二〇〇七年から不定期に発行しつづけている「一週間パイロット」。この学級通信ならぬ個人通信を七二本一挙掲載。国語教育関係のエッセイ「箱庭とサンドバック」「フリートークの中に真実がある」も収録。
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我われの存在は生きていてこそ脅威なのだ。
サキ・ヴァシュタール
一年三六五日という時間は意識しやすいし、一二ヶ月という年間の区切りも私たちの生活になじんでいる。しかし、一週間単位ではどうだろう。私の無印良品の日記では、年間で今日が何週目かが分かる。一年五二週、四月のこの週は、もう二〇〇七年の一六週目だ。
学級通信を発行される熱心な先生方がこの一学年には多いが、学校のリズムとは別に、生活人の日常のペースで、これから文章を綴ってみようかと考えている。もちろん、社会人として我々は日々実用文は書いているが、文章を書くという作業は本来、極めて個人的なものだ。学級通信というオフィシャルな形ではなく、今年の担任クラスを主たる対象として、個人的な思いを夜中にタイプし続けてみようと思う。数回で終わるかもしれないが、通しのタイトルは、仮に「一週間パイロット」としてみた。一週間の案内人という意味だ。
さて、初回には何の話題がふさわしいか。やはり、一ヶ月とか、一年というスパンをどう考えるか、という提案が良いだろうか。私は今年三七歳になるが、年末に久々に日記帖を買い、計画を思案し、書き留めた。「竹富島に行く」とか「エッセイ集を作る」とか「音楽活動を再開する」など、たわいのない夢や計画だが、並べてみるとなかなか気合いが入るものだ。実現すれば、その夢を線で消していく。途中で増やしても良いし、無謀な計画も、書けば少しずつ始められるかもしれない。「一年の計は元旦にあり」などと、僕らの世代は年寄りから言われたものだが、諸君らにとっては、なじみが無いかもしれない。ならば、入学を機に立てても遅くはないはずだ。高校生なら「甲子園」「花園」「国立」とか、シンプルな目標で十分だろう。
コツコツやらなければ、どうも世の中、上手く行かないらしいと気づいたのは、私の場合、二〇代後半だった。遅すぎると笑われるかもしれないが、それまでは一発逆転や、起死回生のスーパープレイをいつでも見せられると夢想し、不安を隠すために世間をナメきっていた。この国の人が好む、桶狭間や真珠湾奇襲は、そう成るものではない。バットが空を切る音にも聞き飽き、私は三〇歳でようやく就職した。相変わらず予定を立てたり、それを実行するのは苦手だが、もう努力なしに一攫千金などとは思わない。何かを成すには、着実に手を汚さなければならないことには気づいている。例えばこの、拙い文章修行のように。
﹁一週間パイロット」というタイトルは、実はあるマンガから拝借した言葉で、「一週間しか持たないパイロット」という意味だ。その作品の舞台は中東の内戦国で、傭兵を集め無理な近代戦を継続している。下手な雇われ操縦士は、大金を掴む前に一週間で灰になってしまう。私も、一年、いや一ヶ月でもこの小文を続けてみたい。誰にも頼まれていないけれど。
(二〇〇七・四・一五)
﹁人生とは旅であり、旅とは人生である」と、意外にオッサン臭い捨て台詞を残し、中田英寿が引退していった。世界中を常に新しい恋人と飛び回るヒデのことを羨ましくは思うが、あの旅好きな感じは共感できる。移動時間を厭う人も、旅行自体が嫌いな人はそうはいないだろう。
新入生合宿は、ただ疲れたという感想だけかもしれないが(何しろ、あれは「旅行」では無かったのだから!)、本来的な「旅」は精神衛生上、年間のスケジュールに盛り込まないと、私などはちょっとやっていけない。都会のゴミゴミした環境の中で、一年中閉じ込められるのだけは勘弁願いたい。どこでもいい、「ここではない」どこかに行きたい。
高校生のうちは保護者とよく相談してだが、たまには、思い切って日常から飛び出してはどうだろうか。学校には旅行届けの提出が必要だが(学割も交付されるので、是非とも届を出すように)、若者の特権は、貧乏旅行と一人旅が出来ることだろう。大人の女性を「青春18切符」で誘い出すことは、いかにも失礼だし(できる?)、家族を持てば、一人旅など逆に贅沢の極みである。単身で、いい若い者がひなびた旅館に泊まり込む(自殺者と間違われないように、予約した方がいい)。出来れば田舎がいい。移動も船旅や鈍行でわざとスローペースにすると、普段の東京の異常なスピードに気づくだろう。「人生とは旅」かどうかは分からないが、少なくともそれを豊かにすることは誰も否定できない。
金がない旅行というのも(若いうちは)面白い。食事や事前の宿選びも、自ずとシビアになる。海外旅行で値切るためには、その国の言葉やルールを知り、何より対等にコミュニケーションをとらねばならない。商談が成立したときには、ちょっとした「友情」も芽生えていることだろう。詰まらぬ土産を買うことが、最大の土産話になる。
サラリーマンになって、一番制約されるのは、この「移動の自由」である。例えば、小説家なら〆切の原稿を抱えていても、移動の飛行機で仕事は出来るだろうが、我々は八時なら八時、必ず決まった時間に仕事場に行かなければならない。これは、非常に重い拘束である。私が大学進学を勧めるのも、この「移動の自由」が四年間保証されるからだ。教師という比較的休暇が多い仕事を選んだことも、この「自由」を得たいがためである。
今年は、まだどこにも出掛けていない。身重の家人がいるので、移動距離にも限界がある。そこでGWは高野山での法事にかこつけて、帰りに京都に行くことを予定している。クラブで練習ばかりの諸君には恐縮だが、「合宿」の疲れを、自由な旅で癒そうと考えている。旅行の計画や準備もまた楽しい。意味なく、新しい靴下を買ったりしてね。
(二〇〇七・四・二四)
やはり、1週間パイロットだった。GWの後、試験作成や雑事に追われてなかなかこの通信が書けなかった。帰阪の際、高野山と京都に寄ってきたので、「霊山から考える関西人の宗教観」だとか、「古都の庭園にみる日本人の美意識」といった文化論を一席ぶとうと思ったが、やめた。高邁で、背伸びした、大上段なものはいけない。
現代文では山崎正和『水の東西』の次に、「スローライフ」を提唱する辻信一『テイク・タイム』に取り組んだが、「スピード病」を批判する論考を諸君らはどう感じただろうか。その授業の中で紹介した筑紫哲也の著書、その名も『スローライフ』(岩波新書)の話から、今回は始めたい。筑紫氏は、最近ガンであることを告白し休養に入っている。新聞記者としても、テレビキャスターとしても走り続けた方が、「スロー」という言葉を倒れる前に口にしたことは、極めて象徴的だ。あの綺麗にブローされた髪型が余り好きではなかったが、このキーワードをもっと広めるために、筑紫氏には是非カムバックして欲しいとも思う。氏は立ち止まり、休みたかったのかもしれない。
リタイアした団塊の世代(一九四七~四九年生まれ)が田舎暮らしで自給自足の生活を夢見るのは、昨今の流行らしいが、『スローライフ』にも「地産地消」というキーワードが顔を出す。「地産地消」とは、その土地で作ったものを、その土地で消費する(つまり食べる)ということだ。担当クラスでこの言葉を知る諸君は少なかった。ファーストフード世代の諸君には、耳慣れない言葉であろうか。
私はよくスーパーマーケットに行くが、そこでは我が国が、実に様々な食物を世界中から買い揃えていることが分かる。例えば、ふいに牛の臓物を食べたいとする。元々放ぉるもん(すてるもの)だったホルモン焼も、専門店に行けば高い。ウチで焼こう、という話になる。しかし、精肉コーナーに並ぶ綺麗に加工されたモツは、なんとブラジル産だった。地球の裏側から航空機で遥か運ばれてきた臓物は、どうも違和感があり、手に取ることは出来なかった。見回せば、国産品は本当に少ない。マグロはインド洋をはじめ、パラオ、マルタ(地中海)などから、天然エビはインド、タイ、養殖ならインドネシアという具合。うなぎ、ワタリガニ、貝柱、ハマグリは中国産。つぶ貝はロシア、ほっき貝はカナダだ。アメリカのニシンに、メゴチはベトナム。鮭はニュージーランド、チリ、ロシア、カナダと世界中から買い付けている。ししゃもも北海道産はほとんどない。あるのは大振りの、カナダ、アイスランド産だ。バナナはフィリピンだけでなく、エクアドルと台湾が競争に加わっている。安いスーパーでは、野菜は中国産が目立つ。言葉は悪いが、札ビラ振り回して、いかに我が国は世界中の資源を食い散らかしていることか。イギリスのスーパーではフードマイレージ(食料輸送距離)を表示している店が多いらしいが、重量×距離で換算すると、さぞや日本のスーパーはマイルを貯めていることだろう。大げさに言えば、夕食の買い出しから、世界と日本の関係が見えてくる。
少し前だと、スーパーも批判の対象だった。曰く、「今の小学生は、魚が切り身で泳いでいると思っている」と。しかし、家に帰ったら食事が用意されている、あるいは弁当や総菜を買ってくる諸君は、部品である切り身はおろか、完成品としての食事しか知らないことになる。どこから来たのか、誰が作ったのか、知らずに平らげる。
かといって、どこかの学校のように、目の前で鶏を絞めて喰べるような実践はちょっと違う気がするし(まず、担任が出来ません)手近なところでは、包丁を握るところから始めるのがいいだろうか。もちろん、材料も自分で選びに行く。スーパーもいいが、地元の魚屋や八百屋を覗いてみる。物の値段が分かり、意外な発見がある。(完全に観光地だが、京都の錦市場は面白い。西の食文化を知るには、一度行ってみるべきだろう。)
学生の頃は自炊が基本だったが、小金を持ち始めてから、私もあまり包丁を握らなくなった。夜中に「おにぎりが食べたい」と言えば、圧力鍋で米を炊き、すぐ握ってくれるような店もあったので(毎晩、沢山お金を使ったよ!)、まあ、それはやらなくなる。居酒屋というのはメニューが豊富なので、店を変え続ければ、まず毎晩外で飲んでも飽きない。立派に舌だけ肥えて、あげく料理を全くやらない口うるさいだけの男が完成する。しかし、女性の側からすれば、料理の上手い男性はかなりポイントが高いらしい。栄養士の免許を持つ友人は、確かにモテる(クラブでDJではなく、専用ブースでカレーを売って大人気)。
好きなもの、食べたいものなら、どうも人は作るらしい。この数年で唯一私が家人に作ったと言えるのは、「昆布締め」だった。これは、新鮮さがキモなので、まず売っていない。作り方は、厚めの昆布に酢をハケで塗って、薄く切った鯛を並べて挟み、ラップでまくだけ。一晩も冷蔵庫で寝かすとちょうど食べ頃になる。家人がいないときは、勝手に肉を買ってきて、ただ焼く。好きなポン酢やタレも買っておく。肉は基本的に良い物を選び、丁寧に焼けばそれだけで立派な料理になる。塩を変えるだけで、高級感が増す。
本当は諸君らを校庭に集めて、寒い日に鍋などやってみたい。地産地消などと、難しいことを言うつもりはない。ウチから持ってきた物を、ただみんなで食べればいい。闇鍋もおっかなびっくりで食べるから、立派なスローフードだ。ファーストフードのまずいところは、どうしても一人で食べることが多いことだろう。
そんなわけで、辻さんに倣うのなら、自分の食べるものくらいよく選んで、自分で切って、焼いて、仲間と一緒に、ゆっくりと、よく噛んで、スローフードを。
(二〇〇七・五・二七)
他人の家に招かれると、必ず本棚をチェックする。あまり良い趣味ではないが、音楽好きならCDのコレクションやオーディオ機器が気になるように、私は国語の教師なので、誰が、何を読んでいるかが気になる。「わたし、読書が好きなの」と言っている女性の本棚がハウツー本(「きれいになる技」とか「幸せになる方法」とか)で埋め尽くされていたり、江原啓之さんや占星術の本(あんた地獄に堕ちるわよ)ばかりだと、ちょっと引いてしまう。少し前なら、銀色夏生の本ばかりとか。ある女性の本棚は、全てジェンダー関係の書物ばかりだったが、こうなると座布団に正座するしかない。書架やCDラックは、ある意味、その人の顔だ。
無人島に一冊持っていくとすれば、どんな本を持っていくかという御題がよくあるが、部屋が狭かろうが広かろうが、日頃から厳選した本棚をきっちり維持している人がいる。文庫が出れば、単行本の方を処分し、サイズダウンするらしい。本はかさばるし、邪魔だし、重い。最近はアマゾンなどで手放した本も再入手できるので、どんどん整理すべきだろうが、私には出来ない。無人島用の一冊など、とても選べない。優柔不断な性格も、また本棚に表れる。棚からはみ出した駄本の群は、怠惰の表れだと、日々反省している。
だから、学級文庫では設置者の性格と趣味があられもなく開陳されるだろう。昨年は数学科の川上保衛先生に「セレクトがちょっと古い」と指摘され、赤面した。新しい小説に疎いので、今年も古い小説を性懲りもなく紹介するだろう。
そんな訳で、四年目のパルチザン文庫の再起動、と相成る。(パルチザンとは、「戦時に、武装した一般市民によって組織された非正規の戦闘集団」の意で、書物を「個人の闘争」のための武器にして欲しいとの願いを込めて、命名している。)
今年度は本の表紙が見えるレイアウトにしてみた。渋谷スペイン坂の大中で購入したCD用ポケットだ。特集を組むときは、机を書店の「平台」に見立てて表紙を見せるようにしたい。九組の諸君は掃除が丁寧なので、本も置きやすい。そして、本は投げるな、踏むな、と牽制球は何回でも投げておきたい。書物を神聖化するつもりは毛頭無いが、それに親しむことと粗末に扱うことは違う。よく見てもらえば分かるが、駄本も長期使用に耐えうるように、全て図書館で使用されるようなコーティングを施している。
なるべく新しい本も入れていきたいが、なにぶん私も独身の放埓な生活をしていた頃と違い、手元不如意である。結婚以来、給与口座は徹底抗戦を試みたものの、あえなく落城、全て「敵」に押さえられている(隠し金庫はあるけどね)。したがって、現物の寄付も大変ありがたい。読み終わった新刊本などは大歓迎だ。
初回のセレクトは、映画のヒットにあやかり硫黄島関係をはじめとする戦争関連の書物、授業で話題にした「スローライフ」や文学作品、最近読み飛ばした新書といったところか。昨年は数百冊をドサッと置いたが、今年は良書を厳選する方向で考えている。マンガもゆくゆくは置いていくつもりだ。
教師が本を読め、などと説教をカマすのは愚の骨頂、大きなお世話だと思うが、いかんせん二高の諸君の読書量は少なすぎる。これは勤続九年目の私が保証する。前任校と比べると、歴然の差である。二高にもたまに「年間三〇〇冊」というモンスター級がいるらしいが、体連の諸君はどうだろうか。「読む時間がない」などというのは言い訳で、正確には「読む気がない」ということだ。書物がこの技術革新の時代においてその形態を変えないのは、クイックリファレンス、参照のし易さのためである。携帯でメールを開くより、本を開く方が圧倒的に早い。ページをめくるという動作を超えるインターフェイスは、今世紀中開発されないとも言われている。書物という形態は、未だ最新型なのだ。読むための時間は、常に最短のルートで確保されている。
﹁読む時間がない」などという詮無い言い訳を秒殺した上でさらに持論を展開すると、私は「本を読まず、自分で物事を考えて、それをさも哲学的に語る人」が嫌いだから、若者に書物を勧めるのかもしれない。少ない情報で独断的に語る人の話ほど、つまらないものはない。本人は悦に入っているが、会話は変化球に限る。都合のいい経験談や偏狭な人生論など、いらない。当然その逆の、「本しか読まないで、自分で物事を考えず、書物に書かれたことをさも尊いもののように語る人」も厄介である。書物至上主義というか、こちらの方が私は醜く、みっともないとも思う。人生は書物の中には、ない(芥川龍之介は、ある、と言ったが)。プロレスラーの前田日明は太宰治が好きらしいが、そんな意外性、バランス感覚、繊細さと豪放磊落を身につけた男が、きっと魅力的なはずだ。筋肉だけ、読書だけ、どちらもまあ、ダメだろう。
書物はその意味で、必要に応じて手にすればいいし、要らなくなれば売ってしまえばいいのだ。ただし、本は売ってもほとんど儲からない。だから、私は文庫をやっている。
最後に一つ、背徳的な楽しみを紹介しよう。本を捨てることはあるが、本を切り刻んだことはあるだろうか。あれは結構、気持ちがいい。実は頂いた本で何度かやったことがある。コピーがない時代、百科事典の必要な部分を切って持ち歩く人もいたそうだ。以前私は国会図書館で、グラビアを切り抜いたヲタ風の男が司書に追いかけられているのを見たことがあるが、公共の書物でやれば、警察に突き出されるだろう。学級文庫の場合は、教員室に来てもらう。自分の本でどうぞ、ご随意に。
(二〇〇七・六・三)
そろそろ本題に入ろう。要するに元若者の酒臭き国語教師としては、諸君らに社会的事象と関わりを持って欲しいわけだ。我々の世代は、「日曜日でも選挙に行かない」(大江千里)のがトレンド、カッコイイことだと信じていた。世の中、うまくいっているなら、それでもいい。しかし、どうだろう、この荒廃した世界は。おい、美しいか? と、問い詰めたい。ボケッとくだらないJ—POPを聴いている間に、世界は確実に悪い方向に進んでいる(気が私にはする)。
年齢的にも、そろそろ「責任」を取らねばと、殊勝にも思っている。僕らの世代は、温暖化も、食糧難も、水不足も、化石燃料の枯渇も、徴兵制も、地域紛争も多分逃げ切れるだろう。その負債と火種は当然諸君らや、私たちの子どもの世代が負うことになる。すまん、と詫びながらも、大人は誰も本当は反省していない。生活も思想も見直さない。
三年前、ちょうどイラク戦争が開戦した頃、私は反戦バッチを作り、生徒諸君に配った。バンドのグッズのようにデザインには気を遣ったが、大人の反応は存外冷淡で、「免罪符?」「これ作って、安心してるでしょ」「かわいいのがない」「子どもには刺激が強すぎるわ」「私、右翼なので受け取れません」(全て実話)などと、善行は失笑を買った。逆に高校生は賛同してくれる諸君が多かった。未来は、やはり君たちが作るものらしい。いつもの決め台詞だが、新しい時代を作るのは、老人ではない(シャア・アズナブル)。諸君ら有為の若者だ。
今年、中年はちまちまとTシャツを作り始めている。安い無地のTシャツを仕入れ、プリントゴッコでシルクスクリーンを作り、好きな色で刷る。ただそれだけだ。Tシャツにロゴを入れると目立つし、メッセージを込めやすい。私は上手く画が描けないので、マッキントッシュでデザインを考えるのだが、今回はアナログに徹し、手書きの「9」の文字を拡大コピーした。
「9」のTシャツを体育祭で着れば、それは「9組」のクラスTシャツだが、普段身につけるときは、無論憲法「9条」Tシャツと解してもらいたい。「条」や「Article」という文字は、想像力をそぐので余計な説明は入れない方がいいだろう。さりげなさが身上だ。
私は、未来永劫変わらないものなど無いと思うし、カノン(聖典)を好まない。憲法もまたカノンではないと思う。しかし、今ほど変えるのに危険な時期はないとも思う。諸君らが憲法改正を望もうが、護憲派を気取ろうが、それはどちらでも構わない。しかし、選挙権を得る前に、今はその権利を行使するための土台作りをして欲しいと思う。政治家や指導者をイメージや顔で選ぶべきではないし(カッコイイに越したことはないとは思うが)、その見識を見抜く、こちらの確かな眼が必要だ。先日成立した国民投票法では一八歳から投票権があり、諸君らは憲法改正のシナリオからすれば、その最初の審判者となる可能性がある。重ねて言う、新しい時代を作るのは、老人ではない。おまいらだ。
Tシャツの大量配布は出来ないが、バッチは幾つか余りがあるので差し上げよう。当方、個人商店だが、微力ながら諸君らの思考の援護射撃をしたい。
(二〇〇七・六・一八)
防衛庁が突如防衛省に昇格したと思ったら、「(ナガサキの)原爆投下はしょうがない」という発言で、その長が早くも辞任した。聞けば久間章生氏は、長崎は島原の出身だという。まあ、何というか、発言が軽い。軽すぎ。ひどすぎ。ものを知らなさすぎ。
少し歴史を勉強したり、戦争について読んだりしたことがある人なら分かるだろう。広島の原爆もひどいが、それ以上に長崎の投下の意味が重いことを。日本を降伏させるのが目的なら、日本の大使をニューメキシコの核実験場に招いて、特等席でその威力を見せつければ良かったのだ。実戦での示威が目的なら、広島だけで十分だ。では、なぜ長崎にも?
一つは爆弾の方式の違いがある。広島はウラニウム型、長崎はプルトニウム型である。「作ってしまった」からには、二つとも試したかったのだろう。悪魔を産んだ開発者の心情は、容易に想像できる。ブレーキをかける知性も良心も、ありはしない。よく知られるように、当初の目標は小倉だった。八月九日の小倉上空は厚い雲に覆われ、目視で新型爆弾は投下できず、作戦は急遽長崎攻撃に変更された。原爆(太っちょ)を抱いたままでは、その重量で基地まで帰りの燃料が持たない。B29は、あわててお荷物を捨てた。行き当たりばったりの、気まぐれの、何の意味もない無数の死、それがナガサキだ。
三角州が広がる広島に比して、この街は坂が多い(やはり実験場の第三候補という訳か)。兵器工廠は爆心地近くにはあったものの、戦艦武蔵を建造した三菱造船所ははるか西側に位置している。長崎の街を一度でも歩いたことがある人は、その原爆投下が全く戦略的に無意味であったことを実感するはずである。やはり人種差別に裏打ちされた、いい加減な人体実験だったのだ。あの方、長崎の街を歩いたことがないのかしら?
人間は間違いを犯す。しかし、二度目のナガサキを戦争犯罪と云わずして、何が犯罪か。二年前、二度目の長崎旅行で確信したのは、二度目のナガサキという出来事こそが核廃絶の鍵となるということだ。二度あることは三度ある。ナガサキの意味を忘れたとき、我々は同じ原子野に立つことになるだろう(あるいはもう、灰になっている)。
発言の不用意さもそうだが、最近政治家というか、人の上に立つ人間の定見のなさが、ひどく目立つ。前の首相あたりから、ろくな趣味を持ち合わせていないことを恥じようともしない。一昔前のビジュアル系バンドを称揚したり(X!)、プレスリーの真似をして踊ったり(ブッシュさえ、ちょっと引いていた)、およそ思想や哲学などがあるとは思えない。久間君も『はだしのゲン』『夏の花』あたりから補習しなさい。俺が貸す。
(二〇〇七・七・三)

二学期のメインは何と言っても二高祭である。その盛り上がりいかんによって、個人の学校生活に対する充実感も、その後のクラスの雰囲気も大きく違ってくる。進学を控える三年生も含めて、これだけ気合いを入れて行事に取り組む学校も珍しいのではないだろうか。
近年の二高祭では、いわゆるパフォーマンス系の企画が主流だ。演劇、ダンス、音楽(バンド、合唱、合奏)などがそれで、全てを複合した音楽劇や映像を交えたメディアパフォーマンスもある。もちろん、喫茶店や物品販売でも構わないのだが、普段やかましいクラスが、そそと紙コップに茶を注いで売るだけというのも、何か変だ。いっそ、思い切り暴れてみてはどうだろうか。(それに家庭科を未履修の一年生は、保健所からのお達しで調理企画は出来ない。やれることは、市販のケーキを紙皿に並べる程度だ。)
入場者の投票により、各学年上位三クラスが企画賞として表彰される。最終日の片づけ終了後に発表されるのだが、これも毎年異様に盛り上がる。賞を逃し、泣く者まで出るほどだ。担任クラスは必ず企画賞をもらうというスゴイ先生もいらっしゃるが、私は過去七クラスで二回しか頂いていない。
一度目は担任二年目の喫茶店で、窓をステンドグラス風にするなど凝った内装にしたことが評価された(次の年、真似するクラス続出)。供するメニューも、ダウンサイジングした菓子パンを地元小杉のパン屋さんに特注するなど、工夫をしていた。装飾の独創性や、メニュー開発に力を入れれば、模擬店もまた面白いかもしれない。
昨年はバンドもやりたい、劇もダンスも合唱も合奏もという欲張りなクラスで、結局全てを含む音楽劇に取り組んだが、嬉しいことに賞を頂いた。劇中に次々と演奏者が登場するには、それなりに根拠が必要になってくる。真面目な学級委員会はその点に苦慮し、また昨年の二高祭テーマ〈生命〉とのかかわりに悩んだが、青山真治監督『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』という映画を下敷きにすることで落ち着いた。死にたくなるウィルスが日本中に蔓延し、自殺者が急増するという不条理劇で、娘を死なせたくない富豪が、そのウィルスを鎮める伝説のミュージシャンを捜索する……。音によって死に至る病を乗り越えていくというドラマ設定は、〈生命〉というテーマにぴったりだった。
二五分間の劇にダンス、フォークデュオ、バンド、合奏、合唱を詰め込むことが出来たのはギリギリ前日のリハーサルであった。中学生の自殺者が多かったその年の世情とシンクロし、妙な説得力のある劇に仕上がり、クラスの面々は満足していたと思う。演劇の良いところは、役割分担が出来るところだ。役者なんか出来ないという人にも、照明・ナレーター・音響・黒子・宣伝・背景・小道具・大道具等々、仕事は沢山ある。
さて、担任クラスはもちろんだが、教科担当クラスの動向も気になるところだ。二高祭は実に一万人以上の来校者がある。当日暇そうに、ナンパの真似事しか出来ない、ということのないように、クラスあるいはクラブにしっかり結集して欲しい。
(二〇〇七・九・一)
一学期終わりの教育懇談会で、災害時の学校の対応について御質問を頂いた。「登校中に災害に遭えば、子どもはどうすればいいのか、引き返していいのか、何が何でも学校に行くべきなのか」と。新潟の地震の後だから、当然出るべき質問だったが、用意がなくとっさに答えられなかった(すいません)。というわけで、学校としての対応については、入学時に配布した学校要覧を参照して欲しい(九組の諸君は、保護者の方と確認して呉れたまえ)。要は大規模災害の場合、学校にいれば学校にいて、登校途中なら引き返していいということだ。武蔵小杉に着いていたら? という質問が出そうだが、それは自分で判断してくれ。我々教職員は「いざ鎌倉へ」で、必ず学校にいるはずだ。しかも、二高の倉庫には二〇〇〇人分の食糧がちゃんと備蓄されている。一緒に食おう。
デカイ一発が来るかもしれない。そんな予感は誰でも持っているだろう。関東大震災からすでに八〇年、地学科の相田一郎先生によると、「とっくに来てもおかしくない」年月が経過しているという。
九五年の阪神淡路大震災のとき、父の職場は神戸市立博物館で、弟も神戸商船大学に通っていた。ご存じの通り、それは早朝のことだった。数時間遅かったら、二人は横転した列車に乗っていたかもしれない。よく言われることだが、通勤通学時間に災害に遭うのが一番危険である。周りは他人、どこにいるか分からない、何が起こったか分からない。特にテロの標的ともなっている大都市の地下鉄での、パニックや火事は考えるだに怖ろしい。以前たまたま、韓国の大邱で地下鉄放火事件の現場を見てしまったが、あれは逃げ場がない、最悪の事故だ。地下交通というのは、都市の利便性に隠れた死角ともいえよう。東京の新しい地下鉄も掘るところがないのか、異常に深くないか?(例えば大江戸線やみなとみらい線は、大阪の地下鉄御堂筋線に較べれば一〇倍くらい深い気がする。)
全くの気休めだが、私はマグライトを鞄に仕込んでいる。携帯の光も暗闇ではそれなりに有効であるという話も聞く。慌てずに、まずはバックライトだ。それから、水筒も必ず持っている。重いが真冬でも持っている。靴は常に丈夫なものを選んでいる。かかとを踏んだローファーでは、ズタズタに破壊された道路を何キロも歩けないぞ。
そして、帰り道は確保しているだろうか。学級文庫には帰路をナビゲートしてくれる『帰宅支援マップ』を入荷している(相田先生に教えてもらった)。必要なら、各自カマタ売店(購買)でコピーしたまえ。参考図書として、究極の帰宅マンガ『ドラゴンヘッド』も置いておこうか。私は新丸子在住だから、マップも龍頭の教訓もいらない。落下物と水たまり(感電のおそれ有り)に気をつけて、歩いて帰るだけだ。
地図が用意出来たら、さあ、みんなでウチに帰ろう。
(二〇〇七・九・一五)
追記:この文章の大部分は夏休みに書いたが、その後大雨洪水警報で休講措置の日が多くなっている。多摩川の中州に取り残されるサラリーマンまでいる。いずれ「洪水」編も書かねばならないだろう。各員自衛せよ!
またダメかもしれない。自由が押し潰されていく感覚を、自分は全くの安全地帯でかみしめながら、TVの前で一人ごちている。「報道ステーション」から、「News Zero」にハシゴする平和の国の住人が見据える画面の向こう、軍事政権下のミャンマーでは、民主化を求める民衆に対し、鉄の制裁が加え続けられている。
デモのきっかけは、長期のインフレに喘ぐ人民に追い打ちをかける、急激な燃料費の値上げと、それに付随する様々な物価上昇に対する怒りだという。しかしその代償は、軍によるデモ参加者への無差別発砲、「ブッタの子」たる僧侶に対する暴虐な振る舞いであり、二〇年近く断続的に軟禁状態にあった民主化の指導者・アウンサンスーチー女史を、何と刑務所に移送したとの情報もある。ビルマの女神は、その神々しいまでの美しさ、カリスマ性でもって軍から畏れられ、長い間自由を奪われていた。
仏教国でもあり、国民から常に敬意を払われる僧侶を、為政者もそう容易に手出しは出来ない。ならばと、一部報道によれば、デモに参加する僧から紅い法衣を引きはがし、普通の格好にして暴行を加え、連行するという信じられないことが行われているという。寺院も破壊されているというが、入ってくる現地情報が、とにかく第一報から極端に減っている。ミャンマー国内ではインターネットが「故障」という名目で遮断され、新聞は発行停止らしい。そして、ネットカフェから動画を配信していた外国人記者は、早晩国外退去を受け入れるであろう。殺された長井健司さんのようになりたくなければ。
邦人がもんどり打って、明らかに至近距離で銃殺されているのだから、我が国の政治家は堂々と抗議、謝罪を要求して良いはずだ(まさか、今回も「自己責任」とか言わないよね)。しかし、軍事政権と太いパイプを持つ中国を差し置いて、日本がイニシアティブをとって、虐殺の地に平和をもたらすとも到底思えない。米国は様々な経済制裁を打ち出しているが、さて効果は如何ばかりか。苦しむのは、またも民衆ではないのか?
では、TVの前で阿呆のように座っている、平和の国の我々に出来ることは一体何なのか。実に悲しいことだが、武力に対し我々がなし得ることは、何もないに等しい。「平和」と「団結」を唱え、そして生活の向上を訴え共闘した市民と僧侶は、徹底的に弾圧されている。この情況を目の当たりにして、やれることは、このことを誰かと話し、大いに議論し、見過ごさず、忘れないこと、そのくらいしか、私たちには出来ないだろう。
﹁世界」は我々が足掻こうが、何をしようが、微動だにしない。しかし、1ミリでも「世界」が動くという可能性において、私は思考し、その考えを表明し続けていたいと思う。この雑文を細々と書くのも、日頃の雑談も、その「世界」が可変する(仮構の)1ミリの可能性に賭けているが故である。「世界」は変わるのか、「変わらないよ」とうそぶく前に、まず考えろよ、と諸君には投げかけておきたい。「平和」と「団結」はおそらく、各人のそのような営為の延長線上にあるはずだ。「平和」と「団結」、そう簡単ではないよ。
(二〇〇七・一〇・一)
ビビる大木という芸人がひところ、恋愛や人生の極意(?!)を自由闊達に語る深夜番組をやっていたが、彼はその奥義の三本柱に、必ず「寝るな」という項目を掲げていた。フリップの一番上は、常に「寝るな」。苦しい恋愛においても、難しい人生の決断においても、決して眠ってはいけない。「寝るな」――これをクラス目標にしてはどうだろうか。とにかく担任クラス・教科担当クラスで寝る者が多い。ほとんどが同じレギュラーメンバー。国語の時間ではご存じの通り、寝ると必ず指名することにしているが、それでも寝るということは、他教科ではすべて寝ているのではないか?
教師がいうのも何だが、私もその昔の青春時代、無限の惰眠を毎日むさぼっていた。大学にひとより長くいたので、その毒は身体中に回っている。昼まで寝ていた学生から一転、勤め人はつらい。毎日、毎日、昼間寝てはいけないのだ。授業中「寝るな」という指導は、私が人生から学んだその極意である。大木氏には、一〇〇%同意する。諸君、「寝るな」。
昼間寝ないためには、当然夜しっかり寝る必要があるが、快適な睡眠をとるには、それなりに技術や作法が必要だ。私はウレタンの安眠枕とそば殻の枕が好きなので、体調に合わせ、使い分けている。時に、抱き枕、足枕も使う。パジャマは汗を吸わない感じがするので、下着は厚手のTシャツに限る。夜が更けるにつれて、部屋も暗くし、間接照明に変えていく。蛍光灯というのは一分間に数万回点滅しているらしく、目に負担があり、それを消して一気に寝るというのは実は相当の無理がある。それから、音楽。CDコレクションのかなりの数を占めるのが、いわゆるアンビエント(環境音楽)だ。ビートがないものがほとんどで、繰り返しの旋律が眠りを誘う。女性なら、アロマポッドを使う人が多いと聞くし、お香でもいい。とまあ、これくらいの工夫は必要だし、眠れぬ者は羊を数えている場合ではない。
眠れないときの対処法も、定番が欲しい。難解な哲学書を読む、戸外に出て深呼吸、突如布団で腹筋背筋腕立て等々。大人は時に酒や睡眠薬に頼る場合があるが、諸君はナチュラルにやる方法を極め給え。
逆に、教室以外のあらゆる場所で寝るのも大事だ。電車などの移動、休日の寝だめ、昼休みなら別に寝ていてもかまわない。また、睡眠時間が六時間だと少ないとか、絶対八時間寝なければならない、などという強迫観念は捨てた方がいい。「少ない」という思いは、「寝てもいい」という誘惑に転化する。そして、全てに参加せよ、聞き耳を立てろ。授業料を考えれば、学校で寝るのは、保護者の方への重大な背信行為だ。教授する側も当然それなりの準備をしている。朝の英語の時間などは、あの二〇分弱のプログラムの準備に五~六時間はかかっている。対して、諸君らの私語は「暑い、寒い、だるい、ぬるい」などの快不快に関する会話だけである。しゃべらず、寝ずに、「準備された言葉」を聞き逃すべきではない。
そんなわけで、雪山だろうが、教室だろうが寝てはいけない。諸君、「寝るな」。
(二〇〇七・一〇・一三)
九組の諸君、二高祭での奮闘ご苦労様でした。企画賞発表後は怖ろしいほど盛り上がったが、この団結力とパワーを是非とも後半戦に活かして欲しいと思う。演劇という華やかな空間芸術は、一瞬にして消える時間芸術でもあり、もうあの「三バカ」や「加齢臭」や「柴矢」は跡形もない。今はしばし、その記憶を書き留めておきたい。
黒澤明:『サボテン・ブラザーズ』のストーリーを委員長のプレゼンで聞き、大袈裟でなく戦慄した。これは全く黒澤明『七人の侍』ではないか。しかも、説明した本人はこの黒澤の代表作を観ていないという。これには、全く恐れ入った。この日本映画の古典は、二高祭のテーマ「平和」と「団結」そのままの物語だった。一色君の着眼点がすばらしいのはもちろんだが、時代を超え、国籍を超え、今なおゾンビの如く活き活きとしている、そのプロットの強靱さよ。そして、大和魂をアメリカンドリームに書き換えたハリウッドの図太さよ! 優れた物語と出会った我々は、それに導かれていったのだった。
ヒーローは心の中にいる:フィルムの中の英雄が本物になる、ヒーローが再びヒーローに成り直すのがこの物語だ。いかにもアメリカ的発想だが、英雄は、そうめったにいるものではない。西部劇のヒーローだったクリント・イーストウッドは、『父親達の星条旗』ではっきりと「本当のヒーローは死んでいった者達だ」と、硫黄島戦で生き残った兵士に語らせている。ヒーローは、現実にはいないのだ。続く『硫黄島からの手紙』の日本側の英雄、栗林忠道中将(渡辺謙)とバロン西(伊原剛志)もまぶしいくらい立派な描かれ方をしていたが、彼らは生きて祖国の地を踏むことはなかった。ヒーローは、やはり心の中にしかいないのだろうか。
エルワポの死:悪の親玉もまた、討たれねばならぬ運命にある。黒澤作品も西部劇も、基本構造は勧善懲悪、悪は死する運命にある。しかし、エルワポが殺されるのはかわいそうだった。見ている者はそう思う。黒衣の牧・國吉両君の演技が堂に入っていただけに、ついついこの悪役に肩入れしたくなる。悪人には、悪人なりの哲学があり(「おれは男しか殺さねえ。だが、女みてえなヤツも殺さねえ」)、その人生があったはずだ。私が唯一演出で口出ししたのは、エルワポを葬った後、協力した村人も含め、全員が舞台にへたり込むことだった。死体を蹴るなど言語道断。悪人の背景をしかと描くことは、闘争劇では一つ課題ではないだろうか。
女性という幻影:キャサリン、愛しのキャサリン。寺島君は金髪の鬘を付け、ワンピースにカーディガン、そして胸には若干の詰め物。それだけで、何となく、いや、立派に女性に見えてしまう。御婦人方には浅はかと叱られそうだが、僕らが見ているのは、その髪、指、声。男子は、彼方の女に、幻影を抱いている。はぁ。
記号性:象徴性、あるいは記号の効用については国語の授業でも最近強調していた。平和の象徴としてのハトは、正しく白(あるいは青)でなくてはならない。これが、記号性であり象徴化という作用だ。昨年の音楽劇では、探偵ならハンチング帽、富豪なら杖など最小限の小道具で、そのキャラクターを表現した。今年のカウボーイは、ハットとベスト、ジーパンだった(セレブなので蝶ネクタイ付)。村人は作業着としてのTシャツ、悪人は、下っ端から親分まで黒装束だ。その辺は九組の諸君は心得ていた。加えて、指揮官の今野君を中心に大道具班は、酒場なら樽、夜なら月、村なら境のアーチ、悪人のアジトなら暖炉と、ほぼ完璧なシンボライズで劇を支えてくれた。学年主任の吉田真先生も、舞台装置はほめてくれたよ。帽子と自転車も段ボールの手作りで、実物を使うよりずっと良かった。
音:映画は音だ。演劇もまた劇伴が重要だ。山本君率いる音響チームの選曲もまた絶妙であった。悪人はヒップホップ、村人のテーマ、ピンクパンサー、ディランの定番曲と非常にわかりやすかった。銃声のラグはご愛敬。好きな曲をかけるというエゴを捨てれば、選曲家は高い評価を受けることだろう。
裏方さん:黒子がいなければ、月も出ない。照明さんがいなければ、ヒーローにスポットは当たらない。劇作りで体感できるのは、裏方さんの重要性で、機敏さ、正確さ、的確な判断や打ち合わせがなければ、ショーは成立しない。そういう意味では、かかわった全ての諸君は「もの作り」の基本的なところをつかめたのではないだろうか。既製のアトラクションや、商品化された遊び場では得ることの出来ない、何かを作るという行為の原点が。
笑いとは何か:ディランは悩んでいた。いや、役者や黒子の諸君も悩んでいた。女子高生の笑いがイマイチとれない、と。一日目が終わった後の炎のミーティングは、最終下校時刻にまで及んだ(そんなアホなクラスは、他にはなかった)。
余談だが、大阪でモテる男は、頭がいいヤツでも、足が速いヤツでも、野球がうまいヤツでもない。おもろいヤツが一番モテるし、同性からも一目置かれる。「おもんないヤツ」はアカンのです。しかし、怖ろしいことにこの吉本文化が日本中を席巻し、最近はどこでもおもろいヤツが一番モテる、らしい(どうなの、関西芸人のやんちゃぶりは)。当世、男子たる者、ウケなければ話にならぬ、ボケなければ、男がすたるという訳か。教師の側からすれば、きっちりと組み上げられた劇だし、それをやりきれば十分だという評価になるのだが、諸君らはそれでは納得できないでいた。私も、やはりモテたい、じゃない常にウケたい、笑いを取りたい純正大阪人なので、気持ちは分からないでもなかったが。
そもそも、笑いとは何か。先日テレビで劇団ひとり氏が、笑いの構造分析を真面目にやっていた。曰く、笑いとは「想定外」の領域なのだ、と。放たれたギャグが我々の了解事項、「想定内」では笑いは起こらない(決まったギャグで笑うということはあるが)。適度な「想定外」が爆笑を生み、「想定外」過ぎると、いわゆる「スベる」という現象が発生するという。だとすれば、演劇の中で、その適度な「想定外」をあらかじめ設定するというのは、かなり難しいのではないか。……結果的に諸君の熱演自体が、女子高生には適度に「想定外」だったのか、二日目の観客の反応は好意的だったと思う。彼女たちの周りに、我々のような熱いヤツらは果たしているのだろうか?
平和と団結:変なテーマといえばそれまでだが、ホームルームでの基礎討議は充実していたと思う。「勝った者が、真の強者なのか」「平和とは帰るところがあること」「何のために争うのか」など、劇に直接結びついたかどうかは別にして、テーマから喚起される様々なモチーフが討議では交わされた。それは決して無駄ではなかっただろう。……それにしても、二高祭は疲れる……。来年は諸君らの野蛮なパワーについていけるだろうか心配だ……。
(二〇〇七・一一・二)
この学校を一年間動かすのには、およそ一二億円の資金が必要だ。この紙も、私の給与もそこに含まれている。私立学校といえば、その全てを諸君等の保護者の方から納めて頂く授業料でまかなっているように思うが、そうではない。国と県からの助成金がかなりの割合を占める。今回はその公的な助成金を求める署名の話だ。夏前から学校全体でこの運動に取り組んでいるが、協力して頂いているであろうか。あなた、お名前書きました?
二高の初年度の校納金は実に八七万五一五〇円だ。銀行引き落としのお知らせをホームルームで配ると、必ず「高っ!」と声を上げる者がいるが、気付くのが遅い、遅すぎる。入学に際し、家庭でお金の話にはならなかったのか? 公立高校との差は、何と八倍だ。大学の私立と公立の差はその昔一〇倍だったが、今や三倍程度で、高校での授業料の格差がいかに大きいかということだ。全員が大金持ちなら、無論問題はないが……。
そこでさっきの一二億円の話に戻るが、僭越ながら、その八七万円では足らないのだ。学校経営には生徒諸君一人あたり約三〇万円の経常費助成が出ている(つまり一二億円の四割強が、助成金からまかなわれている計算)。神奈川県は全国で四三位という低水準だが、この公的助成がなければ単純な話、諸君等の御家庭にもう三〇万円ずつ御負担頂くことになる。……あるいは、我々の給与が大幅カットか?!(哭)
そこで助成金嘆願の署名は、大変重要になってくる。世の中景気は回復したらしいが、「教育にドンドンお金を出す」という景気のいい話はどこからも聞こえてこない。減らされる公的予算の中で、教育費もまた別枠ではない。署名がなければ、学校に回される金は自動的に減らされていく運命にある(役所ピカピカ、校舎ボロボロ)。
署名にアレルギーがある人はいると思う。怖いとか住所がばれたらどうしようとか。これは完全に個人情報保護法による悪影響(コントロール?)だと思われる。例えば、署名のデータが流失するとすれば、用紙をコピーし、電子化し、さらに送信しなければならない。よほど怪しいカード会社や、ネットに入力した情報の方が危ない。(数日前、病院が患者の名前という「個人情報」を明かさなかったばかりに、暴力団員に間違われた方が射殺されるという事件があった。保護法に守られたのは、いったい誰の命か?)
署名が何となくイヤ、という感覚は分からないでもないが、それはあらかじめ市民の政治的なアクションが封殺されてきた結果であるということだ。他人と繋がりたくない、関わりたくないという間違った生活実感を植え付けられ、何も出来ないようにされてきたのだ、僕らは、気づかないうちに。
未来のための投資というとまた希有壮大な話だが、私立学校(二高)で学んだ者は弟や、あるいは子どもがまた私立に通う場合は多いだろう。今日の署名は確実に、そんな明日のためになる。署名がなければ、減らしていいと「出している方」は思うはずだ。
さて問題の「数」だが、私の感覚だと代筆が可能なので一〇〇人(一〇枚)はいけると思う。学校全体で五〇〇〇〇筆が目標なので、生徒教職員関係者その他二〇〇〇人換算で、各家庭二五人(三枚)は最低お願いしたい。偉そうに言う私も、実家に頼んでせいぜい一五〇筆程度だ。私が数を増やすより、みんなに一枚ずつ増やしてもらった方がいいだろう? 今月中に締め切られるので、残り期間もう少し頼むよ。
(二〇〇七・一一・一五)
三年生はこの時期、もう法大推薦まで怒濤の日々だが、一年生は案外、いやぶっちゃけクラスにも個人にもテーマがないと間延びした時期になる。これからが相当長い。クラスのテーマは、何か担任が叩き台を出すとして、それぞれはやはりこの時期、進路開拓が大きな課題となるだろうか。R-CAP(職業適性検査)も終わり、それに関して冬休み課題もあることだし。
二高の場合、「○○大学の○○学部に行くかどうか」という形の指導は展開していない。特に一年生の時は、将来的にどう生きたいかという大向こうの目標をゆるやかに定め、そのために現在何をやるか、という考えでもってこの難題に向かって欲しいと思っている。
しかしながら、私もそうであったが、「何にもなりたくない」もっと露骨に云うと「何もしたくない(出来れば、働きたくなんかない)」という人もいるだろう。青春の漠たる不安と怠惰に身をおきながら、何とか楽できないものかと、逃げ道を探している諸君も多いのではないだろうか。ニートやフリーターはイヤだが、努力するのはもっとイヤだとか。自分がまだ、何者か分からぬのに、職業を決めろとはまた酷な話だが、早い人は二年半後に働き始める可能性だってあることは念頭に置いてもいいだろう。
もっとも、しっかりと目標を定めている人は、それがロックスターか、弁護士か、仮面ライダーかは分からないが、それに向かって突き進めばいい。そうでない人も、そろそろこの時期に考えていいかも知れない。これも確認していいだろう、「誰もがいつかは働かねばならない」ということを。
昨年の進路講演会に来て下さった法政大キャリアデザイン学部の児美川孝一郎先生は「まずは、今、目の前にあることを一生懸命やれ」と二高生にアドバイスを送られた。これだけ聞くと、非常に生活指導的な感じを受けるかも知れないが、私の言葉で云えば、高校時代というのは様々なレッスンの場、「回路作り」の時期ということになろうか。サッカーを懸命にやることは、(プロにならない限り)将来の進路に一切関係ないが、そこでの貴重な経験は、未来のために一切が役に立つということだ。一つのことを成し遂げられない者に、この後何が出来るというのだ。
ともあれ、疲れた大人にとって、これから自分の思考回路や行動様式を決めていける諸君はうらやましくもある。毛沢東ではないが、未熟な時期は、また成功するための可能性の宝庫でもある。勿論、その苦悩の時期をもう一度過ごそうとは思わないが。
以下、担当クラスでは話した今日からでも出来る「キャリアデザイン」の初級編を示しておく。大向こうの未来を、少しばかりたぐり寄せるTipsだ。往け、若人よ!
他人(有名人・尊敬する人物等)のプロフィールを見る
気になる人物がいれば、その経歴を見ることは大いに参考になる。意外な回り道をしている人もいれば、すんなり初めから第一線で活躍している人もいる。学歴・職歴は男の顔でもある。誰がどんな看板を背負っているか、人生のモデルを探してみよう。
志望が決まっている場合は、関係する書物を読む
イメージだけで「弁護士になりたい」というのは、ほとんど「ウルトラマンになりたい」と云っているのと同じであると、私はよく諸君を揶揄するが、目標が決まっている人は現実を早めに見ることが肝要だ。幸い情報は、昔より手に入りやすい。例えば、ある分野に関して、関係書を一〇冊読めば「大体のこと」は見えてくるが、それは職業選択にしても同じだろう。一番良いのは、その道のプロに話を直接聞くことなのだが、そうそう周りに弁護士や翻訳家や映画監督や宮大工やナノテク研究者はいない。まずはネットで検索するか、書店に走ろう。
保護者の方の仕事(履歴)をよく知る
﹁お父様の仕事、よく知らないの♪」と云って許されるのは、深窓の令嬢だけである。保護者の方の職業を知ることもまた、大事な勉強である。意外な経歴に驚くかもしれない。あるいは、自分の親に対し、別の見方が出来るかもしれぬ。私は子どもの頃、父親が部下の汚職で捕まりかけた(本人は無実なのに、ある新聞では誤報で犯人扱いされた)話を聞いて、不思議な尊敬の念と、ちょい疑惑(本当にやってないだろうな?)を抱いたことがあった。人に歴史あり。これが、祖父母の代だともっと面白い。祖父が家を飛び出したいがために軍隊を志願したことは、死んでから田舎のお寺で聞いた……。
バイトをたくさん経験する(ただし、大学に入ってから)
就職してしまうと、当たり前だが、他の仕事が出来ない。最近は研修と称して、他の業種に数年飛ばされることも多いと聞くが、基本的に労働者は「相変わらずの」ルーティンワークに日々追われる。モチベーションを保つのも仕事のウチだ。時には他の職種から、アイディアも拝借したい。
私は家庭教師、塾講師、宝石販売、紳士服販売、書店、カラオケ、御歳暮の包装、生協の倉庫係、警備員、ガス修理の助手、競馬のビラ配り(これは大阪のオッサンにからまれる)、冷凍食品の仕分け(真夏にマイナス四〇度)、ビル壊し(危険なので一日でやめた)、小学校の床板運び(無理)、放送大学講師(これも一回だけ)などなど学生の時、あるいは講師時代に経験した。今思えば、もっといろいろやっておけば良かったと思う。学校を出ただけの教師というのも、世間知らずでやっかいだろう?
結局早めに決めた方がいい
早めに進む道を決めた人が、それなりにうまくいっているのも(私の狭い交友関係の中では)また事実だ。ミュージシャンになりたくて一八歳、二二歳、二五歳でそれぞれ業界入りした友人達がいるが、最も成功したのは高卒から飛び込んだK氏だ。某有名RPGのアレンジを担当し、イヤらしい話だが収入はかなり高い。業種によっては、氏のように大学進学が全く不必要な場合もある。三〇歳でボクサーから建築家に転校した剛の者(安藤忠雄)もいるが、年齢が上がれば通常は軌道修正は難しい。間違えれば、引き返せば良いのだが、四〇歳を前にすると、なかなか転職も難しい…。
二二歳の別れ
終身雇用や会社べったりの人生設計が崩壊したとはいえ、大学を卒業する年が二二歳であることは、一応日本の社会では意識しておいた方が良いだろう。大学院に進学するにせよ、一年浪人するにせよ、すぐに会社に入るにせよ、二二歳からそれぞれの「キャリアデザイン」は始まる。
コネクションを開拓する
﹁コネ」というと、若いころは何だか「汚いもの」のように私などは思っていたが、大人になっていかに人脈が重要かということに気づかされた。若いウチは「どうもどうも」といろんな所に顔を出して、名前を売っておくと、思わぬ仕事を任されるかもしれない。親のコネなど、今時どこでも効かない。
ところで、太宰治『人間失格』は「人間の生活というものが、見当つかない」という幼年期の独白から始まる。語り手の「私」はどうして朝から鉄道が走っているのか、解せずにいた。列車に乗って人々がどこかに行くというのは、無論生活のためなのだが、働いていない時期というのはそのことが実感しにくい。衣食に困っている諸君はいないだろう。これはまた「不幸」でもある。繰り返しになるが、「誰もがいつかは働かねばならない」。じっと手を見る。
(二〇〇七・一二・一四)
大河ドラマとしては異例のエクストラ第五〇話をもって、『風林火山』は大団円を迎えた。この数ヶ月、ハマって必ずビデオでチェックしていた。未見の諸君には、大晦日の総集編を是非お勧めする。女性のドラマとしてはやや弱い面もあるが、漢の群像劇としては文句のない、非常に「濃い」男ミストが充満のする男祭りであった。『不機嫌なジーン』での怪演も記憶に新しい内野聖陽、市川亀治郎、サニー千葉に竜雷太、御大平幹二朗、永島敏行や元男闘呼組の高橋和也など、よくもまあ脂ぎり度の高い役者ばかり集めたものだ。二高OBである西岡徳馬、田辺誠一両氏が渋い脇役で盛り上げてくれたのも嬉しいかぎりだ。
内野氏のことが気になるので見始めたが、正直前半は、あまりに歴史的描写が滅茶苦茶なので鼻白むことも多かった。別にドラマから歴史を学ぶわけではないが、三谷幸喜の『新選組!』にせよ、最近の時代劇の設定は史実無視の、どう考えても出鱈目が目立つ。
しかしながら、歴史を描くことは「歴史そのまま」にならぬことも、また必然である。鷗外の時代から、本作の原作者である井上靖と大岡昇平の論争まで、歴史小説(ドラマ)を「歴史そのまま」として描くか、「歴史離れ」をどこまで許容するかという議論が文学の世界ではなされてきた。離れすぎてもマズいが、そのままでは面白さは半減する。
さて、この『風林火山』だが縦横無尽に「歴史離れ」しながら作り手が発しているメッセージは、「二一世紀の戦争を再考する」ことであると私は途中から気づいた。武田信玄が覇権主義者だとすれば、対するGackt(上杉謙信)はさしずめイスラム原理主義者か。海を目指す信玄の帝国主義・領土拡張主義に対し、ガクト様は「義」のために戦い、「仏の道」を何より重んずる。川中島の戦いは戦国時代の一合戦に過ぎないが、ここではさながら世界最終戦争の様相を呈している。「毘沙門天に祈れ」と叫ぶガクト謙信と、「神仏は信じぬ」と応ずる内野勘助の戦いは、現在の宗教/民族紛争の明らかな戯画でもある。
謙信は女人を近づけぬ特異な人物であったという(変人?)。己の欲を捨てよという禁欲主義的なキャラクターは、同時に鬼神と呼ばれる戦争の天才でもあり、戦国武将の中でも特に人気が高い。ガクト様は多くの(私の周りの)時代劇ファンを納得させる着実な演技で、男を上げた。馬上で剣を抜き、斬りつけられるヴィジュアル系もまた珍しい。
実は私はガクト様の唄が好きで、家人には嫌がられるのでウチでは聴かないが、iPodにはカラオケ練習曲をたくさん入れている。強烈なニヒリズムを根底に秘めながら、この世の美しさや喜びを歌わずにはいられないこの貴公子のラブソングは、「正しい」歌謡曲が完全に死滅した昨今貴重であると思うし、私は偏愛している(カミングアウト)。
この間、氏の生真面目な姿勢にも心うたれた。いや、自己演出が巧いというべきか。彼は新潟県中越沖地震で被災した上越市の「謙信公祭」に登場し、そのとき何度も「まかりこした」と挨拶したという。罷り越す―つまり、冥府より破壊された故郷に、謙信が「帰って来た」と。この手の話に、私は弱い。氏は劇中でもこう語っている。「死してなお、この地を守りたい」と。川中島の戦いは、地上の争いを鎮めたいというガクト謙信の祈りそのものと云うべきだろう。無論、戦国の世の争いはさらに激化していくのだが。
(二〇〇七・一二・一七)
戯れにR-CAP(職業適性検査)に取り組んでみたが、返ってきた結果が完全に想定の範囲内だったので、がっかりした。もう私の志望や適性、指向性などは完全に凝り固まっているようで、意外な職業や学問領域をリクルート社から気づかされることは、全くなかった。可能性が閉じているということは、誠に悲しいことだ。四十路を迎えるにあたって、むしろ自分の敷いたレールの終点を目指さねばならないことに、まざまざと気づかされた。
こんな私にも宮本輝『星々の悲しみ』だった頃があった。通った予備校はナンバ、梅田という繁華街を越えた江坂という街にあった。一九八九年だったから、天皇が死んだ年だ。何よりショックだったのは、まず近所の予備校に落ちたことだった。国宝級の馬鹿者だった(したがって、拾ってくれた予備校は推薦入学! 屈辱!)。語り手である志水靖高は、浪人生のくせに難儀な文学修行にドライブがかかっていくが、私は音楽がやりたかった。さすがに大っぴらに音楽活動は出来ないので(メンバーも浪人中)、暗くレコード集めに勤しんだ。
予備校には志水と違い一応通ったが、恥ずかしいことに一度も自習室というものを使ったことがなかった。人気講師へ質問したことも。要するにタイムカードを押しに行くだけ、あとはキタとミナミをほっつき歩いた。道頓堀近くのレコード屋で高校の先輩が働いていたので顔を出し、アメリカ村の輸入盤屋や中古店を回る。梅田新道にも良いレコード屋があり、昼飯代はそのために浮かしていたが、たまにはその梅田の地下でカツ丼を食べた。浪人生は立ち食いそばやカレースタンドがよく似合う。
未来に対して不安がなかったわけではないが、がむしゃらに英単語を覚えたり、模試で成績を上げたりすることには興味がなかった。努力したくなかった。結果、地方の大学にしか受からず、「都落ち」の気分で「東国」に下ることになるのだが、あの頃の気持ちは自分でもよく分からない。しゃべる異性は「オカンだけ」という暗黒の時代を、『星々の悲しみ』という小説はかなり高い解像度で再現してくれる。大阪の街の描写も、懐かしく、せつない。「国鉄」大阪駅のコンコースの暗さよ!
もう一つ『星々の悲しみ』で甘酸っぱくなるのが、中之島図書館のシーンだ。志水は女子大生風の女性に出会うことで、図書館通いを始めるが、私は一時期懇意にしていた女性と、帰阪に合わせ、毎夏そこに通っていた。作品では中之島図書館は一般の図書館だが、後には古典籍や大阪の歴史的資料を扱う特殊な施設へとその性格を変える。普通の観光客はめったに行かないが、非常に美しい建物なので、来阪の際には一見をお勧めしたい。御堂筋線淀屋橋駅から、歩いてすぐだ。そして、有吉と草間が一万円を争って牛乳瓶に小石を投げていた難波橋は、図書館からは少し離れているが、小説の描写通りに実在する。
一昨年、ふと思いついてこの界隈を久々に歩いてみた。図書館は老朽化が激しく、一時取り壊される計画もあったが、補修を重ね、現在も大切に保存されている。大阪人はこのモニュメントを、これからも大事にしていくだろう。しかし、このネオルネッサンス風の建物がなくならない限り、志水と同じく、振り向いてもくれなかった若い頃の恋愛がずっとそこに存在しているかのようで、私は気恥ずかしくもある。
(二〇〇八・一・一九)
仏頂面の外国人横綱をバッシングするのもいいし、初場所でこのヒールがボコボコにやられるのを観て、「それみたことか」と意味不明の溜飲を下げるのも良いが(八日目を終え、一敗で全勝白鵬を猛追中)、この朝青龍騒動には意外な問題が隠されていることを、もう少し冷静に考えた方が良いだろう。
一時期はハワイ勢が大相撲を大いに盛り上げたが、現在はモンゴル勢が番付の上位を占める。横綱が二人とも外国人であることは、「国技」としては異常なことかもしれない。しかし、昨年は新弟子検査で受検者ゼロという事態も起こっている。つまり、相撲をやろうとする若者が、現在我が国にはどこにもいないということだ。支える人間が消滅すれば、そのシステムは崩壊する。衰退する制度を無理矢理維持するに、外部の人間を受け入れるのは当然のことだ。相撲は「伝統」を継承するために、逆にどの分野よりも早く「移民」を受け入れたということだろう。野球の外国人選手はさんざん儲けた後、数年で日本を去っていくが(バースよ!)、関取は四股名という日本名を取得し、親方になるために「帰化」し、制度の維持に多大な貢献をしている。
つまり大相撲で今進行しているのは、因習の駆逐と急激なグローバリゼーションの受け入れであり、一番早い移民問題なのだ。
国難として、少子化問題がしばし取りざたされるが、子どもが少なくなるというのは綺麗な物言いで、これは島国が初めて直面する人口問題であると、劇作家の平田オリザさんは云う。我が国の人口は、ここにきて減り始めている。今世紀半ばには何と戦前の水準である九〇〇〇万人以下に減少するという。出生率は現在一・三二人だが、細かい計算はここで省くとして、「産む機械」(ひどい言葉だ)である両親二人に対し、子どもが一人なら人口が減るのは明らかだ。最低二人でないと現在の人口は維持出来ない。
看護士について、すでに政府はフィリピンから六〇〇〇人規模での受け入れを決定している。今後、様々な分野・業界でこの「移民」の受け入れは始まるだろう。出生率が二人台に回復したフランスと我が国では、子育ての公的なバックアップは比べようもない(先日TVで見た限りでは、三人産めば公的助成は月一三万円! 教育費が格安! 公共料金割引! 赤ちゃんを連れて映画館OK!)。為政者の無策により、対照的に我が国の人口はこのまま減り続けるだろう。システムは外部の人間を導入せねば、早晩自壊する。
したがって、琴欧州や把瑠都どころではない。琴亜細亜、琴印度、琴南米を受け入れるか否か、いや受け入れるなどという言い方は全くもっておこがましい、いかに外国の方々にこの国の屋台骨を支えていただくかが課題となってくるはずだ。例えば先のオリザ氏は、異文化コミュニケーションが下手な我々の社会は、今後大混乱するだろうと予想している(ゆえに氏は、演劇教育による他者理解/異文化交流を提唱・実践している)。
偏狭なナショナリズムは、この人口問題の前では全くの無意味な戯言だと云える。そもそも、フィリピン人看護士と我が国の医療関係者は上手く連携出来るのだろうか。
そんな訳で諸君、何故朝青龍を応援しない? 彼は国難を救う、新しき隣人の魁ぞ!
(二〇〇八・一・二一)
法政大学キャリアデザイン学部の児美川孝一郎先生のお話を聞くのは二度目だが、毎回実に「教育的」だと感嘆している。これがリクルート社派遣のキャリアカウンセラーだと、「今の時代は厳しいですよ!」と連呼し、もっと不安をあおるような内容だったと思う。さて、諸君らは、どのように先生の話を聞いたであろうか。
諸君らがもっとも承服しがたかったのは、いわゆる「生涯教育」のくだりではなかっただろうか。今勉強するのも、イヤだが、一生勉強だって?! 冗談じゃない、と。
私も子どもの頃は漠然と、「大人になったら勉強しなくていい」と考えていた。ゲゲゲの鬼太郎ではないが、確かに大人になれば、学校も試験も何にもなくなる。試験を課す方が云うのも恐縮だが、あのテストというのは本当に辛い。数学の問題が解けないで苦しむ夢は、未だに見るときがある。試験がない大人は、誠に宜しい。
しかし、試験勉強はなくとも、キャリアを築いていく、あるいは一つの職業を全うするためにも、やはり「勉強」しなくてはならない。この場合の「勉強」を別の表現でするならば、仕事の一定レベルを維持するための「新しい技術の導入」や「専門知識の定期更新」、もしくは「職業人としての自己メンテナンス」と云ったところか。
例えば、今年私は同人誌の叢書の編集、文学教育系の雑誌への執筆、三島由紀夫研究の再開、などの仕事が決まっていたり、計画していたりする。すると、これらをこなすためには「欧米におけるアフリカ文学の受容」や、「国語教育界の研究状況」や「二〇〇〇年以降の『金閣寺』論の整理」などを当然のごとく急ピッチで「勉強」しなければならない。職場では、おそらく諸君らの統一試験対策に追われることだろう。自然、「受験対策に役立つ古典文法」や、「入試問題から学ぶ評論文指導」なんていう宿題も課されてくる。たかが高校教師だが、この職業で生きる人間として最低ラインを維持するには、まあこれくらいの「メンテナンス」が必要になってくる。レベルの高いプロは、その技術の自動アップデートの頻度や範囲が極端に多かったり広かったりするのではないだろうか。
昔と違う事と云えば、全ての職業がそれなりに高度化され、細分化させ、専門化され、さらに部外者には全く分からないブラックボックス化していることではないだろうか(児美川先生のレジメにある「知識(基盤)社会」がこれにあたる)。要するに、どんな商売でも、難しくなってきているのだ。
さて結論はやはり「一生勉強」ということになるのだが、その好例がゲスト出演してくれた二高卒業生の彼ではないだろうか。下手だったでしょ、お話。云ってる事が支離滅裂で、全然先生の質問とかみ合ってなかったでしょ。あれを見ると残念ながら、彼は新入社員のレベルにもまだ達していないのではないか。営業だと、ビス一本売れないと云ったら言い過ぎだろうか。まあ、現実の残酷さを誰より上手く表現していたと思うよ。
彼もまた、あのままだと終わってしまう。若いうちの恥は笑って済ませられるが、精進出来ず、年を重ねるのはキツい。私も恥をかかない程度に頑張るよ。
(二〇〇八・二・八)
冷凍の餃子が危ないらしいので、先日妻と二人で包んでみた。私の実家は男ばかりの三人兄弟で、皆餃子が好きだったので、沢山作らねばならず、よく手伝わされた。中身の野菜は多い方が良い。ネギ、ニラ、白菜、キャベツ、何でもいいが、水分をしぼるので大量に切っておく。ニンニクは入れない。肉は合い挽きが良い。兄弟奪い合って、熱々を食す。すぐになくなるので、直接フライパンから母はちゃぶ台の皿に盛ってくれた。タレは味ポンをよく使った。
中国では、餃子はごちそうで、いわばもてなし料理らしい。客人として招かれてかの品が出て来たら、まず歓待されていると判断して差し支えないそうだ。
ひとくちに餃子といっても、蒸しに、焼きに、水餃子に、サイズもいろんなものがある。点心だと、エビの蒸し餃子を必ず食べたい。蒸しの皮は浮き粉を使い透明で、ホウレンソウを混ぜれば翡翠のように美しいツヤを出す。昔、神戸の南京町で親父に初めて食べさせてもらい、点心の旨さには感激した。三〇年前だと、テーブルにワゴンで持って来てくれる、あのスタイルは珍しかった。点心は日本だと食事扱いだが、本場ではおやつだ。
珍しいサイズでは、チェーン店の紅虎餃子房で供されるような、鉄鍋のものも旨い。大きくてバナナの丸焼き、といったところか。小さい物だと「点天」が有名で、お土産に喜ばれる。
…さて、誰かのときに比べ日中関係がマシになっていたから大きな軋轢が無いようなもので、反日感情が激しい数年前ならば、この「毒」餃子は大変な国際問題になっていただろう。単純なバッシング合戦にはならない情勢だが、しかし元を正せば我が国の食物自給率が四〇%以下と異常に低いことが、そもそも問題ではないのか。
ヨーロッパで一般的に表示されるフードマイレージについては、この通信でもすでに話題にした。大体冷凍の餃子をわざわざ河北省の奥地から運ぶというのは、おかしくないか? 工場では現地の労働者が一三時間餃子を包みっぱなしで月給はなんと一〇〇〇〇円だという。これはどう考えても不条理だ。たかが餃子、しかし遠路はるばる、搾取の連鎖を引っさげて食卓にやってくる。
出生率に続き、またフランスを引き合いに出してしまうが、かの国の自給率は実に一二二%だ(サルコジ、ナイス)。皆自分の国の麦で作ったフランスパンを食べているという事だ。おまけにあの国のパンはとても旨い。その土地のものは旨い。泡盛を沖縄で飲むと、本当に旨い。
ところで自給率といえば、妻の実家が家庭菜園をやっているので、この夏遊びにいった。夏野菜は実にいい。気持ちいいほど、ニョキニョキ生えてくる。見た目は悪いが、スーパーのものより、キュウリもトマトも茄子も旨い。久しく僕らは、この採れたての快楽を忘れている。
話が支離滅裂になってきたので、ついでに希有壮大な提案で締めておこう。結局食の問題も、温暖化やエネルギー問題も、生活スタイルの転換に関わってくると思うのだが…。
①コンビニの営業時間短縮を求める。(セブンイレブンなら、セブンイレブンにしろ!)
夜中にコンビニ弁当を買いに行かない。昼間買っておいて、ウチで温める。
②自動販売機でものを買わず、地元の商店街を利用する。(すると無駄な自販が減る?)
③米食中心の食事にし、自給率アップの気運を高める。(ウチの朝食は最近お茶漬けだ!)
④学内に各クラスの菜園を作り、ホームルームで食べる。(戦時中みたいだが楽しいと思う)
⑤教室に簡単な調理場を設置する。(昔はストーブで給食のパンを温めたものだった…)
……外食関係の皆さん、勝手な事を書いてすいません。
(二〇〇八・二・一四)
新年は大阪には帰らなかった。三七年生きてきて、ただの一度も大阪以外の場所で越年したことがなかった。ある友人とは中一以来、ずっとつるんでいたので、エエ年して「帰って来んのか〜」などとメールが来た。大晦日は誰かのウチで飲んで、飲まないその友人が運転し、大鳥大社へ深夜の初詣というのがお決まりのコースだった。そして高校生のように「どの巫女さんがかわいい♪」などと品定めするのだ。
正月にもいろいろと作法がある。封建的だとか保守的だとか古くさいとか批判は浴びそうだが、故郷はきっと古ぼけたしきたりの中にある。せめて、その中に「まぼろしの大阪」を再現しよう。思い出は椀の中にある。
まず家人にお願いして、元旦は関西風の御雑煮にしてもらった。無論、白味噌である。関東の人は一様に、甘い、などと云う。餅は丸餅だ。切り餅は縁起が悪いのか、入れない。その他、具は小ぶりの雑煮大根、水菜。人参は普通入れないが、入れられてしまった。三日目になると、おずおずとすましの関東風が出て来た。まあ、これも旨い。
大阪では、おせちなどとは云わない。煮しめ、だ。私の母は近年ボランティアのNPOを立ち上げたりした、典型的モーレツな大阪のオカンだが、このところ年末は配食サービスで、孤独な老人用に煮しめのセットを一〇〇個ほど作っているという(過剰やね)。家を一軒製造工場として借り切っているが、大阪のオカン一〇人が大量の煮しめを作る様は圧巻だ。デパートで買えば平気で三万くらいするが、このサービスだと六〇〇〇円だという。ちょっと、母は偉いかもしれない。そのセットが二つ分ほど、クール宅急便で送られて来た。別便で御重も届いており、あとは詰めるだけ。妻も少し作ったので、食べて開いたスペースには順次新しい物が入っていく。ネットで調べたが、二段の場合は壱の重が祝い肴、口取り、弐の重が焼き物、煮物、酢の物らしい。私は、鳥挽肉の松風焼きが好きだ。最近は回転寿しのネタにあるが、数の子を食べるのも、正月くらいだろうか。
こうなってくると、日本酒もちょっと贅沢な物を買っておきたい(高校生は飲んではいけません)。辛口で濃厚な純米酒が好みなので、デパ地下でいろいろ試飲しながら数本買っておく。望郷を気取るなら、灘の酒か。常用の泡盛も、いつもより良いものを一本買う(今年は「瑞泉門」)。燗する酒は、別に安くていい。
実家は親戚も集まるし、正月は客人も多い。自然、夜は鍋となる。大阪は蟹だの河豚だの、何でも安い。宅急便に関西で大流行りの「旭ポンズ」が入っていたので、こちらでも鍋にする。贅沢な具材もいいが、家人の作る鳥団子がうまい。ネギを混ぜるのがミソだ。
ところで、大掃除にオトンは邪魔なのか、大晦日の街は暇そうな男性でいっぱいだった。
紅白のガクト様のやりたい放題を観ていると、妻と娘が寝てしまった。除夜の鐘が近所の寺から聴こえる。ああ、東国で正月を迎えてしまった。
(二〇〇八・一・四)
二年ほど前から買い物では必ず使用し、生徒諸君には自作のものを配布したりしているが、どうもこのエコバックというもの、普及していない。先日イトーヨーカドーで買い物客を観察したが、一〇人に一人しか自分のバックを使っていなかった。
エコバックが普及しない理由として、「家を出るときに忘れている」という言い訳はまあ分かるが、次に「レジで袋を断りにくい」という理由が(様々な報道によると)多いらしく、こればかりは解せない。近所の東急ストアでは、袋を断る場合、わざわざ「レジ袋不要」のカードをカートに入れるようになっている。それでも良いのだが、いらないなら口で言え、口で、と私などは思う。この国ではコミュニケーション能力が、かくも低下しているのか。
お客様は神様、消費者は王様なら、命令すれば良い。いらないものは、いらない、と。例えば、書店ではゴミを排するため、少なくとも四回「命令」しなければならない。まず、私は書店でくれる書皮(カバー)を使わない。自作の布カバーや、市販の透明のもの、あるいは逆に本自体のカバーを外したり、とにかく使わない(地方の有名書店だと、記念に一つ掛けてもらう場合はあるが)。
したがって会計の際、まずカバーの有無を聞かれると「要りません、全部」と一回目。店員は袋に入れようとするので、「袋も要りません」と二回目。すると、敵は何が何でもお客様に何か渡したいのか、一冊でもゴムを付けようとする。すかさず三発目、「そのゴムも要りません」。店員はやや困惑しつつ商品を重ねて差し出すが、何も要らない変な客はレシートも要らないと思っている。大きな誤解、いや店のマニュアルにも多分違反しているであろう。万引きと間違われぬように「レシートは下さい」と手を出す。これで終了である(書籍代は場合によって必要経費で落とせるので、この証紙は取っておく)。
つまり、本を一冊買うだけで、実にサービスという美名の元に多量のゴミを押しつけられるのである。そして、しっかりと断れば、このゴミを出さずに済むわけである。国内では大きなレジ袋換算で、三〇〇億枚、全世界で二兆枚が年間捨てられている。自宅まで数十歩で、部屋に入ればすぐ捨てる、重い物を入れれば、手が痛い。そんな半端なプロダクツが、一体何億トンのゴミになっているのか。土に還らない、旧式の焼却炉ではダイオキシンを生む廃棄物を、私たちは日々、断りもせず受け取り、考えもなしに捨てている。
﹁エコバックはデザインが格好悪い」という声も以前は聞かれたが、これも詮無い言い訳だ(じゃあ、レジ袋がカッコイイか?)。ゴミを拒絶するためには、気に入ったカバンを余計に一つに持ち歩けばいい。私が最近愛用しているのは、ずっと使っていなかった京都・一澤帆布のザックリとした手提げで、キャベツひと玉に卵に牛乳パック2本、とかでも余裕で入る。
最後に贅言。レジ袋をもらってしまったら、二度三度使えばいい。パン屋の袋は何故かやたら頑丈だし、ビニールももう一度使うとエコだという、発想の転換が必要だ。小さいことでも始めることが肝要だという提案だが、どうだろう?
(二〇〇八・二・一五)
追記:一澤帆布工業は、相続をめぐる兄弟間の骨肉の争いで全国区になってしまったが、モノは一級品である。リュックを愛用しているのが京都大学の今西錦司先生ということで、僕ら関西人はその存在を古くから知っていた。丈夫だが、壊れたら修理もしてくれる。
諸君にメッセージを発する機会も、残り少なくなってきた。実質あと数日、一年生の担任などすぐに忘れてしまうだろうが、まあ可能な限り諸君らのタシになるような雑談をブッておこうと思う。誰にも頼まれていないが。
さて今回は、授業で紹介した本を注文するような熱心な読書家も現れてきたので、本を買う話だ。国語教師なので、他の先生方よりも教室で紹介する本の量は多いと思うが、やはり自分で好みの本を探して欲しいと思う。私自身、借りずに買ってしまうタイプなので、諸君にもつい購入型読書法を勧めてしまう。「本を貸すバカ、借りるバカ」という言葉があるが、まあ、借りずに買いなさい。身銭を切ったものは、やはり読むよ。
最近はアマゾンなどネット販売が非常に便利で、私もよく利用しているが、「初心者」ほど実際に書店に出向いた方が良いと思う。一番大きな理由は、そこには大げさに云えば「一期一会」の出会いがあるからだ。本に詳しければネットでも良いが、良書を見分ける術は実際に書店で手に取ってみなければ、なかなか培われない。
では、どこで買おうか。二高から近い渋谷、自由が丘、横浜、川崎などで気になる書店を、ここではランダムに紹介してみたい。たまには帰りに、ぶらり寄って呉れ給え。
まず、渋谷だが情けないことにビル一個のブックファーストが突如消滅、駅前に縮小移転した。書店文化を担う気があるのかゴラァ! と、さらなる大店舗復活を期待しつつ、勧めたいのはパルコ地下のリブロだ。特にファッションやデザイン書、雑誌が充実している。雑多な吉祥寺店もいい。青山ブックセンター(ABC)はHMVの上の階で出店していたが早々に撤退したので(品揃えがダメだった)、青山学院大前の本店まで歩いていくしかないようだ。ABCは一度倒産したが、我々ファンの期待に応え、見事に復活した。その昔、新宿ルミネ1/2両店が最高だったが、あれくらいのスペースの店をどんどん復活してくれないだろうか。
自由が丘は、正面口のABCと向かいのブックオフ、南口のブックファーストと東京書房をはしごするのが定石だが、加えて正面口の不二屋書店の店主(らしき人物)の所作は必見だ。こまめに書棚の本を入れ替えし、常に輸血を繰り返している。こういう店の棚は「生きている」。
川崎はどの駅ビルにも大型店舗が入っているので便利だが、私は川崎ダイスのあおい書店を多く利用している。フロアが大きく、棚の見通しが良い。
横浜にもあおい書店があり、駅ビルの相鉄ジョイナスの栄松堂書店も意外に良かった。人文科学の平積が充実していて、新刊のセレクトもいい。
さて近隣の書店をつらつらと紹介して来たが、快適な読書ライフのへ近道は、近所の本屋を「鍛える」という方法が一番手っ取り早い。本屋というのは儲ける気がないと、際限なく手が抜ける商売だと、バイト経験のある私は勝手に考えている。特に立地が良い書店は、いい加減な棚でもどんどん売れる。そんな店は、マンガと雑誌とちょっといやらしい本を置いていれば商売が多分回るのだ。ならば、とにかく必要な本は「入れてくれ」の一点張りで、ややこしい本、仕入れが難しい本、普通は取り扱っていない本を注文して「鍛える」のが良い。
居酒屋でも、「今日はこの魚が美味しいよ」くらいは教えてくれるのだから、書店も顧客に合わせたセレクトの提示があってしかるべきだと思う。店の気合いは、手書きのポップなどで見当がつく。出版社主導以外の独自のフェアがあるか、店員がその週の新聞書評を見ているか、そもそも店員が、主要雑誌の発売日や、棚の位置を覚えているか。いろいろ意地悪な質問や注文をぶつけることで、近所の書店で暇つぶしをして欲しい。それは大袈裟にいうなれば、地域の文化を向上させることでもある。
ところで、あの学食二階の中原ブックランドのスペースは、何なんだろう? 従業員の休憩所か、廃棄本の倉庫なのか? どうも「店」のようなので、私にしばらく貸してくれれば、二高生用のすばらしい棚を作ってやるのだが。今なら、顧問料は安くしておくぜ。
(二〇〇八・二・一九)
追記:ここに登場するいくつかの本屋はすでに閉店しています。
さて、このつたないメッセージも最後となった。時事ネタを中心とした雑談を授業でも、この通信でも披瀝してきたが、最後は「メディアの読み方」という話題が良いだろうか。諸君らも、抽象的な人生論や説教はいらないだろうから。
たまたま情報科の請園裕美子先生の案内を受けて、九組のプレゼンテーションの授業を見学したが、大いに触発された。なかでも「メディアのウソを見分け、真実をどう見極めるか」という観点の発表には共感した。情報化社会、あるいはグローバル化社会において、メディアとの付き合い方はかなり重要になってくる。国語科的にいえば、メディアリテラシー(情報の読み書き)ということになるだろうか。この読み書きは、先走って言うなれば、個人の政治的態度と表明であると云える。「政治的態度? パードン?」というはぐらかしは、一八歳選挙権問題からすると通用しない。あと、二年で諸君らは大人と見なされ、ある程度の判断を下していかなければならない(方向で進んでいるらしい)。「賛成か反対か」と問われ、雰囲気やノリで一票投じてはマズい。
では、メディアの「嘘」をどう見抜くべきか、我々は情報とどう付き合いながら、態度決定をしていくべきか。私は以下の四点をその柱として挙げたい。①真実は一つであると思わない。②信用するメディアを持つ。③紙ベースで物事を考える。④出来れば現場に赴く。
①について。「これって正しいの?」という問いと共に、「正しいことって、一つなの?」という問いも是非欲しい。真実は多様にあるということではない。真実は常に複数的である。あるいは、同時に別のことが起こり、進行していると考えた方が良い。また、自分は「真実を見誤っている」と、自らの感性や知性を疑うべきである。絶対不変の真実があると思っていると、実は大きな落とし穴にはまり込んでしまう。(芥川龍之介『薮の中』を読めば、私の云っていることは分かるはずだ。)
その上で、新聞でもテレビでもネットでも何でも構わないが、②のように定点観測的なメディアを持っておくといい。簡単に云うと、好きな雑誌や番組くらいは云えるようになれということだ。新聞は社説を読み比べると、大体その性格はわかる。私は職場に朝日新聞があるので、自宅では毎日新聞をとっている。テレビでは「サンデーモーニング」(ジャポンじゃないよ)が割とマシだと思っている(ただし、この番組は某社がスポンサーなので、原発事故について批判的には扱わない。テレビとは所詮そういうものだ)。
そして国語教師としては、③が最も云いたいことである。ウィキペディアを印刷して、資料として平気で配る教員もいるが、それは今どき大学でも怒られるだろう。学問的には、やはり書籍の形から情報を得るということが基本だと云っておきたい。理由は簡単、電子情報はすぐに消せるので責任がまだ軽く、紙は半永久的に残るため、重いということだ。(逆にネットは大量複製出来るため、秘蔵映像♪ や「炎上」など別の危険性もあるが。)
④は書籍やモニターの前だけでものを考えるな、ということだ。事件そのものよりも、事件を作り出す装置が異常だという前提でメディアと付き合った方がいい。①でも述べたが、世界はもっと豊饒で、複数的なのだ。外に出掛けよう。
さて、この個人メディアも、これにて一時凍結と相成る。やや偏向教育のきらいもあったが、今まで御清聴ありがとう。二〇本を超えたので小冊子にしようと考えていたが、来年の準備や何やで、出来なかった。形にしたら、諸君にバラまきたい。現在進行しているイージス艦とチベット問題について語れず、残念だ。また、どこかで会おう。アデュー!
(二〇〇八・三・二一)
教員生活わずか一〇年足らずの私に、生徒の変化を憂う資格はないだろう。しかし、この失われた十数年とも呼べる年月で、顕著な変化として挙げられるのは、神経症や鬱病を抱える生徒や、以前の怠学とは全く異なる、不登校生徒の増加ではないだろうか。この間、私も高校現場でこの問題に少なからず関わってきた。大人のメランコリーを先取りしたようなこれらの症状は無論、時代とは無関係ではないだろう。誰にとっても生きにくい時代だが、しかし誰よりも生きにくいのは、高度経済成長期の終焉に生まれ、バブルに突入した時代に青春を送った我々中年よりも、その崩壊後の世界にすっぽりと人生が収まってしまう今の子どもたちかもしれない。
以下に記す断片は、悩みを持ち不登校に至った生徒との対話や、そこに対峙するために、スクールカウンセラーの先生が下さったアドバイスから学んだことである。教育現場において、カウンセリングルームとの連携を深めている方々も多いと思うが、筆者に限っていえば、これらの問題に直面するまで、相手の話を聞く態度はおろか、およそ癒すとか、治すとかいった技術や心性を持ち合わせていなかった。救う、というとおこがましいが、手を差し伸べる方法を模索する日々が続いている(もちろん、いかなる援助も本人の治癒力あっての話だが)。
困難な状況にある生徒にアンテナが向くのは、筆者自身がある出来事をきっかけにパニック障害の発症を経て、お決まりのコースだが、軽度の鬱の症状と向き合わざるを得なかった事情も大きい。前者のような症状が度々教壇で表れると、そこにはもう立てないという恐怖が頭をもたげてくるが、同時にそのことによって、自分は実は今まで健康的な立場にあったことにも気づかされる。全ては病むべき存在、病みつつある存在であること、そのことに自覚的で、誰もが健康的であるという前提で考えないことが、目には見えない様様な症状に苦しむ生徒を、無神経に追いつめないということにつながるだろう。その意味では、「あいつ」(大槻ケンヂはパニック障害のことをこう呼ぶ)には感謝せねばなるまい。
不登校生徒にとって、教師としての私は「権威的でなかった」ので、助かったというような意味のことをよく言われる。とても自慢できる話ではないが、薄っぺらな風貌が、追いつめられた彼らには気休めになったということなのだろう。教師は自らの持つ権力性について、常に意識すべきだろうが、一方でその権威などは失墜している現状も我々は認識している。しかし、昨今の「格差」だの「下流」だのといった生臭い言葉が跋扈する閉塞した空気の中では、進学や大向こうの就職への片道切符を、学校が握っていることの意味は、存外大きい。学校からこぼれ落ちそうな生徒と保護者にとっては、一気にその権力性が発現しているといえるだろう。
足が遠のく生徒にとって、行くべき場所への道は日ごとに重くのしかかる。そうなると受け入れる側としては、「ここにいていいんだよ」という学校での居場所作りや、彼の壊れた未来予想図の修復や、新たなストーリーを共に如何につむいでいくかが問題となってくる。カウンセラーとの連携の要は、まさにそこにある。例えば、長く休んでいた生徒が、クラスの座席表に自分の席を見つけたことに喜びを感じることなど、筆者には思いも寄らなかったことだが、非常に小さなことから自己肯定の物語は再生される。「ここにいていいんだよ」という安心感は、実は普通に通い続ける生徒の求めるところでもある。
多くの生徒にとって学校に居場所がないことは、ミクシィ的なネット上の疑似共同体や、安易に個人情報をアップしている自己紹介型サイトの隆盛に見ることが出来るだろう。一部新聞報道(朝日夕刊 二〇〇七・三・八)にもあったが、この流行は大人や資本の都合で子どもたちが情報化社会の食い物にされ、ひいては違法行為や犯罪、アンダーグラウンドな世界と容易にアクセスする回路を持つことを意味する。ドーナツショップで所在なげに時間をつぶしていた我々の世代と、居場所のない淋しみは同じだが、外界の暴力性と、それを受ける内面の無防備さという点では、現在の方が危険度は遥かに高い。
暴力的な現在に対峙するためなのか、例えば、何の示唆も与えていないのに、文化祭を前にクラスは劇のテーマに「父殺し」を選び、父子の決闘の背景画に自衛を思わせるサボテンを描いたりする。その成長と伴う痛みをどう読むのか。彼らのストーリーを読み込み、再構築の手助けや評価をすることは、同様に私自身の物語(出自、経歴、恋愛)を語ることでもあり、また作り直すことでもある。「彼」の変化は、「私」の変化でもあり、剥がせない教師のペルソナも、時には外さなくてはならない。そして、電話口にも出られない、「ここ」にいない生徒のためには、カウンセリングルームに通い、アドバイスや示唆を受けに行くことが日課となる。交わされる内容も大事だが、足を運ぶという時間の使い方がむしろ肝要で、費やした時間の中で、私の中の不在の「彼」が形作られていく。その中で、対応の方向性が自ずと見えてくる。(最近反抗期がない生徒が増えているが、カウンセラーによれば、不登校という形は、一種の反抗のしるし、初めての意思表示である場合が多いというのだ。だとすれば、それはその生徒の「変化」の兆しでもある。)
ある者は学校を去り、あるいは留まるだろう。「ここ」にいるのは長い人生の中のほんの一瞬で、彼らにとっては仮の場所に過ぎない。しかし、困難を抱えたとき、大人が実際に動き、力を尽くしたという記憶は、「ここではない」別のどこかに移り住んだとき、「ここにいていいんだよ」という安心感によって、再び表れてくるだろう。そう信じたいし、その意味では、徒事だと分かっていても、問題を抱える生徒の保護者の方には、カウンセリングルームに足を運んで欲しいと、いつも願っている。
教室で交わすことが出来るのは、非常に閉じた、最小の物語かもしれない。そして、そこで共有された物語、受け止めた(受け止められなかった)物語は、もちろん私の捉えた物語に過ぎない。生徒が様々な場面でどう感じ、どう行動したと捉えるか、全ては誤読の域を出ないかもしれない。しかし、それは小さなストーリーであっても、他人から付与される物語ではなかった。最近喧伝されるスピリチュアルカウンセラーと呼ばれる人々が与える「前世」や「オーラ」は、自他未分の日本の風土に根ざした療法ともいえるが、消費行動の中で与えられる「魂」は、所詮は希有壮大な売り物に過ぎない。カウンセリングルームには、箱庭に使われる様々アイテムが並んでいるが、その部屋や教室で交わされるストーリーは、まるで箱庭を作っていくようなものではないだろうか。それは、家族や友人との物語が希薄な分を補うための手製のものであるかのように、私には感じられた。学歴や収入など、今までよりもレアな形で「格付け」される、暴力的ともいえる現実の中で、彼らがどんなストーリーをつむぎ、歩んでいくのか、これからもカウンセラーとの連携の中で見届けていきたいと思っている。
そういえば、その部屋には箱庭以外に、最近何故かボクシング用のパンチングボールがある。サンドバッグだと大袈裟だが、誰が持ち込んだのか、小さなグローブで皆このボールを打っている。ひとしきり暴れて、彼らはまた教室に帰っていく。
(「日本文学」二〇〇七年五月号)
現二年生の諸君は久しぶり、一年生と初めて教科担当する諸子には、はじめましてと頭を下げる。唐突に経緯を説明すると、昨年は学級通信と称して、このような小文を担当クラスに配布していた。今年は担任を持っていないし、各学年の国語通信も充実しているので、これは全くの個人通信ということになろうか。発行理由は単純に、私の中で文学(小説)を読むためには、周辺学問や現在社会で起こっていることを学ぶ必要があるという問題意識があるからだ。小説の読み方は、書かれた時代や、あるいは読み手の認識によってもかなり変わってくる。評論は、今がどういう時代か分かっていないと読めないし、古典は何より歴史が分かっていなければ理解するのも困難である。つまりは、同時代への目配せや歴史認識が最低限必要だということだ。
そんな訳で、勝手に国語教師の繰り言を再開してみたい。「こんなもの、読みたくない」という方は、どうぞ後で教室のリサイクルボックスへ。各クラスのゴミ箱でバックナンバーが揃うようなら、さすがにやめますが。
さて、初回の話題はグッと柔らかく、プロ野球の話題だ。現在(一三ゲームあったのに)熾烈な首位争いをしている阪神タイガースの話ではなく、昨日引退したオリックスの清原和博選手について感じたことだ。
清原は三つ年上だが、とにかく桑田と彼を擁したPL学園はめっぽう強くて、僕ら大阪人は「どうせ勝つだろう」と、当時そう熱心に応援していなかった。二人の未来は、一人は早稲田大進学、一人は巨人入団と、確実に約束されていたようにも思われた。それだけに、巨人が清原をドラフトで指名せず桑田を取ったことは「江川事件」以来の大きな衝撃だった。その後、FAを行使して清原は巨人軍(なぜ巨人だけ、「軍」なのだろう。阪神軍とか楽天軍とは絶対にいわないのに)に入団するが、そのころから「岸和田のコワイおっさん」然とした、ダーティーな容貌に変化してくる。と同時に、夢の舞台で彼はなぜかその一員でありながら、「アンチ巨人」の旗手という役割を担い始める。巨人憎しの阪神ファンとしては、「悪太郎」堀内恒夫監督との確執は面白がって見ていたが、組織にとってあのような対立が良いわけがない。当事者同士は、いずれにせよ不幸であったと思う。FAで巨人に入ったスラッガーがことごとく不振にあえぐように、清原もまたこの球界の魔物に飲み込まれていく。桑田真澄も巨人時代は、後半不遇であったと言わざるを得ない(何か、ジャイアンツの悪口ばかりになってきたが)。
すでに「生前葬」を終えていた「人生の達人」仰木彬監督は、その行き詰まる清原を大阪に呼び戻す。誰だって、故郷で最後を迎えたい。死にゆく男が、死に場所を探しさまよう男にバトンを渡す。ダイヤモンドを走り抜けるには、膝の傷は重すぎたが、ともかくも男は帰阪した。そして、昨日の大団円を迎えた。
因果は、因果を呼ぶ。
試合の前に花束を渡したのは、なんとサプライズ過ぎる王貞治だった。ドラフトで清原を選ばなかった王は、「来世生まれ変わったら、必ず一位指名する」「一緒のチームでホームラン競争しよう」と言ったという(デイリースポーツ 二〇〇八・一〇・二)。男は当然、この言葉に涙を流す。これは一瞬美し過ぎるエピソードとして受け取れるが、しかし、第二の人生をこれから迎える人間に「来世」を言うのは、いささか早すぎるような気もする。私は清原の因縁の深さを思うとともに、王さんの健康を少し心配した。
さらに「ホームラン競争しよう」という言葉も深読みすれば、自らの八六八本という「世界記録」のことを、王は心残りに思っていると解釈できないだろうか。現在アスリートの「寿命」は飛躍的に伸びている。王が引退したのは四〇歳だが、阪神の金本知憲、下柳剛志、矢野輝弘は今年四〇歳だし、ピッチャーの工藤公康は四五歳、先日二〇〇勝を達成した山本昌は四三歳で、今のところ誰も辞める気はなさそうだ。サッカーの三浦カズとゴン中山はともに四一歳で、以前の常識からすると一部のオッサンたちは驚異的な年齢で現役を続行している(先日引退した朝原宣治の三六歳という年齢も、短距離走者としては例外的ではないか。これを意識してか、四〇〇㍍障害の為末大が三〇歳で辞めないのも無理はない)。
球界でも昔からボロボロまで戦う江夏豊・野村克也タイプが多くいたが、王は自らの美学を優先した。しかし、現在の新しい「常識」からすれば、ワンちゃんは一〇〇〇本目の本塁打を後楽園のスタンドに叩き込んでいたかもしれない。だから生まれ変わって清原と勝負したいというのは、本気かもしれないのだ。
そして、天性のコーディネーター仰木の因果は、イチローをも米国から呼び戻す(何故、最近になって彼は清原と急接近したのだろう?)。イチローは今年メジャーで八年連続二〇〇安打を達成したが、直接王から電話を受け「米国の価値観が強く支配する大リーグで、日本人が功績を残すことの難しさ、尊さをねぎらってもらい感動した」という(毎日新聞 二〇〇八・九・二四)。ところが、この美談も裏を返せば、王は自らのホームラン記録が、「世界記録」としてなかなか認められないことの悲しみを語っていたのだと言えなくもない(イチローは、男たちと悲しみを分かち合うために帰国した?!)。
WBCの初代優勝監督が、台湾籍という理由で早稲田実業から国体に出られなかったことは有名な話だ。偉大であるがゆえ、王は常に国籍、人種の問題に直面していた。だからこそ、国境を越え、軽やかに記録を伸ばし続けるイチローに惜しみない賛辞を送ったのであろう(そういう意味では、早くも辞任した現政権閣僚の「単一民族」発言は、きわめて不用意で、差別的な思想を表していると思う)。ここには世代を超えた戦いの記録があり、常人には分からぬ「国際戦争」の現場がある。
野球は人生そのものなのか。ここまで来ると、セレモニーに登場した金本、長渕剛、登場しなかった桑田の業についても論じられそうだが、きりがないので止めておく。ともあれ、清原の引退試合は、豪華な、それでいて様々な人間模様が交差する因果律の祭典であった。天国の仰木さんは、きっと生ビール片手にニヤリとしていたに違いあるまい。
そんなわけで、番長の話よりも比重が高くなってしまったが、王さん、WBCの監督なんて絶対に引き受けないでください。ワンちゃんの健康が何より心配です。ゆっくり静養してください。私はアンチ巨人ですが、世代的には長嶋茂雄氏よりワンちゃんを尊敬しています。
結論的に何が言いたいかといえば、みなさん、WBCはやっぱり星野仙一と田淵幸一じゃダメですか……。
(二〇〇八・一〇・二)
我が国から四人もノーベル賞受賞者が立て続けに選ばれ、世間の耳目を集めている。しかし、これらは高齢の大先生たちは、昨日今日の研究を評価されたわけではない。
物理学賞の益川敏英・小林誠両氏のクォークについての共同研究は一九七三年に発表されたもので、その基礎となる南部陽一郎氏の理論に至っては、半世紀近く前のものだ。化学賞の下村脩氏の「光る」クラゲ研究も、一九六二年の発表だから、本人たちにとっては今更の感もあるだろう。益川さんが受賞の感想として当初「嬉しくない!」と語ったのも、あながち照れからだけではないだろう。栄誉に浴する代表的な仕事というのは、みな三〇代(小林氏は二〇代)で成されていた。
物理学賞、化学賞に次いで日本人が複数回受賞しているのは、文学賞だ。川端康成が受賞したのは六九歳のときで、すでに文壇の重鎮も重鎮、先に文化勲章までもらっていた。大江健三郎は、受賞時には小説を書くこと自体を辞めていたし、二人とも「代表的な仕事」をとうの昔に終えていた。もし、村上春樹が三人目の受賞者としても、彼の代表作は世間的には三〇代後半で書かれた『ノルウェイの森』だし(個人的にはそのひとつ前の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』がベストか)、いずれにせよ若いときの仕事が評価対象なのである。(余談ではあるが、川端の受賞時に三島由紀夫は「次は、僕じゃない、大江君だよ」と正確に予言していた。)
今年受賞したフランスの作家ル・クレジオも、我々の「業界」での評価はすでに「過去の人」である。先日参加したアフリカ文学の勉強会で、彼の作品のことも話題にのぼったが(クレジオは幼少期をナイジェリアで過ごしている)、どちらかと言えば「再評価」的な文脈でのことであった。
つまりは、若いときに自分の代表的仕事を完成させることが成功の条件であると、このノーベル賞騒ぎは教えてくれる。完成しないまでも、自分なりのテーマやモチーフは決めておかねばならない。以前、職場のある大先輩から「喜谷さん、ディレッタント(好事家)ではダメだよ」と、やんわりと戒められたことがあった。二〇代あたりは、あれも好き、これも興味がある、あんなこともやりたいと、自分の可能性や興味関心を広げてもよいが、いい加減三〇代では腰を据えて勉強しろということか。軽薄な私は、度々「(人生や研究の)テーマを決めなさい」という忠言をいろんな人から受ける。四〇代を前にして私はまだ、自分は音楽もできる、小説もいつか書ける、批評もガンガン書ける、素晴らしい研究論文もバシバシ書けると思っている。こうやって、多くの人が何事も成さずに年を重ねて行くのだが…。
まあノーベル賞は無理としても、成功の目安として分かりやすいものがある。それは、日本経済新聞の「私の履歴書」という欄に執筆することだ。この冗談にうなずく人は多い。ここに書いているのは、政治家だろうが、芸術家だろうが芸能人だろうが、「それなりの人物」ばかりだからだ。物理や化学だけでなく、経済界、法曹界に進もうとする諸君も、ひとつ目標にしてはどうだろうか。私はいつか書きたいと本気で思っている。見てろよ。
(二〇〇八・一〇・一三)
中間試験が終われば、あとは二週間、二高祭に向けて学校は動き出す。何しろ最大の対外的行事で、来校者は毎年一万人を超える。私は今年から生徒会指導係なので、担任するクラスはない。完全な裏方で、諸君らの企画をバックアップし、見守るのみだ。
過去八年間の担任クラスでは、喫茶店三回、劇三回、ダンス二回に取り組んできた。二高祭は今年の団結テーマの「信頼」とは何かを学ぶには、まさに格好の場所である。同じ四〇数人なのに、集団というのは不思議なもので、ほとんど全員が充実感を得たクラスもあれば、互いに信頼関係を築けず、全く乗り切れない不発の年もあった。
思えば学生からすぐに教職に就いた私は、秋になると毎年文化祭に関わっている。中でも思い出として残っているのは、中学三年生の文化祭だ。その二年前に、突如若手の先生二人がフォークデュオでアリスを披露し(ユア、ローリングサンダー、アー♪ ってやつです)、全校生徒の喝采を浴びた。次の年には一年先輩たちが大規模な音響システムを持ち込んで、フルバンドの演奏を挙行、僕らは三年目にそれを踏襲し、私自身は初めて人前で演奏した。田舎の学校だから可能だったのだろう。文化祭の昼休みを、全て僕らバンドの時間に充ててくれた。(教育的にはマズいと思われたのか、卒業後この音楽コーナーはなくなった。すまん後輩。)
二バンドでメンバーは一〇人ほどだったか。その仲間の一人は交通事故で亡くなり、一人はプロになった。私は音楽部の顧問なんかをやっている。その時の友人の何人かとは、帰阪時には必ず会う。一生付き合う朋輩と言っていい。
高校では音楽クラブに所属し、文化祭でもバンド発表をやったが、クラスでは熱気球を作ったり(体育の先生が設計し、見事失敗。バーナーでクラス全員が軽くやけど?!)、OHP(簡単にいうと投影機)で紙芝居をして失笑を買ったり、不発ばかりだった。
とりわけ三年時が最悪で、クラス企画は相談室と称して、教室に机二つと変なキャラの人間を一人置き終わり、であった。二高ではあり得ない、いわゆる休憩室だ。受験が前提の学校であったとはいえヒドイ企画だが、「まあ、こういうのもありだろう」とまとめのホームルームで言い放った担任の言い草もひどかった。高三の秋になるとバンド活動も休止し、ほとんど学校に背を向けていた自分自身も情けなく、傷といえば大げさだが、トゲ程度には嫌な思い出として残っている。受験前のこの時期は、全く無味乾燥な生活だった。大学付属校はこの点、大変恵まれた環境にあると思う。
とまれ、大人になっても、「よーし、じゃあ頑張ってやりますか!」とチームやプロジェクトが困難に立ち向かおうとするときや、盛り上がっているときに「いやー、無理じゃないの、冷静に考えて……」などと、必ず水を差す人がいる。そういう人は、「よーしいくぞ!」という文化祭的回路をそもそも搭載していないのではないか。実際、二年に一度しか文化祭がない学校もあると聞く。入学年度になければ、祭りは一度しかないということか(意味不明、教師がサボっているだけ)。
﹁未来」の「信頼」のためにも、二高祭というステージに、ここは全力で取り組むのが上策と心得るがどうだろう。クラスに結集しつつ、生徒会のスタッフ(今年は「だまし絵」のオブジェ制作)も是非頼む。
(二〇〇八・一〇・二二)
※二高の文化祭は学校全体の取り組みなので、「二高祭」です。「文化祭」ではありません。
青春の残酷さは、もはや遠い過去となった。容易に他人を傷つけ、罵倒し、嘲笑する日常が懐かしいものとなった中年にとって、一年五組のクラス企画『彩り』は、その痛みを思い起こさせるに十分な、素晴らしい劇だった。生徒会指導係という立場上、私は各学年の前評判の高い企画をまんべんなく観に行ったが、『彩り』はその中でもナンバーワンの完成度であった。ここに雑感をしたためることを、関係諸氏には許していただきたい。
観た回が良かったのかもしれない。舞台芸術は、一回性の表現だ。青春と同じく、後戻りできない。だから、生徒会中央委員の大西君が登場したときは、本当に驚いた。諸君も知るように、彼はいかにも誠実そうなルックスだ(中身も、まあ、多分)。白衣も決まっており、医者として優秀そうにも見える。観客としては、掛布の視力が回復しないまでも、岡田とのコラボレーションが美術展で飾られるエンディングを期待する。しかし、「誠実」であるはずの医者は掛布を助けてくれなかった。大西君を「信用」していた私にとって、掛布の死はショックだった。舞台の死は、無論フィクション、嘘である。しかし、その死は、「死」を十分に想起させるものであった。私はこの不意打ちにうろたえ、目に入ったゴミを除くため、ハンカチを使わねばならなかった。
きっと『彩り』のクラスは、悪いクラスではない。担任の美術教師もまた、信頼できそうな人物だし、田淵というムードメーカー(?)もいる。だからこそ、「絵を破る」という、たったそれだけの行為が、ひどく醜い、陰惨な表現として成功していた。他人の夢をうらやみつつも、バカにすることによって自分の優位性を保とうとする、人間の最も暗い感情の一つがそこにはあった。西本も角も江川も、きっと根っからの悪人ではない。彼らも、日々カラオケやボーリングで暇をつぶしながら、ひりつくような青春をどうやってやり過ごし、消費していくかに必死なのだ。彼らお遊び巨人軍にとって、岡田のようにすでに「何かを見つけた」人間はねたましく、最も腹立たしい存在であるのは当然だろう。
そして、掛布がクラスで描いていたのが「女の裸」であったことも、青春劇として極めて重要である。掛布は「絵を描いてくれ」と岡田に頼む前に、「彼女が欲しい」ということを冗談としてほのめかす。案外こっちが本音だったのではないか。死にゆく掛布の若い肉体は、なおも異「性」を渇望していたというのは、観客の深読みに過ぎないだろうか。誰だって夢が欲しい、美しい彼女が欲しい、「今、ここ」の充実感が欲しい。しかし、その欲望が強ければ強いほど、夢は掌からこぼれ落ちてしまう。脚本家は周到に悲劇を用意し、青春の蹉跌を、嫉妬や欲望という形で描き切った。
劇のフレームが強固であれば、私は特に小劇場の場合、大道具や小道具は凝るべきではないと思っている。ごちゃごちゃあると、劇が「うるさく」なるのだ。その点、五組の裏方諸氏はかなり演出を考え抜いており、掛布の空席を含む六つの机は、音もなく病室のベッドに早変わりする。吉田真の服装のような黒ずくめの舞台に、机を斜めにおくだけで教室の空間性が生まれる。音楽もまた、重要な役割を果たしていた。バンプやミスチルなど、中年になれば聴かないが、青春劇にはよく合う。暗転後の配置転換がどのクラスも下手だったが、劇伴が『彩り』の世界観の構築に密接に関係していただけに、五組の劇には全く無駄な時間がなかった。音響や照明、そして黒子など裏方諸氏には、役者陣や脚本家、演出家と同様に賛辞を送りたい。
このあとの岡田の未来が、どのような「彩り」を見せるのかは、見終わっても判然としない。死に彩られた劇に希望はないが、唯一の希望は、ラストシーンでキャンバスに何が描かれているか、観客には分からないところかもしれない。希望も安売りすると、インフレを起こす。抑制された表現の方が、より大きな感動を生むということだろう。それに青春劇は、未完でいい。
そして、夢をつかむということは容易ではないが、岡田のように黙々とキャンバスに向かう営為の続きに、その可能性があるものと信じたいものだ。今回の一年五組諸君の劇に多くの観客が心打たれたのは、青春の一断片を正確に切り抜いていたのと同時に、若者が「生」と「死」に愚直に向き合っていたからではないか。テレビのお笑いのコピーや流行のダンスもいいが、やはり何事かをつきつめた企画を大人は観てみたい。劇中に描かれた掛布と岡田の淡い「信頼」関係や、岡田の未完の「未来」を見ても、五組の諸君が今年度の二高祭テーマ(表現内容を支えるコンセプト)について考え抜いていたことがよく分かる。
さて、諸君は吉田真さんの絵のうまさをご存じだろうか? 私は、吉田さん自らが絵との関わりをクラスで話し、そのことが企画作りのきっかけであると邪推したが、どうも担任の「彩り」ではなかったようだ。大人はどれくらい自分の夢をキャンバスに描けるのだろうか。今度あの緊張感のある授業で、『馬盗人』の馬でも描いてもらったらどうだろう。
(二〇〇八・一一・五)
追記:筆者は、八五年のリーグ優勝を決めた試合で放った、掛布のホームランが忘れられない。それはポールに当たる、執念の一打だった。その後、タイガースは二度リーグ優勝したが、日本一は逃している……。
私は大学で二四〇万円余の借金をした。もちろんサラ金ではない。奨学金で、だ。学部を出て、専攻科という平たく言えば教員免許がグレードアップするコースで月四万円(×一二)、大学院は八万円(×二四)が貸与された。新設の大学院では枠が少なく、本人の名誉のために言うと、成績順で私一人だけ頂いていた。下宿していたので、ありがたかったのは言うまでもない。書籍代に、生活費に、時には「交際」費にその八万円は、毎月綺麗さっぱり消えた。
問題は社会人になって、その二四〇万円をどうやって返すかだ。専攻科で借りた四八万円は、返還義務があった。幾ばくかの、利息も課されていたようにも思う。塾講師などで食いつないでいたときは、返還猶予を毎年願い出ていたはずだ。しかし、院の一九二万円は、ある条件をクリアすれば、返還義務は免除された。その条件とは「二年以内に教職、または研究職に就くこと」であった。私は、期間内ギリギリで法政二高に雇ってもらったので、二〇〇万円近い借金をチャラにしてもらっている。その分を諸君らに、ちゃんと私は「還元」出来ているだろうか? あのときの「無駄飯」は、諸君らのためになっているだろうか(と、日々自問せねばならないだろう)。
さて、何故こんな話を書くのかというと、別に借金を「踏み倒した」自慢話をしたいからではない。ほんの数年前まで、この国にはこんなありがたい制度があったということが言いたいのだ。これまで教育や研究が、曲がりなりにも優遇されていたということだろう。現在、奨学金を貸与していた「日本育英会」は解体され、「日本学生支援機構」となった。もちろん、全ての奨学金に返還義務はあり、利子もしっかり付いてくる。小泉・竹中改革の一環、独立行政法人化の置き土産だ。
毎度前置きが長いが、今回は私学助成金署名についてだ。みなさん、もう署名はお済みだろうか。友人、親戚、近所の人に宣伝して、いくらか家族以外の署名も集めているだろうか。そもそも二高生諸君は学費に対する意識が低いというか、どうも意に介していない向きが多いようだ。初年度の学費を八七万五一五〇円と(大まかにでも)答えられる者も少ない。率直に言って、教育費の高さには、もう少し怒りの声を上げて良いのではないか。お金がありすぎて、困っているなら別だが、今年は世界的な金融危機に、円高で企業の利益は減収と、景気のいい話はまるっきり聞こえてこない。諸君らの学費は、保護者の方の努力の賜物と、私は真面目に思う。
この国の高校生を一人教育するためには、一般的に年間一一〇万円が必要だという。このプリントも、私の給与もそこに含まれている。これに対し、神奈川の県立高校の学費は、二〇万円程度なので公的な補助金は九〇万ということだが、さすれば二高生は逆に二〇万円余りしか補助を受けていないことになる。諸君らの保護者の方は、たっぷりと納税しているというのに、この教育格差は見逃せないではないか。
私は地方の公立大学に通ったが、学費は三〇万円程度であった。大学院にいたっては住民票を移して数年経っていたので、「市民」と認められ、学費は半額になった。弟は地方の公立短期大学に通ったが、校納金は年間七万円だった。親父が「今すぐ三年分、全部払ったる(夜間なので三年)」と豪語したほどだが、いかに二高の授業料が高いかが分かるだろう。弟の短大なら一二年分、あるいは四人分三年の学費に相当する。
世界をながめると、ほとんどの国が高校までの学費はタダであるという。そもそも、義務教育というのは(保護者が通わせる「義務」であって、通う「義務」ではない)、平均寿命の四分の一が妥当であるらしく、この国の平均八〇歳からすると高校や大学の前半までは、学費も本来無償にすべきであろう。国際人権A規約の「中・高等教育の無償化」の条項に批准していない、つまりタダにしないと決めている国は、日本、ルワンダ、マダガスカルのみである。アフリカのルワンダは、最近映画の題材にもなったように、九〇年代になって内戦で一〇〇万人が数ヶ月で虐殺されたような国で、マダガスカルはお笑い芸人がギャグにするような、いまだにクーデターが起こる政情不安の国である。全く笑えないが、教育に金を出さない国を、もう一度復唱しよう、日本、ルワンダ、マダガスカル!
﹁署名は何か、抵抗あるなあ」という「間違った個人情報保護法幻想」については、既に昨年書いた(「私立に行くんだからお金持ちなんでしょ」参照)。どこかのタレント弁護士知事は、児童文学館を廃止し、私立学校を経営するのも通うのも「自己責任」と言い切り、府からの私学助成金を二五%カットしようとしている。教員が政治的なことを余り突っ込むといけないので、神奈川の首長や、東京のあの知事が、どういう主張をしているかはここでは書かない。調べてくれ。新聞やネットで簡単に分かります。
小泉内閣の「聖域なき構造改革」以後の世の中の動きは、福祉や教育も含めて経費を均しくカットしてやむなしという感じだが、はたして福祉や教育は他の分野同様に切り捨てて良かったのだろうか。「聖域なき」といいながら、軍事費や米軍への思いやり予算を大幅にカットしたという話は聞いたことがない。単に、福祉や教育を切り捨てたいだけではないのか。福祉に関しては老人たちが声を上げはじめているが(後期高齢者医療制度ね)、教育に関しては、若年層が声を上げるべきであろう。
さて、署名の〆切は一一月中だが、短縮授業中でもまだ間に合う。助成金をカットする側は、この署名が多ければ多いほど無視出来ずに困る。署名が四〇〇万筆を超える愛知県では、年収八三〇万円以下の家庭には一五万円が、六〇〇万円以下の家庭には二〇万七〇〇〇円が直接助成されている。効果は確実にあるということだ。
そして大袈裟に言うなれば、これは未来に向けたアクションであると思う。諸君らが仮に将来的に家庭を持つことになれば、その子息は私立学校に通う可能性は高いだろう。教育という聖域を守るために、あと数日、署名を頼む。
(二〇〇八・一一・一四)
小生、先発のA団団長付を拝命し、今年初めて修学旅行に参加することになった。一〇年勤めて沖縄旅行の引率に関わっていないことは、正直、二高の教員として未だ半人前だという意識があった(他学年担当の方々、すいません)。以前は同僚諸氏が、ガマの話をソファで熱っぽく語る場面が多々あり、うらやましくも拝聴していたものだった。二高教育の柱の一つである平和学習の行事に、是非とも参加せねば思っていたのである。
沖縄はその独自の文化を、日本、中国、そして南方の国々との交易の中で繁栄させてきたが、琉球処分以後は日本文化圏に取り込まれる形となった。その場所に決定的な特異性が生まれるのは、皮肉にも沖縄戦以後の占領期であり、それまであった風土に、アメリカ文化が混淆(チャンプルー!)され、ハイブリットな文化形態に、はからずも「悲劇的」な意味合いが付与されてしまった。
南洋の自然は確かに生命力に満ちあふれている。海、空は美しい。しかし、その美しさを形容するとき、その数奇な歴史を思うと、私はつい「絶望的に」と付け足したくなる。巨大な破壊のあとに残された、途方もなく広がる基地の向こうの海は、絶望的に美しく、真っ青な空に突き刺さるF-15の爆音もまた、絶望的な現実だ。
たった三泊四日で、この複雑怪奇な沖縄の現状の総体を見極めることは不可能だろう。しかし、何も臆することはない。結局、我々は単なる「旅行者」に過ぎないのだから。歴史や現実に無責任であれ、ということではない。「旅行者」という自由な立場から、自由に沖縄を考えればいい。そこにはこの国が抱える矛盾(基地問題)と歪んだ歴史(様々な戦跡)が、あられもなく開かれている。我々が「旅行者」であるように、沖縄もまた「観光地」なのだ。行ったとたんに、別れる。そこで何を掴んでくるかだ。
何だか沖縄のことになると、文章が大仰になるが……実は私はガマに入ることを、少しく怖れている。霊感は決して強い方ではないが、四年前個人旅行でホテル日航那覇に宿泊したとき、そこで何かを感じとったのだった(今回も初日、三日目に利用するが…)。前夜テレビで戦争のドキュメンタリーを見たのが、まずかったのかもしれない。確かに、誰かがいる感触は明け方まで続いたのだった。「ここって、艦砲射撃とか、激しかったのかな」と同行した社会科の佐藤宏樹さんに馬鹿な質問をすると、「首里城の近くなんだから、当たり前でしょ」と返されてしまった。諸君らが熟読した『沖縄修学旅行』(高文研)にも掲載されている「鉄の暴風」後の焼け野原の写真を見れば、一目瞭然だろう。見渡す限り、人間の営為は、死に絶え、何もない。
真珠湾攻撃などの戦史を読むと、太平洋戦争前期では、艦砲射撃で陸地を攻撃することはほとんど無意味で、戦略の常識からすると「ない」ものであったようだ。それが末期になると、圧倒的物量を誇る米軍はありったけの砲弾を撃ち込んだという。僕らはその艦砲の跡の上を歩き、眠ることになる。いわんやガマの惨状をや。
旅は、我ら「旅行者」に何を残すだろうか。無事に帰ってきて、諸君らと互いに感想を述べ合いたい。
(二〇〇八・一二・六)
土産物のジーマミー豆腐や豆腐餻を食べながら、私などはまだ「なんくるない」な沖縄モードだが、この気分がホットなうちに「旅行者」として、今考えなければならない問題をメモしておきたい。諸君らも、旅行総括や文集の原稿を書かねばならないだろう。今のうちに雑感をまとめておいた方が良いと思う。とりあえず年内は、以下三つの観点を挙げておきたい。
東京/神奈川の基地問題について考える
﹁あんたら沖縄には基地が多くてかわいそうって思ってるだろうけど、東京や神奈川の基地がどんだけ危ないか知ってますか?」ガマの案内してくれた上原幸典さんは、沖縄の基地問題に先立って、こうおっしゃった。米軍は、陸・海・空・海兵隊の四軍と湾岸警備隊で構成されているが、そのうち陸海空の司令部が、東京/神奈川には存在している。
さすがに第七艦隊が配備されている横須賀は答えていたが、同行した四組諸君の中で、即座にキャンプ座間については答える者はいなかった。座間には陸軍の殴り込み部隊が配備されており、私は同僚諸氏と見学に行ったことがあるが、基地前でカメラを構えただけでMPの腕章が指差しながら飛んできた。有事の際は、真っ先に狙われる場所だろう。空軍の司令部は無論、横田基地だ。上原さんは言う。「沖縄の嘉手納が『腕』だとしたら、横田の司令部は『頭』か『腹』よ。あんたら、ボクシングだとしたら、どこ狙う? 沖縄のことは他人事じゃないよ」
ガマから出た後、「事前学習をよくやって来てますね。男子学校でこんだけ質問してくれる子たちはいないよ」と上原さんは二高生の態度を褒めてくれたが、神奈川の基地についての問いかけは不意打ちであり、教員の立場としては恐縮するばかりだった。諸君、帰って来てから言うのも何だが、まず基地問題については、沖縄の前に関東を見渡そうか…。
巨視的な歴史/個人の歴史について同時に学ぶ
前半クラスはひめゆり部隊の新崎昌子さんの話を伺うことが出来た。質疑では「沖縄が『捨て石』にされたことをどうお考えですか?」という問いが、確か二組の生徒からなされたように思う。新崎さんは虚をつかれたように「そういうことは、当時も余りよく分かりませんでした」とお答えになった。
後世の我々が、先の大戦を振り返れば、当然巨視的な視点に立ち沖縄の運命について思いを馳せるが、当事者の方々にとっては、戦争はあくまで個人の物語でしかない。マクロな視点で物事を分析することも大事だが、同時に弱者や小さな個人の側に立ったミクロな視点も大事だということを、このやり取りで感じた。大文字の歴史は書物から学べるが、個人の小さな営みについては、丹念に拾い上げていくしかない。我々は双方から学ばねばならないだろう。(この国ほど、現在と「歴史」が断絶している国はないと思う。その危機感から、私は入学直後の生徒諸君には、「前の戦争はいつ終わった?」「どこと戦っていた?」「それは西暦でいうと何年?」と必ず聞くことにしている。しかし、この詮無い「基本問題」に年々答えられなくなっている。今年は一問目を「昭和二五年」と答える者がいた。それは朝鮮戦争開戦だろ!)
「人間」とは何かという問いを立て続ける
広島/長崎とアウシュビッツという大量虐殺を通過した「人間」というものは、極めて「非人間的」な概念であると思うが、どうですか、「人間」の皆さん?
前記のお二人の話でも共通していたのは、「戦争が普通の人間を変えてしまう」ということであった。誰が、愛する家族を玉砕で殺すだろうか? 誰が、敵とはいえ子どもを殺すだろうか? 極限状態での思考停止は、狂気をいとも簡単に招来してしまう。戦争の怖ろしいところは、そこだ。
以前から、この問題についてはTBSドラマ『さとうきび畑の唄』を引き合いに出して、私は若い諸君らに話している。沖縄戦を題材にしたこの物語の主人公は、明石家さんまだ。師匠の役は大阪出身の写真店店主で、美しい妻(黒木瞳♪)と5人の子どもと仲良く沖縄で暮らしていた。やがて戦争が始まり、息子たちは出征し、自らも徴兵される。クライマックスは、傷ついた米兵を殺せと上官に命じられたときの、さんまのセリフだ。
﹁わたしは、こんなことをするために生まれてきたんじゃないんですよ」……優しいお父さんは、米兵を殺すことを拒否し、上官に銃殺される。実物の師匠曰く「全国が感動の嵐に包まれた。涙、涙、涙」と。
映画やドラマは基本的にヒューマニズムであって良いし、そう目くじらを立てることもないが、こと戦争の記憶という点において、このシーンの「嘘」は見逃すことが出来ない。上官の命令に従わなければ自分が殺される。しかし、自分は米兵を殺したくない。だから、自らの命であがなう……ということには普通ならないだろう。「苦渋の選択」の末、誰もが相手を殺す。こういう異常な状況を生み出すのが戦争であって、自らの美学や哲学を貫いて自決する超人的な人物を描くことは、「戦争の風化」に手を貸すことになると私は考えるがどうだろうか。(某付属校では、この作品を事前学習で使用していたというから驚きだ。)
そして『さとうきび畑の唄』のもう一つの、最大の問題点は、主題歌の「むかし海の向こうからいくさがやってきた」という部分だ。どの国の人間も、一方的な加害者、被害者であるということはまずありえない。何もしていないのに、突然「海の向こうからいくさ」はやって来はしないはずだ。私はどこにも、「責任」というものがあると思う(子どもは、別ね)。戦争は断じて、「天災」ではない。広島もかつては、西日本最大の軍都の一つで、広島港はアジア侵略の拠点でもあった。広島は、加害と被害の最も大きな境界線の上にあったのだ。現在の沖縄もその境界線上の苦悩を抱えているはずだ。
諸君らが寝静まった後、私は一人部屋でテレビをぼんやりと見ていた。沖縄のローカルニュースは、とにかく熱い。地方議会の動きについても、細かく報じられている。奇しくも二日目の朝には、カリフォルニアの住宅地にF-18が墜落したニュースが飛び込んで来た。「琉球新報」も「沖縄タイムス」も一面で扱い、同型機が今日も沖縄上空を飛んでいることに怒りまくりであった。目取真俊の近著のタイトルは『沖縄「戦後」ゼロ年』だが、ここでは戦争は終わっていなかったし、現在形として多くの人々の前にあった。(この項つづく)
(二〇〇八・一二・一五)
追記:元沖縄県知事の大田昌秀さんの手記など、戦前の学生の述懐から、沖縄のインテリが国粋主義的な教育で純粋培養されたさまが確認できる。突然「海の向こうからいくさ」がやって来たという『さとうきび畑の唄』の歌詞は、その意味では、鉄血勤王隊やひめゆり部隊に配属された方々の実感に合致しているのかも知れない。
一年六組の担任代行としてHRに入り、そのまま社会学部の大﨑雄二先生の話を聞くこととなった。以下印象をメモしておきたい。諸君らも春休みに、おそらく今講演を踏まえて進路についての作文を課されるであろうが、この手のものは、直後に書くに限る。
さて、アンジェラ・アキの歌から講演は始まったわけだが、大﨑先生の用意したレジメに登場するソース(素材)が、全て、かなりポジティブなことに、私は幾ばくかの反発を覚えた。アンジェラ女史は「人生の全てに意味があるから 恐れずにあなたの夢を育てて」と高らかに歌い、相田みつをは「つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの」と人間を全肯定し、金子みすゞは「みんなちがって、みんないい」とこれまた世界の多様性を尊重している。大﨑先生も、おそらく「肯定的」な方なのだろう。したがって、お話は競争(kyoso)社会から共生(kyosei)社会への提言に向かい、他者との競争を諸悪の根源かのようにおっしゃった。
ところが、同時に先生が後にレクチャーされた歴史や、「今」の捉え方は、「監獄としての近代システム(少数の人間が多数の人間を管理する)」「植民地主義の延長としてのグローバリゼーション」「モノカルチャー化による国家間経済格差」など、まさに悪夢のオンパレードで、人類「共生」への契機など微塵もない、荒涼とした世界のあり方であった。「ケダモノの論理」から「『近代』の再検討」に向かうことには、私も同意したいが、「競争」という「けもの道」はいかに克服されるのか。新自由主義の解説は、諸君らが寝ているものだから突如打ち切られたが、この「競争」から「共生」への接続を、先生が十全に語られなかったのは残念であった。諸君らの将来への「不安」に、大人が全て答える必要もないが、この荒廃した世界を作ったのは我々大人(オッサン)である。それ相当の説明責任があってしかるべきだろう。
それから「共生」と最初に言われた「自己決定」も、どう位置づけられるのか。「自己決定」には「与えられた条件の中での」という留保がわざわざ与えられたのだから、単純に「みんなちがって、みんないい」とはいかないだろう。二高生には是非とも鋭い質問を先生にぶつけて欲しかった。意外に二、三発で簡単にダウンを奪えたかもしれない。
アンジェラに言われるまでもなく、誰しも「人生の全てに意味がある」と思いたい。しかし、実際の日常生活は、ほとんど「無意味」なことの連続である。無意味な待ち時間をつぶし、無意味な仕事をやり過ごし、無意味な会話を聞き流し、日々誰もが「無意味」に耐えている。「人生の全てに意味がある」と安易に他人を元気づける前に、私ならこう言いたい。その「無意味」を、全力で黒く塗りつぶせ! と。(茂木健一郎は以前、自分の行き着いた生命哲学を「基本的にニヒリズムを基底としながらも、Tanzen(舞踏)としての生の中に一人称の自分を投げ込む」という言葉で表現していたが、私の気分はそれに近い。ニヒリズム〈虚無主義〉を認めつつ、それをどう超えていくか。考える前に、いや考えつつステップを踏み続ける。)
無意味という「偶然」の集積を、一種の断念をもって「必然」に変える作業…、それこそが「自己決定」だと思うが、どうだろうか。私は一五の自分に「手紙」なんか書かない。青臭い一五の「手紙」も受け取らない。そんなことをする暇があるなら、前を見ろ。
(二〇〇九・一・一六)
二年生諸君らは修学旅行文集の原稿を提出し終わったようだが、私はまだ旅の雑感を書き続けている。写真も整理して、学内紀要(雑誌)にエッセイをまとめる予定だ。
あらためて旅を振りかえると、沖縄の食文化について深める要素が少なかったという憾みを持っている。二日目の夕食時、諸君らの健康チェック的に食べ残しを見回ったが、手つかずのゴーヤチャンプルーの鉢が目についた。多分食わず嫌いなんだろうが、何だが沖縄料理と出会い損ねているようで至極残念であった。
私は出張や家族で外出する際、その出先に沖縄料理店がないか、よくチェックする。それくらい(特に沖縄そばを)好んでいるが、東京でもおいしい店は多い。川崎の地下街や銀座の「わしたショップ」(沖縄県産品専門店)で食材もしょっちゅう買い込んでいる。晩酌は泡盛だ(高校生はお酒を飲んではいけません)。なかなか機会がないだろうが、沖縄料理を味わわないのはもったいない。
以下、代表的なものを書き出したが、どれくらい食べたことがあるだろうか?
チャンプルー
「ごった煮」という意味だが、ゴーヤの苦みが苦手な人は、トーフチャンプルーか、フー(麩)チャンプルーを試すといい。フーは牛乳と卵で戻す。我が家の定番でもある。ポーク(スパム)が入るとジャンキーな味わいになる。
沖縄そば
正確な発音は「すば」らしい。大阪人としては、昆布や鰹からだしをとっている点や、麺がもっちりしていることから、関西うどんに近い感覚を持っている。下北沢の「丸安そば」にはよく行っていた。気軽に寄って食べるなら、新宿はアルタの裏、全きの大衆食堂「やんばる」か。現地ではタクシーで聞けば、その運転手さんの好みの店を紹介してくれる。有名どころでは那覇の「首里そば」が印象に残っている(セットのジューシーがうまかった。これも関西のいわゆる「かやくごはん」か)。家人は竹富島の「竹の子」が一番だという。八重山そばは、麺が沖縄そばのように縮れておらず、若干味が濃い口だった。
ラフテー、ソーキ、ミミガー、中身汁
ラフテーは、いわゆる角煮、である。泡盛と黒糖で煮ているので脂身も甘い。ソーキはスペアリブで、柔らかくなった軟骨ごと頂く。ミミガー(耳)は居酒屋のとりあえずの一品で、コリコリとした食感だ。中身汁は、つまり内臓である。内臓料理は日本ではまだ歴史が浅いが、「放おるもん(捨てるもの)」であるホルモンを最初に商売にした大阪にも通じる感がある。中華にもある豚足といい、ツラミ(面の身)といい、沖縄では食べない部位はない。
スクガラス豆腐
これは見た目が強烈で、小さく切った豆腐の上に一匹ずつ小魚が乗っている。元々保存食で、塩漬けにされたアイゴの稚魚は、しっかりと密度の濃い島豆腐によく合う。食べるとき、ちょっとこのスクガラスたちをかわいそうに思う。
ジーマミー豆腐
女性でこれを好む人は多い。甘くもっちりして豆腐というよりデザート然としており、原料はピーナッツである。市販のものは白いが、ピーナッツバターを使うと、茶色いものが家庭でも作ることが出来る。
豆腐餻
TVでダウンタウンが安室奈美恵に一気食いさせられて、一気に知名度が上がった気がする。豆腐餻はもちろん、大量に食べるものではない。楊枝で少しずつ崩して頂く。元々宮廷料理だったらしく、上品な味わいで、舌触りはクリームチーズに似ているが、味はもっと複雑である。サイコロほどの大きさで、五個一〇〇〇円とかなので、たまにしか食べない。我が家でも高級料理である。
島らっきょ
らっきょといえば、我々はあのカレーに添えられた甘酢漬けを思い浮かべるが、これは形は似ているが、食感はネギに近い。生ネギをバリバリ食べる感じだが、味はマイルドなので胃にもたれたりはしない。塩でもんで、醤油や花鰹、あるいは味噌などでシンプルに頂く。
海ぶどう
贅沢なことに、空輸された新鮮なものが東京でも食すことが出来る(土産物は塩漬けされている)。その名のごとく、ぶどうのようだが、実は海藻の一種らしい。プチプチした食感が命で、ポンズで頂く。さっきまで沖縄の海に揺られていたからか、常温保存が基本である。
他にも特徴的な海産物はいろいろあるはずだ。諸君らが那覇ショッピングセンターで食べた冷めた県魚グルクンも、揚げたてはうまい。今まで現地で食べたもので特筆すべきは、意外なことにウニだった。我々が普段口にしている本土のものは、ミョウバンで固められて形を保っているが、沖縄産はこれを使っていない。アボガドに載せられて供されたが、トロリと甘みがあり、普段口にするのとは「別物」であった。
さて、沖縄料理の蘊蓄から何が言いたいかといえば、均一化、画一化された現在の食生活を、どう考えるかということだ。ファーストフードによって世界化された我々のメニューに対し、特異な沖縄料理は一体何を物語っているのか。毎日口にする食事には、その人の大切な部分が宿されていると思うのだがどうだろうか。我々は腹を満たすだけでは、実は満たされないのだ。
沖縄料理も好きだが、私は疲れた時、悲しくなった時、辛い時、ふと故郷の料理を食べたくなる。諸君らの口には「ふるさと」はあるだろうか。「最後の晩餐」を選べるのであれば、私はたっぷりと関西風のだしを取ってもらい、あとは地獄の料理番と相談させてもらうつもりだ。
最後にゴーヤのうまい食べ方を紹介して、おしまいとしよう。実は浅漬けがいい。これは近所の奄美料理店で教えてもらったもので、作り方は種とわたをくりぬき、薄く切るだけ。あとは市販の浅漬けのもとを使えばいい。塩もみすると、ゴーヤは苦みがやわらぐ。タマネギとツナを和えたものが、これまた我が家では夏の定番メニューだ。
(二〇〇九・二・七)
前回は沖縄料理の話題であったが、それにやや関連する戦争の話を。
戦争被害は様々あるが、『沖縄修学旅行』(高文研)でもページが割かれているそれに、マラリアがある。多くの民間人が犠牲になるのが近代戦の常とはいえ、この「戦争マラリア」は強制疎開にともなう特殊な例と言っていいだろう。この蚊を媒介にして感染する熱帯病を、当然沖縄の人々も避けながら生活してきた。前掲書の記述によれば、「その恐ろしいマラリアの有病地帯へ、軍は作戦のつごうを理由に、人々を追いやった」とあり、その結果、八重山諸島全体で三六〇〇人以上が死亡し(人口の一割強)、西表島に疎開させられた波照間島民にいたっては、人口の三分の一の五〇〇人もの方が犠牲になったという。この死に至る病は、南方に出征した兵士たちの手記や小説に頻出する。皮肉なことに米軍の捕虜となり治療を受けると、助かるケースが多いのだ。
この「戦争マラリア」について、石垣島の平和祈念館で奇妙な話を聞いた。
当地には三年前、入籍二日後の小旅行で訪れた。絶望的に美しい川平湾や、竹富島の琉球古来の町並みを家人に見せたく企画した全くのリゾートで、地元料理もあわせて楽しもうという目論みであった。ガイドブックで予習すると、沖縄料理もいいが、石垣牛が絶品であるという記事が目についた。日本各地にブランド牛はあるが、神戸牛や松坂牛などの種牛の多くが、この石垣牛だというのだ。
現地の肉料理を楽しめる居酒屋で、試しに生肉をのせた寿司を注文したが、今まで食べた牛肉の中で最高だった。高級なトロのようで、炭火焼も試しておけば良かったと未だに後悔している(カウンターで一人七輪を前にした男性の顔が、ものすごく嬉しそうだった)。ところが、その牛肉が「戦争マラリア」に関係していたのだった。
旅程も決めない気ままな旅だったので、最終日に思いがけず時間が空いた。具志堅用高記念館と八重山平和祈念館のどちらが良いかと聞くと、前者は全く興味なしとのパートナーの御宣託で、急遽平和学習をすることになった。恥ずかしながら、私はそこで初めて「戦争マラリア」について知った。
観覧者は他にいなかったので、学芸員の女性が親切にいろいろと説明してくれた(この写真はブログに載せても良いが、こっちの写真は著作権の関係でダメだとか)。波照間では沢山の子どもが死んだという。薬もなく、なす術がない。戦争が終わったのに、人がバタバタ死んでいくのだ。これを人災、戦争被害と呼ばず、何と言うのか。悲惨な出来事にうなだれながら、私はせっかくなので、質問した。「そもそも、なぜ住民は疎開させられたのですか?」と。
﹁疎開から帰ってくると、島の牛が全部居なかったそうです。家畜は、根こそぎ。日本軍は、結局それが目的だったんじゃないかって、地元の人はよく言ってますよ」と、笑いながら彼女は答えてくれた。圧倒的な悲劇は、ときに喜劇的ですらある。昨夜、石垣牛のうまさを知ってしまったからには、全く笑えない。「昨日食べましたよ…。うまいの…」
余りに悲しく、ひどい話だったので、高文研の執筆者は「作戦のつごうを理由に」としか書けなかったのかもしれない。あの対馬丸の悲劇も、食料事情が主因であったというではないか。結局戦争遂行者は、末端の兵士や民間人のことなど考えてはいないのだ。
とまれ、石垣島を訪れる機会があったら、竹富島観光は必須、石垣牛も必須、そして、八重山平和祈念館にも是非足を運んで欲しい。
(二〇〇九・二・一八)
試験範囲が終わらない。教室に入って一礼した後、やおら「じゃあ、昨日の続きで教科書五八ページの……」などと授業を始めようとすると、生徒は必ずこう言う。「先生、今日は雑談はないんですか?」
筆者自身もそうだが、先生の「脱線」する話はよく覚えている。大阪の予備校の講義は、ほとんどフリートークで、最後の数分で解法テクニックを披瀝するというスタイルであった。その若き日の衝撃は未だ残っている。
推薦制度の改変、単位増、土曜開講など、国語科としてのカリキュラムを急ピッチで整備していかねばならぬ時期に、それに抗う訳でもないが、五〇分の最初の数分を準備運動に充てさせてもらっている。無論、文学(小説)を読むためには、周辺学問や現在社会で起こっていることを学ぶ必要があるという問題意識からだが。
よくやるのは、主要な新聞を挙げさせ(読売、朝日、毎日、産経)、それを右から左へ並べさせるというネタだ。入学したての高校一年生だと、文字通り「右」も「左」も分からない(新聞を取っていない家庭もある)。新聞を並べたら、次に主要政党、時の首相を書き込み、石原慎太郎、天皇、そして我が校の「位置」も板書に加え、「世の中」が完成する。これは決して偏向教育ではなく、必要最低限の基礎知識だと筆者は考えている。決めゼリフはこうだ。「さて、あなたはどこにいるだろう?」
今年度盛り上がったのは、久間発言、ミャンマー問題、朝青龍騒動、冷凍餃子問題などで、これら表に見える現象の解説の後、それぞれのトピックが、政権自体の歴史認識、軍事政権を支援する中国の人権事情、我が国の「移民」問題、食物自給率の低下に対応しているのだと、表層に隠れたものを暴く、私なりの「モノの見方」を披露する。外国人力士と「移民」(六〇〇〇人規模でのフィリピン人看護士の受け入れ等)という切り口は、今年度の夏期研究集会における平田オリザ氏の講演の受け売りに過ぎないが、臆せず、見方が定まっていない問題についても話す(この結論は「新しい隣人を応援しろ」)。時事ネタを恒常的にやり続けると、「あれについてどう思いますか?」などと生徒の方からコメントを求めてくる。彼らは教師を「脱線」させるのが得意だ。
死刑制度については、まず仕込みとして「四〇対五」と紙に書いておく。えげつないメディア・リテラシーだが、「死刑制度について、賛成か反対か」と質問すると、大方のクラスが私の予想した数字になる。凶悪犯に対し「死ね死ね」の大合唱を繰り返すテレビへの違和感とともに、数字がマジックのように的中するという問題から、メディアによる世論形成や情報操作の危険性を悟らせる。資料としては、双方とも別の形で死刑制度に反対している茂木健一郎『生きて死ぬ私』と森達也『世界が完全に思考停止する前に』所収のエッセイを配る。法制度を文学的に考えるなどといった「やわらかい」アプローチは、若いうちにしか出来ない特権ではないだろうか。(現代社会の時間でも我が国の死刑制度について取り上げたらしく、賛否は「共同戦線」により逆転したらしい。この「従順さ」もかなり問題なのだが。)
ところで話が通じなければ、話にならない。そこで、テレビで今どきの芸人の話し方もチェックしておく。数年前に気づいたが、「気持ち」ゆっくり目で話すのが良いようで、情報も余り詰め込まない。情報量が高すぎると、彼らは聞きながら上手に間引くことができず、結局「あの先生の話は訳が分からない」という評価が下されてしまう。マシンガントークは今どきウケない。しかし、大阪出身者はそれだけで話術があるという幻想が浸透しており、ベタなリアクションだけで、生徒はよく笑う。
「笑い」といえば、男子生徒は学園祭でも「笑い」が取りたいらしく、世界は大阪化、吉本化、ネタ化しているように見える。例えば劇でも、正当な展開だけでギャグがウケなければ、全くダメな企画という評価なのだ。カッコよくて勉強ができても、面白い話が出来ないとダメだという難儀な大阪化に、少し同情しつつ、当方も「すべらない話」はストックし、他クラスで二次使用する。
いわゆる国民投票法(一八歳選挙権問題か)を見据えれば、笑ってばかりもいられず、あと二年で何らかの政治的判断を迫られる可能性のある、高校一年生に何を話すべきかは、かなりシリアスな問題でもある。先日情報科のプレゼンテーションの授業を見学したが、大いに触発され、中でも「メディアのウソを見分け、真実をどう見極めるか」という観点の我がクラスの発表には共感した。当然、次の国語の時間にはそのことに触れざるを得ない。我々は情報とどう付き合いながら、態度決定をしていくべきか。筆者は以下をその柱として挙げた。①真実は一つであると思わない。②信用するメディアを持つ。③紙ベースで物事を考える。④出来れば現場に赴く。
特に①について。「これって正しいの?」という疑問と共に、「正しいことって、一つなの?」という問いは是非とも欲しい。真実は多様にあるということではない。真実は複数的である、あるいは、同時に別のことが起こっている、進行していると考えた方が良い。あるいは、自分は「真実を見誤っている」と自らの感性や知性を、常に疑うべきである。絶対不変の真実があると思っていると、実は大きな落とし穴にはまり込んでしまう。その上で②のような定点観測的メディアを選び、③の実践として読書法、文献渉猟を指南する(ウィキペディアを平気で資料に使う教師はこの際、敵である)。そして④は、世界はモニターに映る事象より、もっと豊饒なのだという私からのメッセージである。
(「日文協 国語教育」38 二〇〇八・五)
二中の先生の中には随分熱心な「執筆者」が何人かいらっしゃるが、二高で学級通信の類いを発行している人は、最近少ない。私個人は、国語教師たる者、日常的に何らかの意見表明や、屁理屈や、大ボラ、大風呂敷、大言壮語は吐いていた方がいいように思い、二年前から細々と小文をしたためている。諸君らはまだ物の見方が定まっていない青年であるから、ひとつ世界の見方をこの通信で伝授してやろう、と初回は大見得を切っておこう。
読み手としては、担任の二年三組の諸君を想定して書いているが、教科担当の諸君、選択講座の三年生諸君にも無理矢理読んでもらおうと思っている。プリント配布の個人通信というのは古典的なメディアだが、ブログなんかよりも押し付けがましく、反論を受け付けにくく、炎上もしない。書き手にとっては有利な場所だ。
書くという行為は、持続しなければなかなかその力は獲得されにくい。音楽家や画家の中には融通無碍に文章を書き、本職よりも素晴らしいくらいの仕事をやってのける言葉の錬金術師がいる。これはそれぞれの専門でリズムや構成意識を会得しているからで、凡才はやはり地道に原稿用紙のマス目や液晶画面を埋めて鍛錬していくしかない。日々是精進、か。
私は高校時代から書くことが好きだった。バンドをやっていたので、架空インタビューやアルバムの偽レビューを書いて、仲間を笑わせていた。小説を読むことも好きだった。書くことや読むことが、今の仕事に直結するとは思わなかったが、漠然とモノを作る人間、クリエイターが世の中で一番偉いと思っていた。価値判断はただそれだけで、将来的な展望や、具体的な進路や戦略は何一つ持ち合わせていなかった。
ところで先日、担任クラスの諸君には自己紹介をしてもらったが、実に「何かを見つけたい」というフレーズを口にする人が多かったことに、驚きと新鮮さと、苦い若々しさを感じた。確かにこの学校は、世界ランカーや全国レベルのアスリートがゴロゴロいるし、「何か」自分が誇れるものを持っていないと少々キツいかもしれない(と私は勝手に思っている)。幸か不幸か私は、平凡でアホな公立高校に通っていたので、二高のような切磋琢磨の集団の中で悩む、ということはなかった(むしろ、自信過剰で周りをバカにしていたくらいだった。周囲の人間をバカにしていた自分が一番バカだったのだが)。二高で学ぶということは、恵まれていると同時に過酷な条件を課されていると正直に思う。
この種の悩みの総量は、実は大人になっても減りはしない。私も「今年の目標がない」ということに日々悩んでいる。歩いたと思ったら、もう滑り台に上っている愛娘♪ の成長に比べて、自分は一体何なんだ、と。四〇を前にして惑いの振幅は大きい。『悩む力』などという本がベストセラーになるくらいだから(私にはハンサムな姜尚中に悩みがあるとは思えない)、各々等しく与えられた条件の中で逡巡、呻吟、煩悶、懊悩し、プライドと天秤に己の至らなさを抱えているのだろう。
ただし、「何かを見つける」とか、「何か」を問いつめることが出来る青年期は、真に贅沢で豊饒な時間であることは間違いない。僕ら中年は、「何か」を見つけたふりをして、自分の人生に確信がなくても、信ずる道を歩いているかのように生きている。下手にハンドルを切ると、もはや曲がりきれないのだ。諸君らは、まだジグザグ走行が可能だ。今年もまた、その蛇行運転に並走出来ることを、少しく光栄に思う。
(二〇〇九・四・一七)
五月六日(水)深夜の時点で、いわゆる新型(豚)インフルエンザの患者はこの国では確認されていない。今後、世界的大流行(パンデミック)と呼ばれる状況に至るのかどうか。中田宏横浜市長が舛添要一厚生労働大臣に言い放ったように、まさに「落ち着いた」行動が必要なわけだが、疫病の流行を文明論的に捉えるならば、残念ながら今回の状況にも私はかなりの必然性を感じている。
まずよく言われることだが、我々の文化・生活は非常に流動性の高いものになってしまったということだ。昨日メキシコ市内を歩いていた人間が、今日は成田から京成スカイライナーを乗り継いで法政通りを歩いている。このことが当たり前であるという文化形態を受け入れ、誰も否定していない。このヒト・モノ・カネの世界的な流れを無自覚に形成しているという点で、先進国の倫理的責任は大きい。
以前、といってもほんの数十年前まで、この国でも海外旅行は一般的ではなかった。お隣の中国でさえ、国交が正常化したのは一九七二年で、それまでは普通は渡航出来なかった。それが今や日帰り出張も可能なくらい経済も交通も「近い」関係にある。金さえあれば、どこへだって行けるという利便性を捨てなければ、あらゆる旅行者がそうであるように、ウィルスはやすやすと国境を超えてやってくるだろう。人類はあらゆる病を克服してきたが、鳥インフルエンザ、SARS(重症急性呼吸器症候群)、BSE(牛海綿状脳症)など、またぞろ出現する新しい奇病の数々が、私には「文明の病」に思えてならない。大量移動時代の背景には、無論、大量生産・大量消費・大量投棄という我々の生活スタイルがある。(狂牛病の爆発的流行はそもそも、肉骨粉という人工的な「共食い」を生物に強制したせいだ。残酷なる、文明の知恵!)
僕らの年代はこの「移動の時代」の恩恵を享受した気がするが、諸君らやもっと若い僕らの子どもの世代は、この快楽を捨てざるを得なくなり、世の中は流動性の低い(一言でいうなれば、ブロック経済的な)文化形態に移行していくのではないかと、少し、申し訳なくも思っている。我々大人は無反省に過ぎた。すまん。
文明の枠組みに関わる問題は、かなりマトとしては大きいので、足下の問題に話を戻そう。この冬、私は軽い風邪を患っただけで、大流行したインフルエンザにもかからず、仕事を休むこともなかった。何のことはない。まだ一歳の愛娘♪ が罹患してはならないという家人からの至上命令があり、うがい・手洗いを励行し、ある意味変な緊張感でもって過ごしていたからだ。一度原因不明の熱を出して以来やっていなかった予防接種も、実に三〇年振りに受けた(昔より痛くなかった)。開き直って言えば、病気なんてなるときには、なる。しかし、その備えについては万全でなければならないと思う。結果がどうであろうと、いかに防いだかが問題だ。
教員の場合、毎時間チョークで手が汚れるので手洗いは必然的に一時間おきにやっている。うがいが出来ない場合は、ひたすら茶を飲む(私の授業では、飲物を手元において頂いて結構)。カフェインが入っているとカブ飲みできないので、甜茶とハーブティーがマストアイテムだ。タンブラーはシャア専用。
南半球はこれから冬にはいるが、日本の場合は寒くなってから、かなり厳しい対応を迫られるだろう。GW海外組の動向も、この数週間気になるところだ。
(二〇〇九・五・六)
タイトルに挙げたのは、夭折した俳人・住宅顕信の代表的な一句である。
不幸な文学青年の憂鬱を引き受けるまでもなく、青春の孤独が死の様相を帯びていることが、諸君らに提示した講演録(真下信一「何のために学ぶのか」)の前半では語られている。青年の不安を死や「低気圧」と同等に捉える視点は中年にも興味深い(若い諸君は読み飛ばしても良いと思う)。
ところで氏は生きる意味――「人間の三つの本質」と学問の意義を説くが、一種感動的なのは、自分の仕事が社会的にいかなる意味を持つか、ということを語る部分である。私の言葉でいうなれば、どんな分野の仕事に就こうが「専門バカ」であってはならないということだ。アインシュタインほどの「知性」でさえ、自らの研究が原子爆弾の惨禍を引き起こすことを「正確に」イメージすることは出来なかった(後に彼は激しく後悔した)。専門性が高ければ高いほど、より「社会的教養」「政治的教養」が必要という訳だ。不思議なもので、人は自らの仕事の習得や研究、技術の鍛錬には比較的熱心だ(未だに技術という言葉が流行っている。私はこの言葉が嫌いだ)。要するに周囲を顧みずにひたすら「自己目的化」する方が楽なのだ。目標に向かって走ることは大事なのだが、この専門性という特権の暴走に釘を刺す論旨には大いに共感するところである。(再生医療に有用な「iPS細胞」を作製した京都大学の山中伸弥さんは、それまでの開発では受精卵が必要であったことに疑問を持ち、人間の皮膚から万能細胞の基礎を造りあげた。曰く「実験用の受精卵に二人の娘の顔を見た」と。人間の胚に頼らない発想の原点が、家族愛だったと笑うなかれ。これこそが優れた科学者の持つ直感力と優しき倫理観だ。)
逆に氏のお考えの中で、非常に難しいのが、「お金」に関する部分である。人間は金のためなんかに生きているんじゃない、「愛と自由」のために生きているんだ、という断言には一種すがすがしささえ感じるが、私などはその域にまだ達していない。太宰治風に言えば、人間は「恋と革命」のために生きている、そう言いたい。しかし、「愛」の実現には金がかかる。「自由」もまたしかりか。だから、バカな京都の高校生が言い放つ「食欲、性欲を最もデラックスに満足させるため」に受験勉強に邁進するというグロテスクな決意表明も、淋しい奴だと、ただ笑うだけで通り過ぎることは出来なかった。
真下氏が本校を訪れたのは二〇年以上も前である。おそらく時代状況の違いだろうか「愛と自由」の宣言の裏側には、どうしても一億層中流時代の幻影が見えてしまうのだ。国民の九〇%が自分の家庭を中流だと思う、バブル以前の極めて牧歌的な社会認識の上に、「愛と自由」への誘いが寄って立っている気がするのだ。氏が「食欲、性欲」を「デラックスに満足させる」という「淋しい春」の精神を「けだもの」、そう考えているだけの秀才を「悪魔」と呼ぶことには異論は無い。ただ、二〇年という歳月は、そういった個人の精神の高潔さや良識、内面の優位性を、外界の野蛮がことごとく侵蝕していった時間でもあった。
現代はいうなれば「帝国の時代」であり、グローバリゼーションという新たな秩序によって序列化され、「けだもの」や「悪魔」が跋扈する時代である。ソマリア沖には、海賊まで現れている(中世か!)。「愛と自由」は追いやられ、ボコボコに蹂躙されている。
私が危惧するのは「食欲、性欲を最もデラックスに満足させるため」に受験勉強に邁進する高校生を軽蔑し、「これからは、まじめに進路を考えていきたい」という型通りのレポートが羅列されることである。バカ秀才の矮小化された欲望と共に、時代の狂気をも蹴散らす強靭な倫理観がなければ、この「帝国の時代」も、「淋しい春」も渡っていくことは出来ないはずだ。諸君、撃つべき「敵」を凝視せよ。
(二〇〇九・五・一三)
ホームルームで観た沖縄戦の記録は、1フィート運動によって「返還」された戦争の記憶である。アメリカという国は原爆を製造し、黄色人種である我々の頭上で炸裂させるという非道な面を持つと同時に、罪科も善行もアーカイブをわざわざ残し、時間がたてば全て公開するという「フェアー」な国でもある。沖縄戦のフィルムは公文書図書館に保管されており、1フィート運動とはそれを買い戻す運動である。
私が幼い頃、元全共闘の母は市民運動に転戦しており、とりわけ生活協同組合と平和運動に力を入れていた。広島/長崎も新兵器の「実験場」という性質から多くの記録が残され、同じくフィルム返還を求める10フィート運動(一口三〇〇〇円だったらしい)があり、母は関わっていた。市民会館での上映会もやったので、かなり大きな運動であったように思う。総天然色の被爆記録は悲惨なもので、事前にテレビで内容を知っていた私は、観ることを拒否した。おそらく、沖縄でも同じような上映会が盛んに行われていたのではないかと推測する。
さて、この沖縄戦のフィルム(『1フィート映像でつづる ドキュメント沖縄戦』沖縄戦記録フィルム 1フィート運動の会)に映るのは、米軍の圧倒的物量による攻撃である。スーパーの玉子のように、行儀よく並んだロケット弾は規則正しく発射され、砲弾は畳一枚に数発という割合で沖縄の大地を蹂躙する。海を埋め尽くす艦船と、強力な火力―いわゆる「鉄の暴風」である。それに比して、亀甲墓に立てこもり、やがて投降し地上に出てくる、我が祖国民の貧しい姿よ。戦災の民とはいえ、ほとんど着の身着のままの姿である。本土決戦をした場合の凄惨さは、ここから容易に想像できる。
米軍の上陸部隊は一八万人、海軍や補給部隊を合わせれば実に五四万人、対する日本軍は現地徴用を含めたった一一万人だった。無血上陸後、すぐに陸揚げされるブルドーザーやローラー車で、滑走路や製油プラントは瞬く間に整備にされた。日本には皆無であった「ロジスティックス(物資調達/輸送)」の思想の体現である。そもそも、開戦前の米国と日本の国力の差は二〇対一であったという。総力戦ともなれば、彼我の戦力差はその何倍にも跳ね上がる。どだい、あの戦争はやってはならなかったのだ。(真珠湾奇襲を立案・遂行した海軍の山本五十六も、硫黄島での戦いを指揮した陸軍の栗林忠道も、アメリカという国を熟知していた故に、開戦には反対していた。)
カラー映像を諸君らと観ながら思い出したのは、先日愛娘♪ と鑑賞した『バンビ』だった。手塚治虫が戦後になって八〇回以上観たという伝説のあるこの映画の製作は、一九四二年である。私はディズニー文化を好まないが、このバンビちゃんが日米決戦の雌雄を決すミッドウェー海戦があった年に、スクリーンをちょこちょこ歩いていたという事実に、今更ながら驚いている。音楽や構成も高度で、子ども騙しではない。この一本を観るだけで、作った国がどれほど高い水準の文化を持っていたかが分かる。大本営か御前会議で、この『バンビ』の上映会をやればよかったのだ。まともな感性があれば、相手を和平交渉のテーブルにつかせることを考えたはずである。参謀も大元帥も、きっとディズニーを知らなかったのだろう。
ところで、沖縄の海に消えたカミカゼ・アタックは形を変え、今も不滅でもある。世界秩序は日本とドイツとイタリアのファシズムを駆逐したが、その後「冷戦」という形で自由主義と共産主義の新たな争いが勃興した。そして前者の一方的な勝利の後に、一気に矛盾が噴出し、世界は部族的宗教的民族的な対立の段階に入っていく。歴史の流れからいえば、沖縄戦は、地続きの「現在」であると思う。あれは、昔々のお話ではない。
(二〇〇九・五・二九)
追記:あの米軍の映像の視点は火炎放射器の後ろ側にあり、カメラは焼かれる側には立たない。ガマに手榴弾を投げ込む映像はあるが、その後の惨状については撮されてはいない。「1フィート映像」が貴重な資料であることは間違いないが、あれを全くの「事実」と受け取るのは危険であろう。「事実」は複数的である。
自分の人生はひとつしかないやろ。せやけど、本を読んどったら、他の人生を生きることもできるんや。――父は考古学関係の仕事をしており、家には数万の蔵書があった。古墳の航空写真集などは半畳もあり、うっかりするとけつまずく。風呂とトイレ以外には、必然的に本があふれていた。玄関の作り付けの本棚は、訪問セールス撃退にも役に立つ。母の決めゼリフはこうだ。「ウチは本ばっかり買うて、お金ありませんねん」
﹁なんで、こんなに本が要るねん!」という私の問いに対する答えが、冒頭の父の言葉だったが、子どもの立場では納得できるはずはなかった。本より、超合金のグレートマジンガーが欲しかった。今の私は逆で、「本を買う」ことに当然ともなう費用と場所の確保のために、「書籍は国語教師の商売道具だ」と妻を説得し続けている。そして、娘を読書子として味方にすべく、絵本の読み聞かせは胎内時から続行中だ。
さて、前置きが長くなったが、今回の話題は読書についてだ。二高生に限らず、高校生の読書量は小中に比べ、激減するらしい。原因は、教師や保護者が勧めないからだという。くだらない言い訳とも思うが、幼児期の頃はそれなりに親が本を買ってくれたり読んだりするのに、高校生には教師も読書を勧めないということか。ならばと、学級文庫を六年前から続けている。小さな本棚にはチェ・ゲバラのシールも貼付けているが、文庫名は立ち上げ時から「パルチザン文庫」だ。パルチザンとは、「戦時に、武装した一般市民によって組織された非正規の戦闘集団」の意で、書物を「個人の闘争」のための武器にして欲しいとの願いを込めて、命名している。パルチザンは、強い。圧政や暴力に虐げられようとも、わらわらと現れ、巨大な権力を攪乱し転覆させる。(開高健はこういった。「僕らは火器を持たない、心優しき無政府主義者だ」)
初回は沖縄関係の書物と、横山光輝『三国志』を置いてみた。二一世紀は悲しいかな、テロと戦争の恐怖で幕を開けた。ジョン・ウーの『レッド・クリフ』もまた歴史絵巻というより、「帝国の時代」における個人の想い、愛、希望がテーマの現代劇であると思う。すぐれた小説や歴史を描く書物から、私は今、ここにある危機と愚かな人間の〈生〉の本質を読みたいと思う。沖縄の文献はまだ手元に少なく、面白いものがあれば随時追加していきたい。修学旅行をイメージ化できるものをなるべく置きたい。
ところで、文庫を設置しておいて言うのも何だが、私自身、読み物としての書籍を借りることはほとんどない。借りるのは、高価なものや手に入りにくい古いもの、論文でほんの少しの引用でしか使わないものだけである。もらった本は読まないし、「面白いから」と無理矢理貸してもらったものも読むことはない。逆に身銭を切ったものは現金なもので、ページをめくってみようと思う。諸君らもこの文庫を足がかりにして、帰りに近所の書店でものぞいて欲しい。この国の出版物は、実は世界的水準からして安い。手頃な文庫・新書は玉石混交、乱発されまさに良書と悪書が仲良く並んでいるが、その中から自分にあったものを見つけて欲しい。
立派な書斎を私は持っていないが、自分の精神を形作ってきた本棚は持っている。書物は人生そのものではないが、〈生〉を形作る重要な要素であるということはいえると思うし、今ならオトンの言葉に頷くことは出来る。複数の〈生〉を生きるために、僕らは今日も書物をひも解く。 (二〇〇九・六・五)
長い夏休みが始まる。そんなわけで、日頃のメッセージは少ないが、夏の休暇を前に若干の提案を。ハードなトレーニングと牛乳とプロテインのカクテルで身体をいじめ抜かれるだろうから、体連の諸君はあまり心配していない。怪我だけには気をつけて欲しい。気がかりなのは、活動の少ない文連クラブの所属部員や、いわゆる帰宅部の諸君だ。何もせずに、部屋で四〇日間クーラー漬けで二学期早々体調不良、というのは誠にもったいない。気合いの入った文化系インドア派なら、「ミッドウェイ海戦で爆沈した主要艦船をウォーターライン・シリーズで作る」とか「新潮文庫で手に入る安部公房の小説を読破する」や「毎日映画館に通う(名画座なら一〇〇〇円×四〇日)」など、今から遠大な計画を練っているだろうが、これから一ヶ月半の予定が全くの白紙、という諸君のことは気になる。何か夏のテーマを決めてはどうだろうか。
先日、面談で何人かの三組諸君に聞くと、旅行を計画している向きが多く安心した。
私も思い起こせば、家族旅行が中心だが、夏は必ずどこかに出掛けていた。父の職場の六甲山の保養所や国民宿舎か民宿を利用するなど、基本的には質素な旅行が多かった(商売を営まれていて休みのない家庭だと、これとて贅沢かもしれないと今は思う)。祖父母が絡むと旅の規模は大きくなり、「津和野から萩に向かう明治元勲ツアー」「那智勝浦温泉大名旅行」「雨の木曽路古民宿の旅」「高野山墓参り一族大集合」などは今でもたまに思い出す。喜谷家単独のときも「ブルートレインで行く出雲大社」「一生に一度のお伊勢参り」などスペシャルな企画が数年に一度あった。
長男としての恩恵か、父とは大学に入って北京/西安/上海を二人で旅したこともある。オカンとは小中と市民運動がらみで広島・長崎を二人で巡ったが、ぶっ倒れた三三歳の時、「どっか行くか?」という誘いには「会津傷心幕末墓所めぐり」を提案した。なかなか瀟洒な、オカンにしてはナイスチョイスな旅館に泊まり、翌日白虎隊のお墓を参り、新撰組に思いを馳せ、ますます会津贔屓になり、子どものように木刀を買って帰ったものだった。人は思い出のためだけに生きているわけではないが、旅の記憶は日常の反復から解放してくれる力を持っている。
高二の夏に家族とどこに行ったかは忘れてしまったが、親友とはじめて東京に行ったことはよく覚えている。好きなバンドのツアー最終公演を武道館で観て、その友人の兄さんの下宿に泊まるだけという小旅行だが、行きは新幹線、帰りは夜行の鈍行に乗ろうという話になった。当時、東京―大阪間は新幹線で三時間一五分かかり、夜行では(おそらく今もそうだろうが)一晩かかった。二二時に東京を出ると、朝五時頃に米原で降ろされ、大阪行きの列車に乗り換えるのだ。真夜中煌々と灯りの点けられた駅に各駅停車するので、当然のこと眠れない。やはりその親友と夜通し話していたように思う。このときの距離感は私にとって、長く東海道の基本的な単位になった。新幹線が二時間半に高速化し、さらに飛行機だと一時間程度なので、先日羽田―関西空港を利用して帰省したときには大変違和感があった。こんなに故郷が近くなったのかと。
今はネットの時代なので、地域の特質や面白さはどこに行っても感じないかもしれないが、それなりに国内旅行でも発見はある。地方都市の玄関は、どこも似たような佇まいだが、一歩路地に入り飲み始めると、確かにそこには日常の感覚と異なる、その場所固有の時間の流れがある。今夜、学会で一人静岡に行く。それだけで私は少しワクワクしている。
(二〇〇九・七・一八)
今年度二高祭の「言葉」と「再発見」というテーマは、例年にもましてやっかいかもしれない。私も、生徒会指導係としてこの三月まで関わっていたが、テーマ決めには一般生徒が想像する以上に、中央委員会では膨大な時間を費やしている。だから、難物ではあるが練りに練られたいいテーマであるとも思う。
どんなテーマにせよ、毎年諸君らからは予算も含めて文句が出てくる。しかし、言うまでもなくモノ作りとは「制約」との戦いである。もっといえば、良いモノを作るには「制約」はあった方がいい。これは、基本中の基本の考え方である。「費用はいくらかけてもいい。人は何人使ってもいい。〆切もなし。何でもやって頂戴」といわれて、何かゴソゴソと作業を始める人は、よほどの鬼才か、生まれながらのクリエイターであろう。何もないところから、創造する段階にギアが入る人間はそうはいない。器のサイズや、予算や戦力(人員)、期日の設定から逆算してこそ、優れた企画は生まれる。この文章も無論、ホームルーム前日の深夜に必要性があるから書いている。要求から工夫が、障害からアイディアが、トラブルから成功は転がり込んでくるだろう。
したがって全体テーマは「言葉」だろうが「再発見」だろうが、いかようにもクラス企画に結びつけてネタを考えてよいだろう。「言葉」なら逆手にとって無言劇(サイレント)、真っ向から挑むなら舞台装置なしの朗読劇、カップルがその思いを書簡にたくすだけのロマンス、饒舌が饒舌を呼ぶ騒がしい喜劇、日本語以外の言語だけで構成された悲劇など、舞台芸術ならいくらでも思いつく。最近の二高祭は劇ばかりだが、変わった形式の、シュールな、一風変わった企画が沢山生まれるかもしれない。
﹁再発見」はその「再」がポイントで、教師っぽく提案するならば、埋もれた価値の「再発見」などという方向が望ましい。古典や伝統芸能の「再」構成など、埃のかぶった事物に「再」び生命を吹き込むような企画を見てみたい。エイサーを真面目にコピーし後半をトランスにアレンジして大暴れ、アンドロイドや無生物が主役の能舞台、ドキッ男だらけの茶華道カフェ、廃墟の中で御輿のぶつかり合い、ペットボトルで金閣銀閣、牛乳パックで万里の長城など、アイディアの段階ではデタラメなものを並べてみればいい。モノ作りとはテーブルを散らかすだけ散らかし、誰かがその大風呂敷を綺麗にたたんでいく作業をいう。
ともあれ、「オッサン、古いな〜」と思う方は、新たな詩を教室にバラまいて頂きたい。中年は新しい感性を歓迎する。
(二〇〇九・九・四)
政権交代を実現した民主党の鳩山由起夫総理が、国連気候変動サミットにおいて温室効果ガス削減を国際公約として挙げた。九〇年比二五%カットという具体的数字は、経済界に引っ張られて何もしなかった前政権より評価できるのかもしれない。しかし、同党の高速道路無料化の政策とは、全く矛盾するのではないかと、私などは単純な疑問を持つ。
この連休(シルバーウィーク)には無謀にも中華街に繰り出したが、予想通りエラい人出であった。渋滞した山下通りを埋め尽くす車は静岡や千葉などの近県からや、東北や大阪などかなり遠方のナンバーまであった。タクシーに乗っていてエラソーに言うのもなんだが、高速道路が一〇〇〇円でなければ、横浜といえどもこれほど他県のナンバーは見られないだろう。東急線に乗って中華街で小龍包を食し、二メーターで野毛山動物園に移動という我が家と、山形からワンボックスカーで高速をぶっ飛ばして来たカップルとでは、ガスの排出量は違うはずだ。民主党のマニフェストには国家戦略がないと批判されるように、我々も消費社会の中で何一つ指針を持ち合わせていない。安けりゃ遠くに行く、高けりゃ近場というのが各個人の生活と意見であり、誰も定見を持っていないのだ。
その意味で、二酸化炭素量排出を抑えるためには、環境ファシズムが最も有効である。「お前は息を吸うな」とはさすがに言えないが、「ナンバープレートの末尾が偶数の車は、今日は東京に入れない」とか「各企業は一律○○%排出量をカットするため自助努力せよ」という強行策は、環境が悪化すれば実行され得るそうである。
以前の自民党は平たくいえば、都市に集まった富を地方に再分配をすることによって支持を得ていた。それが冷戦後、アメリカ型の新自由主義に移行し「自民党をぶっ壊す」とか言いながら誤魔化していたが、グローバリゼーションの中でとっくに賞味期限は切れてしまっていた。民主党の圧勝はその揺れ戻し、富の再分配(子ども手当てとか年金改革とか)を期待しての回帰現象に思えてならない。何が言いたいかといえば、経済成長が止まった今、CO2排出量削減にせよ、社会福祉国家化をするにせよ、小泉政権時より新たな「痛み」が生ずる可能性があるということだ。そのことを承知するか、しないかの問題なのだ。
ところで、我が職場はありがたいことに自動車通勤可能だが、最近の傾向として、バイクや自転車に乗り換えた同僚は多い。ハイブリッドカーは意外に見あたらず、というか友人でも乗っているヤツは一人もいない(誰が乗っているのだろう? セレブ?)。新しいテクノロジーが普及するには、なお時間がかかるのだろう。
首相は世界を相手にブチあげたからには、夏でもクーラーを切り、首相官邸前で故大平正芳首相の半袖スーツの省エネルックで打ち水とか、下らないパフォーマンスなどやらなくていいので、途上国の環境支援以前に、早急に自国の排出量削減のイニシアチブをとるべきだろう。そもそもどうやって減らすの?
そんなわけで,私はこれからも自転車に乗り続ける。娘を乗せるために,家人は電気自転車を予約し現在入荷待ちだ。風はCO2を生まない。
(二〇〇九・九・二五)
オバマよ。
いや、エラそうな問いかけですいません、アメリカ合衆国大統領閣下。
あなたが先日ノーベル平和賞を受賞したことに関し、この国のメディアは確かに祝賀ムードだったけど、過去に原爆を頭上に落とされた国民の感情としては、「まだ何にもしてないのに、なんであんたがもらうねん」という突っ込みを、大阪人ならずとも入れてしまいました。今回の「事件」については、当の御本人が一番困惑しているやもしれませんが、そのことをお察ししつつ、贅言を重ねることをお許しください。
あなたは世界最大の軍事力を持つ国の首長で、世界を破滅に追いやる核ミサイルのボタンを押すことができる。超タカ派のレーガン元大統領がアルツハイマー病を患っていたという事実に、ただならぬ恐怖を私などは感じたけれども、あなたにも歴代の合衆国大統領と同じく、世界を灰にする決定権がある。初の黒人大統領として未来への希望を示した就任演説や、プラハでの核廃絶の宣言に、私は感銘を受けたことを隠さないが、しかし、あなたが過去の権力者と同じく、強大な軍事力の行使者であるということを重く受け止めてしまう。大統領をあきらめたアル・ゴアがノーベル平和賞をもらうことと、そもそも根本的に意味合いは異なっている。ダライ・ラマもマザー・テレサも、ステルス戦闘機やイージス艦は持ち合わせていない。
あなたはイラクからの撤退を約束した。しかし、同時にアフガニスタンへの増派を決定した。すでにあなたの軍隊は、湾岸戦争で二万人のイラク兵を灰にし、イラク戦争で一〇万人以上の兵士と民間人を殺した。アフガニスタンでの犠牲者は(増派が影響しているのか)、今年になって増えているという。米軍の犠牲者も当然減りはしない。
全軍の司令官であるあなたが知らないはずはない。いまだにタリバンの撲滅に躍起になっている米軍は、アフガン全土で掃討作戦を展開し、兵士の指を切って回っているということを。あなたたちは、かつてソヴィエトに対抗するために軍事支援したオサマ・ビン・ラディンの遺伝子情報を持っている。爆撃で変形した死体や四散した肉片からデータを逃さないように、あなたの兵士はその指を回収しているというのだ。タリバンとアルカイダは一体ではないのに、アフガンの兵士の遺体を傷つけてまで、ビン・ラディンを追い詰めようとしている。ひっ捕まえて、映像を配信しさらし者にし、フセイン大統領を殺したように、あなたはビン・ラディンを殺すのだろうか。
ノーベル賞は平和賞のみならず、全てが政治的な駆け引きの結果だ。あなたの受賞は「古い」ヨーロッパ社会からの、あらゆる地域の紛争解決を願うメッセージなのかもしれない。あなたは9・11後の絶望的な世界で、唯一の、人々がすがるべき希望なのかもしれない。
話を核兵器に戻そう。
原子爆弾のみならず、全ての銃口に花束が差し込まれて使えなくなるのが理想だろう。ただ、あなたが言うように、核兵器だけはどうしてもマズイという論も成り立つ。核分裂による直接的な破壊力はすさまじいが、何より災禍を逃れたあとの放射能による後遺症が恐ろしい。六四年前の二発の核兵器により、未だに苦しんでいる人が大勢いる。そして、我が国はようやくその国家的な責任において、全面的な賠償を始めようとしている。
何が言いたいか分かるだろうか、閣下。
私は閣下に意見したい。核廃絶を訴える前に、米軍はただちに劣化ウラン弾の使用と備蓄をやめるべきだと。原子力発電の「ゴミ」で作ったこの悪魔の兵器は、貫通力や燃焼率が高く、あなたの軍隊が好んで使ってきた。イラクで、コソボで、ソマリアで。
もちろん、破壊された兵器に触れた者には重い後遺症が残る。私はあなたの国の名誉あるイラク帰還兵、ジェラルド・マシュー氏の話を聞いたことがある。彼は帰国後顔面の腫れ、排尿時の激痛、原因不明の頭痛に悩まされ、生まれてきた娘さんの指は三本足りなかったという。私には今娘がいるが、父親としてこのような事実は到底受け入れられない。自国の兵士や従軍者がこのような状態にあるなら、現地の子どもや、妊婦や、老人はいかなる運命を背負わされているか分かるだろう。あなたの国がベトナムで犯した、枯れ葉剤による奇形児の多発という罪科は、もっと悲惨なかたちでイラクで繰り返されている。
戦場で武器をとる者以外も傷つくのが、近代戦の常といえばそれまでだが、二次被害の多い兵器は核兵器以外も許されない。例えば、対人、対車両攻撃に有効とされるクラスター爆弾は、小爆弾を何百も仕込んでいる構造上、不発弾が多い。我が国の政府は珍しく「クラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)」に批准しているが、あなたの国はそもそも禁止に関する国際会議自体に出席していない。ブッシュ政権以来の傲岸な姿勢を貫くのは結構だが、クラスターの不発弾で傷つくのは、ほとんどが一般市民だということを忘れてはいないだろうか。子どもが誤って不発弾に触れる可能性を、安全保障の問題とすり替えてはならない。対人地雷の禁止が進んでいる中、二次被害という観点から通常兵器に対し、厳しいまなざしで捉え返さなければならない。あなたも、わたしたちも。
そんなわけで、オバマさん、来日の際には是非ヒロシマに来んさい。ナガサキにも行ってください。
若い頃から核軍縮について問題意識を持っていたあなたは、そんなことはないだろうけど、当地の資料館内で見物なのは、茫然とパネルや(以前に比べるとかなりソフィスティケイトされた)展示品の前で立ち尽くしている欧米人の姿だ。「あー、知らんかったのね、予習してこなかったのね。たまたま、何となくヒロシマに来たのね。酷いでしょ、悲惨でしょう。もっとアジアの歴史を勉強してね」と、口を開けている若者の肩を叩きたくなる。米国では、原爆の惨禍は覆い隠されているのではないか。そういう意味では、あなたがヒロシマを訪れる教育的効果は絶大だろう。まあ、保守派や退役軍人は敗北主義とか何とか言って、大反対だろうけど。
そして日程を調整して、沖縄にもどうぞ御家族で寄って下さい。移設問題に揺れる普天間基地とキャンプ・シュワプを視察のあと、辺野古湾でダイビングというスケジュールはどうだろう。我が国の政府とあなたの政府は、あの美しい海に、醜いV字型の滑走路を造ることを約束した。辺野古は海亀の生息地であることはもちろんのこと、あの海は、天然記念物のジュゴンの餌場でもある。海洋調査のソナーのために珊瑚礁からジュゴンはいなくなり、やがて戦闘ヘリが上空を飛び交い、埋め立てられた砂浜に海亀が戻ることはないだろう。
この奇怪な世界を変革する力を、あなたは持っている。バラク・フセイン・オバマ・ジュニア様。ヒロシマの惨禍と、ナガサキの二度目の悲劇をかみしめ、どうか辺野古の海と空をお守りください。神のご加護を。
(二〇〇九・一〇・二一)
▼先日急死した中川昭一元財務大臣は、有名な核武装論者であった。核を外交の最終カードと考えている人が、国際舞台でどのような失態をさらすかは見ての通りだ。相手を力で屈服させることを念頭においているのだから、別に酔っぱらって記者会見をしても構わないのだろう(国益は、核兵器が担保するというのか?)。「保守」の代表、故中川氏の正当な評価のためにも、このことは記憶すべきだろう(合掌)。
▼タリバン兵の指を切る話は、ある学会の講演で辺見庸から直接話を聞いた。おそらく同様の「遺伝子」捜索は続けられているだろう。(朝日新聞 二〇〇二・一・八)
演劇やダンスという表現形態が、二高祭のクラス企画の主流となったのは、私が赴任した当初の二〇〇二年頃からだった。それまでは食品企画が人気で、喫茶や調理の模擬店の制限枠を、多数のクラスが争ったものだった。
舞台芸術が人気となったのは、男子には本質的には暴れたいという初期衝動があったからだと思うが、構成員それぞれに役割を当てられることがまず挙げられるのではないだろうか。演出家、脚本家、役者、大道具、小道具(衣装)、音響、照明、宣伝(ポスター/ビラを貼る人配る人)、黒子など、目立ちたい人から、人前に絶対出たくない人まで等しく関わりが持てるので、全員参加が必須のクラス企画としてはうってつけであると思う。今年度教科担当した二年三組、六組、一〇組も全て演劇企画だった(担任クラスはともかくも、六組の諸君、企画賞受賞おめでとう。)
さて、実は私は「学園モノ」が苦手であった。家に帰っても、テレビでは絶対にその手のドラマは見ないし(何故帰宅してまで、クラスのいじめや教頭のイビリや学外からのクレームに付き合わなければならないのだ?)、二高祭の劇も「遠い世界のもの」が好みであった。例えば、西部劇や時代劇、SFなどだ。以前、冗談で実写版「機動戦士ガンダム」を提案して、あっさり却下されたこともあったが。
昨年度の一年五組の企画『彩り』もそうであったが、上記の三クラスともにフォーマットは「学園モノ」であった。そこには、諸君らの普段の「生活世界」がよくにじみ出ていた。遅刻ギリギリで始業時間に飛び込む学校があり、嫌な先生がおり、弁当を取り上げる仲間があり、幼なじみの異性がいて、うるさい保護者が家で待っていて、日常的にいじめがあって、そして生活の背後には死の影、異界があった(三組ならピエロ、一〇組なら言霊による神隠しか)。諸君らの闘争の現場は、荒野でも幕末でも宇宙空間でもサイド7でもなかった。大事なのは「今、ここ」なんだと。「遠い世界のもの」をやって欲しいと願う教師は少し思い上がっている、足下を見よというメッセージを、諸君らは私たちに突きつけているかのようであった。いや、無意識下の勝手な分析もまた大人の悪い癖だが。
三組と一〇組の劇は共に、言葉の悪しき力によって、学校の仲間が消えていくというストーリーであった。両方とも消えていった人々は戻ってこないし、負の連鎖は止まらないということを予告するバットエンドであった。三組の脚本は推敲を重ねる中で、この「人を消す」というモチーフに「世界を変える」という、青春劇に必要な要素を持ち込んでいる。
三島由紀夫の青春小説の金字塔『金閣寺』では、世界を変えるのは「行為」か「認識」かという重い議論が登場人物の溝口と柏木の間で為される。「人を消す」という「行為」で、三組の主人公(真田健人)は世界を意のままに変貌させようとするが、その力の大きさと、自らの言葉の軽さによって堕落する。後悔し、自らを見つめ直そうとする彼の内省的な「認識」の変化によっても、世界は微動だにしない。真田は、声を失うというピエロの不条理な仕打ちで世界に飲み込まれ、かけがえのない日常を奪われてしまう。
いわゆる「セカイ系(世界の危機と、個人的な悩みが直結する物語の系譜)」ともいうべき構造だろうか。他人(対象)を消したいと思う感情が、非常に観念的に垂直的に、世界と接続されていることに、私は自分の世代との違いと、若い感受性の可能性を認めざるを得なかった。世界と君が戦うのなら、私はカフカとは逆に、君を支援しよう。高校生活の後半戦の、諸君らの活躍にもまた期待したい。
(二〇〇九・一一・六)
県土の約一〇%を米軍施設が占める沖縄の基地問題に関して、これは大変なことだと切実に感じたのは、本島への個人旅行のときであった。社会科の佐藤宏樹さんらとの旅で、彼の運転で島を縦断した。修学旅行では高速道路を使用するので、基地を間近で観る機会は少ない。だがこの時は国道で移動したので、那覇から北部に向かう途中、延々と続く嘉手納基地のフェンスを目の当たりにした。
カデナの広さは「知的」には理解していたが、実際に観る大きさは私の「知的」了解のフレームを完全に超えていた。「道の駅かでな」の二階から眺める視界の範囲が、すべて軍事施設なのだ。東京ドーム四二〇個分(=品川区と同じ広さ!)の巨大な敷地外には、人口密度の高い住宅地がひしめき合い、それ自体が一個の悪い冗談であった。怒りを通り越して、あまりに不条理な光景に笑うしかなかった。二高で修学旅行を経験している佐藤さんも「これは…」と絶句していた。見る間に灰色のF―15が離陸し、爆音と共に青い空に消えて行く。よく整備された芝生に人影はない。「あの芝生の真ん中で、司令官自らバーベーキューを部下に取り分けていたら、腹立つよなあ」という私の下らない軽口もむなしく、しばらく戦闘機や輸送機の離着陸をぼんやりと眺めていた。常在戦場ともいうべきか、何枚も発着の写真が撮れた。軍事マニアなのか、地元の基地監視団体なのか、大型のビデオを回す一団がいたが、軍用機の騒音以外、フェンスの外は「静的」な印象であった。つまり沖縄にとって基地問題とは、動かしがたい「現実」であり、爆音と危険は昨日も今日も変わらない「日常」なのだ。
本土の基地負担を押しつけている後ろめたさを感じ、「この広さは生徒たちも一度観ていた方がいいね……」などとつぶやきながらも観光客である我々は、レンタカーで次の「観光地」を目指した。夜、那覇の居酒屋で泡盛を飲んでいる時、基地の話はしなかった。ヤマトンチュ(内地人)が基地問題を地元で軽々に語るのは禁物だと、沖縄での営業経験がある友人から聞いていたからだ。
この間、普天間基地の移設問題で、国論あるいは対米外交の舞台が大きく揺れている。辺野古湾に普天間移設を受け入れた名護市の判断は、八ッ場ダム建設中止の問題に似ている。基地もダムもない方がいいが、「今更何を、もう決めたことだ!」ということか。
ラブ&ピースな立場からすると、美しい辺野古湾に醜いV字滑走路を造るなどというのは愚の骨頂、即刻やめよと言いたくなるが、名護市が基地移転の受け入れを決めたのは無論、米軍再編交付金や政府の実施する振興事業のためだ。基地などいらない。しかし、基地があればお金が入ってくる。いわゆる、アメとムチの構図だ。
だからこそ、この移設問題に関して鳩山首相が常に「沖縄県民の意思に沿った結論を出したい」と口にしていることには大変違和感がある。(構造的に)基地がなければ、お金が入ってこない。しかし、危険な基地は本当はいらない。そこには、本音などないのだ。このアンビバレンスな引き裂かれ方自体を沖縄に強いてきたのは、他ならぬこの島を「捨て石」にした国家なのに、「決めろ」とは何事か。
昨年、修学旅行中に気になったのは、市街にある「軍用地の相談に乗ります」という看板だった。カデナも九割が「借地」で、そこから利益を得る人がいる。米軍に接収された土地の売買は、ビジネスとして成り立っており、まことに奇怪としか言いようがない。元々、その大地は誰のものだったというのか?
くり返しになるが、ラブ&ピースな立場から、沖縄の負担が余りに多いことから、そして環境破壊の面から、私は普天間飛行場の辺野古湾移設に反対する。しかし同じように、県外や国外に移設をいう政治家は具体的にその場所を示す必要があるだろう。ヘリ基地が移動することによって、戦場は各地に「偏在」することになる。狭量な安全保障を超える、平和への論理がなければ、この押し付け合いは続く。ラブ&ピースをうたいながらも、平和主義者は「政治」を監視する必要がある。
(二〇〇九・一一・七)
先の政権選択をめぐる衆議院総選挙では、子ども手当てや高校授業料無償化など、教育問題が争点の一つとして大きく取りざたされた。公示後の新聞ではGDPに対して、この国は教育に充てるパーセンテージが異常に低いと書き立てたが(三・四%で、経済協力開発機構[OECD]加盟国中最低)、業界人の我々からすると、「今ごろ、何言ってるの?」としか言いようがない。
国際人権A規約の「中・高等教育の無償化」の条項に批准していない(つまり授業料をタダにはしないと決めている)国は、日本・ルワンダ・マダガスカルのみである。昨年、アフリカのルワンダが留保を撤回したので、さすがに我が国も焦ってきたというわけだ。この国の経済的繁栄は、教育現場からすれば、虚栄、である。だから、無償化という政策は民主党の大英断というよりも、「高校まではタダが常識」という世界的潮流にやっと合わせたという評価になろうか。
私事で恐縮だが、我が家にはかわいい娘・アリエル(仮名・二歳)がいる。驚くことに川崎市は一歳の誕生日前日までしか彼女の医療費を肩代わりしてくれなかった。以後は、すべて有料である。幸いミカンを五個丸呑みするような華奢な娘なので病気は少ないが、怪我の多い男の子や病気がちの子の家庭は医療費だけでも大変だろう。
それにこのインフルエンザ騒ぎで、予防接種の費用も馬鹿にならない。季節性と新型で、小生二本、愛妻二本、愛娘は二回ずつなので四本、一本三〇〇〇円(昨年より値上がり)として我が家は二万四〇〇〇円の補正予算を組んだ。もちろん、払えない家庭は「一切受けない」という判断もあり得よう。学校ではお金の話や政治的な話は禁物らしいが、「現実」はこうである。子どもを一人育てるには、とてもお金がかかる。正直、私は娘を初等教育から私立に通わせる自信がない。
そんなわけで、公立だけタダという可能性もある高校授業料無償化については厳しく見ていく必要がある。大学における公私の格差は三〜四倍だが、神奈川の高校では七〜八倍といわれている。これが公立だけ無償化されれば、一方はタダ、法政二高は八七万五三五〇円+入学金二五万円、その他クラブのバックだ、制服だ、ピンクのネクタイだのと、一〇〇万以上の御負担を御家庭に強いることになる。事実、私学助成金カットを断行した大阪府は大変なことになっている。政権が変わったくらいで、あえていえば、世の中が急に良くなる訳はない。富(税)の分配の方法が変わるだけである。財政再建だからといって、医療や教育の予算を他と一律に削減するべきではない。
この情況に抗する具体的なアクションとしては、県庁を取り囲んで寒風吹きすさぶ中座り込み、という手もあるが、通常の関わり方であれば、署名で十分である。今年の私学助成金請願署名の〆切がまた近づいている。一一月一三日現在で全校から二万六〇〇〇筆余りの署名が集まっているが、まだ目標の半分程度である。二年生は二八日に臨時ホームルームがあり、そこまでにもう少し協力していただきたい。それぞれが、数十、いや一〇〇筆程度でも大きなアクションとなる。
(二〇〇九・一一・二〇)
残念ながら欠席者や途中での体調不良者があったが、幸いにも全体としては大きな事故はなく、修学旅行は無事終了した。私個人としては、学級担任としてはじめて沖縄に赴き、ますますもって彼の地への思いが深まった。最終日にバスの中でそれぞれの総括を聞きながら、諸君らの中でも沖縄という場所への、ある種の愛や絆が生まれたのではないだろうかと感じている。
今回の旅に参加できなかった人も、満喫した人も、また再び沖縄を訪れて欲しいとオキナワ好きの一人としては強く願う次第だ。旅は終わった時から、また始まると思う。私も帰ったその日から、寝室にガイドブックを持ち込み、美しい海や空を夢想している。
毎夜のクラス集会では「(沖縄戦や米軍基地の持つ)事実の大きさに打ちのめされた」「事前学習や教科書では学べないことを学んだ」という発言が相次いだ。資料を乱発し準備に多少力を入れていた私も、そのことは認めざるを得ない。千の言葉よりも、現地の印象の方が強烈というわけだ。しかし、我々は沖縄に住んでいるわけではない。ましてや基地のそばに年中いるわけでもない。「事実」は常に横たわってはいない。沖縄で触れた「事実」を大切にしながらも、歴史や安全保障の問題については、メディアの情報や書物を引きながら、持続的に考えてもらいたい。おそらく「現場」という具体と、「机上」という抽象との往復運動の中に沖縄への理解を深める契機があるはずだから。
さて「風の会」の比嘉涼子さんと約束した事後学習は、年明けに力を入れていくので、今回は軽い話題としよう。旅行前の私家版資料では、実は沖縄の文化や自然に関する分野は完全に抜け落ちていた。平和学習ばかりであったので、せめて直前に(奇跡の復興を遂げた)国際通りの観光案内でも配布すれば良かったと思っている。六組担任代行の杉本和也先生は、第一牧志公設市場二階の「きらく」に行けとクラスに指令したらしいが、私は特にアナウンスしなかった。多くの諸君は大通りの土産物屋の散策だけであったかもしれないが、私は事前に調べていた店を目指し歩いてみた(自分だけすまん)。
見目麗しいバスガイドさんと握手し別れを告げたあと、同じく修学旅行初引率の四組担任・土肥秀高先生と向かったのは、沖縄三越を南に下がった桜坂通りであった。この界隈は、夜の町といっていいのか、いい具合にさびれた飲み屋や雰囲気のある小さな店が並ぶ。私の目的は、閉鎖された映画館がミニシアターとして復活した桜坂劇場である。『ナビィの恋』(観てない)の監督らが共同経営する劇場には、雑貨店とカフェが併設されている。地元でマイナーな映画に出会えるのはうらやましいいと思いつつ、時間がないので地方出版物(『共同店ものがたり』)を一冊買い求めただけで、お茶は頂かなかった(沖縄でしか手に入らない地方出版は、那覇空港の宮脇書店も○)。
次に目指したのは牧志公設市場の前の「日本一狭いブックカフェ」という極狭書店とうふく堂だ。認知度が高いのか、すぐに食品店のオバアが教えてくれた(残念ながら開店は午後一時だった)。この店に限らず市場の周りは細い通路に小さな店がひしめき合っており、迷路のようになっている。
公設市場は後回しにし、更に西に歩を進め、お土産は「橘餅冬瓜漬」を求めた。きっぱんとは沖縄産の香りの良い柑橘類を原料にした茶請けで、独特のさわやかな風味がある。冬瓜漬はドライフルーツ的なものだが、口の中で雪のように溶ける上品な味わいだ。謝花きっぱん店では試食も出来、お茶まで頂いた。旨い豆腐餻も紹介してもらい、土肥先生も満足されたはずだ。
公設市場に戻ると、「きらく」にはすでに多くの先生方と、六組の諸君がいた。台湾人店主が切り盛りするこの有名店は、一階の食材を持ち込めば調理してくれる。注文忘れや、豪快な接客は御愛嬌。沖縄が極めてアジア的な証左である。私は待たされて、ソーキそばを頂いた。沖縄そばは、動物性のスープが使われている以外は関西のうどんに近い。つまり私にとっても、毎日食べられるソウル・フードなのだ。近所にあれば娘を連れて多分毎週通うだろう。
(二〇〇九・一二・二二)
以前、音楽部の顧問をやっていた時、新三役には必ず就任と同時に手帳を買わせていた。クラブの指導部に入るということは、自分の予定と部活の活動計画の両方を見ていかねばならない。ミーティングで使うクラブ・ノートとは別に、スケジュール帳は必須である。生徒手帳はカレンダーの欄が小さいので、予定は全て書き込めない。ゆえにクラブの手帳としては使用禁止にしていた。
現在私は映画研究部顧問だが、どうもこのスケジュール管理の指導がうまくいっていない。ほとんど一年生なので、映画を作る上で制作日程が大事なことがまだ分かっていないのだ。体連の諸君では常識のはずのクラブ・ノートさえままならないのも、ひとえに顧問の不徳の致すところだ。
ケータイで時間管理をする若い衆も多いが、これには私は反対である。第一、二高生は学校で使用できないので役に立たないし、予定表には一覧性が高く変更しやすい手書きのものが適している。モレスキンのアイディアノート(ネタ帳)はiPhoneを購入して以降、明らかに使用頻度が低くなったが、私の場合スケジュールのデジタル化は、まだ先のようである。
大人の手帳を眺めてみると、ミスタードーナツの景品で配っていたようないい加減なもの、会社で配られるもの、本革の立派なものなど実に様々である。サイズも携行することを念頭においた小さなものや、A4の大判のもの、はたまたタブレットで完全に電子化されていたりと、その人の個性がうかがえる。勝手な偏見ではあるが、きちっとした手帳(多少高そうなもの)を使っている人は、それなりに信用できるし、好人物が多い(と思う)。諸君らも、担任が大事な面談の予定をヨレヨレの手帳に書き込み始めると不安に思うだろう。
かく言う私は、「トラベラーズノート」と「超整理手帳」を組み合わせている。外見がワイルドななめし革で、中身は実直なシステムである。一筆箋やハガキも仕込み、思いついたらどこでも簡単な返信くらい書く。いわゆるTo―do(やること)リストもはさみ、自分を追い立てる。切手やある程度の現金も入れておくと良い。ソフトな定規や紙のメジャーも便利だ。変わりダネだと、塩も入れている。これは出張のホテルで何もなかったときに、酒のつまみになる(高校生はお酒を飲んではいけません)。
肝心のスケジュール帳には、仕事の予定、家族の予定、文学関係の予定などを書き込み、余白が自分の時間になる。どれだけ余白を作れるか、という観点がないと大人の手帳はあっという間に埋まってしまう。中年は忙しいのだ。
なぜ、年頭にこんな話題を書くかというと、この時期手帳やカレンダーの安売りが始まるからだ。まともな人は、年末に次年の手帳くらい買うものである。高校生諸君は仕方がない。この秋に新しくクラブの三役になった者で、買っていない不届き者は買いたまえ。
そして、映画研究部の諸君、そろそろ作品制作のスケジュールを自分たちで綿密に立てるように。いい加減、手帳くらい買えよ。
(二〇〇九・一・八)
四週目に突入した新聞のスクラップだが、目を通してもらえているだろうか。エッセイを書くよりも、切り抜きの方が楽なので、もうこっち専門で通年で続けようかぐらいに思っている。熱心な中学の先生は、毎日「天声人語」(朝日新聞)のコピーを朝の時間に配ったり、一週間でめぼしい記事を集めた壁新聞を教室に貼っているとも聞く。「現代文対策」や「AO入試対策」としては、迂遠な試みかもしれないが、まあ新聞くらい読んでいた方がいい。
学生時代はお金がなかったので、私も新聞は定期購読していなかった。歩いて二分の大学図書館では主要紙が読めたし、当時元気のあった夜のニュース(久米宏「ニュースステーション」筑紫哲也「News23」など)から情報は摂取しているつもりであった。就職してからも、しばらくは学校で取っている新聞をめくるくらいであったが、ある時卒業生と話していて、ささいな経済用語がわからなかった。「先生、それ相当ヤバいですよ」と言われ、慌てて自宅でも取るようになった。教師というのは、だいたい専門の後に「バカ」が付く。ただ、高校教師は大学のセンセイのように「世間の動きは、妻との会話と通勤電車の週刊誌の見出しで十分ですよ、ははは」と、諸君らの手前、アグラをかいてはいられない。
日曜の朝、「サンデーモーニング」の寺島実郎(ダンディな保守オジサマ)のコメントをチェックしていると、娘が「はい、どーぞ」と朝刊を持って来てくれる。国語教師としては、まず書評欄をバラリと開く。大きな書店では、わざわざ書評コーナーを作っているので、以前より話題の本はすぐに手に入りやすくなった。欲しい本はiPhoneの写真でメモする。
件の経済欄も、自宅購入(!)を計画してから自然と読むようになっていた。金利の変動やマンションの販売戸数はもちろん、世界経済の動きも大袈裟にいえば、家計に直結する。一昨年のリーマンショックに端を発する世界同時株安を私は見事に言い当て、以来、家人は購入に関して全面的に言うことを聞くようになった。単に新聞と「アエラ」を読んでいただけなのだが、経済や社会の動きも継続的に追っていくことで、何かが見えて来る。
時間のない諸君は、一面を読むだけでもいい。それも、毎日。あるいは気になる記事があれば、さかのぼったり、次の日まで追ってみる。すると「問題」や「事実」が頭の中で再構成されていく。あるいは、気になる事象に関しては各社の「社説」を読み比べる。左向きの思想から並べると、朝日、毎日、読売、産経(iPhoneでタダで読める)という順が一般的な見取り図だ。一つの出来事に対して、実に論評はバラバラ、さすればまた「事実」は一つというよりも極めて多面的なはずである。様々な主張の中で、自分の意見がどこに位置するのか、どの考えに近いのか、どの考えが許せないのか。自らの意見を叩き、鍛え上げていくと、やがてその人の「思想」や「哲学」らしきものが生まれて来る。スクラップ・アンド・ビルド、思考し、壊し、作り直す。頭はまだ柔らかいはずだ。
読まれた新聞は、我が家では少し前まで、娘の食べこぼし予防に床に敷かれていた。食事中、ケチャップだらけの新聞紙に、ふと気づかなかった面白い記事を見つけるのも、趣がある。活字中毒者なら、この気持ちを分かってくれるだろう。
(二〇一〇・二・一〇)
二学年も試験を残して、あとわずか。諸君らにメッセージを発する機会も、いよいよ少なくなってきた。修学旅行の事前学習は、いくらか準備したつもりだが、事後に関しては少しサボっていたかもしれない。そこで、沖縄に置いてきた忘れ物について、いくつか記しておきたい。
黙認耕作地と「象の檻」のゲートボール
長大な嘉手納基地のフェンスを過ぎたあと、美し過ぎるバスガイドさんの口から出たのは、「黙認耕作地」といういかめしい言葉であった。基地に隣接するウージの森の下には、弾薬が貯蔵されており、地上は軍用地として使われないため、元々の地主達が作物を植えているというのだ。見れば、道路を挟んで基地の側には植物が繁生し、反対側には建物しかない。地下には、危険な爆薬あるかもしれないが、人々はたくましくも、その上に花を植える……。いい解説だなぁと、聞き惚れた(いろんな意味で)。
一九六八年には嘉手納でB―52の墜落炎上事故があり、もし核や化学兵器貯蔵庫の上で爆発していたら、沖縄は全滅していたかもしれないとも言われている。基地について重点的に語ってくださいと事前にお願いしていたが、沖縄のバスガイドさんにとっても、黙認耕作地という足下の問題は、空を飛ぶ戦闘機の危険と同様に語りどころであったのかもしれない。
その後、訪れた読谷村のシムクガマの近くにあった「象の檻」(跡地)についても、事前学習を怠っていた。余りに有名な外観だが、土地は返還され、施設が撤去されたことを私は知らなかった。跡地はだだっ広いだけの原野で、利用価値がなさそうだと思ってみると、ささやかなゲートボール場が設置され、オジイとオバアが興じていた。嗚呼、軍用地の返還を求めて、いざ返してもらっても使い道がない。北谷町のアメリカン・ヴィレッジという歓楽街を私はあまり好まないが、これなどは返還地再生の成功例だろう。
この跡地に向かう県道では、米軍関係者による轢き逃げ事件があったばかりであった。チビチリガマの前で比嘉涼子さんが例年以上に怒っていたのは、そのためだ。
『島唄』とペンタトニック
二日目は平和祈念公園と資料館、「象の檻」のあとにチビチリ/シムクという二つのガマを見学するハードなものであった。新里スエさんと比嘉さんの強烈なダブル平和ガイドさんに当てられまくった我々は、「もう、お腹いっぱいです」と、ただぼんやりと流れる景色を眺めていた。規格外に美しいバスガイドさんが、「ユイ、ユイ、ユイ、ユイマール♪」の唄で盛り上げてくれた後、ぐったりしている我々にやさしく音楽をかけてくれた。前日は民謡や沖縄出身のアーティストだったが、この日は西野カナ(中年はこの人のことを知らなかった)とヒルクライムだった。「今年の冬はどこに行こうか?」「あなたといたい、あなたといたい」。
僕らはこのとき沖縄にいたが、奇妙な感慨にとらわれた。僕らはどこへだって行けるが、どこにも行けないのだと。二日もすれば川崎に帰り、相も変わらず「どこにも行けない」日常を生きていくしかない。普段は流行のJ―Popなど聴かないけれど、この日は日本語の歌詞が心にしみた(いろんな意味で)。
帰ってから沖縄の話ばかりしていると、杉本和也教諭からザ・ブーム『島唄』の意味を教えてもらった。恥ずかしながら、私はこの唄に込められた深遠なる意味について知らなかった。優れたポップ・ミュージックにはいろんなギミックが隠されているが、これなどは最たるものだろう。かなり昔だが、ブームがこの曲を引っさげて紅白歌合戦に出場したとき、タダならぬ神懸かった演奏であった理由が、今はっきりと分かった気がした(意味はググって下さい)。
宮沢和史と『神様の宝石でできた島』で共演したジャマイカのシンガー・ヤミ・ボロは、ドミファソシドの沖縄ペンタトニックを「虐げられた民の音階だ」と評したが、この『島唄』は歌詞の意味を再認識することにより、ほとんど魔的な魅力でもって立ち上がってくる。沖縄戦で散った幾多の霊魂が、宮沢さんを突き動かしたとしか言いようがない。
伊江島とアーニー・パイルの死
諸君らが最終日に訪れた国際通りは、戦後あの場所に「アーニー・パイル国際劇場」があったことが名前の由来だという。アーニー・パイルとは当時米国で最も有名な従軍記者の一人で、伊江島で狙撃され亡くなっている。この人物に私が興味を持ったのは、同じく高名な従軍カメラマンであるロバート・キャパの自伝的エッセイ『ちょっとピンぼけ』(文春文庫)に頻繁に登場するからだ。キャパはヨーロッパの戦いの終結後パリに留まったが、アーニーはわざわざ太平洋戦線に転戦した。諸君らと見た記録映画『ドキュメント沖縄戦』でその名を認めてから、彼のことが気になっていた。現在ではキャパの方がずっと有名だが、『ちょっとピンぼけ』だとアーニーは大人気で、兵隊がいくらでもワインを分けてくれたという逸話がある。無名の兵士でも、記事に実名で登場させることが人気の要因であったようだ。
伊江島には、そのアーニーの墓がある。クラスコースに組み込んでいる九組担任の渋川敦志教諭に写真をお願いしておいた。私の方は「平和の礎」でその名を探したが、見つからなかった。ただ、旅は謎ややり残しがあった方が面白い。再び彼の地を訪れる理由になるから。
手元には四〇〇ページ二段組みの『アーニーの戦争――アーニー・パイル第2次大戦ベストコラム』(JICC出版局)がある。長期休暇にこういう本をつらつらと読みながら、普天間基地移設の候補地にもなっている伊江島に思いをはせてみたい。
(二〇一〇・二・一九)
進路指導やキャリアデザインの雑談で、何気に「文系で男子だとほとんどが営業職だぞ」と言った私の決めうちは、多少の波紋を呼んだらしい。保護者の方や生徒諸君から「ウチの子、引っ込み思案で」とか「営業、オレは出来そうにないんですけど、どうしたらいいでしょう」と、度々言われるようになった。知らんがな。
確かに、普通の大学に進学した旧友のほとんどが営業で(売っているのは印刷物、ネオン管、家具、下着、ドンペリなど)別の仕事をやっているのは、建築士のテツヤと教員をやっている私だけかもしれない。女性は事務職が多い。サラリーマンであることは同じだが、私は資本主義体制の中で「ものを売る」という職業選択をしなかった。人には、向き不向きがあるが、私に商売が出来るとは思えなかった。教師になりたかったわけではないが、まあそういう「消去法」になったわけだ。
職業と一口に言っても、実に多種多様である。そのことを知るために、卒業生の中で、パイロットの養成学校に進んだり、広告代理店にクリエイターとして就職した諸氏の取材をしようと思っていたが、今年は出来なかった。
そこで今回は、多少の「需要」があるであろう教職に求められる力について、参考になるかは分からないが示してみたいと思う。手前味噌ですまないが、私も書きながら今一度自分のキャリアに必要な力を確認してみたい。
下敷きにするのは、札幌市の中学校で教鞭を執る堀裕嗣氏が「教師力」として挙げる三段階の能力である(著作多数、ブログ等参照のこと)。氏のお話は学会で何度も聞いたことがあるが、とにかくエネルギッシュな人で(小説の「神の視点」を説明するために、ビデオカメラを八台自費で購入し、生徒に撮らせて自ら編集するとか)、地元の北海道では私淑している人が多いと聞く。以下の整理も明快だ。
モラル・生活力
言わずもがな、である。多少の冗談は許されようが、インモラルな教師というのはあり得ない。聖職者、などと言われるがゆえに、たとえ万引き程度でもめでたく神奈川新聞の三面記事に名前をさらすことになるだろう。普通のサラリーマンも当然万引きで罰せられるが、ヤフーのヘッドラインには載らない。
飲んだくれで、生活破綻者というのも、今時の教師には似つかわしくない。小説家なら、〆切前日まで浴びるように飲んで、一晩で五〇枚書く(ⓒ中上健次)というスタイルも素敵だが、教師はコンスタントに毎日平均点よりもちょい上を出すことが求められる。予告ホームランやハットトリックよりも、年間スタメン出場の方が評価される。
指導力・事務力
昔9:1今5:5という堀氏の見解には同感である。昨今、事務処理能力は大いに問われる。専任高校教員の場合、実感として諸君らとカラむ授業などの仕事の割合は三割程度で、成績処理や試験作成など書類との格闘や、諸会議の参加と準備が残りの七割である。私の場合、モラルや生活力より、実はこちらの方が怪しい。いつも書類の山に埋もれ、長い会議で疲弊し、課題を消化できず、四苦八苦している。
以前「教師に事務処理能力なんて必要ないよ。キタニさん、教師は人間的魅力が肝心だよ!!」と、ある先輩に高らかに言われ、ショックを受けたことがあった。その人はなかなか興味深い人物ではあったが、事務力はすっかり抜け落ちることで有名で、私は仲間だと思われたのだった。最近は文学のコーナーをのぞく前に、まずビジネス書の新刊を一覧する。今更、書類の整理術やコンピュータの基本的操作を学ぶとは情けないが、仕方がない。家庭では整理上手の家人に支えられて、やっとこさ生きている。
指導力(授業運営や担任指導やクラス作りを指すのか)と言われる領域は、今の大学教育の中では教えているのかもしれないが、私の時代では教員養成課程で教わった記憶がない。つまり、これも独学である。
この力を支えるのが、実はキャラ作りであることを二高の別の先輩から学んだ。このアニキは、新任の頃なんと職場ではダテ眼鏡を用意していたという。眼鏡がオン/オフのスイッチで、かければ「教師」になるのだ。プライベートはアロハシャツだが、教室ではスリーピースの上質なスーツにピカピカに磨かれた革靴、誰が見ても立派な人物である。もちろん、入念な授業研究に裏打ちされたアニキの授業には定評があった。「生徒に愛されようとしてはダメ。厳しさを子ども突きつけることで、自らを律した方が、あとの喜びが大きい」などと我々後輩に哲学を語り、今や教員養成課程を抱える某大学の若き准教授である(けっ)。
堀氏は指導力を「父性」「母性」「友人」の領域に分ける。教師は複雑な性格俳優を演じろというわけか。
先見性・創造性
学校という場所は常に「不測の事態」が起こってしまう。しかし、その責任の重さからすると起こり得る事態は「想定外」であってはならない。安全管理面でもニュータイプ的先読みの能力が求められる。社会情勢や地域の移り変わりに深く関わる学校運営面でも二、三〇歩先が読めないと、我々は学校ごと行き場を失ってしまう。
世間はまた、難儀なことに金太郎飴的な教師を求めていない。コンスタントな安心感+独創的な発想で引っ張っていって欲しいと願われている。二高は割と個性的な先生が多い。そこで埋もれないようにするのも、ちょっとした「戦い」である。我が校の卒業式(生徒有志による)第一部やおそらく全国的にも珍しい(各学部別に学習内容の異なる)三年三学期を発案したのは、私と同い年の奇才と言っていい人物だった。妙案を支える人が必要なのは当然だが、突破口を開くのは独創的な思考回路を持つ人物だ。
さて、堀氏のフォーマットを元に様々な「力」について見てきたが、これらは全て言ってしまえば「後天的」なものである。教科教育を支える「専門性」も大学の学びだけでは通用しない。つまりは、R-CAP的な職業「適性」などない、ということを個人的には強く言いたい。冒頭で述べた「文系なら営業職」問題も同じで、実はその「適性」など計れないのではないか。私が営業職に飛び込めば、意外にドンペリがバカ売れしたかもしれないし、やっぱりダメだったかもしれない。身もフタもないけれど、それはやってみなければ分からないのだ。
我々に出来ることは(目まぐるしくテクノロジーが発達し、若者に「老人化」を強いる高度技術社会の中で)日々技術を更新していくこと、新しい波をかわしつつ、合わせていくことしかない。今回は楽屋オチのネタばらし、ほとんど手の内を見せるような愚行を犯してまで言いたかったことは、諸君、「見る前に跳べ」(ⓒ大江健三郎)の精神だよ。道が間違っていれば、引き返して正しい道を探せばいい。
(二〇一〇・三・二〇)
新たな年度がはじまるたびに、毎度毎度の口上を重ねている。紙の無駄、と言われそうなこの通信を三年前から継続している。学級通信というには、極めて個人的な内容なので、いっそのことと担任クラス以外にも配布してきた。今号はめでたく節目の五〇本目だ。
職務上「先生」などと呼ばれ、高い壇から偉そうにモノを教えているのだから、日頃から(教科教育以外に)自分の考えは示しておいた方が良いと思っている。駄文を書き連ねるのは、ギルティ・コンシャスとでも言っておこう。
私が高校生だったころ、大人は(特に学校の教師は)何を考えているかよく分からなかった。思想があるのか、無いのか。何が大事なのか、何を愛し、憎んでいるのか。とにかく、覚えている教師はほとんどいない。あの人達は一体、今どこにいったのだろうか?
瑕というと教育の現場にそぐわなければ、痕跡とでも言おうか。私は若い諸君らの間をすり抜けていくだけの存在ではありたくない。何だかの、記憶の欠片くらいは残したいと思っている。ツイッターで呟いても仲間内にしか伝わらないが、こうやって紙をバラまくと、意外に読んでくれる。男一匹、不惑の四〇、惑いっぱなしの漫談を今年も再開したい。
さて、担任クラスの二年五組では、一通り自己紹介も終わり、面談期間に突入している。自己紹介では、今までやってきたことと今後の抱負に加え、「最寄駅」というフックと「尊敬する(気になる)人物」について語ってもらった。前者は「赤い電車に乗って…」などというと、それなりに反応があるが、後者についてはほとんど発言がないので、グラビアアイドルの名が挙がった以外、盛り上がることはなかった。自己紹介で触れなくとも、面談シートには父、母、祖父、祖母と書く、真面目な諸君が今年は多い。
確かに、モデル無き時代とでもいうべき、情報量だけがやたらと高く、価値ある出会いから遠ざけられた状況下で、我々は生きているのかもしれない。先に私は、青春時代の周囲の大人への不満を語ったが、その代わりにミュージシャンや小説家、デザイナーや画家、当時だとコピーライターなどに憧れの気持ちを抱いていた。田舎の少年は大体そんなものだ。身近な教師や親は、決して尊敬の対象ではなかった。それが良いことなのか、悪いことなのか分からないけど。
尊敬し敬愛する人物に出会うということは、大袈裟にいえば、世界とどう繋がるか、という手がかりであるのかもしれない。親兄弟親戚一族を尊崇の第一に挙げるのは、そのような迂遠な回り道や迷い道を一周巡ってからでも遅くはないのではないか。端末から全ての情報にアクセス出来る諸君らは、逆に世界への接続に不自由を感じているような気がした。
カリスマの神秘や謎はネットでバラまかれ、崇拝する対象を持ちにくいというのなら、偶像探しは歴史をさかのぼればいい。過去は常にベールに包まれている。英雄も敗残者も、本当はどんな奴だったか分からない。書物や映画から丹念に人生のモデルを探し当てろよと、今年はまず「上から目線」で提案しておきたい。私もダライ・ラマだけでなく、気になる人物については、授業で今後も紹介していきたい。
(二〇一〇・四・二七)
昨年から注視しているが、普天間飛行場移設問題がなかなか進展しない。イラク戦争を指導した、あの「悪魔のような」ラムズフェルド元米国国防長官をして、「こんなところで事故が起きない方が不思議だ」と言わしめた「世界で一番危険な基地」である普天間の問題は、修学旅行で沖縄をめざす我々と無関係でない(というか、無関心な態度だと、現地の平和ガイドさんに呆れられる)。
四月二五日には沖縄県民大会で「県内移設反対」が議決され、やることが後手後手だが、鳩山由起夫首相は五月四日になって沖縄を訪問、「公約」とは逆に海兵隊機能の一部受け入れを説得しにかかっている。この問題を一任されていた平野博文官房長官は、移設案の一つの鹿児島県・徳之島の関係者と遅すぎる接触を試みているようだが、今まで引っ張りすぎて来たことへの責任論が噴出し、更迭や内閣改造もささやかれている。学校で政治の話は禁物らしいが、今書いたようなことは、新聞の一面をなぞったに過ぎない。全く何を書いているか分からないという人は、日曜の朝、しのぎを削る各局の報道番組くらい観ましょう。
以下は、この間の動きからの私見であり、諸君らの問題意識を高めるための、ザックリとした雑感である。
まず強く感じたのは、「総論賛成、各論反対」の心情、つまり沖縄の基地負担軽減については誰もが大いに賛意を示すが、基地が実際近くに来てもらっては困るという市民感覚であろうか。ましてや、兵役(徴兵制)や、永世中立国のスイスのように一般市民が民兵として、祖国の防衛に関わるなどという感覚(発想)は皆無に等しい。
私は戦争映画も観るし、TVゲーム(ウォーゲームやシューティング)もやったし、(幼い男子が持つ)兵器へのフェティシズムがない訳ではない。しかし、自分が一人の兵士として戦場に赴くことは想像できない。この国の多くの人々は基地が嫌いで、軍隊や兵役を忌避している。これは平和憲法とどれくらい関係するか分からないが、戦後長く培われた心情であろう。
もう一つ、徳之島の強い拒否反応からしても、基地が地域の振興に全く寄与しないということ、この不況下でも「うまみ」がないことに、僕らが気づき始めたということだ。畢竟、基地問題はタライ回しになる。
社会学者・宮台真司は昨年のベストセラー『日本の難点』(幻冬舎新書)の中で、外交パッケージを「軽武装×対米依存」から「重武装×対米中立」にすべきと主張している(宮台が天敵の西部邁も同様)。しかし、軍隊嫌いな国民にとっては、机上の空論といっていい。そもそも三〇〇万の中国人民解放軍と、二〇万の自衛隊が全面戦争する訳がない。一体どれくらい軍備を拡張するというのか? 全く勇ましいことだ。
では、どうすべきか。
家人に食卓で意見を求めたところ、彼女は「座して死を待つ」と言った(すごい)。私はそこまでは言えないが、やはり平和的な東アジアの安定が必要かと思う。鳩山首相は「対等な日米同盟」「常駐なき日米安保」とセットで、EUのような「東アジア共同体」の構想を組閣時にブチあげたのだから、臆せずに「友愛」の精神でやってもらいたい。
米軍に出て行けという前に、僕らは高次の安全保障の条件を整えねばならない。そのためには、大いに「戦争」の話をしよう。
そして、隣国との共生を考えよう。「アジアは一つ」(岡倉天心)だ。
(二〇一〇・五・一九)
フィルムが始まってもギャーギャー騒いでいるので怒鳴ったが、四七分に編集された『1フィート映像でつづる ドキュメント沖縄戦』(沖縄戦記録フィルム 1フィート運動の会)を見終わってみると、意外に衝撃を受けたのか、黙り込んでしまう我が二年五組であった。
地上戦は醜く、怖ろしい。まさか、このフィルムでも悲惨さが足りない人は、映画『硫黄島からの手紙』や岡本喜八監督『激動の昭和史 沖縄決戦』を観るといい。誰も戦争をしようとは思わないはずだ。
本土の戦争は空襲ばかりであったので、地上戦に巻き込まれた沖縄とは自ずと捉え方が違う。私の祖母などは、銃後を支えた多くの人々がそうであるように、空襲をまるで「天災」(津波や台風と同じ)のように語ってきたが、沖縄の体験者が語る戦争にそのニュアンスはない。本土と沖縄の断絶は、戦中の認識の違いに端を発するのかもしれない。
フィルムを通しての雑談で、他クラスで印象的だったのは「米軍は、意外に優しいのではないか」という感想だった。これはある意味正しい。なぜなら、あの映像の視点は火炎放射器の後ろ側にあり、カメラは焼かれる側には立っていないからだ。ガマに手榴弾を投げ込む映像はあるが、その後の惨状については撮されてはいない。「1フィート映像」が貴重な資料であることは間違いないが、あれを全くの「事実」と受け取るのは危険であろう。「事実」は複数的である。焼かれる側の視点、死体が死体になるまでの課程が、当然のことながらあるはずなのだ。残念ながら、日本は貧しく、弱く、映像を残すすべを持たなかった。忌まわしい記憶を補完するためには、フィルムを米国から買い戻すしかなかったのである。
ところで、鳩山内閣が、私の予想通り六月二日に退陣してしまった(年頭には必ず、私は新年大予想と称し、勝手に世相を占う。今年は鳩山政権五月崩壊と黒板に大書した。二日遅れたのは、彼らの判断が遅かっただけだ)。鳩山政権が迷走したのは、ずっとこの通信でも話題にしている普天間飛行場移設問題のためである。基地問題とは、無論対米政策の問題だ。
小泉安倍福田麻生と近年のリーダーが米国ベッタリ(アジアと険悪)であったので分かりづらいが、戦後の総理大臣がアメリカとの戦いを演じてきたことは、吉田茂や田中角栄の末路を見れば明らかである。前者は巧みな「寝技」で米国を煙に巻き独立を勝ち取り、後者はその意に反し、刺されたと言ってもいい(角栄―小沢一郎の金脈師弟ラインを、「対米」という構図で読み換えると興味深い)。鳩山氏の肩を持つわけではないが、彼もまた米国に一種の戦いを挑み、その苛酷さの中で倒れたともいえる。嘲笑されるべきは、その言葉の軽さよりも、戦い方のマズさである。「戦後レジーム(体制)からの脱却」などと景気のいいことを言いながら、対米政策を全く棚上げしてきた人々よりも、私は鳩山氏を評価したいと思う。引退してしまうのも無理はない。ご苦労様……。
ともあれ、「1フィート映像」を観ることは、ファインダーの向こうの米国を考える良い機会にもなろう。フィルムに映る我が国の戦災者はあまりに貧しいのだが、敗残者としての内実はほとんど変わっていないのではないかと、私などはつい思ってしまう。強者が弱者を叩き、さらに弱い者を叩く。いつもの決め台詞だが、沖縄の歴史を学ぶことは、それと地続きである現代の問題を考えることでもある。新政権の「外交」手腕にも、引き続き注視して欲しい(学校で政治の話は禁物ですが、今回もやってしまいました。悪しからず)。
(二〇一〇・六・九)
また夏が始まる。性懲りも無く、温暖化でパワーアップした夏が。この暑さは、人を狂わせる。とにかく、暑い。灼熱の太陽は、無為な、常軌を逸した行動を起こさせる。おかしくならないように、さてどうやって、やり過ごそうか。
合宿で長野県菅平に一週間以上監禁されたり(実際そこは、プロテインを飲むための牛乳がコンビニで品切れになるという、恐ろしい場所である)日の出食堂の朝食を食べ続ける諸君のことは、さほど気にしていない。体調管理にだけ留意してくれたまえ。心配なのは、クラブに属していない諸君、クラブが比較的楽な諸君、他に自主活動をしていない君、繁華街をうろつくことしか課題のないあなたのことである。中学生の頃なら、塾の講習にでも行ったのだろうけど、今夏は何をやるのだろう。終業式から数え、実に四〇日間の放心の日々、何もなければ長いはずだ。
二〇代前半まで、私の夏の恒例行事は、中学以来の友人たちとのキャンプだった。私の友人たちは、何故か、中学・高校・大学と、紹介した私を放っておいて、勝手に仲良くなる傾向にあり、中高大と入り乱れて、キャンプ場に繰り出すのであった。車が運転できない中高の時期は当然電車と徒歩で目的地を目指し、泊まりが無理な場合は飯盒炊爨だけでもそれなりに楽しんでいた。
釣りは普段しないのだけれど、この時ばかりは河原で友人の竿を借りて、じっと水面を見つめて瞑想する。運良くかかった怪しい魚に塩をまぶし、喰らう。飲み物は、川の水で冷やす。炎天下で食べる焼きそばも旨い。私は幸運なことに、アウトドアに長けた友人を多く持ったので、ワインの栓を抜くだけで、あとは何かとやってくれる。紙皿をいっぱいにしてくれた礼に、小話を二三やれば帳消しになる。話が尽きると、平らな岩を見つけ、シートを敷いて昼寝する。時間は、真昼を境に、わからなくなる。
大雨の中、炊事場で立ちながら水浸しでBBQ、ということもあったけれども、好天に恵まれれば、大阪の汚れた空気に比して琵琶湖のほとりや和歌山のあたりは、星空が綺麗だった。おそらく都会人であろう諸君も、排ガスを含有していない空気やうまい水を欲しているだろう。街を離れれば、緑が妙にまぶしい。危険でない範囲で、自然に親しむといい。
友人がいなければ、一人でもいい、どこかに繰り出せ。キャンプが面倒なら、地図を拡げ、目的地を探し、宿を予約すればいい。私など、家族を持った今となれば、一人旅などは若者だけの特権だと思う。一人で安宿に泊まる、あの孤独と寂寞たる淋しみは、一種の贅沢としか言いようがない。実は、友人とばかりつるんでいたので、道案内も任せ、海外だろうが国内だろうが、旅行は常に誰かと一緒だった。
思い出してみても、一人旅は結婚前に花巻と平泉、学生時代に山梨から諏訪大社の四宮全てを参る目的で諏訪湖をめぐって、在来線で名古屋に抜けたこと、ソウルを一日一人で歩いたことくらいしかないことに今気づいた。恋人や友人達とワイワイやるのもいいが、孤独と向き合い、書物だけを友として旅に出るのも悪くないはずだ。無為な夏を過ごしてはいけない。
(二〇一〇・七・二)
学校教員として、卒業生の活躍ほど嬉しいものはない。
先日、元ウチのクラスの委員長であり、映画研究部の部長だった洞内広樹君から電話をもらった。自作の、なんとNHKでの放映の告知である。しかもキャストは『ゲゲゲの女房』のあの二人だという。よほど評判が良かったのか、地デジ化促進キャンペーンのわずか八分間のショートフィルムは、BS放映を経て地上波でも流され、現在webでも観ることが出来る。映像制作や、電通など広告代理店に興味のある諸君は、是非『いちごとせんべい』で検索して欲しい。いろんなブログでも話題になっている。
洞内君の作品を観てショックだったのは、核となる部分が、高校時代とほとんど変わっていないということだ。技術は格段に挙がっているし、スタッフも一流どころの『ゲゲゲ』の人たちだし、予算は短編なのに一〇〇〇万円(!)、俳優は今をときめく向井理さんと松下奈緒さんだ。当然のこと、「表向き」はプロの作品として仕上がっている。
しかし、こちらが恥ずかしくなるような脳内イリュージョン爆発の恋愛設定や、笑いを誘発する過剰な演出、音楽の使い方、そして何より全体を覆うテイストやグルーブ感自体が、高校時代そのままなのだ。プロを相手に、こういうことは失礼かもしれないが、表現の核となるような部分は、高校時代に既に形成されていたとしか言いようがないのだ。
我々は往々にして結果しか見ないが、洞内君が二〇代半ばで潤沢な予算と豪華なキャストでフィルムが撮れるのは、高校時代にすでに「始めていた」からだ。彼は在学時、ただただカメラを回していた。二高祭のクラス企画も、コンテスト応募のための作品作りも、そして授業さえもがむしゃらだった。私はそれを「努力」とは思わない(ましてや、電通への就職を見越した活動では、全然ない)。ただ、好きなことをやっていただけだと思う。
前後して、二組担任代行(激務だね)の杉本和也教諭に『高校時代にしておく50のこと』(PHP研究所)という暑苦しい本を借りた。筆者の中谷彰宏氏は『面談の達人』という大大ベストセラーを連発した、私にとってはちょっと苦手な感じの成功者だが、いいことを書いている。曰く、「高校時代は未来の予告編だ」と。まえがきも引用しておこう。「未来に起こることは、高校時代に全部やっているのです。未来は、今、全部起こっています。気づいていないだけです。僕は今、いろんなことをやっています。でも、これはみんな高校時代にやっていたことなのです」…私の言葉で表現するならば、その人の核、コアな部分は高校時代に形成されるということか。青春は一人称の小説を生きているようなもので、主人公には自分の走っている方向は分からない。ただ、深く、自らの求める対象に没入していればいい。現在は、すでに未来である。始めなければ、当然のこと何も始まらない。
んなこと言われても、何にもねぇよ、という諸君は、まず二高祭の企画作りに真剣に参加して欲しい。二高のいいところは、あらゆるステージが用意されていることだ。帰宅部の参加を熱望する。役者でも、やんなさい。
(二〇一〇・九・二二)
明治維新は、激烈なるナショナリズムによって為された。いわゆる、尊王攘夷運動である。将軍ではなく天皇を敬い、諸外国を排撃する思想が幕末の最先端であった。無謀にも英国と戦った薩摩藩も、暴れまくった長州藩も、大志を抱き藩を飛び出した坂本龍馬ら浪士達も、基本的には尊攘派である。この国のナショナリズムは、このとき始まったのだ。
出来上がった明治政府の方針をザックリ一言でいうと、富国強兵である。今まで国家(ネーション)という概念を持たなかった我々は、天皇の赤子(全員、帝の子ども!)という虚構に熱狂し、近代化と軍事化に総動員された。明治維新は、世界史の中でも極めて珍しい無血革命(に近いもの)だが、資本主義国家としては後発的な位置にあった。「遅れ」を取り戻すべく、国民に多大な犠牲を強いながら日清・日露の戦役を辛うじて勝ち抜き、この国は帝国主義化する世界にあわてて「参戦」した。
広辞苑で「近代」という語を引くと、「日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが定説」とある。これは、富国強兵(=近代化)の流れが、泥沼の日中戦争、太平洋戦争の敗戦によって、一度止まったことを意味する。同時に、この国のナショナリズムも、米国の占領により一度終わったのである。
ここで、中国と韓国(あるいは北朝鮮)の歴史を振り返ることはしない。しかし、後発資本主義国家としての日本より、さらに近代化が遅れたのはまず間違いないだろう。ナショナリズムも、またしかり、である。日本は、近代国家として老成していると考えてもいい。現在勃興している中国と韓国のナショナリズムは、年若い。同じレベルで熱くなる必要はないと、私などは考えてしまう。
映画『ラストエンペラー』では、甘粕正彦(坂本龍一)のこんなセリフがある。「中国、香港、インドシナ、シャム、マレー、シンガポール、そしてインド。アジアは我々のものだ!」……社会主義者・大杉栄を殺し、満州に渡った甘粕は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀にこう噛みつく。実際、旧帝国陸海軍はインドの手前まで攻め上り、太平洋の真ん中のハワイ島を奇襲した。現在の中国の覇権主義を気にする前に、自国の帝国主義の歴史を地図上で振り返った方がいい。よくもまあ、あれだけ領土を拡大し、文化的に多大な影響を受けた隣国を植民地化したものだと。
たまたま文学をやっているので、私には同人誌で知り合った在日韓国人の友人が何人もいて、しょっちゅう一緒に酒を飲んでいる。何よりも、法政二高には沢山の日本国籍以外の卒業生がいる。偏狭な民族主義、どこかから借りて来たルサンチマンまみれの国粋主義的発言は、世間が許しても、私が絶対に許さない。友人の少ない諸君、交友関係が狭い世間知らずの諸子には、ナショナリズムより、ずっと大切なものがあることを是非知ってもらいたいものだ。
尖閣諸島にしろ、竹島にしろ、沖ノ鳥島(岩?)にしろ、領土問題は大事だが、他に年金などの社会保障や、輸出産業に打撃を与える円高、成長戦略(高度成長は終わったの!)に代わる政治的指針の打ち出しなどの方が、よほど国内事情としては肝要に思える。ナショナリズムとは政治の道具である。だまくらかされ、踊らされるより、隣人を愛さんかい。
(二〇一〇・九・二八)
修学旅行の日程が近づいている。他クラスに比べると、幾分多めに平和学習をしたつもりではあるが、今年は「やり切った」感は少ない。ここまで来ると文献よりも、現地での「事実」の衝迫力に期待したいとしか言いようがない。
さて、例年現地に行っていつも後悔するのは、沖縄の歴史や食文化について、ほとんど諸君に語れていなかったということである。もちろん、平和学習に関してもまだまだ足りないが、事前学習の大半は「戦争」について学ぶことに費やしている。沖縄の魅力は、その歴史の特異性や、戦争の悲劇性の確たる伝承だけではない。せっかく行くのだから、その際立って特徴的な地域性に直に触れて欲しい。思えば、新幹線のどの停車駅に降りても、駅名を伏せればどこだかわからない、大して変化のない街づくりをこの国はしてきてしまった。唯一、大阪と沖縄だけは、他の地方と差別化できるローカリティーが残っているのではないだろうか?
ところで、最終日の観光は国際通りである。例年より散策時間が長く、表通りの冷やかしだけではもったいない。団体旅行では、残念ながらホテルで供される食事は平凡なものである。変わったものが食べられるのは、この日くらいかもしれない。そこで、観光スポットとしてお勧めしたいのは、通りのほぼ真ん中に位置する第一牧志公設市場である。
市場は一階が生鮮食品売り場、二階がその食材を調理してくれるサービス(実費)を含む食堂街である。我々教員は二階の「きらく」に集まっているはずだ(喜谷/杉本和也教諭は必ずいると思うので、会いたくない人は近づかないように…)。名物店主だった李植川さんはもう別の店(旬鮮食堂りーさん堂)を構えているらしいが、私はここの何の飾り気もない、シンプルな沖縄そばが好きだ。
一階は雑多で、食材の強烈な臭いもあるので、アジア的な雰囲気が苦手な人には、市場での食事を強いて勧めはしない。ただ、私は台湾や香港の夜店が好きなので、この汎アジア的雰囲気に触れると、海外旅行をしたような「得した」気分になるのだ。我が故郷・大阪もアジア、沖縄もアジア、みなワイワイと飯を食らう。
そもそも、私自身沖縄に興味を持ったのが、その食文化であった。昨今のように、ブームではない時期に、地方大学で沖縄県人会謹製の「すば(そば)」とサーターアンダーギーに出会ったのが、その最初であった。中華料理が一つのカテゴリーならば、琉球料理もいわゆる和食とは一線を画す。先輩に連れられて新宿の沖縄歌謡酒場に出入りするようになり、さらに琉球熱は私の中で加速していった。今では、出先で沖縄料理店がないか、まずネットで確認する。
ティビチにラフテーにミミガーに島らっきょう、海ぶどうに豆腐餻(とうふよう)。家人に土産はジーマミー豆腐か。分からない人は、食わず嫌いなし、どれかを現地で食べて欲しい。では、最終日は第一牧志公設市場の二階で会いましょう。
(二〇一〇・一二・二)
団体研修の引率というのは、我々教員にとっては非常に緊張感のともなう仕事である。物見遊山の気分の諸君ら、とりわけ今年の第二学年は、担任の話を一切聞かず、集合時間に遅れ、バスに財布を忘れ、チェックインしたあとに航空券を無くす(二名!)猛者揃いである。様々な問題がありながらも無事終了したのは、幸運であった。そこで、今年も帰投直後の雑感をしたためたい。
新崎昌子さんの講話
戦後七〇年という数字はもうないんだよ、という悲しい、それでいて時間の流れからすると、至極当たり前の現状認識が語られ始めている。たまたま、私は戦後六〇年を前後に広島や長崎の原水爆禁止運動に参加したが、上記の言葉はそこで何度も聞いていた。さらに五年という歳月を重ねると、この言葉は重くのしかかってくる。
ひめゆり部隊の生き残り、新崎昌子さんの講話の内容をここでは繰り返さない。ただし、平和教育の「継続性」ということを、新崎さんは今年さらに強調されていたように思う。体験者は今後も現実的に物理的に減り続ける。しかし、体験者の話を聴く者は、今後も増え続けていくだろう。伝え続けるということに、希望がないわけではない。ひめゆり資料館では、体験者が語るフィルムが流れるコーナーが昨年から増設されている。確実に、語る継ぐための方法は進化している。
今年はフロアからの質問はどれも良かった(新崎さんから、弟さんの辞世の句「六年の長き月日は過ぎたれど昔の友はいずこへぞ散る」を質問者が引き出したのには、驚いた。彼女からお話を聞くのは三度目だが、知らないエピソードであった。この句の凄さは、圧倒的な凡庸さ、形式主義と、そこからにじみ出る少年の「老成」の度合いである。死んだ人は決して年を取らない)。また、六組のT君のように、考えながら、語りながら質問の内容をその場で手繰り寄せる態度が大事であるように思う。若者は何も上手く話す必要はない。愚直に考える続けることが重要だ。
荒崎海岸の淋しみ
この海岸は、ひめゆり部隊散華の場所である。事前学習の映画『ひめゆりの塔』のラストシーンで、一方のグループが自決し、一方を率いる仲宗根政善先生(永島敏之)が手榴弾を持つ女学生に向かって静かに「(ピンを)抜くな…」と指示する、あの場所である。
後述するガマが遺族にとって霊域なら、荒崎海岸は生き残った方々が、戦後なかなか近づけなかった禁忌の場所である。旅程二日目の南国らしからぬ寒風吹きすさぶ中、ウージの森を抜け、ゴツゴツした岩肌を踏みしめ、我々二年五組は散華の碑を目指した。意外にゴミや吸殻が残されており、海に浮かぶサーファーの頭が間抜けに見えた。我がクラスの平和ガイド小禄朝吉さんは、信教の自由を理由に、最初黙祷を我々に強制されはしなかった。追悼に信仰の違いはないだろう。我々は同意し、静かに手を合わせた。何ぶん、引率する私も初めての場所であったので、ああすればよかったという後悔も今となってはある。少なくとも、一度は靴を脱いで、敗走してきた人々のように裸足で岩肌を踏みしめるべきであった。また、ゴミを持って帰るビニールを用意すべきであった。荒天のせいか、荒崎海岸は淋しい場所として私には記憶され、再び手を合わせに行きたい場所となった。
ガマ(洞窟/鍾乳洞)
大袈裟にいえば、ガマに入って出てくるという行為は、一種の臨死体験であると思う。平和教育の過密により、三〇分ほどしか中には居れないわけだが、湿気で自然と汗ばんでくる。沖縄戦はちょうど雨期に重なっている。六月では温度・湿度ともに非常に厳しい環境であったことが予想出来る。弱い立場の乳幼児や老人は、どのような状態であったのだろうか。いろいろ考えながらも、三〇分以上経てば「自然に」出たくなってくる(また出ることもできる)。指示があり、出口に移動する。やがて闇の中から小さな青空がようやく見えると、誰もがホッとする。他校ではなかなか出来ない体験だ。あの暗闇での不安を是非吹聴してもらいたい。
慶良間諸島座間味の「開戦」
事前学習の最初は「1フィート映像でつづる ドキュメント沖縄戦」であった。あれをちゃんと観ていれば、沖縄戦は慶良間諸島から始まったことが分かる。この地上の楽園もまた、戦場であった。渡嘉敷島もふくめ、集団自決があり、我々がシュノーケリングを楽しんだ古座間味ビーチには、特攻艇(中古エンジン付ベニヤボートという末期的兵器)が隠されていた。南洋の美しさと、戦争の悲惨さは、歴史認識と知識がなければ重ならない。事後学習をしつこくやっていきたい。興味のある人は、まず大江健三郎の古典『沖縄ノート』からだね。
戦争に対する戦争
この小文のタイトルは吉田真教諭から教えてもらった言葉だ。同名の反戦アンソロジーが戦前の日本でも出版されていたそうだ。
目には目を、「北朝鮮の砲撃には爆撃を!」という今日のこの暴力的な状況の中では、闘争を止めるための「闘争」もまた必要なはずだ。無論、その「戦争」とは暴力ではない。暴力的な現在を制する言葉の「闘争」である。
(二〇一〇・一二・一五)
これから、東日本大震災の復旧/復興に向けて、少なくともあと数年は大変厳しい時代になると思う。これは、脅しではない。強いて言えば、若者への戒めというよりも、僕ら大人の懺悔と言っていい。人智を超えた自然災害の後に起こったのは、ほとんどが「人災」だ。諸君ら若者には「責任」はない。諸子は、この先進的といわれていた国の消費者であったかもしれないが、この世界とこの国のあり方を作ってきたのは我々「大人」だ。
問題はこと、防災対策の不備や、原子力発電所の問題だけではない。今回の「人災」の根底にある、大量生産、大量消費、大量廃棄のライフスタイルを無自覚に受け入れ、むしろ喜んで享受してきたのは、我々オッサンだった。電気や、今や不安のある水や、農作物や水産資源など有限性のあるモノを使いながら、第三世界の貧困を無視して、二階でドンチャン騒ぎをしていたのだ。そのツケを、僕らより若い世代に押し付けることが、今回の震災で明確になったと思う。復興の費用だけでも、実に二〇兆円以上だという。環境面と経済面で、今後不透明な感はぬぐえない。もちろん、震災前もこの国の行く末は非常にあいまいで、財政赤字の危機や国債の格付け引き下げや、政治の空洞化、国会の空転など、絶望は頂点に達していた。何しろ、僕らが最後に話題にしたのは「京大カンニング事件」なのだから。何というニヒリズム、シニシズムか! そんなふやけた日常は吹き飛んでしまった。
敗戦後のような「一億総懺悔」は全く白々しい。少なくとも、三分の列車遅延のため何分も待って証明を貰うような無駄や、エアコンを設定温度も見ずに入れて、移動教室の際つけっぱなしでも「なんすか、悪いんすか」という無自覚さや、コンビニに行けば何でもあって、部屋に入った瞬間に灯りがつくような自動化したライフスタイルは、諸君らも見直さなければならない。何が言いたいかと言えば、早く大人になって下さい、ということだけだ。この国にも、諸君らにも、以前あったようなモラトリアム(猶予期間)は残されていない。原子物理も経済も政治も全く分からないのに煽る気はないが、今までにない危機感を私は感じている。
街が暗くなった。私はこの間大阪と川崎を何度も往復したので、ことさら関西と関東の違いを感じる。関西の「終わりなき日常」は継続中だが、首都圏の風景は様変わりした。節電のため照明が落とされた街を、「昭和っぽい、昔はこんなもんだったんだよ」と肯定的に捉えることもできるが、単純に灯りがないのだから、文明の敗北とも言える。私は、最初この変化を前向きに捉えていたが、今はまるで敗北を抱きしめるかのような心境だ。目が悪いので、夜自転車に乗るのが不安だ。
さて、メッセージも最後になった。まだまだ言いたいことは山ほどあるが、これくらいにしておこう。新しい時代を作るのは老人ではない、とことさら今は強く思う。我々中年も、諸君らにツケを残さないようにもう一踏ん張りしたい。
ではまた、笑いあえるふやけた日常を取り戻した後に、会おう。
(二〇一一・四・四)
追記:原発事故で終業式は四月四日まで延期され、次年度の入学式は新体育館で保護者の参列なしで行われた。
新任の頃、最初の教育懇談会で「学級通信をやってください」と、保護者の方から要望があった。面倒だと思い、とっさに私は「やるつもりはありません(キリッ)」と回答したことがあった。実際、日程確認のための通信や「みなさん体育祭はよく頑張りました」的な担任の雑感を書く気にはならなかった。
教師という仕事も、三〇代も半ばを過ぎるとだんだん慣れてくる。余裕も生まれ、国語教師は私的なメッセージは発した方が良いのではという思いもあり、数年前から学級通信ならぬ個人通信を発行している。ツイッターなら一四〇字、ブログもそう分量は読ませられないし、所詮は無名な田舎教師の戯れ言、誰も読まない読まない。しかし、授業で二〇〇枚ほど物理的にバラまけば、多少の失笑くらいは買えるくらいの影響力はある。そんなわけで、誰にも頼まれていないが、ささやかなつぶやきを今年も再開したい。
ところで、3・11以降、私は日々以前とは違い、それなりに緊張感をもって生活している。一言で言えば、未来への不透明さにおののいている。バブル崩壊後、「失われた二〇年」と呼ばれる長い停滞期の中にいたこの国の危機は、今度の大震災で一気に加速し、ふやけた日常性は破砕、決壊した。世の中の不確実性、予測不可能性は、今後どんよりと僕らの頭を悩ませるだろう。一体、明日はどうなるんだ、と。
そんな時代に、確実に役に立つ「実学」などはないと断言しておこう。語学や資格が、ましてや学歴が諸君らの未来を確証してくれるということは、ない(保証があれば、もう少し「受験戦争」は加熱しているだろう)。加えて、政治も経済も、産業構造も何もかもガラガラと変わっていく予感もある。大震災のインパクトは、バブル崩壊以上、先の大戦の敗北に匹敵する歴史的意義を持つだろう。羅針盤も標識も地図も、何もかもが流されてしまった。漂流するくらいならと、さっさとこの国を捨て、脱出する人もいるかもしれない。
では、どうするか。
こんな時だから、私はことさら実直な読書を推奨したい。書物もまた、確実な未来を約束しないのは自明のことだ。しかし、すぐに役に立たない、即効性とは真逆の、壮大な回り道が、この時代には必要な気もするのだ。希望も絶望もないまぜに放擲されているこの国の未来に向けては、言葉一つ、言葉を鍛えるしか術はない。「ただちに影響はない」などという嘘を、駆逐しろ。言葉で国家を監視しろ。哲学で巨悪を指弾しろ。マンガだろうが駄本だろうが、何でもいいから、読め。もうググるな。
先日、各クラスで読書傾向を訊ねたが、ある一定の層は確実に書籍の山々を踏破しているようだ。昨年よりも頼もしい感じはする。「失われた三〇年」にならないように、中年としては諸君らを応援したい。ささやかな営為だが、授業でも推薦本を紹介していきたい。
(二〇一一・四・二七)
試験前に、平和学習ビデオ『1フィート映像でつづる ドキュメント沖縄戦』を全てのクラスが視聴しているはずである。「1フィート」という言葉に、担任の先生から注釈があっただろうか。なければ、少し補助線が必要であるかもしれない。あれは、米国公文書図書館から我が国がフィルムを買い戻す「運動」の名前でもある。ヒロシマ・ナガサキはもう少しムーブメントが大きかったのか、「10フィート運動」と呼ばれていた。抜け目の無い大国アメリカは、戦闘や爆撃後の記録を多く残している。沖縄上陸作戦(アイスバーグ作戦)には戦史を書く前提で、多くの歴史家やジャーナリストも動員されている。ようやく取り返したカラーの映像自体が、当時の米国の強大な力を誇示しているような気がしてならない。対して、画面に映る貧しく悲惨な戦災者の姿は、我が国の終戦時の国力そのものであろう。やってはいけない相手との、戦いの末路だ。
二高の修学旅行のコンセプトは、至極シンプルで、前半平和学習、後半リゾートである。三泊四日のコースでいえば、二日目午後の美ら海水族館からは、存分に楽しめばいい。ただし、前半は気を抜くことなく、しっかりと臨んでもらいたい。熱心な平和ガイドさんを擁する、現地の市民団体の方々に支えられ、二高の研修旅行は成り立っている。諸君らの代で、どこかの学校のように「沖縄出入り禁止」にならないようにして頂きたい。そのためには、事前学習も重要になってくる。小生、微力ながら資料も出来るだけ供給したい。
ところで震災後、福島県出身の渋川敦志先生が「原子力発電所は、沖縄の基地みたいなもんなのよ」と何気なくつぶやいたのが、ずっと心の奥底で引っかかっている。福島には東北の電力供給に全く関係のない原子炉が一〇基もあり、沖縄には国内の米軍基地の実に八五%が集中する。地域差別と首都圏優先の抑圧の構造は、両者に共通しているといえるだろう。もちろん基地は首都圏にもあるし、原発事故による放射性物質は関東平野にも飛来している。要は、安全保障と産業構造が高度経済成長期そのままで、大幅な点検や見直しなくここまで来てしまったということであろう。福島と沖縄は、そのツケを払わされた、露骨なまでの犠牲である。国防という軍事的な問題を、この国の人々は(我々オッサンが主です)平和主義の名のもと、考えることすら忌避してきたし、原発のことも考えずに日々享楽的に電気を垂れ流し、ウォシュレットを使い続けてきた。「ツケ」はそういう意味では、諸君ら若い世代にものしかかっている。一億総懺悔をする必要はないが、どうもすいませんっ……!
グロテスクな構造といえば、一昨年前からの普天間基地移設問題は、未だに決着が付いていない。亡霊のように嘉手納基地統合案までがまたぞろ浮上し、迷走している。修学旅行における学習とは、これら現在の問題と、過去の「捨て石」としての沖縄を地続きで考える作業だといえるだろう。沖縄出身の作家、目取真俊が「戦後ゼロ年」と称する所以である。
平和学習は、趣味的な、サヨクの、戯れ言ではない。東アジアで生きていくための処世術であると考えている。震災に際し、多額の義捐金を送ってくれた台湾国民に感謝し、来日する温家宝首相と李明博大統領に修復のシェイクハンズ、彼の国の将軍様にも親愛のキスを送り、この地域の安泰を共に作らねばならない。未来のために。
(二〇一一・五・二〇)
静岡県の浜岡原発の停止が突如決まったり、国のエネルギー政策自体を大きく転換するという首相の決断があったり(G8ではごまかしたり)と、電力をめぐる状況が日に日に動きつつある。節電の励行は、首都圏ではもはや日常のデフォルトになりつつある。ここでは、そんな時局にふさわしいかどうか、少し思い出話をしたい。
家庭の電気使用量は、戦後一貫して伸びてきたという。私が生まれた一九七〇年と現在を比較すると約三倍であるらしい。三分の一の電力量とは、どれくらいのものか。当時の喜谷家の生活水準は、平均からするとやや貧乏な部類に入ると考えて頂きたい。
まず、クーラーがなかった…。これは一九歳で私が家を出るまで、ついぞ設置されなかった。ただし、夏はいくら暑くても大阪で三〇度前半以上にはならなかった。温暖化以前は、昨夏のような殺人的な暑さにはならなかった。三三度くらいだと、ちょっとヒドいなと思う感覚だ。ヒートアイランドという現象も無かったので、夏はそう嫌いではなかった。今は、ビールを際限なく飲む以外に、手だてが無い。亜熱帯に国土が移動したのかと、いぶかる。
テレビは、一番古い記憶だと白黒で、一〇数インチ(つまり、今のノートパソコンくらい)だったと思う。照明は、各部屋に蛍光燈が一つあるだけだった。今住んでいる家のリビングには、実に大小一二の照明やスポットがある(非LED)。昭和の基準からすると多過ぎだ。
電気を意外に食っているのが、トイレかもしれない。拙宅は切っているが、便座を離れると自動で流れる機能や、水を流すボタンもある。純然たる手動のバーはもはや使われていないのではないか。ウォシュレットといい、現在の便器は電装品の塊、消費電力も少なくない。昭和喜谷邸は、もちろん「ぽっとん」便所であった。
風呂は追い炊きが出来て、シャワーなし。湯加減を見るのが、子どもの手伝いの一つだった。新居はオール電化ではないので、風呂はガスだが、設定温度に保たれた湯船の快適さは昭和の実家とは雲泥の差である。風呂は、大体入る前が寒い。今は浴室に暖房までついている。二階への呼び出しボタンまである。少しやり過ぎではないか。
冷蔵庫も小さかった。もちろん食洗機も、デロンギのコーヒーメーカーも、電子レンジも、アクアクララのサーバーも、空気清浄機も、パソコンも携帯も無かった。アフター・バブルの諸君らの世代からは想像がつかないかもしれない。どの家も電源が要らない黒電話だった。
元来、日本家屋というのは、暗い部分がある(陰影礼賛!)。子どもが怖いと思う場所がある。夜は暗いし、冬は寒い。蚊が出ると、ベープでなく蚊取り線香、田舎だと蚊帳だ。
亜熱帯になったからか、いつからか年中Tシャツを着ている。ヒートテックやなんやで、モコモコのセーターを着なくなった。総じて、冬の装いが軽くなった。避難生活や、帰宅難民化を想定して、分厚いセーターを備えておくべきかもしれない。
ただし、私は電気が止まってしまったり、使えなくなるのは、文明の敗北だと思っている。火を起こし、使いこなせるのは、人間だけだ。だから、昔の方がよかったと単純にはとらえることはできない(人間が「神の火」である原子の火を使いこなせるかは、また別の問題だ)。
昭和っぽい、と唯一懐かしさでもって歓迎出来るのは、たまに乗る電車でのことである。開け放たれた窓から、風が心地よく車内を吹き抜ける。昼間はアナウンス後に電燈が消される。
あの涼風と車内の暗さは、節電をある種の慎みで受け入れる心理を呼ぶ。ふと3・11の災厄が、見知らぬ隣人と共有される感覚こそが、かつて辛うじてこの国が共同性を保っていた昭和の気分なのだ。
(二〇一一・五・三一)
平和教育以前に、ひょっとしたら諸君ら今時の高校生は、先の大戦についてほとんど知らないんじゃないかという疑念にかられている。何のトークのときだったか忘れたが、「大和以外の、旧帝国海軍の戦艦の名前を挙げよ」という問いかけに対し、答えられないクラスがあったからだ(マニアックに、二番艦が武蔵、三番艦が空母に改造された信濃と答えた御仁もいたが)。先日も、敗戦の年が答えられない残念な場面があった。
思えば我々団塊ジュニアが(家族や親戚の)生の声としてリアルに戦争の話を聞いた最後の世代かもしれない。下手すれば、諸君らの保護者の方は私よりも年下だし(参った)家庭でも戦争の話など、ほとんどしないのかもしれない。
母方の祖父は中国戦線に何度か応集された。ヤバイ話だが、七三一部隊(細菌戦に使用する生物兵器を開発していた石井部隊)の隣にいたらしい。ノミ一匹、逃げて兵舎を一つ焼いたとか、何かを埋めていたとか、母はかなり危ない話を聞いたらしい。私には輜重兵の楽しい思い出――官給品の銃で■(一字伏字)を撃って食べた話や、優先的に食料が手に入った話――ばかりであった。オジイが死んだあと、彼が志願兵だったということを、お墓がある寺の住職にきいた(これは誰も知らなかった)。農家の長男が故郷を捨てるには、方便が必要だったのだ。他にも秘密を話さず、あの世に持っていったのかもしれない。
ばあさんからは、空襲と機銃掃射と不発弾の話、好きだった人が南方から帰って来なかった話(えっ、ジイさんは?)などを愚痴のように聞いている。彼女にとって、いい思い出などなく、戦争は単なる痛苦、青春を奪った災厄に過ぎない。戦前生まれの親父の「姫路の方が燃えて、空が真っ赤だった」という述懐は、年代の差か痛みというよりも詩的であった。子どもの頃、大阪の街では、まだ傷痍軍人が物乞いをしていたかもしれない。それが、戦後何年というカウントも、もはや聞かれなくなった。(余談ではあるが、一九〇〇年生まれの父方の爺さんは大変ラッキーで、日露戦争は子ども、日中・太平洋戦争は年を取りすぎで徴兵されていない。)
沖縄の平和教育の前に、諸君らは小説なり、聞き書きなり、いくつか読んでおいた方がいいのではないだろうか。思考停止した「平和は大事です」という御題目は好まぬゆえ。読まないなら、戦争映画でも構わない。
戦争文学や映画の「面白さ」は、そこに人間の愚かさも崇高さも、全てメーターが振り切った形で表れているからだ。人が死なず、環境に影響がなければ、これほど興味深いものはない。今我々は、日常のありがたみを、震災から学んでいるように、平和の尊さも、戦争の悲惨の理解が出発点でなければ本物ではない。
戦前のように超国家主義的な体制に戻るとは、私も思わない。ただ、複雑化し、自動化し、あらゆる価値が相対化された現代では、逆に単純な言説やワンフレーズの政治が好まれる。これは新しい危機だと思う。前の戦争を学ぶことは、したがって、「次」の戦争への備えとなるだろう。事実、目の前では「新しい戦争」が既に始まっている。
(二〇一一・六・一四)
東日本大震災で全て吹っ飛んでしまったが、今年の前半には何がこの国の話題であったか、覚えているだろうか。そう、タイガーマスク現象だ。主に年金受給者と思しき高齢者が、義憤にかられ、孤児院にランドセルを送りまくった、あの奇妙なブームだ。
善行であることには間違いない。揶揄すべきことでないのは確かだが、どうにも違和感があった。そもそも、伊達直人が孤児院にせっせと運んでいた金は、彼のファイトマネーである。昨日流した血の代償であり、年金や余剰の金ではない。支援というより育ててくれた施設への恩返しというのが実際であり、「遊び」ではなく、強い使命感からの行動である。単発ではなく、定期的というのもポイントであろう。タイガーは試合後、度々子どもたちを慰問している。
何より、孤児院には各々の事情があろう。ランドセルが必要な時があれば、別のものが必要な時もある。善行のミスマッチはあってはならない。タイガーは、常に自分を育ててくれた孤児院には何が必要なのかはわかっている。結局、支援することに慣れていないとダメなのだ。
さて……。何が言いたいかと言えば、義捐金が配分されていない件である。報道によれば、実に二〇〇〇億円以上の善意のほとんどが使用されず、一番支援が必要な避難民の方々には分配されていないという。件の日本赤十字のみならず、和を以って尊しとなすこの国では、援助の迅速性よりも、平等性が重視される。避難所に一〇〇人いて、届いたアンパンが九九個であれば、それは決して配られることはない。
上記のタイガーマスク現象にせよ、善意が生かされぬ件にせよ、全てはこの国に寄付の習慣が根付いていないことに起因する。いい大人が、恒常的に支援する団体や、活動にシンパシーを感じるNGOひとつさえないのである。これは問題だ。
今回少しだけ、私は気になっている団体に寄付した。原稿料など臨時収入を充てたので、ここには書けないほどの、微々たる額である。視野を広げてもらうために、あえて紹介したい。諸君らも好きなところを見つけてお布施して下さい(以下の団体のURLは示さない。適当にググるのがメディア・リテラシー)。
まずはピースウインズ・ジャパン。外務省を牛耳っていた鈴木宗男(現在収監中)を相手に国会で大立ち回りを繰り広げた大西健丞が代表のNGOだ。ここはチマチマした支援をしない。海外の紛争地帯へ乗り込むだけあって、ロジスティクス(物資の調達・輸送)の思想を重視する。バーンっとテントを五〇〇〇張、毛布一〇〇〇〇枚、みたいな。豪快なので支持したい。お上に楯ついた、関西出身の大西氏のメンタリティーにも共感するところが大きい。ちょっと太めの体型もいい。今回の震災でも大活躍している。プロに善意を託したい。
もうひとつは、みんなの大嫌いなグリーンピースだ。世界的な環境団体だが、日本では反捕鯨の運動が目立つので、人気は超低い。ただ今回の原発事故では、政府が積極的に行っていない海洋生物の核汚染を調査している。コウナゴ以外も地元漁師の協力の下、測定している。評価したい。
他に寄付がらみのダウンロードは、好きなアーティストをボチボチ落としている。坂本龍一と平野友康が立ち上げた「Kizuna World」は、坂本の盟友・デヴィッド・シルヴィアン、アルバ・ノトの楽曲をダウンロードでき、対価は国境なき医師団、セーブ・ザ・チルドレンなどに寄付される。一曲一〇〇〇円と高めだが、まあ、浄財なので。あとは、再結成のフィッシュマンズ+(DIY HEARTS 東日本大震災義援金募集プロジェクト)とか。
ところで、娘と出かけたとき、街で義捐金を集めていたり、コンビニに入ったりすると、小銭を入れさせるようにしている。幼き日から、善行は積ませねばという親心なり。
(二〇一一・六・二八)
この夏、何もやることがない諸君へ
旅に出給え。大名旅行は自分で稼いでからでいい、質素にいこう。一人でも、友人とでもいい。放射線が怖ければ、西に向かえばいい。鈍行に乗って、時間だけは無尽蔵にあるのだから、流れる車窓の眺めに身を任せ、放心するがいい。新しい街、古い街、知らない路地、テレビでしか見たことのない景色。通報されるから、野宿はやめなさい。宿の予約と、学割の申請をして、あとはパッキングだ。有り金がなくなったら、帰ってくればいい。
この夏、事情があって、外で活動できない諸君へ
書物の森に迷いこみ給え。森は広大で、出口はない。どうせ青春は、進むべき方位も曖昧なら距離感も定かではない。存分に迷子になり給え。「本を貸す馬鹿借りる馬鹿」という格言もあるし、私も書籍には身銭を切るべきだと思う。親から金を貰ってでも買え、と言いたい。書架は男の顔だ。読破したものを並べ、ささやかでいい、自分のワールドを築け。やがてその森は繁茂し、複雑化し、一つの体系として立ち現れてくるだろう。私などは、日がな一日、何もせずかき氷でも喰いながら読書三昧というのが一番の贅沢だと考えている。積ん読は中年になってからでいい。かたっぱしから、読むべし。
この夏、忙しすぎて、全く時間がない諸君へ
今の境遇が一番幸せであることを認識し、喜びをかみしめ給え。一日中サッカーとか、一夏ずっと野球、などという生活はプロにでもならない限り、今後はあり得ない。いわゆる「趣味」として長く付き合うのもいいが、「死ぬ気」でその対象に没入できるのは、今だけだ。全力でやってくれ。無我夢中で走っている人間は、周りが見えていない。見えてなくて大いに結構。後で役に立つとか、立たないとか、考える必要は無い。今は立ち止まる時間帯ではないから。
不思議なことに、高校時代には一切が既に始まっている。中年になって急に何か新しいことが始まることは、残念ながら、ない。打ち震えるような感動に中年になって出会うというのは、少しおかしい(ナイーブ過ぎ)。青年期に、そのレッスンがあってこそ、中年の退屈はやり過ごせる。
﹁あの震災の夏は……」と語れるような濃密な時間を過ごして欲しい。熱中症に気をつけて、ではまた会おう。
(二〇一一・七・二〇)
前半が平和教育、後半がリゾートという本校の修学旅行の構成は良くできていると思う。ビーチで弾けたければ、はじめはしっかりと取り組めばいいというわけだ。
ところで、すでに提示されている総括文はもう書いただろうか。強烈な沖縄の風土の印象も、時が経てば自然と薄れる。今のうちに、しおりのメモを元にまとめておいた方がいいだろう。私自身、プライベートや離島を含めると、もう七度ほど琉球地方を旅している。しかし、行く度に新しい発見がある。授業は再開されるが、今はしばし、南国に想いを馳せたい。
出来事を「出来事」化するために
諸君らと同じく、ひめゆり部隊の宮城喜久子さんのお話を初めて伺った。衝撃を受けたのは、宮城さんのお話の時間軸が大きくねじれている点であった。話は部隊解散命令が下った六月に始まり、結成された三月、沖縄戦前にさかのぼり、また三月、六月へと奔流する。死者が無名であることを拒否するかのように、あの人やこの人の固有名詞が氾濫し、亡くなった多くの学友、恩師が血だらけで召喚される。文脈を追うのが、正直難しい場面もあったが、恐らくはこの「沖縄戦」という出来事は整然と話せる種類のものではないのだ。
我々が事前学習で鑑賞した映画『ひめゆりの塔』は、宮城さんの言によると二〇%は「嘘」だという(彼女は製作に協力している。沢口靖子が演ずる引率教諭の名前が「宮城先生」だったのはそのためだ)。ひめゆりの最期はもっと悲惨なものだった。アイドルを使った商業映画は、画面も構成も「綺麗」にせざるを得ない。これに対して、宮城さんのゆがんだ語り方は何を意味するのか?
軍事マニア的な話で恐縮だが、損耗率という言葉がある。要するに死傷者の割合である。プロの軍隊でも、五〜一〇%程度の損耗で士気が下がり、それ以上だと部隊が機能しなくなるという。五〇人中、五人も失えば、職業軍人が、戦えないのだ。
ひめゆり学徒隊は、二〇〇余のうち、半数以上の方々が犠牲になるという凄まじい損耗率である。圧倒的な体験を、宮城さんは仲宗根政善先生から書くことを勧められながらも、なかなか本にまとめられなかったという。
講演中、しっかりと一時間以上舞台に立たれ、話すためのメモはなかったと思われる。あれは、体験を披瀝するとき、整ったフォーマットで語ることを峻拒しているからではないだろうか。そんな宮城さんが、「沖縄戦まで、私たちも先生方も、『戦争』を『戦場』を知らなかった」と語られていたことが、ひどく怖ろしかった。
差別の過去/抑圧の現在の不幸な接続
我が八組は、二日目にヌヌマチガマに入壕した。平和ガイドの太田玲子さんのお話は、現地の説明のみならず、マイノリティーの問題にも踏み込まれていた。奇しくも、我々が沖縄にはいる前には、某防衛局長の問題発言(米軍普天間飛行場移設計画に関する環境影響評価書の提出時期を、政府が明言していないことについて、「犯す前に、犯しますよと言いますか」と女性への乱暴にたとえる)があり、沖縄への負担と女性への陵辱が重ねあわされる言説に、現地メディアの報道にも怒りが込められていた。
米国が日本を、本土が沖縄をという「弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く」(ザ・ブルーハーツ)構図は、さらにエスカレートするのか。ガイドさんは沖縄戦後のレイプの問題や、病院壕での慰安婦の扱いや、ハンセン氏病患者の「平和の礎」刻印問題など、かなり突っ込んだ視点を示してくれた。性的な問題は、諸君ら男子高校生に配慮してか、今までほとんど話されることはなかったが、例の防衛局長発言は、バスガイドさんも触れられていた。よほど、呆れられていたのだろう。差別の過去と抑圧の現在が地続きであったことをあからさまにする、お粗末な発言を。
目に見えるものと、目に見えないもの
B団は混み混みの「美ら海水族館」には大いに閉口した。そのコース変更の余波で、今年旅程に組み入れられたのが首里城であった。沖縄戦で全焼失し、石垣までもがほとんど破壊されたため、現在見学出来るのは再建された姿である。
事前に調べていたのは、その王城の地下壕、いわゆる第三二軍司令部壕跡である。宮城さんのお話でも「観光地の首里城の地下にも軍の施設があったことを忘れないで欲しい。そのために首里は完膚なきまでに破壊された」との紹介があった。司令部を捨て、降伏せずに軍の中枢が南部に転戦したため、沖縄戦の後半は、特に民間人や徴用された人々の犠牲が異様に多かった。首里城の地下に沖縄戦の亡霊を見ることは、目に見える「現実」と、目に見えない「過去」を重ねあわせることになる。守礼門を抜け、左に折れて池の方に下がっていくと、司令部のトーチカと、通信所の跡はあっさりと確認できた。
「真実」とは何か?
沖縄の平和学習の中で、しばし「真実を見据えて下さい」「本当のことを知って下さい」というフレーズを耳にする。宮城さんも戦前は正しい情報(教育)がなかったとおっしゃった。国語教師の立場から言うと、これは広義の「メディア・リテラシー」の問題であると思う。正確な情報をキャッチし、誤情報を排さねばならないという発言は、我がクラスの集会でも相次いだ。しかし、「正しい情報」とは、どのようなものなのか?
戦前の報道管制と、現在のメディアの情報統制は、私個人の考えではそう大差はないと考えている。戦中の国民が愚かで、現在の情報環境が素晴らしいとは一つも思わない。原発事故一つとっても「正しい情報」が即時に流されていただろうか? また、被曝量が年間一ミリシーベルトが適切なのか、二〇ミリで大丈夫なのか。それは誰が判断できるのだろうか。「真実」は分からないのだが、その都度、各人が適切に判断せざるを得ない時代となった。これがリテラシーなのだが、私の言葉で言えば、それは「知見」であり、「定見」であり、もっと大袈裟に表現するならば「教養」である。ツイッターとフェイスブックに2ちゃんねるを少々、くらいでは「真実」を知るなどほど遠い。「定見」を得るには、活字ベース、書籍ベースの勉学を重ねるしかない。
いつもの結論で悪いんだが、那覇空港でマンガをわざわざ立ち読みしていた諸君には、声を大にして言いたいね。そんなんじゃ、何にも分からんよ、君。
(二〇一一・一二・一二)
3・11の話をしよう。
その日は授業がなかったが、我々教員は会議日で学校にいた。多くの生徒諸君もクラブ活動で登校していた。五〇〇人はいたかと思う。冗談のような話だがその時、大部分の教職員は専門家を招いて「危機管理」講習を受けていた。
長く、これまで体験したことのないような激しい揺れのあと(川崎市中原区は震度五弱)、僕らは中学グラウンドに避難した。余震を、皆で耐えた。地面が波打ち、視界がよろめく。空を見上げると、羽田に降りられないジャンボ機が、低空で旋回を繰り返している。ヘリが飛ぶ。大変なことになってしまったと思った。
ケータイとメールの繋がりは悪かったが、ツイッターのタイムラインと誰かのワンセグで、東北に大津波が発生していることを知った。震源が浅い、と理科の先生方が話していたので、思わず聞いてみた。「浅いと、どうなるの」「爆弾が近くで炸裂するのと同じだよ」…明快な答えだった。
武蔵小杉に繋がる交通機関はストップし、その日は結局二〇〇人ほどの「帰宅難民」の生徒諸君と学校に泊まった。大いに閉口したのが全館の停電で、七時間以上復旧しなかった。学校は家庭用と違い、大容量の別電源らしく、周囲では法政二高と武蔵小杉のタワーマンションだけが真っ暗であった。気温が低く、事務方から石油ストーブが供された。
食料は備蓄していた乾パンと、体育の先生方がとっさに買い集めた菓子類のみで(おにぎりの類いはすぐに店頭から消えた)、誰も温かいものは口にしていない。生徒数は中高合わせて一六〇〇人以上いる。通常の授業日であったならと思うとゾッとする。幸い二〇〇人程度なら、合宿所の寝具で全員分をまかなえた。
生徒諸君はなかなか立派で、食べ物や寒さの文句を誰も言わなかった。もっとも、「被災生活」が一晩だったからかもしれないが。
突然語りはじめてしまったが、この通信は学級通信ならぬ、私(喜谷)の個人通信のようなもので、教科担当のクラスにもバラまいている。国語の教材以外でも、諸子の問題意識を喚起したいという思いがあり、不定期に発行している。授業だけでは、なかなか広範な学問領域はカバーできない。また横断的な知識がないと、評論などは読み込めない。そこでこの通信を使いながら、時事的問題を扱い「このことについて、あなたならどう考えるのか?」と、暑苦しくにじり寄ってみたいと思っている。時節柄、震災や電力の話題が多くなるかもしれないが、お付き合い願いたい。
ところで、3・11のことを唐突に語ったのは、入学式の法政大学総長の式辞に触発されたからだ。内容は覚えているだろうか。増田壽男総長は昨年の震災を受けて、二つのことを諸君らに希望したと思う。まず一点目は「被災地について、気に留め、考えつづけてください」という要望だった。まだ高校生であるし「現地にボランティアに行きなさい」とはおっしゃってはいなかった。被災地のことを考えろ、というのは常に「指示待ち」の諸君らには、なかなか含蓄のある言葉だったと思う。募金なり関係する本を読むなり報道に注意するなり、いろいろと出来るはずだ。そして二点目は「福島第一原子力発電所の事故を受け止め、立ち向かって欲しい」と述べられたはずである。
これには少しく、私は驚いた。「我々老人が(失礼)、今まで電気を無駄遣いしたあげく、深刻な核事故まで引き起こしてしまって、若い世代には本当に申し訳ない」とは、仰せにはならなかったからだ。私などは(今年四二歳)事故後、わけもなく反省し、「ごめんな、オレらのせいでこんなことになってしまって…」と、息子や娘に手をついて謝りたくなっている(彼らはまだ何も分からないので、尚更)。
これは僕らの世代に共通する感覚なのか、テレビで俳優の伊勢谷友介さんが、やはり子どもたちに謝っている場面があった。被災地支援の一環で、延期になった卒業式を手伝っているにも関わらず、伊勢谷氏は「僕ら大人が悪かった、ごめんなさい」とさわやかに言ってのけていた(ああいう男前が謝罪すると画になるが…)。
別に増田総長を揶揄しているわけではない。しかし、この感覚の開きは何なのだと、私などは立ち止まってしまう。中年の私からしても、諸君らはもう「想像もつかないくらい」若い。総長の年代からすると、もはや次代を任せる「未来」の存在なのだろう。謝るよりも、託すという感じか。
しかし、この困難な時代を生きるには様々なことを、これから学んで貰わねばならない。十分に力を蓄えて欲しいと思う。しかも、諸君らの学びの時間に、以前ほどの余裕はない。それほどこの国には体力は残されていないのだ。幻想を抱く場所や、逃げ場所はもう残されていない。式辞からは、衰弱し、もはや若い力に頼るしかないという、この国の現状がすけて見えたような気がした。
初回からトーンが暗くて申し訳ないが、何か総長の言葉が、私には黙示録的に響いている。大人はもう少し若者に寄り添って、希望を見せないといけないんじゃないのと、総長様には言ってみたい。撤退するな、対抗せよと言うならば、その知恵を授けてみせろと、諸君らも言い返してもいいのではないか。
(二〇一二・四・一二)
この不安の時代に、自宅を購入してしまった。三年前のことで、無論妻の希望である。元来、私は鴨長明『方丈記』の精神で一向に構わない人間で、家など欲しくも何ともなかったのだが、せっかくなので設計段階で二つ条件を出した。一つは、どんな権力も及ばない茶室を造ること。もう一つは、精神の自由を担保するための書斎の確保である。前者は狂気、後者は単なるわがままと言われ激しい抵抗を受けたが、結果的に狭いながらも二つの自由を勝ち取った。カアちゃん、すまんかったな。
茶室といっても、湯を沸かす炉はないし、たったの二畳である。我が利休への夢は、単なる狭いタタミ部屋として扱われ、やがて子ども部屋の一部として占領されるのだろう。しかし、書斎だけは今後も死守していきたい。何のことはない、こちらも本棚が何本か入るだけの納戸で、初めて下宿した部屋より小さい。入り切らない文庫や新書は、となりの部屋の壁面をすでに侵蝕している。家人が気づかぬよう、徐々に領土を拡げていきたいと思っている。
さて、今年も学級文庫という教室の「書斎」をスタートしたい。取り組みとしては八年前からで、担任がない年は教科担当のクラスの一角を接収していた。思えば小学生の頃、何年生だったかは覚えていないが、学級文庫があった。朝の読書の時間があったのかもしれない。読み終わったものを寄付した記憶もある。私自身は、小学校の頃は本を良く読んだが、陸上競技とバンドを始めた中学では、ほとんど読まなくなった。高校では、全く些細なきっかけだが、ねんざで接骨院に通った一時期から、電気治療の時間がヒマなのでまた読み始めた。音楽をやっている人間は皆、村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』と夢野久作『ドグラ・マグラ』を何故だか読んでいた。
一部の二高生の読書量はものすごい。不勉強な教師の何倍も読んでいるのではないかと訝るほど、ライトノベルを、純文学を、哲学書を、歴史小説を手当たり次第に乱読している賢者がいる。しかし大半の諸君は驚くほど読んでいない。新聞も読まない。本屋にも行かない。本って、買うんですか? と意味不明の妄言まで、ときに飛び出す。名のある大学の付属校生の発言とは思えない。前言を撤回して頂きたい。
国語教師としては、読書の効能とその有用性について一席ぶつべきだろうが、最近は「勝手に読めよ」と思っている。無理に勧めたところで、余計に本嫌いになっても仕方がないし、せめて良書といい出会いをしてもらいたいと願うばかりだ。
先日遅ればせながら、代官山の蔦屋書店に遊びにいった。三棟の書店にそれぞれ、映像/音楽のスペースとカフェが併設され、周囲にはカメラ、自転車、雑貨を扱うショップが居並ぶサブカル中年には理想の空間であった。ノマド(オフィスを飛び出し働く場所を選ばぬ会社員?)を気取ったオッサンたちが、書架の間に設置されたテーブルでMacbookで何やら仕事をしている。
私も、本とiPadがあれば、瞬時に結界を張り、どこでも自分の精神世界を構築できるタイプである。性格は暗いのかもしれない。しかし、人生は孤独でダラダラと続いていく。バカ笑いの中で過ぎ去ってくれればいいが、そうはいかない。喫茶店で一人放心するか、茶室で瞑想しているフリをするか、書斎で難問を前に呻吟するか、つまりは誰もが自分と向き合わざるを得ない。精神の牙城は、やがて必要になる。
文庫のラインナップは順次増やしていくつもりだ(他クラスの方も覗いて下さい)。借りても構わないが、気に入ったジャンルが見つかれば、是非身銭を切って買って欲しい。そして、諸君らはまず、しっかりとした本棚を部屋に据えるべきではないか。端から順に読破したコレクションを並べていく。それが「子ども部屋」から「書斎」への脱却の一歩となるであろう。
(二〇一二・五・七)
昨年の夏は、家族旅行で紀伊半島を目指した。大阪の実家から、陸路で那智勝浦は特急で三時間半かかった。不便な土地を目指したのは、子どもの頃、祖父に連れて行ってもらった忘帰洞という温泉が忘れられず、海が見える風呂を娘に見せてやりたかったからだ(温泉の名は、紀州藩当主の徳川頼倫が訪れ「帰るのを忘れるほどである」と激賞したことに由来する)。
宿はカメの遊覧船で玄関に乗りつけるホテル浦島で、件の温泉以外にも泉源が五つもある。三〇〇〇人を収容できる巨大施設に娘は大興奮、洞窟からの太平洋の眺めは、絶景かな絶景かな、露天風呂は妻にも大好評であった。
しかし、いかんせん予算はオーバー気味であって、今夏は法政大学の保養所を利用する慎ましやかな旅行を計画している。ロマンスカーと登山鉄道で、倅(一歳)が喜んでくれるといいのだが。
勤め人を長年やっていると、いつもこう思う。どこかに行きたい。自転車通勤のハンドルを握りながら去来するのは、ボードレールの言葉だったか「ここでなければ、どこでもいい!」という衝動だ。ブツクサ言いながら、正門を始業時間ギリギリで通過する。
高校生くらいだと、兄弟が社会人や大学生なら、そろそろ家族旅行が廃止されているのかもしれない。クラブも忙しいし、合宿以外にこの夏「どこにも行かない」という事態もあり得るだろう。遠征や試合がない文連や無所属の人は、なおさら出掛けないかもしれない。「いやー、暑いのに頑張ってるね、高校球児」とか言いながらテレビの前で涅槃のポーズ、四〇日間クーラー漬けなど最悪だ。そんな君には、古典的にJR時刻表を謹呈したい。
ところで、人は急に旅慣れるわけではない。二高の卒業生で、大学入学早々に休学し、突如インドに行ってしまった無鉄砲な者もいる(教師としては少し心配)。報道カメラマン志望だった私の従弟も、親に黙って東南アジアを放浪するのが趣味だったが、いつかは現地で原因不明の高熱により入院、強制送還と相成った。国外で大ハズシする前に、近場でトレーニーングは積んだ方がいいだろう。
もっと旅行に行っておけば良かったというのが、私の青春期の後悔の一つだ。夜中に、BSで旅番組をボーっと観てしまうのはそのためだ。高校一年生では、一人旅はまだ早いかもしれない。保護者と相談しながら(費用も援助してもらって)、グループで無理のない計画を立ててみたらどうだろうか。
旅行は、実は計画している時間が一番楽しい。パッキングや宿の品定め、列車の時間を調べるときから、もう旅は始まっている。 (二〇一二・七・二一)
この空も、大地も、海も、誰のものでもない。そうつぶやくと、何やら原始共産主義的だが、自分がまかり間違って、土地付き一戸建てなどを買ってしまったので、ことさらそう思う。
生まれた時から四〇年近く、ずっと借家に住んでいた。実家は未だに借地の上に立っているし、共同の下宿やアパートを渡り歩くのが独身時代だった。自分が家を持とうなどとは夢にも思わなかった。
銀行で沢山の書類にハンコを押し、いびつな形の土地を手に入れたが、「自分のものだ」と所有している実感はほとんどない。もっとも、まだ花壇のスペース分くらいしか金を払っていないが。
奇妙なのは、交渉次第で土地の価格を「値切る」ことができたことだ。リンゴやバナナなら、古くなったら値下げ札が付くのは当然だ。しかし、何故土地が所有者と不動産屋の「稟議」の結果、簡単に一〇〇万円単位で値が下げられるのか。ありがたいにはありがたいが、逆に全く仕組みが理解できなかった。モノポリーでもあるまいに、元々値段など、あってないものではないのか?
土地が虚構なら、民族や国家も「想像の共同体」に過ぎない。自分は「日本人」などと思い込んでいるのは近代以降の人間で、江戸時代の農民の頭の中には日の本も幕府もなく、自分の周りの田んぼと、漠然とした「お上」への恐れしかなかったはずである。国旗や国歌という共同幻想でヒートアップするのは、たかだかこの一〇〇年ほどの新しい喧嘩のルールである。
テレビでは日本車がひっくり返されている。反日のプラカードと、毛沢東の肖像、五星紅旗。
上記は、尖閣諸島と竹島と北方領土問題でガタガタ揺れている東アジア情勢を受けての雑感、である。実行支配している場所と、実行支配されている場所、一方的な不可侵条約の破棄の末占領された場所、と三つの場所は全く歴史的経緯と位相が異なる。にわかナショナリストを気取るのも宜しいが、まずは近代史の流れが頭に入っていないと、何も言えないはずである。
さらに米国と日本の関係、戦後補償、人権意識の世界的変化(従軍慰安婦問題)が複雑に絡み合う。「中国と韓国と、プーチンがむかつく」という感情論は誰でも言えるが、何も言っていないに等しい。幸い「ネット右翼」的な発言は、今学年では聞かない。借り物の憎悪を、振り回す必要はない。北方領土はともかくも、大体、尖閣諸島や竹島の場所など騒動以前は知らなかった人がほとんどであるはずだ。一般人が口にする「国益」「外交」というコトバも、私には非常に空疎に聴こえる。
テレビでは日本料理屋が襲われ、暴れる群衆に向かって人民警察が催涙弾を打ち込んでいる。
グローバリズムによって楽々と国境を越えていったはずの企業が、略奪や打ち壊しや工場操業停止の憂き目に遭っている。被害総額二四億円という破壊されたイオンの惨状を観て、私も強い憤りを感じるが、一番困っているのは中国共産党の幹部のはずである。二一世紀の天安門事件は、中華人民共和国の分裂・崩壊を意味する。振り上げた拳を収めたいのは、一体誰なのか。日本製品をボイコットしても、中身は中国製である。経済活動は、良い意味ですでに国境線を消し去っている。
テレビでは明日の反日デモはもっと大きなものになるとの懸念を、誰かが言っている。
二〇年ほど前に、父と西安まで行ったことがある。古都の城壁を散策していると、老人から日本語で話しかけられた。「あなたが今度ここに来る頃には、もっと中国は発展していますよ。きっと景色もかわっていることでしょう」 あまりに綺麗な日本語の発音に、私は思わず答えに窮した。
あの島は誰のものか。あの月は、太陽は、雲は、雨は、風は、誰のものか。
(二〇一二・九・一七)
難しい課題に取り組んだ。何しろ、吸血鬼、である。
世間では岩井俊二と辻仁成が、映画と小説でそれぞれヴァンパイヤを題材にした作品をこの時期リリースしているらしい。ティム・バートン&ジョニー・デップの『ダーク・シャドウ』もレンタルが開始されている。
しかし、真正面からぶつかってしまうと、その世界観は異常に暗いものであった。この落とし穴には、途中で気づくことになる。ドラキュラの起源が神への反逆であり、存在自体が迫害の対象なのである。キリスト教社会では、血や失った女への妄執にかられる怪物は、悪や闇の象徴なのだ。だから、まあ先行作品は大抵がドロドロとしている(復活しないように杭を胸に打ち込まれ、首を落とされる陰惨なシーンを観たときは、大いに閉口)。
血の交換が、性愛の交歓の隠喩であることは当然のこと、したがってちょっとイヤらしい作風も多い。もちろん、それを「人間性」の最もあからさまな部分と呼ぶことも出来るのだが。
参考のため教室に置いた、手塚治虫の怪作『ドン・ドラキュラ』はこれらを全て逆手に取り、徹底的に喜劇であった。ニンニクや十字架といった定番アイテムは笑いの対象に、伝統的な家柄はギャグにされ、伯爵の情欲を消すために、娘のショコラまで登場する。愛娘の前では、彼はそうそうバカなマネは出来ない。呪われた存在であるはずの吸血鬼で、親子愛を表現する、さすが、巨匠。
さて、東北の妖怪ならぬ、我がクラスのヴァンパイア伝説『吸血鬼の吸日——終わらない未来』は脚本作りの段階から相当に難航した。若干、反省の弁を述べさせていただくと、担任が劇としてのハードルをむやみに上げてしまったかもしれないと、今では思っている。相すいませんでした。
他クラスは「学園物」あるいは「若者の群像劇」がほぼベースだが、私は真っ向から否定した。だって、現実離れした世界を描く方が、絶対に面白いじゃないかと。まとまらないクラスが一つの事件をきっかけに結束し、学園祭を成功させる劇、とか全然つまらんではないですか諸君、などと煽りすぎたかもしれない。申し訳ないことです。
また、ナレーションや「説明的台詞」も高校演劇ではありがちだが、これも排除を指示した(しかし、後半の公演ではナレーターが勝手に登場しましたね)。脚本チームは相当に苦労したかと思う。現実と異界を行き来するという物語の基本的なパターンを使ったが、棺桶と灰で人間界とドラキュラ界を移動するアイディアはなかなかだったと思う。
結果的には傷ついた人たち、妻を失ったブラッドレー、お母さんを失ったジュニア、恋人を失った不幸な女(マキコ。委員長?)が、擬似的にではあるが家族を再生していくという結末を導き出すに至った。他クラスでは「死人」がほとんどいなかったが、この劇には「もう朝だったのかぁー」という絶叫と共に灰になってしまったアーヴィングを含め、四人の死者がいたことに観客は気づいただろうか。暴力と死を痛みでもって表現しなければ、真の愛は生まれないと、今は大見得を切っておきたい。残酷な視線を抱え持ってこそ、文芸作品である。死んだ妻に別の女性を重ねあわせるきゃりーぱみゅぱみゅ伯爵と、母の復活を誓うジュニアのそれぞれの愛の形は、本年度二高祭の文化テーマ「継続」に合致していたと、担任としては確信している(アーヴィング氏の憎しみの「継続」も)。
他クラスの劇を見て思ったのは、大道具がほとんど無く(あるいは、市販のライトセーバー)セットらしきものは、背景画があるくらいであった(すいません、背景画も否定致しました。謹んでお詫び申し上げます)。我がクラスの棺桶(2号棺は使われなかったが…)と、ほとんどオートクチュールの如き立体成型マントは、それだけで高評価の対象となると思ったのだが。加えて、音響班の効果音や音楽の指定は、どのクラスよりも野心的でセンスが良かったかと思う。暗転を上手く使った、照明班のシンクロも秀逸であった。
役者陣は、照れずにやりきる二中出身者、おそらく初めての演技である何人かの諸君、そして「女優陣」に賛辞を送りたい。見渡してみると、女性が物語のキーになっているのは、八組の『マッチ売りの少女』と、我が一一組だけであった。スカートやカツラだけで「女の人に見える」ということが、記号性の最たるものであるので、「教育的」にも女装はどのクラスも取り入れてみるべきであると、個人的には思っている。野郎だらけの網走番外地や、戦艦大和第一艦橋内の密室劇をやるならともかく、登場人物が全て男性であるというのは華がなく、味気ない。物語に通常はヒロインは必要であると思うのだが…。
まあ、これに懲りず、来年も是非劇とか活動的な企画をやって欲しい。男だらけのデタラメな狂想曲が奏でられるのは、男子校だけの特権だ。タピオカとか饅頭を売っても、野蛮な爽快感は得られないはずである。
来年はより非現実な、例えば東北の震災と復興の遅さを憂う泣き河童の集団左遷や、南極点を目指す登場人物がほとんど全員犬のアムンセンとスコットの戦いや、キングギドラ対徳川家康や、無言劇や、中国語劇や、基本無生物しか出てこないロボット同士の悲愛など、より荒唐無稽なものを見たい。日常から飛翔し、離脱する、より強い表現を求む。二高生の野蛮な力なら、それが可能なはずである。
(二〇一二・一一・二)
以下余談:オープニングにふさわしい、何か猛烈に悲しい曲がないかということで、担任の方から音源を渡したのは渋谷慶一郎『for maria』だった。僕らエレクトロニカ好きには、グリッチ音バリバリの電子音楽家というイメージが強かったが、昨今はピアノだけの作品もリリースしている。諸君らにはドラマ『spec』の主題歌が親しいかもしれない。
﹃for maria』は彼が主催するレーベル「ATAK」の一五枚目のアルバムに収録された曲で、亡くなった妻への鎮魂歌となっている。一音一音に、何か祈りが込められているような繊細なタッチの曲であるのはそのためで、愛する人を失ったブラッドレーとジュニアの悲しみを伝えるために、あえて御登場願った。
渋谷氏は3・11後の支援活動のアクションも早かったし、反面ツイッターでは意味不明なつぶやきが多いし、何か吹っ切れたような魅力がある。エレクトロニカの作家としても相変わらず先鋭的だし、最近好きなアーティストの一人だ。
作家の平野啓一郎さん(@hiranok)が以前ツイッターで「明治維新にせよ、昭和維新にせよ、テロとは切り離せない。『維新』という言葉を政党名に掲げることには、ものすごく違和感がある」とつぶやいていたことがある。僭越ながら、私も同感である。成功した前者も、失敗に終わった後者も、またそれらを模倣した三島由紀夫の最期も、「維新」とは全きの血みどろの道である。
一昨年大ヒットした大河ドラマ『龍馬伝』を観た諸君なら分かると思うが、国を憂う気持ちがあっても、志のある者たちが、全員同じ方向を向いているわけではない。したがって、あらゆる党派や集団において裏切り、すれ違い、仲間割れがわんさと起こり、誰が敵か味方か分からぬバトルロワイヤルが、繰り広げられることになる。ミスリード、暴走、妄執の結果、流さなくてもいい若者の血が大量に流された、それが明治維新である。「尊王」か「佐幕」か、「攘夷」か「開国」か、「大政奉還」か「武力倒幕」か、思想や政治潮流が短いスパンで複雑に変化していった。京の町を我が物顔で闊歩していた新撰組が数年で滅び、「軍事同盟(薩長密約)」と「平和的解決(大政奉還)」を同時に成し遂げた坂本龍馬が皆に恨まれ殺されたのが、その好例であろう。時代の空気は狂気をはらんでいたのである。
戊辰戦争の規模は、世界史的に観ればひょっとして「無血革命」に近いのかもしれない。しかし、平野さんも違和感を示す維新のテロリズムとは、本当に嫌なものだ。気に入らないから殺す、名を売るために殺す、邪魔だから殺す、自分が権力を握りたいから殺す。あげく殺していった者たちが、さらに強い者に捕えられ、殺される(人斬り以蔵!)
昭和維新とは一般的に、五・一五事件や二・二六事件のことを指す。一方は海軍の、もう一方は陸軍の要人殺害テロである。当時の地方経済の疲弊や、財閥の腐敗など、二・二六の青年将校たちが立ち上がった背景は十分に理解出来る。しかし、所詮は命乞いする者に銃弾を撃ち込む、容赦なき殺人である。このあと、この国は軍部への恐怖から、急速に国家主義的な体制に移行していく。
﹁一人一殺」を標榜するテロ集団がひき起した血盟団事件(井上準之助、團琢磨を暗殺)は、昭和維新の先駆けである。それを模した『奔馬』(『豊饒の海』)の執筆後、作家・三島由紀夫は自身でもその事件をなぞろうとした。自衛隊の駐屯地で人質をとった上で、憲法改正とクーデターを訴えたが失敗し、自決している。三島の場合は、人を傷つけるということも、また自刃することも(テロルが失敗することも含み)確信的であり、「維新」が決して発動しないことを見越した上での計画立案であった(と私は思っている)。
歴史を少しでも齧ったことがある者ならば、上記のことくらいは全て知ったことであろう。日本史の教科書に載っているレベルの話ばかりである。「維新」という言葉から想起されるのは私の場合、山内容堂に切腹を命ぜられた武市半平太や、天皇に怨嗟の言葉を残して処刑された磯部浅一一等主計や、三島と死んだ早稲田の学生・森田必勝の、それぞれの壮絶な最期である。「維新」とは、近代日本の思想が抱え持つ、最も暗い源流の一つである。
今は閉塞感のある時代であるから、「維新」と呼ばれる「変革」に期待がかかるのは、当然である。だが、しかし。
歴史は繰り返される、か?
(二〇一二・一二・一三)
アベノミクス(インフレターゲット二%上昇、大胆な金融緩和、公共事業への財政出動)への「期待感」によって、株価が上昇している。昨年の七〇円台という見たこともないような異常な円高から、ようやく脱する傾向にあり、年が明けてからこの国はプチバブルの様相を呈している。
全く、結構なことだ。
しかし僕らの世代は、バブル経済が崩壊する恐怖をイヤと言うほど知っている。
世間では一九七一〜七四年生まれを「貧乏くじ世代(ヒドい言われようだ)」と呼んでいるらしい。私は七〇年生まれだが、一浪しているので大学卒業年度は七一年組である。
当時、地方の公立大学でも一年、二年先輩からは「会社はどこでも入れる」「楽勝だよ」ということしか聞いていなかった。元々、私は就職するつもりがなく、他大の大学院か専攻科(教員免許がグレードアップするコース)に逃げるつもりでいた。フリーターという言葉も肯定的意味合いで使われ、世の中は総じて楽観的であった。高校時代も、就職の心配をしたことは誇張なしに一秒たりとも、ない。
異変に気づいたのは、大学三年(九二年)の夏休みあたりだったろうか。帰省時に大阪でアルバイトを探したが、その年は一気に働き口がなくなったのだ。以前は、母が勝手に探しておいてくれて、困ったことなどなかった。しかも、バイト先の社員が「一応、ウチも商社みたいなもんだから、大阪で就職するなら考えといてよ」とパンフレットをくれるような完全に売り手市場であった。学生が企業を選ぶ時代だったのだ。それが、街からアルバイト口が消えていった。仕方がないのでその夏は、ビルを壊す作業や、競馬の予想チラシの配布や、冷凍倉庫に半日入って仕分けや、学校の床板を延々運ぶなど、無茶な仕事ばかりやった。
これも今では考えられないことかもしれないが、バブル崩壊以前は、学生の下宿にリクルート社から就職活動の資料がダンボールで何度も送られてきた。男女ともに、である。それが、僕らの代から、男子学生にしか送ってこなくなった。困ったのは女子学生である。就職活動に必死で真面目な女の子たちは、私の部屋に来ては「喜谷君、就職しないからいらないでしょ」と、ダンボールから企業説明会のハガキをむしり取り、郵便局に走っていった。「楽勝」のはずのレースに、エントリーも出来ないのである。
この九三年は就職氷河期と呼ばれ、次年(七二年生まれが卒業)は超氷河期、その次の年は名称すらなくなった。未だに非正規雇用に近い状態の後輩が多いのは、この時期に大学を出て派遣(社員)の生活が長かったためである。
さて、なぜこんな話を書くのか。
それは最近、就職活動を苦に自殺する若者がいるという報道に接したからである。ここ数年倍増しているという。いやいや、ちょっと待ってくれ。では、三〇歳でやっと就職した私などは、どんな顔をして外を歩けば良いのか? 控えめに言って、世の中は実に辛いことばかりである。しかし、就職出来なかったからといって、死ぬことはない。別に仕事だけが人生ではない、くらいに考えていいのではないか。職業がないからといって、命を絶つ必要などどこにもない。
(二〇一三・一・一七)
雑談から授業に入る現在のスタイルが確立したのは、教員生活三年目あたりからで、その頃から生徒に文章をボツボツ配り始めた。
新人の頃は、保護者から学級通信を発行してくれと要望があっても、応えることはなかった。仕事も覚えていなかったし、まだ教育の場で語る言葉が自分の中でもなかったからだと思う。
通しナンバーのこの通信は、二〇〇七年から発作的に始めた。
執筆に際しては、裏ルールがある。公人を除いて、他人の悪口を書かないこと、人を傷つけないこと、なるべく平易な表現を用いること、ポジティブな態度を取ること、などである。
批評や文学研究は、云ってしまえば、他人を罵倒する千日行のようなもので、最近そっちの本業は自分に向いていない気もする。(昨年、加藤典洋さんから「あなた方がやっていることは、スターリニズムだ」と面と向かって云われ、以来落ち込んでいる。)
ところで、手軽に出版出来るBCCKS(http://bccks.jp/)の存在は前から知っていたが、登録した後、長い間放置していた。しかし一度編集を覚えると、打ち込みで音楽を制作するときのような中毒性があり、数週間で校正まで終えてしまった。
小ロットOK、価格も安く、ブラウザでエディットするところも画期的だ。
厄年をやり過ごし、震災からもう二年近くも経ったので、ちょっとここらでコラムをまとめたい気になった。
装丁から何から、全て一人でやったので謝辞はありません。
いや、いつも私の文章を読んでくれる皆さん、どうもありがとう。
二〇一三年三月
喜谷 暢史
十三年前、私も非常勤講師として法政二高の教壇に立っていた。大学を卒業したばかりで右も左も何も分からなかったその当時、喜谷氏からはいろいろとアドバイスを貰ったことを今でも覚えている。
そのころから、氏の論考やエッセイなどを読ませてもらっていた。今回この様な文庫版となりまとめて読む機会を得たが、氏の文章は当時と変わらず「男」臭さに満ちている。十年以上も前に中島敦の「李陵」の読書案内か何かを読ませてもらった。それもかなり「男(漢)」臭かった。そのころと喜谷氏の語りの軸足は全く変わっていない。簡単言えば氏の文章は『男による男のための文章』である。
私が個人的に惹かれたのは、酒を飲めない者(飲んではいけない者)に酒飲みの作法を説いている所だ。私の高校時代にもこういう個性的な国語科教員がいた。「お前ら、酒はちびりちびり、味わえないといけない。人生も同じだ。」授業中にどのような経緯からそういう話しになったのかは覚えていない。高校生相手に酒飲みの哲学を説いていたその教員を私は「一週間パイロット」を読みながら思い出した。
もちろん、「一週間パイロット」の基本的読者は二高生なので筆者は、きちんと酒を飲んではいけないよと提示している。立場上、一応注意はするが、でも酒くらい飲んでもいい。ただし、面倒なことにならないようにしておけ。そして、酒と肴について最低限こういうことは知っておけとでも言っているようである。(私個人の曲解か?)
また、「一週間パイロット」では食に関する下りが多くあるが、それは『池波正太郎「男の作法」』を想起させられる。恐らく、最近の男子高校生で『池波正太郎「男の作法」』を手に取る者はそういないだろう。「一週間パイロット」はそのような大人の男のテキストのような役割も果たしている。
﹁一週間パイロット」は筆者の豪放磊落な語りの一方で、実はそれぞれの立場の人たちへの細心の配慮も伺える。この様に、豪胆なようで繊細な心配りも「一週間パイロット」と筆者の魅力ではないだろうか。
﹁一週間パイロット」全体のメッセージは一つである。「若人諸君、世界に目を向けよ」「世界を広げよ」ということだ。喜谷氏の言葉は時に情熱的でありまた攻撃的でもある。若い諸君に対してのアジテーション(扇動)は脈絡ないように見えて、一貫して世界に目を向けることを伝えている。そして、世界との向き合い方も教示している。それが例え、いま分からないとしても氏の言葉は年を重ね、酒の味が次第に分かってくるように徐々に後から効いてくるだろう。
もうしばらくすると、法政二高は今までとは全く別の学校になる。男子校から共学校に変わるということは、定食屋が「冷やし中華始めました。」と新たなメニューが加わる程度の変化ではない。まったく別の店舗へと変貌する。その中で、喜谷氏の基本的スタンスが変わることはないだろうが、『男による男のための文章』は女子生徒相手にどのように進化を遂げるのか、今後が楽しみである。
喜谷 暢史(きたに・のぶちか)
1970年大阪生まれ。法政大学第二中・高等学校教諭。
編著書
共著「〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論へ〉 評論編」(右文書院 2003.2)
共編著「千年紀文学叢書6 体験なき『戦争文学』と戦争の記憶」(皓星社 2007.6)
共著「〈教室〉の中の村上春樹」(ひつじ書房 2011.8)
共編著「千年紀文学叢書7 グローバル化に抗する世界文学」(皓星社 2013.4)
共著「『読むこと』の術語集 文学研究・文学教育」(双文社出版 2014.8)
日本文学協会、千年紀文学の会、日本近代文学会所属。
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2014.04.22
【データ本】無料:新書版 196㌻ 1.8MB
【EPUB】無料:1.9MB
【紙本】販売中 新書版 196㌻ 1,070円
暴力表現の〈根拠〉へ――
2003年から10年間の文芸時評/映画評を集めた著者初の文芸論集。初期のエッセイも収録。
島田雅彦/ウォン・カーウァイ/樋口真嗣/藤田嗣治
黒木和雄/クリント・イーストウッド/GACKT
村上春樹/村上龍/池澤夏樹/黒澤明/忌野清志郎
庵野秀明/トラン・アン・ユン/南木佳士/会田誠
富野由悠季/イエス小池/加藤典洋/三島由紀夫
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2013年4月22日 発行 2014年8月22日 五刷
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一九七〇年大阪生まれ。共編著「千年紀文学叢書第7集」(皓星社)、共著「〈教室〉の中の村上春樹」(ひつじ書房)など。