり倒れるのだそうだ。恐ろしいものを見たとより強く感じたのは、こんな被害のあった場所の近所に女川原発があるということだった。

写真家

 写真家とカメラマンの違いをいつも考えている。
 初日の夜、仙台の中心地で夕食ということになり、あてずっぽうで渋い店に入る。そこで隣り合わせた人は地元の広告会社の社長で、まず最初に「君はカメラをぶら下げてるからカメラマンかな。いや、仕事じゃない写真を撮ってる写真家だな」と言われた。なんでそう思うんですかと聞くと「自分が見たい物だけ見ていたいという眼をしている」と言うのだ。
 自分に都合よく考えると、綺麗事じゃなく仕事で飯は食っているのだが、飯を食うのはなんのためだと言われると「やりたいことをして生きるためだ」と思う。手段は目的にはならない。そしてそれを初対面の他人から言われてうれしくなる。その社長も震災の後に「何を目的に生きるか」ということを今まで以上に真剣に考えるようになったのだという。俺より十歳も年上の方だったが、話ができてよかった。
 大げさな理想を言うならば、仕事というのは「自分以外に代わりのないもの」でありたい。有名なタレントやモデルを撮影してもちっとも偉いとは思わない。そのタレントのスケジュールで別の日だったら他のカメラマンが撮っていたかもしれないんだから。村上春樹が小説を書くとニュースになる。「あの小説家が久しぶりに我々に小説を提供してくれるらしい」という期待を客に与えることができるというのは幸福である。本屋さんで「村上春樹はないんですけどこの小説家じゃダメですか?」と聞かれることはない。ダメに決まっている。
 おかしな例だが、たとえばコンビニの店員は誰であろうと同じだ。客からすると顔もおぼえていないし、他の店員だからイヤだとは思わない。個人商店の場合、あのたばこ屋のおばあちゃんは最近みかけないけどどうしたんだろうと思う。その店の個性がおばあちゃんだったりするからだ。そうするとおばあちゃんは手を抜くことができない。自分が経営する店の売り上げは、自分の愛想にかかってくる。アルバイトのコンビニ店員は、店や店長に文句があればやめればいい。となりのコンビニで働けばいいからだ。日本のチェーン店化の弊害は、個人商店が減ったことで「人情」なんてソフトな部分の衰退もあるけれど、それより「仕事の責任」が誰にもなくなってしまったことが大きい。
 俺が仕事を頼まれるとき、やりたくなければ「やらない」と言う。それで「あいつに頼むとなんか面倒くさい」という、立派なお墨付きを何十年も掛けた結果、いただいた。そのかわりその面倒くささを許してくれている人とだけ幸福な仕事をすることができて、今に至る。誰かがかわりをやってくれそうな仕事でもないから責任も重大だが、仕事に何もストレスはない。
 そういう風にしたいんですけど、どうすればいいんですか?と若者から聞かれることがある。そんなのは簡単で、やりたくないことはやらなければいいだけだ。これを断ったら相手に嫌われると不安に思っていたら、向こうは「こいつは断らない」となめてかかるから便利に使う。それで仕事が途切れることはないかもしれないけど、何も発展はなく、敬意も払われない。
 俺は誰に頼まれたのでもなく、報道写真家でもないのにこんなことをしている。なぜかと言われれば、誰が撮っても同じ顔の、事務所に「この顔はNGです」なんて言われるタレントやモデルなんかを撮ってるよりも自分にとって、やる意味があるからだ。あまりに単純。バカなんだと思う。

911とデクノボウ

 当時、ニューヨークに住んでいる人からテロ以降何かが大きく変わったと言う話を聞いた。でも、その感覚は今も持続しているんだろうか。ウォール街に近いバッテリーパーク周辺は東京ならどこか。海が近いのと貿易センターという同名のビルがあることから浜松町もイメージできるが、東京の中心にしてはあまりにも規模が小さすぎる。性格は多少違うが、大企業が立ち並ぶ大手町あたりをイメージしておけばいいだろう。
 ワールドトレードセンターはアメリカントレードセンターではなく「我が国で一番のモノは世界一」というアメリカ大リーグ方式。その世界貿易センタービルはオフィスビルであり、住宅や公園はあるが周辺はほぼオフィス街である。俺は二十年ほど前、初めてニューヨークに行き、この二本のビルを撮影した。建築としての歴史と面白みはクライスラーやエンパイアに劣るが、現在の経済をイメージさせるにはそちらの方が都合がよかったからだ(余談だが、アメリカが自分たちだけを世界と表現するよりもっとすごいのはエンパイアステートと呼ぶ自尊心かもしれない)。

 突然何者かに世界一の貿易センターを壊滅させられ市民の多数が犠牲になったことは「攻撃は最大の防御」と世界中を爆撃してきたアメリカにとって大きな衝撃だったと想像できる。ではそれが世界の警察として、西側の論理として自分たちがしてきたことの反省につながったかというとそうでもないようだ。アメリカは強くあるべきだという意見が根強くあり、いかに復讐するかが大統領の支持率に関わっていた。

 すごくおおざっぱに言ってしまうと、狩猟民族と農耕民族の「強さ」は違う。狩猟は武器と技術の差が決定的に出るから、強い者が獲物の動物にも他の人間にも勝つ。農耕民族は自分のやるべきことを同じようにやっても台風や日照りになれば収穫が違う。
 それをどうしても今回の震災が東北で起きたことと重ね合わせてしまう。自然災害などのやり場のない怒りをどこへも持って行けないことに馴れた辛抱強さを東北の人に見るとき、なんと不幸なことなんだろうと思う。大津波は自然現象だから仕方がない。でもその対策をコスト優先で怠ってきた行政や、何の誠意もない電力会社に対して辛抱する理由はどこにもないはずだ。

 宮沢賢治は「日照りの夏にオロオロ歩く」ことしかできなかったデクノボウである。デクノボウだからこそ人の魂に触れる文章が書けたのだ。
 今回、ほんの少しだけ石巻の状況を見て、これはマンハッタン全体がなくなったより数倍大規模だと感じた。アメリカがあれだけの喪失感を持ち、怒ったのはいくつかの誇り高きシンボリックなビルがなくなったことに対してだが、マンハッタン島にある建物がすべて流されることまでは到底想像できないだろうと思う。いたずらにアメリカの政治的なテロと比較する必要はないのだが、アメリカ人のように激昂しない東北の人の我慢強さに、問題を小さく見せることを委ねているのではないかと感じることもある。

 さらに福島の問題は複雑だ。相手は過激な外国のテロ組織ではなく、日本のメディアすら操作する権力を持った電力会社、そして何よりも同じ日本人なのだ。日本政府は、デクノボウだと決めつけた人の住む土地に札束を投げつけながらずっと原発を作ってきた。そればかりか、収束の目処も一切立っていないチェルノブイリ以上の事故を起こしながら、何の反省もせずにまた利権のために停止中の原発を再稼働しようとしている。デクノボウは「やらせの説明会」でだませると思っているという非常にわかりやすい態度だ。その責任はサラリーマンである電力会社の社員にだけあるわけではない。今までの盲目をすべての人が恥じること。政策は自分が投票した、もしくは棄権した選挙によって選ばれた議員が決めている。大震災があり原発事故が起きた直後に、震災は天罰であると言う原発推進派の東京の都知事が当選していることが東京都民の民度を十分表していることも忘れてはならない。狡賢い日本人がデクノボウの日本人をだまそうと必死になっている状況は滑稽であり悲しいことだが、自分ができることはそれを写真で記録することだけだ。
















片棒

 落語が好きで、仕事中に聴いていることが多い(文章を扱う仕事の時以外)。落語は庶民の日常であり、知恵であり、愛情であり、お上への不満でもある。哲学の本を読んで「それ、落語で軽く言ってたな」と思うことがある。
 生まれる、死ぬ。そのふたつの地点を結んだものが人生だということくらい誰でもわかるんだけれど、落語はそこをカジュアルに切り取って笑いに変えていく。
 ケチな親父が三人の道楽息子のうち、誰に身代を継がせるかを決めるために葬式の話をさせる「片棒」。相続試験のために想定された父親の葬式の計画を三人の息子が面白おかしく話すのだが、これはただの滑稽な話じゃない。長男は豪華で見栄を張った弔いを出そうとして失格。次男は祭りのように粋な弔いをしようとしてこれまた失格。最後に切り詰められるだけ切り詰めたケチな弔いを提案した三男に身代を譲ろうと決める噺だが、実際はそう簡単ではないかもしれない。
 江戸っ子は宵越しの銭を持たず、金を貯めるようなのは「江戸っ子の生まれ損ない」だと言う。誰だか忘れたが「火事が多かった江戸の長屋に住む町人は、金やモノを貯めてもすべてを失うのでマテリアルなものに執着しなかったのではないか」と書いてあるのを読んだことがある。
 「片棒」の長男はケチな家庭で育てられたことへの反発、次男はお金という野暮な価値とは無縁であろうとする抵抗とも取れる。そうすると三男の提案は一旦は父親の機嫌を取るかもしれないが、本当に死を迎えるときに父親は自分の人生を振り返りつつ、考え直すかもしれない。
 これだけの簡単な噺にも教訓があり、複雑きわまりない愛憎があり、諧謔がある。落語に「死神」「らくだ」などの死を扱った傑作が多いことも興味深い。
 それを流行の「断捨離」などに結びつけるのは無理があるけれど、自分が縛られているのはマテリアルなものである、と気づくことは無駄ではないと思う。
 日本人が、お金を持っている人が一番偉いのだと堂々と言うようになったのはバブルの頃からだと思う。関西は事情が違うだろうが、俺たち関東育ちが子供の頃から厳しく言われてきたのは「人前で金の話をするな」であった。それが今ではどのテレビを見てもお金の話ばかり。庶民はお金の話が好きだから流しているのだと決めつけるマスコミが作り出す環境は、さらにその価値観が普通だと思う子供を育てる。
 片棒の三男は、父親の棺桶を運ぶのに人を雇うと勿体ないから自分が担ぐという。でも担ぐにはどうしてももう一人必要。最後にそれを聞いた父親が「もう一人雇うことはない。片棒はワシが担ぐ」というオチ。ケチもここまで来るとあきれる面白さがある。
 世の中のポピュラーな価値観に流されて生きていると、気分が楽だ。今はこういう時代だから自分もこうでいいのだ、と。でもそれは落語を作り出してきた何百年前の人から見ても、決して理想の未来とは思えない。「隣の家が貧乏で米がなくイモを食べていると言うから、米を分けてやる。すると自分の家で食べる米がないので仕方なくイモを食べた」というようなごく簡単な噺にも素晴らしい人情や哲学や宗教観を感じることができる。これが日本人か、それとも自分たちが起こした自己の責任を現場の作業員に押しつけ、棺桶の中から片棒を担がせている企業や政府、それが本当の日本人の姿なのか。日本は世界中から見られている。





平林監督

 今日は事務所で平林監督といろいろな話をした。彼は冷静沈着を絵に描いたような人物で俺にとっては後輩であるが、知り合ってから十年以上、尊敬と信頼を変わらずに持ち続けている。平林はいつも俺の断片的な思いつきや予断や唐突なアイデアをたしなめたりまとめてくれたりするので、行き詰まった時には素直に意見とヒントを聞くことにしている。
 彼はCM、短編映画の監督である。どんなモノを作っても誰からの指図も受けない短編映画、クライアントの要望で意志とは関わりのない(乱暴な言葉を許してもらえるなら、撮りたくもない)映像を撮るCM。その両方の世界を自由に行ったり来たりできるのは彼の冷静さあってこそだと思う。
 どちらの世界にも優れた点があるが、彼はCMで培った技術や知識を上手く短編に使っている。映画祭に選ばれることが「お墨付き」とは思わないが、まったく選考の基準が違うカンヌ、ベルリン、ヴェネチア映画祭という三大映画祭の短編部門に呼ばれているということは客観的な評価であると言える。
 今年の三月以降、彼と震災の話をすることが多く、彼がそれを意識した短編を作るのかどうかを注意深く見守っていた。作った方がいいとか、作らない方がいいとは言わないようにした。
 そのうち「663114」という暗号のような題名の短編アニメーションを作っていると聞いた。できあがるまではほとんど見なかったが、津波と福島の原発事故がテーマになっている。これが今年のヴェネチア映画祭オリゾンティ部門に招待された。
 また仙台の映画祭で、四十人ほどの監督がぞれぞれ三分十一秒の映像を持ち寄って映画を作ることになり彼もそのひとりに選ばれた。その原案ももちろん「人の死」に深く関わっていた。これはスチールを撮りに行ったので撮影を見ることができた。スタジオでのシンプルな構成でありわかりやすい物語がないので、普段ならこのシーンはこう繋がるんだなとわかるのだがこればかりは編集が終わるまでどうなるのかがさっぱりわからなかった。ある日、ほぼ完成の映像ファイルが送られてきたので観てみると、あまりのすごさに驚いた。偉そうだがすぐに「九十七点」とメールを送った。おおざっぱに言ってしまうとCMの監督が映画を撮ると映像は優れているが内容がなく、映画一筋の自主映画の監督はどっしりとしたテーマを扱いたがるが絵や音のクオリティが悪い。それが両立させられる監督は本当に少ないし、本質的に相反する感覚なのかもしれない。
 仕事の合間にずっと短編を作っている平林のテーマに今までも「死」はよく出てきた。でもこれまで扱ってきた死と、今回の二本は大きく違う。死が自分にとってリアルになることが映像ではファンタジーのジャンプを生んでいる。それがどれほど難しいことなのかはやっていないとわからない。俺もわからない。
 それから「では、俺が平林のように写真でできることは何か」と考えていたところ、仮のタイトルであるプロジェクト「every311」を思いついた。(次回につづく)










 





















人のチカラ

 ケンミン食品という会社がある。ビーフンの、と言えばご存じの方も多いと思う。
 ある日、グルメで知られる知人から「ツイッターでケンミン食品の人にフォローされた」という話を聞いた。ソフトバンクの孫社長をはじめとして、最近は企業が消費者とパーソナルな関係を結ぶことで企業の信頼度を向上させている例がある。自分の携帯電話の電波の調子が悪いという程度のことに、企業のトップが耳を傾けてくれ、真剣に解決策をも提示してくれるというのは素晴らしいことだ。企業は大きくなるほど小さな要望がかき消されて傲慢になっていく。社長が知ったら激怒するような部下の態度も、知らされないというだけで「ないこと」になっている。それを好ましく思わない真摯な経営者は、部下が嘘をつけないダイレクトな環境にみずから乗り出すことになる。
 しばらくして、俺もケンミン食品からフォローされた。フォローしている人数が多ければ不作法な絨毯爆撃のダイレクトマーケティングであると決めつけて無視するところだが、見てみるとたったの十三人しかフォローしていない。宣伝のためにしてはあまりにも数が少なすぎる。
 俺はおそらく手際の悪い若い社員がツイッターで地味な広報活動をしているのだと誤解をしていた。だからその張り切り社員のために、ときどき「ケンミンのビーフンは健康にいい」などと勝手なコマーシャルメッセージをつぶやいてみた。いちいち「宣伝していただいてありがとうございます」とコメントが返ってくるのだが、俺ごときが何を言ってもそれで売り上げがどうなることもないだろうと思っていた。
 ただ、どんなに微力であっても頑張っている人をみんなが応援すれば大きなチカラになる。自分もやっていたが、マス広告のあり方は最近になって大きなシフトを迫られている。今までと同じことをしていても何も変わらないどころか、大企業の古く傲慢なやり方にこそ消費者は敏感である。
 俺が「頑張っている若手社員へ」というようなコメントを書いたときの返事に驚いた。俺が何度か話していたのはケンミン食品の社長だったからだ。「社長をさせていただいている高村です」と書かれていた。失態だったが、その後悔は相手が社長だとわかったからということではなくて、パソコンの画面の向こうにいるのはやはり圧倒的に知らない、つねに敬意を払わねばならない相手だということ。
 そのすぐあとに、岩手で食料が届かない孤立地域がまだあるというツイートを読んだ。ビーフンというのは保存ができる食品だから、高村さんに「ビーフンの出番です」と書いた。「ケンミン食品では震災直後から兵庫県を通じて援助をさせていただいておりますが、さらに検討します」「急いで手配します」とのお返事をいただく。ありがたいこと。これは比率の問題だと思っている。小学生が自分の小遣いから百円を募金する、企業が一億円援助する。そこに分母の違いがあるんだけど、気持ちの比率は同じなのかもしれない。台湾のような小さな国が数百億円規模の義援金を送ってくれることにも感動して、台湾に行ったときに会った人にはできるだけお礼を言った。「そんなの困っているときは当たり前ですよ」と誰もが言った。
 今までの政治がどうとか、後から素人評論家じみたことをいうのは簡単だけど、目の前で困っている人に、すべての人がそれぞれが持っているやり方で手をさしのべる希望がなかったら、どんなモチベーションで復興をすればいいのかわからなくなる。こんな非情な国を復興させてどうするんだと。そうならないために、もし自分の所に災害があってもみんなが助けてくれると思えるような態度を取らなくてはならない。
 偶然に偶然を重ねた出会いではあるけど、高村さんとお話ができたことはとてもうれしい。城南信用金庫しかり、トップが決めることはつねに即決だ。仕事でもトップと話せば、どんなにややこしいことでもすぐに決まる。何が問題をややこしくさせているかと言えば、上と下の顔色をうかがう部下であることが多い。
 俺はそのときの経緯を書いたツイートに「これはCMじゃない」と書き添えた。モノを売ることと人の役に立つことの両方が揃って初めて優れた企業の価値がある。ケンミン食品のホームページには、神戸の街を社員が掃除する様子も載っている。もし俺が援助を受けた岩手の人だったら、物資を送ってくれた会社のことは忘れないだろう。日常が平穏になったとき、スーパーで同じロゴを見たら感謝の気持ちとともにそのブランドを手に取るだろうと思う。見返りを考えるとか、その反対に綺麗事のように聞こえるかもしれないけど、人の気持ちの動きというのはそういうのものだと思う。
 とにかく、日本はまだまだ捨てたものじゃない。

every311

2011年9月29日 発行 初版

著  者:Watanabe Ani
発  行:ninjafilms

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