開港の街、横浜。日本大通りの銀杏並木で出会った一樹と華奈子。この人との出会いが私の運命、といった華奈子の恋も、とある誤解から失意の底へ。離れてしまった心を取り戻そうと、一樹は彼女への想いを小説に書き始める。
───────────────────────
───────────────────────
|1|
郵便局に行った帰り、日本大通りの銀杏並木を歩いていると、秋晴れの青い空と黄色く色づいた銀杏の葉のコントラストが鮮やかで、まるで絵画の中にでも迷い込んだような美しさに見惚れてしまう。
開港からほどない明治初期に整備されたという、並木を配した欧州型の広い歩道。大正末期の震災や昭和初期の戦争などの歴史を経て、現在もなお時代の流れを見つめ続けている。
二十一世紀になってみて思ったことがある。子供のころに想い描いていた未来にはまだ追いついていない。車が空を飛び、他の惑星へ銀河鉄道が走り、ロボットが活躍するアニメに出てきた二十一世紀の未来都市とは違う。それでも都会では高層ビルが建ち並び、その間を高速道路が奔っている。あの未来予想図に時代は追いつくのだろうか。
この場所では、並木の風景を写真に撮る人や、イーゼルを置いて絵を描く人、小さな子供を連れた若い母親たち、様々な人々が並木のもとに集う。それぞれに、この昼下がりのゆったりとした時間と風景を愉しんでいる。
やはり、この場所に決めてよかったと思う。ここに来る前は、山手線の恵比寿駅の近くに事務所を借りていたのだが、締め切りに追われながら執筆の仕事をしていると、いつの間にか気持ちがささくれ立ってくるのを感じるときがあった。だがこの街に移転して、不思議とそれがなくなったように思う。
石畳や洋館のある風景、港の潮風など、開国から日本の歴史を刻んできたこの街では、時間の流れかたが違うように思える。やはり未来にもこの風景は残して欲しい。
歩道にある低く作られた柵に腰を下ろしてみる。周囲には古くからこの街を見守ってきたレンガや石造りの重厚な建物が並ぶ。耳を澄ませてみると、その建物たちから古い時代の街の喧騒が聞こえてくるように感じる。
ひらひらと舞い落ちてくる黄金色の葉を追いかけながら、歓声をあげて走りまわる小さな子供たちを微笑ましく思いながら眺めていた。
「子供、お好きなんですか?」
頭上から柔らかい声が降ってきた。
どこか懐かしいような、それでいて聞き覚えのある若い女性の声だった。まさか銀杏の精霊でもあるまいにと顔をあげてみると、そこにはひとりの女性が微笑みながら立っていた。その女性は、僕からはちょうど見上げる格好で太陽を背にして立っていたため、シルエットだけが最初に目にはいってきた。まるで後光のさした女神か菩薩像のようだった、というのは言い過ぎだろうか。
「私も大好きなんです」
「へ?」
突然のことに状況がのみ込めず、我ながら間抜けな返事をしてしまった。
彼女は微笑みながら、僕の横に並んで座った。陽射しの加減で判らなかった彼女の顔がようやく見えた。神仏ではなく、生身の人間であるのは間違いないようだ。
どこかで会ったことがあるような気もするのだが、それでも僕には天女が舞い降りてきた、としか思えなかった。
「カプチーノお待たせしました!」
きょとんとしている僕に、笑顔で彼女はそういった。
彼女の言葉で、珈琲の薫りとともに店内の風景が脳裏に浮かんできた。
「あ!」
そうだ。
「やっとわかりました?」
「あ、そうか! そうだよね!」
人の顔や名前を覚えるのが不得手な僕は、そこでようやく気がついた。いつもの珈琲ショップの店員さんだ。事務所のあるビルの一階がその珈琲ショップで、僕はよくカプチーノを注文する。可愛い娘だなと思っていたが、制服姿の彼女しか見たことがないのと、店の外であることの二つの要素が重なり、まったく気がつかなかった。
「萩原さん、だよね?」
なかなか人の名前を覚えない僕でも、制服の胸についているネームプレートで彼女の名字だけはすぐに覚えた。
「あ、オギワラです。よく間違えられるんです。オギワラ・カナコです」
僕の中途半端な自信は見事に玉砕し、歩道に舞い落ちる枯れ葉のごとく、はらはらと散った。作家ともあろうものが字を読み違えていた。ノギヘンではなかったのか。因みにカナコの字は「華奈子」と書くそうだ。
「青山先生、子供お好きなんですか?」
どうやら、僕が作家・青山一樹であるということは承知しているようだ。
ただ、僕には先生といわれるほどの功績もなければ風格もない。そもそも先生という柄ではない。たまには取材などでスーツやジャケット姿のこともあるのだが、普段はなり振り構わずに履き古したジーンズといった格好だ。作家という仕事柄、ひとりで事務所に籠ってただひたすらにキーボドを打つだけの日々だから、できるだけ楽な格好が一番いい。三十路に入ったばかりの独り身であるからして、洗濯も簡単に済ませられアイロン掛けの手間などかからないものがいちばんだ。今日もTシャツの上に長袖のシャツだ。しかも古着屋でもそろそろ難色を示すくらいの代物だ。
「先生っていうのはやめて欲しいな。子供は好きだよ」
僕の要望と、彼女からの質問に同時に答えた。
「はい、それじゃ青山……さん、でいいですか? 私も大好きなんです」
そういって、彼女は少し首を傾げるようにして微笑む。
先生の件は解決したようだが、顔と名前を知っているだけ(彼女の名字を読み間違えてはいたが)で、まったくの他人ともいえる相手から急に『好きです』といわれても困惑するだけだ。彼女はその気でも、こちらの心の準備というものがある。
「あ、子供ですよ。先生、子供のことです」
僕のにやけた顔に浮かぶ困惑の表情を読み取ったのか、慌てて彼女が補足した。僕の舞い上がっていた自意識は急転直下、深海へと沈み込んでいった。
「ごめんなさい、また先生っていっちゃいましたね」
謝るほどのことではないのだが、謝意とは反して何やら彼女は楽しそうだ。こちらもついつられて笑顔になってしまう。彼女の生まれもっての性格なのか、ショップに勤めるうちに自然と身に付いた仕草なのか。後者の場合、顔は笑顔でいても目の表情が違うのだ。彼女の笑顔は、洗い立てのシャツのように爽やかな心地よさを覚える。
「笑顔が、素敵だね」
つい、口から出てしまった。日常から使い慣れていない言葉だったので、まるでドラマのなかのセリフのように聞こえる。僕にはカッコよすぎて似合っていない。そう思うと、妙な緊張から手に汗をかいていた。
「せ……、青山さんも素敵だと思います。笑顔」
先生といいかけて慌てて訂正したが、どうやら彼女にとっては「先生」の方が呼び易いようだ。気持ちの内側から溢れでてくる爽やかな彼女の笑顔をみていると、どう呼ばれてもいいような気がしてくる。彼女の声が耳朶にふんわりと心地よい。
「漢字で先生だと『学校の先生』みたいだから、カタカナで『センセ』にしたらどうですか?」と、彼女が言う。
どちらにしても耳に聞こえる音としては同じようなものだが、確かに漢字だと、どうしてもイメージが硬い。それに比べてカタカナだと、だいぶ硬さが砕けて言葉のもつ比重のようなものが軽くなるような気がする。
何だか騙されたような気もするが、それでよしとする。
「それじゃ『センセ』でいいですね」と言って、彼女は小首を傾げて微笑む。
「今日は、仕事はお休み?」と、訊いてみた。
「早番で、さっきあがったところです」
考えてみれば、あの店は早朝から深夜まで営業しているのだから、早番と遅番のシフトくらいあるのが当然だ。今まで、そこで働く従業員の勤務時間を気にしたことなどがなかった。
「それじゃ、これから家に帰るところ?」
「はい。でも本屋さんに行ってから帰ろうかと」
「あ、そうだ。僕も行かないと」
すっかり失念していた。雑誌のコラムに書くための資料を探さないといけなかったのだ。幸い財布は持っていたから、このまま書店に行けばいい。
「どこの書店?」と、訊いてみた。
彼女は伊勢佐木町にある大きな書店に行くというので、散歩がてら一緒に行くことにした。あそこなら資料になる書籍も数多くある。
馬車道を抜けて伊勢佐木町に向かう道すがら、自己紹介とも身上調査ともつかぬような話をしながら歩いた。
彼女は沖縄出身で現在二十四歳。大学入学を機に上京し、厳しい状況のなかでも何とか就職したのも束の間、今年の春先に会社が倒産。再就職先を探しながら、ひと息つこうと入った珈琲ショップの「社員募集!」の張り紙をみて面接を申し込んだところ、即日採用となり、現在に至る、とのことだった。
僕も、ここに越してくるまでの経緯を簡単に語った。
「まさかセンセと、こんなふうにお話できるなんて思ってもみませんでした」
雑誌の短編とコラムなどがポツポツとはあるが、小説家としての出版作品数はまだまだ少ない。大増刷もなければ、有名どころの受賞経験もない。新進気鋭というにはあまりにもおこがましい、つまりは無名の、いや「売れない作家」というのが妥当な自己評価であろうと思っている。
そんなこれまでの僕の作品を、彼女は全て読んでいるという。作中の好きな登場人物や台詞、著者ですら覚えていないような細かな描写などの感想を話してくれる。
そこまで読み込んでいることに感心してしまう、と同時にそんな感じ方もあるのかと新しい発見に刮目する。嬉しいというよりも、むしろ申し訳ないような気持ちになる。
彼女はとても愉しそうに話し、何やらまわりの空気がとてもふわふわとしている。そよ風にのせるように彼女の言葉がキラキラと舞う。
並んで歩いている僕もその煌めく空間の魔術にはまり、ふわふわと心地いい。もう少し、このまま彼女と並んで歩いていたい、という気持ちが膨らんできていた。だから書店の看板が見えてきたときには「何故こんな近くにある。もう少し遠くにあれば、この至福の時が長く続くのに」と、恨みに思ってもみた。しかし、僕が産まれる前からこの場所にあるのだし、書店に何ら責任はない。恨みに思うのはお門違いも甚だしい。
そうこうしているうちに目的地に到着してしまう。まことに残念だ。
彼女は一階のフロアでいくつか見たいものがあるというので、僕は四階の医学書のフロアに向かう。医学書といっても、医学部出身でもなければ医療に通じているわではないので、分厚い医学用語が羅列された専門的な書籍を求めているわけではない。疾病やウィルスなどのいわゆる「病気」ではなく、近年の病院の経営手法や、医師、看護師の労働環境、医療過誤による訴訟や裁判、などといった命に対峙する側の「病い」にフォーカスするコラムを書くための資料だ。
あらかじめインターネットで調べて目星はつけておいたので、三冊ほど資料になりそうな本を手にとり、そそくさと会計を済ませる。
一階に降りてみると、ファッション雑誌と単行本を胸に抱えてレジに向かう彼女の姿を見つけた。背筋が綺麗に伸びた、とてもしなやかな歩き方だ。まるでハミングでも聞こえてきそうなくらいにこやかな横顔を見つめるていると、息をすることさえ忘れてしまいそうだ。
実際、僕は我を忘れて彼女に見入っていた。息苦しくなって我に返るまで、本当に呼吸するのを忘れていた。
誰も僕のことなど見てはいないのだが、気恥ずかしくなって、「まいったなぁ」などと小声でぶつぶついいながら彼女のところに歩いた。
僕に気がついた彼女は、少しだけはにかむように微笑んだ。「今日、やっと入ったみたいです」
そういって胸に大事そうに抱いているものを見せてくれた。
ファッション誌だと思っていた一冊は料理誌で、そしてもう一冊の単行本は、二日前に出た僕の著作だった。
週刊誌や月刊雑誌などは発売日に店頭に顔を揃えるが、文芸の単行本などはそうとは限らない。オフィス街ではビジネス関連の書籍がメインとなるし、子供の多く住む住宅街では参考書やコミック類が棚の多くを占める。また書店ごとに好みがあったり、流通経路の違いがあったりするので、必ずしも全国一律というわけではない。高名な作家ならいざしらず、僕のような無名のものは隅っこに申し訳程度にしか置かれない。彼女はそんな僕の著作が入荷するのを待っていてくたようだ。またまた嬉しいような、申し訳ないような気持ちになる。
「ありがとう。でも、わざわざ買ってくれなくても君には贈呈するよ」
そう言って、彼女から自分の著作を受け取って元あった場所に戻す。これはまた別の読者の手に渡りますように、と少しだけ願いをこめて――。
そんなわけで、僕たち二人は事務所に戻った。
事務所のドアをあけると、少し空気がどんよりとしていた。
いわゆるスタジオタイプの大きめワンルーム。扉を入って正面に、六人掛けのテーブルがあり、作業台として使っている。執筆は勿論のこと、これだけの大きさがあると資料やイラストなどを広げるのに便利だ。椅子は二脚のみ。あまり人が訪ねてくるような環境ではないので、それで十分だ。
「そのへんに座ってて」
彼女をそこに座らせてから、窓をあけて換気をしつつ珈琲を淹れる。
テイクアウトもあるので、カプチーノを飲みたいときは彼女のいる店で買ってくるが、ふだんはペーパードリップだ。元町や伊勢佐木町あたりで、自家焙煎の豆を買ってくるのが最近の楽しみになっている。店ごと豆ごとの香りやコクの違いを味わうのがまた面白い。
作家という仕事柄、事務所の壁はほぼ全面が本棚になっている。扉を入ると左右の壁は突き当たりの窓付近までびっしりと書籍が並ぶ。そして部屋の中央よりやや奥にパーテーションのように本棚を配置している。数えたことはないが、数千冊はあろうかと思われる書籍の収納スペースの確保と、完全ではないがその奥にある居住空間の目隠し的役割も果たしている。真上から見ると、ちょうどアルファベットの「H」に似ているだろうか。それはちょっとした図書館のようだ。
珈琲を持っていくと、彼女は「凄い数ですね」と目を丸くしながら壁の本棚を興味深そうに眺めている。単なる好奇の目で書籍全体を眺めるというのではなく、一冊一冊の背の文字から中身を読み解くような、読書好きならではの眼差しだ。まるで、赤外線スキャンでもしているのかと思えるくらい見入っている。僕の視線も、そんな彼女の横顔につい惹き付けられてしまう。
「あ、そうだ」といって、無理やり彼女から視線を引き剥がして奥に置いてある段ボール箱を開ける。著者贈呈分として版元から送られてきたものがまだ数冊残っている。その中から一冊抜いて彼女に渡した。
「ありがとうございます」
彼女は表紙の上を優しくなでながら、嬉しそうに僕を見た。
「そうだ、サインしておこうか」
手近にあった銀色の太めのペンでサインと日付、そして『華奈子さんへ』と書いた。と、いっても大きな書店でサイン会をするほどの作家ではないので、今まで数えるほどにしかサインなどしていない。何となくそれらしく見えるように書いたつもりだが、よく見るとただの崩れた汚い字になってしまっている。少しは練習をしないとどうにもならんな、と自虐的な嘲笑は珈琲と一緒に飲み込んだ。
それでも彼女は、銀色にうねった文字の書かれた本を、まるで産まれたての赤ちゃんでも抱いているかのように、大事そうに両手に掲げて満面の笑顔だ。
彼女の笑顔を見ていると、こちらも自然と嬉しくなってくる。
「サインしてもらったの、はじめてなんです」 よほど嬉しかったのか、愛おしそうに銀色のうねうねを指でなぞっている。
「僕も読者にサインするのははじめてだよ」
「そうなんですか?」
「うん。関係者に贈呈するときに書いたりはするけど、サイン会とかやったことないしね。だから本当の意味でのサインは君が第一号」
「どうしよう。そんな凄いことになってるんですか」
「ま、大切に持っていてくれると嬉しいね」
「はい、大切にします。ありがとうございます」
彼女は本を胸に抱え、何度も頭をさげた。あまりにも一生懸命なので、何だか気の毒にすらなってくる。そんな彼女の純真さが愛おしく愛らしい。
「そんな大袈裟なもんじゃないから。所詮は僕のサインだし」
こんなに喜ばれたのはそれこそはじめてなので、こちらの方が恐縮してしまう。
「珈琲でも飲んで、落ち着いて。ね」
彼女に向かって言ったのだが、実は自分自身に言い聞かせるためでもあった。
「美味しい!」
ひと口飲むなり、彼女は顔を輝かせた。
「ブルーマウンテンの香りが……」
「おっ、さすがに珈琲屋さんだね。コロンビアがベースなんだけど、ブルーマウンテンを少しだけ入れてある。青山だし――ね」
駄洒落がわかったのか、ぷっと彼女が吹き出す。
実は先週から凝っている自慢のブレンドだ。元町の自家焙煎店で、若干浅めにローストしてもらった豆を自分でブレンドし、一杯分の豆の量を多くして濃いめに煎れている。香りの高さと、後味にほんのりと残る甘味が気に入っている。
「センセ、ウチのお店より美味しいですよ」
「プロにそう言ってもらえるとうれしいね」
「だって本当です。ウチで買う必要ないくらい」
「でも、エスプレッソマシーンがないからカプチーノができないんだよ」
僕がいつもカプチーノを買うのを覚えていてくれたせいか、彼女も「ああ、なるほど」
といって納得したようだ。
それから三十分ほど話をして、ご迷惑になるといけないからと言って椅子から立ち上がった。
「本当に今日はありがとうございました。この本は一生大切にします。それと、美味しい珈琲もご馳走さまでした」
「また新刊が出たらお店に持っていくよ。君みたいにきっちり読んでくれる読者がいると、こちらも張り合いがあるし、何より嬉しいしね」
「いえ、私はそんな……」
照れくさそうに俯く仕草が可愛い。
ふと窓の外を見ると、つい先ほどまで明るかったのが嘘のように、もう街灯が点きだしている。秋の夕暮れは早い。
彼女を下まで見送り、事務所に戻った。
さて仕事に戻らないと、と独りごとを言いながら購入してきた資料に目を通そうとするが、文字を目で追っているだけで、さっぱりその内容が頭に入ってこない。
気持ちを切り替えようと、かなり濃いめの珈琲を煎れて煙草に火をつけるが、紫煙の揺らめきのなかに彼女の姿が浮かぶ。
ここに越してきて、最初にお店に入った時から可愛い女の子だな、とは思っていた。漢字を読み間違えていたけれでも、僕にしては珍しく名前もすぐに覚えた。ほんの短い会話くらいなら何度かした覚えもある。今まで幾度となく顔を会わせていたのに、ついさっきまで彼女の魅力に気がつかないでいたことが信じられない気持ちだった。
いつも見慣れた制服とは違い、今日は私服だったせいもあるのか。いつもはアップにしている髪をおろしていたからなのか。いずれにしても僕は、キラキラと愉しそうに舞う声に耳を奪われ、ひとつひとつの仕草に目を奪われ、ふわふわとした空気を纏った彼女にすっかり心を奪われていた。
翌日は、朝から東京での仕事を幾つかこなし、昼過ぎに戻ってきた。事務所に上がる前に、カプチーノとサンドイッチを買っていこうと思った。昼食の時間ということもあるが、最大の理由はもちろん彼女に会うためだ。
ちょうどランチタイムなので、レジカウンターの前は混雑してした。注文を終え、商品が出てくるのを待つあいだに彼女の姿を探してみるが、どうやら店内には見当たらない。バックヤードにいるか、休憩時間中かもしれないと思ったので、そのまま事務所には上がらず店内でゆっくりと飲みながら待つことにした。通り沿いのカウンター席がちょうどひとり分あいていたので、腰を落ちつける。
二十分ほどが過ぎ、すっかり食べ終えてしまったところで、はたと気がついた。昨日、彼女と話したときに、今日は休みだと言っていたではないか。僕の本をじっくりと読みます、と言っていたあの笑顔が浮かんだ。
残念だが仕方がない。
ここで待っていても彼女は現れない。さっきまで高揚していた気持ちが急速にしぼんでいく。事務所に上がる足取りも重くなる。
*
いらっしゃいませ、という元気な声がきこえた瞬間に大袈裟なくらい頬が緩んだ。今日は会えるだろうかと、店に入るまでかなり緊張していた。朝から彼女のことばかりが脳裏に浮かび、原稿がほとんど進んでいない。月刊誌のコラムだから〆切りまではいくらか余裕があるのだが、どうにも落ち着かない。
ランチタイムは店が混むので忙しいだろうし、シフトの時間を考えると昼の混雑がひと段落した午後のアイドルタイムに行くのがいいと思った。新刊の感想も聞いてみたいし、何よりも彼女に会いに行きたい。
今日のところは潔く原稿は諦めて、録画してあった映画を二本ばかり観て時間をつぶした。だがやはり映画の内容は頭に入って来なかった。
壁の時計を確かめると一階におりた。外では今日も澄んだ青空が広がっている。並木の歩道では今日もイーゼルを立てて絵を描いている人が数人いた。
昨日の失敗があったので、少し緊張しながら店に足をはこんだ。自分でも可笑しくなるくらいに緊張している。歩き方もまるでロボットのように硬い。
レジには他の女の子がいた。店に入った時には確かに彼女の声が聞こえた。注文を済ませてぐるりと見回すと、彼女はマシーンの前にいた。制服姿で髪をアップにしてまとめているから、きりっとして見える。まだこちらには気づいていないようだ。
心臓の鼓動が周りの人にも聞こえるのではないかと思うくらい大きくなった。もう少しで彼女も気づくだろう。
「カプチーノお待たせしました!」と、彼女が顔をあげた。
僕と目が合い、一拍おいて「センセ!」といって、ぱっと花が咲いたような笑顔をみせた。
何人か並んでいる人もいたので、ここで彼女と話をするわけにもいかないと思い、「どうも」と曖昧な挨拶だけをしてから、空いている奥のテーブルに座った。
少しすると彼女がやってきた。ひと段落ついたのだろう。
「センセ、待ってたんですよ。いつ来てくれるかと、待ちくたびれちゃいました」
「僕を?」
「あたりまえじゃないですか、他に『私のセンセ』はいません!」
「そ、そう。悪いことしちゃったかな……」
なんだか叱られている。彼女に会うのを待ちこがれていたのは僕の方で、待たせた覚えはない。でも、待っていたと言われて正直に嬉しいし、ほっとした。
「いただいたご本、凄くよかったです。ちょっと泣いちゃいました」
「ありがとう。君に読んでもらえてよかった」
今回の作品は泣ける場面がいくつか盛り込んである。いかに泣けるように描くかで、いちばん時間をかけた作品だ。彼女は作者の意図どおりに泣いてくれたようだ。そういった感想をもらえるというのは、まさに作家冥利に尽きるということだろう。
「センセ、お礼に晩ご飯でもいかがですか? 私、六時にあがれますから」
「僕と? え、あの、いいの?」
急な展開にまったく思考がついてゆかない。体が宙に浮いてるような感覚に陥る。カップを持つ手が汗ばんでくる。
「ご迷惑じゃなければ……」
少し上目使いの表情で僕を見つめる視線は揺るぎなくまっすぐだ。ヤバイ、この瞳にやられる、と思った。
「ぜんぜん迷惑なんかじゃないよ。大歓迎です。こんな可愛い女性に誘われるなんて光栄の至りです」
かなりおどけた口調で言ってみたのは、精一杯の照れ隠しだ。
「ほんと? やったぁ!」
まるで子供が喜んでいるような、バンザイまでしている。その仕草は可愛いと思うが、ちょっと大袈裟な気もする。きっと純真な心の現れなのだろう。無垢な笑顔にこちらもつられて笑顔になる。
「それじゃ、仕事がおわったら事務所まで来てくれる?」
「はい。すぐに行きます!」
「待ってるよ」
気恥ずかしくなってきたので、事務所に戻ることにた。
ありがとうございました、と言って彼女は笑顔で手をふっている。純真無垢というのは、彼女のためにある言葉なんだなと思った。
何本か仕事のための電話をし、書きかけのコラムと睨めっこをしていると、彼女がやってきた。なかなか執筆に集中できずに、書いては消しの繰り返しで、あまり進んでいない。壁の時計を見ると六時五分だ。本当に仕事が終わったたらすぐに上がってきたらしい。つくづく真っすぐな娘だなと思う。
「センセ、これ差し入れです。お腹すきませんか?」
そう言って紙袋を持ってきた。中には彼女の店で売っているソフトクッキーが入っていた。
「ありがとう。こんなものまで持ってきてもらって」
「いいんです。サイン入りのご本いただきましたから」
「珈琲でも淹れるよ」
「センセ、私にやらせてください」
「いや、お客さんにやってもらうのは……」
「大丈夫です。これでも一応は『プロ』ですから。センセは座っててください」
「それじゃ……、任せるかな」
確かに彼女の仕事は珈琲屋さんだ。ここは素直に、彼女の好意に甘えることとする。手際よくドリップをする後ろ姿を見つめているうちに、珈琲のいい香りが部屋に満ちてくる。
「はい、どうぞ」
目の前に置かれたものは、何故かいつもの珈琲とは違うように見えた。
ひとくち飲んでみると、自分で煎れるものより味に深みがあるように思う。
「ありがとう。さすがに上手だね」
「そうでしょ、愛情が入ってますからね」と、照れ笑いを浮かべる。
やはり本職の技術のせいなのか、格段に美味しい。
クッキーも食べてください、と言うので一枚食べてみたら、これがまた美味しい。何度か同じものを買ったことがあるはずなのだが、これは種類が違うのだろうか。それとも彼女といるという気持ちの高揚が、味覚に影響をあたえるのか。
「喜んでもらえて嬉しいです」
「こちらこそ」
珈琲を飲み終えると、ここからだと歩いても近い中華街まで行くことにした。
加賀町警察を過ぎて中華街大通りに入る。平日とはいえ、夕食時はやはり人が多い。
はぐれないように、僕の袖をつかんで彼女はついてくる。きっと無意識の行動なのだろうけど、そこがまた可愛い。
ひとりの時は路地裏の小さな安い店に入るが、せっかく彼女と行くのだからたまにはいいだろうと、通り沿いにある有名店に入った。
「センセ、ちょっと高そうですよ」
「大丈夫だよ、今日は僕が持つから安心して」
大きな店構えと豪華な店内の装飾をみて、彼女は少々気後れしているようだ。
食事に誘ってくれたのは彼女だが、ここは男たるもの少しくらいは見栄をはらねばなるまい。いつも僕が入る小さなラーメン屋とは大違いだ。
少し待つと、二階のテーブルに案内された。
まずはビールで乾杯だろうと思うが、生憎と僕は飲めるくちではない。彼女にも訊いてみると、同じくほとんど飲めないというので、くち当たりのいい杏露酒をとった。
「美味しい! とっても甘いんですね」
杏の甘さが気に入ったようだ。
「ご本の感想を言わなきゃ」
先ほど彼女の店で「泣いちゃった」というのは聞いた。
「それで、どうだった?」
主人公の生い立ちや、親友との友情、祖父母との絆、感動した場面などを彼女は瞳を輝かせながら語った。著者である自分でさえ彼女の話に惹き付けられ、しだいに物語の中に引き込まれてゆくほどだ。
「文庫になったら、是非とも巻末の解説をお願いしたいもんだね。僕より上手い」
「そんな、とんでもないです。私なんか……」
杏露酒がまわってきているのか、照れているのか、頬がだいぶ紅に染まっている。僕の視線に気がついて、両手を頬にあてる。
「お酒がまわってきてるみたいです。ちょっと飲み過ぎちゃったかな」
小さく舌をだして笑う仕草があどけなくていい。そういう自分も少し頬が熱くなってきている。酒のせいなのか、それとも彼女のせいか。前者、というこで無理やり自分に納得させるが、二人とも小さなグラスで半分ほどしか飲んではいないのだ。
彼女との食事は楽しかった。
やはり多くは小説の話になるが、それもひとつに偏ることなく様々なジャンルを読み、ノンフィクション、歴史、経済など多岐に渡る彼女の読書量はかなりのものだ。
初めて食べる北京ダックに大はしゃぎする彼女は、皮だけじゃなく肉も食べれるといいのに、と口を尖らす。「なぜ皮だけなの?」という問いに答えられず、「肉は棒棒鳥にでもするのかな」と、いい加減な返事をしておいた。僕も実際のところ昔から不思議である。
デザートに杏仁豆腐と愛玉子を二人で半分づつ食べて店を出た。こんなに近くで働いているのに、中華街で食事をしたことがなかったらしく、定食屋さんの中華とは違う、と彼女はかなりご満悦のようすだ。
彼女くらいの年代だと、各メディアのグルメ情報に精通していて、食べ歩きに余念がないのかと思っていたが、実はそうでもないらしい。
「だって、仕事のつきあいで行く高級なお店より、好きな人と食べるコンビニのおにぎりの方が百倍は美味しいです」と、彼女は言う。
どこで何を食べるかではなく、誰とどういう気持ちで食べるか――それがいちばん大切なことだと言う。
確かにそれはわからないでもない。あまり高級店と呼ばれるような店には入ったことはないが、仕事の都合で初対面の人と食事をすることもある。そいう場合、定食屋というわけにもいかないので、それなりの店に行くのだが、どうも食べた気にならないことがある。それに比べて、気心の知れた編集者と行く牛丼屋の方が「あー、食った食った」という気持ちになる。
なるほどね、と感心させられる。
「今日はどうだった?」
僕との食事はどうなのかが気になったので、聞いてみた。
「すごく美味しかったです。もうお腹いっぱい! 少し食べすぎちゃった」
まるで妊婦がお腹をさするような仕草をする。
「よかった」
彼女の笑顔をみるかぎり、まんざら嘘でもなさそうなので安心した。中華街に来る前、事務所で煎れてくれた珈琲が格別に美味しかったものそういうことなのだろうか。鼻腔に甘い香りが蘇ってくる。
「少し歩きませんか。運動しないと太っちゃう」
無邪気にそういう彼女は、じゅうぶんにスリムな体系だと思うのだが――。
僕はといえば、少しはウエストに気をつけないと最近ヤバくなってきている。
「いいよ、山下公園の方にでも行ってみようか」
「はい」
ここからだと東門を抜けて、そのまま真っすぐに行けばいい。坂もなく平坦な場所なので歩くのも楽だ。
賑わいをみせる中華街の人ごみを抜けて山下公園に着くまで、彼女は先ほどと同じように僕の袖を掴んでいた。指先でそっと触れるような、そんな控えめな指先。しかしそこには真っすぐで強い意志のようなものが感じられた。
氷川丸の前までくると、彼女はいちど大きく息を吸い込んで、ふぅ、と吐いた。今日のように天気のいい昼間は暖かいが、陽が落ちるとさすがに肌寒い。
「風が気持ちいいですね」
「寒くない?」
「身体が火照ってるから、ちょうどいい感じです」
彼女の瞳は港の灯りを映して橙色に輝いている。
彼女の言ったように、僕もあまり飲めない酒を飲んだせいで体温が高くなっている。港に吹くそよ風が心地いい。
「毎日がこんなだったらいいのになぁ」
ライトアップされたベイブリッジを見ながら彼女が呟く。
「ん? 毎日?」
へへ、と彼女は笑って誤摩化す。
何のことだろうか。天気のことか、お腹いっぱい食べたことか、それとも……。
「センセ、また連れていってくださいね」
やっぱりご飯のことだな。
「いつでもいいよ。僕もひとりだとテキトーにしか食べないから、いっしょだと愉しいよ」
「ホントに?」
自分ひとりだけだと面倒くさいから、いつも同じようなものしか食べなくなる。牛丼とラーメンが週の半分以上を占め、たまにハンバガーや定食が登場するというありがちなローテーションだ。この偏食街道まっしぐらの食生活でも身体を壊していないのは、じゅうぶんな睡眠と、肝臓の大敵たる飲酒の習慣がないからだろう、と誇らしげに思っている。
世の中に健康ブームを提唱し、牽引役の一翼を担うべき編集者などは、飲酒・喫煙・睡眠不足・悪烈な食生活で不健康さを競っている。世の中は矛盾だらけだ
幸い僕の場合は酒はハナから飲めないので肝臓がいかれる心配はないし、財布にも優しい。睡眠も足りている。睡眠不足になるほどの仕事量がないと言えばそれまでではあるのだが――。
「センセ、指切り」
「指切り?」
彼女は瞳を輝かせて右手の小指を僕の顔の前に出す。
「嘘ついたら、ムニャムニャ、指切った!」
無邪気さが炸裂してる。
「ムニャムニャ、って何?」
針千本飲ぉーます、じゃないのか。例え一本だって針なんか飲めないのに、千本もある針の山を想像したら、喉のあたりがチクチクしてきた。
「へへ、それはナイショです」
あれだけ僕の小説を細部まで読み的確な分析をする反面、この手放しの無邪気さに驚かされる。きっとどちらも本当の彼女なのだろう。
公園内を歩いていると、有名な『赤い靴』の女の子の像を見ながら「あかいくつぅ、はぁいーてたぁー」と彼女は歌いだした。周りのカップルの視線が集まる。彼女の手をひいて早足にその場から離れようとすると、「いーじんさんにぃ、つぅれられてぇ、いーっ、ちゃぁーっ、たぁー」っと歌うので、思わず大爆笑してしまった。
天然というか、天衣無縫というべきか。
「センセの手、優しいね」
繋いだ手にぎゅっと力を入れて彼女が言う。
肌寒いくらいの気温だから、手が暖かいとか、冷たいとか、そういった形容する語句が普通だと思うが、彼女の感性は違う捉え方をしているらしい。
手を繋いだままがいい、と彼女が言うので、そのまま日本大通り駅まで歩いた。妙にドキドキしてしまい、手のひらには汗をかいている。
「それじゃセンセ、また明日ね」
そう言うと、バイバイと手を振りながら駅の構内に走っていく。
いや、スキップしている。小さな子供のように天真爛漫だ。
彼女の姿が見えなくなってから、うっすらと汗をかいた自分の手のひらを見つめた。
そこには、まだ彼女の温もりが残っていた。
|2|
「ラブストーリー、ねぇ」
編集者と電話で打ち合わせしているあいだに、こんな企画があるんですけどね、と教えてくれたのが『創刊記念企画』の話だ。
文芸雑誌の創刊三十周年を記念して、来年の春から半年間の企画掲載を行なうという。一般公募の中から優秀作品を毎月(毎号)何作か掲載するということらしい。年明けから募集するのは「ラブストーリー」。掲載作品には記念品と図書券が贈られ、年末には最優秀作品の授賞式もあるらしい。
そして、もちろんプロの作家たちの作品も載せる。半年間を通しての企画だから最低でも六作品。一回に二作品ずつの掲載ならその倍の作品数、つまりその数だけ作家が必要になる。そういった経緯で僕のところにも話が来たわけだ。
「少し考えさせてもらえますか」と言って、電話を終えた。
今まで『人間愛』をテーマにした小説は書いてきたが、『ラブストーリー』は書いていない。金輪際「ラブストーリー」は書かない、と天地神明に誓った覚えもないが、今ひとつ躊躇する自分がいる。
腰の退けている原因は、文芸雑誌や出版社が行なう新人賞に投稿していた頃のトラウマだ。高校三年生から大学四年までのあいだ、あらゆる賞に応募していたが、二次通過までが限界だった。そのころ書いていたのが、いわゆる「ラブストーリー」だ。もちろん、応募する賞によって、殺人ミステリーに仕立てたり、時代小説にしたり、いろいろと工夫はしていたが、大きな成果は得られなかった。
大学四年生になり、まわりの友人たちも就職が内定しだし、まだ就職先のきまっていない自分に少しずつ焦りが生じてきていた。
これで学生生活の最後にしようと投稿した作品が、大賞こそ逃したものの、選考委員優秀賞を獲得した。出版された本は大賞作品よりも発行部数が伸び、ベストセラーにまでなった。それまでずっと恋愛小説を書き続けてきたが、最後にしようとしたその作品は、祖母と孫娘の哀しくも心温まる生きざまを描いたものだった。その受賞を機に文筆の世界に身を置き、生計をたてている。
学生当時の原稿は未だに保管してあり、何かの折に眺めることもあるが、文章が気負い過ぎていて、主人公の科白も嘘くさい。よく恥ずかしくもなくこんなものを書いていたな、と自虐の念に苛まれる。以来、「ラブストーリー」は書いていない。
経済的に裕福な暮らしではないので、依頼のある仕事はもちろん受けたい。あのころの自分を知っているだけに、今さら書けるのか、という迷いが生じる。
ぼんやりと窓の外を眺めつつ珈琲を飲んでいると、彼女がやってきた。
「センセ、生きてますかぁ」
「死んでないぞぉ」と軽口で返す。
あれから彼女は頻繁に事務所に顔をだすようになった。同じ建物の上と下にいるのだから、遠慮しないでいつでもおいで、と言ったのがきっかけだった。
彼女が入ってくると、事務所の空気がぱっと明るくなる。
「寒くて凍死してないかと、心配しちゃいました」
今年は暖冬だという長期予報とは反して、十一月に入るとだいぶ冬らしくなってきている。朝晩はかなり冷え込む。
そういえば、いつの間にか外は陽が翳って薄暗くなってきている。
朝から雑誌に載せる書評を二本まとめて書いていたら、事務所の中の気温も下がってきているのに気がつかなかった。ヒーターの温度を上げる。
「それ、どうしたの?」
彼女は小さな花束を抱えていた。
「キレイでしょ。春が来たみたい」
そういうと、窓辺にその花を飾った。どこから持ってきたのか、花瓶まである。
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「もらってきたんです、昨日。センセにも幸せが訪れますように、って。花瓶は下から使っていないのを借りてきました」
故郷の沖縄で同級生の結婚式があるからと、彼女はここ三日ばかり帰省していた。そこでもらってきたのだろう。
「飛行機で持ってきたの?」
「もう、タイヘンだったんですから。手荷物検査で、ヘンな目で見られるし」
花束を持って飛行機に乗っても特別「ヘン」ではないと思うが、そういう人が多くはいないだろうと思う。爆弾や凶器を隠すほどの大きさもないと思うのだが。
「タイヘンだったんだね、ありがとう」
「へへ、しょうがないから許してあげます」
「こりゃどうも」
許すも許さないもないと思うのだが……。機嫌のよさそうな笑顔を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくるから不思議だ。
「ちゃんとご飯食べてましたか?」
「まあ、それなりに」
「牛丼とラーメンとハンバーガーでしょ」
バレバレだ。
「なぜ知ってるの?」
「ちゃんと顔に書いてあります」
慌てて鏡を覗いてみるが、額にも頬にもサインペンの痕は見つからない。
彼女はそんな僕をみて、クスクス笑いながら「野菜を食べないとダメですよ」と言う。
「ハンバーガーに、トマトとレタスが入ってる。ピクルスも」と抗議してみたが、あっさりと却下されてしまった。まるで母親に叱られている子供のようだ。
「キッチンがもう少しちゃんとしていたら、ご飯作ってあげるのにな」
腰に両手をあて、残念そうに彼女はキッチンを睨む。初めて彼女と書店に行ったとき、料理の本を買っていたことを思い出した。きっと彼女の作る料理は栄養のバランスもよく、食卓に温もりと彩りを添えることだろう。
便宜上キッチンとうい表現をしているのだが、その実は小さなシンクのとなりにIH式の電気コンロがひとつがあるだけだ。そもそも居住用ではなくSOHO向けの造りなので、炊事をするキッチンは望むべくもない。珈琲のひとつも煎れられればそれで事は足りるし、実際のところ不足は感じていない。
「センセ、今日は私がご馳走しますから、お仕事終わったらご飯にいきましょう」
もとより彼女との食事に異論を挟む余地など髪の先ほどもないが、嫌な予感もする。
「野菜のお鍋にしましょうか」と、どこに行くのか思案中みたいだ。
「スキヤキとか?」
「お肉はダメです。ベジタブルぅ」
「しゃぶしゃぶの肉なしとか? 牛丼の肉ぬき? ダブルバーガーの肉なし?」
もう何のこっちゃか分からない。
「ブー!」
最後のあがきも、あえなく撃沈。
カツ丼の肉ぬきだと、ただの玉子丼か? などど浅知恵を搾ってみたが、それも諦めた。彼女の言うことに従うことにする。
キリのいいところでノートパソコンを閉じ、二人で関内駅方面に向かって歩く。
彼女と初めて食事をしたときには黄金色に輝いていた銀杏の木も、もうすっかり葉を落としている。そろそろクリスマスシーズンに向けて、華やかなイルミネーションが並木を飾り、街は鮮やかな彩りに包まれ、恋人たちの舞台装置も整うだろう。
今こうして歩いている自分たちも、他人から見れば恋人どうしに見えるのだろうか。
そんな自分の心の内を知ってか知らずか、「いっぽんでぇも、ニンジン♪」などと、隣りで無邪気に口ずさんでいる。そんな彼女を見ているだけで、暖かい空気に包まれる。どんな華やかなイルミネーションより、彼女がいちばん輝いて見える。
彼女に連れてこられたのは、関内駅近くの自然食レストランだった。
レジカウンターの後ろや、店の壁面のほぼ全てがラック状の栽培室になっていて、そこから新鮮な野菜類を取り出し、調理してくれるそうだ。ラックに入らない大物は屋上の菜園で、また特殊なものは契約農家から毎朝直送される、とメニューの下に書いてあった。目の前で採取される野菜は客の目からも安心感があり、また一面を緑に囲まれた客席は癒しの効果も果たしてしる。
「ハンバーグがあるよ」
野菜ばかりのメニューの中に、やっと希望の光を見いだした。
「それは豆腐のハンバーグでぇす」と、すかさず躱された。
「お肉はありませんよ、センセ」
メニューとにらめっこするように、必死に肉料理を探していた僕の企みは、あっさりと彼女に切り捨てられた。――無念。
もうこうなれば開き直るしかない。メニューを閉じ、潔く彼女の軍門に下るとする。
サラダみたいなものばかりなのかと覚悟していたが、料理は予想を大きくはずして、どれも美味しかった。
もちろん山のようなサラダも食べたが、パスタもトマト、ほうれん草、きのこ類など、肉や魚を使っていないだけで、普通のレストランで食べるものと遜色なかった。なかでも餃子の美味しさは特筆ものだった。
ベジタリアンといえば葉っぱばかり食べているのかと思っていたが、その認識は完膚なきまでに打ちのめされた。
有機栽培だという珈琲も味わい深い逸品だったので、帰りに買って帰ることにする。
食事を終えて外に出ると、一段と空気が冷えていた。吐く息が白くなる。
彼女は何が面白いのか、放射能を吐くゴジラのように「ハー、ハー」と白い息を吐き散らしている。
彼女を駅まで送ると、元気に手を振って改札の奥の階段を上っていった。
スタジアムある横浜公園を歩いていると、メールの着信があった。手近なベンチに腰掛けメールを開く。彼女からだった。
『ちゃんと食べてくださいネ。おやすみなさい』
レストランで携帯の番号とアドレスを交換していたので、電車に乗ってからすぐに送信してきたのだろう。一点の曇りもない無垢な笑顔が、液晶画面の上に思い浮かぶ。
「ありがとう。おやすみ」と、返信した。
ふと見上げた夜空にオリオン座が瞬いていた。こんな明るい街のなかでも見えるとは思っていなかった。
彼女と出会ってから、自分の心の中に地殻変動のようなものが起きている。
星を見上げていて、ひとつのことを決心した。
保留にしていた『創刊三十周年企画』の寄稿。
電話してみよう。
この時間ならまだ会社にいるかもしれない。
――封印を解いてみようと思う。
翌朝から作品のプロットを練る作業にとりかかった。昨夜のうちに書評も書き終え、メールで送稿も済んでいる。
何年かぶりの「ラブストーリー」に、なかなかいいアイディアが浮かばない。物語の構成もさることながら、ヒロイン役を考えていると、どうしても彼女の姿が思い浮かんでしまう。
考えがまとまらない、というよりも彼女のことばかり考えてしまって、先に進まない。
昨日仕入れてきた有機栽培の珈琲を飲んでいると、彼女がやってきた。時計を見ると十一時になろうとしている。
「センセ、おはようございます。まだ寝てるかと思った」
彼女はそう言うと、いくつかの袋をテーブルに置く。
「おはよう。それは?」
ガサゴソとやり始めた彼女は、「ちょっと早いけど、お昼ご飯をいっしょに食べようかと思って」とテーブルにサラダやら何やらを並べだす。
彼女がいるだけで、部屋の空気がすっと明るくなる。
「仕事は?」
「今日は遅番だから、お昼食べてから行きます」
まだ起きたばかりだったらブランチにしよう、と思っていたらしい。少し早めではあるが、テーブルに並べられたランチを見ているうちに、お腹がすいてきた。
彼女は、「はい、すわって、すわって」と僕を席に急かす。
夕べ彼女が言っていた「ご飯作ってあげるのにな」は、早くも実行された。
この部屋のキッチンでは無理があるので、自分の家で作って持ってきてくれたのだ。サラダとサンドイッチ、その他にタッパーが二つ並んでいる。昨日の今日なのに、実行力の素早さに驚かされる。
今日もやはり野菜がメインのメニューのようだが、片隅にローストビーフのサンドイッチがあるのをいち早く発見した。天の恵みだ。
手早く準備を整えた彼女も席につく。
「いっただきまぁす」と、ふたりで合唱してからサントイッチに手をのばす。
すかさずローストビーフに噛りついた僕をみて、「やっぱりお肉か」と彼女は呆れ顔だ。
フフ、と笑いながら彼女はサラダを口にはこぶ。ちゃんとこれも食べてください、と僕の前にサラダを置く。
「何を考えてたんですか?」
「ん?」
口のなかでレタスをもぐもぐさせながら彼女を見る。何となく、飼い主を見るうさぎになったような気分だ。そのうち耳が伸びてくるかもしれない。
「さっき、珈琲を飲みながら、眉間に皺がよってた」
ちょうどプロットを考えていたときのことだ。
「お昼は牛丼にするか、ダブルバーガーとポテトにするか考えてたんでしょう」
残念ながらハズレである。
「焼肉にしようか、寿司にしようか悩んでた」
「嘘ばっかり」と、一笑に付された。
はい、嘘です。
これまで彼女は、僕の作品を読んできてくれた重要な読者だ。そして、何一つとして阿ることなく的確に読み解いてくれている。彼女がいちばんの理解者だと思うし、僕の気がつかない側面を見いだしてくれるかもしれない。
編集者から依頼された件を彼女に話してみた。
「センセ、すっごい。それ書いてぇ」
いや、書くんだよ。書きたいんだけど、ブランクが長いから悩んでいるわけ。いくら書いても受賞に至らなかった昔のトラウマもある。端くれの末席とはいえ、文筆で生計をたてている今、もう受賞する必然性もないわけだし、職業作家としての受賞を狙っているわけでもないのだから、そんなに畏まって書くこともない。それが分かってはいても、人の気持ちというのは理屈のままにはならないものだ。
ただ「ラブストーリー」を書くだけではつまらないし、読者も飽きるだろう。何か面白いアイディアがあればいいのだが、と彼女に問いかけてみる。
「大河ドラマにしたらどうですか」
さらっと彼女が言う。
「どういった感じ?」
「母、娘、孫の親子三代の、それぞれの時代を反映するような恋愛のお話とか」
「んー、そうだなぁ」
既にそういった作品は世に出ているし、映画化されていたりするはずだ。題名は出てこないが、何作か見たような気がする。
「場所を変えたらどうでしょう」
「場所?」
「東京、横浜、鎌倉、それぞれの場所での恋愛のお話」
「場所ねぇ」
舞台となる土地が違えば、面白いものができるだろうか。
「大阪、名古屋、札幌、京都なんかも面白いかもしれない」
東京タワー、マリンタワー、通天閣、大通り公園と電波塔、鎌倉だけ塔ではなく神社仏閣、もしくは海。京都も京都タワーと寺院か。
それぞれに面白いものが書けるような気もするが、そうでないような気もする。東京タワーが通天閣に変わり、味噌ラーメンと八つ橋の違いがあるだけのことにならないだろうか。ヘタをすれば観光案内のようにもなりかねない。
「右手に見えますのは、鉛筆でございまぁす」
彼女は、ふざけて右手の鉛筆を振る僕をまっすぐに見つめて、「バカ」とひと言。
真剣に考えれば考えるほど、ふざけたアイディアしか浮かばない。
何かもう一つないだろうか、
そういえば昨日、彼女が友人の結婚式の帰りに花束を持ってきてくれた。今も元気に窓辺で咲いている。
結婚というのも、もちろんラブストーリーのひとつである。その新婦に会ったことはないが、そこにも恋と愛の物語というものが存在する。自分とは見ず知らずの人、離れた場所で、時代を超えて、いついかなるところにも物語は存在する。
そこに横たわるもの、脈々と流れるもの、何かの繋がりを感じさせるようなもの――。
「繋がりか……」
声にだして考えてみる。
「あ、もう行かなきゃ」
時計を見ると彼女は急いで片づけはじめた。彼女はこれから自分の仕事がある。のんびりとしている時間はない。
「そのままでいいよ。僕がやっておくから」
ふたりともほぼ食べ終わっていた。
はい、と言いながらも彼女は手早く片付けると、「途中でごめんなさい。仕事に行きます」と、慌てて下に降りていく。
ひとりになると急に部屋の中が寂しくなった。色彩が褪せ、温度がなくなる。つい先日までは感じることのなかった感覚だ。彼女と出会ったことで、凡庸な毎日に変化が生まれていた。
これも「ラブストーリー」の一端になりえるだろうか。
自分の気持ちの変化にすら、どう説明をつけていいのかさえわからないのに、ましてや彼女の気持ちがどうなのかなどわかるはずもない。
彼女をみていて、好意をもってくれているのは明らかではある。それでなくては、頻繁に僕のところに顔をだすはずもない。しかし、どこまでの気持ちであるのかはわからない。彼女の好意を過大に勘違いしている可能性もあるではないか。
それでも、やはりこの胸のなかにある想いは――彼女に恋をしている。
乾いた風に窓辺の花が微笑むようにそっと揺れた。
|3|
師走に入ると乾燥した晴天が続いた。街もクリスマスに向けて華やいだ雰囲気になっている。
定期の仕事を順調にこなしながら、件のプロットを練っている。ざっくりといくつかの候補を作ってはみたが、編集者の感触はあまり芳しくないので、もう少し考えてみることにする。
横浜駅周辺の書店を数件歩き、最近のラブストーリーで売れ筋の作品をみてまわる。一件だけだと、その書店の好みに左右されるので、同じ系列書店ではない店を数件まわってみることで、全体像と最大公約数での売れ筋商品が見えてくる。
だいたいの傾向が見えてきたとこで、新刊単行本と文庫本を数冊仕入れる。
クリスマスが近いため、横浜駅周辺は買い物客で溢れんばかりの賑わいだ。店舗や街路の装飾をはじめ、サンタの衣装を着たアルバイトの学生もあちこちで目につく。
今日は天気もよく暖かなので、散歩がてらに赤レンガ倉庫経由で帰ることにする。
作家という仕事ゆえに事務所で座っていることが多いので、少しでも日頃の運動不足を解消するように、時間に余裕があるときは地下鉄を使わずに出来るだけ歩くようにしている。
横浜駅周辺でもそうだったが、みなとみらいから赤レンガにかけては特にカップルが多く目につく。この付近は横浜でも有数のデートスポットであるから当然ではある。寄り添って歩くカップルたちを見ていると、彼女は毎年のクリスマスをどう過ごしているのだろう、と気になってくる。
今までは通常通りに仕事をしているか、誰かの企画したクリスマスパーティーに顔をだす程度で、自らクリスマスをどう過ごすかを意識したことはなかった。
赤レンガ倉庫前の広場には、特設のスケートリンクができていた。リンクの上には数組のカップルがいた。やはり若い人が多いが、中には年配のカップルも見かける。手を繋いで滑っている人、壁際で休んでいる人、その誰もが例外なく笑顔だ。
そんな幸せそうな人々を見ていたら、今年のクリスマスは「彼女と一緒に過ごしたい」と強く思った。
このところ彼女はシフトで休みの日以外、必ず朝と晩に事務所に顔をだすようになっている。ただ顔を見て、おはようございますだけ言ってすぐに仕事へ行くときもあれば、食事の用意をしてきてくれるときもある。彼女が遅番の日以外は週に二日くらい食事に出かけたりもする。
外を歩くときに、せがまれて手を繋ぐことがある。人ごみが苦手でうまく歩けないらしい。しかし不思議とそれ以上の関係にはなっていない。他人からは仲睦まじく見えるかもしれないが、本人としては何とも中途半端で微妙な関係だと思う。ただそれも男の自分側からの言い分であって、彼女にしてみればそれでいいのかもしれない。
友達以上、恋人未満というのはこういう関係だろうか。
資料として仕入れてきた小説を読んでいると彼女がやってきた。物語の中では感動する場面だったのだが、現実に引き戻された。だが、彼女を見ている方がいいに決まっている。
すっかりヤラレてるなぁ、と独りごちる。
まだ外が明るいところをみると、今日は早番だ。
「センセ、これからお出かけの予定はなしですか?」
「うん、ないよ」
そもそもが自宅勤務であるから、日頃からそんなに出かけることはない。売れっ子作家ではないから、出版社との打ち合わせや会合の類いも少ない。出かけなければいけないような用事も、ここから徒歩圏内でほぼ九割がたは済んでしまう。それが幸か不幸かは難しい判断だが。
「お仕事の邪魔じゃなかったら、出かけませんか?」
「いいよ。どこ行くの?」
「へへ、ナイショ」
またナイショ攻撃だ。そんなに秘密にしなくてもいいと思うのだが、それでもナイショと言うときの仕草が可愛いのでついつい許してしまう。
あぁ、やっぱりヤラレてる。
読みかけの本を閉じて出かける支度をする。支度といっても事務所兼の男のひとり暮らしだから何を支度するまでもない。冬場だから窓は閉まっているし、上着を着て玄関の鍵を持てば終了だ。
「センセ、寒いから手袋してね」と言うので素直に従う。
最近は彼女も心得たもので出かけるときには必ず換気扇を消してくれる。僕は煙草を吸うので事務所にいるときはいつも換気扇を回してしる。と、言っても喫煙量はそんなに多くはない。テレビドラマなどでありがちな、作家先生の書斎で灰皿が吸い殻の山になっているような事はない。
長い時間を留守にするようなときは消していくのだが、たいていはすぐに帰ってくるのでそのまま出かける習慣がついていた。
外に出ると既に薄暗くなりはじめている。つるべ落としとはこのことだな。
「おぉ、さむぅ」と、彼女はおどけた口調でいいながら僕の腕にしがみつくようにして歩き出す。
「センセ、籠ってばかりで運動しないと身体によくないですよ」
県庁前の信号待ちで彼女が言う。
彼女は食事のこともそうだが、いつも僕の健康状態を心配してくれている。自分ではまだまだ若い方だと思ってはいるのだが、今のうちに健康管理をしておかないと、十年先も健康でいられる保証はない、と彼女が言う。
「だから、センセの健康管理は私がします」
「うん、ありがとう」
信号が青に変わったので横断歩道を渡る。
彼女がさらっと言うから、そのまま返事をしたけど、ん? どういう事だ?
歩きながら考えているが、よくわからない。
確かに偏食街道まっしぐらの僕に、食事が偏らないように彼女はいつも気をつかってくれる。たまに手作りの食事を持ってきてくれたりもする。
税関前の信号待ち。
心臓の鼓動が激しくなってきた。そういうこと――で、いいのか。
「あ、あのさ……」
どう言っていいのか分からない。
「つきあってくれる、の?」
こんな言い方でいいのか? 何か間違えているか?
告白されたのか? いや僕が告白した、のか?
思考が纏まらない。
彼女は僕のそんな心の内を知っているのか、横でクスクスと笑っている。
信号が青に変わった。歩き出す瞬間に彼女がいう。
「だって指切りしたもん」
指切り?
はじめて二人で山下公園にいったとき、確かに指切りした。今もちゃんと覚えている。あれは、またご飯たべに連れていくということじゃなかったか。そういえば、あのときの「ムニャムニャ」の正体をまだ教えてもらっていない。
何だか煙に撒かれたような気がする。
それにしてもどこに行くつもりなんだろう。ナイショと言われたまま目的地も教えてもらっていない。方向としてはみなとみらいなんだが。
「で、どこまで行くの?」
「へへ、そこ」
彼女は前方に見えてきた赤レンガ倉庫を指さした。
「運動もしないといけないでしょ。だから今日はスケートでぇす」
このあいだ帰りがけに見た、赤レンガ倉庫前の特設スケートリンクだ。いつもは言わないのに、手袋をさせた彼女の魂胆もこれで解明された。
暗くなってライトアップされたスケートリンクと赤レンガ倉庫は、デート中のカップルで溢れんばかりの賑わいだ。昼間ならまだしも、この状況を見るかぎりひとりでは近寄りがたいオーラに包まれている。
僕たちもやっぱりカップルとして認識されている――よな。
靴を借りてリンクにあがると、さっそく彼女はしがみついてくる。
「センセ、滑れるの?」
「少し、はね」
これでも中学生の頃は代々木のスケート場に何度か行ったから、お世辞にも上手いとは言わないまでも、進むくらいの『滑る』は出来る。
「私、はじめて」
「そうなの?」
はじめてなのにスケートに誘ったんかい?
「だって沖縄だもん」
そうか。南国出身だったのをすっかり失念していた。暖かい地方だからスケートにはあまり馴染みがないのかもしれない。訊いてみると、県内に一カ所だけスケートリンクはあるが、華奈子は行ったことがないという。だからこのスケートリンクを見たとき、無性に滑ってみたくなったそうだ。
仕方がないので、ゆっくりと彼女の手をひいて歩くように滑り出す。
「キャー、すごぉい。滑ってるぅ」
かなり腰の退けた姿勢で、僕に手をひかれているだけなのだが、はじめての彼女としてもれば「滑ってる」感覚に大はしゃぎだ。
ぐるりと一周してきたところで小休止。ふたりで壁にもたれて休息をいれる。
「すごい、すごい、センセ上手!」とご満悦の彼女。
「私たちも恋人に見えるかな」
「え?」
あまりにも唐突だったので、咄嗟にはその言葉が理解できなかった。
やはり彼女の告白なのだろうか。それとも告白自体はもうここに着くまでに終わっていて、その次の段階に入っているのだろうか。
「センセ、もう一回行こう」
彼女は僕の手をひいて滑りだそうとするが、自力で進むことの出来ないもどかしさに足をばたつかせて転びそうになる。
そんなところも愛おしくなって、僕は手をひいて滑り出す。
「見えるよ、じゅうぶんに」
半周ほど進んだところで、彼女を振り返るようにして言った。
転ばないよう自分の足下に集中していた彼女は、僕の声がよく聞き取れなかったらしく、「なに?」という表情で顔をあげた。
僕は彼女に微笑んで、何でもないというように小さく首を振った。
そのまま残りの半周を滑り、元のスタートした場所まで戻った。
「センセ、足痛い」
「まだ二週だよ」
「でも、痛ぁい」
ちいさな子供が駄々をこねているようで、可愛らしくもある。
はじめてだったから、よほど足に力を入れていたんだろう。初心者は滑るより、まず転ばないようにするため全身に余計な力が入る。特に足は余分な力をかけすぎるから尚更痛くなる。
「せっかくだからもうちょっと滑りたいけど、歩けなくなったら困るし」という彼女の意見を尊重してリンクから降りた。これでは運動になっていないように思うのだが、二週したので運動したことにする。
スケート靴を脱ぐと「お腹すいたね」と彼女が言う。
「運動するとお腹すくよね」と、彼女にあわせて言ってはみたものの、本当に運動したうちに入るのだろうか。それでも、お腹がすいていることは確かだ。
赤レンガ倉庫のレストランで空腹を満たした後、少し海を眺めながら散歩をした。彼女の足の運び方をみているかぎり、酷く足が痛むということはないようだ。それでも多少の我慢はしているのかもしれない。
「足は痛む?」
「もう大丈夫」
慣れないスケート靴で締め付けられる痛みが堪えられなかったらしい。指先や踵に靴擦れのようなものはない。
「歩けなくなったら、おぶってもらうから」
ね、センセ。と、はしゃぐくらいだから、まず大丈夫だろう。
すぐ目の前にある海に港の灯りがゆらゆらと映っている。振り向くとライトアップされた赤レンガ倉庫とみなとみらいの高層ビルの夜景が美しく広がる。開港して百五十年の昔と今が見事に調和している。
「センセ、何を見てるの?」
「歴史だよ。時の流れと言った方がいいかな」
作家としてはこのくらいの発言は必要だろう。
「何か遠い目をしてた」
「開港当時の人がこの景色を見たら驚くだろうな、と思って」
「私もはじめて見たときはビックリした。高いビルが多いから、上ばかり見てたら首が痛くなった」
いかにも彼女らしい。きっと黒船でやってきた異人たちもビックリするだろう。
彼女とペリー提督が並んでビルを見上げている映像が目に浮かぶ。
いくつか煙に捲かれたままで、答えがはっきりとしていないことがある。いや、はっきりとしているのかもしれないが、もしかすると思い違いなのかもしれない。天然のはいった彼女のペースに流されてしまうので、どうも消化不良のままだ。
はっきりとさせた方がいいものと、そうでないものがあるが、このまま薄霧のなかを歩いていると、いつか路に迷いそうな気がする。霧の晴れた先は行き止まりかもしれないし、断崖絶壁かもしれない。それでも路に迷いながら断崖絶壁から落ちてしまうより、引き返せる可能性があるのならその方がいい。
「指切りしたとき何て言ったの?」
あの『ムニャムニャ』の正体が知りたい。
「へへ、ナイショです」
あくまでも恍けて教えてくれそうなようすはない。
「いつになったら教えてくれるのかな?」
彼女は「そうだなぁ」と小首を傾げ、顎に手をあてて思案顔をする。彼女の瞳は港の灯りを映してきらきらとしている。
無意識のうちに彼女を抱きしめていた。
「センセ……」
僕の腕の中で彼女が小さく呟く。
「いつか教えてくれればいいよ。ずっと僕の傍にいてくれ、華奈子」
大きく見開いた彼女の瞳が、少し潤んだように見えた。次の瞬間には、どちらからともなく唇をかさねていた。
はじめて触れる彼女の弾力のある唇は、何故か懐かしさにも似た不思議な感覚をもたらしてくれた。抱きしめているのは自分なのだが、逆に彼女に包まれているという大きな安堵感がある。
唇をかさねていたのはとても長い時間のように感じたが、実際にはほんの数秒だろう。時間など気にせず、このままずっとこうして抱き合っていたいという思いが溢れる。周りでもカップルが抱き合っていたり、キスをしていたりするから、自分たちが周囲から浮いて見えることもないだろう。
「センセ、寒いよ」と、いたわるように控えめな声で彼女が言う。母親が小さな子供を心配するような、僕の身体を慮っての言葉だ。
すっかりドラマの主人公モードに入り興奮していたので、寒さなどどこかへ吹き飛んでしまっていた。気がついてみれば海風が肌を刺し、冷気が足下から這い上がってくる。風邪でもひかないうちに早く戻った方がいい。
「駅まで行こう」
駅まで送って行こうとしたのだが、彼女は小さく首を振って動こうとしない。
「一緒にいたい」
そう言って、僕を見つめる彼女の瞳は少し潤んでいる。
「事務所に帰ろうか」
そういうと、彼女はこくりと頷く。
外にいると本当に風邪をひきそうだ。二人ともほとんど酒は呑めないから、近くの店でグラスを傾けて、というような選択肢は浮かんでこない。二人きりになるには、事務所に帰るのがいちばん落ち着くように思う。僕も彼女と離れたくない。
帰り道、ほとんど口をきかずに二人は歩いた。言葉などなくてもお互いの気持ちは通じ合っている。
街の灯りは二人を祝福するように瞬いていた。
翌朝早くトーストと牛乳で朝食をすませると、彼女はいち度家に帰ってくると言って日吉のマンションに戻っていった。ひとりになってみると昨夜のことが思い起こされた。珈琲をすする口元が自然と緩んでくる。
時に波間に浮かび、時に雲の上を漂い、肌が解け合うように、身体を流れる血液が混じり合うように、互いに求め合い、互いを与え合いながらひとつになった。
混沌とした意識のまま眠りに落ち、気がつくと窓辺に朝日が射し込んでいた。
仕事が手につかないまま、何となく雑誌を捲ったりテレビのニュースをつけてみたりしていたが、どれもぼんやりと眺めているだけで何ひとつ頭には入ってこなかった。
そうこうしているうちに彼女が帰ってきた。
「ただいま、センセ」
「あ、おかえり」
彼女は明るくいつもの華奈子だが、僕はどうも気恥ずかしくて言葉や仕草がどこかぎこちない。こういうところが男と女の違いなんだろうな、と思う。
「センセ、何してたの?」
「んー、何となく、何も……」
華奈子のことで気もそぞろだ。とても仕事どろではない。
「お仕事は大丈夫ですか? 私は邪魔にならないように、もうすぐ下に降ります」
今日は中番なので一緒にお昼食べたら仕事に行く、という。時計を見るともう昼に近い。
僕の方は、今のところ急ぎの原稿もないのでゆっくりしていても大丈夫だ。邪魔どころか、出来ることなら華奈子と一緒に過ごしたいが、逆に華奈子の仕事の邪魔をしてはいけない。
「時間がなかったから、有り合わせのものでごめんなさい」と、華奈子は買ってきたサラダや弁当をテーブルに並べ、「センセ、食べよっ」と僕をテーブルに促す。
華奈子と二人での食事はいつも愉しい。今までひとりで味気のない食事しかしてこなかった。どんなに豪華な食事でも、ひとりではやはり味気ない。大切な人と一緒であれば、どんな食事でも美味しくなるものだとしみじみと感じる。
「センセ、私のこと華奈子って呼ぶようになった」
夕べのことがあってから、僕は彼女を呼ぶのに「華奈ちゃん」から、「華奈子」に変わっていた。特別に意識してわけでもないのだが、自然とそう呼ぶようになった。
「ダメか?」
「違うの。ちょっと、嬉しい」
照れくさそうに「へへっ」と肩をすくめるような仕草をする。これがまた可愛い。
「それじゃお仕事行ってきまぁす」
食事を終えると手早く片づけ、華奈子はパタパタと下に降りて行った。
やはり気恥ずかしいような気持ちがあるのは、二人とも同じなのだろう。
ひとりになると、部屋は灯が消えたように寂しくなる。冬場なのでよけいに寒々しく感じてしまう。手持ち無沙汰でテレビをつけてみたりするが、面白い番組もなくどうも落ちつかない。
これではどうせ仕事にもならないから、外の空気でも吸って気分転換をすることにした。
厚手のジャケットを着込んで外に出てみると、今日も抜けるような冬晴れの空に真っ白い半月が浮かんでいた。
白は華奈子の色だ。はじめて私服で出会ったときからそうだが、必ず白い服を着ているので、華奈子には白というイメージがある。そして白という色がよく似合う。
それは白地に細かな草木や花柄の入ったワンピースだったり、上が濃い色のときは白のスカートや白いパンツだったり、またはその逆に上に白系のものを着ていたりと、必ずどこかに白い色がくる。今日も白いマフラーをしていた。
ぶらぶらと目的もないまま歩いていると、クリスマスセールの文字が踊る元町商店街が見えてきた。
そうだーークリスマス。
華奈子に何かプレゼントしよう。そう思いながら店先を覗いてみるのだが、鞄、靴、服、アグセサリー等どれも良さそうだし、どれも違うような気がして、何がいいのか判断に困った。
結局、元町商店街を一往復半したところで諦めた。途中で買ったのは珈琲の豆が二百グラムだけだ。
どうしたものかと思案しながら信号待ちをしていた。ふと隣りのカップルの話し声が耳についた。二十歳前後と見えるカップルは、戯れ合いながら話があちこちに飛ぶので、何の話なのかよく分からない部分も多かったが、要約すると、クリスマスディナーの予約をどこにするか、という内容だった。
単純にクリスマスプレゼントは『物』でしか考えていなかったが、『二人ですごす時間』という選択肢もあるのだと気がついた。
作家ともあろう者が想像(創造)力が足りない。だから売れないのだ。そう自虐的な境地にはいる。
信号をわたるとすぐのコンビニに入り、「クリスマスディナー特集」を掲載している雑誌を一冊買った。
足早に事務所に戻り、先ほど買ってきた珈琲を煎れ、雑誌の頁を捲る。
一流ホテルのスカイラウンジで夜景を見ながらというのもいいし、こだわりの小さな店で心のこもった料理を愉しむというのも捨てがたい。バブルの頃のようなことはないにしても、早目に予約をとらないと既にキャンセル待ちの可能性もある。
自分ではあまりセンスのいい方だとは思っていないから、どの店にするかはまず華奈子に相談してから決めた方がいいと思う。仕事が終わったら事務所にあがってくるはずだから、夕食を食べながらでも話をしよう。
華奈子とすごすクリスマスを想うと胸がはずんだ。
クリスマスイブ前日、そして天皇誕生日にあたる祝日の十二月二十三日。
早番であがってきた華奈子は、大きな紙袋を提げて事務所に入ってきた。
「メリー、メリー!」と、華奈子の弾けるような笑顔に事務所の空気は一瞬でぱっと明るくなる。メリーに続くはずの「クリスマス!」がないのは華奈子なりのご愛嬌だろう。
「クリスマスはどこ行った?」という僕の問いに、
「今、向かってるとこ。明日到着予定でぇす」と、即答。
まぁ、理屈としては合っているような、いないような……。
「サンタさんからセンセの分のプレゼント、先にもらってきた」
華奈子は持ってきた紙袋から大きな箱を取り出し、「ジャジャーン」と効果音つきでテーブルの上に置いた。
「これでカプチーノもバッチリ!」
箱から出てきたのはエスプレッソマシーンだった。最初にここに来たとき僕が言ったことを覚えていてくれたのだ。
おお、と歓声をあげる僕に「でも、お店にも来てね」と華奈子はいつもの小首を傾げた仕草で言う。
すぐに一通りをキッチンで洗い組み立てると、部屋の中にプシューっという独特の音と珈琲の香りが漂いはじめる。
マシーンは華奈子が店で使っているものと同じメーカーの小型のものだ。店と同じ業務用では大きすぎるし価格も張るから、使い慣れた同じメーカーの家庭用の小型のものを卸値で買ったのだろうことは想像に難しくない。
「サンタさんから先にもらってきた」という華奈子独特の優しさに心が打たれる。
記念すべき一杯目をひとくち飲んで「ん?」と思った。
華奈子としたことが、――足りなくないか?
すぐにそれを悟った華奈子は、「へへ、サンタさん、シナモンパウダー忘れたみたい」とコロコロ笑う。
「サンタさんも忙しいからね」
僕はそう言って、火傷しないようにカップを口にはこぶ。予定外のカフェラテになってしまったが、これはこれで店で飲むより美味しいかもしれない。やはり華奈子が煎れてくれたからだろうか。
ひと心地ついたところで、そろそろ出かける準備をする。
「え、まだ早いでしょう」
洗い物をしながら華奈子は言う。
確かに早い。だがその前に行くところがあるのは、まだ華奈子に言っていない。僕もたまには「ナイショ」を使わせてもらう。
雑誌を買ってきたあの日、仕事を終えてきた華奈子に「クリスマスディナーに行こう」と話しをすると、「きゃぁー嬉しい!」と、すぐに同意してくれた。
いくつかの候補を絞り電話をしてみると、どの店もすでに予約でいっぱいだという。
不景気とはいえ、やはり年に一度のクリスマスくらいは、大切な家族や恋人と特別な夜をすごしたいのだ。かくいう自分たちも、その中のひと組ではある。
自分ひとりのときは、普段よりトッピングを豪華にしたクリスマス牛丼とか、クリスマスラーメンとかを食べていたのだが、華奈子と一緒にそれはないだろうな、と自重する。断っておくが自主的に命名をしているだけなので、そんなクリスマスメニューはない。
とにかくこの時期は、和食、洋食、中華に関わらずレストランと名のつくところはほとんどクリスマス特別メニューになっていて、それなりに集客効果をあげている。フライドチキンを扱っているファーストフード店にも長蛇の列。辛うじて通常営業なのは、今や日本の国民食たる牛丼屋とラーメン屋(蕎麦屋含)くらいだ。純日本食の代表格である寿司屋でさえクリスマスには混んでいるから不思議だ。
外でのクリスマスディナーは諦めようかとしていたとき、僕がコラムを担当している雑誌で、何ヶ月か前に山手のイタリア料理店が紹介されていた記事をふと思いだした。アットホームで暖かそうな店だな、と思った記憶がある。
本棚を捜してみると、十月号に目指す記事は載っていた。
グルメ雑誌でもなければお店の紹介記事でもない。脱サラ、起業、ベンチャーなどといった気鋭の人々を紹介する記事だ。
すぐに電話をいれてみると、二十三日なら予約がとれるというので、それでお願いした。華奈子もちょうど早番で時間的にも余裕がある。
「少し寄っていきたいところがあるから」
そう言うと、「はぁい」と言って素直についてきた。
僕の腕に絡み付くように上機嫌で歩く華奈子は「シャンシャンシャン」と小さな声で呟いている。何だろう、と思って訊いてみる。
「サンタさんの鈴の音」
どうやら華奈子にはサンタの鈴の音が聞こえるらしい。細かいことをいえば、鈴をつけているのはサンタではなく、トナイカイだと思うのだが……。まあ、そんなことはどうでもいいか。
明日の二十四日に日本到着予定でこちらに向かっているらしいから、今はインドか中国あたりだろうか。北廻りでくればシベリア上空かもしれない。この冬空に空を飛ぶのも寒いだろうにな、などと余計なことを考えているうちに目的地に到着。
「ここ?」
華奈子は不思議そうに尋ねる。さっきまで華奈子の頭の上にはサンタのソリが駆けていたが、今はクエスチョンマークがぐるぐると旋回している。
「クリスマスプレゼントになるかどうかわからないけど、いい記念になると思って」
僕たちが訪れたのは写眞館だ。
なかなかいいプレゼントが思い浮かばずに歩いているとき、ふと目に留ったのがこの写眞館だった。通りに面したウインドウにいくつかの写眞が飾られていた。ハイハイしている赤ちゃん、七五三の姉と弟、ウエディングドレスの女性。その中でも心を動かされたのが金婚式の記念だろうと思われる老夫婦の写眞だ。
いつ撮られたものかは分からなかったが、年齢からするとたぶん戦争の体験もあるだろうことは推察できる。そして結婚してから半世紀という長い時間をともに生きてきたのだろう。現代の僕たちには想像も出来ないくらいの艱難辛苦をふたりで乗り越えてきたのだと思う。そんなことは微塵も感じさせないくらい、写眞の中のふたりはとても幸せそうな笑顔で写っていた。
そうだ、毎年とはいわないまでも何かの機会に、記念になるようにふたりで写眞を撮ろう、とこのときに思った。写眞ならいつも身近なところに飾っておけるし、年齢を重ねるごとにふたりの歩みが分かる。
最初は若いふたりだけだが、歳が経つにつれて子供ができ、やがて孫たちに囲まれるような写眞になることを想像していると愉しくなる。そうやってふたりで年老いていくのも悪くないと思う。
予約しておいたので、名前を告げるとすぐにスタジオに案内された。
華奈子はセットされた中央の椅子に腰掛け、僕はその脇に立つ。基本的にその姿勢を崩さずに、幾つかのカットを撮って無事に終了した。写眞は一週間後に出来上がるとのことだった。
写眞館を出ると、西の空に僅かな茜色の雲を残し澄んだ夜空が広がりはじめていた。空気が冷たく、息が白くなる。
ハァー、ハァーと、子供のように白く吐き出される息を華奈子は面白がっている。
「子供みたいだ」
「だってセンセ、私が子供のころはこんなことできなかったモン」
そうだった。沖縄で育った華奈子は時には氷点下になるような冬をあまり体験していないのだ。逆に僕は暖かい冬の体験がないから、お互いにきっと別世界の出来ごとのように思えるのだろう。環境が違うと感じ方も変わるからとても面白い。
「緊張したね」と華奈子が言うので、「興奮したね、の間違いじゃない?」と返した。
「センセのイジわる」
口を尖らせて少し頬を染めているのは、寒さのせいだけではないだろう。どうやら図星のようだ。
最初は写眞を撮ることに驚いたようすだったが、スタジオに入って椅子に座らされたとたん、急に笑顔をつくって自らポーズをとりだした。写眞を撮っているあいだ、華奈子の上気した顔がキラキラと輝いていた。むしろカメラの前で引き攣った笑顔を張り付かせていたのは僕の方だった。
写眞を撮るというクリスマスプレゼントに、華奈子が喜んでくれたことは僕としても満足している。悩んだ甲斐があったというものだ。
「早く出来ないかなぁ。お昼寝したら早く出来るかなぁ」
まるで小さな子供が、指折り数えて待つクリスマスプレゼントのようだ。
冗談でやっているのかと思うくらい、こういうときの華奈子は純真無垢な子供に早変わりする。世の中にはわざとそういったフリをする人もいるが、あれはとてつもなく見苦しい。華奈子は芝居がかってそうしているのはなく、身体の内側から素直な気持ちが溢れ出してくるのだ、ということがこちら側に真っすぐ伝わってくるのだ。天然が入っているのも、そのあたりの要因が大きく影響しているのだろう。
しかして、一週間後の写眞の出来上がりが楽しみなのは、僕も同じではある。
クリスマスのイルミネーションで賑わう元町商店街を抜け、静かな山手の坂を歩く。振り返ると坂の下には華やかな色彩の波が見渡せる。ここにもクリスマスのイルミネーションが飾られた住宅が見受けられるが、商店街の賑やかさとは対照的にとても静寂で、聖なる静けさを感じさせる。遠くからソリのシャンシャンシャンという鈴の音が聞こえてきそうだ、と思っていると「シャンシャンシャン」と華奈子が小さく口づさんでいた。
それを見て吹き出してしまった僕に、「だって、聞こえてきそうでしょ、シャンシャンシャンって」という。
まったく同じことを感じていたんだな、と思ったらまた吹き出してしまった。
「何がオカシイの?」
「同じこと思ってたな、と思って」
「シャンシャンシャンって?」
「そう。僕も聞こえてきそうな気がしてた」
「以心伝心だね」
華奈子は嬉しそうに僕の腕にしがみついて口づさむ。
「もぉー、いぃーくつ、ねぇーるぅーとぉ、くぅりぃすぅまぁすぅー」
「お正月だろ?」
年末年始がごっちゃになっている。まさに和洋折衷だ。
「ま、いいか」
「あれぇ」と言いながらも、華奈子は同じ歌詞を歌う。
ついに自分でも可笑しくなったのか華奈子も吹き出した。
予約していてレストラン「なごみ」はすぐに見つかった。住宅地のなかにひっそりと、というのがふさわしい造りで、意識していなければそこにレストランがあることを見過ごしてしまうかもしれない。店を飾るイルミネーションも派手派手しくなく、周りにとけ込んで聖なる夜にふさわしい瞬きをみせている。
五つほどのテーブル席は間隔も広くとってあり、隣りの席に気をつかうこともない。食品輸入会社を脱サラして始めたという夫婦ふたりの店は、とても暖かなな空気に包まれている。
料理を運んでくる間に奥さんに話を訊いてみると、半年ほど前の開店当初から、グルメ雑誌の取材は断っているという。雑誌を見てお客さんが来てくれるのは嬉しいのだが、出来れば口コミでお客さんがお客さんを呼び、長いおつき合いをしてくれる関係を大切にしたいのだそうだ。
僕がたまたま雑誌の記事を覚えていて、それで予約の電話を入れたことを告げると、あれはシェフであるご主人の友人が編集部にいて、脱サラとか起業家という観点で取材させてくれと言うから、仕方なく受けたとのことだった。
お店の名前「なごみ」も、イタリア料理には必ずイタリア語の洒落た名前を付ける、という世間の不文律に納得できないご主人が、気取らずにご近所のお年寄りでも和める場所にしたい、という意味を込めてあえてひらがなで「なごみ」とつけたそうだ。
僕がその雑誌にコラムを書いていることは言わずにおいた。隠す必要もないのだが、わざわざ名乗り出ることでもない。僕もご主人ー吉田さんーの気持ちがわかる。
ハウスワインだという赤ワインをグラスでもらったが、これも渋みがなくフルーティーで深い味わいのするものだった。華奈子も美味しいと言って、呑めないわりにはご満悦だ。
店の雰囲気もさることながら、料理の味もセンスもじゅうぶんに納得できるものだった。
またお越しください、と丁寧な見送りを受けて店を出ると、キンと音がするほど冷えた空に、クリスタルの結晶のようなオリオン座が輝いていた。綺麗だね、と言う僕に「オリオン座の次にギョーザが好き。でもセンセがいちばんスキ!」と、わけの分からないことを言って華奈子が僕に抱きつく。
「酔ってる?」
ワインをグラスに半分しか飲んでいないのだが、華奈子も僕もそれでじゅうぶんなアルコール摂取量になる。
「きゃ、センセ、幼気な乙女を酔わせて何するの? イヤラシぃ」と、はしゃいでいる。もうこうなると、酔っているのか天然なのかさっぱり分からない。吹き出して笑い転げるふたりの声が静かな山手の丘から夜空に抜けていった。
|4|
今日も順調に筆は進んでいる。
華奈子といっしょにいることで、僕は恋愛の機微を筆に載せて紡ぐことが出来ている。新人賞のとれなかった頃が嘘のようだ。
執筆中の作品について華奈子は興味本位で訊いてくることもないし、僕もあえて教えることもしない。時たま女性の心理について尋ねることはあるが、華奈子もそういうときは天然が顔をだすこともなく、的確なアドバイスをしてくれる。優秀な秘書でもあり、公私ともに最大の支えになつてくれている。
無神論者の自分でも、華奈子と出会えたことだけは天に感謝してる。
珈琲を煎れてメールを確認すると、いくつかの広告メールと編集者からの返信メールがあった。文芸雑誌用の短編を昨日の午前中に送稿していたので、その返信のメールだ。自分でもいつになく満足した出来映えだったが、メールの内容もそれを後押しするような言葉が並んでいた。大筋で改稿の必要はなく、ゲラが近々に送付されてくるとのことだ。
あの頃は受賞する日を夢みて一心不乱に書いていた。書いても書いても最終選考まで残ることもなく敗退の日々だったが、挫折することはなかった。いつかこんな日がやってくることを信じて書き続けていた。最後の望みを託した小説が受賞したものの、それまで書いていた「ラブストーリー」とは路線の違うものだった。
だから諦めていた。自分の描くものはこちら側にあるのだと思い続けてきたし、それで今日まで作家として生きてきた。いくつかのコラムや解説文も、依頼がくるたびにそつなくこなしてきた。
華奈子と出会い、創刊三十周年記念という機会を得て、自分の原点に立ち戻ってみることが出来た。鬼門とも言える「ラブストーリー」をようやく上梓することが出来る。
すべては黄金色に染まる晩秋の並木ではじまった。あの日、華奈子という天女が舞い降りてきてくれたことで、無味乾燥したモノトーンの毎日が鮮やかな色彩を纏うようになった。
クリスマス前から書き進めている小説がある。これは創刊三十周年とは関係なく、僕と華奈子の記念になるよう作品として筆を進めている。もちろん「ラブストーリー」だ。
小説であるからそれなりの展開や脚色はつけるが、出来るだけ僕と華奈子の実話を元にした物語を描くつもりでいる。これが出版され、書店に並ぶ日が待ち遠しい。
華奈子は何と言うだろうか。喜んでくれるといいのだが。
原稿を書きながらふと気づくと、もう部屋が薄暗くなってきていた。冬場は陽の落ちるのがほんとうに早い。冬至を過ぎたからといって急激に陽が延びるわけでもないし、暖かくなるわけでもない。むしろこれから一月、二月にかけてが冬本番だ。
電気をつけると、それまでの暗さを思い知らせるかのように部屋が明るくなつた。
「センセ、ただいまぁ」と華奈子が帰ってきた。部屋の灯り以上に華奈子の声が部屋を明るくする。ここのところ華奈子は、シフトで休みの前日はここに泊まることが多くなっている。僕はもちろん歓迎だ。
「おかえり。どうだった?」
今日はシフトが休みなので、友達と服を買いに行くと言って午前中から出かけていた。一般的な会社勤めとは違ってサービス業に従事していると、土日の休みというのがなかなかとれない。やはり華奈子と同じように土日に休みのとれない百貨店勤めの友人と、平日の休みが合う時はよくふたりで出かけるらしい。
ジャーン、と言って紙袋から白いマフラーを取り出す。
ん?
白いマフラーは持ってるだろうに、と思うあいだに華奈子はそれを僕の首に巻きだした。
「似合う、似合う」
白いマフラーを巻かれてきょとんとした僕を、面白がるように手を叩いて華奈子ははしゃぐ。
「センセ、お揃いで初詣行こっ!」
「初詣?」
唄の文句ではないが、もういくつ寝るとお正月。世間では初詣。
華奈子のマフラーと同じものなのかは判断できないが、要するにふたりで白いマフラーをしたお揃いの格好で初詣に行こう、という魂胆らしい。可愛いものだ。
「僕のなの? コレ?」
「そう、私とお揃い。イヤだぁ、センセ、イヤラシぃ」
お揃いにしたのは華奈子だし、そこに僕の意思は介入していないのだ。そして、イヤラシぃことはしていない。いや、昨夜は華奈子と……って、そういうことではないのだ。
「センセ、イヤラシぃこと想像したでしょ?」
なぜ、分かる?
「イヤラシイぃ。皆さぁーん、この人チカンですぅ。キャー、触らないで!」と言いながら、言葉とは正反対に僕の首に抱きついてくる。しかも頬にキスまでして――。
そうかと思うと、コロコロと笑いながら次にはもうエスプレッソの準備をしている。
天然の成せる業なのか、それともこれが女心というものか。何がしたいのか、さっぱり理解不能だ。
マフラーはありがたく頂戴する。マフラー以上に華奈子の優しさに心が温まる。
「どこがいいかなぁ、初詣」
淹れたてのカプチーノをテーブルに置いて華奈子が言う。
この近くに神社あったかな? 関帝廟は神社じゃないし、外人墓地のあたりは教会か。
「やっぱり鎌倉かな。鶴岡八幡宮」
ゲッ、そこにきたか。
殺人的に混むんだよ、あそこは。と、言っても鶴岡八幡宮に行ったことはあるが、実際に初詣には行ったことはない。毎年、大晦日から正月三が日にかけて初詣で混み合うテレビの映像を見て知っているだけだ。明治神宮、鶴岡八幡宮、川崎大師、他にも有名どころは、ラッシュのホーム並みに殺人的な混み具合だ。だからいつも、初詣には行かないことにしている。まあ、それ以外でもめったに行くことはないのだが。
「行きたいの? 鎌倉」
「初詣に行かないとバチあたるよ、センセ」
そんな話は聞いたことがない。――が、今までバチがあたっていたのだろうか。華奈子に出会ったのは、むしろご褒美のように思えるのだが。
「はちまんぐぅ、行こ」
既に決定事項のようだ。
「いつ行くの?」
恐る恐る訊いてみた。華奈子も年末年始は仕事があるはずだし、夜中に電車も走っていないだろう。
「大晦日から鎌倉で年越し蕎麦食べてぇ、除夜の鐘が鳴ったら八幡宮で初詣してぇ、それから海で初日の出を見るの、ふたりで」
すっかりタイムスケジュールまで出来上がっている。
「電車は動いてるの?」
そう、僕は車を持っていないので、交通手段がなければ行かれないし、帰れない。
「へへ、JRも江の電も終夜運転だって。三十分おきみたいだけど、大丈夫」
僅かばかりの抵抗も、ベルリンの壁よろしくあっけなく崩壊してしまった。
そんな気はしてたんだ。公共交通機関の皆様、お仕事ご苦労さまです。
「仕事は大丈夫なの?」
ベルリンの壁がダメなら、次は万里の長城だ。仕事は休めまい。
「へへへ、大晦日は早仕舞いして、元日はおやすみぃ〜」
ガラガラと大きな音を発てて、目の前の万里の長城が崩れさってゆく。完敗。
潔く初詣に行くしかないようだ。今回に限っては、華奈子に出会えたことを神に感謝しに行かなければ。それこそバチがあたるかもしれない。
大晦日。快晴。天気予報によると、明日の朝も晴れるらしい。初日の出にはもってこいの天候だ。その分、夜間の放射冷却でかなり冷え込むから注意が必要とのことだ。華奈子とお揃いのマフラーが活躍するだろう。
今日は早仕舞いするからと、張り切って華奈子は仕事に行った。おソバ、おソバ、歌いながら降りていった。
今日は原稿を書かないことに決めていたので、夕方まで大掃除をしながら華奈子を待つ。大掃除といっても日頃から華奈子がまめに掃除をしてくれているので、本棚のホコリを掃除するくらいしかやることはない。それも終わってしまうと、雑誌の整理をはじめる。
書籍は無条件保管するが、雑誌の類いはある程度は処分しないとすぐに山になってしまう。雑誌の記事は一過性のものが大半なので、何年も経つとあまり役にたたないことが多い。資料として残しておくものと、処分するものを分別する。そうこうしていると華奈子があがってきた。
「おソバ、おソバ」
まだ歌っている。
「ささ、センセ、行きましょ」
陽気なメロディー、というかラップだなこれは。
駅までの徒歩をいれて、関内駅からJRで鎌倉駅までざっと一時間。仕事納めも過ぎて都心部はガラガラかとと思いきや、電車には結構な人が乗っていた。グローバル化の影響もあってか、年末年始は日本全国一斉休業という慣習も薄れてきた昨今、普段通りに仕事をしている人も以外と多いようだ。
鎌倉駅で八割方の人が降りると、皆一様に同じ方向へと歩いていく。その人の流れは江の電の駅から吐き出された人の支流と一旦合流し、その先でまた二手に別れる。本流は小町通りへ、その支流が若宮大路へと流されていく。そして雪ノ下まで平行して流れた後、最終的な合流地点の鶴岡八幡宮へと吸い込まれていく。
鎌倉の鶴岡八幡宮、若宮大路、小町通りというのは、東京・原宿の明治神宮、表参道、竹下通りの関係とよくにているように思う。特に小町通りも竹下通りも足を踏み入れたら最後、人の波に抗うことも許されず、流されるままに進むしかない。
「センセ、凄いヒト」
華奈子は駅を降りるあたりからやや興奮ぎみだ。その興奮に水をさすように、華奈子の手をひいて流れとは反対に向かって進む。
「センセ、どこ行くの?」
あの流れの中に入っていくと思っていたのだろう。少し怪訝な顔をしている。
ところが、そうは問屋が卸さないのだよ、ワトスン君。
「ソバいくだろう?」
「うん。でもあっちじゃぁ……」
大渋滞の小町通りに後ろ髪をひかれるらしい。
「あの人ごみじゃ無理だよ。とても店になんか入れない」
「でも、おソバ」
まさかあそこまでの人ごみを想像していなかったのだろう。鎌倉での年越しソバを諦めざるを得ないと思ったのか、しょんぼりしを下をむく。「大丈夫だよ。ちゃんと確保してあるから」
華奈子の諦めモードだった顔にぱっと光がさす。単純というか、とても分かり易い。
この時期の鎌倉の殺人的な混み具合など先刻承知の介だ。こいうときに役に立つのがネットワークだ。伊達に作家家業で生きてはいない。と言うか、たまたまなんだけど。
いま僕がコラムを書いている雑誌の前担当者が、都合のいいことに蕎麦屋の息子だ。しかも図ったように鎌倉ときてる。これを利用させてもらわないと、もったいないお化けがでる。昨日のうちに連絡はつけておいたし、場所も確認済みだ。万事抜かりなし。
「へぇ、センセ、すっぐぉい」
経緯が分かった華奈子は羨望の眼差しで僕を見る。
やるときゃ、やるのよ。
意気揚々で向かった先は由比ケ浜の住宅地の一角なのだが、慣れない鎌倉の細い裏道を通ったものだから曲がり角をひとつ間違えたらしい。
「センセ、ほんとにあるの? お店」などと華奈子にブツブツ言われながら、当てずっぽうにいくつか角を曲がると、唐突に目指す蕎麦屋が現れた。
何とか面目がたったと安心するのと同時に、予想外の豪奢な店構えに息を呑んだ。「由比ケ浜の住宅地にある蕎麦屋」というだけで、他に何も事前情報を聞かされていなかったから、所謂「町の蕎麦屋」さん、を漠然と思い描いていたので少なからず驚いた。
そこは生け垣に囲まれたお屋敷である。この店構えでは一見さんの寄付くことはないだろう。予約をするのも気がひけそうだ。
打ち水のされた石造りの通路を入ると、左手の庭園には大きな池が見える。店内も静かで落ち着いた荘厳な雰囲気がある。よく見ると装飾や調度品も贅を尽くしたものが使われているが、決して主張することなく控えめで且つ確実な存在感がある。
名前を告げると、すぐに池の見渡せる窓際の席に案内された。他のテーブル席は満席状態で、どうやら奥にも個室があるらしい。
「センセ、すごいよ。こんなお店はじめて」
ずっと息を殺すようにしていた華奈子が、囁くような小声で言った。
「そんなナイショバナシみたいに話さなくても大丈夫だよ」
華奈子に合わせて僕も小声で話す。
オーダーをとりにきた仲居さん(という表現が正しいように思う)にお奨めを訊いて、それに決めた。僕は店の名前がついたスペシャル御膳、華奈子はレディース御前だ。店の雰囲気から、ざるソバ一丁、ってなオーダーはし難い。電話をした前担当者の手前もあるし。あの殺人的な人ごみの中で長時間並ぶことを思えば、まるで天国のようではないか。
出された料理はとても美味しかった。ここは本当に蕎麦屋かと思うほど、一般的なソバの領域を遥かに超えて、それはもう懐石料理と言える素晴らしいものだった。
食事を終えて外に出ると、そこは大晦日で賑わう鎌倉とは思えない静けさに包まれ、深々とした夜空には星が瞬いている。
「何だか違う場所にいるみたい」
そう言って夜空を見上げる華奈子の瞳は、小宇宙に浮かぶ星のように煌めいている。 忙しない日常生活から離れ、古くからの家並みの中を歩いていると、タイムスリップでもしたような錯覚に陥ってくる。
往路で失敗したので、復路は若宮大路を真っすぐに歩いていくことにした。人は多いが、これなら迷いようがない。
普段ならもう人通りのほとんどない時間帯のはずだが、大晦日だけあって人通りもさることながら終夜営業の店が多い。
小町通りの人ごみを避け、若宮大路の段葛を抜けるが、こちらも人が多いので進む速度が遅くなる。
やっとのことで鶴岡八幡宮に辿り着くが、既に人いきれで酔いそうになる。年が代わるまで急ぐこともないので、ゆっくりと屋台をひやかしながらぶらぶらとする。焼きそば、焼き鳥、とうもろこし、リンゴ飴などお馴染みの屋台が所狭しと並ぶ。食事の跡なので触手が伸びることはなかったが、華奈子が「鳩サブレが食べたい」というので、仲良く一枚ずつ食べた。
源氏池に映る灯りを眺めていると、除夜の鐘が鳴り響いた。テレビで見聞きするのとはやはり趣きが違う。肚の底に染み渡るような音色には荘厳な響きがある。
人の流れに沿って階段をあがり、お参りをする。
「お賽銭は穴のあいた貨幣がいいのよ」と言う華奈子の忠告に従い、「ご縁」という意味合いで五円玉にした。
柏手を打って合掌し、華奈子に会わせてくれたことを感謝した。顔をあげて横を見ると、華奈子は真剣な表情で長いことお願いごとをしていた。
「何をお願いしてたの?」と訊くと、
「ヘヘ、それはナイショでぇす」と言って教えてくれない。いつものナイショ戦法だ。
「センセ、おみくじ」と言うが早いか、おみくじのところに向かおうとするのだが、華奈子ひとりでは人を掻き分けて進むのができない。仕方がないので華奈子の手をひいておみくじを引きにいく。
ふたりとも「吉」をひいたことに華奈子は喜び、次はお守りを買いにいくという。これまた人ごみを掻き分け、足を踏まれながらも何とか購入にこぎ着けた。
華奈子は鳩の形をした「鳩守り」をふたつ買うと、ひとつを僕にくれた。八幡宮の神の使いが鳩なのだと、巫女さんの格好をした売店のお姉さんが言っていた。
僕は、華奈子にその説明をしている彼女はアルバイトなのか、本当に巫女さんとしてここにいる人なのだろうか、と埒もないことを考えていた。華奈子があの紅白の衣装を着たところを想像してみると、不思議なことによく似合う。
「鳩さん可愛いね」
華奈子は「鳩守り」を顔の前でゆらゆらと揺すりながら歩いている。
「あの巫女さんって、アルバイトかな?」
「へ?」
華奈子の言葉に驚く。どうして僕の思っていたことが分かった?
本当に神通力でもあるのか、よく僕の思っていることを言い当てられる。そして、決まって「イヤラシぃ」で話に落ちがつくのだが、僕はイヤラシぃことなどしていない。
……たぶん。
「あの巫女さんの衣装って可愛いよね。一回でいいから着てみたいなぁ」
僕は巫女の衣装に身を包んだ華奈子を再び想像してみる。ん、やっぱり似合う。
「センセ、イヤラシぃこと想像してたでしょ?」
ほら来た!
「してないって。あの衣装を着たら似合うだろうな、って思っただけだよ」
「何かイヤラシぃ想像してない?」
「してません。……たぶん」
華奈子があんまりイヤラシぃって言うものだから、頭の隅でちょっとだけ、ほんの一瞬だけ想像してしまった。
「ほらやっぱり」
官能的な想像にちょっとだけ目が泳いだのを華奈子は見逃さない。
「皆さぁん、この人チカンでぇす」
「おいっ」
周りの人が怪訝な目で僕を睨む。この人ごみでは逃げ場がないではないか。
「へへ」っと、華奈子は小さく舌を出して笑う。
「なんでもないです、すみません」と僕は周りに言い訳をする。――ったくもう。
「センセ、イヤラシぃことすると逮捕されちゃうよ。タイホ」
そもそもイヤラシぃ想像をさせたのは華奈子だろう。
八幡宮を出るまで僕のチカン疑惑は尾をひいていて、ぞろぞろと固まって歩く人たちが横目でちらちらとこちらを窺っているのが痛いほど伝わってきた。次に彼女がチカンだと騒いだら、きっと僕は寄ってたかって取り押さえられて、お縄についていただろう。下手をすればそのままお役人に突き出されて、投獄。お白州でいわれの無い裁きを受けて、打ち首。三ッ葉葵の印籠もなければ大岡裁きもない。――何てことだ。
八幡宮を出て信号を渡ったところで、やっと生きた心地がしてきた。境内の人ごみから解放されたのと、チカン疑惑の刺さるような周りの目から解放されたからだ。真冬だというのに背中にはびっしよりと汗をかいていた。
華奈子にそれを話すと、本気であきれられた。
「センセ、可愛い」
ホントに痛かったんだって。失敗した、話さなければよかった。
今度は小町通りを歩きたいという希望をいれて、そちらに足を向ける。
「うっそぉ、すごいひとぉ」
小町通りの入り口で立ち止まった華奈子は驚きの声をあげた。
それはまるで三連休のど真ん中に昼下がりのJR原宿駅を降りて、竹下通りの入り口に立った瞬間に誰もが口にするセリフと同じだろう。大晦日の小町通りも同じ状況だ。ただでさえ狭い通りは人で埋め尽くされ、そこに入っていくにはかなりの覚悟が必要だ。
「な、だから言っただろう」
この殺人的な混み具合を見て、あっさりと諦めてくれることを願った。誰が好き好んでこんなところに入っていくよ。生きて出てこれないかもしれないじゃないか。
ところがどっこい、神様というのは悪戯好きなのか、華奈子の口からは信じられない言葉が飛び出した。
「面白そう!」
「んが?」
耳を疑うというのはこういうことかと、そのときにはじめて知った。
この『山手線乗車率二百パーセント!』のような人ごみの中に、あえて挑んでいこうというのか? しかも、面白そう?
「センセ、早く行こっ!」
そんな僕にはお構いなく、華奈子は僕の手を引っぱって突撃体制に入る。
「うわっ、ホントに行くの?」
すっかり腰が退けている僕とは対照的に華奈子はどんどん中に入っていく。
煎餅屋、漬物屋、天津甘栗、その他いくつもの店で試食し、買い物をして、鎌倉駅前まで何とか生きて出てきたときにはへとへとになっていた。もちろん荷物持ちは僕だ。
「ふぅ、疲れたね、センセ」
あの殺人的な人ごみの中で、あれだけ動き廻れば疲れない方がおかしい。しかし、どうも彼女の「疲れた」は僕の疲労困憊というのとは種類が違うようだ。
「おウチ帰ろうか、センセ」
「初日の出はどうするの?」
「へへ、おネムになってきた」
鎌倉の八幡宮で初詣してから海で初日の出を見たい、と言いだしたのは華奈子の方なのに、初詣と買い物でもう満足したのだろう。達成感のこもったさっきの「疲れた」が、全てを言い表しているような気がする。
「それじゃ帰るか」
僕もへとへとだし、両手いっぱいの煎餅やら漬物やら抱えて海まで歩くのは億劫なことこのうえない。帰宅の意見に反対する理由がない。むしろ推奨するし、奨励もする。
話が決まれば退散に素早く取りかかる。ちょうど目の前にはJR鎌倉駅の駅舎が見える。
券売機でだいぶ並んだが、華奈子の気が変わらないうちに、そそくさと昇りのホームに向かう。深夜だというのにホームでは大勢の人が電車を待っていた。三十分おきにしか電車はこない。
電車は混んでいたがタイミングよく座ることが出来た。大船の観音さまを過ぎたころ、隣りで華奈子が寝てしまっているのに気がついた。
やはりあの人ごみで疲れたのだろう。それに普段なら熟睡してる時間でもある。
あどけない寝顔を見ていると、とても幸せな気持ちになれた。ふたりでいつまでも幸せにすごせますようにと、僕はもういちど神さまに祈る。
何気なく見上げた車内の中吊り広告に目がとまった。初詣は○○神社に、というコピーのところに巫女さんが写っている。さっきは華奈子の「イヤラシぃ」攻撃に遭ってしまったが、絶対に似合うと思う。やはり、いち度は着せてみたいものだ。もういちど中吊り広告を見上げながら、あの元町の写眞館に巫女さんの衣装あったかな、と考えて頬が緩んだ。
|5|
華奈子との平穏で温かく幸せな日々は続いている。
華奈子独特の「天然」に翻弄されつつも毎日が愉しく、そして仕事の方も適度に忙しい。順調という表現がいちばん合っているように思う。
華奈子が休みの日の前日は泊まっていくことが多くはなったが、それ以外は基本的に自宅マンションに帰る。ここは元々がSOHO用の造りで、居住には向いていなくお世辞にも便利とは言いがたい。自分ひとりだけなら何ら不便もなかったが、若い女性が落ち着ける空間ではない。
それでも、華奈子が常に欠かさない窓辺の花や、キッチンの小物、申し訳ていどの狭いユニットバスに置かれた化粧品の小瓶など、無味乾燥し事務所然としていた空間に少しずつ彩りが加わってきた。
シフト休みの華奈子は、朝から百貨店に勤める友人とバレンタインの買い出しに出かけていった。まだ一週間ほど先がバレンタインデーなのだが、友人との休みが合うのが今日しかないと言っていた。僕の分のチョコレートも仕入れてくると言っていたので、彼女の帰りを実は楽しみに待っている。
僕は甘党党首を自負するくらい、甘いものが大好きである。また甘党であると同時に辛いものも同じくらい大好きなのである。その振り幅が大きく、どちらか一方に偏ることがなく、ついでに塩っぱい、酸っぱいも大歓迎だ。決して味音痴でないことだけは言い添えておく。
冬の斜陽が街をセピア色に染めるころ、その友人を連れて華奈子が帰ってきた。
「ただいまぁ、センセ」
「すみません、おじゃまします」と少々おっかなびっくりという体で、その友人が華奈子に続いて入ってきた。
「ユリちゃんです」
華奈子は荷物を置きながら、その友人を紹介した。
長めのストレートを後ろで束ねた黒髪に、明るめのシュシュがよく似合っている。化粧は薄めで服装も品よくまとまっている。僕の勝手な想像では、茶髪で濃いめの化粧という、百貨店一階の化粧品売り場にいそうな「お姉さん」をイメージしていただけに、予想を大きくはずした。
「はじめまして、宮原といいます」
姿勢もよく、きっちり四十五度のお辞儀。さすがにサービス業。礼儀正しい。
「あ、どうも、青山です」
椅子に座ったまま、ちょこんと頭をさげる。僕の方がよほど礼儀を欠いている。
「本当だったんですね」
事務所の壁面に並んだ本棚を見ると、遠慮がちにユリが言った。
何が? という疑問が口から出る前に、すかさず華奈子がフォローにはいる。
「ユリったら信じてないのよ。失礼しちゃうわよね。だから晩ご飯いっしょに食べよって連れてきた」
なるほど。今、自分が作家の青山一樹と交際(言い切っていいのか?)しているということか。女性どうし仲のいい友だちなら、当然そういう恋愛話になるだろう。ましてや今日は、ふたりでバレンタインのチョコレートを買いに行ったのだからなお更だ。百聞は一見に如かずの例え通りだ。
「信じてないわけじゃないんだけど……」
ユリの言い訳が尻つぼみになる。
「もう疑問も解決っと」
「うん」
華奈子の明るい声で、ユリの表情も明るくなる。
「そうだ、センセ。これ、コレ」
紙袋の中からごそごそと包装紙に包まれたものを出す。金色のリボンまでついている。言わずもがなのチョコレートである。
「美味しそうなのがあったから、開けてみて」
ここで包装をビリビリと破くように開けると、華奈子はうるさいことを知っているから、 手渡された包みを丁寧に開けていく。自己防衛本能に従うまでだ。
平型の箱には十粒ほどのチョコレートが入っていた。そのひと粒ひと粒は小振りで、全てが違う色と形をしている。ベースとなるのは、ビター、ミルク、ホワイトの三種類。その上からコーティングしているのか、赤、青、緑、黄などの色彩豊かな彩りが目をひく。チョコレートというよりも、繊細な硝子細工を見ているかのような艶やかさがある。
「これは凄い」
食品ではなく芸術品だと思った。ルーブルや近代美術館に展示されても不思議がないくらいの出来映えだ。美術館にチョコレートの展示はないか……。
「カナ、必死だったんですよ。限定品だからなかなか買えなくて、開店前から並んだんですよ。おかげで付き合わされたけど、私も買えたから許してあげる」
ふたりのあいだで、華奈子は「カナ」と呼ばれているらしい。
「もう、やだぁ。ユリってば」
「あんなに必死になった理由が、これでわかったし。ね、カナ」
「もー、知らない!」
華奈子は照れ隠しに、ぷいと後ろ向いて珈琲を淹れている。マシーンからシューっと湯気があがり、珈琲の香りが部屋に広がる。
「これ、みんなで食べようと思って」
珈琲カップを各人の前に置くと、華奈子はそう言ってもひとつの包みを出した。先ほどのものと比べると、こちらの包みの方がふた周りほど大きい。
「え、これ食べちゃうの? もったいないよ」
ユリが驚くくらいだから、こちらもそれなりに高級なものなのだろう。
「だって、センセにはいちばんいいもの、ちゃんとあげたモン」
「カナ、他の人にはあげないの?」
「センセだけ。他に好きな人いない」
「あらら、ご馳走さまだこと」
これだけ明確に言いきられると、聞いている方が恥ずかしさを覚える。
「やだカナ、センセが赤くなってるじゃない」
僕は「いやぁ」とか「まぁ」とか訳のわからないことを口にしながら、照れ隠しに珈琲を啜った。――苦い。
「あれ、カプチーノじゃなかったの?」
いつものカプチーノだと思い込んでいた僕は、カップに入ったエスプレッソの苦さに困惑した。
「甘くするとチョコも珈琲も味がボケちゃうから、エスプレッソでぇす」
ふぅん、とあまり理解のできないままチョコを口に入れてみると、確かにチョコの甘さとエスプレッソの苦みが両立されバランスよく引き立っている。今回ばかりでなく、いつも華奈子の考察の正しさに感心してしまう。これはさしずめ、寿司屋のガリと同じような理屈だろうか。――ちょっと違うか。
「へへ、ちょっとオトナの味」などと、女性ふたりもチョコをつまみながら、個々の品評会に余念がない。僕もチョコをつまみながら、。あちこに飛び火する彼女たちの会話に混ざる。
ユリと華奈子は前の会社の同僚で、今は百貨店のカードカウンターに勤務しているとのことだった。僕もたまに行く店だが、未だカードは持っていない。
よくカード会員の勧誘をしている場面を見かけるが、僕の場合は一年のうち数えるほど(片手でも余るくらい)しか行くことはないし、せっかく購入ポイントが付いても、次に行くときには期限切れになっていることが想定される。何年か前に持っていた他のところのカードがそうだったので、そこを退会してからカードを持たないようにしている。
「もったいないですね。でも機会があったら絶対にウチのカードも作ってくださいね」
ユリはあまり押しつけがましくないように、そう勧めた。
「そうだねぇ」と、僕はあまり乗り気ではない返事をした。
テーブルにある最後の一粒を僕が口に入れたタイミングで、華奈子がご飯を食べに行こうと言った。宝石の方はもったいなくて、まだ手をつけていない。
「センセ、中華街に行こう。最初にデートしたとこ」
「やだ、カナったら、アツアツなんだから。私も早く彼氏とアツアツしたい」
どうもこの手のガールズトークにはついてゆけない。一応フォローに「でも、ユリさんもチョコ買ったんでしょ?」と言ってみる。
「友チョコですよ。悔しいけど本命はなし」
「そうなの? モテそうに見えるけどな」
つたない僕の感性からすると、彼女の容姿をしてモテないはずはないと思うが。
「理想が高すぎるのよ、ユリは。妥協しなさいって」
華奈子が諭すように言う。
「カナだって妥協しなかったじゃない」
「へへ、私は例外」
「ずるぅい。あ、バラしちゃおうかなぁ」
ユリが思わせぶりな視線で僕と華奈子をみる。
「やだぁ、ユリ。ナイショでしょ」
華奈子はお得意の「ナイショ」に持ち込もうとする。
「どうしようかなぁ」というユリに、「お腹すいたでしょ。早くご飯にしよう。好きなもの食べていいから。ねっ、センセ」
華奈子は追い立てるように、僕とユリを外に連れ出そうとする。彼女にしては珍しく慌てている風だ。少々、いや、かなり気になるが、よほど「ナイショ」にしておきたいことなのだろう。好奇心が頭を持ち上げてくるが、ここは平静を装い紳士たるもの聞かなかったことにする。
三人で中華街に向かい、華奈子をはじめて食事に連れてきた店に入る。
「へぇ、こんないいところで初デートだったんだぁ」
ユリはからかうように言う。
「へへ、いいでしょ」
華奈子も負けてはいない。むしろ胸をはって自慢げだ。仲のいい友だちだから自慢もできるし、反対にからかうこともお互いに楽しんでいるようだ。
待たされることもなく、すぐ席に案内された。クリスマスとは違い比較的すいている店内に、バレンタインと中華の相関関係というのは希薄なのだろうか、と思ってみたりする。
女性ふたりは運ばれてくる料理に歓声をあげながら、勤め先の話や恋愛の話題など、話が途切れることなくかしましい。
北京ダックが出てくると、ユリが「皮だけじゃなくてお肉も食べたい」と、華奈子と同じことを言う。やはり誰もが同じことを思うのだろう。
作家家業についての質問も容赦なく飛んでくる。日常的に特別なことなど何もないのだが、いつも近くにいる華奈子は承知している事柄でも、ユリは興味津々といった感で聴き入っている。
「どうして何もないところから、幾つもお話が創れるのかが昔から不思議なのよねぇ」
そう言うユリの疑問に、僕も疑問を乗せてみた。
「僕も不思議なんだよ、作曲をする人がどうしてあんなに何曲も書けるのか」
「そうそう、私も思う。どうして出来るんだろうって、小説もそうだけど、作詞や作曲、それに服のデザインとか」
ジャスミン茶を飲んでいた華奈子も不思議がる。
今日は華奈子も僕も酒は飲まずにジャスミン茶だ。ユリだけが紹興酒を少し飲んでいる。
「そうだよねぇ、ホント不思議。頭の中どうなってるんだろうね。いちど覗いてみたいから、センセ頭開けてみて」
紹興酒で酔っているのか、ユリはそう言って僕の頭を覗こうとする。
「ちょっと、ユリぃ」
華奈子に止められて、ふたりともコロコロと笑い転げる。
「ストーリーは色々と浮かんでくるよ、意識しなくても。それが『どうしてか?』と訊かれても答えられないけど」
「すごぉい。私なんか必死に考えたって、何にも浮かんでこないけど」
やや自嘲ぎみにユリが言う。
「今のこの状況も、小説に書こうと思えば出来るよ」
「え、そんなこと出来るんですか?」
「そうだね、どういう設定にしようか」と、僕は物語の設定を少し考えてみる。
「不倫相手と逢い引きしているところに、怒り狂った本妻が乗り込んでくる、とか」
ユリはキラキラと目を輝かせてそう言う。
「怖いなぁ、それ」
僕は首を竦めてみる。
「僕だったら、幼いころに両親が事故で亡くなって、離れ離れになってしまった三兄妹が二十年ぶりに再会するシーン、とかね」
「それ何か感動的ですよね。涙の再会って感じ」
「うん、ストレートにいくならそれでいいし、ひねりを入れても面白いかもしれない」
「ひねりって、どうひねるんですか?」
「三回転半とか?」と、華奈子がボケる。
「フィギアスケートじゃないんだから」と、ユリがすかさずツッコミをいれる。
なかなか息の合った二人のようだ。
「こうやって三人で食事をしているけど、この時点では誰も昔離れ離れになってしまった兄妹だとは気づいていない」
「うわっ、凄いかもしれない、それ」
「みんながそれぞれに頭の隅に何か引っ掛るものがあるんだけど、まだ具体的にそれがどういうものかわからないでいる、とかね」
「なぁんか、もの凄いどんでん返しがあったりして」
「そうだね、そこいらへんをどう描写するかが腕の見せ所って感じだね。ただそれが、面白いかどうかは全く別の話だよ。広い意味で面白くないと売れないから、書きたいものだけ書いていてもダメだし」
「難しいんですね」
「まあ、そう簡単ではない、かな」
二人の前では即興で考えたようにいったが、これは現在進行中の三十周年記念作品で書いている内容に酷似している。話しているうちにいくつか思いついたことがあるので、原稿に少し修正をいれることにした。
「いいなぁ、カナは。今や夢にまでみた小説家のアシスタントでしょ」
「もう、ユリったら」と、華奈子はユリを軽く睨む。
ねぇ、センセ。とユリが意味深な言葉を投げかけてくるが、僕は曖昧な返事しかできなかった。
デザートに僕は杏仁豆腐、女性ふたりは愛玉子を食べた。料理もそうだが、みんなでおしゃべりしたことに満足したようだ。
「ご馳走さまでした、センセ。それとカナも」
店を出るとユリが大袈裟な身振りで言う。料理のことだけではなく、会話の端々から華奈子の幸せ度合いを感じとったのだろう、というのは穿ち過ぎだろうか。
「それじゃ私は帰るね」と言うユリを引留めて、「私も帰るから、一緒にいこう」と、華奈子が言う。ユリのマンションも日吉にあるらしい。
「だって、いいのセンセひとりにして」
「へへ、昨日泊まったから」
照れながら華奈子が言う。
「あらら、お熱いこと」
冷やかすユリに、もう、と言って華奈子が抗議する。
「それじゃセンセ、また明日」
「おやすみなさい」
ふたりは僕にそう言うと大きく手を振って歩いていく。
駅に向かってとても愉しそうに歩くふたりの後ろ姿を見ていると、さっき自分で言った「三兄妹の話」も悪くないな、と思った。
このまま書いてみようか――。
|6|
「そろそろお花見ですね」と、吉田夫人が窓の外を見ながらいう。
「もう、そんな季節ですね」
僕も同じく窓の外に視線を向ける。今年は三月に入ってから天候もよく、中旬以降は安定して気温も高い。『なごみ』の向かいにある民家の庭では、そろそろ桜の花がほころび始めていた。その後ろには、晴れ渡った弥生の空が見えている。
「桜を見ながら帰ろうか」
華奈子が休みの日には月に何度かここにランチを食べにくるようになっていた。向かいに座る華奈子は、「さくら」という名にふさわしい淡いピンク色の飲み物を口にしている。昼間なのでノンアルコール。もちろんこの店のオリジナルだ。
「センセのお話がぴったりだね」
「ほんと、いいお話だったわ」
華奈子の言葉にすぐさま吉田夫人が賛同する。目の前で女性ふたりに褒められると照れくさい。
去年のクリスマス以来、何度か店に足をはこぶようになると、自然と話の流れで作家であることは知れるものだ。そして三十周年企画の拙作も、数日前に発売された四月号に掲載され、吉田夫婦も読んでくれたとのことだ。
ちょうど桜の時期の掲載に合わせて、桜を物語の中心部分に据え、その桜の樹のもとで紡がれていく感涙のストーリーに仕上げた短編だ。編集部でもなかなか評判がいいというのは、昨日の電話で聞いている。
「そうそう、忘れてたわ」
吉田夫人はレジカウンターに向かう。
「これ読ませてもらったの。まさかこれを書いてる人がウチ(ルビ:、、)のお客さんだなんて思ってもみなかったわ。早く教えてくださればよかったのに」
そう言ってレジカウンターの下から夫人が持ってきたのは、紛れもなく僕の著作だった。それも華奈子にはじめてサインしてあげたものだ。是非サインをして欲しいという夫人に笑顔で応える。訊いてみると、僕がまだこの店に客として来る前に読んでくれていたとのことだ。キッチンからご主人もわざわざ声をかけてくれたので、何だか恐縮してしまう。
サインを入れて夫人に渡そうとすると、「カナちゃんも」と言って、彼女にもサインするように促す。
先日、華奈子の友人のユリが「カナ」と呼んでいるのを真似して、僕も「カナ」と呼ぶようにしていた。吉田夫人も華奈子を「カナちゃん」と呼んで、何かと可愛がってくれている。
「私、ですか?」
著作者がサインするのは当然だが、まさか自分がすることになるとは思いもよらなかった彼女は、目をまん丸にして驚いている。
「そうよ。夫婦はね、片方だけじゃダメなの。ふたりで力を合わせて支え合っていくものなのよ。センセを支えているのはカナちゃんでしょ。だからふたりのサインが欲しいの」
「だって、夫婦じゃ……」
華奈子は赤くなって俯く。僕も何と言っていいのかわからない。
「いいのよ、そんな形式上のことは。理屈じゃないのよ夫婦っていうのは。法律とか紙切れとか関係なく、惹かれ合って離れられない存在なのよ。カナちゃんも女の子だから分かるでしょ?」
「は、はい」
夫人の穏やかに諭すような話しに華奈子も得心がいったようで、照れながらも僕のサインの隣りに「華奈子」と書いた。
見るとご主人もキッチンから笑顔をのぞかせて頷いている。
なるほど――な。
それから三日ほどすると桜が見頃を迎えた。開港から洋式文化発祥の地となった横浜は、古くからの桜の名所が多くあり、花見客が大勢訪れて賑わいをみせている。
華奈子とふたりで買い物と夕食をすませ、みなとみらいの汽車道に咲き誇る桜並木を歩いた。ライトアップされた桜の下では、少人数のグループがいくつか夜桜見物の宴を張っている。
「私たちもセンセのお話みたいに、桜の下で結ばれるのかなぁ」
この前「なごみ」で話していた短編のことだ。あれは桜の下で結ばれる話ではあるが、哀しい結ばれ方だ。春の麗らかな陽射しをうけて咲く満開の花の下、という明るい話ではない。
「僕とカナは桜じゃなくて銀杏並木」
「あ、そうか」
華奈子の顔がぱっと明るくなる。
華奈子と出会ったのは日本大通りの銀杏並木だ。厳密には華奈子の働く店――なのだが、そのときは単なる店員と客という以上のものではなかった。こうしてひとりの男と女という関係になった出会いは、やはりあの銀杏並木だ。
「桜は咲くまではワクワクするけど、満開になって散りはじめると、何だか急に哀しいお花になっちゃう」
華奈子の言うことがわかる気がする。
桜の花は日本人の気質によくあっているのだろう。むしろ日本人が桜にあわせて生きてきたのではないかと思える節さえある。特に武人にとっては散り際の見事さを鑑としてきた文化が日本にはあり、その儚さを尊ぶ心をもっている。
「私、哀しいのはイヤだな」
「カナを哀しませることはしないよ」
「ホント? センセ、指切り!」
ちょっとクサい科白だとは思ったが、正直な自分の気持ちを表したつもりだ。
そして、あの「ナイショ」の指切りをさせられた。いつも「ムニャムニャ」の部分を教えてはくれない。
いつの日か、教えてくれることになるのだろうか――。
きらきらと輝く陽射しをうけた新緑の季節をむかえ、草木が萌え頬をなでる風が心地よく街をわたっていく。
華奈子と出会ってから半年が過ぎた。あの頃、黄金色の葉を降らせていた銀杏の樹も若々しい緑の葉を茂らせている。
僕は額から流れる汗を拭いて少し休憩にする。温くなった珈琲をひと口飲んで、冷蔵庫から氷を二つほどカップに入れる。カラカラと氷の入ったカップを揺すり珈琲を冷やしてひと口飲むと、冷えた液体が喉を通っていく感覚が心地いい。
はぁ、と息をついて椅子に座る。
今日は朝から急に思い立って、事務所の模様替えをすることにした。居住のためのスペースを、もう少し広く使い易くしようと思う。そのためには壁面を埋めている本棚の配置を変えなければならない。
自分ひとりのときには感じなかったが、華奈子が泊まる頻度が増えるようになってくると、まるで図書館の中で仮眠しているようなこの部屋では、女性は何かと不都合があるように思う。華奈子は何も言わないが、こちらが何んとはなしに気後れしてしまう。
最初から居住用に造られてはいないから、納得がいくかどうかは別として、出来るだけ仕事場と居住の用は隔離するような配置にしたいと思っている。
夕方には大筋の移動を終えたので、固定用の金具や新しい電球などを買いに出て帰ってくると華奈子が笑顔で迎えてくれた。
「センセ、おかえりなさい」
「ただいま」と言って、買ってきたものをテーブルに置く。
「どうしたの、この部屋」
華奈子はいつのまにか部屋の中の配置が変わっていることに驚いている。
「少しは部屋らしくなったかな」
「うん、びっくりした」
「カナもこの方が落ち着くんじゃないかと思って」
全部ではないが、入り口から丸見えだった居住のスペースは、移動した本棚で見えなくなっている。そこに入っていくには、S字を描くような本棚に挟まれた通路を通らないと行けない。
「私のために?」
「そうだよ。どう、気にいった?」
「うん!」
華奈子の顔がぱっと輝く。――この笑顔がたまらなく好きだ。
「あのねセンセ。私、何日か沖縄に帰ってこようかと思うの。ずいぶん母の顔も見てないし」
「そうか。うん、そうしなよ。お母さんも待ってるだろう」
「それでね」
華奈子はそこまで言うと、もぞもぞとしたまま動かなくなった。
父親を早くに亡くして、母と娘のふたりだけで暮らしてきた、ということは華奈子から聞いている。お正月も仕事で帰っていないのだし、元気な顔を見せに行くのはいいことだと思う。
「あのね、それで、センセも一緒に行ってほしいな、って」
「え、僕も?」
そうくるとは思いもしなかった。
これまで国内のあちこちに行っていて、主要都市といわれるところはほぼ知っている。その他にも地元の人でもめったに行かないような山奥の温泉なども幾つか行ったりした。そんな僕でも不思議と沖縄だけには行ったことがない。行きたいとは思っていたけれども、何故か機会を逃し続けてきた。
写眞や映像ではよく知っているが、あの抜けるような青空、白い砂浜と透き通る海を実際にこの目で見、身体で感じたい。
華奈子の生まれ育った土地を歩いてみることで、彼女の朗らかさの源に触れることが出来るような気もする。もしかすると、こんなにいい機会はないのかもしれない。
「いいね、沖縄。いつ行くの?」
「うーん、来月の頭くらいかな。センセ、お仕事は大丈夫?」
いまのところ〆切りに追われるような仕事は入っていない。
「いいよ大丈夫」
華奈子のところでは毎月二十日にシフトの希望を提出し、個別の擦り合わせをして二十五日までに翌月のシフト表が出来る。病気など突発的な休みであれば他の社員やバイトが入ればいいが、帰省となるとそれなりの日数が必要となるから、あらかじめシフトの都合をつけておかなければならない。そのために、次のシフト編成で帰省の分の休日を申請するということだ。
「わかった。僕も沖縄は行ってみたかったかし、カナの故郷も見てみたい」
「やったぁー、嬉しい!」
「それに、お母さんに挨拶もしないと、ね」
「へへぇ」
最初からそのつもりもあったのだろう、照れ笑いをしている。どこまでのつもりがあるのかわからないが、娘が男を連れて実家に行く、というのはそういうことだろう。華奈子は父親を早くに亡くしているから、母と娘の絆はより強いだろう。もうある程度のことは話がいっていると思っていい。
「沖縄かぁ、楽しみだね」
「私、何を着ていこうかなぁ」
実家に帰省するという本来の目的を忘れているのか、華奈子はもうすっかりリゾート気分である。
六月のシフトも調整がつき、待望の沖縄行きの日程が決まった。第二週の火曜日から二泊三日の予定だ。
実家の母親にも電話して、僕のことも言ってあるらしい。
「ご馳走を用意して待ってるって」
「あんまり手間かけても悪いよ」
「いいのよ、すっごく楽しみにしてるみたいだから」
単に都会に行って働いている娘が帰省してくるというのとは違い、こういうときの母親の心境というのは、それを楽しみにしているものなのだろうか。同僚の女の子を連れてくるのとは全く意味合いが違い、見ず知らずの男がある日突然に娘をもらいにくるわけで、心中穏やかではいられないようにも思う。
僕もいまさらながら覚悟を決めて行くほかはない。はじめての経験だけに、何をどう覚悟を決めるものやら検討がつかないのだが、男らしく肚を据えて堂々と、そして誠実に。
華奈子と過ごす日々の中で、自然な話の流れとしてそういった内容のこともあることは確かではある。僕もそうだし、華奈子にしてもそういった意識はあると思う。ただ、ふたりの間で具体的な結婚の話をしているわけでもなく、プロポーズさえしていない。
やはり実家に行く前に、ちゃんとプロポーズをしておいた方がいいのだろうか。実家に連れていこうとするのだから、華奈子がプロポーズを断るとも思えない。中途半端な状態のまま行くよりは、ここでちゃんとお互いの意思を確認してから沖縄に行った方がいいように思う。
「お母さんにはどう説明してあるの、僕のこと」
「へへ、それはナイショ」
いや、ここで来たか「ナイショ」戦法。話が進まなくなるじゃないか。
「どういう顔して行ったらいいか分からないから、教えてくれないと困るよ」
「センセはセンセだから、そのままの顔でいい。お化粧でもする?」
いやいや、化粧はしないでしょ。そういうことじゃなくて。
「いい人です、って言ってあるから大丈夫」
「それはそれでいいんだけど……」
具体的にどういう関係とか。
いや、それはそれでヘンなことになるか。
どうしていいのか、分からなくなるじゃないか。
「まあ、よしとするか」
「そうそう。なんくるないさぁ」
なんだかなぁ。
それにしても、華奈子の沖縄方言をはじめて聞いた――。
沖縄行きを明日に控えて荷造りをしていると、早番であがった華奈子が沈鬱な表情で事務所に入ってきた。
「センセ……」
「どうした、お腹でも痛い?」
「中止」
「え、何が?」
華奈子には珍しく何か思い悩んでいるようすで、椅子に座って頬杖をついた。いつもは彼女が入ってくるだけで空気がぱっと明るくなるのに、今日はそれがない。
「どうしたんだ?」
「入院するんだって、お母さん」
どこか遠くから聞こえてくるような、抑揚のない言葉だった。
「どうして? いつ?」
僕の質問には即答せず、華奈子は珈琲を煎れにキッチンに立った。そうして、何かを噛み締めるように、自分の気持ちを落ち着かせるようにゆっくりと珈琲を煎れる。
やがて珈琲の香りが部屋に漂いはじめるが、華奈子の気持ちと呼応しているのかのように、いつもの軽やかさはなく、湿り気を含んだ重さが感じられる。
僕は華奈子の仕草をただじっと見守った。
「明日から検査で入院するって」
華奈子は椅子に座って珈琲をひと口すすると、遠い目をしてそう言った。きっとその視線の先には、遠く離れた沖縄の母の姿を見ているのだろう。
「何の検査? そんなに具合が悪いのか?」
僕は驚きとともに、質問をぶつけることしかできないでいる。
「どうしよう……。センセ」
いつも明るく輝いていた華奈子の顔に不安に打ち拉がれた翳りが刺している。僕が彼女の肩を抱くと、うなだれるように頭をもたれかけてくる。かなり様態が悪いのかもしれない。とにかく現状を知らないことには対処のしようもない。
「どういう状況なのか説明してくれないか」
華奈子の気持ちが落ち着くの待って、僕はそう言った。
それは、華奈子が早番の仕事が終わって着替えているとき、彼女の携帯に母親本人から電話がかかってきたとのことだった。
急激な様態の悪化や不慮の事故で重体にでもなっているなら、本人が電話をしてくることはありえない。そういった場合は本人からではなく、親戚や警察からのものになるだろう。母親本人からの電話という点で、まずひとつ安心できる材料にはなるだろう。
母親の古くからの知人が乳ガンで入院したことが、そもそも事のはじまりだったらしい。本人もおかしいとは感じていたのだが、日々の生活に追われているうちに病院に行くのが先延ばしになってしまい、かなり大きな手術になったとのことだ。お見舞いに行くと「あなたも検診を受けなさい」と諭されたという。
自分は大丈夫だとたかを括っていたが、その知人の姿をみて検診に行ってみる気になり、軽い気持ちで近くの医院に行った。するとその医院では精密検査が出来ないので、紹介状を書くから大学病院に行くよう言われた。
後日、その紹介状を持って大学病院でひと通りの検査をし、今日その結果を聞きに行ったところ、小さなしこりのようなものがあり、入院して精密検査を受けるよう言われたとのことだった。
そしてふたりが行く予定になっていた明日、検査入院をすることに決まったので、今回は見送ってまたの機会に帰ってこいと母親は言った。
「せっかくセンセに来てもらっても、病院じゃしょうがないって」
検査入院中に初顔合わせというのも確かにどうかと思う。
「僕はともかく、華奈子は行った方がいいだろう」
「心配しなくて大丈夫だって、そういうから……」
「でもお母さんひとりじゃ何かと不便だろうし、娘がついていた方が安心だと思うけど」
華奈子は暫くぼんやりと考え込む。
「こっちにいて心配したところで、余計に不安になるだけだよ。それなら傍にいてあげた方がいい。たったひとりの母と娘だろ。何かあれば僕もすぐに行くから、華奈子の元気な顔を見せてあげれば、お母さんも心強いんじゃないかな」
「うん、そうだね。そうする」
少しは吹っ切れたのか、だいぶ明るい顔が戻ってきた。
華奈子は店長に事情を話し、予定の三日間の休みを一週間にしてもらい、沖縄に帰って行った。
華奈子は毎日、朝と晩にメールか電話をしてきて、母親の検査の進捗具合などを報告してきた。しばらく帰っていなかったので、母親も喜んでいるらしい。
当初は娘は母を心配し、母親は娘に心配を駆けないようにという思いやりの心があって帰省を拒んでいたが、それではふたりとも不安が増幅するばかりだ。すぐ近くでお互いの顔を見ることによって、病気に対する畏怖はあっても、えたいの知れない不安にかられることがなくなり安心したらしい。
その甲斐もあってか、精密検査の結果は良性のものと診断された。
|7|
馬車道の歩道を夏の眩しい陽射しが照らしている。七月に入り早々に梅雨が明け、連日の晴天と強く張り出した太平洋高気圧が気温を押し上げている。
一時は心配した華奈子の母親も、定期的な検診と薬で特に不自由することなく日常生活がおくれているという。
華奈子もこちらに戻ってきてからは、毎日欠かすことなく母親との連絡をとっている。何があるわけでもないのだが、やはりそうすることで母も娘も精神的な安定が望めるのであればそれにこしたことはない。
「美味しいね、センセ」
華奈子は馬車道発祥の「アイスクリン」を食べてはしゃいでいる。
開港の地である横浜発祥のものは多い。現代日本ではあたりまえでも、当時の日本では奇抜で驚きの対象であったに違いない。魂を吸い取られると恐れられていた写眞も、今では誰でもが携帯でお手軽に撮れる時代である。時の流れとは面白いものだ。
「お盆はどうするの?」
検査入院の一件で流れていた僕との顔合わせというのもあるが、もちろん彼女の母の身体を心配しての帰省を思ってのことである。
「うーん、このあいだ帰ったばかりだから、もう少し先にしようかと思ってる」
「お母さんは大丈夫なの?」
「今のところは変化ないみたい」
病院でも、定期的な検査をしていれば、もし変化があったときにも対処できるから大丈夫だと言われている。
「じゃあ頃合いをみてだね。安定しているようなら、そのときは僕も行くよ」
「うん、そうして。お母さんも安心すると思う」
まだプロポーズはしていない。婚約指輪もない。
どうも言葉や儀式的な事柄より、暗黙のうちに実態というか実生活の流れが先行していて、今さらプロポーズというのも遅きに失した感があるように思えてくるから不思議だ。
それでもやはり、するべきことはしないとどうにも座りが悪い。男女どちらにとっても一世一代のイベントであり、こればかりは端折るわけにもいかないだろう。それにはどうしても時と場所を選ぶ必要がある。信号待ちで気軽に出来る話でもない、と思う。
――いや、待てよ。
必ずしもそうとは言いきれない気もする。映画やドラマのような場面ばかりを想い描いていてもつまらないのではないだろうか。
例えば誕生日や何かの記念日に、普段は行かないような高級なレストランの窓際の席で、シャンパングラスの前に置かれた指輪の小箱を想像するのもいいが、どうもマニュアル通りというか、踊らされている気がする。もっと僕と彼女にふさわしい、自分たちの場面というものがあるはずだ。
そんなことを頭の片隅で思いながら他愛のない話をして歩いていると、日本大通りの銀杏並木が見えてきた。華奈子と出会った場所だ。毎日のように通ってはいるが、そう思い直してみると感慨深い場所である。
――そうだ、僕たちにふさわしい場所。
ここしか考えられない。
あの秋の陽だまりのなか、僕の前に舞い降りたひとりの天女が華奈子だ。
ちょうどあの日と同じ場所まで歩いて、僕は立ち止まった。
横を見ると、彼女の顔が「どうしたの?」と訊いている。
僕は正面から彼女の両肩に手をかけ、その瞳を見つめる。
「結婚しよう、華奈子」
僕は大きく見開かれたその瞳の奥に語りかけた。
今さらあらためて僕が言うまでもない。そして彼女の答えはわかっている。それでも、具体的なかたちとしてプロポーズをしないと節目がつかない。そう思った。そして、そのふさわしい場所として、華奈子とであったこの場所を選んだ。
僕が言葉にしてからほんの一瞬だけの間をおいて、彼女の瞳が揺れたのと同時に頬に涙が伝い落ちた。
「はい」と、小さな声で言うなり華奈子は僕の胸に飛び込んできた。
僕は彼女を抱きしめ「幸せに――」と言いかけて、別の言葉を発していた。
「冷たい!」
その言葉にはっとした華奈子は僕から離れると、涙でくしゃくしゃになった泣き笑いの顔で「ごめんなさい」と言った。その右手には、まだ食べかけのアイスクリンがしっかりと握られていた。
僕の着ていたシャツは彼女の涙とアイスクリンでグシャグシャになっていた。ふたりでそれを見ながら笑った。そうだ、これでいい。これが僕と彼女のあり方だと思う。
――僕たちらしい。
事務所に戻って汚れたシャツを着替え、婚約指輪を買うためふたりで元町に向かった。華奈子の指輪のサイズもわからなかったし、本人の気に入ったデザインのものを買うのがいちばんいいと思った。
いくつかの店を廻って、彼女が選んだのは一粒石を立て爪で留めた婚約指輪然としたものではなく、小さなダイヤをいくつか円周に沿って埋め込んだタイプのものだ。理由を訊くと、立て爪だと引っ掛けるおそれがあるので、埋め込みの方が日常的に使い易いとのことだった。なるほど、と感心してしまう。
支払いを済ませ「お包みします」という店員に「そのままください」と華奈子は言った。そして、店員から指輪を受け散ると「センセ、ここではめてください」と真っすぐに僕を見て言う。
「ここで?」と戸惑う僕に、彼女は頷いて左手を差し出す。横で店員さんも微笑んでいる。
それじゃ、と彼女の左手の薬指に指輪をはめる。少し自分の手が震えているのがわかった。やはり緊張する。
華奈子は指輪のはまった左手を眺めて微笑んだ。
一連の光景を傍で見守っていた店員さんが、笑顔で「おめでとうございます」とお辞儀をしてくれた。僕と彼女は顔を見合わせ、ふたり同時に「ありがとうございます」と言って頭をさげていた。顔をあげると何だか可笑しくなり、店員さんと三人で笑った。
指輪の小箱を店の紙袋に入れてもらい、それを持って店を出ると、空が茜色に染まりはじめていた。
「そうだ、写眞を撮りに行こう」
まったく予定をしていなかったにも拘らず、急にプロポーズから指輪まが進んでしまった。今日は、ふたりの記念の日になる。
「そうだ、記念に写眞を撮りに行こう」
「うん」
記念の写眞を撮るというアイディアに、華奈子も賛成してえくれた。ここから写眞館も近い。
華奈子は歩きながら「しゃしん、しゃしん」と子供のようにはしゃいでいる。
写眞館に着くと、スタジオでまずは普通に何枚か撮った。その後、「あれでお願いできますか?」とお願いした。
「何?」と不思議がる華奈子の前に置かれたのは『巫女の衣装』だ。
初詣に行った後、巫女の衣装があるか電話で確認しておいた。あれから半年以上が経ったが、やっとその機会が巡ってきた。
最初は恥ずかしいとか何とか言っていた華奈子も、着替えて出てくるとすっかりその気になり、「似合う?」とポーズをとったりしている。
写眞館の人も「よくお似合いです」などとおだてるものだから、「やっぱり着てみたかった」とついに白状し「へへ」と舌を小さく出して笑う。
彼女ひとりというわけにもいかないので、僕は神主さまの衣装だ。衣装がよく似合っている彼女とは対照的に、僕の姿は妙にちぐはぐでインチキくさい。
それでも華奈子が喜んでくれたので、ふたり並んでそれらしいポーズをとると、何とか写眞に収まった。
一週間ほどして出来上がった写眞を見ると、やっぱり僕の方は妙にちぐはぐしている。華奈子はそのまま神社にいても可笑しくないくらい、巫女さんそのものの姿で写っている。
「これ一枚、お母さんに送ろうっと」
華奈子がそう言ってひらひらさせているのは巫女の写眞の方だ。まだ、僕の顔を知らない母親にふたりで写っている写眞を見せたいと言う。
普通の格好で撮った写眞もあるのだから、そちらの方がいいと思うのだが、彼女は巫女と神主の写眞が気にいったようだ。
|8|
夏休みの時期を待ちかねたかのように、七月後半から連日のように猛暑が続き、八月に入ってからは更にその勢いを増している。暑さを増幅するようにあちこちから蝉の声が降り注いでくる。街には陽炎が立ちのぼり、ちょっと外を歩くだけで肌がジリジリと音を発てて焼けていくようだ。街ゆく人たちも自然と建物の陰や木陰を縫うようにして、少しでも直射日光を避けて歩いている。熱中症への警戒を声高に告げている気象予報士の表情も、心なしかうんざりしているように見える。
仕事が終わると華奈子は必ず事務所にあがってくる。明日はシフトが休みなので、今日の夕食後は帰らずに泊まっていく。このところの猛暑で避暑に入ってくる客が多く、アイスコーヒー類の売上が伸びていて忙しいらしい。
「センセ、お疲れさま」
いつものように明るい顔で入ってきた彼女の後ろに、もうひとり女の子がついてきた。
「先月からバイトで入った、優香たん」
たん?
ちゃん、じゃないのか。
大学生だという優香は、黒髪で清廉な華奈子とは対照的に、茶髪で服装や化粧にもかなりの気合いが感じられる。穿った見方をすれば、熱帯のジャングルで鱗粉をまき散らして飛ぶ極彩色の蝶の姿を思わせるような、僕としては得意としないタイプだ。
「どうも、青山です」
ちゃんと笑顔になっていたかな?
「おじゃまします」
見た目によらず、礼儀正しくお辞儀をするのに感心してしまった。考えてみればバイトとはいえ、華奈子と同じ珈琲ショップで働いているのだから、接客業としてはあたりまえの話だ。店に行っても華奈子の他に目がいかないので、彼女のことを見かけたかどうかは思い出せない。
「あのね、優香たんもセンセのファンなんだって。だから連れてきた」
「そんなに大袈裟なことじゃないんですけど」
若い女性ファンがいてくれるというのは、正直な気持ちで嬉しい。自分の著作に読者がついてくれるのは実に嬉しいものだ。もちろん老若男女は問わないが、特に若い女性の読者がついてくれるのは素直に嬉しいものだ。華奈子に知れるとまたぞろ「イヤラシぃ」攻撃にやられそうなので、決して口にはしない。
「何を読んでくれたんだろう?」
つい緩んでしまう口元を引き締め、出来るだけ真面目な顔をつくった。
「センセ、顔がイヤラシぃ」と、すかさず華奈子が言う。
どうやら口に出さなくても、全面的に顔に出ているらしい。
彼女は三年ほど前に出した作品の題名をあげ、「確か映画化するって噂を聞いたんですけど」と残念そうに言う。華奈子も横で「映画観たかったなぁ」と言う。
「よく知ってるね。あれは途中までは話が進んだけど、予算が合わなくて立消えになったらしい。残念だけどね」
一応、当たり障りのない事実だけを言っておく。
僕も詳細な事情までは知らないが、後で聞いた噂では、スポンサーのひとつが業績不振を理由に製作発表直前に降りたらしい。残ったスポンサーだけではキャストのギャラが高すぎて、とても制作費が捻出できなかったということだ。
自分の著作が映画化されるというのも、作家としては嬉しいものだ。自分が文章で綴った物語が、映像として描かれるのを是非とも観てみたいと思う。それは自分が執筆中に意図していたものを描いているかもしれないし、それとは違う世界観があるかもしれない。どちらにしても、作者とは別の視点でのアプローチに興味がある。
それに原作小説となれば注目もされ、増刷も期待できる。
あの作品はこの秋に文庫化される。そしてまた映画化の話が持ち上がっているらしいことは聞いているが、前回の例もあり今度もどうなるかわかったものではないので、過度な期待はしないようにしている。
華奈子の淹れてくれた珈琲を飲みながら三人で楽しく話し、一時間ほどで優香は帰っていった。
「彼女は読書をするタイプじゃないね」
カップを洗っている華奈子の後ろ姿に向かって、僕は優香にたいする印象を言った。
「うーん、漫画の方が得意みたいね」
さっきの話の中で、小説よりも漫画の話題の方が多かったのを思い出す。僕の小説も自ら好んで読んだわけではなく、友人に勧められて借りたとのことだった。映画化の話がでて、出演者候補のひとりがお気に入りのタレントだったから、というのがその最大の理由だった。つまり興味があったのは、小説ではなくタレントだった。
「理由はどうあれ、読んでくれる人がひとりでも多くなるのは嬉しいよ」
「よかった」
優香を僕のファンだと紹介したことに、多少の気後れのようなものがあったのだろう。僕の反応をみて少しは安心したらしい。
「センセ、ファンクラブ作る?」
「はぁ?」
「私、会長やってあげる」
それこそタレントじゃないんだから、ファンクラブのある作家なんていたか?
「会報とか出して、サイン会の日程を載せたり。面白そぉーだよ」
「それじゃ、会長じゃなくて事務局長だな」
残念ながらサイン会はこれまでいち度もやったことがない。そこまで売れていないのだ。整理券を配布するほどの大きなサイン会を全国で行なうことに、やはり憧憬がないわけではない。
「それでもいいよ」
会報を作っている自分の姿でも想像しているのか、華奈子はずいぶんと楽しそうだ。
八月も中旬を過ぎ、暦のうえではとっくに残暑といえるころになっても、暑さは一向に衰える気配を見せず、毎日のように最高気温を更新し続けている。世間ではお盆休みも終わって、うだるような暑さが行楽の疲れに追い打ちをかけているようで、街行く人たちの足取りも鈍い。
今日はユリも含め三人で「なごみ」に行くことになっている。
「何時に来るの?」
「六時半に元町」
壁の時計は夕方の六時をさしている。ここから華奈子とゆっくり歩いて行けば、待ち合わせの時間には丁度いい。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「はぁい」
何日か前に華奈子がユリから、「横浜で美味しいお店を知らないか」と訊かれ、山手にあるイタリアン「なごみ」を教えると、早急に連れていってくれと頼まれたらしい。
その理由というのが、まだ付き合いはじめたばかりの彼氏をどこか美味しい店に連れて行きたいのだという。メディアで紹介されるような誰もが知っている店ではなく、知る人ぞ知るというひっそりとした佇まいの店がいいのだという。
下見を兼ねて一度行ってみたいというユリの希望を叶えるべく、僕と華奈子が本日の案内役を仰せつかったわけである。
だいぶ陽が落ちてきてはいるが、昼間のうちに日光で激しく焙られた街の空気は冷めることを知らないかのように暑く、湿度をたっぷりと含んだ熱風が容赦なく肌にべっとりと纏わりついてくる。
人の多い中華街は避けて、横浜スタジアムから西之橋を渡って元町商店街に入る。ちょうど信号のところで、道の反対側で信号待ちをしているユリを見つけた。彼女は石川町の駅から歩いてきたようだ。
彼女たちは道路を挟んで、大きく手を振っている。周りの信号待ちをしている人たちは、何ごとかと彼女たちを交互に見るので僕は恥ずかしさのあまりに華奈子から少し離れ、他人のふりを装った。
やがて信号が変わり、ユリがこちらに渡ってきた。
「あ、センセ、他人のふりしないで。もう」
知らん顔をしていた僕に華奈子が言うので、余計に周りの注目を集めてしまい、ジロジロと遠慮のない視線が降り注いでくる。
そんな僕の羞恥を知ってか知らずか、ユリはのんびりと「こんにちは」と挨拶をしてくる。僕も「どうも」と挨拶を返した。
「とにかく行こう」
僕はそう言うと、一刻も早くここから離れたいので早足に歩き出した。
元町の喧騒から離れ坂道を登っていくと、閑静な住宅地の中に「なごみ」が見えてきた。
「あそこだよ」
僕が指差すと「えーっ、すごぉーい」とユリが感嘆の声をあげるが、ごく普通の住宅を改造した店舗で、特別な外観でもなければ広大な敷地というわけでもない。何が「すごぉーい」のかよくわからないが、とりあえずは気にいったようだ。
電話で予約は入れておいたが、他には家族連れがひと組だけで混んではいなかった。
「いらっしゃいませ、センセ」と、吉田夫人が心よく迎えてくれ、席に案内された。
料理の注文をし、グラスでワインをとった。イタリア料理が主体の店ではあるが、オーナーシェフの吉田さんは特に固執はしないという。そのためかワインもイタリア産だけに拘らず、その時々によって世界中のものをいれている。
フルーティで食前酒にちょうどいいと夫人が出してくれたのは、フランス北部アルザス産のゲヴェルツェトラミネール。ほとんど飲めない僕でも美味しいと思った。
ユリが言うには、彼氏の誕生日が近いから、そのお祝いをする場所を探しているのだそうだ。先に聞いていたように、肩が凝りそうな高級店でもなく、かといってあまり砕けた感じでもなく、ほどよく落ち着ける店がいいのだという。グルメ雑誌やインターネットで紹介されているような店だと、ユリの望みが叶えられるような店は皆無に等しいらしい。
また、落ち着ける店などとおおっぴらに紹介されてしまうと、その記事を見た人が大挙して来店するため、結局はガヤガヤとして落ち着ける店ではなくなってしまうし、逆に取材拒否で有名になってしまうと、それがまた好奇心を煽り満員御礼で行列を作ってしまったりするらしい。
なるほどな、と感心してしまう。
普段のデートで行くぶんには何も気にならないのだが、特別な記念日にはやはり特別な店にしたいとのことで、華奈子に相談すると、それなら「なごみ」がいい、ということになった。
この店であればユリの望み通り、一部の例外を除いてメディアには紹介されていないし、一見さんがガヤガヤと来ることもなく、落ち着いて食事が楽しめる。吉田夫妻の人柄もよく、誕生日のお祝いだと前もって告げておけば、心からのもてなしをしてくれることは請け合いだ。
「いいお店ですね」
デザートを運んできた吉田夫人にユリが言う。
「あら、ありがとうございます。いつもセンセとカナちゃんにはお世話になってるのよ」
夫人はそう笑顔で応えながら、手早くテーブルにデザートを並べていく。
華奈子がユリを連れてきた理由を話すと、「若い人は羨ましいわね。そういう事なら、大丈夫。任せてください」と、歓迎してくれた。誕生日用に特別なケーキも作ってくれるという。
ユリは大いに満足してくれ、紹介した華奈子も安心したようだ。彼氏の誕生日の日に予約をして、店を出て駅まで歩く道すがら、楽しそうにしている。
「よかった。カナもセンセもありがとう」
ユリは笑顔を見せ、足取りも軽く石川町駅の階段をあがっていった。
*
うだるような暑さが続く八月の下旬。相変わらず寝苦しい熱帯夜が続いているが、それでも陽が落ちると秋の訪れを感じさせるような風が頬を撫でることもある。季節は牛歩のごとき足取りでゆっくりと、しかし確実に進んでいる。
出版社に行った帰り、華奈子のところに寄ってみる。今日は遅番のはずだ。
「ユリが、センセにも宜しく伝えてください、だって。誕生日、うまくいったみたい」
「そうか、よかったね」
山手の「なごみ」で、彼氏の誕生日を祝ったことのお礼だ。どうやらうまくいったらしい。面倒見のいい吉田夫妻の店なので、きっと楽しい誕生日祝いが出来たことと思う。
テーブル席の片づけをしていたのか、トレーを持った優香が顔を見せた。
「いつも仲良さそうで、いいなぁ」
優香は少し拗ねているような口調で言うと、バックヤードに入って行った。
「何かあったの?」と、華奈子に訊いてみる。
「彼氏と別れちゃったんだって」
少し声を落として華奈子が言う。
「なるほどね」
「仕事はちゃんとやってるけど、落ち込んでてかわいそう」
「早く元気になるといいね」
「うん……」
僕と華奈子は、優香が入って行ったバックヤードの方に視線を向けた。
翌日、早番であがってきた華奈子といっしょにユリが顔を出した。
「センセ、ありがとうございました」
先日の誕生日のお礼にわざわざ来てくれたのだ。
「よかったね、うまくいったみたいで」
「はい、カナとセンセのおかげです」
よほど楽しかったのだろうことは、彼女の顔を見れば一目瞭然だ。
「吉田さんもよくしてくれたでしょう」
「はい、それはもう。ケーキもわざわざ作っていただいて、すごく美味しかったです」
吉田夫妻が丹精込めてケーキを作ってくれている様子が目に浮かぶようだ。
そんな話をしているとき、華奈子の携帯が鳴った。
着信の画面を見て怪訝な目をした華奈子の顔は一瞬にして蒼白になっていた。
「はい、……そうですか、……わかりました。まだ最終に間に合うと思いますので、すぐに行きます。……はい、ありがとうございました」
そう長くはないやり取りを僕とユリは黙って聞いていた。ユリと目が合うと、ふたり同時に軽く頷いていた。――沖縄のお母さんが大変なことになっている。
「センセ、お母さんが入院したって。隣りのおばさんが救急車でいっしょに病院まで行ってくれて……。すぐに行かなくちゃ」
気丈に言う華奈子の瞳は心なしか潤んでいるように見えた。
「わかった。僕もいっしょに行くよ」
この前は急なキャンセルになってしまい、未だに挨拶にも行っていない。いい機会と言うには語弊があるが、いつまでも先延ばしにしていても仕方がない。
「すぐじゃなくていいよ。向こうの様子を見て、連絡するから。それから来て」
「だって大変だろう、独りじゃ」
「大丈夫。隣りのおばさんもいるし、何とかなるから」
いっしょに行くという僕を押しとどめて、独りで行くから大丈夫だと華奈子は言う。
「それじゃ私も帰るから、途中までいっしょに行く」と、ユリが言った。
ユリは先日のお礼だと言って「鳩サブレ」を置いて、ふたりは慌ただしく事務所を出て行った。
この時間からだと、電話で華奈子が言っていたように沖縄行きの最終便に何とか間に合うだろう。空港から母親が入院した病院までの距離感がわからないが、病院への到着はたぶん深夜に近い時間になるだろう。その時点で母親の容態がすぐに確認できるのかさえわからない状況だと思われる。翌朝になってからの判断というのが妥当かもしれない。
華奈子も胸が張り裂けるような思いでいるだろうし、僕も心配で深夜を過ぎてもとても眠れるような精神状態にはなかった。
華奈子も身体を壊さないように、慌てないでいいから落ち着いたら連絡をください、というメールだけは送っておいた。
空が少し白んできたところまでは覚えていたのだが、いつのまにか眠ってしまったらしい。
電話の着信音で目が覚めた。華奈子からだ。
時計を見るとすでに昼近い。
「おはよう、センセ」
電話の声からは緊迫感が感じられず、どこか間延びしているように聞こえた。
「お母さんは? 大丈夫なのか?」
「うん、ピンピンしてる。もう、いやになっちゃう」
「元気なの?」
救急車で運ばれて重体だったんじゃないのか。華奈子の声もどこかのんびりとしていて、とても重体患者の娘という感じではない。
「すっかり騙された。来るんじゃなかった、もう!」
騙された?
「どういうこと?」
母親を心配してるのではなく、怒ってる?
いったい沖縄で何があったのだろうか。
「足を挫いただけなんだって、もういやになっちゃう」
「足? 乳ガンの方じゃなくて」
「そうなの。もうビックリとがっかりよ」
華奈子は羽田発の最終便に乗り、那覇空港からタクシーを使って急いで病院に駆けつけた。ナースステーションで教えてもらった病室に入ると、母親はすやすやと眠っていた。
ベッド脇に並べられた機材と身体に繋がれた何本ものコードを想像し、半ば覚悟を決めてやってきた彼女は、その殺風景な違和感に疑問を感じた。確かに点滴のチューブは腕に繋がれていたが、その他には頬に貼られた大きめのガーゼだけ。いっしょに付き添ってくれたはずの隣りのおばさんもいない。
倒れて救急車で運ばれたにしては処置が軽すぎるように思えた。良性とはいえ乳ガンの検査を定期的に受けているだけに、その違和感が納得しきれない。
眠っている母親を起こさないよう静かに部屋を出た華奈子は、ナースステーションに向かい、病状の詳細を訊いてみた。
すると、乳ガンに関してはまったく心配はなく、頬と足は一週間もすれば完治すると言われた。いったい何が起きたのかと問うと、看護師は大事に至らなくてよかったですね、と言って教えてくれたのは他愛もないことだった。
要約すると、買い物帰りの母親が自宅の玄関先で躓いて転んだだけらしい。
両手に買い物復路を提げて帰宅した母親は、カギを取り出そうとバッグの中を覗きながら歩いていたところ、たまたま躓いて玄関先で転んでしまった。その際に、買い物袋の中にある卵を割ってはいけないという気持ちが優先してしまい、自分の身体より買い物袋を庇うように倒れてしまった。躓いた際に足を挫き、倒れたときに運悪く玄関先のプランターに顔をぶつけた。そして玄関先には扉の前に三段ほどの小さな階段があるのだが、その階段で胸を打ってしまった。
玄関先で胸を押さえて倒れている母親を発見したのは、同じく買い物帰りの隣りのおばさんだった。おばさんは母親の乳ガンの件を知っていたので、すぐに駆け寄り声をかけた。苦しそうに胸を押さえて唸っている母親の顔からは血が流れている。ただ事ではないと悟ったおばさんはすぐに救急車を呼び、病院まで付き添ってくれた。
そして、母親が処置室に入っているあいだに華奈子に連絡してくれたそうだ。
乳ガンの件があったものだから大騒ぎになってしまったが、結局はそれとは関係なく、捻挫と打ち身、それと擦り傷だけという結末だった。
処置室から元気に出てきた母親の顔を確認すると、おばさんは安心して帰って行ったそうだ。後でお礼に行かなくてはいけない、と華奈子は言った。
それでも隣りのおばさんが居合わせてくれたから大事に至らなかったものの、一歩間違えれば大怪我になっていたかもしれない。
華奈子は仮眠室で寝かせてもらい、朝になってから母親の様子を見に行くと、突然現れた娘を見てびっくりされたらしい。
こっちの方がビックリよ、と憎まれ口をたたく華奈子に、母親も笑いながら「ごめんね」と言って謝ったとのことだ。
因みに、身体を呈して守った卵は無事だったらしい。
まったく、バカみたい、と彼女は笑った。
これから隣りのおばさんのところに挨拶に行く、と言って彼女は電話を終えた。
何はともあれ、最悪の事態にならなくてよかったと思う。笑い話で済んだからよかったものの、彼女の母親は爆弾を抱えているようなものだから、非常事態への心づもりだけはしておいて間違いないと思う。ある意味では、いい経験になったのではないだろうか。
その日の夕方遅くになって、珍しく優香が事務所に顔を見せた。
「こんばんは。カナちゃんどうですか?」
「ああ、大丈夫みたいだよ」
華奈子は店にも休むという連絡はいれている。優香は心配で来てくれたようだ。
僕は今回の騒ぎの顛末を話してあげた。
「なぁんだ、よかったですね、それだけで済んで」
「うん、一時はどうなるかと思ったけどね」
彼女も母親の病状について大筋のところは聞いていたらしく、入院の原因が別のことだと分かると安心したようだ。心配してくれる同僚や友人がいることは嬉しいことだ。
「それでカナちゃん、いつ帰ってくるんですか?」
「まだ分からないけど、二日か三日で帰ってくるんじゃないかな。すぐに退院できるみたいだから」
「それならセンセも寂しくないね」
「え、まぁ、ね」
カナちゃんに宜しく、と言って優香はまもなく帰って行った。
翌日の夕方、牛丼でも食べに行こうかとしていたところに優香がやってきた。
外は暗くなりはじめていて、ちょうど事務所の電気を消したところだったので、薄暗闇に現れた彼女の姿に驚いた。
「そんなに驚かないでください、センセ。あたしです、優香」
「あ、ああ。どうしたの?」
まだ心臓の鼓動が激しい。幽霊かと思った。
「お化けだと思ったんでしょ? ひどぉい」
「い、いやそんなことないよ。暗かったからちょっと驚いただけ」
見透かされていた。やっぱり顔に書いてあるのだろうか。
「どこか行くんですか? カナちゃんは?」
「彼女は明日あたり帰ってくるみたいだよ。今は、牛丼でも食べに行こうかと思って」
「ひとりでご飯じゃ寂しいでしょ。あたしがいっしょに行ってあげる」
「僕と?」
「うん。ひとりじゃ寂しいでしょ、カナちゃんもいないし」
近くの牛丼屋に行くだけだから寂しくはないのだが、華奈子がいっしょにいないのは確かに寂しい、かな。
「ちゃんとバランス考えて食べないとダメですよ。牛丼とかラーメンばっかりじゃ」
華奈子もそうだったが、何で僕の食生活が手に取るようにわかるのだろうか。
「それは、そうなんだけど……」
ハハハ、とぎこちなく笑って誤摩化してみた。
「あたしが付き合ってあげるから、ちゃんとしたもの食べましょ」
早く早く、と彼女は僕の腕をとって歩きだす。
優香に連れてこられたのは、関内駅近くの洋風居酒屋だった。多国籍というか無国籍というか、和洋折衷の面白い組み合わせの料理がメニューには並んでいる。何を頼んでいいのかわからないので、注文は優香に任せる。
まずは生ビールで乾杯。
飲めない僕はひと口だけにして、ウーロン茶をもらう。優香は飲めるくちのようで、すぐに追加のビールを頼む。
僕には聞き慣れない、見慣れない料理が運ばれてくるのだが、彼女は常連のようで、いろいろと説明をしてくれる。奇妙な取り合わせだなと思いながら口に入れてみると、これが不思議と美味しいのだ。
「よかった、気にいってくれて」
酒の勢いもあるのか、彼女は上機嫌でよく喋る。既にビールはジョッキ三杯を飲み干し、酎ハイも二杯目に入っている。僕はと言えばやっと二杯目のウーロン茶に口をつけたばかりである。
とにかく彼女は、よく飲み、よく喋った。
不愉快になるようなことはなかったが、店を出るころにはすっかり酩酊状態の出来上がりだった。足下はふらつき、目はとろんとして焦点が合っていない。
「大丈夫? 飲み過ぎじゃない?」
「だいじょうぶぅ。酔ってなんかぁ、ぬぁい」
酔っぱらいの常套句だ。
「ちゃんと帰れる?」
そう訊いた僕に彼女は抱きついてきた。
「センセのとこ、泊めてもらう」
おいおい、本気かよ。
「駅まで送るから」
僕は関内駅の方向に歩こうとした。
「ダメ、今日はセンセといっしょに寝る」
「ちゃんと帰らないと、家族が心配するよ」
「独り暮らしだからしんぷぁいない」
何とか電車に乗せて帰そうと試みるが、彼女は言うことを聞かないどころか、その場に座り込んでしまう始末だ。これだから酔っぱらいは困る。
相手が男なら放っておこうが、少々手荒なことをしようが何とかはなる。しかし、こと相手が若い女性ということになると事情はまるで違ってくる。他に女性の連れでもいれば対処のしようもあるが、男ひとりではいかんともし難い。
華奈子がいてくれれば、事務所に連れ帰って面倒もみてくれるのだろうが、遠い空の下ではそれも望めない。
長いこと彼女との押し問答の末、足下のふらつく彼女を抱えるようにして事務所に戻るしかなかった。
閉め切った事務所の中は熱気が籠り、あたかもサウナのよになっていた。
とりあえず彼女を椅子に座らせ、窓を開け放つ。涼しいとまではいかないが、外から入ってくる風が部屋の熱気を沈めていく。
優香は椅子にもたれて眠っていた。
「こらこら、こんなところで眠っちゃだめだよ」
肩を揺すって起こすと、水が飲みたいと言うので、冷蔵庫のミネラルウォーターをグラスに入れて渡した。
「かんぱぁーい」と言って一気に水を飲み干す。
酒と勘違いしているのかもしれない。
「おしっこ」と言ったかと思うと急に立ち上がり、バタバタとトイレに駆け込む。
若い女の子が「おしっこ」はないだろう。もうちょっと言い方があるだろうに。それも彼女の飾らない性格の現れなのかもしれないが。
いち度だけ水の流れる音がしたっきり、しばらく待っても彼女はトイレから出てこない。
「おーい、生きてるかぁ?」
ドアをコツコツと叩きながら声をかけてみるが、反応がない。それどころか物音すらしない。
困ったな。ここで篭城されてもなぁ。
「おーい、起きてくれよぉ」
何度か声をかけてみるが反応はない。
まさかお尻を出したまま眠っている、なんてことになると、それはそれで扱いに困るし……。
そうこうしている間にこちらも尿意を催してきたので、何とか彼女には出てもらわないといけない。もういち度、扉の向こうに声をかけたが、願いも儚く反応はない。
「開けるよ」と声をかけ、ひと呼吸おいたからドアノブに手をかけた。
カギはかかっていなく、すっと扉は開いた。
まずは少しだけ開いた隙間から声をかけるが、やはり反応はなし。
仕方がないので「開けるからねぇ」と更に声をかけて、ゆっくりと扉をあける。
「おーい、いきてるかぁ」と言いながら中を覗いてみると、便座の上に彼女はいなかった。そのかわり、脱ぎ散らかした服が散らばっていた。
座ったまま眠り込んでいる優香の姿を半ば想像していたので、そこに彼女がいないことに驚いた。よく見ると、下着まで落ちている。
「え? どこ?」
もちろん答えは返ってこない。すると、答えはひとつしか残されていない。
「あ、おい大丈夫か?」
酔い覚ましにシャワーでも浴びようとしたのだろうか。服を脱いだところまではよかったが、シャワーを出すまえに眠気に負けた、といったところか。
優香は湯の張ってない狭いユニットバスのバスタブの中で眠っていた。
しかも、――全裸で。
一瞬僕の頭に浮かんだのは、ドラマなどでよく見る『死体』の映像と、『立入り禁止』の黄色いテープだ。指紋採取をする鑑識と、白い手袋をした捜査一課の刑事がこの部屋にいる映像までもが浮かんできた。この状況を刑事さんにどう説明すればいいのかーー。
いやいや、目の前にいるのは『死体』じゃない。
酔っぱらって眠っているだけだーーたぶん。
でも、どう見てもこの絵は『死体』を想い描かせる。おっかなびっくり彼女の頬を突ついてみると、何か小さな声で呟きながらもぞもぞと身体を動かした。
よかった、生きてる。
鑑識も黄色いテープも消えてなくなったとたん、忘れていた尿意におそわれた。
早く彼女をここから出さないといけない。
バスタオルで彼女の身体を包み込むようにして、そのまま抱え上げてベッドまで運ぶしかなかった。ベッドにおろすとまた彼女は何やらもぞもぞいいながら寝返りをうち、あろうことか文字通りの「大の字」になってしまった。せっかく包んでおいたバスタオルは身体の下だ。
若い女の子が全裸で、しかも「大の字」になって寝ている姿はめったにお目にかかれるものではない。しばし観賞していたい気持ちは山々だが、それよりも「おしっこ」が先だ。
トイレから出てひと息ついたところで、とりあえず彼女にブランケットをかけ、珈琲を淹れた。
彼女が脱ぎ散らかした服はベッドの枕元に置いておくことにした。目を覚ましたときに服が近くにないと困るだろうという配慮だ。
このまま彼女は朝まで起きないのだろうか。男の部屋で酔っぱらったあげく、全裸でベッドに寝ているというのも困ったものだ。僕の場合は下心があるわけでない(本当にないのか?)ので、そのあたりの心配(どのあたりだ?)はしなくていいだろうが、あらぬ誤解を招くのは必至。いらぬ冤罪をかぶることさえあり得る。
何度か起こすように試みてはみるが、起きる気配は微塵も感じられない。かといって、無理矢理起こすのもどうかと憚れる。
二敗目の珈琲も飲み終え、いよいよ僕も眠くなってきた。これ以上は対処の方法がみつからないので、諦めて眠ることにした。
ベッドは彼女を寝かせてあるし、そこで眠るわけにもいかないだろう。何もしていなくても、それこそ誤解では済まなくなる。それに、あれだけ酔っていると今夜の記憶すらあやしいかもしれない。
僕は作業用のテーブルの脇で、椅子を二脚と普段は使っていない折りたたみの椅子を並べ、そこで眠ることにした。寝返りをすると落ちそうだ。
電気を消して「おやすみ」と、気持ちよさそうに熟睡している彼女に言った。
明日の朝はきっとひと騒ぎするような――気がする。
眠りにつく前に感じた「嫌な予感」は別のかたちで、しかも想定外の最悪な状況で当たってしまった。
華奈子が帰ってきたのだ。
帰りは今日になると思う、というメールが昨日の夕方に来ていたから、僕もそのつもりでいた。だからと言って、優香が泊まったこととは関係はない。
本当にない。
僕としては昨日の時点で華奈子にいて欲しいとさえ願ったのだから、しつこいようだが断じて華奈子の不在と優香の泊まりは関係はない。
ないと言ったら、ない。
思い込みと誤解が重なり、母親の重体を半ば覚悟して行った華奈子は、思ってもみなかった状況に安堵の息をついた。
退院し自宅に戻った母親は、娘に心配をかけたことを詫びると、すぐに帰るように言った。要は擦り傷と捻挫だけなので、日常生活に支障があるわけでもない。
華奈子は世話になった隣りの隣りのおばさんに挨拶をすると、夕方の便で羽田に飛んでいた。
メールでも連絡しておけばよかったのだろうが、すっかり気の抜けていた彼女は、そのまま日吉のマンションに戻った。仕事は休みをもらったままだったので、朝から洗濯物などの片づけをしてから、お土産の「ちんすこう」を持って事務所にやってきたのだった。
ところが、そんな状況とはつゆとも知らずに華奈子は事務所の扉をあけた。
「センセ、ただいまぁ」
華奈子の弾けるような笑顔と声が、椅子を並べて眠っていた僕を目覚めさせた。無理な体制で寝ていたおかげで身体のあちこちが軋むように痛い。
ようやく顔をあげた僕に、「センセ、どうしたの?」と彼女は怪訝な顔をする。
まだ頭の働かない僕は椅子に座りなおし、昨夜のことを説明しようかと口を開きかけた。
そこに絶妙としか言えないタイミングで、トイレから水の流れる音がした。
ん? と思った次の瞬間に、あっ! っと思う間もなく、裸にバスタオルを巻いた優香がトイレから出てきた。
二日酔いなのか、乱れた髪の上から額に手をあてている。
お互いを認識するまでの一瞬を挟んで、華奈子の息を呑む音と、優香の「へっ」っと引き攣る声が重なった。
優香は右手を額にあて、左手でバスタオルの前を押さえていたが、華奈子の姿を見て咄嗟にその左手で口を覆ってしまったため、中途半端にまかれたタオルがはらりと床に落ちてしまった。その下は――まさに全裸だった。
華奈子は瞬間冷凍されたかのように、土産の入った袋を持ったままその場に立ちすくんでいる。
互いに目を見開いて固まる華奈子と優香、そして僕。
先に動いたのは優香だった。落ちたバスタオルを素早く拾うと、抱えるようにしてベッドに向かった。
まるで金縛りにでもあったかのように動かなかった華奈子も、ようやく顔だけ動かして僕を睨んだ。次の瞬間にはお土産の袋を床に落として、そのまま外に走り出て行ってしまった。
「か、華奈子!」
数秒の間をおいて僕はようやく声を出したが、どうしたものか乾きで貼り付いた喉からは擦れた音しか出なかった。
まだ完全に覚めていない身体を扉にぶつけながら彼女の後を追った。
事務所を出るとき、優香の声が後ろで聞こえたような気がしたが、今はそれどころではない。とにかく完全に誤解している華奈子に事態の説明をし、冤罪を晴らさなければならない。優香はまだしも、僕は温情で彼女を泊めたのだから罪はない、……筈だ。
一階に降りしばらく外を探してみたが、華奈子の姿はどこにも見当たらなかった。戻って店も覗いてはみたが、そこにも彼女の姿はない。日吉の自宅に帰ってしまったのだろうか。地下鉄に乗っていれば電波が届かない可能性もあるが、彼女の携帯に電話をしてみる。
二回ほどコール音がした後、『電波が届かないか……』という例の機械的なメッセージが流れたまま繋がらない。やはり地下鉄の中なのだろうと思い、しばらくしてからかけ直すことにした。
失意を抱えながら事務所に戻ると、すっかり服を着た優香がひとりでぽつねんと座って待っていた。
「おかえりなさい。カナちゃんは?」と言う彼女の問いに、僕は力なく首を振った。
「そう……。怒ってるよね、カナちゃん」
あたりまえだろう、と言葉をぐっと呑込み、「そうだね……」と僕は呟いた。
母親の一件は結果的に笑い話で済んだものの、火急の用件で実家に行き、戻って来てみれば、そこには全裸の女性がいた。誰だって、この状況で誤解するなと言う方が難しい。
華奈子にしてみれば、裏切られ打ちのめされた気持ちだろうと思う。自分の留守のあいだに女を泊めた。それも彼女と同じ店で働くバイトの娘が、目の前に裸で立っていれば、心穏やかでいられるはずもない。
僕としては、後ろめたいことは何もしていないのだが、心情的にはやはり後ろめたさが全面的に支配している。どう話したら華奈子にわかってもらえるのだろうか。
何度か携帯にかけてみたが、まったく繋がらない。
「ごめんね、センセ」
事件の元凶である優香は、あたしからも電話してみるから大丈夫だよ、と言って帰って行った。
最初からここに泊まらずに帰っていてくれれば、何も問題はなかったのにと思ってはみても、今さらどうしようもない。
いつも華奈子が欠かさずに飾ってくれていた窓辺の花も、彼女の心情を映すように寂しく萎れていた。
|9|
記録的な猛暑は月が替わっても相変わらず続いていた。
人々の顔にははっきり「うんざり」と書いてあるが、自然の猛威は人間の都合などお構いなしだ。そこに自然界の意志があるのか、それとも気まぐれなのか。
華奈子と連絡がとれなくなって一週間がたつ。電話とメールは毎日しているが、未だに連絡はとれていない。電話は相変わらず機械的なメッセージが流れるだけだが、メールが戻されてこないところをみると、読んでくれてはいるのだろうという想像だけはできる。着信拒否という手立てもあるのだから、そこまでではないと根拠のない微かな希望を持つしかない。
ただ、闇に向かってボールを投げているようで、本当に受け取ってくれているのか、漆黒の闇に呑込まれているのかはわからない。
店にも確認したのだが、長期の休暇をとらせてくれ、と言う連絡がいち度あったきりで、その後はやはり連絡がつかない状態だと言う。
心にぽっかりと穴があいたまま無為の日々をただ送っている。
それから更に三日ほど過ぎた夕刻、華奈子の友人のユリが訪ねて来た。
「カナに連絡がつかないんです。センセ、何か心当たりはありませんか」
彼女もやはり何日か前から華奈子と連絡がつかなくなっているらし。僕の場合と同じくメールは送れるのだが、電話がまったく繋がらないということだ。
ユリの家と華奈子の家は歩いて行ける距離にあるから、もちろんマンションにも何度か行ってみたが、帰ってきている様子はないそうだ。
僕もだいたいの場所は聞いていたが、いち度も華奈子のマンションに行ったことがないのを今さらながら後悔した。この機会に正確な住所と簡単な地図を彼女に書いてもらった。彼女が何度か行っているから期待はできないかもしれないが、できれば明日にでも行ってみようと思う。
僕は先日の一件を彼女に話した。誤解され蔑まれても仕方なないことだが、少しでも分かってくれる人が欲しかった。因みに当事者である優香は八月末までのバイトの期間が終了し、今は店に来ていない。それでも連絡先だけは聞いてある。
「それじゃカナがかわいそうだよ。せっかく夢が叶って喜んでいたのに……」
彼女にそう言われ、まったくもって返す言葉もない。
――夢? 何の話だ?
「あのね、センセ。カナに内緒にしておいてって言われてるんだけど……」
ユリはそう言いがら華奈子の「夢」の話を教えてくれた。
子供のころから読書好きだった華奈子は、大学の文学部に入学すると沖縄から日吉のワンルームマンションに引っ越した。そして、親元を離れての独り暮らしが始まった。
引越に際しては運賃も考え荷物は最小限であったため、生活に必要な物はこちらに着いてからひとつずつ買い揃えていった。
ある日、伊勢佐木町に買い物に行ったおり、そこにある大型の書店に入った。大学で必要な書籍を購入するのとともに、引越でバタバタしていたために暫く読めなかった小説を何冊か買った。そのときに買った小説の中の一冊が、青山一樹の著作だった。
飛行機でひとっ飛びとはいえ、十八歳の少女がはじめて親元を離れ、遠い横浜という場所で独り暮らしをするというのは、心細い反面どれだけの夢と希望に満ちあふれていたことだろう。
そんな中で、華奈子は青山一樹の作品と出会った。
彼女は作品とその著者に共感と感動を覚えた。それ以降、彼女は青山一樹の著作が出るたび、それこそ穴が開くほどに読み抜いた。そして次の作品をあたかも恋人を待ちこがれるかのように待ち望んだ。
大きな受賞歴もなく、売れっ子の作家でもないために、サイン会もなく、メディアへの登場は皆無といってもいいくらいだったが、それでも年に数えるほどだが文芸雑誌の片隅にインタビューや粒子の荒いモノクロの写眞が載ることもあった。
彼女は少ない情報の中からそれらを見つけ出し、また見逃さなかった。それは筋金入りと言っても決して過言ではなかった。それは、一般的に有名人に憧れていたり、アイドルに恋をする、というのとは別物であったらしい。
この人との出会いが私の運命――。
彼女はそう言った。
大学を卒業し、就職をしてからも、その熱意はずっと変わらずに持ち続けていた。会社が倒産し、この珈琲ショップで働くことになったのも運命だったのかもしれない。
彼女がここで働き始めた当初、僕はまだ恵比寿にいた。だから彼女がわざわざ僕の近くで働きだしたわけではない。後から僕がその真上に引っ越してきたのだ。
最初に僕が店を訪れたとき、彼女は心臓が飛び出すかと思ったくらい驚いたそうだ。何年も想い続けてきた恋人が目の前に現れたのだから、その驚きは尋常ではないだろう。
やっと巡り会えた、という気持ちで胸がいっぱいになり、その時は放心状態に陥ったそうだ。だが、たまたま通りがかりに寄っただけで、まさか真上に引っ越して来たなど夢にも思わなかったらしい。
そのときにどうして、ひと言でもふた言でもいいから声をかけなかったのかと、しばらく悔やんでいたのだそうだ。二度目はないかもしれないのだから――。
ところが何日かすると、ちょうどレジに立っていた彼女の前にひょっこりと僕が現れた。
今度こそ心臓が飛び出しそうになりながらも注文を受け、マシンを使ってカプチーノを作った。そのときは、あまりの興奮状態で手が細かく震えていたという。
ちょうど午後のアイドルタイムで、他に並んでいる客もいなかった。このチャンスを逃してはならないと即時決断を下した彼女は、それとは気取られないようにできるだけさりげなく「お近くなんですか?」と訊いた。
その時に「ええ、まぁ」といった応え方をしたようなのだが、このいい加減で曖昧な返事すら、彼女にとっては歓喜して躍り上がるような出来ごとだった。まさか恋焦がれていた人に出会い、しかもすぐ近くにいるという現実に彼女は運命を感じていた。
それからの華奈子は、週に何度かやってくるひとりの男だけを見つめていた。
これといって目立つ容姿でもなく、どちらかと言うと雑踏の中に溶け込んでしまう地味な男。メディアへの露出も極端に少なく、街を歩いていても注目されることのない作家。
だが、華奈子にはそれがむしろ好ましかった。
誰でもが知っているような売れっ子の作家であったなら、彼女もここまでその作品と著者に肩入れはしなかっただろう。ひとつひとつの作品の中に、その作者の人となりを感じ大きく共鳴したからこそ、ずっと恋焦がれてきた。
そして銀杏並木が黄金色に輝く晩秋の午後、共鳴から共振へと人生の歩みを進め、恋から愛へとその情熱は変貌を遂げた。
華奈子の夢は現実となった。
「そうだっかのか……。華奈子は、そんなに……」
情熱や執念だけでは語りきれるものでもなければ、偶然にしては出来過ぎの感は否めない。そこには、人知を超越した意志が働いているとしか思えない。
それを人は『運命』というのだろうか。
ユリは華奈子との内緒の話を教えてくれると、「連絡がついたら電話して欲しい」と、彼女は自分の携帯の番号をおいて残念そうに帰っていった。
華奈子が「ナイショ」にしたがるものを、ひとつ知ることが出来た。が、華奈子がいなければ何の意味もない。彼女の眩しい笑顔があってこその「ナイショ」なのだ。
まるで彼女の心痛を映すかのように、窓辺の花は哀しく枯れていた。
|10|
華奈子が姿を見せなくなってから、二ヶ月があっという間に過ぎ去っていった。
どこまで続くのかと日本中がげんなりとしていた猛暑も、気がついてみればいつのまにかなりを潜め、乾いた風に銀杏並木の葉も色づきはじめていた。
無駄だとわかっていても、それでも必ず朝と晩に華奈子の携帯に電話をし、メールを送っている。何度も日吉のマンションに足を運んでいるが、彼女が帰ってきている様子はない。仕事先の店もそうだが、ユリや優香にも連絡は来ていない。
マンションに帰って来ないのだから、他に行くところと言えば友人宅か実家だろう。そう思ってユリに心当たりを尋ねてみたが、華奈子が真っ先に来るなら私のところのは
ずだから、他には心当たりはないと言う。やはり沖縄に帰ったとしか思えない、というのが僕とユリの統一見解だったが、あろうことか、僕だけでなく親友のユリですら沖縄の住所も電話番号も知らないのだった。念のために店にも行って確認してきたのだが、こちらでも沖縄の連絡先は分からなかった。
それでも探す手立てはあろうかと思う。
沖縄県の那覇市ということは分かっているのだから、どこかで沖縄の電話帳を見つけて、荻原という家に片っ端から電話をしてもいい。何件あるかはわからないが、数百件も電話をかけていけばどこかで彼女の家に当たるだろう。しかし、電話帳に記載していない場合は無理だ。
他にも探偵社のようなところに依頼をすれば、一週間ほどで見つけてくれるかも知れない。何十年も前の恩人を探すわけではなく、今この時に現存している人間を探すのだから難しくはないだろう。
それでも僕は待ってみることにした。その理由のひとつが、彼女がマンションを引き払っていないことだった。
誰の前からも姿を消して沖縄に帰ってしまうつもりであるならば、日吉のマンションも早々に引き払ってしまうと思われる。僕ならたぶんそうする。帰るつもりもないマンションがあっても仕方がないし、家賃やら水道光熱費やら無駄な維持費がかかる。
だから今のところ、僕はそこに一粒の希望を見いだしている。
彼女は戻ってくる――。
近くのコンビニから帰ってくると、テーブルの上で携帯電話の着信音が鳴っていた。日頃から頻繁に電話やメールが来るわけではないので、すぐに戻るからいいだろうとケータイを携帯せずにコンビニに行っていた。
ケータイを手にとったところで、着信音は切れた。液晶の画面を見ると、『非通知』になっていた。一瞬、華奈子の顔を思い浮かんだが、仕事絡みの電話かも知れないし、単なる間違いの可能性もある。何が何でも彼女に結びつけて考えてしまう自分を笑った。
落ち着くために珈琲を淹れ、原稿の校正をしていると、また着信音が鳴った。発信元の確認などせず、齧りつくようにして電話をとった。
果たして電話の相手は彼女ではなかった。
がっかりしている口調に電話の主は、「なぁんだ、はないでしょう」と軽口をたたく。
次に出る単行本のカバーデザインをメールで送っておいたので見ておいてくれ、という内容の電話だった。本ほもうすぐ発売の予定になっている。
すぐにメールを開いて確認する。
ひとつは『三人の兄妹』の物語で、華奈子とユリとの三人で食事に行ったときに思いついたものだ。自分でもなかなかの傑作だと自負している。
そして、実はもうひとつある。
黄金色の銀杏並木の歩道に置かれたイーゼル。そこに描かれている並木の風景と寄添うふたりの姿。僕の希望通り、適度にデフォルメしたタッチで描かれている。
このカバーを使って単行本を出版するのはまだ少し先になってしまうが、カバーのデザインを先行して使うことも可能だ。
僕は彼女を呼び戻すために、ふたりに相応しい方法を選んだ。もっともふたりにとって意味のある方法だ。
そこが沖縄の実家ではなくても、例えどんなに離れた場所に彼女がいたとしても、たったひとつだけ僕と彼女を繋ぎ止める絆がある。
それは——本だ。
他人に依頼して彼女を探すようなことはしたくない。それは違うと思った。僕と彼女を引き合わせて結びつけてくれたのは、他の何者でもなく僕の書いた本だ。だから彼女を連れ戻すにはこれしかないと思った。
華奈子と出逢ってから、少しずつ日記のようにして綴っていたものがある。彼女が行方不明になってからそれを急いで小説の体裁に整え、編集者に無理をいって次号の文芸
誌に掲載してもらうことが出来た。何回かの連載のかたちをとって、その後に単行本として出版する。カバーのデザインを一部挿絵として使うようにも頼んである。
日本男子の習性のためか、今までなかなか言葉にして伝えることができなかった気持ちを、彼女への溢れる気持ちを筆に込めて書いた。
現状を考えると、この先僕と彼女が人生をともに過ごすことは適わない願いなのかもしれない。彼女が僕の前から姿を消した時点でもう終焉に達しているのかもしれない。
それでも僕は彼女が帰ってくることを信じている。
そのためにも出逢いの日から今日までのことは嘘偽りなく活字にした。小説として、恋物語としての体裁を整えるため若干の脚色はあるが、出来るだけそのまま等身大のふたりを描いた。
そして僕の前から姿を消した彼女は戻ってくる。ふたりは寄添いながら幸せな日々をすごす。やがて歳をとって僕が先に逝く。彼女は悲しみに暮れるが、決して自暴自棄にも後追いもしない。ふたりで撮った写真に想いを廻らせ涙することもあるが、僕の小説を何度も読み返し、ふたりの想い出を胸に抱いて強く生きていく。
僕の勝手なひとりよがりかもしれないが、それが僕の望む華奈子の生き方だ。
これから先のことはわからない。いくら小説に書いたからといって、それは予言書でも何でもない。僕がどれだけ望もうが、それを華奈子が同じように望んでいるとは限らない。しかし、この望みを託した小説に全てを委ねるしか、今の僕には方法が見つからない。
——きっとこの想いが彼女の心に届きますように。
僕はそう祈りを込めて書いた。
どこにいても彼女は書店に並ぶ僕の小説を見逃すことはないだろう。それはユリから聞いた話からも分かる。きっとどこかの空の下で、この小説を読んでくれると信じている。
だから僕は、筆に想いの丈を込めて物語を書いた。
――僕と華奈子の物語。
*
澄んだ青空の下、黄金色の葉を降らす港・横浜の銀杏並木。
歩道の延びた影と乾いた風のなかに、冬の匂いを感じる。
並木のベンチに座り、黄金色に染まる歩道に視線を向ける。
晩秋の陽だまりのなかで、無邪気に遊ぶ小さな子供たちをぼんやりと眺めていた。
天女が舞い降りたかと思ったあの日から一年が経った。
風に吹かれて擦れ合う落ち葉の音に、微かな声が蘇る。
――センセ。
僕を真っすぐに見つめてくれていた彼女の姿が浮かんでくる。
振り向くといつも眩しい笑顔がそこにあった。
もう、あの弾けるような眩しい笑顔が僕を包んでくれることは叶わないのだろうか。
華奈子だと確信していた無言電話も、かかってこなくなった。
だが、たったひとつだけ残された可能性に、僕は全てを託している。
彼女は読んでくれただろうか。彼女への思いを込めて綴った小説を。
きっと彼女のことだから読んでくれているはずだ。
そして、僕の思いを受けとめてくれると、きっと戻ってきてくれると信じている。
電話が鳴った。
コラムの原稿で躓いていた。どうも焦点がぼやけてしまい、何が言いたいのか分からなくなっていた。そこで、全体の構成を練り直すために思案していたところ、急にバイブレーターの振動とともに電話が鳴りだしたので、正直びっくりした。
時計をみると午前十時を少しまわったところだった。
ちょうど明日が〆切りになっているので、その確認の電話だろうと思った。
「はい、もしもし」
聞き慣れた担当編集者の声が返ってくるのを予想していたのだが、受話器からは何も聞こえてこない。電波状態でも悪いのかと、立って窓辺まで行ってみた。
液晶画面を確認するとアンテナはちゃんと受信状態の良好な状態を示している。相手の電波状態が悪いのかとも思い、何度か「もしもーし、聞こえますかぁ? もしもぉーし」と言ってはみたが、やはり何も聞こえない。
そうこうしているうちに電話は切れた。
着信の履歴を見ると『非通知』になっていた。間違いかイタズラだろうか。編集者ならもう一度、電波のいいところからかけてくるだろう。そのくらい軽く思っていた。
午後になってもういち度、電話が鳴った。
午前中と同じく非通知だ。そして、何も聞こえてこないのも同じだった。
何かの意図があってやっているのだろうか。
イタズラや嫌がらせの電話だろうか、背後の喧騒のようなものは微かに聞こえては来るのだが、前回と同じようにやはり無言だ。
そして、やはり少しすると切れた。
たちの悪いイタズラだろうか。そう思いながらも、夜までに何とかコラムは完成をみた。
その後は無言電話もなく、だらだらとした日常が一ヶ月ほど流れていった。
ある日、また午前十時過ぎに電話が鳴った。この前と同じ時間だ。またぞろイタズラ電話だろうか。
液晶画面には『公衆電話』と表示されている。先月は非通知だったので、もしかすると相手が違うのかもしれない。
放ってもおかれずに、少し用心深く通話ボタンを押す。
まずは向こうから何か言ってくるまでは、こちらも声を出さずにおいてみる。すると、やはり何も聞こえては来なかった。ただ、先月と違うのは背景に僅かな喧騒の音が聞こえる。よく耳を澄ませてみるが、特徴のある音は何もしない。
そして前と同じく、少しすると通話は切れた。
約一ヶ月ほどの空白があったが、前回の無言電話も同じ相手ではないかと思う。明確な理由は特にないので、何となくでしかない。
そこに何かの共通点がないかと考えてみるが、何も思い当たるふしがない。
不思議だとは思うが、毎日のようにかかってくるのであれば迷惑も甚だしいが、先月と今月の二回だけなので被害というほどのものでもない。もしも頻繁にかかってくるようであれば『非通知拒否』をかければ問題は解決する。
出版関係者からの電話も問題になることはないだろう。
そのくらいの軽い気持ちでまたすぐに忘れてしまっていた。
それから更にひと月が過ぎたころ、また無言電話がかかってきた。
三ヶ月連続ともなると、そこには確実に何かの意図があるはずだ。僕は注意深く受話器を耳にあてた。
今日は耳を澄ますと微かな風の音が入ってくる。更に注意深く聞き耳をたてると、ざ
わざわとした雑音も聞こえてくる。
何のイタズラなのか知らないが、特に腹も立たなかったので少しつきあってみることにした。何の意図があってこんなことをやっているのだろうと、少し興味もわいてきた。
何かの手がかりになるような音でもしないかと、息を殺して更に聞き耳を立てていると、唐突に電話は切れた。
例えば何かのアナウンスとか、踏切の音とか、近くを走る救急車のサイレンとか、そういった思わぬところから拾う雑音などから、手がかりになるようなことがあるかもしれない。
僕はそう考えながら、今の電話の背景を想像しながら目を瞑った。
人の息づかいは聞こえなかった。人工的なアラーム音のようなものもない。
聞こえていたのは風の音と、ざわざわとした——。
そこで、ひとつの風景が目の前に浮かんできた。
——波音?
まだこの目で見たこともなく想像の域を出ないが、そこには白い砂浜と波打ち際の景色が広がっていた。
そしてもうひとつのヒント。
ひと月おきにかかってくる電話は必ず月末付近であり、今日で三回目。
そこに重なる用件がひとつだけある。
文芸誌の発売日だ。
――華奈子だ。
そう思ったとたん、電話は切れた。
彼女の声は聞いていない。だいいち無言電話なのだから、相手が誰なのか分かるはずもない。風音とともに聞こえたざわざわという雑音は、砂浜で砕ける波の音だ。
それでも僕は確信した。
僕の小説を読んで、華奈子が電話をかけてきていると。
もうそうなると、落ち着いてなどいられない。もういち度かかってくるのか、こないのか。
連載は今月で終了になる。この後はそれを単行本として出版する。
華奈子は僕の書いた小説を読んでどう思ってくれたのだろうか。
僕の気持ちは華奈子の心に届いたのだろうか。
きっと何かを伝えようと電話をしてきてくれたのだろうけど、それを言えないまま電話を切ってしまったのだろうか。
戻ってきてくれることを望んで書いた小説なのだが、それを読んで僕に嫌気をさした彼女が、最後のお別れの電話をしてきたのかも知れない。さようならが言えないまま、電話を切ってしまったのかも知れない。
電話を握りしめたまま部屋の中をうろうろしてみてみるが、苛立ちばかりが募ってしまう。気がつくと、唸り声とも溜め息ともつかぬ咆哮が口から洩れている。
どうしてもじっとしていられなくなって、ともかく外に出た。時計をみると昼ちかいが、空腹も覚えない。
電話から聞こえた波音のことを考えると、彼女は沖縄にいて、どこか砂浜の近くから電話をしてきたのであろうことは想像に難しくない。だから、今ここで外に出たところで、目の前に彼女が現れることなど皆無なのに、それでも部屋でじっとなどしていられなかった。
地下鉄の駅へ急ぎ、とにかく日吉のマンションを目指した。
ユリに場所を教えてもらってから何度も足を運んでいるので、考えずとも自然と足はそちらに向かう。改札を抜けると足早に商店街を抜け、角を二つ曲がったところにある白いタイル貼りの建物に入り、エントランスにある郵便受けに目を向ける。
宅配ピザのチラシが顔を覘かせていた。他の郵便受けも半分ほどが同じようにチラシが覘いている。投入口から中を確認すると、前から入ったままのチラシが折り重なったままの状態である。
わかってはいたが、確認しなければどうしても気がすまなかった。
やはり彼女は戻ってはいない。
行きの勢いはすっかり消え失せ、とぼとぼと駅に戻る足どりは重い。
何の収穫もなく、また電車に乗って日本大通りの駅を出た。
彼女の姿を追い求めるように空を仰ぐと、秋の空に浮かんだ雲に彼女の笑顔や泣き顔が次々と現れては消えていく。
――華奈子。
黄金色の葉を降らせている並木に小さなつむじ風が吹き、枯れ葉を巻き上げて流れていった。
その日、待っていた電話はとうとうかかってこなかった。
そして月が替わり単行本が出版された。
発売日から三日ほど経った午前十時、待ちかねていた電話が鳴った。
文芸誌で小説の内容はわかっていても、華奈子なら単行本になったものをもういち度読み返すはずだ。そして、もういち度電話をしてくるような気がしていた。
沖縄や北海道などの場合は発売日から数日遅れることもあるが、今やインターネットで注文した場合、発売日に届けてくれるはずだ。
単行本で読み返した華奈子が、気持ちの整理をつけて戻ってきてくれることを一心に祈って、今日という日を待っていた。
電話はやはり無言である。しかし、今日はどうも様子がちがう。話すことを躊躇っているような、相手の息づかいが僅かに聞こえてくる。そして後ろから聞こえてくるのは波音ではない。広いホールの中で聞こえる反響音のような喧騒がある。駅か空港か、それとも病院なのか。
「華奈子! 華奈子だろ!」
いたたまれずに叫んだが、何も返ってはこない。
間違いない、華奈子だ。何かを言い淀んでいるのだろう。
数秒待ってみるが、やはり息づかいの他には聞こえてこない。
もういち度、落ち着いて「華奈子」と呼んでみた。
一瞬、息を吸うよな音が聞こえたので、何か言うかと思ったのだが、またもや電話は沈黙を守っている。
「華奈子、聞いてくれ。あれは誤解だ。まったくの誤解なんだ。彼女に訊いてもらえば分かる。彼女は酔って、勝手に裸になって寝てしまったんだ。信じてくれ、華奈子。戻ってきてくれ」
電話の向こうは沈黙したままだ。
「華奈子。僕の本を読んでくれたと思う。華奈子ならきっと読んでくれたはずだ。それは僕と華奈子の物語だ。そこに僕の気持ちを書いた。お願いだ、戻ってきてくれ!」
僕がそれだけ言い終えると、数秒の沈黙のあと、電話は切れた。
ずっと傍にいてくれる約束じゃなかったのか。あの指切りは何だったんだ。
確かに、華奈子に誤解されるようなことをしたのは僕の方だ。彼女に非はない。
それでも、約束したじゃないか。
「嘘ついたらムニャムニャ……」というのは、ムニャムニャの正体は何だったのだろう。
嘘をついたのは華奈子の方ではないか。いや、そうさせてしまったのは……僕だ。
今さら自責の念くらいでは済まされない。
後悔とは、後で悔やむもの——か。
*
月日だけが悪戯に過ぎてゆく。
日吉のマンションは解約されないまま、今も彼女の帰りを待っている。僕は週にいち度、彼女のマンションに様子を見に行っている。エントランスのポストに無造作に差し込まれた不動産広告など、郵便物以外の不要なものは処分するようにしている。それでも請求書などの必要なものが届けられないところを見ると、沖縄の実家にでも転送するように手続きはしているのかもしれない。
三月のはじめ、横浜では二十年ぶりといわれる積雪があった。交通機関が混乱し大きなニュースになっていたが、華奈子のいない部屋にひとりでいる僕にはどうでもよかった。
翌日の朝は綺麗に晴れ渡り、澄んだ青空が広がっていた。放射冷却で冷え込んだ空気は午後になって緩んできた。
葉のすっかり落ちた銀杏並木の歩道には、誰が作ったのか小さな雪だるまがいくつか置いてある。華奈子もきっとこうやって雪だるまを作りたがるだろうな、と思いながらしゃがんでそれを眺めていた。
「センセ……」
梢の囁きのような声が聞こえた。
華奈子と出会ったあの日も、同じように柔らかい声が降り注いできたなと、彼女と過ごした季節に憶いを馳せた。
ここで出会って、名前を間違えて覚えていたことが発覚し、伊勢佐木の書店にふたりで歩いて行った。
中華街ではじめて食べる北京ダックにはしゃいだ彼女。
写眞館や、「なごみ」に何度もふたりで行った。
赤レンガ倉庫でスケートもした。
いつも僕の傍には彼女がいて、愉しそうに笑っていた。
全てを優しく包み込む華奈子の、あの笑顔を取り戻したい――。
胸を締めつけられる痛みとともに、滲んでくる涙で雪だるまが歪んで見える。
「センセ」
気のせいだと思っていた。彼女の姿を追い求めるばかりに聞こえる「幻聴」だと思い込んでいた。だが、今のは違う。確実に温度をもった人間の声だ。
――華奈子?
視界を歪ませる涙を拭いて、声の聞こえてきた方向に顔を向けた。
幻ではなく、そこにはいつも傍にいてくれた懐かしい姿があった。
「センセ」
あの日ここで出会った天女のように、華奈子はそこに立っていた。あの日はワンピースだったが、今日は白いコートが天女の羽衣に見える。
「華奈子!」
あまりの驚きに喉がはりつき、掠れ声になっていた。
彼女は一冊の本を胸に抱きかかえるようにして佇んでいた。
僕と彼女との物語。
「センセ、読みました。ごめんなさい。ごめんなさい、私……」
彼女が今、胸に抱え持つ本は、唯一の絆であり、最後に残されたたったひとつの可能性だった。
やはり彼女は読んでいてくれた。必ず読んでくれると信じていても、彼女がいない日々が続いたことで、自信が揺らぎ想いが打ち砕かれそうになっていた。だが、願いは届いた。
いつも僕のそばで優しく暖かな笑顔を見せてくれた彼女を想ってつけた小説の題名——『陽だまり』
必ず読んでくれると信じ、想いの丈を込めて書いた。
僕と彼女の物語。
「読んでくれたんだね」
真っすぐに僕の目を見つめる彼女。
「だって、これ……、私のお話だもン!」
緩やかな陽だまりの中で、華奈子の眩しい笑顔が咲いた――。
|11|
華奈子は眼鏡をはずし、潤んだ目頭をそっと拭った。近頃は眼鏡がないと細かい文字が読めなくなった。若い頃とはちがう。
「また読んでたのか?」
華奈子の手元に視線が向く。彼女の手が読みかけの本を閉じる。
カバーや角が痛みすり切れた、古く黄ばんだ単行本。それでも、カバーに描かれている並木のイラストは古さを感じさせない煌めきに溢れている。
「だって、私に書いてくれたお話でしょ」
「懐かしい、な」
二十五年前に、彼女への思いを告げるために書いた物語。
銀杏並木で出会い、愛を育んだふたり。一度は離れたこともあったが、また銀杏並木での再会を果たした。
あれからふたりは決して離れることはなく、彼女はいつも僕の傍にいて眩しい笑顔で僕を包んでくれている。未だに天然さは衰えることを知らないばかりか、年を増すごとに磨きがかかってきている。それも愉しいことのひとつに挙げられるだろう。
彼女のおかげで家のなかはいつも笑顔が絶えない。子供ふたりも社会人となり、来月には孫も生まれる予定だ。
サイドボートの上には、文芸誌の三十周年記念で書いて大きな賞をとった「三兄妹」の本と楯があり、そのとなりにはいくつかの写眞立てが並んでいる。
紆余曲折の末、沖縄の母親と三人で撮った写真は今でも感慨深い。乳ガンの再発や転移もなく眠るように逝ったのは一昨年のことだ。
クリスマスイブの前日にはじめてふたりで撮ったものや、鎌倉に初詣に行った際に思いついた、巫女と神主の衣装を着たおどけたもの。
開店二十周年記念に「なごみ」の前で吉田夫妻とともに写ったものもある。吉田夫妻はこの二十周年を機に葉山に移り住み、今では隠居生活をおくっている。店は二代目の息子さん夫妻が引き継いでいる。
華奈子は今でも僕を『センセ』と呼ぶ。
そして、未だに「ムニャムニャ」の正体は教えてもらっていない——。
— 了 —
2012年1月8日 発行 converted from former BCCKS
bb_B_00100972
bcck: http://bccks.jp/bcck/00100972/info
user: http://bccks.jp/user/15885
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
1962年東京生まれ、神奈川在住。
暇つぶしのための読書から、いつのまにか執筆活動に入り、10年の歳月が流れる。
他に「光の巫女」(文芸社刊)がある。