遅ればせながら昨年実家を出て一人暮らしを始めました。
といっても電車で30分程度、いつでも立ち寄れる距離です。
それでも自立したことに変わりはないので、ここに僕の実家や幼い頃の心情を何となくまとめてみました。
ここにある文章は殆どがブログなどに掲載したことのあるものです。
今読み返すと、家を出ようと思ったり、でも僕の育ったこの町でいずれは子育てをしたいと思ったり、いろいろ考えていたようです。
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もう何年も前の話だけれど、近頃みたいに季節が進んだことがよくわかる夜に犬の散歩に出かけた。
夜風が心地よくてついつい遠くまで歩いて、自分の住む街なのに少し迷ってしまった。
でもさすがに住み慣れた街。知らない路地裏を抜けると急に見知った風景に行きついたりして、次の角を曲がれば我が家が見えるというとこまで来たとき。
エプロン姿でサンダルの自分の母親と出会った。
なかなか帰って来ないからどうしたものかと探しにきたと言うのだ。
その時は、もういい歳なんだから心配しないでよいのにとしか思わなかった。
しかしよく考えてみると、なぜ僕と犬があの角から出てくると判ったのだろう。家からは東西南北四筋が伸びていて、それらがまた曲がったり別れたりする。なんだか少し不思議だ。
実は昔から母さんはエスパーなんじゃないかと思うことはたまにあった。
小学校低学年の時に、自分のいた幼稚園でバザーがあったので、買ってもらったばかりの自転車で出かけた。幼稚園の近くに自転車をとめて、バザーを見て回って、自転車をとめた場所に戻ると、あるはずの自転車がない。あたりをよく探した。勇気を出してそこいらにいた人にも聞いてみた。ちょっとだからと思って鍵をかけなかった自分が悪いのだ。
そのまま歩いて帰ったが、家について母親の顔を見ると泣きだしてしまった。友達よりも少し車輪の大きい、自慢の自転車だったのだ。
すると母は僕がことの成行きをまだ何も話していないのに、「どうしたの?自転車盗まれたの?」と聞いてきた。しかも「鍵かけていなかったんでしょ」とまで。
中学のときには昼休みに鬼ごっこをしていて昇降口の大きなガラスを割ってしまった。弁償である。そこでその日家に帰るなり突然土下座してみた。
すると一応驚いたそぶりを見せた後、母さんはこう言った「どうしたの?ガラスでも割った?」
先に学校から連絡があったことを疑ったが、電話が担任からあったのはそのあとだった。
こういった経緯から母さんに嘘をつくのは野暮というものだと思っている。
そこの座布団の上で昼寝されている方が寺内松子さんだそうです。
先日のとても天気のよい休みの日に、しこたま寝てやろうと思ってたら(普段から割と寝てますが)、何を考えたのか母さんがいつの間にか神楽坂の小洒落たレストランにランチを予約していて(昼飯を予約するという発想がすごいと思うのですが)、無理やり起こされてわけもわからぬまま連れて行かれました。
どうやら前から行ってみたかったけど、一人で行くのも何だかなぁ…と思ってたみたいで。
ならせめて事前に説明しようか、母さん。
まあ神楽坂はほんとうに素敵なところで、どんな路地もみなとりあえず入ってみたくなります。
そんな路地にある小さなレストランに入ったわけですが、母さんが唐突に「乾杯。」と言い出すものですから、何に?と聞くと、「…初夏に。」だそうです。
自分の母親で、しかも二十年以上も一緒に暮らしてきておいて何なのですが、何だか不思議なことを言う人なんだな、と思ってしまいました。
昼食の後は路地という路地を思うさま歩きまくり、ここでもまた、この人こんなに歩く人なんだ、などと他人事のように思ってしまいました。
さすがに歩き疲れて入ったカフェの二階にいたのが、寺内松子さんだったと、そういったわけなのです。
夕方の犬の散歩をしていると、見慣れない黒い犬が一匹ひょこひょこと近づいてきました。
飼い主は若い奥さんのようでした。お腹が大きかったので、赤ちゃんがいたんだろうと思います。
でも犬の方は大型犬なので、奥さんが犬に引っ張られるようにしてとてとてと近づいてきます。
黒い犬もまだ子供という感じで、うちの犬に興味津々なのですが、こわがってなかなかある程度以上近づきません。
そこは先輩、といった具合にうちの犬が今度は近づき、お互いに挨拶をはじめました。
私たち飼い主も、「こんにちは」と会釈するとニ、三言葉を交わしました。
やっぱり黒犬さんはまだ生まれて数か月。
フラットコーテットかと思いましたが、毛の短い黒ラブだったようです。
少しの会話の間も犬たちはじゃれあうものですから、お互い持っている縄ひもをからまってしまわないように素早く慣れた手つきで交換し合う。この動作は割と好きです。
しばらくすると犬たちも気が済んだようなので「ではまた」「ありがとうございました」とその場を後にしました。
そして心地よい風を受けながら長い下り坂を犬と下っていると、先ほどと同じようにとてとてと、奥さんが黒ラブさんに引っ張られながら追いついてきました。
「すみません、この子が追いかけてしまうんです」
といいながらも、やはりこわがりながら、こっちが振り返るとびくっとして急に近づくのをやめる黒ラブさん。もう一度近づくうちの犬。
再び合流して、坂道を下りました。
曲がり角で、私たちの帰路は左折、黒ラブさんたちは直進というところまできて、今度こそ手を振ってお別れを告げました。
犬を散歩していれば、こういうことは珍しくもなんともないのですが、私にはなんだかあの若奥さんがこの町に不慣れなようなきがして勝手にかわいそうな気分になりました。
きっと結婚して、縁もゆかりもないこの町に引っ越してきて、旦那さんは平日は仕事に出てしまって一人で生活しているのかもしれない。やさしい旦那さんがさびしいだろうと買ってくれた黒ラブの子犬が唯一の話し相手かもしれない。こうして散歩に出かけて、犬のつながりでご近所さんを増やしたいと思っているのかもしれない。ああもっと、この町が素敵なことを話してあげればよかった。
まあ全くの妄想であって、生まれてこれまでこの町で過ごしてるかもしれないし、お腹の赤ちゃんだって実は三人目かも知れない。
ただなんとなく、結婚してもこの町で生活したいと思っている自分にとって、縁もゆかりもない土地に奥さんを無理やり連れてくるのはやっぱりエゴなのかもしれないと思いました。
どこで生活しても、自分が働きにでてしまうことを考えると、少なからずさびしい思いをさせてしまうことに違いはないかもしれないけれど。ならば少しでも、奥さんの実家に近いところで生活するべきなのでしょうか。「きっとこの町を気に入ってくれると思う」というのは余計なお世話でしょうか。
結婚当初さびしい思いをした、という母親の言葉がなぜか離れない私は、犬を連れた若い奥さんにその姿を重ねていたようです。
幼いころ、たまに日曜日の父の書斎から
なにか俳句や詩を
朗読というか、音読するのを聞いていたような気がする。
確かに声に出して美しさが増す言葉もあるだろう。
でも僕は脳内で反芻するだけで
声に出さないことにこそ
美しさの秘訣があると思うのだけどなぁ。
美しいのなら、無音の宇宙か深海で
その言葉だけを聞きたい。
それに近いのは、やっぱり黙読と、思うのだ。
最近は、この漱石の「草枕」の一節がとても気にいっている。
一文字も紛うことなく覚えて、いつでも反芻出来るようにしたい。
こういう事をしだすのは、秋になった証拠だ。
”たちまち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてるか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞える。せっせと忙しく、絶間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されていたたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴き尽くし、鳴きあかし、また鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く、いつまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかも知れない。”
--『草枕』
「雲雀」は「ひばり」と読むが
個人的には「うんじゃく」とか読んだ方が
雰囲気が好きだ。
もちろん、脳内でのはなし。
人は、言わない言葉の主。言ってしまった言葉の奴隷。
幼稚園の年中だったと思うが
親子競争のようなものに
僕だけ母さんと出たことがあった。
そのころ父は割と強いバレー部の顧問をしていて
土日も部活指導にかかりきりで
あまり家にいた記憶がない。
その日も大会か何かで
運動会には来てくれなかった。
思い込みではなく
本当に我が家だけが母子だったと思う。
親が子を肩車して障害物競争をする
というような内容で
母さんは僕を肩車したまま
派手に転んだ。
僕は別に怪我をしたわけではなかったが
頭を打ったと大騒ぎで医務室に運ばれたのを覚えている。
「ごめんね、母さん運動神経悪いから。」
と謝られたけれど、僕の中には
来てくれなかった父に対する
初めての怒りがあった。
その夜、父の車が家に近づくのを
じっと二階のベランダで耳を澄まして待って
音がするとすぐに下りて行って出迎えた。
そして車から降りた父にすぐ
親子競争があったこと
自分以外はみんなお父さんと出ていたこと
母さんが無理をして転んだこと
僕も頭を打ったと医務室に運ばれたこと、を
しゃべった。
きっと此処まで言えば
父だって謝るだろうと思ったのだが
父はただ「そっか。」
と言っただけだった。
でも気の弱かった僕は
感情のまま八つ当たりをするようなことが
できる子供じゃなかったので
それ以上嫌味やなじる言葉も出ず
とぼとぼと父と家に入った。
父は公立中学校の教師でした
昔から家で仕事の話をする人ではないけれど
父がしてくれる教え子についての数少ない話のなかに
ひときわ印象深いものがあります
普段運動などあまり進んでしない少年が
一人体育館でバレーボールを使い
天井からつるされている水銀灯を割ってしまったそうです
駆けつけた父は彼に
なぜそんなに高くボールを投げたのか
と尋ねました
すると彼は
水銀灯の真下からボールをなげて
ボールが空中で止まる瞬間
完全な金環日蝕を再現しようとした
と答えたそうです
それを聞いた当時小学生だった私は
一瞬
共鳴のような痺れを
感じたのでした
そして
見知らぬ少年が一人
そっと教室を抜け出して
誰もいない体育倉庫から
ボールをひとつ取り出すと
それを何度も真上の水銀灯に向けて投げる姿を
想像したのでした
それから
ああ
僕には彼の気持ちがよくわかる
彼と僕とは
きっといい友人になれる
そう思ったのでした
僕が大学生になったころから、もう母親と犬は七月半ばから長野の田舎に帰っていってしまい、ここ数年の夏は、そうやって家族が各々の仕事や学校の合間を縫って長野と東京を往復するという、そういった具合なのです。
母は東京に用事があって二、三日こちらへ来ていたようで、僕が仕事から帰るとまた新幹線で長野へ帰るところでした。
そう言えば僕も明日は休みだなと。
急に思い立って一泊しかできないけれど母についてゆきました。
母と電車に乗るなんて何年振りだろう。
新幹線で隣に座っていると
妹に彼氏ができたらしいことや。
従兄弟の近況や。
祖母が老人特有の早合点が激しいことなどを。
自分の母親なのに
「よくしゃべる人だなぁ」
と息子に思わせるほどしゃべってた。
急にアイスが食べたいと言い出し
車内販売のお姉さんを呼びとめて
アイスとお茶を買う。
モバイルSuicaでお会計なんてしちゃうところに
このおばさん底知れぬ。
などとまた息子に思わせる。
とりあえず買ったアイスを
まず自分ではなく
僕のテーブルを出してそこに置くという
子供扱いをいい加減どうにかしていただきたい。
これは僕が幼いころからもの静かで
思っていてもあれが欲しい、などとはほとんど口にしない
変な子供だったことに起因するのだが。
まあ黙って半分くらい僕が食べて
母に渡すとまた最後に一口くらい残して
「全部あげる」と僕に返すのだ。
二人で食事に行っても
二番目に食べたいものはどれよ?
とかいってそれを頼む。
そして途中で交換して
また「それ全部食べていいよ」などと。
僕はもうわりとオドロキの社会人うん年目なんですが
それでも出かけようとすると
お金あるの?
などと聞く。
あげくある日仕事から帰ってみると
掛け布団が夏用になっていてその上に
夏用パジャマが畳んで置いてあるのなんかを見ると
「マザコン」とか「スネかじり」という言葉が
不本意ながら脳裏に浮かぶのです。
彼女の子育てを
つつましく終了させてあげたいのですが
それにはやはり
物理的に僕が家を出るほか
なさそうなのです。
しかし職場も遠くないし
親父に至っては
「もうちょっとゆっくりしていき給えよ君」
などと下宿のおっさんのようなことを言う。
僕の同僚に
「25を家には置かん!」
と言われて一人暮らしを始めたのがいるのですが。
そういう人もいるのにですな。
バイクを置かせてもらっているおばさんのところへ駐車場代を払いに行った。
二軒となりだからサンダルでぺたぺたとお金持って。
母がクリーニングに預けておいてくれた冬物のスーツを受け取りにも行った。
これも町内だからぺたぺたぺたぺた。
どちらも昔から知ってるおばさんだけど。
成人してからはほとんど顔を合わせていない。
でも二人とも、「あそこんちの子供」という昔ながらの扱いで少し安心した。
妹さんは就職決まったの?
太朗くんいくつになったっけ?
ああ、あんなに小さかったのに。
今日はお仕事お休み?
僕や妹の名前なんかよく覚えているな。と感心する。
クリーニング屋のおばちゃんは、小さいころお使いに行くと
「はい、お駄賃。」
といって100円をくれたが。
さすがに26歳にはくれなかった。
まあそこでなんとなく。
ある程度から歳をとると。
落ち着いた生活をすればするほど
時間が止まったような
そういう感覚に陥るのだろうなと。
そう思った。
それが別に悲しいことであるとか
そうなりたくないとか
そういうことではないんだけど。
そうなってしまうと
もう自分たちの子供たちの世代に
希望や期待を託すことでしか
未来を見ることができない
つまり
自分を中心に置いた未来は
もうあまり見ない。
そうなるのだろうなと思った。
江国香織
「号泣する準備はできていた」
に、結婚して20年くらいの主婦が
デパートに行って家族の洋服や食料品を買って
何一つ自分のものを買わないまま
歩き疲れて入った喫茶店で
結婚前の恋人のことを少し思い出して
その喫茶店を出ると
また家族のことばかりを考える主婦に戻る
という話があった。
女の人はそうなってゆくもなのか。
今年就職した妹が、短い夏休みで帰省した。
たった二日で東京へ帰って行く。
ノートパソコンを入れた大きな鞄を持った妹を、母と見送りに行った。
駅に近づくにつれて、妹は口数が減っていった。
新幹線の改札までいくと、じゃあ、と手を挙げる。
なんだかひとつ冗談でも言わなくては、と思った僕が、どうでもいいことを言った。
妹があはは、何言ってんの大丈夫だよ、と他人のように笑って改札へ向かった。
妹が改札を通ったあとも隣の母は手を振り続けていた。
「なぜ?」と聞くと、
「女は改札を通ってももう一度振り向くのよ。……ほらね?
…あなたたち男は振り向かないけれど。」と言った。
たとえ自分の母親であっても、これだから女のひとは気が抜けない、と思った。
小学4年のころ初めて我が家に犬が来て、高校3年の冬にそっと逝ってしまった。
その時家族はもうこんな悲しい思いは二度としたくない、と思ったはずなのに。
なのにその半年後我が家にはやっぱり犬がいた。
子育てが終わった母には絶好の世話焼き対象となったこの二代目犬はもう末っ子のごとくお嬢様待遇を受けまさにお譲として育ってしまった。
寒ければ家に入れろと呼ぶ。
雨が降れば家に入れろと呼ぶ。
車に乗せるときはだれよりも早く乗る。
暇になると玄関から靴を持ってきてわざわざ人の前で紐をほどく。
生協のお兄さんに恋をする。
心地よい季節に小一時間散歩しようと思うと先に帰りたがる。
その他にも☟
「愛玩動物」という言葉がどうしても犬には合わないと思う理由は、犬たちも私たちを愛してくれているという実感があるからだ。ハムスターやインコはこちらが愛情を注ぐだけだから、愛玩動物でいいかもしれないけど。
自分より絶対に長生きしない。だからきっとまたそっと逝ってしまう。でもこうして家族として暮していれば、きっとそのときが来ても罪悪感にさいなまれることはない。
大人になったぼくはそうやってまだ先のことを考える。
長崎は南山手町というところの
グラバー通りに
赤いレンガの塀で囲まれた気象庁の官舎があって
僕の父は小学校時代をそこで過ごしたそうだ。
つまり僕の祖父にあたる人が
気象庁に勤めていて
今は気象衛星にその役割を譲りつつある
「気象観測船」というものに長崎港から乗って
何ヶ月も外洋を巡っていたのだそうだ。
父が過ごしたのは
幼い頃の十年足らずだと言うが
時々話してくれる長崎での思い出は
そのどれもが色彩に溢れていて
昔からどこか違う国の話しのように聞いていた。
夏休みに大浦天主堂でラジオ体操をした話や
精神病院の細い窓から紙飛行機にした手紙を受け取ってしまった話
外国人の洋館の立食パーティーの椅子のなさに驚いた話(あたりまえだ)
そして官舎なので昔はお風呂が何世帯かに一つしかなく
出たら必ず次の家族へ伝えなくてはならなかったが
その役を忘れて祖父に叱られたことが
父の記憶する、唯一の怒った祖父だったという話
外洋に出ている間父親のいないのをかわいそうに思った同級生のお父さんが
運動会に一緒に出てくれた話 など。
中でも僕が一番こころをときめかせたのは
港で大きな船が進水すると
沖にいる船までもが
一斉に汽笛を鳴らして船出を祝い
港が一望できる教室でも
授業は中断するという話だ。
ネットというチートに触れてしまった僕は
google mapのストリートビュアーで
一瞬にしてグラバー通りの赤レンガの塀を
画面に映し出すこともできるのだが
「この赤い塀に、見覚えはない?」
と父に見せて
「ああ、あるよ」
と言って目を細める、その少年に戻った顔は
生まれ故郷から出たことのない僕には
とても羨ましいものにみえた。
ああ今、この塀をみて父の頭の中では
僕の知らない、懐かしい港の汽笛が聞こえているのか と。
父の過ごした
長崎に行ってみなくてはならない。
突然にそう思ったと同時に
僕も何だかやっぱり
生まれ育ったこの家を出るべきなんだろうと
漠然と感じるのでありました。
父の実家が取り壊されることになった。15年前に祖父が亡くなって祖母一人で暮らしていたが、去年軽い脳梗塞を煩って一人では生活できなくなってから家は住むひとを失っていた。
家の中を整理するために僕も家に向かう。
幼い頃から何度も何度も通った道だ。道の中央はどぶが通っていて、その上を延々と蓋が続く。
そう、幼い子供にはもうこれが線路にしか見えなかった。このどぶ板の上を電車のつもりで走り抜けるのが楽しかった。
そんなことを思い出して思わず一人吹き出してしまう。
僕は去年電車の運転士になっていた。この道を電車のつもりで走って、気がついたら運転士になっていた。
もうほんとうに、恥ずかしいくらい、小さい時から今に至るまで
のりものとギターのことしか基本的に考えていない。
男の子はみな電車や車が大好きな時期があるでしょう。でもいつの間にかみんな興味が他のものへ移ってゆく。野球とかサッカーとか。
僕にはそれが訪れなかった。好きなものが増えても、昔のものが消えることはなかなかない。
そして好きなもののことばかり考えていると、自ずとそのどれかが仕事になり
結局はさらに好きなもののことばかり考える
とゆう幸せなお気楽人生なのであります。
好きなことを仕事にするのは辛いこともあるでしょう、きっと。
しかし僕はそれ以外を職業に考えるほど器用でなかった、と言うだけの話です。
2013年6月22日 発行 初版
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冬に冬だなあと思ったり、朝に朝だなあと思ったり、夕暮れに夕暮だなあと思ったりする受け身な性格を何とかしたいのですが、いかんせん時間だけが過ぎてゆきます。 Qullarisは、愛すべき我が家の犬の名前です。 高橋克彦、恒川光太郎あたりが好きです。