『しこり』は、創作発表の場です。
創刊号である今回は、五つの作品が集まりました。
作品には、その形態に関わらず、臭い立つものがあります。
臭いの源は、その作品、作者の『しこり』です。
果たしてその『しこり』が、一つなのか、二つなのか。
そもそも、あるのか、ないのか。
それすらも、はっきりとはわかりません。
これから、毎月1日を発行日として発表してゆきます。
現在は当BCCKSのみでの発表ですが、いずれはその他ウェブ、紙媒体へと裾を広げてゆきます。
皆さまに作者たちの『しこり』が届けられますように。
フリーペーパー『しこり』編集部
赤いカーディガンのことや雨の日にさした青い傘、オレンジのトレーナーにピンクの自転車も、あとは、黄色いヘッドフォンのことなんかも、それは鮮明に憶えている。グラデーションの中からそれだけ、取り出すことだってできそうなくらいに。だけどそれだけだ。それだけ、つまりそれ以外はなにも、なにも君のことを憶えていない。わかるかい。
ぼくはこう言った。微妙に違う言い回しもあったかも知れないが、ともかくこういう内容を言ったのだ。彼女は手を止めて「わかるわ」と言った。わかるわ、とだけもう一度呟き、また青ネギを刻みはじめた。
これ以上何も言うまい。何も言えるわけがなかった。彼女が突然現れたと感じているのは僕しかいないようだった。四畳半の部屋は彼女に(もちろん僕にも)よくなついていたし、朝食をつくる姿はあまりに手慣れていた。
ぼくはとりあえずテレビをつけてから考えることにした。朝の占いを観るのが僕の習慣なのだ。好みのアナウンサーが山羊座の運勢を読み上げる。無駄遣いをしない、悪口を言わない、いつだって言えることだ。ラッキーアイテムは今日も用意しがたい品物だった。ネギを刻み終えた彼女は半分をみそ汁へ、もう半分はプラスチックの容器に移して冷凍室へ放り込んだ。立ち上る湯気が換気扇へ消えた。
ぼくが目覚めたとき、彼女は人参を切っていた。きっと半月切りだったろう。ぼくは寝起きのいい方だから、夢かもしれないとは思わなかった。前日に飲まされたロシアの酒がひどく回ったことは覚えていたから、きっとそのせいだろうと思った。
白味噌しかないの、と言うだろう。そう思った。彼女は「里芋が少ししかない」と言った。そう言った彼女の緑のヘアゴムに見覚えがあって、それで思い出した。彼女はぼくのガールフレンドで、今日は水族館に行く予定で、それなのにぼくは昨晩飲みに行って、つぶれて帰ってきた。そこまで思い出してやっと、ぼくはそれ以上思い出せないことに気づいた。彼女の名前も、顔も、もっと詳細もだ。記憶の彼女は服を着た透明人間のように透き通った。どうしていいかわからず、ただ朝食が出来上がるのを待った。
しばらくして小さなちゃぶ台に並んだみそ汁と白米と玉子焼きは、毎朝と全く同じだった。塩で味付けられた、シンプルな玉子だったし、薄めのみそ汁はぼくの好みを的中していた。
「どうだろう、まず自己紹介から始めないか。君のほうはともかくぼくは君のことをわからない。過去のことは今言った通りだし、未来のことはわからない。水族館に行く、としか」
「付き合ってるのに? それはわかるんでしょ?」
いや、と言いかけてやめた。正しくはそのヘアゴムをつけたガールフレンドがいるのであって、彼女がガールフレンドであるという確証ではない。しかしあまりにも無神経がすぎた。彼女はこんな状況に騒ぎも喚きもせず、わかるわ、と言ったのだ。混乱しているぼくを困らせないためだ。みそ汁をすすりながら気持ちを落ち着かせた。彼女の目はかすかに潤んでいて、不謹慎な色っぽさを醸していた。彼女は、ぼくが思い出すまで何も言わない気でいるようだった。
正直言ってとりわけ美人というわけではない。ありふれた顔立ちだが、色は白く、どことなく上品だ。これがぼくの、彼女に対するファーストインプレッションだった。とにもかくにも、ぼくたちは約束の水族館に行くことにした。ぼくがシャワーを浴びている間に彼女は着替えていた。水色のワンピースは、水族館というよりはよく晴れた空の色だった。記憶にないのは、初めてみるせいなのか、忘れてしまっているからなのか、うまく判断できなかった。ぼくはTシャツとジーンズ、それにカーディガンを羽織った。深い緑のカーディガンは秋の空気によく馴染んだ。
「この馬鹿犬っ!」
ヒステリックな罵声とともに飛んでくる小石が、ケンジの白い額を強打した。
一戸建ての門の内側には、ケンジの家族、松島家三人の姿があった。その家族であるはずの雅子が今、門の外側にいるケンジに、喚きながら石を投げつけている。
「ちょっとお母さんケンジがかわいそうだよ!」
松島家の一人娘、奈々子が石を投げようとする雅子の手を制した。雅子はその怒りで真っ赤に充血させた目を奈々子に向けた。
「奈々子っ! いいっ!? この馬鹿犬はねぇっ、人様の家の子を噛んだのよっ! そのせいであたしがどれだけ恥をかいたと思ってるのっ!」
言いながら雅子は再びケンジに石を投げつけた。石が前足の爪に直撃した。突然の激痛に、ケンジは身を丸めてうずくまった。
「おい雅子、もう夜も遅いし近所迷惑になるからもうちょっと声を」
「あんたは黙ってなさいっ!」
「ひっ」
妻のいつも以上の剣幕に、公平は思わずたじろいた。そして十歳の娘を一瞥すると、静かに玄関のドアを開け、家の中へと姿を消した。
「とにかく、もうこの馬鹿犬はうちでは飼えません」
雅子が冷たく言い放ち、踵を返した。
「待ってお母さん!」
奈々子が玄関のドアを握った雅子の手に飛びつき、涙目で訴えた。
「ケンジはもう誰も噛んだりしないよ! 反省してるよ! だから追い出されても戻ってきてずっと家の前でお座りしてるじゃん!」
「そんなの、ここに餌をたかりに来てるだけに決まってるでしょ! とにかくっ! この馬鹿犬が家の前でお座りしようが、伏せしようが、シャイニング・ウィザードしようが、家に入れるつもりはありませんっ!」
「でもこのままじゃケンジが死んじゃうよっ!」
「死ねばいいのよ」
無情に言い放ち、雅子は玄関のドアを開けて中に入り、わざと音を立てるように、おもいきりドアを閉めた。地面を割るかのような突然の衝撃音に、ケンジは身を震わせた。石で出血した前足の傷が疼いた。
外に一人取り残された奈々子は、茫然とドアと向き合い、立ち尽くした。ケンジにはただ奈々子の後姿を見つめることしかできなかった。すると、しばらくして奈々子の嗚咽が漏れ始めた。
―俺のせいで、奈々子が泣いている。
どうしようもない無力感が、ケンジの身体を重くした。これ以上ここにいても、奈々子を悲しませるだけかもしれない。もうどうにもならないのなら、早くこの場から去った方がいい。奈々子に気付かれないように。
―じゃあな、奈々子。
ケンジは奈々子の後姿から目を離し、踵を返した。
「ケンジ!」
立ち去るケンジの背中に、奈々子の声が突き刺さった。振り返ると、奈々子が門を開け、ケンジのもとへ駆けつけてきた。幼い少女の両腕が、ケンジの白い首に強く巻きついた。
「大丈夫ケンジ。奈々子がお母さんに頼んで、ケンジをお家に入れるようにするから。でも今は難しそう。だからその間だけ我慢できる?」
奈々子は巻きつけた腕を解き、ケンジの頭をやさしく撫でた。少女の小さな掌が、ケンジの心の氷壁を溶かしていく。できればこのまま永遠に
「奈々子! 何してるの、さっさと中に入りなさい!」
二階の窓から発せられた雅子の声が、氷解しかけたケンジの心を、一気に氷河期さながらの現実へと引き戻した。
「ごめん、もう行かないと。すぐにお家に入れるようにするから、それまで我慢して待っててね」
そういうと奈々子はもう一度ケンジの頭を撫で、足早に家へ戻っていった。奈々子の後姿を見送ったケンジは踵を返し、松島家を後にした。
その瞬間から、ケンジの過酷な生活が始まった。仙台の冬の冷気は、容赦なくケンジの体力を奪っていった。本来、家庭で育てられた犬は野良犬になると、野生に適応できず、三日と生きられない。しかし三日経ってもケンジは近所の公園の土管の中で生きながらえていた。日に一度は奈々子がやってきて、食べ物を与えてくれたおかげだった。
しかし、一週間が経ったあたりから、奈々子が公園に現れなくなった。それからは、自分でゴミ捨て場の生ゴミを漁ったり、地面を這う虫を食べて空腹を満たした。
―奈々子はどうしたのだろう。
奈々子が現れなくなってから三日が経った。もしかすると、体調でも崩したのかもしれない。そう思ったケンジは、松島家の様子を見に行くことにした。
家の手前まで来たところで、道路脇の電柱に身を隠した。雅子に見つかったら、厄介なことになりかねない。ふと、小石の速球による痛みが脳裏をかすめた。
家の方に顔を向け、鼻を利かせた。奈々子と雅子の匂いがした。しかし、匂いだけで奈々子の状態までは把握できない。この目で確かめたい。
奈々子は活発な性格で、よく外に出て遊んでいる。元気なら、ここで待っているとすぐに出てくるはず。そう考えたケンジは、家の様子を伺いながら、このまま待つことにした。
しかしひとつ気がかりなことがあった。どうも松島家から妙な匂いがする。ケンジが家にいた時には無かった匂い。直感で、生き物の匂いであることは分かった。松島家の誰のものでもない、人間以外の匂い。どこか、親近感が湧いてくるような匂い。
「行ってきます!」
快活なハスキーボイスとともに、奈々子が家から飛び出してきた。ケンジの目に、奈々子の元気な姿が飛び込んできた。
―よかった、どうやらなんともないらしい。
安心したケンジは踵を返し、こっそり公園に戻ろうとした。
「ケンジ!」
後方から奈々子の声が聞こえ、ケンジは振り返った。
奈々子は散歩用のリールを持ち、家の方に体を向けてしゃがんでいた。すると、家の門から白い影が飛び出し、奈々子の胸に飛び込んだ。
―あの匂い。
奈々子はその白い塊にリールを繋ぎ、それを愛しそうに撫でまわした。ガラスや鏡に映った自分の姿。自分の虚像。それが今、奈々子の胸の中にいる。ケンジには何が目の前で起こっているのかわからなかった。これは夢なのか。しかし、鏡写しの自分から発せられる匂いが、夢ではなく現実であることを物語っていた。
―ちがう、あれは自分じゃない。
「それじゃお散歩行こっか、ケンジ」
そう言うと奈々子は、ケンジと反対方向に歩いて行った。
ケンジは奈々子の後姿が見えなくなっても、ただ呆然と立ち尽くしていた。しかし、しばらくしてようやく現実に目覚めた。そして気付いた。人間とは身勝手で、無責任で、決して自分とは相容れない生物であることを。そして決意した。人間を頼らず、己の力で生き抜いていくことを。
久しぶりの曇天だった。ここ何日か、ずっとからっとした天気だったからか、この空の色が何とも不思議なものに見えた。通り過ぎていく人がぽつりと、「鬱陶しい天気だな」と言葉を路上に落としていった。私はそれを拾って、誰にも踏まれないように投げた。私にとっては、この天気は鬱陶しいものには感じられなかった。むしろ気持ちの良い色をしていた。目も眩まない、薄く伸ばされた太陽の光が、地上に落ち切らずに、雲とこことの間で留まっている。私はその光を手に入れたくて、手を伸ばしてみたけれど、まさに雲を掴むような話だったので、やめて歩き始めた。
クミコが死んだのは一カ月前のことだった。その知らせはクミコの母親からの電話で受け取った。私はクミコの母親の声を聞きながら、窓の外を照りつける、秋口の太陽をぼんやりと見つめていた。彼女は自分の部屋で首を吊って死んだ。その表情はなぜか安らかで、ほっとしていた。私は棺の中のクミコを見つめて、誰にも聞こえない声で「良かったね」と呟いた。泣き崩れる母親と、それを悼む人の涙をぐるっと見渡してみたが、透明な涙はほとんど見受けられなかった。形ばかりなら、と、私はクミコが骨になるまで泣かなかった。しかし、火葬場で灰に埋もれたクミコの骨を見た時、ああ、本当に死んだんだと感じて、涙がこぼれた。クミコが死んだことが悲しいのではなかった。人は死ぬという事実を突き付けられて、恐ろしくなったのだった。
彼女は死にたがっていた。私が何故か聞いても、ろくな返事はくれなかったが、彼女は生半可な気持ちではなく、本当に死にたかったようだった。
「もう生きていく意味がないの。これ以上生きていても、美しい景色は見られないじゃないの」
これが最近のクミコの決め台詞だった。それが何を意味するのか、私にはなんとなく分かるような気がしていた。もちろん、それは「気がしていた」だけだったけれど。彼女の言う「美しい景色」とは一体何なのかも分からなかった。けれど、今見ているクミコの骨と、それを取り囲む人のいる景色は、クミコの望んでいたその景色とはほど遠かった。
遺品の整理を手伝ってほしいとクミコの母に言われたため、葬式から一週間も経たないうちにクミコの家を訪れた。五十を通り越えた彼女の母には、荷物だらけのクミコの部屋を一人で片付けるには無理があった。それに、たった一人の家族であった娘の物を自ら捨てるのはあまりにも辛い、といったような顔をして、彼女は私を迎え入れた。クミコの母は目の下にどっさりと隈を蓄えていて、先月から一気に十歳は老けたようだった。まるでクミコが母親の年齢を吸い取って死んだかのようだった。それは私が最後に見た、棺桶の中のクミコの表情と比べて出た感想だった。生きている時のクミコと、死んだクミコの顔では、私は死んだクミコの顔の方が好きだった。死んでからの方が、クミコは元気そうだった。
クミコの母は「それじゃあよろしくね」と言って部屋のドアを閉めた。クミコの部屋には、彼女の趣味だった雑貨や写真が大量に飾られていた。引きだしやボックスを見ても、それらはまだまだ隠れていた。彼女は確かにおしゃれな人だった。服装ももちろん、持っていた小物や連れて行ってくれる店、見せてくれる写真はどれもセンスのあるものばかりだった。彼女の「美しい景色」というのは、こういうものだったのだろうか。私は彼女の遺品をひとつひとつ手に取りながら、彼女の顔を思い浮かべた。最近の彼女は、笑顔を見せることは殆どなかったような気がする。失望。その二文字がよく似合う表情ばかりをして、決め台詞を落とし続けていた。私はその言葉を拾うこともなく、地面にゆっくり溶けていくのをぼんやりと見つめていた。それはどんなにおしゃれなカフェでも、学食で写真集を見ていても、じっとりと床に落ちては見えなくなっていった。私からすれば「美しい景色」でも、彼女のその言葉が混ざるだけで、一気に色の無い、つまらないものになってしまったのだった。彼女のため息は鈍器で胸を押しこまれたようで、私には重苦しかった。そんなため息をついていた彼女も、吐いても何も楽にはならないことを知っていて、それでもため息を吐き続けた。そうするしかなかったとでも言わんばかりに。ああ、死ぬな。そう思ったことは何度となくあった。死んだ方がまし、という台詞がよくあるが、まさに彼女はそんな顔をしていた。
私にはクミコと多く会話した記憶がほとんどなかった。今思えば、よく友達として成り立っていたな、というくらいだった。ただ、なんとなく何かする時には、お互いを誘っていた。そして、何を話すわけでもなく、クミコの趣味や、私の趣味(といってもクミコほどはないのだが)を共有していた。空気。まさにそんな感じだった。しかし彼女の方が私をそう思っていたのかは分からない。現に私がいるのに死んでしまっているのだから、もしかしたら彼女にとって私は何でもなかったのかもしれない。私はクミコのいう「美しい景色」には入っていなかった。
しばらく整理を続けていると、小さな箱を見つけた。はがきサイズのその箱の蓋を開けると、写真が何枚か入っていた。ああ、また写真か、と、私はさっきからの作業のように箱に手を入れ、一枚ずつ眺めていった。しかし、その箱に入っていた写真は、今までのものとは全く違ったものだった。しかし、私は今まで見てきたものよりも、それの方が好きだった。というより、クミコを初めて「人間」と感じられた気がした。クミコは死んでからの方が、ずっとずっと色みを帯びて、生きていた。束の間の喜びの後で、私はまた恐ろしくなり、悲しくなった。
写真には同じ学部のコウスケが写っていた。笑顔のコウスケばかりがそこにいた。コウスケは、最近彼女が出来たと喜んでいた。その話題は私とクミコのところにもすぐに流れてきたのをよく覚えている。
人間をしていることが嫌になることがある。それはこの思考というもののせいだ。人間は、生きやすいように周囲を変える思考力を持つ。けれど、死のうと思えば死ぬこともできる。人間は、恐ろしい生き物だ。曇った空が静かに泣きだした。足を止めて空を仰いだ。私は傘を持っていたが、差したい気持ちにはならなかったので、さっき拾った言葉を飲んで「鬱陶しいな」と呟いて、灰色の雲を睨んだ。
-完-
彼はどこ、どこ。どこどこ。扉を叩く。
目が覚めると一人だった。昨晩は彼とケーキを焼いて、完璧な未来というバンドのファーストアルバムを聴いて、最後のアルファベットははたしてゼットと読むのか、それともズィーと読むのかについて話した。そこまで思い出せて、少し安心する。
キッチンまで歩いて何も考えずに水を飲んだけれど、それが性欲だと気付いてすぐに吐いた。彼は先に帰ったのだろうか。少し寂しくなったので、ステレオの再生ボタンを押した。ビーホールド! 一曲目が流れ始める。なんて下手っぴな歌だろうか。ソファに座る。私ひとりの分だけ、身体が沈む。昨日と同じ場所。でも目線は少し高い。完璧な未来なんてありはしない。この三人組の演奏のように。
テーブルの上の皿にはアルファベットのかたちをしたフライドポテトが一つ残っている。
「この折りたたまれた棒は、ゼットかな。それともズィーかな」
裸のケーキが焼きあがる少し前に、彼はそう言った。私はすでに随分と酔っ払っていたので、すぐにズィー! と答えた。彼の顔がふにゃりと歪んだ。
「ズィーはすこし、まぬけっぽいね」
まぬけっぽいねと言われてしまった。馬鹿な。エックス、ワイ、ズィーじゃないか。そう習ったはずだ。ズィー。散々歌ったから間違っているはずはない。私はぐるぐると考えた。泳ぎを知らないまま川の底へ沈んでしまう子供のように。ゼットではなく、ズィーである確かな理由を。そうして私が困っている顔をみて
「エイチのときは、すんなりと答えが出たのにね」
と、彼は笑った。ソファに座った身体が沈む。沈む。つくりかけのお菓子の家を父親に食べられてしまったときのことをふと思い出した。父の口のまわりについたチョコレートを見ても、不思議と落胆しなかったことを覚えている。
たぶんいつかまた思い出すだろう。そんな気がする。
「しかし困ったね」
完璧な未来の演奏が終わって、円盤がしゅるしゅると減速していくのがきこえた。キッチンからはケーキのいいにおいがする。
「最後のアルファベットを、二人揃って言うことができないなんて」
彼は初めて舞台に立った役者みたいに、わざとらしくそう言った。私は女優にはなれないので、立ち上がってキッチンへと歩いた。生クリームの用意はもうできている。ビーホールド! と、また演奏が始まった。私はソファのほうは見ないようにして、ケーキが焼きあがるのを待った。
そろそろだ。
一晩たってすっかり冷めてしまったフライドポテトはやはりズィーなのである。時間はかかりそうだが彼には言い聞かせないといけないなと思った。皿を持ち上げると書置きをみつけた。すこし出かけます。すぐ戻ります。私はもう一度キッチンへと歩いた。ほんのりとケーキのにおいが残ったオーブンにそれを入れてみた。それはたぶん完璧な未来ではないけれど。冷たいよりはずっといいだろう。
彼が帰ってきたら、最後のアルファベットを口にしてみよう。
-完-
「私が死んだら、骨で珊瑚を造ってちょうだい」
それが妻の遺言だった。四十九日が過ぎてすぐ、私は墓の底から妻の骨壺を取り出し、窯業をやっている友人の元へ連れて行った。
人骨で珊瑚を造るなど、理解を得ようとする方が間違っているのは分かりきっていたし、そう簡単に引き受けてもらえるとは当然考えていなかった。結果として友人は、妙に熱い好奇心でもって、妻の願いを引き受けてくれたのだが。
完成した珊瑚は、生前の妻の肌には劣るが、ほとんど同じくらい真っ白で、丁度手のひらを広げたような形と大きさをしていた。あまりにも現実的に造られたいくつもの筋は、私に骨上げの記憶を蘇らせた。若い骨だったから密度があって、案外大きいのが作れたよ。そう言って笑う彼の顔は、まさに芸術家のそれであった。
珊瑚の処遇については、私は妻から何も指示されていなかった。私は珊瑚がぎりぎり入るサイズの水槽を買い、三パーセントの濃度の食塩水に珊瑚を沈め、ベッド・ルームの窓から一番離れた棚の上に祀っておくことにしたのだった。
眠りから覚めた私と、動かない珊瑚の間には、全裸の女が立っていた。私が声をかけると、女は色鉛筆の肌色をした尻を振り、丁寧に視線をこちらに預けてから言った。
「すごいですね、この珊瑚。本物ですか」
カーテンから漏れる早朝の光を真正面に受けた女の瞳は、栄養ある水を欲して乾いていた。
「いや、造られたものだよ」
水槽の食塩水も濁り始めてきた。そろそろ替えてやらねばならない。
-完-
2011年11月1日 発行 創刊号 初版
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