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この本はタチヨミ版です。
これは明治29年12月に発行された『教訓歴史壽語録』の復刻版です。
その昔、双六はお正月の遊びの一つで、親兄弟親戚など一緒になって、とまった升目のお話を聞きながら、半日以上かけて遊んだのだそうです。過去に歴史家の友人と一緒に遊んでみたことがあるのですが、それぞれの場面とその前後の物語をその友人から聞くうちに、たった12枚の絵だけであっという間に何時間も過ぎてしうほど夢中になって遊んでしまいました。
さて、この双六が発行された前年の明治28年は、日清戦争が終結し下関条約が結ばれた年でした。その後、すかさずロシア・フランス・ドイツの三国干渉があり、日本は予定していた植民地を獲得することができず、その分を賠償金に上乗せした約4億円を手にすることとなりました。しかし三国干渉による列強の圧倒的な軍事力を恐れた日本は、軍備の拡張を急ぐために、戦争で得たお金を庶民には殆ど還元せず、賠償金の殆どを軍事費に費やしました。植民地を獲得出来なかったことやお金が庶民に還元されないことで、国民の間に憤激が高まりました。そんな時代に用いられたスローガンが「臥薪嘗胆」でした。
私の解説はへたくそで面白くないかもしれませんが、この双六が発行された当時、「臥薪嘗胆」を背景にこの双六を遊ぶことで、人々はどんなことを歴史に学んだのか、損得の教訓が多くはびこる今日に、今一度考えてみていただければと思います。
二〇一一年十二月二十二日 川畑裕久
静御前は日本一の白拍子(立烏帽子に白鞘巻の刀を差すなどの男装で歌いながら舞う磯禅師の女性)として有名でした。また、源義経の愛妾でもありました。
源平の合戦で数々の功績を残した義経は、四国と九州を治めるように朝廷から命令が出たため船出します。しかし次々と功績を上げながらも戦果の報告もそっけなく、あまり良い評判が聞こえてこない義経に疑惑を抱いた兄頼朝は義経を討とうと画策し、義経は朝廷から追われる賊軍となってしまいました。
義経一行は暴風雨によって難破し、源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶そして妾の静のみとなり、一行と歩速の合わない静御前は義経と吉野で別れることとなります。このとき、静御前は義経の子供を身籠っており、静御前にとっても義経にとってもつらい別れでした。静御前は金銀類と雑色男たちを与えられましたが、男たちは金だけ奪って逃げてしまい、ただ一人迷い歩き、やっとたどりついた蔵王堂で法師に捕らえられ、頼朝と政子のいる鎌倉へ送られ、義経の行方について詮議されることとなりました。しかし義経の行方を聞き出すことは出来ず、頼朝は敵将の子供を放置しておいては命取りになると考え「子が女の子なら助けるが、男の子なら殺す」と命じます。しばらくすると「静御前がいるのだから日本一の白拍子が見てみたい」とささやかれるようになり、頼朝・政子夫妻をはじめ、鎌倉の御家人たちや大勢の見物客の中、彼女は舞を舞う事になりました。
そのとき歌った歌が、
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しずやしず 賤の苧環 くりかへし 昔を今に なすよしもがな
という義経を慕う気持ちでした。
多くの人々が魅了され静まり返っているなか、頼朝は謀反人である義経を恋慕う歌を歌ったことに激怒しました。
しかし頼朝の妻・北条政子は静御前の気持ちを理解し頼朝を諌めたのだそうです。
その後、静御前は男子を産みました。生まれてきた赤ちゃんを見て男の子だと確認した静御前は、泣き叫び子を抱いたまま離さなかったそうです。この時も北条政子は頼朝に赤ん坊の命乞をしてくましたが、結局赤子は由比ヶ浜に沈められてしまいました。
その後静御前は京に帰りますが、戻ってからの彼女の消息は何もわかっていません。
一 佐藤忠信・・・・p38
二 加藤清正・・・・p35
三 太田道灌・・・・p21
四 児嶋高徳・・・・p15
五 御馬喜三太・・・p12
六 博雅三位・・・・p31
御馬喜三太は一番最初に義経の家来となった家来でしたが、義経に対面する事も殆どないような、最も身分の低い下男でした。それでも最後まで義経と共に戦った忠実な家臣の一人でした。
義経は一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者として従五位下に叙せられ、院への昇殿を許されました。しかし、諸々の事情を抱えていた兄頼朝は、自分に何の相談も報告もなかったことに腹を立て、義経は兄頼朝と対立することとなり、朝敵として追われることになってしまいます。義経の討手を命ぜられたのは二階堂の土佐坊昌俊。昌俊は手勢を率いて鎌倉を発足し、熊野参詣と称して義経のいる京都六条堀川館へ向かっていました。
配下のものをつかい土佐坊昌俊の下人の機嫌をとってこの情報を得た義経は、武蔵坊弁慶に命じて昌俊を引立て来させ詰問すると、昌俊は判官の詰問に対して起請文を認め、敵意は無い旨を堅く誓ったにも関わらず、その夜に堀河の館を襲ってきました。弁慶以下の勇臣は皆、昌俊に「敵意は無い」と誓わせた直後であったため、皆各々帰宿して館の内は人も少なく、義経でさへ宿酒に酔い伏していました。ただ一人緊張を解かず残っていた喜三太はいち早くこれに応戦し、あとから駆けつけた佐藤忠信や弁慶らとともに藤原純友や平将門にも劣らぬほどの弓を以て奮戦したといわれています。
錦絵では月夜に靡く太い二本線の幟を怪しいと睨み、弓と矢を持って警戒する喜三太姿が描かれています。
六条堀川館は義経が静御前と共にに過ごした邸宅といわれ、このとき静御前もいち早くこの襲撃を察知して機転を利かせた行動をとったそうです。
三 小松重盛・・・p28
四 木村長門守・・p18
五 楠 正成・・・p41
六 児嶋高徳・・・p15
児嶋高徳は身分は高くありませんが、後醍醐天皇への信義を貫き、忠臣として名高い人でした。
鎌倉幕府を倒そうと計画した後醍醐天皇は、計画がばれて隠岐島に流されることになりました。
そこで児島高徳は、護送の途中に天皇を奪還しようと何度も試みますが、幕府側の警戒が厳しくことごとく失敗に終ります。それでもあきらめず、院庄の天皇行在所・美作守護館に侵入し天皇宿舎付近へ迫るも、厳しい警護の前に天皇の奪還を断念します。
錦絵では、悔しそうに錦旗を握りしめる高徳の姿が描かれています。
この後高徳は、志を伝えるためひとりで御宿に向かい庭にしのびこみ、桜の木の皮を切り剥ぎ、その白くなったところに十字詩を大書ししました。
そこには、
天莫空勾践 天勾践を空しゅうする莫れ
時非無范蠡 時に范蠡なきにしもあらず
と天皇を励ます言葉を漢詩で彫り残し、その意志と共に天皇を勇気付けました。
その4年後の福山城の攻防では、全軍を兵庫に集める時間稼ぎのために児島高徳は自らの居館を焼き払い、一族二百名とともに山に立てこもリ、尊氏の水軍と直義の陸軍の両方を牽制しました。そのかわり児島勢の損害は甚大で、その半数以上を敵に討たれ、高徳自身乞食のような悲惨な風体で、やっと逃げて来たほどでした。彼らの犠牲のお陰で、官軍の兵庫集結は最小の損害で達成できたのです。
一 御馬喜三太・・・p12
三 菅原道実・・・・p24
四 太田道灌・・・・p21
六 加藤清正・・・・p35
タチヨミ版はここまでとなります。
2012年5月9日 発行 2012年4月22日 第二刷
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錦絵双六シリーズ第二弾は明治22年発行『教育必用幻燈振分雙六』を予定しています。
当時流行していた幻燈器の国内初の製造業者"鶴淵初蔵"が考案した、まるで幻燈を見ているかのような特殊なデザインの双六です。
お楽しみに!
平成二十三年十二月二十四日
川畑裕久
川畑裕久ブログ『錦絵双六と洋書絵本』
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