ケヴィン・ケリーの経歴や人物像については、序文の中でyomoyomoさんが詳しく紹介してくださっているとおりです。この本は、そのケヴィン・ケリーが The Technium というサイトに掲載したエッセイの中からいくつか選んで日本語に翻訳したものです。
ケヴィン・ケリーの文章には、多くのアイデアや考え方が詰まっています。こんなに興味深いエッセイがあるのに、それが英語だからという理由で読まない人がいるとしたらとても残念なことだ、ぜひ日本語で多くの人に読んでもらいたいと考えて翻訳しました。面白い読み物として楽しく読んでいただければうれしいです。この文章を読んで技術や文化のあり方についていろいろ考えたり、あるいは、触発されて新たな行動を起こす人がいたりしたら、それも素敵なことだと思います。
この本に収録したケヴィン・ケリーのエッセイは主に技術に関するものですが、話題の範囲は、それ以外にも、文明、インターネット、計算機、科学、ビジネス、芸術、未来観など非常に多岐にわたっており、それぞれ興味深いエピソードとともに鋭い洞察を示しています。全体を通じて、技術に対して肯定的かつ楽観的な立場をとっていることが特徴です。
いくつか概要を紹介しておきましょう。「第1章 無料より優れたもの」は、インターネットではコピーが容易であり、コピーできるものは究極的には無料になる、その中でビジネスを成立させるために必要な条件が何であるかについて考察しています。「第2章 千人の忠実なファン」では、アーティストは大ヒットをねらうのではなく、またロングテールの底辺に埋もれるのでもなく、一定数の熱心なファンとつながって直接収入を得ることができれば生計を立てることができるという仮説を提示します。
その他、この本には全部で25点のエッセイが収録されています。いずれも私が面白いと思って翻訳した文章です。お楽しみいただければ幸いです。
私が翻訳を始めるきっかけを作ってくださったyomoyomoさん、クリエイティブコモンズのライセンス条件に従って、無料で刊行するという思い切った決断をなさった達人出版会の高橋征義さん、その高橋さんと会う機会を設けてくださったWikiばなのshinoさん、そして、いちいちお名前は挙げませんが、「七左衛門のメモ帳」で私の翻訳を読んでくださっているみなさん、さらには、今からこの本を読んでくださるみなさんに感謝します。
2011年9月吉日
堺屋七左衛門
本書に掲載されている翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス「表示- 非営利- 継承2.1 日本(CC BY-NC-SA 2.1)」(http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/2.1/jp/) の下に提供されています。
そのため、このライセンスに違反しない限りにおいて、読者の方は本書の翻訳を自由に複製・加工・再配布することができます。
※本書のハッシュタグは#kevinkelly1 です。
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Foreword
光栄にもケヴィン・ケリー著作選集の序文を書く任を仰せつかったわけですが、まずは本書の著者であるケヴィン・ケリーその人の解説からはじめさせていただきます。
ケヴィン・ケリーは1952年ペンシルベニア州の生まれで、世代的にはスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツよりも3歳ほど年長になります。カメラマンとして日本を含むアジア各国を放浪したり、自転車でアメリカ縦断したり20代の多くを旅に費やしながら人生経験を積んだ後、80年代中盤からWhole Earth Reviewの編集者を務めます。
この名前を見てピンと来た人も多いでしょうが、これはスティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチで最大限の賛辞とともに名前を挙げたことで若い世代にも知られるようになったWhole Earth Catalog(WEC)の系列にあたる雑誌で、実際ケリーは80年代に刊行された数冊のWECの編集にも携わっています。
彼はWECのオンライン版として企画されたバーチャルコミュニティWELLの立ち上げに関わった後、1993年に創刊され、90年代のITブームを牽引した雑誌Wiredの編集主幹を務めます。
彼の経歴、特にWECやWELLとの関わりにヒッピー、コミューン志向を読み取ることもできますが、Wiredにはその単純な延長線上にない市場への目配りがあり、池田純一氏が『ウェブ×ソーシャル×アメリカ―〈全球時代〉の構想力』で指摘するように、複雑系の科学、バイオエコノミクス理論の「ニューエコノミー」論への接続には、ケリーの熱心な紹介が大きな役割を果たしています。
この頃のケリーの代表的な仕事として、上記の関心が結実した『「複雑系」を超えて—システムを永久進化させる9つの法則』、そしてベストセラーとなった『ニューエコノミー勝者の条件—ウィナー・テイク・オール時代のマーケティング10則』の二冊の本が挙げられますが、前者については、ウォシャウスキー兄弟が映画『マトリックス』を作るにあたり、その世界観を理解するために読むよう主要キャストに渡した三冊の本の一冊だったことでも知られています。
このようにケヴィン・ケリーという人は一筋縄にいかない人で、ネット時代の電子書籍や音楽ビジネスといった時事的な話題を扱っていても、短絡に陥らない長期的な視座に驚かされることが時々あります(ただたまに話が壮大になりすぎて、好敵手ニコラス・G・カーに揶揄されたりもするわけですが)。そのあたりは、WECのスチュワート・ブランドが創設した、一万年の時を刻む時計の建設など長期的思考を目指すLong Now Foundationの役員を彼が務めていることとも符合します。
ケリーはゼロ年代以降も幅広い分野で精力的な執筆活動を続けており、「ルネサンス的教養人」としての評価を確かにしていますが、その主要な場は何と言っても「The Technium」と題された彼のブログになります(Techniumとは、文明としての技術を指すケリーの造語)。
そしてこれが重要なのですが、彼のブログはクリエイティブコモンズの表示‐非営利‐継承ライセンスの元で公開されており、その条件に従えば自由に複製、翻訳、再配布できます。それにより本書のような著作選集の公開が可能になったわけですが、ここで話は本書に収録された文章群を一人で翻訳された堺屋七左衛門氏に移ります。
そもそも何故私がこの序文を書いているか、それは2008年のはじめに自分のブログでケヴィン・ケリーの文章を紹介したとき、誰か翻訳してくれと呼びかけたところ、それをたまたま見た堺屋氏が翻訳を公開したという経緯があります。その文章が、本書の第1章「無料より優れたものBetter Than Free」です。
今回、序文を書く依頼を二つ返事で引き受けてから、はたと自分が堺屋氏について何も知らないのに思い当たり、拍子抜けしてしまいました。自分は氏の仕事、つまりケヴィン・ケリーのブログ翻訳に2008年以来ずっとお世話になってきました。その間何度か直接やり取りもしています。しかし、それでも自分は堺屋氏の人となりについて何も知りませんでした。最近Wikiばなというイベントで氏にお目にかかった方に聞いて初めて、氏が私よりも年長らしいことを知ったほどですが、穏やかで優しい人柄ながらもピシッとされた感じだったとのことで、その点についてはネット上のやり取りで感じた印象と相違はありませんでした。
つまり、現在の氏の評価は、ネット上で自分を切り売りすることなく、孤独に耐えながらこつこつと翻訳を積み重ねた結果、純粋にその翻訳仕事によってのみ培われたものと言えます。その蓄積が半端ない量なのを今回の企画で再確認し、同じく翻訳を手がける人間として氏に深い敬意を抱かずにはいられません。
私は、今回の著作選集が電子書籍として公開されることに意義を感じます。それは上記の通り、ケリーの文章は読み手が予想するよりも大きなものを捉えていることが多々あるからで、普通にブログ記事を読む調子で論旨をちゃんと掴めているのだろうか、と私自身読者としてときどき不安になるからです。こうして彼の文章をまとめてじっくり読むことができる著作選集の公開を喜びたいと思います。
yomoyomo
Better Than Free
インターネットはコピー機である。いちばん根底のレベルでは、それを使う間の私たちの行動や文字や考えをすべてコピーしているのだ。インターネットのある場所から他の場所へメッセージを送ろうとすると、通信プロトコルに従って、その途中で何度かメッセージ全体をコピーすることになる。IT企業はこの絶え間ないコピーを促進する機器を売って大金を稼いでいる。コンピュータでひとたび生成されたデータの各ビットは、きっとどこかでコピーされる。デジタル経済はこのようにコピーの川を流れている。機械の時代の大量生産による複製と違って、これらのコピーは安いどころではない、タダなのである。
デジタル通信ネットワークというものは、できるだけ摩擦なくコピーを流すことができるように作ってある。たしかにコピーはとても自由に流れるので、インターネットは超配送システムであると考えることができる。超伝導の電線を電気が流れ続けるのと同じように、ひとたびコピーができると、それはネットワークを通じて永遠に流れ続ける。私たちはこの証拠を実生活で見ることができる。コピーできる物がインターネットに触れると、それはコピーされる。そのコピーは決してなくならない。ひとたびインターネットに流れた物を消せないことは犬でも知っている。
この超配送システムは私たちの経済や財産の基盤となっている。データやアイデアやメディアを即座に複製できるということは、経済の主要な部門、とくに輸出にかかわる部門を支えている。すなわち米国が競合優位性を持つ産業である。米国の富は、見境なくそして絶え間まなくコピーする非常に大きな装置の上に載っている。
前回のラウンドまでは、この経済における財産は貴重なコピーを売ることで築かれていた。だから無料のコピーが自由に出回ると既存の秩序の土台を揺るがす。私たちの最善の努力を複製することが無料であるとしたら、私たちはどうやって前進すればよいのだろう? 要するに、無料のコピーを売ってどうやってお金儲けをするのか?
私にはその答えがある。簡単に言えば次のようなことである。
コピーが超大量にあれば、それは無価値になる。コピーが超大量にあれば、コピーできないものは貴重で価値のあるものになる。
さて、コピーできないものとは何か?
コピーできない性質のものはいろいろある。たとえば「信頼」。信頼はコピーできない。買うこともできない。信頼は時間をかけて獲得するものである。それはダウンロードできない。でっち上げることも偽造することもできない。(とにかく、長期的には。)もし他のすべてが同じ条件ならば、あなたは信頼できる人を相手にするほうを選ぶだろう。だからコピーで飽和する世界の中で、信頼は価値の増大する無形資産なのである。
信頼と同じように、コピーすることが難しい性質は他にもあって、このネットワーク経済において貴重な存在である。それを調べる良い方法は、生産者、製造者、創作者の目から見るのではなくユーザーの目で見ることであると私は考える。ユーザーの素朴な疑問から始めよう。無料で得られるものになぜお金を払うのか? 何かのバージョンが無料で得られるのにあえてそれを買うとしたら何を購入しているのか?
ネットワーク経済に関する私の研究によれば、無料でありうるものにお金を払うような無形の価値として、八つのカテゴリーがあると思われる。
実際のところ、これらは無料よりも良いもの8個である。八つのコピーできない価値。私はこれを「生成力」と呼ぶ。生成力のある価値とは、発生させ、成長させ、培養し、育成しなければならない性質または特性である。生成力のあるものは、コピーしたり、でっち上げたり、模写したり、偽造したり、再生したりすることができない。その場所で、時間をかけて、ただ一つしか生成することができない。生成力のある性質は、デジタルの世界で無料のコピーに付加価値を与える。すなわち、それは売ることができるものなのだ。
即時性 遅かれ早かれ、あなたは何でも欲しい物の無料コピーを見つけることができるだろう。しかし創作者がそれを発表した瞬間に、または、うまくいけば作った瞬間にあなたの受信箱にコピーが配送されてくるようなら、それは生成力のある資産である。多くの人は初日に映画館へ行って高いお金を払って映画を見ようとする。その映画は後になればレンタルやダウンロードによって、無料あるいはほとんど無料で見ることができるのに。ハードカバーの本には、ハードカバーという姿の即時性にプレミアが付いている。同じ品物でも最初の物には高い値がつくことがよくある。売れる性質としての即時性にはいろいろなレベルがある。たとえばベータ版が入手できるとか。ここではファンが生成力の過程に参加している。ベータ版は完全ではないのでたいていは価値が劣るのに、売ることができる生成力を持っている。即時性は相対的なものであり、だからこそ生成力がある。それは製品と消費者に適合しなければならない。ブログには映画や車とはまた違った時間の感覚がある。しかし即時性はどのようなメディアにも見受けられる。
個人化 コンサートを一般的な形で録音したものは無料だとしても、まさにあなたのリビングルームで完璧に聞こえるように調整を加えたコピー、つまりあなたの部屋で演奏しているかのように聞こえるものか欲しければ、たくさんのお金を払ってもいいと思うだろう。本の無料コピーのかわりに、あなたの今までの読書歴に応じて出版社が個別に編集してくれるものになるかもしれない。無料の映画にお金を払うとしたら、あなたが望む評価(暴力不可、汚い言葉OKとか)に応じて適切にカットしたものかもしれない。ふつうのアスピリンは無料でも、あなたのDNAに合わせて調整したアスピリンは非常に高価だろう。多くの人が言うように、個人化のためには創作者と消費者、芸術家とファン、製作者と使用者の間で継続的な対話が必要である。それは回数と時間がかかるので、たいへん生成力がある。人と人のつながりによる個人化はコピーできない。マーケティング専門家はこれを「粘着性」とよぶ。つながりの当事者たちはこの生成力のある資産に投資したことで結びついていて、乗り換えたりもう一度やり直そうとは思わないからである。
解釈 古い冗談に「ソフトウエアはタダ、マニュアルは10,000ドル」というのがある。しかし冗談だとも言っていられない。レッドハットやアパッチその他いくつかの有名企業はまさにその通りのことをして稼いでいる。彼らは無料のソフトウエアに対する有料のサポートを提供する。単なるビットの集まりにすぎないコードのコピーは無料である。そしてそれはサポートと指導があって初めてあなたにとって有益なものになる。遺伝情報などは、この経路をたどると思う。今のところは自分のDNAのコピーを得ようとすれば多くのお金がかかるが、すぐにそうでなくなるだろう。実際に、あなたの遺伝子配列を得るためにお金を払おうという製薬会社がある。だから、あなたの遺伝子配列のコピーは無料であっても、それが何を意味するか、あなたが何をすべきか、それをどのように使うか、といった解釈をすること、いわばあなたの遺伝子のマニュアルは高価なのである。
信憑性 重要なソフトウエアアプリケーションを無料で手に入れることは可能かもしれない。そして、もし仮にマニュアルは不要であったとしても、バグがなくて信用できて保証されていることを確認したいだろう。信憑性にお金を払うのだ。ロックバンド「グレートフル・デッド」の演奏はほとんど無限個と言っていいくらいあちこちに存在するだろう。なのにそのバンド自身から本物を買うということは、それがまさにあなたの欲しい物であること、すなわち、本当に「デッド」が演奏したものであることを保証する。芸術家たちは長年この問題を扱ってきた。写真や版画の複製は、その複製の価格を上げるために、作者による真正性の証印すなわち署名がついてくる。デジタル透かし等の署名技術はコピー防止の仕組みとしては機能しない。(コピーは超伝導という話、覚えてる?)しかし、関心がある人に対して信憑性という生成力のある性質を提供することはできる。
アクセスしやすいこと 所有というのは厄介なものだ。持ち物を整頓したり更新したり、そしてデジタル素材の場合はバックアップしなければならない。このモバイルな世の中では、それを持ち歩かなければならない。私を含めて多くの人は、自分の「所有物」を誰かに頼んで面倒見てもらえたらうれしいと思っている。「アクメデジタル倉庫」にお金を払えば、世界の音楽をいつでもどこでも取り寄せることができる。そのほか、映画や写真も(自分のもの、他の写真家のもの)、本やブログについても同様。アクメは何でもバックアップして、創作者にお金を払い、私たちの欲しい物を届けてくれる。私たちはそれをどこからでも、電話で、PDAで、パソコンで、あるいは大画面テレビで取り出すことができる。これらの材料の大部分は無料で手に入れることができるのだが、それを自分で面倒見て、バックアップして、更新して、整理することを考えると、長期間保有するためには、無料ということにはますます魅力がなくなってくる。
具体化 根本的にデジタルコピーには実体がない。ある作品の無料コピーを取ってきて、画面に映すことはできる。でも、それを高解像度の巨大画面で見たいとは思わないか? もしかして3Dで? PDFも良いけれど、同じ文章が白い綿のような紙に印刷されて、それを革で製本したものを読むのも素敵だ。とっても良い気分だ。あなたが好きな無料ゲームの中で、35人の他人と一緒に同じ部屋で住むのはいかがなものか。さらなる具体化には終わりはない。今は高解像度画面にひかれて大きな劇場へ足を運ぶかもしれないが、明日にはそれがあなたのホームシアターに導入されているかもしれない。しかしいつの時代にも、消費者が持っていないような新しくてめちゃくちゃすごい画像表示技術が出てくる可能性はある。レーザー投影、ホログラフィック表示、それにスタートレックの「ホロデッキ」とか! そして、生演奏の音楽ほど実体を伴って具体化できるものは他にない。音楽は無料だが、生身の人間の演奏は高価である。この公式は音楽家だけでなく著述家にまで当てはまるようになりつつある。本は無料だが、生の講演は高価である、と。
後援 視聴者は創作者にお金を払いたがっていると私は確信している。ファンは芸術家、音楽家、著述家などに対して、評価のしるしとしてご褒美をあげたい。それによってつながりができるからだ。ただしお金を払うのは、支払いが非常に容易で、手頃な値段で、しかもそのお金が創作者に直接恩恵を与えると思われる場合である。最近注目を集めたロックバンド「レディオヘッド」の実験では、ファンが無料コピーをもらうかわりに、彼らの欲しい物にお金を払ってあげるということで後援という力を実証した。理解のあるファンと芸術家との間の漠然としたとらえどころのないつながりは結構な価値があるものだ。「レディオヘッド」の場合はダウンロードごとに約5ドルだった。視聴者が満足感だけでお金を払う例は、他にもたくさんある。
見つけやすいこと 前述の生成力のある性質は独創的なデジタル作品に内在しているのに対して、見つけやすいということは、多くの作品の集合体に対してもっと高いレベルで出現する資産である。価格がゼロであることが作品へ注意をひきつけるのに役立つわけではない。実際には時として妨げることさえある。値段がいくらであっても、作品は見られない限り価値がない。未発見の名作など無意味だ。何百万冊もの本、何百万曲の歌、映画、アプリケーションプログラムやら何やらが私たちの注意を惹きつけようとしていて、しかも大部分が無料である中で、見つけられるということには価値がある。
アマゾンやネットフリックスのような巨大集積業者は、視聴者が好きな作品を見つける手助けをして商売しているような部分がある。彼らは「ロングテール現象」という良いニュースを生み出した。みんな知っているように、それはニッチな視聴者とニッチな作品を結びつける。ただし、残念ながらロングテールが良いニュースであるというのは、巨大集積業者のほか、出版社やスタジオ、レコードレーベルのような大規模な中間レベルの集積業者についてのみ言えることである。創作者自身にとっては、ロングテールなんてどうでもよいニュースだ。しかし見つけやすさを発揮するためにはそれなりのシステムが不可欠であり、創作者は集積業者を必要とする。だからこそ出版社やスタジオやレーベル(まとめてPSLと略す)は決して消滅しない。これらの業者はコピーを流通させるために必要なのではない。そんなことはインターネットでできる。むしろPSLの役割は、その逆にユーザーの注目を流通させて作品に集まるようにすることである。可能性の大海の中から、PSLはファンがつながりたいだろうと思われる創作者の作品を発見して、育成し、磨きをかける。批評家や評論家のような仲介者も注目を伝達する。ファンたちは、この見つけやすさのために用意された多段階の機構を利用して、無数の作品の中から価値あるものを発見する。才能を見つけ出すことによって(間接的には創作者に)お金が儲かる。紙の出版物「TVガイド」は何年もの間、そのガイド対象である三大テレビネットワークの収益を合わせた以上にお金を儲けてきた。この雑誌はその週に放映される良い番組を視聴者に案内し紹介する。番組には値段がない。視聴者にとっては無料である。このように無料の業界において、巨大集積業者のほかにも多くのPSLが、生成力のある性質やら見つけやすさを売って金もうけをしていることはまず間違いない。
これら八つの性質は新しいスキルを必要とする。無料コピーの世界での成功は、流通に関するスキルからは生まれない。それは「空中の巨大コピー機」が面倒見てくれる。知的財産権や著作権にまつわる法的スキルもあまり役に立たない。秘蔵や希少性のためのスキルでもない。それよりもこれら新しい八つの生成力のために必要なのは、豊富さが共有という態度を生みだすこと、気前の良さがビジネスモデルとなること、マウスのクリックで複製できない価値の育成が不可欠であること、などに対する理解である。
要するに、このネットワーク化された経済ではお金はコピーという経路を通らない。お金は注目という経路を通るのであり、注目は行きと帰りの双方向の経路を持っている。
注意深い読者はここまでの議論で、一つ明らかな不足があることに気づいているだろう。私は広告について何も言わなかった。無料のパラドックスに対するほとんど唯一の解決策が広告であると広く考えられている。私が見る限り、無料を克服するために今まで提案された解決策のほとんどは、何らかの広告手段に関連している。広告は注目が通る経路の片方だけにすぎないと私は考える。長い目で見れば、それは、無料の物を売って金儲けをする新しい方法の一部でしかない。
いや、それはそれとして。
広告のつまらない皮の下で、これら八つの生成力はどこにでもある無料のコピーに価値を与え、それを広告するだけの値打ちがあるものにする。これらの生成力はすべてのデジタルコピーに適用できるが、それだけでなく、コピーのための限界費用がゼロに近づくようなコピーなら何でも適用できる。(私のエッセイ「技術は無料になりたがる」"Technology Wants to Be Free"を参照されたい。)素材産業でさえも複製のコストはゼロに近くなりつつある。したがって素材についても、デジタルコピーと同様になるだろう。地図はちょうど境界を超えたところだ。遺伝学はもうすぐ。機械類や小型機器(携帯電話など)もその方向へ向かうだろう。医薬品はすでにその位置にあるが、彼らはそのことを誰にも知られたくない。錠剤を作るのにコストはかからない。私たちは薬の信憑性と即時性にお金を払っている。やがては個人化にお金を払うようになるだろう。
生成力を維持することは工場で複製を作るよりもずっと難しい。まだまだ学ぶべきこと、解明すべきことは多い。あなたが解明できたら、ぜひ私に知らせてほしい。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/12121626.html
原文:Better Than Free
1,000 True Fans
よく知られているように、ロングテールは2種類の人々にとって良いニュースである。一つは、少数の幸運な集積業者、たとえばアマゾンやネットフリックス。もう一つは60億人の消費者。これら2種類のうち、消費者のほうが無限のニッチに隠れている財産からより多くの恩恵を受けていると思う。
しかし、創作者にとってみればロングテールが功罪相半ばするものであることは疑う余地がない。この方程式においては一人一人の芸術家、演出家、発明家、制作者が考慮されていない。ロングテールは創作者の売上を大きく増やすのではなく、激しい競争と価格低下への果てしない圧力を加えてくる。芸術家としては、他の芸術家たちの作品を集積する大規模業者にでもならない限り、微々たる売上という低迷から抜け出す道筋をロングテールが提供してくれることはない。
爆発的大ヒットをねらう以外に、芸術家はどうすればロングテールから脱却できるのだろうか?
一つの解決策は「千人の忠実なファン」を見つけ出すことである。そういう呼び方はしなくてもこのやり方に気づいた芸術家たちもいるが、私は定式化してみる価値はあると思う。「千人の忠実なファン」の要点を簡単に言えば次のとおり。
芸術家、音楽家、写真家、工芸家、俳優、アニメ作家、デザイナー、ビデオ作家、著述家などのような創作者、すなわち芸術作品を創作する人は誰でも、生計を立てるためには「千人の忠実なファン」を集めれば良い。
「忠実なファン」とは、あなたが創作したものを何でもかんでも購入する人のことである。あなたが歌うのを見るために200マイルの道のりを自動車で走ってくる。あなたの作品の「超豪華再発売高画質版ボックスセット」を買ってくれる。すでにその低画質版を持っているのに。あなたの名前をグーグルアラートにセットしている。あなたの絶版作品が出てくるイーベイのページをブックマークしている。あなたのコンサートの初日に来る。あなたにサインを求める。Tシャツやマグや帽子を買う。次の作品が発売されるのを待ちきれない。そういう人たちが忠実なファンである。
ロングテールの水平な直線で売上を増やすためには、「忠実なファン」と直接つながる必要がある。別の言い方をすれば、千人の「平凡なファン」を千人の「忠実なファン」に転向させることである。
控えめに見積もって、「忠実なファン」はあなたの活動を支援するために、賃金1日分を1年間に使うものとする。この「賃金1日分」は平均での話である。「最も忠実なファン」は当然それより多くのお金を使うだろう。ここでは、一人の「忠実なファン」は1年あたり賃金1日分として100ドル使うことにしよう。千人のファンがいれば、その合計は1年あたり10万ドル。そこから多少の経費を差し引いて、たいていの人の生活費くらいにはなる。
千人というのはありうる数字である。千まで数えることはできる。1日一人ずつファンを増やしていけば、3年で達成できる。「忠実なファン」の仕組みは実現可能だ。「忠実なファン」に喜んでもらうことは、楽しくて励みになる。そのおかげで芸術家は本物のままでいられる。自分の作品の独自性に集中でき、「忠実なファン」はそこに価値を認める。
重要な課題は、「千人の忠実なファン」と直接につながっているということである。彼らは直接あなたに支援を与える。たぶん彼らはあなたのハウスコンサートに来るだろう。あるいは、あなたのウェブサイトでDVDを買う。ピクトピアであなたの写真を注文する。直接の支援であれば支援の全量をあなたが確保できる。さらに、直接のフィードバックや愛情も有益である。
つながるための技術と、小規模生産のための技術がこの循環を可能にする。ブログとRSSフィードでニュースや出演予定、新しい作品などを流す。ウェブサイトには過去の作品のギャラリー、経歴情報のアーカイブ、持ち物のカタログなどを置く。いろいろなデジタル関連業者、たとえばディスクメーカー(CD/DVD作成)、ブラーブ(自費出版)、ラピッドプロトタイプ業者、マイスペース(コミュニティサイト)、フェースブック(SNS)などが、少量のものを早く安く簡単に生産して宣伝するために協力してくれる。何か新しい物を制作するために、百万人のファンがついている必要はない。わずか千人で十分なのだ。
あなたの生計を支える熱狂的なファンの小さな輪のまわりに、同心円状に「平凡なファン」の輪がある。この人たちは何でも買うというわけではない。じかに接することを求めない。でもあなたが創作するものを多く買ってくれる。「忠実なファン」を育てるために用意したプロセスは「平凡なファン」にも使える。新しい「忠実なファン」を獲得しながら、同時により多くの「平凡なファン」も増加させることができる。これを続けていけば、ついには何百万人のファンができて大ヒットするだろう。百万人のファンを持つことに関心がないような創作者を私は知らない。
しかしこの戦略のポイントは、生き延びるためにはヒット作品は必要ないということだ。ロングテールから脱出するためには、ベストセラーというショートヘッドを目指さなくても良い。テールからそう遠くない中間部分に、少なくとも生計を立てられる場所がある。途中にある安息の地が「千人の忠実なファン」である。芸術家がベストセラーのかわりに目指すべき目標である。
デジタルに媒介されたこの世界でスタートする若い芸術家には、スターを目指す以外の道があるはずだ。ロングテールを作ったまさにその技術で可能となった道である。プラチナ・ヒットや爆発的ベストセラーやセレブの地位などという、狭くて見込みのない頂上に到達しようとするかわりに、「千人の忠実なファン」との直接のつながりを目指す。それははるかに健全な目標である。巨万の富ではなく生計を得るのだ。一時的流行やブームではなく、「忠実なファン」があなたを取り巻いている。実際にそこに到達する可能性はずっと高い。
ここで警告をいくつか。この方策「千人の忠実なファン」は、一人の場合、すなわちソロ・アーチストのために考案したものである。デュエットやカルテット、あるいは映画のクルーの場合はどうか? 明らかにより多くのファンが必要だ。増加すべきファンの数は、創作グループの人数の増加に正比例する。グループの規模が33%大きくなれば、33%だけ多くのファンが必要になる。この線形的増加は、デジタル世界でたいていのものが指数関数的に膨張するのと対照的である。この「忠実なファン」のネットワークは、標準的なネットワーク効果の法則に従って、ファンの数の二乗に比例して増加すると言っても驚くにはあたらない。「忠実なファン」は互いに結びつきがあるので、あなたの作品への平均的支出額を容易に増加させる。創作に関わる人数が多ければ、必要とされる「忠実なファン」も多くなるが、その増加は爆発的ではなく緩やかで比例的に増加する。
もっと重要な注意。芸術家は必ずしもファンを育成する素質や意欲を持っているわけではない。多くの音楽家は音楽を演奏したいだけであり、写真家は撮影したいだけ、画家は絵を描きたいだけである。彼らの気質としては、ファンの相手、とくに「忠実なファン」の相手をしたいとは思っていない。このような創作者には、仲介者、マネージャー、付き人、代理人、あるいは観客係というような、ファンを取り仕切る人が必要である。そうであっても同様に「千人の忠実なファン」という中庸の目標を目指すことはできる。彼らは二人組で仕事をしているだけのことだ。
三つ目の特徴。直接のファンが最も望ましい。間接的に生活費を稼ごうとすれば、必要な「忠実なファン」の数は急速に増大するが、無限には増えない。ブログを例として考えてみよう。ブロガーに対するファンの支援は広告のクリックを通じて行われる。(たまにチップ・ジャー*1による場合もあるが。)ブロガーが生活費を稼ぐためにはより多くのファンが必要になる。このため到達目標はロングテール曲線の左へ向かって動くが、それでも爆発的ヒットの領域にはまったく届かない。同じことが本の出版にも言える。作品による収益の大部分を取ってしまう会社が関与していると、支援する「忠実なファン」は何倍も多くの人数が必要になる。自分のファンと直接に接触することを開拓すればするほど、その必要な人数は少なくなる。
[*1] http://tipjoy.com/
最後に、実際の数字は媒体ごとに異なるかもしれない。たとえば、画家には500人の「忠実なファン」、ビデオ作家には5千人の「忠実なファン」とかいう具合に。さらに、国によっても違うはずだ。実際の数字が問題なのではない。それはやってみなければ決められない。そのモードにはいってみれば、実際の数字が明らかになるだろう。それがあなたにとって必要な「忠実なファン」の数だ。私の方策は数字の桁が違っているかもしれないが、それでも百万人よりはずっと少ないだろう。
「忠実なファン」の人数について参考文献を調べてみた。Suck.com*2の共同創設者カール・ステッドマンにはマイクロセレブについての理論がある。その計算では、マイクロセレブとは1500人に有名な人である。1500人があなたに夢中ということだ。ダニー・オブライエン (Danny O'Brien)*3は次のように述べている。「英国のすべての町にひとりずつ、あなたのおバカなオンラインコミックが好きな人がいるとする。あなたが1年中ビールを飲むためには(またはTシャツを販売するのには)それで十分である。」
[*2] http://en.wikipedia.org/wiki/Suck.com
[*3] http://www.oblomovka.com/entries/2004/08/08#109195902
このマイクロセレブに対する支援をマイクロ後援とか分散後援と言う人もいる。
1999年にジョン・ケルシー(John Kelsey) とブルース・シュナイアー(Bruce Schneier) は「ファースト・マンデー」 (First Monday) というオンラインジャーナルでこのモデルを発表した。それは大道芸人方式 (Street Performer Protocol)*4というものである。
[*4] http://www.firstmonday.org/issues/issue4_6/kelsey/
大道芸人の論理を使うと、本が出版される前に著者は直接読者に協力を求める。もしかすると本を書く前ということもあり得る。著者は出版社を通さずに、次のような声明を発表する。「10万ドルの寄付が集まったら、このシリーズの次の小説を公開します。」
読者は著者のウェブサイトに行って、寄付金がいくら集まったかを知ることができる。小説を出版させるために寄付することができる。注意すべきことは、著者は次の章を出版する費用を誰が払うのか気にしなくて良い。また、お金を払わずにその本を読む人がどれくらいいるかも気にしなくて良い。著者は10万ドルという容器が満杯になったかどうかだけを気にすれば良い。それが満たされたら、次の本を出版する。この場合には「出版」というのは単に「提供」するというだけのことであり、「製本して書店で販売する」という意味ではない。本は無料で誰にでも提供される。寄付金を払った人にも、払わなかった人にも。
2004年には、ローレンス・ワット=エバンス*5という作家がこのモデルを使って最新作の小説を出版している。彼は「忠実なファン」にみんなで合わせて毎月100ドル払ってくれるように頼んだ。100ドルを手に入れると、小説の次の章を投稿した。本全体は「忠実なファン」に対してオンラインで公開して、その後、すべてのファンに向けて紙で出版した。彼は今この方式の第二作を書いている。彼の生活は200人程度の「忠実なファン」に支えられている。それができるのは、彼が従来のやり方でも出版しているからだ。何千人もの「平凡なファン」の支援によって出版社から前払金を受け取っている。その他、ファンからの直接の支援を利用している作家としては、ダイアン・デュエイン*6、シャロン・リーとスティーブ・ミラー*7、ドン・セイカーズ*8などがいる。ゲームデザイナーのグレッグ・ストルジ[*9]は同様の「忠実なファン」モデルを採用して前払資金による二つのゲーム*10を作っている。ここでは「忠実なファン」50人が開発資金を寄付した。
[*5] http://www.ethshar.com/thesprigganexperiment0.html
[*6] http://www.the-big-meow.com/
[*7] http://www.korval.com/fledgling/
[*8] http://www.readersadvice.com/mmeade/scatwlds/sponsor.html
[*9] http://www.gregstolze.com/ransom.html
[*10] http://www.danielsolis.com/meatbot/ransom.html
「忠実なファン」モデルの特質は、ファンがその人数に比べて大きな力をもって、芸術家をロングテールの末端から脱却させることが可能になるということである。それには3通りの方法がある。各人がより多く購入すること、直接お金を払うことによって売上高のうち創作者の取り分をもっと多くすること、支援のための新しいモデルを実現させること、の三つである。
支援の新しいモデルにはマイクロ後援も含まれる。別のモデルとしては起業費用の前払調達がある。デジタル技術のおかげでファンによる支援がいろいろな形で可能になっている。ファンダブル (Fundable)*11はウェブをベースとする企業で、誰でもプロジェクトのための一定額の資金を調達できる場を提供し、さらに後援者に対してもプロジェクトが発足することを保証する。全額が集まるまではファンダブルが資金を保留する。もし最低額に達しなければ、そのお金を返却する。
[*11] http://www.fundable.org/
ファンダブルのサイトから一例を示す。
アメリアという20歳のクラシックソプラノ歌手は、録音スタジオに入る前に自分の最初のCDを事前販売した。「事前注文で400ドル得られたら、(スタジオ費用の)残りが払えるようになります。」と寄付予定者に説明した。ファンダブルのオール・オア・ナッシングモデルによって、彼女が目的を達成できなかったとしても、顧客は誰も損をしないことが保証されている。アメリアのアルバムは940ドルを超える売上があった。
千ドルあっても飢餓状態の芸術家を生き延びさせることはできないだろう。しかし本気の心遣いがあれば、熱心な芸術家が「忠実なファン」とともに成長することは可能だ。カナダの音楽家ジル・ソビュール*12は長年にわたるツアーとレコーディングを通じてかなりの規模の支持者を集めており、「忠実なファン」の力を得て成功している。最近、彼女は次のアルバムのレコーディング費用7万5千ドルをファンにお願いして調達することにした。今のところ5万ドル近くを集めている。寄付という形で直接に支援することにより、ファンはその芸術家に対する親近感を増す。AP通信(Associated Press)*13は次のように伝えている。
[*12] http://www.jillsobule.com/jetpackintro.html
[*13] http://news.yahoo.com/s/ap/20080303/ap_en_mu/music_making_jill_s_cd
寄付者は資金に対する担保のレベルを選ぶことができる。10ドルの「磨いていない宝石」、すなわち彼女のレコードが完成したらそれを無料でデジタル・ダウンロードできるというものから、1万ドルの「兵器級プルトニウム・レベル」まで。これは彼女が次のことを約束している。「私のCDに歌いに来てね。あなたが歌えなくても大丈夫。こちらでなんとかするから。」5千ドルの寄付に対しては、寄付者の家でコンサートをするとソビュールは言っている。低いレベルはもう少し一般的なもので、寄付者は特別版のCDをもらえるとか、寄付者がそのCDの「ジュニア・エグゼクティブ・プロデューサー」としてライナーノートやTシャツに記載されるといったものである。
「忠実なファン」によって生計を立てることに対して、通常、他の選択肢は貧困である。つい先頃の1995年の調査によると、芸術家であることの一般に認められた価格は高い。だが社会学者ルース・タウス*14が英国の芸術家を調査したところ、彼らの収入の平均は貧困最低限レベルを下回るという結果を得た。
[*14] http://books.google.com/books?id=eDb1GI3Nr-cC&pg=PA96&vq=The+Value+of+Culture:+On+the+Relationship+Between+Economics+and+Arts&source=gbs_toc_r&cad=0_0&sig=9QEYLk6aBQ9Cv39M2AuDDYFQ7NI#PPA99,M1
創作者には、貧困でもなくスターでもない中間の居場所があると私は言いたい。それは成層圏レベルのベストセラーよりも低いけれども、ロングテールの暗がりよりは高いところだ。実際に本当の数字はわからないが、熱心な芸術家であれば千人の「忠実なファン」を開拓することができると思う。ファンからの直接の支援と新しい技術を利用して、正当な生活ができるはずである。そのような道を進むと決めた人がいたら、私に連絡をいただけるとありがたい。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/12799892.html
原文:1,000 True Fans
Turing'd
長年にわたって、私はさまざまな分野の専門家と仕事をする機会に多く恵まれてきた。あらゆる活動が計算機技術のおかげで画期的に変化している。しかしすべての分野がそれを受け入れているわけではない。一部の科学者、免許制の専門家や職業人は新しい技術にアレルギーを持っている。ある種の専門家には画期的な技術を歓迎しやすい傾向があるのはなぜか、最近ひらめいた。最新技術を取り入れたがる部類の専門家は、その専門分野がすでに「チューリング化」されていることに気がついたのだ。
私たちは多くの作業や職業について、人間だけができると信じてきた。道具や言語を使うこと、絵を描くこと、チェスをすること。それが今では一つ一つチューリング化されつつある。計算機が人間を負かしている。人間より上手になっている。
今までのところ、算術計算、スペリング、飛行機の操縦、チェス、タスクスケジューリング、溶接などは確認済みだ。みんなチューリング化されている。
計算機科学者は一緒に仕事する相手としてすばらしい。概して新しいものを全然恐れないからである。彼らはずっと昔にチューリング化されている。自分たちが以前していたことの多くは、今では計算機の方が上手にできることを熟知している。これに対して医者は一般に新技術を受け入れようとしない。彼らの仕事は計算機では代用がききにくいからである。多くの生物学者も同様。
生物学の中でもすでにチューリング化された分野がある。たとえば系統発生学、すなわち異なる種がどのように関連しあっているかという系統樹を研究する学問である。つい最近まで誰も信じなかったことであるが、系統樹を明らかにすることについては、最も賢くて造詣の深い人間よりも計算機の方が上手であることがわかっている。つまり系統発生学者はチューリング化されていて、新しい物事のやり方に対して開放的なのである。
その一方で分類学者や野外生物学者は、計算機には人間のように生物を認識したり分類したりすることができないと今でもまだ信じている。おやおや。彼らはそろそろチューリング化されようとしている。医者もそうだ。
自分がひとたびチューリング化されると、人間にしかできないと思われていた他人の職業が計算機でもできるということを容易に信じられるようになる。人生のいかなる場面でも、画期的変化をもたらす技術を受け入れられる。
あなたはチューリング化されていますか?
初出:http://memo7.sblo.jp/article/13122515.html
原文:Turing'd
Four Stages in the Internet of Things
新しい流行語「グラフ」は、便利だが使い古されたネットワークやウェブという言葉にとってかわるかどうか。私はそんな賭けはしない。(ニコリともしない人がよく口にする「ブログ」という言葉が負けることになら賭けてもよいが。)いや、それはどうでも良い。ティム・バーナーズ=リーによる「ジャイアント・グローバル・グラフ」*1と題する短い投稿では「グラフ」という言葉をいい感じで使っている。これは私の知る限り、セマンティックウェブの最も優れた概説である。それはセマンティクスについて語っていないから、ということもあるのだが。
彼の話のポイントを別の言葉で説明しておく価値がありそうだ。彼のエッセイに出てくる以下のテーマは、「セマンティックウェブ」や「ウェブ3.0」についての私の考えの概要でもある。
[*1] Giant Global Graph
現在の通信革命の第1段階は、計算機を結びつけることであった。この結びつきをネットワークのネットワーク、すなわち「インターネット」と名づけた。それは有用でもあり退屈でもある。電話機のない電話システムとでもいうような感じのものだった。航空便の予約をしようと思えば、せいぜい航空会社の計算機に接続するくらいのことしかできない。この新しいシステムの熱心な参加者は、開放性に向かって一歩踏み出す必要があった。インターネット上の計算機は他人のデータパケットを転送しなければならない。大きな枠組みで見れば、ビットの製造元は自分のパケットを自由に制御することはできない(そこが電話システムと違うところ)。
デジタル通信の第2段階は、文書やページを結びつけることだった。これがウェブである。ここでは航空会社に接続するのではなく、希望する航空便のページまたは文書に接続することができる。システムをずっと役に立つものにする分解能の向上があったのだ。そして、この競技場で競技するためには、競技者はそのページを開放して共有できるようにしなければならなかった。パスワードでページを隠すことはたいてい失敗する。多くの初心者が誤って試みるように、自分の文書に誰がリンクしてよいかを制限することもできない。文書の内容が少しだけコピー・アンド・ペーストされることや、サーチエンジンがインデックスのために全部コピーすることも認めなければならない。これが開放への第2歩である。しかしつながりの価値が一般に広く認められるようになっていた。
いま私たちは第3段階初期の終わりにいる。ここで起こっていることは、まず計算機の結合と共有があり、次に文書の結合と共有、そして今ではその文書の中にあるデータの結合と共有が行われている。文書が述べていることの主題と意味を共有し結合しようとしている。航空会社の計算機に接続するかわりに、また航空便のページに接続するかわりに、私たちは航空便の情報そのものに直接つながることができる。データは単体化されて、ウェブ上のどんな装置でも読むことができる形になっている。うまくやれば、データをウェブそれ自体に理解させるようにすることができる。データを英語ではなく一般的なセマンティック形式で表現しておけばよい。その汎用的形式はデータベースの中に存在するような物だろう。実際のところ、この段階はワールド・ワイド・データベースと考えることができるかもしれない。
世界中のデータにアクセスすることは自由をもたらすことであり、XML、RSS、API、RDF、OWLなど多くの3文字技術で可能となった。これらはウェブ上でデータを伝達して共有するための標準技術である。ウェブサイト同士の間でRSSによってコンテンツが飛び交うことで、驚くほど多くのことが可能になった。そのほかに、ひどく真価を認められていない技術がAPIである。このゲートウェイのおかげで膨大なデータのアーカイブを安全に共有することができる。普通のネットワークの効力を使って、データの秘めた力を解き放つ。使えば使うほど価値が上がる。前の二つの段階と同じように、人々は共有の恐怖を克服しようと奮闘している。データを共有することは計算機や文書を共有するよりは身近に感じられる。しかし、いかにしてデータを共有するかを理解することは、次の段階でのウェブの目的である。次の段階で真に価値があるものは、強い結合や強いつながりによって、あるいは自分の貴重なデータを自由に(妥当な範囲で)公開することによって得られる価値に基づくものである。そのことを理解し開放できる人が最も多くを得る。
ここで、ティム・バーナーズ=リー自身が述べていることを紹介しておく。
共有の魅力的でない面は、制御できなくなることである。ネット、ウェブ、グラフ、それぞれのレイヤーにおいて、実際、私たちは大きな便益と引きかえに、何らかの制御について譲歩してきた。あなたのデータを他人のデータと結びつけることは、その意味で開放することである。とは言っても権利のない人にデータを与えるのではない。仲間のサイトからデータにつながるようにすることである。あるいは他のアプリケーションからデータに結合できるようにすることである。
ところで、私はこの第3段階が歴史の終わりだとか物語の終わりだとは考えていない。(私は三つの何々という形の歴史については懐疑的である。)四つめの段階がその先に見えると思う。第4段階は物それ自体を結びつけることに向かう。ある物に関するデータがすべてその物に組み込まれていてほしい。ある場所のデータがその場所自体に埋め込まれていてほしい。あなたは実際には航空会社の計算機に接続したいのではない。航空便のページや航空便のデータでもない。航空便そのものにつながりたいのだ。理想的には飛行機に、自分の座席に、あるいは発着時刻に組み込まれた処理と生のデータにつながる。これらの物とサービスの複合体が私たちが「航空便」と呼んでいるものであり、それにつながるようになる。私たちの究極の要望は、物のインターネットである。
物のインターネットにおいては、私たちの作る物は何でもほんのわずかのつながりを含んでいる。できるのはまだ先だが、そういうものを作れると私は信じている。データのインターネット、すなわちワールドワイドデータベースは今まさに胎動しているところだ。私の知る限りでは、これはみんながセマンティックウェブと言っているもののことである。なぜならば、共有するためには情報を自然言語から抽出して、それぞれの要素に分解して、それにタグをつけてデータベースに入れなければならない。この基本的な構造によって、何千通りもの新しい方法で意味のある(セマンティックな)情報の分子を再構成することができるようになる。それは、平面的で注釈のない元の文書のままでは不可能である。
この共有可能なデータを抽出することは、みんながウェブ3.0と言っているものだと思う。このバージョンのウェブ世界圏では、データが波のように押し寄せ、流れて、ウェブサイト群に広がっていく。一つの大きなデータベースの中のように、あるいは一つの大きな機械の中で起こっていることのように。私のサイトはアリスとボブから絶え間なくデータを取ってくる。そして、そのデータを新しい(セマンティックな)方法で構造化して付加価値を加える。つぎに私は自分がそのようにして整理した一連のデータを流して、誰かが生データとして使えるようにする。このデータの生態系は、すべてのデータが共有や公開されていなくても、開かれた輸送システムと合意のあるプロトコルによって動いていく。
セマンティックウェブ、ワールドワイド・データベース、ジャイアント・グローバル・グラフあるいはウェブ3.0によって、見かけ上かしこそうなサービスを無数に作ることができる。各ウェブサイトに誰が私の友人であるかを何度も教える必要はない。一度だけで十分だ。文章に私の名前が出てきたら、ウェブサイトはそれが私だと知っている。私の町はウェブ上でも、別の言葉ではなくその町名で定義されている場所となる。この普遍性が私の町に関する言及において、その町に関する実際の情報へのリンクを可能にする。見かけ上かしこそうなウェブの性質は、ウェブはより多くのことを「知ろうとする」ことによる。それは意識的にではなく、プログラムによってであるが。ウェブ上に現れる概念や項目は、基本的に今のところはそういうことはできないが、相互に指し示しあってお互いのことを知るようになる。
細部には問題がある。どのプロトコルが勝ち残るか、どの標準が普及するか、どの会社が多数派を制するか。これらは未知数である。政策も問題である。財産としての文書と計算機は、財産としてのデータよりもはるかに問題が少なかった。データを所有することは難しい点が多い。さらに同一性というとらえどころのない概念がある。ウェブはあなたが常にあなたであると知っているとして、あなたは誰なのか? 個人へのサービスの代償が、全面的な個人の透明性であるならば、それは全面的な個人の監視とは何か違いがあるのか?
このような賢さは人々をうろたえさせる。人間とはまったく違う物であるのに、それは何でも知ることができて、さらにまたそのことについて何でも知ることができる。この事実は多くの人に抵抗を感じさせるだろう。でも私は子どもたちがそれを気に入ってくれると期待している。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/13494910.html
原文:Four Stages in the Internet of Things
The Rise and Fall of the Copy
1900年代に蓄音機がインドネシア列島に到達して、ジョン・B・スムートら音楽学者がガムラン・オーケストラを録音したとき、ガムラン奏者は当惑した。ある場所で人気の曲は数週間の半減期で村々へ伝わっていく。なぜ演奏をコピーするのか? 新鮮な音楽を容易に聞けるのに、すでにすたれた曲の古くさい演奏をなぜ聞こうとするのか? 彼らの当惑を理解するためには、あなたの町に見慣れない外国人が現れたと考えてみれば良い。外国人が漆塗りの木箱をぱっと開く。あなたは木箱の取っ手を回しながら、豪華な料理を食べる。そして次の日に取っ手を回すと、ほんのつかの間、あのときの料理の味を再生することができる。新しい食事を楽しむかわりに、彼らは古いものを何度も何度も再生するよう勧める。
当時のガムラン奏者は困惑したが、今ならもっと驚くことだろう。デジタルの箱があれば、いつでもどこでも(ジョギングしながらでも、エレベーターの中でも、眠っている間でも)再生することができる。そして自分の持っているコピーを仲間や友人と共有して彼らに再生させることもできる。「コピーの文化(The Culture of the copy)」の著者、ヒレル・シュワルツは簡潔に述べている。「私たちは独自性を称賛し、そしてそれを複製する。」
音楽を録音するという行為は音楽を変えた。100年ほど前に蓄音機が世界中に広まるにしたがって、民族音楽は繰り返しに適する音楽へと変化した。録音した音楽は短くなり、旋律的になり、そして精密になっていった。最初に商業化された1890年代の録音シリンダーは、音楽を2分間しか録音できなかった。それから数十年後の録音装置でも、4分半収録できるだけだった。音楽家はそれに合わせて古い作品を切り詰めて短くした。また、蓄音機に適合するように短縮した新しい音楽を作った。初期の録音は増幅していない音声の振動そのものであったので、録音するときには歌手の大きな声は抑え気味にし、静かな楽器の音は強くするようになった。音楽学者のティモシー・デイは次のように述べている。録音の時代になると、ピアニストは今まで決してしなかったことをするようになった。「作品全体にわたって、八分音符と十六分音符をそれぞれはっきりと区別」しようとするのである。
技術のおかげで耳と音楽の距離が縮まった。録音以前の時代には、真剣な音楽愛好者たとえば新進作曲家は、好きな交響曲を一生のうちに1回以上聞くことができれば、それは幸運だったと言えるだろう。交響楽団のある都市に住んでいて、たまたまその作曲家のその作品を演奏してくれた場合にのみ、その曲を聞くことができる。その人の聞ける範囲で同じ曲がもう一度演奏されるまでには、通常かなりの時間を待たなければならない。
私たちは音楽といえばたいてい録音したものという時代に生きている。聞きたいと思う音楽をどこでもいつでも聞くことができるようになった。今日の音楽で録音と再生という性格に影響されていないものはない。蓄音機が発明されてからわずか10年ほど後の1902年にフレデリック・ガイズバーグがインドのカルカッタに着いたとき、インドの音楽家たちは録音された音楽を模倣することをすでに知っていて、「録音すべき伝統音楽が残っていない」と嘆いていたという。
音楽を変化させたのは録音だけでなく、再生技術のせいでもある。再生して聞く装置が開発されて、音楽を聞くという行為は寺院や教会、集会、講堂などでの集団体験から、車や寝室の中あるいはイヤフォンなどで遮断された場での個人体験へと変化した。個人化の技術により、音楽はますます個人的に感じるものになった。機械的なスピーカーが耳に近づくにつれて所有感は増大する。体に密着するウォークマンは、自分の好きなスタイルの音楽が自分だけの親密なものであると思わせてくれる。近い将来、小型耳栓のような再生装置や、骨伝導による音楽が実現するだろうし、またいつの日か、すべての必要な音楽が耳に埋め込まれてあなただけが聞ける「自分音楽」ができるかもしれない。
アメリカで最も技術的な洞察力のある歴史学者、ダニエル・ブアスティンによれば、カメラや蓄音機や電話をはじめとする複製技術によって、人生という漠然とした経験は、個別に消費される単位の羅列に分割されてしまった。「人生の瞬間瞬間は1回限りで取り戻すことができないという感覚は、収録して再生するという考え方に屈服した。」私たちは電子メールでもこの方向へ向かっている。今日の子どもがあと70年くらい生きていると、その人生の全て、すなわち写真や思索や手紙や電話での会話など自分が行った活動全部がサーバに保存されていて、孫たちがそのコピーを見ることができるようになっているかもしれない。
「コピーの降臨」における最初の局面は完全性である。音楽は録音による制限に速やかに適応した。コピーはどんどん増殖するが、その複製は厳密に行われて現実味を保っている。消費者主義が開花した前世紀に複製技術も同様に開花した。そこで消費者が消費したものは正確なコピーであった。
総計の数字は圧倒的である。米国で1年間に25億冊の本が販売されている。15兆ページ(そう、兆なのだ!)が紙にコピーされた。35億枚のCDまたはカセットのアルバムが作られた(1909年には2700万枚だった)。素材の世界では1020億個のアルミ缶が生産された。言うまでもなく、マクドナルドではハンバーガーが何十億個も売れている。コピーは安い。
しかし、音楽コピーの複製と転送は安いどころではない。それはタダなのだ。オンラインでの完全な複製と無限のオンライン転送のせいである。オンライン複製は蔓延し、恐るべき規模になっている。根絶への努力にもかかわらず、ファイルの共有は続いている。ファイル共有ソフトのライムワイヤー(LimeWire)は、2002年1月の1週間に、音楽共有ファンたちのマッキントッシュによって100万本もコピーされた。この新しいオンラインの世界では、コピーできるものは何でも無料でコピーされる。
あるものが無料になり、どこにでもあるようになったとたんに、その価値は逆転する。夜間の電灯が珍しい時代には、ふつうのろうそくで明かりをとるのは貧しい人たちであった。ところが電気がどこにでもあってほとんど無料になると、電球は安っぽく感じられ、ろうそくはディナーの席で豪華さを示すものになった。
この無限な複製の過飽和状態であるデジタルオンライン世界では、価値の基軸はひっくり返ってしまった。工業の時代にはコピーのほうがオリジナルより価値が高いことが多かった。(自分の台所にある冷蔵庫の「オリジナル」プロトタイプを欲しいという人がいるだろうか?)
さて、コピーが豊富で無料になった「素晴らしい新世界」においては、コピーは価値が低下し、ついには失脚させられる。真に価値があるのはコピーできないものである。今世紀の残りの期間は、コピーできないものを、あるいはコピーを除くあらゆるものの変種を、必死にさがすことが続くだろう。「コピー」は死んだ。「非コピー」バンザイ!
初出:http://memo7.sblo.jp/article/13768906.html
原文:The Rise and Fall of the Copy
The Gift of Stuff
「技術」という言葉は物質を連想させる。原子でできた物。かたい物質。蒸気機関車、鉄の構造物、電話機、計算機、化学物質、シリコンチップ。この大量の物質が何世紀も前に初めて現れたとき、私たちはそれを素材革命だと考えた。しかしそれがもたらした変化は、実はエネルギーを自在に操る新しい能力によるものであった。かたい物質の魔力はエネルギーを保持したり、伝達したり、表示したりする能力に由来する。それは少量のエネルギーによる合図(信号)から、莫大なエネルギーを必要に応じて炸裂させること(カロリー)まで様々である。私たちが技術と呼ぶものは活発な物質であり、まったく新しい素材であった。その強固な意思は異質なものとして恐れられた。それ以来、技術は愛されると同時に憎まれる怪物となっている。
技術を改良していくにつれて、その存在感がいくらか失われた。私たちは技術が硬くて冷たいというのは偽装だと見抜くようになった。その本質は動作であると思い始めた。今日では技術といえばソフトウエアや遺伝子工学、仮想現実感、回線容量、監視エージェント、人工知能などのようなものと考えられている。どれもみな、つま先に落としてもケガをする物ではない。技術は力になった。名詞ではなく動詞になった。私たちを前へ投げ出したり、押し進めたりする、何か力強いもの。私たち人間だけでなく、私たちが属する生物世界をも押して動かしている。技術の動作はとても強く、その存在はあまりに動物的であるので、今では人間は技術が超越的な外来の力だと認識している。物事がうまくいかないときに非難されるものになっている。
実際には技術は物でもあるし、力でもあるし、それ以上でもある。私たちが創作したものは何でも技術なのだ。文章や絵画や音楽はどれも技術である。図書館は技術だ。複式簿記も民法もカレンダーや時計も、組織、科学全般、さらには農具や衣服、衛生施設、医学検査、人の名前、安全ピンも。それでは、技術でないものは何か? 私たちの頭脳から出てこなかったものである。私たちの頭脳から生まれたものはみな技術だ。
これは多くの人にとってはおそらく行き過ぎと思われるだろう。シェークスピアのソネットや、バッハのフーガがどうして原子爆弾やウォークマンと同じ枠組みに入れられるのか? 簡単な話だ。1000行の文字(HTMLページのコード)が技術なのであれば、1000行の英語の文字(ハムレット)だって同じはずだ。ロード・オブ・ザ・リングの映画から技術だけを別に取り出すことはできない。原作小説での文字による表現も、空想的な生物や風景のデジタル表現も、いずれも厳密な意味で技術によるものである。どちらも人間の想像力による作品である。どちらも観客を強く感動させる。
技術は思考の一形態である。技術は思想の表現である。西洋社会を動かしている洗練された法体系は、ソフトウエアの一種と見ることもできる。それは複雑なコードのまとまりであり、計算機の中ではなく紙の上で実行される。(理想的には)公正と秩序をゆっくりと計算する。法律とソフトウエアはいずれも人間の思想の表明であり、したがってこれらは技術である。技術評論家のウェンデル・ベリーは問う。「蒸気機関はどのように人間を向上させたか?」なかなか良いところを突いている。人間と機械の両者には何も共通点がなさそうである。しかしこの疑問への答えはこれだ。「何と比べて?」人間を向上させるような、人間の思想の表明はどこかにあるのだろうか?
それはたぶん存在するだろう。スターウォーズのレーザー、ガンジーの市民的不服従、いずれも人間の想像力の産物である。したがって両者は技術であるが、相違もある。全ての技術が同等とは限らない。ある思考はより良い思考である。さらに重要なことは、それ自体はくだらないものだったり、見当違いだったりする思考であっても、何か大きいものの一部としては意味があり、時にはより良い思考を得るために必要となることもある。思考は文脈によって異なる価値を持つ。
同様のことが技術にも言えると思う。
ウェンデル・ベリーも賛成するであろう答えは、法律という技術は人間を向上させるということである。法体系は人間に責任を持たせ、公正を要請し、不要な衝突を抑制し、信頼を醸成する。しかし法律には良い法律と悪い法律がある。ある法体系(法律という技術)は他の法体系より優れている。悪い法律に対する正しい反応は、法律をなくすことではなく、より良い法律を用意することだ。悪い考えに対する正しい反応は考えをやめることではなく、より良い考えを用意することだ。悪い技術に対する正しい反応は技術をやめることではなく、より良い技術を用意することである。
論理的に次に出てくる疑問は、ある特定の技術の価値を判断する方法をどのように改善(または創造)するかということである。私たちがより良い人間になるために技術はどのように手助けしてくれるのか? 実際に私たちはどのようにしてより良い技術を作るのか? 技術という言葉がウェンデルの示すようなこと、すなわち冷たくて硬くていやな物、蒸気機関、化学物質、機械類などを意味するならば、この疑問はうまくいくかどうかわからない。それが十分な大きさではないからだ。ウェンデルは技術を非常に小さく考えている。あまりにも小さすぎる。私の計算によると、技術の総計は文明と等しい。文明は技術である。技術は人間の想像力と発明の累積的労作の集合体である。
この計算方法によれば、ウェンデルの疑問は次のようになる。「文明・技術は人間を向上させる手助けをどのようにするか?」あるいは「技術が私たちに届けてくれる贈りものは何か?」
技術が与えてくれる進歩は通常なかなか見えにくい。あらゆる思考は逆転されうる。あらゆる技術は悪用されうる。技術がもたらす解決策は、同時に新たな問題をもたらす。思考や技術が強力になればなるほど、それは破壊的になる。技術がもたらすものが善悪差し引きゼロであれば、その贈りものは貧弱だ。しかし技術がもたらすものは、結局、いくらかの悪といくらかの善というよりもはるかに大きい。合計としては、さらなる可能性と選択を提供する。だからこそ私たちは技術に惹きつけられるのだ。
一般に、技術はあるものに関する別の考え方を人間に提供する。一つ一つの発明は、別の人生の視点、別の選択、別のあり方をもたらす。新しく発明した道具や素材や媒体は、人類が心や魂を表現する別の方法、真実を見極める別の方法を提供する。人間の状態を表現できる方法が多く考案されれば、自分の独自な立場を見つけ出すことができる人材層が拡大する。
私たちは多様性を重視する。人種、民族、視点の多様性は私たちが切望する目標である。子どもたちに(数ある中でも特に)持ってほしいものは選択である。他の何よりも、テクニウム、<訳注:ケヴィン・ケリーの造語。この文章で論じているような広い意味での技術。>が私たちにもたらすものは選択である。他の何よりも、選択を作り出すものは技術(人間の想像力が現実化したもの)である。
通常は、新しい技術が古い技術を排除することはないが、時には従来の選択を減少させることもある。またある時には、期待したほど多くの選択肢を生み出さないこともある。このとき私たちの課題はできるだけ早く別の方法を見つけることだ。制限を生む技術の救済策は、解放のための技術である。
技術からの贈りものは、可能性、機会、思考の多様性である。もし技術がなければ、これらを得ることはほとんどない。私たちみんながすべきことは、選択を制約する技術をやめて、選択を解放する技術に置き換えることである。たとえば電話は常に機会と可能性を広げる技術であり、閉ざすことはほとんどない。DDTはいくつかの重要な可能性を開くが、他の多くを制限する技術である。遺伝子工学は広大な選択領域を切り開いてくれるが、しかしそれが他の多くのものを抑制する可能性も非常に広くかつ不透明である。
ウェンデル・ベリーの疑問に話を戻そう。技術はどのように人間を向上させるのか? それはこの方法しかない。すなわち、機会を提供することによって、である。生まれつきの独自の優れた才能を活かす機会、新しい思考や新しい精神に遭遇する機会、両親と異なる道を歩む機会、自分自身の独自なものを作り出す機会。
以下に述べることを指摘するのは私が最初だろう。これらの可能性は、まわりに何もない状態でそれ単独では、人間の幸福のためには不十分である。ましてや向上などありえない。選択はそれに対する案内があってはじめて良い効果を発揮する。しかし精神的な価値観を持っているならば、幸福になるためにあえて技術を必要とするのか? とウェンデルは言うだろう。すなわち言い換えれば、そもそも技術は人間の向上に必要なのか? これと同じ質問は、私が提起する拡大版の技術にも適用できる。文明は人間の向上に必要なのか? 私はテクニウムと文明は同じだと考えているからである。この質問に私はそうだと答えよう。テクニウムは人間の向上に必要である。特別な一部の人間は、たとえば、修道院の小部屋で制約された選択を、行者の洞窟でちっぽけな機会を、あるいは放浪の導師から制限された選択を得て、向上への道だと考える。しかし大部分の人間は歴史の大部分において、豊かな文明の中で大量の可能性が蓄積していることが人類を向上させると考えている。だからこそ私たちは文明・技術を作る。だからこそ私たちは都市や図書館を作る。それが選択を生み出す。
価値のない選択は得るところが少ない。それは確かだ。しかし選択のない価値は同様に面白味がない。
技術からの贈りものは可能性である。増加しつづける大量の多様性にもとづく可能性である。生物的な生命と同じように(多くの絶え間ない恐怖にかかわらず)、また多様性と同じように、私は、紛れもなく善良なものになる可能性が大いにあると思っている。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/14200219.html
原文:The Gift of Stuff
The Machine That Made Us
先日、計算機科学者ジョセフ・ワイゼンバウム*1が85歳で逝去した。ワイゼンバウムは有名なチャットボット「イライザ」*2を40年前に発明した。驚くことに、この疑似人工知能は今でも私たちを楽しませ、また混乱させる力を持っている。しかしワイゼンバウムは後年、人工知能の批判者になった。計算機の比喩、すなわち、興味深いことはすべて計算であるという考え方が、私たちの文化を広範囲に征服してしまうことを彼は懸念した。考える機械を作ろうとすることで、私たちが機械そのものになってしまうと心配した。ワイゼンバウムが亡くなったこの機会に、彼の著書 "Computer Power and Human Reason" *3で述べられた彼の考えを再検討してみたい。
[*1] Wikipediaの「ジョセフ・ワイゼンバウム」
[*2] http://nlp-addiction.com/eliza/
[*3] http://www.amazon.com/o/ASIN/0716704633/
エッジ(Edge)*4で、ニック・カー(Nick Carr)が次のように述べている。ワイゼンバウムのこの本は「計算機およびその人間との関わりについて書かれた本の中で、今もなお最も優れたものである。細部には時代遅れの点もあるが、そのメッセージは今でも適切であり、今でも悩ましい問題である。ワイゼンバウムは要するに次のように論じている。計算機はその使用者である私たちに機械的な視点を強要する。そしてその視点は他の、おそらくは、より人間的な物の見方を容易に締め出してしまう。」そしてニック・カーは、次の一節を精査する価値があるものとして紹介している。
[*4] http://www.edge.org/3rd_culture/carr08/carr08_index.html
計算機はいかなる構造にも不可欠な要素となっている。計算機が構造に全面的に一体化され、また各種の重要な下部構造として組み込まれると、もはや全体の構造を損なわずにそれを取り除くことができないからである。これは実質的には同語反復だ。この同語反復のおかげで、私たちは気がつく。複雑な人間の行動に計算機を導入するという行為によって、取り返しのつかない責任が発生する可能性に。…… もともと計算機は戦後およびそれ以降の現代社会が存続するための必要条件ではなかった。米国政府、経済界、産業界の「進歩的」分子が計算機を熱狂的かつ無批判に受容したことによって、計算機は急速に社会の存続に不可欠な資源になり、その過程では計算機自体がその形成に貢献してきた。
この文章はよくある不安を的確にまとめている。私たちは「機械」に支配させようとして、いつの間にか自分が支配されているというのだ。
この不安について読んだとき、「私たちを作った機械」("The Machine That Made Us")*5という最近のBBCの番組を思い出した。このシリーズ番組は、計算機ではなくて、私たちを作った別の機械―印刷機を称賛する。それは4部にわたって、印刷が私たちの文化に果たした役割を検討している。この番組を見て気づいたのだが、ワイゼンバウムが人工知能について語ったことはすべて印刷についても言えそうだ。
[*5] http://www.bbc.co.uk/bbcfour/medieval/gutenberg.shtml
そこで、私はワイゼンバウムの文章に「検索‐置換」を実行してみた。「計算機」を別の古い技術である「印刷」に置き換えた。
印刷はいかなる構造にも不可欠な要素となっている。印刷が構造に全面的に一体化され、また各種の重要な下部構造として組み込まれると、もはや全体の構造を損なわずにそれを取り除くことができないからである。これは実質的には同語反復だ。この同語反復のおかげで、私たちは気がつく。複雑な人間の行動に印刷を導入するという行為によって、取り返しのつかない責任が発生する可能性に。…… もともと印刷は現代社会が存続するための必要条件ではなかった。政府、経済界、産業界の「進歩的」分子が印刷を熱狂的かつ無批判に受容したことによって、印刷は急速に社会の存続に不可欠な資源になり、その過程では印刷自体がその形成に貢献してきた。
このような形で述べることで、印刷が非常に重要で基本的なものであることが明らかになる。実際にそのとおりだ。これと同様の置換は「筆記」や「アルファベット」という技術についても可能だろう。両者はどちらも画期的であり、私たちの社会に必須なものである。
印刷や筆記やアルファベットは、文化をそれに都合のよいように曲げてしまったのは確かだ。あまりにも不可欠になって、それがない文化や社会を想像することもできない。書くことがなければ私たちの文化は認識不能である。そしてワイゼンバウムが示したように、新しく組み込まれた技術は、それ以前の思考様式に取ってかわる傾向がある。口述は過去のものになり、書物の文化は口述の文化としばしば対立している。
ワイゼンバウムの主たる不安は、次のようなことであると思われる。私たちがこの新しい技術に依存するようになり、その技術には独自の計略と自己増強性があるために、私たち自身を(それがどんなものであっても)まったく変化させてしまう。
これらはすべて正しい。しかしこの練習問題で明らかになったように、私たちはこの種の自己増強的な変化を以前に何度か経験している。そして、それは良い結果になっていると私は思う。読み書きと印刷は私たちを向上させた。たとえ何かを置き去りにしたとしても。
ワイゼンバウムは(おそらく、カーも)賢くて善意あふれる古代の長老たちと同じようなものだったと思う。印刷と書物がもたらすであろう恐怖を説教していたのである。彼らは口述が消失することを、そしてこの最新流行の補助的技術が人間性を損なうことを強調した。人間には自分自身の記憶力があるのだ。諸君、それを使いたまえ! 彼らはみんな仲が良かったようだ。あのプラトンだって同じことを嘆いていたのだから。
人工知能に対して不安になる理由があるのは確かだが、人工知能や計算機の、広く浸透して不可欠かつ基本的、自己増強的で後戻りできない傾向があるという事実は、不安になる理由とは限らない。それどころか、印刷や筆記に関する過去の歴史が示すところによれば、それは称賛する理由なのである。ユビキタス・コンピューティングの到来により、私たちのアイデンティティーはもう一度オーバーホールを受けようとしている。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/14421452.html
原文:The Machine That Made Us
The Reality of Depending on True Fans
私は、ロングテールの底辺で活動するアーティストのための新しいビジネスモデルを考えてきた。マイクロニッチでどうやって生計を立てるか? この無料コピーの世界で、それは可能なのか? 私は以前の投稿で、アーティストが直接「千人の忠実なファン」(第2章)を育成することを提案した。それは良い論考として多くのブログから注目を集めたが、実際のデータが不足していた。そこで、メールをくれた人に実際の数字を尋ねたり、その他にも、熱心なファン層がいて成功していると評判のある人たちをさがして、経験を披露するように依頼した。
連絡を取ったアーティストのうちの一人が音楽家ロバート・リッチ(Robert Rich)*1である。私はファンとして(ただし「忠実なファン」ではないが)知っているだけだった。リッチは環境音楽の初期の先駆者で、1980年代初めのサンフランシスコ・ベイエリアのニューエイジ・ミュージック・シーンで影響力のあった人物である。彼は多作で、過去20年間に約40枚のアルバムを発売している。多くは他の環境音楽家との共同作品である。初期のアルバムには、彼がその名声を築いた「ヌメナ」("Numena")*2がある。最新のアルバムは「イレブン・クエスチョンズ」("Eleven Questions")*3で、これは自分のホームスタジオで仲間と7日間ぶっ通しで録音したものだ。
[*1] http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Rich_(musician)
[*2] http://www.amazon.com/o/ASIN/B0006IB7KS/
[*3] http://www.amazon.com/o/ASIN/B000VKL0VW/
ロバート・リッチはプロの音楽家の中でも、自分のウェブサイト*4で直接ファンに応対することを早くから始めている。それで彼に連絡を取ったのだ。私の問い合わせに対して、きわめて率直で洞察に満ちた詳細な回答を書いてくれた。リッチは実際の体験にもとづく用心深い現実主義の観点から、「千人の忠実なファン」に対する私の熱狂をたしなめている。彼の経験をまとめた文章は、非常に的確かつ詳細なので、その全文を紹介する価値があると思う。少し編集した全文を、彼の許可を得て以下に示す。
[*4] http://robertrich.com/
あなたの基本的主題(千人の忠実なファン)に大いに賛成する。熱心なファンの援助を開拓すれば、アーティストはロングテールの末端で生き延びられる。しかし、私の個人的な考察により調整を加えた現実主義を少し加味して、喜ばしい楽観主義を調節することができると思う。
私は30年近くにわたって、あなたが言うのと同様の前提に基づいて活動してきた。インターネットによってこの考えの実現性が高まるよりも前からである。私は妥協のない静かで内省的な感じの音楽を作りたかった。70年代半ばに、他の人の作品を初めて聞いて自分が深く感動したようなものを。サイケデリックな文化が一般化したことによる後遺症が続いていて、ある種のミームがアバンギャルドからポップカルチャーに流出した。そして古いモデルの出版社は、実験的な芸術形態をメインストリームに対して売り込もうと試みていた。こうして、シリコンバレーで育った若者の心の中には、ヨーロッパの宇宙音楽、ミニマリズム、バロック、民族音楽、インダストリアル/パンクなど意外な組み合わせのものが融合していた。実はそのような音楽の大部分は、世界的な流通と営業の恩恵を受けているのだが、当時、みんなは「アンダーグラウンド」だと思っていた。
要するに、私は古いシステムの後援者として成長した。サブカルチャーの境界を越えて急進的思想が拡大するのを、人口統計的な市場分析が阻害するようになる以前にである。実験的な文化がメインストリームに流出したことをきっかけとして、私は自分を深く感動させたのと同じようなアーティストになりたいのだと自覚した。費用がいくらかかっても、自分の個人的真実を語りたいと思った。この現代社会の複雑性と皮肉を受容しつつ、現代のシャーマンとしての役割を果たしたかった。
このような方向性をめざすと決めると、人はすぐに経済的な現実の暗さを考える。私は15歳くらいのとき自分に言い聞かせたことを思い出す。「一人を深く感動させることができるならば、数千人を楽しませながら何も意味あるものを残さないよりも良い。」この話はロングテールだ。この考えを千倍すれば、あなたの論考に相当すると思う。
1981年に私は自分の音楽の自費出版を始めた。ずるい流通業者から支払いを受けるのに苦労したり、アルバム販売を委託した店の状況を全部自分で記録したりしていた。何年かたって、いくつかの小さなレーベルが私への支援に興味を示してくれて、ようやく楽になった。彼らのインフラストラクチャーを利用できるようになった。ハーツオブスペースのようなレーベルや欧州のもっと小さなレーベルを通じて公開することで、私は多大な恩恵を受けたと思う。小さな会社が中くらいの漁網を投げてくれて、この種の音楽が好きだとは自分でも気づかなかった人たちの興味をひきつけることができるはずなのに、今にして思えば、私は独自の流通という壊れそうな枠組みのもとで、こっそりと活動していたのだった。
この小さな窓からの公開がなければ、私は「千人の忠実なファン」を得られたかどうか疑わしい。そして、おそらく日銭稼ぎの仕事を続けていたことだろう。オーディオ・エンジニアリングとマスタリングの技能を身につけていなければ、本当に飢えていただろう。インターネットの発展や新しい流通と宣伝の手段がなければ、ずっと前にあきらめていただろう。そういう意味で、新しい技術が私のようなアーティストに門戸を開いてくれたのだという意見には心から賛同する。ただし、そこには絶え間ない苦闘がある。
ロングテールで生き延びるアーティストは、他のことを何もしなくても幸せだという種類の人である。何か重要なことを伝えるためならば、安心と快適を犠牲にすることを厭わない人である。有意義だと感じるものをさがしている、世界でも数少ない人の目にとまることを期待しているのだ。それはいくらか孤独な存在であり、闇に向かって光を発する灯台の管理人に少し似ている。その行為が、見えない場所にいる誰かに役立つと信じている。
今、私は40代半ばだが、毎年2~3か月ほど自分で運転して全国を回って、聴衆が30人から300人規模の小さなコンサートを開いている。自分で予約係兼マネージャー兼契約代理人兼運転手兼設営スタッフをしている。誰かの家のソファで寝たり、たまには贅沢にも「モーテル6」という安宿チェーンに泊まったりする。
あなたの記事で「マイクロセレブ」という言葉を引用していたが、皮肉にもそれは私にぴったりのようだ。私はそれを自分で多少経験していると思っている。ツアーで会う600人ほどのうちの何人かが、ショーの後で私の所に来て、私の音楽が自分にとって非常に重要であるとか、それが自分の命を救ったとか、こんな画廊やプラネタリウムや図書館でなくて立派な3千席の劇場でなぜ演奏しないのか理解できない、などと話してくれるのを聞くとき、私はそう感じる。
実際の「マイクロセレブ」の生活は、頂上に着くたびに巨岩が山を転がり落ちて元に戻るという、シシュポスの運命によく似ている。ツアーが終わるたびに私は疲れ果ててしまうが、それでもいくらかの人がこの音楽にほんとうに多大な関心を寄せていると思うと力づけられる。しかし何か月の後には全ては元通り静かになって、CDやダウンロードの売上も低下する。もしも1年間、私が画期的だと考えるアルバムに集中する時間を取るならば、その静寂の時間はどんどん広がって大きな穴になり、関心も薄れていくだろう。そしてついに私が大胆な新しい方向への試みを発表した暁には、いつもの「千人の忠実なファン」に売ることが精一杯だろう。巨岩は山のふもとに戻って、また頂上に向かって転がし始める時が来たというわけだ。
さて、少し財政を考えてみよう。ダウンロードまたはCDの直接販売1回ごとに、およそ5ドル~10ドルが得られるとする。千枚売れば、その年の成果として最大1万ドルの売上を達成できる。それでは生活費にならない。たとえば、20回のコンサートを開けば、3~4ヶ月働いて約1万ドルの収益がある。それでは生活費にならない。
私の場合は幸運だ。そんな微々たる所得以外にも、追加の収入がある。たとえば、サンプルクリアランスや映像使用権や音響効果ライブラリのライセンス料など「マイクロセレブ」による収益、そしてスタジオでのマスタリングやエンジニアリング料の収入である。だから地元の清掃作業員と同じくらいのお金を稼いでいるが、1日働いた後でもそれほど臭くなるわけではない。(もし著作権法が消滅したら、このわずかな追加収入がなくなるのだ。したがって、情報の無料化に関する論争では、賛否双方に対して私は複雑な思いを持っていることをわかってもらえるだろうか。)
ハーツオブスペース時代の2万~5万枚の売上と比べると、インターネットのおかげで「千人の忠実なファン」へ直接販売するようになったので、今はもっとお金を稼いでいる。しかし、ハーツオブスペースがアルバム販売のために行った多大な宣伝活動による恩恵がなければ、私が今日、専業のアーティストとして生き残ることはなかっただろう。
私には約600人の「忠実なファン」と2千人の熱心な愛好者がいる。……そして、たぶんその周辺にはさらに多くの人たちも。私のデータベースには約3千人の名前が登録してあるが、大部分の人は2~3年に1度連絡をくれるだけだ。たまに新しい人が現れて、私の今までの全作品を買うこともある。この答えは簡単ではない。たとえばロシアには少なくとも500人以上の熱心なファンがいることがわかっているが、彼らは私に何も払ってはいない。みんな不正コピーを入手しているからだ。ロシアにいる4~5人の「忠実なファン」がそのことを知らせてくれた。多くの「ファン」は芸術に感動しても、それにお金を払わなければならないとは思っていない。あるいは、もしかしたら経済環境のせいで払えないのかもしれないし、便利さの法則の逆なのかもしれない。
新しく増える「ファン」の人数は、たぶん減少分とほぼ同じだろう。それぞれの人ともっと直接に交流できるはずではあるが、そうすると新しい芸術を創作する時間が少なくなる(半日を電子メールに使うことも珍しくない)。デジタル流通は、想定される価値や魅力を下げているように思われる。容易にアクセスできることは、それが特別なものであるとか、自分だけのものであるという感覚を減少させる。音質を圧縮したり物理的なアートワークがなかったりすることは、収集価値を低下させる。私はこのような力に対抗しようと努力している。高品質の音声を使ったり、聞く人に音源の重要性を知らせたり……しかしみんなが細かいことまで考えているとは限らない。
さらに注意を。この「忠実なファン」に対する期待にはだまされやすい。わずかな収入しかないのに、アーティストは様式の限界や先入観を超えようとして度を過ごし、貧困に陥る危険を冒すことになる。私は、発散的な(おそらくは予測不可能な)芸術の作家の一人として、ちょっとした名声を得ていたと思う。その視点から、期待を無視する気持ちと迎合する気持ちの間で、映画「キャッチ22」のような板挟み状態になっていた。同じ千人に対して演奏して、いつも同じ基本的なことを続けていれば、ついには「ファン」は飽きてしまう。今年の新作が去年とほとんど同じで、黒の色調がちょっと違うだけであれば、新作を買おうとは思わない。しかし、ファンには最初に自分を「忠実なファン」にした快適な領域というものがあって、お気に入りのアーティストがそれを超えて進んでしまっても、自分の快適な箱の中だけでしか注目の範囲を動かさないようである。あちらを立てればこちらが立たず、と言ったところだ。
私は干上がりつつある水たまりのオタマジャクシにはなりたくない。聴衆が少なすぎるときに特殊化すれば、その結果は絶滅である。もう少し説明しよう。
様式の限界という罠について、進化生物学は、種の多様性と同系交配の観点で一つの比喩を示している(E.O.ウィルソンの研究を参照)。一つの種で小集団が孤立すると、その形質は大集団とは別の進化を始めて、ついには新しい種を形成するに至る。しかし、この孤立条件下では遺伝的多様性は減少し、新しい環境に特化した種は環境変化に脅かされやすくなる。個体数が多いほど、同系交配に陥る危険度は小さい。同じ種の大集団との関係を保ち続けていれば、過度の特殊化の可能性は少なく、複数の環境で生存できる可能性が多くなる。
この比喩はアーティストと忠実なファンに関連がある。私たちの文化は様式と人口統計の考えにとらわれているからである。ファンの数が少ない状態で、アーティストがきわめて個人的な傾倒に依存すると、たった一本の木の果実にだけ頼って生きている動物のようになる。これは絶滅へのレシピである。人口統計の層区分は、小集団を他の集団から隔てている山脈に似ている。特定のファン層の間に、また、その人たちが愛する芸術の間に、障壁のない世界が良いと思う。雑種犬や他花受粉の世界を私は好む。いつも同じ人に聞いてもらうばかりでなく、より広い範囲の人たちが私の作品に興味を持ってくれると思えば、もっと気分がよくなる。
インターネットはアーティストにとって聴衆を増やすことができるツールであり、また、聴衆である個人にとっては、自分の趣味を広げるツールであり、新しい様式をさがすツールであり、そして驚くようなものが欲しければ、驚くものを見つけるツールでもある。ところが、インターネットは人口統計上の特定の狭い層に的を絞り、アルゴリズムで決められた嗜好や様式へ向かって人々を動かして、新しい考えを受け入れることを阻止するような仮説を増強するツールでもある。企業は人口統計モデルを使って、人々の展望を広げるよりも、むしろ人々の検索パターンを追跡して彼らの嗜好に迎合し、それを強化することがある。これはインターネットの技術に問題があるのではなく、資本主義の現実と人間心理の問題である。
多くの技術と同様に、インターネットは道徳的に中立である。私たちはその力を使って、既存の嗜好を強化するだけではなく、芸術的表現を拡大したり、少数派のアーティストが観客と直接交流して生活水準を改善したり、人々が驚くような、あるいは因襲を打破するようなものを見つけるのに役立てたりできる。自分でささやかな避難壕を掘るための新しいツールがあっても、飢えたアーティストはたぶん飢えたままだろう。でも過去にそうであったように、一部のアーティストはそのツールを使って砂の城を、すなわち偉大な芸術作品を作ることだろう。
―ロバート・リッチ
実生活の財政状況について、寛大で勇気ある公開をしてくれたロバートには深く感謝する。そういうことをしようと言う人はめったにいない。しかしお金に関する事実は強力だ。近日中に、他の意欲的なアーティストたちが私に知らせてくれた実生活での「忠実なファン」の経済についてまとめたものを報告する予定である。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/14657309.html
原文:The Reality of Depending on True Fans
The Case Against 1000 True Fans
私の「千人の忠実なファン」(第2章)の記事は、あちこちのブログで議論を引き起こした。あるブロガーは通りすがりに、ブライアン・オースティン・ホイットニー (Brian Austin Whitney) が何年か前によく似たアイデアを提案していたと言った。私はホイットニーのことは聞いたことがなく、その提案も知らなかった。調査中にその出典を紛失してしまったが、同じアイデアがあるものだと感心した。ホイットニーは独立した芸術家のためのコミュニティーとして“ジャスト・プレイン・フォークス”*1を組織した人である。2004年の大晦日に、ホイットニーは次のように述べている。*2
[*1] Just Plain Folks
[*2] http://forums.usanetwork.com/lofiversion/index.php/t106752.html
私たちは曲がり角を曲がりつつある(あるいは振り子が振れるのを経験している)のだと思う。新しい技術が出現し、また教科書的な古い音楽ビジネスの方法が転換する時期にあって、少数のファンに注力して、高いレベルでの直接の交流と通信によってファンに尽くす芸術家が、成功のための新しいモデルになろうとしている。成功の新しい定義は、その芸術家の創造的な作品に1年で20~30ドル使うような熱烈なファンが世界中に5千人いる、ということだと私は考える。
その4ヶ月後の4月15日、ブログを書く音楽家スコット・アンドリュー (Scott Andrew) はホイットニーの意見を取り上げ、その考えを拡張して「5千人のファン」(5000 Fans)*3という表題で発表した。
[*3] http://www.scottandrew.com/wordpress/archives/2005/04/5000_fans.html
ブライアンは次のように指摘している。5千人の中核的なファンがCD、チケット販売、関連商品、寄付、その他何でも、毎年20ドルずつ払うならば、1年に10万ドルの収入になる。これだけあれば、日銭稼ぎのアルバイトを辞めるのに十分であるだけでなく、さらに健康保険にも加入できるし、そこそこの車も持てる。
ところで、5千は大きい数ではあるが、さほど大きいわけでもない。それは、どうだろう、普通の野球場の8分の1と言ったところか。そして、実はそんなに多くなくても良い。さて、練習問題だ。あなたの税込年収を20で割りなさい。もし今すぐ仕事を辞めて、専業の音楽家、詩人あるいは作家になるとすれば、それが必要なファンの人数である。あなたの芸術に対して毎年20ドルの支援をしてくれる場合のファンの人数だ。年収が3万ドルであれば、その給料のかわりに、お金を払う1500人のファンが必要になる。減収を受け入れるならば、さらに少ない人数で良い。私の住むワシントン州の最低賃金で働く人は、お金を払うファンがたった700人いれば良い。
「5千人のファン理論」の魅力はその数字が、大きいけれども、かなり達成できそうだということである。職業的芸術家になるためには、世界中に何百万人のファンは必要ではない。本当に気に掛けてくれる数千人のファンだけで良い。さらに、そのファンを見つける意欲も必要だが。
私も、ホイットニーやアンドリューと同様に考える。ちょっと聞いただけの何百万人に支持されるベストセラーなどという、めったにない経歴をめざすよりも、有限で達成可能な数の熱烈なファンを求めることのほうが、重要で自由をもたらすものがあると思う。ただし、問題がある。私が論文を書くためにデータを調査したところ、いま現実に千人あるいは5千人の「忠実なファン」の支援を受けて生計を立てている人がいると納得できるような材料を見つけられなかった。それで、いろいろな分野の芸術の創作者で、方法や程度に差はあるが「忠実なファン」による支援で生計を立てているという7人から、財政について確かな情報を提供してもらった。その他にも20人ほどから断片的な情報を得たが、不十分なデータを整合性をもって解釈するのが難しいので、ここには記載していない。結果はこの表の通りである。
この表の各項目は左から右へ順に、芸術家の種類、自分に「忠実なファン」が何人いると思われるか、一人のファンがその芸術家に対して1年にいくらお金を使うか、「忠実なファン」からの年間売上合計額、全収入のうち「忠実なファン」によるものと推定される割合、「忠実なファン」の支援を受けている年数、実際にファンに販売している物品、を示している。
この調査でわかったことは次の通り。「忠実なファン」への直接販売で全ての生活費を稼いでいる人はごくわずかである。そのわずかな人は、CDのような低価格の商品ではなく、絵画のような高価な商品を販売している。直接の「忠実なファン」によって生活費の一部をまかなっている人は多く存在する。しかしこのような芸術家たちの大部分は、はっきりと注釈をつけている。「忠実なファン」を見つけて、育成して、管理して、世話することを自分でやるのはたくさんの時間がかかる。そして多くの芸術家はそのようなことをする技能や意欲を持っていない。直接の「忠実なファン」との取引によって全面的に生計を立てている人がごくわずかだという事実は、それがあまり長期間やりたいような仕事ではないせいかもしれない。
また、「忠実なファン」の世界は明らかに多くの創作者が一生あこがれ続ける目標ではない、ということも実行する人が少ない一つの理由だろう。プラチナディスクを獲得したり、ベストセラーを書いたりするかわりに、たった千人の「忠実なファン」を夢見る人がいるだろうか? 誰もいない。今までのところは。
しかし、いつも楽観主義者である私は力づけられている。いくらか仕事をすれば、直接の「忠実なファン」から部分的な支援を得ることが可能であることがわかった。「マイクロ後援」はつねに選択肢として存在し、実際に多くの芸術家の生計の一部となっている。現状が従来と違うところは、技術の到達範囲と威力である。そのおかげで、芸術家を熱烈な「マイクロ後援者」にうまく引き合わせて、その結合を維持し、創作した作品を提供し、支払いを直接受け取り、興味と愛情を育成することが容易になっている。前の時代には、これら全てを実施する面倒な取引にコストがかかるせいで、「忠実なファン」に依存して生計を立てることが実際には不可能であった。私の表を見れば、今ではそれが実現可能である。ただし、大々的に実行している人はごくわずかだが。しかしロールモデルが出現し、ビジネスモデルが転換し、技術が取引コストを低下させ続けると、より多くの芸術家がこの進路を利用するようになるだろう。時間がたてばわかる。
この話題について、最後に課題を一つ提示したい。これは私の友人である音楽家(そして仮想現実の発明者でもある)ジャロン・ラニアー*4から聞いたものである。ジャロンは「忠実なファン」に類似した空間について、私と同様に調査しており、「それを実行している人」の実例をさがしている。彼はそれを実行していると言う人をあまり多く見つけることができなかった。実際のところ、ジャロンの現時点での結論によれば、直接のファンによる新しい環境で生計を立てている音楽家の大部分は、まず最初に従来の媒体であるレーベル、CD 、契約出演、テレビ、企業の後援などによって有名になった音楽家であるという。ジャロンの調査対象は音楽家だけであるが、彼がさがしている新進音楽家の条件は次のようなものである。
[*4] http://www.jaronlanier.com/general.html
その音楽家の経歴は古いシステムの遺産(たとえばレディオヘッドのような)ではない。その音楽家は顔が売れているだけでなく、生活費を稼いでいる。ここで言う生活費とは、一人の子を育てるのに十分な安定した収入である。最後に、その音楽家の収入の大部分は、大量で規制のないファイル共有との親和性が高い「開かれた」世界において、確かな収入源から生じているものである。この収入源にはライブ演奏、自分のウェブサイトでの有料広告、関連商品販売、有料ダウンロード(iTuneのようなもの)を含むが、レーベルとの契約、映画のサウンドトラック収録、その他の古い衰退しつつあるメディアによる収入は除く。
ジャロンはこの条件に合致する音楽家がまだ一人も見つからないと言っている。すなわち、新しいメディア環境で生計を立てるのに成功した音楽家は誰もいないというのだ、誰も。「無料より優れたもの」(第1章)で私が示した「生成力」に基づいて成功している音楽家がいない。デジタルに生まれて新しいメディアで生活費を稼ぐ音楽家がいない。
私はジャロンと賭をした。ジャロンの条件に適合する音楽家(またはバンド)が3人いるはずだ、と。ただしそれが誰かはわからないが。
ジャロンが間違っていることを証明するために、コメント欄にその候補者を投稿して欲しい。古いメディアモデルにしがらみがなく、開かれたメディア環境で生活費を100%稼いでいる音楽家を。
もし申し出がなければ、私はこの件ではジャロンに降参する。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/14803880.html
原文:The Case Against 1000 True Fans
Everything That Doesn't Work Yet
アラン・ケイは優秀で博識な人で、アタリ、ゼロックス、アップル、ディズニーなどで働いていたが、私が今まで聞いた中でも優れた「テクノロジー(技術)」の定義を述べている。ケイが言うところでは、「テクノロジーとは、あなたが生まれた以降に発明されたものである。」この気の利いた評価方法によれば、自動車、冷蔵庫、トランジスタ、ナイロンは私たちから見ればテクノロジーではない。ただの古いものである。しかし私の祖父にとってはテクノロジーであった。同じ論理で、CD、ウェブ、マイラー樹脂、携帯電話、GPSは私にとっては正真正銘のテクノロジーだ。でも私の子どもたちにはそうではない。子どもたちには、試合終了前の残り5分で発明された自分たちのテクノロジーがあるだろう。
もう一人の博識者ダニー・ヒルズは、アラン・ケイと一緒に仕事をした人であるが、1990年代に、アラン・ケイの定義をもう少し実用的に改良した。ヒルズによれば「テクノロジーとは、まだ動いてないものである。」このお茶目な定義の裏には、成功した発明は私たちの意識から消失するという洞察が隠れている。その昔、電動モーターはテクノロジーであった。つまり、それは新しくて、うまく動かなかった。モーターが進歩するにつれて、それはしだいに姿をかくす。数が増えて、私たちの家庭や職場で何十個も使われるようになるにもかかわらずである。故障なく静かに気づかれずに動くようになれば、もはや「テクノロジー」として認められなくなるということだ。
風刺作家で小説家のダグラス・アダムズ(Douglas Adams)は、ヒルズとケイによる定義をさらに発展させ、テクノロジーについて自然なライフサイクルを提案した。1999年の短いエッセイ*1で、世界は次のように機能していると述べている。
[*1] http://www.douglasadams.com/dna/19990901-00-a.html
(1) 自分が生まれる前からすでに世の中にあるものは、すべてごく普通のものである。(2) 生まれてから30歳になるまでの間に発明されたものは、すべて途方もなく刺激的で創造的であり、運が良ければそれが一生の仕事になる。(3)30歳以降に発明されたものは、すべて物事の道理に反していて文明の終末の予兆である。ただしその後、それが身の回りにあって10年ほど経つうちに、徐々に問題ないものであるとわかるのだが。
さらに、いかにもダグラス・アダムズらしく、次のように付け加えている。
このリストを、映画、ロックミュージック、ワードプロセッサ、携帯電話に適用してみると良い。それであなたの年齢がわかる。
私たちは今では椅子がテクノロジーであるとは思わない。ただ椅子であると思うだけだ。しかし、椅子に何本の脚が必要なのか、どれくらいの高さであるべきか、まだわかっていない時代があった。使おうとすると、たびたび「クラッシュ(崩壊)」する時代があった。やがて計算機も椅子と同じように、平凡でありふれたものになり(さらにその何十年か後には紙や砂粒みたいに)、それが物であるとは気づかなくなるだろう。
アダムズはわざとふざけているのだが、ドイツの哲学者ハイデガーは大真面目に述べている。「テクノロジーは技術的でなく、機械みたいなものでもない。」ハイデガーにとって、テクノロジーは暴露あるいは出現である。内的実在が物理的な実体として現れることである。フランスの哲学者で詩人のベルナール・スティグレールの著作には、さらなる困惑が見られる。そのベルナールが言うところによると、テクノロジーは「組織的な無機物」である。だが、これは遺伝子工学や遺伝子組み換え作物という素晴しい新世界をうまく包含していないので、やはりテクノロジーという言葉の実用的な定義はまだ存在しない。
古代ギリシャ人がテクネー(techne)という語を使うとき、それは芸術、技能、工芸のようなものを意味し、あるいは巧妙という意味でもあった。つまり創意工夫という言葉に近かった。しかし古代には、テクネーに関心を持つことはあまりなかった。ギリシャの資料にはテクネーに関する論文はない、ただ一つの例外を除いて。私たちが知る限りでは、アリストテレスの『弁論術』に関する文献で、テクネーという言葉を初めてロゴス(logos)と結びつけて、テクノロゴス(technologos)という一つの語を生み出した。アリストテレスはこの論文でテクノロゴスについて4回言及しているが、4回ともその意味は明確でない。「言葉の技能」について述べているのか、それとも「芸術についての演説」なのか? その後、この言葉は姿を消す。
1829年に、ボストンのケンブリッジ大学で工学の教授だったジェイコブ・ビゲローは、この大学で行われている「応用芸術」に関する講義を全部まとめて統一した科目にすると良いと考えた。建築、化学、金属加工、石組術、手工業、その他の科学やテクネーに関する研究を一冊の教科書にまとめた。この講義録の題名は次の通り。『テクノロジーの基礎。実用芸術のための科学応用に関するケンブリッジ大学での講義を中心にしてまとめたもの。学校および学生が使用するために出版する。』(Elements of Technology; taken chiefly from a course of lectures delivered at Cambridge of the Application of the Sciences to the Useful Arts. Now published for the use of seminaries and students)
ジェイコブ・ビゲローは、現代の意味で使われるテクノロジーという言葉を作った。(その言葉をアリストテレスの『弁論術』からとったのか、それとも単にギリシャ語を組み合わせて作っただけなのか、わからない。)ともかく、その1829年には、彼が生まれた後に発明されて、まだうまく動かないものが世の中に満ちあふれていた。テクノロジーは存在したが、誰もそれを知らなかった。実際のところ、何世紀ものあいだ欧州や中国では発明家や技術者が、テクノロジーとして分類されるべきものを創造していたが、彼らの世界においてその発明の立場を表現する言葉を持たなかった。
今日でも、私たちはそれが何かよくわかっていない。これからまだ多くのものが出てくるということだけはわかっている。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/15016045.html
原文:Everything That Doesn't Work Yet
Bootstrapping the Industrial Age
技術者が好きなファンタジーゲームの一つは、世の中に不可欠な技術を自分で何もないところから発明するとしたらどうなるか、想像してみることだろう。どこかの孤島で立ち往生するか、あるいはハルマゲドンの後に取り残されるかして、自分でナイフを作る必要があるとしたら、そのほかに本も、ひょっとして無線機も作るとしたら、鉄を鍛造し、紙を作り、または電気を起こすのに何を用意すれば良いだろうか?
たまには、そんな夢を本当に実行した機械いじりマニアがいる。1942年2月に、第二次大戦の英軍砲兵士官R.ブラッドリーは、シンガポールで日本軍の捕虜となった。収容所は遠隔地にあって補給がほとんどなく、彼らは戦争捕虜として荒っぽい扱いを受けた。反抗すると食事抜きで監禁小屋に閉じこめられた。しかし彼らは機械マニアでもあった。同じ収容所の他の捕虜数名と一緒に、ブラッドリーは日本兵から手工具を盗み、がらくたの中から金属スクラップを使ってミニチュア旋盤を作り出した。小さな旋盤は巧妙にできている。隠しておけるくらいに小さく、実用には十分な大きさだった。小さな部品に分解してリュックサックに押し込んで、収容所のあちこちに持って行くことができた。大きな金属のかたまりを気づかれずに入手するのは困難なので、旋盤の心押台は二つの鋼片を蟻継ぎで組み合わせ物だった。旋盤のベッドは最初はタガネで削った。
旋盤は道具を生むタマゴであり、それを使ってもっと複雑な物を製作した。捕虜たちは監禁独房の合鍵(!)を加工し、また秘密の無線機のために電池を作った。2年にわたる捕虜生活の間には、タップとダイスなど、最初にこの旋盤を作るのに使った工具類を作り直している。旋盤はこのように自己再生産の性質を持っているというわけだ。
最近では、自分のガレージで産業社会の構造を再発明した男がいる。ミズーリ州スプリングフィールドの故デーブ・ジンジャリー*1>氏は夜中の機械工だった。何もないところから何かを作るという挑戦を楽しんでいた。あるいはもっと正確に言えば、ごくわずかな物の能力を利用して非常に多くの物を作ったのである。何年もの機械いじりを通じて、ジンジャリーは路地裏のスクラップから完全な機械工場を自分で作り上げてしまった。まず粗い工具を作り、次にそれでより良い工具を作り、さらにそれを使って本物の機械を作るのに十分な工具を作った。
[*1] http://www.lindsaybks.com/dgjp/djgbk/index.html
ジンジャリーは最初に簡単な鋳物工場を自宅の庭に作った。これは小さな5ガロン(約19リットル)のバケツに砂を詰めたものである。その中心には火の付いたバーベキュー用木炭をコーヒー豆の缶に入れて置いてある。缶の中には小さな陶器のるつぼがあり、そこに空き缶などアルミのスクラップを入れる。この粗末な溶解炉にファンで空気を送り込み、炭をよく燃やして高温にして、アルミを溶かす。湿った砂を彫り込んで所望の品物の型を作り、そこに溶けたアルミを流し込む。その鋳物が冷えれば金属プレートができていて、それが自家製旋盤の重要部品になる。この粗い部品を手工具で仕上げ加工する。一つだけ「ごまかし」があって、中古の電動モーターを使っている。ただし、風力や水力を使う方法もありうることは容易に想像できる。
粗い旋盤ができて動くようになると、それを使ってボール盤の部品を作った。さらにボール盤と旋盤を使って旋盤自体の部品を次々に作り直して、改良版の部品と入れ替えた。このようにして小さな作業場は、元の機械の精度以上の機械を生み出す能力を持つようになる。この装置を使って必要な部品を加工して、完全な機能を持つフライス盤を製作した。フライス盤が完成すると、たいていの物は何でも作れるようになった。
ジンジャリーは技術の進化の過程をもう一度自分で再現した。単純な道具を使ってより複雑な道具を作り、それを使って……と無限に続くパターンである。自分で自分の靴を持って、泥沼の中から自分自身を引き上げるという「ブートストラップ」の話と同様に、このような生産能力の拡張は、文化全体がさらに発展するための手段である。ただし、ここに示した小さな例が純粋でないことは明らかだ。でも自分で機械工具を作る方法としては、ジンジャリーの考え方は素晴らしくて洒落ている。捨てられた洗濯機のモーターなど廃品置場のスクラップを使って、かなりしっかりした機械工場を作り出した。しかし、ロビンソン・クルーソーみたいにどこかの島に流れ着いて一から文明を興すというような、技術社会の再発明の見本としては、ごまかしを含んでいる。後者の例では、使用済みのアルミ缶、拾ってきたボルトやナット、古い電動モーター、スクラップの金属などからスタートすることはない。産業社会が発展してきた経過を本当に自分でたどり直すためには、鉱石をさがしたり、金属板を圧延したり、自分の手でねじやボルトを作ったりするところから始めなければならない。まずそれで、単純な5ガロンバケツの炉を作るための道具と材料を得て、デーブ・ジンジャリーのスタート地点と同じになるのだ。
米国では20校程度のサバイバル学校で、獣皮で衣服を作る、石や骨を削ってナイフを作る、木を切って小屋を組み立てる、その他自分で作った道具で自給自足生活をする方法について、週末の授業を実施している。そこでは、ジンジャリーのスタート地点ではないところ、すなわち自然の中から物を見つけ出すところから始める。それは大変な仕事だ。マッチを使わずに火を起こすのは可能ではあるが、そのためにはテレビゲームの名人になるのと同じくらい練習が必要である。世界的な専門家がこの方法で一から作る道具(合計100種類くらい)を使ったとしても、それはつらい生活であり、あまり興味をそそられるものではない。
このような原始的な道具は別として、人間が作った物は驚くほど相互に依存している。あなたが今座っているところから手の届く範囲にある何千個のものの中から任意に1個を選んでみても、まわりの他の物と無関係に存在する物は一つもない。いかなる技術も孤立しているものはない。
非常に高度な技術を考えよう。たとえばウェブページだ。ウェブページは、おそらく他の何万件もの発明のおかげで、新しく生まれて存続することができる。次のような発明がなければ、ウェブページはありえない。HTML、計算機プログラミング、LED、CRT、半導体チップ、電話線、長距離信号中継器、発電機、高速タービン、ステンレス、溶鉱炉、火を使うことなど。これらの具体的な発明には、さらに基本的な発明が不可欠である。たとえば、筆記、アルファベット、ハイパーテキストのリンク、索引、カタログ、アーカイブ、図書館、そして科学的方法それ自体。ウェブページを再発明するためには、その前にこれらすべてのものを作らなければならない。現代社会を作り直すのと同じようなものだ。
この相互依存のもつれを解こうとしたり、関連して依存している発明の中から一つだけを取り出したりしようとすればするほど、それは無意味なことになってしまう。現代のいかなる物質や装置にも、すべて同様な依存の連鎖がある。たとえば抗生物質は? 消毒法に始まって化学に至るまで、その他、ポンプ技術、包装の革新、動物実験、試験方法、統計分析など、いくつも必要なものがある。
壊滅的な破壊の後で高度な社会を再始動することが非常に難しいのは、このような理由による。特定の生態的まとまりの中で、関連するものをすべて取り除いて、一つの技術が単独で存在しても何も効果はない。一つを働かせようとすると、すべてが働いている必要がある。それらをすべて同時に修復しなければならない。戦争、地震、津波、洪水、火災などで社会のインフラストラクチャーが無差別に破壊されたとき、すべてを同時に復元することは不可能である。災害救援が困難であることは、このような深い相互依存の証拠である。ガソリンを運ぶのに道路が必要だが、道路を修理するためにはガソリンが必要である。人を治療するのに薬が必要だが、薬を投与するためには健康な人が必要である。組織を機能させるのに通信が必要であるが、通信を回復するためには組織が必要である。技術が破壊されたとき、まず私たちは相互に依存している技術基盤に気づく。
これは、未来に対する予測がはっきりと明らかである場合に、それがすぐ近い将来に発生すると誤認してはならないということの説明にもなっている。技術がどのような方向へ進むかについてはっきりとわかっているとして、それがどの程度近い時期に実現するかについては、過大評価しがちである。通常、その遅れ(私たちの熱心な目で見れば)の原因は、生態系の中で見えないけれども他に必要な技術があって、それがまだ用意できないからである。そのような発明は、何年も保留されて近づいてこない。やがて見えなかった関連技術が完成したとき、その発明は突然世の中に現れて、予期しない出現に対する驚きと称賛をもって迎えられる。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/15329827.html
原文:Bootstrapping the Industrial Age
Technologies That Connect
ロングナウ財団(Long Now foundation)では、毎月「長期的思考についてのセミナー」*1を主催している。私はその共催者みたいなもので、聴衆から講演者への質問を交通整理する役である。今月の講演者はイクバル・カディーア(Iqbal Quadir*2)だった。この人は以前はハーバード大学にいたが、今はMIT(マサチューセッツ工科大学)にいる。私は10年ほど前にイクバルと知り合いになってから、携帯電話を使って世界を変えるという彼の冒険に注目している。今回のイクバルの講演は、技術がいかにして貧困を緩和するかというテーマだった。ここにその講演の概要を紹介する。
[*1] http://www.longnow.org/projects/seminars/
[*2] http://en.wikipedia.org/wiki/Iqbal_Quadir
イクバル・カディーアがバングラデシュの故郷を出て、米国の大学へ入学を志願したとき、すべての大学がワシントンDCにあるわけではないことに驚いた。バングラデシュでは、重要なものはすべて首都ダッカに集中していたからである。後になって、彼はそれがバングラデシュだけではないことに気がつく。多くの発展途上国では、インフラストラクチャーは一つか二つの都市に集中していて、田舎にはほとんど何もない状態のままである。イクバルは経済学で学位を取り、経験を重ねるにつれて、このような集中化は貧しい国の指標であるだけでなく、おそらくそれが貧困の原因であるらしいと気づいた。
技術が貧困を緩和するという彼の信念の背景として、イクバル・カディーアは社会の発展の概要について説明した。500年前に西洋諸国において社会がまだ「発展途上」であったとき、その政治システムは、今日の多くの発展途上国の不安定で腐敗した政権と比べて決して良くはなく、多くの場合、悪いくらいだった。英国の国王は何代にもわたってその罪のために告発されたり、逮捕されたり、追放されたり、斬首刑にされたりしている。市民が経済市場により力を得た後になって、王による中央集権から市民による分権へと変化して、ようやく権力の均衡が取れた。中央の権威から法律、通商、教育などの権力が委譲されていく過程で、民主主義が育成された。
カディーアの考えによると、集中化それ自体が貧困を生むのではない。貧困は洋の東西を問わず、すべての社会において自然な初期状態なのだ。権力の分散は、貧困を取り除き富をもたらす推進力である。インフラストラクチャー、教育、通商が分散化される程度に応じて、それに比例して富が生じる。インフラストラクチャー、教育、通商が中央に集中する程度に応じて、貧困が残る。
多くの西洋人、とくにディジタル系の人はこの話に直感的に賛同するのだが、その一方で、貧しい国に大規模な援助をするときには、この逆の行動をとっている。カディーアの同僚ウィリアム・イースタリー(William Easterly)はその著書"The Elusive Quest for Growth"*3で次のように述べている。「莫大な金額を発展途上国の援助に使ってきたが、それは助けにならないだけでなく、彼らを何十年も後退させている。今のようなやり方の援助は発展を阻害する。この不都合が起こる理由は、従来のほとんどの援助が中央の政府または政府に準ずる機関を通じて行われ、そういう公式ルートのせいで中央への集中が強化されるからである。政府が聖人ばかりであったとしても(実際には決してそんなことはないが)、大規模なお金が中央に流れていけば、資源やインフラストラクチャー、通商、教育などの分散が妨げられる。援助が届けば届くほど、現実には発展は起こりにくくなる。」
[*3] http://www.amazon.com/dp/0262550423/
技術はこの苦境を脱する手段である。カディーアは「つながるための技術」が生産力を解放するという見解を持つに至った。彼は13歳のときバングラデシュで、薬を求めて10キロメートルの距離を歩いて行ったのに、めざす薬屋の男が不在だったので手ぶらで帰ることになり、1日を無駄にしたという経験があって、その原因は、彼の家と薬屋の間をつなぐ手段がないからだと考えた。また、それから何年もたった後、停電のために職場で電話や計算機が使えず、1日を無駄にしたことがあった。生産力にはつながりが必要なのである。中央以外にもつながりを分散させることができれば、富の増加をもたらすだろう。
つながりを分散させる方法は携帯電話だとカディーアは考えた。1990年代の初め頃、携帯電話は大きくて低機能で非常に高価だった。通話料は1分3ドルもして、金持ちだけが買うことができるものだった。しかし彼は世界中の最貧の人々に携帯電話を使って欲しいと思った。どのようにしてそれを可能にするか?
まず、カディーアはムーアの法則を信じた。毎年、電話の価格は低下し性能は向上する。それは当然のことだと思われた。「マイクロチップが貧しい人々に向かって行進している」のが見えると彼は言う。その点で彼は正しい。次に、同じバングラデシュ人であるムハマド・ユヌスの注目すべき発明に便乗することにした。ユヌスはマイクロ・ファイナンスを生み出した人である。(後にこの発明でノーベル賞を受賞した。)ユヌスの構想は次の通り。事実上何も財産のない女性が、乳牛を買うために200ドルの融資を受けることができる。そして、その牛から取れる余分な牛乳を売って借金を返済し、さらに家族のための牛乳と収入を得る、もしかするともう1頭の牛を買えるようになる、というものだ。普通はこんなわずかな金額を融資してくれる銀行はない。それも、担保となる財産もなく、教育も受けていないような人に。管理コストを考えると利益のない少額の融資には、銀行は手が出せない。しかし、ユヌスが作ったグラミン銀行は次のような事実を発見した。読み書きもできない農民たちが、実際には少額の融資を返済する可能性が高く、また高い金利でも喜んで払う。したがって、全体としてはこのマイクロ融資は大企業への融資よりも儲かるのである。
カディーアはさらに考えた。その女性が牛のかわりに携帯電話を借りたらどうだろう? グラミン銀行は貧しい人々に対して、携帯電話を買うためのマイクロ融資をした。そして、その携帯電話を村の人々に分単位で売ったり貸したりする。企業家精神を持って貸し電話屋を始めた人はそれで儲かるし、さらに重要なことは、つながりによって村全体が利益を受ける。使用料が高くてもあまり問題はなかった。つながりがまったくない状態で、つながりを得るためには高くても喜んで払うのだ。カディーアがグラミン電話を始めたときの基地局は五つだけだった。その後グラミン電話は5千の基地局を持つに至った。
カディーアが電話ビジネスを始めた1993年、バングラデシュでは電話が500人に1台しかなく、世界でも最も電話普及率の低い部類だった。グラミン電話のプロジェクトは2500万台の電話機を送り出した。今日では電話機の数は当時の100倍、すなわち5人に1台の割合になっている。カディーアが想像したとおり、このつながりの分散化は生産力を向上させた。つながりがない状態では、人々は経済活動において多くの時間を浪費する。携帯電話によるつながりができたおかげで、農民は遠くの市場での現在の価格を知って利益を最大化することができる。牧羊業者は獣医を呼んだり、薬を注文したりできる。ある調査によると、電話機1台の耐用年数間の総コスト(基地局や交換機を含む)は約2千ドルであるのに対して、電話機1台による生産力の増加は5万ドルに達するという。そして驚くべきことに、最初に貧しかった国ほど、つながりによる生産力の向上が大きい。
いろいろな伝説のせいで、開発援助の善意がぼやけてしまう、とカディーアは言う。たとえば次のような伝説である。貧しい国には資源がない、貧しい人々には自由に使える支出がない、ブランドに関心がない、信用リスクの状態が良くない、など。このような仮定は誤りであることが何度も何度も証明されてきた。そしてまた、グラミン電話もそれを証明した。グラミン電話が打破した重要な伝説は、技術の発展のために政府が補助金を出す必要がある、というものだ。実際には、貧しい人々の生産力を向上させれば、多くのお金を儲けることができる。カディーアが言うように「貧乏人で儲けるのではなく、貧乏人と儲ける」のである。ディナーの席で私はイクバル・カディーアに「グラミン電話であなたが成功した秘訣は何だったのか」と尋ねたところ、「多くの株を持ち続けたこと」という答えであった。
今、カディーアは分散すべき次の技術、すなわち貧困を打ち消す道具となるものをさがしている。彼はMITのレガタム開発・起業活動センターの所長である。この組織は5千万ドル(約50億円)の基金をもとにして設立されたものだ。カディーアはエネルギーが今のように極度に集中して生産される状況を解消することができるかどうかについて研究している。発電所で生み出された電気のうち、送電線の末端の家庭や工場に届くのは、たった10%だけである。たぶん発電を分散させる方法があるはずだ。それは地元レベルでつながりを生むきっかけとなり、彼の構想では、それによって富と民主主義が成長する。もし実現したら、分散エネルギーは豊かな国でも役に立ち、世界のこちら側でも富と民主主義を増強するだろう。
講演の中でカディーアは何度も繰り返していた。「生産力(および富)を増加させるには、つながりを強化すればよい。それだけのことだ。」ジャロン・ラニアーの提案によると、ある技術が望ましいものであるかどうかの判断基準は「つながり」である。その技術が人や場所や物のつながりを増大させるか、それとも減少させるかを自問自答すべきである、とジャロンは言う。つながりを増やす技術は、役に立つものである可能性が高い。今のところ、そうでない例を一つも思いつかない。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/15722362.html
原文:Technologies That Connect
Will We Let Google Make Us Smarter?
『グーグルで人間はバカになるか?』
これはいつも挑発的なニック・カー (Nick Carr) が書いた今月のアトランティック (Atlantic*1) の記事の題名である。カーは自分で認めるとおり心配性である。新しい技術は人間をバカにしてしまうと心配する人は昔から大勢いるが、その長い行列に連なる人である。実際のところカーは、古代の心配性の人々がみんな間違っていたことを示す例をまとめるという良い仕事をしているのだが、自分自身の心配を本気で受け止めるのは困難なようだ。
[*1] http://www.theatlantic.com/doc/200807/google
たとえば、新しい技術で人間がバカになりうる証拠として、彼はドイツの作家ニーチェに関する話を紹介している。ニーチェは晩年、目が見えなくなってペンで字を書くことができなかった。しかしマリング=ハンセン・ライティングボールというタイプライターを使って、タッチタイプ(見えなくてもできる)を習得した。(ところで、この機械は最高にイケてると思う。ここ*2で動画を見てほしい。)
[*2] http://www.xanga.com/thegreatlinguini
しかし……
ドイツのメディア学者フリードリヒ・キットラーは次のように書いている。機械による支配の下でニーチェの文章は「議論から格言に、思想から語呂合わせに、美辞麗句から電報文に変わった。」
彼の文体の変化は機械を使ったことによるものか、それともニーチェ自身が年老いて死にかけていたからなのか?
同様の疑問として、ウェブが大量の短い文を生み出しているのは、カーが心配するように、私たちの精神がバカになってきて長い文章に集中することができなくなったためなのか、それとも、過去にはそんな短い文を大量に作っても利益にならなかったのに、ついに今では短い文という荷物のための輸送手段と市場が現れたのだろうか? 私は前者には懐疑的で、後者のほうが正しい説明ではないかと思っている。
カーはその記事の最初で、自分がグーグルを使っている間はどんなに賢くなるかを描いている。もしカーが正しいとしたら? 私たちがグーグルから離れるとバカになるけれど、グーグルを使っている間は賢くなるとしたら? それはあり得ないことではない。実際には、きっとあり得ると思う。
問題は、グーグルから離れるか、それとも常に使い続けるか、ということだ。
グーグルという人工知能から離れたときに自分本来の知能指数から20点減点されるという罰があったとしても、大部分の人は常にグーグルに接続して知能指数に40点上乗せされているほうを選ぶだろう。
少なくとも私はそうする。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/15988444.html
原文:Will We Let Google Make Us Smarter?
The Bottom is Not Enough
私は"Out of Control"*1(邦題:『「複雑系」を超えて−システムを永久進化させる9つの法則』)という本を書いた。それはボトムアップシステムという強大な力の到来を告げるものであった。ご存じの通り、賢い大衆、巣の精神(訳注:蜂の巣に見られるような集団としての知性)、ウェブの力、素人参加、分権的ウェブ、ネットワーク効果、共同作業などの話である。20年前にこの本は広い範囲にわたって注目すべき事例を網羅した。生物学、技術、文化などの世界では、分権的で統制のないシステムが達成可能である。20年後の今日でも、創発的なボトムアップシステムという潜在的可能性に私はまだ夢中になっている。
[*1] http://www.kk.org/outofcontrol/
しかし私は熱狂的に支持しながらも、ボトムアップだけでは本当に必要なものには十分でないと考えて、称賛を控えめにするよう努めてきた。最良の結果を得るためには、その他にトップダウンの知恵もいくらか必要である。私はいつもそのような意味合いの主張をしてきた。今やクラウドソーシングやソーシャルウェブが大流行しているので、もう一度繰り返しておく価値がありそうだ。ボトムアップだけでは不十分だ。トップダウンも少しは必要である。
ボトムアップやクラウドソーシングや巣の精神に、トップダウンの統制が必要なのは時間のせいである。ボトムすなわち底辺は私たちのせっかちな文化とは異なる時間軸で動いている。
そのような結論に達した理由を説明しよう。私の職業は最初は編集者であり、次に作家になった。優秀な編集者には、トップダウンの仕事すなわち、選ぶ、削る、指導する、勧める、方向づける、そして群衆から結論を導くということが不可欠であると思う。ウェブのごく初期、ワイアード(Wired)が最初の商業コンテンツのウェブサイトを始めたときから、編集者がどれだけの影響力を行使すべきかということは、重要かつ答えのない疑問だった。1990年代初め、私の友人ハワード・ラインゴールド*2(ワイアードのオンラインサイトであるホットワイアード(HotWired*3)の編集長として雇った)のような柔軟な思考をする人物は、編集者不要の群衆に賛成していた。私は編集者を支持する立場だった。
[*2] http://www.rheingold.com/
[*3] http://en.wikipedia.org/wiki/HotWired
ハワードはまったく過激な思想の最先端を行く人で、コンテンツはすべてアマチュアと読者たちによって作り上げることができると考えていた。もちろんこの方法でも多くの良いものができるのは確かだ。しかし、そのようなクラウドソーシングによるコンテンツは出発点にすぎないと思う。当時も今も私は確信しているのだが、編集者―あるいは介在者とかPSL(出版社、スタジオ、レーベル)と言っても良い―は決して消滅することはない。ボトムの仕事の上に、穏やかで賢明な編集者の選択が加わることで、より良いものが得られると私は考えた。それに対して、ハワードは強い声と多くの情熱と書く意欲のある人々に任せるだけのほうがずっと早いと信じていた。今では、そんな人をブロガーと呼んでいる。
当時の私の考えでは、出版社の役割は劇的に変化するが、トップダウンによる選択や誘導の価値は高まる一方であると思っていた。コンテンツの量が拡大するにつれて、いくらかの知的な誘導と選択に対する要求はある人たちにとって価値を増すはずだ。無編集のアマチュア作品は、私から見ればまったくつまらないし、十分に信頼できないものが多い。
それから10年後、ウィキペディアがこの説は誤りであることを証明したのを見て、私ほど衝撃を受けた人はいないだろう。編集者がいなくてもボトムがうまく機能するのだ。ハワードは正しかった。良くも悪くも、いまウィキペディアはボトムアップの力、無編集の知識という分権的頂点、無統制の善良さ、そしてあの有名な巣の精神などの象徴となっている。ウィキペディアはそこに巣の精神があるというだけのものではない。壮大なウェブそのものがあり、また他の集合体、たとえばオタク世界、読者投票、リンク集約、合意形成、オープンソースコミュニティなどを活用し、すべて緩い結合による共同行為という潮流にのっている。
しかし熱心かつ率直に見れば、これらの革新はどれも純粋な巣の精神ではなくて、柔軟な組織の模範と言われるもの―ウィキペディアそのもの―が厳密にはボトムアップとは程遠いということを発見するのに時間はかからない。実際にウィキペディアのプロセスをよく調べてみると、その中心にエリートがいて(エリートの中核が存在することは多くの人にとって初耳だろうが)、見かけ以上に入念なトップダウンのしくみによる管理がなされている。だからこそウィキペディアはこのような短期間で機能するようになったのだ。
柔軟に適応するシステムには時間が必要だが、私たちの時間は限られている。純粋で混じり気のない進化論の欠点は、それが生物学的な時間、すなわち途方もなく長い年月をかけて起こることだ。インターネットの時代に、誰がそんな長い年月を待つだろうか? 誰も待てない。さて、そこでジミー・ウェールズの出番である。
ジミー・ウェールズはウィキペディアの、そして、ボランティア編集者集団の親玉である。この集団は、単純なボトムアップによる進化に比べてわずかな年月で、ウィキペディアを賢いものにするための方法を生み出した。荒らし常習者が記事をめちゃくちゃにするのを防止するために、水も漏らさぬボトムアップの法律的ルールを作ろうと苦労するよりも、スーパー管理者であるウェールズがエリート編集者の助言に基づいて一方的に差し止める。そのネタがトラブルにつながるか無害であるかについて、どんなルールよりも人間の編集者のほうが適切に識別することができる。荒らし防止システムをいじくりまわす無駄な努力のための年月を節約したのである。
ボトムは本質的に無能であると認識することが重要である。生物学的な自然淘汰において主要な役割を果たすのは死である。死が進化的淘汰の原動力となる。死は1個の2値ビットである。オンかオフか。これ以上単純なものがあるだろうか? つまり進化という巣の精神は1ビットの知性によって動いている。だから大きなことをするのに何百万年もかかるのだ。
私たちはあまりに忙しすぎて、純粋な巣の精神を待っていられない。人類最高の技術システムは、知的な計画を導入することによって実現している。トップダウンの管理がシステムを加速し、目標へと導く。ウィキペディアを含む成功した技術システムは、すべてそのようなしくみが組み込まれている。
ただ、新しいことは何かと言えば、最近になってウェブができる以前は、巣のような「群衆性」を持つシステムを作ることができなかった。また、今までの技術は基本的に全てを管理し、全てを計画するものであった。それが今日では、計画性と同時に、非計画性すなわち群衆性を取り入れることができる。計画性や群衆性を合わせれば数えきれないほどの順列組合せができる。それをいちいち確かめている初期の段階がこのウェブ2.0ビジネスの主要部分である。ダイヤルをいじって数多くの組合せを作ってみよう。
(1) 筆者は無能、フィルターは賢明、編集者は不在。
(2) 筆者は賢明、フィルターは無能、編集者は不在。
(3) 編集者は賢明、フィルターは賢明、筆者は不在。
……以下無限に続く。
今日楽しみな未開拓の分野といえば、統制のない創作とトップダウンによる管理とをいろいろなレベルで混合して試してみることだろう。私たちは今まであり得なかったような、可能性が拡大していく空間に突入している。「一人だけよりも全員を合わせたほうが賢い」という第5次元である。何度も言われている洞察(ただし探求する価値はある)は、次のようなものだ。もしすべてを裏返しにして、読者や顧客が管理するようになったら何が起こるか? クレイ・シャーキー*4はそれを「さあ、みんながやって来る!」と表現した。しかし純粋で混じりけのない無能な群衆というのは安易すぎる。おそらくそれは、いろいろな可能性をあらゆる方法で配列した新しい空間のうちで、最もつまらないものになるだろう。より強力でより未知なものは、それ以外の、みんなと誰かとの組合せをいろいろ試してみることである。
[*4] http://www.shirky.com/
トップダウンは必要ではあるけれども、多すぎてもいけないということが時間をかけてわかってきたと思う。編集者の仕事や専門知識はビタミンのようなものだ。あまり多くは必要なくて、大きな体にもほんの少しで良い。多すぎるとかえって毒になったり、あるいはそのまま体外に排出される。しかし適量の知的管理は、無能な巣の精神を活性化するだろう。
でも、もし巣の精神がそんなに無能であるとしたら、どうしてそんなものにわざわざ手間をかけるのか?
なぜならば、それは無能であると同時に賢明でもあるのだ。
さらに重要なのは、野蛮で無能な巣の精神が素材を作り出して、その素材があればこそ、それに対して賢明なしくみが働きかけられるということだ。もし私たちが巣の精神だけに耳を傾けるとすれば、それは愚かなことである。しかし巣の精神をまったく無視してしまうのは、もっと愚かだ。
巣の精神は普通とは異なる時間の尺度で、ゆっくりとした速度で働くのでボトムの下にはさらにボトムがある。大規模なボトムアップの働きによって到達できるのは、少なくとも人間の時間基準で見れば、目的地の途中までにすぎないことにみんな気づいてもらいたい。実際には、百科事典の領域で言えば、私たちは完全に信頼できる記事を必要としている。世界中で最も権威のあるもの、世界中で最も理解しやすいもの、そして世界中で最も新しいものが欲しい。ニュースであれば、今日の問題に関連があるもの、S/N比(信号対雑音比)の良いものが欲しい。研究報告であれば公平不偏でありながら総合的で矛盾のないものが欲しい。そのためには専門的知識が必要である。
専門家がまったくいない状態では、その必要な専門的知識のレベルに到達することはありそうもない。
だからこそ、長期的には、より多くの工夫、多くの統制、多くの体制がどんどんウィキペディアの中に組み込まれていても驚くには当たらない。(シチゼンディウム(Citizendium*5)はそのめざす方向の一つのヒントである。)私の予測では、50年もすればウィキペディアの大部分の記事には編集管理、査読、確認制限、本人認証などが採用されていると思う。私たち読者にとってそれはすべて良いことだ。
[*5] http://en.citizendium.org/wiki/Main_Page
これは異端であることは承知している。しかしウィキペディアのモデルは、普遍的な百科事典を書く以上のことを実現するにはあまり向いていない。他のウィキによるプロジェクト、たとえば教科書を作るとか、生物学の種のリストやサーチエンジンなどは、まだどれも成功していない。おそらくウィキペディアの記事は、偶然にも賢い群衆にちょうど良い長さであり、本というのはたぶん良くない長さなのだ。いずれ結論が出るだろう。
しかし、2006年のウィキペディアのプロセスが、教科書を作ったりすべての生物種の百科事典を作るのに、あるいはニュースを配信するのに最適な方法でないことがわかったとしても、2056年のウィキペディアのプロセスでは多くの工夫が盛り込まれて、それが最適になる可能性がある。編集者が補助する巣の精神は改良されて、今考えるよりもずっと良い教科書、データベース、新聞ができるようになるだろう。こんなことを言うのも同様に異端なのかもしれないが。
私の結論をまとめておく。巣の精神によるボトムアップは、可能だと思われるよりもずっと先まで人間を運んでくれる。この点でいつも私たちを驚かせる。十分な時間さえあれば、無能なものは予想以上に賢くなるのだ。
それと同時に、巣の精神によるボトムアップだけで最終目標に到達することは絶対にない。私たちはそんなに待っていられない。だから、そこに工夫とトップダウンの統制を加えて、私たちの行きたいところに到達できるようにするのだ。
そのようなシステムは混合的創作物となるだろう。それはピアツーピアによる生成という強い根を持ち、高度に洗練された統制機能という株に接ぎ木したようなものだ。ユーザーが作るコンテンツという頑丈で堅牢な基礎と、クラウドソーシングによる革新があれば、ごくわずかな指導力の機敏さがよく発揮されるだろう。混じり気なしの、賢い大衆100%あるいは賢いエリート100%によるプレーなどめったにない。
ネットワーク経済における本当のビジネスの方法と組織とは、「各個人」の集団を束ねること(単純!)ではなく、適切な時にそれぞれのニッチに対してボトムとトップの適切な混合率を見いだすことにある。統制・非統制の混合率はシステムが成長し成熟するにつれて変化するだろう。
出発点から判断すると、巣の精神の無能な力を結集すれば、私たちが夢見るよりもずっと先へ運んでくれるだろう。そして最終目標から判断すると、巣の精神だけでは十分ではなく、さらにトップダウンの一押しが必要である。
私たちはまったく最初の最初に立っているにすぎないのだから、今はまず巣の精神で行けるところまで行くべきなのだ。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/16282081.html
原文:The Bottom is Not Enough
The Maes-Garreau Point
未来の出来事の予測は、現在の状況に大きく影響される。予測がたいてい間違っているのはそのせいである。現在の仮定を乗り越えるのは難しい。時間の経過とともにこの仮定は徐々に崩れて、ついには私たちを驚かせるようになる。みんなが「知って」いたように、人は無料で働いたりしないし、もし働いたとしても質の高い仕事をすることはない。だから、ボランティアの仕事によって信頼できる百科事典を作れるはずがないと一般に考えられていたが、私たちはウィキペディアを見てすっかり驚くことになってしまった。
予測が現在に束縛されるという性質は、目新しいものではない。しかし、予測は見かけ以上に、その予測をする人の個人的生活に依存しているらしい。こんな話がある。MIT(マサチューセッツ工科大学)メディア研究所のパティー・マース*1は、同僚を見てある奇妙なことに気がついた。彼らの一部はシリコンでできた計算機に自分の脳をダウンロードすることに強い興味を持っているのだ。彼らの信念によると、それを実現することができれば、一種の実存的不滅が得られる。推測するに、自分の魂をダウンロードした後は、あるハードウエアから次のハードウエアへアップグレードして移植する、そしてまたその次へ、と無限に続くのだ。
[*1] http://web.media.mit.edu/~pattie/
この奇跡を実現させる技術は、はるか遠い存在のように思われるが、しかし、いつか誰かが世界初の超人的な人工知能を作ったとしたら、この人工知能を使って人間の精神をダウンロードする技術をすぐに開発可能であるのはみんなが認めるところだ。この瞬間は「特異点」と名づけられている。この後に何が起こるのか、想像すらできないからである。しかし、ある人がその「特異点」に到達したとすれば、すなわち、超人的な精神が動作するようになるまで生きていたとすれば、人はダウンロードされて不滅になる。永遠に家が不要になる。そうなるための秘訣は、技術水準が橋の向こうに達するまで生きていることだ。
これに期待を寄せるのは男、そう……男たちである。パティーは、これはいかにも男の願望だと見ている。パティーの仮説によると「女はシリコンの形で生きて不滅を得たいという願望をあまり持たない。なぜならば、女は妊娠と出産を経験することにより、もっと生物学的な方法で『自分の複製をダウンロード、更新、作成』するからである。もちろん子どもの誕生には男も関与するが、女にとって、それは具体的で物理的な経験であり、そのため、より現実的に感じられるのだ。」
それにもかかわらず彼女の同僚たちは、真剣にこの不死へのかけ橋がもうすぐ現れると期待している。それはいつか? 不思議なことに「特異点」がいつなのかという彼らの予測は、彼らが死ぬであろう直前の時期に集中しているようだ。これは偶然の一致なのか?
1993年にオーストリアのリンツで開催されたアルス・エレクトロニカで、パティー・マースは「不死はなぜ死んだアイデアなのか」と題する講演をした。彼女の同僚男性であるロドニー・ブルックス(Rodney Brooks)は、著書 "Flesh and Machines"*2(肉体と機械)の中でその講演の概要について次のように述べている。
[*2] http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/037572527X/
(マースは)人間の意識をシリコンにダウンロードする時期について、公表された予測を見つけられる限り集めて、その予測時期およびその予測者がいつ70歳になるかをグラフに書いた。大して驚くことではないが、その時期はそれぞれで一致した。各人の誕生から70年で、意識を計算機にダウンロードする技術が成熟するというのだ。ぎりぎりで間に合う! 彼らはみんな心の中では、自分は驚異的に幸運で、正しいときに正しい場所にいると思っている。
マースはその講演について書いたり記録を保存したりはしていない。それから14年経つうちに、もっと多くの男たちが、いつ「特異点」に到達すると思うかという予測を公表している。そこで調査員の手を借りて私が見つけた「特異点」到来予測と予測者の生まれた年を集めてその関係を表にしてみた。
今更驚くほどでもないだろうが、事例の半分、とくに最近50年以内のものについてはほとんどが、予測者が100歳まで生きると仮定すれば、自分が死ぬ前に「特異点」が起こると予測していることがわかる。ジャーナリストのジョエル・ガローはその著書 "Radical Evolution"*3(過激な進化)で「特異点」に関する文化的な、そしてほとんど宗教的とも言える信念について報告している。彼はマースが見つけたのと同じ願望に気づいたが、ガローはその願望の対象を他の技術にも広げた。いかにも達成できそうな技術について考えようとするとき、人はそれが近い将来―つまり自分の寿命があるうちにできると思う傾向があると言うのである。
[*3] http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0767915038/
なかなかいいところに気づいていると思う。その直感を一般的な仮説として定式化し、彼らに敬意を表して命名してみた。
ある予測が実現し、かつ、その人の寿命がまだ残っていてそれを実行することができる最終時点を「マース=ガロー・ポイント」と定義する。その時期はその人の余命マイナス1に等しい。
このことから法則が得られる。
マース=ガローの法則:未来の技術に関する最も好ましい予測は、マース=ガロー・ポイントの範囲内にある。
この一般的な法則を検証できるほど他の多くの予測を調べたわけではないが、その妥当性に関しては一つだけ不利な事実がある。特異点でもそうでなくても、私たちが死んだ後の世の中がどうなるか想像するのが非常に困難になってきた、ということである。変化の度合いは加速していて、次の世の中は私たちの時代と同じでないのは確かだ。たぶん想像することすらできない。そうすると、当然、未来を予測するときには、自分自身で想像できるものを考えることになり、その結果として私たちの寿命の範囲内にはめ込む傾向があるだろう。
言い換えれば、みんな自分自身の個人的なミニ特異点を持っている。それは自分が死ぬときである。以前は自分が死んだ後の自分の存在を想像できなかった。今では、自分が死んだ後の誰か他人の存在も詳細には想像することができない。この個人的な特異点以後の世の中は知ることができない。したがって私たちの想像や予測は自分のマース=ガロー・ポイント以前に向けられる傾向がある。
公式な「未来」―はるか彼方のユートピア―というものは想像できない領域に存在するに違いない。ある社会にとっての公式な「未来」は少なくともマース=ガロー・ポイントの先にあるはずだ。すなわち、公式な未来は、その社会を構成する個人の寿命が尽きた後に始まる。
ベビーブーム世代(世界的な現象である)の平均寿命はおよそ80歳である。1950年頃に生まれると、ベビーブーム世代の多くの人は2040年までには死んでいる。しかし、あらゆる強力な出来事は2040年までに起こると予想されている。2040年には中国経済が米国を追い越すはずである。2040年は、「特異点」の予測時期の平均値である。ムーアの法則によればデスクトップ計算機の能力が人間の計算能力に達するのが2040年と予想されている。また2040年には世界の人口がいったん最大となり、その後、環境圧力は減少する。この世界的規模の攪乱要因が収束するのは―驚くことではない―まさにこの世代のマース=ガロー・ポイントの時期、2040年に起こる予定なのだ。
多くの人が望むように、年ごとに私たちの寿命が延びていけば、おそらく80歳を過ぎても生きていられるだろう。そうすれば、私たちのマース=ガロー・ポイントは未来へ向かって移動する。上の表に示した男性の願望―私の願望でもある―は、私たちの個人的なミニ特異点を全体の「特異点」よりも後へ延ばして、永遠に生きることである。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/16576836.html
原文:The Maes-Garreau Point
Where the Linear Crosses the Exponential
フリーマン・ダイソン(Freeman Dyson)は私が気に入っている大局観のある思想家だ。彼は自分の心と電卓の二つを持って世界に立ち向かっている。彼は疑わしい異説を検討することを楽しみ、そこから何か学ぶことができるかどうかを考えている。彼は普通とは違う立場をとってみて、もしそれが本当であるとしたらどうなるかを計算する。その結果の概略の数字が、私たちの知っている何かと一致するだろうか?
最近、ダイソンは地球温暖化という難問について、私の知る限り最も優れた分析を書いた。それはニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス(New York Review of Books)での書評*1という形を借りたものだ。ある現象の物理を計算することで新しい見方を引き出すという彼独特の能力を使って、この「書評」では三つの斬新な見解を示している。
[*1] http://www.nybooks.com/articles/21494
(1) 地球温暖化に対する投機的解決。「強度に炭素を摂取する植物」をバイオエンジニアリングで作ることを提言している。有名なキーリングのグラフに基づく彼の計算では、その植物は10年で余分な二酸化炭素を吸収することができる。私はこのバイオテクノロジーは可能だと思う。ただし、その植物を野生種に移植して、彼の計算で必要だというように地球上の陸地の「4分の1を覆いつくす」ことができるかどうかは疑問である。なぜならばこの変種は(そもそも意図的に)その祖先である野生種と同じようにはふるまったり作用したりしないからである。その植物はより多くの炭素を凝集させるという、まさにその点において明らかに異なっている。おそらくこの強力な炭素植物を大規模に農産物として栽培するのならば、うまく働くだろう。しかしこのような投機に到達するとは、この問題に対するダイソンの考えはおもしろい。
(2) さらに興味深いのは、他の人があまり気づいていない新しい世界的な宗教について、優れた説明をダイソンが書いていることである。私はこれについてダイソンが100%正しいと思う。
世界的規模の世俗的宗教がある。それは環境保護主義とでも呼べばよいのだろうか、私たち人間は地球の管理人であり、贅沢な生活による廃棄物でこの惑星を汚染することは罪悪であり、そして、できるだけ質素な生活をすることが正しい道であるという考え方である。世界中の幼稚園や学校や大学で、環境保護主義の倫理を子どもたちに教えている。環境保護主義は社会主義にとってかわって、主要な世俗的宗教の地位を得た。そして環境保護主義の倫理は、基本的には妥当なものだ。野生の生息地を非情に破壊するのは悪であり、鳥や蝶を大事に保存するのは善であるということには、仏教の僧侶やキリスト教の活動家だけでなく、科学者や経済学者も賛同する。世界的な環境保護主義者のコミュニティー(その大部分は科学者ではない)は、高い道徳的基盤を持ち、人間社会を希望に満ちた未来へ導こうとしている。環境保護主義は、自然に対する希望と敬意の宗教として定着している。それは地球温暖化が有害だと考えるかどうかにかかわらず、私たちみんなが共有できる宗教である。
(3) しかしより重要なことは、そして彼の論文が長期的思考に関して注目すべきであるのは、ダイソンが世代間の思考における重要な問題について素晴らしい明快さで説明していることだ。将来の繁栄を確保するために、現在の世代が今日どれだけの「罰金」を払わなければならないか? この疑問に対するダイソンの説明は次の通り。
2010年に1ドル使って排出を減らすことにより、2110年に気候変動で生じる損害をMドル節約できるとする。Mがいくらであればその支出が価値あるものなのか? すなわち、経済学者の言い方をすれば、排出減少に現在の資金を投資することによって、気候変動による将来の損失をどれだけ減少または「割引」できるか?
これは「将来価値の割引」と呼ばれている。長期的なプロジェクトでは必ずこの計算に直面する。
この疑問に対する従来の経済学者の答えは、2010年において世界経済にドルを投資したとして、平均利率による100年の複利計算で2110年に期待される収益に対して、Mはそれよりも大きくなければならないというものである。たとえば、1ドルを平均4%の利率で100年間投資したとすると、その価値は54ドルになる。これは今の1ドルが100年の時間を経過したときの将来価値である。したがって、地球温暖化と戦うためのある特定の方策に今投入する資金1ドルにつき、100年後には温暖化による損害を54ドル以上減少させる必要がある。そうでなければ社会にとって経済的便益の増加が発生しない。たとえば二酸化炭素の排出に課税するという方策で、もし仮に投資1ドルにつき44ドルしか見返りがないとすると、その方策を採用することによる便益は、そのために費やされる費用を下回る。しかしその方策で投資1ドルあたり64ドルの収益があるならば、それが有利なことは明らかである。そうすると問題は、地球温暖化に対するいろいろな方策で、長期的な便益が現在の費用を上回るようにできるかどうかということになる。
長期的な計画を立てるときには、将来に対する割引率を選択することが最も重要な決断である。割引率は、資金が将来へ向かって遠ざかることによって現在価値が減ると見込まれる損失の年率である。
ここでダイソンは地球温暖化の問題に戻ってくる。彼が書評を書いている2冊の本、スターンの著書とノードハウスの著書では、将来の割引率についてそれぞれ対立する見方が示されている。
スターンの見解では、割引は現在と将来の世代間で不公平を生じるから倫理に反する。すなわち、スターンは割引が将来の世代に過剰な負担をかけると考えている。また、ノードハウスの見解では、現在の世代が節約した1ドルは100年後の我々の子孫にとっては54ドルの価値があるのだから、割引は公平である。
この板挟み状態を別の形で言い換えることもできる。何百万人もの人を今日の貧困から救うことができるならば、たくさんの石炭を燃やしてもかまわないだろうか? それとも、いま燃やす石炭を少なくして、貧困の緩和を先延ばしするのか? 今日の繁栄と汚染が将来の世代に多くのものをもたらすか、それとも今日の環境の健全性と貧困を選ぶほうが将来に多くのものを残せるか? もしあなたが将来の世代として生まれたとしたら、どちらを望むだろうか? 貧困の中に生まれるか、それとも汚染のない世の中に生まれるか?
繁栄と健全性、両方を次の世代へ残すべきではないのか? たしかに、それが最終目標ではある。しかし将来価値の割引に関するダイソンの説明で明らかなように、必ずトレードオフがあるのだ。当然のことながら、現在の世代と将来の世代を両方とも完全に満足させることは不可能である。それぞれの要求(現在と将来)は一部重複するかもしれないが、すべて一致することはない。
個人には非常にはっきりとした時間選好がある。ほとんど例外なく、人は今から50年後に千ドルもらうよりも、今日、千ドルもらうほうが良いと思う。しかし今日の千ドルと50年後の3万ドルの選択であれば、好みは分かれるところだ。その両者の違い(現在と将来)が利息と呼ばれるものの原因である。ある物をいま手に入れるために支払う金額である。ある人は現在の利益のために多く払いすぎて、その利息を払えない状態で行き詰まっているかもしれない。だから、利率および将来に対する割引率は賢明に決めなければならない。
社会にも時間選好があるように思われる。すべての条件が同じであれば、後からよりも、現在の繁栄を望むようだ。いま恩恵を得るために、どれだけの額を払うつもりがあるか? 大気汚染や気候変動の対価を払うか? 現時点の繁栄を得るための長期負債を払うか? 人間社会は払うだろう。払いすぎるくらい払おうとするだろう。今の繁栄に対する「利率」は、将来の世代が返済できないほどになるかもしれない。
さらに、技術の圧力のせいで、将来価値の割引に関する奇妙さがより強くなる。あるプロジェクトでは、遅れのために将来の費用が大きく増加する。道路や橋などのインフラストラクチャーの維持を遅らせると、老朽化がさらなる老朽化を招くので、それを改修するのにますます多くのお金が必要になる。放棄は自己加速的に進行するので、本当に放棄されたものを修理するのは不可能なほどの高額になる。その一方で、ムーアの法則を考えてみよう。計算機が将来にわたって毎年、値段は半分、速度は2倍になるとしたら、複雑な計算を要する難問を先延ばしにするのは妥当である。多くの生物学者は人間の遺伝子解読を延期することが経済上合理的だと提言した。何年か待って技術が進化すれば、やがてそれは安くなって、効率や速度は毎年2倍になるのだから、早く始めた人を追い越すことができる。つまり待つほうが安くて速いのだ。
進化し続けるシステム(エクストロピック・システム*2) ― 経済、自然、技術 ― はすべて自己加速的なフィードバック・サイクルで支配されている。複利計算のように、あるいは好循環のように、見返りが次々と増えることによって動いている。成功が成功を生む。わずかに増加していくロングテールがあって、サイクルごとに2倍になることを続ければ、見えないくらいの微少なところから一気に重要な位置に飛び出してくる。また、エクストロピック・システムは同様に自己加速的に崩壊する。一つの減少がきっかけとなって他の多くの減少が起こり、悪循環に陥ってシステム全体が破滅する。私たちが将来を見るときの見方は、このような指数曲線のためにゆがめられ、欺かれている。
[*2] http://www.kk.org/thetechnium/archives/2004/11/cosmic_origins.php
しかし進歩が指数関数で増加するとしても、私たち個人の生活は一次関数すなわち直線的に進んでいる。私たちは一日一日を生きている。年を取るにつれて時間は早く進むように感じるが、実際には同じ調子で着実に進んでいる。今日という日は将来のいつかある日よりも貴重だ。自分にとってはその将来の日が得られるという保証はないのだから。文明についても同様である。直線的な時間の尺度では、将来は損失である。しかし人間の知性や社会は時間とともに向上していく。その向上を好循環の中で複利計算すれば、この次元では将来は利益である。したがって長期的思考によれば、直線と指数関数の交点が生じる。時間が直線的に進むにつれて、多くの指数関数的な力が上昇したり下降したりするのと次々に交差する。また、世代も直線的順序で進んでいく。ある世代から次の世代へと着実に進む。複利的に循環する指数関数的な変化に押されながら。
直線と指数関数が交わる点のバランスは、長期的思考の対象とすべきことである。世代ごとに、そして問題ごとに、その交点は異なっているだろう。あるときには今即時の必要性が優位であって、割引率は現在に有利になる。たとえば幼児期にワクチンや抗生物質を連用するのは長期的には良くないことであるかもしれないが、現在の世代にとっての価値は非常に大きいので、私たちはその費用を将来にゆだねることに同意している。後の世代はその代価を支払うか、または、指数関数的に向上した知識と資源を使って、より良い薬を発明して問題を解決しなければならない。また別のあるときには、私たちの世代が高い割引率を設定して、将来の世代が多大な利益を得ることもある。今すぐには利益がなくても始めたことが、後に指数関数的に成長する場合である。たとえば、どの社会においても女子を教育することによる利益は非常に大きい。その効果は複利計算で増加し、いろいろな方法で多くの世代にわたって利益になる。そのための費用が高価であっても、文化的な抵抗があっても、そしてすぐに利益が得られなくても、今、費用を払うだけの非常に大きな価値がある。この場合には、費用の閾値が現在に引き寄せられている。
この「費用/便益/リスク」の閾値に関する文明の各分野ごとのスケジュール、あるいは私たちの直線的な生活が指数関数的な変化とどこで交差するかを示す地図、そのどちらかでもあったら非常に便利だろうと思う。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/16786376.html
原文:Where the Linear Crosses the Exponential
Neo-Amish Drop Outs
伝説的な計算機科学者ドナルド・クヌース*1は、以前は電子メールやブログを利用していたが、今はやめてしまった。(たぶんPDAも、そしてブラックベリーのようなスマートフォンも使わない。)ウェブページはまだ持っていて、電子メールを使わない理由をそこで明言している。彼は「物事の最先端にいるよりも、最後尾にいるようにしたい。」と私に言っていた。それで即時の通信から撤退したというわけだ。
[*1] http://www-cs-faculty.stanford.edu/~knuth/email.html
ラインホルト・グレーター*2教授はオンラインのニューメディア・アーティスト・カタログ*3を主宰していて好評だった。それは超人的な努力の賜物で、無名であっても必要不可欠なリンクを何百件も集めたものだった。ところが彼のウェブサイトには突然このような通知が掲示された。「2003年にインターネットを捨て、2006年には携帯電話のネットワークを捨てたので、私のネッツヴィッセンシャフト(ネット学)のリンクページは完全に時代遅れになってしまった。もう、お別れの時が来た。」彼のオンラインでの人格は消滅した。
[*2] http://www.netzwissenschaft.de/index.html
[*3] http://www.flong.com/texts/lists/grether_list/
多くの人は、電子メールやらブログやらツイッターやら、その他いろいろ詰め込みすぎて不満を言っている。しかし不満を言う人が究極の論理的解決に至る、すなわち全部やめてしまうことはほとんどない。
メディアにどっぷり浸かっていたのに撤退してしまったという人に私は興味がある。部分的にではなく、時々ではなく、休暇中でもなく、インターネットから完全に撤退した人だ。今、彼らは幸福だろうか? ドナルド・クヌースは幸福で生産的なようだ。他の人たちはどうしているのだろうか? 爆弾魔ユナボマーみたいに世捨て人になっているのか? 同好の士が集まってコミュニティーを作っているのか? あるいは、インターネットから撤退する人はごくわずかで、単なる統計的異常値にすぎないのか?
伝統を守り続けるアーミッシュのことは知っているが、ここでは数には入れない。なぜならば彼らは一度もネットに接続したことがないのだから。私が関心を持っているのは、ネオ・アーミッシュの撤退者たちである。(ミートアップというSNSにネオ・アーミッシュ*4のグループがあるが、私はそれ自体が不適格だと思う。)
[*4] http://www.meetup.com/members/3114095/
注目すべき撤退者がいれば、コメント欄に書いて欲しい。そしてリストを更新していきたい。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/17223180.html
原文:Neo-Amish Drop Outs
Wagging the Long Tail of Love
セス・ゴディンは、クリス・アンダーソンの「ロングテール」*1という考え方について研究している。よく誤解されるこの概念に対して、いつものようにセスは明快に解説する。彼は最近、ロングテールには三つの「利益のポケット」があるという分析を投稿した*2。そこにはこんな図が示されている。
[*1] http://www.amazon.com/dp/1401302378
[*2] http://sethgodin.typepad.com/seths_blog/2008/07/the-long-tail-t.html
セスによる(そして他のほとんどの人も)ロングテールの説明には、明らかなどんでん返しがある。グラフ上のポケット1では、セスは作品の創作者の観点で論じている。グラフ上のポケット2でも、同じく創作者の視点である。しかしロングテールになると、創作者から切り替わって、他の創作者の作品を集積する業者の観点で論じるようになる。それはなぜか? 創作者はどうなったのか? ロングテールという「利益のポケット」の話になると創作者が脱落するのは、ロングテールは創作者にとっては利益が出ないからである。その採算性は視聴者と集積業者だけのものなのだ。
私が疑問に思うことはもう一つある。セスはその前の投稿で「ロングテールの中にあるフラクタルのロングテール」(すべての物にはそれぞれにロングテールがある)と述べていたが、それは、自分にとってのニッチの中であってもできるだけ先頭の近くにいたいということ以外に、役に立つものなのかどうか。それは頭を使うほどでもない、簡単なことだ。集積業者になることは、創作者にとっての選択肢ではない。私の知るかぎりでは、自分自身の作品を集積するだけで、十分な量の新しいものを作り出せるほどの生産力のある創作者はほとんどいない。集積業者と創作者とは本質的に異なるものだ。
したがって境目を通って ― ショートヘッドからロングテールへ ― 移動するときには、集積業者の視点から見るのか、または創作者の視点から見るのか、首尾一貫していなければならない。その両者を混同するのは誤りだと私は考える。
私はこの問題としばらく格闘してきたが、次のように考えるに至った。私が見るところ、創作者にとってロングテールの唯一の利点は、今まで存在しなかったロングテールの領域を集積業者が開発あるい創出できるということである。セスが作ったスクイドゥー (Squidoo*3) のように。スクイドゥーやアマゾンやネットフリックスが出現する以前は、今これらの業者が流通させているような多くの創作物のための市場はまったく存在しなかった。ロングテールの集積業者が創作者に示すことができる提案は、重大だが単純である。ごくごくわずかなニッチの視聴者(と微少な利益)か、それともまったく視聴者がいないか、の選択である。ロングテールが広まる以前は、あなたが書いた「紅海産の観賞魚を飼育する方法」という名作にお金を払うファンは一人もいなかった。今なら100人くらいはいるかもしれない。
[*3] http://www.squidoo.com/
100人の読者や視聴者は経済的ではない。そんなに少ない購入者では、継続的に創作するための利益を上げ続けるようなビジネスの方程式はない。(もちろん創作よりも上のレベルで、集積事業を支援することはできる。)しかし、ロングテールのニッチな創作が完全にうまく働く場合がある。情熱、熱意、執念、好奇心、仲間意識、愛、そして贈与経済の領域である。精神的なエネルギー、励まし、人生の意義、生きる理由などをやりとりして、ロング・ナウ(長期的思考)が得られる。
これは利益については正しくない。経済上は、ロングテールが延びれば、視聴者の限られた注目と競合するものがより多くなり、創作者が作品を売って利益を得ることがより困難になる。すなわち、テールが長ければ長いほど、売上は悪化する。しかしロングテールは異なる種類の市場だと見ると、つまり熱意とつながりの市場と見れば、ロングテールが延びるにつれて、二人の熱狂者が出会う可能性が高くなるので、テールが長ければ長いほど良い。グラフ上の最初の二つのポケットは、利益を最大化しようとする。最後のロングテールというポケットは、情熱とつながりを最大化しようとする。
ロングテールにはさらに間接的な長所がもう一つある。あなたの創作物が市場に(今までは存在するはずのなかった場所に)存在しているのであるから、もしも幸運であれば、アップテールへ向かって移動し始める可能性もある。創作力があれば、ロングテールの経済的低迷から抜け出して、グラフ上の2の領域、すなわち千人の忠実なファン、その他、中くらいの成功が存在する位置に移動できるかもしれない。私が「千人の忠実なファン」(第2章)で論じているように、これが創作者として目指すべき位置である。セスはこれを「利益の出る成功したニッチの作品」のポケットと呼んでいる。私はそれに賛成する。ポケット1ではなくて、このポケット2が目指すべき位置なのだ。
しかしグラフ上の1および2の部分と同じ測定基準 ― 創作者にとってのドル価値 ― に従って3の部分を公平に評価するならば、ロングテールは利益の砂漠である。このポケットを追求することが意味あるものになるためには、切り替えが必要である。ポケット3では、支配者である集積業者の視点で見ることに切り替えるか、あるいは、この領域は別の経済、すなわちドルで動くのではない経済だという見方に切り替える必要がある。
言い換えれば、スクイドゥーやアマゾンやネットフリックスは、利益の出るロングテールをとても幸福なものにしている。しかしその幸福なロングテールは創作者を幸福にはしない。
私はロングテールというのは異なる動物のテール(しっぽ)であると考えている。私たちはテールの根もとにある、見えない存在の認識を誤っていた。「商業的利益という野獣」のロングテールではない。そうではなくて「愛というドラゴン」のロングテールなのだ。創造や制作、つながり、説明できない情熱や差別化などへの愛、あるいは人間にとって重要な行為に対する愛、そして、つながること、与えること、学ぶこと、創造すること、共有することへの愛である。
重要なのは、私たちがどちらのテール(しっぽ)を振っているのか知ることである。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/17312765.html
原文:Wagging the Long Tail of Love
Affluence is Good
人間は最低水準の生活ができるようになると、より多くのお金がより多くの幸福をもたらすわけではないというのが、過去30年にわたって一般的な考え方であった。ある一定限度以下の収入での生活では、より多くのお金があるほうが意味があるけれども、それ以上のレベルでは、お金では幸福を買えない。これが、今では古典となっているリチャード・イースタリンによる1974年の研究成果であった。
ところが最近、新聞紙上でその結果に対する議論があり、豊かさは世界中でより多くの満足をもたらすという結果を示している。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)は素晴らしいグラフとともに、「結局はお金で幸福を買えるらしい」("Maybe Money Does Buy Happiness After All"*1) という良い記事を書いて、この新しい主張を解説した。リチャード・イースタリンは年月を経て国別に集計された良いデータを見たいと思うだろう。しかし、そのデータからは、豊かさが満足をもたらすように見える。
[*1] http://www.nytimes.com/2008/04/16/business/16leonhardt.html?_r=1&ref=todayspaper&oref=slogin
この調査に対する私自身の解釈は、お金がもたらすのは、ただ単により多くの物というのではなく、より多くの選択である(その中には多くの物も含まれてはいるが)。私たちは多くの道具や経験に幸福を見いだすのではない。私たちは自分の時間や仕事を管理すること、本当の余暇を持つ機会、戦争や貧困や堕落などという不確実性からの脱却、個人の自由を追求する機会などに幸福を見いだす。これらはすべて、より多くの豊かさから得られるものである。
私に断言できるのは、豊かさには多くの代償が必要であるが、あらゆる人にとっての豊かさが、多ければ多いほど良いということだ。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/17482223.html
原文:Affluence is Good
People Want To Pay
たしかに、あらゆる物が無料になっていく。だが私の経験では、みんなはお金を払いたいと思っている。本当に思っている! 大衆としての人々は、無料の物を手に入れようとする。お金を払ってまで触ろうとしなかった物でも、無料なら試してみる。概して大衆は最低の価格にいつも惹きつけられる。無料より安いものがあるだろうか?
でも、でも、自分の好きな作品やサービスの作者に対してお金を払うのに都合がよい手段があったとしたらどうか。支払いには、次のような意味がある。
1.つながるための方法。
2.賛同のしるし。
3.人気投票。
4.作者への忠誠を示す。
5.後援することは支払者にとって気分が良い。
人は物を買うが、私たちが本当に欲しいものは結びつきである。支払いは結びつきの基本的な形だ。非常に原始的だが、実際的な。
この支払いへの欲求について、いくつか注意しておこう。
支払いは、きわめて簡単で誰にでも操作でき、円滑でなければならない。障害となるものがあってはならない。支払いが容易であればあるほど、支払おうとする意思が強くなる。
価格は妥当でなければならない。妥当というのは、無料の同じような物との関係においてである!
支払いによる便益は、明白で、透明性が高くなければならない。創作のための創造力と意思伝達の作用が求められる。支払いの便益が明らかでなければ、支払いは困難である。無料に対抗する便益については、「無料より優れたもの」(第1章) という私の記事での提言を参照されたい。
支払い欲求が存在するという証拠はあるだろうか? 私は最近、英国音楽著作権協会 (British Music Rights) (すなわち音楽家と音楽出版社の代表である) が実施した、英国での調査*1を見つけた。その調査はファンがお金を払いたがっていることを示している。この調査によれば、回答者たちが望んでいると思われるのは、DRM(デジタル著作権管理)のない無制限のダウンロードサービスであり、月額料金を払ってそれを合法的に利用できることである ― そのような支払い方法は今存在しないが。
[*1] Survey: young people happy to pay for music?on their terms
人はそれが簡単であり、公正であり、有益であれば、喜んでお金を払うものである。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/17544273.html
原文:People Want To Pay
A Trillion Hours
ウェブはずいぶん大きい。グーグルの研究者は自分たちがどれだけのページをインデックスに登録しているか言ってくれないが、最近、グーグルは同社のウェブ調査でウェブには1兆を超える独立したURL*1が存在することがわかったと発表した。何を独立したページとして数えるのか判断が難しい。なぜならばグーグルも説明しているとおり、たとえばウェブカレンダーのようなサイトでは、「次の日」のリンクをクリックすると無限個のページを生成することができるからだ。いちばん最初に公開されたウェブページ*2は、1991年8月に作られた。だから私たちは(集団としての人間は)6200日の間に1兆ページを作ったことになる。
[*1] http://googleblog.blogspot.com/2008/07/we-knew-web-was-big.html
[*2] http://en.wikipedia.org/wiki/World_Wide_Web
6000日前の1991年という昔に、―あるいは10年前の1998年でさえも― こんなに早くウェブページが1兆もの数に達するとは誰も考えていなかったに違いない。さて、明らかな疑問は、誰がそれだけの費用を払うのか、そんなことをする時間が誰にあるのか、ということである。
1兆のページを作るのには、多くの時間がかかる。1ページを作るための調査、構成、デザイン、プログラミングに、控えめに見て平均1時間かかるとすれば、ウェブには少なくとも1兆時間の労働が含まれている。過去15年で消滅したウェブページもまた1兆あると考えて、たぶんその2倍の時間と言っても良いのだろうが ― まあ、それはやめておこう。
1兆時間は1億1400万年である。もし一人の人間がウェブの作業をしていたとすると、現在の状態に至るためには、その人は白亜紀の昔から始めなければならない。しかし同時に作業するなら、1億1400万人が1年間不眠不休で働いて1兆のURLを作ったことになる。最も熱狂的なウェブ管理者でも時々は眠るのだから、作業時間を減らして1日あたり8時間、すなわち1日3分の1とすれば、このウェブを作るために1億1400万人が3年間フルタイムで働いているわけだ。これは3億4200万 人年 の作業に等しい。
しかし私たちは15年でこの壮大な作品を築きあげたのだから、2280万人のウェブ作業者がこの15年間フルタイムで働いたことになる。一見すると、これは思ったよりずっと多そうである。
この莫大な仕事のかなりの部分は、無料で行われている。過去に私が計算したところでは、ウェブの40%が非商用目的で作られている。ただし、これには政府や非営利団体を含んでいて、そのような組織では作業者にお金を払っている。私は、ウェブの80%が報酬を受けて制作されていると推測する。(もし、もっと良い数字をご存じであれば、コメント欄に書いて欲しい。)そうすると、2億4200万 人年 の80%として、2億7300万 人年 の給料が払われたことになる。この給料はどれだけの値段なのだろうか? 言い換えれば、現在のウェブの再取得原価はいくらか? もしもすべてのバックアップ・ハードドライブが消滅して、2兆ページのウェブを再構築しなければならないとしたら、その費用はいくらになるか? あるいは、また別の言い方をすれば、「一つのマシン」(訳注:地球上のネットや通信システム全体をあらわすケヴィン・ケリーの用語)の内容を作り直すのに要する費用はいくらか?
大特価で年俸2万ドルとして計算すると、その費用は5兆4千万ドルになる。この給料の額をもっと現実的なものにする必要があると考える人は、この数字に何らかの係数を掛けるなり割るなりすればよい。ウェブページのコンテンツを制作するのに要する時間は、平均して1時間より少ないかもしれないし、それより多いかもしれない。しかしこの数字の桁数は、ほぼ正解に近いと思う。
ウェブの最初の6千日で、私たち1兆時間を投入し1兆ページを作った。さて、次の6千日で何が起こるだろうか?
初出:http://memo7.sblo.jp/article/17811192.html
原文:A Trillion Hours
Another One for the Machine
計算機はチェスやチェッカーを習得して、人間の最強選手も打ち負かすようになった。今では安い電子ゲームやオンラインの対局でも、たいていの普通の人間には勝つことができる。しかし囲碁*1という古来のゲームは技術者たちの努力に長い間対抗してきた。人間の囲碁の名手に勝つ囲碁コンピュータを作るという努力に。一部の囲碁ファンたちは、計算機が人間の名手を打ち負かすことは絶対に不可能だと信じていた。着手可能な手の組合せの数は、囲碁ではチェスに比べて断然多い。またチェスで使われる力ずくでしらみつぶしの探索よりも、囲碁ではパターン認識がずっと重要視されている。囲碁に勝つというのは、人間だけに達成可能なことだと思われていた。
[*1] http://en.wikipedia.org/wiki/Go_(board_game))
それは違う! 先週、2008年8月7日木曜日、MoGo*2(モゴ)というソフトウェアプログラムが米国の(訳注:実際には韓国人)プロ棋士に勝ったのである。そのソフトウェアは借り物のスーパーコンピュータ(800個の4.7GHzプロセッサ、15テラFLOPSの演算能力)で実行した。米国囲碁協会*3によれば、MoGoはキム・ミョンワン八段に勝ったという。この対局ではプロと同じ19路盤を使用したが(今までの計算機の勝利は、ほとんどがもっと小さい9路盤によるもの)、キムは最高位のプロ棋士(九段)ではないし、また計算機には9子のハンディキャップが与えられていた。キムは他の2局では勝っている。対局後、キムはMoGoは2段から3段くらい*4だと評価した。
[*2] http://senseis.xmp.net/?MoGo
[*3] http://www.usgo.org/index.php?%23_id=4602
[*4] http://en.wikipedia.org/wiki/Computer_Go
それでも、囲碁はチューリング化(第3章)されてしまった。自動車の運転もチューリング化されている。人間の認知活動のうち、計算機には不可能だと普通の人が考えるもののリストは、ごくわずかになってきた。
芸術を創造する。小説、交響曲、映画を創作する。
会話をする。
冗談で笑う。
一般に人々が計算機にはできないと思っていることは、他にあるだろうか?
初出:http://memo7.sblo.jp/article/17939331.html
原文:Another One for the Machine
Why People Pirate Stuff
無料の世界では、規範意識がむしり取られている。そう、近ごろでは多くの製品やサービスが意図的に無料で提供されているのだが、かなりの消費者は無料でない物についても、違法な無料版に引き寄せられている。値段の張るデジタル製品の無料版を非合法のファイル交換サイトで見つけるのは難しくない。あるいは断片的にはユーチューブ(YouTube) のような正規の集積サイトにもある。高価な商用ソフトウェアのように値段の高い品物の大部分は、事実上無料で手に入れることができる。しかし非常に安い物でも同様に、無料の海賊版が横行している。
なぜ人々は安価なデジタル製品に対して海賊行為を働くのか? なぜキャンディーを盗むのか? ゲーム開発者クリフ・ハリス (Cliff Harris) はオンライン世界に向かってこのような疑問を投げかけた。クリフのゲームは、彼の考えでは非常に手頃な20ドルという価格である。それでもそのゲームは常に海賊行為に遭っている。どうして? 彼は自分のビジネス手法を変更する必要があるのかどうか、本気で知りたいと思った。そこで大いなる群衆に問いかけた。「なぜ人々は私のゲームに海賊行為をするのか?」善悪の判断ではなく、ただの質問である。彼の疑問は、スラッシュドット、ディグ、アルステクニカなどブログ界に広く転載された。そして何百何千もの回答があり、いずれも100語以上にわたる長文であった。クリフは「多くの人がゲーム開発者に対して、この質問に回答する機会が来るのを長い間待っていたかのように思える」と言っている。
クリフは回答の中に、ある傾向を見いだして驚いた。最も多かった反応は、彼のゲームは(そしてゲームは一般に)購入者が得るものと比べて高すぎる ― たとえ20ドルでも ― という一般的な感情だった。そして次に多い意見では、ゲームの購入やプレー開始を面倒にしているもの、たとえばコピー防止、DRM(デジタル著作権管理)、2段階のオンライン購入手続など ― ゲームをしたいという衝動とゲームをすること自体との間に存在する障壁は、とにかく何でも、無料の手段に走ることを正当化する理由にされてしまっている。なお、イデオロギー的な動機(資本主義や知的所有権あるいは作者に対する反感、またはアウトロー気取り)は決定的に少数派だとハリスは言う。
ここが彼の立派なところだが、質問に対する率直な回答を見てハリスは考えを改めた。彼はビジネスモデルを変える決心をした。まず、ゲームの価格を半額(10ドル)にした。今まであったDRMコピー防止をやめた。ウェブストアを使いやすいものにすると約束した。たぶん、1クリック精算も使えるようになるだろう。無料デモ版をもっと長いものにすることにした。最も重要なことは、ゲームの品質をもっと向上させる必要があるという新事実を知ったことである ― たった20ドルの価値のゲームではあるが。ハリスは次のように書いている。
私のゲームはできる限り最高のものではなかった。皮肉にも、ゲーム創作においてさらに1マイル先へ進む熱意を失わせていたのは、一つには、何千人もの恩知らずなバカどもが、発売初日に無料で全部コピーしてしまうという思いがあるからだった。それはとてもやる気を失わせる。しかし、実際に海賊たちと話し合ってみると、非常に多数の人々が正真正銘の良いゲームを正当に評価していることがわかった。私のゲームに対する批判のいくつかは、痛いところを突いていた。私の印象では、クドス2(Kudos 2)を前作よりもただ良くするだけでなく、大いに、圧倒的に、とてつもなく良くて、洗練されて、うまく設計された、そして調和のとれたものにすれば、多くの海賊志願者たちが実際にゲームを買ってくれるようになると思う。以前は海賊のせいでやる気をなくしていたが、今度は本当に彼らに触発されるようになった。そしてゲームを面白く洗練されたものにするため、私は今まで以上に熱心に仕事をしている。
最後のお話は、みんなが私のゲームを簡単に買えるようにすることだ。私は自分の決済代行業者にアマゾンの1クリック方式を採用させようと本当に頑張っている。私の考えでは、そのほうがゲーム配信サービスの「スティーム」よりもずっと便利だ。ゲームをなるべく迅速かつ容易に買えるようにするために、私はいつも努力している。
ハリスの記事「海賊との対話」("Talking to Pirates"*1)はたった1ページの文章だが、一読に値する。ハリスの路線変更が売上を促進するかどうか見届けるのは非常に興味深い。ハリスがこの素晴らしい行動を貫徹して、来年にはその結末を投稿してくれることを私は期待する。
(レベッカ・ブラッド Rebecca Blood*2の情報提供に感謝する。)
[*1] http://www.positech.co.uk/talkingtopirates.html
[*2] http://www.rebeccablood.net/
初出:http://memo7.sblo.jp/article/18267373.html
原文:Why People Pirate Stuff
Technology, The Movie
人はみなスターとして生まれてきた。人は誰でも隠れた才能、新しい洞察力、潜在的な経験などをその人独自の形で発達させる。同じDNAをもつ双子でも、人生の可能性は同じではない。
人が自分の一連の才能を最大限に発揮するとき、その人は輝いている。なぜならば他の誰も同じことはできないからだ。真似できない、それが大切である。実はそれがスターという意味なのだ。ただし、誰でもがブロードウェイで歌ったり、オリンピックで競技したり、ノーベル賞を受賞したりするということではない。これはスターになるための陳腐な三つの方法にすぎない。そもそもこのような機会は限られた人だけのものなのに、それをみんなが成功するための目標にするという誤りを犯している。実際には、そのような有名人やスターの立場は、誰か他の人が勝利した方法による監獄であり、拘束具である。セレブは自分の成功を多くの他人たちに真似させようとしている。そしてそのファンは他人の映画の中でスターになろうとする。当然のように、たいてい彼らは失敗する。
いくつもの伝記を読んで気がつくのは、多くの人が人生の大部分をかけて、自分の映画がどんなものかをさがしているということだ。誰か他の人の映画に自分を出演させるのであれば ― とくにその他人が今まさに人生を楽しんでいる場合には、それは非常に容易なことだ。でも、本来の自分自身になることのほうがずっと楽しい。何かを成し遂げた人は魅力的だ。自分自身になるための独自の方法を見つけているからである。この過程を省略して、今楽しく充実している人の真似だけをしたらどうなるか? やがてあなた自身の映画は止まってしまう。真似しようとする対象が尊敬すべき偉大な人であるとき、本当に恐ろしい誘惑がやってくる。そんな有名人志願者にとって、野望と不誠実の衝突が避けられないのは非常に悲しいことだ。自分自身の映画でスターになれば、あなたは他の誰にも似ていないはずなのに。
自分自身の映画でスターになるのは世界で最も容易なことだが ― そして、容易であることは、あなたが正しい映画に出演しているという良い目安でもあるが ― そもそも自分の映画を見つけ出すということがきわめて難しい仕事である。それは自分一人ではできない。外から見た他人の視点とフィードバックなしに、自分の才能を現実的に見極めて育成することができる人はめったにいない。その他人には、敵も味方も含む。実際のところ、他人はそのためにある。しかし他人の意見に耳を傾け過ぎると、他人の映画に巻き込まれる。彼らはあなたをエキストラとして出演させて、喜んでいるだろうけれど。
他にも障害がある。時には自分の才能が近くにいる人 ― 親や兄弟など ― に類似していることがあって、自分を独自なものとして認識するのに多大な判断力が必要となる。父や母に見られるのと同じ特質を私たちは本当に持っているのか? その特質が本当に自分にあるのかどうか調べるために、検証し、試行し、観察し、調査し、実験しなければならない。その過程が人生と呼ばれるものだ。
しかし自分の映画がどんなものであるかは、まずその映画を作ってみないとわからないというところに本当の難しさがある。自分の映画は既製品としてそこに存在するのではなく、どこか書類入れの中に隠れている。私たちは自分がスターを務める映画を作らなければならない。自分で作るのだ! 最も難しいのは、物語の結末がわかる前に台本を書かなければならないということだ。さらに悪いことに、この映画に出てくるエキストラたちは、みんな各自の映画では主役を演じている(あるいは演じているはずだ)! したがってどんどん話が複雑になる。私の人生はあなたの舞台装置である。そして私が成長するにつれて、私はあなたの映画の小道具を作り替えている。自分の役をそのまま続けることが難しいのも無理はない。しかしこの大きな相互依存性はありがたいことだ。多くの人生が交差する場所で、自分にとって最良のせりふや登場人物、そして物語そのものを得ることができる。
私たちは自分の人生を発展させるのに必要な才能をすべて持って生まれているわけではない。才能はタンパク質のようにDNAに織り込まれていない。才能は確定したものではない。私たちはわずかの、だがさまざまな能力を持って生まれてきた。私たちの出発点はそれぞれ異なる。ある人は他の人より有利な出発をする。いつどこで生まれたか、親が誰であるかということは、あなたの人生に強烈な影響を与える既成事実である。
でも、この基本的な生まれつきの属性が私たちの運命を決めてしまうわけではない。人間の資質は、出生時点ですべて現れてはいない。私たちは資質を成長させる。あるいは成長してその資質を得る。資質は創造的な性格に由来する。その資質は私たち自身から発生する。物語がそうであるのと同じように。私たちの人生は、自分が何者であるかを発見するために、自分自身が作る物語である。物語を作り上げるにつれて、登場人物に対する行動、新しい考え方、他人の演出による背景の変化に対応する新しい能力などを創出する機会がある。この創造する力はいろいろな場面で現れる。たとえば、1954年、ロジャー・バニスターの1マイル4分の壁を崩すという強力な業績は、陸上競技における可能性の展望を一変させた。彼に続く何百何千もの選手は、それまで考えられなかったことを成し遂げる能力に気づいたのである。ピカソのキュービズムに対する洞察は、それまで見えなかった芸術的才能のための壮大な領域を切り開いた(絵を描かなくても画家になれる!)。アインシュタインのような天才の想像力は、それまで想像できなかった人間の能力、たとえば、多次元や相対性を考えるという能力を引き出した。良い友人はそれと同じように私たちの能力を伸ばしてくれる。ある人の想像力によって、他の人の秘めた可能性が実際に変わることがある。(逆もまた真である。ある人の悪意によって、他の人の可能性が壊されることもある。)
人生にはいつも不思議なパラドックスがある。自分の最終的な潜在能力に到達するためには、私たちは人生の最後まで生きなければならない。しかし生きるというその過程自体が、潜在能力を含むあらゆるものを変化させる。この相互作用は不安定ではあるが、実はそれが人生の良いところだ。人生の実現にこの動的な循環が欠けていれば、それは単なるシミュレーションであり、薄っぺらな理論であり、結末が先にわかってしまうつまらない映画である。本来ならば、そこには多くの驚きがある。その驚きの一部は、私たちが自分自身で書くものだ。
人間には個人としても、また集団としても、驚くべきことがある。人間が社会の中で誰かのために作った可能性は、長い時間が経過しても、引き続き他人の可能性を広げている。普通はこのような考え方はしないけれども、実は、ここで言う可能性は「技術」と呼ばれるものである。弦を振動させる技術は、バイオリンの名演奏家の潜在能力を切り開いた(作り出した)。油絵具とキャンバスの技術は、何世紀にもわたって画家たちの才能を発揮させてきた。フィルムの技術は、映画制作の才能を引き出した。字を書くこと、法律を制定すること、そして数学などのような柔らかい技術は、人間が良いものを作ったり良いことをするための潜在能力を拡大した。私たちは、友人や家族、一族、国、社会などの集団として、はっきりした役割がある。各個人をスターにさせる、すなわち各人が独自の貢献を最大限にできるようにしてやることである。
しかし私たちが他人の可能性を拡大することができずに、減退させてしまうならば、それは罪である。だから、他人の創造性の範囲を拡大させることは、義務である。もしもピアノの技術ができる以前にバッハが生まれていたとしたら、私たちの世界はどんなに貧弱なものであるか想像できるだろうか? あるいは、もしも油絵具を発明する前にフィンセント・ファン・ゴッホが生まれていたら? あるいは、もしもヒッチコックが成長する前に、誰も映画の技術を発明していなかったら? 現代においても、子どもたちにとって ―私の子も含めて― もしかしたら、その才能に適した理想的な技術がまだ発明されていないために、彼らの潜在能力が妨げられていることがあるかもしれない。たぶん、現代のシェークスピアが名作を創造する前に、小さな道具が必要なのだ。そのようなものを作る可能性がなければ、子どもは能力の発揮を妨げられる。そして、そのために人間全体の創造性が減退する。したがって私たちは技術を強化する道徳的義務を負っている。私たちが技術の種類や範囲を拡大すれば、選択肢が増える。私たちが可能性を拡大すれば、みんながスターになる機会を広げることができる。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/18545167.html
原文:Technology, The Movie
Civilizations Are Creatures
文明は生物である。それはとても長寿であり、地球上に非常に広く分布している生命体である。文明はエネルギーを消費し、アイデアを生産する存在である。このアイデアは都市、制度、法律、芸術、書籍、および記憶として実現される。文明は持続的に発展しながら何千年も生き残るかもしれない。肉体を持った動物と比べても、さらには人間の精神という湿組織と比べても、文明は地球上で最も変化の速い生物である。
今日の文明は、その複雑度や変化する速度において、過去の文明とは異なっている。文明は時間を経て、わずかの知性しかないアメーバのような小さなかたまりから、広範囲の適応学習ができる複雑な多細胞の生物へと進歩した。現在の西洋文明は、発達の初期段階にある記憶を持っている。それは図書館と呼ばれる。
文明が1万年にわたって生き延びるためには、1万年の記憶機能、すなわち1万年の図書館が必要である。これは1万年の文明にとって必要であるだけでなく、どんな場合でも絶対に不可欠なものである。非常に長期にわたって社会の進路を定め、維持するためには、記憶が必要である。1万年の図書館は、その記憶のためのES細胞(胚性幹細胞)である。
つい最近まで図書館は死んだも同然だったように思われる。岩のように固い壁の間に、ほとんど読む人のない、そしてずっと前に死んだ人が書いた古い本を収容していた。いったいどうすれば、図書館は生物の器官になれるのだろうか?
生物は大きくても小さくても、過去を前へ進めていく能力が優れているものである。以前に起こったことを現時点で表現して、この次に何が起こるかについて有利な反応をできるようにするための能力である。その反応の方向性を決めるものがなければ、刺激に対する生物の反応にはあまり効果がない。生物学的な生物は、遺伝子という記憶と、過去の刺激という記憶を持っている。そして文明は図書館を持っている。過去からのアイデアや表現を記載した冊子や巻物がいっぱい詰まった図書館は、単純で基本的な記憶である。しかし、それは口伝えの物語や説話やことわざなど初期の方法と比べれば、驚くべき進歩である。
1万年の生物に必要な記憶とはどのようなものか?
第一に、文明の記憶には、無数のセンサーからの入力がなければならない。運動センサー、カメラ、温度計、マイクロホン、キーボード、コンピューター・チップなどのすべてが記憶に対して情報を提供しなければならない。身体を持った図書館を想像してみよう。そしてこの身体にはいろいろな機器や装置が結合していて、今何が起こっているかの認識を含めて、時々刻々の情報が流れているところを想像して欲しい。
第二に、その生物の記憶は、それが知っていることすべてを網羅していなければならない。すべての文明化した知識が物理的に近い場所に存在する必要はないが、その知識はすべてつながっていなければならない。すなわち、人類のすべての業績は、参照と索引によって相互に関連づけられていなければならない。この全世界の情報の集合体(世界図書館)は一個の分散型記憶として動作しなければならない。理想的には、その情報は単なる文書や「ファイル」としてではなく、アイデアというレベルで結合していなければならない。それぞれのアイデアの力は、他のアイデア、他の事実、他の空想への参照によって裏付けられなければならない。
第三に、この記憶はその生物の各部分から利用できなければならない。文明の中に存在する人や機械は、みんなそれぞれがこの共通の図書館に連結して、この図書館の記憶が各自の記憶であるように見えていなければならない。
この記憶は静止しているものではない。アイデアまたはファイル相互の結合や関連は、常に流動的である。書物は改版され、文書は改訂され、アイデアは改善されたり信用を失ったりする。図書館全体は、一つの非常に大きなウィキペディアの記事のようなものである。
最後に、この「文明と呼ばれる生命体の記憶」としての図書館が成功したかどうかの目安は、新しいアイデアの生成と、知識獲得の新しい方法である。すなわち、新しいレベルの記憶が発生するということである。この生命体が何かを知ったり思い出したりする方法は、「その生命組織の部分にすぎない」私たち人間が当惑するようなものかもしれない。
初出:http://memo7.sblo.jp/article/19055263.html
原文:Civilizations Are Creatures
達人出版会は、ITエンジニア向けの技術系電子書籍の出版を手がけてきた電子書籍専業の出版社です。
今後は技術書の発行と合わせて、より幅広い読者のニーズを満たすラインナップを揃えていく予定です。ご期待ください。
Webサイト:http://tatsu-zine.com/
2012年1月23日 発行 初版
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