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いま、 わたしの目の前にいる男の子と、昔はよく遊んだものだ。
男の子の親とも、そのまた親とも、よく遊んだ。
しかしながらある年齢を過ぎると私の姿は彼らに見えなくなるらしい。
私とは結婚の誓いをしたというのに。
尤も彼らが一方的に主張していただけだが。
その男の子はいまそこで、恋人と楽しそうに会話している。
なんとなく悔しいので、ぶん殴ってやった。
しかし私の手はするりと彼の頭をすり抜けるだけだった。
むかし、あなたが本当に人を愛したのは、一度だけだった。
あれは何時のことだったか。
あなたは彼に歌を詠んだことがある。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
あの人の返歌は、もう憶えていない。
いま、この部屋に、ちいさな雀がいる。
中に入ってきたは良いが、窓から外に出るのは難しいらしく、狭い部屋の中を飛び回っては壁や天井に突き当たって、床に落っこちる。
嗚呼、かわいそうに。私と同じ。おまえもこの部屋から、出られないの。
と思った矢先に、雀は上手く窓から外へ飛び立っていった。
空はとても蒼かった。
むかし、あなたには子供がいた。
雀のようにかわいらしい娘だった。
たしか、十市という名前だったか。
あの子も、逃げようとしていた。
あなたにだけは、話していたのだ。美濃の国へ行きたいと。
父に逢いたかったのか。それとも他に逢いたいひとが在ったのか。
その理由は、もう憶えていない。
いま、この部屋では雨漏りがしている。
畳の上に置かれた盥の中に雨の滴が落ちる。
ひた、ひた、と溜まった水が波紋を立てる。
盥を真上から覗いてみると、綺麗に綺麗に真円を描いて波紋が見える。
後頭部に入った滴が片目から抜ける。
泣いているみたいだ、と思った。
でも、さて、今までに泣いたことはあったか、と自分を訝しんだ。
むかし、あなたはよく泣いた。
あの人の返歌を想い出しては、泣いていたのだ。
紫草の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ戀ひめやも
そうだ。思いだした。いまでも、歌は憶えているではないか。
だが、それは。
わたしは嬉しくて泣いていたのか。悲しくてないていたのか。
肝心なことは、もう憶えていない。
2011年10月16日 発行 初版
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