パンドラ
ギリシャ神話における、人類最初の女性。
全ての災いを詰め込んだ箱を持たされ、
好奇心でそれを開けてしまった。
そのため、世界にあまねく災いは広がった。
箱の中に残ったのは、希望だけ。
「私はね、そのパンドラのように、いつも周囲の人々に災厄をもたらす女なのよ」
彼は、マジシャン。
すらりとした長身。
艶のある金色の髪。
深いグリーンの瞳。
名前はエドウィン。
ダークスーツのよく似合う、クールな美形だ。
だが、笑うと、お日様が雲から顔を出したかのように、明るく人懐っこくなる。
若々しく、二十代にしか見えない。が、デビューからすでに十年のキャリアを持つ、一流のマジシャン。年齢は不詳。
人は彼を、魔法使いと呼ぶ。
ホールの片隅から、魔法使いの舞台を見つめている女性が一人。
名前はサリー。
長いクリーム色の髪に、青い瞳。
だが今は、その綺麗な髪をぎゅうぎゅうにひっつめて結び、長い睫に縁取られた瞳もメガネの奥に隠している。
(よく出来ている。全然、わからないし)
エドウィンのマジックを見るのは、今日で三度目。
勤めているイベント関連会社が、今回、エドウィンのツアーをサポートすることになり、現場担当になったからなのだが。
マジックを見る機会があるときは必ず、目を凝らして、仕掛けを見破ろうとしているのに、全くわからない。
疑いの目を持って、何度も繰り返し見れば、マジックの仕掛けは結構、見破れるものらしいのだが。
(さすが。魔法使いって呼ばれるだけあるってことかしら)
満員の客も、うっとりとした顔で、ステージのエドウィンに見とれている。
ステージのエドウィンは、自分が身に着けていたマントを大きく翻したわずかな間に、早変わりをしてみせた。
軍服をイメージした、きらびやかながらかっちりした衣装から、シルクの白いシャツに黒い革のパンツ。
くしゃりと髪を無造作にかきあげると、ストイックな美形が、ワイルドでセクシーな男にかわっていた。
曲もアップテンポのものにかわり、アシスタントのグラマーな美女達が、セクシーな衣装でエドウィンを取り囲んでいく。
ステージはフィナーレに向けて、加速度を上げ、展開はめまぐるしく変化する。
サリーは、エドウィンのステージでは、この終盤が大好きだった。
派手で豪華な、まさにイリュージョン。
ステージのエドウィンは、立ち止まることなく、次々と観客に幻想を見せてくれる。
豪華な美女が、大きな布に包まれた瞬間、彼女の姿は消えうせて、かわりにたくさんの風船が出現する。
サリーが大好きな、最後のマジックだ。
色とりどりの大きな風船は、広いステージの上をぽんぽん飛び回る。
エドウィンは、銃をかまえ、その風船の中から一つ撃つ。
すると、大きな音を立てて風船が割れ、その中から、先ほど消えた美女が出現する……はずだったのだが。
サリーは、エドウィンが構えていた銃を下ろした時点で、何かトラブルがあったのかと、壁にもたれていた体を浮かせた。
このマジックは、エドウィンとアシスタント美女の連携とタイミングが、とても重要なのだと、昨日、スタッフの一人から聞いたばかりだ。
わずかなタイミングの狂いも、失敗につながるのだと。
それなのに、エドウィンは銃をおろしてしまった。
だが、銃を持っていたのとは逆の手に、いつの間にかナイフが握られている。
そのナイフが投げられ、風船が音を立てて割れた。
そして、美女の出現。
サリーは、思わず、ほっと肩を落とした。
観客は今のトラブルを、トラブルとは認識していないのだろう。
ステージのエドウィンも、これは予定通りという顔をして、観客からの拍手を受けている。
もしかしたら、本当に予定通りで、今日からナイフが使われることになったのかもしれないと、サリーは思った。
(でもなんか……気になるわね)
普段は、のほほんとした穏やかな気質のエドウィンだが、マジックのことに関しては、驚くほどの完璧主義者だ。
彼の気が済むまで、リハーサルは何度でも繰り返されるし、ステージ後の反省会は時に真夜中に突入する。
その魔法使いが、何も問題なく成功したとはいえ、銃からナイフへの変更をこんな風にやるはずはない。
アンコールを求める拍手の中、サリーはそっと会場を抜け出して、バックステージへと向かった。
魔法使いこと、エドウィンは、フィナーレの幕がおりると、それまでの笑顔からすっと真顔に戻った。
タオルを受け取って、顔の汗をぬぐいながら、早足でステージを降りる。
今日のステージは成功だった。だが、とんでもないアクシデントがあったのだ。
最後のバルーンマジックで使用する銃が、いつもの物と違っていたのだ。
このマジックのために、エドウィンが用意したものではない。
外見はまるっきり同じだったが、手に持って、別のものだとわかった。
重さや手触りだろうか、何か微妙に違っていた。カンだとしか言いようがない。
だが、エドウィンは自分のカンを疎かにすることはなく、咄嗟に、その銃の使用をやめた。
咄嗟の判断だった。そして、タイミング的にはギリギリだった。
あのマジックは、アシスタントとの連携が不可欠で、エドウィンはそのタイミングをバックミュージックのとある音でとっているのだ。
間に合ったのは、本当に奇跡的だった。
「エドウィン。驚いたわ」
足早に歩くエドウィンの隣に、そのバルーンマジックのアシスタント、ジェニーが並んだ。
彼女は小走りになりながら、硬い表情で、彼女よりもさらに硬い表情のエドウィンを覗き込む。
「どうして銃を使わなかったの?」
「それは、これから確かめるよ。それより、怪我はなかったかい?」
「大丈夫。腕に軽く当たっただけ」
エドウィンの投げたナイフは、バルーンを割って、ジェニーの腕にあたったのだ。
勿論、エドウィンは刃をつぶしたナイフを使ったので、大怪我することはないのだが。
それでも、ジェニーに当たってしまったのは、いつもよりもわずかにタイミングが遅かったせいだ。
「小道具のミス?」
「多分ね」
「針が出なかったの?」
「違うんだ。説明しにくいから。確認して、また連絡するよ」
ジェニーとの会話を打ち切って、エドウィンは小道具係りを探すために、人の多いバックステージを見回し始める。
小道具係りのトーラスは、控え室の手前で、誰かと立ち話をしていた。
確かあれは、今回のツアーをサポートしてくれている、イベント会社の男。サミュエル。
彼はこのツアーに同行し、ツアー中におきた様々なトラブルに対応している。会社との窓口役だ。
そのサミュエルが、あの銃を手に持っているのに気がついて、エドウィンは眉をひそめた。
小道具係りのトーラス青年が、楽しそうに少し誇らしげに、サミュエルに何か話し込んでいる。
きっと、その銃に関する仕掛けについて、説明しているのだろう。
「トーラス!」
エドウィンが小道具係りを呼ぶと、二人は顔を上げて、エドウィンの姿を認めた。
そして、銃を手に持つサミュエルが、笑いながら、その銃をエドウィンに向けてかまえてみせる。
「悪ふざけはよせ」
顔をしかめ、エドウィンが鋭く言う。
「ちょ、ちょっと、サミュエルさんっ。それ、針が出るんですからっ」
小道具係りのトーラスも慌てて止めに入っているが、サミュエルはにやりと笑い、銃をおろそうとはしない。
「なーに言ってんだ。これ、花がポンってでるんだろ?」
確かに、一発目は、先をつぶした針。
そして、二発目は、マジックでおなじみの小さな花束がでる仕掛けだ。
だが、今日は、一発目がまだ発射されていないのだから、花が出ることはない。
花どころか、針でもない、何がでてくるのかわからないと、エドウィンは大きな声で制止しようとした。
だが、制止は間に合わず、サミュエルは銃の引き金を引いてしまった。
バックステージ中に響き渡る、轟音。
同時に、エドウィンは突き飛ばされて、床の上に倒れ、肩を強く打った。
一瞬の静寂の後、今度は悲鳴と怒声でバックステージは騒然となった。
「……っ!」
体を起こすと、肩から背中にかけて、ずきりとした痛みが走った。
そして、とさりと胸に倒れ掛かってくる、暖かな重み。
そちらに視線を向けると、クリームブロンドの小さな頭が、ずるずると床に崩れ落ちそうになっていた。
「サリー?」
咄嗟に、彼女の体を抱きとめる。
ぬるりとした感触に驚いて顔を上げ、彼女の姿を確かめる。
サリーの右肩は、真っ赤な血で染まっていた。
「サリー!」
慌ててしっかりと抱き支えると、いつもひっつめにしているクリーム色の髪がさらりと零れ落ち、真っ青な顔からメガネがずり落ちる。
「サリー!」
悲鳴のような声が出た。
サリーは真っ青で、まるで死んでしまったかのようで。
何の罪もないサリーが、自分をかばったせいで死んでしまうなんて、そんなことはとてもではないが許せなくて。
だが、顔を近寄せると、薄く開かれたサリーの唇からは、細いながらもちゃんと呼吸するのが感じられた。
「救急車! 急いで!」
何が起こったのかわからず、呆然としている周囲に、エドウィンの張りのある声が響いた。
我に返ったスタッフが数人、はじかれたように駆け出していく。
エドウィンはマジック用のスカーフを取り出すと、止血のためにサリーの肩をぎゅっと縛る。
その衝撃にだろうか、サリーは薄目を開いて、エドウィンの方を向いた。
「サリー、わかるか? 気をしっかり持て。すぐ病院に連れて行く」
「……あなたは、無事? 怪我は?」
かすれた細い声に、エドウィンはしっかりと頷いた。
「無事だ。ありがとう、君のおかげで」
「よかった」
こんなときだというのに、エドウィンは、サリーの浮かべた微笑に心奪われ、身動きできなくなった。
初めて会ったときから、綺麗な女性だとは思っていた。
綺麗な髪を隠すようにひっつめにし、青い瞳の透明度はメガネのせいでかなり落ちていたが、それでも十分に美人だった。
だが、これほどまでに美しい女性だとは、思ってもみなかった。
細くさらりとしたクリーム色の長い髪に縁取られた顔はハート型で、そばかすの一つもない、白く、今は青ざめている。
白い彼女の顔の中で、瞳だけが色濃く、青い色で、とても印象的で、美しく。
その瞳に見つめられ、微笑みかけられてしまったエドウィンは、魂までも彼女に魅入られてしまった。
だが、エドウィンが固まっていたのは、ほんの数秒のことだ。
「……ごめんなさい」
つぶやいて、サリーは力なく目を閉ざしてしまう。
瞬間、彼女を失ってしまったのかと、エドウィンはサリーを抱き寄せる。
心臓の上に耳を押し当てると、しっかりとした鼓動を感じて、ほっと全身の力が抜けた。
「救急車、来ました!」
その声に、エドウィンはしっかりとサリーを抱えあげる。
誰かが、代わろうと言い、警察が来るのでここに居た方がいいと言っていたが、サリーを人任せにするつもりなどなく、エドウィンはそのまま救急車に乗り込んでいった。
警察の事情聴取を終え、エドウィンが警察署を出ると、一台の車がすっと車寄せに入ってきた。
見覚えのある車。運転席に座る男にも、嫌というほど見覚えがある。
「ありがとう、ナリス」
マネージメントをしてくれているナリスとは、デビューして以来の長い付き合いになる。
あまり表情を変えないナリスは、「ああ」と短く答えただけで、すぐに車を走らせ始めた。
「ずいぶん長くかかったな」
「まあね。真相がわかるのにも、時間がかかりそうだ」
長いため息をつき、エドウィンはシートの背もたれに寄りかかる。
刑事相手に同じ事を何度も話さなければならないのには、本当にうんざりした。
しかも、エドウィンを疑っているという態度を、あからさまに見せるのだから。
「俺とジェニーの関係について、根掘り葉掘り聞かれたよ」
「そうなるだろうな。お前がステージ上で、ジェニーを殺そうとしたという仮説を立てるのは当然だろう」
「勘弁してくれよ。どーして俺がジェニーを殺さにゃならんの。動機がないだろ、動機が。しかも、俺は撃つのをやめたんだぜ? 挙句の果てに、その銃で撃ち殺されるところだったんだ」
と、エドウィンはサリーの姿を思い出して、すねた表情から真顔に戻った。
勿論、彼女のことは取調べ中もずっと気がかりで、何度も病院に問い合わせさせたのだが、直接、顔を見なければ、やはり安心できない。
「病院、行ってくれ」
「駄目だ」
「ナリス」
「もう面会時間は終わっている。それに、サリーはよく眠っていた」
「寝顔見れればいい」
サリーに執着する様子のエドウィンを、ナリスはバックミラーごしに、ちらりと見てきた。
「明日朝一番に行け。いいな」
エドウィンは思いっきり顔をしかめて見せたが、口では何も反論しなかった。
多分、警察の尾行だかそんな煩わしいものが張り付いているのだろう。
挙動不審なことはするなという、ナリスの忠告をきかないわけにはいかない。
「いつすりかえられたか、わかるか?」
「今朝のチェックでは、問題なかった。それ以降、俺はノータッチだったからな」
「サミュエルとジェニーも、長々と取調べだった」
「だろうな。ジェニーは大丈夫なのか?」
「一応、平静を保ってはいた」
もし、銃がすりかえられていることに気がつかず、あの時撃っていたら。
ジェニーに銃弾があたっていたかどうか、あたっていた可能性は低いとエドウィンは思っている。
だが、その可能性は百パーセントではない。
もしかしたら、ジェニーはステージの上で死んでいたかもしれないのだ。
誰が狙われていたのか。
その可能性が最も高いのは、やはりジェニーだ。
命を狙われているとなれば、誰だって平静ではいられない。
しかも、自分を狙ったかもしれない銃弾が、他の誰かを傷つけたとなれば、苦しみは倍加する。
「犯人に心当たりは?」
「あるか、そんなもん」
吐き捨てるように答え、エドウィンは腹立ち紛れに、助手席のシートの背を蹴りつけた。
「しっかりしろよ、魔法使い。お前の舞台だろうが」
「言われるまでもないね。俺のテリトリーで勝手しやがって。警察より先に見つけ出して、俺を利用しようとしたことを後悔させてやる」
もう少しで、ジェニーを傷つけてしまうところだった。
もう少しで、殺されるところだった。
そして、サリーを傷つけてしまった。
この代償は、とてつもなく重いのだ。
◆
翌朝。
九時になるのを待って、エドウィンはサリーの入院している病室の扉をノックした。
「どうぞ」
ドアノブに伸ばした手の平に、いつの間にか汗をかいていたことに気がつき、エドウィンはそっと深呼吸した。
どうやら、柄にもなく緊張しているらしい。
きちんと笑顔をつくれることを確認してから、ドアを開けた。
「おはよう」
「エドウィン」
ベッドの上のサリーは、エドウィンの姿を認めて、驚いたように目を見開いた。
大きな青い瞳にじっと見つめられ、エドウィンは居心地が悪いような、天国に居るような、不思議な気分になった。
「気分はどう? 朝食は食べられた?」
「ええ、大丈夫よ。驚いたわ。リハーサルはいいの?」
「君にお礼を言うのが先じゃないか」
起き上がろうとするサリーをとめて、エドウィンはそっと花束を差し出した。
「ありがとう……。嬉しいわ。よかったのに」
「とんでもない。君は、俺の命の恩人なんだから」
「咄嗟にしたことよ」
サリーはエドウィンを突き飛ばすようにして銃弾から守り、かわりに被弾してしまった。
幸い、右肩を打ち抜かれた傷は重傷ということはなく、時間がたてば元通りになると、エドウィンは昨夜の時点で確認していた。
だが、ずっと心配で仕方がなく、またあの青い瞳はきちんと開いて、ちゃんと自分を認識してくれるのか、不安でたまらなかったのだ。
今、サリーは穏やかに微笑んで、じっとエドウィンを見つめてくれている。
長い髪は寝乱れてくしゃくしゃで、でもそれがたまらなく可愛らしくて。なにしろ、普段の彼女は、ビジネススーツにきちんと身を包んで、すきがないという感じだから。
痛み止めのせいだろうか、少しぼうっとした感じの青い瞳は、なんだか頼りなげにじっとエドウィンを見つめていた。
(俺……マジで一目惚れ?)
命救われて、恋におちるなんて、よくある話かもしれないが。
それって、普通は、男が救って女が惚れるんじゃ?と、自分で自分に馬鹿なつっこみをしてみたり。
だが実際、どこか無防備なサリーの姿に、心臓はばくばくしている。腕がむずむずサリーのほうへ伸びていこうとするのも、どうやら気のせいではないらしい。
「マジシャンのあなたに、怪我がなくて、本当によかったわ」
エドウィンはぶんぶんと首を横に振る。
よくなんてあるはずがない!
そのせいで、サリーはこんなひどい怪我をしてしまったのだ。
本当なら、俺なんか守らずに、自分の体を大切にして欲しかった!と力説したいところだったが、命の恩人に向かって、それはさすがに失礼すぎるだろう。
「今日のステージはどうなるの? ちゃんと出来そう?」
ふと、サリーが仕事の顔をした。
サミュエルの部下である彼女が、この事件がツアーにどういった影響をもたらすのか気にするのは、当然のことだろう。
もしかして、咄嗟に助けてくれたのは、ステージに穴をあけないためなのだろうかと思い当たり、エドウィンは少しブルーな気分になってしまった。
「出来ると思うよ。バルーンのマジックは変えるけどね。ジェニーはやりたがらないだろうし、警察からもストップがかかりそうだ」
「その……。あなたが銃を使うのをやめたのは、実弾が入っていることに気がついたからなの?」
「そこまではっきりとはわからなかったよ。ただ、いつもと違う銃だと感じたから、やめておいたんだ。何が発射されるかわからないからね」
「すりかえた犯人は?」
「まだ、わかっていないよ。これからだろうね」
「ジェニーが、狙われたの?」
「警察は、どうやらそう考えているみたいだ。で、犯人の第一候補は、俺」
サリーは目を丸くした。
どうやら、殺人犯になるような男ではないという信用はあるらしい。
それが嬉しくて、エドウィンはにっこりと微笑んでいた。
「仕方がない。あの時、俺が発砲していれば、ジェニーは傷ついたかもしれないから」
「……動機は?」
「痴情のもつれとか、期待されているみたいだけど。あ、そういうのはないから」
現在、エドウィンに付き合っている女性はいない。
これは一応、サリーに対してのアプローチの一つだったのだが。
サリーはエドウィンの意図になど全く気がつかず、何か難しい顔をして考え込んでしまっている。
「サミュエルの話はもう聞いた?」
「直接には。驚いているようだよ。当然かな。悪ふざけがこんな結末になって、怯えているそうだ。もう二度と人に向かっておもちゃの銃でも、銃口を向けないと誓ったとかなんとか」
昨夜、車の中でナリスに聞いた話を披露しながら、エドウィンはふと自分が無駄なく事件のことを話しているのに気がついた。
それは、サリーの的確な質問に答えているからだ。
サリーはとても有能な女性で、上司のサミュエルなんかよりもずっと頼りになるイベンターだ。
ツアー中、必ず起こるちょっとしたアクシデントも、サリーは手際よく解決し、現場をフォローしてくれていた。
「髪、おろしているほうが似合うね」
きちんとまとめて、メガネをしていると、その美貌もあって、サリーはどこか中性的な存在だった。
仕事場で、女性を感じさせないようにわざとそうしてくれていたのかもしれない。
だが、一人の男としては、やはり、髪を下ろして無防備な感じの今のサリーの方に、ぐっとくるものがある。
エドウィンの視線をどう解釈したのか、サリーはちょっと困ったように微笑んだ。
「演目を変えるのなら、リハーサルはいつもの倍以上かかるんじゃない?」
そろそろ帰ったほうがいいわよと、小首を傾げられ、エドウィンはその可愛らしさに悶絶しそうになりながらも、さっさと追い払われた事実に、少しばかり傷ついていた。
幕がおり、エドウィンは肩を落として、大きく息をついた。
今夜の舞台は大失敗だ。
観客は誰も彼も、昨夜の発砲事件を知っていて、今夜はどうなるのかとそればかり気にしていた。
最後のバルーンマジックが、他の演目とかえられたことに気がつくと、落胆の表情を見せる客までいたのだから。
「ナリス!」
ステージを降りると、マネージャーの腕を引っ張って、有無を言わせず控え室に飛び込んだ。
「ツアーは中止だ。ステージはしばらく休む」
ナリスはわずかに眉をひそめた。
「無茶なことを。ツアーはまだ残っている。チケットはもう売り切れているんだ」
「中止。返金」
「理由はなんだ。昨日の事件か」
「そう。印象が強すぎた」
エドウィンは顔をしかめ、少々乱暴に、脱いだ衣装を椅子へ放り投げた。
イライラと物に当たっているエドウィンの姿に、ナリスは少し呆れたような視線を向ける。
だが、今の彼の言葉を額面通りに受け取って、慌てる様子はなかった。
ステージの上のエドウィンは、非の打ち所のない『魔法使い』だ。
観客全てに魔法をかけて、ショーの間、夢の時間を提供する。
役者としての才能も高く、衣装やメイクで、自分の持つ印象をがらりと変えてもみせる。
時にノーブルな王子様であり、ワイルドな雄であり。陽気な話術で観客を笑わせたと思えば、幻想的に美しいマジックで陶然とさせる。
彼は天性のエンターティナーで、その才能は天才と称されるにふさわしいものだ。
プロ意識も強く、努力も怠らない。
その彼が、途中でステージを放り出すなんて、しかもその理由がステージを成功させられないからだなんて、あるわけがない。
事件の影響というのは、エドウィンの誤導。
マジシャンが右手に観客の注目を集めながら、左手でこっそりトリックを仕掛ける、それと同じ。
エドウィンの本当の目的は、全く別の所にあるに違いない。
「犯人捜しするつもりだな」
ナリスの言葉を、エドウィンは無視した。
「いつものお前なら、事件のことなんか忘れさせるぐらいのステージにすると、逆に張り切るはずだ。ステージを続けるなら、そうしなければと思っている。だが、お前は犯人捜しをしたいから、時間がない。だから、ステージを休む。そこまで犯人捜しを優先したい理由は?」
ナリスを振り返ったエドウィンの視線は、いつも陽気で人当たりのいい普段のエドウィンを知る者達なら驚くほど、剣呑だった。
「ジェニーは危険だ。まだ、狙われている可能性が高い」
「警察に任せておけ。昨夜からずっと護衛がついている」
「俺を利用しようとしたんだぞ。しかも、俺のステージの上でだ」
「その犯人を捜すためにステージを休んだんじゃ、本末転倒だろう」
「サリーが撃たれたんだぞ!」
「………」
「………」
「……女か?」
半信半疑で言ったのだが、エドウィンは否定しない。ナリスは驚いた。
確かに、病室で会ったサリーは、仕事をしている時の彼女とは別人のように、女らしくて綺麗だった。
驚くほどの美女だったと言っても、まあ問題はない。
だが、エドウィンは今までステージと引き換えにするほど、誰かを愛することはなかった。
エドウィンにとって、一番大切なのは常にマジックでありステージで、恋人がそれを理解せずに無理を言い出せば、すぐに別れていた。
ちらりとエドウィンの顔を見れば、信じがたいことに、彼は本気のようだった。
「命を救われて何か期待してるのか。それとも、頭を打ったショックで、錯乱しているのか」
「黙れよ。どっちでもないに決まってるだろ」
顔をしかめ、そんな甘い期待をするわけないだろと、ぶつぶつと嫌そうにつぶやいている。
「彼女に助けられたんだ。そのお礼に、犯人あげるぐらいしなけりゃ、みっともないだろーが」
「ステージを休む方が、数段、みっともないと思うがな」
それに、エドウィンがステージをキャンセルすれば、サリーの会社が一番被害をこうむる。サリーを困らせるばかりだ。
不覚にも、エドウィンはそのことをすっかり忘れていたらしい。
うっと押し黙り、考え込んでしまった。
「とりあえず、ステージに集中したらどうだ」
「無理っ不可能っ大却下っ」
と、うなりながらも、エドウィンは控え室の中をぐるぐる歩き始める。
時々物に当たっているが、あーだこーだ言いながら、ステージの演目をどう改良するかということに集中し始めているのがエドウィンらしい。
少々子供っぽいところがあるのだが、エドウィンは子供のような真似はしない。
きちんとやるべきことを完璧にこなすから、その点、ナリスは全く心配していなかった。
「ああ、そういえば」
つぶやいて、ぴたりとエドウィンは足を止める。
そして、ナリスへと視線を向けた。
「なあ、あの『ごめんなさい』の意味」
「?」
「……なんでもない」
どうやら、ナリスを誰かと間違えたらしい。
もしくは、自分の考えに没頭しすぎて、ナリスがそれに無関係だということを忘れていたか。
珍しいことではないので、ナリスは気にしなかった。
そんなことよりも、エドウィンがとうとう運命の相手と出会った、かもしれないことのほうが、ナリスにとって重要だった。
勿論、これからのエドウィンのマネージメントに深く関わってくるからで。
早速、彼女についての資料を集めようと、決めていた。
◆
翌朝。
またもや九時に、サリーの病室をノックしようとしたエドウィンは、病室から出てきた人物と鉢合わせた。
「あ、こりゃ、どうも」
「……どうも」
ぶつかりそうになって、部屋から出てきた初老の男は、愛想よくぺこりと頭を下げ、そのまま出て行った。
(何者だ?)
なんとなく、サリーの父親という雰囲気ではなかった。
後姿を見送り、『刑事?』という印象を受ける。
「あら、エドウィン」
扉口に立ちっぱなしのエドウィンに、病室からひょこっと顔を出し、サリーが微笑みかけた。
「おはよう。今日も来てくれたのね」
「当たり前じゃないか。って、あれ?」
サリーは右手を吊ってはいるが、もう平服に着替えている。
ベッドの上には小さなバッグが置かれていて、病室には私物らしいものはそれ以外になにもなかった。
「今朝、退院許可が出たから」
「ええ! だって、まだ撃たれたばかりで」
「貫通していたから、手術もなかったし。後は自宅療養で十分なのよ」
「そんな。熱はもう下がったの? 痛みはまだあるんだろう?」
「熱はもう下がったわ。痛みがあるのは当たり前。でも、痛み止めが出るし」
なんだかサリーは冷静で、平然としている。
まるで、銃で撃たれるのになんて慣れている感じで。そんなわけがないが。
サリーが平然としている分、エドウィンは慌ててしまった。
「自宅療養って、しばらく右手は使えないじゃないか。ご家族と同居しているの?」
「一人暮らしよ」
「それじゃ、とても自宅療養はできないよ」
「大丈夫よ、エドウィン」
サリーは慌てているエドウィンの様子に、小さく微笑んでいる。
だが、顔色はまだ当然悪く、エドウィンはとても心配だった。
しかも、退院すれば、サリーとはあまり会えなくなってしまう。
しばらく仕事は休むだろうし、サリーの会社も新しい担当者を派遣してきているのだから。
「とても大丈夫そうには見えないよ。そうだ」
と、エドウィンはとてもいいことを思いついて、にっこりと口の端をあげた。
「俺の家に来るといいよ。俺が看病するから」
サリーは目を見張った。
「空いている部屋がいくつかあるから、そこを使うといい。ハウスキーパーを頼んでいるから、何もしなくていいし」
「ちょっと待って」
「ペントハウスだよ。なかなか夜景は綺麗だし、君も気に入ってくれると思う。俺はステージがあるから、あまりいられないけど」
「ちょっと待って」
怖い顔で睨まれて、エドウィンはようやく口を閉ざした。
「あなたは一人暮らしでしょ?」
「うん、まあ」
「そんな簡単に、女性を同居させるの?」
「まさか。同棲したことはありません」
「それならなぜ、こうも簡単に、私に同居をすすめるの?」
「そりゃ。君は命の恩人だからね」
これ以上の理由はあるまいと、エドウィンは胸を張って答えたのだが、サリーは納得しなかったようだ。
また、怖い顔でにらまれてしまった。
「自分のことは自分で出来ます。ご心配なく」
「だけど、俺は君に恩返しがしたいんだ。少なくとも、俺のために負った傷で、君が不自由をするのは堪えられない」
「恐ろしく芝居がかった台詞じゃない?」
「芝居は俺の得意とするところだし」
「私が勝手にあなたを守ったんだから、気にしないでもらいたいわ」
「そりゃあ、無理」
きっぱり断言し、にこにことした笑みを顔に貼り付けたエドウィンを、サリーはとても胡散臭いものを見る目で見ている。
「……あなたがこんな人だなんて知らなかったわ」
舞台の上では華のある美貌の天才魔法使い。舞台を下りた彼も、少々完璧主義すぎるところはあっても、優しくて紳士的で、愛嬌があって人好きのする人気者。
それが、エドウィンを知る人々の彼に対する評価。サリーもそう思っていたのだが。
今、目の前にいるのは、どこか子供っぽいくせに強引で、油断ならない目をした、怖いぐらい魅力的な男だ。
「俺だって、君がこんな人だとは知らなかった」
サリーは、仕事場では常に冷静沈着。クールで、どこか中性的。
だが、エドウィンの腕の中で見せた無防備な微笑みは、一瞬にしてエドウィンを恋におとしたほどに美しくて、儚げで、守ってあげたいと強烈に思わせて。
あれがきっと本当のサリーなのだと、エドウィンは確信している。
とりつく島もない完璧な外見の中に、サリーはあの美しさを隠しているのだ。
そして、その本当のサリーを、絶対に手に入れるのだと、エドウィンは心に決めていた。
そのためにも、ここは絶対に押し切らなければならない。
「そんなに警戒することないさ。客間のドアは鍵がかかるし。今の俺はステージが忙しくて、ほとんど部屋には帰れないし」
「それなら、お邪魔する必要ないでしょ」
「掃除の必要なし。食事の準備も必要なし。洗濯もしなくていいし、退屈もさせないよ。映画は好き?」
「ええ、まあ」
「DVDがたっぷりあるよ。ゲームも揃ってる。本もあるよ。決まり?」
子供のようにきらきらした目で、期待たっぷりに見つめられ、サリーは思わずため息を付いてしまった。
「決まりだね」
と、エドウィンはさっさとサリーの荷物を取り上げてしまった。
「ねえ、あなたって、いくつ?」
エドウィンはプロフィールを一切公開していない。
デビューしていきなりFISM(世界的なマジックコンテスト)で優勝したのは、もう十年前だ。
その時、二十代だとすれば、もう三十をすぎていることになるが、サリーには彼が自分より年上だとは思えなかった。
「教えたら、来てくれる?」
「教えなくても、連れて行く気のくせに」
「行くと言ってくれると嬉しいんだけど」
エドウィンの表情豊かな深い緑の目は、じっとサリーを見つめている。
さっきまではひどく強引で強気だったのに、今はなんだかちょっと寂しそうにも見えた。
「……教えてくれたら、行くわ」
ぱっと、エドウィンの顔に笑みが浮かぶ。
その笑顔はお日様のように、明るくて輝かしくて、サリーは頬が少し熱くなるのを感じていた。
「君と同じだよ」
「……二十七?」
「そう。誕生日は君より半年ほど前だけど」
「嘘っ」
だとすれば、エドウィンがFISMで勝ったのは、十七の時だったことになる。
マジック界のオリンピックと呼ばれるFISMに勝つのは、簡単なことではない。
だが、今目の前で茶目っ気たっぷりにサリーを見ている男は、二十七という年齢がしっくりくる。
「俺は早変わりとか変装が得意だから、いくらでも年齢ぐらい誤魔化せるよ。舞台の上では、魔法使いだしね」
魔法使いは年齢不詳と決まっているだろ? と、エドウィンは片目を閉じた。
サリーは何も言えず、ただため息をつく。
「でも、これは秘密だから。よろしく」
「わかったわ」
毒気を抜かれてしまったサリーは、そのまま大人しくエドウィンに連れて行かれることになった。
◆
翌朝。
ぐっすり眠り、爽快な気分で目を覚ましたサリーは、どうにか着替えをすませると、そっと部屋を出てみた。
扉をあけると、コーヒーのいい香りがした。
昨日、紹介されたハウスキーパーは午後から来るはずなので、エドウィンがいれているのだろう。
「やあ、おはよう」
ダイニングに入ると、エドウィンに声をかけられた。
ダイニングテーブルに新聞を広げ、コーヒーを飲んでいる。
「おはよう。早いのね」
「早いかな。もう八時だよ。よく眠れたみたいだね」
「おかげさまで」
コーヒーを取りに行こうとしたサリーを制し、エドウィンがキッチンに向かった。
「砂糖かミルク、いる?」
「ブラックでいいわ」
カップを手に戻ってきたエドウィンの姿に、サリーは思わず見とれてしまった。
つやつやの金色の髪はくしゃくしゃに寝乱れて、大きな緑の瞳は眠そうに少したれ気味。
洗い晒しで色の抜けたジーンズに、首が伸びている白いTシャツのエドウィンは、とてもリラックスしていて、それでも彼の持つ華やかさとか輝きはちっとも失われず、まるで豪華な野生の獣が寝そべっているような感じだ。
「ブラックは胃に悪いよ」
「え?」
見とれていたせいで、聞き逃してしまった。
「だから、ミルクか砂糖を入れた方がいい」
「カフェオレを飲みたいときはそうするけど」
「じゃ、カフェオレにしようか」
「朝はブラックが好きなの」
ふと、エドウィンのカップを見ると、ミルクがたっぷり入った色をしていた。
顔を上げると、エドウィンがにやにやしてサリーを見ている。
視線で促されて、サリーはエドウィンのコーヒーを一口飲んでみた。
「……甘い」
「砂糖は脳の発達にかかせないんだよ」
「それは子供の話でしょ」
「俺の脳味噌は今も成長を続けているからさ」
どう見ても、コーヒーはブラックという感じのエドウィンが、大真面目にこんなことを言うので、サリーは思わず吹き出してしまった。
つられて笑い出したエドウィンと、ひとしきり笑いあう。
エドウィンは笑いながら立ち上がった。
「朝食はリクエストあるかい?」
「もしかして、料理もできるの?」
「当然。一人暮らしが長いからね」
エドウィンはふわふわのオムレツを作って、サリーをまた驚かせた。
手先の器用なマジシャンだからだろうか。
それにしても、ステージの上にいる彼とはまるで違っていて、サリーは何度もエドウィンに見とれてしまった。
「今日の予定は?」
聞かれて、サリーは首を傾げる。
「そうね。ちょっと買い物したいわ。どうしても、着替えがしにくくて。楽に着れる前あきのシャツが欲しいの。少し大きめの」
「それなら、わざわざ買わなくても、俺のを貸してあげるよ」
「え。でも、悪いわ」
「まあまあ、そう言わずに。恩返しさせてよ」
エドウィンは寝室から前あきのシャツを数枚持って来ると、サリーの前で広げた。
ステージではシルクのシャツを着るエドウィンも、私服はごく普通の綿のシャツで、サリーは安心した。
そして、そんなこと当たり前ではないかと、おかしくなった。
「なに?」
くすくす笑い出したサリーに、エドウィンがぱちぱちと不思議そうに瞬きしている。
「これでいいのかしらって、思って」
「?」
「私が知っているあなたは、ほとんどステージの上にいる魔法使いだし、それ以外で知っているのも、ステージの裏にいる仕事中のあなたでしょ。こういうプライベートなところを見せてもらうと、そのギャップに戸惑うわ。それに、こんな風に親しくなっていいのかしらって思うの」
「………」
「ごめんなさい。私、はっきり言い過ぎたわね」
「いいや。率直な君はすごく好きだな」
少し驚いていたエドウィンだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「俺はプライベートで君と親しくなりたいと思っているんだ」
サリーの流儀にならって、エドウィンも率直に話してみた。
「君にとても興味がある」
本当は興味どころではないのだが、そこらへんはちょっとごまかしておく。
サリーは驚いたようで、軽く目を見張り、エドウィンをじっと見つめている。
「あなたが私に? 興味?」
興味の意味をどう取るのか、それはサリーに任せよう、合わせようと思っていたのだが。
サリーは、ちゃんと、男女間における興味と受け取ってくれたようだった。
それは少なくとも、サリーが自分を異性として意識している証拠ではないかと思えて、エドウィンは嬉しかった。
だが、ニコニコで頷いたエドウィンに、サリーはますます目を丸くする。
「私はあなたのように特別な人間じゃないわ。もし、私があなたの命を救ったことで、そう言ってくれているのなら」
「違うよ。きっかけになったことは否定しないけど」
「私があなたを救ったのは、あなたに特別な興味を持っていたからではないわ。咄嗟の行動だったし」
「うん、わかってる。変な誤解はしていないよ」
はっきり痛いことを言ってくれるサリーの手を取り、エドウィンはそっとその甲に口づけした。
「同居していることを変に利用しようとも思っていないよ。そこら辺は信用してほしい」
「……驚いていて、まだなんとも言えないけど」
「急ぐ必要はないさ。ゆっくり、お互いを知り合おうよ」
と、エドウィンはサリーの頬に軽くキスをした。
それはとてもさりげなく自然な友達のキスで、少し驚いたサリーも、にっこりと微笑んだエドウィンに微笑み返していた。
◆
リハーサルの合間に、エドウィンは控室で刑事と会っていた。
この事件の担当になったというコスナー刑事は、まだ若く刑事になって日も浅いように見えた。
「俺の容儀は晴れたわけ?」
開口一番、エドウィンがそう聞くと、コスナー刑事は苦笑をもらした。
「一応は」
エドウィンとジェニーには、仕事上での関係しかない。
仕事上でもトラブルもなく、ごくごく良好な雇用関係なのに、そういつまでも疑ってはいられないだろう。
エドウィンは、ひとまず、刑事達が無駄な捜査をして時間を無駄にすることがなくなったことに安堵した。
「今は、ジェニーの周囲の人々と、あの銃に近づくことの出来た人物を中心に捜査しています」
「トーラスは無関係だと思うけど」
小道具係の青年は、昨日も今日も、警察の事情聴取に連れて行かれている。
彼が最もあの銃に簡単に近づけたのだから仕方がないとはいえ、エドウィンには彼が無関係だとしか思えなかった。
もしトーラスが犯人なら、エドウィンが銃を使わなかった時点で、すぐに銃を元の物にすり替えていただろう。
そうすれば、エドウィンの感じた違和感は気のせいですんだだろうし、悪ふざけしたサミュエルが発砲してしまうこともなかったのだから。
「ところで、ミズ・アグンを自宅に引き取られたそうですが」
「ああ、サリーね。そうだけど、なんか問題が?」
「彼女とは付き合っているんですか?」
「それ、捜査に関係すること?」
「まあ、一応は」
申し訳なさそうなコスナー刑事の様子に、エドウィンは軽く肩をすくめてから答えた。
「そんな楽しいことはさせてもらってないよ。そうさせてほしいなぁと思っているけどね」
「あなたの方が、ですか」
「そういうこと。彼女には、はっきり言われたよ。俺を助けたのは、咄嗟の判断だったと。深い意味はないそうだ」
コスナー刑事は驚いたようだった。
「だとしたら、彼女は凄い女性ですね。普通、そういった状況に遭遇したら、まず逃げるか、でなければ足がすくんで動けなくなるもんじゃないかな。とてもではないですが、赤の他人を助けようと身をはることなんて出来ませんよ」
「………」
コスナー刑事の言葉は、現実味にあふれていた。
もしかしたら、体験談なのかもしれない。
刑事がそれでいいのかと思いもしたが、エドウィン自身、銃口を向けられたとき、咄嗟に何も出来なかったことを思い出していた。
勿論、その銃から実弾がでてくるなんて、思ってもいなかったということもあるが、それはサリーだって、同じだったはず。
「それに、同居するのなら、少しは脈ありなんじゃないんですか?」
「どうかな。彼女はこういう時に頼れる人がいないようだよ。ご両親は事故で亡くなられたそうだし」
「それでも、若い女性が、若い独身男性と同居するなんて、よっぽどでしょう。自信をもたれては?」
「そう、かな」
サリーにもいくつか聞きたいことがあるので、今度、連絡するというコスナー刑事の話を聞きながら、エドウィンは考え込み始めてしまっていた。
強引に同居を決めておいて今更だが、コスナー刑事の言うとおり、何かちょっとおかしい……というか。
(もしかして、サリーは俺のことが好き、とか)
だとすれば、銃弾から救ってくれたのも、同居に合意してくれたのも、全て納得がいくではないか。
瞬間、エドウィンの頬はにやけて緩んでしまったが、今朝、サリーがきっぱりと特別な興味はないと言ったことにも嘘はないだろうと思えて、すぐに真顔に戻った。
(いやでも、信用はされているんだよな。多分)
だとしたら、その信用をなくさないように、しっかりばっちり行動あるのみ。
銃をすりかえた不届きな犯人も、きちんと捕まえなければ。
ぐぐっと、エドウィンは密かに拳に力を込めた。
「コスナー刑事。ジェニーにはもう会えますか?」
と、エドウィンが顔を上げると、コスナー刑事のなんとも珍妙な表情に気がついた。
笑うのをこらえているのか、驚いているのか、よくわからない。
「コスナー刑事?」
「あ、は、はいっ。彼女は明日にも帰宅する予定ですよ」
狙われている可能性が高く、精神的にもかなり参っていたジェニーは、今現在、警察の保護下にある。
「そりゃどうも」
コスナー刑事は、エドウィンの百面相がおかしくて笑い出すのをこらえていたのだが、魔法使いがそれに気づくことはなかった。
夜。
エドウィンが帰宅すると、電話中だったサリーが振り返り、おかえりなさいを言う代わりに、にっこりと微笑んでくれた。
そして、目線でちょっと謝ると、エドウィンに背を向けて、電話を続ける。
「ええ、そう。……どうもありがとう。また、連絡するわね」
エドウィンが帰ったからだろうか、サリーは電話相手に挨拶して、早々に電話を切った。
「ごめんなさい。電話を借りてしまって」
「遠慮なくどうぞ。でも、携帯は?」
「電池切れ。充電器を持ってくるの忘れてしまって」
病院からこの部屋に来る前、サリーのアパートに寄って、当面の着替えなどを持ってきているのだが、充電器までは気が回らなかったのだろう。
「それは不便だ。どっかに、電池式の充電器があったと思うんだけど」
どこのメーカーの携帯にも使用できるタイプのだから、サリーの携帯も充電出来るはず。
エドウィンは顎に手を当てて、う~んと考え込むが、どこにしまったか思い出せない。
このペントハウスには、作りかけのマジックの仕掛けなどが散乱していて(作っている途中で飽きてしまうと、そのまま放置されるため)、捜し物はなかなか見つからないのだ。
「魔法使いなら、パチンと指を鳴らせば出せるんじゃないの?」
からかうようなサリーの口調は珍しくて、エドウィンは微笑みながら振り返る。
「そうだなぁ。それじゃあ、出してみようか」
と、サリーに右手を差し出すと、パチンと指を鳴らす。
「充電器じゃないわ」
エドウィンの右手には、小さな白い薔薇の花が一輪。
サリーはくすくす笑いながらも、差し出した花を受け取ってくれた。
「今日はちょっと調子が悪いかな」
と、もう一度指を鳴らす。
次に現れたのは、金色の紙に包まれたキャンディーだった。
どんどん指を鳴らし続ければ、クッキーにチョコレート、色取りどりの花に、今子供の間で人気のあるTV番組のヒーローのブロマイドまで出てきて、サリーは子供のように笑ってくれた。
「わかった。子供に魔法をせがまれるから、そのために仕込んでるんでしょ」
「違う違う。充電器を出したいんだけど、調子が悪いのさ」
「あなたって、面白い人ね、エドウィン」
「エド」
「え?」
「出来れば、そう呼んでほしい」
「理由がないわ」
エドウィンはそっとサリーの左腕を取り、彼女を引き寄せた。
勿論、彼女が少しでも抵抗すれば、すぐにやめるつもりだったし、彼女の力でも十分に振り払うことの出来る力でしか掴まなかった。
それでも、サリーはまったく抵抗せず、ただじっとエドウィンを見つめていて。
エドウィンが顔を近づけると、わずかに目を伏せてくれたので、遠慮なく、彼女の唇に自分の唇を触れ合わせ、一度だけぎゅっと押しつけ、すぐに離した。
「俺達が、ちょっと親しくなったのが理由というのは?」
サリーは答えず、じっとエドウィンを見つめていた。
サファイアのような、透明感のある青い瞳の美しさに、エドウィンもまた、サリーをじっと見つめたまま動けない。
今日は背中におろしている長いクリーム色の髪にそっと手を伸ばし、指でさらっととかした。
「この同居は、そんなに長く続かないわ」
「そうかもしれない。でも、俺達の関係が終わるわけじゃない」
「私達にはなんの接点もないわ」
「どうして? 君の会社とはまだ一緒に仕事をしているよ。さすがに、サミュエルは担当を外されたけどね」
「私もきっと外されるわ。もう、あなたに会うことはない」
「会おうと思えば、いくらだって会えるさ」
サリーは視線をそらすように俯き、わずかに顔をゆがめた。
それがまるで、嫌悪しているように見えて、エドウィンは胸がぎゅっと痛んだ。
「サリー」
再び口づけようとしたエドウィンだったが、今回はサリーの拒否にあった。
そっと押しのけられ、彼女との間に半歩ほどの距離が出来る。
「充電器は?」
にっこりと微笑んだサリーは、もうこの話題は終わりと、表情で態度でエドウィンに伝えていた。
だが、エドウィンとしては、このまま引き下がりたくはない。
だからといって、しつこくしてサリーに嫌われるのも嫌だ。
「エドって呼んでくれれば、出してあげるよ」
「………」
「………」
「出して頂戴、エド」
「了解」
エドウィンは、右手を高々と掲げると、パチンと指を鳴らす。
同時に、部屋の明かりは消え失せた。
「きゃっ」
ばさりと頭から布がかぶせられ、サリーは小さな悲鳴をあげる。
どこから出したのか、かなり大きな布からようやく脱出すると、部屋の明かりがついた。
突然の光に目を瞬きすると、すいと差し出されたエドウィンの右手には、充電器が乗せられていた。
「……お見事。」
明かりを消し、サリーが布から出る間に、エドウィンが探して取ってきたのだとわかっていても、あまりにも鮮やかな手並みには、ため息しかでない。
「どーも」
エドウィンは楽しそうに笑っていた。
マジックをする彼は、いつも楽しそうにしている。
サリーは携帯を充電器につなげながら、何やらルンルンな様子で、着替えをしてコーヒーをいれているエドウィンを見ていた。
こんな夜遅くに、本気でコーヒーを飲むつもりだろうかと思っていると、ミルクをたっぷりとカップに注いでいる。
多分、コーヒーとミルクと、半々ぐらいだろう。
(………)
キスをされた時、エドと呼ぶように言われた時、彼の男臭さに自然と後込みしてしまった。
鮮やかなマジックを見せる彼は、ステージの上にいた魔法使いを思い出させる、存在感があった。
でも、子供のように楽しそうに笑い、ミルクたっぷりのコーヒーをおいしそうに飲むエドウィンもまた、魅力的だと、サリーは思った。
「さてさて。ちょっと付き合ってよ」
と、エドウィンはにこにこしながら、サリーの前のローテーブルにカードを持ってやってきた。
「なに?」
「カードマジックするからさ」
器用にカードをぴんぴん飛ばしながらシャッフルし始めたエドウィンに、サリーはちょっぴり呆れる。
「疲れていないの? ステージして帰ってきたんでしょ。明日もステージだし」
「平気だよ。俺にとって、これが日常だしね」
そう言うエドウィンは、確かに疲れているようには見えない。それどころかとても楽しそうだ。
「なんだか意外だわ。あなたはイリュージョンしかしないと思ってた」
「ステージが一番好きだけどね。こうやって至近距離でするのも、クロースアップマジックって言うんだけど、これも大好きだよ。違う楽しさがあるからね。さあ、カードを一枚引いて」
引いたカードを確認し、それをカードの山に差し込む。
エドウィンはさらさらっと、カードをシャッフルした。
「さーて。サリーの引いたカードはどこかな。ちょっと呼んでみてくれる?」
「え?」
きょとんとしたサリーに、エドウィンは茶目っ気たっぷりにウィンクする。
「君の引いたカードはすっごくシャイなんだよ。呼んでくれないと、出てこれないって言うんだ」
「ええ?」
「じゃ、ちょっと俺が呼んでみようか」
お~い、出ておいで~と、本気なのか冗談なのか、とにかく真顔でエドウィンが呼ぶと、唐突にサリーの目の前にカードが天から降ってきた。
「!」
慌てて天井を見る。
だが、そこになにか仕掛けがあるわけない。
エドウィンが投げたのかもしれないが、全く気づかなかった。
「どう?」
「……違うわ」
だが、降ってきたカードは、サリーの選んだカードではなかった。
「ん~。やっぱり、サリーが呼ばないと、出てこないんじゃないかな。お~い、出てこ~い」
今度は、エドウィンの肩の向こうから、ぴょこりとカードが頭を出した。
それをエドウィンが取って、サリーに差し出す。
「違う」
「やっぱり、君が呼ばないと」
「呼ぶの?」
「そうそう。大きな声でね」
「………」
エドウィンは真剣だ。
でも、目が少しだけ笑っているような……気もする。
おふざけだとわかっていても、サリーはこういうのが苦手で、戸惑ってしまう。
もっと道化になって、ふざけるのを楽しめばいいのだとわかってはいても、慣れなくて、恥ずかしい。
「おやおや。サリーもずいぶんとシャイみたいだ。しょうがないなぁ。それじゃ、もう一回。お~い、出てこ~い」
だが、今度はどこからもカードが出てこない。
きょろきょろ部屋を見回すサリーを、エドウィンはじっと見つめていたのだが、急にシッと、唇の前に指を立ててみせた。
驚いて、動きを止めてじっとすると、サリーに向かってそっと手を伸ばしてきた。
なにやら真剣なエドウィンの表情に、サリーも身体を堅くして、待ってしまった。
エドウィンの指がそっとサリーの長い髪に触れ、さらりと優しくすいていく。
「いたよ。こんなところに隠れてた」
戻ってきたエドウィンの手には、カードが一枚。
それは、サリーが引いたカードに間違いなかった。
「すごい」
「どうかな。そうでもないよ。名誉挽回したかったのに」
エドウィンは謙遜ではなく、本気でそう思っている様子だった。
でも、今のマジックは本当にすごくて、素敵だったのに。
不思議そうなサリーに、エドウィンは苦笑をもらす。
「マジックは人を楽しませる手段なんだよ。俺にとってはそう。でも、今、サリーは百パーセント楽しむことは出来なかっただろう? ちょっと困ってた」
「で、でも」
「最後に、君は驚いたけれど、笑顔にはならなかった。だから、俺にとっては失敗。残念。明日は必ず君を楽しませる魔法をかけるから」
そっとサリーの頬にキスをしながら、エドウィンは立ち上がる。
見上げるサリーに、にっこりと微笑むと、おやすみとつぶやいて、寝室へと向かってしまう。
「………」
ぱたりと閉ざされた寝室の扉を見つめながら、サリーはそっとエドウィンが触れていった頬に手を当てる。
知らずにもれたため息は、自分でも驚くほど、甘く切なかった。
運転中のナリスは、バックミラーごしに後部座席の人物を見て、そっとため息をもらした。
後ろに座る魔法使いは、不機嫌さを隠すことなく、仏頂面で足を組んで座っている。
「……鬱陶しい」
ぼそりとつぶやいただけだったが、エドウィンにはしっかりと聞こえたらしい。
ぴくりと肩眉を上げ、ミラーごしにナリスを睨んできた。
「黙れ」
「だったら、後ろで苛々するのはやめろ」
「五月蠅い」
「理由はなんだ。ステージのことか。事件のことか。女のことか」
「マジックのことだ。サリーを楽しませてリラックスさせるにはどんなマジックがいいか考えてんだから、声かけんな」
女のことじゃないかと、ナリスは心の中でだけ反論しておいた。
「あーっ! 超お粗末なマジックするはめになるし! カードマジックも楽しんでもらえなかったし!」
ちなみに、エドウィンの言う『超お粗末なマジック』とは、充電器を出したあれである。
サリーは驚いていたのだが、エドウィン的には到底納得のいくマジックではなかった。
「ツアーって、あとどれぐらい残ってたっけ?」
エドウィンはシートにもたれかかり、ため息をつく。
とてもではないが、忙しすぎて、サリーのことに集中出来ない。
そして、やはりプロである以上、ステージのことについては手を抜けない。
「まだ一ヶ月以上残っているだろうが」
「それ終わったら、絶対、休むから」
「その予定になっているだろ」
エドウィンは元々スケジュールをぎっしり詰め込まない。
ステージマジックのツアーは、多くても二年に一度だ。
チケットはいつも完売する。
「事件も早く解決しないと」
艶やかな髪をばりぼりと掻き、エドウィンは顔をしかめる。
さっさと解決して終わらせないと、観客はいつまでたっても事件を忘れない。
そして、サリーの仇(?)だって、うてやしない。
「ナリス、私立探偵に調査依頼したんだろう?」
「しておいた」
「なんか出たら、報告しろよ」
「今のところ、なにもない」
ナリスはいつもの無表情でそう答えたので、エドウィンは何も疑問に思わなかったようだが。
実は、とても気になることを、ナリスは調査依頼した探偵から聞いていた。
この事件と、サリーの調査を頼んだのだが、その私立探偵は依頼を聞いて、わずかに顔をしかめたのだ。
問いただしてみると、もしかしたら知っている人かもしれないと、探偵は戸惑いながらサリーの名前をあげた。
人違いかもしれないので、調査してから報告すると言っていたが、かなりの確率で探偵の知る誰かとサリーは、同一人物のような雰囲気だった。
犯罪者なのかという問いには首を横に振っていたが、非常に複雑な顔をしていたので、正確にはわからない。
前科者ではないにしても、一般市民ではない、私立探偵に知られているような何かが、サリーにはあるらしい。
そんなことをエドウィンに言ったら、彼女に恋をしている彼が、どういう行動に出るのか予想できないから危険だ。
とことんやるタイプのエドウィンだから、サリーの側に立って、彼自身がよろしくない経歴を持ってしまうかもしれない。
魔法使いとしてのエドウィンを何よりも大切にしているナリスとしては、詳細が明らかになるまで、話すつもりはなかった。
「いつまで同居するつもりだ」
「俺はいつまでだってしたいけどね。彼女は来週の診察で問題がなければ、出ていくつもりだな」
「妥当だな」
「……そうかもな」
疲れた顔で、エドウィンがため息をつく。
「俺の理性も、そうそう持たねぇし」
「なんだ。手を出してないのか」
「五月蠅い」
「珍しい」
「五月蠅いっ」
エドウィンの手が早いということではなく、今までエドウィンの誘いを断る女性などいなかったという意味だ。
女性とは基本的に真面目なお付き合いをするほうだったし、ナリスもそれは知っている。
わかってからかってきているのだから、笑って流せばいい。
だが、今のエドウィンにはそれが出来なかった。
今まで、女性の気を引く努力というものを、ほとんどしたことがない。
若くて、美形で、人気者で、大金持ちで、独身。女性の憧れの結婚相手で、常に女性に囲まれていたといっても過言ではない。
だが、サリーはそういった女性たちとは違う。
エドウィンに全く魅かれていないというわけではない様子なのに、二人の間に一線を引こうとしている。
とても明確で、太い一線をだ。
「……なかなか、外壁が堅いんだよなぁ」
だが、とりつく島のない、いつも冷静な態度の奥に、とても優しくて傷つきやすい可愛いサリーがいることを、エドウィンは疑わない。
自分は銃弾を受けながらも、エドウィンの無事を確かめて微笑んだ、あのサリーの優しさと美しさを忘れることなんて出来ない。
それに、中にあるものが壊れやすく美しく弱ければ弱いぶんだけ、外側の皮が頑丈になるのは当たり前。
(むきむきして、頂いちゃいたいなぁ)
そして、今度は自分がサリーを守る頑丈な皮になるのだ。
サリーから頑なに拒否されればされるだけ、彼女を守ってあげたいという気持ちが強くなるなんて、我ながらちょっと変だと思いつつ。
昨夜の、『お~い。出てこ~い』が言えないサリーの不器用さがもうたまらなく可愛くて、それを思い出しては、エドウィンは一人でずっとにやにやしていた。
そんなエドウィンとナリスの車は、ジェニーの自宅前に到着した。
ジェニーは、発砲事件があった日のステージで、バルーンマジックのアシスタントを勤めていた女性。
エドウィンが銃の異常に気づかなければ、銃弾を受けていたはずの女性だ。
「エドウィン。ごめんなさい」
エドウィンの顔を見るなり、ジェニーは泣き出してしまった。
「なんでジェニーが謝るんだよ。違うだろ」
ジェニーをしっかりと抱きしめ、エドウィンは強い口調でそう言った。
「私のせいよ。誰かが私を狙って、あなたの舞台を滅茶苦茶にしたのよ」
「まだ、ジェニーを狙っていると、決まったわけじゃない。そうだったとしても、舞台を滅茶苦茶にしてくれたのは、ジェニーではなくて、銃をすり替えたどこかの大馬鹿だ。ジェニーにはなんの責任もない」
「本気でそう言ってくれている?」
「勿論。本気だ」
顔をあげたジェニーに、エドウィンはにっこりと微笑んで見せた。
本気でジェニーに腹を立てていないエドウィンの笑顔は、ジェニーを安堵させるのに十分な説得力を持っていた。
「ありがとう。少しほっとしたわ」
少し落ち着いたジェニーは、エドウィンとナリスのためにコーヒーをいれ、自分も両手でカップを包み込むように持ち、ゆっくりと口に運ぶ。
エドウィンのアシスタントの中では最も古株の一人で、華のある美人の上に運動神経も抜群。彼女がツアーから欠けるのは、エドウィンにはかなりの痛手だった。
「しばらく休む?」
だが、予想以上に憔悴している様子のジェニーに無理は言えなかった。
「何言っているの、エドウィン。逆でしょ」
「なにが?」
「しばらく休めの間違いよ。私が出ていることで、あなたに迷惑がかかるかもしれないもの」
「そんなことにはならないさ。確かに、この前は俺も油断していた。だからこんな騒ぎになってしまったが、二度目はない。絶対に。だから、それを気にしてステージを休もうと思っているのなら、気にせず出てほしい。体調的に無理なら、仕方ないけど」
気負い無く、だがきっぱりと言うエドウィンに、ジェニーは少し目を潤ませた。
長い付き合いで、エドウィンに誇張癖がないことはよく知っている。
言ったことは必ずやり遂げる人だし、それだけの力を持つ人でもある。
そして、エドウィンのステージにある限り、ジェニーのことも守ると言ってくれているのだ。
魔法使いに守ってもらえるなら、これほど心強いことはない。
「ありがとう、エドウィン。でも、しばらく休むわ」
「……遠慮しているわけじゃないね?」
「ええ、違うわ。やっぱり、事件が解決しないと、落ち着かないの」
ジェニーは両手で自分の身体を抱きしめ、少し身震いする。
エドウィンはその様子に目を細めた。
「誰かに狙われている心当たりはあるのかい?」
「ない、と思うわ。でも、こういう仕事をしていれば、私の知らないところで恨みをかうなんてこと、よくあるじゃない?」
「そうだね。おかしなファンレターが来たとかは?」
「妙な勘違いしているレベルなら、いくつか」
それは警察に提出済みだという。
「いつまでも怯えているのは馬鹿だと思うのよ。だけど、少し時間を頂戴」
少しためらったが、エドウィンはジェニーの意志を尊重し、頷くことにした。
ジェニーの家からリハーサルのおこなわれる会場に向かいながら、エドウィンは事件のことについて考え込んでいた。
ジェニーを狙ったという説が、やはり強いのかもしれない。
警察はその方向で動いているし、ジェニーはとても美人で派手な仕事をしているから、恨みも買いやすい。
きっと、調べればいくらでも容疑者がでてくるはずだ。
だが、あの銃をすり替えるのは、誰にでも出来ることではない。
ステージ中は、関係者以外は入れない。犯人は関係者に絞られると、エドウィンは思う。
そうなると、ジェニーを狙いそうな人物に、心当たりがまるでない。
ジェニーはエドウィンと組んで長く、周囲も一目置いているし、人当たりのいい性格の彼女を、恨むようなスタッフもいない。
(ジェニーでなければ……犯人の目的は?)
銃が発砲されていれば、最も被害を受けたのはジェニーだった。
ジェニーを殺すことが目的かもしれないが、そうだとすれば、ずいぶんと回りくどく、不確実な方法を選んだものだ。
エドウィンが発砲していたとしても、ジェニーが被弾して、尚且つ死にいたるよう傷となった可能性はそれほど高くない。
それに、……実際に被害を受けたのは、サリーだった。
(いや、違う)
サリーが被弾したのは、かばったからだ。エドウィンを。
撃たれるはずだったのは、エドウィンだった。
(まさか、俺か?)
「エドウィン。着きましたよ」
車がホールの前で止まり、ナリスが振り返った。
当然、エドウィンの思考はここで中断。
今夜のステージに集中しなければならない時間になったのだ。
「……ったく。忙しすぎる」
舌打ちし、エドウィンは車をおりた。
その夜。
エドウィンは着替えてくるなり、早速、という感じで、ローテーブルの前に座った。
今夜はテーブルに黒い布を広げ、カップとスポンジボールを並べ始める。
「さてさて。タネも仕掛けもない、このボールとカップ」
「本当に仕掛けはないの?」
「ないよ~。確かめてみてもいいよ」
サリーはカップを手に取り、本当に仕掛けがないのか確かめ始める。
底をぐっと押しても動かないし、二重になっていることもない。
見たところ、本当に仕掛けもないカップ。
「………」
サリーはカップを手に、キッチンに行くと、カップの中に水を勢いよく入れ始めた。
「お、おい! 何するんだ~」
「ちょっと確認してるの」
驚いて駆け寄ってきた魔法使いは、キッチンのカウンターにぐったりとなついてしまった。
そこまでする、普通? と、つぶやいているのが聞こえてくるが、サリーは真剣だ。
水を入れれば、カップにちょっと隙間があってもわかるし、水圧で底が抜けるかもしれないではないか。
「なんかわかった気がする」
「?」
のそりと顔を上げ、エドウィンはあきれたような、でもとても楽しそうな顔でサリーを見ている。
「サリーちゃんにとって、マジックはペテンなんだろ」
「……だって、上手に人をだますのが、腕のいいマジシャンなんじゃないの?」
「それは、違いますっ」
ぴしりと指を一本、サリーに向かって突き出し、エドウィンは断言した。
「……どう違うの」
「マジックには、タネも仕掛けもある。それはもう当たり前。俺は魔法使いと呼ばれているけれど、本当に魔法を使える訳じゃない。準備していない物は出せないし、消すことだって出来ない。それを観客だって知っている。でも、俺を魔法使いと呼ぶ。なぜでしょう」
「本当の魔法使いのように鮮やかなマジックをするから」
「半分当たり。俺はマジックを使って、観客を魔法を見ているような気分にするから。違いはわかる?」
「ごめんなさい。よく、わからないわ」
スポンジボールを一つ、指と指の間にはさみ、エドウィンはサリーに見せる。
そして、彼女の目の前でくるりと手首をまわすと、指の間のスポンジボールは二つになり、もう一度まわすと、ボールは四つになった。
「君はマジックのテクニックにしか興味がない。俺が君をどうだますのか、それを気にしている。マジックのタネをあばくこと、それが君にとって一番のマジックの楽しみかた。でも、それじゃ、マジックは半分も楽しめないよ」
サリーの手からカップを取り、その中にスポンジボールを四つ入れた。
そして、ウィンクを一つ。
カップの中のスポンジボールは、消えて無くなっていた。
「凄い」
「イベンターよりも、研究者か刑事の方がむいてるかもよ?」
「そうかもね」
からっぽになったカップを手に取り、サリーはしげしげと中を見る。
まるで鑑識のようなサリーに、エドウィンは小さく笑った。
「ボールはここだよ」
と、エドウィンはサリーの着ているシャツ、エドウィンの貸した物だ、の胸ポケットを引っ張った。
ぶかぶかのシャツなので、サリーの胸に触れることはなかったが、エドウィンは勿論、ドキドキしてしまった。
「ほら」
胸ポケットから、四つのスポンジボール。
サリーは驚いて目を見開き、エドウィンの手をぎゅっと捕らえた。
そして、カップを見ていたのと同じように、エドウィンの手をじっくりと観察しだした。
(手を握られているというのに、どうしてこうも色気がないの?)
心の中でかなり嘆いているエドウィンなど知らず、サリーは目を輝かせて顔を上げた。
「すごいわね! こんなに近くにいたのに、全然わからなかった」
「気に入った?」
「とっても。あの、もっと見せてくれる?」
「いいよ~」
エドウィンは手先のテクニックだけを使ったマジックも得意だ。
大きな仕掛けはなし。手の中に隠したり、素早い動きで目をくらませたり、サリーはエドウィンの手の動きに目を見張ってくれた。
「ステージの方は順調?」
「そうだね、概ね。サミュエルの代わりに来たイベンターが、よくやってくれているよ」
「サミュエルは、会社から何かペナルティーを受けたのかしら」
悪ふざけだったとはいえ、サミュエルは銃の引き金を引き、発砲してしまったのだ。
サリーがかばわなければ、エドウィンは大けがをしていただろうし、そうなればツアーも中止。会社は大損害を受けただろう。
サミュエルが何か罰を受けたとしても、不思議ではない。
「さあ? あれから会ってないからなぁ。彼のせいではないとはいえ、ずいぶんと恐縮していたよ。君の病室にも大きな花束が来ていたね」
「ええ。でも、一度、謝罪に来ただけよ。彼、私が嫌いだったから」
「君の方が仕事が出来るからだろう?」
サリーは苦笑するだけで、答えなかった。
「あの人、プライドが高いのよ。今、どうしているのか、それとなく聞いておいてくれない?」
「いいけど……。気になるの?」
「上司だもの。次の仕事は、彼とは組まされないとは思うけどね」
確かに、この事件が原因で、彼が会社を首になったりしていたら、ちょっと寝覚めは悪い。
フォロー出来るのならしておくかと、エドウィンは心に留め置いた。
「ジェニーは大丈夫そう? ステージは出るの?」
「しばらく休むそうだ。事件が解決しないと、落ち着かないってさ」
「それは……そうでしょうね」
「彼女が狙われたわけじゃないと、思っているんだけどね」
なにげなくつぶやいた言葉に、サリーはじっとエドウィンを見つめた。
「どうしてそう思うの?」
「はっきりとはわからないけど。なんとなく」
「そう思えるような何かが、あったりしたの?」
「いや、何もないよ」
「そう」
サリーはほっとしたようだった。
テーブルに頬杖をつき、長い睫を伏せて、何か考え込む。
さらりと長い髪が前に流れてきて、それを無意識にだろうか、背中を払おうとして、肩の痛みに顔をしかめている。
「……ずっと聞こうと思っていたんだけど」
「?」
ぱちりと音を立てて開かれたような、大きな青い瞳に、エドウィンの心臓はばくばく動き出す。
「あの時、俺をかばって、君は言っただろう。ごめんなさいって。覚えている?」
「……そんなこと、言った?」
「言ったよ。俺の腕の中で、気を失う直前に、ごめんなさいって言ったんだ。それがずっと不思議で、聞こうと思っていたんだ」
かばった相手に、しかも自分が大怪我までして守った相手に、どうしてごめんなさいなのか。
それはどちらかというと、エドウィンの台詞だ。
「覚えていないわ。朦朧としていたから、無意識の言葉だったのかも」
なんとなく、サリーはちゃんと覚えているのではないかと思えた。
朦朧としていたわけではなく、何かちゃんと理由があって、ごめんなさいと言ったのではないだろうか。
(だけど、理由って何だ?)
あの状況で、エドウィンに対して謝罪する理由。
(………)
なにやら、考え出したら嫌な方向に考えが行ってしまいそうで、エドウィンは思考停止した。
エドウィンは朝食を作って、片づけをすると、早々にリハーサルへと出かけていく。
窓からエドウィンを乗せた車が出て行くのを見送り、サリーは自分も出かける準備を始めた。
エドウィンから渡されている鍵をバックのファスナー付ポケットにいれると、戸締りを確認する。
部屋の明かりを消して、さあ出ようとしたところで、携帯が鳴り始めた。
「おはよう、パンドラ」
思わず、ため息が漏れた。
電話の向こうにも伝わったのだろう、苦笑が返ってくる。
「今更だろ? 言わんこっちゃない。一年もたなかったじゃなねえか。諦めろよ」
「でも、今回は誰にも迷惑かけていないわ」
「かわりに自分が撃たれてりゃ、世話ないね」
笑い混じりのちゃかすような口調だったが、サリーはその奥に、心配してくれているのを感じていた。
「私は大丈夫よ、ロッシュ」
「だといいんですがね? 見つけたぜ」
サリーの目は輝き、携帯を持つ手に力が入った。
「ありがとう。早かったのね」
「さっさと片づけるんだな。その肩で、無理すんじゃねえぞ」
「わかってる。応援、頼むつもりだから」
ロッシュからの情報を頭の中にメモし、サリーはほっとして携帯を切った。
これでようやく、この事件も片が付くだろう。
(これでようやく、エドに迷惑かけなくてすむわ)
心の中でつぶやいて、いつの間にか『エドウィン』ではなく『エド』になっている自分に気が付いて、赤面した。
エドと呼ぶように言われてから、まだ一度もそう呼んでいない。
エドウィンと呼べば、それをまた指摘されるのがわかっているから、名前では呼ばないようにしていた。それなのに。
(不思議な人。本当に魔法使いみたい)
親しくなるまい、ちゃんと距離をおこうと、そう思っているのに、いつも失敗してしまう。
明るくて、気さくで、人なつっこい笑顔で、いつの間にか特別な存在になろうとしている。
(お日様みたいな人よね……)
彼の金色の髪は、どれほどくしゃくしゃでも艶々のぴかぴかで、純金製か日の光を集めて作ったのかと、本気で思ってしまうほど。
時に見ほれてしまうほどの美形で、華があって、笑顔が輝いていて、まるで太陽神のような男性だと思う。
それに比べて、自分はといえば。
サリーはそっとため息をつく。
そして、携帯をバッグにしまうと、予定を変更し、外出は夕方になってからと決めた。
◆
今日も楽屋に現れたコスナー刑事と、エドウィンは控え室で会っていた。
どうやら、この若い刑事は、魔法使いのファンらしく、こうしてエドウィンを尋ねてくるのには仕事以外の目的もあるようだった。
「今、あの銃の出どころを探しているんですが、なかなか見つからなくて」
エドウィンがほとんど無意識に手の中でボールを転がしているのを、コスナー刑事は感嘆の目で見ている。
指と指の間をくるくると移動するボールは、まるで生きているようだ。
「だろうね。あの銃は特別なデザインというわけじゃない。誰にでも真似できるというわけじゃないが、まあ、心得のある者なら簡単にできるでしょう」
「これがわかれば、動かぬ証拠になるんですが」
「犯人自らやったのかもしれない」
「その可能性も高いです。小道具係りが共犯かもしれません」
吹き出しそうになったのを、エドウィンは我慢しなければならなかった。
スタッフはいつも厳選している。小道具係りのトーラスは、まだ若いが腕は一流、プロ意識も高い。共犯などということはありえない。
ただ、若い分、少々迂闊なところがある。
サミュエルにあの銃を触らせてしまったのが、彼の一番の失態だろう。
「そういえば、サミュエルがどうしているか知っていますか」
「発砲した男ですね? ミズ・アグンが起訴しないとおっしゃったのもあって、無罪放免になってますが」
「仕事は?」
「首になったそうですよ」
顔をしかめたエドウィンに、コスナー刑事は肩をすくめる。
「事故とはいえ、仕方ないんじゃないですか? 自業自得だと思いますけどね。子供の頃、おもちゃでも銃口を人に向けて引き金を引くなって、母親に教えられませんでした?」
「教えられたが、守りはしなかったな」
おもちゃの拳銃は、警察ごっこの重要なアイテムだった。
偉そうに言ったコスナー刑事も、警察ごっこにを楽しんだ一人だったのだろう、へらっと笑って誤魔化している。
「会社の方も、これ幸いと首にしたようですよ。非常に扱いづらい男だったらしく、取引先かなんかの息子で、解雇したくても出来なかったみたいです」
「いいとこのボンボンなのか」
「いかにもそんな感じだったじゃないですか」
「確かに」
携帯で呼び出され、コスナー刑事が帰っていくと、エドウィンは備え付けのコーヒーメーカーからコーヒーを注ぎ、椅子に腰を下ろした。
(犯人の狙いが俺だとすれば)
昨日からずっと、エドウィンはほぼそう確信している。
(犯人は、サミュエルだろうな)
そう考えるのが自然だ。
サミュエルなら、小道具の銃に近づくことが出来る。
ジェニーを殺そうとまでは、考えていなかったと思いたい。
リハーサルを何度も見るうちに、彼はバルーンマジックの仕掛けに気がついたのかもしれないし。
あんなことをしたのは、ステージの失敗を狙ってだろう。
もしくは、エドウィンを殺人犯に仕立て上げたかったのかもしれない。
サミュエルはきっと、エドウィンを殺したいのではなく、魔法使いの名声を地に落としたかったのだ。
そして、ステージでそれが上手くいかなくて、最終手段としてエドウィンに向かって発砲した。
殺すつもりだったのか、利き腕をつぶすつもりだったのか。
サリーがかばってくれなかったら、少なくともこのツアーを続けることは出来なかっただろうし、魔法使いのイメージにも傷がついただろうから、きっとサミュエルの望みはかなっただろう。
(……ったく)
マジシャンとしてのエドウィンを、滅茶苦茶にすること。
今までにも、そういう悪意を持ってエドウィンに近づいてきた者は何人もいた。
そして、そういった者達の動機は、嫉妬だったり逆恨みだったりで、彼等の負の感情にげっそりしながらも、容赦なく叩き潰してきた。
勿論、今回だって例外ではない。
なにしろ、サミュエルはサリーを傷つけたのだから。復讐は徹底的に、だ。
だが、気になるのは、サリーのあの言葉だ。
ごめんなさいと、エドウィンに謝ったのは、なぜなのか。
サリーはサミュエルの計画を知っていたのかもしれない。
だが、サミュエルがエドウィンを撃つとまでは考えていなかった。
サミュエルがエドウィンに銃口を向けるのを見て、その危険性を正確に知っていたサリーは、エドウィンを助けてくれた。
そして、エドウィンに謝った彼女は、サミュエル側の人間ということで、エドウィンを助けたかったというよりも、サミュエルに罪を犯して欲しくなかったということになるのではないだろうか。
そう考えると、エドウィンとの同居を承知したのも、サミュエルからエドウィンを守るためなのかもしれない。
事実、サミュエルは発砲事件以来、何もしてこない。
そして、サリーはサミュエルのことをとても気にしている。
(まさか、恋人同士とかじゃないよな)
想像するだけで、エドウィンの眉間には深い皺が寄っていた。
だが、そう考えれば、サリーがエドウィンと親密にならないようにしている理由も納得がいってしまう。
「…………………」
聡明でクールなサリーが、どう見たって駄目男のサミュエルに惚れているなんて思いたくない。
だが、恋愛は理屈でするものではないし。もしかしたら、サリーは守ってあげたくなる男が好きだという女性かもしれない。
サミュエルをボコボコにしたら、サリーは悲しむだろうか。
やられたら倍返ししなければ、このショービジネス界では生き残れないし、ジェニーのためにもボコボコにしたいのだが。
サリーに悲しまれる、非難されると思うと、どうしようかと迷ってしまう自分に、エドウィンは呆れていた。
(重症だ!)
とりあえず、サミュエルが犯人だと確定できる証拠はない。
警察も見当違いの方向で捜査をしているし、サミュエルがこのまま何もしなければ、この事件は迷宮入りかもしれない。
(……仕方がない)
だが、サミュエルに釘を刺しておく必要はあるだろう。
今日のステージが終わったら、さっさと手を打って、この事件は終わりにしようと、エドウィンはため息をついた。
午後九時。
サリーは腕時計で時刻を確認し、ほんの少し、焦りを感じた。
エドウィンのステージが終わる時間だ。
あと小一時間で、彼は自宅に帰ってくるだろう。
それまでには全てを終わらせ、帰っていたい。
(仕方がないか)
応援を頼んであったのだが、どうやら来ないようだ。
何かアクシデントがあったのか。サリーの応援をすることを拒否したのか。
バッグの中の銃を確認し、この肩で撃っても当たるかどうかは定かではないが、サリーは目当てのマンションへと入っていく。
高級マンションだけあって、セキュリティーはしっかりしていた。
管理人を呼びだしてもよかったのだが、面倒に感じて、サリーは通り抜けることにした。
どんなにしっかりしたオートロックでも、管理人用、掃除人用などに、特別なコードが設定されている。
メーカーによって、特別なコードは大体決まっている。多少違っていても、癖は同じだ。
ロックを作成したメーカー名を確認し、サリーがコードを打ち込むと、オートロックは難なく解除された。
十五階までエレベータで上がり、目当ての部屋の前に立つと、今度はごく普通にインターホンのボタンを押す。
「……サリー?」
カメラが付いているのだろう、スピーカーからは驚いたような戸惑ったような声が聞こえてきた。
「こんばんは、サミュエル。ちょっといいかしら」
カメラに向かって、にっこりと微笑んでみせると、しばらくして、玄関の扉は開かれた。
サミュエルは、一目で、荒れた生活をしているのがわかるような、ひどい顔をしていた。
着ている服もだらしがなく、部屋の中もちらかっている。
真っ暗な部屋の中で、パソコンのモニターだけが、青白く光っていた。
「こんな時間に、ごめんなさい」
「驚いたよ。すまないが、客をもてなすような気分じゃないんだ」
サミュエルは部屋の明かりもつけようとせず、ソファに倒れ込むように座ってしまう。
サリーは勝手に部屋の明かりをつけると、サミュエルから一番離れたソファに腰を下ろした。
「話があるのよ」
「慰謝料のことかい? それなら弁護士に話してほしいな」
「違うわ。でも、事件のことよ」
ほんの少し、サミュエルは興味を持ったようだった。
顔をあげ、視線を向けてきたサミュエルを、サリーはしっかりと見つめる。
「自首しない?」
「………」
「あなたは前科もないし、誰も死ななかった。自首すれば、執行猶予がつくかもしれないわ」
「……何を」
「証拠が見つかるのなんて、時間の問題よ」
「サリー。君は酔っているのか? 俺が犯人だと言いたいわけか?ああ?」
「犯人よ、あなたが」
サミュエルは真っ赤な顔をして、あえぐような息をついた。
「馬鹿を言うな! 何を証拠に!」
怒鳴り声をあげたが、サリーは全く動じなかった。
「あなたがエドに向かって、殺意たっぷりに銃を向けた時点で、犯人だと自白していたようなものじゃない」
「あれは事故だ! 悪ふざけで」
「いいえ、あなたには殺意があった。それに、物的証拠だってあるのよ。あなたが銃の改造を依頼した人物が見つかったわ」
「嘘だ」
「残念だけど、本当よ。でもまだ、警察はつかんでいない。だから、今なら自首出来るわ」
サミュエルは笑った。
大声で、どこかヒステリックな笑いに、サリーも眉をひそめた。
「あれはちょっとした悪戯さ。殺意なんて、とんでもない! 俺は、あの魔法使いだと持ち上げられて浮かれている男の頭を、ちょっとばかり冷ましてやりたかっただけだ」
「それで、小道具を実弾のでる銃とすり替えたっていうの? やりすぎよ」
「ふん。あのバルーンマジックは、風船が割れた直後にジェニーが舞台下から飛び上がるんだ。あの男がタイミングどおり銃を撃っていれば、誰も怪我はしなかった。なのに、俺の仕掛けに気づきやがって……」
そういえば、サミュエルは学生時代、マジシャンになりたかった時があったと話していたことを、サリーは思い出した。
聞いたのは一度きりだったし、なにかのついでのように、子供の頃のちょっとした憧れだったようにサミュエルは話していたから、すっかり忘れていた。
彼は、結構本気でマジシャンを目指していたのかもしれない。
だが、彼の両親はそれを認めてくれなかったのだろう。
マジシャンなんて、華やかに見えて、水商売の芸能人なわけだし、成功する可能性だって低いのだから。
「エドを撃ったのは、あなたの仕掛けに気づいた彼に対する腹いせだったわけね」
ステージでアクシデントを起こし、エドウィンを困らせようと考えていただけだったのかもしれない。
勿論、それに実弾の入った銃を使うことで、ひどい悪意を感じるが。
だが、エドウィンに、手に持った途端に見破られ、しかもそのアクシデントなどなかったかのようにマジックを成功させられて、サミュエルは切れてしまったのだろう。
「自首しなさい。今の話をきちんとすれば、計画的犯行ではないこともわかってもらえるかもしれないわ」
「あんた、何者だ」
「……あなたの元部下でしょ」
「そういや、会社に来てまだ一年もたっていない。その前は何をしていた」
私のことは関係ないでしょと突き放すつもりだったが、サリーは少し考えを変えた。
「刑事」
「………」
「辞めたけど、私立探偵の免許を持っているわ。だから、私の捜査報告書は、警察でも通用するの」
だから、サミュエルの犯行だということは、どうあがいても、いずれ警察に知られるのだと、サリーは言外で言いたかった。
そして、もう諦めて自首してほしいと、そう願っていたのだが。
「証拠を見せろよ」
「………」
「私立探偵の免許、持っているんだろう?」
仕方がない。
サミュエルはプライドが高くて尊大だが、根は臆病な小心者だ。
世間知らずのおぼっちゃまだから、権力にも弱い。
本当に私立探偵が自首を迫っていると知れば、覚悟を決めるだろうと、サリーはバックから免許を取り出そうとした。
「手をあげろ」
サミュエルに銃口を向けられ、サリーは恐れることはなく、ただあきれた。
こうなる可能性を考えなかった自分の迂闊さと、ここまで行き当たりばったりな行動をとるサミュエルの馬鹿さ加減に。
「手をあげろよ!」
ヒステリックに怒鳴られて、サリーは両手を肩の高さにあげる。
被弾した傷がまだ癒えていない右肩にずきりと痛みが走った。
「私をどうするって言うの?」
「……殺してやる」
内心、サリーはこれ以上なく呆れていたが、それを顔にはださず、真剣な表情をつくった。
「私を殺せば、あなたはもう引き返せなくなってしまう。今ならまだ取り返しがつくわ。だから」
「黙れよ。証拠はまだあんたしか知らないんだろ。あんたさえ黙ってくれれば、俺は何も変わらない」
「今は私しか知らなくても」
「これがばれたら、俺はもう終わりだ! 俺の完璧な経歴に傷が付いて、この先、誰からも後ろ指を指されて。この俺がそんなこと」
「バーカ。誰が完璧だよ」
いきなり扉が開いて、そんなとんでもない罵声と共に現れたのは、エドウィンだった。
驚きに一瞬自失したサミュエルが、我に返り、今度はエドウィンに銃口を向けようとする。
サリーはその一瞬を逃さず、サミュエルに飛びかかろうとした。
だが、それよりも早く、エドウィンの手の中から放たれたナイフがサミュエルの右手、銃を持つ手の甲に突き刺さった。
「うわぁぁ!」
落とした銃をサリーが拾い、すぐに安全装置をかける。
その横を大股で通り過ぎ、エドウィンは右手を抱え込んで悲鳴を上げているサミュエルの胸ぐらを掴みあげた。
「この、野郎っ!」
顎を下から拳で殴りあげられ、サミュエルの身体は吹っ飛んで、ソファにぶつかって倒れた。
「エド!」
「勝手なこと言いやがって。変態の自覚がないとは、それだけで犯罪者だっつーの!」
もう一度、胸ぐらをつかんでサミュエルの身体を持ち上げると、今度はその腹に思いっきり膝蹴りをくらわせる。
サミュエルはエドウィンにもたれかかるように崩れ落ち、床の上で丸くなって、何度もせき込んだ。
「エド! もうやめて!」
「あと一発やったらな」
エドウィンはひどく冷静にそう答えるとすぐ、丸くなっているサミュエルの腹を靴先で蹴りつける。
サミュエルはぐえっと低く呻き、呆気なく失神してしまった。
両腕を腰にあて、エドウィンはそんなサミュエルを尊大に見下ろす。
「ジェニーの分、俺の分、サリーの分。きっちり片つけさせてもらったぜ」
「……やりすぎよ」
「何言ってる。この程度ですんで、ありがたかったと思ってほしいね、この大馬鹿野郎には」
「馬鹿なのは否定しないけどね」
「そうじゃなくて! サリー。この馬鹿は、君に二度も銃口を向けた。許されないことだ」
「それこそ何言ってるの」
「でも、一番許せないのは、こんな時間にこんな男を、たった一人で訪問する君だ! 何考えてる!」
苛立ちと怒りを露わにし、詰め寄ってきたエドウィンを、サリーは唖然と見上げた。
「何って……」
エドウィンはサリーのウエストを両手で掴み、華奢な身体を引き寄せた。
そして、肩の傷に触れないように気を付けながらも、強引にサリーの唇に唇を押しあてた。
「……エド、駄目」
キスの合間にサリーが囁くが、その声は弱々しく、逆にキスを深めさせることにしかならなかった。
「エド……」
エドウィンの胸を押しのけようとしたが、腕に力が入らず、逆に肩へすがるようにまわすことになる。
サリーはとても驚き、困惑していた。
今までの同居生活の中で、エドウィンが唇へのキスをしてきたのは一度だけ。
しかも、それはただ本当に触れただけというキスで、性的な意味を感じさせるものではなかった。
身体に触れてくることもなく、エドウィンはそういった意味で自分を見ることはないのだと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
だが今、エドウィンのキスは情熱的で強引で、それでいて甘く。
舌を絡め合う濃密なキスは、恋人同士のキス以外の何物でもなく。
エドウィンから求められているという事実に、サリーは驚き、震えていた。
「君が一人でこんなことをする人だと知っていれば、部屋に鍵をかけて外へ出さなかったのに」
唇が触れそうな至近距離でそう囁かれ、サリーは目を見張った。
「何を言っているの」
「俺が間に合ったからよかったが、一人だったら君はどうするつもりだったんだ。肩の傷だってまだ治っていないというのに」
「この程度、どうということはないわ。でもどうしてこんなに早く、ここに来れたの? まだ、ステージが終わったばかりで」
と、サリーはエドウィンの肩越しに、部屋の壁にかかっている時計を見た。
時計の針は、十時過ぎを示している。
サリーの腕時計は……まだ、九時半だ。
「今まで気づかなかった?」
聞かれて顔を上げると、じっとサリーを見つめていたエドウィンと目があった。
「あなたが遅らせたの?」
「まあね」
「どうして!」
全く気づかなかったことに驚き、そして腹も立って、サリーは声を荒げた。
「なんとなく」
「エド!」
エドウィンとしては、自分がいない間、サリーが何をしているのか、少し興味があっただけだ。
サリーに対して、ほんの少し疑問を持ったことがその原因だろう。
腕時計と家中の時計の時刻を三十分だけ遅らせたのは、帰宅した時、まだ帰ってこないと思っているサリーが何をしているのか、見てみたかっただけ。
ただ、テレビやラジオをつければすぐにわかってしまう事で、どちらかというと悪戯に近いものだったのだが。
「ちゃんと説明して!」
「そりゃ、俺の台詞」
ぐっと、サリーは口を閉ざした。
「とりあえず、警察に連絡しよう。それとも、もう連絡してあるのかな?」
「まだよ」
エドウィンは部屋を見回し、荷造り用のビニール紐を見つけると、気絶しているサミュエルの両手を後ろ手に縛り上げ始める。
それを横目で見ながら、サリーは警察に電話をすることにした。
◆
その後、簡単な事情聴取をされ、サリーとエドウィンが帰ってきたのは、深夜十二時を回っていた。
「お疲れさん。大丈夫?」
ソファに座り、背もたれに寄りかかってため息をついたサリーに、エドウィンがコーヒーを手渡した。
自分の分も持っていて、エドウィンはサリーの斜め前の位置に座った。
サリーはため息で、コーヒーの湯気を吹き飛ばす。
眠る前にコーヒーは飲まない。
それなのに、コーヒーを持ってきたエドウィンの意図は明白だろう。
「……どこから聞いていたの?」
「今なら自首できるわ、ぐらいかな」
「それで他に何を説明すればいいの?」
「どうして一人であそこに行った?」
サリーは驚いた。
そんな事を聞かれるとは思ってもなかった。
元刑事だという経歴と、今回の事件との関係について、問いつめられるのではと危惧していたのだ。
エドウィンは今もサリーの身の安全について、心配し怒っている。
それがサリーには理解しがたく、ひどく居心地が悪かった。
「応援を頼んだのだけど、来なかったのよ。だから、一人で行ったの」
「一人で行くべきではなかった」
「ええ、賢明な判断ではなかったわ。でも、時にはそういうこともあるのよ」
「刑事だった時も、そういうことがあったということ?」
「そういうこと」
本当は、ほとんどそういったことはなかった。
刑事は複数で行動することが基本で、単独行動をとることは滅多にない。
だが、今のエドウィンはとても心配していて、その心配がいきすぎで的はずれだとわかってほしくて、サリーは大げさに言ってしまったのだ。
「どうしてサミュエルが犯人だとわかった?」
「あなたを撃ったとき、彼には殺意があったわ。だから、あれは悪ふざけではなく、あなたが狙われたのだとわかっていたの。でも、証拠がないし、私も身体が動かないし。またサミュエルがあなたを狙ったらと不安はあったけど、ステージには警官が入ったし、あなたもとても警戒するようになった。だから、証拠がつかめるまで、待とうと思ったのよ」
なぜなのか、話せば話すほど、エドウィンの顔は怖くなっていく。
なんだかとんでもなく悪いことをしてしまったような気分がして、でもそんなはずはないと思い直して、サリーは睨んでいるに近いエドウィンを睨み返した。
「俺との同居を簡単に承知したのは、俺の護衛をする目的だったんだな」
「この家では、あなたは一人だから」
「サリー。俺は女に守ってもらうほど柔な男じゃない」
そんなことで怒っているのかと、サリーは呆れた。
「私は刑事なのよ」
「元、刑事だろう?」
「私立探偵だし」
「私立探偵が依頼もないのに捜査に参加するなんて、聞いたことがないな」
「こう見えても、優秀な刑事だったのよ」
「関係ない。しかも、君は今、怪我をしているじゃないか」
「……私に守られたのは迷惑だということね?」
「そんな事は言っていない! 俺はそこまで馬鹿な恩知らずじゃない。とても感謝している。……ただ」
エドウィンは一度サリーから視線をそらし、くしゃりと前髪をかきあげた。
悔しそうな表情をそこで改め、サリーを再度見つめた彼は、とても真剣でまっすぐな目をしていた。
「俺は、君を守る立場でいたかった。君にとって俺は、殺意を向けられてもわからない、間抜けな一般人かもしれないが、それでも君を守りたいんだ」
「………」
「サミュエルのことも、話してほしかった」
「……無理よ」
優しい手を伸ばしてくるエドウィンから、サリーは無意識に後じさった。
胸が熱い。嬉しいのか、怖いのか、怖いほど嬉しいからなのか。
「そりゃ、君は俺なんかの協力がなくても、万事うまくやっただろう。この短期間で、そこまで俺を信用してくれというほうが無理かもしれないが」
「違うわ。私はあなたを巻き込みたくなかったのよ」
「サミュエルは俺を狙ったんだ。巻き込まれたのは、君の方じゃないか」
「違うわ。違うのよ」
子供のように首を横に振り続けながら後じさるサリーを、エドウィンは腕を伸ばして引き寄せ、腕の中に抱きしめる。
肩の傷を気遣ってはいるが、抱きしめる腕の力は強く、ぴったりと隙間無く触れあわされる体は熱い。
大きな手が髪をなで、広い肩の上に頭をもたれさせるように、そっと優しく押してくる力に、サリーはぎゅっと目を閉ざした。
「君を愛している」
耳元で囁かれた言葉に、サリーは閉じたばかりの目を見開いた。
「だから、俺には到底、君に一方的に守られることを受け入れることは出来ない。それどころか、俺のために君を危険な目にあわせることだって、許せない」
「……待って」
キスをしようと顔を近づけてきたエドウィンに、サリーはかすれた声でそう言う。
もっとしっかりとした声で、毅然と制止したかったのに、ひどく弱々しい、口先だけの拒否のようになってしまったが。
「待たない」
そうつぶやいて、エドウィンはそのままサリーの唇に唇を重ねる。
そのキスは、サミュエルの部屋でされたキスと同じように、熱く甘く強引で、サリーをあっという間に官能の世界に誘った。
拒否しなければ、やめさせなければと思っていても、体が動かなくなるようなキス。
「サリー、愛しているよ」
頬に額に鼻に顎に、キスの雨をふらせながら、エドウィンが甘く囁く。
胸の中に、熱く甘いとろりとした何かがあふれてくる。
このままずっとキスされて、エドウィンの胸の中にいたいと、サリーはそう思った。
エドウィンなら、魔法使いと呼ばれるこの人なら、きっと大丈夫。
だが、そんなことなど、出来はしない。
それに、エドウィンがそう言ってくれるのは、まだ何も知らないから。
わかっているのに、流されてしまいたくてたまらない自分が、とても怖い。
こんなことは間違っている。ずるい。卑怯だ。
そして、きっと、エドウィンを不幸にする。
「待って、お願い。待ってほしいの」
エドウィンの胸を両手で押し戻し、サリーは必死に声をあげる。
かすれた声にしかならなかったが、その真剣な表情に、エドウィンはサリーから少し距離をおいてくれた。
「サリー?」
「お願い。私の話を聞いてほしいの。その話を聞いてから、それからもう一度、……自分がどうしたいか決めて」
「君の話で、俺が心を変えるとでも?」
「そうなるかもしれない」
「馬鹿な。まさか、君はすでに結婚しているとか?」
「違うわ。そういうことじゃないの。もっと、重要なことよ」
言葉を重ねる内、サリーは少し冷静さを取り戻していた。
そして、どう話すか頭の中で簡単に整理をし、口を開く。
「一年前まで、私は刑事をしていたの。殺人課よ。そこで私は、パンドラと呼ばれていたわ」
「パンドラ? ギリシャ神話の?」
「そう。開けてはいけな箱を開け、ありとあらゆる災いを世界にまき散らした、愚かな女。私はね、そのパンドラのように、いつも周囲の人々に災厄をもたらす女なのよ」
エドウィンは顔をしかめた。
「よく、わからない」
「別の言い方をすると、とんでもない事件体質。歩いていると事件を引き寄せる、行った先で必ず事件が起きる」
「そんな体質、聞いたことがないな」
「私だって、他に知らないわ。でも、本当にそうとしか説明できないのよ」
笑おうとして、サリーは失敗した。
そして、表情を消し、淡々と話し続ける。
「普通の会社員になって、事件とは縁遠い場所で、ごくごく普通に生活していれば、事件とは無縁でいられるかもと思っていたの。でも、一年もたなかった」
「今回の事件も、君のせいだと思っているのか?」
「そうよ。私のせいよ」
「何を馬鹿な! 誰のせいかと言えば、それはサミュエルのせいだろう。そうでなければ、狙われた俺のせいだ。君は巻き込まれただけだ!」
「いつもこんな感じよ。私がいるところで、事件は起きる。私が加害者や被害者であることは少ない。例えば、銀行強盗が入ってきた銀行に居合わせる。でも、私は解放され、友人が人質になる。通り魔に襲われる。私は軽傷、友人は重傷。自動車事故にあう。同乗者が大怪我をする。殺人事件に居合わせてしまう。逆上した犯人に狙われるのは、一緒にいた友人。私の目の前で、殺意を持った誰かが銃を構える。ターゲットは、勿論、私の友人知人。いつもそんな感じ」
「………」
サリーの例え話は、作り話ではなく、全て実際にあったことなのだろうと、エドウィンにもわかった。
それが全て本当なら、確かに、サリーの言うとおり、事件体質と言われても仕方がないのかもしれない。
ほとんどの人間は、一生の内で、生死を左右するような重大事件に遭遇することはまずない。
だがサリーは、もう何度も経験しているのだ。
だからこそ、サミュエルの殺意を感じる事が出来た。
そして、誰もが動けない状況でも、エドウィンを守るために身を投げ出すことだって出来たのだ。
サリーは、慣れていたから。
「……だから、ごめんなさい、か」
つぶやくと、サリーはわずかに苦笑をもらした。
気を失う寸前、サリーがエドウィンに謝ったのは、この発砲事件が自分のせいでおきたのだと、そう思っていたからだ。
そう思っていたからこそ、サリーはエドウィンを守ったのだろう。
「君は刑事になって、そうやって巻き込まれた事件の関係者を守っていたというわけか」
「巻き込まれたという認識はないわ。私のせいで、事件にあってしまった人を守るのは、私の義務だと思うし。そうしなければ、私だって……罪悪感につぶれそうだったのよ」
「君はっ! 君は滅茶苦茶だ!」
いきなり怒鳴ったエドウィンに、サリーは目を丸くしている。
エドウィンは、サリーの肩をつかんで、強く揺さぶって目をさましてやりたくて、たまらなくなった。
「事件に巻き込まれているのは君の方じゃないか! それなのにどうして、君が事件の当事者に責任を感じる必要がある? 守られるべきは、君の方じゃないか! いつも事件に巻き込まれ、命を危険にさらすことだってあるんだろう? 俺だったら、君を絶対安全な場所に閉じこめて、絶対に外へ出さない。外へ出るのは、俺と一緒の時だけだ」
「………」
「その話を聞いて、俺が事件に巻き込まれるのを恐れて、君から距離をおくとでも思った?」
サリーは答えない。
表情も動かない。
だが、そう思っていることは、その目を見ればよくわかった。
「俺を甘く見んなよ。何度も言ってんだろ。俺が守るって」
「……あなたはまだ、私がどれほど厄介な女か、よくわかっていないのよ」
「だから、俺を甘く見るな。確かに、今回は君に守られることになった。だが、二度目はない。絶対にないぞ」
エドウィンは力説したのだが、サリーがどう思っているのか、そのポーカーフェイスからはよくわからなかった。
だが、まだまだ彼女に信用されていないのは確かで、でもそれはどれほど言葉を重ねても仕方のないことで。
「時間をくれよ」
「なんのために?」
「俺のためにだ。今の君は、このままここを出ていって、俺と縁を切ろうと思っている。それが俺のためだって。そうだろう?」
「そうね」
あっさり肯定するサリーに、エドウィンは歯ぎしりしたくなったが、冷静なサリーにならって、自制する。
「だが、俺がもっと頼りになる男だとわかれば、君は考えを変えるかもしれない」
「………」
「いきなり恋人にしろと迫るつもりはない。とりあえず、お友達から!」
エドウィンはわざと、必死ながらも茶目っ気たっぷりにお願いしてみた。
深々と下げた頭の上で、サリーが小さく笑うのが聞こえて、エドウィンはほっと胸をなで下ろした。
「明日、俺のステージを見に来ないか?」
と、エドウィンは、さっと手の中にチケットを出して見せた。
「あなたのステージなら、何度か見せてもらったわ」
「マジックのタネはどこにあるんだろう、どういう仕掛けになっているんだろう、と思いながらだろう? それでは、俺のステージは半分も楽しめない」
「どうしたら楽しめるの?」
「どう楽しめなんて、君にレクチャーするつもりはないよ。君を楽しませてみせる。ただ、君は魔法にかかりにくい体質のようだから、開幕の前に少しちょっとした魔法をかけようかな」
とりあえず、サリーの肩の怪我が完治するまで、この同居は続けることを約束し(エドウィンが一方的に約束させたのだが)、二人は長かった一日を終えることにした。
◆
翌日。
リハーサルを終えたエドウィンの元に、コスナー刑事が尋ねてきた。
「無事に事件が解決して、よかったです! これでステージに集中していただけます。よかったです!」
にこにこのコスナー刑事を、エドウィンはほとんど無視していた。
結局、犯人をあげることが出来なかった無能なコスナー刑事のことよりも、エドウィンには気にかかることがあったから。
そろそろ、サリーの元に、ドレス一式が届いているはずだ。
勿論、今夜、着てもらうつもりで贈ったものだ。
これは昨夜サリーに話しておいた『補助魔法』。
どうやら、サリーのワードロープはカジュアルで動きやすいものが優先されているようで、あまり華やかなものはない。
それはそれでクールなサリーにはよく似合っているのだが、やはり彼女に惚れている男としては、豪華なドレスで飾り立てたサリーを見たい。
そして、いつもとは違うドレスに身を包むことで、サリーも少し日常から離れ、魔法にかかりやすくなるだろうと思ってのことだ。
「エドウィン!」
我にかえると、コスナー刑事が怒ったような困ったような顔で、エドウィンをのぞき込んでいた。
どうやら、話しかけられても返事をしなかったようだ。
「ああ、悪い。それで何か?」
「だから、サリーのことですよ」
「……彼女がなにか?」
「まだ同居されているのなら、すぐやめた方がいいと言っているんです」
エドウィンは不快げに、眉をひそめた。
が、コスナー刑事は話すことに夢中で、気づかない。
「彼女はですね、警察では有名なんですよ。本名は知らなかったんで、気づかなかったんですが、彼女がパンドラだと知ったからには、黙っていられません。彼女の側にはいちゃいけません。とんでもない目に遭いますよ。彼女のせいで、いくつ事件がおこったことか。犠牲になった人だって、一人ではないんです。あなたのような、高名な魔法使いが、彼女の側にいるなんて、あまりにも危険です。あなたに何かあったら、悲しむ人は大勢いるんですから」
「わからないな。あんたなんかより、彼女の方がずっと俺のためになる存在じゃないか」
「は?」
「彼女は事件の犯人を捕まえてくれた。あんたは何も出来なかった」
「そ、それはっ」
あたふたとするコスナー刑事を、エドウィンはイライラしながらにらみつける。
警察がサリーをどう思っているのか、わかってはいたが、とてつもなく腹が立つのは抑えられない。
今朝、ホールにやって来たエドウィンを捕まえ、サリーについての調査書を突きつけたのはナリスだった。
短時間で作成された調書は、二十七年間のサリーの人生を全て網羅することはできず、ここ最近のことが中心だった。
それだけでもサリーは事件体質としか言えないような、多くの事件と遭遇していた。
そのせいで、警察の捜査を妨害するような結果になったこともあり、警察はサリーを嫌っているらしい。
だがそんなの、エドウィンに言わせれば、不測の事態に対応できなかった無能さを、警察はサリーのせいにして誤魔化しているだけだ。
「もしかして、昨日、サリーの捜査に同行する予定だった刑事って、あんたじゃないのか?」
この事件に関する捜査だったのだから、担当の刑事、コスナーが呼集されたと考えるのが自然だ。
「ええ、私でしたよ。ですが、パンドラと一緒に捜査だなんて、そんな命知らずなことは……」
胸を張って答えていたコスナー刑事だったが、途中でエドウィンのあまりにも不穏な視線に気づいたらしい。
威勢の良い口調はしだいにしぼみ、最後はごにょごにょと口の中に言葉を飲み込んだ。
「……っの野郎ぉ」
予備動作なしで、いきなりエドウィンの蹴りがコスナー刑事の下腹部にヒットする。
「うわぁぁぁぁ!」
若い刑事は情けない悲鳴を上げて、床に転がった。
エドウィンはもう一発お見舞いしてやろうとしたのだが、今日は周囲に人が多すぎた。
コスナー刑事の悲鳴に駆けつけたスタッフが、驚きながらもエドウィンを背中から羽交い締めにする。
その間に、コスナー刑事は尻餅をついたまま、ずりずりとエドウィンから逃げ出してしまった。
スタッフに呼ばれて来たナリスは、途中で、真っ青になって走り去るコスナー刑事とすれ違った。
そしてその向こうから、エドウィンの罵声。
「てめぇ、二度と顔見せんじゃねーぞ!」
エドウィンは、スタッフ数名に押さえ込まれていた。
ステージの上で見事なマジックを見せる、美貌の魔法使いしか知らないファンには、決して見せられない、とんでもないお姿だった。
ホールの車寄せに止まったリムジンから、サリーは優雅に降り立った。
裾がすわりと広がるブルーのドレスから、銀色のハイヒールをはいたすらりとした足が伸び、リムジンから降りて全身を見せると、居合わせた人々が密かに感嘆のため息をつく。
華やかなブルーのドレスも、プラチナの豪華なアクセサリーも、サリーにはとてもよく似合っていた。
ドレスもアクセサリーも靴やバッグも、迎えのリムジンまでも、全てエドウィンからのプレゼントだった。
サリーはかなり戸惑ったし、悩んだのだが、これも魔法の一部なのだというエドウィンの説明を受け入れることにした。
「……魔法、か」
歩くとすそがふわふわ動くドレスは、子供の頃大好きだった、フレアーがたっぷり入ったスカートを思い出させた。
プラチナとサファイアのチョーカーに、まるでティアラのような髪飾りは、子供の頃の憧れだったシンデレラを連想させて。
高いヒールの靴に、小さなスパンコールのバックは、非日常的で、今までに使ったことなどない代物だった。
そしてそれらはサリーに、自分が女性であること、そして女らしく装うことは楽しいことなのだと教えてくれた。
豪華なリムジンで乗り付け、賞賛の視線を受けていると、いつもの自分、パンドラと呼ばれる自分を忘れて、おとぎの国に迷い込んだような気分になる。
これがエドウィンの言う魔法なのだとしたら、まさに自分は魔法にかかりつつあると、サリーは感じていた。
エドウィンのくれたチケットは、当然のように特等席で、サリーはステージの中央正面から、幕があがるのに拍手をした。
ステージ最初は、シンデレラを題材にしたマジックだ。
アシスタントの女性扮するシンデレラが、舞踏会に行けず泣いているシーンから始まる。
ボン! と上がった煙の中から現れたのは、黒いフードに身を包んだ老婆。
魔法の杖を振るい、この老婆はシンデレラのために魔法を使う。
かぼちゃを馬車に、ネズミを馬に、そしてシンデレラの汚れた服を、豪華なドレスに変えてしまった。
魔法使いの使う魔法は全てマジックで、全て仕掛けがあるのだとわかっていても、サリーは途中からどういうマジックなのか、考えるのをやめてしまっていた。
子供の頃大好きだったシンデレラのストーリーが、絵本そのままに、そしてサリーが空想していたとおりに、今目の前で実現していく。
それを現実の目で、どんなトリックが使われているのか探すのではなく、現実を忘れ、空想の世界に入り込んでいく。
それはたまらなく幸せな感覚で、サリーはいつの間にか、ステージのシンデレラに同調していた。
ステージの上のシンデレラも、魔法をかけられて美しくなったからか、今のサリーもエドウィンに魔法をかけられて美しく着飾っているからか、そうなるのはごく自然だった。
そして、舞踏会のおこなわれるお城に到着したシンデレラ。
そこで、魔法使いの老婆は、最後の魔法をかける。
ボン! と老婆の姿を隠すように煙が上がり、その煙が消えると、そこには王子様に扮したエドウィンがにっこりと微笑んでいた。
魔法使いの老婆も、勿論、彼の変装だったのだ。
軍服を思わせる、華やかながらもキリリとした衣装に身を包んだエドウィンは、王子様に相応しいノーブルな笑みを浮かべている。
優雅に腰をかがめ、シンデレラに手を差し出す。
すっきりと後ろになでつけられた金色の髪が、スポットライトを浴びて、キラキラとまぶしく輝き。
シンデレラの手を取って、ワルツを踊り出す彼は、シンデレラの絵本から抜け出してきたかと思うほど、完璧な美貌の王子様で。
サリーはシンデレラと同じように、美しい王子に、胸を躍らせ、幸せなため息をついた。
ワルツが終わって、エドウィンが再び早変わりすると、ステージは次の演目へと移っていく。
サリーはまだシンデレラの余韻に浸りながら、エドウィンが瞬く間に別人に変わってしまうことに驚いていた。
今、ステージにいるエドウィンは、ワイルドでセクシーで、どこか危険な魅力を持つ男性という感じだ。
だが、本当のエドウィンは、ノーブルな王子様でも、セクシーで危険な男でもない。
どこかまだ子供っぽいと感じるのは、あの子供のような口調のせいだろうか。
屈託のない明るい笑顔のせいか、いつも直球で向かってくる率直さのせいか、彼は眩しい太陽のような人だ。
とても魅力的で、優しくて、暖かで、引き寄せられる。
どんな生物も、太陽の光を必要とするように、彼の周囲の人々は誰もが彼に傾倒している。
そしてそれは、自分も同じだと、サリーは認めていた。
暗い過去ばかり持つからか、明るさとは無縁の生活を送っているからか、エドウィンの輝きを恐れながらも、きっと誰よりも求めている。
このまま彼の側にいれば、彼の強烈な光ですべての闇を暴き出し、自分も光の住人になれるかもしれないと、そんな甘い誘惑に心が震える。
そんなこと、本当に可能なのだろうか。
それこそ、魔法でも使わなければ、無理ではないのだろうか。
でも、今、ステージの上にいる人は、間違いなく魔法使いだ。
彼は、本当の魔法など使えないと言っていた。
でも、本当の魔法を見ているような気分にさせることは出来ると言っていた。
そしてサリーは、今、彼に魔法をかけられて、ただ幸せで、うっとりとして、何もかもうまくいくような気分になっている。
エドウィンは間違いなく、人の心に魔法をかけることが出来るのだと思う。
本当の魔法使いだ。
ステージに幕がおりても、サリーはなかなか席を立つことが出来なかった。
席を立ってしまえば、この幸せな気分は、完全に終わってしまう。
余韻は長く残ってくれるだろうが、今のように鮮烈な感覚は消えてしまうだろう。
それでも、現実からいつまでも逃避しているわけにはいかない。
サリーは重い腰をあげ、ホールを出ることにした。
周囲の人々も、まだ余韻に浸っているのだろう、大騒ぎする者など誰もいない。
まるで大きな声をだしたら、幸せな空気が消えてしまうと恐れているようだ。
サリーも、早くこの人混みを抜け、リムジンに乗って一人になりたいと思った。
帰りも送るというリムジンを、行きは申し訳なく思ったのだが、今はとてもありがたい。
「サリー」
声をかけられ、サリーはそれを不愉快に感じながら、振り返った。
「少し時間をいいかな」
声をかけてきたのは、エドウィンのマネージャー、ナリスだった。
二人は、ロビーのすみにある長椅子に、列んで腰を下ろした。
そうしないと、人々のざわめきで、まともに会話が出来そうになかったのだ。
「ステージはどうだった?」
「とても素晴らしかったです。特に、最初のシンデレラが」
サリーの賞賛は本物だったので、ナリスも珍しくにっこりとして頷いた。
「あのマジックがきっかけで、エドウィンは魔法使いと呼ばれるようになったんだ。デビューからずっと、多少の変更はあるけれども、あのマジックを続けている。エドウィンは早変わりが得意だしね」
「本当に素晴らしかったわ」
と、サリーはナリスをじっと見つめる。
当たり障りのない会話はここまで。
本題に入ろうと、視線で促す。
「エドウィンはステージマジックをとても大切にしている。ここにいる間は、観客に現実を忘れ、一時の夢を体感してもらいたいというのが、彼の変わらないコンセプトだ。だから、サミュエルの発砲事件の後、彼はツアーを中止すると言い出した。なぜなら、観客はどうしてもエドウィンの姿を見ると、その事件のことを思い出してしまう。どうしても、現実が入り込む。それでは、彼のステージマジックの目的を果たせないからだ」
「………」
「エドウィンは演目を変え、演出を工夫することで、出来るだけ事件の影響を減らそうとしている。だが彼はきっと、このツアーが終われば、しばらくステージマジックを休むだろう。この事件が風化して、誰も話題にすることがなくなるまで」
ナリスが何を言いたいのか、サリーは正確に把握してしまった。
ついさっきまでサリーを包んでいた幸福感と、太陽からもらった暖かさは瞬く間に消え失せる。
そして、残ったのは、パンドラと呼ばれる災いばかりもたらす女だけ。
このままエドウィンの側にいれば、彼はまた事件に巻き込まれる。
彼自身が傷を負うことはないかもしれない。全力で彼を守る覚悟はある。
それでも、彼のイメージに傷を付けることは間違いがない。
傷が残る限り、エドウィンはステージに立たないのだとすれば、彼のマジシャンとしての生命を絶つのも同じではないだろうか。
「エドウィンは希有な男だ。天才だと思っている。彼のステージを待っている人は多い」
「わかります。私も、彼は天才だと思います」
だから、彼からマジックを奪うわけにはいかない。
サリーは立ち上がった。
座ったままのナリスが、どこか申し訳なさそうに、サリーを見上げてくる。
事件の前、サリーとナリスはとてもいい関係で仕事をしていたから、ナリスもこんな事を話すのは不本意だったのかもしれない。
「それじゃ、さようなら、ナリス」
「……さようなら、サリー」
サリーは後ろを振り返らず、真っ直ぐに待ってくれているリムジンに向かう。
夢は終わったのだ。
甘く優しい、暖かな夢は。
これからどうすべきか、サリーには全てわかっていた。
◆
終演から一時間後。
エドウィンはエレベーターを待つのにも焦れながら、急いで部屋に帰ってきた。
勿論、サリーにステージの感想を聞くためだ。
ちゃんと彼女に幸せな魔法をかけてあげられたのか、それもきちんと自分の目で確認したかった。
「ただいま!」
だが、部屋の中は、しんと静まりかえっていた。
それだけではない。
部屋中の明かりは消え、人の気配が全くなかった。
「サリー?」
もしかしたら、部屋でもう休んでいるのかも。
エドウィンは焦る気持ちを抑え、サリーの使っている部屋の扉をノックした。
だが、返事はない。
嫌な予感に、エドウィンは部屋の扉を開けていた。
「……畜生」
部屋は、もぬけの空だった。
サリーが持ち込んだ、わずかな私物もなくなっている。
きちんとベッドメイクされたシーツの上に、メモが一枚のっているのに気が付き、エドウィンは急いで取り上げた。
『色々とお世話になりました。どうもありがとうございます。素敵な魔法をありがとう。』
エドウィンは低くうめき、ベッドの上に倒れ込む。
シーツはすでに新しい物に取り替えられ、サリーの香りなど、どこにも残っていなかった。
そんな完璧さも、素っ気なく、冷たい感じがして、エドウィンは悲しくなった。
しかし、ぐぐっと拳を固めると、エドウィンはがばっと起きあがった。
「甘すぎる。甘すぎるぞ、俺っ! もっと気合い入れろ!」
サリーと渡り合うには、もっともっとシビアに、辛く、ほんの少しの隙だって許されないのだ。
それを今、思いっきり思い知った。
「っしゃあ!」
と、気合い入れまくりのエドウィンに、サリーを諦めるなどという考えは、勿論、一欠片もない。
2011年10月13日 発行 初版
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