仮に肺炎だと言われたら、ややこしいね。
ロバート・ツルッパゲです。
最近のくだらない話、断片的なメモであります。
先日、食事に行く直前に財布が見つからなくなりました。
結論から言えば、着払いの荷物を受け取ったときに
玄関に置き忘れていただけでしたが。でもそのときは出かけるのに
お金をまったく持っていないのでパニックでしたよ。
ビックカメラで買い物をしたときにカードを使ったので、
その時までは確実に持っていた。これは完全になくしたかも、と
慌ててタクシー会社に電話。人の良さそうな方が電話に出て
「似たような財布がある」と言うので中を確認していただく。
カードに名前があると思うんですが、と言うと
「クレジットカードは一枚も入っていません」と言われる。
やられたかと思い激しく落胆。
「餃子の王将のカードは三枚あります」と言われ、
「それ、俺のじゃないー!」
食事に行ったら、隣の席からHIPHOPのバイブスがビンビン来た。
和食屋である。俺の二倍くらいのデトロイト的な体。顔も怖い。
注文の時「ご飯、半分くらいでお願いします」と彼が
小さい声で言ったので俺はズリ落ちそうになったが、
最終的に「ご飯おかわり。大盛りで」とハッキリ言っていた。
何かに負ける男の姿を見た。
「世の中、お金じゃないよね」と言う人がいる。
しかし、その人がお金に替わるファンタジックな価値観を
提示してくれることはほとんどと言っていいほどない。
多くの場合「自分はお金がない」という報告のみに終わる。
ある店の入り口にて。若者二人が俺の前に立ってる。
「お前、開けろよ」「やだよ」とか言い合ってる。
早くしてくれないと後ろの俺が入れない。
どうやら静電気が来るのを恐れているらしい。子供かよ。
店の中で「卒論が」とか話していたが、もし君たちが理系なら
俺に卒論を読ませてくれないか。あのドアは純粋な木製だ。
眉毛と目のカタチがまったく同じ人を見た。
前半が魅力的だと、後半を考えたくなるものだ。
替え歌の面白さはウマイとかじゃなく、
その歌のパラレルワールドがあるという豊かさ。
夜の校舎修理して回る人の歌も欲しい。
盗んだバイクで自首をする。
それほど悪いヤツじゃなかった。
盗んだバイクで出所した。
懲りないヤツだった。
盗んだバイクをメンテナンス。
意外に愛着が出た。
盗んだバイクに名前つける。
さらに愛着がわいた。
盗んだバイクのシートにカッターでギーッとやられて
「なんてヤツがいるんだ」と逆ギレ中。
自己中心的な人物。
盗んだバイクで卒業。
混ざっちゃった。
「盗んだバイクで」えーと元の歌詞がわからなくなっちゃった。
とりあえずジョギングに行こう。走り出せば何か思い出すはずだ。
もう思い出してるだろ、というイメージ。
夜の校舎 窓ガラス 修理して回った
過激じゃなく、地味な部分にこそ面白さがある。
この支配からの 率業 ←漢字苦手。
あまり勉強をしないタイプ
転がし続ける 不動産業者の生き様
オヤジギャグ。
盗んだバイクをガリバーへ ←バイク王と間違えたことに途中で気づく。
とんま。
三回点滅 キライのサイン
尾崎じゃなくなってる
ウチヤマダフーヅ株式会社恒例、月曜の朝礼。
えー、みなさんおはようございます。
今日は、算数の話をしたいと思います。
おやおや、算数と聞いて不安そうな顔をしている人がいますね。
そんなに難しい話ではありませんから安心してください。
よく、人の能力は足し算ではなくかけ算だという。
みなさんもどこかで聞いたことがあると思います。
社長の私と、社員のあなたが力を合わせれば、
一足す一ではなく、一かける一で、一ということになります。
全社員百二十人の力は、言うまでもなく
一かける百二十で百二十になるのです。
素晴らしいことだと思いませんか。
本日もみなさんがんばってください。
これで朝礼を終わります。
今日はやることがたくさんあった。
写真をセレクトしてレタッチしてレイアウトして、いろいろ。
それでね、ずっと寝てないからちょっとやる気がなくなって
椅子にて仮眠したわけですよ。一時間くらい。
それで起きてみると驚くべきことに何も仕事が進んでいない。
グリムとかイソップだと進んでるじゃないですか。
むしろアンデルセンなら終わってるじゃないですか。
レタッチやデザインが上手い小人が、
やってくれそうなもんじゃないですか。
でも何も進んでない。
童話って嘘つきだな。いつも通り自分でやるしかないか。
さんざんいろんなことを言ったあげく、俺には関係ねえ、というのが好きだ。
お前には関係ねえ、というのも同じくらい好きなフレーズなのだが、これは相手がいることで喧嘩になる可能性もあるからほどほどに。
人が死ぬまでに関係を持つ人数というのはたかがしれている。現在の地球の総人口はよくわからないけど、もし一生インド人と中国人に関わりを持たないとそれだけでガッサリ二十億以上の人と出会わないことになる。まあインドと中国に旅行に行っても会うのは三十人くらいだと思うけど。
人と会うというのはどれくらいの関わりかって定義の問題もある。見かける、すれ違う、店などで買い物のために話す、個人的なことを話し合う、ベッドでいろいろなことをする。
一年中会う同級生なんかはまあみんな知り合いと言っていいだろう。田舎の方では小学校から高校までほぼメンツが一緒なんてこともあるね。そのかわりに人口の多い都会では同じマンションの住人さえ知らない。
周囲の人口が多いかどうかはともかく、人と関わりを持つタイプとそうじゃない人が知り合う人数の差は大きいだろうと思う。何かイベントがあると出かけていく、知らない人の集まりに平気で顔を出す。もちろんワールドカップはスポーツバーで知らない人と肩を組んで盛り上がる。そういうタイプの人がいるけど、俺ムリ。だってカリフォルニア生まれでもないのにそんなフレンドリーにいかないよ。生まれつき「ハーイ、ワッツアップ」なんていう思考回路がないし。
その種の人は誰のことでも「ああ、あいつ知ってる」と言いたがるね。話に出た人に聞いてみると「そんなヤツは知らない」ってことが往々にしてある。その切なさと言ったらない。たとえそうだったとしても「あ、そう」と何も気にしないで二段重ねのアイスクリームをナメてるようなメンタリティは、やはり西海岸で育たなければ獲得できない。
仕事の種類で言うと、毎日同じ職場の人とだけ顔を合わせている仕事もあるし、毎日違う人と接する客商売もある。エベレストクラスの偏見で言ってしまって恐縮だが、いつも同じ人とだけ会っている人のコミュニケーション能力はやっぱり低い気がする。一日中会社で仕事をして会社の人と飲みに行って、休日は会社の人とゴルフ、みたいな人も珍しくないと思う。
あれ、でもタクシーの運転手さんなんかは毎日違う人を乗せてるのにそうでもない。やっぱりそこに意味を見いだすかどうかって部分もあるんだろうな。タクシーの運転手さんが人とのコミュニケーションに意味を見いだし、俺は地球の人口のどれくらいと関わるのだろうか、と思っても思わなくても、俺にはまったく関係ねえんだけどな。
今日は神楽坂の料亭で詩の朗読会。もう十五年くらい続けているんだけど、高齢化する我々に混じって、若いメンバーもちらほら増えてきた。その中にとてもいい詩を書く瑞穂君という学生がいる。
ヤツが「床屋で、かゆいところないですか、と聞かれたらなんて言いますか?」と聞くので「かゆくない、と言うんじゃないかな」と答えた。「ですよね。僕は生まれてこのかた、かゆい場所を他人に教えたことなんかないです」
なぜ突然そんなことを言い出すのかと思ったら、俺たちの目の前に座っている竹中の後頭部が、まるで「戦時中の床屋」から出てきた瞬間のように刈り上げられていたからだった。
床の間の前では、いつも退屈な詩を書く三井が朗読をはじめたところ。俺が竹中の後ろに回り込み、紙に「せんじちゅう」と書いて瑞穂君に見せるとヤツは笑いをこらえるのに必死だった。竹中は気づいていない。瑞穂君がヒクヒクしているので完全に落としてやろうと思い「かりあげましてござる」と書いてみせた。
瑞穂君は俺からペンを取ると「それくらいじゃ落ちません」と書いた横に「ある言葉」を書いて見せたので、反対に俺が落とされる結果になった。
朗読会が終わったあと三井が来て「みんな、僕が読んでるときに笑わないでくださいよ」と言うので、丁寧に無視した。そんな寝言は「誰もが聴きたくなる詩」を書いてから言うべきだろう。
竹中が戦時中というかベトナムというか正面から見てもすごい刈り上げ具合で「俺は三井の詩は好きだけどなあ」と、場を取り繕うように言う。
すると三井は赤い顔をして突然怒り出し「お前みたいなカンボジア刈り上げに言われたくねえよ」と言い残して帰ってしまった。カンボジア刈り上げという言葉のチョイスは、やはりつまらない詩を書くヤツ独特だよね、というような話で、瑞穂君と数時間盛り上がった。(十月六日・記す)
どの世界にも業界というものがある。本人たちは無自覚もしくは大マジメだが、はたから見ると滑稽なことも多い。よく言われる「業界」はテレビやマスコミに関わるもの。情報の出口がマスであることを、自分自身がマスへの影響力を持っていると勘違いしていることから起こる。
専門分野は業界の内部でしかわからない符牒を使うことで排他的になるが、それは外に流出してはいけないものだ。意味を悟られては符牒にならない。たとえば、とんねるずがテレビの業界に入って「外部から見た内部」「内部に入ってしまった外部の人」を面白がっていたことで「知らなかった内部」が一般に流通し始めた。テレビを含めたマスコミだけではない。電力会社は爆発したことを「爆発のような事象」ということや「永田町雀」というのは鳥ではなく、ハゲたおっさんらしいことも一般に知られている。木を見て森を見ず、と言うが、人は自分の半径数メートルしか見ていないから自分が森に属していることを忘れたり、身の回りの数本の木が森のすべてだと思っている。
ある喫茶店にて。数組の客がいる。
「ほら、今月のゲツハイ、読んだか」
「とっくに読んだよ」
ゲツハイとは、月刊配管工事のことである。
「北千住の石元さんのグラビア」
「これ、かっこいいから切り抜いて部屋に貼ったよ」
「石元さんの国技館二期工事の配管すごかったよなあ」
「ああいう配管工になりたいよね」
となりの席。
「おう、今週のシュウタク、読んだか」
「読んだ。ヤマトVS佐川の仁義なき抗争な」
「面白かったなあ、あの記事」
「今週のカリスマ配達員、一日で三百軒回ったらしいぞ」
「ありえねえよ」
「俺たちも民営化からの逆風に耐えていかないとな」
となりの席。
「教授、今月のゲツアカに原稿、載ってましたね」
「ああ、読んだかね、キミ」
「金子教授の『中心性の欠如と限界分析』はどうでしたか」
「あんなのケンブリッジに擦り寄り過ぎだと思わないかね、キミ」
「僕はそうは思いませんけど。教授の『空海とジョブスの近似性』も
けっこうありがちだと思いましたけど」
「まあいいんだよ、たまには俗っぽいネタで緩急つけないと」
マスターはヒマそうに「季刊・喫茶店経営」を読んでいる。
このように世界は無関係の細かい業界の集合で成り立っている。そこで起きていることは、いわば自分の家庭の問題のように他人から興味を持たれることはない。
カランコロンと、昔ながらの喫茶店に必ずあるヤツ(喫茶店専門用語で何というかは知らない)が鳴り、一人の初老男性が入ってきた。
「おい、あれ見ろ。伝説のカリスマ配管工・石元さんだ」
「マジか、本物だあ」
「ゲツハイにサインしてもらおうぜ」
もちろん他の客は、なぜその地味な男性が雑誌にサインし、写メを撮られているかはわからないのであった。
寝るときにパジャマを着る人を無条件に尊敬する。適当なシャツにジャージ、なんていうのはダメ。それはパジャマではなく「寝るとき用のクソどうでもいい服」だ。俺にとってパジャマ然としたパジャマは、睡眠という儀式に囚われてしまう悪魔の衣装である。いくら楽しい時間を過ごしても、これを着たら寝なくてはいけないという子供の頃の強迫観念が、大人になった今でも眠りを妨げる。
上海やホーチミンの人々みたいに日常をパジャマ的なもので過ごす人は、あのまま寝るのだろうか、それとも寝るときのパジャマは別にあるのだろうか、地下鉄はどこから入れるのだろうか、そんなことを考えていると眠れなくなる。
衣服の中でパジャマは新参者に位置するのではないか。原始人が怪我や寒さから身を守るために作ったプリミティブな毛皮の服。それが時代と共に洗練されていったものがプラダのスーツである。スーツにはそれなりに長い歴史があるだろうが、パジャマは「寝るための服」という発明で、生活と服の関係がかなりグルメ化したあとのことだ。プラダにもパジャマは売っているのだろうか。「パジャマはありますか?」とイタリア語講座の練習フレーズじみた質問をしたことがないのでわからない。そして今後も聞くことはないと思う。
寝るときは全裸、もしくはツンパ一枚というのが心地よい。もうなんだかよくわからなくなって知らないうちに寝ているというのがいい。俺は酒を飲まないが、酔ってそのまま寝ちゃった、というのはいい睡眠だと感じる。
睡眠はみずから向かうものではなく、向こう側から迎え入れられるものだ。それが死と似ていて、比喩にされる理由なのだ。
新しいことをするとき、かならずそこにはアクセル社員とブレーキ部長がいる。「きみ、それは時期尚早だな」などと新しいプロジェクトの進行を妨げる部長。それに反発しプロトタイプを仕上げ、社長直々にゴーサインをもらう社員。計画は成功し、全社員が喚起の声を上げる。ブレーキ部長も認めざるを得ない。この黄金の仕組みはどんな職種でも成り立つところがすごい。田口トモロヲ的な淡々としたナレーションに乗せてしまえばいっちょあがりだ。
「短いと切りにくいというアンケート結果があるんです」
「何を言うんだね、きみは。前例がない。無理に決まっている」
「どうしても長くしてみたいんです」
「馬鹿を言うな、これは江戸時代からこの長さだ」
開発担当部長の山田は、鈴木の提案を却下した。
そこに社長がやってきて「これは面白いかもしれないぞ」と言う。
入社二年目の鈴木は徹夜で何度も試作品を作った。
鈴木の妻は夫の健康を心配する毎日。
完成品と呼べるものができたときには半年が過ぎていた。
鈴木は社長と部長を呼び、会社の庭の高い木の枝を切ってみせた。
「すごいぞ」
世界を驚かせた「高枝切りばさみ」誕生の瞬間だった。
鈴木も、社長も、そして反対していた部長の山田も泣いていた。
家に帰ると、鈴木の妻も泣いていた。
自分たちの仕事をプロジェクトX風に楽しんでみるといいかも知れない。
マフィアは自分たちを「ファミリー」と言い、ヤクザは「一家」と言う。たとえ悪いことをしたとわかっていてもその人間を理不尽なまでにかばってくれるのは、会社でもなくユニットでもなく「家族」。違う言語でも、同じような状態が似た言葉で形容されることがよくある。
犯罪集団には家族の比喩が必要になるように、どこかで聞いたことがなくても自然に同じ方法をとる人類共通の発想が面白い。
じゃあ、秋元康ファミリーなどはどんな悪事を企てているのだろうか。CDを主な収入源とした48人ずつの下部組織を全国に拡大しつつ、やりたい悪事とはなんなのだろうか。注意深く選挙の結果などを見ていきたい。
義兄弟というのは血縁よりもつながりが強いと言うが、不思議なのが、家族全員が芸能人の高島忠夫一家だ。実際にファミリーであることに飽き足らず、さらにファミリーにこだわる。
その証拠に高島忠夫は「いえー」と叫ぶことが多い。なるほど。
海はだまってそこにいる
そこにいるが、動いている
海は長い時間をかけ、交代で
世界中の海岸を見物にでかける
かっこよく言えば
俺は海のようにそこにいたい
ボストンの人はボストンバッグという言葉を聞いたことがないと思うし、マディソンスクウェアガーデンに勤めている人はマディソンバッグを知らないと思う。ナポリタンでもロンドンブーツでもなんでもそうだ。
日本人は何かに地名をつけることが好きだ。バックグラウンドが持つ価値が好きなのだ。ボストンというたった四文字のカタカナが価値を生む。あれの何がボストンなのかはこの際どうでもいい。
朝、怒濤の勢いでミラノサンドを頼む人も、自分が食べているものが「うすらミラノ」である価値をどこかに感じているのだろう。「あんなの全然ミラノじゃねえよ」とイタリア通が言うのは簡単だが、ネガティブな思考は何も生まない。面白さ優先で積極的に地名をつけていく方向でお願いしたい気持ちで一杯だ。
今までに地名を冠した日本の言葉が否定されたのはトルコ風呂くらいか。
風俗に国名をつけるのは遺憾、というわけだ。そういう失礼じゃないヤツならドンスカやっていい。カレーだけでもいいが「インドカレー」と書いてあればいやおうなく本場感が増すはず。働いているのがネパール人であっても、名前はインドがいい。問題は根拠や意味ではなく「期待するシズル」なのだ。
国内でもブランド産地として地名が使われる。ただの牛肉よりも米沢牛、三田牛と言われた方が美味しそうに感じるに決まってる。アクロバティックに「魚沼牛」なんかもいいね。米が旨いというブランドはすでに確立しているんだからその資産を応用していくべきだ。
フランスで、俺が着ているTシャツを見たヤツに「トーキョーデザインか」と聞かれたことがある。東京デザインというのはヤツらにとってはクールなものなのかもしれない。誤解でも何でもいいから産地は偽装せずにつけていくのがいいと思う。
結論はこれといってないので各自、考えるように。
よく、ガンつけたのなんだの言う人っているでしょ。
ああいうの、よくないね。
この前も電車の中でこんな風景を見ましたよ。
「おい、お前、今ガンつけただろ」
「いえ、別に」
「別にってなんだよ、そのいいぐさは」
「特に見てないですよ」
「特に、ってことはサラッと見たことは認めるんだな」
「いえ、まったく見てないです」
「矛盾してるな、お前。言語能力あるか?」
「ええと、専門は論理学ですから多少はあるかと」
「そういうんじゃねえよ、ガンつけたかどうかって話だ」
「ですから、あまり見てないですけど」
「また言いやがったなテメー。あまりってなんだ」
「特にじっと見た気はないんですがもしかするとチラッと」
「見たのか」
「狭い車内ですから、見た可能性は否定できないです」
「お前、なんか言い方が気にくわないんだよな」
「よく会社でも言われます」
「だろだろ言われんだろ、そういうの絶対に直した方がいいって」
「そうですかね」
「そうだよ。どんなにいい仕事したってそれでブチ壊しなんだぞ」
「心当たりありますよ」
「だろだろ。社会人だったらそういうの直さないと」
「どうすればいいんでしょうか」
「あのな、まず相手の言うことをちゃんと聞く」
「はい。わかりました」
「そうそう、それで話し相手の目をじっと見る」
「はい」
「そして相手の意見も尊重しながら、否定しすぎないように」
「わかりました。ありがとうございます」
「がんばれよ。またどこかで会おうな」
ガンつけたって話が、相手の目を見て真剣に話すというテーマに
変わっていたね。
日本語だと尾篭、英語だとbelow。つまり下品な話をしますけど、どちらさまもよろしいでしょうか。わたくしロバート・ツルッパゲが開発した技術に「立ちションを悟られない」というのがあるんです。キャンプなどに行った場合、オシッコがしたくなると「ちょっと行ってくる」なんつって男子は草むらに行きます。そのとき女子は必ず「男はいいよね」と言うものです。
ただ、不思議なことに背中を向けてしていてもなぜかオシッコしていることはわかってしまいます。これはなぜかと思って分析してみたんですが、その一番大きなポイントは「ポンチコを両手で支持して微動だにしないでいる、あの猫背なフォーム」なのだとわかりました。あるとき私は女子に何も言わずに草むらの方へ歩いて行きました。もちろんオシッコをするためです。素早くファスナーをおろし、ポンコチを出します。両手をアタマの後ろに組んだら背筋を伸ばす、むしろ反り返って、ゆっくりとあたりを見回します。後ろから見ると完全に「自然っていいなあ」と思っているエコロジーな人の擬態が完成です。何気なくオシッコをすべて出し終わったら、なめらかな動きでポコンチをしまって、何もなかった顔をして戻れば絶対に気づかれることはありません。私はロケ先などでけっこう駆使しています。ゼシお試しあれ。
秋っぽい服を買った。街は「この秋のファッション」で彩られているのに
俺の無頓着な服はどうなのか、と思っていたからだ。
ファッションに興味のない俺にとって自分自身はどうでもいいんだけど
「あいつ、季節感ないな」と思われるのだけは避けたい。
「これから軽井沢ですか?」と近所の老人に聞かれるくらいの爽やかさを目指して西武へ。
服を買うのは面倒くせえ。
「お前でもカッコよく見られたいの?」と店員に思われている気がするからだ。
包装がバカ丁寧だったり、紙袋がやたらデカかったり、
クレジットカード持ったまま店員が何分も帰ってこなかったりして
「あいつ本当に店員か」と疑ったりして、そんな自分の小ささにも憂鬱になり、
なぜか「DCブランド」という死語まで思い出す始末。
恥ずかしいのですぐ撤収した。
「ロバートさん、ギャルソン(それも西武の)で買い物していましたね」なんて言われたら
恥ずかしすぎて軽井沢の別荘で自殺しちゃう。
外国に行くとたまに聞かれることがある捕鯨問題。
どうなんですかね、欧米のやり方は。
「高等ほ乳類を時間をかけて殺すな」という動物学者の主張があったりして、
とてもオトナ有識者の言うこととは思えませんね。
動物の命、死ってそんな単純なものじゃないでしょう。
かつてヨーロッパやアメリカ人の手によって乱獲された象やバッファローは
立派なほ乳類だし、ビン・ラディンも、ほ乳類だ。
命の重さを「類」でわけるなよ。
じゃあ爬虫類なら死んでもいいのか。両性ルイならいいのか。
桜樹ルイなら逆に悩殺なのか。太川陽介なら二倍いいのか、と言いたい。
鯨やイルカがカワイイからという理由で?
俺たちは毎日、牛や東京エックスを食ったりしてるけど、
牛なんか近くでよく見ると、すげーかわいいぞ。
反面、日本人やエスキモーが主張する食文化っていうのもゲせない。
昔から食ってるとかイスラムは豚を食わないとか、そういうことも関係ない。
誰も彼も勝手なことを言っているんだから収拾はつかないよ。
とりあえずアメリカ人に「ポテトと七面鳥を食うな」と迫ってみたい。
日本人とかアイスランドの人たちが IPTPC(国際ジャガイモおよび七面鳥
保護委員会)を設立して「イモや七面鳥を食べるなんて野蛮人だ」と
言えばいいんだ。アメリカ人もそれが食えないと困るから、
さまざまな科学的データを提出して
「このようにポテトや七面鳥の数は増えております」なんつって。
くだらない話を書こうと思うからいけないんだな。やっとわかった。
自分のつまらない日常を書き残すだけで、それは自動的にくだらない。
死ぬまでに残されたカレンダーを毎日消していくだけでいいんだよな。
四角い升目を太いマジックで塗りつぶすように書けばいいんだな。
なぜか裸の大将みたいな語尾だけど、自分と対話するときにはこうなるんだな。
僕はランニングを着ているのに「裸の大将」と言われるんだな。
だから、おにぎりを貰って食べるときには「裸のランチ」なんだな。
トイレに行くとき「裸のウンチ」なのかどうかはハダカではないけど、
とにかく兵隊の位で言うと、一番偉い「大将」なんだな。
人類が黒人から始まったことをアングロサクソンの大将は認めたがらないが、
それと同じように「利口な人は、バカが退化したものだ」ということも
認めないんだな。利口な人が真面目に考えた結論はバカがすんなり実践済みだな。
利口になるほど、積み上げた物の無意味さに気づいてバカに倣うんだな。
子供は花を「きれい」と言い、高校生は「光合成」と言い、老人は「きれい」と言う。
床に落ちたオニオンリングをハイヒールで壁の隙間に押し込むのを誰かに
見られている場合もあるから注意しろよ。ロバート・ツルッパゲです。
スランプという言葉があるね。あれはもともと能力のある人が
チカラを発揮できない時期を指すんだろうから、ダメな人が陥るのは
なんて言えばいいのだろうか。
「馬鹿のスランプ」と言ってしまうと、論理的にはおかしなことが起きる。
マイナスがふたつでプラスになっちゃうんだよね。
たとえば「テロ組織のスランプ」。
このスランプは社会的に歓迎されることでテロリスト的には本意ではない。
これはジュリアーノ・ジレンマだ。
というようなわけで何か的確な表現はないか、と考えていたら一日が終わった。
馬鹿にスランプなし、ということが判明してめでたしめでたし。
代官山のシャレてない店でコーシーを飲みながらぼーっとしていた。
ぼーっとすることにかけては自信がある。
「テキパキとした」という形容詞がつきそうな勢いでぼーっとする。
たぶん俺は、人生の七割以上をぼーっとしているんだろう。
むりやり意味のあることを避けているのかもしれないけどな。
でもね、人生に意味なんてほとんどない。
意味があると信じる宗教心があるかどうかの違いだけだ。
欲求を問いつめていくと最後には何もない。
お金があってどうするの?
豊かに暮らせる。
豊かに暮らせるってどういうこと?
ゆとりがあるってこと。
ゆとりがあるってどういうこと?
ぼーっとすること。
じゃあはじめからぼーっとしてればいいじゃん、と思う。
「ない」ことに気づくから「ある」ことを願う。
「ない」ことを肯定すると
「ある」状態と同じ気分でいられるのだ。ここ大事。
金ならあるよ、より、時間ならあるよ、のほうがいいなあ。
エロサイト探索とかエロサイト再発見などの仕事を済ませて
気を緩めていたら友人がやって来た。
「いやあ遅くなって」約束の時間を軽く四時間過ぎていたが普通の顔。
そのルーズさが美点だ。出来事に意味はなく、その対応にこそ意味がある。
と俺らしく無意味なことを言っておこう。
最近、風邪気味。「サソリになる覚悟があるなら健康に戻してやる」と
神様に言われたら、よろこんで俺はシャカシャカ歩くだろう。
たとえサソリになったとしても健康は大事なものなのだ。
不信心な人は現金なもので体調や状況が悪いときにだけ神にすがるものだ。
「教会に寄付をしたことあるのにぃ」なんていじましく思い出したりしてダサイ限り。
そんなヤツを神は助けない。俺が神様になったら、極悪非道の天罰を下すだろう。
不幸を売りにしてるヤツを見かけたら、徹夜覚悟で意地悪をしてみたい。
醜いアヒルの子には「アヒル? 実はキミ、ウズラなんだよね」とか言いたい。
それを悲観して自殺、天国に来たところで
「あ、事務上の手違い。キミは白鳥でした」とお役所仕事的な一言。
そもそもウズラであることを悲観しているあたりが
白鳥の鼻持ちならないプライドなんだよ。
金持ちっぽい名前の象徴で白鳥麗子なんていうのがあるけど、
白鳥って苗字の親が娘にその名前を付けるのは二つの意味で勇気がいるだろう。
今は会社の経営がうまくいっているが、この子が多感な時期に事業が失敗して
貧乏になったらどうしよう。「白鳥麗子なのに貧乏っておかしくねえ?」と
いじめられることは目に見えている。
また仮に事業は順調だとしよう。でもそれで安心するのはまだ早い。
ブスに育った場合も困るんだ。
「白鳥麗子ってお前、実在するパロディ?」といじめられるからである。
じゃあどうすればいいのか。
それは白鳥という苗字の親御さんが考えればいいわけで、俺には何も関係ねえ。
ある種の作家のように妄想が表現に結びついたりすれば無駄がないんだけど、
俺のはカッコ悪いタイプのヤツだから無駄な妄想を生産して一生が終わるだろう。
妄想なんて言うと聞こえはいいが、庶民的に「脱線」って言う方が近い。
「えー、話が脱線しましたが」なんて言う教師ほど真面目でつまらなかったな。
「今のはギャグでした」と言うのと同じだからね。
本当に脱線する教師は脱線したまま九年くらい戻ってこないものだ。
そもそも妄想って文字を画面で見ているともうダメ。
「妄」っていう字のカタチの面白さに脱線しまくる。
死んだ女だったり、顔がなくなった人の絵だったり、
タライを持って大の字になってるとか、
頭のノーナビはつまんない方向にどんどん進んでいく。
さらに「タライ・ラマ」を経て「チベット行ってみたいなあ」
なんつったりして、じゃあ「四捨五入の書」でも書いてみるか、とか思う。
じゃあってこともないんだけどな。
「整理券の番号が一から四までの人はこっちでーす。
五から九までの人はこっちでーす」
メガホンを持った案内係に言われたとおりに部屋に入ると一から四のほうは
床が抜ける。地下一階は一から四の墓場。腐った一から四が悪臭を放って
堆積している。ひどすぎる。
一から四ってことはゼロじゃないはずだろう。なぜ教条主義というか
偏差値的な効率優先で彼らを無価値にしなくちゃいけないんだ!
一方その頃五から九の「価値組」はエレベータで二階に上がっている。
でもよ、価値組。安心できるのもつかの間だ。
四捨五入だから、時間内にそのエレベータが五つ以上集まらないと
次の三階にはあがれず、地下一階にまっさかさまなんだぜ。
わざわざ考えている訳じゃなくて、ほとんどの瞬間ごとに
こういうことを思っている。
数学なら逆算できるが、バカは元には戻れない。
「なんで四捨五入なんだっけ」と思っても
思考経路を引き返すことは不可能だ。
だって途中にタライ・ラマが挟まってるんだからね。
早朝、トイレットペーパーとティッシュペーパーをコンビニに買いに行った。
俺の机にはしばらく前からティッシュがなく、トイレットペーパーも
最後のワンロールだった気がする。
オッサンがトイレットペーパーとかティッシュのお徳用をぶら下げて
人混みを歩いている姿は離婚気味に切ないので、この時間は絶好のチャンス。
人のまばらな明治通りを渡りコンビニでダブル購入。
最悪の「両手に、拭くための紙」ポーズだ。
走って戻る。なんでこんなに悲しい思いをするのかというと、トラウマだ。
子供の頃には「買い物の手伝いをするのは男として確実にダサイ」
という不文律があった。
放課後、野球をやっていたら、カトウ(仮名・本名:加藤)が通りかかった。
両手にトイレットペーパーを持っていた。
やべえ、あいつ野球に来ないで、お使いしてるよ。
さらにただ買ったというだけではなく「特売・買い溜め」の様子さえ
うかがえる。みんなでカトウを呼ぶ。
「おーい、カトー」
聞こえているはずなのにカトウは黙ってうつむき、歩いている。やや早足で。
次の日からカトウは「チリガミマン」というあだ名で呼ばれることに
なってしまった。なんというあだ名。それゆえに俺は母親から庶民的な
買い物を頼まれても断り続けた。
何らかの「マン」を命名されるのはイヤなのだ。
みんなも同じ気持ちだっただろう。
現在は中年の彼が、たとえ国会議員であろうと二児の父であろうと
俺の中では「チリガミマン」なのだから。
まったくおそろしいよなあ。
携帯を首からぶら下げる理由を俺にもわかるように説明してくれ。
ロバート・ツルッパゲです。
青山でコーシーを飲んでいたら、かなりの割合で電話をぶら下げている人が
見受けられた。これはキッパリとした俺の偏見なんだけど、
音楽業界は首からぶら下げがちだ。
宝くじで言うと下一桁当たってるくらいの確率。なんでぶら下げるのか。
テレビ局ではそこに社員証とペンなどが増える。
タイムキーパーならストップウオッチも。
ひどい人になると、鍵、名刺入れ、デジカメ、ライター、爪切り、食パン、
ACアダプター、子機、ニューバランスのスニーカー、図鑑、グローブ、
ハードディスク、もしものときのための保険証などをぶら下げている。
グローブ、スニーカーあたりから推理すると、首の筋肉を鍛える目的が
あるのかもしれない。
本来は忘れないようにとか、すぐに取り出せるようにぶら下げていたはずが
首から下がドンキホーテみたいになっちゃってるから、
必要なときすぐには探せない。家を出るときにぶら下げるものが多すぎて
普通に「財布忘れた」なんてこともしばしば。本末転倒だ。
一番奥に彼女からもらった銀のペンダントがある。
それを眺めながらそいつはシミジミ思うのだ。
「俺、なんでこんな意味のないものをぶら下げているんだろう」。
ウソの割合は難しい。「ウソが二割」と聞くとまあ許せる気がするけど、
「二〇パーセントの食塩水」は飲めたもんじゃないほど、濃い塩水だ。
八割であるはずのミネラルウォーターの面影はそこにはもうない。
寝ている間に布団が毛布に変化していた。という文章の中で
ウソは「変化した」だけなのに結局、全部がウソになっている。
蛇足だけど『これを映像用語でモーフィングと言います』まで言えば
「嘘つきの上にオヤジギャグを言う人」として
若い女性に嫌われること間違いなしです。お試しあれ。
デザイン進まず。細かいところを変えると他の全部がやり直しになるのだ。
たとえば、どこかの赤を暗くすると白地のグレー文字が薄く見えたりする。
それを濃くすると今度は文字の太さが気になったりして、はじめからやり直し。
下手な床屋みたいに右を切りすぎたので左を合わせたりしてるうちに、
どんどん髪が短くなるカンジ。
髪の毛だったら最後は坊主になっちゃって、すみませんね、と言えば済むけど、
デザインはまた一から始められるから困るよ。
独立しているように見えても関係しているものがある。
ロバート・ツルッパゲです。
総研くんからメールが来た。
名字が野村とかだったらけっこう面白いんだけどな。
カズヨシと読むらしいが、親はどういうつもりでつけたんだろう。
ちなみに弟は真司。
初めてのコドモに前傾姿勢で名前を付け「ちょっとやっちゃったかな」と
反省した親は、次のコドモには無難な名前をつけるのだそうだ。
可哀相なのはお兄ちゃん。「親の教育は、たとえ間違っていても貫くこと」と、
知らない駅員さんも言っていた。
兄弟全員が変な名前なら「うちはそういう家なんだ」とあきらめもつくが、
途中で方針が変わると自分は失敗作だったのだと感じてしまうだろう。
次男の真司の下には、妹の聖がいる。セイヌと読むらしい。
どうやってもそうは読めないだろう。こうなると収まらないのは
次男の真司だ。「結局、俺だけ平凡な名前じゃねえかよ!」と、
金属バットを振り回してバッティングセンターにでかけて行く。
名前通り、無難な行動しかできないのな。
東急東横線の中目黒駅。今日の主人公は長田邦夫(三十二)である。
モモタ貿易部長、百田勝夫(五十四)は混雑した朝の電車に乗るところだった。
ドアが閉まる直前に一人の若い女性が駆け込んできて勝夫の足を踏んだ。
「痛えなこのやろう」
勝夫はつぶやいた。しかし女性は謝らないどころか、勝夫の方も見ない。
「おい、あんた。俺の足を踏んだよ」
初めて勝夫に向かって振り返る小池涼子(二十一)。
車内は相当混雑しているから、顔と顔がくっつきそうになる。
「あ、そうですか、気がつかなくてごめんなさい」
やる気のない役者のような棒読みの台詞に、短気な勝夫は頭に来た。
「ちょっと可愛いと思って調子に乗ってんじゃないよ」
「え?」
二人が大きな声を上げたので周りの人たちが何事かと見ている。
勝夫は涼子の耳元で声を小さくして言う。
「ちょっと、可愛いからと思って、調子に、乗ってんじゃない、って言ったの」
「え、なんですか?」
「ちょっと可愛いからって図に乗るな、って言ったんだよ」
「聞こえないんですけど」
「なめてんのか。何回、可愛いって言えばわかるんだよ」
「あたしって、可愛いですか」
「うーん、まあ、一般的な基準からすると割と可愛い部類じゃないの?」
「そんなこと今まで一度も言われたことないけどなあ」
「よく見るとけっこう可愛いよ」
「ありがとうおじさん。でもこんなところで言われても恥ずかしいです」
「そうだな、ごめん」
なぜ自分が謝っているのかわからない勝夫だった。
主人公の長田邦夫は東横線の運転士なので、
そんなことが車内の後ろの方で起きているとは知らずに
ただひたすら決められたレールの上を走っていた。
(蛇足ではあるが、百田も父親の会社で働いていることがわかるだろう)
俺の七〇パーセントはコーヒーで出来ている。ロバート・ツルッパゲです。
だからコーヒーじゃなくて別のものをたくさん飲めば、
性格が変わるかも知れない。やってみる価値はある。
朝から晩まで健康的に野菜ジュースとかな。
野菜をたくさん取ると精神が安定すると言われてるから
攻撃的な性格も緩和されるんだろうけど、
草食動物のすべてがおっとりしているわけでもないよな。
サイとかはけっこう乱暴っぽい。ツノもあるし。
一九九四年。栃木県にあるウチヤマダフーヅ株式会社の商品開発会議。
「えー、各社ともに多種多様なお茶を出しており、市場は飽和状態です。
後発の我が開発部では画期的な製品を開発し、参入します」と発表がある。
身を乗り出す経営者たち。
「新製品は『肉茶』です」
その言葉にあわせて、会議室にポットと紙コップが運ばれてくる。
一瞬にして部屋中、生肉のニオイで充満する。
「飲んでみてください」自信満々な開発担当。
社長の内山田がおそるおそる飲んでみると、スーパーの肉売り場を
掃除した深夜三時のモップから流れ出る液体の味がした。
「肉茶か、こいつは、いけるかもしれんな」社長が言う。
ガッツポーズの開発担当。
CMキャラクターには社長の発案でアニメのブルースリーを使うことが
決定した。女の子が「肉なのに~」と歌うと、
ブルースリーが「オチャ!」という繰り返しの典型的な三流歌い込みCM。
「肉茶」は爆発的にヒット。こうなると他の会社も黙っていられない。
「カルビ茶」「増肥茶」「松坂茶」などの類似品が出回る。
「肉茶」の本家であるウチヤマダフーヅは慌てない。
さらなる攻めの姿勢で「魚茶(うおちゃ)」を開発。
スーパーの鮮魚売り場を掃除した後の配管を流れる液体をイメージした。
新しいCMは、またブルースリーのアニメキャラが魚茶を飲んで
「ウオチャ~!」だったが、魚茶はまったく売れなかった。
小骨が入った「つぶつぶ魚茶・カルシウム」「新・肉茶」で
巻き返しを狙ったが結果は惨敗。
今では地方の個人商店でたまに「新・肉茶」を見かけるだけになってしまった。
肉茶は缶のデザインもかっこいいし、たまに飲むとうまいんだけどね。
知り合いで「ハゲる前にスキンヘッドにしようかなあ」と言っていた人がいた。その発言を聞く限りまだまだふっきれてないようだなキミ、いやテメー、と思った。ツルッパゲとスキンヘッドには外見で判別できないけど、大きな違いがある。「なんつーか、遺伝的にハゲちゃいました」と「あえて毛がないという髪型を試みてみました」との意識と評価の差は大きい。スキンヘッドは自発的なファッションだからな。可逆的と言ってもいい。
よく仕事の場でこんなことがある。担当のヤマダさんを呼びたいのだが受付で聞かれる。「ヤマダは二人おりますが、タカシとマサオのどちらでしょうか?」俺の知っているヤマダが、タカシかマサオかなんて知らねーっつーの。何かの特徴で言わないといけない。「何か」とは言うものの、受付のお姉さんも俺もぶっちゃけた話「ハゲか、そうじゃないほうか」ならすぐに答えられる。でもそうは言いにくい。「どっちだったかなあ」なんてグズグズ言ってると偶然ヤマダタカシがハゲた頭の汗を拭きながら受付にあらわれる。「あ、どうもどうも、お待たせしちゃいましたか」なんて言いながら会心の笑顔。
いい人なんだよね、これが。
また、意を決して「ココだけの話、ハゲてるほうのヤマダさんなんですけど」と小声で言ったら残念ながらどっちもハゲだった、などのキツイ状況にぶち当たることもあるだろう。言い損だ。女性の場合はデリケートだからもっと困る。困るけど、こうなりゃ一人殺すも二人殺すも同じ。「化粧が下手なほう」とか「ストッキングの肌色がいつも微妙にババくせえほう」とか「会社の機密事項を他社に横流ししているほう」とか「ユニクロっぽいほう」とか「デパ地下マニアのほう」とか「指を詰めてるほう」とか「最近実家がリフォームしたほう」とかなんで俺がそんなことを知ってんのか、と受付が不審に思って、総務部の部長が出てくるくらいのことを言って、積極的に「二人のヤマダ」を判別していきたい。でも八人くらいいたらいやだなあ。
名字が平凡なのは、それくらい困りものだってことなんだよ。
2011年9月30日 発行 初版
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