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小・中・高校生が書いた創作短編集。

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書かなきゃから 書きたいへ 2011夏号

UEDA学習塾

UEDA塾文庫

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photo|Aiko -

CONTENTS

二人ぼっち ・・・ 安田礼
どこまでも ・・・ 安田礼

レクイエム ・・・ 彩夜

笑いの神社 ・・・ 新井悠里

おんぶのかげ ・・・ 吉田まなみ

ガード下の小さなお店・・・広瀬かおり

光 ・・・ 大竹智之





ふたりぼっち/どこまでも


安田礼

「二人ぼっち」

ぼくは金魚のキンタだ。
前は水そうに一匹だった。

ある日、新入りがやってきた。
真っ赤な色の金魚だ。
そのこの名前はキンチャン。

初めて友達ができた。
毎日毎日、遊んだ。
かくれんぼに、追いかけっこ。
いろいろした。

楽しかった。

嬉しかった。

だけど、キンチャンは日に日に弱っていった。

かくれんぼも、追いかけっこも
できなくなった。
でも、キンチャンはいつも
笑ってた。

ある日、キンチャンが
「ありがとう。」って言った。
それから、キンチャンは
動かなくなった。

キンチャンはいなくなった。
また一匹になった。
でも、
ぼくは一人ぼっちじゃなかった。
キンチャンは、
ぼくの中にいる。そして、
いつもぼくに笑いかけている。

「どこまでも」

蝉の命は短いんだ。
太陽を見てから7日間で死んじゃう。
でも、ぼくは太陽になりたかった。

ぼくの名前はセミゴロウ。
夢は太陽になること。
だから、いつか太陽の所に行く。

ある日、ぼくは初めて飛んだ。
でも、太陽は遠かった。

いっぱい、いっぱい
羽をはばたかせたけど、
届かなかった。

くる日も、くる日も、
くる日も、くる日も、

そしてある日。
その日もまた飛んだ。だけど、
羽が上手く動かなかった。
そして、電柱にぶつかった。
羽から力が抜けた。

太陽がまぶしかった。

ぼくは、もうだめだと思った。
だけど、
体がふわっとした。
羽をはばたかせたら、

また飛べた。

どこまでも、どこまでも。
そして、
ぼくは太陽になった。





レクイエム 
episode Ⅰ. 山名正紀


彩夜

 なんで。どうして。
 俺に向かって時に呟かれ、時に叫ばれるその声は、俺を通りぬけて誰に受け止められるわけでもなく虚空へと消える。
 だから俺は探してやるんだ。その答えを。

 ピリリリリ、ピリリリリ。
「はい、葬儀屋『御魂』です。」
 葬儀屋だっていうのに電話が携帯の如き軽い音で鳴るのはいかがなものか。いつも俺は思う。
「少々お待ち下さい、担当にかわります。…古都さーん、お仕事です。」
 保留ボタンの間に呼びかけられたのは同僚のジコだ。
「はいよ。病院?齢、人数、性別は?」
「ええ。二十五歳男性、一人です。」
「なるほど…。はい、お電話かわりました。」
 ジコは電話を切った。短い電話だ。
「交通事故?」
 俺はタバコ片手に聞いた。
「俺の担当だからな。」
 そう言ってジコは立ち上がり、隣の部屋に首を突っ込んだ。
「木下、北山総合病院。」
「北山ですね。古都先輩来ないんですか?」
「必要なら呼べ。」
「わかりました。」
 木下がたち上がるのが見え、ジコの首が戻ってきた。
「お前行かねぇの?」
 俺はタバコの煙を吐き出して言った。
「何だよジガイ、にらむなって。」
 ジコは苦笑した。
「オレが行く程のものじゃなさそうだ。」
「交通事故、突然の死。遺族の悲しみは有り余ってんじゃねぇの?」
「それを木下に見てもらうんだ。」
 思いのほか真剣な声に俺はジコを見上げた。タバコの灰を落とす。
「交通事故は突然だ。〈レクイエム〉が要るような件がいつ来てもおかしくない、だから、」
 今は行けないのさ、ジコはそう言って座った。
 葬儀屋の業界には〈レクイエム〉と呼ばれる特殊な者がいる。普通の葬儀屋と同じように式を準備し行いながら、死者と生者の間に橋をかける。〈レクイエム〉には死者の言葉が聞ける。当たり前だ。俺は胸の中で呟いた。〈レクイエム〉は全員、一度死んでる。それぞれ自分が死んだ原因を通り名とし、その葬儀を担当する。だからジコは交通事故で死に交通事故担当、ヤマイは病気、ロースイは老衰、カジは火事、タサツは他殺。そして俺…ジガイは自殺担当だ。
 一般の社員は〈レクイエム〉を上司とはするが正体は知らない。だから社員の前では通り名をもじって名字っぽく名乗る。だからジコは『事』を変換して古都。俺は短くなったタバコを灰皿でつぶした。
「ジガイ、お前さ、タバコやめろよ。」
 後ろからカジが俺の頭をこづいた。
「あ?」
「社内ならまだいいけど、外に出たらマズいぞ。お前見た目十八歳のままなんだから。」
「うるさい。ちゃんと年とってりゃもう二十五だ。」
 俺は新たな一本に火をつけた。手元で銀色のライターが光る。〈レクイエム〉は死んだ時から老いない。俺はずっと十八歳のままだ。ちなみにカジは三十歳、ジコは四十二歳。
「それ言っちゃあ、ダメだね。」
 ジコは苦笑した。
 ピリリリリ、ピリリリリ。今日は電話が良く鳴る日だ。近くにいたカジがとった。
「はい、葬儀屋『御魂』です。ああ京南病院さん。…あぁ…。」
 カジの声のトーンが下がり、カジの目が俺をとらえた。
「自殺ですか。」
 俺はタバコの火をもみ消した。
 自殺の場合、〈レクイエム〉が要らないことは滅多にない。遺族は混乱し、悲しみ、呆然とする。そんな時に十八歳の若造が「葬儀屋です。」と言ったところで混乱は拡大し、面倒なことになる。怒りをぶちまける奴もいる。だから俺は、いつも一般社員を一人、連れていく。そこそこの齢で、仲が良い奴。青崎だ。
「このたびは……。葬儀屋『御魂』から参りました、青崎、賀伊と申します。病院からご紹介いただきました。」
 青崎が伏せた目でつつがなくあいさつをし頭を下げた。俺もその後ろで深々と頭を下げる。亡くなったのは中学生くらいの男の子。今、病室には涙涙の母親らしき女性と、妻の手前、気はたしかに持っているが今にも倒れそうな顔面蒼白の父親らしき男性がいるだけだ。母親の手の中には黒髪小柄の、優しくおだやかな笑みを浮かべた少年の写真がある。その写真に涙を落しながら、母親は声にならない声で呟く。
「なんで……正紀が自殺なんて……。あの子が……。」
「…はじめまして。よろしくお願いします。」
 心ここにあらずといった様子の夫が頭を下げた。俺は青崎を残して霊安室に向かった。
 カチャッと小さな音をたててドアを開けると、そこはひんやりとしていた。当たり前だ。いろんな意味で体に慣れた温度。彼は、そこに安置されていた。俺はそこに近づいていって、顔の白い布を取り払った。黒髪で色白で小柄な、たいした印象のない顔だ。俺はそいつの額に軽く触れた。ふっ、と。特に変化は見られない。この死んだ体を動かすわけではないのだ。スッと、背後に気配を感じた。
「メガネ。」
 振り返るとそこに、半透明な彼がいた。死んだ自分の体を指さして、俺を見つめて。俺は横に置いてあったフレームの細いメガネを、その遺体にかけた。霊の顔にもメガネが現れる。
「これで良いか?」
 俺は彼にたずねた。
「ええ、見易くなりました。」
 彼はうなずいて、自分の体が安置された台に座る。俺はその向かいに腰かけた。
「で、僕に何かご用ですか?」
 彼は静かに微笑んで言った。好きになれない笑顔だ。
「あぁ。お前、名前は?」
「山名正紀です。お兄さんは?」
「俺はジガイ〈レクイエム〉だ。」
 そう言うと彼は軽く目を見開いた。
「〈レクイエム〉、ですか。」
 なぜか〈レクイエム〉は死者の共通常識となっている。今まであった奴らも、全員説明要らずだった。
「あぁ。単刀直入だが、お前、なぜ自殺したんだ?」
 彼はすっと目を伏せた。
「寂しくなって。」
「……寂しく?」
「というか、空しくかな。僕の両親に会いました?」
「あぁ。」
「あの二人は、僕のことなんか見てないんですよ。」
「……どういうことだ?」
「二人が見てるのは、僕の善行とか、成績なんです。」
 あぁ。俺は彼の両親を思い出した。確かに、そんな空気がある。
「なるほどな。それが寂しく、空しく感じたわけか。」
「えぇ。あとは、強迫観念でしょうか?」
「強迫観念?」
「はい。二人が見てるのが僕の善行や成績なら、それを失ったら僕はきっと価値を失うだろうって思ったら、絶対に反抗してはいけない、二人の望む自分でいないといけないって感じて。そうしたらもう毎日必死でした。絶対に何一つ不備がないように、気を張りつめて気を配って。そうしてたらある時ふっと…。」
「空しくなった?」
「はい。僕はいったい何をしてるんだろうって…。僕は何なんだろうって。それで死んじゃったんです。」
 彼はおだやかに笑った。笑ってると言うより泣いているみたいな笑い方だ。
「喉にナイフ突き立てて?」
「ええ。あれが僕の、最初で最後の反抗です。少しでも、僕の苦しみを知ってほしくて。」
 なるほど。俺はタバコを引き出して、ここが病院、それも霊安室であることを思い出した。しぶしぶタバコをしまう。
「伝えてやるよ。」
「え?」
「お前の想いを。」
 彼は俺の顔をじぃっと見つめた。少しだけ笑う。
「そっか、〈レクイエム〉でしたね。」
「思い出してもらって光栄だよ。」
「お願いして、良いんですか?」
「もちろんだ。俺の仕事だから。」
「ありがとうございます。」
「一番伝えたいことは、何だ?」
 彼は辺りに目線を向けた。答えを探すように、目線が泳ぐ。そして
「僕を、僕という存在自体を。僕が存在していたことを。」
 彼は俺の目を見て、まっすぐに言った。
「……わかった。」

 彼の病室まで戻ると、青崎が廊下によりかかって手帳をめくっていた。
「青崎。」
 青崎は手帳から目を上げ、言った。
「遅かったですね。」
 たしか三十歳を越えているはずだが、青崎は俺に敬語を使い、対等に話してくる。それが俺が青崎に〈レクイエム〉について打ち明けている理由であり一緒にいる理由だ。
「そうか?」
「そうですよ。」
 そう言って青崎は手帳をしまった。並んで歩き出す。病院を出て、手近な喫茶店にどちらからともなく入った。
「いらっしゃいませ。二名様ですか。」
「はい。」
「禁煙、喫煙どちらになさいますか。」
「喫煙で。」
「こちらへどうぞ。」
 ウェイトレスとの対応は全て青崎に任せる。奥の壁際の席に通された。ウェイトレスが去るのを待ち、青崎が口をひらく。
「どうでした?」
「一番、可哀想なタイプだ。」
「可哀想ですか。」
 ウェイトレスがメニューと水を運んで来て、会話が途切れる。
「私はコーヒーでお願いします。」
「俺はコーラ。」
 かしこまりましたと去って行った彼女の目に、俺と青崎はどう映ったのだろうか。やっぱり親子か。よもや俺が上司、青崎が部下とは思わないだろうな。青崎がまた呟く。
「可哀想ですか。」
「あぁ。」
 俺は山名正紀の生い立ちと生涯(短いが)についてざっと説明した。
「自分ではない、評価上の自分しか見てない両親に、正紀少年は耐えらんなくなったんだ。」
「あなたと大分違う人生だった様ですね。」
 コーヒーとコーラが運ばれてきた。お互い、黙って手をつける。俺は銀のライターでタバコに火をつけた。
「……彼の両親、特に母親が。」
「?」
「息子さんが大変自慢で、過多な期待をかけていたようです。」
「だろうな。正紀少年の話と辻褄があう。」
「それも異常なんです。私が彼の写真を見て、『まじめそうな方ですね。』とあたりさわりのない感想を言ったら、途端に『えぇ。まじめなだけでなく反抗期のない良い子で、親に口答えしたこともなく、学校の生徒会長もつとめて成績も学年トップで、来春には東大入学率の高いN高に入学する予定だったんです。将来は海外相手に渡りあえる選抜優良者(エリート)にもなりえる子だったのに…。』って。この時が一番生き生きしてましたよ。隣にいた旦那さんが、うんざりしたみたいに語気を荒げていさめるくらいに。今までもこういう方々にお目にかかってはいましたけれど、その中でも群を抜いてます。」
 可哀想だな。俺は心の奥で正紀少年に同情する。子は親を選べない。
「気味が悪いな。」
「えぇ。正直言って不気味です。息子が死んで、しかも自殺で、まだ葬儀もお通夜も、段取りすらしてない状態で亡くなった息子の自慢話なんてしませんよ、普通。」
 青崎がここまで言うのも珍しい。いつもは俺がブツブツ文句を言って青崎がなだめるのが普通なんだが。俺は短くなったタバコを押しつぶした。新たな一本に火をつける。
「多分。」
「何です。」
「その親は今までも、親類やら友達やらに息子を自慢しまくってたんだろ。で、まだ正紀少年の死を受け入れられなくて、普段の感覚で自慢したんだ。そうでもしないといられないのかもしれねぇな。」
 青崎は、不快そうにしかめた顔を緩めた。
「そうかもしれません……。そうだとしたら、それはそれで可哀想、ですね。」
 俺は手先のタバコを見つめた。灰皿に、灰が落ちる。
「ああ。それとも……俺らには理解できない人情のない奴か、だ。」
 俺はそれだけ言って、まだ十分に長いタバコを灰皿でつぶした。
 会社への報告と事務は全て青崎にまかせ、俺はそのまま家へ帰った。道ですれちがう女子高校生達のやけに短いスカートが目についた。前はあんなのをガン見したもんだ。俺は内心苦

笑する。生きてた頃は。〈レクイエム〉として再び生を受けてから、完全に彼女達に興味を失った。あれだけ遊びまわっていた俺から夜遊びの気力まで奪うとは、どれだけ気力を奪う仕事なのかと当初は驚き呆れたものだ。髪を染めたチャラチャラした男子高校生が集団で俺の横を通る。前を歩くスカートの短い女子を見て下卑た声をあげる彼らを横目で見て、俺はそこに昔の自分を見た気がした。
「……イ、……ガイ、ジガイ!起きなさいったら、青崎君困ってるわよ。」
「……あ?」
 俺は自分のデスクに突っ伏し、眠っていたらしい。
「まったく、直属の上司がこれじゃ、部下が可哀想だわ。」
 そう言ってヤマイは呆れた顔をした。
「るっせぇな。青崎に任せてあんだよ。」
「その青崎君が『賀伊さん珍しく今回は働かないですよね。日取りとか会場とかの事務も全部私に任せきりで。最初に病院行った以外遺族となんのコンタクトもとってないんです。』って愚痴ってたわよ。どうかした?」
「……別に。」
「どこぞの芸能人じゃあるまいし。」
「うるせぇな。関係ないだろ。」
「あるわよ。同じ〈レクイエム〉だもの。」
 それを言われると俺は弱い。一言うなって、言った。
「親に押しつぶされた少年と、押しつぶした親を相手にしてんだよ。それに遺族とは話してねぇけど死者とは話してんだ。」
「今回の仕事?」
「あぁ。」
「お互い大変ね。こっちは五歳の一人娘を急な病気で亡くしたご両親の相手で大変よ。五歳って可愛い盛りだからね…。しかも一人娘でしょう。こっちまで影響受けちゃうくらい沈んじゃって。私がちゃんと橋渡ししてあげないと二人そろってあなたのお客様になっちゃいそう。」
 言葉こそ不謹慎なくらい明るかったが、表情は哀しそうだった。
「この仕事で楽な分野なんてねぇからな。」
「あら、あるわよ。」
「あ?だれだよ。」
「ロースイ。」
 ……たしかに。だが。
「そんなこと言っていいのかよ。あれはあれで大変だろうよ。」
「でも私達よりは心が楽でしょう。」
 バタン!とドアが開いた。
「山(やま)さん!賀伊さんを起こしたらすぐつれてきて下さいって言ったじゃないですか!時間無いんですって。賀伊さん着替えてもないし。」
 珍しく語尾の強い青崎は俺の服装を見て脱力して額に手をあてた。俺はTシャツの上にストライプのワイシャツをはおり、下はジーンズというラフな格好だった。青崎は既に喪服姿である。
「賀伊さん、しっかりして下さいよ。十分以内に着替えて車まで来て下さいね!」
 それだけ言うと青崎はあわただしく出ていった。
「怒られちゃったわねえ。」
「怒られたな。」
 俺は立ち上がって伸び、着替えの入った袋を手にロッカールームへと向かった。
 今回の会場はまだ新しく、内装もだいぶ豪華な方だった。
「その分、値は張りますけどね。」
 青崎はまわりを一瞥して皮肉をチクリ。今回は青崎を含め四人の部下を連れてきている。黒服の彼らが会場内に二人、外に二人に分かれて準備を進めている。俺も一緒になって祭壇を手伝った。
「で。今回はどうするんです?」
 作業があらかた終わった後、青崎は声を潜めて言った。
「あぁ…。いつも通り。」
「通夜の後ですね。」
 決戦は近い。

「――――――、――――――」
 何度聞いても経をあげる坊主の声は聞き取れない。俺は祭壇の脇、喪主である両親のすぐ近くに立っていた。会場内は親類とおぼしきじいさんやばあさん、友達とおぼしき少年少女のすすり泣きに満たされている。俺は目をつむり、頭ん中で正紀少年との会話を反芻していた。
〝『僕』を認められたことは無かったです。〟
〝僕は『僕』を『山名正紀』って中学三年生の男子を認めてもらいたい。〟
〝両親が、『僕』の存在を何ととらえていたのかを知りたい。〟
 痛い。なんだか知らねぇけど、体の中がグチャグチャにされたみたいに、変な感じがする。一言で言えば、痛い。気持ち悪ぃな。俺は顔をしかめ、目を開けた。すぐ脇にいる山名夫人は仕立ての良さそうな黒のツーピースに身を包み、髪をセットし化粧をして、その化粧をした顔をハンカチにうずめて泣いている。その隣にいる旦那は妻の肩に手を置き、自らも目を潤ませて祭壇を直視できないといった様子で斜め下を見ている。口から時折「正紀……。」と呟きがもれる。その声にどことなく後ろめたい、痛みを含んだものを聞きとったように俺は感じた。わけがわからない。グチャグチャな痛みが強くなって、俺は胃の少し上を強く押さえた。心が痛いってヤツか?死人なのに、俺は痛む心を持ってんのか?坊主が経を読む声が高くなったり低くなったりする中で、俺の耳には「正紀っ……なんで……正紀……」と夫人の声が届いた。気持ち悪ぃ。ふざけんな。「なんで」じゃねぇよ。正紀少年は自殺じゃない。殺されたんだ。俺は夫人をにらまないように、心を抑える手に力を入れた。
 通夜はとどこおりなく執り行われ、涙の絶えない会食もお開きとなった。俺は青崎と共に参列者に丁寧に頭を下げた。厳粛な面持ちで会場を後にすれば彼らの役割はとりあえず終わる。役割なんて言ってはいけないが。だが俺の役割はここからだ。俺は青崎に目配せをして夫妻が息子と最後の一夜を過ごすための準備を始めた。
 少し湿気の残る初秋の風が心地良い。日中は我が物顔で世界を支配していた夏の空気も夜は鳴りをひそめるようだ。俺は窓を閉め、一度窓の外をながめて歩き出す。一つの扉の前に立ち、息を一つ、吸い込んだ。
「あらっ、あなた葬儀屋の方ですよね。」
 俺が扉を静かに開けて入ると、夫人がそう声をあげた。目の真っ赤なのは少しおさまっている。
「何か、お忘れものですか?」
「えぇ、私としたことが、書類のファイルなんてものを厳かなところに忘れてしまいまして……。」
 俺は申し訳ありませんと頭を下げた。
「おや、どこだろうな、見当たらないが……。」
 旦那がキョロキョロと辺りを見回した。俺は部屋のすみに置いてあったそれを手に取り、言った。
「ありました、すみません。あの、お線香をあげさせていただいても?」
 夫妻は驚いたように顔を見合わせ、夫人が言った。
「えぇ、もちろんです。正紀も……きっと喜ぶと思います。」
 アンタに、正紀少年の代弁なんかできるわけがないだろ。
「ありがとうございます。では失礼して……。」
 俺は正紀少年の手前に置かれた線香をろうそくの炎に近付けた。鈴を鳴らし、手を合わせる。…正紀少年、今から、始めるから。上からでも、見てな。
「ありがとうございました。」
 俺は夫妻に向き直って正座し直し、頭を下げた。
「いえ、そんな……。随分お若いのにしっかりしてらっしゃいますね。」
 夫人はそう言って正紀少年の遺影に目を向けた。小さく微笑む。
「うちの正紀も、小さい頃から礼義の正しい子だったんです。」
 違うだろ?そう仕立て上げたんだ。アンタら。俺にはにっこりと微笑む遺影が泣いてるように見えた。
「どんなご子息だったんですか?」
「良い子でしたよ。いつもいろいろ率先してお手伝いもしてくれて、成績だって……。」
「いえ、そういうことではなくて。」
 俺は夫人の言葉をさえぎった。
「え?」
「えぇと、何と言いますか、彼自身の人となりはどんな方だったのかな、と……。」
 夫妻はぽかんと俺を見つめた。俺はハッとし慌てた、というそぶりで手を振って、言った。
「す、すみません。私、今十八なんですが、その……彼と年の頃も近いので、気になって……。」
 すると夫人は戸惑った表情のまま言った。
「え……と、そうですね、正紀は……。」
 夫人の目が、何かを探すように動く。泳ぐ。
「……?どうした?」
 旦那がけげんそうに言った。夫人はあたりに答えを探すように目を泳がせる。
「正紀は、ええと……。」
「どうしたんだよ、お前。簡単なことじゃないか、正紀の好きだったものとか……。趣味とかを……。正紀の、好きなもの…?」
 旦那も言葉につまり、目を泳がせる。俺は冷静に夫妻を見つめた。
「あの……もしかすると、わからないのでしょうか?」
 俺は遠慮がちにきいた。二人はハッとしたように顔を見合わせ、必死で何かを探す。
「正紀……は……。」
「わからないんですね。」
 俺は静かに、呟くように言った。夫妻は、ますます必死に何かを探す。探しても、探しても、何も、出てはこない。何一つ。何も出てこないって、想像以上だ。
「お二人は……正紀君のことを、何も、ご存知ないんですね。」
 俺は、静かに、秘かな怒りを込めて呟いた。
「そんなこと、ありません。私たちはあの子がどんなに良い子で、頭のよい、よくできた息子だったか、知っていますよ。」
「それしか、知らないと言うべきですよ。」
 言葉が思った以上に冷たさを帯びて響く。
「正紀君は……寂しかったでしょうね。」
 今度は思ったとおりに哀愁を帯びて響く。夫妻は唖然としたように俺を見つめている。
「正紀君は……哀しかったでしょうね。」
 俺はゆっくりと、その言葉が空気に染み入るように言葉を紡いだ。
「多感な中学三年生が、実の両親に自分の存在を何も知ってもらえなければ……きっと振り向いてほしくて、何でもするかもしれませんね。寂しさプラス哀しさをとるか、空しさをとるか……。」
 旦那はハッとしたように俺を見、言った。
「何を言ってるんです……?」
 ここからが核だ。俺は思考を冷静に保とうと小さく息を吸った。
「……正紀君が、お二人に自分の存在を知ってもらいたくて、認めてもらいたくて、ずっと、お二人の望む良い子を演じていたんじゃないか、と思ったんです。」
 夫妻は俺が何を言っているのかわからないというように口を開けては閉め、閉めては開けた。俺は何回開いても言葉を発さない口を見つめる。
「どういうことですか、それは。」
 旦那の方が早く再起動し、サイレントモードを解除した。
「もっと具体的に言って下さい。」
 今のが具体的じゃないってか?
「言いかえてみますと、ニュアンスは悪いですが、お二人がご子息を理想の息子の型に押し込んで、正紀君の人格を押しつぶした、とでも言いますか。」
 沈黙。今度は部屋自体がサイレントモードだ。その静けさの中で、俺はじわじわと熱がせり上がってくるのを感じた。
「な、何てこと言うんですか、あなたはっ!私たちが正紀を、正紀の人格を、つぶしたですって?そんなこと、あるわけがっ…!」
 今度は妻の方が早く再起動した。サイレントモードの解除と同時に音量を最大にしたようだ。

顔を真っ赤にして、夫人が喚く。
「あなた、葬儀屋でしょう?なのに息子を喪った私達にそんな心ない言葉を投げつけるなんてっ……。信じられないわ、残された遺族の心をやわらげるのが葬儀屋の仕事でしょう?」
 違う。俺は夫人をにらみつけないように必死で目を伏せた。違う。違う。違う。葬儀は、遺族のためだけじゃない。葬儀の主は、死者だ。俺は、〈レクイエム〉は、死者のためにいる。唐突に髪の長い女が目に浮かぶ。声が、耳によみがえる。
「いい?葬儀っていうのはね……。」
 俺にそれを言いきかせた、先代の姿が見えた。俺はスッと顔を上げる。夫人は急にビクッと顔をひきつらせ、少し後ずさりした。旦那も目を見開く。
「違います。葬儀は、亡くなった方の魂をなぐさめて、丁寧に送り出すことです。葬儀屋は、それを執り行う者です。もちろんご遺族にも心をつくして対応させていただきますが、あくまで我々の主は亡くなった方、今回では正紀君です。少なくとも、私はそう思っています。ですから、こうして、無礼を承知の上で意見させていただいているんです。」
 俺は二人をまっすぐに見すえた。夫人は、気圧されたように黙り込み、旦那は奇妙は程背筋を伸ばしてあちらこちらに目を泳がせる。
「私は、お二人を非難しているわけではありません。言葉が乱雑で、不快感を与えてしまったこと、おわび申し上げます。ですが、私が言いたかったのは、ただ、お二人に、正紀君は自分のことを知ってほしかったのではないかということなんです。本当の自分を。」
 夫人はただただ俺を見つめるだけだ。旦那が小さく呟く。
「本当の正紀……。」
「はい。本当の正紀君です。彼がお二人に何を残し、何を思っていたのか。本当の正紀君を、探してあげて下さい。」
 俺はまっすぐ旦那にそう言った。夫人に押されていただけで、旦那はきっと、最初は正紀少年の本人を見ていたんだろう。それが次第に、夫人の教育で正紀少年が優秀に育ち、その優越感に慣れてしまった。きっと心のどこかで、何かが違うと、思っていたんじゃないか。だからこそ、祭壇の正紀少年を直視できなかった。俺はそう思っていた。何かを迷うように正紀少年の遺影に目をやる彼に、俺は線香をさし出した。
「これ、新しい物です。まだ封も切っていないので、使って下さい。」
 俺はスッと立ち上がり、言った。
「今日はこれで。長々とお邪魔してしまい申し訳ありません。」
 俺は二人に背を向け、部屋を出た。先刻より冷えた空気が心地良い。フー、と長く息を吐く。
「あのっ!」
 唐突に、背中から声をかけられた。パッと振り返ると、そこには
「山名さん。」
 旦那がいた。息を少し切らして。
「あのっ。」
「何でしょう。」
「正紀は、正紀は……なぜ、死んだんだと思いますか?」
 それを、俺に聞くのか?
「それは、正紀君のことがわかれば、おのずとわかるんじゃないですか?」
 俺は真っすぐに相手を見つめ、すぐに背を向けた。
 翌日の葬儀は、全て青崎に任せて俺は行かなかった。昨日の今日で、俺の顔なんて見たくないだろう。特に夫人は。俺は自分の部下が出払った中、一人デスクの前に座っていた。たゆとうタバコの煙を見ていると、疑問が頭をよぎり、積み上がっていく。
 あれで良かったのか?
 俺は、ちゃんと伝えられたのか?
 俺は、何を伝えた?
 なぁ。今ごろ荼毘に付されているだろう正紀少年に呼びかける。お前、あれで満足か?
 満足なわけねぇよな。俺は、何も、伝えられてはいないじゃねぇか。
「ちくしょう。」
 そう歯の間からもらし、俺はまだ長いタバコを押しつぶした。まだ、俺は仕事を終えていない。でも、次にすべきことがわからなかった。俺は髪をかきむしり、席を立った。
「ちくしょう……。」

 ―お兄さん。―
 ささやくような声で呼びかけられて、俺は目を開けた。目を開けたということは、今まで寝ていたらしい。俺は暗いマンションの自室で体を起こした。ベッドの横、本棚に腰かけるように、正紀少年が俺を見下ろしていた。
 ―よお、正紀少年。―
 ―お久しぶりです。―
 彼は俺に小さく会釈した。何かが、気になる。
 彼が俺より高い位置から降りて来ようとしないこと。
 会釈をする表情のぞんざいさ。
何かが、違う。いぶかしげに見上げる俺に、彼は小さく笑って言った。
 ―ありがとうございました。―
 ―お陰で、両親と、再会できそうです。―
 両親と再会。背筋に、寒気が走った。
 ―どういう意味だ?。―
 ―嫌だ、そんな怖い顔しないで下さい。―
 彼はおどけたように両手を振った。
 ―どういう意味かって、聞いてんだ。―
 俺はベッドから立ち上がり本棚に歩み寄る。心臓が、激しく脈打っている。彼は変わらない表情で微笑む。
 ―二人が、亡くなるって意味です。僕を追って。―
 拍動がさらに激しくなる。呆然と立ち尽くす俺に、正紀少年は頭上から言葉を投げかけた。
 ―お兄さんのお陰です。二人はお兄さんに言われて、間違いに気付いた。母だって、あんなキツいこと言ってたけれど気付いています。認めたくないから、ああやって虚勢張ってたんですよ。ずっとご機嫌取ってたから、わかります。それに、二人は今日、僕の遺書を見つけました。きっと今頃は……。―
 その先は聞かなくてもわかった。俺は床に捨てられた上着を拾い、机の上から携帯をひったくって部屋を飛び出した。
 マンションの階段を駈け下りながら、俺は青崎の番号を呼び出した。耳元で、呼び出し音が鳴り響く。何度も、何度も。冷たい機械的な音が無情に響く。何で、今日に限って出ねぇんだよ。俺は駅に向かって走りながら、再度青崎に電話をかける。出ない。
「……くそっ。」
 青崎はあきらめ、他の番号を呼び出す。
「はい、葬儀屋『御……。」
「カジ!俺だ。」
「……ジガイか?どうしたんだ。」
「今から言う住所に、すぐ救急車呼んでくれ。大至急だ!」
「なんで……。」
「あとで説明する。呼んでくれ!住所は」
 手の甲にメモした住所を、荒い息で読み上げる。カジが書きとると、余計なことを言われる前に電話を切った。駅のターミナルに留まったタクシーに飛び込む。
「ここに行ってくれ。」
 左手の甲を運転手に突き出す。
「えぇと、京南区……」
「南台一ー九ー八だ、急いでくれ!」
 タクシーに揺られながら、もどかしい思いで窓の外を見る。俺は、何をしてるんだ。正紀少年は、何がしたいんだ。
「ここで良いですか。」
 タクシーは閑静な住宅街に停車した。すぐ先の家の表札がぼんやりと読める。山名、と。五千円札を運転手の手にねじ込み、釣り銭なんか受け取らずに降りた。ワンメーターの距離だった。インターホンを鳴らす。鳴らす。鳴らす。まったく反応が無い。俺は玄関扉を乱暴に開けようとする。当然、開かない。ドアアイに片目をあてて、中を見ようとする。当然、見えない。何をしてるんだ、俺は。家の裏に回って、庭に入る。庭に面した窓が開いていて、中のカーテンが外でひるがえっていた。一も二もなく窓枠に足をかける。土足も何も、気にすることじゃない。入った先はリビングのようだった。白い床に高い天井、高価そうなソファセット。その白色で統一された上品な部屋に、統一感をぶちこわす色が混ざっている。赤だ。床に、見覚えのある男女が、倒れている。
「おい!」
 俺は夫人に駈け寄って体をゆさぶる。喉に、刺し傷がある。旦那は、喉を包丁で一突きにし、刺したまま倒れていた。その近くに、血に染まったレポート用紙が一枚、落ちている。
 ―あなた達の世界に、〝僕〟は存在しないんでしょう。―
 ―空しくて、寂しいです。―
 ―でも、僕は、二人が、大好きです。―
 ―嫌いになってほしくなかった。―
 ―本当に、大好きです。―
 ―また、会いましょう。―
 ―待っています。―
 遺書だ。あぁ。俺は、俺は、何をしてるんだ。俺みたいな部外者に、息子の死の原因は自分達だって糾弾されて、その直後にこんな遺書を目にするなんて……。もしかして。
「彼は、これを狙ってたのか……?」
 俺は唖然として呟く。救急車のサイレンが聞こえる。
 ―そうですよ。―
 同時に、俺の正面に、正紀少年が立っていた。哀しそうに、両親を見下ろす。インターホンが鳴る。俺は我に返り、廊下のドアと正紀少年の間で視線を行き来させた。再び、インター

ホンが鳴る。俺は正紀少年をにらみつけ、玄関に向かって走る。
 ―両親と再会したいと思っては、いけないんですか。―
 そんな呟きが聞こえた気もするが、今は、死んだ奴にかまっている場合じゃない。生きている奴を。死なせる前に。

「まだ、何とも……。」
 病院の医師はかぶりを振ってそう言った。会社が連絡したようで、通夜の時に見かけた親族も集まっている。俺は「通夜の後に失礼なことを言ってしまい、お二人に謝罪に行った。アポを取ってあったのにインターホンに応答が無いから気になって庭からのぞいたらリビングで倒れていた。」と、第一発見者の理由をでっちあげた。目の端に彼の姿をとらえ、その場を離れる。
「ちょっと会社に連絡を。」
 そう言って俺は中庭に出た。時刻は夜十一時半をまわっている。さすがに寒かった。
 ―何で、邪魔したんですか。救急車なんて呼んで。―
 メガネの奥の目を燃やして、彼が言う。どうやら、メガネのまま荼毘に付されたようだ。
 ―僕が初めて望みを叶えようとしているのに。―
 ―お前は、両親を道連れにしたかったのか?―
 ―最初は、違いました。死ねば、空しいのも寂しいのも終わると、両親も目が覚めるだろうと思っていただけです。あの遺書も、二人の目を覚ますのに効果的な文を考えて、書きました。でも、違った。空しいのも寂しいのも、終わるどころかますます強くなった。両親は、目を覚まそうとしなかった。僕は両親に、初めて怒りをおぼえました。これでも、死んでもわかってくれないのかと。そんな矢先、あなたが現れました。―
 今夜の彼は、妙によく話す。
 ―俺を、利用したのか。―
 ―違います。利用だなんて。お兄さんに伝えてもらいたかった想いは本当です。〝僕〟の存在を認めてほしかった。二人のことが本当に大好きだから。―
 ―大好きだから、後を追ってほしかったのか?。―
 ―そんな単純なことじゃありません。両親が、僕の孤独をわかってくれたなら、もう一度、途中からでも、僕の人生を、やり直したかったんです。―
 ―死んでからやり直して、何になる。―
 ―何にもならない。それくらい、わかってます。でも、生きている間、十五年間、毎日毎日、今日こそは、いつかはわかってくれるはずだと思っていて、でも結局そんな日は来なくて。僕は死にました。この世で叶わなかったなら、せめてあの世ででも。そう、思ったんです。―
 切実な言葉だった。返す言葉も見当たらないくらい、彼の切望がつまっていた。それを、否定することは、俺にはできない。でも、肯定してはいけないはずだ。死者が人生をもう一度やり直したいからって、生者を引きずって行くなんて、許していいはずはない。
 本当に?
 もし、やり直したいと死者に思わせたのが、引きずられた者だったら?
 それでも、ダメなのか?
 頭がこんがらがって、どうしたらいいのかわからず沈黙する。〈レクイエム〉ジガイである俺なら、絶対に許すことはできない。ここで彼に説得を試みるべきだろう。いや、説得したから二人が死なないとは限らないが。でも、一人の人間としての俺なら?年の近い、後輩にもなりえる少年の孤独に、同情するだろう。その親に怒りをおぼえて、あの世でもう一度やり直せよと、思うだろう。
「賀伊さん。」
 聞きおぼえのある、低い声で呼びかけられてハッする。
「青崎。」
「何してるんです、こんなところで突っ立って。」
「いや……。」
 正紀少年は、いなかった。
「……何でもない。お前こそ、何でここに?」
「会社で梶(かじ)さんに聞いたんです。私の携帯にも何度も電話したでしょう。梶さんの聞いた住所が山名さんのお宅だったので、気になって。今、病室に寄って来たんですが、まだ意識不明です。」
「そうか……。」
 俺は、何をしてるんだ。いや、俺は……。

「葬儀屋が発見者だなんて、何て不吉な……!出ていってください。早くこの部屋から消えて!」
 肩を震わせて、俺の前に立つ女が叫ぶ。
「落ちついて、叔母さん。救急車だって彼が呼んでくれたのよ。」
 隣に立つ若い女が肩に手をかけてなだめている。申し訳なさそうに俺を見て、
「すみません。不吉だなんて、失礼なことを……。」
 と頭を下げた。
「謝ることなんてないよ。早く出ていって。もう来ないで下さい!」
 と、途端に女は声をあげ、若い女はまた必死に叔母をなだめる。周りの親族は黙ったまま、思い思いの表情で突っ立っている。俺は若い女に黙って頭を下げ、夫妻の病室を後にした。
 山名夫妻は、三日たったいまだに意識不明の重態だ。さっきの女性が俺に怒りをぶつけるのはわからないでもなかった。彼女は山名夫人の叔母にあたる人で、少年の大叔母だ。親戚の中学生を亡くした矢先に、自分の姪夫婦が無理心中で意識不明ともなれば、冷静ではいられない。抑えきれないストレスの矛先が、俺に向いたのだろう。
「見たところ、奥さんの傷口は自分で刺したものではないですね。他者が勢いよく突き込んで、右に捻ったような傷です。旦那さんの方は、両手で柄を握って、これもまた勢いよく突いた、と考えられます。おそらく、無理心中かと。」
 病院の多くの関係者を持つヤマイに便宜をはかってもらい、無理矢理聞き出した傷の特徴を、医師はそう述べた。『無理心中』という言葉に頭がグラグラする。夫人の方に自殺の意志はなかったのか?混乱する俺に、医師は更に言葉を加えた。
「まあ、無理心中とは言っても、奥さんの方に抵抗した痕は見られませんでしたから……。無理心中ではなく心中かもしれません。」
 結局、どっちなんだ。夫人に自殺の意志はあったのか?一つ、はっきりしているのは、旦那は夫人を殺して自分も逝くつもりだったということだ。夫人の自殺の意志の有無や、その他の状況次第で俺の取るべき行動も変わってくる。上着のポケットで振動を感じた。中庭に出る。
「もしもし。」
「もしもし、青崎です。」
「どうした、仕事か?」
「ええ、そうなんですけれど。」
 今、他の仕事なんてしている場合じゃない。でも、仕方ないか。そう、息をついた。
「……どこの病院……。」
「他の方に回しましたので。」
 俺の言葉をさえぎって、青崎はそう告げた。
「は?」
「焼身自殺の方だったので、梶(かじ)さんにお願いしました。なんだったら、他支部のジガイの方も呼べますので。」
「なんで……。」
「賀伊さん、焼身自殺の相手している場合じゃないでしょう。」
青崎は淡々と言う。手帳をめくる音がかすかに聞こえる。
「山名ご夫妻の件が片付くまで、仕事は私の方でなんとかしますので。」
 普段よりも淡々と、事務的に。青崎は言った。
「賀伊さんは、そちらに専念してくれて構いません。」
 青崎は、こういう奴だったのか。俺は妙に落ちついた頭で思った。ここまで追い込まれる件は初めてだから、青崎のこんな面を見るのも初めてだった。
「……それはありがたい。」
「向こう一カ月くらいにして下さいね。」
 再び手帳のページがこすれる音を立てる。
「そんなにかからねぇ……と思う。」
「あぁ、それはありがたいですね。」
 パタ、と、手帳が閉じた。そろそろ切るのだろう。
「じゃあ、な。」
「頑張って下さいね。……あ、それから、」
 切りかけた電話から、思い出したように声を響かせる。
「上は、この件の賀伊さんの休みを有給扱いにはしてくれないそうです。」
 それだけ告げて、向こうが電話を切った。唐突に意味を成さなくなった電子回路の塊を見て、俺は呟いた。
「マジかよ。それなら、早くすませねぇと。」

 俺は夜の病院を、足音をひそめて歩いていた。自分が一度死んだ身で本当に良かったと思う。じゃなきゃ怖くてこんな時間に病院なんか歩けない。昼間、後にした病室の前に立つ。ヤマイに便宜をはかってもらって助かった。じゃなきゃこんなにすんなりここにたどり着けなかっただろう。今度、何か礼をしねぇと。
 あいつ、アクセサリーとか興味あんのか?そんなことを考えながら、病室に入る。夫妻とつながった機械が人工的な光や音を放つ。その前に立ち、俺は考える。さぁ、どうする?自分の手を、それぞれ夫妻の額にのせる。ちょうど、正紀少年にやったのと同じように。フッ、と。死者以外の魂を起こすのは初めてだった。結果も、初めて見るものだった。そりゃあ、意識不明の重態でもまだ生きてるのだから魂は身体の中にある。意識が戻ったりしないかと少し期待もしたが、それとは少し違っていた。夫妻の輪郭がぼやけ、手ぶれした写真のように二重に見える。俺は目をしばたたかせ、二人を交互に見た。霊が身体の少し上に重なっていると気付いたのは、旦那の霊が口を開いてからだった。
―あぁ、葬儀屋の。―
 目も開いている。霊の方の、だが。
―私達、今、どうなってます?身体、ってことですが。―
 夫人の霊が首をかしげる。俺が何者かは気にもならないようだ。俺は慎重に言った。
―意識不明の、重態です。―
―ああ、だから周りがぼやけてるのか―
旦那が納得したようにうなずく。
―え?―
―葬儀屋さんはご存知ないかも知れませんが、三途の川って本当にあるんですよ。ぼやけてはいますけど、何か、少し先に川のようなものが見えます。―
旦那が、俺には見えない何かを見るように目を細める。
―ええ、本当に。なんだかあったかいところなんですが、今は人がいないんですよ。あ、一日前くらいに男性が一人通りましたね。船で川を渡っていきましたよ。ついて行こうとしたら、その人に止められちゃって。「僕はさっき焼身自殺しちゃったから渡れますけど、あなた方はまだ生きてるんですから来ちゃだめですよ。」って。―
青崎が言っていた奴だ。川の対岸で、カジに起こされたんだろう。そこにはそういう奴がたくさんいる。きっと、正紀少年も。川を見つめて、両親を待っているんだろう。
―なんで、心中なんて。―
俺が呟くと、少し間を開けて夫人が言った。
―正紀は、川の向こうにいるんでしょう。―
それが唯一の答えだというように。全て、それに尽きるというように。
―俺達が愚かだったんです。赤の他人のあなたに、いや、赤の他人って馬鹿にしているわけじゃありませんよ。言われるまで正紀のことを何もわかってなくて、自分の息子のことなのに、これっぽっちもわかっていなかった。なのに、正紀はそんな俺達に、大好きだと、待っていると言ってくれた。申し訳なくて恥ずかしくて、自分が情けなくて悔しくて、妻と二人で涙が止まりませんでしたよ。―
まだ川のこっち側にいるのに、既に悟りの境地に達したような穏やかさで話す彼に、全身が総毛立った。夫人も同じような穏やかさを漂わせて口を開いた時には、全身に震えが走った。この二人は、もう、生きるつもりはない。目を覚ますつもりはない。
―先日は怒鳴ったりして、ごめんなさいね。正紀が死んでから薄々気付いてたのに、絶対に認めたくなかったことを、自分が正紀を死に追いやったかもしれないということを、あなたに見透かされたみたいで虚勢を張ってしまって。正紀が生まれてすぐの、初心に戻れてさえいれば、こんなことにはならなかっただろうに……。本当に、私達が愚かでした。夫も言っていましたけれど、そんな私達に、あの子は大好きだと、また会いましょうと言ってくれた。それなら。―
そこで言葉を切った夫人の目には、続きがはっきりと書いてあった。
―あの子のもとへ行くしかないでしょう?―
と。俺は二人を交互に見比べた。悟りの境地に達した穏やかな表情。でも、その中の一つのパーツには、目には、痛々しい切望が見てとれた。この前の正紀少年と怖いほど似ていた。もう、俺に出来ることは一つしかない。静かに、二人につながった機械に手を伸ばす。
―お二人は、正紀君に引きずられるわけではなくて……ご自身の意志で逝くことを選ばれるんですね。―
伸ばした手を一瞬止めて、二人を見る。
―もちろんです。―
迷いなくうなずく二人に、俺は、
―お二人の想いも、しっかり、お預かりしました。―
そう、微笑んだ。無理矢理に。〈レクイエム〉の俺の仕事も、人間としての俺の想いも、両方のせて、指が、一つのボタンに触れた。

「好きなの選んで良いの?」
「あんまり高いのはやめろよ。俺の月給知ってんだろ。」
「あなた、こんな店でそういうこと言わないの。」
 某高級ブランドの店内で、俺は不似合いなセリフを口にしたらしい。あれこれと店員の説明を聞きながらアクセサリーを試すヤマイの後ろで、俺は一か月前のことを思い出す。山名夫妻の死は医療器具の誤作動ということになり、葬儀はヤマイが担当していた。あの叔母さんとやらが会社に、俺の不吉さのせいで二人が死んだと電話したらしいが、俺が電話を取るより早く、青崎が事務的に言葉を交わし、淡々と話をつけたので俺は関わっていない。実は医療器具のミスという形におさめたのもヤマイであり、俺はその礼として彼女に某ブランドのアクセサリーをプレゼントすることにした。それでこんな不似合いな店にいるのだが、店員の好奇心の視線が痛かった。そりゃあヤマイは永遠に三十二歳、俺は十八歳だから、この若い店員の好奇心をくすぐるだろうが、居心地は悪い。
「お客様もどうぞおかけ下さい。」
 椅子を引かれてぎこちなく会釈して座る。そうすると、ショーケースの上の鏡に顔が映った。やつれて、一気に老けたように見える。さすがに驚いた。確かに気力が萎えてはいたが、こん

なにやつれているとは。最近、気晴らしにと夜の街に繰り出してみても、可愛い子をナンパする気にも、キャバクラで女遊びする気にもならなかった。むしろ、しなくて良かったと言えるやつれ方だ。
「ねえ。」
ヤマイに軽く小突かれて我に返る。
「これ、どう?」
そう指し示す首元には、華奢なペンダントが揺れている。三日月の下にダイヤモンドの露が下がったような、よくわからない形のペンダントトップだ。
「いいんじゃねぇの。」
「興味なさそうねぇ。」
「好きに決めろよ、お前のなんだから。」
「まったく……。女心がわからないわね。」
呆れたように頭を横に振り、
「これ、頂きます。」
と、店員に言う。
「ありがとうございます。」
店員は笑いをこらえていた。

「良いものもらっちゃった。」
ヤマイは上機嫌だ。さすがは高級とつくだけあって、俺の財布は一気にさみしくなった。会社を少し抜けて買いに出ていたから、そのまま会社に戻る。自分のデスクに座り、置かれた書類を見るともなく目を通す。意識しないうちに左手はタバコをはさんでいた。紫煙が、昇る。
 自分が間違ったことをしたとは、思っていない。あの瞬間のような自信が持てなくなっただけだ。あの目は、二人の目は、確実に死を求めていた。早く息子に会いたいと、償いたいと、切望していた。だから俺は、二人の命をこの世に縛っていた機械のスイッチを切った。それが二人にとって正しいことだと、自信を持って言えたからだ。いや、今もそれには自信を持てる。あそこで俺が殺さなくても、二人はあのまま目覚めないか、目覚めたとしてももう一度自殺を試みるかの二択しか、選択肢を用意しなかっただろう。だから二人にとっては最善のことをしたと、俺は信じられる。
 問題は遺族だ。
 二人にとっては仕方ないことだったと、同情と納得を含んだ表情で送り出す人がほとんどだったとヤマイは俺に言った。叔母さんのような人は一握りもいなかったと。それでも、罪悪感が残る。
 ひょっとしたら二人は、意識と共に生きる気力を取り戻せたかもしれない。そんなことが頭をよぎり、慌てて打ち消したが、ありえないとは言い切れなかった。悩んだって変えようのないことなのに、いつまでたっても頭の片隅に引っかかって消えない罪悪感に舌打ちする。耳に入った水を抜くように頭を傾け耳をたたいてみたりした。
「なあ、ジガイ君。」
そんな物思いに沈んだ俺に、声をかけてくる奴がいた。ロースイだ。
「今日、わしの仕事を手伝ってくれんかの。」
「はぁ?」
「今日、大往生で亡くなった女性の、葬儀なんだよ。」
「イヤ、俺もいつ仕事入るかわかんねぇし。」
「大丈夫、わしの三十七年の仕事の勘が、今日はジガイ君に仕事は来ん、と言っとる。」
「はあ?」
「ふむ、ジガイ君、今日は珍しく黒いスーツだから、このままで構わんだろう。ネクタイだけ、変えておいで。」
「いや、おい。」
「下で待っとるぞ。」
ロースイはろくに人の話も聞かず、階段を降りていった。俺はあっけに取られたが、しかたなく机の引き出しに入ってる黒のネクタイを引っぱり出す。たまには、違った葬儀も良いかもしれない。
 しっとりとした式だった。パステルカラーの花々に囲まれた遺影は優しい微笑みを浮かべ、部屋の空気もどことなくふわっとしていた。
「もう少しで百歳だったのにねぇ。」
「この子の成人式を見るんだ、あと五年くらい楽に生きてやるよって笑ってたんだけど。」
涙を浮かべながら交わされる言葉もそんな風に明るく、涙にも笑みが見える。俺が受け持つ葬儀とは大違いだった。あの暗くて重い空気はどこにも見えない。
「穏やかだろう。」
いつの間に隣にいたのか、ロースイが言った。
「皆がこうやって天寿を全うすれば言う事なしだが、そうもいかん。若くして病に倒れることも、不慮の事故や他人の悪意に命を奪われることもある。自ら命を断つこともだ。どのように死を迎えても、死者は皆、安らかに眠り、穏やかに送り出される権利を有しておる。わしらはその専門家じゃ。その意味では、君は立派なことをしたんじゃないかね。」
俺を見上げ、
「やつれる程悩まんでも、君は間違ったことはしとらんよ。」
と笑った。
「どのような状況でもこんな風に式を行うこと。それは〈レクイエム〉の力量次第じゃろ。自分が、死者にとって正しいと思えることを貫き通しなさい。それが間違いであるなんてことはおそらくないじゃろう。精進するが良いぞ。」
俺の背をパンパン!とたたき、ロースイは歩いて行った。俺はその背をながめる。自分正しいと思えることを貫き通せ、か。俺の胸ポケットで、携帯が震えた。青崎からだ。……嫌な予感。
「あ、賀伊さん。仕事入りましたよ。明西大学の付属。」
予感的中だ。
「……わかった。直に向かう。」
俺は電話を切り、軽く舌を打つ。端に立つロースイをつかまえた。
「おい。三十七年の勘、ハズれたぞ。」
「おやおや。」
俺は携帯を目の前に突き出すと、ロースイは笑い声を立てた。ため息をついて背を向けた俺に、
「すまんかったのう。引っ張り出して。」
と、声をかけてきたロースイに片手で応え、俺は式場を出た。出る間際、ちらっと全てを眺める。いつかやってやろうじゃねぇか。俺の受け持ちの葬儀だって、こんな風に。
 式場を後にし、明るい空を見上げる。この空に星が浮かぶ頃、今日も街に出てみるか。 
 今日は、楽しめそうな気がした。





笑いの神社

新井悠里

「は~。やだな~。学校…。しかも寒いし…。」
 ぼくはいつも一人ぼっち。友達なんかいない。
「キーンコーンカーンコーン。」
 学校が終わる。ぼくは、ランドセルのひもに親指をかけてとぼとぼ歩いていた。すると、後ろから声がした。
「おーい。」
 後ろを振り向くと、クラスの番長のマルオがいた。
「ワーー。なっ何をするつもりなんだ。ぼ、ぼくは何もしてないよ……。」
「はっ、なんだとー。言ったなー。」
「キャーーー。」
 と言ってぼくは走って逃げた。
(あー良かった。命がどっか行っちゃうかと思ったーー。しかも、靴をふまれたからボロボロになっちゃった…。)
 すると、猫が急に目の前を通った。顔を上げると、石の犬が笑っていた。
(笑いの神社?なんか、この犬みたいに笑えるのかな?ってか、こんな所に神社なんてあったっけ?一応、お願いしておこうかな…。どーかお願いします。友達ができますように…。)
 とお願いしてみた。すると何か起こるような気がした。
 それから寒くても、雪が降っても、毎日毎日、何日もお参りをして願った。そして十五日目。またいつものようにお参りをした。
(どーかお願いします。友達ができますように…。)
 その時、トントンと後ろから木で肩を叩かれた。びっくりして肩が上に上がった。
「なんだ?」
 と後ろを振り返っても誰もいない。
「何だ…。気のせいか…。」
 と思って下を見ると小さい裸の男の子がいた。
「わー。ちっちゃー。てか、だっだっ誰?君?」
 その人は身長約八十センチの男の子だった。さらに、少し浮いている分を加えても約八十一センチしかない。
「おれのこと?おれは、チャームポイントがちょびひげで、年齢不明の、友達を呼ぶ神様だ。そして笑いの神社にようこそ!とのさまにお前さんのことを助けてやれと頼まれたから来たんだ。っで、お前さんは友達が欲しいんだろ。」
「うん…。」
(てか、意外と話し方がヤンキーだな。)
「じゃっ、つくってやるよ。」
「本当!だけど、どーせ一瞬だけでしょ…。」
「そんなことねーよ。ずっとずっと続く親友をつくってやるよ。ただしおれの言う事を三つともやってくれたらかなえてやろう。」
「あっ…。お願いします!」
「では、これからおれのことを〝ししょう〟と呼ぶのだ。わかったか?」
「あっ。ししょうですね。わかりました。」
「では、早速一つ目の試練を言おう。」
「えっ、試練。そんなの無理ですよー。」
「じゃ、友達はつくれないなー。」
「えっ。えっ。えっ。え…。じゃーちょっとやってみます。」
「じゃー、早速、一つ目の試練を言おう。一つ目の試練は…。」
「試練は…!」
「一つ目の試練は、自分のどこがいけなくて友達がつくれないのかを考えることだ。」
「それだけですか。簡単じゃないですか。」
「さーて本当に簡単かな?さー考えてごらん。」
「えーと…。えーと…。何だろう…。自分が弱虫だから?」
「ちがうちがう。そんな簡単に出てくるものではない。二日あげるからよーく考えて、またここの神社に来るんだ。わかったな。」
「あっあっあの…。」
 と言いかけた時にししょうはネコになって姿を消した。
「あれ?いなくなっちゃった…。てか、ネコになるんだ。」
 そして一回冷たい風が吹いた。ぼくは、しょぼしょぼして、コートのポケットに手を入れて家に帰って行った。

(んー。何だろう…。なんでそんなに嫌われるようになったんだろう…。まず、嫌われ始めたのは…いつだっけな…。)
 と言ってアルバムを見て昔の写真を見た。すると、五年生からの写真がひとつもなかった。
(あー。なるほど。ってことは、五年生から嫌われ始めたんだ。四年生の後半に何か出来事があったっけ?)
 と思い、机の中をあさりだした。すると一つの写真出てきた。それは、あきらとのお別れ会の写真だった。それを見て思い出した。
「四年生の後期に、少しいじめられていたぼくを体をはって守ってくれたあきらが転校しちゃったんだ。」
 ということを…。それからぼくは気づいた。ぼくがなぜ嫌われているかを…。それは、
「ぼくに意地悪してくる人に、勇気をふりしぼって、やめてっと言ったことがないからだ。だからぼくはどんどん嫌われていったんだ。よし。明日、あの神社に行こう。」

 そして次の日……。ぼくは、いつも、嫌で嫌で、なかなか初めの一歩がふみ出せなかったが、今日はいつもより、さっさと足が前に出た。そしていつも学校まで一〇分で着くのが五分で着いていた。
 校門の中に入ると、
「おー来たか来たか。おめーのために待っててやったんだぞー。感謝しやがれ。」
 またこの前と同じやつだ。
「なっなんだよ次は。早く言ってくれ。」
「あん。またおれにそんな口をたたいたな。」
「わーー。すいませーーん。」
 と言って逃げていった。
「ふん。楽勝だな。」
「ハハハハハハ。」
 とマルオの仲間が笑った。
(はーー。怖かった。)
 と教室の中に入った。すると…、
「出た出たあいつが来たよ。」
「ほんとだー。」
「ハハハハハッ!」
 いつもこんな感じで悪口を言われる。ハーとため息をついていすに座った。そしてチャイムが鳴る。僕にとって、何もされない(言われない)、授業がとても好きだ。どんどん時間が過ぎ、やっと授業が終わった。
「あー。授業が終わっちゃった…。はー…。だけど、もうすぐ、学校が終わる~!」
 そして走って神社へ行った。
「あー。寒いな。早く来ないかな。」
 数分たつとミミズが来た。ミミズを見ているとパッとミミズがししょうに変化した。
「あっ、ししょう。」
「どうやら答えが見つかったようだな。」
「はい。見つかりました。それは…たぶん…ぼくをいじめて来る人に、勇気をふりしぼって、やめてって言ってないことじゃないですか?」
「ピンポーン。正解だ。」
「やったー。あっ、そう言えばなんで焼き芋持っているんですか?」
「それは焼き芋が好きだからだよ。」
「あー。そうなんですかー。じゃ二つ目言って、言って下さい。」
「よし分かった。では、二つ目の試練を言おう。ジャジャン。それは、今、言ったことを実行することだ。」
「で、できたらまたここの神社に来ればいいんですか?」
「うん。じゃっ、そう言うことで…。バーイ。」
「し、ししょう!」
 という言葉は間に合わず消えていってしまった。
「あー。いっちゃった…。じゃっ、早速明日やらないとな…。」

 次の日……。
「いってきまーす。」
 ぼくは、スタスタと学校へ向かった。今日は雪が降っていた。そして、校門を通り過ぎ校舎の中に入った。今日も、いつものやつらに止められたが、無視した。
「ハ?なんか今日おかしーぜ。頭でも打ったんじゃねーか?」
「ハハハハハハハハ。」
 と言われたが、また無視をして立ち去った。
 一度、自分のクラスの前で止まった。
(やばー。汗かいてきた…。)
 ぼくは手足を一回ぶらぶらさせた後、一回深呼吸をして、クラスの中に入った。
「来た来た。れーのやつ来たよ。」
 など、色々言われた。
「なんだよ。うるせーな。だまれよ。」
(あっ。とうとう言っちまった…。)
 と思い、さっき以上に全身から汗がふき出した。心臓の音がすごく速くなる。その瞬間、クラスメイトが、こしょこしょ話をし始めた。
「何こしょこしょ話してるんだよ。目ざわりだよ。」
(やべー。また言っちまった。どーしよー。)
 すると、友達が寄って来て
「お前変ったな。どーしたんだ。頭でも打ったんじゃないか?ハハハハ。」
 また同じ言葉…。
「いや。別に。打ってなんかいないけど…。」
「そうか?あの弱虫のお前の行動とは思えなかったけど…。まーいいや。」
(よっしゃー。友達と話せるよーになったぞ。じゃ、早速今日神社に行こー。)
「キーンコーンカーンコーン。」
(やっと終わった。早く行こー!)
「ササササササッ」
 と走り、神社についた。
「ハーハーハーハ。着いた着いた。暑いけど手が冷たいなー。早く来てくれないかな…。ししょー、どこですか。」
「後ろ。」
「わー。びっくりさせないでください。」
「ごめんごめん。っで、来たってことはできたんだよな。」
「はい。できました。できました。おかげで話しかけられました。」
「おー。それは良かったな。」
「はい。で、ししょうもつかれていると思うので、焼き芋どうぞ!」
「おっ。ありがとう。ありがとう。」
「あっ、そう言えば、ししょうって裸ですけど寒くないんですか?」 
「あー…、おれは寒さを感じないんだよー…。」
「あっ、そうなんですか…。なんだか、不思議ですね。で、次の試練をお願いします!」
「あっ、そうだな。じゃ、いよいよ最後の試練を言おう。それは今日話しかけられた人に自分から話しかけることだ。話の内容は何でもいい。テレビの話でも何でもいい。だからとにかく話すんだ。まー。ここまで来たら簡単だと思うが、ちゃんとやるんだ。」
「はーい。では、また明日。」
 と言った瞬間に、ししょうはカエルになって逃げて行った。
(ししょうって、カエルにもなるんだ~…。)

 今日は友達と話したからか、ワクワクしていた。帰りなんかはスキップして帰って行った。見上げた梅の木には、だんだんつぼみがふくらみ始めていた。
「ただいまー。」
「おかえりなさーい。」

 帰った瞬間に、ランドセルを放り投げて、自分の部屋に行き、ベッドに寝っ転がった。
「はー。つかれたー。早く明日にならないかな…。」

 そして次の日…。
 昨日よりもすごくワクワクしていたけど、ちょっと不安な気持ちで学校へ向かった。早速、クラスメイトを見つけた。
「おはよー!」
「おっ!」
「お先に~。」
(一人目クリアー!)
 と心の中でつぶやいた。それから、スキップしながら学校へ行った。校門の前にいる先生にもいつもとちがい、元気よくあいさつした。そしていよいよ教室に入る。
「おはよー。」
「おはよー!」
 あいさつした瞬間に、みんな返事を返してくれた。
(こんな感じ初めてだ。入ってから一言も悪口を言われないって、こんなに気持ち良かったんだ…。)
 それから、自分の席の周りにいる友達にも積極的に声をかけたり話したりして、自分に笑顔が戻って来た。
(これが、ぼくの笑顔かー。)
 そして、ぼくは、やっと友達をつくることができた。

 ぼくは、友達ができてから、ししょうにお礼するのも忘れてマルオ達ともいっしょに公園でずっと野球をしていた。それが何週間も続いた。ある日野球をしていると、ししょうを見つけた。ししょうは、木のかげでぼくに向けて作り笑いをした。
「おーい。チーム変えようぜ。」
「うん。」

 そして、ぼくはししょうに軽く手を振って走っていった。作り笑いだとは知らずに…。
「あいつは、友達と楽しく遊んでいる。こっこっこれで…いいん…だよな…。」
 とぼそっとつぶやいた。
 そして、次の日、ぼくはお礼しに行った。友達に今日は遊べないと言って神社へ行った。走って行った。
「ハー。つかれた…。あっししょうだ。ししょーう。」
 大声で叫んだ。だが、こっちを向いてくれない。もう一回。
「ししょー。」
 と言ったがふり向いてくれない。そして三回目と思った瞬間に、
「ししょーう。」
 と言って、ぼくと同い年くらいの子が走ってきた。
「どうやら答えが見つかったみたいだな。」
 とししょうが言った。何か聞いたことのある言葉だった。
(あっ、あの時の…。)
 と気づいた瞬間、何が何だかわからなくなった。
(えっ…。ししょうは、ぼくの次に、あの子にも同じことをしてたんだ…。ってことはもうぼくの顔を憶えていないのかな?)
 そう思うと、どんどん何がなんだかわからなくなった。もう、悲しくて悲しくてしょうがなかった。ぼくに笑顔がなくなった。そして、冷たい風が吹いた。

 次の日からは、会いたくても会えない日々が続いた。その毎日がつらくてつらくて仕方がなかった。毎日、家の窓から神社をのぞいき、遠くからししょうと、ぼくと同い年くらいの子が話しているのを見ていた。
 そして、ある日…。携帯のベルが鳴った。誰だろうと思いながら携帯を開いた。すると『ししょう』と名前の所に書いてあった。ぼくは、すぐ、携帯を閉じた。
(えっ。なんでししょうからメールが来るの?)
 ぼくは、文を見るのがこわくてこわくて見れなかった。だが、あのししょうと同い年くらいの子の会話を思い出すと見たくて見たくてしょうがなかった。だから、ぼくは思い切って携帯を開いた。
「パッ。」
 そしてまん中を押した。
「おれは悲しくなった。もうぼくのことなんか憶えてないのかと思ったり、神社にもう来ないかとか君が言ってたからだ。おまえは、ぼくにとって初めての相談者だ。忘れるわけがないだろ!だから、これからも神社に来てくれ。」
 ぼくの体が急に軽くなった。ぼくは、うれしくてうれしくて仕方が無かった。ぼくは泣いた。

 そして次の日……。コートを着ないで神社に行った。
「しっしょう!。」
「わー。びっくりした。」
 もとから立っている髪がもっとつんつんになった。
「しっしょう!やきいもどーぞ!」
「おー。どーもどーも。やきいも熱いねー。」
「ぼく、親友できました!」
「おー、良かったな!だれだ?だれだ?」
「えっえっえー。秘密ですよ~。」
「なんだよー。教えろよー。」
「じゃあ、ぼくにジャンケンで勝ったらいいですよ~。」
「おっ!やってやろうじゃないか!」
「ジャンケン…。」
「ポン!」
「おっしゃー。勝ったぞー。っでだれだ?」
 と、ししょう。
「それは…。」
「それは?」
「し・しょ・うですー!」
「えー。おれかよ!」
「そうです!ししょうです!」
「まっそうだよな!おれたち、こんなに仲良いもんな~。」
「ハハハハ。」
「あ、あと、メールありがとございました。」
「あっあっそうか。別に、おれは何も…。」
「何照れてるんですか?」
「ワハハハハハハ~。」
 そして、桜といっしょに、二人の笑いも満開になった。





おんぶのかげ


吉田まなみ

 私は小さかった頃のどんな思い出にも、お母さんの背中の温かさを感じていた。外に出かけた帰りは、必ず疲れてお母さんの背中で、ぐっすり眠っていた…。
「疲れたよ~。」
「もう少しだから、歩きなさい。」
私の眠そうな顔を見ながら笑っているお母さん。そんなお母さんの疲れにも気づかずに、私はおんぶをねだった。 
「おんぶ、おんぶ。おんぶして。」
 お母さんは、何も言わずに私に背を向けて、しゃがんでくれた。そして、私がお母さんの背中にのると、お母さんは立って、私をチラッと見ると笑って
「眠かったら、ねなさい。」
 と前から言ってくれた。すると私は、お母さんの言葉が睡眠薬だったかのように、ねてしまう。
 右から夕日の光がさし、左側にかげが長くのびている。足が長く伸びていて、いつもよりお母さんが強く、その分、私は情けなく見えた。でも、私の頭がお母さんの頭より上にあったのが嬉しかった。私の足は、かげの中でブラブラと前後に動き、少しの揺れが、また眠くなった。そんなかげが優しく夕日に映し出されていた。
 そんな日が続き、私が小学生になった頃のある日。お母さんの疲れた顔を気づけるようになり、私が
「お母さん、疲れたの?」
 と、聞いた。
「疲れたけど、大丈夫よ。疲れたの?おんぶしよっか?」
 お母さんは、私に背を向けてしゃがもうとした。
「ちがうよ。」
 私が首をふった。
「お母さんのこと、おんぶしてあげるよ。元気だもん。」
 そう言って私は、お母さんに背を向けてしゃがんだ。
「まだ、出来ないわよ。お母さんは、あなたより重いんだから。」
 そう言って結局は、お母さんにおんぶをしてもらった。その時に、
「よいしょ。」
 お母さんが立つ時に、声を出したのを初めて聞いて、自分が大きくなって重くなったんだ、と実感した。
 それから私は、お母さんにおんぶされた覚えが無い。
 やがて、私が東京で独り暮らしを始めると、お母さんとは、電話で話すのも少なくなった。しかし、ある日お母さんから電話が、かかってきた。
「今度の土曜日、あなた仕事あるの?」
「ゴメン、ある…。でも、日曜日はないよ。はっきり言って、ヒマだよ。」
 少し笑い声が聞こえた。
「だったら、たまには家に帰って来なさいよ。あなたの部屋は、片付けないでとっておいてあるんだから。何日でも、泊って行きなさい。」
 その声を聞いて、お母さんの顔が頭に浮かんだ。それと同時に、お母さんにおんぶをしてもらったことも、頭に浮かんだ。
「うん。行く。お父さんは?」
 私は、子供のような声を出した。
「お父さん…散歩中。あの…、その話をしようと思って今日電話して、家に呼んだの…。」
「何かあったの?」
「だから、家で…。」
 私は、少し心配だったけれど、電話を切って、実家に行く準備をした。
 東京を出る電車の駅で、「心理がわかる本」という厚い本を買い、行きの電車で読んでいた。さすがに、読み終わらないだろうと思ったが、残り三ページで実家の駅に着いた。駅から実家までは三分ほどだ。温かい風は私を待っていたかのように吹き出した。そして、見慣れた道になると、前に来た時はパーキングだったところが、新しいコンビニになっていた。コンビニを過ぎて、右に曲がると、前と変わらない実家があった。
「ピンポーン。」
 チャイムを鳴らすと、すぐにお母さんが出てきた。私は、もうお母さんの身長をぬかしていた。だから、お母さんは私を見上げていた。
「おかえりなさい。」
「ただいま、かな?」
 家に入ると、懐かしいにおいと懐かしい部屋があった。
「やっぱり、一番ここが落ち着く。」
 お母さんの顔を見ると、
「当たり前じゃない。」
 と、私の荷物を持って、リビングまで行った。私は、その後について行った。
「そう言えば、電話で言ってた話って何?」
 お母さんは聞こえなかったかのようなふりをして、冷蔵庫の扉を開けて、中をのぞいた。
「あぁ、何もないわ…。ちょっと買って来るね。」
 なぜ話を変えたのか、わからなかったけれど、私はそれ以上、聞き出せなかった。
「あっ、そう言えばもう運転免許取ったから。」
 私は、さいふから運転免許証を出して、自慢げに見せた。
「いつの間に取ったの?車は危ないから気を付けなさい。でも、免許あるってことは、車買ったの?」
「それが…、まだ…なんだ。」
 私は、頭をかきながら笑った。
「じゃあ、今度見に行こうか。」
「本当!東京で買いたいなぁ。」
 小さい頃、おんぶをねだったように、ねだった。
「買うなんてまだ、言ってないわよぉ。」
 わたしと母は目を合わせて笑った。
「アハハ、でも、いつ東京に帰ろうかなぁ…。」
 お母さんは首をかしげた。
「帰る?」
「えっ、うん。」
 お母さんは、さみしそうな顔をした。
「そうかぁ、もうあなたの帰る場所は東京かぁ。」
「えっ、まぁそう言われれば、そうだけど…。」
「まぁいっか、成長したんだから。」
 お母さんは、ニコッと笑って言った。
「さっ、買い物に行きましょう。あなたの車に早く乗りたいな。初ドライブじゃない。」
「でも、車ないじゃん。」
「えっ、お父さんのがあるじゃない。」
「お父さんの車は、いつもお父さんが使ってて、ないじゃん。」
 いつも、お父さんは仕事場まで車で行き、夜帰ってくる。
「あ…、お店閉まるかも。行きましょう。早く。」
 私はお母さんに手をひかれて外に出た。
「お母さん、カギしめないの?」
「持ってないの?」
 私は、うなずいた。
「もう、いつでもこっちに来れるように、持っておきなさい。」
 お母さんは、そう言って二つある内の一つを、私の手ににぎらせた。
「ガチャ。」
 お母さんは、カギをしめて、車のカギを出した。
「はい、よろしく。」
 車のカギも渡され、車に乗った。

「そこを右に曲がって、三つ目の信号を左に曲がって。えっと一番近い、駐車場は…、あっ、スーパーの目の前にあるわ。」
「了解。」
 ちょっと、ゆっくり走っていたので、後ろの車にクラクションを鳴らされた。
「こういう事をするから、事故が起きるのよね…。ゆっくり走ったって、安全運転でいいじゃない。」
 お母さんは、ブツブツ言いながら外を眺めていた。
「はい、着いたよ…。」
「車は速いねぇ、もう着いたの?」
「意外と距離あるね、家からスーパーまで、お母さんいつも、歩いているの?」
「うん、運動もしないと。」
 私とお母さんは、車を降りてスーパーに入った。
「そう言えば、あなた小さい頃にこのスーパーで迷子になったわね。」
「あぁ、そうだったね…。」
 私が小さかった頃、お母さんに、ソースを持って来るように頼まれて、一人でソース売り場に行ったことがあった。しかし、いつものソースを持って、お母さんと別れた場所に向かう途中、自分がいる場所が分からなくなってしまったのだ。スーパーの中を何周も周ってしまったのだ。もしかしたら、お母さんは、私をおいて帰ったのかと考え始めた。そして、あきらめかけていたら、人にぶつかった。謝ろうとしたら、その人がお母さんだった、という思い出だ。私は強がっていたけれど、内心すごく嬉しくて安心しすぎて、全身の力がぬけそうだった。
「今日は、何にしようかなぁ。」
 お母さんは、棚に並んでいる商品を見ながら言った。私は、お母さんのオムレツが良かった。でも、せっかく今日は、久しぶりに来たから…、と思って、何も言わなかった。
「もうオムレツにしようかな…。」
「それがいい!」
「でもなぁ…。」
 お母さんは、全然私の話を聞いていなかった。
「あっ、これおいしそうだなぁ。」
 お母さんが持っていたのは、おさしみだった。
「あぁ、いいね。」
「そうだよね。」
 どうせ、また聞こえてないと思っていたのに、聞こえていた。
「全部おいしそうだから、全部買っちゃうか。」
 お母さんは、一つ一つおさしみをかごに入れた。マグロとイカとヒラメと…。
「そう言えば、お父さんおさしみ嫌いだったよね…。いいの?」
「大丈夫…今日はお父さん帰ってこないから。」
「なんで?」
「事故。お父さんが悪いの。」
「なんで?」
 返事はかえってこなかった。だからなのか私は、これ以上この話を続けられなかった。すると、放送が流れた。
『これから、飲み物のタイムセールを始めます。』
「飲み物買っていい?」
「うーん、いいわよ。好きなの持って来なさい。前みたいに迷子にならないでね…。」
 わたしは、飲み物のコーナーに行った。この頃は、コーヒーを飲むようになったので、コーヒーを手に取った。だけど、小さい時に好きだった、『なっちゃん』を手に取り、コーヒーを置いた。そして、お母さんの所にもどった。
「子供っぽいの買うんだぁ、なんで?」
 私は、理由は分からないけど、あの時コーヒーを選ばずに、なっちゃんを選んでいた。
「何となく…。」
「ふーん。」
 そう言って、レジに向かった。
「今日は、いっぱい買っちゃったわね…。」
 お母さんは、さいふを見ながら言った。
「お金…、貸そうか?」
「何言ってるのよ…、大丈夫よ。」
 お母さんは、店員にお金を渡した。そして、おつりを私に渡した。
「ハイ、おだちん。」
 今日は子供になった気分だった。小さい頃、おだちんをもらってとても、喜んでいた憶えがある。
「さぁ、家に帰るか。」
「うん。」
 私は、車のカギを出して、ドアを開けた。そして、お母さんと、となりにすわり、出発した。帰りは行きよりも少しスピードを出して家まで走った。
「とうちゃーく。」
 私は、自分のカギで戸を開けた。お母さんは、袋をもって家の中に入って、冷蔵庫におさしみを入れた。
「あっ、しょうゆ買うの忘れた!」
「買ってこようか?」
「大丈夫。近くにコンビニがあるから…。」
「新しくできたんだ。来る時、見たよ。じゃあ、一緒に行こう。歩いて散歩しながら。」
「そうね。」
 私は、家のカギを閉め、お母さんと並んで歩きだした。

「久しぶりだね、二人で散歩するの。」
「うん。」
 空が夕日で赤くなってきた。
「近いねコンビニ。」
 コンビニの自動ドアが開いた。
「しょうゆ、しょうゆ。」
「あった。」
 私が見つけると、お母さんは
「早いね。」
 と言って、笑った。
「これは、私が買うよ。」
 私はさいふを出して、しょうゆを買った。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」

 コンビニの自動ドアが開き、外に出た。
「はあ、疲れた。」
 お母さんが、ため息をつきながら言った。
「おんぶ…、してあげようか?もう、できるよ。」
 私は、お母さんの前でしゃがんだ。
「えー、じゃあ、お願いしようかな。」
 お母さんは、相当疲れていたんだと思う。
「よいしょ。」
 私は、お母さんをおぶって、立ち上がった。意外と軽くて、心細くなった。
「もう身長もぬかされて…、前はあんなに小さかったのにねぇ…。」
 お母さんは昔の事を思い出しながら話していた。
「ねぇ、子供におんぶされるって、どんな感じなの?」
「そうねぇ、親から見れば、ちょっと悲しいけど、それだけ元気に成長したって考えれば、うれしいな。」
「ふーん、おんぶっていいね。なんか、どんどん次に進んでく感じがする。お母さんにやってもらったのを真似して、お母さんにやってあげる。」
 前から夕日に照らされ、少しまぶしかった。コンビニから少しはなれ、静かな住宅街には、私とお母さんの声がひびいていた。まっすぐな道は、どこまでも続いていそうだった。私とお母さんは、夕日に向かって少しずつ前へ歩いている。私には左に曲がった時の私とお母さんのかげを想像できた。私の腰が少し曲がり、その上にお母さんがいる。お母さんの足も、ブラブラと前後左右に揺れている。私の髪の毛が風で後ろにいき、お母さんの顔と重なっている。たぶん、お母さんも眠くなっていると思う。赤い夕日に照らされている私とお母さんの幸せそうなかげは、後ろに長くのびていて、私からは見えなかった。見えなくて良かった、とホッとするのと裏腹に少し残念だった。自分の成長した姿を親に自慢したい気もあったからだ。
 道を左に曲がった。私は、左に伸びたかげを見ようとした。
「もう、大丈夫よ。」
 突然、お母さんが降りようとした。少し悲しそうな顔をしながら、ちょっと幸せそうに笑っているお母さんの顔は、かげには映らなかった。





ガード下の小さなお店


広瀬かおり

 学校帰り、お腹が空いたので私は銀だこに行った。人気チェーン店なのに、飴ヶ丘の銀だこは小さい。でも、たこ焼きだけでなく、たい焼きも売っている。私は、百五十円という学生に優しい値段のたい焼きをよく買う。自転車置き場と花屋に挟まれた道に三人並んでいた。私はエコバッグからねぎが飛び出しているおばさんの後ろに並んだ。
「すみませーん。花をお店に飾りたいのですが、何かお薦めの花はありますか?」
「お店に飾るのでしたら、紅色のチューリップがお薦めですねー。」
 こんな会話が右側から少し冷たい風にのって、聞こえてきた。
(カスタード味にしようかな。こしあんにしようかな。)
「学校帰り?」
「あっ、はい。」
(怒られるのかな?)突然、前のねぎのおばさんが話し掛けてきた。
「学校どうやって行ってるの?」
「バスです。あっ!あのバスです。」
「そうなのー。おばさんね、久しぶりに飴ヶ丘に来たのよ。」
(怒られなそう!よかった!)
「銀だこがあって、ビックリしちゃったわっ。本当、変ったわねー。」
「そうなんですよ!最近できたんですよ。駅の近くのたい焼き屋さんがつぶれちゃったんで、ここで買うんですよ。」
 私はよく、おばさんに話し掛けられるので、ついつい沢山話してしまう。並んでいる間、携帯の画面をずっと見ているよりずっといい。
「駅の近く?」
「はい。南口の方にあったんですよー。」
 私は、あの小さなたい焼き屋さんとおばあちゃんを思い出した。

 刷毛で型に油を塗る。つやつやしている鉄板にチャッキリで生地を流す。一回目は沢山入れて、二回目は調節しながら入れる。鉄板を斜めにして生地を均等にする。魚の形になった。まるで、メトロノームに合わせているみたいだ。かたまりに箆をさして、形を整え生地の中にあんこを入れる。しっぽにまで沢山入っていますようにと願いながら、窓越しに、作っているおじちゃんを見る。自分の息で窓ガラスが白くなる。私はパーカーの袖の先で拭いて、また目を凝らした。二つの鉄板を合わせて、さらに焼く。焼き上がるまで、他の鉄板で新しいたい焼きを作る。できあがったみたいだ。鉄板が開く。チョコレート色ともカスタード色とも言えない、何とも言えない色の生地のたい焼きが出てきた。おじちゃんが横のトレーにできたてのたい焼きを集めて入れる。
「二つください!」
 私は木の引き戸を開けて笑顔で言う。いつも通っているから、値段は言われなくても分かっている。私は、白い割烹着姿のおばあちゃんのしわしわな手にお金をのせた。
「はい。」
 おばあちゃんは古いレジにお金を入れて、たい焼きを包み始めた。ピンクの包装紙に白い縦長の紙を置く。そして、紙の上にトレーから取った、たい焼きを二つ置く。慣れた手つきで包んでいき、最後に一本の輪ゴムでくるりと止める。おばあちゃんが渡してくれたたい焼きはいつも温かくて、少し湿っている。
「ありがとうっ!」
 背が低くて少しパーマをかけているおばあちゃんにお礼を言って、私は引き戸を閉めた。

「お先に失礼っ。」
 ねぎのおばさんが挨拶してくれた。
「さよならっ。」
 私も挨拶して、注文し始めた。
「いらっしゃいませ。」
「あんこのたい焼きを一つ。」
 たこ焼きの良いにおいがする。(買いたいな。でも、高いから無理だ。)
「お待たせいたしました。このままでよろしいでしょうか?」
「あっ、はい。」
 私は、お釣りを財布にしまいながら言った。
「ありがとうございます。」
「おいしく召し上がれますように。」
 一拍置いて、店員さんが言った。
 湿った包み紙をめくりながら信号を渡った。渡りきったところで、私はあんこが透けているたい焼きを一口かじった。(あつっ。…美味しい?)

 中学に入学してから、バスケ部に入った私は、忙しくて地元で遊ぶ回数が減った。カラオケやボウリングへ行く友達の誘いを断って毎日練習に出ていた。四月から学校と家の往復しかしていなくて、町の様子なんて全く知らなかった。そんな忙しい生活が続く一年目の秋に私は、怪我をしてしまった。軽い肉離れなので、一週間のドクターストップ。私は初めて中学の友達とカラオケに行ったりして地元で遊んだ。
 一週間の休みの最後の日、私は友達とカラオケで三時間歌ってから、いつもより早く友達と別れた。明日の朝練から部活に参加するから早く寝なければいけない。私は早歩きで町を歩いた。いつもは自転車で通り過ぎる街並みも歩いてみると違う。いつも肌で感じている季節も目で見てみると違う。黄色や赤色の葉をローファーで踏む音がすごく新鮮だった。早歩きをしていたはずだったのに、いつの間にかゆっくり歩いていた。昔、店員のお姉さんに手を振っていた美容院の横を通った。よく、あんぱんを買っていたパン屋さんが潰れて、ラーメン屋になっていた。パンの甘い匂いからとんこつラーメンのこってりとした匂いに包まれた店先に変わったお店の前を通って、ガード下まで来た。いつもはこっちの道から帰らないので、『懐かしい』と『発見』の連続だった。
 家電量販店のような明るい店中のゲーム屋さんの前を通った。小学一、二年生くらいの男の子が買い物袋を二つ持っているお母さんに駄々をこねていた。
「マリオのあおの新しいソフト買ってー。」
「買わないよ。」
「買ってよ。みんな持ってるもん。」
「人は人。ダメ。」
 こんな言葉の繰り返し。私にもこんな時代があったと思うと少し恥ずかしい。
「もう、泣かないの。」
「ヤダ。」
「泣きやんでっ。恥ずかしいでしょ。今度買ってあげるから。」
「本当?」
 男の子は急に泣きやんで、目をキラキラさせていた。私はこの男の子くらいの頃、「たい焼き買ってあげるから泣きやんで。」と言われるまで、ずっと泣いていたことを思い出した。
「やった。ありがとう!」
「じゃあ、帰ろっかっ。」
 お母さんの一安心した声が聞こえた。私はゲームを買う代わりに食べていた、たい焼きが無性に食べたくなった。
 スクールバッグから財布を取り出しながら歩いた。ガード下の一番端に小さなお店が見えた。木とガラスの古い店。(あれ?カーテンが閉まっている。定休日かな?)入口のドアに白い紙が貼ってあるので、私は店に近寄った。紙にはこう書いてあった。

『南急電鉄の改装工事のため、店を閉めることになりました。
 長年のご愛顧ありがとうございました。』

 私は何回もこの二文を読み直した。ガード上を通る電車の音も人々の話声も何も聞こえなかった。
「ここのたい焼き美味かったよなー。」
 突然話しかけられたので、うなずく事しかできなかった。(誰だろう?)
「俺いつも、ゲーム屋の帰りに寄ってた。」
 突然話し掛けてきたのは、同じクラスでサッカー部の祐斗だった。
「そうなんだ。いつお店閉まっちゃったの?」
 質問してから私は後悔した。一、二回しか話したこと無いのに馴れ馴れしく質問してしまった。
「確か…八月の後半かな。忘れた。」
「そっか。」
 何か気まずい。家に早く帰ろう…。
「転校する友達に渡す色紙みたいだな。」
「えっ?あ!」
 私はあの二文しか気にしていなかった。紙には、このたい焼き屋さんが好きだった人達のコメントが沢山書いてあった。水色のペンでは細くきれいな字で“おいしかったです”と書かれていて、黒い太いペンで書かれた“やめないで!”からは書いた人の声が聞こえてきそうだった。
「すごいね。愛されていたんだね。」
 私はつぶやいた。彼は目を細くして笑った。八重歯だったんだ。つられて私も笑った。
「やべっ。もう帰んなきゃ。明日俺、朝練だわ。じゃあ。」
 彼は急にそう言い、地面に置いてあったエナメルバッグを持って歩き出した。
「じゃあね。」
 聞こえないかもしれないけど、私は彼に向って声を掛けた。そして、私も地面に置いておいたスクールバッグを持って歩き出した。ちょうど角を曲がろうとした時、祐斗の声がした。
「小宮雅!明日、俺達も書きに来ようぜ!」
 返事をする前に彼は走って行ってしまった。
(町のど真ん中でフルネーム叫ばないでよ。恥ずかしいじゃん。)
残りの家までの道、すごくきれいだった。一人なのに楽しかった。何でだろう?夕日のせいかな。
 次の日、部活が終わったらすぐたい焼き屋さんに向かった。ガード下まで来たら私は自転車を降りて髪の毛を整えた。今日は湿気が多いから髪の毛がなかなかまとまらない。お店の前に、エナメルバッグが置いてある。私は早歩きで自転車を押してお店に向かった。
「遅くなってゴメンネ。」
「大丈夫。」
 何か怖い。やっぱり気まずい。
「紙見てみ?」
「あっ。うん。」
 私は自転車を彼のエナメルバッグの隣にとめて、紙を見た。
(どうしたんだろう?)
「酷くない?」
「…ゴメン。何が酷いの?」
 私は小さい声で聞いた。すると、「ぽつっ。ぽつっ。」と音が聞こえてきた。雨が降って来た。
「紙がさぁ、お店の中に貼られた。もう、コメント書けないよ。」
「…本当だっ。…書けない。」
 沈黙が続いた。雨の音がどんどん大きくなっていく。
「雨ひどくなってきたから帰ろっか。誘っといて悪ぃ。」
「ううん。大丈夫だよ。じゃあ明日ね。バイバイ!」
 私は部活で使ったタオルを頭にのせて自転車に乗ってペダルをこぎ出した。

 急に三年も前のことを思い出した。祐斗とはあれ以来関わっていない。どこの高校に行ったのかも知らない。気付かないうちにさっき買ったたい焼きが冷めてしまっていた。冷めたたい焼きをかじりながら、私は無意識に南口の方に向かっていた。美味しくないから食べ進まない。まだ半分も残っているのにもうガード下まで来てしまった。あの時から変わらない家電量販店のような明るい店中のゲーム屋さんの前を通って、昔、たい焼きやさんだった場所へ来た。今はケーキ屋さんになっている。クラシックがかかっている店先は華やかで英語か何語か分からないお店の名前。唯一の昔の面影はお店の小ささ。
 私は冷めたたい焼きを口に押し込んでお財布の中を確認した。五百円玉がきらりと光った。ショーウィンドーの中にはすでに完成されているケーキや包装紙に包まれたクッキーが並べられている。私はこの中では一番安い三百円のシュークリームを買うことにした。私は若い茶髪の店員さんに
「シュークリーム一つ下さい。」
 と言った。店員さんは、
「三百円でございます。」
 と笑顔で言った。すごく笑顔が自然でえくぼがある。かわいい店員さんだった。私はシュークリームをつぶさないように優しく手で包んでベンチに向かった。角を曲がると咲きたくてうずうずしているつぼみが沢山ついた桜の木が並んでいるのが見えた。桜の木の下にあるベンチを春の太陽が温めておいてくれたみたいだ。ふわっふわのクリームが沢山つまったシュークリームをかじりながら、私は春の訪れを堪能した。ふと、雲一つない空を見ていた視線を正面に戻すと背が低くてパーマをかけたおばあちゃんが前を通った。ベンチに座っている私の目の高さがおばあちゃんの頭。口の中のふわっふわでとろーりとしたクリームから一瞬、あんこの味がした。甘いけどしつこくなくて、少し小豆の皮が入ったあんこ。
 おばあちゃんは白い割烹着じゃなくて黒いセーターを着ていた。ねぎや豆腐が入ったスーパーの袋を持っている。昔より背中がまるまったような気がする。私は、おばあちゃんの小さな背中が見えなくなるまで見届けた。そして、また、雲一つない空を見上げた。さっきよりも透き通っている。一輪だけ五枚の桃色の花をつけている枝を発見した。いつになったら満開になるのかな。

 緑道がピンク一色に染まり、緑色の葉がちらほら見えるようになった頃、私はいつもの様に学校帰り、お腹が空いたのでお店に寄り道していた。最近のマイブームはシュークリーム。少し高いけど、三週間に一回のペースで食べている。私は、いつも通りガード下をスクールバッグから財布を取り出しながら歩いた。ガード下を通り抜ける春の風は私を早歩きにさせた。さらに風に押されて少し小走りでお店に向かうと、学ランを着た背の高い人が見えた。小走りだった足を止め、よくその人の顔を見たら祐斗に似ていた。
(祐斗?こんな顔だったっけ?)
もっとよく見てみた。私は
「あっ!」
 と小さな声で言い、つい笑ってしまった。
(祐斗だ!エナメルバッグの持ち方がそっくり。)
 私は、昔気まずいと感じたことを忘れて自然に声を掛けていた。
「ここのシュークリーム美味しいよねー。」
 祐斗は、大きな目をさらに見開いてから目を細めて八重歯をむき出しにして笑った。








大竹智之

 時刻は、午前四時を過ぎた辺りだ…

 僕は海を見ている。
 風が耳元で轟いている…
 この風は何処から来るのだろう?この海原を渡って、何故僕の元へ来たのだろう?
 答えは風の中…
 そんな風に言うのはもう飽きた。
 僕は答えを探している。こうして海を見て。
 三月の海岸は少し淋しい。人の手が入っていない浜辺は漂流物も多く、波打ち際で寄せては返されている。それを少し小高くなった芝生の上から僕は見ている。海は少し荒れていて、曇天は晴れそうになく、彼方のテトラポットに白波が打ちつけられている。荒涼とした風景がそこにあるだけだ。
 混色の世界だ。東京からここに辿り着いた時はまだ全ての一切が暗闇の中にあって何も嫌な気分にはならなかったのに、今は水平線が明るくなってこの世界の色は濁ってしまった。まるで人の心の様にそれは色付いてしまったのだ。
 だから強く思う。この果てで綺麗なのは彼女と青空のようなこのトラックだけだと。
 この古惚けたキャブライトを探すのに苦労した。中古車ディーラーに依頼して見つけたのはもう廃車寸前の有様で、修理するのに僕の給料は悉く飛んでいった。そして生き返ったこのダットサンキャブライトを、僕は愛して止まない。
 そんなトラックの荷台でギターを弾いている彼女が、僕の愛した女だ。
「Hold me, love me, hold me, love me…」
 突然彼女は弾くのを止めた。
「…あー、なんだっけ」
 僕の背後に愛車があるので、歌う彼女の表情は分からない。
「I ain't got nothing but love, babeだよ」
 懐かしい歌だ。僕が高校時代、文化祭で歌った曲だ。メンバーの反対はあったが、今はあれで満足している。その時に、彼女はいたのだろうか。
「愛することしか出来ないよ、か」
「え?」
「なんでもない。それと四弦のチューニングが狂ってる」
「いいの、型に填まったら終わりよ?」
 彼女はまた「Eight Days A Week」を弾き語る、一音の不協和音を残して。
 僕はそして変哲のない海を見ながら、こんな人生を巻き戻せたらと思う。書き直さなくていい、全ての記憶が儚く消えてしまうのが怖いのだ。
 彼女のことは小学校の頃から知っている。丘の上の洋館に住んでいたので皆から「姫」と呼ばれていた。別段話したこともなく、今から考えると住む世界の違う者同士だったのかもしれない。高校の時に、彼女の通う一貫校に入学し、それで初めて言葉を交わしたと思う。
 彼女は一ランク上の大学に進学し、僕は親の反対を押し切って芸術系の大学に進もうとしたが結局そのまま大学に上がった。この頃に何か重要なことがあった気がするのだが、もう何一つ憶えていない。
 社会人になって五年後が、おそらく彼女との三度目の出会いだ。通勤時間が同じで、電車内でよく見かけてはいたのだが、その日は最悪で朝のラッシュ時に知らない女に腕を掴まれ痴漢痴漢と叫ばれた挙句駅の事務室に連れて行かれた。そこに颯爽と現れたのが彼女である。
“その人痴漢していません、私見ていましたから”
“あなた、名前は?”
「緑川希、です」
 その夜、僕は緑川を飲みに誘った。それから僕らが恋人になるのに時間はかからなかったと思う。しかし不思議だ、あの幸せだった時間の記憶が殆どない。あるのは時折見せる淋しい笑顔と、儚げに回るメリーゴーランドだけ。
 世間は緑川のような人を、“運命の人”だと言うのだろうか…
 彼女は今、僕の後ろで歌い続けている。緑川は違う、馬鹿な女だ。こんな僕とこんな三月のどうでもいい日曜日にこんなバカなことをしているのだから。
 今はそうだな、少し淋しい。東京は彼方の厚雲がかかって見えなくて、今はそれが恋しい。こうして荒涼とした大地に放り出されて、きっと僕は困惑しているのだろう。
 選択肢の多い事は決して良い事ではない。東京にある深入りしない優しさは、あの虚無の摩天楼を創り出している。それが僕らには心地がいいのだ。
そんな世界は傷つかなくて、ラクで…。 こうして自問自答を繰り返して、僕は答えを探している。この行き場を失った無常観を吐き出せる場所を。失うものに抱くノスタルジアを。
 緑川が会社を“自主退職”したのが一カ月前だ。彼女はそれを僕に悟らせまいと同じ時間帯にスーパーのパートと派遣社員を始めた。パチンコ屋にも雇われているかもしれない。彼女は怖いのだ、僕とのやさしい関係を壊したくないのだ。本当の自分を見られたくないばかりに。
 そうしてやつれていく彼女…
 だから僕は緑川を海に連れ出した。誰も知らない、誰もいないこの海岸ならば、彼女も全てを吐き出して楽になるんじゃないか、と。だが未だに彼女は、あの摩天楼の中で弱々しく笑っている。全てから目を逸らして、未だに彼女は歌で他人の心情ばかりを歌っている!
 僕は風でかき消されない程度でそっと呟いた。
「そのギターはさ、僕が解散ライブの最後に使ったやつなんだ」
 彼女は曲のイントロ部分を何度も繰り返している。これはきっと、“歌うたいのバラッド”だろう。
「吉祥寺の?」
「そう。それ、アンプにも繋げないだろ?だから、僕の音はなんにも響かなかったさ。何であんなことしたんだろって思うけど、別に思い出の、音楽に陶酔した頃のギターだったからじゃなくて、やっぱりあの音が僕の精一杯だったんだよ。」
 どうか、この僕の言葉を聞いてほしい。
「あの頃はもう、完全に自分の限界を感じていたのさ。バンドブームが終わって、音楽業界への道はさらに険しくなって、メンバーが就活を始めて…」
 彼女は歌い始める。僕も構わずに続ける。
「結局は、バンドっていう夢に不安とか後悔を押しつけてた。残ったのは何もない、この手にあったのは、履歴書にさえ残らないものばかりだった。」
 失った物の重さを知ったのは、あのころだろうか。
「何かに没頭する人生は、楽だよ。だけど、強い憧れはやがてそれに対する執着心に変わって、何もかも狂わせてしまうんだ。一つの事に成功しても、失う物も同等にあるんだ…」
 僕の背中を、彼女は見ているのだろうか。彼女の夢を、希望を、あるいは不安さえ壊そうとしている僕の、許されないこの背徳を…
 だからもう僕は何も望めないし、望まない。ただ、最後の願いがあるだけ。

「僕ら、別れよう」

 サビを歌いきったところで、緑川はギターを爪弾くのを止めた。彼女はトラックの荷台から降りて、僕の肩を叩いた。
「海、」
 見上げた僕の瞳は、きっと赤く濁っていたに違いない。
「行こうよ」
 僕は果たして彼女に辿り着いたのだろうか。それとも、まだこの道のりは長いのか。それが分からないから、この時間が永遠に続けばいい。こうして優しく彼女と接せられていられたら、そうして僕が彼女の青白い手を握り返すことができるまで、全てが移り行かない世界でいられたら…
 だが人は、結論を急ぐ。時間なんてバカな概念で、容赦なくだ。
 彼女は靴を脱ぎ、靴下も僕に投げつけた。
 短く悲鳴を上げて、波打ち際に立つ。僕は隣に立って、地団駄を踏む彼女を見た。
 少しずつ海に近づいていく緑川は、無邪気に水を蹴って僕に投げかける。
“捨てないで!傍にいて!私に…、私に近づくな!”
 それまでケラケラ笑っていた彼女が、急に萎む。視線の先に、何か見つけたようだ。それは水平線の、永遠の方に。
「あ!なんか光ってる!」
 そう叫ぶと彼女は走り出した。寒中、朝の海へ。
 違う、違うんだよ希!目を、目を覚ましてくれ!
 僕は彼女の腕を追いついて掴み、そのまま二人は海へ倒れた。
 僕はすぐに彼女を抱き起こした。身体の冷たさは異常だった、だからだろうか、目の前の彼女の肢体を反射的に、本質的に抱きしめた。
「あー…」
 緑川は天を仰いで気の抜けた声を上げる。
「見えなくなっちゃった」
 僕はさらに強く抱きしめた、彼女の濡れて艶のある髪を、寒さに耐えられないだろうその彼女の全てを。
「いいんだよ、」
「もう少しだったんだけどなー…」
「光の差す方だけが正しい訳じゃない」
「本当?信じていい?」
 彼女のだらんとしていた手が、僕の背中を這ってくる。風がまた強くなってきて、僕らの声はかき消されそうになる。
 だが、僕らはここにいる。
「ああもちろんさ、僕を信じて踏み出していけばいい」
 神様、いるのなら、どうかこの一瞬だけでいい。
永遠を、ください。

 “以上、八時のニュースをお伝えしました…”

 僕はそこでボリュームを下げ、ギターを手に取った。まだ夢や希望を抱いていた青年期を微かに思い出しながら、少し息を吸って。
「Ooo I need your love, babe …」
 僕も、随分と歌わなくなった。
「guess you know it's true…」
 僕の中の音楽は今や、懐古の対象となって久しい。
「Hope you need my love babe…」
 流れて消えたものは何か?流れて来たのは何だったのか?
「…just like I need you」
 僕はまだ、答えを探している。
 あの海岸での出来事から、もう半年が過ぎようとしていた。
 窓の外は鬱蒼とした夜の森が、その鬢を垂らすように月の光を落としている。夏蝉が泣き喚いていたこの森も今は秋の気配を漂わせていて、鈴虫が小さくこの森のどこかで鳴いている。窓から吹き抜ける風は涼しく、若草色のカーテンを揺らして暗い病室の隅へ消えていく。
 そんな悪戯な風のせいだろうか、窓の下の花瓶の花が揺れた。それを僕は視覚的に捉えながらも、歌い続けていた。
「Hold me, love me, hold me, love me…」
 しかし次の歌詞がどうしても思い出せず、僕はギターの開放弦を鳴らして手を放した。
「…なんだっけ」
 病床を区切るカーテンがおぼろげな光を帯び始めた。廊下が軋む音もする。看護婦が巡回を始めたのだろう。
 月が樹木の間から照らしている。それは刑務所で見上げていた月に似ても似つかない形だった。
 それを思い出した途端、僕の意識が乖離してまた幻想の中の彼女がふっと現れる。
 彼女は微笑みを湛えて窓に腰を下ろし、月の光に輪郭をぼやけさせている。その視線の先には、無言で横たわる本物の彼女がいて、彼女は指を指して笑った。
“どうしてこの女を愛するの?私を、愛してよ”
 僕はその幻聴を振り払い、彼女に向き直って口から垂れる唾液を拭いた。
 幻想や幻聴は、覚せい剤の副作用の一種だという。
 これは後遺症なのだろうか。それとも、自分の意識の範疇で無意識に覚せい剤に手を染めているのだろうか。それはここのような精神病院なら容易に診断できるのかもしれないが、東京に戻って彼女の夢でも見なくなったら淋しいので、僕は幻想の彼女と向き合っていくことに決めている。
 僕が覚せい剤で捕まったのは六月の雨の日だった。自分のアパートではなく、近くの公園に車を停めて服用し、降って湧いた強烈な快楽に耐えられず車中で転げまわった。そして現行犯逮捕された。パトカーの流れる車窓は雨でぼんやりとしていて、その向こうの世界をよくうかがい知れないでいた。僕はもう普通の人ではないと、その時強く感じた。
 獄中に入ってすぐ、彼女に手紙を出した。きっと感情的になっていたから伝えたいことの半分も理解してくれなかっただろうが、それでも伝えたい根幹は書き記した。
「君は何かに依存している」
「それを認めたくないから、僕とそれをダブらせて、狂おしいほど愛したんだ」
「会社は君のそれから来る異常な行動を見て自主退職なんてさせたんだ」
「僕の願いは、ただ一つ」
「君が前を向くこと」
「そのためなら、僕は何だってする」

 刑務所に入って一か月、天皇陛下の崩御が伝えられ、年号が変わり、特赦の対象になった僕は晴れて出所することになった。僕も、一から人生をやり直すつもりだった。真夏のアスファルトの蜃気楼に、彼女の姿を見るまでは。
「愛した人を、忘れるわけないでしょう…?」
 そう言って淋しく笑った彼女の黒ずんだ顔を、僕は今でも忘れることができない。
 僕は回想へと誘った月から目を放し、緑川を眺めた。
 彼女は今、何を考えているのだろうか。いや、考えているのか?その蒼白の頬を撫でてみるが、どうしたって彼女の瞳は動かない。すべてはこの瞳にもう一度輝きを宿すために、僕は自分のどうでもいい人生を捨てたのに…
 僕は平凡な人生を望んだ。金が幾らかあって、東京郊外に家があって、夕暮れの日曜日を妻と子供と犬を連れて散歩したい、その程度の夢しかなかった。社会の何の変哲のない歯車でありたいのだ。
 しかし、彼女と出会ってから、素晴らしい人生を送っている緑川に潜む闇を皆間見るようになって、僕はある種の背反要素を感じたのかもしれない。
 ここへ連れてきたとき、刑務所から出て間もない頃だったが、彼女は気が抜けたように精神病を発症した。昏睡状態に陥り、こうして時々瞳を開けてはベッドの横の机のコップを見ている。その水の揺れ動く月光の中に、彼女はあの光を見ているのだろうか。
 医師の説明は曖昧だった。
「確かに私たちも初めは麻薬中毒を疑いましたよ。覚せい剤とかね。ただ、未だに彼女からそのような反応は検出されてないのです。心的ストレスが、あそこまでさせたのでしょうか…」
 僕は笑われることを覚悟して訊いた。
「例えば愛情によって、人が精神病を発症する事はあるんですかね」
 医師は顔色一つ変えないでしばらく黙りこくった。
「確かに創作物の中ではよく見られる事例ですね。狂おしいほど愛す、しかし人は案外打算的な考えに支配されていて、盲目の恋なんてしないですよ。私は哲学には疎いのですが、愛情は胎児の頃に感じる母との一体感、まあ言うなれば享楽とでも申しましょうか、それに似ていると考えられているそうです。享楽を欲する故に愛情を欲し、その相手を欲し…」
 医師の眼鏡の奥の瞳が段々と虚ろになっていく。やはり、人の神秘には興味があるのだろう。僕は黙って聞いていた。
「人生は人が生きるって書きますよね、しかしあれは人が生まれる、とも読める。哲学者の間では、胎児こそが完璧な人間であるとする考えなんて物もあるんですよ。人が生まれるために人が生まれ、その繰り返される輪廻…神秘に包まれたその真理…」
「先生?」
 医師は我に返って僕を見つめ、その瞳はすぐにレンズの斜光に隠れた。
「失礼しました。いやあ、恥ずかしい。これでは夢想家ですか…」
 そう言って彼は僕に背中を向け、机に向かう。
「緑川希さんが昏睡状態にある以上、何らかの精神疾患であるのは間違いないです。ただ、原因が分からないようでは迂闊に治療を開始できない。もう少し様子を見ましょう。時々、目が覚めるようですし、回復するかもしれません」彼女を狂わせたのは、一体何だったのだろう、それがついて回る疑問の最後だった。
 麻薬?それに対する背徳が、僕への愛情に形を変え、そしてその盲目を精神が耐えられなくなったのか。
 人?周りから与えられた殻を被った彼女が、その重さに耐えられなくなったのか。
 愛情?彼女は愛にだけは全力で真摯で、僕がその全てを受け入れられなかったのだろうか。
 僕?僕は早くに母を亡くした。その反動で無条件の愛を彼女に欲し、必要以上を求めたその結果であったのだろうか。
 考えれば考えるほど、全ての起因には僕がいて、彼女の諸悪の根源だと感じるようになっていた。二人を離さんとしていたのは僕ではないのか。彼女の優しさを誤解し、彼女を破壊したこの身体…精神…それこそこの世に一つしかない僕自身に違いない。
 月が陰っては顔を出し、窓辺のコントラストはいささか激しい。
 希、僕はやっと答えを見つけたよ。
 やっぱり、僕が君から離れるべきなんだ。
 僕が君を苛む悪と共に消える。
 そして二度と巡り逢わないようにしよう。
 そうだ、きっとそうだ。
 この世で、未来にも過去でも、あの世でも、
 永遠に。
 君はそれで立ち上がれるはずだ。
 彼女の心のキャンバスから僕のページは取り去って、また白紙のページの君の物語を描いていけばいい。
 僕は再び月の現れた森に目を移し、空を見上げる癖は止めようと思った。
 八月三十一日までには、彼女は昏睡状態からいくらか意識の芽を見せ始めた。
 別れの日までには、この僕の心情もいくらか整理できると思ったが、今もそれはできずにいた。これでは、僕が狂ってしまうよ、希。
 陽気な看護婦が僕の出発の話を聞いて、思いついたように押していた車椅子に座る緑川に言った。
「希ちゃん、彼今日東京に帰るのだって。見送りに行きましょうね」
 緑川は何もいわず、あどけなさが戻った顔の無表情さを保った。
 彼女が病床に戻り、外出許可を貰いに看護婦が消えると、僕は丸椅子に座り彼女を眺めていた。
「今日、帰るよ」
 彼女は窓の外の森を見ている。森は今もその木の葉を盛大に揺らし、青空に映えて綺麗だ。
「今まで、ありがとう。ここでの生活は心配しなくていい、僕が払っておくから」
 午後を迎える生温い風が二人を包む。取り忘れた風鈴が鳴り、僕も彼女もそれを見上げた。それは、別れの合図のような、そんな不思議な響きがあった。
 確信した。今、二人だけの人生が終わった。
 そしてまた、新たな二人が生まれ出たのだ、と。
 僕はまた彼女を見て笑いかけた。彼女のその瞳に笑っている僕を見つけた時、思わず涙が溢れてきて、僕は立ち上がった。
 その雫が彼女に見えたかどうかは、立ち去った今はもう分からない。
 これは、彼女を捨てることになるんじゃないか?
 昨日蓋をした筈の疑問がふっと現れたのは、駅へと続く緩やかな坂道であった。
 後ろでは看護婦に押されて彼女が風に髪を靡かせて気持ちよさそうにしている。病院のある高台からはもう随分来ていて、周りに民家も増えてきた。駅のある港町では次々と漁から帰ってきた船が汽笛を鳴らしている。堤防のテトラポットでは網を持った子供が二、三人いて、黄色い声を上げている。
 いや、違うな。
 僕はまた空を見上げ、遠くの入道雲を見つけた。
 僕が、捨てられるんだ。
 そんな不自然な考えの着地に笑おうとしたが、代わりに涙が頬を伝うのを感じた。
 駅の待合室では、一人天井の扇風機が哀しく回っていた。
 初老の駅員が待合室と改札の前で犬と触れ合っている。犬はそれから近くにいた車椅子の彼女に興味を持ち近づいて臭いを嗅ぎはじめた。仔犬が尻尾を振りながら彼女の膝で立ち上がると、緑川がその仔犬を抱き上げたのだ。看護婦も僕も息を飲んだ。それから彼女は愛おしそうに太ももの上で足を舐めている仔犬を撫で続けた。僕のことなど気にもしないで、電車が到着するまで。
 東京からここは遠い。きっとそこにたどり着くのは今日の夜になりそうだったが、それでも僕は行く。言い残すことは何もないが、やり残したことはある。
 僕を、愛してほしかったなあ…
 それだけには蓋をしないで、心の片隅に残しておこうと思う。
 旅立ちの日に希望の火は灯らないが、僕は電車のタラップに足をかけ、彼女に振り返った。
「さよなら。愛しているよ、希を。」
 看護婦の下で緑川は僕を見上げる。夏の日差しを見るように、目を細くして。
 それは、その時間だけが、僕と彼女を繋ぐ最後の時間であって、
 永遠を見た。
 性能の悪いスピーカーから発車ベルが流れて、初老の駅員が発車を告げる。
「まもなく発車です、黄色い線の内側までお下がりください。別れなければまた会うことはできないですからな」
 きっと、看護婦が事の経緯を話したのだろう。僕は思わず身体を引込め、彼女を視線から外した。長距離列車のドアが音を立てて閉まり、外の世界とは別離する。
 そして、再び彼女を見たとき―
 彼女が離れ始めた世界で何か言ったのだ。その言葉は決して届きはしない。だが、僕の心には確かに響いた。
 その途端にその場に崩れ、ドアの窓にすがりつく。すでに電車は走り始めていて、あの港町も、草の匂いのする駅舎も、そして彼女の姿ももうどこにもなく、
目の前にはただ海が横たわっていた。
 僕は止めどなく涙を流して、ドアを拳で何度も何度も、車掌がやってくるまで叩いた。
 思い出したよ、希。あの歌の続きを…
「I ain't got nothing but love, babe」
 その、光だ。

 今は幾らか落ち着いて、車窓を海が流れて消えていく。僕と言えば、いつか彼女と見たフランス映画が頭に浮かんでいた。
その結末がビターエンドだったかを、僕は必死に思い出そうとしている。
 バスが来た。
 僕は彼女の手を取ってタラップを上がり、座席に腰をかける。
「何処に行くの?」
 そう楽しげに尋ねる彼女に、僕は物憂げに答えた。
「二人で行けなかったところだよ」
 バスには老人が多いが、中には赤子まで居て座席の上で瞳を閉じている。それを愛おしそうに見つめる老婆。
 流れる走馬灯のような景色を見ながら、彼女は独り言を繰り返す。
「西海岸は駄目よ、ジュリアが言ってたわ。東海岸ならニューヨークだけでいいわ。けど、東洋人が身の丈を知らないと思われるかしら」
「もう、関係ないさ」
「人なんて分からないわ、人の心なんて風向き一つで変わっちゃうもの」
「そんなもんかな」
「結局、人も生き物なのよ。本能に抗えない。それを超越すれば、あるいは神…」
「もういいんだ。関係ないよ」
 哲学の飯事ままごとは飽きたんだ。
 バスは停車しては人を乗せる。だが、それが混雑に繋がることはなかった。そんな真白なバスの車内で、僕と彼女の話声だけがしている。
「あら、窓を閉め忘れたかしら」
「窓?」

「うん、去年貴志子ママから貰った多年草の…なんだったかしら、けど毎年花を咲かせるのよ。綺麗な群青でね、それを見てたの」
「君はまだあの坂の上のアパートなのかい?」
「ええ、意外に副都心が一望できるのよ」
「僕はあの裏山の墓地に行ったことがあるよ。空が広くて、京都とかニューヨークみたいな広さだ。友人の墓だったかな、覚えてないや」
「あら、酷い人。誰の墓か忘れたなんで、本のタイトルを忘れるのと同じよ?」
 バスは緩やかな坂に差し掛かって、少し揺れた。肩と肩がぶつかり、彼女と顔を見合わせて笑った。どうしようもないね、って。
 やがてその坂が終わって、このバスの終着点も近いのだろう。名も知らぬ乗客たちが立ち上がり始める。僕も彼女の手を握って、握り返してくれるのが嬉しくて、放さずにいた。
 行き着いた先は、綺麗な砂浜だった。きめ細かい砂で、色も鮮やかでそれが弧を描いて遥か彼方まで続いていた。
 目の前の海こそ写真のようなコバルトブルーで、目立った白波もない。乗客たちは皆降りてきて、砂浜にその歩を進める。先ほどの老婆は、赤子をその胸に抱いて海へと向かっている。皆一様に安堵の表情を浮かべて、それでいて何も喋らない。それが奇妙に思えて僕は立ち止まり、彼女も止まった。
「どうしたの?」
「いや…このままでいいのかって、思って」
 彼女は僕の顔を窺い、そして気の晴れた顔をして僕の手をまた握りしめた。
「海、」
 見上げた僕の瞳は、きっと赤く濁っていたに違いない。
「行こうよ」

 少しずつ、海に足を踏み入れると、一定の温かさに包まれていくのが分かる。それが嬉しくて、僕たちは顔を見合わせて笑った。
 周りの人たちも今は水平線の彼方を見て、海へと歩を進めていく。
 僕にも見える。
 その、光が。

 あとがき 

 文集よりも自由に子供達の作品を紹介したくてWEB版の作品集を作りました。文集と違うところは全員の作品が載るわけでないこと。文集で紹介できるのは、各自一作。しかも怠慢な塾長の蝸牛のような作業スピードもあり、一~二年に一作です。これでは毎週のように書きまくっている生徒の作品が埋もれてしまう!ということで、文集よりは肩の力をぬいて、申し訳ありませんが予算もかけずに、「書かなきゃ、から書きたいへ」のWEB版を季刊誌として創刊します。塾長の作業スピードが遅いことには変わりはなく、本当に季刊誌となるのか、どんな内容になるのか、全く読めませんが、乞うご期待ください。

二○一一年夏 UEDA学習塾 塾長 上田和寛

 紙本制作にあたってのあとがき

 以前にWEB版の作品集としてまとめたものを紙本にしてみました。制作にあたっては、『子供達が自分の作品が本になる喜びを実感しながら、書くことをもっともっと楽しんでくれますように!』と願いを込めたつもりです。もちろん書いた本人だけなく、偶然にもこの本に触れて下さった全ての皆さんに、ここにある作品を楽しんでいただければ幸いです。
 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

二○一二年春 UEDA学習塾 塾長 上田和寛

書かなきゃから 書きたいへ 2011夏号

2011年8月27日 発行 converted from former BCCKS

著  者:UEDA学習塾
発  行:UEDA塾文庫

bb_B_00100995
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発行者 BCCKS
〒 141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
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