1
鉄棒で反転した世界は、驚くほどに鮮やかになった。小学校以来、久しぶりにぶら下がった鉄棒の温度は冷たかったけれど、私にはちょうどいい温度だった。髪は地面を掃いて、夕暮れの公園には私だけ。ゆらゆらと三回体を振った。膝の裏が鉄くさくなった。もう反転して世界を戻す。その勢いで黒のパンプスが宙を舞う。かすかな粉塵を上げて落ちたところは、ちょうど夕日の溜まり場だった。スカートが翻ることは気にしなかった。街の雑踏は遠くに見えて、ここだけは静かに思える。ふう、とひとつため息をついて、私は裸足で土の上に降りた。足の裏を突く小石の痛みを楽しみながら、パンプスのいる陽だまりへ数歩足をのばす。ジャリ、ジャリ、道のりは長い。
祖父が倒れた。その知らせは突然、会社で大量の書類をコピーしている時に届いた。私は電話口で固まってしまい、コピーは無機質に用紙を吐き出していた。そして気づいた時にはもう特急に乗りこんでいたのだった。いつ退社したのかも、あのコピーがどうなったのかも、部長がどんな顔をしていたのかも、全部全部オフィスに置いてきた。窓の外の景色が驚くほど速く流れて、祖父のいる街には思いのほか早く到着した。連絡をくれた人からのメールを確認しながら、祖父が運ばれた病院へ向かった。かかとは靴擦れを起こして赤くなった。それと同じく頬も火照る。息が上がったままナースステーションにたどり着き、看護師が不思議な顔をするのを無視して一度息を整えた。そして、祖父の名前を口にしようとした時、私は凍りついた。名前がでてこない。
祖父とはもう何年も連絡がついていなかった。最後に会った記憶は、確か私が十歳の時。あれからもう、本当にずっと祖父がどうしているのか分からなかった。母もその間、祖父の話をしなかった。アルコールの匂いが充満した廊下を、初老の女性について歩く。彼女は私の祖母ではない。疲れた色を露わにした彼女の顔は、その色とは逆で美しく見えた。悲しい色は人を綺麗にするのだろうか。古ぼけた病棟は絶えず軋む音を鳴らす。崩れ落ちそうで少し恐ろしくなったが、そこまで脆くもないようだ。廊下の一番奥の部屋で、祖父はシーツに沈んでいた。私の記憶の祖父とはあまりにも変わっていて、私は思わず絶句した。大きくて逞しかった祖父はやせ細って、歯も二本程しか残っていなかった。体中から管が伸び、自力で生きていなかった。白髪がまばらになって、額には何でついたのか分からないかすり傷がにじんでいた。
女性は名を安子といった。祖父母が離婚した後、祖父の面倒を見てくれていた人だった。祖父との関係は今でもよく分からない。ただ、離婚した後、家族から孤立してしまった祖父にとって、大事な人に間違いはなかった。私は覚えていなかったが、彼女の方は私の幼いころを知っていて、ナースステーションで固まっているところに声をかけてくれたのだった。
「こんなに早くきてくれるなんて思ってなかったわ」
安子は小さく笑って言った。私は曖昧な返事しかできず、自販機の前で缶コーヒーを握りしめていた。彼女は話し続けた。
「本当に急なことで、私も気が動転しちゃってね、ただ、おじいちゃんの携帯に入ってたのが美紀ちゃんの番号しかなくて……」
「あ……いいんですよ、全然」
私は彼女の顔を見れずに答えた。けだるい空気が流れる。
「それで、おじいちゃんは」
私の言葉に、安子は思い出したかのように涙をぽろぽろと落とし始めた。
「今は……まだどうとも……肺炎を併発したら……もう……」
その事実に、私は「そう」と、何とも不似合いな相槌をした。ああ、なんて祖父不孝な孫なんだろう。そんな気持ちだった。しかし、どうしたものか、言葉が生まれてこない。誰かがやってきて自販機で飲み物を買った。ガタン、という音を立てて缶が落ちた。私の中でも、似たような音が鳴った。
4
ケンジは夢から目を覚ました。
辺りを見渡すと、見慣れた倉庫に、見慣れた仲間たちが細い寝息を立てて眠っている。朝の六時頃だろうか。ケンジは横になりながら身体を伸ばし、大きく欠伸をした。
―今になってあの時の夢を見るなんて。
マサルが突然仲間たちの前から姿を消して九か月が経った現在。ゆっくり身を起こしながら窓の外を眺めると、大粒の雪が激しく降り積もっていた。ケンジは俯き、溜息をついた。
―今日もか……
この三日間、仙台は大雪に見舞われており、仲間たちは十分に食料を確保できずにいた。そのため、ケンジを含め仲間たちは皆、この全く味気のない天気にイラつき始めていた。ケンジは落胆のあまり、もう一度溜め息をつこうと、大きく息を吸った。すると、寝ている仲間の一匹の耳がピクン、と動き、ケンジはとっさに吐き出す寸前の溜め息を、無理やり逆流させた。
もしお前がリーダーになったら、絶対に弱みを見せるな。
マサルの言葉が、脳内に生々しく響いた。ケンジは息を鼻から吸い、口から吐くのを繰り返し、気持ちを落ち着かせた。すると、身体から力が抜け、頭が落ち着いた。
―大丈夫だ、マサル。
ケンジはしばらくの間、眼を閉じ、マサルが残していった言葉を一つずつ脳内で反芻した。こうしている時だけ、自分がリーダーであることのプレッシャーから解放される。
「ばる ばるるる ばるばるばるばるばるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
不意に誰かの声で、ケンジは現実に引き戻された。目を開けて見ると、声の主はタロウの腹の上で寝ているチワワだった。どうやら寝言らしい。
「ばる、ばる」
ケンジはそっと、タロウのそばに近づいた。
マサルが消え、皆に選ばれてリーダーになった時から、ケンジはタロウにかなり入れ込んでいた。自分もいつマサルのように消えてしまうかわからない。もしもの時のために、自分の代わりにリーダーを務める者を育てなければならない。マサルがケンジにしたように。
ケンジはマサルから授かった知識を、そのままタロウに授けた。タロウは元警察犬ということもあり、学習能力が高く、あらゆることを瞬く間に習得した。また、タロウの警察で鍛え抜かれた嗅覚はすさまじく、いつも誰よりも多くの食事を持ち帰ってきた。そのずば抜けた能力を鼻にかけることもなく、温厚な性格で、仲間からの信頼も当然厚かった。
そんな心も身体も自分より一回り以上大きなタロウを見て、以前ケンジは尋ねたことがあった。
「もし俺がいなくなったら、ここを頼めるか?」
するとタロウは呆れたような顔で、笑いながら答えた。
「兄貴は大丈夫ですよ。それに、もしいなくなっても兄貴は絶対に戻ってくる」
そう言われてケンジは素直に嬉しかったが、ではなぜマサルは突然消えてしまったのだろう、という疑問が頭をよぎった。ケンジは、マサルが仲間達を捨てて失踪したとは、どうしても考えられなかった。それは他の仲間達も同じだった。自分を捨てた人間のことを極限まで恨んでいたマサルに限って、彼らと同じ行動を起こすとは到底考えられなかった。だとすれば、不慮の事故に遭ったと考えるのが最も説得力があった。
あの後ケンジと別れたマサルは、おそらく交通事故か何かに遭い、帰らぬ犬となったのだろう。少なくともケンジは今もそう思っている。
「えー、それでは。今日は皆さんにちょっと殺し合いをしてもらいます」
ケンジは毎回お決まりのフレーズで、ミーティングの招集をかけた。
時刻は正午。これから雪の中、過酷な食料の調達が始まる。皆の顔には一様に不安の色が見えた。ケンジはドラム缶の上に立ち、全体を見渡しながら指示を出した。
「わかってるだろうが、今日も二匹一組だ。一匹では行動するなよ。効率は悪くなるが仕方ない、安全のためだ。」
ケンジは悪天候の日はなるべく一匹で行動することを避けるように指示していた。マサルの件が引っ掛かっていたからだ。しかし今日の仲間たちの顔はいつもに増して暗かった。
「明日にはきっと晴れるから大丈夫だ」
ケンジはなるべくみんなを励まそうと前向きな言葉を発した。しかしケンジ自身、前向きな気持ちになれそうになかった。もし、明日も晴れなかったらどうするのか、その時皆をどう励ませばいいのか。もしそれでグループの雰囲気が悪くなった時の対処は? あらゆるネガティブな思考が波となり、脳内に押し寄せてきた。そんな時にふと、自分はリーダーに向いてないんじゃないか、という考えが頭をよぎることが多々あった。
―明日も晴れなかったら、全員一匹で行動させるしかないな。
ケンジはネガティブ思考を無理やり振り払い、今後の方針の目処を付けた。
「先生、先生。ちょっといいでしゅかー」
メスのシーズー、パドメがケンジに声を掛けた。ケンジは我に返り、咄嗟に深刻な思案顔から満面のゴッドスマイルに切り替え、パドメに顔を向けた。
「どうしたんだい、ん? 先生に言ってごらん」
パドメはケンジを見上げながら、すっと息を吸い込んだ。
「昨日スカイウォーカーくんのパートナーであるオビワン・ケノービ君が間違えてトカゲを食べたことにより腹痛を訴え現在もなお身動きが困難となっているのでスカイウォーカーくんは今日必然的にパートナー不在となり彼はそのことによってもたらされる不安そして孤独に対し只ならぬ恐怖を抱き助けを求めるかのような視線を私に浴びせかけてくるのですが私はこのような状況もスカイウォーカーくんが生きていくために必要な課題であると解釈したのでここは敢えて一匹で行動させることによりスカイウォーカーくんの成長を促したいと思うのですがどうでしょう。成長したいよねぇ、スカイウォーカーくん」
「えっいや、まぁ……」
ゴールデンレトリバーのスカイウォーカーくんは、大きな身体をプルプルさせながら、曖昧な返事をした。パドメは目を細めて蔑むような目線を浴びせながら言った。
「じゃあ、今日はあんた一匹ね」
「いやちょっとそれだけは!」
「は? なにがそれだけわ! よ。それだけしかないんだよあんたは。自分の立場わかってんのいい加減にしろよ豚」
「だってオビワン・ケノービ君が」
「なにオビワン・ケノービ君のせいにしようとして。じゃあ今現在オビワン・ケノービ君が味わってる苦痛をあんたが全て引き受けろよ。そしたら行かなくてもいいわよ」
「じゃあ、せめてそっちのチームに入れてよ。三匹で行動しようよ」
「無理」
「何で」
「何で? 無理だから無理。そういう意味で、無理」
「そんな。ひどいよひどいよ。僕も入れてよ」
スカイウォーカーくんはより一層身体をプルプルさせながら、震える声で訴えた。スカイウォーカーくんは泣いていた。
「なに泣いてんのきもいんだけど。泣いたところで状況が変わるとでも思ってんの。泣くことによってどうにもならないことをどうにかしようとして、一体その行為にどんな意味があるのか」
「いやだいやだ、一匹はいやだ。いやだ行きたい。一緒に行きたい」
言いながらスカイウォーカーくんは床に伏せ、とめどなく流れる涙で濡らした頭を地面にすりつけながら号泣し始めた。パドメは彼を見下ろし、片方の前足で彼の頭を押さえつけた。
「もっと泣けよ。それとも私の肉球舐めるか?」
パドメは嬉しそうに肉球をスカイウォーカーくんの頭にぐりぐりと捩じ込んでいた。ケンジはできればもう少し見ていたかったが、さすがに周りが引き始めたので、この辺が潮時だと思った。そして何よりこれ以上はスカイウォーカーくんが可哀想だった。同時になぜか嫉妬すら覚えた。「うらー。いい加減にしろよー、これ以上続けたら先生ナイフ投げるぞー」
「はーい、先生」
もう満足したのか、パドメは肉球を捩じ込むのをやめて大人しく引き下がった。スカイウォーカーくんの頭頂部は大分薄くなってきていた。
「タロウ、スカイウォーカーくんについてやれ。今日は俺一人でいい」
「外は危険ですよ、あまり一匹で行動しない方が。兄貴と僕とスカイウォーカーくんの三匹で行動しましょう」
「一チームに三匹だと、さらに効率が悪くなるだろ。今は少しでも多く調達できないとな。それに俺は一匹でも問題ない」
タロウは渋々納得した様子で、スカイウォーカーくんのそばに寄って行った。三匹だと効率が悪い、などと言ったがケンジの本心は違っていた。悪天候の中、一匹で行動し、食料を調達し帰ってくる頼りがいのある姿を仲間たちに見せつけたかったのだ。
―やりきったら、俺にもリーダーとしての自信がつくだろう。
ケンジは仲間たちを見渡した。
「それじゃあ、そろそろ行こう。暗くなる前には帰ってこいよ」
仲間たちはチームを作り、外に出て行った。最後にケンジ一匹が残された。
「大丈夫だ」
ケンジは心の中のマサルに語りかけ、外へ駆けだした。
雲がカチンコチンに凍って、どこかを襲うようにずっと東へ流れていく。彼は珍しく取り乱して、初めて娘を打った。今年十六になった彼女は反抗期でこそあったが、父である彼を嫌うような素振りは見せなかった。それほどに彼が優しく、慎ましくあったからだ。彼の右の掌は熱かった。
彼女が外へ飛び出して、彼はひとりきりになった。日曜の昼の出来事だった。彼はもう一度コーヒーを淹れることにした。それで、少し落ち着こう。窓の結露が重みを増して流れる。彼はカーテンを閉めて、テレビを点けた。番組が何であるかなどちっとも気にせず、娘の部屋へと向かった。ドアの前でためらったが、コーヒーが冷めてしまう、ノブを握る右手に力を込めた。
彼女の部屋は女の子らしくシャンプーが香っていた。彼女が小学生になるころに買い与えた勉強机は、いまでもきちんと整理されている。いまでもそこで勉強しているのだ。その一番上の引き出しを開けると、マイルドセブンの、メンソールの、ボックスがいやにきちんと置かれていた。彼はそれを手にとってしばらく眺め、ため息をついて部屋を出た。
コーヒーはちょうどいい温度で、外は寒空、心配な彼は憂鬱、テレビはケラケラと笑い声をあげていた。
彼女は五歳で、かわいい彼女は砂場で手を汚した。そして、保育園の大きなすべり台から落ちて怪我をした。連絡を受けた父は飛んで病院へ、彼女は右腕を骨折した。彼女の細い、だが五歳なりにもったりした右腕は、硬いギブスで固定された。春の花咲く窓のそば、ほんの一日入院し、ギブスは二ヶ月、彼女は元気に回復した。
それ以来何の病気も怪我もない。コーヒーはすっかり冷めたが、まだカップに半分残っていた。きみが、ぼくは生きているだけで幸せだ。きみが、ぼくは笑って暮らせたらそれでいいと思う。彼はそのために彼女を叱るのだと小さくつぶやいた。なにも、タバコくらい怒るほどのことじゃない。マイルドセブン、けっこうだ。だが後ろめたいならやらなければ良いとも思った。後ろめたさは暮らしを不快にするじゃあないか。
うっとりするような淡い淡い太陽が、カーテンを開けばそこにあって、まるで邪悪の化身のようだと彼は思った。きっとこの小さな炎も、煙も、邪悪の塊なのである。けっこう。邪悪、けっこうだ。慣れないタバコに彼はむせて、すぐ台所へ流してしまった。彼女が無事ここへ帰ったなら、よく、あんなものが吸えるなと褒めてやろう。さっきは取り乱して、すまなかったと。でも後ろめたいことはしてくれるな、好きにすればいい、隠さないでいておくれ。
彼はタバコをテーブルに置いて立ち上がった。冬の昼間の空の色、窓越しの雲はもう柔く薄く伸びていた。テレビがニュース番組へと切り替わった。深緑のセーターがベランダに揺れ、きっと凍えて揺れ、彼は夕食について考えた。シチューが良かろう、きっと。
ー完ー
『髪の毛生えます。千円から。』
そう書かれたボードを持った女ホームレスは、三が日の過ぎた大丸前の薄いベージュに迷い込んだように黒く浮いて見えた。
「千円でいいの」
そのとき声をかけたのは、おそらくあのボードの字が恐ろしいほど達筆であったからだろうと今なら思う。年齢を重ねるにつれ薄くなり、触れると毛より先に頭皮の脂が指につくほどだった頭のおかげで、私は近頃では髪という文字を目にするだけで自分が嘲笑われているように感じていたのだった。
半分ほど目が隠れるくらいに黒のニット帽を深くかぶった女ホームレスは、私の問にただ頷いて万華鏡ほどの大きさの黒い筒を差し出すと、側面に貼られた真っ白なラベルを二三度指先でトントンと指し示したのだった。ラベルには、
『毎食後に一本ずつ飲んでください。』
と書かれていた。そのときちらりと覗いた女ホームレスの顔がどんな顔であったか、今思い出そうとしても浮かぶのはあの黒いニット帽だけだった。
その日の夕食後には、私は筒に入っていた新品の鉛筆ほどの長さの黒髪を飲み込んでいた。
自分の髪の毛でも嫌なのに、誰のものかわからない髪の毛を口にするなんて耐え難いように思われるだろうが、そのときの私は何一つ不快感も感じず、押し入れの匂いのする髪の毛をまるで常備薬を飲むようにして毎食後に欠かさず飲み続けていたのだった。
突然の異常な腹痛を感じたのは、それから二週間ほど経った夜中のことだった。便がゆるい、というような痛みではなく、腹の中で何かを飼っているかのような痛みだった。口から喉までが乾ききって、胸のあたりを内側から引っ掻き回されているような感覚がした。なかなか定まらない焦点で、一升の飯を釜ごと食ったのかというほどに膨れ上がった自分の腹を見て、あわてて救急車を呼んだところで意識がなくなった。
気がつくと、私は病院のベッドの上に横になっていた。状態を尋ねに来た医者の説明では、私の胃の中には両手を広げてもまるで足りないほどの長さの髪の毛が何本もぎゅうぎゅうに詰まって、胃に入りきらなくなった分が食堂や腸にまで伸び上がっていたということだった。腹を開いて取り出してみて驚いたのだという。どんなものが胃の中に入っていたのか見てみますかと下卑た顔で言われたが遠慮しておいた。
医者の言葉を聞いた私の頭に浮かぶのは、あの黒い筒、そして押し入れの匂いのする髪の毛だった。しかしあの毛は医者の言うような長いものではなかったし、腹を開かねばならないほど飲んだつもりもなかった。
考えるほどにその長い髪の毛がどこからきたのかわからなくなってゆく。私は一つ深呼吸をした。そのとき触れた頭は相変わらず頭皮の脂を指先に伝えるだけだった。
病室は相部屋だった。医者が出て行って部屋が静かになると、自分のベッドのすぐ隣、カーテンを超えた同室の一角から、ワイドショーの音がわずかに漏れ聞こえてくる。
「えー、最近、お寺などで保管されている日本人形、それもいわゆるいわく付き、あの怪談話で有名な髪の伸びる人形などが、次々に盗まれているということです」
ー完ー
床に落ちて粉々になったコップを、ゆっくりと拾い集めている途中でした。私は急に硝子同士が擦れる音が私の右肩からも聞こえてくる気がしたのです。それは微かに、しかし着実に大きくなってゆく気がしました。私は破片を拾う手を急がせて、必死に何か他のことを考えようと努力しました。当時好いていた人のことや、音楽のことなどを思い浮かべました。しかしその音が消えることはありませんでした。否、寧ろそれら自身からも聞こえるのです。硝子同士が擦れ、削れ、遥か遠くでむせび泣くような音が聞こえるのです。それらは私がずっと、忌み嫌って遠ざけていた何者かでした。私が狂ったように叫んで、関わることを拒絶した何者かでした。私は自分自身がもう既に追いつかれていることに気づきました。一生のうちに自分がもう思いわずらうことはないだろうと高をくくっていたその焦燥感に、追いつかれていることに気づきました。私は集めていたコップの破片を、床へと思い切りばら撒きました。音が聞こえてくる場所が肩から頭頂部へと移り、きらきらと光っていた床がずいぶんとおとなしくなってきたころでした。
マンションと駅が繋がった
星と電線が重なった
そんな夜だから
意味のない言葉を贈り合おう
意味を持たない言葉を贈り合おう
硬い皮に護られた果実はいつのまのか腐ってた
綺麗に見えた瞳には泥が溜まってた
そんな日々だから
意味ありげな言葉をぶつけ合おう
意味に支配された言葉をぶつけ合おう
マンションと駅が繋がった
星と電線が重なった
そんな夜だから
2012年2月2日 発行 2月号 初版
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