spine
jacket

遊学する土曜日

──────────────────────



九州遊会 NO.23

瓢箪座

──────────────────────

野口整体との出会いを語る中国武術家の新部健太郎氏。手の平で「合掌行気」を体験するシーン。手と手の間にほのかな温度とピリピリとした痺れを感じる
-

第23回 九州遊会



日時/二〇一二年 一月十四日(土)十四時~二二時
(会場:福岡市・藤枝邸)

■テーマ:野口晴哉『整体入門』
千夜千冊 六七六夜 


チューター/新部 健太郎(壷中堂 主人)





 野口晴哉(のぐち・はるちか)は明治四十四年生まれ。野口整体の創始者です。その思想、活動は多義にわたりますが、僕の独断をもって語るなら、その思想は「生命の自然に帰る」ということ。僕は別段、野口整体の専門家ではありません。縁あって協会に所属しているだけですが、僕自身は中国や日本の伝統武術を通して、長らく身体やその感覚について思索し、携わってきました。ですから今回の九州遊会では、そうした伝統武術や身体、若しくはその感覚をフィルターにして、野口晴哉の思想や野口整体を語ってみたいと……そういう試みです。
                      壷中堂主人 新部 健太郎


チューター 新部 健太郎(壷中堂 主人) -




 人間はもっと自由な筈なんだ。
 だから僕のやってきたことは、
 すでに金縛りになっているものを、
 どうやって解くかということだ。
 暗示からの解放だよ。


      (野口昭子著『朴葉の下駄』より)

野口晴哉『整体入門』(筑摩書房) -
野口晴哉夫人の野口昭子氏著『朴葉の下駄』から野口晴哉の人となりを探り、その真髄を読む -
今回初参加の遊人・森さん(長崎・諫早)、浦澤さん(福岡・箱崎) -
常連の光澤大志さん(熊本)と初参加の瀬口さん、牟田さん(福岡) -
整体協会の会報誌や著書。新部さんの蔵書より -
気を実践。相手役はこのために駆けつけてくれた浦澤さん。福岡・箱崎の雑貨店「アジアンラティーノ」のオーナーでもある -
「好きなように打ち込んできて」と新部さん。浦澤さんも攻めの構え -
勢いよく攻め込むと同時に次の場へ持っていく -
気の筋道を一瞬で見極めて身をかわす -
腕を下へ降ろそうとする新部さん。それに対して浦澤さんは腕を降りないよう持ち上げようとしたが、すぐによじれて後ろへ転がってしまった -
一生懸命、下へ降ろそうとするけれど・・コロン -
野口整体の根底には道教あり -
昭子氏の著書を「慎む」「坐る位置」「心の角度」「気づかい」「操法に於ける礼」「暗示と自由」「自立」「意識以前」「全生」と順序立てて抜粋、輪読 -

寄稿「野口整体と中国武術」の補遺        
                       新部 健太郎


 一月十四日の九州遊会ご参加の皆さまお疲れ様でした。ご参集頂いた方々にはご覧の通りで、野口整体、若しくは野口晴哉の思想を語ることは、僕のような整体協会の幽霊会員には手に余る代物で、説明不足の点も多々あったかと思います。
 特に唐突に持ち出した中国武術の実技と整体との関連、これについては今ひとつの説明がいるかと思い、筆を取ります。

 十四日の本会ではご説明しましたが、野口晴哉の思想の中核である「全生」という言葉は、荘子の養生主第三「可以保身 可以“全生” 可以養親 可以盡年」に依ります。他、野口晴哉が生前座右とした本にも、この荘子がある。この事から僕は、晴哉の思想の背景に道教を見てとっている訳ですが、なお、この事は整体協会の正式見解では有りません。ですから僕の見方としてご理解ください。

   *   *   *

 僕が学んできた武術の「太極拳」及び「八卦掌」は、「道教」に所縁深い拳法です。「太極拳」は現在でも道教の聖地である武当山で伝承されていますし、「八卦掌」も雲盤老祖という仙人から伝承を受けたという伝説があります。ちなみに「太極・八卦」の言葉は儒教のものですが、ながい歴史の中で「道教」とも融和してきました。

 以下、この「中国武術と道教」との関連について説明し、ひいては野口晴哉の思想との関連について説明できればと思います。

■道教の道、「道(TAO)」とは。
 老子の第一章にある「道可道 非常道 名可名 非常名」という名句が、「道」を端的に顕していると思います。それは「名づけ得ないモノ」であり、かつ「認知し得ないモノ」、謂いを換えれば「本来的不明」といえます。

■「道」の働きと武術の原理。
 しかし老子道徳経にもあるとおり、「道」それ自体は「本来的不明」ではありますが、その働きは万物万象に顕れて認知し得る。そしてその働きは、武術の技法としても形象化され、技法の詳述は避けますが、「太極拳」ではそれを「朋(ポン)・履(リー)・斉(ジー)・安(アン)」(左記いずれも手偏あり)、「八卦掌」ではそれを「寧(ネイ)・鑽(サン)・争(ソウ)・裏(カ)」(寧、争いずれも手偏あり)といい、「太極・八卦」の働きを顕すものとします。

■「両行」という思想
 道教の碩学、福永光司さんの謂いをお借りすると、道教の本質は技と道の調和、「両行」にあるといいます。「両行(両ながら進める)」は荘子の言葉です。
 先に僕は道教の中核である「道」は「本来的不明」であり、人間には「認知し得ない」のもだと説明しました。しかし、その「働き」は「認知し得る」ともいいました。
 中国武術でも道教(あえていえば東アジアの思想)に則って、この「技と道の調和」を目指します。中国武術の技の研鑽とは、この「道の働き」を体現することでもあります。

 しかしながらここで「両行」という謂いを借りてご説明したいのは、「技の研鑽」は「道の働き」の体現であっても、「道」そのモノでは無いという事です(なぜなら「道(本体)」は「本来的不明」であるからです)。ですから技(この場合、道教の修法も含め)の研鑽とは、「道(本体)」そのモノに成るのでは無く「道(本体)」に究極的に近似する事、「本体(道)」と「働き」の「両行」ともいえます。

■「精気神」という心体(シンタイ)
 「身体とは心体(シンタイ)」、という謂いは僕の造語ですが、先の「両行」の謂いを借りれば、中国武術における「心と身体」も「両行」であるといえます。「両行」という言葉をもう少し肉付けいたしますと、これは「両(フタツ)ながら」であって、決して「二つに分つ」ではありません。「技」が「道」の「働き」であるように、あるモノの二つの側面を意味します。

 ですから「身体」をもって技の研鑽が進むと同時に、技が精密になると同様、「心」の側面にも粗密があり、その粗なるモノを「精」、それから「気」、そして密なるモノを「神」といい、また謂いを換えれば、「精気神」とは「心」が受け取る情報量の粗密ともいえ、優れた老師(武術の師)は、弟子の「身体」ではなく、その「神態」を見るといいます。

■「線形的進化」と「円環的風景」
 「精気神(この場合、心身両義の意)」には精錬過程があります。以下、

 ※錬精化気 ※錬気化神 ※錬神還虚

 錬精化気、錬気化神は、精から気、気から神へ、その心身の情報が粗から密になる謂いです。では「錬神還虚」とは何か。まず「虚」とは、道徳経第四節「道は冲(ムナ)しきも、これを用(モチ)うれば或(マ)た盈(ミ)たず」をもって、「虚ろ(ウツロ)」、「道」の言い換えと理解できます。「道」は「本来的不明」と先に定義しましたので、修練を積んで先、「本来的不明」へ帰るのが「錬神還虚」。近代的(線形時間的)発展の価値観からすれば、修練を積んで先、「本来的不明」へ帰る(または、この円環構造)とは、全く理解に苦しむ謂いではありますが、この「錬神還虚」にも「両行」があり、「道」はその「形而上的」性質から、究極的には認知し得ませんが、その「働き」の体得によって、「ソコ」に極限に近似することが出来る。これをまた謂い換えれば、実はこの極限に向かう「線形的進化」とは「円環的風景」の「両行」であるともいえます。

 中国武術は九割九分九厘フィジカルなものですが、最後の一厘でメタフィジカルに触れているのが、この「道」への近似です。この「道」への近似は、生涯心身両行を賭して精錬してゆくものであり、ですから「錬神還虚」は謂いを換えますと、これは(精神的風景としてのメタフィジカル)形而上的「道」への回帰ともいえ、またこの「線形的進化」と「還虚する(円環的)風景」の「両行」が、東洋的人格(自我)の塑形であるとも思います。

■デカルト的自我の事。
 そこでもって西洋的自我の事ですが、デカルトはその著書「方法序説」の中で、「すべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない(中略)この真理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえない(中略)どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。反対に、自分が他のものの真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する」といい、その「コギト・エルゴ・スム(われ惟う、故にわれ在り)」を外部から保証しているのが「神(God)」だといいました。

■ひるがえって「野口晴哉の思想」
 「方法序説」を読むと、デカルト的西洋自我にとって、「神(God)」ないし「形而上的神的存在」(正確にはその本体)とは「私の外部」にありますが、しかしながら東洋において、は先に傍証したように、この「神的存在」は「私の内部」に対し「多重構造」として内在している。若しくは「外部」と「内部」が還流している。それを仮に「間(アワイ)」や「際(キワ)」、「綾(アヤ)」、または「音連れ(オトズレ)」等のイマージュで肉付けしてもよいかと思いますが、筆がゆき過ぎました。

 話を本題に帰せば、この「線形的進化」と「還虚する(円環的)風景」の「両行」をもって、「野口晴哉の思想」を「慎む」、「坐る位置」、「心の角度」、「気づかい」、「操法に於ける礼」、「暗示と自由」、「自立」、「意識以前」、「全生」の九題にわけました。
 特に「自立」および「全生」において、仮に人類史を近代とそれ以前に分つ事が可能であれば、近代的自我の一つのオルタナティブ(もう一つの世界観)になり得るかと、そのように思ったわけです。


                            おしまい

野口晴哉の著書。野口整体をほとんど知らない人も手に取りやすい -

遊便*「訪ねて遊ぶの記」                     森 耕


 旧知の新部君から電話で「僕、野口整体の話をするんですよ」と聞いたのがその一週間前。九州遊会、そして野口晴哉についてもろくに予備知識のないまま、久々、九州号に飛び乗った次第。
 会場へ向かう道中、新部君に九州遊会のあらましをレクチャーして貰う。ご一緒したアジアンラティーノ店主・U氏から「中上健次似」と云われたが、そういう指摘は初めて(!)。僕が投げるのはパイプ椅子位のモンです。とある舞踏家には椅子ごとぶん投げられた事もありましたが…にしても、新部君との話は、何故かいつも、思い出話となってしまう。いや大体、そんな昔に面白い事があったっけか…?
 新部君の講義を聴くのは、実はこれが4回目。以前の3回は、僕が主催してたイベントで。朗読や音楽ライブの合間に行われる、実演を交えた講義は、正に異色で面白かった覚えがある。
 今回も、組手の実演が行われた。U氏をはじめ、きょうの参加者が次々と新部君に挑み、面白い様にかわされ、転がされていく。見ていて、彼が予測のつかない攻め手、例えば飛び蹴りなど繰り出したらどうなるんかな…とも思ったが、怪我しそうなので止めた。大リーグボール(@巨人の星)は打者の僅かな挙動から、打撃動作を予測する魔球だったなぁー…とか、脈絡のない昔話ですけど…。
 昔といえば、新部君は、柳田國男「山の人生」をベースに「神隠しにあい易い気性と内臓の在り様」の話をしたことがあったが、今回の体癖そして腰椎の話で、ようやく腑に落ちた。野口整体と柳田國男のクロスオーバー…、体癖が誘う異界の入口…イメージは大きく膨らんでいく。
 そして輪読(奥様の回想録『朴歯の下駄』というセレクトが、良い)。極私的であろう読書が、参加者同士の共通体験となり、そこを基点に様々な出来事や試みが、立ち上がっていく。九州遊会の「回路」の一端を、見せて頂いたような気がした。(文中敬称略)

 “今後とも宜しくお願いします”







・・遊界のかけら・・

夜の懇親会では藤枝守さんのダブリン公演を観賞 -
突如はじまった「ガムテープ男」のパフォーマンスに場がわきたつ。すべて即興、想定外の事態も勃発!? -







九州遊会についてはこちらへ。

九州遊会 NO.23

2012年4月15日 発行 改訂版

発  行:瓢箪座

bb_B_00102779
bcck: http://bccks.jp/bcck/00102779/info
user: http://bccks.jp/user/20136
format:#002

発行者 BCCKS
〒 141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp/

著者略歴を書くスペースです。
※このエントリの本文パネル、画像パネルは非表示になっています。使うときは「非表示」チェックを外してください
※ユーザー設定の「自己紹介」を入力しておくと、新しい本に自動的に入力されます

jacket