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——そんなはずない。
美咲はそう思っていた。
都市伝説だ。迷信だ。いやいや、それ以下だ。地方都市の片隅で時代に置き忘れられたような、そんな片田舎のただの作り話でしかない。
夏になると必ず出てくる怪談話。
蝉じゃないんだから、どうして夏にだけ出てくる?
口裂け女、トイレの花子さん、夜中に動く銅像。どれも下級な作り話でしかない。何が面白いのかさっぱりわからない。
誰もが口を揃えて同じようなことをいうが、いったい誰が実際に『それ』を見たんだ。面白可笑しくして、話だけが全国行脚をしているだけにすぎない。その土地の習慣によって話にバリエーションが加わるだけだ。この学校の誰ひとりとしてそんなものを見た者などいない。いや、全国どこに行っても同じだろう。誰ひとりとしてそんなものは見ていないのだ。
誰も見ていないのに、あたかも見てきたような口ぶりで語る神経が理解できない。そんな有りもしないことに、キャーキャーいっていること自体が無駄だ。つまらない。
「ねえ、美咲はどう思う?」
前を歩く瑛子に急に話を振られ、うっ、と答えに詰まった。
「美咲はクールだからねぇ。信じないよ”この手”の話」
杏奈があきらめ顔でいう。
「だってこれはホントでしょう。どこにでもある学校の怪談とは違うよ」
同じような話はこれまた全国区で存在するのだ。純朴な瑛子はすぐに信じてしまう。それが彼女たちのいいところでもあるのだが。
地方都市の片隅にある小さな町。
アイドルや華やかな大都会に憧れる、中学二年の仲良し三人組。
学校帰り、誠しやかに語られる噂話や迷信の類い。
テレビドラマに出てきそうな派手な事件など、まったくもって皆無である。
ごくありふれた、平凡以外の形容がつかないような日常だと、美咲はぼんやりと思った。
杏奈と瑛子がさっきから盛り上がっている話とは怪談話ではないのだが、つまるところ都市伝説の一種でしかない。
町はずれに用水路のような小さな川が流れている。その川を遡っていくと「龍神橋」というこれまた小さな橋があり、その橋のたもとに龍の彫り物がされた石碑のようなものがある。龍神橋の名前の由来にもなっている石碑だ。
更にその川の源流に遡っていくと「龍神の滝」があり、その滝のところに龍神を祀った祠があるそうだ。満月の夜、誰にも見られずその祠の中にある「玉」を取ってきて、龍神橋の石碑にはめ込んでお祈りをすると願いが叶う。もちろん誰にもそれを話してはいけない。
これは瑛子が母親から聞き込んできた話だ。しかも彼女の母は龍神橋の場所すら知ず、十年前に亡くなった祖母から伝え聞いた話だという。
話の出所が十年前に亡くなっているのだから、信憑性を確かめる術はもうない。他に同じ話を聞いたこともないので、昔からの迷信ともいいがたい。
杏奈には悪いけど、その話は嘘だ。
「龍神橋は知ってるけど、そんな石碑あったかなぁ。龍神の滝は行ったことないし」
嘘だと断言するのも大人げないので、知らないことは知らないという。
「あるよあるよ、龍の石碑」
興奮ぎみの瑛子が飛び跳ねるようにいう。龍神の滝については杏奈も知らないらしい。
そもそも”誰にも話してはいけない”という話を次々と伝聞で話していること自体が矛盾しているわけだし、既に話が崩壊してないか?
願いが叶った後に話すのはいいのだろうか。
それも確認のしようがない。確認のできないことは信じようがない。
「ちょうど今夜は満月だし……」
杏奈が照れくさそうにいったのを聞いてピンときた。
「あぁ、圭介くん、だ」
杏奈はとなりのクラスの圭介に告白しようかどうか悩んでいるのだ。その龍神に願いを託そうとしているに違いない。
瑛子も「早く告っちゃえば!」と囃したてる。
「へへへ」と杏奈もすっかりのぼせている。
その後、今夜のドラマの話やらアイドルの誰々と誰々が付き合っているらしいとか、週刊誌のゴシップネタを、まるで見てきたような口ぶりでふたりは飽きもせずに話すと、「またね」といって帰っていった。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、窓の外には冴え冴えとした青白い満月が昇っていた。
それを見て、昼間の杏奈の言葉を思い出した。
『ちょうど今夜は満月だし……』
深夜というにはまだ早いが、都会の真ん中じゃあるまいし、街灯ひとつないこんな真っ暗な中を、ひとりで龍神の滝までいくなんて考えられない。
——まさか、行かないよね。
それでも気になるのでメールだけはしてみた。いつもならすぐに返信してくるのだが、三十分待ってみても返事がない。
もしかすると、お風呂に入っていて気がつかなかったのかもしれない。そう思ってはみたものの、どうしてか気になって仕方がないので、瑛子に電話してみた。
彼女はすぐにでた。
杏奈の携帯が繋がらないことと、昼間話していた龍神橋のことが気にかかると早口でいうと、好奇心旺盛な彼女は「ちょっと見にいってみない?」といった。
瑛子はスピリチュアルな話に興味津々のようすだ。
「でも、こんな時間だよ⁉」
「こんな時間だから面白いんじゃない。満月の夜と乙女の恋は神秘に包まれてこそよ。ウチにノートでも借りにくるっていえば大丈夫でしょ?」
こんな夜おそくに出かけるなんていうと、親が心配するに決まっている。幼なじみの瑛子のところにいくといえば、そんなに心配させずに済むかもしれない。
「それじゃ、二本松のところで待ってる」
瑛子はそういって電話をきった。
待ち合わせ場所の二本松とは、町道の十字路の脇に何故か一里塚のようにして二本だけ松の木がある場所だ。周りは田畑ばかりで、美咲の家からはわりと近い位置にある。そこから山の方向に向かっていくと龍神橋にでる。
瑛子のところにいってくるというと、親も心配はせずに「早く帰ってきなさいよ」といわれただけだった。
案外とあっさりした応えに安堵しながら手早く着替え、懐中電灯と携帯を持って外にでた。
あ、忘れた!
美咲はすぐに玄関に引き返し、肌の露出している部分に虫除けスプレーをかけてから、あらためて外にでた。帰ってきてからもういち度シャワーを浴びてスプレーを落とすのが面倒だが、薮蚊に刺されることを思えば手間でも諦めるしかない。
懐中電灯なしでも月明かりで照らされた路面は、僅かに自分の影が地面に落ちているほどで、以外と歩き易かった。
二本松が見えてきたあたりで、そこに人影があるのを確認した。普段なら怖くて足が竦んでしまいそうだが、今日はそこにいるのが瑛子だと分かっているから安心だ。
美咲が小走りに駆け寄っていくと、瑛子も大きく手を振ってくれた。
「ごめんね、待った?」
「ううん、ちょっと前にきたところ」
ちょっとした肝試しのような気分で、ふたりとも何故か小声になっている。
龍神橋に向かってふたり以外は誰もいない道を歩きながら「さっきかけてみたんだけど、やっぱり電話繋がらないよ」と瑛子が心配そうにいう。
「どうしたのかなぁ……」
「もう眠ちゃってるかも!」
「いやぁ、杏奈は深夜放送大好き娘だから、まだこの時間に寝ることはないと思うんだけどな」
「そうか……」
美咲は深夜放送の時間帯まで起きていられないのだが、杏奈は毎晩欠かさずに聞いているらしい。だから彼女は、不足している睡眠時間を授業中に補っている。
街灯もないような細い道だが、月明かりが思った以上に路面を照らしてくれるので持参した懐中電灯は必要なかった。
やがて道は用水路のような川に沿って砂利道になり、山に向かって少し上りこう配になってきた。田畑ばかりで月光を遮るもののなかった平地とは違い、少しずつ周りの木々が増えはじめ、足下が薄暗くなってきた。
「なんか、出そう……、だね」
瑛子は怖くなってきたのか、美咲の服につかまっている。
「タヌキぐらいは出るかもね」
田舎町のはずれにある山に入っていくのだから、夜行性のタヌキくらいはいるだろう。山といったところで、実際はちょっと小高い丘に木が生えているだけの、山ともいえないようなちいさなものだ。だからクマやオオカミが出る心配はない。でも、瑛子が心配しているのは違うものだろう。
そう、幽霊だ。
「大丈夫だって瑛子。幽霊なんか出ないから」
「だって……」
先ほどまでの元気はどこへいったものやら、きょろきょろと辺りを見回しながらおっかなびっくりの体で歩いている。声も消え入りそうだ。
「瑛子、見たことあるの? 幽霊」
「な、ない、……けど」
そんなに見たいのか、それとも見たくないのか?
「あたしも見たことない。ウチの家族も誰ひとりとして幽霊なんか見たことない。瑛子も瑛子の家族も同じ。だから大丈夫。幽霊なんてこの町にはいない」
懐中電灯で足下を照らしながら歩いていく。見知った道のりであっても、昼と夜とでは間隔がまるで異なる。目標物のない山道のような場所では、距離感がまったく分からなくなってしまう。
びくびくしながら歩く瑛子を励ましながら、美咲が「そろそろかな」と思っているところに後ろから声がかかった。
「あそこだよ」
瑛子の指差すやや開けた空間。そこには月明かりに照らされた龍神橋が見えた。美咲も何度か通ったことがあるが、橋と呼ぶにはいささか申しわけないような全長で三メートルくらいの小さな木製のものだ。
まわりが木立で薄暗いなか、そこだけスポットライトでも当たっているかのように、月明かりに照らしだされている。
早く明るい場所にでたいのか、瑛子が先にたって歩きだそうとしたとき、橋の向こう側に灯りが見えた。
「誰かきた!」
瑛子の腕をつかみ、灯りの主に聞こえないよう小声でいった。
瑛子はぴくっと身体を硬直させたが、それが懐中電灯の灯りだと気がつくと、美咲といっしょに近くの茂みに屈みこんだ。向こうからやってくるのが杏奈であるかないかに関わらず、遅い時間に中学生の女子がこんな場所にいることを知られたくはない。
息をころしながら待っていると、人影が少しずつ近づいてきた。
「やっぱり杏奈だよ」
瑛子が囁くようにいう。
たったひとりで怖くはないのか、杏奈は足取りも軽く橋に近づいてくる。
「どうする?」
「少しようすを見てみようよ」
瑛子の問いかけに、美咲は慎重に応えた。
ふたりが杏奈のようすを見守っていると、ふいに彼女が橋のたもとでしゃがみ込んだ。まわりに誰もいないと思っているのか、まったく警戒しているようすは見られない。
「あそこにあるんだよ、石碑」
瑛子が小声で囁く。
橋の向こう側で、杏奈はちょうど美咲たちに背を向けるようにしゃがんでいるため、美咲たちから石碑は見えない。
「玉、取ってきたのかな?」
美咲は行ったことはないが、杏奈のやってきた方向を更に山の方に進んでいくと、龍神の滝があると瑛子がいう。橋までは道幅もそこそこあるが、その先は薮のなかの獣道のような場所である。
こんな夜中にひとりきりで、山奥にある滝までいく勇気はさすがの美咲にもない。幽霊が怖いからではなく、夜行性の動物や、暗闇のなかで足を踏み外して谷底にでも落ちたらと、それが怖い。
そんなことを思っていると、石碑の前で杏奈が何やらごそごそとやり始めた気配が伝わってきた。月明かりに何かがきらりと光ったのが見えた。
「やっぱり取ってきたんだよ、玉」
すっかり恐怖心がなくなっているのか、声のトーンが高くなってきている。
『玉をはめてお祈りをすると願いが叶う』
杏奈がいっていた言葉を思いだした。
龍が片手に玉を持っている姿の絵を想像する。その玉が何を意味するのかは知らないが、龍を描いた絵には必ず玉がある。
きっと石碑に掘られた龍の手のところに、持ってきた玉をはめ込むようになっているのだろう。
杏奈の後ろ姿を見守っていると、石碑のあたりがぼんやりと赤く光りだした。
「なんだろう、あれ?」
瑛子も美咲も顔を見合わせた。
次の刹那、その赤い光は強い閃光となり、辺り一面を赤く染めた。ふたりはあまりの眩しさに目を瞑った。
雷のような地響きがするわけでもなく、一瞬の、そして無音の出来ごとだった。
そしてその光はすぐに消え、何もなかったかのように、月明かりのなかにひっそりと橋が佇んでいる。
「カミナリ、じゃない、よね?」
瑛子の声が震えていた。真っ赤なカミナリなんて見たこともない。落雷の音もしなければ、腹の底に響くような地響きすらしていない。
「何だろう? お化けじゃないのは確かだと思うけど」
「もう、イジワル!」
そういって、瑛子は軽く美咲の腕を叩いた。美咲の軽口で、少しは恐怖心が和らいでいるようだ。
「何だろうね。石碑が光ったみたいだったけどな」
橋のたもとに視線を戻した美咲は、そこに何か違和感を感じていた。
——あっ⁉
声には出さなかったはずだが、その気配を瑛子も感じとったらしい。
「え⁉ どうしたの、美咲?」
強く眩しい光に目を瞑ったのは、ほんの一瞬だったはずだ。それから数秒は暗闇に目が慣れるまでかかったが、それでも月明かりに照らしだされている橋の辺りは見間違えようがない。
——杏奈の姿が、ない。
さっきまで龍神の石碑の前にいたはずの、杏奈の姿が見当たらない。
道は一本しかないのだから、家に帰るのなら美咲たちの前を通らなければならない。
しかし、彼女は通っていないし、その気配もなかった。ほんの数秒のうちに姿をくらますのなら、かなりのスピードで美咲たちの前を走っていかねばならず、いくら目を瞑っていてもそれくらいなら音でわかる。
それなら反対側にある龍神の滝の方に向かったのだろうか。それなら、鬱蒼と木が生い茂る暗闇のなかを、懐中電灯もなしで向かっていったというのだろうか。彼女が持っていた懐中電灯は石碑の前に転がっている。が、杏奈だけがいなくなっている。
「杏奈が、——消えた」
「え?」
美咲の言葉で、瑛子はやっとその異変に気がついた。
ふたりで顔を見合わせると、小走りで橋を渡って石碑の前に立った。
美咲は石碑の前に転がっていた懐中電灯を拾い上げた。
「ほら、懐中電灯は置き去りだよ。杏奈はどこにいったのかな?」
「ウソ。どうしよう……」
瑛子は不可思議な出来ごとを目前にして、思考停止に陥っている。
石碑にはやはり玉をはめ込むような窪みがあった。掘られている龍の両目に赤い石のようなものが埋め込まれていた。きっと赤く光りだしたのは、この龍の目なのだろう。
月明かりに反射したにしては、その光はあまりにも眩しすぎた。何か強い意志のあるような光り方だったように思える。
「とにかく探してみよう」
ふたりは杏奈の名前を呼びながら暫く辺りを探してみたが、とうとう杏奈の姿は発見出来なかった。
「もう家に帰ったんじゃない?」
美咲もそう思いたかったが、先ほどの状況で杏奈が自分たちの前を通り過ぎた形跡がないことを語った。
「でも、私たちが気づかなかっただけかも知れないじゃない」
「うん、それならいいんだけど……」
念のために川の中も確認してみたが、とうとう杏奈を発見すること出来ずにふたりは帰路についた。
「きっと大丈夫だよ。家に帰ったんだよ」
説明のつかない出来ごとに、瑛子は無理にでも杏奈が家に帰ったことにしたかった。
待ち合わせ場所だった二本松のところでふたりは別れ、それぞれの自宅に戻った。
翌日、少し早めに教室にいってみると、もう瑛子がきていた。そして杏奈も何ごともなかったかのように自分の席に座っていた。
おはよう、と声をかけたが瑛子の表情がすこし硬い。杏奈の方を窺いながら「どうしたの?」と瑛子に訊いた。
「杏奈は行ってないって」
瑛子の口調はあきらかに怒っている。
「え?」
「昨日の夜は外には出てないんだって」
「だって、昨日……」
瑛子の怒気を含んだ言いかたに、ただならないものを感じた。
「ヘンでしょ? 私たちちゃんと見たのよ。懐中電灯だってあったじゃない」
杏奈の落としていった懐中電灯は瑛子が持って帰ったのだ。
「わざわざ持ってきてあげたのに、知らないっていうのよ。おかしくない?」
「知らないって? 杏奈が?」
確かに瑛子の手元には、杏奈が昨夜落としていった懐中電灯があった。しかし、返そうとしても知らないというのは、どう考えてもおかしい。
昨夜の出来ごとを知られたくないからだろうか。龍神橋に行ったことは誰にも知られてはいけないはずだ。だから隠そうとしているのだろうか。
だが昨日、学校の帰り道に自分で龍神橋に行くようなことをいっていたのだから、その時点で論理破綻している。今さらなかったことにしても、そこに意味があるのだろうか。
「きっと内緒にしておきたいんだよ。昨日のことは見なかったことにしてあげようよ。ね」
「それなら、内緒にしておいてって言えばいいじゃない。何か感じワルい」
「でも無事に帰ったのなら、よかったじゃない」
「心配して損した!」
まだ怒っている瑛子を美咲が宥めているうちに、チャイムが鳴ってホームルームが始まった。
その後、昼休みにでも杏奈と話をしてみようと思っていたが、美咲は生徒会の打ち合わせで忙しく、話す時間もないまま下校時間になってしまった。
帰り道にでも話をしようと思っていたが、帰り支度をしているうちに杏奈の姿が見えなくなっていた。
「杏奈は?」
「え? 今いたのに。帰っちゃったの?」
追いかければ校門のあたりで捕まえられるよといいながら、ふたりは急いで彼女の後を追った。しかし校門どころか、帰り道にどこにも彼女の姿は見当たらなかった。
いつもは三人でおしゃべりしながら帰るのに、杏奈はひとりで先に帰ってしまった。
「どうしたんだろうね?」
瑛子は急にそっけなくなった杏奈の態度に不満があるようだ。美咲も彼女に何が起こったのか心配である。
「身体の調子でも悪いのかな? それならそうといってくれてもいいよね」
瑛子はやはり心配しているようだが、自分たちに打ち明けてくれないことにやはり不満があるようだ。
「何だか魂が抜けちゃったみたいな感じだったけど……」
美咲は、今日の杏奈のようすを見ていてそう感じた。
いつもおしゃべりな杏奈が、今日はほとんど口を開いていない。何か話しかけても上の空といった感じで、まともな会話が成立しなかった。
昨夜のことが何か関係しているのだろうが、それにしても「知らない」はないと思う。ずっと親友だと思ってきたのに。役に立つかどうかは分からないけど、悩み事があるのなら相談してくれてもいいんじゃないだろうか。
杏奈のようすがおかしくなってから数日が経った放課後、美咲と瑛子が校門を出たところで神谷圭介が後ろから走ってきて彼女たちの前に立った。
「あのさ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
となりのクラスなのでめったに話をすることもないが、それでも少しは話したこともある。それでも折り入って訊きたいことがあるなどと、圭介からいってきたのははじめてだ。
彼女たちの見合わせた顔には、クエスチョンマークが浮かんでいる。
「本村のことなんだけど……」
杏奈のことだ——。
「何かあったのか?」
龍神橋の一件以来、杏奈はまるで人が変わってしまったかのように無口になってしまっていた。明るくおしゃべりだった彼女の姿は、今はもうどこにもない。何人かに同じことを言われていた。——何かあったの?
まさか龍神橋のことは言えない。いっても信じてはもらえないように思う。だから、身体の調子が悪いみたいだと、そういうだけにしておいた。それ自体は間違いではないだろう。
まさか杏奈の意中の人からそういう質問をされるとは思っていなかったので、少なからず驚いた。
圭介くんも心配してるんだ……。
杏奈の一方的な片想いだとばかり思っていたので、彼女のことを訊いてくる彼の心配が嬉しくもあり、ちょっとだけ羨ましかった。
「身体の調子がよくないみたいだけど……」
それ以上は彼に何といっていいのか分からない。となりの瑛子も力なく頷いている。
「病院とか行ったの? 大丈夫なのか?」
彼は同級生という関係以上に杏奈のことを心配しているらしい。美咲に向けられる真剣な眼差しが痛いくらいだ。
「杏奈に直接いってあげたらいいのに」と瑛子がいう。
瑛子も彼の気持ちがわかったらしい。私たちに間接的に訊くよりも、本人に直接いってあげた方が喜ぶと思う。
「いや……。あいつ、無反応なんだよ。無視してるのとは違うような。何か夢遊病者みたいな感じっていえばいいのかな」
彼も同じ感想をもっていたのだ。やはり杏奈の今の状態は尋常ではない。
誰かに相談できればいいのだが、経緯がやっかいなだけに持ちかける相手が浮かんでこない。
病院なら心療内科か。で、なければ憑き物落とし?
翌日の放課後。
瑛子には先に帰ってもらい、美咲は圭介の部活が終わるのを待っていた。
「ちょっと杏奈のことで、話があるんだけど……」
「あ、うん」
圭介の返事もそこそこに、美咲は先にたって歩きだした。
「なぁ、どこ行くんだよ?」
「いいから付き合って。明るいうちに現場を見て欲しいの」
「現場?」
何のことやら得心のいかないまま、圭介は美咲の後を追った。
明るいうちに龍神橋まで行っておきたい。出来れば龍神の滝まで行けると尚更いい。
やや早足で歩きながら、美咲はあの夜の出来ごとを圭介に説明した。
「そんな迷信みたいなことがあるのか?」
圭介もあの夜に起こったという不可解な現象を、そのまま鵜呑みには出来ないようすだ。
「でも、本当にあったことなの。私と瑛子とふたりで目撃したんだから」
「まるっきり嘘じゃないんだろうけど、ちょっと信じられないよな」
実際にその場に居合わせたわけではないのだから、信じられないのは当然のことだろう。美咲だって自分で体験していなければ、彼と同じように疑うに決まっている。
「ただ、その現象と今の杏奈の状態との関連性はよく分からないんだけど……」
「いつも一緒にいるお前たちがいうんだから、まぁ間違いはないんだろうな。ともかく現場を見るしかない、かな」
中学生が現場を見に行ったところで、何かが分かるわけでも、解決するはずもないことは誰にでも分かることだが、それでも今はそれしか思い浮かぶ方法がなかった。
二本松を過ぎると、やがて道は少しずつ登りこう配になって林の中へと吸い込まれていく。小川と平行している道は左右から生い茂る樹木で昼間でも薄暗く、湿り気のある空気が身体にまとわりつく。この前は夜だったので気がつかなかったが、昼間は蝉の声が煩いくらいに降ってくる。
圭介はこの辺りまで来るのがはじめてらしい。橋や滝の存在ももちろん知らない。
やがて龍神橋が見えてきた。枝葉の生い茂る林のなかに、そこだけぽっかりと穴があいているかのような明るい場所が目指す現場だ。
「へえ、これが龍神橋か」
山から流れてくる小川にかかる、渡し板のような小さな橋だ。橋を渡ると龍を掘った石碑がある。
圭介は石碑の前でしゃがみ込んだ。
「この目は、赤い石? ガラスじゃなさそう、だね」
「その赤い目が光ったのよ」
美咲はあの夜の光景を思いだしながら、瑛子とふたりで目撃した詳細を説明した。
「それじゃ、その『玉』はどこにいったんだろう? ここにはないけど」
そこまでは美咲も気がつかなかった。いわれてみれば、玉をはめ込む窪みはあるが、肝心の玉がない。あの時、杏奈が玉をはめたはずなのに。
まわりを探してみても転がってはいなかった。
玉はどこにいってしまったのだろうか?
「滝はどこにあるの?」
圭介は辺りを見渡している。すぐ近くにあるものだと思っているようだ。
「もっと山の方。私も行ったことないから……」
山といっても小高い丘に近いような、名称もない標高の低い里山にすぎない。足下を流れているのでさえ、河川とは呼べない小川だ。龍神の滝などという大袈裟な名前がついているらしいが、この龍神橋の規模から考えても、滝というにはおこがましいようなものに違いない。
ここのぼって行けば、その龍神の滝に辿り着くのだろうが、ここから先は獣道といった方がいいような山道だ。それに、そろそろ辺りが薄暗くなってきている。
「もう暗くなってきちゃったから、今日はもう帰ろうか。また明るいうちに行ってみよう」
圭介は龍神の滝まで行ってみるつもりのようだが、美咲はあまり気が進まない。杏奈のことは心配だが、滝に行ったところで何かが変わるとも思えない。だいいち、あんな獣道みたいなところをのぼって行くのは嫌だ。
薄暗くなってきた林の道を歩き、二本松のところまで戻ってきた。
圭介はそれじゃといって帰って行った。
翌日から雨が降ったり止んだりの天候が続き、夏休みの話題がのぼりはじめるこの時期は、生徒会役員である美咲もあれやこれやで忙しく、龍神の滝へ行く機会はなかなか訪れなかった。
美咲は昼休み、職員室での用事を済ませて廊下に出たところで圭介と顔をあわせた。
「あ、そうだ。ちょっといいか?」
美咲に何か話があるようだ。きっと杏奈のことだろう。
「あのさ、滝、行った?」
「ううん、まだ行ってない」
美咲としてはあまり行きたい場所ではない。
「ウチのばあちゃんに訊いたんだよ、滝のこと」
「うん、それで?」
美咲はあれ以来、何か自分で行動を起こすようなことはしていなかった。
圭介は杏奈を心配して、滝のことを自分なりに調べていたようだ。
美咲はそれを聞いて、何もしなかった恥ずかしさとともに、彼の行動力に感心した。
「やっぱり『龍神伝説』ってあるらしいよ。ばあちゃんも同じような話をしてた」
「え、そうなの⁉」
杏奈のことは美咲と瑛子のふたりで目撃したのだから、迷信だと言い捨ててしまうことは出来ない。
「ばあちゃんも話だけしか知らないって。実際にやったことのある人はいないみたい」
美咲の祖母は既に亡くなっているため確認ができないが、どうやら圭介や瑛子の話からすると、祖母の世代は知っている話のようだ。ただ、どちらも話を知っているというだけで、実体験したわけではない。迷信通りであるとするなら、人に話してはいけないのだから、それを聞ける可能性は低い。せめて母親くらいの世代であれば、聞き取り調査も容易な気がするのだが。
「次の土曜日に行ってみようかと思ってるんだけど、一緒に行かないか?」
「滝に?」
「うん。午前中は部活だから午後から。明るいうちに帰ってこれる時間で」
「私も午前中は生徒会の打ち合わせあるし、午後からならちょうどいいかも」
「よし、それじゃ決まり!」
当日はいちど帰宅して昼食をすませ、午後一時半に二本松で待ち合わせということで話は決まった。
彼がそこまで杏奈の心配をして、どうにか解決しようとしていることに少なからず嫉妬を覚える。
杏奈は龍神橋の願いをかけなくても、彼とはうまくいったのではないかと思わないでもない。恥ずかしさはあるだろうが、彼に直接その思いを伝えてさえいれば、このようなことにはならずにすんだのではないだろうか。今となっては、もう結果論でしかないが。
曇りがちだった天候もようやく回復をみせ、土曜日は朝からきれいな青空が広がっていた。綿菓子のような入道雲が山の向こう側に浮かび、まるで夏空の見本のようだ。
美咲は学校から戻るとテキパキと昼食をすませ、虫除けと軍手、そして念のために懐中電灯をリュックに詰め、待ち合わせ場所の二本松に向かった。
龍神橋の先は獣道のようなところを行かなかればならないので、出来るだけ肌の露出がないように長袖の服にした。虫に刺されたりかぶれたりするのはゴメンだ。
圭介はもう二本松のところで待っていた。
「何だか登山にでも行くみたいだな?」
美咲の重装備に圭介は軽口をたたく。彼は足下はスニーカーだが、半袖のTシャツに七分丈のパンツだ。薮の中でいちばん虫に刺され易い服装だ。
「だって、虫とか蛇とかいるでしょ」
「ま、いいか」
とにかく行こうと、圭介は歩き出した。
きっと後で虫に刺されるぞ、と美咲は胸の奥で毒づきながら彼のとなりを歩く。
これで三度目になるから龍神橋までは見慣れた道のりで、明るい陽射しのなかですぐに着いた。
橋のたもとにある石碑は、今日も何事もなかったかのようにひっそりと佇んでいた。建立年月など刻まれていない小さな石碑。何十年、いや場合によっては数百年のあいだ、この石碑はここに黙って佇んでいるのだろうか。そして、どれだけの願いごとを目撃してきたのだろうか。
「痒いなぁ。刺された」
圭介がしきりにふくらはぎを掻いている。
だからいったでしょうに!
美咲は仕方なくリュックから虫除けスプレーを出した。
「虫除けスプレー貸してあげようか?」
「なんだよ、先にいってくれよ。刺された後じゃ遅いじゃん!」
ブツブツと文句を言いながらも、圭介は美咲からスプレーを借りて全身に吹き付ける。
「人のこと笑うからバチがあたったのよ」
美咲は、二本松のところで笑われた仕返しができたとほくそ笑んだ。
圭介はポリポリと足を掻いている。
「さて、それじゃ滝へ行ってみようか」
圭介が先にたって歩き、美咲はその後をついて行く。橋のところまでは道幅がそれなりあったので並んで歩けたが、ここから先は獣道のように細くなるため一列でないと歩けないのだ。
「何だか、また刺されそうだな……」と、近くに落ちていた枝を拾い、圭介が薮を払いながら歩く。
美咲は「だからいったでしょ」と思いながらも、そこはぐっと堪えて口にはださない。虫除けスプレーもかけたことだし、何とかなるだろう。
でも、蛇には効き目があるのだろうか?
しばらく歩くと、小さな広場のような場所にでた。山間部の狭い道の途中にある、車の待避所のような場所だ。広さもちょうど車一台分くらい。
そもそもが標高の高い山ではないので、そんなに歩かないで済むだろうとは思っていたが、予想より早く着いてしまったので拍子抜けする。
「ここか?」
「滝なんてないよ」
美咲も圭介も唖然とした。滝といっても、この山の規模から想像するに落差がせいぜい2メートルていどの、湧き水が滴り落ちるくらいのものを想像していたのだが、そんなものすら見当たらない。
今までのぼってきた獣道もここで終点のようだし、辺りを見渡しても道らしいものもない。山の頂上付近に滝があるはずもない。
そもそも滝から落下した水の流れている場所すらないのだ。
「でも、水の音が聞こえるような気がする」
圭介は手に持った枝で、あちこち生い茂った草を掻き分けている。
「あった! これじゃないか?」
圭介が探し出したのは広場の斜面にある湧水口だった。上を覆うように夏草が生い茂っているため、すぐに発見できなかったのだ。
「それにしても、これが滝か?」
「うーん。滝には見えないよね」
落差が一メートルにも満たないような、しかも草の影になっていて見えない小さな湧水口を滝と言えるのだろうか。
更によく観察してみると、湧水口から流れ出た水は美咲たちから見て左方向に二メートほど流れ、その先で地中に流れ込んで見えなくなってしまう。その先どこかでまた地表に現れて、龍神橋へと流れる小川となるのだろう。
圭介の言葉ではないが、それにしてもこれが『龍神の滝』なのだろうか。どう見ても名前負けしている。
「もしこれが滝だとしたら、どこかに祠があると思うんだけど……」
「あぁ、玉が祀ってあるっていったっけ。そんなの見当たらないぞ」
広場といっても車一台分ほどの広さしかない。ここに祠があればイヤでも目につく。
「それも草の下に埋まってるのか?」
滝の例もあるので、圭介はまた草を掻き分けている。
「おい、これじゃないか?」
圭介が掻き分けた背の高い夏草の間から現れたのは、ちょうど手提げ金庫を縦にしたような木箱だった。しかも相当に古いものらしく、表面は黒ずんでいる。長いあいだ風雨に晒されていたためだろう、全体的に朽ち果てた木片のようになっている。
「これが、祠?」
こんな小さな木屑みたいなものが?
古かろうが、小さかろうが、祠は祠だ。新しくて大きくなければならないという規定があるわけではない。
龍神橋、滝、そしてこの祠、どれをとってみても大層な名前に反して粗末な出来だ。ただこちらの勝手な思い込みだと言われればそれまでなのだが、それにしてもお粗末としか思えない。『龍』というよりは、『ミミズ』に近いのではないだろうか。
美咲が勝手なことを考えているあいだに、圭介は祠の扉を開けようとしていた。
「ちょっと、そんなことしていいの?」
「大丈夫だって」
その小さな祠には観音開きの扉がついていた。まるで小さな仏壇のようにも見える。
圭介が慎重に取手を引くと、ギィっと軋む音とともにその扉は開いた。
「何か入ってる? 玉はある?」
美咲からは圭介の背中が邪魔をして祠の中が見えない。
「何もない。空っぽ!」
ほら、といって圭介は身体の位置をずらして美咲に祠の中を見せた。
やはり表面と同じように黒ずんだ内壁が見えるだけで、他のは何もなかった。
「なぁんだ。ドキドキしちゃったよ。玉があったらスゴイって思ったのに」
「ま、そんなもんだろう。だいたい、玉は本村が持ち出したわけだろう?」
「そうだよね」
「玉がいくつもあるなら別だけど、普通は考えるとひとつだけだよな、そういうの」
圭介のいうとおりだろう。玉があったのならひとつ。それは杏奈が持ち出したのだから、ここにはない。
すると、あの玉はどこに行った?
杏奈が石碑の前から消えたとき、玉はそこにはなかった。
杏奈が持ち帰ったのだろうか?
「あ、ヤベッ!」
「な、何?」
「扉、壊した!」
「うそっ!」
圭介の手元を見ると、観音開きになっている片方の扉が壊れて取れていた。
「あーあ、バチあたるよ。きっと」
「そんなこというなよ……」
龍神さまゴメンナサイ、と慌てて圭介は扉を元に戻そうとしている。
バチなんてあるわけないけど、杏奈のこともあるし、もしかしたら……。
美咲はふと不安にかられる。
何とか元のように扉を戻した圭介と美咲は、暗くなる前に二本松のところまで戻ってきた。それでも、もう西の空は茜色に染まりはじめている。
「滝も祠もあったけど、特に収穫はなかったね」
圭介も「そうだね」と頷く。
「玉があったら何か分かったかもしれないけど……」
玉があったところで、それですぐに何かが解決するわけでもないのだが、そこから何かの手がかりが掴めるかもしれないという一縷の望みがあった。しかし、実際のところ、小さな湧水口と朽ちかけた木箱では何も分からない。
「うーん。そうだよねぁ」
圭介も煮え切らないような返事を返す。
「とにかく、実在することは分かったんだから、それはそれで収穫。かな」
圭介の言い分にも一理はある。美咲も「そうだね」と返す。
「今日のところはそれでいいんじゃないか。もう暗くなってきたから帰ろうか」
気がつくと、辺りはだいぶ暗くなってきている。
美咲と圭介は「じゃぁ」といって、それぞれの自宅へと戻った。
それから数日のあいだ、学校内で見かけることはあるが、美咲も圭介も直接顔を会わせるタイミングがなく、瑛子とも龍神橋の件については話をしていない。
杏奈はどことなく気の抜けたようすのままだが、それでも日常生活や学校の授業などに支障があるわけでもない。しかし、早く元の彼女に戻って欲しい気持ちが美咲を落ち着かなくさせていた。
迷信や心霊現象などに否定的だった美咲も、龍神橋で目撃した杏奈の一件だけは否定することが出来ないでいた。
全面的に肯定するわけではない。しかし、全てを否定してしまうことにも無理がある。
肝心の『玉』は見つからなかったが、話の通り橋も滝も、そして祠も立派なものとは言えなくとも実在はしていた。そこまでは事実だ。しかし、実在するからといって、その話を全て信用してしまうことは出来ない。
龍に因んだ滝や橋など珍しくはない。龍を彫り込んだ物も無数にあるだろう。
しかし”そういう物が有る”というだけだ。
龍など実在はしない。架空のものなのだから、それにまつわる話も架空のものでしかないはずだ。
昼休みに生徒会の用事を済ませて教室に戻ろうとすると、教室の前の廊下で瑛子と圭介が話をしていた。
ふたりは美咲に気がついたとき、ちょうどチャイムが鳴りだした。午後の授業がはじまる時間だ。
圭介は「おっ」と美咲に声をかけると、自分の教室に戻っていった。
杏奈のことで何か用事があったのだろうか。
瑛子に聞いてみようかと思ったが、彼女もふくめ各人が自分の机に座りだしていたのでタイミングを逃してしまった。それきり圭介のことは忘れてしまい、瑛子と話をすることもないまま放課後の雑事に追われ、すっかり忘れてしまっていた。
夏休みまであと数日となり、生徒たちは夏休みの予定に気がいってしまっていて、授業には身がはいっていない。部活も夏休み中の合宿やら、地方戦やらで夏休み中は忙しくなるので、そちらに気が注がれている。
浮き足立った教室のざわめきの中で、杏奈だけが夜の水面に映る月のように、どこか浮世離れした静けさを保っていた。
美咲は授業中に杏奈の横顔を見つめながら、何とかしなければという焦燥感だけがつのっていた。
あの夜に見た光景が脳裏に浮かんでくる。
月明かりに照らし出された橋のたもとで龍の石碑に玉をはめ込む杏奈の姿——。
美咲の頭の中を閃きが奔った。
——月だ。
そうだ、満月。
次の満月はいつ?
龍神橋の願いは満月の夜に行なう。
どうしてこんなヒントを思いつかなかったのだろう。
次の満月の夜、龍神の滝に行って玉を取ってくればいいのだ。そして橋の石碑にはめ込んで願いをかければいい。杏奈が元に戻るようにと願いをかければ、明るくおしゃべりな元どおりの杏奈になるかもしれない。
圭介と行ったときは満月の夜ではなかったから、だから玉がなかった。満月の夜に行けば祠には玉が現れるかもしれない。
その希望の光は、美咲のなかで駆け回り膨らみを増していった。
どうして気がつかなかったのだろう。
解決策は見つかった。実際にやってみないことには証明はできないが、これまでの経緯からして、それが唯一の糸口であり解決策だと思った。
だが、ひとつ問題がある。
このことを誰にもいってはいけない、誰にも見られてはいけない、ということだ。
杏奈は実行前に私たちに話してしまった。それが故に、私たちは龍神橋で杏奈の姿を目撃してしまったのだ。
できれば瑛子や圭介に相談したい。その上で実行に移すことが出来ればいいと思う。
でも、彼女とおなじ轍を踏まないよう、ここは細心の注意が必要だ。同じことを繰り返しては意味がない。
ここはやはり、ひとりでやるしかないのだ。杏奈を救うために。
美咲は放課後、すぐにコンピューター室でブラウザを立ち上げた。インターネットから満月の日と、その日の天気を調べる。
次の満月は——明日の夜。
あの日から、早くもひと月近くが経っている。
ところが明日の天気がいまひとつぱっとしない。あの日は夜空も晴れ渡り綺麗な満月が見えていたが、明日は曇り時々雨の予報になっている。
せっかくの満月も雨空では意味がない。満月の光が龍神橋の石碑を照らさないと玉は輝かない。その次の満月までは、もうひと月待たなければならない。そんなに待ってはいられない。出来ることなら明日には決着をつけたいところだ。
翌日は朝からあいにくの曇り空で、昼休みの途中あたりから風がでてきてとうとう雨が降りだした。
授業中も先生の話など耳に入らず、雲行きばかりが気になっていた。
風があるせいか雲の流れが以外と早く、時おり雲間から青空がのぞいたりもするのだが、雨があがって晴れるようすは残念ながらない。
放課後までそのままの天気が続き、帰り道も風にスカートが煽られながら傘をさしての下校となった。
この天気では今日は無理かもしれない。
だが、次の満月までとても待っている気持ちにはなれないし、もし次も雨が降ったら更にひと月先まで待たなければならない。何としても今夜は晴れてほしい。
夜になっても雨は止まず、相変わらず強い風が吹いている。この風に雲が流されて、短時間でもいいから満月の光が橋を照らしてくれれば何とかなるかも知れない。
しかし風に雲が流されてはいても、次から次へと雨雲がやってくるため、星空も満月も見ることはできない。雲の流れに影響され、止んだかと思うとすぐにまた雨脚が強くなったりしている。
美咲はじりじりとしながら夜空を見上げ、雲が切れ月明かりがのぞくのを待った。
やがてその願いが通じたのか、大きく雲が切れ晴れ間がのぞいた。頭上には綺麗な満月が浮かんでいる。
今しかない。
今夜を逃したら、またひと月先伸ばしになってしまう。
美咲はその機会を逃さず、懐中電灯を手にして外に飛びだした。晴れ間がのぞいたとはいえ、道路はまだ濡れていて水溜まりもあちこちにある。だが、そんなことはおかまいなしだ。満月がいつ雲に隠れてしまうかもわからない。 美咲は靴や服に跳ね上がる水しぶきにも構わず、龍神橋へと走った。月明かりで足下は思ったよりも明るかった。
龍神橋まで辿り着くころには、だいぶ息が切れていた。学校の授業でもこんなに走ったことはないだろう。
橋の辺りははじめて来たときと同じように、そこだけがぽっかりと月明かりに照らしだされ、まるでスポットライトでもあてられているかのようだ。
ここから先は木々が生い茂った獣道のような薄暗い道になる。懐中電灯を点灯させ、美咲は使命感に燃えた瞳で道の先を見つめた。
夜の闇の中をひとりで山のぼりをするなど、中学生の女の子には異常な出来ごとだ。こんなところから一秒でも早く帰って、布団にくるまってしまいたい。
「さあ、行くわよ!」
自分自身に宣言するように美咲は大きな声をだしていった。そうでもしないと、この先に進めそうになかったのだ。
気合いを入れると、美咲は力強く踏みしめるように道をのぼっていった。
昼間の明るいうちにいちど圭介と訪れているから道を間違えるようなことはなかったが、それでも昼と夜とではまるで勝手が違うことに美咲の気持ちは挫けそうになっていた。
圭介とのぼったときには、滝までわりとすぐに着いたように思えたのだが、闇の中をひとりでのぼってみると、距離感がまるで掴めなかった。行けども行けども同じところをのぼっているような錯覚に陥る。一晩中歩いても着かないのではないかとすら思えてくる。そうこうしているうちに、遠くで雷の音がしはじめた。地響きにも似た振動がお腹に響いてくる。
また雨が降りだしてしまうと月が隠れてしまい、願い事はかけられなくなってしまう。次の満月まで待ってはいられない、と気持ちが逸る。
稲光が空を昼間のように明るく照らした。
反射的に顔をあげた美咲の前に、滝のある広場が見えた。
数秒遅れてゴロゴロと大きな地響きが聞こえてくる。
広場にでると、また稲光が夜空を明るく照らす。
稲光と懐中電灯の光をたよりに、草を掻き分けて祠を探す。こうしているうちにも、雷が落ちてきそうだ。雨もすぐに降ってくるに違いない。
「あった!」
打ち捨てられた古い木箱のような祠の扉を開け、美咲は懐中電灯で中にあるはずの玉を探す。
——玉が、ない。
「何で? どうしてないの? 今日は満月なのに……」
悪天候の合間をぬって、ひとりでようやくここまで来たのに。今日は満月だから、だから必至で来たのに。杏奈が元に戻りますようにって、そうお願いしようとしたのに。
美咲は力が抜けて、祠の前に座り込んでしまった。
稲光が祠の前に座り込む美咲を照らしだす。ゴロゴロという雷鳴は、まるで美咲をあざ笑っているかのように聞こえる。
敗北感に打ちのめされ放心状態でいた美咲は、やがて叩き付けるように降りだした雨の中を、ずぶぬれになりながら重い足取りで山をおりていった。
途中、橋のところで足を止めたが、雨に濡れそぼった石碑がひっそりと佇んでいるだけだった。
翌朝、昨夜の雨は嘘のようにあがって、青い夏空が広がっていた。
夕べのことに気持ちの整理がつかないまま制服に着替えて学校に向かう。登校途中にあちこちから聞こえてくる蝉の声が、もやもやとした思考に絡み付いてきて煩い。
明後日から夏休みだというのに、このままではとても休みの気分にはなれない。
教室に入ると、夕べの落雷のことで話が持ち切りだった。
「怖かったよね。美咲のところは大丈夫だった?」
瑛子がさっそく話しかけてきた。美咲は曖昧に「うん」と生返事をした。
「あっちこっち落雷があって大変だったみたいよ。ウチもお父さん帰ってきたのさっきだもん」
瑛子の父は消防署にいる。夕べの落雷でかなりの被害がでていそがしかったのだろう。そういえば、美咲が山から戻ってくるときもサイレンの音が聞こえていたように思う。
「でね、祠のあたりも落雷で燃えたみたいよ」
その言葉が美咲の耳から脳に入り、意味を理解するまでにひとテンポ遅れた。
「え⁉」
「夜中に近くの木に落ちたみたいで、祠の辺りが燃えたって」
「う、うっそ—」
一歩間違えれば、美咲もその山火事に巻込まれていたかもしれない。急に心臓の鼓動が激しくなってくる。
「で? 燃えちゃったの? 祠」
「そうみたい。滝の周辺が黒こげだっていってたよ」
「そう……」
祠が燃えてしまったのであれば、もう玉を祀る場所もない。杏奈のことはどうしたらいいのだろう。
更に憂鬱な気分になった美咲は、肩を叩かれて振り向いた。
「おはよっ!」
そこには、ここひと月ほど見ることのなかった満面の笑みの杏奈がいた。
「杏奈!」
美咲と瑛子は同時に叫んでいた。
昨日までは声をかけても反応が鈍く、魂が抜けたように見えていた杏奈が、今朝は自分から声をかけてきた。
「どうしたの、杏奈? 治った——の?」
「何が? 私どこも悪くないよ。何かよく眠った感じで気分いいよー」
美咲たちの心配をよそに、杏奈はあっけらかんとし、「何かあったの?」と逆に訊いてくる始末だ。
美咲と瑛子は顔を見合わせた。ここのところ杏奈のようすが変わっていたのを知っている周りの生徒たちも、お互いに顔を見合わせて不思議顔だ。
静まり返った教室のなかで、杏奈だけが無邪気に笑っている。
美咲たちもそれにつられて吹き出してしまった。
「ちょっと、何よ。私だけ仲間はずれみたいじゃない!」
膨れっ面の杏奈を見て教室の中は笑いの渦となる。
「杏奈、何も覚えてないの?」
「何が?」
美咲の問いかけの意味が杏奈には分からないらしい。龍神橋に杏奈が行ってから、ここひと月のことを説明しようとしたところで、始業のチャイムが鳴った。美咲は昼休みにでもゆっくりと話すことにした。途中の短い休み時間では話せそうにないかったし、それに圭介も呼んでおきたい。
一時限目が終わった短い休み時間のあいだに、美咲はとなりの教室へ行き圭介を捕まえた。
「杏奈のこと知ってる?」
「どうかしたの?」
勢い込んで身を乗り出す美咲に圭介は少し引きぎみに応えた。
「治っちゃったみたい。何でだろう?」
「え、そうか。よかった」
圭介は安堵と同時にどこか遠くを見つめるような目をしている。
美咲は釈然としない違和感を感じたが、昼休みに話をしたいからということを伝えて自分の教室に戻った。
昼休みに校舎の屋上に集まった美咲たちは、龍神橋での出来ごとから今日に至るまでの話を杏奈に聞かせたが、当の本人はまったく記憶がないという。日々の生活や学校の勉強などに支障はなかったし、それは普通の記憶として認識しているようだ。ただ、龍神橋に関することだけが記憶からすっぽりと抜け落ちている。
「でも、何で急に治ったんだろう?」
誰もが不思議に思っていることを瑛子が口にした。
「夕べの落雷が関係してるんじゃないのかな」
「祠が燃えちゃったから?」
圭介の冷静な発言に美咲が反応した。
「うん。原因になった龍神を祀った祠とかが燃えちゃえば、呪詛みたいなものは消えるんじゃないのかな」
そうかもしれないね、と全員が頷く。「ま、杏奈が無事に戻ってきたんだから、もういいんじゃない?」
それもそうだね、とまた全員が頷く。
「でも何か、私だけ仲間はずれっぽいなぁ」と、記憶の欠如している杏奈が不平を垂れると全員が爆笑した。
これで心おきなく夏休みが楽しめそうだ。
久しぶりに三人揃って校門を出た。
杏奈のことがあってから、こうして三人で帰るのはひと月ぶりだ。いつも三人揃って歩いていたのが、何故かひどく遠い出来ごとのように思えた。
前と変わらず他愛もないおしゃべりをしながら歩く三人に、夏の陽射しと蝉の声が降り注ぐ。
いつもと変わらない日常が戻ったことに美咲は安堵していたが、何か釈然としないものが頭の隅に引っ掛っている。
——祠がなくなったことが解決へと導いたのだろうか?
その答えは美咲が家の前に着いたとき、思ってもいなかった状況でもたらされた。
「圭介くん!」
美咲の家の前に圭介がひとり佇んでいた。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「あ、うん、いいよ」
「ここじゃ話にくいから、どっか行こう」と、圭介がいう。
美咲は鞄だけを家に置いて、圭介と歩き出した。
ふたりは二本松のところまで歩いた。瑛子と、そして圭介とも龍神橋に行くために待ち合わせた場所だ。
言い出しにくそうにしていた圭介だが、美咲が「何? 話って?」と促すと、やがて口をひらいた。
「オレさ、転校するんだ」
「え⁉」
あまりにも唐突だったので、美咲も何をいっていいのか分からない。
「夏休み中に引越するから、だから最後にやるだけのことはやっておこうと思って」
「やるだけって、何を?」
「本村のこと……。ちゃんと元に戻ってよかった」
「杏奈? 杏奈に何かしたの?」
「いや、そうじゃなくて。龍神橋のことだよ」
「え? 何かしたの? だって祠が燃えちゃったって……」
「あ、あれは危なかった。先に取っておいてよかった」
祠に行って玉を取ってきたということなのだろうか。美咲も昨夜、雨の合間をぬって祠まで行ってみたが、玉はなかった。その後には落雷による山火事であの辺りは燃えたはずだ。
美咲が祠まで往復するあいだに圭介は見かけなかった。それならば、いつ玉を取ってきたのだろうか。
前回、圭介と行ったときにも玉はなかった。すると——いつ?
「実はこのあいだふたりで行ったとき、玉はあったんだよ。すぐに隠したから相原には分からなかったと思うけど」
「えー⁉ あの時、あったの? 何で隠したりするのよ!」
「いや、つい。オレもやってみたかったんだよ。だから、人に話したらいけないと思って黙ってたんだ」
「でも……」
美咲は責めるわけにもいかず、口ごもってしまった。確かに他の人に知られてはいけないことになっているのだから。
「もう願いは叶ったんだから、いってもいいかなと思ってさ」
「じゃあ、杏奈のことお願いしたの?」
「うん」
急に杏奈が治ったわけがこれで解決した。どこか釈然としなかった違和感もこれで払拭された。
だが、せっかく圭介の思いが届いて杏奈が回復したのに、彼がいなくなってしまうのは何とも皮肉めいた気もする。
最初は嘘だと決めつけていた龍神橋の伝説も、これで真実だと証明されてしまった。しかし、玉を祀った祠が焼けてしまったので、証明することも出来なくなってしまった。
でも、これでいいのかもしれない。他力本願的な願いごとより、しっかりと自分自身の努力で勝ち取った結果の方がずっと価値があると思う。
「でも、いつ橋に行ったの? 満月は夕べだよね」
「雨があがって少しのあいだ晴れ間がのぞいていたの、知ってる?」
知ってるも何も、まさにそのタイミングを見計らって美咲は祠まで行ったのだ。その状況を圭介に説明した。
「そうか、ちょっとした時間のズレがあったんだね」
つまり、雨があがって美咲が祠に向かった少し後から、圭介が同じように玉を持って橋に向かっていたのだ。美咲が橋を通過して祠の辺りにいたとき、圭介が橋に到着した。このときにはまだ晴れ間があり、橋には月明かりが当たっていた。そこで圭介は玉をはめ込んで願いをかけた。そして、美咲が橋まで戻ってきたときには、圭介はすでに立ち去った後だったというわけだ。
美咲から石碑に掘られた龍の目が赤く光ったと聞かされていたので、そのつもりでいたら、目ではなく玉が月明かりと共鳴するように青白く光ったという。そしてその後、玉はなくなっていたそうだ。
「それじゃ、願いが叶うときには玉が青白く、叶わないときには目が赤く光るのね」
「そうかもね」
もう確認することは出来ないが、きっとそういうことなのだろうとふたりは納得した。
「それとさ……」
「他にもあるの?」
圭介はまたもや言いにくそうである。
「牧野なんだけど……」
「瑛子がどうかした?」
「それが、何というか……」
圭介が言いにくそうにしている理由は、何とか美咲が訊きだしたことで明らかになった。それは杏奈の件について、重大な秘密でもあった。
つまりはこうだ。
杏奈が圭介に片想いをしているのは美咲も瑛子も承知している。それを隠すことなくオープンにしているのも事実だ。あからさまに圭介にアプローチもかけている。
だが、それは杏奈だけではなかった。瑛子も密かに圭介に想いをよせていたのだ。
瑛子は杏奈があけすけに圭介への片想いをひけらかすものだから、自分の気持ちを口にだすことが出来ないで悩んでいた。
そんなときに思いだしたのが、子供のころ祖母から聞いた『龍神橋』の話だった。まだ小さいころだったので、龍の神様などという畏れ多い話にひどく怖かった思い出が今もある。
瑛子は母親から聞いたようなことをいっていたが、実は祖母から聞いていたのだ。
だから思い出しはしたものの、怖がりな瑛子は夜中にひとりで山奥まで行くことはできなかった。そこである作戦を考えだした。
龍神橋の願いは人にいったり、見られたりすると、その願いが叶わないと同時に願い自体が消えてしまう。願いをかけた本人もそのことを忘却してしまうということを逆手に取ろうと画策した。
つまり、同じ想いを抱くライバルの杏奈を排除しようとしたのだ。
杏奈は瑛子の作戦に見事にのり、龍神橋へと向かった。瑛子も怖いのを我慢して二本松の影に隠れて、杏奈が来るのを待っていた。彼女の後をつけて橋まで行こうと思っていたのだ。
ところが思わぬところに美咲からのメールが届いた。ひとりで心細かった瑛子は美咲と待ち合わせして橋へと向かうことにした。だから、二本松までは美咲の家の方が近いにも関わらず、先に瑛子が待っていたのだ。
その後の出来ごとは美咲も知っての通りで、杏奈は願いを剥奪され魂のぬけたような日々を過ごしていた。それから察するに、杏奈のなかで圭介への想いが大きかったことを物語る。そうして瑛子の策略は見事に成功した。
ライバルの脱落したことを確認すると、瑛子は圭介へのアプローチを開始した。
美咲の記憶のなかでもそれは思いあたるふしがある。教室の前で話をしていたふたりが、美咲の顔をみて急に離れたことや、他にも体育館の前や廊下の隅で、ふとした拍子に視界に映ったふたりの姿。
だが、瑛子の想いを彼は受け入れることはなかった。
「好きなひとがいるんだ」
そう圭介にいわれた瑛子は悔し涙をのみ、悔し紛れに誰にもいわないという約束で龍神橋にまつわる企みを告白してしまった。
そこまで聞いた美咲は「何でそこまでして……」と、恋敵といえども親友どうしでのそうした争いごとを哀しく感じた。
「ま、今までどおりに仲良くやって欲しい、というか……」
圭介もきっと同じように感じているようだ。
恋する気持ちが思わぬ事態に発展してしまった親友ふたりだが、記憶のない杏奈は別として、瑛子が何かをいいださない限りは美咲も知らなかったことにしてしまえばいい。
もう済んだこととして記憶の片隅にしまっておこうと美咲は思った。
「うん、わかった」
圭介が転校してしまうのは残念だが、これからせっかく夏休みに入るのだから、また三人で楽しく過ごしていきたい。
「圭介くんも元気でね。転校しても私たちのこと忘れないで……」
「忘れないよ」
圭介は美咲の両肩をそっと抱くように手をおいた。そして一歩近づく。
急に両肩を抱かれた美咲は、ぴくっと身体が硬直してしまう。すぐ目の前に圭介の顔があり、美咲を見つめている。
見つめられるのが恥ずかしくなって、美咲は顔を伏せる。
「ほんとうは、もうひとつ願いをかけたんだ」
美咲はとっさに顔をあげ、圭介の瞳をみつめる。何故だか心臓の鼓動が激しくなり、抱かれた肩から彼にそれが伝わってしまいそうで、また顔を伏せてしまう。
「いってしまうと、もう願いが叶わなくなるかもしれないから………」
圭介はそこまでいうと、いちど言葉を切った。
どうしたのだろうと美咲が顔をあげようとしたとき、おでこに暖かくて柔らかい感触があった。
——え⁉
それはほんの一瞬だったけど、だけど……。
美咲がそれを正確に認識したときには、圭介はもう背を向けて走りだしていた。
——キス、されちゃった。
美咲が呆然として立ちすくんでいると、数十メートル先まで走っていった彼が立ち止まり、こちらに振り向いた。
「忘れないよ、ゼッタイ!」
圭介はそう叫ぶと大きく手を振って走っていってしまった。
美咲は身体が固まったまま動くことが出来ず、ただそれを黙って見守っていた。
心臓がドキドキとして顔が熱くなっている。
——どうしよう、明日の終業式。
もし廊下で会っても、彼の顔をまともに見られそうもない。
これが恋というものだろうか。
——そんな。
龍神の祠も焼失し、それにまつわるゴタゴタも終わったが、たった今美咲の心に灯された暖かく小さな光はとても消えそうにない。
ー了ー
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陽のあたらない物書き