spine
jacket

とある研究都市にある、重力研究所。そこの地下施設で働く酒井の元に、素粒子研究所から、ひとりの女性が尋ねてくる。全く面識のない彼女から告げられたのは、謎の天体〈ゴースト〉を巡る、奇妙な共同研究の申し込みだった。

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時空間エンタングル

悪紫苑

AXION物理学研究所



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 目 次


   一、見知らぬ共同研究者


   二、量子テレポーテーション


   三、タイムマシン


   四、コンパクト星


   五、サイトカイン・スイッチ


   六、時空間エンタングル


     あとがき




 ニコニコ動画で、

    ── 読みたいかもw
    ── 読んでみたい!
    ── 読みたいW
    ── 読んでみたいです!w
    ── 読みたいw

 と言ってくれた5名に捧ぐ……。







一、見知らぬ共同研究者


「先輩! お客さんっすよ」
 端末のメッセンジャーから関山の声が響き渡る。俺はソファからカマドウマのように跳ね起きた。いや、決して寝ていたわけではない。ちょっと横になっていただけ……としておこう。半身を起こしたままディスプレイを見れば、関山のニヤけづらが、普段の三割増でポップアップしている。まあ、こちらはサウンド・オンリーだから、向こうにはこちらの状況は見えていない。
「お客さん? 誰だ」
「オンナのヒト……ですよ。駄目だなぁ、彼女連れてきちゃあ」
「はぁ?」
 それっきり、ウインドウは閉じた。相変わらず、話を聞かないヤツだ。振り返って地上直通エレベータに目をやると、下降中を示すLEDがせわしなくまたたいている。3分しない間に、その〝お客さん〟はここにやってくるだろう。関山はいつもあの調子なので、グダグダな対応はあまり気にならないのだが、もう少し地上うえで引き止めていてもらいたかった。どうも昨日の奇妙な二日酔いの所為せいか、まだ頭が重い。エレベータを睨みつけながらTシャツの上に上着を羽織はおり、さらに白衣を着るべきか否か、しばらく沈思黙考ちんしもっこうする。

 そもそも、こんな基礎物理学の研究所……それも、地下深くのコアな観測施設に女性がやってくること自体が珍しい。関山の口調から推測すると、おそらくたった一人でだ。仮に団体さんならば、それがオバチャンの団体だとしても『ファンのがいっぱい来ましたよ』……とかなんとか、下らないことを言うに決まってる。経験則で考えて思い浮かぶのは、お供を引き連れて視察にやってくるお偉いさんや、観測機器をチェックしに来た会計検査員とかだが、今回その可能性は限りなくゼロに近い。彼らが下見無し、アポも無しで突然やってくることは考えられないし、それならさすがに関山もあの口調ってことはない筈だ。
 イレギュラーな訪問者としては、ここ数週間程度、例の異常重力波検出の話題で、科学担当の記者がカメラマンを連れて来たりすることもあった。あん時は迷惑この上ない状態だったが、それも過去の思い出になりつつある。天の邪鬼あまのじゃくなことに少々寂しい。もう少し笑顔で対応すればよかったかな……なんて、今更ながら思う。一度だけ某局の美人アナウンサーが来たことがあったな。せっかくのお近づきのチャンスだったのに、美味おいしいところは所長がみんな持っていってしまった。ただ、取材する側としても話題が難し過ぎるんだろう。専門家が見ればかなりトンチンカンな表現で、新聞の科学欄に小さく記事が載ったのを最後に、マスコミ関係者はパッタリと来なくなってしまった。
 そうなると、この時期、ここまで下りて来る可能性があるのは同業者カリーグだ。何故か困ったことに変な外人の場合が多い。それはそれで、記者とは別な意味で、相手をするのは面倒なのだが、じゃの道はへび。前段をスッ飛ばし、核心部のみで話が通じるだけマシと言うものである。科学の話なら、最近の女子高生と話すよりも、他の惑星ほしの科学者とする方が、意思疎通が早い……と言ったのは誰だったか?

 ……ということで、白衣はめにする。
 白衣を着るのは言わば素人向けの演出だ。ばけ学屋や遺伝子屋ならば、白衣を着ることにそれなりに意味がある。要するに色のついた液体を扱う分野だ。化学屋の熟達研究者ウィザードともなると、相手の白衣の汚れだけを見て研究分野を言い当てるという技を会得えとくしている。分光器や偏光板を使わずにだ。ところが、物理屋の場合、理論屋にしても実験屋にしても白衣の出番はない。逆にあのヒラヒラしたすそが機器に引っかかって危険なことすらある。まあ、実験屋の制服ユニホームとして採用して良いのは、いわゆる作業着ツナギが最適で、事実、お揃いの作業着を作っている研究室もあるのだが、対外的にはあまりイメージが良くない。……ていうか、何かの作業員と間違えられることが多い。作業着なんだから当然だし、実際、細かい実験器具とかは手作業で作ったりするから、『実験屋=そのスジの職人的作業員』と思った方が良いのである。

「あの……?」

 エレベータの前で営業用のスマイルをして〝お客さん〟を待っていた俺は、到着した彼女の姿を見てちょっぴり後悔した。彼女が白衣を着ていたからである。そして、それがまたやけに似合っている。俺か着ていればペアルックだった……なんてな。まあ、そんなことは、この際どうでもいい。
 彼女の胸ポケットからぶら下がっている、水素3d電子雲をかたどったホログラムIDカードは以前どこかで見たことがある。研究都市内で見かけたと記憶しているから、ご近所のはず。少なくとも〝変な外人〟で無くてホッとした。年の頃は三十歳前後に見えるが、ピンセットのお化けのようなヘアピンで栗色の髪をアップにしているがために、姉様っぽく見えるだけかも知れない。
 『あの……?』と言ったきり、彼女は何も言葉を発せず、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。あまりにジッと見つめられるので、さっきまで寝ていた──いや、決して寝ていたわけではないのだが──ソファの縫い目あとが顔に残っているのではないかと心配し、つい頬をなでる。しばし沈黙。だが、急遽きゅうきょ取り繕った営業用のスマイルは長くは続かない。頬の筋肉がプルプルしてくる。それを考えると、受付嬢の張り付いたような笑顔ってのはホントにすごいなぁと、妙に感心しながら沈黙に耐えられなくなり、唐突に始まった〝にらめっこ〟に負けたのは俺の方だった。

「えーっと……。事前に何か約束とかありましたでしょうか?」
 そういえば、ここんトコ忙しくて、ろくにスケジュールを確認していない日々が続いていた。異常重力波検出についてマスコミ関係者の訪問がなくなったとは言え、問題が解決した訳ではない。発生源がさっぱり分からないことに変わりはないのだ。むしろ、これからが我々の仕事である。所長が煩雑はんざつなマスコミの相手を一手に引き受けてくれたお陰で、俺は、解析する最低限の時間をかせげ、発生源の特徴や輪郭りんかく程度は分かってきた。一応、論文も書けた。だが、『発生源の天体はコイツだ!』……と断定できるまでには至っていない。困ったことに我々は、他機関に先んじて、コイツの位置を特定すべき理由がある。そうでなければ、国内的にも国際的にも存在意義が無いのだ。どこかに出し抜かれて、ガチな精密観測勝負となったら、我々にはもはや勝ち目がない。
 そういうわけで宿舎に帰らず、ほぼ泊まり込みでここにこもって3ヶ月。まずは曜日の感覚が無くなり、続いて日付。最後に昼夜が分からなくなった。時計は見ているが感覚が湧かない。お昼の正午と思ってランチに行ったら、真夜中だったりとか……。
 およそ体内時計ってモンは、太陽から離れると如実に狂うものらしい。

「いえ……、特に約束はしてないですが……」
 彼女はそう言った後、戸惑うような、はたまた悲しいような顔をして、申し訳なさそうに言葉を付け足した。
「……あたしのことは覚えていませんか?」
「へぇっ?」
 自分でも頓狂とんきょうな声を上げたと思う。てっきり同業者カリーグか何かの見学者で、この施設を見に来たものだとばかり思っていたが、彼女は施設に用があるのではなくて、俺自身に用があるらしい。
 『知らない』……というのは簡単だが、単にど忘れしているだけなのか? いやいや。自分で言うのもなんだが、親の名前を忘れても、ストライクゾーンの女性の顔と名前は忘れないという自信がある。焼きそばパンくらいなら賭けてもいい。もしかすると、おさないときに生き別れた姉妹とか、そんなのか……と、少し妙な方向にパニクっていると、彼女は続けてヒントをくれた。
「わたし、隣の素粒子研の者なんですが……、昨日のことは覚えていませんか?」

 思い出した! いや、正確に言えば、思い出してはいないのだが、おそらくこういうことだろうという状況は分かった。これはマズい。非常にマズい。

        *  *  *

 昨日は、おそらくかなり酒に酔っていたのだと思う。『思う』というのも自分のことなのに変な話なのだが、そうとしか言いようがないのだから仕方ない。ちょっと一杯のつもりが、調子に乗ってガンガン呑んで、途中からフッと記憶が無い……というのならよくある話だが、昨日の場合はその逆で、どこで呑み始めたのかが全く思い出せないのだ。今現在、頭が重いのも、体が少々ダルいのも二日酔いの所為せいだと思っているが、それすら確たる証拠は無い。全て状況証拠から類推るいすいした結果だ。要するに間接的な証明でしかなく、日付の入った飲み屋のレシートとか、クレジットの引き落としとか、直接的な確証は何も手元に残っていない。
 だが、目が覚めた後のことはよく覚えている。目が覚めたら、何か薄暗い場所で、ソファともベットともつかないものに寝ていた。完全な仰向けではなく、リクライニングを目一杯倒したような浅い角度の座席シート……と言ったところか? 何やら白い光を見たような気がする。ハッと気付いて飛び起きようとすると、今度は目から青白い星が飛び出した。オデコを思い切り何かにぶつけたようだ。天井が低かったわけではない。肩から上、頭をおおうような装置がそこにあったのだ。視界はさえぎられているが、靴は履いていて、足は床に着いていることが感触として分かる。ズリ下がる様にして円筒形のおおいの下まで首を引っ込める。

「大丈夫?」

 確か、そういう声がした。それが彼女の声だったのだ。おそらく……だけど。見上げた先に彼女の顔がある。場所は分からない。何故そこに寝ていたのかも分からない。要するに、置かれた状況がさっぱり分からなかった。
 正確に言うと、今日、ここに尋ねて来た彼女が、その時の彼女だったかどうか……俺は断定できない。周囲が薄暗かったし、彼女の長い髪は下ろされていて上から覗き込むような体勢だったから、顔がよく分からなかったというのが本当のところである。
 その状況で、俺は何を思ったか……。例えて言うなら、酔っぱらって目が覚めたら、何故か駅のホームで、既に朝のラッシュアワーが始まっており、通勤客の痛い視線が突き刺さっていたような……。そういう経験はないのだが、そういう状況に近い。
 その場で二度寝するほどの度胸もないし、肝も座っていない俺がとっさに取った行動は唯一つ。その場から逃げだすことだ。

「すみません!」
 俺はそれだけ言うと、彼女に目も合わさず──と言うか、合わせられないだろう普通──ペコリと頭を下げ、急いであたりを見回し、目の前にあるドアに向かった。部屋はさほど広くなかったと記憶している。今思えば、病院の検査室のような部屋だった。ドアを後ろ手で閉める。正面は冷たいコンクリートの壁。やはり薄暗い。左右に続く通路はやたらと長かった。左手遠くに明かりが見え、エレベータらしきドアも確認できる。俺は一目散でそちらに走り出した。
 走りながら全身を確認してみる。ひょっとすると、あそこは本当に病院の一室で、俺は車に跳ねられたとか何かで運び込まれ、精密検査を受けていた最中だったのかも知れない。頭を強く打って直前の記憶が無いとか、ドラマではよくある話じゃないか。大抵は、そこからロマンスが始まったりという展開なんだが……。おそるおそる後頭部を触ってみたが痛くも何ともない。手が血まみれということもない。オデコが痛かったが、これはさっきぶつけたのだから仕方が無い。体の方は走れているのだから大丈夫だろう。服装も普段の外出時と同様、ジーパンにTシャツ。多少汚れて、よじれていたりするが、破れてはいない。
 エレベータまであと少しという所で、突然風景が変わった。両側に続いていた壁が突然無くなったのだ。長い通路はそこから吊り橋と化していた。下を見ればかなりの高さであることが分かる。ビル3階分の吹き抜けと言ったところか? 下には、何やら物々ものものしい機器類が並んでいる。
「加速器?」
 こう見えても物理屋のはしくれ。上から見たそれが何であるかはすぐ分かった。エレベータの位置を起点として、通路の下に沿って真っすぐ伸びたそれは、おそらくドリフトチューブ型の加速器だろう。脇には超伝導トロイダル・コイルなども置いてある。ただ、加速器にしてはそれほど大きくはない。線形だしな。だが、この加速器が、実はより大きな加速器の前駆ぜんく装置という可能性だってある。巨大なものは数十キロの円周を持つから、全体を一望することは不可能だ。群盲ぐんもうぞうでるがごとし。

 一体全体、何の施設だここは?

 まあ、病院という仮説も消えた訳ではない。シンクロトロン放射光や陽子銃を使った医療施設を持つ病院も実在する。ただ、それにしては配管や接合部がむき出し過ぎる。それに、壁を取っ払って機器類を見せる必然性が全く無い。病院のそれは、患者に不用意に恐怖心を抱かせないように、この手のものは極力隠すものだ。医療用の核磁気共鳴装置NMRだって、〝核〟と名前に付くと妙な誤解を与えるってんで、磁気共鳴画像装置MRIって言い換えるほどだ。
 ……と、今はそんな下らない考察をしている場合じゃなかった。俺はエレベータに到着するとボタンを連続十回以上押し、ようやく開いたドアに体をねじ込むようにして入り、今度はクローズを連打。階上へと向かった。そうだ。この施設も地下にあったのだ。時間にして三分くらいは乗っていたように思う。つまり、ウチの施設と同じくらい深い地中だったということだ。さらに、このエレベータ。ウチの施設と同じ特徴もあった。他では滅多に見ることの……いや、感じることの出来ない特徴である。エレベータが動き始めた瞬間、真下に感じるはずの重力加速度の増加がナナメだった。微速度で電車が動き出したようなあの感じ。少しよろけそうになる。
「斜行エレベータ?」
 このエレベータは真上に上っているのではない。山の斜面を登るようにナナメに上っている。もっとも、外の風景が見えているわけではないので確証はないが、まず間違いない。俺はいつもそれに乗っているから、体が覚えている。
 エレベータを1Fで降りると広いエントランスに出る。真夜中なのか、人気ひとけがない。ガラス張りの出口に向かうと見慣れたゲートがある。研究都市内の公共機関出入り口に必ずある、共通ID認証ゲートだ。俺はポケットをまさぐり、IDカードが入った財布を確認して安堵あんどした。ゲート脇には守衛室がある。走りたかったが、普段通りに、普段通りに──もしかすると足と手が同時に出ていたかも知れないが──なるべく普段通りに、ゲートを通過した。キュラランといういつもの音が響く。まわりが静かなだけに、いつもの五割増で鳴ったような気がする。本当に小心者だな、俺は。幸いなことに、出口に到着するまで、守衛の姿を見ることも、後ろから突然声をかけられることも無かった。
 自動ドアを二つ抜けると、ムッとする外の熱気が肌に伝わる。同時に蝉の大合唱がせきを切ったように耳に届いた。夜中なので幾分涼しい筈だが、普段は地下施設の快適な環境にいるだけに、夏の暑さはこたえる。もっとも、地下施設が寒いほど涼しいのは、人間のためじゃなくて機械のためだから、三日もこもっていれば喉はガラガラ、人間フリーズドライ状態になるのだが……。
 エントランスから出た先は、構内道路が真っすぐ伸びていた。左右の並木を横目に見ながら正門まで足早に歩く。自動車用の門扉もんぴは閉まっていたが、横の通用門を出ると、目の前に運河のように黒くて広い道路が左右に走っている。そしてその道路の向こう側、見慣れた巨大な恒星干渉計のアンテナ群を見て、自分がどこにいるのかを始めて理解した。
 そう。俺の勤める重力研究所の道を挟んだ正面。お隣の素粒子研究所だったのだ。

 つまり、こういうことだろう。
 俺はどこかで酒を飲み、重力研に戻ろうとした。が、道路を渡って向こう側に行くべきところを反対に曲がり、そのまま勘違いして、お隣の素粒子研の地下施設に下りて寝てしまったのだ。斜行エレベータ……それも、時間にして三分もかかる直通エレベータという、普通ではあり得ない共通項が、間違いに気づかなかった原因のひとつになっていたのかも知れない。お隣さんにもあんな地下施設があるとは思っていなかったが、元々ここの地下は、レアメタルか何かの鉱山の跡地らしいから、あちこちに掘り進んだ跡がある。これら空洞を有効活用して地下施設は作られているから、隣接していてもおかしくはない。
 また、共用のIDカードさえあれば、この当たりの研究施設には、サーバールームなど特別な部屋を除き、入ること自体は難しくない。道路の向こう側に渡っていれば問題無かったのだが、何しろジャンボジェットだって降りれそうなだだっ広い道路である。研究都市として計画的に作られたこの道は、ほとんどが直線で構成されており、一般道路なのに自動車はいつもハイウェイさながらに走っている。走りやすいので免許取り立てのやからが練習がてらに走っていて事故が多いという笑えない噂もある。そういうヤツに限ってオート・ドライバーを切ってたりするから始末に負えない。また、道路でへだてられた土地区画自身も、これまた馬鹿でかい。正門から横断歩道のある交差点までは最短でも300mほど離れていて、徒歩で移動する人間は想定外と言わんばかりの都市計画である。
 なので、道路を横切る場合、交差点まで迂回するような奇特きとくな聖人君子はほぼ皆無で、車の往来を見計らって、文字通り反対側へダイブするのだが、タイミングを間違えて平均台みたいに狭い中央分離帯に取り残されたりするともう悲惨ひさんだ。命の危険を感じながら、猛スピードの車が起こす風圧に引きずられそうになるのに耐え、信号の変わり目までしばし待つしか無い。おそらく、本能的にそういう状況を避ける意識が働き、俺はお隣に迷い込んでしまったのだろう。ある意味、それは正しい判断だったと言える。夜道で千鳥足ちどりあしという状態で──といっても覚えてないのだが──道路を渡るのは自殺行為に等しい。

 いや、そんなことは今となってはどうでもいい。事故による怪我はどこにもないのだから……と、一瞬考えて、オデコに手をあてると少しばかり痛みがあった。素粒子研の地下施設で装置に頭をぶつけたのは確かなようだ。あれは夢だったのかも、いや夢であって欲しいという願いは、物証ぶっしょうを得て、もろくも崩れ去った。もしかすると、彼女がジッと見ているのはオデコの打ち身なのかも知れない。そういえば、昨日から一度も鏡を見てないが、実は赤くれているとか……?
 這々ほうほうていで逃げ出した俺は、彼女には名乗っていないし、この研究所に勤めているとも何も言っていない。それなのに彼女は早々とここを突き止め、さらに、わざわざ足を運んだのだ。これを非常にマズイ状況と言わずしてなんと言うのだ。論理的に考えれば、ゲートを通ったときのIDカードの情報からここを割り出した……と考えることも出来る。だが、そのためにはセキュリティ部門に状況を説明して許可をもらい、ゲート通過ログやら防犯カメラの映像やらを検索して探し出す必要があるわけで、よほどのことが無い限り、わざわざそんな〝犯人探し〟をすることは無いだろう。
 もしかして、俺は何かとても〝よからぬ事〟をしでかしたのだろうか。それならそれで、覚えていないのは勿体もったいない。いやいや、そういう問題では……。

        *  *  *

「すっ、すみません。昨日は相当酔っていたみたいで、あまりよく覚えていないんです。隣の研究所なので間違えて入ってしまったみたいで。何か……、何か機材を壊したとかあれば弁償べんしょうします」
 さすがに『何かあやまちを犯したのでは』……とは言えなかった。彼女は相変わらず、戸惑うような表情をしている。少なくとも怒ってはいないようだが、それが余計に色々と怖い。
「ああ、いえ、そういう話ではないんです」
 彼女は左上を見ながら首を傾け、言葉を探している様子だった。
「じゃあ、その前のことは覚えています?」
「その前……ですか?」
「ええ。一昨日おとといとか。一週間前とか。……3ヶ月前の出来事とか」
 思わず、『一昨日の晩ご飯はなんだっけ』と自問自答してみたが、それはすぐに思い出した。その晩のコンビニ弁当の残骸ざんがいが、満載されたゴミ箱からチラリと頭を出していたからだ。
 昨日の一件以外、取り立ててヤバそうなことは記憶に無い。なにしろ忙しかったのだ。肉体的にではなく精神的に。外出するのは飯の時くらいだった。出前が出来ればいいんだけど、場所が場所だけにそれは無理。ここ一週間の防犯カメラの映像を、日付別でシャッフルしたとしても、おそらく区別が出来ないんじゃないだろうかという缶詰状態が続いていた。
 それはそうと根源的な疑問として、彼女に会ったのは昨日が始めてなんだし、その前のことを聞いて何を知りたいのか?
「えーっと、ここ数日は研究室にこもりっきりで資料を整理して……」
「重力波発生源の論文ペーパー
「あっ、はい。……って、ご存知でしたか」
「ええ。知ってます。やはり覚えてないのですね」
 彼女はひとつ小さなため息をついて、また左上を見た。考え事をするとそこを見るのがくせらしい。今度は右手をあごに持っていくというオプション付きだ。これで赤いセルフレームメガネでも装備してアヒル口にすれば、そのスジには受けるに違いない。……スミマセン。非常事態だと言うのに、下らないことばかり考えて。
「今日はその関係でここに来たんです」
「はい?」
「その重力源の件で共同研究をしたいんです」

 どうも展開が飲み込めない。疑問符がいっぱいだ。
 彼女の話によると、俺は昨日、共同研究をするための打ち合わせで素粒子研まで出向き、途中色々あって、何故だか知らないがあちらの地下施設で眠り込んでしまったらしい。話せば簡単なことながら、そりゃ無茶苦茶な展開だ。問題はその〝途中色々〟の部分なのだが、彼女自身が伏し目がちに『途中色々……』と言ったのであって、こちらから『どんな?』とはさすがに怖くて聞けなかった。どう転んでも非はこっちにあるに決まっている。彼女が〝不問ふもんす〟と言う態度を取るのだから、その意をありがたく受け取るべきだろう。
 それにしても、共同研究の申し入れなんて重要なことをきれいサッパリ忘れるものだろうか? それに、申請書は? 所長への報告は? 少なくとも、俺だけの〝ど忘れ〟で済む問題ではない。話はどこまで進んでいるんだ……。

「では、改めまして、私、素粒子研究所、量子情報処理研究部量子コヒーレンス研究室で主任研究員をしている、葵ヒカルと言います」
 彼女はそういうと、白衣の胸ポケットから赤い名刺入れを取り出し、一枚の名刺を差し出した。右上に天使が弓をかまえたマークがあり、矢が2本つがえてある。よく見ると、矢の向きは互い違いになっていた。さらに遠目には弓と矢でΨ記号になっているように見える。なるほど、量子っぽい。肩書きを見て、俺は改めて彼女の年齢が気になった。
「あぁ。えーっと」
 俺は、ゴソゴソとポケットから、折りたたまれてペシャンコになった財布を取り出し、中でプレスされて表面がテカテカになった名刺を取り出した。
「重力研…重力波計測担当主任研究官の酒井信一です……」

 このへんで話を整理すべきだろう。そうだな。すべての始まりである3ヶ月前から話そうか。あの異常重力波検出の時から──。

        *  *  *

 そもそも俺の勤めている重力研究所というのは、その名の通り重力を研究する研究所なのだが、中の部署によってその研究内容は驚くほど違う。共通項はどこかで重力研究につながっているというだけだ。
 地に足が着いた分野としては、万有引力定数の精密測定や、反物質に働く重力の測定などがある。地上での実験や観測で全てかたが付く……つまり、実験室内で研究が閉じているという意味で地に足が着いているし、数百年前のキャベンディシュの時代から、根本的な測定原理や手法が変わっていないという点でも地に足が着いている。測定機器は当時と比べられないほど巨大化、あるいはハイテク化しているのだけれども……。
 一方、地べたではなく宇宙に目が向いている分野もある。重力レンズを引き起こす天体の同定、銀河衝突におけるダークマターの挙動きょどうシミュレーションとかだ。こちらは、実験室内に閉じこもっていては何も出来ない分野だ。そもそも、まず第一に、観測対象となる天体を探さなければならない。いくら高性能の機器を作ったって、観測するものが見つからなければ意味が無い。ラジオ局が無ければラジオがあっても役に立たないのと同じである。観測対象は超新星みたいに突然現れるものもあるし、砂浜に埋まっている宝石みたいに、地道に探す必要があるものもある。まずは見つけることだ。人よりも早く。
 見つけるったって、皆が皆、望遠鏡を毎日覗き込んでいるわけではない。何年も昔に公開された観測データから、斬新ざんしんな解析手法で新たな天体を〝発見〟することだってある。この場合、名声を得るのは、データの提供者ではなく、解析者の方である。例えば、あのヨハネス・ケプラーも、師匠ティコ・ブラーエの観測データから、ケプラーの法則を作ったのであるが、ブラーエとケプラー……どちらが有名かを考えてみれば一目瞭然である。

 まあ、一事が万事、そういうことだから、観測データは最終的には公開するのが原則としても、最初の数ヶ月から数年は、汗水らして観測した観測者・機関の手元に置かれ、論文としてまとめ上げられ、もうこれ以上新しい鉱脈が発掘できないだろう……という状態になってから公表されることが常だ。要するに、観測データは、しゃぶり尽くされてから世に出てくるのである。学会への論文発表と同時に、論拠ろんきょとなった観測データが公開されることが多いのは、こういう理由による。公開された観測データはしゃぶり尽くされた後のデータなんだから、そこから新しいネタは出てこないんじゃないか……と思われるかも知れないが、実は往々おうおうにして、無関係な研究者からポロっと新発見が出てきたりするから面白い。才能ある観測屋が必ずしもデータ解析能力にけているとは限らないのだから、仕方が無い事とは言え、当の観測者にしてみれば、このような事態は非常に悔しいだろう。
 では、虎の子の観測データを表に出さず、しゃぶりにしゃぶって、しゃぶり倒せばいいじゃないか……というと、これもまたままならぬのだ。観測対象は天体であり、おおい隠せるものではない。そして、観測機器を持っているのは特定の機関だけではない。国内でも文科省直轄から大学法人系、民間まで色々とあるし、当然ながら国外の機関も多数ある。さらに、多国間の国際協力で立ち上がった観測施設もある。要はオリンピックと同様、競争だ。虎の子の観測データだからと言って、公開せずいつまでも抱え込んでいたら、他機関の観測データを用いた論文が次々と発表され、結局、発表の場が無くなってしまうことになりかねない。文字通り、宝の持ち腐れ状態だ。
 この状態はある意味、魚のづくりに似ている。魚は生きているうちに、手早く調理しなければらない。盛り付けが芸術の域に達するまで時間をかけていると、魚は死んでしまって意味が無くなる。だからといって、ブツ切りをドサッと載せただけでは誰も評価しない。そのサジ加減が難しいのである。機関によっては、最初から調理を手放したところもある。観測データをリアルタイムで解放しているのだ。釣り人が必ずしも料理人である必要は無い。魚を釣り上げる漁師という商売が成り立つのであれば、その魚を買ってさばく料理人という商売もまた成り立つ。

 で、俺の仕事である重力波計測というのは、非常に重い天体……例えば、中性子星やブラックホール同士の衝突などで発生する重力波を、共振型重力波望遠鏡を使ってとらえるのが仕事である……というと、何やらカッコイイ。一般の人にこの話をすると、『何かよく分からないけど、スゴい』と言う反応が返ってくる。よく分かんないなら、スゴいかスゴくないかも分からんだろうがっ……と、若い頃は心の中でよくツッコミを入れていたが、最近はもう慣れた。要するに、この言葉を分かりやすく翻訳すると、『いやぁ、その話題はこれ以上無し。聞いてすまんかった』ということだ。それが証拠に、スゴいと言った割には、その内容を分かろうとしてさらに突っ込んで聞いてくる人はほとんどいない。例えば、書画展とかに行ってミミズがのたくったような書を目の当たりにした時、『達筆過ぎて分かんないなぁ』というような反応のたぐいに似ている。
 そりゃあ、『電磁気で出てくるベクトルポテンシャルのローレンツゲージ条件のアナロジーを、線形化したアインシュタイン方程式に当てはめて重力波を導出する』とか、『電磁波は双極子放射が存在するが、質量双極子の時間変化項は消えてしまうので、重力波は4重極放射が最低次モードである』とか、瞳キラキラで話されても、一般の人はどう反応していいやら困ってしまうだろう。
 もっとも、最初から〝中学生でも分かるように話せ〟と前置きされたなら、そんなに難しい話ではない。質量を持った物体が振動すると、重力波という波を周囲に放ち、その波を受けた物体は、つられて振動する……要はそれだけである。そして、俺の主たる仕事の一つが、この観測装置──共振型重力波望遠鏡──のメンテナンスなのである。あえて、共振型重力波望遠鏡による重力波観測が仕事…とは言わない。観測はほぼ自動だ。操作の仕方さえ覚えれば誰だってできる。こいつの〝世話〟の方がはるかに大変なのだ。

 この装置の原理は単純極まりない。星の衝突で生じた重力波は時空を歪ませながらやってくる。その歪みに合わせて物体が振動する。だからその物体──調和振動子──の振動を計れば良い。ただ、その振動が恐ろしく微弱なのだ。地球くらいの大きさの物体でも、その振幅は原子一個分に到底及ばないレベルにある。重力研究所の地下最下層にあるこの装置は、現役で稼働している他の装置に比べると古い部類に入り、検出感度もあまり良くない。もちろん、改良はしている。熱雑音を減らすため50mKまで冷やす3He-4He希釈冷却器や、折り畳み振り子とマグネットダンピングによる防振装置の追加、そして、検出器ディテクタも最新のSQUIDに付け替えたりしているが、そもそも、共振型はレーザー干渉型に比べて大型化に限界がある。要は数トンもの巨大なオモリが、カーボン・ナノチューブの先にぶら下がっているのだ。
 親父ギャグをあえて言えば──そして、そのギャグはお偉いさんの視察のときにウケが良いのだが──俺の仕事は『オモリのおもり』なのである。
 重力波望遠鏡は共振型のほかにレーザー干渉型と呼ばれるものがある。レーザーを遠く離れた鏡に向かって照射し、反射して戻って来た光を測定する方式で、経路の途中の時空が歪めば光の往復距離が変わるので、それを干渉計で検出する方式である。大昔のマイケルソン・モーレー型干渉計と原理的には何ら変わらない。レーザー干渉型で必要なのは、レーザーが往復するための長い腕である。腕と言っても、必ずしもそういう〝筒〟が必要なわけではない。要は、光が往復する長距離の〝空間〟があればいい。反射させるべき鏡をなるべく遠くに置けばいいのである。空間には重さが無いため、いくらでも巨大化……というか、長大化できる。装置全体は軽いが大きな空間が必要となれば、目指すは宇宙空間である。光速度を変化させる大気が存在しないってのも、宇宙の魅力だ。元々真空だからポンプで真空引きする必要がない。
 そんなわけで、レーザー干渉型重力波望遠鏡は、地上から巣立って宇宙に舞い上がり、レーザー光源と鏡は数千キロの間隔で羽根を伸ばしているというのに、重過ぎる共振型は飛び立つどころか地に潜り、小さく丸まって地べたに張り付いている。目的は同じだというのに、文字通り雲泥うんでいの差である。3年に一度の国際較正キャリブレーションシンポジウムとかに出席すると、研究者の性格も、レーザー干渉型のヤツらは大風呂敷を広げる傾向がある一方、共振型の方は真面目で重箱の隅をつついてつぶすような議論が好き……と、これまた相反するものとなっている。

 そんなこんなで、運命の3ヶ月前。とある重力波が地球をつらぬいた。通常、精度に勝るレーザー干渉型重力波望遠鏡が先にそれを察知し、共振型がそいつの確認をするというのが常だったが、今回は、巨大化できないという共振型の特性が優位に働いた。装置が小さいということは共振周波数が高いということで、比較的小さな天体から発せられる高周波の重力波を捉えるのに適している。ゾウがゆっくりと歩く地響きは捉えられないが、ハエが手をる音は聞こえる……例えて言えばそんなところだ。
 もっとも、宇宙空間にあるレーザー干渉型の利用目的は、宇宙背景重力波の観測に軸足じくあしを移していて、今回のように突発的で小規模な線香花火みたいな重力波に対しては、ハナっから相手にしていない。『オイラはそんな小せぇことは気にしないんだよ』……って言うオーラがにじみ出ているのがちょっとムカつく。
 愚痴はともかく、その重力波の振る舞いは本当に奇妙なものだった。規模としてはそれほど大きくない。重力崩壊型超新星の爆発か、あるいは中性子星連星の合体程度の規模と思われ、年に数回か十数回程度は観測されるありきたりのものなのだが、何故かその周波数と発生位置が安定しないのである。
 もっとも、周波数が変わっていくのはよくあることで、それは互いに回転している星同士が重力波を出して軌道を縮め、次第に早く回転することで説明できる。詳細は『重力波観測概論』などの本を見れば、一番最初に書いてある。チャープ波と呼ばれるこの波は、要はフィギュアスケートの回転と同じだ。軌道が縮めば回転がドンドン速くなっていずれ衝突。盛大にバースト波を出した後、一つに結合マージされリングダウン波を出して落ち着く。一連の重力波を始めて観測した物理学者──名前は忘れた。この前亡くなったんだっけ?──はノーベル賞をもらい、当時は重力波観測フィーバーにいた。重力波望遠鏡の科振費かしんひ予算が潤沢じゅんたくに付いたのもそのころで、重力研の共振型重力波望遠鏡も、この予算で完成を見ている。そのヘンの話は、当時、バリバリの現役研究者だった所長が詳しい。ただ、15年も経てば、今は昔。最近は改良費用はおろか、維持費を捻出するのにも四苦八苦で、5年毎の機器更新理由がなかなか……って、また愚痴になってるな。いかん、いかん。
 要するに、この手の重力波の挙動は、今となっては既にパターン化されており、星の種類や規模によってⅠ型からⅣ型まで決められている。通常ならば、各国のデータを寄せ集めて数日以内に重力波源の天体を特定。光学的な望遠鏡で映像を捉えて定型の名前を付ければ、ハイおしまい。なんと言うか、ロマンもへったくれも無い、気楽ではあるけれど研究所毎の駆け引きも先陣せんじん争いも無い、一言で言えば…そう。つまんない仕事ってヤツだ。
 ところが、今度のブツはひと味違った。通常の連星は重力波を放出しながら次第に速く互いの周囲を回転するようになり、最後に衝突して一つになって安定する。だから、重力波の観測を行うと、次第に周波数が増加した後、その頂点……すなわち衝突時に不規則な波形を出し、その後、徐々に周波数は下がっていくことになる。ところが、観測された重力波の波形は、常に不規則で歪なものだった。Ⅰ型からⅣ型のどれにも属さないのはもちろんのこと、一度下がった周波数が再び上がったりする。いや、そんな生易しいものではない。乱高下らんこうげと言ってよいほどだった。俺の頭ん中のイメージでは、遊園地か何かのコーヒーカップに乗ったバカップルが、ハチャメチャに左右にグリングリン回っているような、連星から『アハハハハッ!』って声が聞こえそうな狂乱ぶりに見えた。つき合ってられない。見なかったことにしてやるから勝手にハシャいどけ。でも、俺はこいつらの監視員だからほっとくわけにもいかないし、どうするよ……て感じ。分かるだろ?
 さらにもっと奇妙なのは、そのトチ狂った天体の位置である。重力波望遠鏡は、名前こそ望遠鏡とついているが、普通の光学望遠鏡や電波望遠鏡と違って、観測すべき天体に装置を向けることができない。あまりに巨大であるか、あるいはあまりに重いかのどちらかだ。そこで、3台以上の装置でそれぞれXYZ軸を担当させ、その出力結果を合わせる事で方向を決定する。昔は共振型同士が集まった国際重力イベント共同研究IGECという連合体コンソーシアムでデータをやり取りしていたが、今はレーザー干渉型のグループと統合されて、世界中の観測データが重力波資料保管センターGW—DACから入手できる。もちろん、当日か翌日に見られるのは、リアルタイムで公開されているデータだけなのだが。
 その日、世界中の多くの重力波研究者──といっても、特殊な仕事だけに人数は知れている。皆、知り合いといってもいい──がGW-DACにアクセスした筈だが、皆一様に驚いたに違いない。俺もその内の一人だ。ディスプレイを見て、リアルに、

「はぁ? どーゆーこと?」

 と、頬杖ほおづえついて固まったくらいに驚いた。……というか、狐につままれた。
 各国それぞれの重力波望遠鏡が指し示すその天体の位置が、てんでバラバラなのである。むろん、世界中に散らばっている重力波望遠鏡の精度には違いがあるし、得意とする周波数や振幅に差がある。装置を動かせないから、設置場所によって得意な方向も異なり、いくら高性能でも本領を発揮できない場合もある。だから、数台分の観測結果の寄せ合わせでは何となくしか分からないことが多いが、十数台の結果を合わせれば、ほぼ正確に発生源の方向を言い当てることができる。ところが、今度のヤツは、合わせれば合わせるほど発散してしまい、位置が全く特定できないのである。
 俺が世話をしている重力研の重力波望遠鏡は、その天体の方向は髪の毛座に近い……と語っていた。早速、各国の電波望遠鏡や宇宙超長基線干渉計VSOP—4の観測データにアクセスして確認したが、その方向に超新星爆発やパルサー同士の衝突マージは確認できなかった。もしかしてと思いニュートリノ望遠鏡のデータも取り寄せたがやはり何も無かった。その逆に、これら光学望遠鏡で、昨日から今日にかけて何か変わったイベントが発生した形跡けいせきが捉えられていないか調べたが、宇宙は平穏無事な一日を過ごしたようだった。要するに、重力波の発生地点と思われる場所に……いや、それどころか宇宙全体を見回しても、該当するそれらしい天体が見つからないのである。反応したのは重力波だけ、光学的には何にも見えず。ほんにお前は屁のような、ああこりゃこりゃ。
 いつしか、この奇妙な天体は、研究者仲間の間では〈ゴースト〉と呼ばれるようになった。多くの観測者が痕跡こんせきを捉えていながら、誰もその真の姿を見つけたものはいない。まさにゴーストそのものである。

 その観測イベントから数日たった頃、重力波バーストの計算機シミュレーションが専門で、その昔、キルギスの片田舎のコンベンションでウォッカを一緒に呑んでヘベレケになった……じゃなかった、共同研究をしたことがあるロシアの研究者、マクシュートフから『オルガンの調子はどうだい?』で始まるメールが届いた。〈オルガン〉というのは、ここの重力波望遠鏡の愛称である。何故〈オルガン〉と呼ばれているのかは後で説明するとして、彼が言うには、〈ゴースト〉自身が奇妙なのではなく、重力波が通過してくる途中の空間の問題ではないかというのだ。なるほど、そういうこともあり得るか……と俺は思った。
 遠方の星からの信号は、遥か遠くの山々がかすんで見えるのと同じで、多かれ少なかれ通過した空間内に含まれる物質、あるいは空間そのものの歪みの影響を受ける。それは暗黒ガス雲だったり、水素原子21㎝波の放射・吸収だったりするのだが、多くの場合は信号を弱めたりノイズを増やす働きをする。日食のように、ある天体の前に別な天体が覆いかぶさってしまうと、後ろからの信号は全く届かなくなる。いわゆる掩蔽えんぺいってやつだ。ただし、掩蔽えんぺいしているにも関わらず、やってくる信号を強める働きをするのが重力レンズである。つまり、〈ゴースト〉と地球との間に何らかの重い天体があった場合、広がっていた重力波が曲げられ、レンズで集められた光のように、地球付近で集結することも理論的にはあり得る。さらに重力レンズ天体が移動していれば、レンズの焦点も移動するので、あたかも〈ゴースト〉が高速に移動したかのように見えることもある。重力レンズ天体の移動速度はそれほど速くなくてもいい。移動して見えるのはあくまで焦点上の虚像なのだから、超光速に移動したように見えることだってあり得る。そんなことで相対論は破綻はたんしたりしない。

 さて、今回の場合、重力レンズ天体はあまり大きいモノではない筈だ。もし銀河レベルの大きさだと、光の屈折が大規模過ぎて、〈ゴースト〉の虚像──〈ゴースト〉のゴーストか。ややこしいな──の移動に数万年かかってしまう。だから、質量はある程度大きいが、比較的コンパクトな天体が〈ゴースト〉と地球の間にあると考えた方がいい。さらに、その天体は普通の光学望遠鏡では中々見つからないという条件が付く。
 考えられる天体は暗黒物質候補天体MACHOである。とは言っても、MACHOという名前の、何やらイカツイ天体があるわけではなく、惑星サイズのブラックホール、中性子星、冷えた褐色わい星などの総称のことで、無数にあるにも関わらず、小さく、かつ、暗過ぎて普通の光学望遠鏡では観測できない。だが、小型ではあるが質量大きいが故に、後方から来る光を攪乱かくらんし、時には重力レンズ効果──マイクロレンズ効果と呼ぶ方が正確だが──で後方の星の光を増光させるのである。原理的には、夜空の星がまたたくのとよく似た現象だ。星がまたたくのは大気のわずかな揺らぎが微小なレンズとして働くからで、星がせわしなく光量を変えているわけではない。重力マイクロレンズ効果による観測は光…要するに電磁波では盛んに観測され、論文もそれこそ星の数ほどあるのだが、なるほど、重力波でも同様の効果が生じる筈だ。この理屈なら、バカップルがコーヒーカップで高速変則回転しているような、ふざけ過ぎている重力波についても説明できるかも知れない。全ては虚像なのだと……。

 俺とマクシュートフは、〈ゴースト〉と、その間にあると考えられる重力レンズ天体の位置関係を徹底的に調べた。要は、この2つの天体を適当に配置し、地上でどう観測されるかを調べるのだが、初期値が適当だから観測結果とは一致しない。そこから少しずつ摂動せつどう論的に星の位置や質量・性質を変えていき、観測結果にフィードバックさせて、結果に近い方を採用するという逆解析を繰り返し行った。ただし、可能となる組み合わせが膨大だからその計算量も膨大で、昨年まで世界最速だった『宇宙シミュレータ』を使ってもほぼ1ヶ月かかった。もっとも、俺の部署での計算機資源割り当ては4ノード分だけで、最新鋭の量子演算モジュールも使えなかったので、限られた中でのやりくりではあったのだか……。

 はてさて、その結果、〈ゴースト〉は回転駆動型の平凡なパルサーで、やはり髪の毛座方向にあり、その前を太陽の100倍程度の質量を持つ中程度のカー・ブラックホールが横切ったと考えれば、ある程度は観測結果を再現できることが分かった。ただし、二つの天体の位置関係には不確定性が多く、完全には特定できていない。さらに悪いことに、光学望遠鏡でその場所をいくら探しても、やっぱり該当しそうな星が全然見つからないのである。
 もっとも、MACHOが中々観測できないのは周知の事実であるし、もしかすると電磁波では全く観測できない冷たい暗黒物質WIMPで出来たボソン星なのかも知れない。ただ、そのヘンをいくら主張しても何やらいい訳がましく聞こえてしまうのは致し方ない。そもそもアクシオンみたいな得体の知れないWIMPが星を作っていると考えただけで、気持ちが悪い。……ていうか、それ以前に、〈ゴースト〉みたいな奇妙な天体の説明に、さらに奇妙な天体を使うっていう手法が既に眉唾物まゆつばものだ。何しろ、論文を書いた本人が言っているのだから間違いない。どうだ、まいったか、えっヘン! こうなりゃ開き直るしか無いじゃないか。
 本来ならば、もう少し解析したかったのだが、この手の研究はある程度いい加減でも先鞭せんべんを付けた方が勝ちである。いや、いい加減な解析であるからこそ早く出す必要がある。二番手になった場合は、より定量的な結果をまとめなければならない。そうなると、アメリカや欧州連合EUあたりの、豊富な予算と計算機資源を持った研究所が有利だ。我々が自由に使える研究施設だけではもはや太刀打ちできない。このヘンの話は、重力波望遠鏡での観測の先陣争いと全く同じ理屈だ。我々は出足の早さやアイデアで勝負するしかなく、力技がモノを言う戦いには挑みようがないのである。ギブミー・マネーと叫んでも予算は採れない……って、やっぱり最後は愚痴か。

 そういうわけで、ほとんど見切り発車のような状態で、俺とマクシュートフの共著論文はフィジカル・ソサエティーの広報誌ブリティンに提出された。こんな状態だから、査読者レフェリーには、計算の初期設定が悪いだの、後付けの仮定アド・ホックが多いだのと色々と難癖なんくせを付けられ、急いで出したつもりが、なんだかんだで論文が受理されるまでに、更に1ヶ月半近くを要した。それでも、その間に発表された論文は観測事実の精査ばかりで、重力波源の特定にせまる論文は我々が最初であり、なんとか徒労にならずに済んだ。やれやれ……というのが、この3ヶ月の流れである。
 昨日は、それらの後始末も一段落して気がゆるんでいたのかも知れない。それにしても、隣の研究所に行って酔ったまま──実際は共同研究の話をするために行ったらしいが?──そこで寝てしまい、その記憶が全然無いということがあるもんだろうか?

        *  *  *

 彼女……葵ヒカルからもらった名刺をツラツラと眺めながら、俺はある基本的な疑念に気づいた。『共同研究』と、彼女は言った。だが、一体全体、何を共同で研究するのか?
 自慢じゃないが、俺は量子論は苦手だ。あの、猫だか友人だかが半死半生になるヤツだろ。理屈は分かる。ブラケット記法なんて単なる演算子だ。ここの〈オルガン〉だって、量子論的な理屈抜きでは制御できない。熱的雑音というか雑振動を排除する為に、この巨大なオモリはキンキンに冷やされているのだが、オモリの振動を極限まで正確に測定することに対する最後の障害は、物体の位置と運動量を、正確に〝同時に〟測ることができないという、ハイゼンベルグの不確定性原理なのだ。レーザー干渉型重力波望遠鏡ならなおのこと、装置全体を量子的な物体として取り扱わないと、観測結果そのものの説明がつかない。そんな理屈は知っている。だが、苦手なのだ。どうも騙されている気がする。これは理屈ではなく感情だ。感情はどうしようもない。
 そんな俺が素粒子研に足を運び、量子コヒーレンス研究室とやらに出入りし、共同研究を申し込む……あれ? 彼女から申し込まれたのか? いやまあ、そこは後で聞くとして、ともかく、ホイホイと二つ返事で了承するだろうか? 記憶が無いと言っても、俺は俺の筈だ。申し込まれたとしても反射的に心の防御壁が閉まり『持ち帰って検討してから』……とかなんとか言う筈だ。反対に、こちらから申し込む理由はちょっと想像できない。
 まあ、俺がここで考え込んでも答えが出るわけじゃない。だから彼女に聞くことにした。いまさら取りつくろっても、既に醜態しゅうたいをさらしてしまっているのだ。

「えーっと、重力波と量子コヒーレンス……の共同研究ですか……。この二つがどう結びつくのか、今ひとつ理解できないのですが?」
 彼女は一瞬、『えっ?』という顔をした後、見上げるような顔でこちらを一瞥いちべつしたかと思うと、突然微笑ほほえんだ。微笑みというより、笑いをえているというか、吹き出す一歩手前というか……なんだ、このリアクション?
「あなたからの申し出に、私が乗ったんですけどね……」
 ええーっ。そうかー。そうなのかー。あり得ねー。
「……まあいいです」
 そう言うと、彼女は両手のてのひらを上にして肩まで挙げた。よくアメリカ映画で、『WHY?』とか言うときに取るポーズだ。しかし、このポーズを量子屋がやると意味が違ってきて……、
「波動関数じゃないですよ。言っときますけど……」
「ええっ! どうしてそれを」
 こいつはエスパーか! ……って、表現古いな。何故、俺の考えていることが分かる? 少し……いや、かなりたじろいだが、その理由はすぐに分かった。
「これもあなたに教えてもらったんですけどね……」
 やはり、記憶が無くても俺は俺だったようだ。そんなところで確認できてどうする。しかし、いきなりそんなネタをするなよ俺……と自分にツッコミながら、しかし一方で、本当にそんなことをしたのかという疑念もく。いくら何でも初対面でそれはないだろう。頭のすみにちょっとしたモヤモヤ感が残る。何だ、この感覚は?

「で、共同研究の中身なんですが……」
 彼女はこちらのたじろぎには興味が無いような顔をして、言葉を続ける。
「量子的な〝もつれ〟エンタングルメントというのはご存知ですか?」
 彼女は、ちょっとこちらを見透かすような目で尋ねてきた。悪意は無いが意地悪な感じ。相手が関山ならば、『痴情のもつれなら知ってる』とか答えるところだが、ここでは思いっきりセクハラになるしな。まともに回答しとくか……。
「確か、1つの素粒子が2つに分かれた後でも、元々1つだった記憶が残っていて、一方の状態を調べると、遠く離れた他方の状態も分かるとか、変化するとかなんとか……。そうそう。最近の暗号通信に使われていて、どこかで盗聴すると、盗聴という行為そのものがデータを破壊するから絶対に盗聴できないとか……。どうも、私の頭は古典的なので、量子力学はよく分かりません」
 と言って、彼女と同じ波動関数のポーズをとった。少し左上を見て。
「以前も同じことを言ってましたね」
 彼女はそういうと、少し微笑んだ。ちなみに、相手と同じ仕草しぐさ真似まねるのは心理用語でミラーリングと言って、お近づきになる一つの手法だ。

「あなた方の論文を読みました。遠方の星からの重力波が、重力レンズで曲げられて、増幅されて届くという説。レンズなんですから、一旦左右に分かれた光が曲げられて、再び地球上で出会うことになりますよね?」
「ええ、まあ、そういうことです。光でなくて、重力波ですけどね」
「ああ。ごめんなさい。つまり、元々1つだった重力子が、数光年も引き裂かれた後、レンズによって再び出会うということですね?」
「そういうことになりますねぇ……」
 何となく、彼女の言いたいことが分かってきた。分離された重力波……というか、彼女にとっては重力子という扱いなんだが、こいつが二手に分かれた後、重力レンズによって再び集まってくる。それを使って干渉縞を作ろうとかいう話だろう。量子論の研究なんて、実験室内で閉じた研究ばかりかと思えば、こういう宇宙に目が向いている分野もあるのかと、妙に感心した。

「つまり……」
 と彼女は続ける。
「つまり、この重力波源をEPR源として、そこからレンズで再び集められて別方向からやってくるエンタングル状態の粒子を使って、量子テレポーテーションを行えないかというのが、今回の共同研究のテーマなんです」
「量子……テレポーテーション?」
 聞いたことはある。いや、大学では習った。が、やっぱり苦手だ。それなのに、俺から共同研究の申し入れ? 何かの間違いだろ。
 腕組みをした俺に対して、彼女はひとつため息をついた。
「細かい話は、ウチの研究室でお話しした方がいいでしょう。お見せしたい関連実験もありますし。また後で連絡します。今日は、その確認で来ただけですから。では、おじゃましました」
 ペコリと頭を下げて彼女は帰ろうとした。ははぁ、巨大ピンセットで束ねられた後頭部はこうなっていたのかぁ……ではなく、
「あの……」
 俺は反射的に彼女を呼び止めていた。
「……せっかくこんな地下深くまで来たんですから、ここの施設の見学でもしませんか? コーヒーくらい入れますよ」
「えっ? あ、おかまいなく」
 彼女は振り返りながらそう言ったが、なにか少し嬉しそうだった。
 もともと俺は、ここに見学者が来るものだと思っていたにもかかわらず、彼女とはずっと立ち話で、ろくにおもてなしをしていないことに、今更ながら気づいたのだ。共同研究をすると言うのなら、これからしばらくの間付き合う必要がある──別に変な意味じゃなく──のだし、そうならば、第一印象は良いに越したことはない。いや、第一印象は既に盛大せいだいにズッコケてるから、ここで少しは汚名返上おめいへんじょう名誉挽回めいよばんかいをすべきだろう。

 とりあえず俺は、ソファ横の、おしゃれとはとても言えない脇机わきづくえの片隅に置いてあるコーヒーサーバーに手を伸ばした。ソファ周辺は、昔使っていた実験器具洗浄用の給水設備がある。いや、正確には今でも実験器具用で、バルブの一方はイオン交換樹脂の詰まった筒がつながっているが、他方は飲料水としても利用できるようになっている。ちなみに、水源は水道ではなく地下水で、なかなか美味うまい。その代わり、イオン交換樹脂の色変わりが早いのだが……。
 で、この給水施設を起点として、コーヒーサーバーを始め、冷蔵庫、電子レンジなど、一通りの〝ジャンクフードなら食える環境〟が構築こうちくされていて、冷蔵庫には冷凍ハンバーガーが満載されている。主電源は観測機器類と別で、影響を与えることは無い。ソファまで含めれば、ここで十分に寝泊まり可能だ。……風呂が無いのが玉にきずだが。
「はい」
「あ。いただきます」
 俺はサーバーからコーヒーを紙コップに注いで彼女に差し出した。今朝れてずっと保温機の上に置きっぱなしだった所為せいもあり、少し煮詰まった匂いがしている。保温機の上はコーヒーのしずくが蒸発して出来た黒い縁取ふちどりが出来ていた。彼女は、ペコリと頭を下げたあと、しばらくコーヒーの波面に写る目玉とにらめっこしてから一口飲んだ。露骨ろこつに苦そうな顔をする。そう言えば目覚まし用で濃い目に入れたんだっけ? これって、汚名返上ならぬ汚名挽回? あわてて冷蔵庫からミルクを取り出す。よほど苦かったのか、苦いのが苦手なのか、彼女は紙コップからあふれる手前までミルクを注ぎ、少しずつ飲み始めた。温度は下がったから、ガバッと飲める筈だが、やはり苦いのが苦手なのだろう。
「さて……。じゃあ、このデカイやつから説明しましょうか。こいつのこと、知ってます?」
「いいえ。ちゃんと説明を受けたことは……ないです」
「ちゃんと?」
「ああ。いえ、パンフレットか何かで見たかな……と」
 彼女は妙にソワソワしていた。

 ここの施設は、鉱山の発掘場あとに作られている。天井が無駄に高く、ビル3階分くらいはある。まあ、施設用に設計されて掘られたわけではないのだから、『無駄に』という形容動詞は当てはまらないかも知れない。広さは学校の校庭くらいありそうだが、施設の境界線であるコンクリート壁の向こうにも空間は広がっているので、鉱山跡地としての全体像は俺もよく知らない。こんな空間が地上から掘り進めること、およそ千メートルの場所に存在するということ自体が驚異だ。人間の欲望は、それだけ深く、かつ、大きいということの証拠だろう。そういえば、昨夜チラリと見た素粒子研の地下施設もその程度の深度だったろうか。規模はもっと大きかったように思う。施設内部はいつもヒンヤリしていて快適だが、これは地熱差発電による熱交換ユニットが正常に働いているお陰であって、地下空間の自然環境としての実際はかなり暑い。施設外へ通じるドアを開け、冒険してみればそれはすぐに分かる。
 俺はここにある複数の重力波望遠鏡のうち、一番デカイやつを指差した。全長15m、直径は4mにもなる巨大な筒……である。そういえば、以前視察に来たお偉いさんは、『何だ? このタンクローリーは?』って聞いてきたんだっけか? まぁ、確かにそう見えなくはない。『危』のプレートを貼って、『液体窒素』とか壁面に書いておけば、そのスジ──どのスジ?──にはウケるかも知れない。外装はピカピカのステンレス製だしな。
 でもって、この筒が、東西方向と南北方向に、くの字型に置かれている。さらに、くの字に折れ曲がった中心部分から灯台のようにもう一本、ニョキニョキと上に生えていて、地面から天井まで貫通している鉄筋と一体化した構造になっている。要するに、さながらフレミングの左手の法則のような配置で、巨大な円筒が三本、鎮座ちんざしているのである。
 ちなみに、上下の鉄筋にはメンテナンス用のハシゴが無造作に取り付けられているのだが、俺はまだ一度も上まで登ったことがない。3階建てのビルの壁面に、非常用ハシゴがあるようなものだ。ガキの頃、安易あんいに登った火の見やぐらから降りられなくなり、ベソをかいたことがトラウマになっている俺にとって、高いところに登るのは極力避けたいことなのである。筒のテッペンには、これを作った研究者のサインを始め、コイツの担当になった歴代の研究官の寄せ書きというか、ぶっちゃけ、落書きが書いてあるらしいが、そういう事情で、俺は見たことが無い。
 さらに、筒はこの三本だけではない。同じく、フレミングの左手の法則状態の形状で、ひと回り小さい三本セットが内側に。さらにその内側にもう1セットあって、合計9本の筒が仲良く並んでいる。こいつが、この研究施設のぬし、多段三軸共振型重力波望遠鏡、通称〈オルガン〉だ。

「この巨大な筒が重力波を捕まえるアンテナで、重力波が来るとわずかに振動するので、それを測定します」
「…………」
 彼女は、〈オルガン〉の上部を見上げたまま、固まっている。
「あのぅ。この中をレーザー光が往復しているの?」
 コケそうになった。確かに重力波望遠鏡と言えば、レーザー干渉型が主流だが、ここまで来ておいてその認識は無いだろう。大体、レーザー干渉型なら、こんな太さは必要ないし、逆に腕の長さの方は全然足りないし、それほど重くないからこんな頑丈がんじょうな鉄骨は無意味だろう……とか色々と突っ込むべきトコなのかここは? 天然なのか、ツッコミ待ちのボケなのか? 相手が完全な素人でないだけに悩むところだが、ここは無難ぶなん対処たいしょしよう。
「いやいや。中にはアルミで出来た巨大な共振器となるオモリが吊るされていて、重力波が来ると僅かに振動するので、その揺れを拾って測定しているという……」
「ふーん。そう」
 興味があるのか無いのか、素っ気ない返事である。
「振動ってどれくらい? 振幅の感度は?」
「200㎐で10のマイナス25乗のオーダー」
「200㎐……」
 後ろ向きだったので表情までは分からないが、彼女は少し考え込んでいるようだった。首が少し傾いでいることから、それが分かる。しばらくして振り返った彼女は、なかなか鋭い質問をした。
「共振器……ということは、共振する固有振動数があるってことよね。その振動数が200㎐だと……。ということは、それ以外の重力波は計測できないか、出来ても感度が落ちるってことじゃない…ですか? なら、振動数が時間で変動する重力波は正確に捉えられないんじゃないかと思うんだけど……」
「御名算!」
 俺はちょっとニコッと……正確にはニヤッとして彼女を見た。専門畑は違えども、同じ物理屋。一般の女子高生よりは話が早い。いや、比較しちゃ可哀想か。俺は言葉を続ける。
「……だけど、ほら。同じ形状で大きさの違う筐体きょうたいが三台ずつあるでしょ。それぞれの固有振動数が違っているから、それらを合成して解析すればいい。ついでに言うと、それぞれが三軸分全て揃っているから、計9本。ブラジルの研究所Divisão de Astrofísicaみたいな球形共鳴タイプなら三軸分は必要ないけど、振動の制御が難しいし、まあ、ここは無闇むやみに広いから、分配して個別に沢山作っちゃえと……。いや、これはこっちの話」
「なるほど、分かったわ。ところで、こんな地下深くに作ったのは、やっぱり宇宙線の影響を排除するため?」
「まぁ、それもあるけど、どちらかと言うと振動の影響を排除するためで……。この深さでも地上で道路工事のような振動ディスターバンスがあると、フィルタかけても信号がまともに拾えなくて」
「ああ。あるある。先々週の月曜日から夜中に洞山どうざん公園通りで舗装工事やってたでしょ。あれの所為せいで、実験対象のデコヒーレンス時間が極端に短くなっちゃって、追試実験が伸び伸びになってるの。どうにかして欲しいわ!」
 『洞山公園』というのは、研究都市のほぼ中央にあるただっ広い公園のことで、元々は鉱物採取後のボタ山があったらしい。ここの地下施設はその跡地の真下にある。要するに、ここの真上に重力研の建物は存在せず、公園とは水平距離で500mくらいは離れている。だから、この二つを直結するためには、ナナメに動く斜行エレベータが必要なのだ。彼女もその振動に悩まされていたとなると、やはりあの斜行エレベータも、洞山公園地下に続いているのだろう。
「そういえば、先々週は確かにノイズが多かった」
「でしょ!」
 彼女は一瞬怒った顔をしたかと思うと、次の瞬間にはニッコリ笑っていた。俺もつられて笑った。

 研究者というのは、大なり小なり、自分の研究にほこりを持っている。ただ、専門的なので、なかなかその内容を話す相手がいない。論文発表が一つの〝はけ口〟になるのだが、論文は製品であるから、そこに至った苦労話とかアイデアの生まれた瞬間の話とかは書かない。白鳥が水面下の足を見せないのと同じである。だが、実はそこが面白い部分なのだ。学会での論文発表の席では寝ててもいいから、後の懇親会こんしんかいには出ろ……というのは、そういう理由である。夜の部の方が遥かに示唆しさに富み、かつ面白い。
 研究者はそういう、〝専門的なバカ話〟にいつも飢えている。だから、相手が理解してくれそうだと認識すると、せきを切ったように色々と話が出てくる。今の俺が、ちょうどそういうタイミングだ。おそらく彼女もだろう。
「えーっと、三軸揃っているって言うことは、重力波が来る方向も分かるってことよね」
「そ。こいつだけで、10億光年までのコンパクト星が発生する重力波なら、入射方向、規模、Ⅰ型からⅣ型のどれかまで全て分かる。必要なデータが、スタンドアローンで全て取れる装置ってのは、今じゃ世界中探してもここだけしかないんだ」
 えっヘン! ……と胸を張りたいところだが、俺が作った機械じゃないしな。それに、単独で全てをこなす観測は、ある意味、既に時代遅れだってことの証明だ。正確には『ここだけしかない』んじゃない。『ここだけしか残ってない』んだ。この装置には、俺には特別な思い入れがあるけど、今、それは飲み込んでおこう。
「上からなら全体を見渡せるんだ。どぉ? 上ってみない?」
 俺はあごで壁際の階段を示した。施設全体を俯瞰ふかんで見渡すには2通りの方法がある。ひとつは中心を貫く鉄骨脇のメンテナンス用ハシゴを登ることだが、これは最初から却下きゃっか。もうひとつは、施設内の壁面を一周して設置されている通路だ。こちらもメンテナンス用だが、普通の階段で上り下りできる。通路は1m程度の幅しかないが、落下防止用の手すりがあるから安心だ。キャットウォークとか呼ぶらしい。天井が高い分、キャットウォークは二段になっている。一段目はここから5m上、二段目が10m部分を周回している。もう少し高ければ上下方向共振器のテッペンが見られるのだが、残念だ。
 俺は、壁に張り付いている階段を上り、一段目の通路に差し掛かったところで振り向いた。彼女は、未だ半分くらい残っているコーヒーを脇机にそっと置き、後ろから付いてくる。ちょっとおっかなびっくりだ。まあ、俺も高いところは苦手だから最初はビビっていたが、さすがにここは慣れた。幅が狭いことを除けば、ショッピングモールの吹き抜け沿いの通路と大して違わないしな。
「まあ。全部ピカピカなのね」
 最上階に達したときに放った、彼女の第一声がこれである。
 9本の筒は全てステンレスで覆われており、鏡のように光っている。下からでも当然ながらそれは分かるが、色々と機材があって見通しが悪い。それに、下から見ると、反射して映り込むのは、変化に乏しい上部のコンクリート壁面であるのに対し、上から見ると、制御卓や処理コンピュータ類、無造作に置かれた予備部品などがゴチャゴチャと反射して、さらにそれぞれの筒同士の反射もあって、さながら万華鏡のように見える。
「ここの重力波望遠鏡は同業者カリーグには〈オルガン〉って呼ばれているんだ」
「ええっ? 何故?」
「ほら。長さの違うピカピカの筒が沢山ある……」
「パイプオルガン!」
「そうそう」
「……うーん。何かちょっと無理があるんじゃない?」
 まさかの駄目だめ出し。躊躇ちゅうちょ無し。
 まあ、そう言われればそうなんだが、別に俺が言い出したわけじゃない。誰からともなくそう言うようになったのだから、仕方が無い。世界中──少なくとも、重力波研究仲間の狭い世界では──〈オルガン〉で通用するのだ。
 俺がちょっとムッとしているのを感じ取ったのか、
「ああ。でも、重力波がやってきて、その周波数と向きに合わせて個別にパイプが振動する仕組みなんだから、パイプオルガンのアナロジーもあながち間違いじゃ……ない……かも」
 これでも精一杯フォローしているつもりなのだろう。俺は腕組みをしながら、不覚ふかくにもつい、フフッと鼻で笑ってしまった。
「なんで笑うんですか」
 今度は彼女の方が腰に手を当てて威嚇いかくのポーズ。
「いやいや」
 と言って、俺は波動関数のポーズ。ついでにサイン波のポーズ。サイン波の場合、左右のひじを上向きと下向きに別々にして交互にウネウネすればいいだけだ。至って簡単である。彼女はあきれたような顔をしていたが、怒っている様子はなかった。鼻で笑われた。

「あ……。じゃあ、あたしは実験の準備があるのでこれで帰ります。今日はありがとう」
 彼女は左腕の時計をチラリと見ながらそう言った。時間はまだそれほど経ってはいない。こここに降りてきてから精々30分くらいだろうか?
「あー。でも、共同研究の内容については……」
「明日の午前中にでもウチの研究室に来て頂ければ。その方が話が早いと思います。美味しい紅茶でも入れますから」
「分かりました。今度は、こちらもきたて豆とサイホン用意して待ってます」
「え? いやそういう意味では?」
「それはともかく、葵さんの研究室は、もしかしてここと同じ、最下層の地下ですか?」
「とりあえず、5階の事務室に来て下さい。それから……」
 彼女はまた左上を見て考えていたが、
「……私のことはヒカルと呼んで頂いて結構です。そうでないと逆に調子が狂います。では」
「え?」
 そう言い残して、彼女はきびすを返して階段を下り始めた。『調子が狂う』の真意を確かめたかったが、まあそれは追々おいおいでもいいだろう。研究者仲間ではファーストネームで呼び合うこともよくあるが、日本人同士だとちょっと……。ヒカルと呼べと言われてもねぇ。ま、折角せっかくだから心の中ではそう呼ぶことにしよう。
 で、俺は、彼女……ヒカルに続いて階段を下り、途中追い越してエレベータのドアを開けた。上まで見送ろうかとも思ったが、『ここでいいです』と言われたので、エレベータの前で別れた。もしかすると、地上うえで関山がニヤニヤして待っているかも知れないし、そこに同伴して出て行ったら、何を言われるか分からないしな。

 こうして俺は、ヒカルと出会った。いや、俺の記憶が抜け落ちていることを考えれば、再会したということになる。もっとも、後になって考えると、その両方だったということになるのだが、それに気づいたのはかなり後になってからのことだった。







二、量子テレポーテーション


 先に心情を吐露とろしておこう。その日、少々気が重かったのは確かだ。もちろん、素粒子研には何度が足を運んだことはあるし、1階エントランスから続くレストラン〈ニュートラリーノ〉のメニューは粗方あらかた知っている。〝豚肉のカピタ〟とかいうヤツがうまい。が、あんなことがあって、這々ほうほうていで逃げ出してきた場所だ。何か見えない結界が張ってあるような感じすらする。ドラキュラが意を決して教会に侵入する時とかこんな気持ちだろうな。きっと。
 昨日のヒカルとのファースト・コンタクト、いや、セカンド・コンタクト? うーん、1・5次遭遇ということにしておこう──フラクタル次元だな──は、特に問題なく終わった……と思う。最後は双方タメ口だったしな。だが、それはヒカルにとって〝アウェイ〟だったからなのかも知れない。結局、最後まで共同研究の内容を言わなかったし、何か見せたい実験があるという。もしかすると、俺が断片的に覚えているあの地下施設の出来事は、そのまわしい実験の一部で、ヒカルは実はMADサイエンティストとしての裏の顔がぁ……とか。
 いやいや、『お前が言うな』というツッコミが聞こえるな。

 現実的なことに話を戻すと、素粒子研に仕事で行くのは始めてだ。お隣さんではあるが、俺にはついぞ関係ない場所だと思っていた。レストランを除いて……。そして、素粒子研は重力研と比べると、圧倒的に組織がでかい。そもそも重力研は宇宙工学研究所から枝分かれした、言わば外郭がいかく団体のようなものだ。だから、素粒子研と対等な組織規模なのは宇宙工学研であり、重力研ではない。
 さらに、資金繰りからしても圧倒的な差がある。重力研の親玉は文科省だ。まあ、今のところ基礎研究中の基礎研究であり、直接的に世の中の為になるような研究ではない。科学ロマンとか言えば聞こえがいいが、要は生きていく為には何の役にも立たない、金食い虫の道楽だ。これに対し、素粒子研の親玉は経産省だ。それだけでも十分に金の匂いがするというものだが、実際、量子コンピュータ、量子情報通信の実用化など、実利じつりに結びつく目覚ましい成果を上げている。何しろ、古典的な原理のスパコンで100年以上はかかる暗号を数秒で解いてしまうのだから、ムーアもビックリのパラダイムシフトだ。そして、その根幹こんかんにある物理的な概念が量子コヒーレンスや量子エンングルメントであり、ヒカルは『量子コヒーレンス研究室』の主任研究……いや、主任研究だと名乗った。研究の中身は知らないが、どう考えても花形街道まっしぐら……って感じがする。

 これが20年前なら立場が逆だったろう。当時、『アインシュタインの最後の宿題』と言われた重力波が検出され、国内外で重力波フィーバーが起こった。いくつかの機関が立ち上がり、雨後のタケノコのように重力波望遠鏡が増え、あちこちで誘致合戦が行われた。
 一方、量子コンピュータは未だ基礎実験の域を出ていなかった。もちろん、量子エンタングルメント量子中継システムの実用化だの、それによって地球を一周する長距離通信が可能になっただの、忠実度フィデリティが0・9を越えただの、デコヒーレンス時間が1秒に達しただの、様々なマイルストーン的な成果はあったのだが、如何いかんせん、専門的過ぎる。そういう俺だってよく分かっていない。まあ少なくとも、一般ウケしないことは確かだ。速さが百万倍のコンピュータが出来たわけでもないし、半死半生の猫が作り出されたわけでもない。公開されている当時の事業仕分け議事録映像を見ると、『これがいったい何の役に立つのか?』という税務監察官からの質問があったりする。今なら言える。『20年も経てば、あなたがたは量子エンタングルメントされた物質に税をかけるようになるでしょう』……と。
 諸行無常しょぎょうむじょう盛者必衰じょうしゃひっすいというか、人間万事塞翁さいおうが馬というか、いや、ちょっと違うな。まあ、そういうことで、今、風前の灯火なのは重力波研究の方で、飛ぶ鳥を落とす勢いなのが量子コヒーレンス研究の方だということだ。
 親方おやかた省庁が同じだったらここまで差は付かなかっただろうなぁ。ただしその場合、ウチの方は奇麗さっぱり無くなって、民間に委託いたくされていたりして……。っていうか、少なくとも、道をへだてて精々数百メートルの距離で、地下千メートルまでのエレベータを別々に作ることは無かっただろう。千メートル上って地上を少し歩き、また千メートル下るのは効率が悪すぎる。地下通路作るだろ、普通。
 もっとも、地下研究施設のコンクリート壁の外側は、昔の鉱山発掘の名残なごりで、縦横無尽にトンネルが走り、採掘場が点在していて迷路のようになっている。地下研究施設を直進で結ぶトンネルを新たに掘るには、これら既存きぞんのトンネルを把握し、落盤とかの危険を排除しなければならない。法律的にも許可が出ない気がする。噂では、あらゆる地下施設は、既存のトンネルを辿たどっていけば、どこかでつながっているという噂だ。あくまで噂だけどな。

        *  *  *

 俺は素粒子研に行く前、所長に経緯けいいを報告することにした。一応、組織の一員なんだし、勝手に動くわけにはいかんだろう。ただ、問題なのが、俺自身、その共同研究の中身を覚えていないということだ。そして、所長に何処どこまで話しているのかということも全く覚えていないのだ。とは言っても、報告しないとなおさらこじれる。えーい、ままよ。
「……失礼します。酒井です」
「おう。入れ」
 所長は、手に持っていた何かの決裁文書を机の上に放り出し、ついでにメガネも外した。ロマンスグレーの髪、柔和にゅうわな顔がこちらをのぞく。俺はこの人のけわしい顔を見たことが無い。昔のTV映像以外は。
「これから、素粒子研まで行ってきます」
「ああ。例の共同研究か……」
「ええ……」
 ちょっとした作戦だった。もしも『何しに?』と言われたなら、この話は所長に伝わっていないことになるので、共同研究の話を持ち出せばいい。既に伝わっていたならば、素粒子研へ出向く理由を詮索せんさくされることは無いだろう。どうやら後者だったようだ。
「あちらの量情研部長には話をしといたよ。少しばかりお世話になりますってね」
「あ、そうなんですか?」
「出張が増えるだろうが……。まあ、チャッチャと見つけて帰ってくるんだな。出向しゅっこうも考えたんだが、期間が分からんと中々難しくてな」
「は、はぁ。そういうものですか。……じゃ、じゃあ行ってきます」
「ご苦労さん」
 ……変な汗出てきた。
 明らかに所長の方が、当の本人の俺より事情に通じている。出張だと? 何のことだ。素粒子研は目と鼻の先にあるから、外勤であって出張ではない。研究都市周遊バスで移動できる範囲なら全て外勤だ。バス券くれるしな。首都圏まで出るとどうか……外勤か日帰り出張か? 規定は100㎞圏内だったかな。詳しくは総務に聞かねば分からんが、イメージ的には飛行機とか最低でも特急リニアで旅行カバン持って泊まりがけで出かけるのが出張だ。
 だからと言って、所長が言い間違えたとは思えん。出向とまで言ってたしな。短期間と言えども、アッチに腰を降ろして働けということか。苦手な量子云々がらみで? チャッチャと見つける……って、何を? 一体全体、一昨日おとといの俺は何を約束して来たんだ。ちょっと説教してやるから、俺の目の前に出て来やがれってんだ!
 ……などと愚痴を言っても始まらない。これこそ究極の一人ツッコミってやつだな。

        *  *  *

 というわけで、俺は今、素粒子研と重力研をへだてる、運河のように広い道路の前に立っている。まだ9時前だと言うのに、太陽は今日も元気に陽炎かげろうを作り、せみはワシワシ鳴いていた。朝のラッシュアワーは抜けたとはいえ、車は切れ目無く走っており、向こうにダイブするタイミングがなかなか見つからない。道路の左右を見ると、メラメラと逃げ水がうごめいていて、本当に運河みたいになっている。結局、向こうに渡れたのは2分ほど経ってからだった。その間、俺はミーアキャットのように突っ立ち、扇風機のように左右を見、缶コーヒー1本分の汗をかいた。既に、戦力30%ダウンだ。先が思いやられる。
 正面玄関から蝉がうるさい並木を通り抜け、素粒子研の本館前に立つ。敷地が広いので、これが本当に本館なのかどうかは知らないが、正面玄関の正面に建つ、見学者とかの受付がある施設だから本館で間違いないだろう。レストランもあるしな。これで三号館とかだったら、設計したヤツの感性を疑った方がいい。まあ、我々研究者は共通のIDカードで研究都市内の建物ならば大抵は入れるのだが……。
「えーっと……」
 ゲートを通り抜け、5台並んでいるエレベータの脇で案内板を見上げ、俺は立ち止まった。確か、2階の事務室と言っていた筈だが、『量子コヒーレンス研究室』と書かれたプレートはどこにも無かった。うーん、困った。ならば守衛しゅえいさんに聞こう……と思ったが、少しばかり躊躇ちゅうちょする。一昨日の深夜のドタバタを見ていたんじゃないかと……。『ああ、あんときの』とか思われるとちょっと恥ずかしい。で、結局、もう一度案内板を見上げることになった。少し視線を横にずらすと、素粒子研の敷地内の他の建物の地図が載っていることに気づく。
 研究都市内にある他の研究所も似たり寄ったりなのだが、1ブロックの敷地全体は1㎞四方くらいあり、あたかも石庭に置かれた石のように各研究棟が散らばっている。その中のひとつ、量子情報処理研究棟の中に量子コヒーレンス研究室はあるらしい。そういえば、所長は『量情研部長と話をした』とか言ってたっけ。ああ、また暑苦しい外を散歩せにゃならんのかと辟易へきえきしていると、全ての棟は地下通路で繋がっていることを発見した。さすが経産省。いや、それは関係ないか。しかし、今までここの研究所内の構造をちゃんと理解していなかったことに、我ながら驚く。俺にとって、ここの施設は単なるレストランだったというわけだ。どうもスミマセン。

 地下通路への入り口は、この本館のエントランスを横切った向こう側に集中している。歩き出した直後、はたと足が止まった。5台あるエレベータは、手前の1台が通常運転、中央の3台は〝待機中〟とランプが点灯しており、節電モードになっている。残る一番奥のエレベータは異彩いさいを放っていた。コイツだけ色が違い、ひと回り大きいのだ。そして、押しボタンがあるべき場所には、特別に静脈認証プレートがはめ込まれていた。そうだ。コイツが例の地下千メートル直通エレベータだ。今見ると、いかにも『冥土行き特別列車入り口』という風貌ふうぼうに見えてくるから不思議だ。今まで何度も横を通っていた筈なのに、全然気づかなかった。恐いもの見たさで、もう一度下りてみたい気もするが、今は止めておこう。そのうち行くこともあるかも知れないしな。
 いわく付きのエレベータの横を通り過ぎ、隣接するレストランの日替わりメニューを確認しつつ、その先の地下通路へ向かう。申し訳程度のエスカレータを下ると、その先は動く歩道となっていたが、やはり節電対策で、単なる歩く歩道と化していた。歩道は何本ものレーンがあり、途中で枝分かれしている。地下通路といっても天井がガラス張りの半地下で、日差しがまぶしい。量子情報処理研究棟の矢印を、目で追うこと約10分。素粒子研の敷地を縦断するような形で、俺はようやくそこにたどり着いた。
 半地下から脱出する短いエスカーレーターを上った先は、やっぱりエレベータホールだった。もっとも、エレベータは2台しかないし、冥土行きエレベータもない。エレベータ脇の案内板を見ると、確かに2階が『量子コヒーレンス研究室』となっている……が、3階もそう書いてある。とりあえず2階に行くしかない。エレベータを使うほどじゃないなと思い、横の階段を上る。何やら節電に気を使っているみたいだしな。
 階段を上ってすぐ、エレベータホールの正面に事務室はあった。そこから左右に2本の長い通路が見え、研究室が整然と並んでいる。要するにエレベータホールは、このビルの長辺の端に付いていて、2つの通路で、東と西、そして中央の3つのブロックに分離されている。東西の2ブロックが研究室、中央の窓の無いブロックは倉庫部屋だ。それぞれのブロックは部屋が5つに分けられているから、2階と3階合わせて20もの研究室があることになる。各部屋の上部にはプレートがあるが、単にローマ数字が書かれているだけだ。
 そう言えばと思い出し、ヒカルからもらった名刺を引っ張りだすと、『量子コヒーレンス研究室』の文字の横に『2EⅣ』と書かれている。ははぁ、2階東側の四番研究室ってことだな……って、味も素っ気も無い命名法だな。『2年E組4番のヒカル君』みたいなものだ。ちなみに、ここから見て一番奥は、ビルの南向き短辺を全て使った会議室で、3階のそこは室長室となっているらしい。案内板にそう書いてある。

 これは後から聞いた話だが、各部屋は取り立てて何を研究する部署と決まっていないのだそうだ。そこのぬしとなった主任研究員が研究計画を立てて室長にプレゼンをし、さらに上層部まで話が通って計画が認証されれば、最低1年間はその研究をする。モノによっては3ヶ年計画、5ヶ年計画ってのもあるようだが……。要するに、仕事は、部屋に割り当てられているのではなく、人に割り当てられている。だから、部屋の区別は数字だけの方がいいってことらしい。中には、切り口だけを変え、ほぼ同じテーマを継続して研究する人がいるかと思えば、毎年まっさらな、前年度と全然関係ないだろこれ……っていうテーマを出してくる人もいるらしい。どっちにしても、限りなくアクティブな人でないと勤まらんな。これは。
 ただ、少しだけホッとしたのは、ヒカルは20人はいるであろう〝主任研究員〟の中の一人だという事実だ。ヒカルの歳は聞いていないが、俺とそう変わらないと思われる彼女が、この大所帯の中の主任研究員かぁ……と、ちょっとイジケてウジウジしている俺がいたのだ。ホッとしたのと同時に、そういう感情が湧く自分に、少し嫌気が差したのも、これまた事実だ。……何か小さいな。俺って。

 いきなり『2EⅣ』に行こうかとも考えたが、まずは事務室へとのことだったので、そちらに向かうことにした。目の前だったしな。
 中からは、いかにも事務やってますぅ……という感じのお姉さんがヒョッコリ顔を出し、行き先やら用件を聞き、手際よくIDカードの読み取りを行い、おそらくヒカルの研究室であろうと思われるところに電話をし、最後に『量情2EⅣ外来』と書かれた、首からぶら下げるカードをくれた。これが無いと入れないらしい。警報でも鳴るのかな。
 左に曲がって通路を歩く。通路の天面照明は消えたままだが、研究室のドアは上半分がほとんどガラスであり、通路まで漏れる日差しのおかげで結構明るい。ただし、調光りガラスなので、中の様子はよく分からない。各々おのおののドアの横には、研究者の名前と思われるプレートがはめ込まれている。大体は2、3人のグループのようだ。中には、どこの国の文字か分からないようなプレートもある。それらをツラツラと眺めても、見知った名前は無かった。
 俺がここに来たのは初めて……と思いたいが、少なくとも一回は足を運んでいるに違いない。だが、俺がかろうじて覚えているのは、地下施設だけなのだ。さらに、ヒカル以外の研究員の顔や名前は一切分からないときている。
 ただ、研究者というのは一匹狼が多い。出勤時間もフレックスで融通ゆうずうが利く。研究者に求められているのは、勤勉さや勤務態度ではなく、その能力である。結果が全ての世界だ。そうすると、壁をへだてた隣の部屋の研究内容はもちろんのこと、下手をすると顔もよく知らないという場合もある。面白い論文が手に入ったからと談話会コロキウムで紹介したら、実は隣の研究室の人の書いたものだったなんて笑い話もあるくらいだ。ここの研究室も似たり寄ったりだとすれば、俺を覚えている人はそんなにいない……のかも知れない。そう期待したい。
 『2EⅣ』の前でプレートを見る。確かに『葵ヒカル』の手書きの文字が踊っている。本当にカタカナの名前なんだな。字は……丁寧だがキレイではない。さらにもうひとつ、その下に『橋本礼奈㋑』というプレートもあった。こっちは何と言うか、乙女チックな字だな。名前はともかく、㋑って何だ。
 突っ立っていても仕方が無いので、ノックする。
「はーい」
 と、幾分、語尾伸ばし気味の返事。ヒカルの声ではない。中から出てきたのは、大学を出たばかりに見える、ポニーテールに丸めがねをかけた、少しタレ目のかわいらしい女性だ。やはり白衣を着ている。ここの研究員は白衣が必須なのか? 袖口が若干黄色いような気もするが、化学屋でないので、それが何を意味するのかまでは分からない。
「お隣の重力研究所の酒井と申しますが、葵主任研究員は?」
 そういって、俺は胸ポケットから名刺を取り出した。今回はちゃんとケースに入れて持ってきている。
「あ。私は橋本と言います。すみません。私、名刺は作ってなくて……。話はうかがってます。主任は今、地下で実験準備中ですけど、先ほど連絡しましたから、もうじき上がってきます」
「わかりました」
 地下で実験のフレーズに、少しばかり頬の筋肉が引きつったが、出来るだけ平静をよそおう。壁掛け時計を見ると時刻は9時15分。ちょっと早かったかもしれない。
「あ、座ってて下さい」
 ボーッと突っ立っていると、あわてたように、ソファに座ることを勧められる。その対応を見ていると橋本礼奈──礼奈でいいか──は、俺のことを知らないようだ。……多分。2度目なら名刺を受け取ったりしない筈だしな。
 部屋はそれほど大きくはない。机2つと、応接用のソファとテーブル、電気ポットが収納された小さな食器棚、それと壁際に数台の端末があるだけだ。実験装置らしきものは無い。おそらくここは物書きをする程度の部屋なのだろう。広くとってある窓の外は、まばらな林になっていて、朝の光が木漏こもれ日となって入ってきている。外は暑いが、この中は快適だ。礼奈はいそいそとティーカップを取り出している。
「へぇー。重力波計測ってどんなお仕事なんですか?」
 俺の名刺を見ながら、礼奈がたずねる。
「えーっと。例えばブラックホール同士がぶつかったときに生じる重力波とかを観測するって言うような……」
 いやいや、我ながらベタな解説だな。相手のレベルが分からないと、どうもやり辛い。
「へぇー。面白そうですねぇ……」
 しばし沈黙。
「……ところで、ブラックホールってなんですか?」
 そ・こ・か・ら・か! それに、分からないんだったら、面白いか面白くないか分からんだろうがーっと言いたいのをグッと我慢する。まあ、こういう反応はよくあるからな。
「ものすごく重い星が、自分の重さに耐えきれなくなって、最後に一点にまでつぶれた星です」
「へぇー。つぶれるんだぁ……」
 なんか、頭痛がしてきたと思ったら、礼奈は続けて……。
「……それって、消えてなくなっちゃうってコトですか?」
「いや、そういうわけでは……」
 それで消えて無くなってたら、今頃宇宙はスッカラカンで、ビッグ・リップしとるわい! とかツッコミたかったが、そのツッコミも宇宙論関係者しか笑えないから、余計に話がアサッテの方向に行くだけだし。どうしたものか……?
「お紅茶……どうぞ」
「どうも」
 俺が困った顔をしていると、礼奈はニコニコしながら、クッキーと共に紅茶をテーブルに置いた。ミルクと砂糖とスプーンの三点セットも一緒である。うーむ。天然なんだか、計算……ってことは無さそうだが、どう対応したものか。少なくとも、知識というか興味の対象は全然違うベクトル方向を持っていて、多分、外積を取ったら最大になるだろうなぁ……ということが分かる。
 俺は、別な話題になるものはないかと、あたりをキョロキョロ見回し、それを発見した。食器棚の中段。おそらく、電子レンジでも入れるための場所ではないかと思うのだが、その空間に水槽が入っていて、その中を小さくて赤いものがフラフラと動いている。金魚か何かだろうか? ふらっとソファから立ち上がり、手を後ろで組みながら近づいて見ると、中心に梅アンコが入っている半透明な和菓子……なんて言ったかなぁ……。そうそう、葛餅くずもちがふわふわと。いや、これは……クラゲだ。1㎝にも満たないクラゲである。
「あー。その子は、ツリトプシス=ヌツリクラって言うんですよ」
 礼奈は、俺の視線の先に気づいて話しかけてきた。
「つりとと……なんだって?」
「ツリトプシス=ヌツリクラです。この子、あたしの卒論の題材だったんですけど、カワイイからもらってきたんです」
「へ、へぇー」
 うわぁ。礼奈さん……俺が想像すらできない分野が専門だったのね。ネタ振っておいて言うのも何だが、この先どうしよう……。
「この子はねぇ。すっごい能力の持ち主なんです……」

        *  *  *

 礼奈のキラキラした眼力にたじろぎながら、俺はクラゲ同様、目玉をあちこちに泳がしていた矢先、ヒカルが入ってきた。ホッとすべきなのか? それとも、新たなボスキャラ登場と考えるべきなのか。
「遅れてごめんなさい。ちょっと装置の立ち上げに手間取っちゃって」
「いや、ちょっと早く来過ぎたので……」
 今日のヒカルの髪は、目玉クリップのお化けのようなモノで止められている。クリップは髪じゃなくて紙を挟むものだろう。普通……。白衣はこのまえ見た通りだが、首から黄色いゴーグルがぶら下がっている。礼奈の黄色い袖口の意味は分からないが、ヒカルの黄色いゴーグルの意味は分かる。こいつはレーザー光遮蔽しゃへい用のゴーグルだ。今行っている実験には、出力の大きなレーザーが使われているみたいだな。
「あっと、そうだ。橋本サン。スクイーズ光がすぐバラけてるみたいなので、PPKTPをちょっと調整してみて」
「あ、はい」
「それから、クレア側のフィルタが劣化していると思うから替え……、スペアはあと何枚あったかしら?」
「確か、2枚だと。今、確認します」
「いや、いいわ。ズラせばまだ使えるはずよね」
「もう1回くらいは……」
「じゃあ、前回の照射部分を外して回転させてみて」
「わかりました」
「私はここでちょっと打ち合わせしてるから、光量が安定したら電話して。それから、開始の条件はフィデリティ0・98よ。ちゃんと追い込んでね」
「やってみます……」
 ヒカルのテキパキとした指示に、食い入るような目で対応した礼奈は、さっきまでの、何というか、ふわふわした面持おももちは消し飛んでいた。ヒカルが礼奈のタンポポの綿帽子を吹き飛ばしたのだ。……って、俺って、詩人?
 一端いっぱしの研究者の顔になった礼奈は、ヒカルと入れ替えに部屋を出て行った。

「彼女はね……。東北大大学院理学研究科遺伝子工学専攻のインターンなの。珍しいでしょ、こんなトコに来るなんて」
 俺がいつまでもドアの方を見つめていたからだろうか? ヒカルは礼奈の素性すじょうを語った。なるほど、それでインターンの〝㋑〟なんだな。クラゲとどう結びつくのかは分からんが。
「何の実験なんです?」
 俺は、出してもらったクッキーを一口かじり、紅茶も一口飲んだ。なかなか美味しい。
「初歩的な、量子テレポーテーション実験。でも、扱っているのがネンキンだっていう点が、色々とユニークかな」
「年金? 年金情報をテレポーテーションさせる?」
「そう。ネンキンは低温だと5時間で分裂を始めるんだけど、一度学習させると、今度はもっと早く分裂する。その記憶を、別のネンキン株に転送できるかっていう実験。同じ細胞から分離した2つの株でも、分子レベルの構造は違うから、転送は無理って意見が多いけど、実は上手うまくいく……上手くいくことがあるってことが分かってきたの」
「年金が分裂? お金が?」
「お金? あぁ……」
 何か大きな意思疎通の齟齬そごがあったことにヒカルは気づいたらしい。彼女は笑った。肩を小刻みに振るわせながら笑った。俺は、何の事やら分からなかったが、多分、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのだろう。こっちを見てさらに笑った。
可笑おかしい……。いや、ごめんなさいね。年金じゃなくて、細菌の一種の粘菌。本当は細菌でもないんだけど、微生物の一種」
 粘菌……聞いたことあるような、無いような。
「アメーバみたいな?」
「アメーバ状にもなるわよ」
「え?」
「なかなか、かわいいわよ」
「…………」
 俺は、昔読んだ古典の中に『虫めづる姫君』といふのがあったことを思いだしていた。いとをかし。いとあわれの方がいいのか?
 まあ、生物屋にはゾウリムシ萌えとか、ミドリムシ命とか居るから、分からんでも無い。いや、アメーバに萌える気持ちは、俺にはこれっぽっちも無いが、そういう、他人から見れば、『何それ?キモい』と思われる対象物でも、それに夢中になる人がいるという心情は理解できる……という意味で、分からんでも無い。『たで食う虫も好き好き』と言うだろう、昔から。
 ちなみに、たではすっごく苦いらしい。かじったことないけど。

 唐突だが、ここでヒカルのあだ名が決定したので聞いてほしい。『地下室の粘菌術師』だ。ということは、礼奈は『ふわふわのクラゲ使い』か。アメーバよりはクラゲの方が、まだマシかな? どちらにせよ五十歩百歩だな。そんなことより、2人とも揃いも揃ってカワイイだけで済ませるなよな。そんなことで女子力アップにはならんぞ。
 ……と、眉をひそめた俺のことなどおかまい無しで、ヒカルは食器棚から真っ赤なマグカップを取り出し、礼奈がポットに入れた紅茶を注いでいた。そういえば、礼奈自身は飲んでいないんじゃなかったっけ。茶飲む時間ぐらい与えてやれよ。

「……で、」
 今日は、俺の方から切り出すことにした。
「共同研究の内容っていうのは?」
 俺が言い出した事らしいのに、それを共同研究者から聞かなきゃならんというのは、気が引けるが、仕方が無い。ヒカルは紅茶にミルクをたっぷり入れて飲み始めたところだ。
「たしか、EPR源を重力レンズで曲げて、量子テレポーテーションを行うとか言う……」
「ふぅ……」
 ヒカルはため息をつきながら俺の正面に座り、天井を見上げて少し考え込んでいる。視線はやはり左上だ。コイツ、髪の毛だけでなく、瞳の色も、長いまつ毛も栗色だな。
「あなたが追っているのは、〈ゴースト〉とかいう謎の重力波源なんでしょ。でもって、その前方に重力レンズ天体がある。この〈ゴースト〉をEPR源と考えて、左右に広がったエンタングル状態の粒子が、レンズで再び集められる。これを使って量子テレポーテーション実験を行う……というのが、あなたが提案した共同研究の内容……わかる?」
「さっぱり……」
 胸を張って答えたいくらいだね。ヒカルはお得意の波動関数のポーズを取った。今回は、真似するとドヤされそうなので、俺は頭だけいた。改めて思う。これは本当に俺から申し出た共同研究なのか? もしかすると、俺の記憶がアヤフヤなのをいいことに、本当はヒカルからの申し出なのではないかと……。ただ、そうだとしても、あえて嘘をつく動機もメリットも見つからない。
 例えば、ヒカルの方から申し込んだとして、申し込みの段階で俺が断ってしまうというリスクがあるから、『あんたが申し込んだんでしょ』として、断られないように策を練る……ということは考えられる。だが、ウチの所長とコチラの量情研部長の間で、既に話が済んでいるような事項だ。もはや俺の一存でどうにかできる案件ではない。
 まてよ? そんな重要な話が数日で決定するものだろうか? 昨日きのう、ヒカルと重力研の地下で会った時、『一週間前のことは覚えているか?』と聞かれた。一週間もの記憶を俺が忘れているとでも言うのか? しかし、どう考えても、ヒカルに最初に会ったのは一昨日おとといだ。その日以前の記憶に、欠落は無い。一昨日おととい、夕飯を食べたあたりまでの記憶ははっきりしていて、──そういえば素粒子研のレストランでカルボナーラかそういうのを食べたような──その後、真夜中に、例の不思議な地下施設で目覚めるまでの記憶が定かでないだけだ。数時間だけの記憶欠如けつじょ。後にも先にも、それだけだ。
 もちろん、忘れたことさえ忘れている……ということもあり得る。だが、それならば記憶の空白が発生する筈だ。そのような空白は存在しない。一週間全ての夕食のメニューを言えと言われれば不可能だが、何をしていたか程度なら言える。ずっと地下にこもりっきりで、見かけ上は全然変化がない日々ではあったが……。

 結局、彼女の講義レクチャーは、俺の物わかりの悪さも手伝って、小一時間にも及んだ。
 EPR源というのは、量子的に絡み合った粒子対を発生させる装置のことらしい。例えば、レーザー光を、垂直と水平の2つの偏向光に分離する非線形光学結晶BBOなどを使う。分離された光の一方が垂直向きならば、他方は必ず水平だ。
 古典的……つまり、俺のような頭の持ち主は、レーザー光が2つの光子に分離された瞬間に、どちらが垂直でどちらが水平かが決定されると考える。コインを投げて表か裏かということは、コインを受け止めた段階で決まっているのであって、それを目で見るのは単なる確認事項に過ぎない。
 ところが、量子の世界ではそうではない。それらは観測されない限りどちらとも決まっておらず、どちらか一方が観測された瞬間に、他方も決定されるのだ。すなわち、コインの裏表は、てのひらに収まった段階ではまだ決まっておらず、それを見た段階で決まるのである。例えば、ほとんど何も無い宇宙の深淵しんえんで光子対が発生し、その光が誰かに観測されるまでに数万年を要したとしても、この関係は変わらない。宇宙からやってきた光が垂直偏光フィルタを通過した瞬間に、数万光年離れた片割れの光が、水平偏向光に確定するのである。
「瞬間的に?」
「そう、瞬間的に」
「……ということは」
 俺はこう続けた。
「十分に離れた光子のどちらかを観測することで、もう一方の光子に情報を送ることができるということ?」
 ヒカルは右手の人差し指を立てて左右に振った。おそらく心の中では『チッチッチッ……』とか言っているに違いない。
「よくそういう風に言われるけれど、ちょっと違うの」
 と、悪戯いたずらっぽそうに話した。
「確かに、一方を観測すると、他方も決まる。こっちが垂直ならば、あっちは水平。もしも、偏光向きを手元で自由に変えることができるのならば、数万光年離れた光の偏光も自由に変えられることになるけれど、それは不可能。完全にランダムなの」
「えーっと、手元の観測で、垂直なのか水平なのかは50対50フィフティ・フィフティ
「そう」
「だから、向こうの観測も50対50フィフティ・フィフティ
「そう」
「だけど、こっちが垂直ならあっちは水平。あっちが垂直ならばこっちは水平という関係は100%正しいと……」
「その通り!」
 ほとんど、先生と生徒の会話である。
「でも、それは、光が左右に分かれた瞬間に水平・垂直が決まっていても同じじゃないのか?」
 ヒカルは腕組みをした。ちょっとイラつきオーラが出ている。
「それはさっき、ベルの不等式の破れの話をしたでしょ。分かれた瞬間に垂直・水平が決まっていたなら、偏光フィルタの角度を45度に変えたときに、50%通過とならない。隠れた変数理論じゃ相関にルート2だけ差があるの……」
「うーん……」
 何か、さっきからこのあたりで堂々巡りをしている。古典的な俺の脳みそでは、到底納得できていないが、ここで行き詰まってもしょうがない。観測問題におけるコペンハーゲン解釈とかの講義を受けにきたわけじゃないんだから。俺は、少しばかり矛先ほこさきを変えてみることにした。
「……しかし、そのコヒーレント光だか、エンタングル光だかが、何の役に立つんだ? 結局、全て50対50フィフティ・フィフティだし、その上、相手に何の情報も送れないのなら、意味がない」
「エンタングル状態の粒子対は、情報を送るための資源リソースなの。沢山集めて、それに情報を載せる……」
「載せる?」
 ヒカルは腕組みをしたまま左上を見上げた。考えているときの彼女お決まりのポーズだ。どうせなら人差し指を唇に添えてもらいたいものだが……。
「例えてみれば、ラジオの電波みたいなものかな。音声信号の強弱をそのまま電波に変換しているのではなくて、高周波の電波を使って、AM変調やFM変調して低周波の音声信号を載せているでしょう?」
搬送波キャリア……っていうヤツ?」
「そうねぇ。古典的にはその概念に近いかしら……」
 古典的と言われて少しムッとした。自分で言ったり思ったりする分には気にならないが、面と向かって人に言われると、何か時代に取り残されたような気がして嫌なものである。ヒカルは気にもとめない素振そぶりで、そのまま話し続けた。
「エンタングル状態にある粒子の片割れに、送りたい情報を持った粒子をぶつけるの。そうすると、新たなエンタングル状態になる」
「なるほど。その状態が数万光年離れた向こうに伝わって、情報が届くと……」
「あせらないで。話はそう単純じゃないわ。確かにボブ……相手側のエンタングル状態は変化するけど、偏光状態が50対50フィフティ・フィフティなのは変わってない。そこから単独で有用な情報を取り出すのは不可能」
 彼女はまた少し悪戯っぽそうに笑った。多分、俺がしかめっ面で片眉かたまゆが上がっているのを見てのことだろう。何かムカつく。
「その状態は、こちらから送った情報と、搬送波キャリアというべきEPR源からの光とが新たにエンタングルしたものだから、受け取った側では分離できない。変調して戻すためにはベル測定……。えーっと、キーとなる情報を別に送る必要があるの」
「封印した手紙と一緒に、開封する為の鍵も送る必要があるってわけか。なんだかややこしいな。で、その鍵ってのは?」
「アリス……いや、こちらから送った情報と搬送波キャリアの『運動量の和』と『相対位置』情報が鍵。個別に観測しちゃ駄目よ。送った先の情報まで壊れちゃうから」
「ふぅーん。で、その運動量と位置情報とやらはどうやって向こうに送ればいい?」
「そうねぇ……」
 ヒカルは、例の波動関数のポーズで微笑ほほえんだ。
「電話……かしら」

 『運動量の和』と『相対位置』の情報を電話で送る。最初は冗談だと思った。が、鍵となるこれらの情報を古典的な通信手段で送るというのは本当らしい。とうに冷めてしまった紅茶をすすりながら、俺は頭の中を整理した。ヒカルは、ミルクをレンジでチンし、ミルクティー……というか、ティーミルクにして窓の外を見て背伸びをしている。
 送信者と受信者……歴史的な経緯から、前者をアリスと言い、後者をボブと言うらしいが、アリスとボブは、送りたい情報とは別に、エンタングルした粒子を共有している必要がある。これが搬送波キャリアになる。アリスはこれに送りたい情報を変調波モジュレーションのように重ね合わせる。重ね合わされた瞬間に、アリスのエンタングル状態は別な状態に変わり、ボブの手元のエンタングルされた粒子の状態も、これに呼応して瞬間的に変化する。アリスとボブの距離が数万光年離れていたとしてもである。まさにテレポーテーションだ。だが、このままでは、ボブは送られた情報の読み方を知らないので、情報を復元することが出来ない。その読み方を電話のような古典的な通信手段で受け取ることで、ようやくボブは情報を解読し、読むことができる。
 注意する点は2つ。送付したオリジナルの情報は、重ね合わせエンタングルの段階で、別な状態に変化……要するに壊れてまうことになるから、アリスの手元には残らない。だから、情報のコピーは不可能ということ。FAXならば、情報が相手に届いても手元に原本が残るが、量子テレポーテーションは、相手に情報を送ると原本が消えてしまう。コピー&ペーストではなくて、カット&ペースト。まあ、そうでなきゃ、瞬間移動とは言わないよな。
 注意点の2つ目は、ちょっと深刻……と言うか、モチベーションが下がる話。ボブへ転送された情報は、光速度以下の古典通信LOCCで送られるキー情報がなければ解読できないので、超光速度の情報伝達はできない……という事実である。『数万光年向こうに瞬間的に情報を送れるのかと思ったのに、キー情報の送付は光速以下か……』と少しばかりガッカリしたが、そもそも、ヒカルの提案……いや、俺が言い出したらしいが、ともかくその実験は、一度天文学的に離れたエンタングル粒子が、重力レンズにより地球上で再び集められたものを対象にしているのだから、空間的にはそんなに離れていないのだ。長い旅の果てに再び出会った双子のように、一度は数万光年離れていたとしても、出会った後は空間的には離れていない。空間的には……。

 俺の古典的な頭が、少しひっかかるモノというか、違和感を感じていた。

「ところで……」
 俺は肝心な事を聞くのを忘れていることに、今更ながら気がついた。
「量子テレポーテーションの概略は何となく分かったが……」
「何となくぅ?」
 ヒカルはこちらを向き直し、怪訝けげんそうな顔をした。おそらく、素人にも分かるように最大限に噛み砕いて話したつもりなのだろう。スミマセン、頭が固くて……。
「で、結局のところ、俺は何をすれば? 出番が全然なさそうなんだが……」
「あなたの論文では、『パルサーの前をブラックホールが横切った』という結論になっていて、そこから来た光をEPR源として利用したい……と、あなたが言ったわけ……」
 いや、だから、電磁波ひかりじゃなく重力波だ……とケチを付けたかったが、少しばかりイライラしている風に見えたので、とりあえずヒカルの話をそのまま聞くことにした。嘘か本当か知らないが、俺がそう言った事になってるしな。
「ほら。重力研の上にも移動式の2台のパラボラアンテナがあるでしょ。……アレ、なんて言ったっけ?」
「恒星干渉計?」
「そうそう。それそれ」
「あれは、関山が専門で……。一昨日おとといウチの研究所に来たときに、地上うえで会ったのでは?」
「あぁ。あの人ね……」
 彼女はアヒル口をして、ちょっと不機嫌な顔をした。関山は、ヒカルの到着を、地上うえから俺に連絡してきたヤツである。調子のいいヤツだから、ヒカルに対してどんな対応をしたのかが少し気になった。
「あのアンテナも、空間的なコヒーレンスの大きさを見ている装置なんだけど……。あ、これ以上説明しても話が余計混乱するサチるだけね……」
 確かに余計に混乱するだけかも知れないが、そこまで言っておいて『あんたにゃ無理ね』みたいな口調はどうかと思うぞ。
「……要は、EPR源となるパルサーとブラックホールの正確な位置が知りたいの」
「それだけ?」
「そう、それだけ。だって、搬送波キャリアの照射位置がきちんと分からないと、何をするにも先に進めないでしょ。あたしとしては、ブラックホールの正確な軌道さえ分かれば、次回の実験には支障無いんだけど……」
 ちょっと拍子抜けした。それは、今、俺がやっている仕事そのものじゃないか。俺は俺の仕事をちゃんとやればそれでいいらしい。共同研究でなくてもやらなきゃならん仕事だ。まあ、論文になる前の生データが欲しい……ということなのだろう。研究者同士のデータ相互利用は、現場では『下さいな』『はいどうぞ』的なノリの場合が多いが、そのデータを使っておおやけに発表する段になると、色々と制限がつく。第一、観測者でもない第三者が、観測者を差し置いて、オリジナルのデータを公表するわけにはいかんだろう。だから、第三者が論文でデータを利用する際には、解析結果だけを出して生データは出さないとか、論文には、『○△機関のデータを用いた』とキャプションを入れるとか、そういう取り決めが色々と必要になってくる。共同研究にしとけば、そのヘンの面倒な手続きが緩和かんわされるので、研究者も事務屋サンも仕事が減って、一挙両得ウィン・ウィンという世界だ。

「しかし……」
 俺は少し躊躇ちゅうちょしたが、正直に言ってみることにした。
「おそらく、正確な位置関係はアメリカかヨーロッパのグループの方が先に突き止める可能性が高い。何しろ、向こうの計算機は……」
「それじゃあ間に合わないの! うちの研究室の宇宙シミュレータ割り当て、32ノード分使っていいわ」
「えっ!?」
「共同研究なんだから当然でしょ。それに〈那由他モジュール〉も使っていいわよ」
 今まで4ノードでケチケチやっていたことを考えれば、これはかなりのことが出来る。もちろん、演算処理がそのまま8倍速になるわけではないが、これだけの計算機資源を使えば第二報の論文も他を出し抜くことが可能かも知れない。こちらには既に、先陣せんじんを切って開発したプログラムソースがあるのだ。
 が、それ以上にオイシイのは〈那由他モジュール〉だ。こいつは最近ようやくできた、我が国が誇る、世界初、汎用はんよう型量子コンピュータ・モジュールで、超が20個ほどつく超並列計算機である。正確には〝超並列〟って言う仕組みと違うらしいが、原理は俺に聞くな。ヒカルに聞いてくれ……というか、おそらく、量子情報処理研究部の中の誰かが、コレを開発したんじゃないかな。確か上の階に『量子コンピュータ開発研究室』ってのがあったような気がする。
 最近、コイツの原理を利用して開発された、重力多体専用計算モジュールUS─GRAPEというのが、重力研究仲間では話題で、恐ろしく速いらしい。ただ、プログラムのアルゴリズムを大幅に改造しなければ、宝の持ち腐れになるらしく、扱いが難しいそうだが……。
「はい。これ……」
 ヒカルは机の引き出しからカードを取り出し、俺に差し出した。萌え系の少女がニッコリ笑っているカードで、アニメか何かのトレーディングカードに見えるのだが……。何だコレ?
「〈那由他モジュール〉の使用許可カード。これが無いと使えないわよ。今のところ門外不出のシロモノだから、現地じゃないと使用不可ね」
 カードの情報では、この萌えキャラの名前は『那由他量子りょうこ』と言うらしい。なになに?

 ──ぼぉーっとした容姿に似合わず、聖徳太子並みに一度に人の話を沢山聞けるのが特技。でも、恥ずかしがり屋なので、あんまり見つめると小さくなっちゃいます。パパの名前はゆずる、ママの名前はけいです。よろしくねっ!──

 ……って、なんですかぁ、これは!?
 俺が、眉毛まゆげをハの字にしているのを見て取ったのだろう。
「そういうキャラクター展開した方が、広く認められて予算も取りやすいんですって。年に一度の一般公開では着ぐるみも出てたみたいだし……。グッズも出てるわよ」
 そういって、ヒカルは『那由他モジュール稼働記念』と金文字の踊ったボールペンを見せてくれた。ノック部分からプラプラと、キャラがぶら下がっている。いやはや、何とも。
「ここだけの話だけど……」
 ヒカルは声をひそめて、
「このキャラ、一応、一般公募で決めたんだけど、最後は部長が是非にと、コレに決まったらしいわ……」
「じゃあ、ここの部長はオタクでロリ……」
 ヒカルは素早く、人差し指を俺の口に押し当てた。顔が近いぞ。
「あたしが言ったって言わないでよ」
「い、言いまひぇん……」

        *  *  *

 グッドタイミング……なのかどうか分からないが、ヒカルの机にある端末のアラームが鳴る。見ると、礼奈の顔のアイコンが端末上で飛び跳ねていた。おおっ。すっかり忘れていた。ヒカルは端末まで歩き、アイコンをクリックする。
「橋本です。準備できましたぁ」
「わかったわ。今行く」
 ヒカルはそういうと、机に置いてあったレーザーゴーグルを持ち、こちらを振り向いた。
「準備ができたみたいなのでついて来て。予備実験だけど……」
「どこへ?」
「地下……」
 『出たな、地下室の粘菌術師め! その手にはのらないぞっ!』……と言えるわけもなく、後に続く。エレベータホールまで行って、そのままB3が押される。地下といっても、例の斜行エレベータまで行くのではないようだ。少しホッとする。B3でドアが開くと、眼前のエレベータホールの光景は2階とあまり変わらない。ただし、通路は左壁側にひとつあるだけだった。もちろん窓は無い。通路の右側だけにドアがあり、部屋があるという構造。部屋は全部で3つしかないから、ひとつひとつはかなり大きい。
 ヒカルは一番奥のドアで立ち止まった。ドアには中の様子をうかがい知るような窓が無く、上部で赤色灯が点灯している。ドアに描かれたマークを見れば、クラス3Bのレーザー光を使う施設らしい。
 中からは、パッ、パッ、パッという規則正しい音がかすかに聞こえている。
 ヒカルはドアの右横にあるスリットにIDカードを通し、インターフォンらしきボタンを押した。
「あ。入れます」
 インターホンから、間髪かんぱつれず礼奈の声がした。ロックボタンを押すと、スライドしてドアが開く。ドアの先には2mほどの空間を挟んで、またドアがある。要するに、二重ドアになっていて、外側を閉めないと内側は開かない作りになっているようだ。防塵ぼうじんのためか、万一のレーザー光漏れを防ぐためか、あるいは両方だろう。いわゆる、誤操作防止機構フール・プルーフというやつだ。両側の壁には小さな棚があり、レーザーゴーグルを始め、様々な工具、部品、紙製ウエスキムワイプなどの消耗品からヘルメットまで置いてあった。
「はい、これ」
 ヒカルは棚においてある、外来用と書かれたレーザーゴーグルを俺に手渡した。
「それと、ここ、土足禁止だから……」
 と、これまた外来用と書かれた足元のスリッパをくように勧められる。ちらっと見ると、ヒカルのマイ・スリッパはかわいいウサギのキャラクターが描いてあった。そんな趣味があったのか?
 内側のドアには小さな窓があり、何やら無数の光学系機器が並んでいるのが分かる。さらにその中を、レーザー光が縦横無尽に走っているのが見えた。まあ、可視光で見えるだけマシだ。その昔、学生実験でエックス線のステレオ画像を採取していたときは、見えない恐怖があったなぁと、古いことを思い出した。
 外部ドアが閉まっていることを、ヒカルが指差し確認する。もっとも、閉まってなければ内部ドアは開かないから、チェックする必要も無さそうなものだが、そういう動作確認行動が刷り込まれているのだろう。動作に無駄が無い。無駄の無い無駄に洗練された無駄な動き。内部ドアを開けると、パッ、パッ、パッと周期的な音が一層大きくなった。どうやら、レーザーがパルス状に出ていて、その励起れいきのタイミングでジェネレータから音が出ているようだ。

「じゃあ、橋本サン。酒井さんに、この実験の概要を説明してあげて。学部レベルのゼミだと思って」
 ……最後の一言は余計だ……とは思ったが、分野が違えば素人同然。正しい指摘だろう。
「はい。えー、今から行うのは、量子エンタングルメントを用いて、2株の粘菌の変形体が記憶した低温情報を互いに交換できるか? という実験です。変形体は低温下で5時間置かれるとフラグメント化しますけどぉ、5時間という時間はトータル時間であって、途中で低温状態が中断してもいいです。ですから、4時間だけ低温下に置かれた粘菌は、次の機会に1時間だけ低温となればフラグメント化しちゃいます。そこでぇ、低温状態を全く経験していない粘菌株と4時間経験した株を用意し、情報を交換できれば、この実験は大成功です。量子エンタングルメントに使うスクイーズ光はPPKTP結晶を使い、共振器内ロスの排除および位相ゆらぎの制御を行って……」
「ちょ、ちょっと……いいですか?」
 あまりによどみなく滔々とうとうと話す礼奈に、俺はたまらず口を挟んだ。何が何だかさっぱり分からん。このまま最後まで話されても、後でもう一度最初から聞くことになって、時間の無駄となるだろう。
「まず、粘菌ってどんなものですか?」
「あ、ここに入ってます」
 礼奈はそういうと、実験装置の左右に置かれた、ドラム式乾燥機のような装置のフタを開けた。乾燥機とは違い、大きさの割に中の空間はかなり狭い。こぶしひとつ入るか入らないかという程度だ。
核磁気共鳴装置NMR?」
「はい。機能的磁気共鳴イメージング装置fMRI生体磁場計測器MEGの複合機です。これで、粘菌の状態を測定、操作します」
 何故、ワザワザNMRをMRIと言い直す? 物理屋ならNMR……と思ったが、よくよく考えると、礼奈は遺伝子工学専攻のインターンとか言っていたから、医学屋に近いのかも知れない。礼奈はこちらを見て微笑ほほえんでいる。最初に会った時のふわふわ感が少し戻ったか。
「で、こちらがディクチオステリウム=ディスコイディウムという……」
「な。なんだって?!」
 またまた出てきた、舌を噛みそうな名前。クラゲの時もそうだったが、よくもまあ、スラスラと言えるものだ。
「えーっと、和名がキイロタマホコリカビという粘菌です」
 見たまんまを和名にしたんだろうなと思いつつ、その狭い空間から静々と出てきたのは、プレパラートに載った、やはり名前の通りの黄色いかたまりだった。大きさは直径1㎜にも満たない。今、耳掻みみかきから取り出しました……といっても信用してしまうかもしれないようなブツだ。おそらく、礼奈の袖口が少し黄色かったのは、コイツの所為せいだろう。
「……はぁ」
 それしか言葉が出なかった。コイツのどこが可愛いのか? 断然、クラゲの方がまだマシだな。それなりに優雅ゆうがだし……。
 礼奈は、それをまた元に戻し、装置のふたを閉める。装置の天面をよく見ると、蓋の上に『アリス』と書かれた札が張ってある。反対側の装置は『ボブ』だ。おそらく、こっちにも同じものが入っているのだろう。
「……で、フラグメント化というのは?」
「えーっと。この粘菌は、今は塊状ですけどぉ、5時間ほど15度以下にすると核数8の球状の変形体に分裂します。それがフラグメント化です」
 ますます可愛くない。最近リメイクされた、遊星からの何とかっていう映画に出てくる微生物みたいなモンじゃないか。あんなのが大量にあって、ピクピク動いてたら卒倒そっとうもんだ。ホラー映画にはうってつけの素材かもな。
「ということは、既にこれは4時間程冷やしてあるから、あと1時間ほど追加で冷やせば分裂するということ?」
「はい。そういうことです」
「で、あっちの『ボブ』の方には、冷やしていないヤツが入っていると……」
「はい。そういうことです」
「……で、情報の交換というのは? 量子テレポーテーションなら、情報の移動というか転送で、交換では無いと思っていたので……」
「えーっとですねぇ……」
 礼奈はちょっと困った顔をして手元の資料パッドを操作している。
「量子テレポーテーションは確かに情報の移動だけで、複製はできません。そこで、量子エンタングルメント状態そのものを量子テレポーテーションさせます」
 既に、何言っているのかよく分からんが……。
「え? エンタングルした光を使って『アリス』から『ボブ』に情報を送るのでは……」
「はい。量子エンタングルメントした状態そのものを『アリス』として、これとは別の量子エンタングルメントした光で移動させるのですが、移動させた『アリス』そのものが量子エンタングルメントした光なので、さらにこれを使って、量子テレポーテーションができるわけです。この2つの量子テレポーテーションを対等に行うのが、いわゆるエンタングルメント・スワップという概念で、双方向の情報通信が可能となります。ただし、必ず複数の量子エンタングルメント光を使うので、それらを制御する受け皿が必要で、これを『クレア』と呼びます」

 礼奈は、ここまで言いよどむことなく一気に言い切ると、『アリス』と『ボブ』の装置の間に鎮座ちんざした物体……半球形に2つの球がくっ付いた、まるで水分子のような形をした物体を指差した。なるほど、確かに『クレア』と書いてある。予期せぬタイミングで現れた第三の男──いや、女か?──だ。こうなりゃ、ダディでもエヴァでも何でもこい。
「ここにも、粘菌が?」
「いいえ。『クレア』は情報の発信源ではなく中継地点なので、誤り訂正用も含めて複数の量子エンタングルメント光を発生させる縮退光パラメトリック発振器OPOが入っていて、さっきまでスクイーズ状態の調整をしていたところです。これが結構大変なんですよぉ!」
「な……、なるほど……」

 よく分かった。俺には絶対理解できない代物しろものだってことが、よーく分かった。少なくとも、数時間程度の解説レクチャーで分かるようなモンじゃない。知恵熱が出そうだ。だから、今は分かった振りをすることにした。
「……それともうひとつ、基本的な部分で気になる点があるんだけど?」
「なんでしょう?」
 いやいや、何処どこかのファースト・フード店の店員みたいな、にこやかな顔で受けこたえされても困るのだが……。
「小さな粘菌といえども、分子レベルからすればものすごく巨大で、その情報量と言ったらとんでもない量になるのではないかと……?」
「はい。分子ひとつひとつのデータを読み取ったならば、最低でも分子数と等量の量子エンタングルメントした光が必要ですし、仮にそれが可能だったとしても、情報交換させる分子が1対1対応していることはまずあり得ません。現在の、1対1対応による双方向の量子エンタングルメント光情報通信速度は毎秒……えーっと、10の18乗オーダーがやっとです。現実的なレベルになるには、あと百万倍程度の高速化が必要です……」
 礼奈は顔と雰囲気に似合わず、とても生真面目きまじめな性格のようだ。正確にキチンと答えてくれるのはありがたいが、何と言うか……遊び心がない。もっと言葉を省略して簡便に言えないものだろうか。そろそろ俺の脳ミソは限界に近い。頭から湯気が出そうだ。
 助け舟をおうと、ヒカルの方をちらりと見ると、前髪を指先でつまみながら枝毛のチェックをしていた。おい、なんとかしろよ、この状況。任せきっているのか退屈なのか分からないが、なんでお前だけリラックスして、一人称グルーミングしてるんだよ。

 そんな俺のアップアップ感に、礼奈は全く気づくことなく、話を先へ先へと進める。
「……そこで、私たちは、機能的磁気共鳴イメージング装置fMRIによる対象物……今回の場合は粘菌ですけど、この磁気核からの放射光情報のコヒーレント性に着目し、交換が必要な情報のみを取捨選択しゅしゃせんたくする方法を模索もさくしました。交換すべき磁気核からの放射光を量子エンタングルメント光で掛け合わせた後、一方のみを、反射板リフレクタを使って位相を逆向きにして干渉させれば、そもそもコヒーレントな状態であった光は、相殺そうさいされて消えるので、量子力学的な確率振幅は原理的にゼロとなり、最初から放射光を出しません。別な言い方をすれば、放射光は出ているのですが、それらの確率全振幅は、それぞれの経路の和で表されるため、ファインマンの経路積分により淘汰とうたされるのです。この手法により、交換すべき情報を劇的に減らすことが可能となりました。ここまでで、何か、ご質問は?」
 礼奈は、先ほどと同じように、『ご一緒にポテトはいかがですか?』と言わんばかりの笑顔でこちらを見ている。俺の頭からは湯気が出てる。絶対出てる。ロボットだったら爆発して部品が飛んでるし、自動車だったらラジエータが焼け焦げているだろう。そんな状態。
「ええっと……。もしも、2つの粘菌が全く同じ状態のものだったら?」
「その場合は、全てがコヒーレントな状態なので、情報は何も交換されません。別な言い方をすれば、全ての経路の総和がゼロだということです」
「では、逆に全然別のものだったら?」
「使用している機器の出力と、交換スワップする対象物の大きさによりますけど、作成される量子エンタングルメント光に載せられる以上のオリジナルな情報が存在した場合、オーバーフローを起こして、中途半端な情報交換となります。オーバーフローを生じさせないためには、なるべく情報が揃った『アリス』と『ボブ』を選ぶ必要があります」
「……どうやって?」
「今回の場合は、単一細胞核から培養して株分けした粘菌を使いました」
「赤の他人より、双子の方が共有する情報が多いってこと?」
「え? まあ、そんなところです……。他には何か?」
「いえ。大体のところは分かりました」
 ヒカルの方を見ると、壁にもたれかかって下を向き、両手の指先を内側に丸めて爪をこすり合わせている。枝毛むしりの後は、爪磨きか? いい気なもんだ……ったく。俺の質問が終わったのを受けて、ヒカルは顔を上げ、こちらを見た。俺と目が合ったことに少し気恥ずかしいような表情を見せたが、それは一瞬のことだった。

「……じゃあ、そろそろ始めましょうか」
 ヒカルはそう言うと、礼奈に目配せをした。この実験が何度目なのかは分からないが、礼奈はかなり慣れた手つきで、コンソールを叩き、計器に目をやり、レーザー光の最終出力調整を行っていく。
「この実験の難しいところはね、相手が生きている……という点なの」
 ヒカルは、独り言のようにつぶやいた。
「……動植物の情報処理能力とか記憶とか、そういうものの物理的な動作原理は分かっているけど、実際、どのように蓄積されたり活用されたり、発想の跳躍ちょうやくつながったりするのかは分かっていない。それを分からないまま転送しようっていうのが、この実験の本当の意義ね」
「分からないまま?」
「そう。分からないまま。そもそも、全く同じ動きをする生物がいたとしても、その動作の根源となっている部分の回路が全く同じということはあり得ないでしょ。粘菌には頭脳は無いけど、組織化された行動をする。個々が好き勝手に自由に生きている筈なのに、全体として最大多数に最適な環境を選択している。でも、その行動をつかさどるネットワークみたいなものは、2つとして同じものはない」
「それじゃあ、普通に考えると、違うネットワーク上の原子やら分子の励起状態の情報を交換をしても、その後の動きまでがちゃんと交換されるとは思えないんだが……」
「普通はね……。常識的にそんなことはあり得ない」
 彼女は何か遠い景色でも見ているような口ぶりだった。確かに、動作が同じだとしても、そこに至る経路は数限りなくあるわけで、それら経路が違うモノ同士の情報交換などできるとは思えない。あるコンピュータに、アーキテクチャの違う別のコンピュータのバイナリコードを流し込むようなもので、それがちゃんと動くと考える方がおかしい。
「……でもね。エンタングル状態の光子を相互干渉させると、最も類似した部分を自発的に選択して入り込むらしいことが分かってきた。その状態が最もエネルギー的に有利だから。だから、一方を逆位相にすれば、最も似ていない部分だけが相互交換される。量子はどの経路が最適かを瞬時に判断できるの。これはまだ作業仮説に過ぎないんだけど……」

 俺は、屈折の法則を最小作用の原理で解くような……あるいは、変分法で汎関数の停留値問題を解くようなイメージを頭にいだいた。例えば、シャボン玉の表面で反射された光とシャボンまくの内側から反射した光の位相が合えば、光は強め合って外に出てくる。反対に、逆位相の場合は、外へ出る光は相殺されて消えてしまうので、光は反射されずシャボン膜を通過してしまう。こうやって、反射して外に出て行く光の波長が選別され、シャボン膜の微妙な厚さの違いによりシャボン玉は虹色にかがやく。この原理は、カメラレンズの反射防止膜コーティングなどにも使われる。
 不思議なのは、光は、どの段階でシャボン膜の厚さを知るのかという点だ。ある光がシャボン玉の表面にやってきて、シャボン膜の内側から反射してきた光と出会ったときに、情報を交換するのか? このとき逆位相だったら、後から来た光は直進すれば良いことになるが、逆位相だということを知るためには、先行して引き返して来た光が必要ということになる。すなわち、先行した光は、直進すべきところを引き返した……という矛盾をはらむ。
 現実には、膜の厚さを知るための、先行した反射光は必要ないことが分かっている。例えば、1秒毎に光子を1粒ずつ発射する装置を考えてみればいい。この場合、膜の周辺にはいつも1粒の光子しかいない。膜を透過すべきか、あるいは反射すべきかを知らせてくれる他の光子はどこにも存在しない。にも関わらず、光子は、膜の厚さを最初から知っていたかのように振る舞い、厚さに応じた行動──直進か反射かの選択──を難なくこなすのだ。
 おそらく同様な……しかしそれ以上に恐ろしく複雑な過程が、エンタングル状態の光子同士の相互干渉では起きているに違いない。たった1つの光子でも、あたかも知性を持って行動しているかのように振る舞うことがあるのだから、それらがたばになってエンタングルしたまま行動すればどうなるのか?

「準備できました!」
 礼奈の明るい声がひびいた。装置を見ると、最終調整を始めた状態と何も変わっていないように見える。ただ、制御端末の画面には入力をうながすプロンプトだけが点滅していた。
「酒井サン、押してみる?」
 ヒカルが覗き込むような目でこちらを見ている。先ほどまでの、何か思い詰めたような表情と言葉は既に無くなっていた。
「え? 何をすれば……」
「このエンターキーを押すだけ。簡単でしょ。これで粘菌の記憶はあなたの手にゆだねられているってわけ」
 ヒカルは微笑んだ……というより、マッドサイエンティストが新しい玩具オモチャを手に入れ、世界征服をたくらんでいる時のよう。俺はその手先というわけだ。さすが『地下室の粘菌術師』。
「じゃあ、折角せっかくなので……」
 俺は、大げさに手を振り上げ、キーを押した。画面には様々な表示が、洪水のように流れていったが、装置自身には物理的な変化はない。パッ、パッ、パッというジェネレータの音も相変わらずだ。数秒もしないうちに再びプロンプトの点滅に戻る。ただ、画面には全処理完了オール・コンプリートの文字が踊っていた。
「えっ? ……これで終わり?」
「そ。結果は、2つの粘菌をさらに1時間冷やせば判明するわ」
 礼奈は、いそいそと『アリス』と『ボブ』のふたを開け、粘菌の載ったプレパラートを大事そうに両手で取り出していた。当たり前だが、色が変わっているとか、焼けげているとか、そんな変化は一切無い。何か、地味な実験だな。もっと盛大にレーザー光が宙を舞うとかないのか。ま、ウチの〈オルガン〉も、重力波を捉えたからって、グォングォンと振動するわけではないしな。こんなものなのかもしれない。
 そうこう考えているうちに、礼奈はさっさと装置の蓋を閉め、レーザーの発振を止め、端末のシャットダウン操作まで始めている。準備に1時間かかった割には、撤収てっしゅうは素早い。この手の機器は暖気運転に時間がかかるから仕方が無いことだが、その手際の良さから、やはりこの実験は何度も行われているであろうことは間違いない。

 俺は、ふと、ヒカルが言っていた言葉を思い出し、質問をしてみた。
「この実験は〝予備実験〟だと言っていたが……、本番は?」
 ヒカルは何故か鼻で笑った。
「それはここでは出来ないわ。地下実験施設に大規模な装置があるから。……今から見に行く?」
「え? い、いや、それはまた今度……」
 地下実験施設とは、おそらくあの部屋だ。話のスジとしては、俺が共同研究を申し込んだんだから、その実験装置を見に行ったとしても、何らおかしい事はない。今すぐにでも見てみたい気もする反面、止めといた方がいいと心の何処かで引き止める自分がいる。もう少し心の準備が必要みたいだ。

 俺は、ヒカルと礼奈にお礼を言い、今日はそのまま帰ることにした。『一緒にランチでも』と、礼奈に誘われたが──なぜ共同研究者であるヒカルは誘わないんだ!──、俺の頭脳は既にオーバーフロー気味……気味じゃなくて完全にオーバーフローだ。もう、午後は半休を取って寝たい気分だ。

 はてさて、そんなこんなで翌日のヒカルからのメールには、黄色いブロッコリーのかけらのような球体が沢山映った、明らかに食事時には見たくない顕微鏡写真が送られて来ており、実験が成功したという趣旨しゅしの文が短くつづられていた。このツブツブに分解されることを〝フラグメント化〟というらしい。これが予備実験だとして、最終的にはブラックホールを経由した重力波……電磁波かも知れないか、とにかくソレで本実験を行うのだ。

 一体全体、何を交換するつもりなのだろうか?







三、タイムマシン


 ガキの頃の話だ。俺は、星や宇宙が大好きな子供だった。ブラックホールとか超新星爆発とか、分かりもしないのに好きだった。だから、俺にとってのヒーローは、TVアニメとか戦隊ものの主人公ではなく、リアルに働いている科学者だった。今にして思えば、とても扱いにくいガキだったろうと思う。今更ながら先生どうもスミマセンと、お歳暮とかお中元とか、季節に関係なく配って歩きたくなるほどにだ。けれども、ガキだったから、科学のことなんて本当のところ、何も分かっていなかった。
 今でも赤面するのは、小学校の頃のノートに俺が描いたブラックホールの漫画があって、それに何かをぶつけると、ブラックホールの一部が欠けたりする描写びょうしゃがあることだ。シュバルツシルト半径上には事象の地平面はあっても、そこまで物質が詰まっているわけではない。そこから、破片を取ってくることなど出来やしない。
 タイムマシンがあったら、当時の俺にコンコンと説教をしてやりたい。いや、しなきゃならない。これは義務だ。俺にせられた義務だ……とすら思う。だが、一方で、もしそれが可能だったとしても、いくら正論を言って聞かせたとしても、ガキの俺は聞く耳を持たないだろうことは重々承知だ。ある意味、無知というのは強い。そこには思い込みしか無い。理論もへったくれもない。科学にあこがれていながら、俺は科学とは最も縁遠い妄想にしばられていた。

 そんな中、俺の一番のヒーローだったのは、戦う物理学者……と形容していいだろう、当時の宇宙工学研究所の重力研究室所属、佐々木主任研究官だった。アインシュタインの最後の宿題と称される重力波検出フィーバーの中、佐々木はXYZ三軸全て同感度のスタンドアローン型重力波望遠鏡の建造を主張していた。地面に横たえる形の共振型重力波望遠鏡はあっても、垂直に吊り下げるものは存在していなかった。たとえ、それらが無かったとしても、国際協力によって、Z軸に相当するデータをもらえばいいじゃないか……というのが、大抵の〝お偉いさん〟の主張だった。当時に限らず今でもそうだが、基礎科学など、実利じつりに直接つながらない分野の研究予算は、国民的な〝ウケ〟が取れない分野から削られる傾向にある。そういう風潮・思想に佐々木は頑として立ち向かった。
 3次元のデータは同一の原理で作動する機器、単独の制御装置によってその精度が保証される。コンパクトでスマート、精度的に優秀な機器を作るのは日本のお家芸ではないか。ならば、国家の威信を賭けででも、そういう装置を作るべきだと。
 それから数年後、国産初の……いや、世界初の三軸共振型重力波望遠鏡は完成した。それまで存在しなかった垂直型の共振型重力波望遠鏡は佐々木自らの設計によるものだ。そして、その完成の年。重力波をともなう天体衝突は3例発生したが、その全てにおいて、真っ先に現象を捉え、該当天体を特定したのがこの望遠鏡だった。『重力波を捉えたら、位置はDr. SASAKIに聞け』というのが、世界各国の重力波研究者の合い言葉となった。そのうち、『次に何処どこで発生するかもDr. SASAKIに聞け』と、ジョークまじりに予言者扱いされるようになった。そうなると現金なもので、一般受けするセレモニーとセットで次々と予算が通るようになった。異なる振動数の重力波を捉えることができるようにと、多段式になったのもそういうお祭り的経緯からである。

 そんな佐々木にあこがれをいだいていたガキの頃の俺だったが、中学生のとき、彼のTVインタビューを聞いて、考えを改めることになった。佐々木が何か理学生向けの講演会を行ったときの様子を録画したニュース映像だったと思う。話の内容は全然分からなかったが、重力波望遠鏡のことのみならず、色々な苦労話をおもしろおかしく話した後、『皆さんは物理ファンになってはならない、物理屋になってもらいたい』と語ったのだ。それまでの俺は単なる物理ファンだったことに気づいた。科学者とかそういうのは憧れるものじゃない。なるものだ。
 それから十数年後。重力研究室は重力研究所として独立し、佐々木は一線を退いて、所長となり、俺はそこで働く研究者となった。所長には『昔、憧れていました』などとは一切言っていない。『TVで見たことあります』程度は言っただろうか? 確か所長は『そうかぁ……』とか言って照れくさそうな顔をしていたように思う。

 こんなことを言うと、夢が叶って順風満帆じゅんぷうまんぱんのように感じるかも知れない。だが、子供の頃に興奮して見ていた多段三軸共振型重力波望遠鏡の実物を目の前にし、俺は少しばかり憂鬱になっていた。
 科学・技術分野の中で、十数年は長い。途方も無く長い。最新鋭の機器は2~3年で凡庸ぼんようとなり、5年で時代遅れとなり、10年を待たずに破棄対象となる。改良を加えるとはいえ、最新鋭機になるわけではない。十数年もたては何の取りも無い、維持費だけがかかるお荷物と化すのが普通だ。そして、俺も大人になっていた。子供のままであったなら、こんな古いものでも目を輝かして見ていたかもしれない。
 考えてみて欲しい。例えば、アポロが未だに現役で人を宇宙に飛ばしているとしたら?
 ENIACが今なお科学計算に現役で使われているとしたら?
 子供の頃憧れたアイドルが十数年後、厚化粧で肩で息をし、現役で踊っていたとしたら? 
 ……そこで働きたい、あるいは直接会いたいと思うだろうか?

 重力研の重力波望遠鏡は2年前、5年毎に行われる更新契約を打ち切られる公算が大だった。今となってはコイツの感度は、ちょっとした大学の学生実験で使われるモノより多少良い程度でしかなく、その割に図体もでかい。また、星々の衝突による重力波については、既にあらかたの研究が終わりつつあり、今は、銀河団同士の衝突や、宇宙背景重力波などの、より波長の長い……宇宙空間で展開されるレーザー干渉型でしか感知できない事象の研究が主流だ。すなわち、機械の寿命という観点からも、研究の目的の推移すいいという観点からも、コイツを現役として存続させる理由が立たないのである。
 俺はその2年前、業務仕分けの税務監察官に対し契約更新の説明をするため、所長と共に霞ヶ関に出向いた。俺の役割は、現在の重力波望遠鏡の直接の担当者として、所長の話を技術的な面でサポートすることだったが、ほとんど出番はないだろうと考えていた。
 俺自身、コイツは科学博物館に展示されることが望ましいとさえ思っていた。現役でさえ無ければ、俺は昔のキラキラした目でコイツをみる事ができる気がした。だから、契約は打ち切られて終わり。その方が良いだろうと……。

 監察官はあからさまだった。
「既に役目は終わった」
「他機関も、このクラスの重力波望遠鏡は利用していない」
「これ以上、新しい発見が想定されるのか」
「費用対効果を考えろ」
 ……言いたい放題である。もちろん、こちらも想定問答は作っていて、それなりに答えは用意しているが、監察官の言葉の方が正論だと思える部分が多い。もしも俺がガキのままだったならムキになって反論しただろう。『だって、コイツ、カッコイイんだもん』……と。そいつは理屈なきワガママってもんだ。
 それに、監察官は真の敵ではない。どちらかというと同士だ。彼らは我々の主張を、政治家に対し〝専門家〟として伝えなければならない。要するに監察官は、我々が述べた言葉を〝武器〟にして、更に理不尽な相手を説得せねばならない立場にある。我々が監察官を納得させることが出来ないなら、彼らがその上を納得させられる訳が無い。

 所長はあくまで柔和にゅうわに正面を。俺はその横で、手持ち資料に目を向けながら、ひたいで話を聞いていた。監察官は最後に同情を込めて、こう言った。
「昔は、この望遠鏡も巨大なものだったかもしれん。沢山の発見もした。それは認める。だが今は、小さい望遠鏡だ。そうだな……。ほら、あの天体望遠鏡の横に付いている小さい……」
「ファインダーですね」
 所長は少し笑みを浮かべながら回答した。
「そう。その程度のものだ……」
 俺は、その時、所長の横顔を見て息を呑んだ。顔は相変わらず柔和でおだやかだ。だが、眼光がんこうはガキの頃に見たあの戦う物理学者になっていた。
「確かに、ウチの重力波望遠鏡は、今ではファインダー程度の感度しかありません。しかしながら、天体望遠鏡には必ず小さなファインダーが付いているんです。どうしてか分かりますか? 理由は簡単です。見るべき星を探すための道標みちしるべが必要だからです。星同士の衝突による重力波は、最初こそ派手な振動を起こしますが、規模が小さい分、直ぐに減衰する。早く星を特定してデータを取らないと、手遅れになる。精密な観測は、他の最新鋭の望遠鏡に譲りましょう。国際協力にもなるし、その方が効率的だ。我々の望遠鏡の観測目的は、いち早く観測し、位置を特定し、世界各国の各研究機関にその情報を知らしめるもので、開設当初から何ら変わっておりません。その分野では今でもトップの成績にある。今、ファインダーが無くなれば、本体の望遠鏡が巨大になり過ぎた分、どこ見ればいいのか分からなくなるでしょう。我々が残っているから、他機関は安心して巨大化できるんです。これも国際貢献、役割分担ですよ。……酒井君、世界各国にある重力波望遠鏡の重力波源特定成績と、その誤差の資料を……」
「はい!」

 性急せいきゅうさと正確さはトレードオフの関係にある。急いで結論を出せば、正確さに欠ける。正確な測定を心がければ、時間はいくらあっても足りない。ウチにある重力波望遠鏡の役割は、いち早く重力波源を見つけ出し、適当と思われる位置に最初のくさびを撃ち込むことだ。手元の資料を検索しテーブル上にポップアップさせる。精度評価では公共機関が運営する大多数の望遠鏡に及ばないが、即時的に発表するという面ではピカイチだ。
 面白いことに、他機関は、年代が上がるにつれて観測精度は良くなるものの、成果発表のタイミングが遅れる傾向にある。バージョンアップのたびに機器の特性が変わるため、精度的に行ったり来たりしているものもある。ところが、ウチにある重力波望遠鏡のデータはブレがない。データ的には少しずつしか改善されておらず、結果的に色々と追い抜かれてる面は多いのだが、これほどまでに同じ傾向・安定性を見せている重力波望遠鏡は、他に無いのだ。
「……なるほど、興味深い切り口ですね。あとで、説明資料としてまとめて下さい」
 監察官もまた、所長の顔を見てかすかに微笑んだ。

 例えば、最高水準の医療スタッフ、最新鋭の機器、専門の医者がひしめく大病院があったとしても、緊急医療チームが無くなることはない。彼らは専門医に比べれば知識も技量もとぼしく、利用できる機材も少ないかも知れないが、現場にいち早く出向き、可能な限りの応急処置をし、大病院へ搬送はんそうするまでの最も大切な仕事をする。そこまで命をつなぐこと。それが使命だ。俺は、機材しか見てなかったのだ。最新鋭の機器が大病院にあるのに、何故こんなチープな機器が現役なのかと……。
 所長は決して、惰性だせいやノスタルジーで、この重力波望遠鏡を使っているのではなかった。明確な目的意識を持って使い続けているのだ。おそらく、その目的が果たせなくなったならば、所長は躊躇無くコイツを手放し、その予算を他の分野に振り分けるよう、自ら進言するに違いない。そういう人だ。
 その時、俺は誓った。コイツで捉えられる重力波なら、必ず世界で最初にその波源の尻尾を捕まえてやる。尻尾だけでいい。後は煮るなり焼くなり好きにすればいい。だが、先陣せんじんは誰にも渡さない……。

        *  *  *

「駄目っスよ。仕事中に彼女連れてきちゃ」
「だから、仕事だって言ってるだろ! 共同研究だって!」
「仕事で知り合ったんですかぁ。へぇー。中々カワイイじゃないっスか」
「かわ……。お前なぁ……」

 あれから三日経っていた。重力研究所の一階にある富士屋食堂で偶然顔を合わせた関山は、五目きしめんをすすりながらニヤニヤしている。悪気は無いのは、これまでの付き合いで分かっているのだが、何でもズケズケ言うヤツだから、時々ムカつく。
「ほれ。これが名刺だ」
 俺は関山に、ヒカルからもらった名刺を見せた。
「ふーん。で、アオイちゃんスか? それともヒカルちゃん?」
 ああ。名刺裏面の英語バージョンを見たのか。確かにどっちもファーストネームになり得るな……って、そこかい! 見るとこ。第一、AOIと大文字になっている方が名字だってことぐらい知ってるだろ。母音が3つで欧米人は発音し辛いだろな。
「葵が名字で、ヒカルが名前だ。量子コヒーレンス研究室の主任研究員……。そういえば、ここの恒星干渉計も量子コヒーレンスを使っているとか何とか言ってたぞ」
 俺は無理矢理話題を変えた。
「ははぁ。まぁ、そうっスねぇ。一応、光子の干渉縞フリンジを観測してんですから」
「どういう原理だ?」
「今まで知らなかったンですか?」
 やっぱりムカつくヤツだ。
超長基線電波干渉計VLBIとは違うのか?」
「あぁ。やっぱりそっちに行きますか。まぁ、フツーに天体を計っている干渉計っていったら、VLBIだのVSOP-4だのに行きますからねぇ。そう考えると、先輩のやってる共振型の重力波望遠鏡も主流を外れてるって言うかなんつーか、老い先短いって感じだし、ウチの研究所はマイナーな機器ばっかで、この先大丈夫ですかね。科振費予算もなかなか取れないし……」
 とても所長には聞かせられない会話である。しかし、関山なら所長に対しても面と向かってそれを言うだろう。陰口かげぐちを言わないってところは評価してやる。だが、相手を選んだ方がいいぞ……と思う。関山は構わず話を続けた。
「……まあ、その分、競争相手が少なくて、妙な具合に機器が進化しちゃったりして、ガラパゴスみたいで面白いンですけどね。で、何の話でした……?」
 頭痛がしてきた。
「ここの恒星干渉計の原理のハ・ナ・シ・だ!」
「ああ、そうでした。一括ひとくくりに恒星干渉計って言っちゃうからいけないんスよ。恒星干渉計って呼ばれるのは、ふつーマイケルソン型の干渉計のことで、ウチにあるのは天体強度干渉計ってヤツです。不確定性原理くらいは知ってるでしょ?」
「それくらいは知ってる。運動量と位置は同時に精度よく計れないってヤツだろ? ウチの重力波望遠鏡だって、いくら冷やしても零点振動が残る……」
 俺はヒカルの話を思い出していた。古典的な通信手段で送るのは『運動量の和と相対位置』だと言っていた。それから、礼奈の予備実験での説明。確か『スクイーズ状態』が云々うんぬん言っていたが、重力波望遠鏡の世界でも圧縮スクイーズ光は使われていて、非平衡な状態下で量子的な振動を減らすことができるシロモノだ。不確定性原理に反するんじゃないかと思ったことがあるが、非平衡だからトータル的には元が取れているらしい。まあ、俺はよく分かっていない。おそらく、ヒカルや礼奈に聞けば、丁寧に教えてくれるだろうが、何日か寝込みそうだから止めておく。
「じゃあ、話は簡単。遠くの星から届いた光は横向きの運動量がほとんどゼロだから、その分、位置が不確定……」
「はあ?」
「不確定性原理知ってるって言ったじゃないですか」
「言ってる意味が分からん!」
「数百光年も向こうから、このちっちゃいパラボラにぶつかって来るんスよ。少しでも照準が横方向にブレてたら当たんないじゃないっスか」
 つまりはこういうことだ。光は数百年間飛んできて、ほとんど横向きの運動成分がないからこそパラボラに当たる。横向きの運動成分がほとんどゼロだから、逆に、横向きの位置がそれだけ不確実だということだ。
「……ということはアレだな。確実にカップ方向へ打てるゴルファーがいたとしても、ボールはカップに入るとは限らないってことだな」
「たとえ話がオヤジっスよ」
「ほっとけ! で、どのくらい位置が不確実になる?」
「まあ星の大きさで変わるんスけど、普通は500光年で3mくらいですかね」
「以外と小さいな……」
「プランク定数、ちっちゃいスからねぇ。まあ、もっと遠くの星なら地球全体に波動関数が広がってる場合もあるし……。でも、遠すぎると干渉縞フリンジが出るまで時間がかかり過ぎて、その間、ヒマでヒマで」
「ふーん。しかし、干渉縞フリンジが出る機構がよく分からんな?」
「ああ。言い忘れましたぁ。アンテナは2つ用意して検波した後に乗算スんです。3m以上離して干渉縞フリンジが出なくなったら、その距離が波動関数の大きさで、そっから逆に星の大きさが分かると……」
 なるほど、彼女の言っていたことが分かってきた。
「アンテナ1つでも干渉縞フリンジを観測できる方法を、俺は知ってるぞ」
 俺は得意満面の顔でニヤケてやった。ちなみに、全然関係ないが、俺が今食っているのはカキフライ定食である。タルタルソースが旨いんだ。太るがな……。
「無理っスよ。そんなの。第一、干渉するには最低2つの波が必要でしょ」
「途中に重力源があって、重力レンズによって2つに分かれた波が1つのアンテナに届く……としたらどうだ?」
 関山が珍しく真剣な顔をしている。
「それなら……あり得ます。でも、そんな偶然……」
「偶然じゃない! 探すんだよ、そのピッタリの方位を。おっ?」

 不意に携帯のアラームが鳴った。まあ、携帯のアラームは不意に鳴るものと相場は決まっている。鳴りますよと事前のアラームが鳴れば、その事前アラームが不意に鳴ることになるし、じゃあその事前アラームの事前アラームを……って、下らん再帰話マトリョーシカを考えている場合ではないな。アラームの元凶は、宇宙シミュレータの常駐ソフトデーモンからだ。噂をすれば影がすとはこのことだ。
「げっ。ジョブがコアcore吐いて死んでる」
「ウチのスーパーっスか?」
「そうじゃない。もっと厄介やっかいだ。その共同研究で使っている、宇宙シミュレータからの呼び出しだ」
「そりゃ本当に厄介っスねぇ。今から横浜?」
「放っとくわけにもいかんしな。ちょっと行ってくる」
 俺は、カキフライの残りを口に押し込んで、席を立った。二、三歩歩き出した背中から関山のニヤケ声がした。
「そう言えば、ヒカルちゃん、26才独身だって言ってましたよ!」
 俺はスッ転びそうになった。んなこと聞いてたんかコイツは……。

 宇宙シミュレータは、普通のジョブなら、申請すれば外部からネット経由で使うことができる。俺が地下の研究室にこもっていても、一応の論文が書けたのはそのお陰だ。ところが、今回提供された、例の萌え萌えキャラ付きの〈那由他モジュール〉は、門外不出、一子相伝、千客万来……はちょっと違うが、要は、現地に行かないと使えない仕様になっていた。『実は開発者が裏口バックドアをこっそり作ったらしい……』というまことしやかな噂もあるが、あくまでも噂でしかない。ただ、常駐ソフトデーモンを使って外部へメッセージを発信させることは可能で、これを使って〈那由他モジュール〉の動作を知る事はできる。こちらから、定型のコマンドでも打ち込むことができれば、使い勝手は格段に良くなるのだが、不正アクセスを嫌って許可されていない……というか物理的に回線が無いっていう話だ。徹底的に身持ちの堅い〝箱入り娘〟ぶりである。次期システムでは、量子暗号通信機能を使って双方向通信ができるようになるという噂だが……。ホント、噂ばかり多いシステムである。
 ちなみに、〈那由他モジュール〉からの異常終了アベンドアラームは、那由他量子──だったっけ?──がバナナの皮でスッ転んでいる画像とともに送られる仕様だ。誰も止めなかったのか? その仕様……。これも量情研部長の趣味か?

 で、その宇宙シミュレータは宇宙開発推進機構が管理していて、現物げんぶつは横浜研究所内にある。所長が、出張あるいは出向と言っていたのは、お隣の素粒子研にではなく、ココに来ること……通称〝横浜もうで〟を想定してのことだ。そりゃ、プログラムが異常終了アベンドするたびに、遠距離を行ったり来たりするよりは、近場で寝泊まりした方が楽だ。逆に、重力研究所内のデータは、こちらでいくらでも入手出来るし……。
 そういうわけで、〈那由他モジュール〉の使い勝手は、〝最低・最悪〟と言わざるを得ないのだが、コイツを利用するのはほとんどが研究者で、当然ながらほとんどが研究目的の利用だから、このような形態でも一向いっこうに構わない……という向きもあるらしい。必要ならば交代で人を貼付はりつけておけばよい。事実、超新星がらみの重力波イベントが生じた時は、本筋メインのプログラムはもちろん、それが落ちた時に自動起動するサブセットも用意し、さらにここに常駐者みせばんが居て、落ちたルーチンの担当者に一報を入れて、その後の指示をあおぐという体制が出来ている。我々はその状態を祭りと呼ぶ。屋台は出ないが、昼夜の区別なく人が増えるので、付属のレストラン〈リストランテ・スパティオ〉が深夜営業を始める。ちなみに、パルミジャーノのリゾットが旨い。なんか、食い物の話ばかりだな。
 以前、常駐者みせばんを置くのは面倒だということで、カメラとマニピュレーター付きのロボットをコンソール前に置いて、遠隔で操作してはどうだ……という話が、呑み会のネタとして出た事があったが、まあ、本末転倒だから許可は下りないだろうというオチで終わった。

        *  *  *

 俺は湾岸沿いに走るリニアに乗り込み、速すぎて焦点の定まらない風景を見ながらジョブが落ちた原因を考えていた。ここから横浜までは300㎞近くはあるが、リニアで行けば1時間ちょいで行ける。そこから先は無人搬送車タクシーで5分だ。経理も太っ腹なことに、1ヶ月定期パスをポンとくれた。夜な夜な遊びに行っても……いや、搭乗記録が残っているから、そうはいかないな。
 これまで、重力波源を特定するために開発した、『逐次ちくじ同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』が途中で落ちたことは無い。コイツは、元々は関山が、重力研究所付属のスパコン用に作ったものだが、その後、俺が宇宙シミュレータ用にアレンジし直して今に至っている。『動いているプログラムには、手を加えるな』の格言の通り……いや、そんな格言があるかどうかは知らないが、ここ一年はパラメータを変えるだけで、根本的にソースはイジっていない。このプログラムは、計算途中でCFL条件が満たされそうも無いと判断すると、勝手に入れ子格子マトリョーシカを作って計算を続行するようになっていて、ちょっとやそっとじゃ落ちない仕様になっている。逆に言えば、落ちることはほどんどないが、その分、計算時間がとんでもない事になって、何時いつまでたっても終わらない……というタイプのプログラムだ。
 今回、計算に利用できるノード数が桁違いに増えたため、最低限の改造はした。だが、それが原因で落ちたとは思えない。シングルからマルチに切り替えた時のプログラム変更は結構大変だが、最初から複数のノードで最適化されたものは、4が32になろうが128になろうがあまり変化が無い。……というか、ノード数の増減によるパイプラインの分散化効率作業のほとんどは、宇宙シミュレータのメインシステムが勝手にやってくれるから、こちらであまり考慮する部分が無い。
 となると、やはり問題なのは〈那由他モジュール〉だ。コイツに任せるのが最適だと思う計算は、メインルーチンから全て追い出すことにした。だから、落ちる原因はココしか考えられない。コイツの扱いはかなり難しい…というか、今までのコンピュータと動作原理が全く違う。通常のコンピュータは0か1のビットで情報を表し、0〝または〟1の情報しか載せられないが、量子コンピュータは0〝かつ〟1が載せられる。今までのビット情報とは違うということで、これを『キュービット』と呼ぶらしい。ヒカルの胸にあった量子コヒーレンス研究室のマーク──天使が2本の矢をつがえていたヤツ──が何故天使だったかというと、キュービットとキューピットをかけたシャレ……らしい。なにか脱力。
 〈那由他モジュール〉が得意なのは、全体を全体として一度に処理する作業だ。これまでみたいに、条件毎に場合分けしなくても済む。理屈は分かっているのだが、どうも体が覚えてくれない。そもそも、量子コンピュータは、〝逐次〟に計算する必要が無く、〝マルチ〟に〝アンサンブル〟する必要も無いのだが、物事ものごとを細分化していく方法論が染み付いている俺に取っては、コペルニクス的転向を求められるわけで、かなり苦痛である。言わば、価値観の全否定だ。
 じゃあ、逆に開き直って、『今までのスタイルを変える気は無い!』と、プログラムを変更しなかったらどうなるかというと、〈那由他モジュール〉は、そこいらに転がっているゲーム機より処理速度が遅いシロモノに成り果ててしまうのである。ある意味、非常に贅沢な使い方というか、フェラーリで100m先のコンビニに買い物に行くような。そんなんなら、ママチャリで十分だろと言うか……。
 こちらが手を抜くと、全然相手にしてくれない。とことん尽くせばトンデモない能力を発揮する。那由他量子……かなりのツンデレである。

 横浜駅は思ったよりいていた。というか、平日のこんな時間に来たことはほとんどないから、何が『思ったより』なのか分からない。俺の記憶の中では、平均と標準偏差を取って比べられるほどのデータがない。最大エントロピー法MEMでも使って調べるか?
 外の暑さは相変わらずで、熱気にやられて倒れる前に、さっさと無人搬送車タクシーに乗り込む。研究所に着いたら、まずは〈リストランテ・スパティオ〉でアイスコーヒーを飲もう……と考えているうちに到着。館内は冷房がよく効いており、すぐにアイスコーヒーはどうでもよくなった。まあ、人間用の冷房じゃなくて、宇宙シミュレータ用なんだろうけどね。
 守衛さんに挨拶してIDカードを渡し、スキャンしてもらって再び受け取り、入退帳簿に記帳する。その気になれば、静脈認証やアイリス認証システム、IDカードには個人のDNA記録までもが入っているご時世だというのに、ここのゲート通過儀礼は、旧態依然きゅうたいいぜん古色蒼然こしょくそうぜんとしている。要はセレモニーなんだろう。それに、ここにくる研究者は──俺を除いて──変人ばかりだから、例え本人であったとしても、『今日はいつにも増してヤバいな……』と守衛さんが判断したら入れてもらえないとか?

 ゲートを通って、その先の研究者用エスカレータに乗る。右側には、2階までぶち抜きの巨大な一面ガラス張りの壁があり、その向こうで林立するスパコンの群れが見える。向こうがかすむくらい広い。今までそういう目で見ていなかった所為せいか気づかなかったが、〈那由他モジュール〉がある一角だけ色が派手で、那由他量子が腕組みをして突っ立っている絵が、モジュールの壁面に描かれていた。まあ、広報に一役買っているのは確かかも知れないな。
 研究者用のエスカレータは3階までの直通だ。ここまで上がると、スパコンの実物は見えなくなり、普通の研究所のように無味乾燥な空間となる。狭い廊下の先は、全面ガラス張りで端末がびっしりと並んだコンソール・ルームが広がる。誰が言い始めたのかは定かではないが、我々はココを〈金魚鉢〉と呼んでいる。その中でアップアップと泳いでいるのは、様々な研究者だ。ちなみに、内部でのエサやり・エサの持ち込みは禁止である。そりゃそうか。2階には一般客用も兼ねたスパコン展望デッキと、売店、喫茶店が入っている。1階〈リストランテ・スパティオ〉の真上だ。小腹が空いたり喉がかわいたらそこまで行けということである。
 俺は、お気に入りの場所にある端末に座り、IDカードをスキャナにくぐらす。今まではこれで終わりだったが、3日前からはさらに〈那由他モジュール〉専用カードもスキャンさせる。本来ならば、特別なゴールドカードを手に入れたようなものだから、これ見よがしに見せびらかしたい……筈なのだが、なにせ萌え萌えカードなので、人目を気にしてコソコソ。それだけならまだいい。コイツをくぐらすとコンソールの画面が切り替わって……
「お帰りなさいませ。ご主人様!」
 ……って出てくるんだぜ。しかも、音声付き。広報で一般客相手なら分かるが、何故に研究者しか出入りしないこんなところで、これなんだ。何故こんな仕打ちを受けねばならんのだ。もっと金をかけるべきところがあるだろう。ほんと、せぬ。

 ため息をひとつついてからキーボードを叩き、ログインしてディレクトリを辿たどる。コアcoreファイルを見るのは後回しにして、途中経過で残されたデータのフォルダを見る。そもそも、コアcoreを開けて解析するよりも、残されたデータを見て判断する方が近道だということを、大抵のプログラマは知っている。
 ファイルには、仮想重力波源から、これまた仮想の重力レンズ源で経路を曲げられた重力波の、大量の探索線トラジェクトリーが残されている。ディスプレイに表示しても、大量過ぎて線の一本一本は視認することができない。〝アンサンブル〟という手法は、少しずつ初期値の違ったデータを用意して大量に計算結果を流し、その行くすえを見て、観測値と合っているか否かを調べる手法だから、流しが沢山あればあるほどいい。ここのアルゴリズムを〈那由他モジュール〉用に書き換えたというのが、今回の改造のキモの部分である。全体を全体に。髪の毛の束のような個々の計算を、水飴みずあめの流れのような面的な密度計算にしたというか……そういう感じ。
 その探索線トラジェクトリーは忍者がクモの糸を放つがごとく、カオスによって色々な向きに散らばっていく。ただ、見当違いの場所でいくら走らせても資源の無駄だから、そこは頭の使いようだ。
 探索線トラジェクトリーたばは、確からしい場所では密に、そうでない場所ではになるから、空間を格子に区切れば、通過経路をまとめて分布図を作ることができる。ただし、チェックすべきなのは格子内の束密度だけではない。個々の経路の方向も重要だ。密度が濃いからといって、探索線トラジェクトリーの入出力方向がバラバラならば、単なる烏合うごうしゅうの集会で、たまたま集中してただけだ。流れがキチンと揃っていれば、それだけ確からしい場所ということになる。探索線トラジェクトリーの密度と方向……カッコ良く言えば、スカラー量とベクトル量の兼ね合いを見れば、探し出すべき星の〝アタリ〟が何となく分かる。言うは易しで、その兼ね合いのサジ加減が難しいのだがな……。
 で、ある程度目星めぼしがついたら、そのデータを使って、最初よりは絞り込んだ初期値を作る。後はこれの繰り返し。計算量は膨大だが、所詮しょせん、それは機械がすること。こっちは『働け!』とムチを入れて帰ればよい。
 那由他量子にムチ入れか……ふむふむ。いかん! なんか毒されてきた。

 分布図は8枚分出来ていたので、9世代目で異常終了アベンドしたようだ。8枚全てを見ても、重力波源の位置が絞られた形跡けいせきがあまりない。やはり髪の毛座方面でボヤッとしているだけだ。見た目では分布図ごとの微細びさいな差が分からないので、差分を取って3D表示にし、グルグル回してみるが、変化があまり分からない。差し渡し200光年分位を拡大して見てみても、雲の中を歩いているみたいにモヤモヤしているだけだ。これじゃあ今までと変わりがない。まあ、これまで1ヶ月かかった計算がほぼ一日で終わったのだから最初の投入サブミットにしては上出来じゃないか……となぐさめモードに入っていたが、肝心なことを忘れていた。
 『なぜ落ちたか?』……だ。
 原因は〈那由他モジュール〉だと言うことは分かっている。コイツが次々と計算をこなしたために、自動作成された格子が次々と入れ子マトリョーシカ状態で繰り込まれ、割り当てられたスタック領域を食いつぶして、システムに怒られた……ということのようだ。設定ミス……というより、そこまで計算が進むとは思っていなかったというのが正直なところ。やるじゃん、那由他量子。
 それに、コイツが恐ろしい速さでちゃんと動いたということは、俺もコイツを使いこなしているという証拠だ。やるじゃん、俺。
 もっとも、出力結果を受け取るサブルーチンの作り込みが甘かったのは失敗だったが、ここの処理をイジるのは面倒だが難しくはない。何とかなる。
 異常終了アベンドの大体の原因は分かった。となれば、どの空間で入れ子格子マトリョーシカが大量に発生しているかを調べれば、落ちた原因を特定できる。うまくいけば、重力波源に由来ゆらいする何かを発見できる……かも知れない。ポチポチとキーボードを叩いて、3D表示を格子距離に変えてみる。一見しただけでは格子間隔はどこも大差ないようだ。全データをソートして数値で表示させると、非常に狭い空間に折り畳まれた格子の場所が特定できた。場所は……、場所は?
 は? 地球と火星の間くらい?

 その場所は点ではなく僅かに線状で、円弧状にグルッと回り込んでいるように渦巻いていた。その渦に沿って螺旋らせん状に細かくなった格子が重なっている。空間的には狭い領域なのに、格子数は異常に多い。この螺旋格子が異常終了アベンドの直接的な原因だろう。格子群の形状を見て、俺は一瞬、昔流行はやったツイスター理論を思い出したが、この格子の渦は、そもそもは探索線トラジェクトリーねじれによるものであり、ツイスターとは似て非なるものだ。
「ふぅ……」
 俺は、ひとつため息をついた。どちらにしても、この解はおかしい。おそらく、初期条件がきびし過ぎたのだ。さらに調べていくと、似たり寄ったりの螺旋格子の入れ子が、地球の周辺のあちこち見つかった。格子群は極端に狭い領域に閉じ込められているから、3D表示で一瞥いちべつしても全然分からない。その領域を一万倍位に拡大すると、ようやく『あれ?』と感じるくらいである。
 こんな変なものが発生した原因は、まあ、大体分かる。量子は苦手だが古典的な話なら任せてくれ。元々の初期設定は、遠くで発せられた重力波が、途中のブラックホールで曲げられて地球にやってくるというものだ。そして、ちょうど地球周辺が〝焦点〟となる。いや、地球周辺が〝焦点〟となるような条件にワザワザ設定した……というのが正しい。で、重力波は面白いことに、それ自身が重力源になる。だから、重力波が一カ所に集中するようなことがあると、集まった重力波同士がさらに極端に集中して凝縮ぎょうしゅくする。要するに、ある臨界点を越えると勝手に自己凝縮が生じるわけだ。異常終了アベンドを引き起こした螺旋格子は、こうして出来たものだろう。これはこれだけで、面白い論文がひとつ書けそうなネタだが、そういうのは理論屋に任せておいて、さて、どうするか?
 とりあえず、このままでは何度やっても落ちてしまう。かといって、重力波の観測結果を反映させるためには、地球周辺を〝焦点〟から外すわけには行かない。もっとも簡単な解決法としては、地球周辺のみに限り最小格子間隔を設定して、それ以上は計算させないという条件を付け加えることだ。ある意味、妥協の産物なのだが、それ以外のうまい方法はすぐには思いつかない。まあ、一日動かせば結果が出るのだから、とりあえずやってみればよい。4ノードで半月以上走らせ続けて出た結果がこれなら、『俺の青春の日々を返せ!』……と、いい歳したオヤジが三日ぐらいやけ酒になるところだが、計算機資源が潤沢じゅんたくにあるというのはいいことだ。『とりあえずやってみる』が出来るという、この贅沢。こういうのを『金持ち喧嘩せず』というのか……などと、少しズレた感慨かんがいにふけった。

 どういうアルゴリズムにしようか考えながら、俺は一旦、〈金魚鉢〉を抜け出し、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉でホットコーヒーを飲むことにした。ここは生クリームがのったシフォンケーキが美味い。おやつ時はとっくに過ぎているが、夕食にはまだ早いというタイミングで、店内は割と空いている。海が見える窓際でホッと一息。ここからは見えないが、西日はかなり傾いているだろうことは分かる。本日の営業は、横浜で終わり。プログラムを改良してジョブを投入サブミットしたら、宿舎に直帰ちょっきだななんて漫然まんぜんと考える。
 コーヒーを飲みながら、携帯でネットをめぐっていると、アメリカの宇宙重力波望遠鏡網……通称LISA─NETの観測スケジュールに、今回の〈ゴースト〉探査ミッションが組まれていることに気付いた。3ヶ月前ならばいざ知らず、現在、地上に置かれた重力波望遠鏡では、共振型はもちろんのことレーザー干渉型でも、既に重力波データは取れない〝後の祭り〟状態なので、今から重力波を実測しようとするならば、桁違いに感度のいい宇宙空間のヤツを使うしか手だてはない。ただ、図体がデカイ……というか、鏡面センサーなどの衛星機器同士の間隔が大きいので、太陽光帆で移動させるにしても時間がかかる。観測開始スケジュールは1ヶ月後だ。
 俺はしばし考え込んだ。LISA─NETが観測結果を出した後で論文を出してもインパクトが薄いのは当然だ。結果を見てから、それを最もらしく説明するなんてのは誰でもできる。観測前にこういう結果が出るだろうとプレプリントでもいいから出しておいて、それに沿って発見に至った方が断然、カッコいい。多少、外れていてもかまわない。ウチの〈オルガン〉の役目はキッチリ果たせたことになるしな。1ヶ月の間に俺もそれなりの結論を出して、同業者カリーグに言いふらしておくことにしよう……って、カッコ悪いな。

 〈金魚鉢〉に戻って、入れ子格子マトリョーシカ制限用のサブルーチンを書く。逐次ちくじ、格子の大きさを走査して制限を加える方法ならプログラムは楽だが、メインの計算ループに新たに分岐点を設けることになるから、速度的に不利だ。『ネストは育つ』とはよく言ったもので、気を抜くとすぐに抜け出せないアリ地獄のように深くなる。少々考えて、世代ごとにチェックを加えることにした。全部揃った段階で、解を束ねて〈那由他モジュール〉に突っ込めば、ごっそりと計算結果がでてくる。キュービット様々だ。
 今回、8世代までは大丈夫だったのだから、メインルーチンをイジる必要は無い。次世代への計算を始める時に、格子が小さくなり過ぎていたら、平滑化へいかつかして大きな格子に振り戻す。おそらく、それだけの改造でいい。
 ソースコードはすぐ書けた。コアcore落ちしたデータセットを消去して、8世代目を換装かんそうし直し、格子制限サブが実際に作動するか、手動モードでチェックする。加工されて吐き出されたデータセットには、特徴的だった螺旋状の構造は無くなっており、一応、意図した通りの動作はしている。念のため、汎用物理シミュレーションプログラムを別ウィンドウで起動し、格子変換の前後で、通過する重力波の軌跡がどう変わるかを確認することにした。極々中心付近を通過する場合を除き、ほとんど同じ軌跡であることが望ましい。いや、望ましい……では生温なまぬるい。そうあってしかるべきと言わねばなるまい。
 そもそも、空間の格子切り分けは、計算機上に宇宙空間を再現するにあたって、人間の都合で勝手に作ったものなのだから、人間の都合の部分でシミュレーション結果が変化したならば、何をやっているのか分からなくなる。変換によって精度プレシジョンが落ちるのはある程度覚悟する必要があるが、確度アキュラシーが変化するのは困る。
 もっとも、単に座標変換しただけとか、オイラー的なプログラムをラグランジュ的に変えただけで確度アキュラシーが変わり、それを起点にカオスによって、その後の結果がガラリと変わってしまうことはよくある話で、理論的にはあってはならぬが、プログラムを実装する側としてはナイーブで非常に苦労する部分だ。また、変更したからといって何か新しい発見があるわけでないことが分かっているので、努力がむくわれない。モチベーションを維持するのが難しい作業である。
 たまに物理学会で、単に座標変換しただけなのに、『こんな事実が発見されましたぁ!』と有頂天で話すいろもの発表もあり、その手の発表は、主催者側のいきはからい──なのか?──で、人の集まりの悪い早朝にスケジュールが組まれている。最初からそういう目で見る分には、それはそれでツッコミどころが多くて面白い。予稿を一目見ただけで爆笑……いや、とりこになってしまうネタは事欠かない。『俺もあんなんで、嬉々として発表できたら、どんなに人生バラ色か!』とか、時々、ダークサイドに落ちそうになるが、俺の理性というか羞恥しゅうち心がそれを許してくれない。そんなことでは立派なヨゴレ芸人になれないぞ! なる気はないが……。
 妄想にひたっているうちに、確認ジョブはつつがなく終了。その結果、探索線トラジェクトリーのズレは必要最低限の変化に留まっていることが確認できた。また、解析的にも連続の式は満たしていたし、エネルギー輸送量も保存され、妙な散逸・発散は無さそうで一安心。早速、サブルーチンをメイクファイルに書き込みコンパイルして再投入サブミット。初期値は8世代目データセットからで、もし次に止まっても、続きから開始できるようにした。今回は、世代が進めば、落ちても落ちなくても常駐ソフトデーモンから携帯に連絡があるようにセットしたから、堂々巡りをしていたらすぐに分かる。

 既に日も暮れかかってきていたし、そろそろ撤収どきだった。だが、別ウィンドウで開いた画像に、気にかかる部分がある。今回の異常終了アベンドの件ではない。ヒカルの研究室で共同研究の話をしていた時、心の片隅に引っかかっていた部分だ。9世代目のデータセットが正常に作られるまでは、〈金魚鉢〉の中にいるつもりだったから、暇つぶしを兼ねて、俺はその心のモヤモヤを調べてみることにした。
 その別ウィンドウには、異常終了アベンドした9世代目が表示されている。無数の探索線トラジェクトリーに取り囲まれた螺旋格子の一万倍の拡大画像。コイツをさらに拡大してみる。そこには、置石おきいしで引き裂かれた水流が、その背後で再び合流する石庭せきていのような重力波の流れがあった。空間的に引き離されたものが、再び出会う。それはそれでいい。その重力波の再会を、ヒカルは使いたいと言っていた。いや、それは俺自身の提案ということになっていたか……。
 俺は、とりあえずそのウインドウを閉じ、標準的な質量のブラックホールを配置しただけの、他には何も無い仮想宇宙空間のウインドウを用意した。物事を考えるには、まずはもっともシンプルな設定の方がいい。これは物理屋の鉄則だ。無限遠からやってくる重力波の探索線トラジェクトリーを適当に配置し、軌跡きせきを描かせてみる。仮想的な空間だから、画面上の重力レンズ効果は見事に対称だ。このままでは枯山水的にも面白くないので、ブラックホールに回転を加えて対称性をくずしてみる。ブラックホールが回転していれば──自然界では回転していない方が珍しいのだが──時空が引きずられるレンズ・シリング効果によって、重力波の左右の通過速度が異なる。エルゴ領域ならば、一方は光速の2倍以上、他方は光すらその領域に入れないということになるが、そこまでブラックホールに近づかなくても、多かれ少なかれ、左右の通過時間は異なってくる。
 こいつを確認するには、探索線トラジェクトリーの広がりを等時間面で表示させてみればいい。カシャカシャとキーボードを叩く。無限遠からブラックホールの少し手前までやってきた重力波は、ゲートから一斉いっせいに飛び出した競走馬のように、各馬横一列の直線になる。コイツに宇宙空間の実測値としてDDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のデータを入れ、200光年先の天体から重力波が届いたとして再計算。実データを入れても、通過経路上にめぼしい天体が無いためか、微妙なよじれはあるものの、探索線トラジェクトリー個々にひん曲げるような現象は見られない。モノサシで引いた直線が、手書きの直線に変わった程度の差だ。
 だが、ほぼ一直線だった等時間面は、ブラックホールに到達すると劇的に変化する。その中心部は因果地平に吸い込まれて二度と出てこないため、ぽっかりと穴が開く。穴の大きさは理論上、シュバルツシルト半径の約2・6倍だが、あまりに近づき過ぎたものは極端に曲げられてしまうので、地球にまで到達する探索線トラジェクトリーは、シュバルツシルト半径の5倍は離れた地点を通ったものとなるようだ。当然ながら、ブラックホールに近い場所を通ったものほど、通過に時間がかかるため、等時間面はブラックホール周辺でV字型の漏斗ろうとのような形状になっている。さらに予想した通り、そのへこみ方は対称ではなく、波打っていた。Vと言うよりチェックマークである。ブラックホールの回転によるレンズ・シリング効果は、回転の順方向と逆方向では効果が逆だから非対称になるのは当然と言える。野球のボールが回転によって、左右の気流の速度差を生み、変化球となるのとそう変わらない理屈だ。
 等時間面は、ブラックホール通過後、中心にポッカリ開いた穴を埋め合わせるように縮んでくる。探索線トラジェクトリー軌跡きせきが内側に向くからだ。最終的に地球付近で集結したころには、穴は完全にふさがれている。逆に言えば、塞がっていないならば、宇宙空間にぽっかりと黒い穴が見えることになり、そうであるならば、光学系の望遠鏡でもその姿ははっきりと分かるだろう。
 もっとも、これまで見つかっている数百を越えるブラックホールは、どれもこれも降着円盤をまとっており、黒いブラックどころかまばゆいまでの光を放っていたものがほとんどだ。逆に考えれば、そういう目に見えるタイプのブラックホールしか、我々はこれまで観測できなかったということなので、今回の〈ゴースト〉は、文字通り、黒いブラックホールの最初の発見例になるかもしれない。
 最終的に地球にまで届いた等時間曲線の形はかなり歪んだ形となった。問題は、左右に分かれた探索線トラジェクトリーの到達時間差である。空間的に同じ場所で再び出会っていても、その時間経過が同じとは限らない。これは『双子のパラドックス』と同じ現象だ。出発時に同い年の双子であっても、別経路で旅行をし、再び出会った後まで同い年とは限らない。若い兄が年老いた弟を出迎えることだってあり得る。

 ……と、ここまでは、俺の古典的な頭脳で分かるテリトリーの話。これにヒカルと関山から頂戴した、付け焼き刃的知識のエッセンスをトッピングしてやるとどうなるか?
 まず、等時間曲線を構成する探索線トラジェクトリー一本一本は、実は幅の無い線ではなく広がりを持っている。出発時はそれほどで無かったとしても、次第に波動関数の広がり──関山の話だと、『500光年で3m』だったか?──を加味しなければならない。探索線トラジェクトリーが、ブラックホールを挟んで左右〝どちらか〟を通過する……と考えたが、仮に、ブラックホールの大きさに比べて、波動関数の広がりの方が大きかったらどうなるだろう? 左右〝どちらか〟を通過するのではなく、左右〝どちらとも〟通過することになりはしないか?
 要するにこれは、俺でもよく知っている『2重スリットの問題』そのものではないか。波動関数の広がり分だけ何処を通過したかは分からないのだから、ブラックホールに落ちるヤツは別として、焦点である地球上で、重力波の干渉縞が生じる……というのが量子的な頭脳の結論。

 このエンタングル状態をヒカルが研究に使おうとしているわけだが、話はそう単純ではない。カー・ブラックホール……すなわち、回転しているブラックホールの場合、右回りと左回り、どちらを通るかによって重力波の到着時刻が異なるのだ!
 ということは、何か? 若い兄と年老いた弟が混ぜこぜエンタングルになっている状態というのがある……ということか?

 心の片隅に引っかかっていたモヤモヤを取ろうとすると、ますますモヤモヤが広がっていく。全くの五里霧中状態である。このまま突っ走っても、おそらく遭難するだけだ。
 俺は、これ以上深入りするのを止め、話の原点に戻ることにした。そもそも、ヒカルが語った話では、重力波源から出たエンタングル粒子──光子なのか重力子なのかは曖昧だったが──は、一度引き裂かれた後に重力レンズで地球上で再び集められている筈で、その粒子を使って量子テレポーテーションの実験がしたい……と、そういう提案だった。ということは、右回りと左回りの粒子が地上で出会うというのは最低条件である。『兄は到着したが弟はまだ着いてないんです。どうしましょう?』……的な状況があり得るということは、俺がここでウンウン考えるよりも、共同研究者であるヒカルに話して相談すべきだし、ヒカルに聞いた方が早く答えが出るだろう。
 ヒカルには、話をどう切り出せばいいだろうか? 右回りと左回りで出会った2つのエンタングルした光やら重力波やらは、空間的には隣同士にまで戻ってきているが、時間的には『双子のパラドックス』と同じ原理で、数時間とか、下手をすると数十年くらいズレて届いて……くる……から……。

「そうか! そういうことか!」

 モヤモヤの中から怪物のシッポが見えた。全体像はまだ見えないが、いずれ全てを引っ張り出すことができるはずた。
 エンタングルした右回りと左回りの光があって、右回りの光の方が1日遅く届くとしよう。ヒカルの話では、エンタングルした一方の光を偏光フィルタを通すことによって、水平偏光か垂直偏光かを観測した〝瞬間〟に、他方の偏光状態も確定するという。だが、今回の設定の場合、右回りの光を偏光フィルタで観測しても、その〝瞬間〟に左回りの光の偏光向きが確定するわけではない。今この〝瞬間〟に届いた右回りの光とエンタングルしている左回りの光は、1日前に既に通過しているのだ。
 さらにもうひとつ。偏光フィルタで観測されれば、エンタングル状態はその〝瞬間〟に解除される。解除の有無を調べるには恒星干渉計を使う。恒星干渉計で干渉縞フリンジが出たならば、途中で何者とも相互作用することなく地球に届いた光……つまり、エンタングルしている光だということになる。エンタングル状態が解除されていたなら干渉縞フリンジは出ない。
 まず、右回りの光が届く位置に偏光フィルタを置く。そして、左回りの光が来る部分に恒星干渉計を置く。右回りの光を偏光フィルタで観測したかどうかで、恒星干渉計で測定した左回りの光干渉縞フリンジの有無が決まる。だが、干渉縞フリンジの有無は観測の前日で決まる。
 つまり、当日の恒星干渉計の干渉縞フリンジの有無が、翌日の偏光フィルタの有無で決まるのだ。
 もしも、偏光フィルタが自動制御されていて、『株価が上がった時に設置される』作りだったとしたらどうだ。前日の段階で、恒星干渉計の干渉縞フリンジが出ていれば、株は下がったことになるから売ればいいし、出ていなければ上がったことになるからそのまま持っていればいい。

 こいつはタイムマシンだ。

 物理的に過去に行くことは出来ないが、過去に情報を送ることはできる。いや、未来にもだ。左右の関係を逆にするだけでいい。時間のズレ具合は、ブラックホールの規模と回転速度が分かれば計算できるから、干渉させるエンタングル光の経路を選べば、任意の時間に設定できる。任意と言っても、エンタングル光が発射された時刻以前にはさかのぼれないが、なにせ天体からの光を使っているんだ。数年から数百年分のズレとかはざらに存在しているから、〝実用的な範囲で〟遡れる筈だ。一万年もズレたら逆に困る。

 携帯のアラームが鳴った。ハッと気付くと既に外は真っ暗だ。アラームの主は常駐ソフトデーモンから。メインディスプレイに目をやると、9世代目の計算が終了したことを示す表示が、色々なパラメータと共に流れていく。どうやら小手先の修正が功を奏して、異常終了アベンドせずに動いているようだ。ホッとすると共に腹が減ったことを思い出す。ディスプレイのハードコピーを取りログオフして、〈金魚鉢〉を後にする。折角の横浜だから、海軍カレーでも食べて帰るかとか考えながら、入退帳簿に時刻を記入して帰路につく。外はまだ暑かったが、潮風が心地よかった。

        *  *  *

 翌々日、これまでの成果をヒカルに報告するために、お隣へと向かう。運河のような道路は相変わらず。今日は日が照っていないだけ、幾分は涼しい。この前よりは時刻が早いしな。
 自動ドアを2つ通って、今日は守衛さんが横に立っているゲートを抜け、その先の各棟に続く通路へ。出勤時間に合わせたから、人もそれなりに多く、動く歩道も動いていた……って、それが普通だと思うが。だが、多くの人はその上をさらに早足で歩いているから、多少は到着時刻が早くなる程度しか、動く歩道の恩恵おんけいを受けていない。俺は手すりにひじをついてのんびり乗っていた。特段、あせる必要は無い。
 その間に、携帯から何世代まで計算が進んだかをチェックする。既に23世代まで進んでいるようだ。ついでに、寝ている間に解除していたアラーム音を復活させる。世代計算を終えるたびにアラームが鳴るように設定したのは、一昨日おとといの俺だが、いかんせんウザすぎる。やっぱり異常終了アベンド時だけでいいんじゃないか? 昨日も横浜もうでをして、江戸清の豚まんを食べてきた……もとい、データを吸い上げてきたんだから、その時に元に戻しておけば良かったと思う。喉元のどもと過ぎればなんとやら。プログラムがまともに動き出すと、常駐ソフトデーモンの定期報告がわずらわしい。
 量子情報処理研究棟の2階受付で、にこやかな笑顔と交換で、外来IDカードをもらう。これって、本当に何の役に立つのかな。チップも付いてないようだし……。左通路を進み、ヒカルの研究室『2EⅣ』をノックする。
「はい。開いてます」
 返事はヒカルからだった。
 中に入ると、紅茶の甘い香りがただよっていた。ウチの研究所と違って優雅ゆうがでいいなここは。ま、部屋次第だろうけど。ヒカルはこの前見た、真っ赤なマグカップ。礼奈はいかにもという、薄手のカップ&ソーサーで、金のスプーン付きである。
「あ。今、紅茶入れますね」
 礼奈があわてて立ち上がる。
「……おかまいなく」
 と言いながら、ちょっとだけ期待。ああ、そうだ。その前に……
「それと、お土産みやげにこれを買ってきました」
「わぁ。『横浜煉瓦』。これ美味しいんですよねぇ! さっそく頂きます!」
「え? 朝から?」
「甘いものは別腹です。ほら、善は急げって言うでしょう」
 いや。それは慣用句の使い方違うと思うが……。
 ヒカルはソファで、微笑とあきれ顔の中間のような顔をしている。今日のヒカルは礼奈と同じくポニテで、巨大な輪ゴムのような……えーっと、この髪留めの名前は知っているぞ。確か、シュシュとか言うヤツではないか?
 礼奈は、もう見るからにテンション上がっていて、いそいそと紅茶を注いでいる。この程度の土産で喜んでもらえるなら、買ってきた甲斐があったというものだ。俺は横浜に贔屓ひいきの喫茶店があって、通り沿いでたまたまコイツを目にして買ってきただけなんだが。ちなみに、その喫茶店のアイスコーヒーは、コーヒー自身を凍らした氷がデデーンと入っていて豪快ごうかいである。マスターは無愛想だが。

「端末借りますよ」
 と、俺。
「どうぞ。テーブルに持ってきた方がいいわよね」
 と、ヒカル。
 礼奈が紅茶を入れている間に、俺は、ジーパンのポケットからプレゼン用メモリを取り出し、操作グローブをめた。ヒカルは、自分のテーブルからノート端末を持ってきて、ソファ前のテーブルにセットする。メモリーのウィルスチェックを終えた頃、こちらの準備も終了。そのタイミングで、俺の買ってきた『横浜煉瓦』という名のチョコレート系お菓子と共に、紅茶が運ばれてくる。
「あたしも見てていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
 ……と、礼奈には言ったものの、専門畑が違うから、分からないと思うぞ。遺伝子工学と重力波観測じゃあ、接点は皆無だからな。もっとも、単なる奇麗な3D画像として考えれば、小型プラネタリウムとして楽しめるかもしれない。
 ヒカルはどうなんだろう? よく考えると、量子コヒーレンス何とかと言うのも重力波と接点はほとんどない筈だ。だが、俺の論文に目をめたということは、仕事に何か関係があったのか、それとも別な理由で興味があったのか……。
 そういや、ヒカルと礼奈の関係…量子コヒーレンス研究と遺伝子工学との接点もよく分からない。二人は同じ研究室に居るわけだから、結びつきはもっと強い筈なのだが、はてさて……。

 考えていても仕方が無いので、俺は、宇宙シミュレータから持ってきたハードコピーを、いちから説明することにした。学部レベルのゼミだと思って……。
 まずは、DDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のデータのみを展開する。これだけでは、単なるプラネタリウムでしかない。案の定、礼奈は『わぁ、奇麗!』とか言っている。絵に描いたような反応で、うれしい。重力研の一般公開日にくる小学生でさえ、最近はもっとひねくれているような気がする。
「ここは?」
 ヒカルは、きらめく星々の中、不自然に一直線になっている光点群を指差した。異常値アノマリーを見つけ出す能力は高いようだ。だが、最近の小学生の方が……以下略。
「それは探索線トラジェクトリーの起点のひとつで……。そこからの軌跡を全部出すと……」
「わぁ!」
 蜘蛛の子を散らしたというのはこういうのを言うのだろう。無数にある線が真っすぐに、時には絡まり、時には吸い込まれて消え去ったりして、全体像が次第に現れる。いや、現れなくなってくると言う方が正しい。散らばった蜘蛛の子は、どこかに収束する気配さえ見せず、段々と霧が濃くなるかのように、広がる一方なのだ。
「これが逆解析で得られた第一世代の画像。地球での観測結果を元に、その重力波源をたぐり寄せるとこんな感じ」
「単に広がっているだけで、どこにも中心がない。これ全部が重力波源なの?」
 ヒカルが口を尖らせて腕組みをしている。ちょっとイライラしているみたいだ。
「いやいや。これは重力波源候補の集合で、これ全部が重力波源じゃない。この中のどこかに本物が埋まっているとでもいうか……」
「ああ。収縮前の確率分布みたいなものね」
 なるほど。そういう表現をするとヒカルは分かりやすいのか。
「……で、どうやって、本物を探し出すの?」
「第一世代は仮定だらけの初期値だから、全然収束しないのは当たり前で、これが次の初期値の元になる。あとは再帰的サイクリックに動かして、絞り込む。ここから、カルマンフィルタを使って観測値…といっても、初期値は推定値だけども、これを逐次反復して、誤差が大きい部分はフィルタが自動で重み付けをするから……」
「ちょっと、ごめん」
「……?」
 ヒカルが、例の波動関数のポーズをしている。
「さっぱり分からない。結局、どこに重力波源があるの……?」
 気の短いヤツだな……とは思ったが、口には出さず、心の中にしまっておく。

 まあ、計算の手法・原理から様々なパラメータまで説明してたら、それだけで夏休みが終わってしまうくらいの時間が必要だとは思う。相手が同業者カリーグで無い以上、解析手法を詳しく説明するのは、かえって混乱するだけか……。『まずは結論から言え!』というのは、プレゼンの鉄則だからな。
 それに、このプログラムの横断的な説明はできても、個々の詳細については、俺だってあやふやな部分がある。カルマンフィルタのサブルーチンは関山のお手製だし、アンサンブル手法はオープンソース。ブラックホールのカー・ニューマン解を状態方程式……とすると計算が厄介なので、擬ニュートンポテンシャルを組み込み、DDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のマップを最新の時空分布フォーマットに変換したものを初期段階の真値として、〈那由他モジュール〉でブン回したのがこのプログラムだ。個々の分野での専門家は居ても、全てをキチンと理解している人は、おそらく誰もいない。それでもプログラムは動く。
 結局のところ、既存の観測結果をちゃんと再現できて、二乗平均平方誤差RMSが最も小さいものが正しいプログラムだと言う、厳然げんぜんたる基準がある。理屈が合っていても、現実を再現できないプログラムは捨てられる。後世から見ると、『こんなバグがあったのに、よくちゃんと動いていたな』と思われる傑作プログラムも無くはない。いまいちに落ちない部分もあるが、それが現実だ。まあ、そういう基準でしか計れないんだろうな。観測を正しく再現できていればOKというのは、言わば『チューリング・テスト』みたいなモンだな。

「うーん。では、世代順に……。このボヤッとしているのが収束すれば、そこが求める星ということだから」
 途中の解説を飛ばして、俺は画像を順繰りに映した。細かいこと言えば、収束したとしても、エンジェルエコーと呼ばれるまぼろしだったり、擬似的に発生した重力場による振動のふしの部分だったりして、必ずしもそこに求める星が存在するとも限らないのだが、今それを延々と述べても仕方あるまい。それに、今見せようとしている結果は、星の特定とかのレベルには全然達していない中間報告なのだ。
「……と、これが昨日の終わり、最終の20世代目」
 ヒカルは、腕組みをしたまま左上を見上げる。お決まりのポーズだ。左上にはお前の守護霊でもいるのか?
「なーんか、5世代目位までは順調に収束してたみたいな気がするけど……後は変化がよく分からない。あたし、何か見落としてる?」
「いや、見たまま。まぁ、ぶっちゃけそんなもん……だ」
 俺は肩をすくめて見せた。ヒカルも同じポーズでこたえる。
「うーん。礼奈ちゃんどう思う?」
「えっ、えっ!」
 それまで、ほわーと見ていた礼奈は、目をパチクリさせて、思いっきり動揺していた。どちらかというと、横浜煉瓦──礼奈に後で聞いたが、フォンダン・ショコラというものに属するケーキだそうだ──を食べて幸せ♡という感じだったので、正直、あまり見ていなかったに違いない。
「えっと、えっと。私にはよく分かりませんでした……」
「ちょっとグローブ貸して」
 おいおい。礼奈に話を振っておきながら、フォロー無しかよ。
 ヒカルは、俺が差し出した操作用のグローブを奪い取り、20世代分の画像を、拡大したり縮小したり、行きつ戻りつしながら、グルグルと振り回していた。その間、俺は少し冷えた紅茶をすすりながら、ケーキに手をつけた。思いっきり甘い。
 礼奈はひとつため息をついてから立ち上がり、例の水槽に近づき、ピペットで何やらゴソゴソしている。これも後で聞いたのだが、アルテミアとか言うエサをあげているのだという。
 5、6分した頃だろうか。
「9世代目って何故こんなに時間がかかっているの?」
 神のごとき視点で、銀河をブンブン振り回すのに飽きたヒカルが、ログファイルを覗いていた。そこに気付きましたか……。
「地球周辺で、重力波集中による疑似重力場が発生して悪さをしたので、それを切った」
「悪さ? その画像は?」
「えーっと、“9gene.cdf.bak”と……、そう、それ」
 ヒカルは早速、画像を開き、地球周辺を拡大して見ていた。探索線トラジェクトリーがそこで絡まり、まるで螺旋状に移動する台風のような、あるいは、サーフィン映画で登場するチューブと呼ばれる巻き波のような、そんな形状のモノがそこに現れた。
「……何故、これを切ったの?」
「何故って?」
「これが本物って可能性は?」
「全くゼロではないがほとんどあり得ない。でもって、そいつのお陰でプログラムが……」
「もっと調べるべきよ!」
 ヒカルは、この奇妙なツイスターを凝視ぎょうししながら、そう言い放った。よほど気に入ったらしい。だが、そいつはちょっとな……。
「髪の毛座方向の探索は? 可能性はそっちの方が……」
「そっちはこれ以上やっても進展が無いんでしょ。こっちが本物よ!」
 おそらく、俺は渋い顔をしていたに違いない。だが、それ以上に、こちらを向いたヒカルの目は真剣だった。ほとんどにらみつけていると言ってもいい。そのパワーの源はなんだ。何故、『こっちが本物』と決めつける? ブラックホールとか重力場とか、そっち方面の知識は、どう考えても俺の方が上だぞ……とか言っても、聞く耳を持たなそうな強い瞳だった。

 もし、ブラックホールが地球付近をかすめて飛んで行ったとすれば、それはかなりセンセーショナルなことで、俺としてもワクワクする事態だが、確率的にほとんどあり得ないことだ。地球に偶然、宇宙人がやってくる確率くらい低い。もっとも、だからと言ってそれを無視するのは研究者としてどうかと思う。第一、『世紀の大発見』とか言われるものは、あり得ないくらいの偶然を、執念しゅうねんを持って探し出したからこそ発見できたのだから、最初から諦めていては、何も発見できない。
 俺が、そのツイスターを切ったのは、確率云々以外に、ちゃんとした根拠がある。もしもコイツが本物だとしたなら、重力波の異常検出程度では終わらない、もっと華々しい観測結果が得られている筈なのだ。ブラックホールは一般に思われているほどブラックではない。地球の近くを通過しようものなら、周辺に様々なわざわいを振りまくだろう。それは、ブラックホールが大きくても小さくてもだ。今回は、そういう華々しい現象が、全然無いから困っているのである。
 それともうひとつ。こちらは少々個人的な理由で、全く科学的ではない問題なのだが……。
 ……要は、このツイスターを本物として解析しようとすれば、かなり大幅なプログラム改修が必要だってことだ。適当にパッチを当てるだけではどうにもならない。個別にライブラリ化できればいいが、そうでなければ、メインのソースを大幅に改造しなければならない。もちろん、コイツが本物であるならば、螺旋の渦の先がどうなっているのかは、俺だって興味がある。
 で、プログラムの改造には、ブラックホールに対する深ぁーい知識と頭脳が必要になってくる。重力研の中で、その部門を担当しているのが、その名もズバリ、『ブラックホール解析室』……通称〈BAR〉Blackhole Analysis Roomで、一般化された富松・佐藤解をイジり倒して、特異点に結び目を作る方法をシミュレートしたりとか、宇宙紐のコンパクト化とか、およそ常人には理解できない研究ばかりしている。一般人から見れば重力波観測の仕事だって、浮世離れしていることには変わりがないだろうが、研究所内で『一番変わっているトコはどこか?』と問えば、10人中10人が〈BAR〉だと言うだろう。研究者っていう変人の集まりが太鼓判を押す程の変人の集合体だ。それだけでもどれほど恐ろしい所かは分かるだろう。
 確かにあそこなら、それなりのツールが揃っているかも知れないが、およそそのツールは全て作りかけで、研究者個人の思いつきで臨機応変に変えられている筈だ。使い方を書いたマニュアルなんて皆無に等しい。後任が来たときに引き継げなくて困るじゃないか……というのは、我々凡庸ぼんような人種の考えることで、彼らが引き継ぐのは研究テーマだけ。ホワイトボードに何やらゴチャゴチャ数式を書いてワーワー言っていたかと思うと、半日で終了とかそんな感じ。残されたホワイトボードを見ても、何の研究なのかすら分からなかったりする。『他人のツールを使うなら自分で書いた方が早い!』という輩しかこない。彼らは、まるで見てきたかのように11次元を把握し、メモを書くようにソースコードを書き、飯を食いながらノーベル賞級の論文を書くのだ。見た目は単に野暮ったい若者やオヤジなんだけどな。
 かく言う俺も、実は2年間だけ居たことがあるのだが、まともなことは何も出来ずに追い出されてしまった。要するに、当たって砕けたクチだ。そういうわけで、かなり敷居が高い。

「それはそうと、宇宙シミュレータで計算してるときに気付いたんだが……」
 俺は、話の流れを変えるため、例の仮想実験を披露ひろうすることにした。シミュレートした結果は持ってきたメモリに入っている。どちらかと言うと、俺としては、こっちの話の方が今日のメインだ。
 ヒカルが投げ出したグローブをはめ、表示しているデータを切り替える。打って変わって殺風景な映像。10本程度の平行な探索線トラジェクトリーと、中心にブラックホールがひとつあるだけだ。
「……ブラックホールが仮にここにあるとして、これが回転しているとすると、周囲の時空が引きずられて……おっと!」
 中心に浮かばせたブラックホールを手で回し過ぎて、事象の地平面の外側にリング特異点が飛び出し、警告画面が浮かび上がった。あわてて逆回転のブレーキをかける。
「ここに、遠地点から平行に光がやって来ると、ブラックホール回転の順方向では光がすばやく移動して外に出る。でも反対方向は中々出てこない」
「ここは? 光が止まってるみたいだけど」
 腕組みしていたヒカルが口を挟む。ブラックホール近傍。光が中々出てこないどころか、よどんで停滞している領域がある。
「ああ。そこはエルゴ面っていう……引きずり速度が光速になる面があって、それより内側には光は進めない」

 ……そういえば、タイムマシンと言えば、コイツを使うのが定番だよなぁ……ということを思い出す。後は宇宙ひもを使うとか、ワームホールとか……。一番古いのはゲーデルの定常的な一様回転宇宙モデルかな? あれはタイムマシンというよりは宇宙全体が一周して回帰的に戻ってくるという、エルゴート仮説的というか、ダカーポD.C.の付いた楽譜的というか、そういうものだが……。
 これら事象の地平線を用いたタイムマシンは、全てその場所で光円錐えんすいが横倒しになる原理を応用している。要するに、基準となるミンコフスキー座標系に対して超光速となり得る場所を利用する。だが、通常はそんな都合のいい場所や物質は存在しない。エキゾチック物質を使ってワープしようとしたら、宇宙全てのエネルギーが必要だという論文すらある。まあ、タイムトラベルする宇宙船の極々近傍きんぼうだけに限定してもの凄くケチれば、銀河ひとつ分くらいで何とかなる……っていう論文も後に出ているが、理論屋のお遊びの域を出ていない。
 ところが、今考えているタイムマシンは、超光速を必要としない。たまたまブラックホールが絡んでいるが、要はエンタングルした粒子が時間差を持って出会えばいいのだから、エンタングルした光の一方を、月まで往復させれば、2・6秒ほどのタイムトラベルが可能だってことだ。原理的には、跳躍時間を延ばすことはいくらでも可能だ。

「ふーん。それで……」
 ヒカルはミルクをたっぷり入れた紅茶をすすりながらあいの手を入れた。礼奈は何か真剣な面持ちで聞いているが……分かっているのか?
「ブラックホールを通過して来た光は、元々は同時に出た光だが、左右の時空の引きずりの為に、地球に集結するときには時間差タイムラグを持ってやってくる。エンタングルした光が、一方は昨日、他方は今日やってくる。すると……」
 ヒカルがため息をついて、こう続けた。
「今日の光を垂直偏光フィルタで観測すると、昨日の光は水平偏光だと確定する。だから、エンタングルしている片割れの光が、二重スリットを通るようにしておけば、未来の出来事が干渉縞の有無として分かる……という話じゃないの?」
「えっ?」
「つまり、先に届く光を二重スリットに通して、スリットの一方を水平偏光、もう一方を垂直偏光になるようにしておいて、後に届く光をノーチェックで通せば、先にやって来た光は水平・垂直どちらとも確定していないから、二重スリットの両方を通れる。だから干渉縞ができる。でも、後で届く光が水平・垂直どちらであるかを観測したら、先にやってきた光も水平・垂直どちらかが確定しているから、どちらか一方しか通れない。だから干渉縞はできない。時間的に後で行う観測によって、先に通過した光の干渉縞の有無が決定されるってことでしょ。その事実は、これまで何度も実験で確かめられているわ」

 ヒカルに美味しいところを持っていかれて、言葉が出なかった。とんびに油揚げをさらわれた。……何か違う気がするが、そんな感じだ。もちろん、この話はヒカルの専門分野テリトリー。ストライクゾーンど真ん中に違いない。釈迦に説法なのは重々承知の上だが……でも、ちょっとくやしい。
「これって、そのスジの人には有名な話?」
「デジャブだわ……」
「デジャブ?」
 何度も聞いて聞き飽きた。ハイハイ、分かった分かった……という意味で『デジャブ』と言ったのだと思った。だが、ヒカルの顔はうつむき加減で、何故か寂しそうだった。こういう時こそ波動関数のポーズをすべきじゃないのか?
「何でも無い……。基本的な事後変位操作のコンセプト実験は今世紀初めに盛んだったから、かなり前。最近は、量子暗号通信で、データを盗聴する前にエンタングル状態が崩れる筈だから、盗聴を未然に防げるんじゃないか……なんて言う論文がいくつか」
 この分野の研究は俺の知らない所でとんでもないことになっているらしい。盗聴前に、盗聴されることが事前に分かるのか? 昔そういう映画があったような……。
「でも、そうすると、盗聴前に犯人を捕まるから、盗聴は成立しない。そうすると……」
「タイムパラドックスが起きる……」
「うっ!」
 またもやヒカルに美味しいところをさらわれた。ヒカルは、本当にしょうがないなぁ……というような顔で少し微笑んだ。だが、相変わらず寂しそうな目をしている。
「……でもね。実験室中での検証だけど、そういう場合は振動するらしいわ」
「振動?」
「盗聴する行為から盗聴を防ぐ行為までの間に、観測時間というタイムラグが必ずあるでしょ。その周期によって、干渉縞そのものの有無が周期的に変わるという結論よ。結局、その振動も確率的に決まるから、盗聴できるか、あるいは先に捕まって盗聴できないかという、二者択一の古典的と思える問題も、波動関数で記述されることになるみたい。私は専門じゃないけど、そういう発表をどこかのポスターセッションで見たことがあるわ」
 ここまでくるとほとんどついていけない。ともかく、この分野で俺の出番は全くなさそうだ。その表情を察してか、彼女は少しばかりフォローをした。
「まあ、そんなにしょげないで。少なくとも、この現象は実験室の中か、せいぜい数キロの範囲、時間差にして数μ秒のタイムマシンとして働くことしか確認されていない。それもかなり不完全な形でね。あなたのように、宇宙スケールで検証を考えたのは、私の知る限り……」
 彼女はまた、ため息をついた。
「……2人目ね」
「もう1人というのはヒカ……、葵さん?」
 彼女は両手を上に広げて見せた。ここで波動関数のポーズか……。
「残念。あたしじゃないわ。確かに今はその仕事を引き継いでいるけど、このアイデアはあたしじゃなくて〈彼〉のものなの」
「〈彼〉? ここの研究者とか?」
「違うけど、まあそんなとこ……。そのうち、会ってもらいたいけど、今の調子じゃまだ無理ね」
「えっ?」
 〈彼〉というのは彼女の恋人のことだろうか?。しかし、それなら、わざわざ俺に会わせる必要はない筈だ。となれば、この共同研究に一枚噛んでいるヤツ……ということになるだろう。じゃあなんで姿を見せない。『まだ無理』ということは、そのレベルに俺は達していないということか? 何となく落ち着かない話。率直そっちょくに言うと、ちょっとムカツく。何様?
 ヒカルを少しばかり問い詰めようかと思ったが、そこはかとなく、〝ソコはお察し下さいビーム〟が出ていて、聞けなかった。こう見えても、俺はちゃんと空気を読めるぞ!

「あのう……」
 見上げると空気を読んでなさそうなのが一人。
「もう一杯、お紅茶飲みますか?」
「……あ。下さい」
「はい!」
 礼奈は満面の笑みでカップに紅茶を注いだ。お茶くみ当番じゃあるまいし、この人がココに居る理由も目的も結局分からずじまいだったな。今度暇があったら聞いてみよう。







四、コンパクト星


 ブラックホール解析室……〈BAR〉の中は、相変わらずストレンジネスな熱気とフレーバーがあふれていた。別に怒号どごうが飛び交っているわけではない。見た目は至って静かである。とても熱いのに沸騰もせず超流動でサラサラ流れているみたいな、中性子星コアのハイペロン超流動体のごとし。実際、ソレを研究テーマにしているヤツもいるな。
 まあ、一事が万事そういう具合だから、皆、一般人には理解不能な、とがったテーマの研究にいそしんでいる。定期的に行われる研究発表会コロキウムではその一端いったんを見る事ができるが、多くの場合、タイトルを見ても何の話なのかさっぱり分からないし、大抵は英語である。

「あれ? どうしたの?」
「ちょっと頼み事が……」
 幸いな事に、入れ子格子マトリョーシカを作成する自動多重格子発生ルーチンの基礎プログラムを作ったのは、俺が以前、ここにいた時の同僚だったGOOさんだから、そこから芋づる式に最新の情報を仕入れていけば何とかなりそうだった。ただ、情報やオリジナルのソースを貰えたとしても、それを理解してあの解析プログラムに組み込むまでの道程みちのりはかなり遠そうに感じられる。具さんは人がいいから、無理を言えば組み込みの手助けをして貰えるかもしれない。だが、それは具さんの業績として残らず、多大な迷惑をかける可能性大だから、ここはグッと我慢。〈BAR〉の人たちは皆、違った困難さを山のように抱えて研究をしている研究者なのだ……と、トルストイは言っている。トップスピードで走っているアスリートに、幼稚園児のかけっこのコーチをしてくれとは、口が裂けても言えない。
 まあ、『どうしても無理! 助けてくれっ!』となったなら仕方が無いが、その場合は、正式なルートで要請をしなければならず、それには科学的困難さとは全く次元の違う色々とわずらわしい手続きが必要だった。それはそれで、頭の使いどころが違うので、ウンザリだったりする。どっちにせよ、一人で解決できるに越したことは無い。
 もっとも、既に、一人で解決できていないわけだが……。

「うーん、そうねぇ。それなら〈佐藤スキーム〉って言うのがあるから、それがいいかな」
「佐藤さんって、ここのチーフの?」
「そーだよ。論文もあるから一緒に持っていくといいよ」
「ありがと」
「……でも、3ヶ月くらい前に同じスキーム持って行かなかった?」
「いや、持っていってないけど」
「そうか。勘違いかな……」
 具さんは、四角いメガネを押さえつつ、英語、日本語、ハングルがごっちゃになった資料の山の中から迷うこと無く一冊の論文を抜き出し、その場でスキャンして手渡してくれた。〈佐藤スキーム〉のソースはMailで転送してくれるそうだ。
 論文は、最初こそ有理ルンゲ・クッタ法を用いたオーソドックスな話が書いてあるが、格子分解能を局所的に上げる不等間隔格子の折り畳みであるとか、ネスティング間隔の最適解の計算であるとか、ほとんど見たことのない手法のオンパレードで、一読しただけではさっぱり分からないものだった。参考文献をチェックしながら、十回ほど読むと、この手法のメリットがおぼろげながらも見えてくる。
 特に、ブラックホール形成のような自己重力による構造形成過程が含まれている場の記述においては抜群の効率性を持っている。まあ、〈BAR〉の中で開発されたものなのだから、ブラックホールに最適化されたものであるのは間違いないとしても、俺のつたない説明だけで、具さんがこれを一発で推薦すいせんするというところが素晴らしい。
 そもそも、〈那由他モジュール〉が吐き出したデータを処理しきれなかったのは、格子数が極端に多くなり、スタック領域を食いつぶしたからだが、実際には、格子数が倍に増えたとしても、全ての格子の値が独立ではないので、情報量が倍になったわけではない。そこは、格子間の類似部分を除外オミットして、情報量を削ぎ落とす工夫をすれば、オーバーフローさせずに処理できる。類似性の評価は3次元方向と時間軸はもちろん、コンパクト化した余剰次元方向でも行う。重力子のみが余剰よじょう次元を感じ取ることができるのだから、これは当然だろう。
 で、〈佐藤スキーム〉の一押しのところは、計算途中で発生する入れ子格子マトリョーシカ生成の暴走により、計算量が指数関数的に増えてしまう部分が、直線的な増加で収まるという点だ。これなら相当な無茶をしても、メモリを食い潰して破綻はたんしてしまうことがない。

 残された……しかし、重大な問題は、その〈佐藤スキーム〉のソースをどうやって、『逐次同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』に組み込むか? ……である。
 なんと言うか、ソースのアルゴリズム云々の前に、そもそも、ジョブを走らせるまでの設計思想からして違う。メイクファイルの段階で、自動でソースを取捨しゅしゃ選択して、それらを動的に書き換えてコンパイルするような、そんな変な構造になっている。つまり、処理するデータが異なると、処理するプログラム自身もまた書き換えられるようになっている。そして、プログラムの書き換えを指示するメタ・プログラムが、その上に存在しているのだ。なんという発想。関数に対する汎関数みたいなモンかな。こんなモンどう料理すればいいんだぁ!
 ……とビッグ・バンの中心に向かって叫んでも、自分では作れないのだから仕方が無い。ちなみに、ビッグ・バンには中心は無い。念のため……。
 そんなこんなで、それからしばらくは、四角い穴に丸いくいを打つような作業が始まった。

 結局、迷惑をかけたくないとは思いつつも、何度となく具さんのところに足を運び、横浜もうでを繰り返して〈那由他モジュール〉にムチ入れするも、『あたしを使いこなそうなんて、100年早いわよ!』と返り討ちにあい、挙げ句の果てに、経理からは、
「横浜までの3ヶ月定期にしましょうか?」
 とイヤミを言われて、夢破れて山河すら無し。とほほ……。
 まがいなりにも、異常終了アベンドせずに組み込みが完了したのは一週間後。ちまたでは、ちらほらとヒグラシの鳴く季節となっていた。ただし、落ちなくなったと言うだけで、計算結果はヒドい。光速度の2000倍で移動する探索線トラジェクトリーが出てきたり……。ま、ここからが本当の意味での試練の始まりで、モグラたたきのように、バグを1つ潰すと新種のバグが2つ増えるという、お前はポケットに入れたビスケットかっ!

 いつ果てるとも分からないバグ取りも、体力と精神力を限りなく吸い取る高分子吸収体ハイドロポリマーのごとき存在なのだが、それに加えて、もうひとつ。モチベーションを無限井戸型ポテンシャルの奥底まで追いやってしまう懸案けんあん事項が、他にも存在していた。
 もしも、〈佐藤スキーム〉の組み込みが完璧で、どんなブラックホールでも破綻無く再現が可能になったとしても、再現すべき観測データが正確無比でなければ何にもならない。精密な解析用のプログラムだけ存在して観測結果がないというのは、名シェフを揃えたのに、調理する具材が無いような状況である。もちろん、世界各地で観測された重力波の記録はあるが、精度がまちまちで絶対数も少なく、それだけでは軌道の特定は不可能に思われた。そういう状況にも強いのがカルマンフィルターの良いところなんだが、いくら名シェフでも、渡された具材がメダカ一匹だったらどうしようもあるまい。まあ、シェフの方も、今は新しい包丁を受け取ってアタフタしている、迷シェフ状態なのだが……。
 重力波のデータは、他機関から個人的に頂けるところは、レベル1のオリジナル値まで調べた。半分以上は、ロシアのマクシュートフからのツテである。今度日本にくる時には、彼の大好きな赤霧島を用意して待っていると、ネットで話をしたら、えらく喜んでいた。明日にでもやってきそうな勢いである。いや、それはちょっと勘弁して欲しいな。彼の呑み方はハンパ無いからな。
 ただ、レベル1のデータは、それこそ近所の道路工事による振動の影響までモロに入っているので、そのまま平均しただけでは全く使えない代物しろものなのだが、もしかすると、ノイズと見なして落とされた部分にヒントが眠っているかも知れない。逆畳み込み処理デ・コンボリューションでなんとかするかな……?

 また、それとは別ルートで、もしも何らかの天体が地球近傍を通ったというならば、それなりのデータがあるかもしれないと思い、関山の協力を得て調査した結果、NASAジェット推進研究所の地球接近天体計画局NEOP Officeから情報を入手することができた。しかしながら、それほどかんばしい結果が得られたわけではない。一言で言えば、『そんな巨大質量の物体が通った形跡はない』ということが追認されただけで終わった。
 ただ、関山との会話の中で、
「そんなに近くを通ったンなら、宇宙に目ぇ向けてる測器だけじゃなくて、地球を観測している衛星とかが何か拾ってるってことはないっスか?」
 という話になり色々と探した。例えば、地球のレンズ・シリング効果を利用してマントルの移動速度を測定している重力探査衛星GP-Dや、地球のジオイドを測定している重力観測衛星GRACEミッションとかである。我々は宇宙ばかりを見ているが、それとは対照的に地球ばかり見ている測地研究者も多数いる。
 だが、目線が上下に違うだけで、その会話の成り立たないことと言ったら!

 測地衛星には、数百キロから数千キロ離れた衛星軌道を並走して飛ぶ衛星間距離測距衛星Low-Low SSTや、コイツを一体化した重力傾斜観測衛星Advanced GOCEがあり、相互にレーザーを打ち合って干渉測位を行う。これらは既に数十機の衛星ネットワークが完成していて、昼夜を問わず観測をしている……と、測地屋は異口同音に話した。『そんなことも知らんのか?』という扱い。
 その反面、こちらが説明するブラックホール云々は、測地屋にはほとんど縁がないらしく、『何でも吸い込む魔法の物体』扱いであって、たまに〈オルガン〉を見学に来るお偉いさんとほとんど同レベルである。
 そんなこんなで、果てしない蒟蒻こんにゃく問答の果てに、『これは!』と思うデータが見つかった。異常終了アベンドした9世代目のデータセットに現れた異常な螺旋格子の近傍きんぼう。ほぼ同時刻に周囲を回っていたL─L SST衛星のデータに、他の部分とは明らかに精度のおとるデータを見つけたのだ。平均値としてのジオイド面のデータは平凡な値なのだが、その算出に使われたオリジナルデータの数が少なく、かつ、標準偏差が大きい。教えてもらった測地関連のデータセンターからはそれ以上の情報は得られなかったが、オリジナルのデータを見れば何か得られるかも知れない。この衛星の管理は、現在はロシアがおこなっていたので、俺はまたまたマクシュートフに連絡を取った。彼も分野違いではあるが、『そいつは面白い』というノリで、管理センターに直接コンタクトを取ったらしく、数日後にはこっそりとオリジナルデータを送って来てくれた。正式ルートではないので論文に引用することはできないが、解析の結果、それなりのメドが立ったならば、また共同で作業をしようということで話がついた。古酒クースーおごらないといけないな、こりゃ……。
 データには明らかな衛星間の振動が見られた。もちろん、衛星同士がバネで結ばれているわけではないので、この振動は外部の時空からもたらされたものである。さらに、その周期から地球の振動の影響ではないことが分かる。地球の回転や振幅に最も短周期で影響を与えるのは、地震とそれに伴う津波などの震動であり、次いで大気の振幅……要するに低気圧・高気圧の波、ロスビー波に代表される惑星の大気大循環および海洋振動である。地震の影響は数分から精々数日まで、気圧変化も数日、大気大循環に至っては年単位のものまであるが、今回のデータからは数時間単位の変動が見て取れる。この周期に該当するのは地震しかないのだが、地震による変化は測地屋さんが最も注視している部分だから、自動でデータをはじく処理が行われている……って、よく知っているかのように述べているが、全てはたずね歩いた測地屋さんからの受け売りだ。
 余談だが、測地屋さんとの会話で混乱したのが〈重力波〉という用語。彼らにとって〈重力波〉とは、地球の重力を復元力として振動する波のことで、ぶっちゃけ、水面に小石を投げて出来る波も〈重力波〉である。〈内部重力波〉とか言う用語も出てきて、『重力波に内部も外部もあるか!』とかツッコミを入れるとこだったが、誤解が解けてみれば何のことは無い。ただ、この用語の混乱の所為せいで、測地屋さんとの会話の冒頭10分はコイツの説明についやされることになった。
 で、今回の衛星間の振動は、この地震波除去の自動処理によって消されたのだろう。だが、詳しく見ていくと、これを再現できる地震は起きていないことが分かる。測地屋さんには未確認アンノーンな事象で、単なる機器のノイズにしか見えなかったのだろうが、この問題に数ヶ月取り組んできた俺としては、このデータは宝の山に見えた。
 そういう目で見ていくと、色んなものが見えてくるから面白い。当初、異常な螺旋格子の近傍を回る衛星のみが影響を受けたと考えたが、実はかなり広範囲に影響が及んでいることが分かった。マクシュートフは、重力波が発生した当日の全測地衛星のデータを提供してくれたので、三次元的な解析も可能となり、ノイズに埋もれたお宝の形が浮かび上がってきたのだ。このデータを初期値として逐次反復すれば、完璧な軌道が分かるかも知れない。そのためには、何とかして〈佐藤スキーム〉を組み込まねば……。

 目標が明確になると俄然がぜんやる気が出てくるもので、〈金魚鉢〉にこもる日が多くなった矢先である。
「先、越されましたねぇ!」
 関山がいつもの調子で、NASAの技術論文サーバNTRSから取ってきたと思われる数ページの論文を持ってきた。それは『ミニ・ブラックホールが地球に急接近か?』というベタなタイトルで、主旨としては正に、俺が追い求めていた〈ゴースト〉の正体に迫るものだった。彼らは地球の測地観測ではなく、月の観測に着目していた。
 NASAは30年代に月面基地を構築した後、月面のあらゆる場所に様々な機器を展開していったのはご存知の通り。独断で展開しているということで、月面の植民地化だの色々と騒動の種になっているのだが、それはひとまず置いといて、そのひとつにデイジー計画という名前で展開された機器がある。簡単に言えば、地球から見た月のふちの部分に、巨大な再帰反射体コーナーキューブミラーを12台、均等に設置し、地球─月間で大規模なレーザー干渉計を構築したものだ。月の公転と地球の自転の周期が一致しているからこそできる技だが、実際は月の軌道が楕円で、かつ、地球の公転角に対して5度も傾いているから、月はフラフラと秤動しょうどうする。だから、正確に淵の部分に設置したら、鏡が見え隠れして都合が悪い。これを見越して、鏡は淵より少し内側に設置してある。ヒナ菊デイジーの花びらと言うより、時計の文字盤に近い。ちょうど12個あるしな……。
 もっとも、初期計画ではもっと沢山の鏡を置く予定だったのが、財政難で計画が途中で頓挫とんざした……とも聞いた。
 NASAの論文は、この鏡を使って月の振動を徹底的に調べたものだった。もちろん、秤動しょうどうによる揺れは桁違いに大きいが、コイツはいつものことだから調べ尽くされている。また、月震と呼ばれる潮汐力や隕石の衝突による月の地震も、波形が独特だからすぐに判別可能だ。これらを除いたものの中で、機器のエラーとは思えないものを丹念に洗い出せば、他の天体の重力による影響が分かってくる。要するに、これは、月という巨大な球体を用いた、球形共振型重力波望遠鏡そのものになり得るわけだ。解析に使われたデータの多くは公開されているものだし、手法にさえ気付けば誰でも発表できる代物だった。なおかつ、月は地球と違って既に〝死んでいる〟から意味不明な振動はきわめて少ないし、人工的な振動源も限られている。なるほど、敵ながらアッパレだ。敵じゃないけど……。
 ただ、この解析には1つだけ難点があった。解析が2次元的なのである。月は3次元だが、デイジー計画の鏡の展開が2次元だから仕方が無い。このため、〈ゴースト〉が地球と月の直線上の近くを通った期間の位置と軌跡については詳細なのだが、その前後に曖昧あいまいさが残っていて、地上の重力波望遠鏡で得られたデータを元に補間している。彼らの最終的な結論は、〈ゴースト〉は銀径120度から銀河北極へ至り、そのまま反対へ双曲線軌道で抜けていったミニ・ブラックホールだとしている。最接近が銀河北極周辺であるから、髪の毛座方向であることは間違いない。
 質量は『月質量の80分の1よりは大きい』とあるが、ある意味それは当然のことだ。相手がブラックホールならば必ずホーキング放射を出す。この放射が地球周辺で観測にかからない程度の温度でなければならないから、下限がこの程度とならざるを得ない。
 不思議なのは、質量上限の記述が無いということだ。NASAはブラックホールだけでなく、白色矮星や中性子星など、他のコンパクト星の可能性も検討した筈だ。星の温度にもよるが、他の光学系観測網に全く引っかからなかったということが、逆に条件となり、星の大きさの上限が決まる。もしかすると観測の網を逃れた可能性も否定できないが、NASA自身が運営している地球接近天体計画局NEOP Officeのメンツってものがあるから、データ抜けが万が一あったとしても公表しないだろう。緻密ちみつな計算の割には、どうも最後の詰めが中途半端な印象を受ける。NASA単独でデータをかこっておけるのならば、キッチリとした論文が出るまでデータをしゃぶり尽くしてから公表するのだろうが、国際的にデータを解放している手前、そうもいかないのだろうと推測される。
 まあ、色々と気がかりな点はあれど、結局のところは『先を越された』という関山の指摘は正しい。ケチを付けたところで、負け犬の遠吠えに聞こえるだけだ。普通なら、今日はやけ酒でも飲んで早々に寝てしまうか……と思うところだが、〈ゴースト〉の特定は共同研究の一環なので、駄目だったからといって次のテーマに切り替えるわけにはいかない。少なくとも、このNASAの論文の軌道が正しいかどうかの検証を行い、ヒカルに報告する義務がある。
 ヒカルは、『アメリカかヨーロッパのグループの方が先に〈ゴースト〉を突き止めるだろう』と俺が言ったとき、『それでは間に合わない』と不機嫌そうに言っていた。何か、彼らより先に突き止めなければならない理由があるのだろう。それは俺だって同じだ。
 まあ、アメリカが本当に正しい結論を導きだしたかどうかは、〈ゴースト〉を直接観測するまでは分からない。まだ決着はついていない。

「そう言えば……」
 唐突に思い出した。確か、アメリカLISA─NETの観測スケジュールに〈ゴースト〉探査ミッションが組まれていた筈だ。あせって検索すると期日は二週間後にまで迫っている。さらに、そのミッションは、当初の髪の毛座方向から、NASAの論文で計算された、二週間後の飛翔ひしょう先に観測方向が修正されている。この観測で何らかの痕跡が発見されれば、〈ゴースト〉はゴーストで無くなる。そして、それは、本当に我々の負けを意味することになる。
 もっとも、『髪の毛座方向』ということを最初に述べたのは、俺とマクシュートフなのだが、それをもって、第一発見者とは言い難い。未だに各国が〈ゴースト〉を探しているという状況を考えればわかる。これでは、ファインダーとしての〈オルガン〉の役割が全うしたとは言い難い。ヒカル以上に、俺は焦燥しょうそう感を強めていた。
 ……といっても、〈オルガン〉のデータをあまり使っていないんだよなぁ。今回の場合。

 ぶつぶつと文句を言っていてもしょうがない。抜かれそうになったら抜き返すしかない。未だにDDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4のデータライブラリ上に、天体として登録されていない〈ゴースト〉なのだから、決着がついていないのは事実。まだチャンスはある。
 翌日から、〈佐藤スキーム〉の組み込みを急ピッチで進めた。とは言っても、作業は俺一人なのだし、1世代走らせてみては、前回のものと違いをさぐるという、とても地味な作業の繰り返しで、計算中は何もすることがない。〈金魚鉢〉の中は飲食禁止だから、コーヒーも飲めないし。かといって、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉まで、常駐ソフトデーモンの呼び出しがあるまで往復するのも面倒だ。ジッと待っている時間は長いが、ゆっくりくつろげるほどの時間はない。だからと言って、待っている時間にあれこれアルゴリズムの改良を考えても、大抵は〝余計な考え〟になるだけで、ろくな事が無いのが相場だ。
 こういう時間には、現場を離れず……だからと言って、いま走らせているプログラムの結果がどうなるかという推測はしないようにして、何か別な……かといって、全く無関係ではない作業をするのがいい。例えば、これまで作ったデータの整理とか、作ったプログラムの動作マニュアルの作成とか……。
 マニュアル作成と言っても、プログラムを誰かに引き継ぐつもりはない。数ヶ月もたてば自分自身が赤の他人になるのである。その時に浮かんだアイデアとかアルゴリズムはもちろんのこと、自分で作ったツールの使い方すら奇麗サッパリ忘れているものである。〈BAR〉のヤツラならそんなことはないのだろうが、俺は俺自身の凡庸ぼんようさをイヤと言うほど知っている。
 その昔、自分が作ったプログラムを『何でこんなにややこしいことをしているんだ。今の俺ならもっと簡単に組める』とエレガントに組み直したら、あちこちでエラーやらオーバーフローを起こし、苦労して修正したら、何の事はない、最初のプログラムとほとんど同じになってしまって、『苦労したんだ、昔の自分……』と感慨かんがいひたったりすることがある。要するに、途中の経過を忘れていて、全く同じ過程を踏まねば、当時の自分のレベルにまでい上がれないのだ。
 おそらく、今回の解析で9世代目でプログラムが落ちた理由なんてのも、3ヶ月もしないうちに忘れるに違いない。今、記述しておかないと、同じような局面に遭遇した時、同じてつを踏み、同じように落っこちてアタフタする自分の姿が手に取るようにわかる。そしてまた、同じ解決法を〝再発見〟する。この過程は非常に疲れるだけでなく、再発見に至るまでの時間は明らかに無駄なので、作業内容を自分が全て把握しているうちに文書化しておくことが必要だ。これは、凡庸たる俺が身につけた知恵である。
 そういうわけで、ジョブを走らせている合間に、いそいそとデータの整理をしていると、見知らぬフォルダを見つけた。他人がアクセスできる領域ではないので、俺が作成したものには違いないが、ほとんど……いや、全く記憶が無かった。やっぱり、そういうものが出てきたか……という感じ。フォルダの中には、何やら作りかけのパッチが沢山あり、不思議なことにバージョンが少し古いと思われる〈佐藤スキーム〉もそこに入っている。日付を見ると3ヶ月ちょい前だ。そういえば、具さんが『以前渡した』と言ってた気がする。しかし、〈佐藤スキーム〉が必要となったのは、地球をかすめるブラックホールの可能性を調べるためのものだから、精々十日程前の筈だ。何故、これがここにあるのか。そもそも、どこから手に入れたのか……おそらく、具さん経由だろうが……。
 少し気がかりだったが、とりあえず、経緯の詮索は後回しだ。パッチ類の中に、今回の解析に有用なものが無いかを探した。自分で言うのも何だが、あちこちから切り貼りして作られたものらしく、必要の無いライブラリやら、無駄なループが随所にあって読みづらい。後から何かをそこに組み込もうとしたと思われる、エンターが押されただけの無用な空白行もある。かなり慌てて作った……そんな感じだ。それなのに覚えていないというのは奇妙だが、まあ、今の現状も似たようなものだ。二週間以内にこのプログラムを完成させ、LISA─NETが動き出す前に何らかの結論を出さなければならない。シミュレーションに2日、公表……というか、先に唾付けておくためには1日かかるとして、実質の開発期間は10日程度しかないことになる。
 役立ちそうなものはほとんど見つから無かったが、〈ゴースト〉の軌跡を描画するための〝お絵描きソフト〟が見つかった。これを使って描いたと思われるデータもあり、髪の毛座方向を通過する〈ゴースト〉と共に、地球近傍を通過する〈ゴースト〉の軌跡の例も数枚見つかった。だが、これはおかしい。宇宙シミュレータでの計算は、ヒカルに32ノードを貸してもらうまでは4ノードのみの計算であったから、それほど多くの事例を見ていたわけではない。さらに、地球近傍を通過するパターンに注目したのは、ヒカルが『こっちが本物!』と言った後だ。いくら、もの忘れが激しい俺だからと言って、そういう、作業のトリガーとなる事実まで忘れやしない。忘れるのは、作業の過程だ。

 これは本当に俺がやった解析なのだろうか?

        *  *  *

 〈佐藤スキーム〉の完全な組み込みは、結局のところ、それから8日もかかった。ひと山超えた感はあるが、全体のチューニングはこれからなので、もうひと頑張りである。
 プログラムの設計思想が違う部分は、どちらかをどちらかに合わせてソースを書き直すには、開発期間が短過ぎた。少なくとも、俺の能力では無理だ。妥協案として、全種類の中間コードを吐かせて、テーブルとして準備しておき、呼び出しがある毎にそれらのチョイスをするフロントエンドを書くことで解決した。個人的な美意識からすると、この改修は非常に汚い部類に入る。問題を解決する為に、別の問題の温床おんしょうになるものを付加して、ドンドン大きくなるシステムというのは、いずれ破綻はたんするのが目に見えている。『いつかホレボレするようなソースをちゃんと書いてやる』と思っているが、それが叶うことは、これまでもほとんど無かったし、これからもないだろう。それが出来るのは、〆切が無く、時間を自由に使えるご隠居の身分になってからだと思うが、ご隠居になってまで、こんなことはしたくないものだし、3ヶ月で忘れてしまうような複雑な作業を、どうやって、ご隠居になってから思い出せというのか?
 そんなわけで、プログラムを書く作業はいつも暫定ざんてい版で終わり、完成はしない。科学の分野に完成という概念がない以上、それはそれで真理なのかもしれないが……。
 9日目……正確には10日目の未明には『逐次同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』改め、『不等間隔格子逐次折り畳み同化カルマンフィルタを用いた重力波源探索逆解析マルチアンサンブルプログラム』が完成した。幸か不幸か、宇宙シミュレータは24時間営業で、夜間にもそこそこ人がいる。どらちかというと、徹夜でコードを書く人の方が多いくらいだ。
 それにしても、このプログラムは当初の形がどんなものなのかも分からない程、改造している。最初は単純にナッジング処理した『重力波源探索逆解析プログラム』だったのに、計算機が早くなったからと並列動作のアンサンブルを付け、少ない観測でも精度が上がるようにカルマンフィルタによる同化を組み込み、更なる高速化で『逐次』を付け、そして、今回の改修である。初期のころは、『アンサンブルで、同化がナッジング』ということで、〈アン同ナツ〉というオヤジギャグ的愛称を付けていたのだが、ここまでくると、『寿限無、寿限無……』と同じで、『あの長い名前のヤツ』で通ってしまう。名は体を表す。付け足し、付け足しの開発作業が見事に具現化ぐげんかされている。今回さらに名前が伸びたが、これに気付くやからはいまい。
 折角せっかくだから、ここで略称を募集する。〈アン同ナッツー〉とか、安易過ぎる名前はボツな。笑えるヤツをひとつ頼む。

 宇宙シミュレータでの連続計算は、プログラムの完成直後から流した。徹夜明けで、まぶたをピクピクさせながらの投入サブミット。携帯のアラームは、今まで通り常駐ソフトデーモン経由で世代毎の計算が終わるたびに鳴らしており、追加でスタック領域のモニターが出来るようにした。モニターしようがしまいが、落ちるときは落ちる。それは分かっているが、最低でも9世代以上はクリアしてもらわねば困る。それまでは〈金魚鉢〉で待っていようかとも思ったが、さすがに体力的に限界だった。十代の頃ならいざ知らず、ほぼ2日の徹夜は、三十歳を前にした体ではキツい。それに、おそらく、ジョブが途中で落ちたとしても、今の状態でプログラムを書き換えたら、イージーミス連発で、逆に後始末が大変のような気がする。今日はおとなしく帰ることにしよう。
 宇宙シミュレータから無人搬送車タクシーに乗り、横浜駅から早朝のリニアに乗る。明け方は意外な程涼しく、普通ならさわやかないい天気……と思うトコなのだろうが、そんな感情は全く湧かない。途中、ウトウトしているところを携帯のアラームで起こされ、心臓が止まるかと思う程、ビックリする。ちなみに、座席はちらほら空いていたが、座ると絶対に眠りこけてしまい、下手をすると仙台あたりで起きるなんてことになりかねないから、つり革に手を突っ込んで立っている。
 アラームの主は、1世代目が正常に終了したとの常駐ソフトデーモンからの報告で一安心。だが、計算時間は微妙に長い。これは、気のせいではなく、〈佐藤スキーム〉の組み込みが雑で、余計なオーバーヘッドが発生していることと、NASAの論文で書かれたデイジー計画の軌道データも、品質に関する重み情報を付けて、初期値データに追加したからだ。逆に、微増で済んでいるのは、並列処理が増えても屁とも思わない〈那由他モジュール〉のお陰であると言える。
 重力研に電話連絡して、休みをもらおうと思っていたが、研究都市についた時がちょうどいつもの出勤時間で、俺はパブロフの犬のように、ついつい、ゲートを通って、地下千メートルの〈オルガン〉に向かう斜行エレベータに乗っていた。習慣とは恐ろしいものだ。
 早速、スタック領域のモニターを、ここの端末上で表示させて経過をみる。既に3世代目が終わっていた。順調だ。初期段階の超光速エラーも起きていない。携帯のアラーム機能を端末に引き継ぎ、世代毎に鳴るアラームを画面のポップアップへと変更リダイレクトした。画面を横目で見れば確認できるのだから、異常終了アベンド以外のアラームは必要ないだろう。次の山場は、おそらく、8から9世代目だ。時間的には午後のコーヒータイム頃だから、それまでアラームが鳴らなければ、第二段階はクリアだ。
 ……そう思いながら、俺はいつものソファに腰掛けた……までは覚えている。数秒で、俺は深い眠りに落ちた。

        *  *  *

 ──奇妙な夢だった。
 あたりは薄暗く、蒸し暑い。周囲は岩場だらけで足音が反響している。そこは直径数メートルのトンネルで、ライトも何も無かった。正確には、ライトが付いていたであろうソケットとか配線のたぐいいはあちこちに合ったが、とても電気が生きているとは思えない有様で、例えどこかにスイッチがあったとしても、何の反応もしないだろうことは保証できる。そういう状態だった。俺はそこを、肩に付けたライトひとつで歩いている。──何をしているんだ、俺は?
 数百メートル歩いたところだろうか? そのトンネルの終点には、巨大な円筒状の機械のかたまりが眠っていた。瓦礫がれきに埋まり、ところどころさびが浮いたそれは、かなり昔に放棄されたと思われる機械だったが、かすかに油の匂いがした。モザイク状になっている円筒の淵に手をかけ、手慣れた具合で登って行く。──何のために?
 全体の3分の2ほど登ったところだろうか。機械と岩場の間に、人がようやく立って通れるくらいの隙間が空いている。体を滑り込ませるようにその隙間に降り立ち、機械の側面に手を添えながら奥へ奥へと歩いて行く。隙間の向こうからは、かすかに風が吹いているようで、どこか広いところに繋がっているのだろうことが分かる。よく見ると、足場は踏み固められているようで、何度か人が通った形跡があった。だが、どう考えても、通勤用の通路じゃないな。
 機械の側面も錆が浮いているが、かなり頑丈そうで、少々叩いたくらいではびくともしない。それどころか手で叩いたくらいでは全く音も振動もない。コイツも、手垢てあかとまではいかないが、胸元程度の高さの部分は土が付着しておらず、人が触った形跡が残っている。背中側のトンネル側面には、コンクリートの破片らしきものがところどころにあるが、ほとんどがき出しの岩盤であった。補強も何もなさそうなので、崩れたらひとたまりも無さそうだ。助けを呼んでも、誰も来ないだろうし……。
 狭い空間を20メートルくらい横歩きで歩くと、次第に足音の響き方が変わってくる。やはり、どこか広いところに繋がっているらしい……と思った矢先に行き止まり。だが俺は、躊躇ちゅうちょなく機械のわずかな凸凹に手をかけ、上に登って行く。見上げると確かに穴が空いていて、どこかに出られそうな気配である。──何処に出る?
 不思議なことに、落っこちたらどうしようとか、そういう恐怖感は全く感じない。〈オルガン〉の頂上にも登れない俺がである。もちろん、あっちは15mもの垂直な円筒だから、高々数メートル程度のロック…いや、マシン・クライミングと比べられるものではないが……。
 歩数にして十数歩。ようやく、トンネルというか立坑たてこうというか、そこを登り切る。出たところは、やはり真っ暗だがトンネルではなく、テニスコート4面は取れそうな、だだっ広い空間である。壁面は様々な重機で削られたと見られる跡が残っており、実際、その部品と思われる金属塊があちこちに散らばっていた。遠くの方にかすかな明かりが見える。自然光ではなく、何か青白っぽい、人工的な光だ。俺は足元を確かめながらそっちに歩き出す。汗を拭いながら歩き続けると、青白い光は次第に近くなり、何か字が書いてあるのがおぼろげながら分かる。そいつは……

        *  *  *

「遅刻だ!」
 俺は跳ね起きた。……が、遅刻も何も、ここは〈オルガン〉の横のソファだ。遅刻というのも社会人としては問題だが、仕事中寝ているのも大きな問題だと思うぞ。やっぱり、四の五の言わずに年休を取った方がよかったな。
 俺が起きた理由は簡単だ。チャイムが鳴ったのだ。最初は、異常終了アベンドのアラームかと思い、端末をにらめ付けたが、ディスプレイは涼しい顔をしてスタック情報を流し続けている。5世代目に突入。今のところ、ディスプレイを見る限り、特に目立った変化は無い。変化があったなら逆に困る。計算時間は予想より少々遅い印象だが、午前中のジョブ投入が増えて、そっちに計算機資源が喰われているだけだろう。出勤直後の人間による作業と、朝9時過ぎに増える常駐ソフトデーモンによるジョブ投入が重なる時、宇宙シミュレータの稼働率が増えるのは周知の事実である。負荷が増えると分かっているならば、投入時刻を分散させればいいと思うかもしれないが、世界中のあらゆる観測は、世界標準時UTCで行われるから、9時間ズレている日本標準時JSTを考えると、どうしてもこの時刻に集中してしまうのである。文句があるなら、最初の基準となったグリニッジに言ってほしい。
 明るく鳴ったチャイムは正午を知らせるもので、その音を聞いた途端とたんに腹が減ってきた。そういえば、朝飯は食べておらず、昨日の夕食に〈リストランテ・スパティオ〉であさりのペペロンチーノを食べて以来、固形物は食べていない。冷凍ハンバーガーなら、冷蔵庫に売る程入っているが、たまにはまともなものを食べてやらないと、体がまいってしまう。そうでなくともここのところハードなのだ。幸いなことに、数時間の睡眠が効いて、疲れはかなり取れてスッキリしている。変な夢の所為せいで寝起きは最悪だが、夢を見ていたということは、その間、体が休んでいたということの裏返しでもある。
 久しぶりに、素粒子研で飯を食うか。ヒカルに会ってからというもの、これまでとは逆で、仕事で出入りすることが多くなり、飯を食いに行くことが無くなってしまった。ついでに、ヒカルに近況報告でもするかなと考えたが、今走っているジョブの結果が出てからでも遅くはあるまい。プログラム改良の苦労話を延々と聞かされてもつまらないだろうし、ヒカルとの共同研究で必要となるのは、ブラックホールの正確な軌道だから、それについては、前回の説明から何の進展も無いことになる。そいつを聞かされる羽目になるヒカルのイライラした顔が目に浮かぶようだ。明日の今頃なら、良くも悪くも結論が出ているだろうから、明後日には説明できる。今のうちにアポだけ取っておくことにしよう。

 運河のような道を渡りきり、素粒子研の本館の右奥、レストラン〈ニュートラリーノ〉に入る。洋風な名前とは裏腹に、カツ丼とか、ざるそばとか、和物も結構ある。まあ、レストランというより食堂である。もちろん、セルフ。時間が時間だけに、中はかなり込んでいた。日替わりランチ──ポークソテーとポテトサラダ──を選び、お盆を持って並ぶ。実は、配膳係で最近入った女の子が結構カワイイ。……と言っても、衛生管理のため、鼻まで隠れる巨大なマスクを付けているから、つぶらな瞳と声しか分からないのだけどな。
 ランチを載っけてもらい、スプーンを取り、セルフのお茶を注いで、窓際の適当な席を見つける。
「ふぅー」
 自然と大きなため息が出る。まともな時間にまともな食事をしたのは久しぶりな気がする。共同研究が始まってから……というより、ヒカルに出会ってからまだ1ヶ月ほどだが、何故か遠い昔のようだ。
 4ヶ月近く前に〈ゴースト〉が現れ、1ヶ月半前に、ピンボケながら、そいつ位置を示した論文が受理された。ひとまず、ウチの〈オルガン〉役目は半分は果たせたことになる。そして、SQUIDの冷却ポンプのメンテだとか、近所を通るタンクローリーの振動ノイズと宇宙の深淵から来る重力波の高調波成分の分離手法の開発だとか、いつ果てるとも分からない……いや、科学が発展する限り永遠に無くならないであろう重要な……だが落ち拾い的に地味で面倒な仕事に戻りつつあった時に、あの事件。そして、ヒカルが訪ねてきた。その後は、知っての通り、〈ゴースト〉の位置&軌道確定のためのデータ解析ばかりしている。今更だが、俺は、この解析作業というのが苦手だ。苦手というか、しょうに合わん。
 俺は自分のことを、根っからの観測屋だと思っている。観測機器を使い、必要とあれば自分で設計して手作りで機器を追加し、重力波源を突き止める。この現場感というのが好きだ。やはり観測屋は観測してナンボだ。
 宇宙シミュレータを使っての仕事も、結局は、〈ゴースト〉の位置を知るためにしているのであって、シミュレーションやその手法の開発が目的ではない。これはあくまで手段なのだ。狩人がライフルの手入れをするようなもので、製造メーカーの職人がライフルを作るのとはこころざしが違う。それでも、ライフル銃身じゅうしんの手入れとかならヤル気も出るが、今の仕事は、ライフルの照準に、手ぶれ補正だとか、組み込みスタビライザーとかを開発しているようなもので、何か違う。狩人なら狩人らしく、自分のうでを磨くべきだ。そうすりゃ、そんな自動化装置が無くても当たる。
 ……と、自分には言い聞かせるが、最新の機器を力技ちからわざでブン回すLISA─NETの研究者を見ていると、これに太刀打ちできるのは、日本のお家芸のシミュレーション分野くらいのものかも知れないと、ふと落ち込むことがある。

 シミュレーションで重力波源の位置を求めていて落ち込むのには、さらにもう1つ原因があって、昔の物理学者の言葉を借りると、『数値的解法なんてごまかしだ!』という感覚が、俺のどこかにあるからだと思う。逆に言えば『おとこなら解析的に解け!』ということだ。いや、そういう言い方をするとコワレフスカヤ女史に怒られそうだが……。
 もちろん、解析的に解けないからシミュレーションをするのであって、何も後ろめたいことはない筈だが、いつも、『何かもっと目も覚めるようなエレガントな解法がある筈だ』と邪推じゃすいしてしまうのである。シミュレーションは正にステップ・バイ・ステップで泥臭い。簡単なことを途方も無い手順で解く。もしかすると、この世の構造がそうなっているから、必然的にこの手法が正しく、エレガントな解法など何処にも無いのかもしれない。それならそうと、ちゃんと神様にその理屈を教えてもらいたい。俺は、常々そう思っていた。
 だが、ヒカルから借りることができた〈那由他モジュール〉は、〝神様の手法〟を少しだけ垣間見させてくれた気がする。〈那由他モジュール〉はデータを個別に処理しない。全てを重ね合わせて丸呑みし、最適解を出す。これまでと同じように、0と1に分けて取り出すことも出来るが、マイナス1とプラス1に分離することもできる。切り分け方は後から任意にできる。こちらが見たい形で取り出せば、その形で出力する。だが、それは、そういう切り出し方をしたから、そういう切り口になったというだけで、解がそれに決まったわけじゃない。
 例えば、大きな平面を正三角形で隙間無く埋め尽くすことはできる。正方形でも可能だ。五角形は無理だが、六角形でもできる。ペンローズタイルで埋め尽くすことも可能だ。だからといって、『平面は、正三角形の集合体である』という結論はおかしい。『いやいや、平面は、正方形の集合体だ!』という反論は、さらに的外れだ。平面は平面だ。それと同じように、量子は量子なのだ。粒子になったり、波動になったりしているのではない。粒子の性質と波動の性質を併せ持つのでもない。量子は量子なのだ。
 ……俺の古典的な頭ではこのヘンが限界だ。こんな禅問答みたいな結論が『エレガントな解法』であってたまるか!

 日替わりランチを食べ終わり、エントランスに出る。例のエレベータの前で、しばし逡巡しゅんじゅん。コイツには静脈認証システムがあるんだから、出入りするには登録作業が必要になる。だが、俺はそんなことをした記憶が無い。じゃあ、何故ここから出てこられたのだろうか? それとも、記憶そのものが、おかしいのか?
 もしも、俺の記憶がどこか狂っているとしたならば、他の人々がそれに気づかない筈はない。数時間程度の記憶喪失を除き、おれの記憶に曖昧なところは無い。……無いと思う。知り合いから、『お前、何か変だ』と言われたこともない……いや、具さんには『3ヶ月前に〈佐藤スキーム〉を渡した』と言われ、実際に〈佐藤スキーム〉の旧バージョンが、俺の管理しているファイルから見つかった。忘れていたと言うのも確かにへんな話だが、所長や関山、マクシュートフや、他の同僚から何か言われたことは無い。

 ただ、今にして思えば、一番おかしな言動をしているのはヒカルだ。ヒカルは、俺の記憶の欠落直後、突如として現れた人物だ。さらに、俺がまともだと自覚している過去のことまで『記憶はあるか?』と聞いてきたのだ。出会いがあまりに衝撃的だったので、気が動転していたが、あの言葉にはどういう意味があるのだろうか?
 疑念はドンドンと膨らむ。だが、ヒカルが一方的に何か嘘をついているのではない筈だ。俺の記憶に無い共同研究の話を、所長は知っていたのだから、俺の記憶の何処どこかがおかしいことは間違いない……。何か混乱してきた。
 ここから、量子コヒーレンス研究室まで歩いて、ヒカルの肩を揺さぶり問いただしたい気持ちに駆られたが、その前に、俺も自分で確かめてみたいことがある。どのみち明後日にはアポを取り付けてあるから急ぐ必要はあるまい。それに、軌道計算のジョブがどうなったかも気になる……って、それが今一番重要な課題じゃないか。ジョブの確認は、携帯ではなく地下の端末に移してしまったから、ひょっとすると、今頃、向こうで派手にアラームが鳴っているかも知れない。
 俺は急いで戻ることにした。全てはこの計算結果が出てからだ。

 端末は7世代目に入ったことを告げていた。スタック領域の使用量は増えていたが、劇的に増えそうな予兆はない。さすがに何度も見ているだけあって、このヘンの感覚は肌で読み取れるようになった。何の変哲も無い数字の羅列だが、異常終了アベンドした時の状況とは明らかに違う。これは期待できそうだ。もっとも、『そうあってくれ』という願望……正常化バイアスってヤツが働いている感もいなめないが……。
 俺は気を紛らわせるために、今回の解析結果のプレプリントを書くことにした。同業者カリーグに言いふらすためのものだ。結論コンクルージョンは書けないが、導入部分イントロダクション解析手法メソッドくらいは簡単にまとめることができる。いつものことだが、謝辞アクノレッジメントは色々と多いよな。
 プレプリントの骨子は数時間もしないうちに書けた。小難しい解析手法の部分……例えば〈佐藤スキーム〉とかは具さんからもらった論文を引用文献リファレンスに載せればいいし、〈那由他モジュール〉の概要もリンクを張ればいい。結局のところ、俺がやった作業というのは、これらを継ぎはぎしただけで、何にも頭を使っていないなぁって感じ。まあ、俺は観測屋だから、基本的に重力波源の位置と、今回は太陽系内を通過したらしいブラックホールの軌道を的確に示せれば何も問題ない。解析手法は手段に過ぎないのだ……と自分に言い聞かせる。
 問題は、ヒカルとの共同研究の件をどう盛り込むかだ。このプレプリントは、これはこれで閉じている仕事なので、共著者を誰にするかという問題は別にして、ヒカルとの共同研究とは切り離して、別枠で投稿しても何ら問題はないだろう。もちろん、事前にヒカルに了解を得る必要はある。
 ヒカルが最終的に書こうとしている論文は、どういう形のものか、俺の今回の研究がどのように紹介されるのかがよく分かっていない。俺はヒカルに〝実験場〟を提供しただけという形になるのだろうか? それだけならヒカルの書いた論文の引用文献リファレンスに、今書いているこのプレプリントが載るだけなので、俺としては、プレプリントの最後に、謝辞アクノレッジメントとしてヒカルの名前を載せればいいだけのことだ。このあたりの相談もしなければならない。論文をまとめるのは結構好きなのだが、このヘンの調整って面倒なんだよな。

 ハッと気づいて時計に目をやると15時過ぎ。端末の右隅に小さく表示した世代表示は8世代目の終了まじかだった。異常はない。異常はないが、お尻のあたりがムズムズしてくる。駄目だ。こうしちゃいられない。
 今日は明け方まで、〈金魚鉢〉にこもっていたこともあり、アラームが鳴らない限り、もうあっちに行く予定はなかったのだが、とてもジッとしていられない精神状態だった。武田信玄みたいな指揮官には絶対なれないタイプだ。動き回ること野ネズミの如し。
 9世代目の開始を待たずに、俺は重力研を飛び出した。リニアに乗ってから『しまった!』と思ったのだが、携帯にアラーム処理を変更リダイレクトするのを忘れていた。これでは、向こうに到着するまで状況が分からない。肝心なところが抜けているな俺って……。一応、重力研の端末には携帯からアクセスできるから、そこからログインして切り替えてもいいんだが……やり方忘れた。
 宇宙シミュレータに到着し、引きつった顔を見せながら、守衛さんに挨拶して手続きをする。こういう〝如何いかにも焦ってます〟的な状態のときに入れてもらえないのかと思ったら、あっさり通過。急いで、3階行きのエスカレータに乗り、駆け足で〈金魚鉢〉へ。適当に空いている端末席に座り、IDカードと〈那由他モジュール〉萌え萌えカードをスキャン。手間、多すぎ。
「お帰りなさいませ。ご主人様!」
 の声に、
「おぅ。帰ってきたぜ!」
 と独り言。すっかり慣れてきてるジャン、俺。横浜だからって〝ジャン〟は余計か。新規ウインドウを開いて、プロセス・コマンドから情報を……。

 一気に気が抜けた。ジョブは何事も無かったかのように10世代目に突入していた。異常終了アベンドもオーバーフローも、スタック領域の食いつぶしもない。極めて正常。正常過ぎて逆に不安になるくらい。しばらく机に突っ伏していたが、調べるべきことは、正常にジョブが走っている…ということじゃないことに気づく。そうだ、〈ゴースト〉だ。〈ゴースト〉の位置と軌道がちゃんと計算できているかだ。
 コンソールを叩いて9世代目のデータを表示させる。表示には、過去に俺が作った……らしいお絵描きソフトを使用。以前、異常終了アベンドした9世代目のデータとの差分を表示させると、見事にブラックホールの軌跡が浮かび上がる。その部分の結果だけが違うということだ。地球に最接近した時間軸で表示を止め、集中的に拡大する。螺旋格子のその向こう。前回は分からなかった部分を広げていく。が、何もない。まるでマンデルブロート集合のようにいくら広げても底が無いのだ。『分け入っても分け入っても黒い谷』なのである。最終的に9世代目の限界格子まで広げて止まる。だが、そこは底ではない。シャレじゃないぞ。この底はあくまで〝人間の都合〟で勝手に終わった格子の底であって、世代が続けばもっと細かく突き進むことができる筈だ。
 俺は結局、〈金魚鉢〉に夜まで居るハメになった。どうしてもサイハテが見たかったからである。10世代目も11世代目も変化が無かった。単に谷が深くなって行くだけである。諦めて帰り支度を始めたのが17世代目で、22時を回った頃だ。
 唐突だが、猿にキャベツを渡すどうするかご存知だろうか? 中に何か入っているかと、葉っぱをめくり続け、最終的に何も無いことに気づいて怒りだすのだ。今の俺は、全くもってその状況と酷似していた。ウキーッ。違いと言えば、怒るだけの気力が残っていないという点だろうか?
 さらにもうひとつ。俺は別の重大な問題点に気づいていた。20時を回った頃、15世代目の計算を行っている時、『底が見えないということは、事象の地平線がまだ見えないということだよな?』と気付き、その時点の最小限界格子を地平線の大きさと仮定し、ブラックホール質量の最大値を計算させてみたのである。出た結論は、『月質量の200分の1以下』である。これだけ軽ければ、ブラックホールは相当熱い。およそ、数百度というところだ。NASAの発表のとおり、これだけ熱い物体が、光学望遠鏡で捉えられていない筈はないのである。
 ということは、この螺旋格子は、本物のブラックホールではない。キャベツと同じく、中には何も無く、計算機が人工的に生み出したまぼろし幻影げんえいと考えるのが妥当だ。ヒカルの直感も外れていたことになる。相手が〈ゴースト〉だけに、有りもしないものに振り回された。脱力。俺の今までの苦労を返せ!
 事態はフリダシに戻った……かに見えた。具さんの見解を聞くまでは……。

        *  *  *

 翌日出勤後、俺は〈BAR〉に居た。16世代までのデータが入ったメモリと一緒にである。昨日の帰りのリニアの中で、解析結果が徒労とろうだったという結論を出すのは早いと考えたからだ。
 俺は重力波の観測については、自分で言うのもなんだがスペシャリストの一員だと思っている。波形を見れば、起こっている現象はある程度分かる。ただ、〈ゴースト〉は別だ。最初から海のものとも山のものとも分からん化け物だった。その〈ゴースト〉の一端を捉えたかに見えた解析結果は、キャベツのように、開けても開けても中身の無いものであったのだが、コイツの解釈は俺の手に余る。ここはやはり解析屋に見せるのが一番だろう。餅は餅屋だ。もしも、そこで『こんなのあり得ない』と言われれば、俺も諦めがつく。また別な手段を考えよう。もっとも、その時は、LISA─NETの観測に先を越されているに違いないが、それは仕方が無い。少なくともベストは尽くさねばならない。

「あれ? どうしたの? 例のヤツ、ちゃんと動いた?」
 具さんはいつもの調子でニコニコと、しかしバリバリと仕事をこなしていた。サウイウ人ニ俺モナリタイ。
「まあ、なんとか。で、今日はその結果を見て欲しいんだけど……いいかな?」
「はいはい。じぇんじぇん大丈夫!」
 具さんは手際がいい。俺がメモリを手渡すと、ウィルスチェックを早々に済ませ、ピアニストのような早さでキーを叩き、ディスプレイ上にウインドウの山を展開していく。俺は後ろで、お目当ての螺旋格子の説明をするが、それより早く手が動いている。何も言わなくても多分大丈夫なんだろうな。彼にとっては……。
「あー、これは……。郷田サン、ちょっと」
 郷田と呼ばれた白髪まじりの……だが若そうな男は、頭を上げて厚そうな黒淵メガネをこちらに向けた。
「これは貴方の領分だ。ちょっと見てくれる?」
 郷田は飄々ひょうひょうとした風体ふうていで近寄り、具さんが示したウインドウを見た。ほんの一瞬だったが、彼の判断は早かった。
裸の特異点ネイキッド シンギュラリティだね。ハイパー・フープ仮説からの逸脱いつだつはどのくらいのものかな?」
「うーん。逆解析してみないと分からない。元が楕円体なのは間違いないと思う」
「軸は……剪断せんだん面どこかな?」
「ほらここ」
「なるほど。弱重力型じゃなさそうだ。ブラック・リングのなりそこないかな」
「それから、この最深淵しんえんの部分、ループ量子重力の効果が見える」
「ほう、おもしろいね」

 ……置いてきぼりを食らった。彼らが話しているのは何語なんだ?
「えーっと。酒井さん?」
「え? はい」
 郷田は、中指でメガネの中央を押さえながら、俺のネームプレートを見て問いかけてきた。
「この軌道だと、えーっと、回転軸が歳差しているから……ほら、ここ。この時系列で重力震が発生している筈なんだけど」
「!」
 郷田の指先は、正に4ヶ月前を示していた。重力震なんて言い方が解析屋らしい。郷田の話は半分も分からなかったが、比較的安定していた裸の特異点の周囲にあったガスか何かが、タイミングよく……というか悪くというか、一カ所に集中しすぎてループ量子重力効果で斥力が発生して四散。そのタイミングで重力震が発生したらしい。光学系の機器で何故測れていないのかの説明は全然分からなかったが、大型サブミリ波干渉計なら検出出来ているんじゃないかとのこと。ん……何だって?
「大型サブミリ波干渉計?」
アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計ALMAだったっけ? あのパラボラの大群……」
「郷田サン、それちょっと古い。今は、キロ平米配列電波望遠鏡SKA
「そうだっけ?」
 パラボラ関係なら関山が知っているかな? 後で聞いてみることにしよう。だが、どっちにしても、話にはついて行けてない。

 ただ、ひとつだけハッキリしたことがある。その裸の特異点とやらが今回の重力波源だと言うことだ。そして、その位置と軌道は、ヒカルの直感の通り、太陽系内にあり、そいつを俺は突き止めた!

 イケる。LISA─NETの観測が始まる前に、これを公表すれば、ファインダーとしての重力研の立場は安泰あんたいだ。〈オルガン〉の出番が少なかったのは少々残念だが、この解析結果の初期値に〈オルガン〉の観測データが入っているのはまぎれも無い事実だった。
 俺は、その夜、なかなか寝付けなかった。プレプリントも荒削りだが9割方できた。こんなにワクワクしたのは久しぶりだ。これで明日は、ドヤ顔でヒカルに説明ができる。どんなもんだ!

 だが、翌日。このワクワクを吹き飛ばしたのは、誰あろうヒカルの不可解な言動だったのである。







五、サイトカイン・スイッチ


「どういうことだ。理由を説明してくれ」
「今は……今はまだ言えない。時期が来たら話す」
「だから、明日までにプレプリントを発表しなければ、LISA─NETの観測に間に合わないんだ……」

        *  *  *

 俺は、ヒカルの研究室に居た。アポを取った午前10時。思わず笑みがこぼれてしまう程、意気揚々に重力波源特定の報をしゃべりまくる俺を尻目に、ヒカルは何故か沈んでいた。ただ、それは後になって気づいたことだ。
 だって、そうだろう。そもそも、『こっちが本物!』と言った張本人が、その直感が大当たりだったということを聞いて喜ばない方がおかしいってもんだ。
 前回同様、操作グローブを手にめ、3D表示で映し出す映像は、確実にブラックホール……もとい、裸の特異点の軌跡を示していた。〈BAR〉郷田の説明資料も付加して、4ヶ月前の〈ゴースト〉検出についても手際よく説明した。受け売りだから、突っ込まれてもそれ以上の説明はできないが、特段の質問は無かった。ちなみに礼奈は出張中である。
 ヒカルは真剣に、食い入るように見つめてはいたのだが、キラキラした目ではなかった。親のかたきでも見つけたような目とでも言おうか。
 俺が説明し終わると、一言。
「これが全ての元凶げんきょうってわけね……」
 と、一本の軌跡──実際には数えきれない程の探索線トラジェクトリーの渦の絡み合い──を指でなぞっていた。確かに元凶だ。この4ヶ月間、コイツに振り回された。だが、それもようやく終わる。見つけるまでが俺の仕事。後は、ヒカルの仕事だ。煮るなり焼くなり好きにやってくれ。そのとき俺は何をすればいいのか、よく分からんが。

「……それと」
 俺は、第一報として……いや、第一報は、俺とマクシュートフの共著論文だから、第二報になるのだが、〈ゴースト〉の位置&軌道情報をしるしたプレプリントを出すことを報告した。
 第一報は単に『髪の毛座方向』としか書いていなかったし、そもそも、重力波発生の機構が全く違っている。〈ゴースト〉はかなり遠くにあり、その前面にある別な天体が引き起こす重力レンズ効果によって、見かけ上、地球近傍に重力波源が出現したように見える……というのが、第一報の筋書きだ。太陽光が虫眼鏡によって地上の紙をがすようなもので、地上に太陽が出現したわけではない。そういうストーリーだった。
 だが、事実はもっと単純明快だった。地球近傍きんぼうで吹き荒れた重力波の嵐は、そのまま素直に地球近傍を通った〈ゴースト〉の所為せいだったわけだ。位置が確定しないのも当然だ。〈ゴースト〉の歳差運動で重力波の出力方向が変わっていた……というのも原因のひとつだが、一番の原因は、実際に太陽系内を移動していたということだ。
 コイツの発見が遅れたのは、素性すじょうが普通のブラックホールや中性子性と違い、特異点が丸見えとなっている裸の特異点だったということである。これまで、想像の産物でしかなかった奇妙な天体が観測されたわけだ。裸の特異点には事象の地平線が存在しないから、ベケンシュタインが提唱した熱力学も適応できないわけで、蒸発のしようがない。もっとも、特異点の向こうからは『緑色のスライムと無くしたソックス、それからテレビセット』が飛び出してくるかも知れない……。
 この手のヘンなものの扱いは、ある意味、理論屋の独壇場どくだんじょうだ。ブラックホールを5次元時空に適用し、球体のブラックホールだけでなく、リング状のものや、そのリングの中にブラックホールが入っている、ブラックサターンだとか、ヘンテコなものが色々とシミュレートされている。挙げ句の果てに『ブラックストリングで結び目が作れるか?』だとか、『ブラック・ダイリングの前後振動周期の計測』だとか、およそお遊びとしか思えないような論文を、郷田から分けてもらった。
 これに対して、観測屋は得てして保守的だ。未知の観測結果が出てきたとしても『未知のものを発見した』などとはまず考えない。もしも、そう考えるヤツがいたら、それは観測屋に向いていない。まずは、既存の成果の中から合致がっちしそうなものの組み合わせを考える。そして、どうしても説明が出来なくなったときに、始めて未知のものを提案するのだ。
 で、今回の裸の特異点は、楕円体に集合した星の残骸ざんがいの生き残りだろうと郷田は述べていた。トーラス体じゃないから、そこそこ安定してるだろうとか、色々言っていたが、俺にはよく分からない。そのヘンは、もっと頭のいいヤツと、もっと観測精度のいい望遠鏡でなんとか頼む。

 ……話が脱線したな。
 で、俺は、とりあえずここまでの成果をプレプリントとして発表する……とヒカルに伝えた途端とたん
「それはダメ!」
 と、ヒカルがスゴい形相ぎょうそうで睨んできたのだ。ええっ。俺が何か悪いこと言ったか?
 その直後、取り繕うように、声のトーンを落とし、
「……ごめん。しばらく待って欲しいの。このデータを使って実験するまで……」
 と言い換えてきた。何か知らないが、明らかに動揺している。そこからは、押し問答だ。
「それはいつ?」
「このデータを使ってちょっとした計算と準備が必要なの。そんなに時間はかからないと思う」
「分かった。しかし、そのデータを先に公表したって何の問題もないんじゃないか?」
「それはダメ。これはあなたのためでもあるの……」
「それならなおさら、理由を教えて欲しいんだが?」
 ヒカルはこちらを見つめて何か話そうとしたが、直ぐに下を向いた。いつもはもっと強気だった筈だが。重力研に押し掛けてきた時がこんな感じだったかな?
「……信じて……もらえないと思うから」
「え?」
「何でもない。ともかく、実験が終了するまで待って」
「うーん」

 堂々巡りだ。すこし切り口を変えてみよう。
「で、その実験ってのは? 量子テレポーテーションの実験……」
「そう……」
「どんな?」
「それも、そろってからでないと……」
「揃う? 何が?」
「〈彼〉が……」
「彼?」
「その時になったら話すから……。お願い……」

 この現場を誰かに見られたら、どう考えても俺の方が悪人だよなぁ。正論を言っているのはこっちなんだけどね。ただ、これ以上言っても、平行線のままだ。下手をするとヒカルが泣き出しかねない。そんな雰囲気になっている。
 一昨日、俺は、『ヒカルの肩を揺さぶり問いただしたい!』とか思っていたが、その気持ちは無くなっていた。少なくとも、何かたくらんでいるのでは無いように思える。
 とても納得はできなかったが、この短時間で重力波源を突き止めることが出来たのは、ヒカルのお陰だ。ヒカルが提供してくれた32ノード分の計算機資源と〈那由他モジュール〉、そして、ヒカルの的確な予想があったからだ。どれかひとつでも欠けていたら、〈ゴースト〉の尻尾すらつかまえる事はできなかっただろう。そのヒカルが頼んでいるんだ。ここは、俺の方が折れるべきだろう。そう考えた方が、俺も自分に対して弁明ができる。仕方ないと……。
「わかった。手筈てはずが整ったら連絡してくれ……」
「ごめんなさい」
 ヒカルはぺこりと頭を下げた。今日の髪は、坊さんが買ってきそうな赤い玉の付いたかんざしひとつだ。何故これで固定できるんだ。トポロジー的にどうなってる? いや、そんなことはどうでもいい。
「しかし……」
 俺は、ひとつだけ素朴な疑問を述べた。
「俺が公表しなくても、数日経てばLISA─NETの観測で、波源が分かっちゃうんだけどなぁ……」
「それは大丈夫」
 ヒカルはほんの少し微笑んだ……ような気がする。
「彼らは発見出来ない」
「どうして?」
「観測点が少しズレているから」
「え? どうして分かる?」
「〈彼〉がそう言ってたの」

 俺は渋い顔をした……のだと思う。ヒカルは微笑んだ。今度はハッキリと。
 〈彼〉って誰だ?

        *  *  *

 その日の午後、俺は〈金魚鉢〉の中に居た。プレプリントを今日中に出すことは無くなったが、いつでも出せるようにまとめておく必要がある。ヒカルが言うようにLISA─NETの観測が空振りに終わるなら、公表が少々遅れてもあとだしジャンケンみたいにはならないから、論文の商品価値は変わらない筈だし。
 それに、16世代目以降の計算はまだ走らせっぱなしで、結果を見ていない。
 さらにもうひとつ、調べるべきものが残っている。

 ジョブは40世代目で終わっていた。異常終了アベンドじゃない。最初から打ち止めは40世代目にしてあったのだ。シミュレーションは、あくまでシミュレーションだから、観測結果の精度以上のものは出てこない。もっとも、観測データ毎に精度が違うから、そこの統制とうせいが難しいのだが、そこはカルマンフィルタにお任せである。関山、ありがとな。
 で、何世代まで回したら、観測値の精度を超える無駄な計算になるかは、あらかじめ計算可能だ。今回の場合、およそ23世代程度で、その上限がくる。余計に回しても30世代。40世代もやったのは、精度を上げるためというよりは、このプログラムの信頼性を調べるためのものだ。結果、万々歳。次にどんな奇妙な天体が来ても対応できるだろう。
 次があるのかどうかは分からないが……。

 問題は、もうひとつの調べものの方である。
 いつだったか忘れたが、10日程前。ここのデータの整理をしていた時、あまり記憶の無いツールが出てきたことがあった。世代の古い〈佐藤スキーム〉、〈ゴースト〉用と思われる自作描画ソフト、その他様々なパッチ群に、出来損ないのプログラム・ソース。これは一体なんなのかを調べる仕事だ。単に忘れているだけならいい。今のうちに、モノになりそうなものは整理して、要らないものは捨てるだけだ。『いつか使えるかも?』とガラクタを残しておくと、そのガラクタを理解する時間の方が長かったりする。この場合、内容を覚えているうちにスッパリと捨ててしまうのが良い。……と言いながら、貧乏性なもので、全部取ってあったりする。だが、後で見返したことは一度たりとも無い。まあ、そういうものである。
 しかし、このファイルの残骸が、実は第三者によるハッキングの結果だったとしたなら、そうそう笑ってもいられない。ただ、その可能性は低いだろう。ハッキングした人間が、好き好んで〈ゴースト〉調査用のファイルを作成するとは思えないからだ。どのみち、ソースをじっくり見ればわかる。ソース内のコメントに書かれた署名とかは誰でも偽装することが出来るが、ソースの書き方のくせは、個人差が激しい。ループの回し方から、記号、改行の位置、タブの幅に至るまで、それこそ個性のかたまりだ。計量文体学ステイロメトリーなる学問すらあるくらいで、ソースを見れば自ずと作者が分かるのである。
 調べた結果、全てシロ。残されたファイルは全て俺が書いたものだ。納得はいかない。いかないが、客観的に見てそういう結論なのだ。後はヒカルに聞いてみるしか無い。ここでの作業にヒカルは一切タッチしていないが、俺の記憶の曖昧さを問い質したのはヒカルである。絶対何か知っている。やはり、『肩を揺さぶり問い質す』べきか? でも、目の前にいると出来ないんだよなぁ。紳士の俺としては……。

「そういえば……」
 と、またまた別の調べモノを思い出す。ヒカルは、LISA─NETの観測はズレていると言った。本当かどうか調べるのは簡単だ。〈ゴースト〉の軌道と、LISA─NETの観測範囲を重ねて見ればいい。
「おおっ。確かに!」
 〈ゴースト〉は辛くも探査の目をかいくぐり、闇にまぎれたままだ。ザマぁ……と思う反面、彼らも志を同じくする同業者カリーグだ。ライバルではあるが、足の引っ張り合いをする関係ではない。有用な情報を知りつつ、それを教えないというのは、どうも研究者として良心の呵責かしゃくってヤツに引っかかるのだが、『共同研究者の公表許可が出ませんでした』ってことで、勘弁してもらおう。それに、伝えたとしても、信じてもらえるかどうかは分からないし……と、自分に言い聞かせる。

 さらにもうひとつ。これが何かの役に立つのか分からないが、〈ゴースト〉の軌道をよくよく確認して気づいたことがある。コイツの軌道は地球軌道面に比較的近いが、典型的な双曲線軌道だ。要するに、無限遠からきて無限遠に飛び去るという〝一見いちげんさん〟である。科学的な言い方をするなら、離心率が1以上の非周期彗星の仲間ということになる。まあ、こんな物騒なモノが太陽系内にいつまでも留まってたら困るが、しばらく留まっていてくれるなら、観測衛星を使い、重力研究……いや、様々な物理学の分野が大きく前進するだろうなということも感じる。常連客になるのは困るが、『一見さんお断り』の札をかかげるでもないという、痛し痒しの状態だ。
 異常な重力波が観測された4ヶ月前のあの日、俺は、〈ゴースト〉が地球に最接近したから、重力波が地球でも観測された……と勝手に思っていた。だが、実際はそうではない。郷田の話にもあったように、ループ量子重力効果がどうのこうので、たまたま地球に向けて、強い重力波が発散されたのがあの日だった……というのが真相である。実際、〈ゴースト〉の軌道をツラツラと見てみると、コイツが地球に最接近したのは、その日からさらに2ヶ月程度後の事だ。
 ちなみに、地球にはもう一度接近する日がある。異常な重力波が発生した日、〈ゴースト〉は確かに、地球と火星との間の空間に居た。だが、今は金星軌道付近にまで太陽に近づいて居る。近日点は既に越えているが、太陽系から去って行く前に、もう一度地球に挨拶するつもりらしい。もっとも、絶対にぶつかる軌道ではないから、安心してくれ。

 そして、ここまで調べたなら、ついでに確認しておきたい日付がある。俺が、素粒子研の地下施設で目覚めたあの日の〈ゴースト〉の位置だ。その日が〈ゴースト〉の地球最接近日だったりすると、何となく話がつながりそうな気がする。どう繋がるのかはよく分からないが……。だが、現実はそう上手うまくはいかなかった。その日の〈ゴースト〉の位置は、最接近日でも近日点でもなく、何かしらの特異な日ではなかっ……いや、待て。
 俺は、ディスプレイの表示を、地心黄道座標系に切り替えた。つまり、地球上で見た場合、〈ゴースト〉が星座上をどのように動くか見るための星図表示である。すると……、〈ゴースト〉は、その日、〝りゅう〟の状態であることが分かった。地球上から見ると、〈ゴースト〉は、星図のある一点にとどまっている状態の日だったのだ。
 惑星や彗星などの星の軌道は、太陽以外の引力を無視すると、楕円軌道、放物線軌道、双曲線軌道のどれかに分類される。太陽系のから俯瞰ふかんで眺めれば、それらはよく分かるのだが、地球上で見ると、地球自身の運動も加味されるから、惑星や彗星の運動は複雑なものとなる。そのさいたるものが、軌道の逆行現象だ。例えば火星の場合、通常は星座の間を西から東に向かって移動している。これを順行と言うのだが、地球と火星が接近した時、地球の方が公転速度が速いため、火星を追い抜く形になる。すると、火星が反対向きに移動するように見える。これが逆行だ。速い車が遅い車を追い抜く時、速い車から見れば、遅い車はバックしているように見えるのと同じである。そして、順行から逆行へ移行する時と、反対に逆行から順行へ戻る時、一瞬だけ星図上に留まって見える時期がある。これが〝留〟だ。
 だが、〝留〟は天文学的な特異日と言うわけではない。地球の公転によって生じる、言わば見かけ上の特異日に過ぎない。さらに、〈ゴースト〉の逆行は2度あり、その結果、〝留〟は、太陽系外に飛び去るまでに3回もある。逆行が2回なら〝留〟は4度じゃないかとも考えたが、〈ゴースト〉は無限遠に飛び去ってしまうので、4度目は観測できないようだ。まあ、どっちにせよ、あくまでも地球上から見た故の、見かけ上の停留ていりゅう点でしかないのだが……。
 素粒子研の地下施設で、俺が目覚めた日の〝留〟は第2回目にあたり、これを量子テレポーテーション実験と結びつけたいのは山々だが、俺が目覚めたのは真夜中だ。しかし〈ゴースト〉は、ほぼ期間を通して日中しか見る事ができないのである。重力波やニュートリノならばいざ知らず、地球の裏側の〈ゴースト〉を観測するのは不可能だ。
 ちなみに、1回目はその1ヶ月半前。異常重力波騒動でてんやわんやしていた時だから、もちろんヒカルとは面識も無かった時期だし、そもそも共同研究なんてしている暇は全く無かった頃だ。3回目は……おお、3日後じゃないか。しかし、この事実が何かの糸口になるのか、それとも単なる偶然なのかはさっぱり分からん。ま、俺は俺の仕事を続けるのみだ。

 ひと通りの調べものが終わり、さてと、本題である筈のプレプリントの仕上をする……って、書けないんだよなこれが。〆切が先延ばしになったものだから、何となくモチベーションが下がってしまっている。あらかたのストーリーは書いているから、後は、シミュレーション結果リザルトの張り直し程度で終わりなのだが……。

 15時頃、やる気も無くなりダレて来て、大きく伸びをした時だ。
「あ。酒井さん。こんにちは」
 後方から聞き覚えのある声がする。腕を伸ばしたまま振り返ると、ポニーテールに丸メガネ。タヌキ顔の礼奈がそこに立っていた。
「あれ? どうしてここに?」
「今日は、ここの〝那由他ちゃん〟を使う用事があって……」
 そうか。ヒカルは『礼奈は出張』と言っていたっけ。インターンに出張は無いだろうと思っていたが、そういうことか。

 ……というわけで、2階の喫茶店〈スター・リーズ〉でお茶することになった。俺がおごると言って誘ったのだ。『いいんですかぁ』とか言いながら、すごくニコニコしている。見かけによらず、実は意外とシタタかだったりして。
 俺は、コーヒーと紅茶のシフォンケーキ。礼奈はレモンティーにザッハトルテとか言う、いかにも甘そうなケーキを頼んでいる。まあ、〝甘くないスイーツ〟ってのは、豪華な粗品、大きなミニバン並に、自己矛盾しているから、甘くていいのだ。
「いただきます!」
 礼奈は、ちょこんと手を合わせ、ケーキを一口食べた。満面の笑み。そこまで喜んでもらえば、シェフも本望だろう。
「あれ? 酒井さんはコーヒーなのに、紅茶のシフォンなんですか?」
「え? ああ。そう言えばそうだな……」
 そういう目で見たこと無かったな。紅茶の香りは好きなのだが、俺は大のコーヒー党だ。ここのシフォンケーキには生クリームが載っているので、コーヒーと一緒に食べるとアインシュペンナーみたいで美味い。ウインナーコーヒーじゃないぞ! アインシュペンナー一頭立ての馬車だからな。

「今日は何のためにここへ?」
「えっと……、この前お見せした、量子テレポーテーション後のディクチオステリウム=ディスコイディウムの比較ゲノム解析です。〝那由他ちゃん〟はスゴいんですよ。ゲノム丸ごと取り込んで、一度に全ての一塩基多型スニップスを見つけてくれるんです」
「……そ、そうなの?」
「はい! 生物情報科学バイオインフォマティクスの分野では、生体のままリアルタイムで変異体解析が出来るシステムとして注目されてるんです。研究室の……、あ、これは大学院の方の研究室ですけど、そこの担当教授が、『使いこなせるようになって来なさい』って、送り出してくれたんです」
「へぇー」
 ああ。聞くんじゃなかった。彼女とは知識ベクトルが線形独立だったのを忘れていた。
 確か、礼奈に始めて会ったとき、『星がつぶれたら、最後は消えて無くなっちゃうんですか?』とか何とか言われて、目がテンになったんだった。今は立場が逆転してる。俺がここでどんな質問を言おうと、きっと彼女の分野では的外れで、今度は礼奈の目がテンになるんだろうな。

「……いやぁ。俺にはさっぱり分かんないな。ハハハ……」
 とりあえずケーキを食う。口にモノが入っている間は喋らなくていいからな。礼奈もニコニコしながら両手を添えてレモンティーを飲んでいた。ちなみに、礼奈の今日の衣装は白衣ではなく、デニムのショートパンツにフリフリした白っぽいブラウスという、〝普通の女の子〟っぽい出で立ちである。
「ところで、橋本さんって、何年生なの」
「M1です」
「そういえば、卒論はクラゲだったよねぇ。研究室で飼ってる……」
「そうです。あの子たちは私が設計したんですよ」
「設計? 遺伝子組み換え生物ってヤツ?」
「はい。サイトカイン遺伝子を色々と……。でも難しくって。成長因子GF腫瘍壊死因子TNFの発現時期と順序を間違えると、サイトカイン・ストームを起こしてすぐ死んじゃったり。でも、成長だけだとぶくぶくになっちゃうから、ちゃんとハラキリさせないと……」
「腹切り!?」
「はい。ハラキリHrk
「…………」
 いつの間に、時代劇の話になったんだっけ?
「あ。でも、あの子たちは大丈夫です。もう10回も生まれ変わってます。テロメターゼ遺伝子に、緑色蛍光タンパク質GFPのレポーター遺伝子を組み込んでますから、再生時はすぐ分かるし奇麗なんですよ!」
「……えーっと、基本的なこと聞いていいかな?」
「なんでしょう?」
「橋本さんって、何の研究してるの?」
「不老不死です!」
「不老不死ぃ……」

 ……なのだそうだ。何か聞いてはいけないものを聞いたような気もするが、まともな研究なんだよな。多分……。どうも生物系は昔からからっきし弱いので──お前に強いものなどあるのかと声が聞こえるが、あえて無視──さっぱりだ。礼奈は相変わらずニコニコしながら、ティーポットの被せ布ティーコジーを取り、2杯目を注いでいる。ついでだから、俺もコーヒーをおかわりする。
「あー。でもでも」
 礼奈は紅茶を一口飲んで、話の続きを切り出す。
「……不老というのは本当は嘘なんです。老化のスイッチを逆転できるんです」
「逆転……というと、若返るとか?」
「そうです! あの子たちは、年を取ると初期化されて赤ちゃんに戻るんですよ」
 ドイツに、そんな若返りの泉を描いた画家がいたっけ……。
「それで生まれ変わりか。どうせなら老化を止められればいいんだけとな」
「それは無理なんです。進めるのは割と簡単なんですけど」
「老化が早まっても全然メリットないなぁ……」
「そんなこと無いです。最近の培養臓器移植は、成長因子GFの発現を制御して作られてるんですよ。老化じゃなくて、早熟なんです」
「……モヤシみたいだな」
 確かに、最近の再生医療……って言うんだったか。病気や怪我で臓器不全になると、本人のiPS細胞とやらを元に、1ヶ月もしないうちに臓器を作り出して移植する手術を行ったりしている。普通なら1ヶ月じゃあ培養できないよな。何かそう言う魔法で、促成栽培しているわけだ。『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』と言ったのは誰だったっけ?

「ところで、なんで、ヒカ……葵さんのトコでインターンやってるの? 〈那由他モジュール〉を使えるから?」
「それもあるんですけど、生物情報科学バイオインフォマティクス分野からの不老不死の達成には、重大な欠点があるんですよ」
「どんな?」
「記憶が引き継がれないんです」
「記憶?」
「ええ。赤ちゃんに戻ると、記憶までリセットされちゃうんですよ」
「それじゃあ若返ったとしても意味ないなぁ」
「ないんです」
 ……ははぁ。段々と、ヒカルの研究との接点が見えてきたような気がする。
「ということは、この前の粘菌の実験は、年取った粘菌の記憶を、若返った粘菌に転送する実験だったということになるのかな?」
「です、です。そうなんです。だから、不老不死の私の研究は、葵主任の量子テレポーテーション技術とセットじゃないと完成しないんです」
「なるほど……」
 いやはや、なんとも希有壮大けうそうだいな共同研究じゃないか。まさに人類の夢ってヤツだ。しんの始皇帝に聞かせたら喜んで徐福じょふくを差し向けるに違いない。それに比べると、俺との共同研究はなんだかショボい。……って言うか、結局何が最終目標なのか未だによく分からない。そういえば、タイムマシン云々の話は〈彼〉からの引き継ぎだとか言ってなかったか?

「あ! もうこんな時間!」
 礼奈は左手首の時計を見ながら、右手で口を押さえた。少女漫画で出てきそうなポーズだな。少女漫画読まないけど。俺は、伝票を持って立ち上がりレジに向かった。
「あ。やっぱり、払います」
「いや。俺がおごるって言ったんだから気にしなくてもいいよ……」
「でも、主任に怒られそうで……」
「ん? 何でそこで葵さんが出てくるの?」
「だって……」
「?」
「酒井さんと主任とは付き合っているんですよねぇ?」
 俺は、吹き出しそうになった。関山といい、礼奈といい、どうしてそういう誤解が生じるのかね?

        *  *  *

 喫茶店を出て礼奈と別れた……といっても、行き先は同じ〈金魚鉢〉の中なのだが、その後にプレプリントの仕上げなどやる気にならなかった。あるひとつの疑惑が、頭の中をグルグル回り、そいつを確かめない限り、どうにも先に進めない状態になってしまったからである。
 〈ゴースト〉の解析データは早々とメモリに入れたし、プレプリントなら重力研に持ち帰って続きを書く事もできる。議論ディスカッションの部分の手直しは、具さんや郷田に見てもらった方が断然いい。
 俺は礼奈に『じゃ、また』と挨拶をしてから、早々に重力研に戻る事にした。早々と言っても、16時近くになっていたから、向こうに着いた頃に終業の時間となる程度だろう。ま、そんなに早く帰った事はないけどな。

 あるひとつの疑惑とは、もちろん俺の〝記憶〟のことだ。素粒子研の地下施設で目覚めたあの日。俺には、その前数時間の記憶が無い。おれは勝手に、酔っぱらっていて記憶がないと思っていたが、呑み始めの記憶すら無いというのは、やはり冷静に考えるとおかしい。
 それ以前の記憶に曖昧な点は無いが、もしかすると、その記憶は〝転送〟されたものかもしれない。礼奈の話を聞いた後だけに、なおさらそう思う。その原理も理屈もよく分からないが、その鍵を握っているのはヒカルだ。あの地下施設に何があり、何が行われたかは、ヒカルが知っている。俺は今までそれを聞くのを避けていた。何があったにせよ、俺に非があるのは間違いない…そう思い込んでいたからだ。だが、〝酔っぱらいにありがちな行動〟にしては、その後の話の展開がおかしい。
 ヒカルが俺の記憶を〝転送〟したのだと仮定して……では何故、そんなことをする必要があったのか? 動機がまるで分からない。
 ブラックホールを使った量子テレポーテーションの実験がしたいから?
「いや、違う!」
 つい、帰りのリニアの中で声を出してしまった。周囲の客が数人、何事かといぶかしそうにこちらを見ている。俺は、ペコペコと頭を下げた。

 ……違う筈だ。要は、重力レンズを引き起こす天体があれば、宇宙を実験場にした量子テレポーテーションの実験は可能だ。そして、そんな天体は、これまでに沢山見つかっている。観測された天体が網羅もうらされているDDSⅣデジタイズド・スカイ・サーベイ4にでもアクセスすれば、実験に使えそうなヤツが、両手に余る程度は見つかる筈だ。
 探したけど適切なのが無かった……としても変だ。それだけ探して無かったのに、発見すらされてない〈ゴースト〉を『実験に使える』と決めつけ、共同研究を申し込む……とか、あまりにも不自然。それにヒカルは、『俺の方から共同研究を申し込んで来た』と言っていた。ならば、その〝記憶〟を〝転送〟し、元に戻しておけば万事解決じゃないか。

 ん? ヒカルによれば、量子テレポーテーションは、あくまでもテレポーテーションであって、コピーでは無いと言っていた筈だ。コピー&ペーストではなく、カット&ペースト。ということは、俺の〝記憶〟は、どこかの誰かに飛んで行って、そのかわりに、誰かの〝記憶〟が俺の脳に入っているのか?
 いやいや、そうじゃない! 俺は俺だ。俺が、他人の体に乗り移ったと考えるべきだ。体が主ではなくて、脳……記憶があるところが主だ。『我思う、故に我あり』と言うではないか。俺の脳を他人の体に移植すれば、その体が俺になる。だが、脳を取り去った俺の体に他人の脳を移植すれば、それは他人だ。見た目は完全に俺なのだが、それをコントロールしている脳が他人であれば、それは他人だ。
 誰かの〝記憶〟が俺の脳に入っているとすれば、それは俺ではない。俺の〝記憶〟が誰かの脳に入っているなら、そいつが俺だ。
 しかし、俺の記憶が他人の体に〝転送〟されたのだとしたら、俺はあの地下施設で目覚めた後、自分の顔を見て『お前は誰だ!』と言わねばならない筈である。唯一、それに近い反応をしたのが、俺と面識の無かった筈のヒカルだ。『過去の記憶はあるか?』と……。今にして思えば、この問いかけは『お前は、昔のお前なのか、それとも違うのか?』を確認したものだと考えられなくもない。

 いやいやいや……。妄想が膨らみすぎてしまった。記憶の転送だとか言い始める前に、そもそも、〈ゴースト〉は、夜中には地球の反対側にあるじゃないか! いくらヒカルでも、地球を通して向こうを見通せるわけがない! 俺の記憶の欠落と、〈ゴースト〉を使った量子テレポーテーション実験を結びつけるのは、やはり意味の無いことなのか?
 ああ。それこそ、頭が爆発しそうだ。一体どうなっているんだ。俺の考えていることは全てが妄想なのか? それともやはり『ヒカルの肩を揺さぶり問い質す』べきなのか。

 こう見えても、俺は研究者の端くれである。こういう場合、屋下おくかおくす如く、推論に推論を重ねても何も解決しない。まずは主観を外し、しょぱなの疑問を確認するための客観的なデータを探すことから始めなければならない。
 初っ端の疑問とは、『俺の記憶は正しいか?』である。コイツを確かめるのは簡単だ。俺が記憶している通りに、過去の俺は行動していたか? を調べれば良い。そう考えると、調べるべき事柄ことがらは、おのずと分かってくる。

 ……というわけで、今、俺は、重力研玄関脇の守衛室で、守衛さんと話している。
「地下の重力波観測施設の定点防犯ビデオねぇ。そういうのは、本当は総務課を通してもらわないといけないんだけどねぇ……」
「はぁ。そうなんですけど、ちょっと、バツが悪くて」
「うーん」
 重力研にも他の機関と同様、最低限の防犯設備は整っていて、それらの監視とコントロールは守衛室で行っている。普段は全然気にしていないのだか、人が頻繁ひんぱんに出入りする場所……玄関、部屋の出入り口、エレベータ、エスカレータなどには防犯カメラがあり、24時間365日、画像が蓄積されている。犯罪でもない限り、プライバシー保護の観点から、これら画像が開示されることはない。だから俺は一計いっけいを案じた。
 まず、場所は、地下千メートルの斜行エレベータ前だけでいい。そして、俺自身が映っている映像の画像と時刻だけでいい。録画された全画像には、コンピュータの自動判別による人物特定情報アノテーションが付けられているから、検索してピックアップするだけで手間はかからない筈だ。
 そして、その情報が欲しい理由というのが……

「彼女に『横浜煉瓦』というお菓子をあげたら、『誕生日には1ヶ月早い』って言われたんですけど……その日付を忘れちゃったんです。お菓子は地下施設の冷蔵庫から持って行ったから、それを手に持ってエレベータに乗った映像を探せば、日付が分かると思って……」

 ……ということにした。何故か知らないが、女性はアニバーサリーには敏感というか、ウルサいからな。それに、忘れたとでも言おうものなら大変なことになる……と、以前誰かが言っていた(汗)。だから直接は聞けないと……。うんうん。我ながら完璧な理論武装。
 4ヶ月前からの〈ゴースト〉騒動で、俺は夜食を買いに、頻繁に近くのコンビニまで足を運んでいたから、守衛さんもそれは覚えている。
「お出かけ?」
「また泊まりなんでエネルギー補給です。ついでにアンパンでも買ってきましょうか?」
 ……とか、調子良く挨拶していたのがこんなところで役に立つとは思わなかった。愛想ってのは大切だな。

 結局、俺だけが映っているファイルを、守衛さんがチョイチョイと検索し、
「ファイルを持ち帰るのはダメだが、ここで見て探す分にはいいよ」
 ということになり、守衛室の一角でそれらを見ることになった。自分の顔を大量に見る羽目になるかと思ったが、エレベータで頻繁に上下するのも以外と億劫おっくうなので、1日当たり数枚から十数枚程度しか画像は無い。俺って、いつも眠そうな顔をしているなぁ。もっとシャキっとせねば。
 ヒカルと会う前の一週間を集中して見てみたが、俺はちゃんとここで働いているようだ。昼飯に上がるか、夜食を買うかしている。ずっと外出しているとか、そういう事実もなさそうだ。もちろん、一分一秒まで正しい、弁当の種類も完全に一致……とまではチェックできない。そこまで記憶しているわけではない。だが、少なくとも、俺の〝行動〟は、俺の〝記憶〟と合致している。
 ヒカルが訪ねてきた前日。俺は少し緊張した顔でエレベータから降りている。時刻にして午前0時を回ったころ。結局、あの日はそのままソファで寝てしまったことを覚えている。翌日。俺はエレベータ前で、多少ニヤケた顔で立っているのが分かる。ヒカルの出迎えの為だが、検索結果には、〝プライバシー保護のため〟ツーショットの映像は含まれていなかった。だが、ヒカルを送り出す映像には、彼女の後頭部がチラっと映り込んでいたから、彼女があの時に来たのは間違いない。時刻も俺の記憶と合致している。

 記憶と行動の齟齬そごは何も無しかと、それは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか思案し始めた頃、ひとつだけ奇妙な事実に気づいた。俺はヒカルに会う前日の数時間だけ記憶が無い。だから、その時刻の行動を記憶から確かめることは出来ないのだが、19時頃にエレベータを昇り、20時頃に戻ってきている映像が記録されている。この当たりまでの記憶は、まだ俺にもある。外に晩飯を食べに行ったのだ。どこだったかな……。
 そして、その次の映像というのが、午前0時を回り、緊張気味に再び地下に戻ってきている映像なのだ。つまり、その前段階のエレベータを昇って行く映像が無いのである。
 もっともらしい推測としては、誰かがエレベータで降りてきて、俺が一緒に昇ったとすれば、〝プライバシー保護のため〟その映像が開示されなかったということが考えられる。誰が誘いに来たのかはまるで分からない。ヒカルだろうか? だが、部外者がいきなり地下施設に来るとは思えないし、そもそも手続きが必要だ。記録に残っていない筈が無い。それとも、ヒカルがいろいろと手を尽くして、あらゆる記録と記憶を消去したとか……?

 それもかなり怖い話だ……が……、俺はもうひとつの可能性に気づいた……。
 いや、そんな……そんな筈は……。

「ありがとうございました。おかげで見つかりました」
 俺は守衛さんに、『横浜煉瓦』を手にしている映像を見せた。礼奈に横浜のお土産として持って行った日のものである。
「おー、それは良かった。今度は忘れるなよ。相当、おっかない彼女みたいだなぁ」
「はい。あー、いえ、そんなことはないです。どうも、お手間を取らせました」
 俺の顔がひきつって見えたのだろう。守衛さんは変に気を回している。
「……それと、お手間ついでにもうひとつお願いできます?」
 俺は、突然頭に沸き上がった、その可能性を確かめる方法をひとつ思いついた。
「このIDカードに記録されている、各機関のゲート入出力ログを出力して頂く事は可能ですか?」
「おう。それならできる。本人の情報だからな」
 俺は、首からぶらさげていたIDカードから、ヒカルと出会う前後の日時のゲート入出力ログを印刷してもらい、再びお礼を述べて守衛室を離れた。印刷されたログを今すぐ見たいという衝動しょうどうの反面、見たくないという気持ちも大きく、色々と考えあぐねている間に、パブロフの犬よろしく、地下施設に舞い戻ってきていた。ここが一番落ち着く……のだが、今日ばかりは、少し不気味に感じられた。

 俺はソファに座り、足を投げ出し、印刷されたログを両手で握りしめたまま肘をついていた。数分の後、俺は意を決してログを見た。しわくちゃになった紙を広げ、日付を追って行く。
 ヒカルに会う前日の19時3分。重力研のゲートを通り、俺は外に出ている。
 同日19時15分。素粒子研のゲートから中へ。……そうか。あそこで夕食を食べたんだった。ペペロンチーノだったかカルボナーラだったか。
 その後、飯を食い終わって、20時2分に素粒子研のゲートを通り、外へ。
 20時14分。重力研のゲートを通り、地下施設へ戻る。ここは、エレベータの映像と合致している。そして……。

 23時52分。素粒子研のゲートを通り、再び外に出て……。
 翌日の0時7分。重力研のゲートを通り、再び施設の中へ……。

 手が震えているのが分かる。右手で左手を押さえても、逆をやっても、その震えは止まらなかった。俺は、見てはいけないものを見てしまったのかも知れない……。

 午後8時過ぎ。俺は、外からこの地下施設に戻って来た。
 翌日午前0時過ぎ。俺は再び、外からこの地下施設に戻って来た。
 その4時間ほどの間、この地下施設から誰一人、外へ出たものはいない

 ────俺は誰なんだ? 本当の俺はどこにいる?







六、時空間エンタングル


「先輩! ALMAとSKAの観測データ調べときましたよ」
「ん? 何だっけソレ……」
「ヒドいなぁ。『アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計ALMAキロ平米配列電波望遠鏡SKAの観測データって手に入るか?』って言ってたじゃないっスかぁ」
「あ。ああ、悪い。忘れてた……」
一昨日おとといの話ですよ。だいじょーぶっスか?」

 相変わらず、関山のテンションは高い。俺もこうありたい……とはこれっぽっちも思わないが、このくらいの空気の読めなさが欲しいときがある。
 結局、昨日は〝怖い考え〟に取り付かれてしまい、何も出来なかった。だが、俺は何者で、何処に居て、何処に行くのかとか、グノーシス主義⊕に傾倒けいとうしそうになった……と、少々ヤケっぱちではあるが、ジョークが言えるまでには回復した。簡単なことだ。悩んでもしょうがない。俺の近辺に何か危機的状況が迫っているわけではないのだから、デーンと構えていればいい。前向きに。前向きに。駐車場にだってそう書いてあるだろう。
 だが、事実を黙殺もくさつするわけにはいかない。何があったのか。そして、これから何が起ころうとしてるのかを見極めなければならない。

「それから、見つけましたよー。これ探してたんでしょ」
 関山の話はまだ続いていた……。
「何の話だ?」
「ほれ!」
 関山が手にしていたのは、ALMAの利用申請のリストだった。その中に、“AOI Hikaru et al.”の文字が含まれている。こんなところでヒカルの名前を見るとは思ってもいなかった。関山のしゃべくりはまだ続く。
明後日あさってもまた使うんでしょ。いいっスねぇ。俺もあんだけのパラボラ、グリグリと動かしてみたいっス」
 俺は、関山からそのリストを分捕ぶんどり、日付を確認した。間違いない、確かに2日後だ。もしやと思いページをめくる。間違いなかった。あの日。素粒子研の地下施設で目覚めたあの日も利用申請が出ている。それだけではない。その1ヶ月半前にも申請は出ていた。すなわち、〈ゴースト〉が〝留〟であった全てで、利用申請が出ており、ヒカルの手によって実際に稼働かどうしていたのだ。明らかにこれは偶然ではない。
 だが、ヒカルはこの分野は素人だ。ALMAやSKAなら、〈ゴースト〉が捉えられるかも知れないなんてことは、俺だって、具さんや郷田に聞くまでは知らなかったことだ。誰かが手引きをしたとしか考えられない。もしかすると、そいつは、〈ゴースト〉が裸の特異点だと知っていた可能性すらある。もちろん、俺にはそいつの見当はついていた。〈彼〉だ。元々、この研究テーマは〈彼〉のものだった。そして、経緯は不明だが、〈彼〉は居なくなり、その研究をヒカルが引き継いだ。引き継いだはいいが、ヒカルが分かるのは量子テレポーテーションの実験部分のみで、3回目の〈ゴースト〉の〝留〟をどうやって探せばいいか、皆目かいもく見当がつかない。そこで俺に目をつけて共同研究を申し込んで来た……と考えれば辻褄つじつまが合う。
 もちろん、この推測はところどころ抜けがある。第一、俺が何故、2回目の実験に駆り出されたのかがさっぱり分からん。1回目はおそらく〈彼〉なんだろうな。そして、明後日の3回目は……えーっと。そうだ。『〈彼〉が揃ってから』とかヒカルは言っていたから、〈彼〉の出番だろう。じゃあ、俺は〈ゴースト〉の軌道計算をヒカルに手渡した段階でお払い箱になったってことか? いや、ヒカルは『その時が来たら話す』とも言っていた。まだ用済みではないってことらしい。
 俺の推測もこのあたりが限界だ。とりあえず保留ペンディングにしておこう。ヒカルが『話す』と言っているのだから、待とうではないか。それも、明後日までにその時がくるのは、まず間違いないのだから……。

        *  *  *

 俺は切り替えは早い方だと思う。というか、延々と考え込んでいられるなら哲学屋になっている。いや、哲学屋と物理屋の間に数学屋というのが入るな。切り替えの早さというか、割り切りの良さで言うならば、〝哲学屋< 数学屋< 物理屋< 工学屋〟ていう順序か?
 物理屋の俺からしてみれば、工学屋に対しては『おいおい。その基礎方程式は条件別に色々と項が省略ネグられてるから、そのエネルギー帯域は適応外だろ。無条件に信じるなよ。ほら、ここ飽和サチってんじゃねーか』とか思う反面、数学屋に対しては『現実の実験結果に沿った式なんだから、無矛盾性とか証明が不十分とか、細けーことはいいんだよ。デルタ関数の〝関数としての位置づけ〟とか議論してどーすんだよ』と思ってしまう。
 哲学は……自然科学の分野じゃないから分からん──数学は自然科学か? という議論は置いておく──。このヘンのカルチャー・ギャップは大昔のC.P.スノーって人の著書を見てくれ。

 はてさて、そうと決まれば、明後日までにやることは結構ある。関山からもらったALMAのデータ……それも、“AOI Hikaru et al.”の観測データ解析をプレプリントに組み込む事だ。この観測データは幸いなことにALMAアーカイブで公開されているから誰でも見る事ができる。だが、その観測の意義を知るものは、おそらくヒカルと、今の俺しかいないだろう。〈彼〉もその一人か? ヒカルが何故、この観測結果を論文として発表しないのかは分からない。俺にすら『それはダメ!』と念押ししたくらいだ。おそらく観測データそのものも封印したかったのだろうが、国際的な共同観測施設を利用するとあっては、観測データの私物化は許されない。
 ちなみに、ヒカルが観測のターゲットとして登録しているのは〈ゴースト〉ではない。そりゃそーだ。俺を含む重力波の研究者が、位置や軌道が分からず右往左往している時に、『〈ゴースト〉をピンポイントで観測します』的な申請を、シレッと出せるわけがない。ヒカルはその遥か後方のクエーサーの観測を行うことになっていた。実際、その通りなのかもしれない。量子テレポーテーション実験のキモは、二手に分かれたコヒーレント光の干渉であるから、〈ゴースト〉はそれを再び集めるレンズの役目をになっているに過ぎない。
 もっとも、右回りと左回りで時間的なズレが生じるという点も重要なファクターで、〈ゴースト〉を〝単なるレンズ〟と言い切るわけにもいかないのだが、『観測対象は何か?』と問われれば、『クエーサーからの光』と答えても嘘ではない。

 ALMAアーカイブのヒカルの観測データは、1回目、2回目とも完璧だった。クエーサーからの光が赤方偏移と青方偏移を起こし、陰陽魚太極図のように混ざり合っている。青方偏移が顕著に分かるというのがすばらしい。〈ゴースト〉が恐ろしい程の速さで回転していることの証拠だ。事象の地平線に収まることの出来ない〝裸の特異点〟なんだし、相当な暴れ馬であることは間違いない。
 観測データを解析しながら、俺は段々と腹が立って来た。だって、そうだろう。ヒカルはこんな観測結果を知りながら、俺に〈ゴースト〉の正体を突き止めるように言い、『こっちが本物!』と予言をしたが、何のコトは無い、全部事実として知っていたということだ。何にも知らない俺だけがアタフタと走り回っていただけ。腹が立たない方がおかしい。
 事実、1回目、2回目の観測先のクエーサーは別物で、なおかつ、その中心から微妙にズレた点を狙っている。明らかに、ALMAの〝ピント〟は〈ゴースト〉にフォーカスされていた。要するに、クエーサーは単なる隠れみのに過ぎない。
 さらに調べて行くと、観測日時が〈ゴースト〉の〝留〟と一致している理由も分かってきた。それは補償光学装置アダプティブ・オプティクスに絡むものらしい。ALMAは地上の観測機器であるので、どうしても大気のゆらぎによるピンボケが発生する。これを補償して像を結ばせるのが補償光学装置アダプティブ・オプティクスで、ターゲット近くの別な天体をガイドとして大気のゆらぎを補償する。この時、ガイド星とターゲットの星の位置関係はなるべく固定されていた方が望ましいということのようだ。あくまでも、『なるべく』なので、必ずしも〝留〟と一致してなければならないわけではなさそうだが、万全を期してということなのだろう。
 そもそも、〝留〟は天文学的な特異日でなく、地球上の観測であるが故の見かけ上の特異日で、何故にこんなものにこだわるのか、俺には理解出来なかったわけだが、要するに、その見かけ上の問題が、大問題だったわけだ。

 さらに、さらにである。この実験の規模は結構大きく、しかも計画が緻密ちみつで念入りだ。ALMAは『アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計』という名前の通り、日本から見ると地球の裏側のチリのアタカマ砂漠にある。砂漠と言っても熱い砂を想像してはいけない。山頂施設の標高は優に5000mを超えていて、空気も半分しかない。こんな所に、66台のパラボラ群が林立しているのだ。さすがに今となってはSKAにお株を取られ、老朽化が目立つ施設ではあるが、我が重力研の〈オルガン〉同様、立派に現役である。
 ヒカルの研究室は、そこに三基の移動式実験室コンテナ・ラボを独自に送り込んでいる。中身は、ライダーLIDARと呼ばれる、巨大なレーザー発信器と超高感度望遠鏡が組合わさった装置だ。一般的には大気中のちりや火山灰などのエーロゾルを調べるもので、塵で反射されたレーザー光を望遠鏡で捉えて、そのタイムラグから塵までの距離を計測する装置である。レーザーを用いたレーダーと言った方が分かりやすいだろうか?
 ヒカルはこれを、大気の観測では無く、さらにずっと先の〈ゴースト〉の観測に使おうとしている。以前、予備実験で見たレーザー施設のデカイやつと考えればいい。もちろん、このライダーはそんな名目では登録されておらず、観測時の大気状態の把握と、補償光学装置アダプティブ・オプティクスのためのレーザーガイド星発生装置とされている。ただし、機器性能を見ていると、どう考えてもオーバー・スペックだし、補償光学的には不必要なサーボ機構が付いていたりと、全球大気監視エーロゾル・ライダー観測網GALIONの面々が見たらヨダレを垂らして欲しがるほどの装置だ。
 要するに、ヒカルの実験は、〈ゴースト〉の後ろのクエーサーの光をコヒーレント光として使うのではなく、直接、こちらからレーダーを撃ち込んでその反射を使って観測しようとする魂胆こんたんらしいって……あれ? 〈ゴースト〉は光を反射しないよな。いや、〈ゴースト〉のへりを180度回って戻ってくる光を捕まえるのか? うーん、よくわからん。まあ、ここで俺があれこれ詮索せんさくしてもしょうがないだろう。下手な考え休むに如かずである。
 それから、これは俺の推測だが、〈彼〉はその移動式実験室コンテナ・ラボに居るのではないかと思う。そして、今、彼をこちらに呼び寄せているのか……。あるいは逆に、そこに待機スタンバイさせているのか……。

        *  *  *

 翌日。俺は、プレプリント書きとは別に、もうひとつの調査も開始した。あまり乗る気がしない調査だったが、放っておくわけにも行かなかった。それは旅情的に言うと〝自分探し〟である。ホラー的に言うと〝自分のヌケガラ〟探しだ。
 何も確証があるわけではない。だが、素粒子研の地下施設で目覚めたあの日、俺は斜行エレベータを使い、重力研の地下施設へ二回戻って来ている。つまり、俺はここに2人いる……ことになる。もう1人の俺はどうなったのか? 色々と恐ろしい妄想が頭に浮かぶが、それはとりあえず考えないことにする。もし、そいつを〝発見〟できたらどうするのか? ……それも、その時考えよう。
 簡単な推測だ。少なくとも、この施設内に俺は居ない。……ややこしいな。この施設内には〈俺二号〉は居ない……と言い直そう。さっき言ったことと違うじゃないかと思うかも知れないが、もしも、施設内に〈俺二号〉が居るのなら、飯とか風呂とかどうするんだと言いたい。そもそも1ヶ月以上前の話だから、誰にも気づかれず、ずっと引きこもることは不可能だ。絶対に足が付く。さらに決定的なこととして、守衛室で見た映像に〈俺二号〉は映っていなかった。全て俺だけの映像だ。

 ──姿が同じなのに、何故分かるか?
 簡単なことだ。俺が居ない間に〈俺二号〉が隙を見て逃げだしたのならば、この地下施設から、俺と〈俺二号〉が、二回連続してエレベータを上る映像が残っている筈だ。それがないのだから、ここでの〝俺密度〟は2で保存されている。divA=0だ。
 もっとも、斜行エレベータを使わずに逃げ出す方法は、他にも2つほどある。非常階段を使う方法と、機器搬入はんにゅう用大型エレベータを使う方法である。非常階段で千メートルも上るんかい……と思っただけで気が滅入るが、これは本当に非常用で、階段途中に沢山のカメラ類が取り付けられており、何か動くものが映っていたら、即座に守衛室のアラームが鳴る。赤外線装置もついているから、どこかのスパイ映画のエージェントでも無い限り、極秘に突破することはできない。そして、俺にはそんな器用な特技は備わっていない。〈俺二号〉にそういう特殊技能が備わっているというのなら、俺と体だけ替わって欲しいもんだ。
 次に、機器搬入用のエレベータは、車3台位なら楽に運べそうな大きさで、操作には許可が必要である。これまた守衛室に鍵を取りに行かねばならない。それに、こいつは動きが遅くて、地上に出るまで20分はかかるし、赤色灯ならぬ黄色灯がグルグル回ってビービー音を立てながら動くので、とてもじゃないが、こっそりと抜け出すことはできない。鍵を外し、エレベータ上部の鉄板を外してワイヤーを登るという特殊技能があるなら……以下略。

 話が長くなったが、要は施設内には居なくも、施設外に居る可能性があるということだ。ここの施設は鉱山の発掘跡地に作られていて、使われていない坑道があちこちに走っている。実は、それらを辿たどれば全ての地下施設に行ける……という都市伝説、もとい研究都市限定の伝説がある。実は俺も、ここに配属になった頃、暇を見つけては施設外を探検したことがあるのだが、結構暑いのと、電気も何も無い空間で、当然ながら立ち入り禁止のロープも張ってあり、あまり奥までは進んだ事が無い。電波も届かないから携帯も使えない。もっとも、その発想は逆で、電波だけでなく、重力波やニュートリノなど、地球を貫通することを屁とも思わない粒子を除き、他の粒子が全く届かないからこそ、この地下施設は意義があるのだ。
 現実的な話、暗い坑道内で地面に深い縦穴が開いているかも知れないし、未使用区域は鉄骨による補強とか無いから落盤もあり得る。それに、怪我をしたり穴に落ちて身動きが取れなくなったとしても、誰も助けにはこない。最悪、ここで野垂れ死んでも労災すら下りない。だから、冒険といっても、近場だけ回るハイキングのようなものをしたことがある……という程度だ。
 だが、今回は少々本気を出さねばならない。もし……あまり考えたくないことだが、〈俺二号〉が実在していて、地上に出た形跡がないとするならば、この坑道のどこかで……あるいは……。

 GPSは使えないが、光ファイバージャイロ付きレーザー測量器があるから問題ない。タブレットと併用して、測量器をグルっと360度その場で回転させれば、壁までの距離を自動的に計算してくれる。測量位置はジャイロに付属の3軸加速度計の値を二階積分すれば分かるから、これを持って移動しながら色々な方向を向けば、坑道内の地図マップが次第に出来上がるって寸法だ。後は地図を見ながら、レーザーが届かなかった別の坑道前まで行って、同じ事を繰り返せばいい。
 その他は、LEDライトにザイル、軍手、それとわずかばかりの食料を持って行く。外は暑いが、岩場だから、長袖の方がいいだろう。ヘルメットもかぶっていく。登山靴……は持って無いから、トレッキング・シューズで我慢しておこう。登山靴とトレッキング・シューズって何が違うんだっけ? そうそう、それとカメラも必要だな。

 坑道内は想像した以上に暑かった。それでもって、軍手に長袖だから、汗がスゴい。滝のように……とまではいかないが、雨だれ程度に背中を流れている。落盤とか滑落かつらくとか言う前に、脱水症状で倒れるんじゃないだろうか? メシより、まずは水をたっぷり持ってくるべきだった。ただ、水筒の分だけ荷物の質量が増すと、その分余計に汗をかくから、持って行くべき水量の最適解ってのがある筈で、それは、どれだけ歩き回るかという時間の関数になる筈で……とかなんとか、下らないことを考えるのは、もはや職業病だな。
 まあ、少しずつ徘徊はいかいすれば、少しずつ地図が出来上がって行くので、それほどあせる必要は無い。どこかのアクション・ヒーローみたいに、松明たいまつの明かりひとつで闇の中を全力で駆け抜ける必要もないし、エイリアンが襲ってくることもない。多分……。あり得るのはガジェット類の電池切れだが、まあ、12時間もここにはいないからな。
 坑道内は『迷路みたい』という話だから、右手法と左手法のどちらで解こうかとか、その手法だと、途中に孤立した〝島〟があったら辿たどり着けないじゃないかとか、色々と妄想をしたのだが、それほど奇妙に入り組んだ道は無かった。直線で止まり。引き返して、脇道で止まり……。地図の方は順調に出来上がって行く。その地図を見ると、意外にも整然と掘られているのが分かる。迷路というよりは碁盤の目のような構造に近い。おそらく、無計画に掘って天井が落ちてくるのを避けるために、柱となるべき岩盤を、ほぼ等間隔に残しているようであった。強度計算もしっかり行って掘っているのだろうし、思った程、危険な場所ではないのかもしれない。
 そうこうしていると、少しずつ楽しくなって、段々と本来の目的を忘れていくが、それを思い出させるのは、たまに放置されている古びた資材の山だ。布切れがかけられていたりするとかなりヤバい。遠目には、人が倒れているように見える。実際にはそんな形ではないのだが、どうしてもそういう目で見てしまう。心底小心者のようだな、俺は。
 おっかなびっくり近づいて、意を決してカバーを外し、ホッとする。その繰り返し。肉体的な消耗しょうもうとともに、精神的にもかなり滅入る作業である。
 調査するのは足で歩ける範囲だ。ロック・クライミングでもしなければ辿り着けないような、10m以上も上にポッコリ開いた穴とかは無視した。暗くて足場か悪くて誰も助けが来ないようなところで、そんな所、誰が登るものか! 〈俺二号〉にそんな特殊技能があるなら……以下略。ただ、ところどころ坂道になっていて、上下に移動できる状態の場所もある。そのため地図は自然と3Dになっていく。
 一旦引き返そうかと思い始めた頃、レーザー測量器が、ある坑道の奥に、何か人工的な直線と曲面で構成された壁面があることを知らせてくれた。そこだけ一本道らしく、かなりの距離続いている。距離にして500m程度。ライトで照らしても向こうはよく見えない。行ってみたかったが、既に12時を過ぎており、腹が……というより喉がカラカラだ。全身汗まみれでバテてもいる。まあ、午後からもう一度くればいいので、とりあえずは、戻ることにする。出来上がって来た地下坑道の地図に現在位置のマーカーを付け、帰り道を急ぐ。最短で来た道を引き返すように、タブレットを見ながら歩いたが、ものの15分くらいで到着。2時間かけて調査した割には、それほど距離は歩いてないのかもしれない。まあ、坑道の全体像は何となく分かって来た。

 戻ってすぐに、軍手、上着、ヘルメットを脱ぎ捨てると、Tシャツは手でしぼれる程、汗びっしょりだった。そいつも脱ぎ捨てて、ローカーにあったタオルでゴシゴシ。予備の下着に着替えて、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、一気飲み。こういう時は、コーヒー牛乳かなぁ。ほとんどサウナだったし。やっぱり腰に手を当てるべきだな。一息ついて、再び冷蔵庫から、冷凍のテリ玉バーガーを取り出して、レンジでチンする。とても、地上うえまで上ってメシを食う気にはなれなかった。
 端末を見ると、ヒカルとマクシュートフからメールが来ていた。
『メッセンジャーで呼び出したけど出なかった。実験の準備ができた。明日の夜8時に研究室に来て欲しい』
 ……ヒカルからのメールを要約すればそういうことになる。やはりこちらの思った通り、〈ゴースト〉の〝留〟に合わせ、ALMAのパラボラを巻き込んでの一大実験をするつもりだ。俺が『明日はちょっと呑み会で……』とか言ったらどうするつもりなのだろう。それに夜8時だぜ。まあ、事情は大体分かっているから行ってやるけどな。俺がその場に立ち会う理由くらい、先に教えてくれてもいいと思うが……。
 マクシュートフからのメールは、LISA─NETでの観測が失敗に終わったことを伝える速報だった。そう言えば、今日だったな。俺の中では既に過去の話のように感じていた。メールからは、〝残念な結果〟という雰囲気が伝わってくるが、今の俺にとっては〝当然の結果〟だ。だが、その事を彼に伝えることが出来ない。少し……いや、かなり心苦しいことだったが、それも明日までの筈だ。少なくとも、今書いているプレプリントの共同研究者にはなってもらう予定だ。また一緒に、キンキンに冷やしてトロトロになったズブロッカでも呑もうじゃないか。

 メシを食って一段落した後、俺は再び坑道に入った。今度は、Tシャツとジーパンだけの、極々ラフな格好である。午前中の探検で、それほど危険ではないことが分かったからだ。その代わり、タオルとミネラルウォーターはたっぷり持って行くことにした。ヘルメットは……仕方ない。かぶるか……。
 先ほどのマーカー地点まで、15分。長い一本道は少しずつ下っている。5分程歩きながら次第に大きくなってきた正面の壁は、巨大な円形のオブジェというか、そういうものだった。
 はて? この光景、どこかで見たような気がする。
 直径にしておよそ5m強だろうか。何かの機械らしいことは分かるのだが、一体なんだ? 表面は、どう表現したらいいか……ジュリア集合の一部のような形状に並んだ歯が付いている。歯? おおそうだ。こいつは掘削機だ。このトンネルを掘り進んだ機械の成れの果てだ。その昔、ドーバー海峡を掘り進んだ掘削機も、そのまま地下に埋められたと聞く。使い捨てにしたことによる損失額よりも、地上に持ち上げるコストの方が割高だからだ。文字通り、墓穴を掘る機械なわけだな、コイツは……。
 うーむ。何となく、切ない。
 行き止まりだし引き返そうと思ったが、妙な既視きし感がその思いを引き止めた。よくよく見ると、上部右側に人が入れそうな隙間がある。さらによくよく見ると、そこを人が登ったと思われる形跡があるのだ。振り返って、地面をライトで照らしてみる。地面には、確かに人が通ったと思われる形跡があった。歩いて来た俺の足跡ではない。もっと大勢の人が歩いたと思われる跡だ。そして、その足跡は、右側……つまり、隙間のある方向を目指して進んでいる。
 ……と、ここまで来たら。
「登るかぁ!」
 一人で気合いを入れる。声の反響がハンパない。こんなことなら、軍手はしてくるべきだったと後悔する。登るためには、手に持ったライトをどうにかする必要があった。少々不格好だが、ライトをタオルで巻いてヘルメットに固定し、登ることにした。最初からライト付きのヘルメットにすれば良かったと思うが、そんな備品は無かったよな。そもそも、坑道に入って行う仕事など存在しないし……。
 おそらくタングステンと思われるその歯には、所々に人工ダイヤモンドと思われる黄色い結晶のカケラが埋まっている。掘り出せば良い値が付くかなとも思ったが、もしそうならば、既に皆が取り去っているよなと考え直す。ライターで火を付けて燃えるかどうか確認してみたいものだ。
 かすかな油と鉄錆てつさびの匂いを嗅ぎながら、何とか3mくらい登る。それでも結構怖い。横の隙間に顔を向けると、かすかに風を感じる。コイツは必ずどこかに繋がっているに違いない! 恐る恐る隙間に足をかけ、反動を付けて体を隙間にねじり込ませる。少し……いや、かなりのへっぴり腰だ。地上3mじゃあ、ヘルメットもしていることだし、死にはしないだろうが、骨折くらいはあり得る。
 隙間は、ちょうど人一人通れるくらいの通路となっていた。掘削機の外側にある隙間だから、明らかに誰かが意図的に掘ったものだろう。それが証拠に、掘削機の側面には手で触って出来たと思われる土の付いていない帯があるし、削ったときに出来たと思われる細かい傷も残っている。ツルハシ……は振り回せないよな。しかし、シャベルじゃ掘るのがキツそうだ。
 20m程度歩いて行き止まりだった時は少々落胆らくたんしたが、左上から吹き下ろす風に気付き見上げると、掘削機の側面に沿って、ポッカリと空間が開いている。側面は、そこから上は丸みを帯びているから、斜面を登る格好だ。側面にはほとんど凸凹がなく、鉄板の隙間に指2本ずつくらいしかかけられない。もっとも、垂直ではないからまだマシだ。途中で手が滑っても、斜面を転がるだけだから擦り傷程度で済むだろう。結局、慎重に登ったので、滑り落ちることもなく、穴の上に出ることができた。とりあえず、そこで仰向けになる。疲れた。天井が高い。
 数分後、俺は立ち上がり、あたりを見回し、レーザー測量機で坑道の広さを測る。かなり広い。掘削機のお尻の部分は、この部屋の端の中央部分にある。おそらく、ここに掘るべき鉱物が大量にあったのだろう。だだっ広い空間には、錆び付いた様々な金属部品が散らばっており、強者どもの夢の跡らしい風情ふぜいである。真っ暗では、風情もなにもあったもんじゃないか……。
 ふと目をらすと、遠くに青白い光が見える。一瞬、重力研の地下施設に舞い戻って来たのかと思ったが、レーザー測量機で作られた地図は明らかに違う場所を示していた。俺は、紫外線を放つ誘虫発光灯に吸い寄せられる夏の虫のように、そちらに向かって歩き出した。青白い光は段々と大きくなり、それが何かの非常灯のようなものだと分かってくる。非常灯に照らされた下の壁はドアとなっているらしい。何か文字が見える。そいつは……

『素粒子研究所粒子加速器施設』

 と読める。何度確認してもそう読める。……っていうか、そうとしか読めない。ほほを汗が伝う。なるほど、そういうことか……。かなりの部分、謎が解けた気がする。
 目的をある程度達成したから、ここで引き返そうかとも思ったが、やはり、好奇心には負けた。誰もいる筈が無い周囲をキョロキョロと見渡し、俺はドアノブに手をかけて回した。鍵は掛かっていない。ええい。掛かっていたなら諦めも付いたものを……。ゆっくりとドアを開ける。ステンレスか鉄板か知らないが、かなり分厚く、重いドアだった。暗いところをずっと歩いて来た所為せいか、中からの明かりがとてもまぶしく感じる。30㎝ほど開けて覗いた先は、重力研の地下施設とは比べ物にならない程の巨大な空間である。
 想像した通りだった。あの日、俺は、逃げるようにして素粒子研の地下施設を後にした。エレベータに通じる長い廊下の終端部、突如としてひらけた視界に飛び込んで来たのは、ドリフトチューブ型の線形素粒子加速器だった。そして、今、そいつが目の前にある。あの時は上から眺めただけだったが、今は同じ目線……いや、相手が大きいだけに、見上げている格好だ。事実、数百m先には、俺が渡った吊り橋状の廊下が小さく見え、そこに直結するエレベータも見える。エレベータはここの階にまで伸びているから、あそこまで行けば、素粒子研の地上……あの静脈認証プレートの付いた特別なエレベータ出口から出られるだろう。だが、今はめといた方が賢明だ。その廊下に数人の人影が見え隠れしている。後ろめたい事は特にしていないが、仕事中にサボってここまで来た……ってコトになるのは間違い無さそうだ。どうやって来たかを説明するのもややこしそうだしな。
 そうか……。明日なら大丈夫だ。共同研究のためヒカルの研究室にやってきたということで、途中誰かに会って問われたとしても話のスジは通る。もっとも、素粒子研の知り合いはヒカルと礼奈以外は、愛想のいい事務室のお姉さんくらいだが……。

 俺は坑道を引き返しながら、頭の中を整理した。
 要するに……だ。〈俺二号〉なんて元々居なかったのだ。俺は、そいつの存在に少々おびえていた。何しろ、1ヶ月以上も姿が見えないとなると、この坑道のどこかで……今なら声に出して言えるが、おっ死んでいるに違いない。そう考えていた。そして、その〈俺二号〉が実は本当の俺であり、今の俺は、そこから記憶だけ転送されてきた別人なのではないかという疑念があったのだ。なるべく意識には上らないようにはしていたが、その結論が最も単純で分かりやすい。オッカムの刃による淘汰とうたなら断然トップとなるべき推論だ。
 だが、重力研と素粒子研が地下で繋がっているとなれば、話は違ってくる。俺は、あの日の午後8時過ぎ、メシを食べて重力研へ戻った後、坑道の抜け道を通って素粒子研へ潜り込んだわけだ。その時間帯の記憶が無いので、これ以上は推測でしかないが、午後8時過ぎにヒカルが重力研に訪ねて来て、この抜け道を手配したとなればスジは通る。ヒカルがエレベータから降りて来た映像が守衛室で見られなかったのは、〝プライバシー保護のため〟だ。
 何故そんなことをしたのかは不明だが、堂々と胸を張って説明できない実験だったと言う事であれば納得がいく。表向きは、量子テレポーテーションの実験だ。所長へ正式ルートの申請が出されているのだから間違いない。その申請云々の記憶も俺には無いというのが少々ひっかかるが、それはとりあえず置いておく。だが、その実、怪しげな人体実験が行われていて、俺はその被験者なのではあるまいか?
 そこまで考えると、ヒカルの『過去の記憶はあるか?』と言う俺への問いかけの意味が変わってくる。俺が一人しかいないとなれば、俺の過去の記憶は単純に〝消された〟のである。午後8時過ぎから4時間程度の間の記憶を消さねばならない、何らかの事態が発生したのだ。昔の映画でそういうのがあったな……。時間を設定してピカッと光らせると、相手の記憶を消す事ができるというそういうアイテム。そして、ヒカルは、俺の記憶の消去が完全に出来たかどうかを確かめるために『過去の記憶はあるか?』と問いかけたのだとしたら……。何だ! 〝よからぬ事〟をしたのはヒカルの方じゃないか。
 では……。目覚めた俺にかけた「大丈夫?」という言葉は何を意味するのか?

        *  *  *

 実験当日。俺は朝からそわそわしていた。未だに何が行われるのかは聞いていない。もっとも、ここまで来たならその方が面白い気もする。この1ヶ月……いや、〈ゴースト〉が現れてからのことを考えれば4ヶ月間の集大成というか、壮大そうだいな答え合わせというか、そういう感じ。
 実は、朝にはヒカルからメールが届き、それを見た直後に、メッセンジャーがポップアップ。メールの確認を待っていたのか、向こうからアポの確認をしてきた。数日顔を見てないだけなのに、何となく懐かしい気がする。
「ごめんなさい。準備に手間取っちゃって、今晩になってしまったんだけど……」
「大丈夫、大丈夫」
 俺は自分でも分からないが、何故か余裕だった。ここ一週間、色々とあり過ぎでオーバーフロー気味。脳内処理が追いつかず完全にサチっている。熱で浮かれてハイになっている状態に近い。
 ヒカルは『準備に手間取った』と言っているが、実験の日付はとうの昔に決まっていた筈だ。これはある意味、小惑星探査ミッションに近い。こちらの都合で天体は動いてくれないから、こちらが天体に合わせて動かないと話にならない。特に、今回の〈ゴースト〉は、フライバイして二度と戻ってこない双曲線軌道だから、最適な日時は自ずと決まってしまう。それなのに『準備に手間取った』とか言うヒカルは、やはり何かを隠していると考えるのが妥当だろう。
「……で、今日は、量子テレポーテーションの〝本実験〟って言うことでいいわけだな?」
「そう」
 俺は少々高飛車だった。
「なら、これまで隠していた実験結果とか、教えてくれるって言うことでいいのかな?」
 ヒカルの表情が一瞬こわばった気がした。そりゃそうだろうな。
「……そう思ってもらっていい。今日しか話すチャンスはないと思うから。あなたにも知っておいてもらわなければならない。〈彼〉のためにも……」
「彼?」
「ううん。何でもない」
 今にして思えば、ここでヒカルの言い回しに気づいていれば、これから起こる事態に、少しは精神的に身構えることが出来ただろう。だが、その時は、ヒカルの口から出て来た〈彼〉の存在に、俺の気持ちは揺らいでいた。白状すれば、俺は〈彼〉に嫉妬していたのかもしれない。見た事も無いヤツ──本当か?──だというのに。

 午前中は〈ゴースト〉の軌道に関するプレプリントの手直しに専念した。ヒカルはプレプリントの発表を『実験が終了するまで待って』と言っていた。裏を返せば、実験さえ終了すれば、大手を振って公表できるということだ。昨日、〈俺二号〉が居ない事を確認し、安堵あんどした俺は、坑道から帰って来てからセッセとプレプリントを書き綴り、構成を含めて完成させた。今日の作業は、一晩置いて〝発酵〟させた原稿を、昨日とは違う澄んだ目で、些細ささいなミスや誤字を見つけたり、話の順序を少々変えたりという作業だけだ。
 ここまでくると、チマチマした作業で面倒くさいと思う反面、あまり頭を使わない作業なので、気楽である。何と言えばいいか……例えば、壊れ物の包装に使う気泡混入衝撃緩衝材プチプチを潰している感覚に近い。潰し損ねがあるのではないかとイライラもするが、それを見つけて〝プチッ〟と潰した時の快感というか、そういうものがある。でも、やっぱりメンドクサイ……的な、何か。
 明日やれば良いじゃないかと一瞬思ったのだが、どういうわけか今日中に何とかしないとダメなような気がしていた。それに、論理的に考えると、明日以降はヒカルとの共同実験の論文の話が入ってくるだろうし……。そちらの方は、全然何をしていいのかわからないのだが。

 昼休み。天気が良いので、サンドイッチを買い、久しぶりに外で食うことにした。蝉の声もいつの間にかヒグラシ以外は鳴りを潜めている。秋来ぬと目にはさやかに見えねども……下の句は忘れたが、木陰に入ると風が心地いい。もっとも、この短歌は立秋の頃のものらしいが。
 〈ゴースト〉は今どのへんに居るのか考えたが、ここからでは地面へめり込む方向だった。重力波なら地球を貫通して捉える事ができるが、光学的には無理な話である。またしばらくすれば、〈ゴースト〉はいずれ北半球へ顔を出し、その後は永遠にさよならだ。こんな出会いは生涯に一度あるか無いかだろうなと思うと少し寂しい気がする。まあ、〈ゴースト〉の重力波放射は指向性が強く、距離が離れていたとしても、回転軸が地球と合えば出力が大きくなるから、太陽系外に完全に飛び去る前に、また観測できるかも知れない。そのヘンは、ヒカルのALMAの観測データを詳細に調べれば、時期が特定出来そうに思える。回転軸方向は、レンズ・シリング効果で赤方偏移と青方偏移の光として捉えることが可能だからな……。この観測データ公開されているデータだから、引用元を明記さえすれば勝手に使ってもいいが、まあ、ヒカルには仁義を切って許可を貰っとくべきだろう。

 大抵の場合、論文をひとつ書くと、そこから派生した別の疑問が複数、思い浮かぶ。こいつが次の論文の〝タネ〟となるのだが、書けば書くほど、更なる別な疑問が膨らみ、いつまでたっても終わらない。〝タネ〟は拡大再生産され、ドンドンと増えていく。そうやって物理学というか科学全般は発展して来たのだが、一向に果ては見えない。森羅万象の法則セオリー・オブ・エブリシングなんて、何度も提唱されて何度もくつがえされて来た。もしかすると、人類が万物の法則を理解しそうになると、神様が後付けで更に細かい〝設定〟を追加していて、永遠に終わらないゲームに仕立てているのではなかろうか? ……とすら思う。
 何しろ人間は飽きっぽい。全てが分かってしまったら、暇を持て余して何をしでかすか分からない。実は相対論と量子論なんて、19世紀には宇宙に存在してなかったんじゃないだろうか。19世紀末にケルビン卿が、『マイケルソン・モーレーの実験と黒体輻射〝以外は〟解決した』なんて言っちゃったものだから、それを聞いた神様がその2つを盛大に膨らませて、相対論と量子論を作っちゃったんじゃなかろうか。そうだとすると、『余計な事を言いやがって!』とケルビン卿を責めるべきなのか、逆に、それが無かったら重力研も素粒子研も存在していないわけだから『飯のタネをありがとう!』と感謝すべきなのか? ……なんてな。

 午後は午後で、色々と雑用がたまっていた。非常用のUPSがひとつ死んでいるだの、〈オルガン〉Y軸2段目冷却遮蔽装置クライオスタットの定期メンテ費用の留め置き解除申請だの、そういう事務手続き。観測データの数字の羅列られつを見るのはワクワクするので苦にならないのだが、数字の頭に¥が付くと、途端に眠くなる。商売人には絶対なれない体質だ。何とかしようにも、眠くなるのは生理現象だからしょうがない。前日にいくら寝ても眠くなるのだ。でもって、経理担当にいつも怒られる。どうも、スミマセン。
 15時過ぎからは、〈BAR〉の談話会コロキウムに久しぶりに顔を出す。今回の〈ゴースト〉……つまり、裸の特異点に関係しそうな、『最近の加速器実験で示された巨視的余剰次元数と高次元ブラックホールの形成条件について』を聞くためだ。相変わらず話が難しいが、簡単に言えば、次元数が多ければ多いほど、閉弦である重力子は余剰次元を感じ取ることが可能で、非常に緩い条件下でもブラックホールが形成されるが、5次元以上のブラックホールはもはや球体に留まらず、様々なトポロジーのものがあるので、これらの中から、現段階の加速器実験結果で、存在できる可能性でふるいにかけると、残るのは何かという話……なんだけど、ちっとも簡単になってないな。俺も話は半分くらいしか分からなかったので、これ以上、簡単には説明できない。あとは直接、〈BAR〉のヤツに聞いてくれ。さらに〝詳細に噛み砕いた〟説明が聞けるから……。

 夕方には俺の仕事の8割を占める、〈オルガン〉の観測データのチェック作業。特に目立ったノイズ発生は無し。少し経つと地上にある運河のような道路に、帰路きろを急ぐ車があふれるから、少しばかりノイズは増えるが、これは朝のラッシュも含めて織り込み済み。道路工事も無いようだ。まさか、地上の住人は、地下千メートルで道路の振動を気にしている人間……というか機械が存在しているとは思ってもいないだろうな。土日の交通量変化なんて如実にょじつに分かるし、正月は静かだしね。電気系統、光通信も問題無し。来週はサブ系に切り替えだったな。3He-4He希釈冷却器も正常。カーボン・ナノチューブ取り付けセンサーの振動は……ちょっと大きいな。まあ、許容範囲だが。で、肝心の観測データはノイズ以上のものは何もなし。こうやって、日がな一日過ぎて行く。めでたくもあり、めでたくもなし。

 やっと、日常が戻って来た。そんな気がする。今日のわけの分からん実験さえ終わればな。

        *  *  *

 午後19時過ぎになり、素粒子研に向かう方法として、俺は地下の坑道を選んだ。理由は簡単だ。ヒカルを驚かせてやろうと思ったのだ。ヒカルは、俺の頭の中から、抜け道の記憶を〝消去〟したと思っている。おそらく、消去したかった本当の記憶は別にあるのだろうが、特定の記憶だけを選別して消去する方法が無かったのだと推測される。事実、俺は4時間程度の記憶が完全に欠落している。坑道の抜け道は、〈俺二号〉を探そうとして偶然発見……いや、再発見したものだ。だが、ヒカルはそんな事実は知らないから、俺が〝思い出した〟のだと思うだろう。はてさて、そういう場合、ヒカルはどういう行動を取るだろうか? 実に興味深い。
 もちろん、ヒカルが消した記憶の内容によるだろうな。何かとてつもない犯罪行為を消去していて、『思い出したとあっては生かしてはおけぬ』とか、裁判所で証人として出廷する人物の命が狙われるみたいな、そういうたぐいの話もあり得る。サスペンス映画にはありがちな展開。まあ、現実問題としてそれは無いだろう。そこまで極悪人ならば、〝事件〟の翌日に『過去の記憶はあるか?』と、証人の元に聞きにくるような悠長ゆうちょうなことはしない筈だ。
 かといって、お手軽なというか、どうでもいいような記憶ならば、あんな大掛かりな装置を使って記憶を消そうとするとは思えない。命をして消去しようとするまでの事柄ではないが、かといって、笑って済ませられる程のものでもない……一体、どんな記憶だろうか?
 まあ、勝手に妄想しているが、意図的に記憶を消去しようとしたのではなくて、量子テレポーテーションの実験で〝誤って〟記憶が何処かに──何処に?──飛んでいってしまって、ゴメンナサイ……って言うのが、一番あり得る状況だ。ただ、そうだとしても、何故、俺を使って〝人体実験〟が行われたのかを聞く必要はある。人体実験じゃ無いとしても、何故俺があの日、あそこに寝そべっていたのかを聞かせてもらわなければ、この共同研究の実験には応じられない。そういう覚悟だ。

 LEDの明かりを頼りに、坑道内を進む。作成した地図もポケットには入っているが、道筋はそれほど難しくないため、出番はなさそうだ。今日はヘルメットもかぶっていない。掘削機をよじ登り、側面の隙間をカニ歩き。そこから掘削機の斜面を慎重に登り、テニスコート四面は取れそうな巨大な空間へ。ここまでおよそ15分。下手すると、エレベータ経由で移動するより早いかもしれない。ほとんど夜這よばいだよな……。
 『素粒子研究所粒子加速器施設』と書かれたプレートの下のドアに手をかけ、一瞬、『閉まっていたらどうしよう?』とか考えたが、ドアはスムーズにいた。少々重いので、ゆっくり、ゆっくり。
 照明は前回来た時より、幾分落ちている気がする。そういえば、前回は真っ昼間だったんだっけ。夜はそれなりに暗くするのかもしれない。ドアの隙間からするりと中に入り、そぉーっと閉める。幸い、広い施設内を見回しても人影は見当たらない。少しホッとしたが、なぁに、今日はこの施設に用があるから来たのだ。こんなトコから出入りしているのを見られると、ちょっとアレだが、一旦入ってしまえばこっちのもの。堂々と振る舞えばいい……などと考えてしまうこと自身が、小心者ゆえの理論武装だな。
 俺は斜行エレベータにゆっくりと向かいつつ、あたりをキョロキョロしながら歩いた。明らかに挙動不審だ。加速器は大学の実験でサイクロトロンに毛が生えた程度のものは使った事はあるが、ここまで本格的なのを間近まぢかで見た事はない。加速器の大きいものは直径20㎞を超えるものもあるから、研究所の施設としては小さい部類なのだろうが、やはり見慣れていない目にとっては圧巻である。つい、足音を立てないように歩いてしまうのは仕方が無いか。
 様々な機器類の間をうように進む。一応、床には白線でかかれた矢印と歩道区域らしき境界線が描かれている。パイプをまたいだり潜ったりしながら数分後、ようやく斜行エレベータの前に到着。中のかごは下に降りつつある段階で、全体のちょうど半分位を通過したところであった。ここまでやって来るのは、残り1分少々といったところだろう。

 ここまで来て、俺は、『どうやってヒカルを驚かすか?』という計画を考えていないことに気づいた。このままエレベータに乗って地上に出てしまったら、正面玄関から堂々と入って来たのと何ら変わらないことになる。前回、あわてて飛び出した経験上、地下から地上に出るのはスルーパスで、地上から地下へ向かう時に、静脈認証が必要だということが分かっている。それが証拠に、目の前の開閉ボタンも通常の押しボタンだ。ということは、俺はこのまま地下に留まり、ヒカルをここに呼び出せばいいことになる。
 ならば、頭上に見えている渡り廊下の階に行き、俺が飛び出した部屋に先に到着して、そこからヒカルの研究室に電話で呼び出しをかけるというのはどうだろう? 携帯は通じないかも知れないが、部屋の中に内線電話くらいはある筈だ。ヒカルの研究室の番号は名刺に刻まれているから問題ない。さて、ヒカルはどんな顔をして驚くだろうか……などと考えて1分半。いかにも付け焼き刃的なこの計画は、木っ端みじんに吹き飛んだ。……ていうか、驚かされたのは俺の方だった。
 エレベータのドアが開き、降りて来たのはヒカルだったのである。

        *  *  *

「早かったのね……」
 ヒカルは驚く素振りさえない。こうなることをあらかじめ知っていたかのようだった。驚くというより、少し悲しそうな顔をしている。しばらくそのまま対面していたが、エレベータのドアが閉まりそうになり、俺はあわててそいつに乗り込んだ。行き先は、すぐ上の階。俺が目覚めた部屋があるあの階だ。
「付いて来て」
 エレベータのドアが開き、ヒカルが先頭を切って歩いて行く。あたりには誰もいない。中空の渡り廊下の先は、暗い通路が続いている。間違いない。確かにこの場所だ。だか、あの時、俺は振り返らなかった。いや、振り返る事ができなかった。だから、エレベータから通路の先を見通すこのアングルの光景は初めて目にするものだ。またあそこに行くのかと思うと、少しばかり恐怖を感じる。暗い坑道へ入った時よりも強い、もっと何か根源的な恐怖だ。数歩歩いて足が止まる。体が付いて行かない。記憶は消え失せていても、何がったかを体が覚えているような気がする。昨日きのうまでは、一人でこの施設内を探検してみるか……などと考えていたのだが、実際、その時が来ると足がすくむ。
「おっ、おい!」
 俺はヒカルを呼び止めた。叫んだと言ってもいい。ヒカルはその場で立ち止まりスローモーションのように体を反転して振り返る。髪が半周遅れでそれに追従ついじゅうするのを見て気づいた。あの日と同じく、今日のヒカルは腰まで届きそうな栗色の髪の毛を、伸ばしたままにしている。
「まず、何をするのか教えてくれ。共同研究なんだろ? 俺が何も知らないまま〝実験室〟に向かうなんておかしいじゃないか!」
「そうね……」
 ヒカルはひらけた渡り廊下の先。暗い通路の入り口付近まで進んでいるので、表情の方はよく分からない。だが、声は沈んでいる。あの日、目覚めた直後の『大丈夫?』の声を思い出した。今更ながらに思う。やはり、あの声はヒカルの声だったのだと……。
「あたしは、あなたをちゃんと送り届ける義務があるの……。そのためには、まず〈彼〉に会ってもらわなければならない」
「何を……言っている?」
「あなたには感謝している。でも、あなたが居るべき場所はここじゃないの……」
「…………」
「ともかく、来て。実際に会ってもらうのが一番早い……」
 どうやら〝拒否する〟という選択肢は無さそうだった。意を決して付いて行くしか道はない。俺は薄暗い廊下に再び足を踏み入れた。左側は冷たいコンクリートの壁、右側はドアの羅列られつが続いている。俺が飛び出したのは何処だったか? こうも同じようなドアが続くと、自分の居場所すらよく分からなくなる。ただ、この設計……というか建物の構造は見覚えがある。例の予備実験でB3階に降りた時も同じような感じだった。あそこは確か3部屋くらいしか無かったが、ここは10部屋以上、もしかすると20部屋はあるだろうか。通路端から8部屋目。通路の中央付近まで来た時、ドアの上、火気責任者のプレートにヒカルの名前を見つけた。後ろを振り返ってエレベータを確認。この距離感、間違いない。俺はここから逃げだしたのだ!
 だが、当のヒカルは更に奥へと進んで行く。そっちに行った記憶は全く無いが、これも消去された記憶なのか……。結局、ヒカルは突き当たりまで進んだが、そこにもドア……エレベータの開閉ドアがあった。要するに、この通路はどちらに進んでもエレベータにぶち当たる構造になっていたわけだが、前回飛び出した時は、明るい方に進んでしまったということになる。そりゃそうだろう。切羽せっぱ詰まった時は、人間、光を求めて彷徨さまようもので、暗い方へと歩みを進めるのは、モグラかミミズくらいのものだ。
 そのエレベータは、斜行エレベータの地上出入り口と同じく、静脈認証で開くタイプのものだった。ヒカルが手をかざすと、軽やかな電子音が鳴り、スムーズにドアが開く。中に乗り込むと、ヒカルは更に地下を目指した……というか、地下方向しか階が存在しない。乗降ボタンの上には『地下保管庫』の文字があり、研究室毎の測器類保管庫になっているようだった。普通なら、こういう場所に行く時は、少しばかりの〝ワクワク感〟が生じるものだ。男なら誰だって、仲間だけの秘密基地とか作って遊んだことがあると思うが、こんなにリアルに秘密基地っぽい所は、そうそう無い。だが、どうにも食指しょくしが動かない。こんなところに〈彼〉が居るというのか? 
 エレベータに乗り込んだ通路階を起点にして、B5階下。ドアが開くのに連動して、一斉に保管庫内の明かりがともる。まぶしい……。
「何だ? ここは?」
 思わず声が出る。そう言えば、ヒカルは通路を歩き出してからここまで無言だ。そして、今も黙ったまま数歩進み、そこにポツンと立ち上がっているコンソール画面を操作し始めた。
 保管庫と言って思い浮かべるのは、雑然ざつぜんとしていて、ホコリをかぶりながら出番を待っている機器、あるいは逆に、破棄はきされるのを待っている機器類が散在しているイメージである。だが、その部屋には何も無かった。只々、真っ白な空間だった。真っ白な空間の天井に、等間隔に配置された電灯。そして、膝元ひざもとあたりには冷たいもやがかかっている。そして、かなり広い。サッカーくらいなら出来そうだ。俺は思わず後ろを振り向いた。エレベータの乗降ボタンの上面『超低温貯蔵庫』の文字が見える。その間もヒカルは無言でコンソールを叩いている。最後のエンターキーを押すとき、ヒカルは一瞬だけ躊躇ちゅうちょしたが、その逡巡しゅんじゅんは文字通り一瞬だけだった。

「〈彼〉よ……」

 抑揚の無い声でヒカルは言った。サッカー場なら、右サイド・ミッドフィールダーが居るあたり。白い床の一角が、冷たい蒸気を周囲にまき散らしながら次第にり上がる。嫌な予感がする……というより、嫌な予感しかしない。顔から血の気が引いて行くのが分かる。30㎝くらいまで競り上がってきたそれは、まだ白い闇の中にあるが、いずれ全貌ぜんぼうを表すだろう。俺は既に引き返せない場所に来てしまったらしい。パンドラの箱は開けられたのだ。
 俺は〈彼〉に向かって歩き出した。足元は六角形ヘックスに刻まれた収納庫コンテナで、おそらく、ヒカルが操作したコンソールで、ひとつひとつが取り出せる仕組みになっているのだろう。六角形ヘックスの中央には識別用と思われる小さな数字がそれぞれに書いてある。
 〈彼〉に近づくにつれて全体像が見えてくる。競り上がりつつある物体は、六角形ヘックスの頂点から6本の細い柱か下に伸び、その間の空間に円筒形の筒が格納された形状になっている。筒には氷かドライアイスか分からないが、それらがびっしりと張り付いており、そこから盛大に、冷たい蒸気が降下している。筒の動きが止まったのは、歩き出してしばらくしてのこと。高さとして2メートル半といったところか……。筒の上部には、パイプ類が密集した機械が30㎝ほどの厚みで存在しており、収納部と思われる円筒形の筒の高さ自身は2m強といったところだ。
 筒の前に到着し、冷たいもやのベールが取れるのをしばし待つ。おそらく、中には液体窒素が満たされている。下手に手で触ると、そのまま張り付き、皮ごと引きがされる可能性が高い。問題は、そのマイナス196度の中に閉じ込められている〈彼〉である。おおよその見当はついていた。なぁに、簡単な推測だ。量子テレポーテーション、礼奈との会話と彼女の専門分野、結局見つからなかったが〈俺二号〉の探索、そして、何よりもヒカルとのやり取り……。そのヒカルは、足音から察するに、背後からゆっくりとこちらに歩いてきている。
 もやが薄くなり、次第に内部が見えてくる。想像した通り、この筒は透明な耐熱ガラスか何かで出来た巨大な魔法瓶デュワーだ。中で揺らいでいるソイツが段々と人の形になって行くのを見て、予想が当たるってのは、嬉しい事ばかりじゃないのだなと、何か他人事ひとごとのように考えていた。

「コイツが……〈彼〉か?」
「そう」
 ヒカルは俺の左横に来て、一緒に見上げている。
「ふっ……」
 俺は、自分の意に反し、鼻で笑って下を向いてしまった。人間、理解の限界を超えた事象に出会うと、つい笑ってしまうというのは本当のようだ。冷静なつもりなんだが、そのじつ、かなり混乱しているらしい……と、そんな俺を傍観ぼうかんして冷静に解析している俺もいるわけだ。ややこしいことに。しかし、奇妙な光景だよな。俺とヒカルが2人で、〈彼〉と呼ばれる俺を見ているなんて。しかも、〈彼〉は素っ裸だしな。どっちが本物だろうか?
「……で、何から聞いたらいいのが分からないんだが、〈彼〉は俺なのか……?」
「そうじゃない……。あなたは私が巻き込んだ別の人。悪いと思ってる。でも、あの時はこれしか方法が無かったの」
「巻き込んだ?」
「〈彼〉は死んだのよ。だから、過去に戻ってあなたを呼び寄せた。〈彼〉に一番近いあなたを……」
「すまない。正直、サッパリ分からん」
 今こそヒカルの肩を揺さぶって問い質すべき時なのかも知れないが、そういう雰囲気じゃないよな。それに、素っ裸の俺……いや、〈彼〉の前で話を続けるのは、少しばかり恥ずかしい。そんなにいとしそうな目で〈彼〉を見られても困る。いや、俺が困っても仕方がないのだが。
 タイミング良くか悪くか、ヒカルの腕時計のアラームが鳴る。
「時間があまりないわ。上で話すから付いて来て」
「何? いや、俺は……」
「分かってる」
 ヒカルは引き返そうとして歩き出した足を止め、振り返り様、こう言った。
「強制はしない。あなたの進む道は、あなたに任せる。だけど、あなたの住んでいた世界はここじゃなかった。それだけは説明させて」
「……わ、分かった」
 強い目だった。彼女としても、既に引き返せない所にまで来てしまっているらしい。ヒカルは、エレベータの入り口付近まで戻ると、再びコンソールを操作した。同時に〈彼〉がゆっくりと元の場所へ沈み込んでゆく。ヒカルは数秒間、その光景を見ていたが、不意にきびすを返し、エレベータへ向かった。そして、エレベータのドアが閉まるまで振り返ることはなかった。

        *  *  *

 話はおよそ4ヶ月前。〈ゴースト〉が現れた時までさかのぼる。俺……いや〈彼〉は、ヒカルの研究室に、宇宙シミュレータの量子演算モジュール……要するに〈那由他モジュール〉を貸して欲しいと申し込んだ……らしい。『らしい』というのは、もちろん、俺にはそんな記憶はないからだ。俺は、高々4ノードの計算機資源で四苦八苦していた記憶しかない。そして、この記憶のすり替えは、記憶が変更されたという記憶すら無い、完全なる記憶の交換であった。
 例えば、大切な人のことが思い出せない……という記憶があれば、それを思い出そうとして苦しむのは本人だ。だが、その人の存在を完全に忘れていたならば、心を乱されることはない。だが、忘れ去られた側にとっては、この上ない苦痛と寂寥感せきりょうかんさいなまれるだろう。
 何故、〈彼〉が、ヒカルの研究室にピンポイントで申し入れをしたのかについては、素粒子研の1階レストラン……
「〈ニュートラリーノ〉で何度か顔を合わせていたから……」
 とだけヒカルは答え、後は言葉をにごした。
 だが、〈那由他モジュール〉の使用許可申請が実際に通ったのは、申し入れから3ヶ月近く経ってからで、共同研究の申し込みもその時期に行われていた。すなわち、〈彼〉とヒカルの共同研究は、書面の上では、俺がこの部屋で目覚める数日前から始まっていたことになっているが、実際には、もっと前からフライングしてバリバリ使っていたことになる。使用目的は、宇宙シミュレータに残されていた、世代の古い〈佐藤スキーム〉、様々なパッチ群と出来損ないのプログラム・ソースを考えれば簡単に分かる。〈彼〉もなかなか仕事熱心なヤツのようだ。俺に似て……。
 そして、〈ゴースト〉が現れて1ヶ月過ぎた頃、〈彼〉は、ふらりとヒカルの研究室にやってきた。
「どうしても確かめたいことがある……」
 そう言って、〈彼〉は、地球近傍に得体の知れないコンパクト星が近づいている可能性があることを滔々とうとうと述べ、もしこの仮定が正しいとするならば、

「タイムマシンが作れる!」

 と語ったのだ。
 この段階で可能性が否定出来ないのであれば、マクシュートフとの共著論文の議論ディスカッションにでも大発見の可能性ありとして付け加えれば……とか思うかも知れないが、〈彼〉の気持ちは俺にはよく分かる。観測屋は得てして保守的なのだ。そんな得体の知れないものを発見したなどとは、相当な確たる証拠がなければ書けない。
 『〈ゴースト〉は髪の毛座方向にあり』とした共著論文をフィジカル・ソサエティーの広報誌ブリティンに提出した後、〈彼〉はもうひとつの〈ゴースト〉の可能性を調べ始めた。そして、目を付けたのがALMAである。〈那由他モジュール〉を駆使くしできたお陰で、ある程度の正しい軌道計算は可能になっていたのだろう。何の事は無い。ALMA利用申請を出したのは〈彼〉なのだ。申請のリスト名が“AOI Hikaru et al.”だったのは、〈彼〉はまだ正式な共同研究者になっていなかったからで、申請の主体は“AOI Hikaru”ではなく、“et al.そのほか”にあったわけだ。

 第一回目の〝留〟の時、実験はALMAに設置された急ごしらえの移動式実験室コンテナ・ラボ内で行われた。今でこそ三基のコンテナで完全自動化されたシステムが構築されているが、当初はコンテナ一基で、光軸合わせとか手動だったらしい。さらに、素粒子研から地球の裏側までの、安定した専用量子情報中継システムが組めなかったことが、一番の問題だった。だから、実験者が現地におもむくしかすべが無かった。モノは立派なのにインフラに手間取って使えないってことは……まあ、往々にしてあるもんだ。俺は現場主義だからそれでもいいがな。多分、〈彼〉もそう感じただろう。鵜飼うかいみたいに遠隔操作をして、研究者は現場から遠く離れているというのは、何となくムズがゆい。
 で、急ごしらえの実験は案のじょう〝失敗〟である。もっとも、何を以て失敗と言うかは難しい。〈ゴースト〉の軌道計算は正しく、ALMAによる〈ゴースト〉の観測としては完璧であった。失敗というのは、タイムマシン実験のことだ。これをどうしてもやりたいと言い出したのは、〈彼〉の方で、自分が最初の被験者になると言い張ったそうである。まあ、粘菌やクラゲじゃ、時間を移動したかどうかなんて分からないからな。
 ちなみに、実験の成否は〈彼〉とヒカルの間で賭けの対象になったらしい。ヒカルがあまりにも『絶対無理!』と言い張るものだから、『成功した暁には、何か買ってやる』と〈彼〉が言い出し、ヒカルは……なんと言ったか、四国の県名みたいなブランドのバッグを買ってもらうことになっていた。まあ、実際には実験は失敗したわけだが、失敗した場合の賭けの対象が何だったかについては、ヒカルは言おうとしなかった。

 ちなみに、行われたタイムマシン実験の原理はそれほど難しくない。スプリットさせ、エンタングル状態となったレーザービームを、〈ゴースト〉の左右近傍きんぼうにそれぞれ撃ち込む。突入経路さえ間違えなければ、〈ゴースト〉を半周して再び戻ってくるコースを巡らせることが可能だ。左右では時空の引きずられ方が違うから、ビームの移動速度に明らかな時間差が生じる。回転順方向に撃ち込まれた光は、エルゴ面内を通り、時間を遡って出てくるから、この光と反対側を通った経路の光を使って情報を過去に送る。タイムマシン実験が記憶転送実験と違ってユニークなのは、情報を送る相手が別の誰かではなく、同一人物だってところだ。つまり、アリスの情報をボブに送信するのではなくて、未来のアリスが持つ記憶を今のアリスの脳に移すわけである。ただし、今現在の脳内情報を〈ゴースト〉に送り出さなければ、それに対する未来の情報も〈ゴースト〉から降ってこない仕組みだから、送り出している最中に機器が壊れたら、送り出された記憶は、記憶は……どうなる?
 いやまあ、そいつの考察は後回しにするが、上手うまいことに、ヒカルの仮説──未だ作業仮説の域を出ない仮説──によれば、今の自分と未来の自分の中で、最も似ていない部分……言い換えれば、異なっている情報だけがエンタングル光で転送されるという。だとすれば、何が転送されるかは明白だ。今の自分と未来の自分の記憶の差分情報……すなわち、明日の記憶を得るには1日分の、来年までの記憶ならば1年分の情報が転送されることになる。正確に言えば、未来の記憶を手に入れる代わりに、過去の記憶は多少消去される。1年後の記憶を手に入れたなら、今日食べた夕食のメニューは忘れることになるだろう。ただし、どの程度消去されるかは個人差がある。人によっては、過去の記憶を全部持っているという人もいるからだ。
 逆に、過去の記憶が転送された場合は、今現在から転送先の過去までの記憶が消去されるのと同時に、忘却してしまった記憶が、再びリフレッシュされて書き直されることになる。1年前の夕食のメニューを思い出す事も不可能ではない。……もっとも、それが何の役に立つかは不明だが。
 データ転送という情報処理の観点から見れば、記憶の追加であろうが消去であろうが、どちらも同じ書き換え作業だ。ということは、遠い未来……あるいは遠い過去へ行くほど、交換すべき情報量が増えることになり、その分、資源リソースとしてのエンタングル光が大量に必要となる。
 実験の成否は、エンタングル光の集中的な生成、複合的で精緻せいみつな機器制御と、膨大な情報処理の可否で決まる。稚拙ちせつな装置ならば、数分先の転送も困難だが、精巧な装置ならば、もっと先まで行けるだろう。逆に言えば、例え稚拙ちせつな装置であったとしても、送り出す情報が単純ならば、もっと未来や過去に情報を転送できる。〝予備実験〟として粘菌が使われたのはそういう理屈である。
 脳ミソ空っぽの方が転送しやすいってことだ……。

 ……では、タイムマシン実験が〝失敗〟したらどうなるのか? 廃人はいじんになってしまうとか恐ろしいことが起こるのかというと、そうではない。都合のいいことに、何も起こらないという現象が起こる。交換される情報は差分情報だ。差分情報のみが〈ゴースト〉を経由する。どういうわけが、量子はそれを選択的に選別するらしい……とヒカルは話したが、俺としては、礼奈が言っていたように、ありとあらゆる全ての情報を交換するが、同形の情報は交換しても相殺そうさいされて軌跡が残らず、結果的に差分情報のみが交換されるように見えるという、ファインマン流の考えの方がしっくりくる。まあ、どっちでも、結論は同じだから、自分が気に入った方を選べばいい。差分情報のやりとりが〝失敗〟しただけなら、元の情報は無傷で残っているのだから、何の問題も無い。ただ単に、未来に……あるいは過去に行けなかったという記憶が増えるだけである。

 続く、第二回目の〝留〟の時は、タイムマシン実験の予定はなかった……とヒカルは言う。粘菌の予備実験と同様、人から人への記憶の転送実験である。被験者はまたしても〈彼〉だ。
 礼奈は言っていた。『不老不死の私の研究は、葵主任の量子テレポーテーション技術とセットじゃないと完成しない』……と。だが、記憶の転送実験だけであるならば、〈ゴースト〉を経由する必要はない。素粒子研の地下施設……『素粒子研究所粒子加速器施設』で生成されたシンクロトロン放射光を使えばいい。まさに地産地消ちさんちしょう潤沢じゅんたくなエンタングル光を使うことができる筈だ。ALMAの利用申請までして、わざわざ地球の裏側を経由する理由が見当たらない。
 だが、〈彼〉が、どうしてもタイムマシン実験がしたい。そのために〈ゴースト〉経由でやりたい……と言い張ったのだそうだ。第一回目の実験の時といい、〈彼〉は俺よりワガママなようだな。何か特別な理由でもあったのだろうか?
 量子テレポーテーションを使った記憶の転送実験ならば、それは正確には転送ではなく交換スワップ実験だ。コピー&ペーストではなく、カット&ペースト。そのためには〈彼〉だけでなく、情報交換相手が必要となる。アリスに対するボブが必要なのだ。ボブ役は……想像がつく。礼奈が言っていた、サイトカイン遺伝子のスイッチをイジって成長因子GFがどうしたこうしたで、モヤシみたいな……。ともかく、そういう促成栽培で無理矢理成長させた〈彼〉のクローンだ。
 そして、行われた実験で、俺は〈彼〉のクローン体で目覚めた。元々のクローン体の脳の中身は空っぽだったであろう。ということは、今、液体窒素の中で永遠の眠りについている〈彼〉の脳には何の情報も入っていない……正確に言えば、何の情報も入っていない空集合を転送された状態だということになる。
 ……いや、それはおかしい。この実験には俺と〈彼〉とクローンの三人が絡んでいる。俺とクローンが記憶を交換スワップしたのなら、〈彼〉の記憶はどこに行った?

        *  *  *

 俺とヒカルは、俺があの日目覚めた部屋で向き合っていた。大筋の経過は分かった。確かに、こんな突拍子も無いことを、会ったその日とかに真顔で話されても困る。だが、ヒカルの説明は肝心な点がすっぽり抜け落ちている。
「で……」
 と俺は話を続けた。
「細かい点はいい。とりあえず2つだけ聞きたい。〈彼〉は何故死んだ? そして、俺は何故ここにいる?」
「〈彼〉は……。実験に死んだの……。脳動脈りゅう破裂で……」
「何?!」
「一回目の実験のとき、破裂寸前の〈彼〉の脳動脈瘤に気づいた。でも場所がとても深いところにあって、開頭手術クリッピングはもちろん、血管内治療コイリングも難しい場所だった」
 ……確かに、記憶の転送装置は、機能的磁気共鳴イメージング装置fMRI生体磁場計測器MEGの複合体だから、脳内くまなくスキャンしてくれるだろう。ていうか、脳内の記憶を全てスキャンするように設計された装置なんだから、そのくらい出来て当たり前だ。要するに、〈彼〉は、第一回目の実験で、とてつもなく精密な〝脳ドック検診〟を受けたに等しい。他の臓器の異常なら、礼奈が言っていた促成栽培で人工的に作り出し、移植してしまえばいいが、脳の移植は不可能だ。
 ヒカルは話を続ける。
「私は全く別のアプローチで〈彼〉を助け出すことにした。それが……」
「クローンへの記憶の転送か」
「……そう。でも、間に合わなかった」
 ヒカルは始終、し目がちである。
 冷静に考えれば、この〝治療〟は人体実験もはなはだしい。いくら『現代医学のすいもってしても治療不可能』だったとしても、これは飛躍し過ぎじゃないか? それに、人の全身のクローン体製造は国際法違反だった筈だ。そのスジには詳しくない俺だって、そのくらいは知っている。一時期、何人もの研究者が逮捕されたニュースが流れていた。それに、〈彼〉が死んだとして、それを地下貯蔵庫に秘密裏に保管していたというのは、要するに死体遺棄いき事件だ。発覚すればただでは済まない。
 もっとも、だからと言って救急車を呼んで、公的に〈彼〉の死亡が確認されたとしても、〈彼〉の立ち位置というか立場をほぼ完全に引き継いだ俺は普通に生きているわけだし、下手すると俺自身が〝故人へのなりすまし〟と見なされかねない。それはそれで、太陽がいっぱい過ぎる。

「……じゃあ、俺は? 俺は何故……何処どこから呼ばれたんだ。ヒカルの話だと、〈彼〉と〈彼〉のクローン体だけ揃っていれば、この治療は完了する筈だ。俺の出番は全くないだろう」
「ごめんなさい……」
「謝る必要はない。俺は理由が知りたいんだ!」
「〈彼〉は死んだの。死体からクローン体に記憶を転送しても、生き返ったりはしない。生けるしかばねとなるだけ」
「生ける屍?!」
「記憶の転送先のクローン体には何の損傷も無い。脳の活動も正常。そして、転送元が死後数時間までなら脳内の化学変化も微小で、記憶の情報もちゃんとクローン体に転送される。でも……それでも、意識は戻らない。意識だけが何処かに行ってしまうのよ」
 ヒカルはるような目で俺を見据みすえた。
「あたしはこれまでに何度も実験をしている。粘菌でも、ヒドロゾアでも、モルモットでも、ウサギでも……」
「そして……人でも?」
「違う! 人体実験なんてしてない! 〈彼〉は、あたしがここに到着した時には既に死んでいたの!」
 俺はヒカルの剣幕けんまくに押されていた。礼奈は不老不死の研究だったが、ヒカルは更にその上、死者をよみがえらせようとしていたわけだ。そして〈彼〉はここで……この部屋で、あの日死んでいた……というのか?
「わ、わかった。信じよう。で、〈彼〉はどうなったんだ。俺との関係は?」
 ヒカルは自分を落ち着けるため、深呼吸をひとつしてから話しだした。
「ヒントをくれたのは〈彼〉自身よ。〈彼〉は、あたしが行う転送実験の後、二回目のタイムマシン実験をするつもりで、あの日を選んだ。だからALMAとの量子回線は繋がっていた。あたしは、生きている〈彼〉を過去から連れ戻すことにした……」
「何だって?」
「〈彼〉は数時間前までは生きていた。だから、その時点の〈彼〉の記憶をクローン体に転送すればいい。けれど……ALMAを経由したタイムマシンの回線は細すぎる。転送出来る情報量が圧倒的に少ない」

 第二回目の実験がALMAの移動式実験室コンテナ・ラボではなく、素粒子研の地下施設で行われたのは、記憶の交換スワップ実験では、アリス用とボブ用に、転送装置が2台必要という、装置の複雑さもさることながら、交換すべき情報量が桁違いに大きいことが要因になっている。もしもこれがタイムマシン実験なら、記憶の差分情報のみの交換で事足りる。数時間の過去へさかのぼるのならば、数時間分の情報を差し替えるだけで済む。だが、今回の交換相手はクローン体だ。クローン体の脳には記憶が一切無いから、『差分情報=脳内全情報』の交換となる。それだけのエンタングル光の大量生産は、とても移動式実験室コンテナ・ラボじゃあまかなえない。素粒子研の地下施設で生成された、シンクロトロン放射光をまるまる使うというのだ。
 だが、死者からの記憶転送は、〝生けるしかばね〟を生み出すだけだから、その上に〝生きた意識体〟をトッピングする必要がある。
「そいつが……俺か?」
「そう。ここの転送装置で〈彼〉の記憶をクローン体へ転送した後、ALMAへの量子回線を使って、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟と、同時刻のあなたとの記憶の交換スワップを試みた……」
「いや。分からんな……。クローン体に〈彼〉の記憶を全て転送した後に、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟を連れてくればどうだ。そうすれば俺の出番はないだろ……」
「それは無理。クローン体には4時間前の記憶が無いから……」
「ん?」
「〈彼〉の記憶が全て転送されていたとしても、タイムマシンで過去にさかのぼるのは、あくまでもクローン体。〈彼〉ではないわ」
「うーむ……」
「いい? 例えば、過去から人を連れて来られるタイムマシンがあれば、10年前のあなたを連れてくる事は可能なはず。でも、100年前のあなたは連れて来れない。まだ生まれてないから。同じように、クローン体に数十年分の記憶を転送したとしても、それは、記憶を植え付けただけ。実際に時間を遡って行く事は不可能……」
「それなら、4時間前の〝生きていた〈彼〉〟を、タイムマシンで〈彼〉に連れてきてから、その全記憶をクローン体へ転送すればどうだ」
「〝生きていた〈彼〉〟の記憶を、亡くなった〈彼〉に転送しても、〝生きた意識体〟が戻ってくることはない。それどころか、一度でも死者を経由すれば、〝生きた意識体〟はそこで消える。それも、予備実験で実証済みだわ」
「何?」
「アリスとボブの記憶を交換スワップし、その後、再び交換すれば、アリスとボブは元に戻る。だけど、アリスが死んでいた場合、ボブをアリスに持ってきた段階で、ボブの〝生きた意識体〟はそこで消えてしまう。再び交換しても、ボブは〝生けるしかばね〟となって戻ってくるだけ」
「…………」

 完全に理解するには少し時間が必要だった。だが、ひとつ分かった事がある。
 俺があの日、午後8時過ぎから4時間程度の間の記憶が無いのは、記憶が消されたからではなく、そもそも記憶すべき時間の方が無くなっていたということだ。俺は午後8時過ぎから、4時間を飛び越え、いきなり真夜中に召喚しょうかんされたのだ。4時間……?

「ヒカルがここに来たとき、〈彼〉は既に死んでいたんだな?」
「……そう」
「おかしいな? 倒れた現場を見てもいないのに、何故、4時間前までは〈彼〉が生きていたと言えるんだ」
「それは……。〈彼〉が操作したコンソールのログが残っていたから……」
「4時間前?」
「3時間前まで……。あたしがここに来る3時間前まで、〈彼〉はタイムマシン実験の準備をしていた。〈彼〉の理論によると、〈ゴースト〉へのエンタングル光の入射位置を調整すれば、経路の違いによる到達時間の差分だけ、過去に戻ることが出来る。あの日、ALMAの観測は、4時間分だけずらして調整されていた……」
「……それはまた、用意がいいことだな。〈彼〉はみずからの死を……そして、4時間後に連れ戻されるってことを知っていたとでも言うのか? ヒカルの作業時間、1時間分もキッチリ見越した上で……?」
 ヒカルは顔を上げ、何か喋ろうとしたが、その言葉を飲み込んだ。
「理由は……理由は分からない。調整したのは〈彼〉だから……」

 俺と〈彼〉は、あの日の午後8時までは、全く何の関係もなく違う世界を生きていた。そのまま行けば、〈彼〉は数時間後に脳動脈瘤破裂……要するに、くも膜下出血で亡くなり、俺はいつもと変わらない日常を続けていたことになる。
 だが、そこにヒカルが介入する。ヒカルは亡くなった〈彼〉を助けるため、素粒子研のシンクロトロン放射光を使い、〈彼〉の記憶を〈彼〉のクローン体と交換スワップした。ただし、そのままではクローン体は単なる〝生けるしかばね〟だ。
 さらにヒカルは、〈彼〉が首尾よく調整したALMAの回線を使い、時間を4時間さかのぼり、午後8時時点の俺と〈彼〉の〝生きた意識体〟を交換スワップしたんだ。
 何ともご都合主義満載だな……。一体、どこまで信じればいい?

「ヒカルの言うことが事実だとするなら、俺は、今までとは違う世界に突然呼び出されたことになる。それなのに違和感が全く無いのは何故だ? 元の世界とこの世界は、それほどまでに同一なのか?」
「記憶の交換スワップが不完全だった可能性が高い……」
「どういうことだ?」
「4時間前の〈彼〉とあなたの記憶の差分情報がどの程度あるのかは未知数。本来ならば、差分を全て交換し終えれば、記憶の量子テレポーテーションは完了する。使えるエンタングル光が潤沢じゅんたくにあるなら、普通はそれら全てを投入する。余った分は利用されずに捨てられるだけだから。だけど、ALMAへの量子回線は細い。どこまで交換が終わったかは、あたしにも分からない……」
「記憶に不一致がある3ヶ月分だけが交換されたってわけか……」
「それは分からない。それ以前の〈彼〉とあなたの記憶が全く同一であったならば、交換する必要が無い。全てが完全に入れ替わったという可能性も否定出来ない。それに……」
「それに?」
「〈彼〉とあなたの記憶は、今でもエンタングルした状態が続いていると考えられる」
「は?!」
「〈彼〉とあなたの記憶は、未だどちらのものと確定していない状態が続いていて、どちらかが明確に思い出すと、相手の記憶はおぼろげになる……。そういう状態」
「じゃあ、なるべく楽しい思い出を思い出すことにしよう……」
「楽しい思い出の記憶が同一のものなら、交換しても何も変わらない。量子はそんな無意味な交換はしないわ」

 頭がクラクラしてきた。俺の記憶のほとんどの部分が〈彼〉のものなのか? それとも、ここ数ヶ月を除いて、ほとんどが同一だから、どちらのものという区別そのものが無意味なのか……。
「〈彼〉と俺との記憶の明確な違いは……ヒカル、お前だ」
「えっ?!」
「〈彼〉の記憶には、お前の……ヒカルの存在が常にある。だが、俺にはその記憶が無かった。これは何故だ」
「それは……、あたしにも分からない。〈彼〉に最も類似した存在があなただったということ。その記憶の中に、あたしが居ない理由は、あたしにも分からない……」
 ヒカルは寂しそうにうつむいた。

「……最後にもうひとつ。俺は何処どこから来たんだ。パラレルワールドってヤツか?」
「エヴェレット解釈はあたしは信用してないし、そもそもシュレディンガー方程式は線形だから、例えパラレルワールドが存在していても、相互干渉はできない。おそらく、〈ゴースト〉で広げられた余剰よじょう次元チャネルの、別の時空から来たと思う。何処どこかは分からない。〈彼〉なら詳しいんだけど……」

 ……いや、俺はヒカルの言っていることが全く分からんのだが。その〝別の時空〟とパラレルワールドの違いは何なのか? もっとも、パラレルワールドってヤツの定義が何なのかも、実はよく分かっていないのだがな。

        *  *  *

 俺は、部屋の中を改めて見回した。以外と小さく、そして静かだ。もちろん、ここの機器だけでは何も出来ない。シンクロトロン放射光施設とALMAの観測システム……さらにその先端に〈ゴースト〉が含まれてこその実験だと考えれば、途方も無い規模の実験なのが分かる。どれが欠けても実験は成功しない。そして、その〝駒〟のひとつに、選択の余地無く、俺は組み込まれている。いい気分はしない。勝手に連れてきておいて、『帰るかどうかはあなたに任せる』と言われても困る。
 だが、ヒカルにも選択肢が無かったのだ。ヒカルの頭の中には、〈彼〉をそのまま死なせるという考えは、微塵みじんも無かったのだろうと思われる。その時の修羅場を、当然ながら俺は知らないが、今にして思えば、あの時聞いた『大丈夫?』の声は、疲れきった果ての声に思える。

 ドアの正面。俺が目覚めたその装置は、頭部にヘルメットと言うには大き過ぎる、直径1メートル強の円筒が備え付けられていた。今はかなり上の方に鎮座ちんざしているが、実験時にはコイツが頭まで下りてくるのだろう。そして、もう一つ。真後ろにも同形の装置がある。俺はあの時、一目散で逃げ出したから、後ろを振り返ることはなかったが、俺の真後ろには、記憶を抜き取られた〈彼〉が居た事になる。
 ヒカルはあの日、俺が立ち去った後、〈彼〉を超低温貯蔵庫まで運び、液体窒素漬けにした。おそらくたった一人で。そんなことをしたのは、俺のためじゃない。俺に説明するために〈彼〉の亡骸なきがらを保存していたんじゃない。それは〈彼〉のためだ。〈彼〉に事情を説明するためだ。言い方は悪いが、もし完全犯罪を狙うなら、〈彼〉の亡骸なきがらを〝処分〟し、俺とのコンタクトを断ち切ればいい。〈彼〉の死も、クローン体の製造も、全て無かった事にできる。そして、それに気づくものは誰もいない。
 だが……。だが、ヒカルは〈彼〉にどうしても会いたかったのだ。

 ……分かった。負けましたよ。この世界には、確かに俺の居場所は無さそうだ……。

「で……」
 と俺は話を切り出した。
「どうすれば、俺は元居た世界に帰れるんだ? いや、〈彼〉を……。どうすれば〈彼〉をここに呼び戻せるんだ?」
「えっ?!」
「この椅子にもう一度座ればいいのか?」
「……ありがとう」
「ふん。礼はいい。それに、タイムマシンで別の時空に行くなんて、そうそう経験出来るものじゃないしな」
「……ありがとう」

 ヒカルは泣いていた。どうもバツが悪いな。くそったれ!
「えっ?」
 俺はヒカルを抱きしめていた。
「〈彼〉は恋人だったんだろ……。泣くのはヤツが帰って来てからにしろ」
「う、うん……」
 ヒカルはびっくりしたのか、泣き止んでいた。意地を張るなら最後まで張れってんだ。

「それはそうと……」
 腹は決まった。そうなると少しばかり気になることがある。
「〈彼〉は今頃何をしているんだ。記憶の交換なんだから双方向だろ。こっちだけ準備したとしても、〈彼〉と〝シンクロ〟してなきゃ意味が無い」
「それは大丈夫。〝シンクロ〟している〈彼〉をエンタングル光が選び出して、こっちとリンクしてくれるわ」
「そんな、都合良くいくのかね?」
「じゃあ、あなたが、ここにやって来た時、〈彼〉との〝シンクロ〟を考えた?」
「……いや」
「以前言ったでしょ。エンタングル状態の光子を相互干渉させると、最も類似した相手を自発的に捜し出して入り込むって」
「そうだったかな……」
「そうよ」
「……そうか」
 まあ、この分野はヒカルに任せておけばいい。だが、ヒカルは少し考えながら、こう付け加えた。
「でも、捜しきれない場合が無いとは言えない。〈彼〉とあなたの記憶に大きな隔たりが出来ていたら、記憶の差分情報が膨大で対応しきれないことも考えられる。その場合は、信号そのものがはじかれて、何も起きない。それに〈ゴースト〉の状態も気になる……」
「どんな?」
「〈彼〉とあなたは〈ゴースト〉を介して、記憶を交換した。そして、今でもエンタングルした状態が続いているかも知れない。これは記憶を再交換するには非常に有利なこと。新たな情報の交換が最小限で済むから。でも、もしも、〈ゴースト〉が様々な干渉を受けていたとしたら、エンタングルした状態が切れてしまう」
「量子通信でデータ盗聴するとエンタングル状態が崩れるっていうあれか?」
「そう。そうなれば、〈彼〉とあなたの繋がりはほとんど無くなり、永遠に切り離されてしまう。そうなったらもうお手上げ。〈彼〉は戻ってこない……」

 なるほど。それでヒカルは、〈ゴースト〉の軌道や位置情報を公表したく無かったわけだ。だがそれも時間の問題。LISA─NETの連中も、二度と同じヘマはしないだろう。もっともその前に、〈ゴースト〉自身が太陽系からおさらばしてしまうけどな。まあ、実験する前から失敗後のことを考えても仕方が無い。失敗したら、今の状況に何ら変化が無いだけだから、俺は特段困らない。ヒカルは悲しむだろうが……。
 では、成功したとしたらどうなる? 何か困ることは無いか? ……そうだ!

「妙なことを聞いていいか?」
「なに?」
「〈彼〉はこの1ヶ月の間、何をしていたと思う?」
「どういうこと?」
「いやな……。この1ヶ月の間、俺が住んでいた世界に、俺に成り代わって〈彼〉が影武者として居たわけだ。実験が成功したなら、俺は何食わぬ顔をして〈彼〉とバトンタッチする必要がある。何と言うか、『王様と乞食』の物語で二人がこっそり入れ替わるような……」
「それは……そうね」
「ということは……だ。彼が1ヶ月の間にしたことを、俺は引き継がなければならない。〈彼〉はどんなことをしそうなヤツなんだ。1ヶ月間にどんな悪さを……」
「ふふっ……」
 ヒカルは笑った。笑いやがった。
「大丈夫。あなたと全く同じ。心配しなくてもすんなりけ込めると思うわ。それに、状況が大きく変わっていたら、そもそもこの実験は成功しない。〈彼〉も〈ゴースト〉の軌道計算を終えて、公表したくてウズウズしている筈よ」
「だが、向こうの世界では、俺とヒカルは知り合いでも何でも無かった。〈那由他モジュール〉が使えなければ、〈ゴースト〉の軌道計算が間に合わない。間に合わなければ、今回の……第3回目の実験もできなくなる」
「大丈夫。〈彼〉はなかなか強引よ。あたしが保証する。例え地面に穴を掘ってでも、あたしの所までやってくるわ」
「どういう意味だ?」
「文字通りの意味よ」

        *  *  *

 ヒカルの腕時計のアラームが再び鳴った。どうやら最終便の時間が来たらしい。

「本当にいいのね……」
「何度も聞くな。気が変わったらどうする?」
「分かった……。ありがとう」

 俺は早速、装置に座り込もうとしたが、念のため、フライトの前にしておくべきアイデアを思いついた。
「メモ用紙はあるか? それとペンも……」
「あるけど……」
 ヒカルは、花柄はながらの便せんと、例の『那由他モジュール稼働記念』と書かれたボールペンを差し出した。向こうにもいるのだろうか? 那由他量子の萌えキャラが……。
「何に使うの?」
 ヒカルは俺の手元を覗き込もうとしたが、俺はそれを隠した。
「実験が成功したなら、ここには1ヶ月ぶりに〈彼〉が帰ってくることになる。これは俺から〈彼〉に対しての伝言メッセージだ。俺がここに来た時は何も分からず苦労したからな。手に握っておけば、嫌でも気づくだろう。それに、目覚めて、手に紙が無くなっていたら、俺はちゃんと向こうに着いたという証明にもなる。一石二鳥だ」
「そう……。で、何て書くの?」
「それは秘密だ。運良く〈彼〉に会えたら、〈彼〉から聞いてくれ」
「……分かったわ」

 ヒカルは、直ぐに興味を無くしたのか、それとも時間があまり無いからか、転送装置脇の制御卓に移動し、操作を始めた。無機質なキータッチの音だけが響く。俺は、転送装置の座面に横向きに座り、心臓部とでも言うべき、巨大な円筒の内部を下から覗いてみた。頭がすっぽり入るだけの隙間があるだけで、特に何の変哲へんてつも無いただの筒である。もう少し、何と言うか、電極ピカピカがいっぱいり出しているとか、そういうギミックも欲しいところだな。大抵のSF映画ではそうなってるだろう。これじゃあ、まるで、そのへんの大学病院にある医療機器と変わらないじゃないか。
 ……などと、いつもの下らない妄想に取り付かれていると、ヒカルが何やら物騒ぶっそうなものを持ち出して来た。
「……なんだ、その注射器は!」
「ちょっとね。なるべくシナプス後神経の活動を抑えておいた方がいいし、ちょっとリラックスしてもらった方が、信号ノイズが減るの。気休め程度だけど……」
「いやいや。そういうのは資格が必要だろ」
証明書サーティフィケートならあるわよ。米国のだけど」
「いや、しかし……」
「もしかして、怖いの?」
「そうじゃない」
「だったら肩出して」
 どうせなら、ナース服でやってもらいたかった……とは言えず。まあ、これまでの話を聞いていると、ヒカルは医学関係も少しはカジっているのかも知れない。礼奈と同じく、医療工学の方がメインのような気もするが。

「本当に、ありがとう……」
 転送装置の座面に座り直し、例の円筒形の装置が静々と音も立てずに下り始めた時、ヒカルはまた礼を言った。俺は笑って右手の親指を立てるしかなかった。少しばかり眠い。薬が効いてきたのかもしれない。
「あなたのことは忘れない……」
「俺もだ。戻ったら、向こうのヒカルをデートにでも誘うよ……」
 装置の下端が目線まで下りて来た。もう、ヒカルの顔を確認することはできない。
「……ひょっとしたらね。あなたにもう一度会えるかも知れない」
 ヒカルの声だけが響く。少しばかり意識が遠のいて来た。
「会えるさ。この実験が終わったら〈彼〉に……」
「ううん。そうじゃないの……。もしかしたら……」
「…………」

 俺は目を閉じた。開けていても既に真っ暗だったし。
 遠くの方で、何かキーを叩く音がしていた。長いような短いような、怒濤どとうの1ヶ月ちょいだった気がする。かなり、クタクタになったが、面白かった。プレプリントは出来上がったしな……って、〈彼〉もちゃんと作っているんだろうな。引き継ぎの時間くらい……欲しい……モンだな。転送途中で……鉢合はちあわせとか……眠い。

 白い光を見たような気がする。音も、痛みも、嫌悪感も無かった。俺は文字通り、眠るように意識を失った。

        *  *  *

 どれくらい時間が経っただろうか? ぼんやりしていた意識が次第に自分のものになってくる。記憶が消えていないか確認しようと考えたが、消えていたなら、それに気づくすべはない筈だよな……。ただひとつ言えるのは、少なくとも、いまこの状況が理解出来ているというのは、良い兆候ちょうこうだ。注射の所為せいで右肩も少し痛いし、紙も手に持っている……って、おい!

 これは想定外だった。何も変わっていない! 俺は単に寝て起きただけだ。あれだけ苦労して、その結果がこれか?

「どぉ? 結果は?」
 ヒカルの声がする。こんな時、どう返答すればいいものか。
「どうもこうもない……」
「だから言ったでしょ。あなたにまた会えるって……」
「はぁ」
 溜息しか出なかった。頭の装置は、静々と再び上がって行く。どのツラ下げてヒカルの顔を見ればいいんだ。……いや、俺には何の落ち度も無い筈だ。堂々と見ればいい……ってわけにはいかないよな。
「こうなるんじゃないかと予想はしてた……」
 半分、ヤケクソ気味なのか、ヒカルの声は妙に明るい気がする。装置の下端は鼻先まで上がり、足元が見えてくる。
COACHコーチのバッグはもらそこねちゃったわね」
「!!」
 視界が開けた。目の前にあるのはドアだ。配置は変わっていない。変わっていないが……変だ。俺は立ち上がった。少しフラフラする。薬の所為せいかもしれない。前回は、酔っぱらったと勘違いしたんだったな。
「急に立ち上がらない方がいいわよ」
 ヒカルの声が右後方からする。だが、俺の意識は目の前のドアに向けられていた。光だ。ドアの周囲に、わずかだが光が漏れている。俺の記憶が正しければ、その先は左右に伸びる暗い通路だった筈だ。光など見える筈がない。俺は冷たいドアノブに手をかけ、扉を押し開いた。

 目がくらんだ。目映まばゆいばかりの光が満ちあふれていた。数秒間、俺は事態を把握できなかった。天井には抜けるような青空がある。まっ青というより黒っぽい青だ。地面には草ひとつ生えていない。荒涼とした砂漠のような光景に、土埃つちぼこりで少々汚れた白いパラボラが無数に点在している。俺は、手をひざに付き、肩で息をしていた。
 これは……。いや、ここは……、ALMAだ!

「未来には行けなかったみたいね」
「……そのようだな」
 何故か知らないが、笑みが漏れる。そうか、そういうことか。ここに出て来たのか。確かに、ヒカルにはまた会えるかも知れないな。少しばかり時間が必要そうだが……。
「しょうがないわね。約束は、約束だから、デートしてあげる」
「へっ?」
 俺は、膝に手をついたまま振り返った。ヒカルは腕組みをして片眉をつり上げていた……が、『しょうが無いなあ』という表情の中に、むしろ楽しんでいるような笑みが含まれている。コイツは……〝ツンデレ〟だったのか?
「……その代わり。デート代はそっち持ちだからね。デートコースもちゃんと計画しなさいよ。妙なテーマパークに行って終わりってのはナシだから」
「デート代は経費で落ちませんか?」
落・ち・ま・せ・ん!

 〈彼〉は……相当、老獪ろうかいなヤツだな。俺が言うのも何だが。タイムマシン実験が成功したならば、恋人であるヒカルに会える。失敗したとしても、それはそれで、まずはデートから始め直せば良いと……。ここは〈彼〉の意を汲んで『タイムマシン実験は、実は成功している』という事は伏せておいた方が良いようだ。
 だが、この状況は、俺にとってよいことばかりでは無い。むしろ、事態はより切迫せっぱくしている。本当の意味でのデッド・ラインが迫っているからな。〈彼〉から受け取った引き継ぎメモにもそう書いてある。それでも、これからすべきことが分かっているというのはありがたい。
 この先どうなるかはよく分からないが、今の段階で、確実に言えることがひとつだけある。


 ──俺の日常が戻ってくるのは、当分先のことになる……てことだ。Ψ


  あとがき

 最後まで読んで頂いた方、誠にありがとうございます。
 あとがきから読み始めた方……、まあ、作者がどんなヤツかを知るには、そういう手もアリでしょう。でもそれは実用書の場合には有効ですが、小説の場合は、ラストが目に入っちゃう危険が伴います。

 さて、本稿は元々、SFのなんとか新人賞とかいうヤツに応募しようとして書き始めものですが、その新人賞自身が2010年には無くなってしまって、宙ぶらりんのままだった原稿です。
 で、冒頭に書きましたように、ニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/watch/sm14458477)で、〝量子消しゴム〟の話題を提供し、その時に『書きかけの小説があるんだけど、読みたい人います?』と聞いたところ、5名の方が『読みたい』と手を挙げてくれたので、じゃあ続きを書いてみようかと……。
 まあ、きっかけはそんなモンです。要はモチベーションの問題ですね。例え5名でも、どこの馬の骨かも分からないヤツの小説を読みたいなんて、その場の適当な表明だったとしても、嬉しいものです。

 ただ、実際に書いてみると、これが中々難しい。そもそも、こんな長編小説、今まで一度も書いた事がありません。……とは言いながら、実は、相対論の本は共著で出した事はあるのですが、あちらは『事実を如何に分かりやすく解説するか?』ということなのに対し、小説……それもSFの場合『を如何に最もらしくしたためるか?』ということなので、使う頭の部位が明らかに異なるわけです。適当に〝大風呂敷〟を広げるのは簡単ですが、後で〝最もらしく〟回収するのが大変になります。
 それから、書いてて思ったのですが、登場人物が、こちらの意図通りに動いてくれません。自分で書いているのにです。困ったものです。どうしたらいいんでしょうか?

 そして今、一番困っているのは、最後まで読んで頂いた方にはお分かりだと思いますが、明らかにこの物語には〝続きがある〟と考えられる事です。書いた本人もビックリです。途中、所々にそれの伏線らしきものが埋まっているのですが、意図的に埋めたつもりはありません。勝手に入ってきたという感じです。
 小ネタは沢山入れました。〝そのスジの人〟が読めばニヤッとできる筈です。逆に、そうじゃないと何が何だか分からないかも知れませんね。途中にイラストでも入れられればいいんですが、私の絵はかなり残念なので……。

 続きを書くかどうかは分かりませんし、それに今は、〈ハッピーエンド〉と〈バッドエンド〉がエンタングルしているんですよ。私の頭の中では。で、どうなるかは、書いてみないと分からないんですね。

 ……まあ、次は50人くらいの方が『読みたい』と言ってくれるなら考えます。ではでは。

時空間エンタングル

2012年12月20日(初版:2011年11月6日) 発行 第二版

著  者:悪紫苑
発  行:AXION物理学研究所

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東京都品川区上大崎 1-5-5 201
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悪紫苑

単なる物理好き。
「なるほど、わからん」と言ってもらえると、うp主は喜びます。

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