spine
jacket

───────────────────────



キミは応挙か。

上田善隆

zenryu出版



───────────────────────

キミは応挙か

我が家の不動尊像



応挙という落款がある不動尊像

 「応挙」と読める落款がついた不動尊像が我が家の仏間にある。前から気になっていたのだが、この不動尊像をじっくり調べてみたいと思った。
 とにかくこの絵は怖いらしい。らしいというのは、自分はあまり感じないが何人かの人がそういうのだ。妻も近寄らない。しかし大切にしなさいよと言われてきた。僕の家の守り神だからと。僕の40歳前半までは、つまり祖母が生きていたころまでは、いろいろな人がお盆やお彼岸に拝みに来ていた。
 まずは「おだいっさん」(お大師?さん)と祖母が呼んでいた人。京都の狸谷から来られていたと思うのだけれど、とにかく拝み屋さんだ。黒い着物を着ていて長い数珠を持って、我が家の仏間で護摩を焚いていた。我が家は昭和36年(僕は中学1年)に長岡京市に引っ越したのでそのころまでのことだ。

 そのとき我が家は京都市上京区新町の京都特有のウナギの寝床のような普通の町家で、しかも借家だった。玄関を入るといきなりまっすぐに伸びた長い石の廊下があった。右手は二階へ上がる階段。左は父が書斎というか仕事場というか、とにかく大きな机がでーんとあり、図面台があった。雲型定規やT定規、烏口がたくさんあった。建築屋さんだが住宅公団に勤めていたので、そこで仕事をしているのはほとんど見たことがない。廊下を進むと次の部屋は食事場でちゃぶ台があり、押入れの上には神棚が3つあった。さらにその石廊下を進むと二つの竈と炊事場があり、奥の扉を開くと便所があり、庭へと通じている。
 神棚のある食事部屋の奥隣は8畳の和室で仏壇と、不動尊が祀られている厨子、床の間があり、その奥は庭に出る廊下で便所へと続く。食事の前はまず食事室の上の3体の神棚に手を叩き、仏壇に手を合わせ、つづいてお不動さんに念仏を唱えた。

 毎月来るお大師さんは、天井が煤ける程の炎で護摩を焚いていた。井の字型に組んだ護摩木に火をつけ拝みながらさらに護摩木を積んでいく。炎は天井近くまで燃え上がり、おかげで天井は煤けていた。子供心に凄いなと思って見ていたものだ。
 こんな話を聞くと誰しも信仰心の篤い立派な家だなと思うけれど、そんなことはない。これは祖母の代までだ。

狸谷不動明王
桓武天皇勅願により祭祀され、鎌倉建長年間に現在地の洞窟に安置。
龍龍不動明王
応挙のサイン

とにかく誰もが怖いという。

いつ、どこからこの絵が我が家に届いたのか。

 狸谷不動院は「咤怒鬼不動明王」が祀られ、鬼を叱るというほど険しい表情をされているらしい。その不動明王と同様我が家の不動尊像もチカラを持っているのだろう。とにかく護摩を焚いている時のお大師さんの顔は真っ赤で一心不乱というか凄い形相でとてもじゃないけど近寄り難かった。だからあまりなじんだ記憶がない。拝めばさっさと帰っていかれた。
 時代は下がって昭和40年代、つまり長岡京の家では、女の拝み屋さんがいつも二人で来ていて、祖母は「天地の神さん」と呼んでいたが金光教だったのかどうかはわからない。この方は護摩は焚かなかったが(危険なので断ったのかもしれない)、汗を激しく流しながら声高らかに拝まれていたそうだ。というのは、当時の僕は全く興味がなかったというか、こういう信仰をバカにしていた頃なので、同席したことがなかった。だから母から聞いた話による。母もその頃は信仰が篤い方ではなく、冷静に見ていたので案外信頼してもよい情報なのだ。

 その他横須賀の法華経のお寺からも拝みに来られていた。それは母が呼んだのだ。昭和50年代のころだ。
 あるとき、近所に引っ越してきた人が我が家の前を通ったとき、電光が走ったようにカラダに何かを感じたのだそうだ。そこで自分の家に戻り、我が家の電話番号を探して電話をしてきた。
「あなたの家にはお不動さんがおられるでしょう。家の前を通った時に感じました。ぜひ拝ませてください」と言ったのだ。母は驚いた。近所の人も知らないのにどうして見ず知らずの人が我が家に不動尊像があるのをを知っているのだろうと。その人は鷹野さんと言って競馬の運送会社を経営している社長夫人だ。とても霊感を感じる人で、やはり汗を流して震えながら手を合わせたらしい。そしてその人が知り合いの横須賀にあるお寺の住職を呼んだのだ。こうして年に2度は我が家に来られることになった。
 この長岡京の家でも神棚があったが、母はこの住職に相談して、神棚を処分してもらった。祈祷してもらった後、自分でたたき壊したのだそうだ。しかし僕はこのころ福岡に転勤していたのでその住職には会ったことがなかった。
 お墓もつぶしたことがある。これは僕も立ち会った。京都市の北のはずれ滋賀県朽木の小出石村こでいしにあったお墓で、当時京都市内の東大路二条にもお墓があったので、自宅から遠いところの墓を処分したのだ。この時も小出石のお墓を守る住職が祈祷の後、「えいっ」と気合いもろとも足でお墓を倒された。その後ポリ袋にそこの土を入れ、二条のお墓に持っていった。
 このほかにも霊感の強い人が何人かいて、来られるたびに汗をだくだく流して祈祷し、「大事にしなさいよ」と言われる。そういうわけで、小さいときから少しだけどお経の一節を覚えた。

 こういうふうにこの不動尊像は、とても力があるらしく、おろそかにはできず、さらに左下には「応挙」と書かれたサインがある。だからこれは円山応挙筆なのかと淡い期待を抱いていた。我が家にはこんなにすごいお宝があるんだと会う人ごとに話していた頃もあった。



 

気韻を描いた絵画

 円山応挙かどうかを調べる前に、この絵がなぜ我が家にあるのかということを書いておこう。
 まず当時護摩を焚いていた我が家をとりまく環境から。この新町の家の周りはお寺ばかりだ。裏庭に土壁で接するお寺は、ひっそりとした養林庵という尼寺でなんだか近寄りがたいイメージを持っていた。そこに住んでいる人を見たことはなかった。お経も聞いた覚えがないので世の中から見放されているというか、無視されているような気がするところだった。イタチだけがときどき走っていたのを見たことがある。だからこの寺のことは詳しくは知らない。
 我が家から北西に200メートルほどのところにはよく草野球で遊んだ妙覚寺、その南に下がったところには初恋の相手が住んでいた妙顕寺、その西に本法寺、そしてその南には裏千家と人形で有名な宝鏡寺があった。とにかく寺町であり、法華宗寺院に囲まれている。そして織屋はたやさんが多かった。我が家はそこで祖母がお茶の小売り店を営んでいた。この新町の家に住む前は、つまり母が結婚してここに来るまでのことだけれど、祇園で帽子屋と下駄屋をしていて、祖父は大工をしていたらしい。だからこのお不動さんの厨子は祖父が作ったらしい。余談だけれど、明治村に保存されている交番も祖父が作ったと聞いている。こういう法華宗の寺院に囲まれた環境でこの応挙のサインが入った不動尊があった。

 さて、この絵が我が家に来た件だけれど、僕が聞いているのはこういうことだ。明治のころだと思う。でも不確かだ。祖父の時代でないのかもしれない。山から生臭坊主がこの絵を持って降りてきた。京都市左京区大原の奥、小出石という村(ここが我が先祖の出身)で百姓をしていた我が家に立ち寄り、酒と交換してくれと不謹慎なことを言った。そこで我が先祖は気前よく、酒と交換したのだそうだ。しかしたいした絵でもなさそうなので、蔵の中に放っておいたらしい。
 ある日、山を下りて京都市内に買い出しに行った我が先祖たちが、帰り道の途中、村の方角を眺めると山火事のようなものが見えた。急いで帰るとそんな火事はないという。こういうことが何度か続いたのだ。そこで蔵を開けてみると忘れていたこの絵が出てきた。どうも火事に見えたのはこのお不動様が怒っておられるのかもしれないということになって丁重に祀ることにしたのだそうだ。父から聞いた話だ。
 父もこの不動尊像はおおいに信仰していて、若いころ海で泳いでいて何かに足を取られて溺れてしまった。そのとき「お不動さーん」と叫んだら誰かが手を取ってくれて助かったのだとという話をよく聞かされた。そんなわけでこの僕自身も、笑われるかもしれないが、高速道路で車を運転するときなど、「ノーマクサンマンダーラ…」と心の中でぶつぶつ言っている時がある。

 そろそろ本題に入っていこう。
 まず注目したのは、この落款。確かに「応挙」という文字が書かれている。霊感を感じる人は皆、この絵は凄い、恐ろしいと言うほどだから、凄い人が描いたのだろうと誰しもが思うところだ。
 東洋絵画の目的は西洋絵画の「美」に対して「気韻」であると教わったことがある。気韻とは物の本質というか、生命力というかそういうものである。西洋の美しい絵、ルノアールやモネ、フェルメール等と比べて、確かに水墨画は墨一色で美しいという概念からは遠いし、その他の絵でも見た目どおりに写生するのに便利な遠近法は使われていない。むしろ表現したい部分を強調し、デフォルメしているものが多い。話はずいぶんそれてしまったが、ついでに言うと、たとえば源氏物語絵巻などは逆遠近法といってもいいくらいだ。俯瞰された絵は、末広がりに描かれている。廊下など遠くに行けばいくほど広がっている。このことからもわかるように東洋の絵は、物の心奥をとらえて表現するのが良しとされていたのだろう。もうひとつ言っておくが、物の本質をとらえるために、観察するには俯瞰するのが一番いい。俯瞰すれば全体を見渡せるし、そのものの背後にあるものも想像しやすくなる。だから気韻を目的とする東洋絵画はほとんどが俯瞰図なのだ。水墨画も山の上か雲の上より描かれているし、人物画も少し上から見たものが多い。
 この不動尊像もかなりの迫力を感じる時がある。今までに一度だけだが、お不動さんの前で、横になっていると、上方、天井より1メートルくらい下あたりに雲が雲海のように漂ってくるのを見たことがある。こんなことは信じられないので、思い違いだと一笑に伏せられてもしかたがないが、忘れられない。毎日お不動さんを見ているので情が移ってしまい、冷静に対処すればそんなことはないと言われるのが筋かもしれないが。
 だからずっと心の半分以上でこの絵は「円山応挙」が描いたものに違いない、そうであってほしいと長い間思っていた。

落款辞典を調べてみた。

応挙とその弟子達の落款

 我が家の近くに長岡京市立図書館がある。まずは円山応挙の絵をたくさん見てみたいと思った。そして落款を比較してみる。幸いにしてこの図書館には落款辞典というものが数種類あった。応挙のものはいろいろとあった。しかしこれと同じものはなかった。もしかしたら弟子が描いたのかもと思い、それも調べてみた。しかしやはりなかった。名前のサインは本人のものと似ているように思うのだけれど、これは日本人なら似せることが出来るだろう。絵もまったく画風が違うように思う。だんだん怪しくなってきた。かといってこの段階で否定するのはまだ早い。

亀岡市内の応挙寺に行ってみた。

応挙の生まれ故郷穴太周辺
応挙寺山門(福寿山金剛寺)
玉堂和尚第4世(2005年本堂改築時に発見)

 応挙寺と呼ばれているところが長岡京市の我が家から小1時間のところにある。ヒントになるものはないかと行ってみた。臨済宗のお寺で福寿山金剛寺といい、亀岡市内にある。さすがに道はアスファルトだが昔の面影が残っていそうな狭い道で長い石壁や土塀が続いている。寺のすぐ近く穴太あのうというところで彼は生まれた。そして8才〜15才までこの寺で小僧生活を送っていた。絵もここでたくさん描いており当時の住職玉堂和尚に絵の才能を見出され、京都に出て絵の勉強をしたのだ。

 この寺は、一般には公開されておらず、いきなり行って山門の前で戸惑っていると、さいわいにして住職が外から帰ってこられ、中を見せてもらいお話を聞くことができた。
 最近改築された本堂のふすま絵に「波濤図」というのがあった。旧本堂前面の三室に描かれていたもので「戊申晩夏写 応挙」と落款「応挙の印」があった。この寺の当時の住職玉堂和尚第4世を描いた肖像画(2005年発見)もあり、裏面には「金剛玉堂連和尚真像 曾祖父応挙真筆也 円山主水応立鑑識 印」とあった。応立は応挙のひ孫にあたる。

 玉堂和尚は、応挙が14歳の時亡くなっているので、もし彼が描いたのなら、すごい絵の才能だったと思われる。もしくは応挙が34歳で「応挙」の号を使い始めたころに想い出して描いたのではとも言われている。
 応挙は有名になった後、弟子をたくさんかかえたので、応挙の絵の偽物もたくさんあると言われた。晩年はプロデューサーのようなこともやっていたので、弟子に描かせて自分はサインするだけということもあったと聞いた。また応挙が自分の絵を確立するまでは、いろいろな描き方にチャレンジしていたとも想像され、絵のタッチも、もしかしたら全く異なるものもあったかもしれないと言われた。そう言われて改めて我が家の不動尊像を眺めてみると応挙というサインは本人の筆使いのようにも思えてきた。しかし落款印は応挙のものと言えそうにない。ただまだ発見されていないものだとも言える。

裏書についての考察



裏書きを見つけた。

この絵は水野家から出てきたのだろうか。

 この不動尊像は3~40年前に修復している。しかしあれから厨子に吊るされたたままで一度も移動したことがないし埃を払ったこともなかった。だがその前では毎日線香を焚き続けていた。考えてみれば相当な汚れが付いているはずだ。現によく見るとカビが生えたり絵具がはげ落ちている個所もある。肩のあたりがひどい。これに気がつくともう今すぐにでも修理に出さなければと、気になってしまう。
 一般の表装屋さんではだめだろう。ネットの情報だけでは十分ではない。京都府の文化財の担当者に電話で相談してみた。写真を撮ってメールで送ったところ、
「応挙は贋作が多いですよ」と言いながら京都国立博物館や有名な寺院の絵を修復しているところを紹介してくれた。そこは我が家から車で20分くらいのところにあった。しかもそこの社長が偶然にも我が家から歩いて5分もかからないところに住んでおられる。
 その時に発見した。裏書があることを。厨子に吊りっぱなしにしていたため、裏を覗いたことがなかった。しかもそこは暗いし、お不動さんに安易に触れてはいけないような威厳を感じていたので、むやみに掛け軸の裏を覗くことはなかったからだ。恐る恐る裏がどうなっているか調べようとしてひっくり返してみると文字が書いてある。これは母が昔修復したときに発見していたのだけれど、漢字ばかりで内容が難しかったので放っておいたと言っていた。この時まで知らなかった。
 
内容はこうだ。

「不動之尊像有
権門之家予感得而崇敬今也
明治五歳次壬申龍集穐九月
依宿願参籠於山門田中光長
山蓮聖精舎而唱題修行畢益
有感即以尊像奉納
而祈武運長久而己當山廾世
日雄尊師被受収處也」
    元山形藩士到仕
    辛酉十二月十三日生
    七十二齢市川令啓

「不動の尊像は権門の家にあった。私はそれに感じて崇敬するようになった。明治五年秋九月、私は山門の田の中に位置する光長山蓮聖精舎に参籠して唱題修行をしていたがますます霊感を感じて、尊像を奉納し、武運長久を祈った。当山二十世日雄尊師が収受された。元山形藩士致仕 1801年生まれ、72歳市川令啓」

 市川令啓という人物に興味を持った。

 市川令啓が生まれたのは、1801年。元山形藩士に仕えていた。ということで山形藩について調べてみた。山形藩は当然現在の山形県あたりにあった田舎の藩くらいにしか考えていなかったのだが、話は複雑だ。
 というより自分の知識のなさを恥じなければならない。江戸時代というのは国替え(転封てんぽう)が頻繁にあり、山形藩も15~6回入れ替わっている。
 もともとは最上家が山形県全域と秋田県の一部を支配し57万石を有していた。江戸の初期である。ところがお家騒動で滋賀県の近江にわずか1万石で転封され、代わって入ったのが鳥居忠政(22万石)。そして次々に藩主が代わり、最終的には浜松藩より水野家(1845年から1870年)が転封されて明治維新を迎えた。
 市川令啓は山形藩に仕えていたということなので、つまりは水野家のもとで働いていたことになる。明治5年72歳の令啓は元山形藩士に仕えていたというから、藩士は水野忠精ただきよあるいは忠弘ただひろだったのだ。そして忠精は天保の改革をおこなった老中、父水野忠邦の跡を継いで山形藩に転封になったので、令啓(このとき44歳)は忠邦にも仕えていたかもしれない。
 つまりは中学の歴史の教科書にも載っているあの水野忠邦家の絵がなぜか我が家にあるのだ。驚きである。断片的な歴史の知識として水野忠邦は浜松藩から老中になって江戸に来たということぐらいは覚えていたので、水野家はてっきり浜松藩だと思い込んでいた。もっと歴史を詳しく勉強していればこんなにとまどうことはなかったのに。 

 水野忠邦についてちょっと調べてみた。水野忠邦は市川令啓が生まれる7年前、1794年に唐津藩の藩主水野忠光の次男として江戸で生まれた。長男が若くして亡くなったため忠邦は18歳で跡を継いだ。彼は上昇志向が人一倍強く、唐津藩の藩主では物足りなく、出世のために石高が小さい浜松藩に転封を願い出た。そして西丸老中を経て1834年本丸老中に上り詰めた。やがて大塩平八郎の乱が起こり世情がますます不安定になり、彼は天保の改革に着手した。しかしこの改革は失敗に終わり、忠邦は失脚、1845年家督を忠精に譲った。このとき水野家は山形藩へと懲罰的転封を受けた。そして忠邦は1851年、57歳で亡くなった。このころの日本は全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉、そして百姓一揆、など幕政を揺るがす事件が数々発生していた。
 想像だがこのように世情が不安定の中、さらに水野家も地方へ転封させられ、市川令啓は不安いっぱいの中でこの不動尊像に祈ったのだろう。

分限帳1

水野氏分限帳を調べた。

 しかしまだ課題は多い。はたして市川令啓とはどんな人物なのか。この裏書は本物なのか。その裏付けを取る必要がある。

 水野氏分限帳(文久2年、1862年、東根市神町の嶺岸伸彦氏所蔵)を調べた。分限帳とは、各藩が記録した自藩に所属する武士の名簿のようなものだ。令啓はこのとき61歳。
 
 市川の姓は4名記載されていた。だが令啓の名はない。
 記載されていた人物
 市川直兵衛/御うまや小頭 66歳
 市川清蔵/肥後組 35歳
 市川源蔵/肥後組 37歳
 市川衣蔵/板東相良組 23歳
 いずれも岡崎大樹寺村出身

 このとき令啓は引退していたのではないかと思う。この名前はいみなのように思えるからだ。
 令啓は72歳(1872、明治5)のときこの不動尊像を持って、近江国蓮聖寺に参籠し、武運長久を願い奉納した。なぜ滋賀県の蓮聖寺なのかというと、1867年に大政奉還、1870年、版籍奉還があり、忠精から水野家を継いだ忠弘が1870年に近江国朝日山藩に転封され、彼もついて行った。そこで近隣の蓮聖寺に奉納したと思うのだ。
 「水野史研究会」というサイトを見つけた。ここの事務局にメールを送って訊ねてみた。もしかしたら水野家のお宝の目録などに記述があればと思ったからだ。

水野氏より返事をいただいた。

 これは水野青鷺氏からのメールだ。
 私も「水野氏分限帳」(東根市神町字若木嶺岸伸彦所蔵)文久二戌歳三月改、を閲覧しました。
 これには、
「御厩(うまや)小頭――四俵二斗三升三合 二人扶持 岡崎住大樹寺村出 四代 市川直兵衛 戌六十六歳」
「肥後組――岡崎住大樹寺村出 六代 市川清蔵 戌三十五歳」
「肥後組――岡崎住大樹寺村出 五代 市川源蔵 戌三十七歳」
「板東相良組――岡崎住大樹寺村出 五代 市川衣蔵 戌二十三歳」
と4名の名前が見えます。
 また「山形藩水野家分限帳」文久年間(山形香澄町木ノ実小路志賀淺右衛門記録志賀清直氏ヨリ借受、大正四年六月抄録)には、
「吟味役――金八両三人 御普請奉行取締御横目格 外扶持 三人 市川円蔵」
「御馬廻――十二人扶持 市川九十郎」
が記載されています。
 市川は山形藩士であったことは、この裏書きから判りますので、その継嗣は、一つには「六代 市川清蔵 戌三十五歳」か「五代 市川源蔵 戌三十七歳」ではないかと推測されます。源蔵と清蔵は兄弟の様にみえますが、源蔵が弟清蔵に家督を譲ったものか、または一族のもので兄弟ではないのかも知れません。いずれにしてもこれら6名とは血縁関係があると見て良いと思われます。
 また出自は、現在の愛知県岡崎市鴨田町あたりであることが判ります。

令啓は、市川円蔵か。

 今ひとつの、市川令啓なる人物は、この内の「市川円蔵」で、その継嗣は「市川九十郎」ではないかと推測されます。権門の家の不動明王の画像を見ることができ、またさらには尊像を奉納できた人物は、それ相応の身分であったと考えられますので、「市川円蔵」もしくは、その父ではないかと思われます。
 但し、この市川令啓の「令啓」は、おっしゃる諱か、あるいは、「啓す=言うの謙譲語」で「申し上げる」の意であり、「令」は、「せしむ」で、これも「申し上げる」の意でありますので、「市川が啓せしむ、つまり謹んで申し上げます」の意で、裏書の案文の文字である可能性も考えられます。「一書令啓候」の場合は「書状を差し上げます」の意ですから、「差し上げます」の意かもしれません。その他には隠居号である可能性もあります。
 これらから、お尋ねの「この人物が水野家に本当にいたのかどうか」については、居た可能性は非常に高いと見られます。次の「不動明王の絵が水野家にあったのかどうか」については、今のところ不明ですが、市川氏からみて、権門は武家水野家か、あるいは宗教権門もありますから、山形の寺である可能性も考えられます。たとえば有名な山寺(宝珠山立石寺)は、天台密教ですし、そのほか山形の密教寺院かも知れません。
以上、現在のところはここまでしか判りません。

インターネットはすぐに反応した。権門の家とはやはり水野家か。

 以上、水野青鷺氏の意見をこの不動尊像の写真や裏書とともに、我がホームページに掲載し、さらに詳しいことが解らないか意見を聞くことにした。
 するとOhiruneDaisukeさんから次のような意見をいただいた。

 絵画については、果たして円山応挙が描いたのか疑問のあるところです。私は絵画に詳しいわけではありませんが、応挙といえば写実的な写生画を多く残しており,この不動明王像は彼の作風とはかけ離れているという印象を受けます。落款については、自署は応挙らしいかっちりとした筆跡ですが、印はよく分かりません。仮に「 應擧之印」としても,他の応挙の印とは異なる書体です。

 応挙には達磨図などの仏画もありますし、彼のパトロンには天台密教の三井寺(園城寺)がいましたから、このような不動尊像も考えられないことはないのですが、何ゆえに彼が,このようなけばけばしい彩色画を描かなければならなかったのか、ということが最大の疑問です。

 裏書については、山形藩士であった辛酉年(1801)生まれの市川令啓という人が,壬申(1872)年の明治5年に書いたということは分かりました。また、彼が水野家の家臣であったであろうということも推測できます。この不動尊像を市川令啓が水野家から賜ったのか,あるいは水野家にあったものを市川令啓が蓮聖寺に奉納するように説得したのかとも考えられますが、憶測の域を出るものではありません。
 現在の水野家の御当主?かと思われる水野青鷺さんは、宗教権門の可能性を指摘されていますが,中世であれば寺社も権門の一つとされますけれど,江戸後期の「権門之家」ですから、これは寺社ではなく一般武家の権門だと思います。そういう世俗の家にあったからこそ、蓮聖寺という寺院に奉納したのであって、寺院にあったのならその必要はないはずです。
 かつての主君の名前を出すのを遠慮したのかも知れませんが、「有権門之家」だけでは何とも言えません。ただ、山形藩時代の水野家および近江朝日山藩時代あるいは現在の水野家の菩提寺を調べてみると、何か分かるかもしれません。

 「令啓」ですが、これについても水野さんは謙譲語であり、裏書の案文(あんもん、下書きのこと)の可能性を指摘されておられますが、これもあり得ないでしょう。「令啓」だと「啓せしむ」であって、令も啓も「申し上げる」という意味には解釈は出来ません。末尾に「啓」の文字を変形させたと思われる花押もありますから,あなたの仰る通り実名(じちみょう)である諱でしょう。

 また、案文という可能性は全くありません。現に不動尊像の裏に直接に書き込んであるわけですから,これは100%の正文(しょうもん)です。仮に下書きを書いてそれを貼り付けたとしても、貼り付けた段階で下書きではなく正文になります。

 ところで、この不動尊像が蓮聖寺に奉納された明治5年には全国的に近代的な戸籍(壬申戸籍)が作成され、現在も各地方の法務局に保存されています。残念ながら同和問題との関係で今は閲覧禁止ですが、もし、この壬申戸籍を調べることが出来れば、市川令啓という人のことがもっと明らかになると思います。

ついに令啓を見つけた。

 さらに 山形水野藩 庶士伝後編(一)(二)(三) なるものがあるのを教えていただいた。長岡京市図書館を経て、山形県立図書館より取り寄せることができた。
 これは藩主水野忠精の命によって、宝暦5年(1755年)から嘉永2年(1849年)までの97年間の藩士の経歴を編集したものだ。はたしてこの庶子伝後編(三)に市川令啓の名が記載されていた。
 
 市川 円蔵 令啓
 一、安政三年丙辰十二月廿日五十六歳、旧家之儀且吟味役副精勤を以、永永士分取立、歩士本位、六  両二口、役料増一口、四年丁巳十二月廿三日、震災風損造作所多、精勤を以金五百疋…

 ついに見つけた。
 そして前述した水野家分限帳には、市川円蔵の記述があり、これによると彼の身分は次のようになっていた。(「山形市史編集史料第20号」に記載)
  「吟味役――金八両三人 御普請奉行取締御横目格 外扶持 三人 市川円蔵」

 吟味役とは勘定奉行に次ぐもので、老中直属の監査を担当したもので相当の地位にあるものだ。この円蔵が72歳の時に不動尊像を持ち出し、蓮聖精舎に奉納したのだ。

 蓮聖寺は鎌倉時代から比叡山の東麓にある日蓮宗の寺で(滋賀県下坂本村田中)、山のふもとの田中にあることから山門とも呼ばれていた。そこに二十世日雄聖人の墓があった、明治23年1月22日が命日。この聖人は祈祷が専門だったようで、籠堂こもりどうで祈祷を行なっていたようだ。明治5年頃は日雄聖人の全盛期であったようで、市川氏との交流があったかもしれない。しかしこの籠堂は数年ほど前まで現存していたようだが今はない。

蓮聖寺を調べた

修理プロジェクト



傷みが激しいので修理することに

 京都府の文化財の担当者と京都国立博物館の方に紹介されて、ある修理工房に連絡をした。修理工房の名前を出さないのには理由がある。
 ここはたくさんの国宝級の文化財の修復を依頼されているので、盗難や見物客が押し寄せる可能性もあるからだ。だから広告や看板も出していない。最初はそんな事情を知らないので、ホームページをボランティアで作ってあげようかと思っていたのだが。
 掛け軸を厨子から初めて下した。最初に修理した30年前から一度も外さなかった。厨子の内部、特に上部の屋根のあたりは狭く一度外してしまうと、次に吊るすのが大変だから誰も手をつけなかった。だからこの30年ほどそのままで埃がずいぶんたまっている。表装全体が硬化して、巻いた状態での収納が困難になっていた。全体にカビ、埃があり、本紙下部には折れがあって、そこから亀裂が進行して本紙の絵具が一部剥がれている。そして表装裏面に絵具焼け、水染みが見られる。
 このときだ。裏書のほかにもうひとつ、この裏書のタイトルらしきものが上部に貼ってあるのを発見した。

裏書のタイトルか
水滲み
絵具の剥がれ

 さて、修理の概要はこうだ。一年かけて行う。
1)作品の状態、損傷の程度を調査記録し写真撮影。
2)画面上の埃等を払うために、筆や刷毛を使用したドライクリーニング。
3)軸、八双等を外して解体。
4)本紙に少量の水分を与えて肌裏以外の裏打ちを除去。
5)本紙の下に給水紙を敷いて浄化水を噴霧、給水紙に汚れを吸い取らせクリーニング。
6)接着力が低下している絵具層に対して膠及び布海苔(ふのり)を使用し剥落止めを行う。
7)本紙の紙質検査。
8)補修紙の選定と加工。
9)本紙肌裏紙の除去を行い、欠失部を補修、その後新肌裏紙に打ち替え。
10)表装裂は総縁・中廻しに金襴を新調し、二段表装に仕立てる。
11)裏打ち/肌裏、1回目増裏、2回目増裏、中裏、総裏の5回、裂には肌裏、増裏、中裏、総裏の4回。
書画の掛幅(かけふく)の表具は、三度ないし五度裏打(うらうち)を施す。裏打ちに用いる紙は美濃紙(みのがみ)、美栖紙(みすがみ)、宇陀紙と定まっており、各種の紙の特質を生かし、組み合わされて一体化して行う。
たとえば美濃紙は肌裏(はだうら)、美栖紙(みすがみ)は増裏(ましうら)、中裏(なかうら)、宇陀紙は総裏に使用。
総裏には紙背文書を入れる。
紙背文書(しはいもんじょ)/和紙の使用済みの面を反故(ほご)として、その裏面を利用して別の文書(古文書)が書かれた場合に、先に書かれた面の文書のことをいい、後で書かれた文書が主体となるので、先に書かれた文書が紙背(裏)となる。裏文書(うらもんじょ)ともいう。
12)折れ伏せを行う。
13)金軸、八双金具は整備再使用。
14)本紙に対して現状の細巻きから太巻き添軸に変更。外部劣化作用からの保護と保存のため屋郎箱を共に桐材にて新調。
15)修理後撮影。
修理期間12ヵ月(平成22年10月〜23年9月)
 以上予算は100万円。高いのか安いのかよくわからないが、文化財だと約3割の援助が文科省?から出るらしい。

修復に使用する材料
新糊2kg、古糊1kg、
薄美濃紙5枚、美栖紙(みすがみ)10枚、宇陀紙8枚、養生紙60枚
表装裂(本金襴、6,000㎠)
表装裂(本金襴、2,000㎠)
上巻絹(2,000㎠)
軸首(整備再使用)
軸木(ステンレス錘入り)
啄木2m
包裂(正絹二重)
保存箱(桐木口詰め太巻添軸)
保存箱(桐屋郎箱)


美濃紙/楮(こうぞ)で漉(す)いた和紙で奈良時代から用いられている。美濃で多く産出され、中世以降全国に普及。紙質は丈夫で厚く虫食いにも強く、文書の写し・書状の包み・障子紙などに用いる。

美栖紙/奈良県吉野地方で古くから漉かれてきた手漉和紙で楮(こうぞ)を原料とし、これに地元産の白土や胡粉(ごふん)を混ぜて漉く。漉いた段階ですぐ干板に貼る(天日乾燥する)ため薄手でざっくりした感じをもち、腰の柔かさと糊のなじみにすぐれており、表具用の和紙(中裏用)としては不可欠のもの。

宇陀紙/奈良県吉野地方で古くから漉かれてきた手漉和紙で、楮を原料とし、地元特産の白土【はくど】を混入して漉き、強靱であるとともに表具に適した紙の柔軟性や紙に伸縮がこない安定した保存性など表具に適した特性を持つもの。

汚れ落としに半年

汚れが吸取り紙に沈着

 おそらく前回(30年前)の表装修理のときは汚れ落しがなされていなかったようだ。たいへんな量の汚れが出てきた。30年でつく汚れではないらしい。汚れ落しというのは、まず原画を切り離して、下に吸い取り紙を敷き、水を振りかける。絵具は顔料(粉末)なので水には溶けないが、汚れは水に溶けて下の吸取り紙に移る。これを何度も繰り返す。半年かけて100枚ほど吸い取り紙を使ったそうだ。

頭髪の盛り上がりと顔の色に注目
修理のためにチェック

 護摩を焚いていたので(母の記憶では昭和20年頃から10数年)その煤が大部分じゃないかと思われる。明治の頃も護摩焚きが行われていたとしたら、この写真に写った黄色の汚れは、100年以上も前の汚れかもしれない。黒だと思っていた不動尊像の身体の色が紺色だと解ってきた。青不動というのだろうか。そしてさらに細かなところがはっきりしてきた。

 筋肉の描き方、頭髪の盛り上がり、胸の飾りの文様、座っている岩の細かな表現がずいぶん細かく描かれているのが解る。
 この後、原画を台紙から剥がす作業にかかる。何日かかるかわからないが、次に見せてもらえる日が楽しみだ。

 別の部屋では、宋時代の経本のようなものを修復中だった。本紙と同じように梳いた紙で穴が空いている部分を同じ大きさに切り取り、ジグソーパズルのようにして、張り合わせていく。とても根気がいる仕事だ。保安上、写真を撮らせてもらえないのが残念。(こんなところで国宝や重文を扱っているということが知れわたり、強盗に入られたら大変だからだ)

表装の布地を決定した。牡丹柄で金糸を使うことに。ケースは太巻きにする。そしてレプリカを作り本物は桐の箱に保管し、年に1回開帳することにした。こうすることにより100年くらいは保管できるだろうということだ。

 どなたかのご意見で、この絵は青蓮院の青不動(国宝)を手本に描かれたのでは、と言われていたことを思い出した。そこで青蓮院に行ってきた。レプリカが祀ってあった。似ていると言えば似ている。

元の色に再現

 さて今までの修理は、汚れを取り、上に積もった汚れのために、色がくすんでいたところ等をもとの色に再現する作業で、一応この段階で、文化財指定を受けたものは修理をストップする。○で囲ったような箇所等は、本紙の傷や汚れ等で、これらはそのままにしておくのが普通なのだそうだ。しかしこの絵は文化財の指定を受けたものではないので、どこまで修理をするのかは持ち主の判断にゆだねられる。そこで腕の色のはがれたところは、そのままにして、紙のヒビの部分と点の染みは同じ色の顔料で塗ってもらうことにした。

 剣の金属部分や白い衣服の部分等、もっと鮮やかな色だったと想像できそうだが、それは現状のままにしておくことにした。

 裏書のタイトル、つまり外題(げだい)はかなり紙が傷んでいるため、今回は裏に貼らずに箱の中に収納することにした。本来は巻き込み収納時のいちばん上に貼ってあったのだが、痛みが激しく、今回は本物を巻き込んで収納し、常時レプリカを掛けることにした。この外題を巻き込むと破れる恐れが出るためだ。前回は信仰のために、掛けっぱなしで巻き込むことはなかった。もちろん本物の収納は特製の桐の箱(屋郎箱)に入れる。普通のサイズだと筒が小さすぎて、巻き込む時に絵に傷がつくかもしれないので、かなり太め(直径10センチくらい)に作る。

レプリカのコスト
最終修理が終わると、レプリカを作ることにした。
まずこの絵をスキャニング。20年前なら、まだスキャニングの技術が未発達で、カメラマンに頼んでスタジオに持ち込み、ライティングし、大型カメラで撮影していたが、技術の発展でかんたんにできるようになった。
それでもレプリカを作るのに30万円以上かかる。スキャニング後の校正刷りのコスト(¥85,000)がバカにならないのだ。色校正を本紙と同じ紙で4回はすることにした。

桐の太巻き入れ

10カ月目、絵の修復が終わった。

 修復に出してから10カ月目、不動尊像の修理が完成した。かなりのインパクトが出てきた。修復する前では、背景の色が単なる黒か濃いグレーだと思っていたのが、青みがかかっているのがわかり、さらに汚れを取り傷んだヒビ等の修正をしていくと不動尊像がより立体的に浮き出てきたのだ。裏打ちをして表装したのでさらに迫力が増した。
 修正する前、下部は中途半端に切られたのかと思った時もあったが、そうではなく、下の部分(炎の下部の岩がはっきりと見える)も完全に描かれており、切り取った形跡はないようだ。市川令啓氏が霊感を感じたのが何となくわかるような気がする。応挙の作ではないだろうと思いかけているのだが、それよりもすごい迫力が伝わって来るような気がした。信仰の対象になることに納得する。この迫力は修理した人の力量もあるかと思うのだが。

 続いてレプリカ用にこの原画をスキャニング(解像度400)して、美濃紙にインクジェットで出力する(こういう和紙にインクジェトで出力できるようになったのは最近のことだ)。原画と比べてちょっと赤みが強いもの、逆に暗すぎて平板になったようなもの等何回かチャレンジして、7枚目。ようやく納得できる校正刷りが出てきた。

修復前後
修復前
修復後

贋作家の話

 別所東渓という応挙の贋作家がいることを知った。名は則房、通称金吾郎と呼ばれていた。号は東渓といって呉春、豊彦等に学び、対馬藩お抱え絵師だったと言われている。贋作家として知られ、十五両出せば、鑑別不可能な応挙画を描いてみせると豪語したり、京都所司代が手に入れた応挙画を彼に見せたところやはりその絵も彼の贋作であったという逸話が残っている。東渓の贋作レベルの高さが絵画市場を混乱させたことを伺わせるものだ。
 一方で僊斎翁追薦展観(文化7年)(僊斎翁とは応挙のことである)、芦雪翁追薦展観(文化4年)、河村文鳳一門の主催展観などに出品、当時から追放された気配がないようなので、画家としても十分認められていたようなのだ。彼の名は「平安人物誌」文化十年〜十九年に掲載されている。
 京都市内の富小路三条北あたりに住んでいた。(以上の話は「京の絵師百花繚乱」による)
 古画備考という画人伝にも彼のことが載っていた。この本は狩野派の狩野栄信の次男、朝岡興禎という人が作ったもので古代から江戸時代までの日本の画人の伝記や作品に関する資料の集大成したものだ。
 我家の不動尊像はもしかして、と思って東渓を少し調べてみたのだが、これ以上のことはわからなかった。

応挙の全画集を見つけた。

落款

 図書館で「円山応挙画集と解説」(京都新聞社発行)を借りてきた。この本は約700点の応挙の絵が一挙に掲載されており、彼の全画業を網羅したものだ。そして応挙について研究されたことのほとんどが載っていると思えるくらいの内容の深い分厚い本だ。その中から不動尊図を見つけた。若い頃のもので主水とサインしている。立ち姿でどことなく人間っぽい顔をしているように感じるのは私だけだろうか。
 この本によると応挙という画号は34才からのものだ。応挙の落款も多数あった。彼は生真面目な正確らしく、自分のサインはほとんど楷書体で書いている。しかし「応」という字は書き方が少しずつ変化している。「广」の「丿」が後年は長くなって、横に伸びる「一」が下の「亻」につながっているものがある。したがってもし我が家の不動尊像が応挙が描いたものなら、応挙と名乗ってまだ日が浅いものかもしれない。
 印は残念ながら、似たものはなかった。以前に調べた時と同じだ。彼は応挙と改名した時、同時に「藤原」姓を用い、「滕印応挙」の印がある。我が家のこの複雑な字はそのように推察しようとしてもやはり無理がある。
 また残念ながら我が家の不動尊像に色使いが似ている絵も見つからなかった。

上が若いころ、下が晩年のサイン
龍龍不動明王
修理前と修理完成後の比較
空掛け軸
汚れ
しみ
汚れを除去し、色修正後、スキャニングをして校正する
色校正風景
色校正
最終色校正比較
布選び
太巻き入れ(新たに作った掛け軸収納箱)
軸缶(元のものをそのまま使用)

キミは応挙か。

2015年10月4日 発行 初版

著  者:zenryu
発  行:zenryu出版

bb_B_00100355
bcck: http://bccks.jp/bcck/00100355/info
user: http://bccks.jp/user/15767
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket