あなたは、好きな人の何を知りたいですか?
身長や体重の数字より、心の内が気になると思います。農業も同じ。
自給率の数字も大切ですが、毎日、口に入れる野菜や肉を、どこのだれが、どんな思いで生産したものかわかるとうれしいですね。
写真はハウス見学に来た小学生を迎えた時の青年の笑顔です。栽培の説明をしながら「植物が成長していいものができると、うれしいよ」と語りかけていました。
農家の顔が見えるだけでなく、生産の現場をいつでも見ることができる関係を農家と消費者が築いていくことが、これからはもっと必要になると思います。
その日は、牛の分娩予定日。しかし予定時刻をすぎても子牛は生まれません。
農大の牛舎を重苦しい空気が支配していました。
不意に1人の女子学生が冗談をつぶやき、それに男子学生が「冗談言ってる場合じゃない」と反応しました。
彼女は「でもこんな時、冗談でも言わないともっと悲しいでしょ」と答えました。
彼女の実家は畜産農家。家でもこんな場面を経験し、結末も予想していたのでしょう。
周りを気遣って冗談を言ったその強くてやさしい気持ちを考えると、泣きそうになりました。
子牛は死産でした。
彼女はその後も母牛に付き添い「がんばったね」と話しかけていました。
ミニトマトの「バッグ栽培」をしている、いちき串木野市の農場を訪ねました。
ハウス内にシートが敷かれ、整然とバックが並んでいます。同行者が緑のアーチを通りながら「ここでコーヒー飲んだら気持ちがいいだろうね」と言うような落ち着いた空間でした。
この栽培方法を提案するのはオリザ合同会社の小平勘太さん。計画、生産、販売、加工までの一貫したサポートを通し、新規就農の若者でも自立できる持続的農業を目指しています。
ミニトマトは全量契約。成分分析データによるブランド戦略を展開し、東京などで販売しています。
農場の「気持ち良さ」は、生産者のやりがいの表れではないかと感じました。
小学生の時、祖母と一緒に農作業をしていて、鎌で手を切りました。
祖母は傷口にヨモギを付け「最後まで終わったら帰ろうね」と言いました。
終わりじゃないのかと落胆したこと、痛かったこと、その後は休む度に励まされたこと…。達成感とともに
鮮明に覚えているそんな話を、人にする機会がありました。
「今なら親が止めるでしょう」と言われ、祖母は作業が続けられる傷かどうか、自らの経験から判断していたのだと気づきました。ただ危ないからさせない、では子供のチャンスを奪っているのかもしれません。
記憶は変化しますが、体験なしでは解釈もできない。思い出は作ろうと思って作れるものではないのですね。
鹿屋市で新テッポウユリを栽培する岩井さん夫婦のハウスを訪ねました。
植え付け予定の畑を耕すため、それぞれトラクターに乗って作業していました。
トラクターによる耕うんは今まで夫の悟さんが1人でしてきました。妻のケイ子さんは今日初めて使い方を教えてもらい、練習中でした。
これまでは悟さんが心配して教えてくれなかったそうです。「家から遠い畑に行くとき、トラクター2台だと作業が早く済む」とうれしそうなケイ子さん。
農作業中の事故が多いので、これまでも悟さんを心配し、畑作業について行くよう気をつけていたと話します。
互いを思いやる岩井さん夫婦。「いつも一緒で毎日仕事があることは幸せ」と顔を見合わせました。
学生が自分で育てたキャベツの収穫をしながら品質を確かめていました。
中を見るためにキャベツを包丁で2つに割りました。
学生は「中もきれいなので、出荷できます」と言いながら割ったキャベツにかぶりつきました。「味もいいです、先生もどうぞ」と残りの半分を手渡されました。青い空の下でキャベツを食べるのは初めてです。なんだか、うれしい気分です。
よく噛むとキャベツ特有の味が、ほのかに口の中に広がります 。普段は、ドレッシングなどをかけるため繊細な味は感じません。葉の部分よりも芯に近い部分が甘く感じます。葉が重なり合っている場所にかぶりつくときの食感は、皿の上のキャベツとは別次元の心地よさです。
テレビなどで畑で野菜をかじるシーンを何となく見ていましたが、実際にやれば新たな発見があります。今回はそのことを学生に教えてもらいました。
ごちそうさまでした。
沖永良部には、花やジャガイモの収穫作業をするためにボラバイトの若者が来ます。
ボラバイトとは、ボランティアとアルバイトからなる造語です。
参加者は、農業をしたい学生や都会の生活に疑問を持ち南の島で人生を再考したい人など様々です。希望の期間と作業をネットで選び自費で来島します。少しの報酬と、食事、宿泊場所を農家から提供してもらい、お金よりも体験を重視します。
初対面の他人どうしで、共同生活をしながら作業をします。仲良くなっても短期間しか島に居られないことを彼らは知っています。
出会いと別れの場所に沖永良部を選んだことは、偶然かもしれません。その偶然を必然にするために彼らは毎日全力で働くことを楽しみます。
沖永良部のボラバイトと一緒にジャガイモの収穫作業をしました。都市圏から来た彼女たちは、農業は始めてですが、毎日の作業で熟練し早く丁寧にイモの土を落としカゴに入れます。
イモを拾いながら、みんなで歌を歌ったり、笑ったり、会話を楽しみながら作業をします。短い期間しか一緒にいないけど、みんな仲間です。
「鹿児島は好き?」って聞いたら、 「鹿児島のことは良くわからないけど、この島は好き。受け入れ農家さんは、とても親切で親子みたいに接してくれるし。新しい友達もできたし。それに島の風景と人とジャガイモに癒される毎日が好き」と笑顔で答えてくれました。
自分たちが見過ごしていることに価値を感じて、楽しむ彼女らに見習うことがたくさんあります。
鹿児島県の新しい農作業安全シール作りにかかわりました。車やトラクターに張りたくなる楽しいデザインにしたいと思い、まずは文章で、シールに登場する個性的なキャラクターの名前や性格、時代や場所を細かく考えました。
その案をもとに、イラストレーターの大寺聡さん(日置市在住)にイラストの作成依頼をしました。
コンセプトは、家族。子どもやロボットも登場します。「農業にもヒーローが必要だ」が持論の大寺さんの気持ちがこもった魅力的なキャラクターができました。
農作業は時期が限られ、天候の影響を受けるため体力的にも精神的にも無理をしがち。そんな時に家族のことを思い出し、農作業の安全を考えるきっかけにしてもらえれば、作成にかかわった私たちにとって最高の喜びです。
水田で畦塗り作業をクワでしている方に「大変ですね」と声をかけました。
「農業が好きなの、大変とかつらいとか思ったことは一度もないのよ」と言いました。孫に野菜を送ると「ばあちゃんの野菜は、一番おいしい」と食べるそうです。
昔は、「誰が作り、誰が消費するのか」わかっていました。自分もジャガイモを出荷するときに「誰がこんなに食べるのだろう?」と考えましたが、不特定の誰かを想像することはできませんでした。
流通の発達により、生産者と消費者のつながりが薄くなりました。生産履歴は安心安全だけではなく、情報の力によりつながりを見直すことなのかもしれません。
「誰かが、誰かの顔を思い浮かべて物を生産する」ことが難しい現在、おばあちゃんの愛情野菜は孫や家族にとって宝物です。
米作りで泥の中を歩くことは重労働です。そのため機械は乗用型になり、水田を歩く必要がなくなりました。
田植機で植えた後、 欠株(少し株の無い場所)がまれにできます。泥に入り欠株の場所に手植えをしていた人に「欠株があっても周りの株が補うから、最終的な収量は変わらないですよ」と言うと「わかっているけど、この作業でしか泥の中を歩かないし、欠株は美しくないからね」と言われました。
欠株を手植えで補うことは、生産活動の面では意味が無いのかもしれません。
泥の感触は気持が良く、作業が終わった後の心地よい疲れは自分も好きなので、その気持ちはすぐ理解できました。
しかし、「欠株は美しくない」という言葉を聞いたとき、物を作るときに忘れてはならない大切な美意識があることを知りました。
農大の放牧養豚場で一匹の子豚を「ブニオ」と名付けて2人の学生が飼育していました。「名前付けたら出荷するときイヤじゃない」と聞くと「そんなこと無いですよ」と言っていました。
毎日、朝夕の餌と水の入れ替えを毎日休むことなくしていました。 泥だらけになり楽しそうに豚と遊びながら健康観察をする2人から、 丹誠込めて育てる以上の関係を感じました。
出荷は、自分たちでブニオをトラックに乗せました。産まれてから出荷までの176日間を思い出しながら、檻に入って小さく見えたブニオを手を振りながら見送りました。
彼女たちは、卒業して養豚場で働いています。養豚場は菌の持ち込み制限のため関係者しか入ることはできません。その中でも放牧場と変わらず、豚に愛情をそそいでいることと思います。
徳之島のパイナップル栽培は、昭和30年前半に沖縄から苗を購入して始まりました。
昭和36年の新聞には、缶詰工場で働く人の活気のある写真と、お土産用の青果が高いため缶詰用原料が集まらないという悩みが書かれています。
しかし、その後の輸入増加により、昭和40年代後半に工場が閉鎖され、パインを生産する人もいなくなりました。しかし川田さんは、「徳之島から苗が無くなれば、再び栽培できなくなる」と、売り先の無いパインを自分の畑に植えました。
川田さんのパインは、品質の高さから評価が高く、出荷の時に郵便局からふるさと便で送りませんかと誘いが来ました。
「売れたことよりも、パインを作れることがうれしかった」と当時を振り返りながら徳之島の青い海が見える畑で話してくださいました。
川田さん夫婦は、徳之島の赤い大地にパイナップルを植え、台風で飛ばされないように丁寧に石で押さえます。
パインは、植え付けから収穫まで2年間かかります。除草剤は使えないため、ハブが潜む畑の草を1本1本手で抜きます。 花が咲く時は、実が真っ赤になり紫の花弁がたくさん出てきます。 畑で完熟したパインを食べ「本物は、こんなに美味しいのか」と衝撃を受けました。しかも重機で耕し根が深いため、たくさん食べても舌が痛くなりません。
「70歳越えたからあと2回収穫できるかな」と川田さんは、パイン畑を見ながら嬉しそうに言いました。自分は気の利いたことも言えないまま、一緒に畑を見つめました。
川田さんが丹精こめた美しいパイン畑は、今はどうなっているのだろうか。川田さんのパインは、徳之島の歴史です。
出産予定を過ぎても子牛が生まれないため、乳牛の母子ともに危険な状態となりました。みんなで試行錯誤しながら子牛の足にロープをかけて、引き出しました。
ぐったりしている子牛に交代しながら心臓マッサージをしました。長い時間が過ぎ「もういいでしょうか?」と一人が声をかけ、みんなが我に返りました。それでもあきらめられず、死んだ子牛をなでながら声をかけていました。母牛が子牛を見ると情が移るため移動したので、母牛は子供を見ることはできませんでした。
長い処置の間、母牛は一声も鳴き声を出しませんでした。
母牛に「よう、がんばったね」と声をかけ点滴をして体力を回復させます。
母牛は助かりましたが、もう子牛を産むことはできません。母牛の母乳は、牛乳として私たちの食卓で飲まれます。
スーパーに来ていた姉と弟が、牛乳を選んでいました。
弟が手前の牛乳を取ると姉が「奥にあるのが賞味期限が長いのよ」と言いました。すると弟が「これ以上長い必要はないよ。自分たちが買わないと捨てられるかもしれないんだよ」と言いました。
素敵だなと思いながら、賞味期限が少しでも長い牛乳を探していた自分が恥ずかしくなりました。
毎日飲む牛乳ですが、知らないことばかりです。子供を育てるために血液を母乳として変えることは、人間も牛も同じです。 そのため、出産後の子育て期間にしか牛乳は出ません。子牛が飲む量はわずかで、ほとんどは食卓で消費されます。
おいしい牛乳を届けるために酪農家は牛とともに生活して365日、早朝と夕方2回搾乳を行います。
牛乳は、乳牛と酪農家の愛でできています。
4月からキクを栽培する仕事をしています。10年前にも花の生産者に栽培技術を教える仕事をしていました。しかし、キクをハウスで栽培して、植え付けから出荷まで自分自身で考え作業するのは初めてです。
以前の講習会で「水は、午前中にたっぷりかけましょうね」と言っていました。しかし、自分のキクを前に、「たっぷりって、どれくらい?」という単純なところから悩みます。水かけの方法、土の状況、キクの生育状況などの要因で「たっぷり」も様々です。
手探りでやってきて、半年の経験でだいたいの勘所が分ってきたつもりでした。季節が変わり、暑い時期と同じように水をかけ、かけすぎてしまいました。
「知っていること」、「理解していること」、「実際に自分でやること」の大きな違いを切実に実感しています。
キク畑の作業ではいつもより、時間が早く過ぎます。また一日の終わりには、自分がやった作業の量がわかり、小さなことの繰り返しを形として確認できます。
一人でキクの穂を摘んだり、草抜きなどの単純作業を繰り返していると、頭の中が「無の状態」になることがあります。正確には表現できないのですが、普段頭の中で様々なことを考えている状態とは違います。
意識の中に入り込み、内なる自分と心の深い場所で対話をしているような感じになります。土や植物に触れる単純作業の繰り返しのリズムが、入り口になりその体験することができます。
深い意識から普段の自分に帰ると、長く会わなかった友達と久しぶりに会話したようなすっきりした気分になっています。
「無の状態」を楽しみにしながら今日も畑に行きます。
機械メーカーと共同で、3年かけて農業機械を開発しました。市販機一号が売れたので、納品にメーカーの人と行きました。自分たちの開発した機械が売れることがうれしかったし、当初の予定価格より安くできたことで満足していました。
メーカーの人に「百台のうち一台の不良品をどう考えますか」と質問されました。「不良品率一%だから、優秀だと思います」と答えると「その一台を購入したお客様にとって不良品率百%です。次に自分のメーカーの物を購入することは無くなるので、0%にする必要があります」と言われました。
機械を運び込んで試運転した後に、お客さんから現金で43万円を受け取りました。
それを見て「安くはない」と思うと同時に、物を売るという重みを感じて恐ろしくなりました。
石油備蓄基地のある喜入の海沿いの国道から山手に入ること10分。住宅街を抜けて山の中にある狭い農道を走ると水田や小さな段々畑があります。その先に増永さんの山小屋がある果樹園が広がります。
増永さん夫婦は毎日、朝5時に起きてみかん園の山小屋に来ます。ひと働きした後に朝食です。昼はテレビを見ながら、お茶を沸かし弁当を食べ、2時まで昼寝をします。それから夕方6時までみかんを管理して家に帰り、夕飯後は早く寝ます。
よく働くスローライフです。そのため家の電話では連絡がつきませんが、山小屋に行くと増永さんはいつも温かく迎えてくれます。「山小屋にも電話引くか携帯持ってよ」と言うと「家にいると電話がきてうるさいのよ。ここは電話も無いし、人もほとんど来ないからいいんじゃないの」と笑った。
3ヶ月かけて栽培した輪ギクを市場に出荷しています。
お盆は1本80円、9月のお彼岸は、まあまあの1本45円で売れました。
しかし11月は1本9円でした。あまりに安いので市場に実際に行ってみると、大量の花が出荷されていました。量が多いと安くなるのは市場経済では当然ですが、この現実には参りました。
しかしこれは農業以外の産業でも同じことで、自分も消費者としてその恩恵にあずかっています。 以前、生産者の方に「出荷した花が安かったよ」と言われ、自分は傍観者として安かった理由を説明しました。しかし、安値を経験して当事者となり、「安かった」と言う時は感情的に整理できない心のもやもやを誰かに伝えたい時だと思いました。
安いとわかっていて、市場に花を置いたときに胸の中が痛くなりました。
徳之島の松本果樹園は、「たんかん」を二月から三月にインターネットで販売しています。農産物をネット販売することの優位性がいわれていますが、実際に個人で行っている人はまだ少数です。畑の状況から発送個数と注文受付期間を毎年決める必要があります。
受付数が少なければ余りが出るし、多いと発送できなくなり迷惑をかけます。
注文受付順の発送のため「すぐに送ってほしい」との要望にはまだ応えられませんが、松本さんが栽培した果物を直接購入できることが大きな魅力です。
松本果樹園にはネット販売の技術的なノウハウと同時に、お客さんとのつながりという力が蓄えられていきます。
「自分で作った果物で、お客さんと直接つながれることが嬉しい」と言う松本さんの言葉を思い出しながら、今年もたんかんを注文しました。
鳥獣害の報道を見て「困ったね。駆除しないといけないねー」と思います。
それは、「どこかの誰かが、自分の知らないうちに駆除してほしい」という考えでした。
先日、キンカン畑に手伝いに行きました。ヒヨドリが集団で襲来して食害するためにキンカン畑全体を網で囲います。しかし、隙間から中に入り網に絡まったヒヨドリは、はずして駆除します。
駆除とは、命を奪うと言うことです。始めはおっかなびっくりで少し気分が悪くなりましたが、時間が経つと何も考えずにできる自分がいました。
畑に来ていた一般の人が「かわいそう」と言ったとき「自分の大切な物が襲われたらどうする?」と生産者の人が問いました。
おいしい物は食べたいけど、いやなことは誰かにやって欲しいでは、だめなことがわかりました。
徳之島では、春じゃがいもの出荷時期です。ミネラル分を多く含んだ赤土で栽培されるじゃがいもの美味しさは格別です。
しかしこの赤土は、掘取時にイモ表面に大量に付着します。手作業でしか落とせないため、多くの時間を必要とします。
そこで、赤土を落とす機械を農機メーカーと試験場で共同開発しました。3年間、2月から3月まで長野から2人の技術者が徳之島に来て、イモの品種や表面に残る土の条件ごとに部品を試作し、組み合わせを変えて試験を行う毎日でした。「花粉がないから、快適ですよ」と言っていましたが、家族と離れての生活は寂しかったと思います。
「生産現場が開発現場であり、生産者に愛される機械を作りたい」という2人の言葉から、機械開発の基本を学び共に目標に突き進んだ3年間でした。
鹿屋市の小薄(おすき)そばを伝承する小薄敏和さん宅に行きました。小薄そばは、そば粉と同量の自然薯を使用する贅沢な5割そばです。独特の技法で打ち、コシが強く茹でてから時間が経っても切れない細く美しいそばです。
自分がそば打ちを始めた理由は、祖母が高齢になりそばを作れなくなったからでした。その後、そば打ちに没頭して東京のそば屋で文化の違いに圧倒され、すっかりのぼせていました。しかし、どんなに道具、技術を改善しても物足りなさが残りました。
小薄さんが「地区に伝わる小薄そばの技術と伝統の味を守りたい」と言われる姿を見て、自分が求めていたものは、祖母のそばだと気づきました。
小さい時に慣れ親しんだ味こそ、究極の味であり、その伝統を守ることの大切さを小薄さんに教えていただきました。
日本には、虫の声を愛でる文化がありますが、自然が残る地方でも鳴いている虫の声に気づけない子供が増えています。その原因は、親が子供に虫の声は風流であるという会話や、感情に触れ記憶に刻まれる体験が減ったからです。
食べ物も同じで、家庭の食卓で「食」について食事中に親が話をすることで、家庭の味や食文化は知識と体験で強固な記憶となり子供に継承されます。 今回で、
このコラムも最終回です。物語を書く作業のなかで自分にとって安心安全な味の根底は、「子供の頃に食べた家庭の味」だという新たな発見がありました。
自然や命、生産した人、料理した人に感謝する「いただきます」「ごちそうさま」。そんなすばらしい日本の文化がいつまでも継承されるように、みんなで食の話しをしましよう。
2011年5月14日 発行 converted from former BCCKS
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