雪国の暮らしは感動の毎日。
はっきりした四季の変化は、1年が2倍楽しめる別世界のようです。
貧乏だけれど工夫しだいで楽しくなる、そんなワクワクした暮らしの中で、そのときどきに感じた気持ちや驚きを素直につづりました。
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道北の小さな町・天塩町へ
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豊かな自然は、
見るものすべてが新鮮で、
感激の連続。
「広報てしお」
(1995年5、6、11月号掲載)
をもとに加筆・修正しました。
私たち家族の移住は、聖教新聞の小さな記事から始まった。それは「天塩町ニューカントリーハウス入居者募集」というもの。夫が見つけて急に行こうと言い出したのだ。突然の話に家族は即座に反対。それでも真剣に説得を続ける。地図で探すが、すぐには見当たらない未知のところだ。とりあえず資料を取り寄せ、いくつかの質問を電話でした。
「ゴキブリはいませんか?」返事は、そうですね〜ゴキブリはいませんね、ということだった。早合点した私は、ゴキブリがいないくらいなら、虫はいないと思ってしまった。
もう一つ「小学校は何校ありますか?」の返事は、7校(一九九三年)ありますということだった。7校もあるのだったら、娘たちの教育も大丈夫だと安心した。
そして、夏に下見に行くことになった。役場の人が丁寧に案内してくださった。広い牧草地に着き、その一角を指さし「ここに家を建てようと思っています」と説明された。見渡す限り緑の大地が続く何もないところ、ここに住めるなんてとても信じられなかった。その後、先に移住されている家族を訪ねて話を訊き、なんとか生活できると感じた。
娘たちが通う小学校にも案内され、教頭先生と話すことができた。町内の小学校はたしかに7校あった。しかし、生徒数が予想もしない人数なのだ。全校生徒6人。もちろん複式学級だ。びっくりした私たちに教頭先生は、自信を持って複式学級のほうが勉強は出来ますという。そうなんだ、と半信半疑で納得した。
もう一つの質問のゴキブリは、住んでから分かったことだが、たしかにいなかった。でも夏になるとゴキブリ以外の、ありとあらゆる虫がでてきた。
北海道も雪も大好きで、田舎暮しも憧れだけど、単なる夢でしかなかった。それが唐突に現実になろうとしていた。不安は大きく心配ばかりだけど、何とかやっていけるだろうという楽観的な気持ちと期待で、三月下旬に神戸を出発した。
春だった季節が冬に逆戻りしたような、白い雪の北海道に着いた。下見の時、人影はまったくなかったのに、家の前には、地域の人たちが待機していて、手際よく引越しの荷下ろしを手伝ってくれた。すべてが終わると一斉に車で帰ってしまった。それは、まるで消えたように感じられ、誰もいない野中の一軒家になった。
後日、手伝いに来てくれた人たちの家を地図に書いてもらい、挨拶に回ると地理的に少し把握できた。近所の家にも車行くほど広い酪農地帯の真ん中なのだ。
数日後、「隣だから」と言っておばあちゃんがジャガイモをどっさり持ってきてくれた。あまりにも離れているから隣という言葉がピンとこなかったが、その時はじめて、歩いて五分かかるが、この距離がお隣さんだと認識した。それにしても人間的つながりができると、随分違って見える。本当に窓から見える隣の牛舎が近くに感じられるから不思議だ。
町内会の面積は、神戸に住んでいた区の半分程あるが、人口は十世帯ほど「みんな親戚みたいなもの」だという。都会では多くの家がぎっしり建っているが、親戚みたいな人は何人いるだろうか、ここより少ない気がする。実際に冠婚葬祭などは、本当の親戚と同じ関わり方をする。葬式は二日間町内会でお世話するから、一家から男女各一名、手伝いに行く。面倒なように見えるけれど、このつながりが、過疎の町の絶妙なバランスを保っているのかもしれない。
渋滞がないのには驚いた。というより交通量が都会の深夜並か、それよりも少ない。だから夏道なら、好みのスピードで走れば、目的地までの所要時間は簡単に算出できる。それだけ人口が少ないわけで、歩いて行けるところには何もない。一番近くの商店まで車で十五分かかる。バスや汽車に乗るにも、駅までは車でないと行けない。
運転免許が必要なことは、下見の時に分かったので、急きょ神戸で自動車教習所に通い、正規の二倍の時間と費用をかけて取得した。でも一人で運転したのは北海道に来てからだ。交通量の少なさは、まるで自分専用道路のようで、初心者の私には好都合だったが、初めの頃は怖くてとても緊張した。買い物などで出かける日は、朝から気を引き締めて覚悟を決めないと車に乗れなかった。
車がないと生活できないと思っていたが、そんなことはなかた。それに甘んじない人たちがいた、子どもとお年寄りだ。町の中心地に行くのは、医療バスを無料で利用できる。そして大人が車で行くご近所へは、歩くか自転車に乗っていくのだ。子どもたちは、夏になると、となり町まで自転車で行くこともある。ある日、腰の曲がったおばあさんが、休み休み自転車に乗っていた。挨拶をして、年を聞くと「まだ八十」だという。「まだ」というのに驚き認識を新にしたが、お年寄りは元気だ。山菜採りの時、場所を教えてくださったおばあさんも、山の斜面に入って山菜を取り出すと、登るのが早く、ついていくのに必死だったことがある。
雪景色から始まった北海道の暮らし。雪の多さに驚いて、いったいこれだけの雪がどうやってなくなるのかしらと思った。まず、木の回りから融けて、それぞれの根元が円く掘れたようになる。そして、風が吹くたびに少しずつ雪が融けて、時間が逆戻りしたように、層になって消えていくのだ。
雪がなくなった牧草地を見ると、思議な感覚になる。今まで雪山に挟まれ、道路の方が低かったのが、1メートルもの雪が消えたので、道路が高くなったように感じるのだ。
すべてが枯れたように見えていた大地からは、フキノトウがまず芽を出し、牧草も少しずつ緑になる。そして、いろんな山菜が次々と出てくる。ツクシ、ギョウジャニンニク、フキ、ウド、ヨモギ、ワラビ、タケノコなどなど。
山菜づくしの食卓は、春を告げる楽しみの一つ。食材は、もちろん自然からいただいてくる。ギョウジャニンニクを見分けるのは難しく、なかなか覚えられなかった。
初めての山菜採りで、ここにあるよと、教えられたところに道はなかった。道などないのだ。草をまたいで分け入るのだ。そして自生している所というのは斜面が多い、ギョウジャニンニクも急な斜面だから、足をシッカリ踏ん張らないと滑り落ちる。
そしてタケノコ狩りは体力がなければできない。根曲がり竹は細いが、斜面に沿って伸びているので、中腰の姿勢で竹の間に分け入り土から出たタケノコを採る。硬い笹を避けて斜面を登るのだから大変だ。
冬、雪の布団をきていた大地は、その中で力を蓄えていたのだ。枯れたように見えていた木の枝先も、冬の間に徐々に膨らんで、春には新芽が出て緑の葉っぱを付けていく。大地の力はすごい。冬が必ず春になるには、冬にがんばっていたんだね。

北海道の窓はほとんどが二重窓だから、台所のスリガラスの方を開けると外が見える。食器を洗いながら牧草地を眺めていると気持ちがいい。
ある日、キタキツネが遊ぶのが見えた。お父さんとお母さんと子ども2匹の家族だ。子ギツネはじゃれあっているが、お母さんから少し離れると、すぐに走り寄って側に行く。ほぼ毎朝、8時ぐらいに出てきてしばらく遊んでいる。子ギツネは少しずつ大きくなり、親から離れても平気で遊ぶようになった。表情までは分からないが、そのしぐさが可愛くて、いくら見ていても飽きない。しばらく楽しませてもらったが、そのうちにいなくなった。
次はバードウォッチングだ。ウグイス、カッコウはよく鳴いている。アカゲラ、セグロセキレイ、そのほかいろんな野鳥がやってきて忙しそうに飛び回わる。小鳥たちのさえずりが聞こえて、生活しながらいろんな野鳥が見られる。この家はなんと素晴らしい所にあるのだろうとおもった。それもそのはず、もともと、木がいっぱい茂って小鳥やキタキツネの住処だった所を切り開いて、そこに建てたのだから。私たちが彼らの生活の場に侵入してきたよそ者になる。彼らは、いつもどおりに自分たちの生活をしているだけなのだなと思った。
土を耕して、肥料を施し、種を蒔けば芽が出るのだけれど、畑はしたことがない。野菜は作りたいがどうすればいいか分からない。菜園にする場所は、見るからに堅そうで畑らしくない土地があるだけだ。スコップで掘ってみるが、大きな石にぶつかり、根っこも張っている。近所の奥さんが言うには、でんぷん工場の跡地だから、畑にするには5年ぐらいかかるという。役場の係の人と交渉したが、何もしてくれない。
途方に暮れていたら、牧場のご主人が「木を2本ほど切れば機械が入るね」といって、土を耕す機械(ローター)を持ってきて見事に耕してくれた。悩んでいたのが嘘のようにフカフカの畑が出来上がった。2日ほどして、牧場の奥さんが肥料を持って来て、ウネの作り方から教えてくれた。枝豆やトウモロコシのように大きくなるのは、それを想定して間隔を開けて種を蒔く、ほうれん草等は、バラバラっと蒔いて、土もそんなにかぶせなくてもいいなど。そして、苗で植えたのは、透明の飼料袋をかぶせて風よけを作ることなど。
夫は、畑を作れというだけあって、朝晩、時間があれば菜園に行き、芽が出たかどうかを見る。赤カブが一番早く出た。次はほうれん草。一番心配していた枝豆やトウモロコシが発芽したときは、嬉しくて畑の中で手をたたいて大喜びした。
あんな小さい種から芽が出るなんて信じられなかったから、可愛い双葉が土を押し上げて出てきた時は、可愛くて健気ながんばりに感動した。まだ豆の殻を頭につけていて、その上に土を乗せている。よく頑張って発芽したねと、心でエールを送るが、本当は私が力をもらっている
苗が育ち始めた夕方に、隣のおばあちゃんが「霜注意報が出ているから苗にはフキの葉をかぶせておきなさい」と言いに来てくれた。先生のいう事はすぐにしなければと、私はフキを切って、子どもたちが次々にかぶせていった。飼料袋でカバーされた苗の上にフキが乗った畑の光景は、とても面白く可愛くて、三人で大笑いした。私たちは畑が小さいからすぐに済んだけど、隣のおばあちゃんは夜8時までかかったらしい。
種を蒔けば野菜の力で育つけれど、やはり、いつも気にして適切な対処をしてやらないとダメなのだ。今までだと、天気予報で「霜注意報」を聞いても関係ないので知らん顔だったけれど、とても大事な情報だったのがわかった。
手のかからなくなった子どものように、常に気を使ってやって、ここという時には即座に対応してやらないといけない我家の娘たちのことと重なった。ただ、いつが「ここ」という時なのかが問題であって、野菜なら失敗しても、悔しい思いをするだけだけど、娘たちはそうはいかないので、これからは親も「ここ」という時を見過ごさないように見守らなければ。
人間の家族も、菜園の野菜たちも、まだまだこれからだ。ちなみに前記以外の菜園リストは、ニンジン、エンドウ、キャベツ、豆、カボチャ、ジャガイモ、トマト、キュウリ、ピーマン、ダイコン、ターサイ、野沢菜、そしてヒマワリ。
家庭菜園は、一生懸命していると順調に野菜が育つようになった。数年して、お隣の農家から、ビニールハウスをするといいよと、骨組み一式を頂く。早速ビニールを買って、ハウスを作り、春の早い時期から野菜作りを開始した。北海道の気温はなかなか上がらないから、路地では真夏にならないと育たない。ところが、ハウスならトマトやナスビもうまくいき、早い時期に食べることができた。スイカやメロンにも挑戦し、甘いスイカは美味しかった。
畑は十分広いと思っていたが、ご近所の農家に比べると小さかったのだろうか。草だらけの空地を見て、ここなら畑に出来るからといって、耕運機で耕してくれた。家の菜園以外に立派な畑が3ヶ所もできた。当時は、野菜作りが面白くなっていたので張り切って取り掛かった。植え付け、草取りなど1日中畑にいることもあった。収穫はとても一人でできないので、子供や夫も動員して大仕事になった。連作障害がないからか以外に上手く育った。ジャガイモやトウモロコシ、カボチャ、キャベツなどいっぱい作り、神戸の友人や親戚に贈るだけ十分な収穫があった。越冬野菜も、当時の5人家族が春まで食べるだけ確保できた。
私には大変な仕事量だったが、農家の方は牧場の仕事以外に、毎年、家庭用野菜を栽培している。私にはスケールが大きすぎて、増やした畑は数年で終わったが、大豊作の感動は残っている。
夫は移住前に約束した「仕事は何でもする」との言葉どおりに働いた。酪農関係だったので夏の間は特に忙しく、朝6時ごろに出かけて、帰るのは夜9時や11時になる。それから夕食を食べ、疲れているのですぐ寝てしまう。子供たちに会える時間がなくなってしまった。
お父さんの誕生日も忙しいだろうから、どうしようかしらと思っていたら、当時小学3年と5年の娘たちは素敵な手作りのプレゼントを考えた。その一つが、何でもしてほしい用事を書けば頼める「お手伝い券」を作ったのだ。
私も子どもの頃に「肩たたき券」とかを母にプレゼントしたのを思い出し、この方法がロングランを続けているので嬉しかった。
夫は帰ってから、子どもの作ったプレゼントを一つ一つちゃんと見て、その「お手伝い券」にさっそく用事を書いていた。すると、子どもはすぐに注文が来たので得意になり、張り切って用事をしていた。夜遅くて子どもに会えない時など、カードに用事を書いて置いておく時もあった。
頑固おやじを通すといっていた夫は、子どもをよく怒るけれど、子どもたちはいくら怒られてもお父さんが好きなようだ。子どもは敏感に、自分を認めてくれる人を見分けるのかもしれない。
夜遅くに夫が帰ってきて「今日の星はとてもきれいだ」という。食事をすませてから外へ出てみることにした。まず玄関の電気を消して手探りで外へ。目が慣れないので、何も見えなくて怖いけれど真っ暗の中を歩く。徐々に目が慣れて周りの様子がうっすらと見えてくる。
家の周りは街灯がないので、今日のように新月で月明かりがないとまったくの闇なのだ。だから、今夜は一段と星が輝いて見える。目が慣れるにつれて、星の数が増えてくる。そして、輝き方もとびっきりに。満天に宝石をちりばめるとはこのことだと思った。プラネタリウムの星空は本当だ、それよりも星が多いかもしれない。天の川も白っぽく見える、いくら見ていても飽きないが、ずっと上を向いているので首が痛くなった。
遠くの方から、汽車の音が聞こえてきた。単線で1日に2、3回しか走らないのに、こんな時間に走ってくるのが意外だった。まるでメルヘンの世界だ。
汽車の小さい明かりが点々とつながって、音とともに動いている。遠くの山並みの上の空は、うっすらと明るくなって真っ暗な夜空に続いている。そして一面に輝く星は、落ちてきそうなぐらいだ。
そんな所で、汽車の明かりが見え隠れして走るのだから、これはもう宮沢賢治の世界だ。本当にこんな世界があったのだと感激するとともに、私たちはスゴイところに住んでいるのだと思った。
春の山菜採りの興奮が再びやってきた。今度は、秋の恵みのキノコや木の実だ。山菜採りもキノコ刈りも大自然からタダで頂く訳だからありがたい。というより、勝手に採ってくるなんて、都会では考えられないことなのだ。
キノコは畑や家の周りにもいろんな種類がある。ちょっと山に入るともっとあるらしいが、名前を知らないので採って食べるわけにはいかない。教えてもらって、場所もわかったのは、ラクヨウ、ヤナギタケ、ハタケシメジなどだ。2、3個採って大喜びしたが、地元の人は何本もビン詰めにしている話を聞いて、気合いの入れ方というか、体力の差を感じた。そして、どこにあるかという情報はなかなかわからない、よほどの親しい中でないと訊き出せないらしい。
ヤマブドウは、春にここに来た時から畑にブドウの木があるのを聞いていたので、夏に花が咲いて、秋の初めに青い実がついているのかを確かめて楽しみに見守っていた。2回霜が降りると甘くなるそうだ。やっと待望の霜がおりたので、早速収穫したが、実は小さくて少ないので、量が足らない。もっと採りたくて、山に行くことにした。
ブドウの木があっても必ず実があるとは限らない。高い所に実がついているので、採る方法が分からなく諦めたところもあるが、娘たちも連れて行ったので、ちょっと高いところだと、木に登らせて採った。そんな訳で、収穫したヤマブドウは、子ども用に手作りジュースと、果実酒に半分ずつ分けた。ほかにも、野イチゴを採って野イチゴ酒やシソ酒などを作った。

春に、雪の中から掘ってきたキャベツや大根を頂いた時、その長期保存の素晴らしさに感激した。神戸では、野菜の保存は冷蔵庫で、2、3日長くても1週間ぐらいなのに、6ヶ月以上保存されていたことになる。半年も保存できる方法ってどうするのかしらと興味津々、地元の人に教えてもらい、いろいろ試した。
ダイコンとニンジンを雪の中に保存したことがある。真冬に1メートルの雪を掘って取り出しに行く。掘り出したダイコンを雪の上に置いて、埋め戻しているうちに凍り始めるので、あわてて家の中に持って入ることになる。でも、この方法が一番鮮度を保っていた。雪中保存はちょっとたいそうなので、ムロでの保存が一番多い。物置や車庫では寒すぎて凍ってしまうから注意が必要だ。その点ムロは、低温で安定している。
塩漬けにすると常温で1年は大丈夫だ。山菜のフキなどに適している。冷凍保存も便利だ。トマトやトウモロコシ、マメ類などに利用する。秋に収穫が多いと、冷凍ストッカーが必要になる。漬物も欠かせない。ダイコンを干してタクワンも作ったが、干す時期が難しかった、早すぎたら上手く干せないし、遅すぎると凍ってしまう。挟み漬けも試してみた。ピクルスも作っておくと便利だ。
雪国の暮らしは、夏の間に冬用野菜も作って、秋に保存しておくのだ。スーパーにも売っているが、冬の野菜は高くていいものがない。だから保存の技術は、必要に迫られた知恵だった。
物置がなかったので、夏タイヤ2台分と自転車3台ぐらい置く所が欲しかった。
隣の奥さんが自分で作ったという物置を見せてもらい、私にも出来るかなと思った。ログハウス風にしようかと、春から木の皮を剥がして乾かしておいた木が何本かあったけれど、技術的に難しく間に合いそうにないので、買った材木で作くることにした。
一応図面を書いて、水糸を張って測量したが、作り始めると歪んでくる。物置だから、多少の隙間は大丈夫なことにした。そして、ちらほら雪が降る頃には何とか仕上がって、初めての冬を迎えるのに間に合った。自分でも上手くできたとご満悦だった。
冬になって物置はしっかり役目を果たしたが、驚いたのは、あの少しだと思っていた隙間だ。吹雪の後に物置を開けてみると、大量の雪が吹き込んで山のように積もっていたのだ。後に、隙間を塞ぐため不要になった布を貼ることになった。
北海道に来る前に一番心配していたのが冬だが、季節というのは急にやってこない。突然真冬のことを考えていたから不安でいっぱいだったことが分かった。秋の見事な紅葉が終わり、木々の葉が落ち、草が枯れると、遮るものがなくなり遠くまで見渡せるようになる。雨はみぞれになり、湿っぽい雪が大地を白くするが、すぐに消え、また雪が降る。何度も繰返して、やがて根雪になるのだ。降り始めの雪は、私たちも知っている、湿った重い雪だけど、真冬の雪は憧れのパウダースノーなのだ。
初冬に作った「かまくら」が、春まで融けずに残っていた。ということは、春まで広大な北海道が冷凍庫状態だったのだ。

マイナス気温といっても、その温度によって大変な違いがあった。マイナス3度、5度だと、暖かいなと感じる気温。屋根の雪も落ちやすくなり、落ちる時の音は、大きな雷のようで地響きもする。それが落雪の音だと分かるまでは落ちる度にびっくりした。
マイナス17度ぐらいになると、雪がサラサラになって歩くとキュッキュッと鳴り、雪だるまは、水を使わないと作れなくなる。外に出ると鼻毛が凍ってグズグズする。木々には霧氷がつき、まっ白に輝く。
マイナス24度を超えると悲惨だ。1年目は、車庫がなかったので、車の燃料が凍りエンジンがかからなくなった。バッテリースターターをしてみたり、熱湯をかけたりしてやっとかかった。4回ほどそんなことがあってから、気温が低くて晴れた夜は、エンジンを朝までかけておくことになる。
気温の言い方も、冬はマイナスをつけないで言うことが多い。逆にプラス気温の時に、プラス◯度という。
北海道のストーブはほとんどつけっぱなし。FF式なので換気の必要がなく、23度に設定しておく。寒い日は、いくら燃焼しても室温が上がらなく、いつまでも赤く燃えている。逆に0度に近い日は、部屋の中は暑くなりすぎて29度ぐらいになっている時もあり、夏よりも暑くなっているのだ。
はじめのうちは、このつけっぱなしに慣れるまで時間がかかった。
北海道の天気予報で、警報、注意報が出ていないとき「今日は警報、注意報は出ていません」とわざわざ言うのが変に聞こえた。それは、晴れが普通で、暴風雪は特別のことのように思っていた私の認識が違っていたのだ。
冬の天気は、晴れた穏やかな日は少なく、晴れていても急に雪が降る可能性もある。天気予報の警報、注意報は、とても重要な情報で、毎朝チェックする必要がある。
冬道運転は、天気をよく確かめて出かけないと大変なことになる。出かけていて吹雪に会うこともある。前が全く見えなくなり、それでも止まらずにゆっくりゆっくり走らないと追突される。大きな吹きだまりがなければまだ走れるのだが、ひどい時は通行止めにもなる。
猛吹雪の夜、夫が帰宅時に家の近くの国道まで帰って、町道に入り途中何度も雪に埋もれながら、2軒隣の家までなんとか帰って、そこからが進めなくなり泊めてもらったことがあった。
次の日、家の前には2メートル近く雪が積もって、雪かきをしても、一向に雪は減らなくて、除雪に半日かかったことがある。
冬も2月ぐらいになると昼間が長くなり、太陽の光も暖かく春の兆しを感じる。同じ雪景色だけど、真冬とは全然違って、グレーだった空の色は真っ青になる。早朝、太陽の光は真横から差し込み、朝日が部屋を直撃するので、とてもまぶしい。光が白い雪に反射して、家中の窓は電気のように明るく輝いている。
移住2年目の秋に車庫を手作りした。もちろん初めての事なので、本当に作れるか心配だったが、車庫なしの冬は大変なので、どうしても必要だった。夫と一緒にいろいろ考えて図面を書き、車2台が入る片屋根の掘建小屋を作る事にした。
私たちの計画を話すと農家の方が、古い電柱があるから持っていってもいいよと言ってくださった。木製電柱は防腐処理がしっかりされているので耐久性に優れているのだ。ユニック車も貸していただき、20本以上運んだ。
次は、別の農家の方が、砂利が敷いてある硬い地面を掘るのを心配して、小さいユンボを貸してくださった。おかげで、大きな柱が無事に建った。夫が休みの日曜日ごとに高い所や大掛かりな作業をし、子供たちは家事を手伝い、私は毎日、板の取り付けなどをして、雪が積もる冬までに完成した。
住宅ではないが、餅まきもすることになった。餅まきの習慣はなかったので、要領がわからないが、部落(町内会のこと)の方に声をかけ、おでんとお好み焼きでパーティーをし、車庫のお披露目も無事終了した。
北海道の暮らしに慣れて、ほぼ10年、
関西弁はとれないが、
気持ちは道産子に。
北海道のカントリースタイルマガジン
EastSide WEB版
「もりの絵日記」
(2005年〜2009年掲載)
をもとに加筆・修正しています。

流し台の下から水が漏れ出した。拭き取っても2、3日したらまた漏れ出す。町内の業者に修理を頼んだが、約束の日に連絡はなく、再度電話をしたが来てもらえなかったので、自分達で修理をすることになった。
横道にそれるが、このように、消費者サービスのルーズな対応は、移住当時ならとても不愉快だったが、地元のペースに慣れたのか、人間的に丸みが出てきたのか、あきらめも早くなった。
ここは原野で、家々は離れているので下水道はなく。家から排水管が川の近くまで埋まっている。途中何か所かにマンホールがあり、その底にヘドロが堆積して、水だけが流れるようになっている。ところが我が家の場合、排水管がつながっていて、全く掃除ができなかった。この、ずさんな工事の結果が、 11年目にして現れた訳だ。
夫は、流しの排水口からゴムホースを数メートル突っ込んで、水を出しながら入れたり出したりする方法を半日繰り返したが効果はなく、体から汗が出て筋肉痛が残っただけ。次は外に出てマンホールを開け、排水管を切り取ることにした。のこぎりで直径10センチぐらいあるビニール管を切ると中からは、白い石膏のような固まりが次々と出た。それを取り出し、後日、管の回りをセメントで補強して、やっと水漏れは解消した。
ところで、これがなぜ夏でよかったのかというと、もし真冬ならとてもこんなことは出来ないからだ。
以前、初めての冬に玄関の掃除をしたことがある。普段はほうきで掃くだけだけど、水を流すときれいになるので時々そうしていた。二重玄関の内側はうまくいき、外側をやり始めたら、あっという間に水が凍りついてしまった。
その時点で自分がバカな事をしたと気付いたが、もう遅い。熱湯をかけたが、拭き取るまえに雑巾も一緒に凍ってしまう。ドライヤーの熱風を当てても追い付かない。最後には小型石油ストーブを持ってきて数時間暖め、やっと掃除を終えたことがある。このように夏と冬の暮らしはまったく違うから、油断はできないのだ。

ネズミが、家の手作り物置に住み着いたことがあった。生ゴミを置いたのをきっかけに、土を掘って床板をかじって入り込んだ。毒入りエサやネズミ取りを仕掛けたが、まったく効果がない。外の物置だから住宅には入れないと高をくくっていた。
ところが10年経った年の暮れに、床下のムロに保存しているジャガイモがやられた。段ボール箱に入れたイモがかじられ、さらには糞までしてあったのだ。
食事もトイレも同じ処でするのか、とネズミの行動にあきれていても仕方がない。最高の越冬場所を見つけて得意になってるネズミには悪いが、我が家にとっても越冬野菜を保管する大事な場所だけに、取られるわけにはいかないと、リベンジに立ち上がった。
まず進入路を推理した。ムロといっても床下スペースにシートを張った手作りなので、いったん床下に入ればムロには簡単に入れる。念のために床下換気口(格子付き)を調べたが大丈夫だった。やはり、あの物置から穴を掘って入ったにちがいない。
物置の荷物を全部出すのは大仕事だが、雪が降る前にしなければと実行した。床板を外して心当たりの所を調べたが穴を掘った形跡はなかった。裏をかかれたというか、エサもない物置にいつまでもいるわけがないのだ。もう一度、家の外壁を一回りして、よく観察した。多少傷んだ所はあるがネズミが入り込めそうなのは、玄関横の穴しかなく、侵入口はそこだと断定した。
次は何を仕掛けるかだ。低温に強い粘着シートのネズミ取りを買ってきた。1回で成功させなければ、越冬野菜が全滅してしまう可能性もあるので慎重に考えた。ネズミの通路は分からないが、段ボール箱の中には必ず来るのだから、そこに仕掛けることにした。イモを全部出して粘着シートを張り、イモを1個づつ入れた。
二日後にムロを恐る恐るのぞいた。次の日でもよかったのだが、かかってなかったらがっかりだし、かかっていたら恐いし躊躇していたのだ。3個に仕掛けたうち、2個の箱に1匹ずつかかっていた。
もう雪が積もり始めていたが、玄関横の穴にはセメントを詰めた。それからは被害にあってないのでネズミ退治は成功したと思う。
外は一面真っ白い雪におおわれキラキラ輝いている。夏に作った野菜を保存し冬に食べる。こんな雪国の知恵は質素で素敵な生き方だと思うが、その裏側には動物たちとのさまざまな事件がある。
玄関前に小さな花壇を作った。春、花を植えるまでは何も咲いてないので、チューリップがあれば雪融けと同時に芽をだすから、楽でいいだろうと考えていたところ、近所の人が「裏にあるチューリップを持って行っていいよ」と言ってくれた。
球根を傷つけないように、花から少し離してスコップをいれた。掘っても掘っても白い茎が続いている、あまりの深さに驚いた。長い地中の旅を終え地上に出たチューリップの力強さに敬意を払って、ていねいに球根ごと掘り出した。そして、我が家の花壇の前二列に並べて植えた。
次の年からは、予想どおりに、春になると自発的に芽を出し、赤と黄色の花で明るく飾ってくれた。手間いらずだと喜んで、しばらく春の花壇はチューリップにまかせた。
数年たち、挿し木したり苗を植えたりして育てていたラベンダーが、大きくなったので、チューリップを他に植え変え、花壇はラベンダーだけにした。
ところが次の年、球根を取り去ったはずのラベンダーの間からチューリップの小さい葉だけが出ていた。小さな球根がまだ残っているのだろうと気に留めなかった。ところが土の中では順調に育って、春になると、花をつけ一人前に自己主張しはじめた。
以前農家の人が「捨てたチューリップがあんなに出ているんだよ」と、土手に咲くのを教えてくれたことがあったのを思い出した。
球根の中に養分を貯めて、どんな環境でも乗り越え、春には奇麗な花をつける。人間に見放されても、自力で生き延びるたくましい生命力。
北海道の大地はそんな生き物の命であふれている。私たちも、もっと素直に、自分の中にある生命力を信じて、人間らしい華を咲かせたい。
神戸で多くの友だちと遊んでいた娘たちだが、北海道に移住してからは友だちがいなくなった。当時、長女は小学5年、次女は3年。地元の子は2人だけの全校生徒が7人の小学校だ。山村留学とニューカントリー制度という過疎対策で学校を存続させようという計画だった。
複式学級だが、先生は二学年同時の授業を見事にされて、子どもに待ち時間を感じさせないよう工夫されていた。管内で開催されるマラソン大会への参加も積極的に呼びかけて、子どものやる気を引き出し、放課後も熱心に練習してくださった。
児童数が少ないから、学校活動の委員は全員が担当する。親も学校行事を手伝い、参加もする。小学校は子どもの為だけでなく、地域の文化をも牽引しているような存在だった。
学校から帰宅しても、近所に友だちがいるわけではないので、夕方まで学校で遊んでくることが多く、子供なりに順応してよく頑張っていた。
それでも、児童数の減少は止まらなく、次女が6年になった時、全校生徒は2人だけになってしまった。校舎の窓には、外から見えるように「二人だからがんばろう!」のスローガンが掲げられ、学校最後の前向きな姿勢をアピールしていた。
どうすることも出来ない現実を前にして、私は可哀想だという気持ちを押さえて励まし、我慢させるしかなかった。次女の卒業式は、幌萌小学校の閉校式の日でもあり、同級生がいない学校生活最後の日になった。
数年後、ご近所に都会から引っ越されたお子さんがいた。ひとりでつまらなさそうにしている様子が痛々しく感じられ、娘たちの事と重なった。寂しかったのかなと、改めて考えてしまった。自分で環境を選ぶことの出来ない子供にとって、親の責任は、私が思っていた以上に大きいものだったかもしれない。
二〇〇五年の夏、長女は教育実習、次女は地元での就職試験のために東京から帰省し、改めて、彼女たちの故郷が神戸から北海道に変わったのを実感した。
娘たちが高校を卒業してから、夫婦二人だけの生活になっていたのが、急に慌ただしくなった。 私は、それぞれのスケジュールに合わせて、車で片道30分と、1時間半の送迎をすることにした。これは交通が不便な過疎の町での必須条件ともいうべきものだが、それが日常だった頃とは違って、気分的な余裕もあり楽しみだった。
北海道暮らしを始めた頃、都会なら一人で行動できるようになり、徐々に電車やバスを利用して行動範囲も広がる年齢だった。でも、ここでは公共交通機関がないから、学校を卒業するまでは、親の車での送迎が必要なのだ。
娘たちの小学校は徒歩15分位のところにあった。夏は自転車で冬は雪の中を歩いて通学した。中学はスクールバスが運行され、高校は路線バスと町のバスを乗り継いでの通学になった。ところが、それ以外は文房具や遠足のおやつなどを買うにも、友達と遊ぶにも、すべてに車が必要なのだ。夏休みや冬休みには子供会活動も活発で、親も応援をかねて同じように付合うことになる。
高校生になると、1日数本のバスや汽車を利用するようになるが、駅までの送迎がないと行けない。親も大変だったが、子供たちも自由に行動できないところで高校までよくがんばったと思う。
地元の人は、「子供が学校に行ってる時だけだよ」とその忙しい子育てをにこやかに表現していたのを思い出す。都会なら必要のない送迎だけれど、親がしてやれる楽しみの時間でもあるのだ。
私たちは移住など全く考えなかった時に、偶然にも北海道を一周している。季節は5月の連休で、新婚旅行だった。時期が早すぎて観光地はひっそりしていたが、小さな町や港でも、働く女性の姿が目に付き「北海道の女性は大変だな」とぼんやりと思ったのを覚えている。
その感想が正いと分かったのは、移住してからだ。へき地だからアルバイトなどないだろうと思っていたが、すぐに仕事を紹介された。その時は、子供たちが、まだ小学生だからと断ったが、ここでは仕事の世話をするというのは、よくある親切なことだと後で分かった。
1年ほどした頃に、隣の農家のビート(てん菜)の手伝いを頼まれ、数日間やることになった。もちろん初めてのことで、ビートの苗を運ぶのさえ重くて大変だったが、とにかく頑張った。うまくできなくても都会から来て一生懸命しているだけで評価されたようだ。それからというもの不思議なことにいろんな仕事を頼まれるようになった。
ダイコン抜き、土木作業、防雪柵の撤去、冬の測量の手伝い等。いずれも始めての事ばかりで、見よう見まねで、頼まれた期間は休まずに働いた。体力がないからヘトヘトに疲れるが、青空の下での仕事は珍しく面白かった。
農家の方は働く事を「かせぐ」という。お金を得ることに直結しているのだろう。そして女だから出来ないとは言わない。主体的に、体力を競っているようにも見える。私も移住当時に比べると、少しは体力がついたけれど、長く続けるバイタリティーはなかった。
外の仕事は一時期だったけれど貴重な経験になり、私の職業観を完全に変えてしまった。若い頃は、好きな事を仕事に出来ることが重要で、職業がグラフィックデザインだということに満足していた。ところが、その安いプライドがくずれ、私の偏った職業観を気づかせてくれた。
私たち家族が神戸から移住した3年後に、夫の母も神戸から来て同居することになった。遅れた理由の一つに、通院する病院の心配があった。C型肝炎の定期検査や薬の処方は、片道約30分で行ける町立病院で可能なこと。もし悪化すれば旭川の病院で治療できることがわかり、来ることになったのだ。移住後は、積極的に老人大学やゲートボール、旅行などを地域の高齢者と共に楽しんでいた。
それでも、病状はゆっくりと肝硬変から肝がんになり、往復6時間ほどかかる旭川の病院での入院治療が必要になったが、治療が終われば普通の生活が続けられた。肝臓専門の担当医からは丁寧な説明も受けることができ、いい医者に恵まれたと安心していたが、その信頼は崩れた。
いつものように旭川の病院に入院して肝がんの治療も終わりに近づいた頃、がんが脊髄に転移した。抗がん剤治療などをしたが下半身麻痺はとれず、痛みを取り除く緩和ケアもしてもらえず苦しい治療のみで、義母の不安は「ここにいると殺される」と言うほどだった。そして、本人も希望している天塩の病院に移ることを勧められた。退院するとき旭川の担当医は「食べれるようになれば、また元気になります」と言って送り出してくれたが、天塩の病院に着くと、いつ急変してもおかしくない状態だと告げられた。そして深夜に亡くなった。
あの言葉は何だったのか。肝臓だけはまだ元気に働きますよとでも言いたかったのかしら、それとも漠然と希望を持たせるだけの言葉だったのかしら。
義母にしても私たちにしても死は突然やってきて「ありがとう」も「さよなら」も言えなかった淋しさは消えない。私は義母の死をとおして、生きることを真剣に考えた。そして病気や医療に関していかに無知だったかを思い知らされた。それからは機会あるごとに関心を持つようになった。
医療の地域間格差を実感したのは、その2年後、神戸の兄が亡くなったときだ。
兄も偶然義母と同じ病気で同じような治療を続けていたが、春に余命を告げられ、秋に亡くなる数時間前には病院から連絡があり、家族や姉たちみんなに看取られて息を引き取ったと聞いた。
実家に帰省したとき姪から父親の思い出話を聞いた。それは、庭の木を剪定するとき、いつも小鳥が止まっている枝は切らないこと。その向こう側には茂みがあって、大きな鳥から隠れる場所になっているからだという。私の知らなかった兄の大きな優しさを知り、私はそういう見方をしたことがあっただろうかと考えた。
そこで、風車に衝突する野鳥の記事を思い出した。あの広い空でなぜ避けて飛べないのだろうと思ったが、鳥の目線で見たら、生息地や渡りの経路などに突然風力発電の大きな風車が現れたら、ぶつかるのは理解できた。
動物の交通事故も同じだ。移住当時は車にはねられた動物に驚いて「なぜ、動物がわざわざ道路に出てくるのだろう」と思ったこともあるが、それも人間中心の考えだと分かった。
相手の立場を気遣ったり、自然や環境を考えることは、知っているから自分にも備わっていると思いがちだが、表面的に流行の一部のように捉えている場合がある。
おもいやりとは、漢字を覚えたり算数の九九を暗記する時のように、繰り返し練習し、意識していないと身に付かないものかもしれない。
始めて家庭菜園をしたとき、豆が殻をつけたまま発芽する様子や、ツルを巻き付けながらどんどん伸びていくのが面白く「ジャックと豆の木」の作者もこれを見てアイデアを練ったのかなと想像した。キャベツの葉を食べるアオムシは「はらぺこあおむし」のモデル。いろんな絵本のお話が畑から生まれたのかもしれないと考えると、ここは絵本の素材にあふれていて、なんでも出来そうな気がした。ところが、いつまでたっても私の畑から絵本の主人公は登場しない。
これも、ものの見方に関係していたのだ。ただ感動しているだけでは変わらない。想像力を豊かにするには、なんでも興味深く観て。時にはベンチにゆっくり座って、感性を育てる習慣も大事かもしれない。
焦ることなくマイペースで、小枝の向こうや土の中からから、可愛い主人公が躍り出て絵本で活躍する日がくることを信じて、私の畑や草むらや木の茂みを眺めてみたい。
夏に神戸へ帰省したその帰りのことだ。いつもなら車で空港まで往復するか、JR宗谷本線の特急が停車する駅を利用するのだが、今回は、稚内駅から普通に乗り雄信内駅で下車することにした。
この駅は我家から約7キロの最寄駅で、一両のワンマン列車が、上り下り各5本停車する無人駅。駅前の民家はすべて廃屋になり、少しぐらい歩いてもまったく人には出会えない何もないところだ。それでも、運転免許を持たない子供や高齢者には欠かせない交通機関となっている。
私も以前は娘たちを送ってこの駅に来たことは何度もあるが、不便で物騒な駅というイメージしか持ってなかった。
その駅で、40分ぐらい夫の迎えを待つことになった。
まだ旅行気分がぬけないのと、神戸の暑さに比べれば涼しく晴天で気持ちがよかったので、旅先で小さな駅に降り立ったように、荷物を置いて腰掛けた。
時刻表や大きなポスターはまだ新しいが、天井や窓や壁にはクモの巣があり、蛾などの虫がくっついている。あまり気持ちのいいものではないが、北海道の夏はあらゆる虫が活動するのでここだけが特別でもない。
閉切った切符売り場の横に紙が貼ってある。そこには手書きで「待ち時間のある方は掃除をしてください」とあった。少しためらったが、ていねいな文章に心が動かされ、箒を持ち掃除した。
少しは居心地がよくなって、駅に置いてあるノートをめくってみた。古いものかしらと思って見たら、前日までの書き込みがあり、どれもきれいな字でまじめにコメントを残している。
/一泊させていただきました、ありがとうございます/8年ぶりに訪れてとてもなつかしいです/昔の栄えていたころを想像します/いつまでもこの駅がなくなりませんように/など。そして、雄信内老人会の名で、掃除をしたことが数回記されていた。
鉄道ファンや徒歩で無人駅を訪ねる駅愛好家がわくわくしながらこの駅を目指し、感動して去って行く。過疎の壊れそうな駅が、いろんな人とつながっているのを知り、暖かいものを感じた。
日常の生活からはなれて目線を変えると、忘れかけていた旅情とともに、今まで見えなかったものが見えてきた。
移住が決まった時、絵は絶対続けたいと思った。特殊な画材が手に入らないと困ると思い、できるだけ多く買い込んで持ってきた。もう一つの心配は、アート仲間がいなくなることだった。
ところが、神戸にいる時から描いていたトリックアートが縁で、札幌の作家と知り合いになり、「ボレアス展」に参加することで発表の場は生まれた。画材の方も、移住翌年に、天塩町から姉妹都市提携(米国アラスカ州ホーマー市)10周年記念の絵120号を依頼され、キャンバスやアクリルガッシュなどを通販で入手可能なことがわかった。
その後、福井県三国町の「トリックアートコンペ」、KFSアートコンテスト、ワコールのOPPAI ART LAB πr展、講談社発行の「イラストック」掲載など、絵を描き続ける機会に恵まれた。
私の絵は、人体や線がモチーフだったけれど、菜園で育てている野菜たちが登場するようになった。アイデアが浮かべば、すぐに畑に行ってスケッチできる手軽さはラッキーだった。キュウリやナスビのトゲまで見えるのに驚き、よりリアルになった。
一九九七年は、小学校の閉校が相次ぎ、その施設活用案が求められた。海外では、田舎の地域全体を会場にした展覧会の開催が話題になり始めていたので、私は夢を大きく膨らませて案を考えた。現代野外彫刻展や芸術村の構想などで、地域住民もかかわって文化交流ができればいいと思い、教育委員会に提案した。しかし返答がないまま二年が過ぎたので、実行可能な範囲で新たな案を提出した。結果的には、私たちの作品と私たちが依頼可能な神戸の作家の作品で、第1回「アートinてしお」を開催した。
旧小学校の体育館と廊下を使って、夫と私の新旧作品を中心に展示。神戸の作家には無償で参加してもらった。国道40号線には看板を設置、折り込みチラシや回覧板などでアピールした。日本のてっぺんを目指す旅行者が立ち寄ることを期待したが、予想は全く外れた。町内や役場の人、子供も含めて約50数人の来館者だった。
翌年、旧小学校は地区社会教育会館と名前を変え、以前から勧められていたアトリエとして私が利用する事になった。職員室と校長室を整理し制作できるように準備した。誰もいない静けさの中で、窓の外の草だらけの運動場を見ていると、野鳥が自由に降りてきて、また飛んで行く。夢はまた膨らんで、芸術村の第一歩になればいいなと思った。
第2回はアートビレッジ幌萌のオープン記念展と銘打ち、私のほぼ全作品を年代別に3つの教室に展示した。今まで押し込められていた絵が、初めて一堂に展示された訳で、なかなか良いなと、無謀にも常設展にしようと決めた。自分の知名度の無さや、牛しかいない地域だという事を忘れていた。
会期が終わって誰も来ないまま月日が過ぎていくと決意も弱くなる。時々ひとりで両手を広げ、廊下を歩いて各教室を見回ったら、絵に虫の糞が付かないかと気になり、窓際の作品は色が変色しないかと降ろしてみたりして、ついに、無理だ! とあきらめ。作品は保存室に収めることになり、常設展は断念した。
第3回からは「ウッディアート」を中心に、第4回は、会場を町の中心地に変えて開催。第5回は「おもしろ工作教室」を開催し、子供の作品も一緒に展示した。第6回は、神戸の作家の作品と、子供たちのフロッタージュ作品など。第7回は、どんぐりの森林からをテーマに。最終回になった第8回は、私のトリックアート・線の作品を展示した。
我が家の裏に、大きなオニグルミの木がある。木の下はササなどが茂っていて、実がなっても取るのは大変。収穫の秋に備えて、夏にササを刈って準備したことがある。
さすがに、その時はたくさんの実を拾った。緑色をした実を土に埋めて、種の周りを腐らせてからきれいに洗うと、あのクルミになる。でもこのオニグルミは、市販のクルミの様にはうまく割れない。いろんな方法を訊いたけれど、やはり、割ったときに殻のかけらと実が混ざってしまう。それを選り分けて実だけを集めるのが大変なのだ。
味はおいしけれど、苦労のわりに食べるところが少なく、あきらめることが多い。その結果、残りのオニグルミは、食べないでそのまま置いておくことになる。
オニグルミは実が好きなだけではなく、木そのものも大好きだ。四季を通じて見ていると親しみを感じる。冬は枝だけになり、春は葉っぱより先につぼみが出て、夏は青々と茂り、秋にはいっぱいの実を付ける。落ちた実は庭や畑などいろんな所で芽を出しているのを見かける。発芽から大木になるまでの一生を、こんなにも身近かで観察できるのは感激だ。
近くに何本かある大きなオニグルミの木。そのひとつが旧小学校の校庭の横にある。ちょうど学校の畑を借りて野菜を作っていたときに、はじめてオニグルミの発芽したのを見たときの感動は鮮明だ。あっ! ここにも! あそこにも! と、畑のあちこちから顔を出しているのだ。エゾリスが埋めて忘れたのだと思うとおかしくなってきた。しばらくは取らずにそのままにしておいたが、キャベツなどの野菜が大きく育ってくると、畑の野菜の邪魔になるので、オニグルミには遠慮してもらうことになり、抜いてしまった。
その他にも自宅の畑や花壇、掘建て小屋の車庫の中でも芽を出していた。人間に見つかると、膝丈ぐらいに伸びた苗でも抜かれてしまうのだが、目につかないところでは、しっかり育ち、成長して実を付けている。夏に、まだ細い木なのに、緑の小さな実を付けているオニグルミを数本見つけた。
あちこちで発芽しているオニグルミを見ると、エゾリスがせっせと働いているのがわかり、想像すると面白くなる。エゾリスの植樹作業は着々とすすんで、子孫のために次のオニグルミを育てているのだ。
シートンによると、ずっと昔にリスと木が約束をして、リスが埋めた実の5%は食べないで埋めたままにしておくことになったというが。今も変わらずに守って、受け継いでいることはすごいことだ。
私も、厚かましく取って、めんどうだからと捨てるのは不謹慎かもしれないが、私が捨てたオニグルミもやがて芽を出しているのだろう。エゾリスと同じことをしている。
そうなると、オニグルミが一番したたかに生きていることになる。ますますオニグルミのファンになりそうだ。
田舎暮らしの地理的ハンディキャップは、インターネットでカバーできると考えていたが、すぐには実現しなくて、十年以上経った二〇〇七年夏にブログをスタートした。
創作絵本を発表する場が欲しくて、「だいこんママのアトリエ」とした。パソコン操作は不慣れで上手く出来るか不安だが、迷った時は、まずは行動することにした。
日頃の出来事などを週に2、3回更新。WEB絵本「イマムシちゃん」も、順次製作しながらアップした。絵本の内容は、過去・現在・未来が同時に見える虫のお話で、過去や他人は変えられないけれど、今の自分は変わることができる事を、イマムシで表現した。
ブログは、数ヶ月してもアクセス数は少なく、コメントもなく、手応えのない状態が続いた。あんなにわくわくして始めたのに、その熱意は薄れ、落ち込んでしまう。収入につながる仕事でもないのに義務的に描くなんておかしい。そこで、やる気とか意欲といった自分の中の力について考えてみた。
若い頃、友人や知人の個展を見に行くと触発されて創作意欲がわくのだが、長続きしない経験が何度かあった。そのとき、自分の中でやる気を自家発電できればいいのにと思ったことがある。常に活躍している人には、やる気の自家発電機があるのだと感じていた。それから長い年月が過ぎて、見えてきたのは、だれでも自分の中にその自家発電機を持っているということだ。ただそのカタチが違っていた。コンセントに差し込めば動く便利なモノではなく、薪ストーブのように自分で薪をくべなければ燃えないのだ。そして、落ち込んだ気持ちや失敗、焦りや絶望が薪になるのだ。それをそのままにしていると、ただの憂うつが続くが、それに気づき、勇気を出して薪をストーブにくべると燃えてエネルギーに変わるのだ。薪をくべる作業をしないで、他に自家発電機をいくら探しても見つからない訳だ。
ブログの方は、落ち込んだりコメントに励まされたりしながら続け、WEB絵本「イマムシちゃん」は、百回まで更新した。その他、毎日更新した期間もあり10年ほどで、ブログの画像がいっぱいになり中断。その後、BCCKSで何冊か、本にまとめた。
大阪の友人が、素敵な雰囲気の店「ティールーム&アートギャラリー・エムズ」を開店した。年2回の企画展には参加していたが、二〇〇八年5月に個展をすることになった。北海道に移住して以来、関西での個展は25年ぶりになる。
今回は旧作品の中から選ぶことにしたので、準備といっても、作品を選んで梱包するだけでよかったが、絵が傷まないように、なおかつ軽量コンパクトにと考えていると以外に時間がかかり、関西が遠くなったことを実感した。題名や略歴の用意をしていると、毎年個展をしていた若い頃の緊張感とわくわく感がよみがえってきた。
個展に合わせて神戸に帰省。個展会場で再会する友人との会話は「変わってないね」から始まる。絵の話はもちろん、友人の情報、そして健康や年金の話題まで、おしゃべりと笑いで楽しいひとときを過ごした。
個展をして本当によかったと感じたのは、多くの人が「観させてもらって、ありがとう。」「楽しませて頂きました。」と喜びの感想を寄せてくれたことだ。
私の方こそ、「観に来てくれて、ありがとう。」と感謝の気持ちでいっぱいだったから、逆にお礼を言われてとても嬉しかった。
昔は、絵のユニークさや専門家の評価が気になっていたが、心のふれあいをつうじて、最も大事な「何のために絵を描くのか」ということを見つけた気がした。わざわざ大阪で個展をしたこともあるだろうが、遠く離れても絵を続けていたこと。それも自分らしく、自分の価値観をしっかり持って、回りに流されることなく、先を見つめて進むことの大切さを、あらためて強く感じた。
絵を通して、元気の素や前向きな力を伝えることを、これからも大切にしたい。
家族で北海道に移住したが、娘たちは高校を卒業すると東京の大学に進学した。長女はそのまま東京で就職して、結婚することになった。娘が選んだ結婚式場は、私たちのことも考えて北海道の旭川に決めた。
北海道らしい料理が自慢のレストランということだった。私たちは当日、地図を頼りに走り、市街地から離れ民家も少なくなったところで見つけた、素敵な建物がそれだった。外観を見ただけで、娘がここを選んだ気持ちが伝わってきて、道外で暮らす若者の志向が感じられた。
次の日は、私たちだけで富良野に行くことにした。北海道に暮らすようになって、買物や病院以外で外出することは少なかった。というか、通勤の移動時間だけでも、毎日が北海道観光の気分で満足していた。でもせっかくだから足を伸ばして、一度見たかった「北の国から」のセットを見に行った。
もう,時期もずれているから閑散としているだろうと思ったが、多くの観光客がいて、「ああ、これ見た!」と言う声も聞こえた。
私も、神戸に住んでいるときからテレビで「北の国から」を見ていた。ドラマの場面で、子供の蛍と純が草原で遊んでいるときに、ひょこっと顔を出すキタキツネを見て、苦労して撮影したのだろうなと思っていた。
ところが、私たちが北海道に移住した春に、台所の窓から見える牧草地で,子ギツネがじゃれて遊んでいるのが見えたのだ。また、通勤途中にもキタキツネに会うことがよくある。あのドラマの撮影が北海道の生活そのままだったのだと納得し、北海道で見る「北の国から」は、神戸で見ていた頃と違った印象になった。
ドラマの内容にしても、火事になったり,借金を抱えて牧場を売ったということは、身近かな事件としてうなずきながら見るようになった。まだまだ道民になりきっていない部分もあるけれど、いろんなものの感じ方が少しずつ変わってきたのを実感する。
夫婦間でマイブームになっている会話がある。「ちょっとピリピリするわ」と私が言うと、夫は「うん、そんなもんや〜」と笑って答え、時には外科手術の治り方も説明してくれるというものだ。
これは、私も手術をしたことで、へき地での医療経験を共有し、きずなを感じるようになったからだ。
夫は二〇〇〇年に、土木作業の仕事中に足下に大きなブロックがくずれてきて、怪我をした。すぐに町立病院に入院して、足親指の飛び出した骨を戻す手術をしたが、血管がつながらない。私は旭川の病院への転院をすすめたが、夫はここで良いと言って病院を変えなかった。薬と点滴を続けたが指は紫色になるばかりで、4週間ほどして切断することになった。
町立病院は自宅から一番近い病院で、片道30分ほどで行くことができる。それも考えて夫は転院しなかったのかと思いながら、私は毎日見舞いに通って夫に会うことが出来た。
私の場合は八年後の暮れに、片道1時間半ほどの稚内の病院で乳ガンと診断されたのだ。始めは落ち込んで悲観的だったが、「病気に負けないで!」という友人の励ましが力になり、姉の応援と夫の協力で乳腺専門外科のある札幌の病院に入院する事になった。手術法は入院期間が少ないのを選んだ。というのは通院治療でも、遠方の私は入院しないとできないから、一度の入院ですむようにしたかったのだ。
入院中の見舞いは、片道6時間かかるので私の方から、ひとりで大丈夫だと言った。事実、看護師さんの笑顔に支えられて何の不自由も感じなかった。
医療に関しては、都会に住んでいたら考えられないような制約があり、自宅と病院の距離は老後の生き方をも左右する一つの問題なのだ。でも一つハードルを越えると、以前の自分がひ弱だったことを痛感し、思いもよらないことで夫婦のきずなが深まることになった。
神戸に住む母にとって北海道は、まるで海外と思えるほど遠く感じていたようだが、私は度々帰る余裕もなく、母のことは姉たちに頼りっぱなしだった。離れていても何か母のためにしてあげたいと思っても、なかなか実行できなかった。
ところが、私が病気を経験して、普段の生活に戻ったとき、毎日を無駄に過ごしたくない、人の役に立つ絵が描きたいと切実に思い、以前とはまったく違うモチベーションで、母へのプレゼントを創ろうと決めた。
プレゼントは「MITUKO宝の百年」。母の生まれた明治43年から99才までの人生を百枚のカードにした自分史のようなものだ。昔を懐かしんで、来訪者との話のきっかけになり、楽しいひとときが過ごせることを願って考えた。
資料集めは、母に原稿を頼むことから始まった。年齢を感じさせない、しっかりした字で書き送ってくれた。分からないところは、関西に住む姉たちにも協力してもらい、電話で何度もやりとりをする楽しい作業となった。
母の生きた一世紀の歴史を調べていると、私自身の歴史認識の無さを痛感し、すごい時代に生きていることを改めて感じた。年に一つの絵を決めてスケッチし、100枚のカードに仕上げ、贈った。
その年、大阪のティールーム&アートギャラリー・エムズで「MITUKO宝の百年」展もすることができ、来場者からは共感のコメントを頂いた。
孫とともだちになる家族新聞「孫TOMO通信」も製作した。第3号まで発行し、母と10人の孫をつなぎ、神戸で介護している義姉への感謝を伝えた。
その後、カードは102才まで贈ることができた。
夏も冬も北海道の週末は、どこかでイベントがある。小さな町でもいろいろやっているのだ。娘たちが小学生の頃、近くで仮装ソリ大会があった。型はダンボールで作り絵を描いて参加した。
冬の魅力は多いが、マイナス15度を超えると、とびっきりの自然現象がある。霧氷はすべての木々が真っ白になり、太陽の光にキラキラ輝く。そして空気中の水分が凍るダイヤモンドダストやサンピラー。どれも真冬の素敵なプレゼントだ。
冬の遊びの代表は雪像。雪はサラサラだから水を混ぜないとくっつかない。アイスキャンドルはバケツに水を入れて一晩おいて、中の水を捨てると作れる。
そしてマイナス20度近くになると作りたくなるのが、カチカチTシャツ。水はすぐ凍るので、なんでもカチカチになってしまう。Tシャツなどを水につけ外に置くと、みるみるうちに凍る。念のため5分ほど外に置いてから雪に立てるか、木などくっつける。でもこのチャンスに恵まれるのは、ワンシーズンに3、4回しかない。
体に感じる大自然の広さは
心の芯までいやしてくれる。
気分は、すっかり地元住民‥‥。
私たちが移住を決めた天塩町は、北海道地図でやっと地名を見つけたほどの小さな町。何もないと感じた当時に比べると、町の様子は少しずつ変わり、コンビニやスーパーも出来た。そして二〇一一年、酪農地帯の国道40号船沿いに、チーズ工房が出来た。
私は、ロゴ・マークを創ってほしいと頼まれた。名前は「べこちちFACTORUY」。ご近所だし依頼された事が嬉しくて、オープン祝いに創る約束をした。
久しぶりのデザインワークにワクワクした。現役でしていた頃はパソコンが登場する以前だから、外注でしか出来なかった諸々の作業も、今は全てパソコンで出来るので、快適で嬉しくて仕方がない。
まず、たたき台として、何案か創ったが、どうもピッタリこないようだ。何度か創り直して、徐々に決まっていった。以前の私と比べて、クライアントの要求に素直に応えている自分を感じた。還暦を過ぎると人間も丸くなるものだと納得。
パソコンで全て出来るのはいいのだけれど、なにしろ大昔の元デザイナーだからパソコン操作もシドロモドロ。看板原稿をメールで送信するのもドキドキしながら、教えてもらいながら操作した。そして無事届いた時は、文明の利器に感激する始末。
そんな訳で「べこちちFACTORUY」は、私にとって30年ぶりにデザイナー気分を味わい満足した時を提供してくれた。
ところで、これが六次産業だと知ったのは、名刺のデザインをしている時だった。牧場名とチーズ工房の名を両方入れてほしいと言われたのだ。牧場とは別個だと思っていた私は、認識の無さを思い知った。
搾った牛乳だけを出荷するのが一次産業の酪農。ほとんどの牧場はこの一次産業だ。そして、自分の牧場で搾った牛乳を使ってチーズやソフトクリームを作るのが二次産業。それを販売するのが三次産業。それを全てするが六次産業になるという訳だ。
チーズ工房責任者の詩穂さんがパンフレットに書いている「べこちちFACTORYのこだわり」を引用すると、
『本当の牛乳の美味しさ、そして素晴らしさを知ってもらいたいという想いから、徹底的に「手作り」にこだわっています。
原材料の牛乳は、隣にある「渡辺牧場」でその日に搾られた、まさに新鮮な「自家製生乳」です。天塩の牛達は、広大な敷地でのびのびと健康に育っているので牛乳もとっても美味しいのです。
ぜひとも、この本当の牛乳の美味しさを楽しんでください。』
広大な牧草地が広がるここ酪農地帯は、ほとんど何の変化もなく時が流れてきたように見えるけれど、後継者が育っている牧場がある反面、離農された牧場もある。そして、この留萌管内初のチーズ工房が誕生しのは画期的なことだと思う。
都会のようにセンセーショナルな変化ではないけれど、このスロウな動きが好きだ。そして自然と共存しながら力強く進む予感がする。
2011年10月1日 発行 初版
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