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コーチ物語 〜明日は晴れ〜 舞い降りたコーチ

古賀弘規

ユーアンドミー書房

舞い降りたコーチ

「ねぇお父さん、そのなんとかって人、いつ来るのよ?」
「舞衣、なんとかじゃねーよ。あいつには羽賀純一っていう名前がちゃんとあるんだから覚えとけよ。
 今日からここに来てくれる、貴重な才能をもったヤツなんだから、そんないい加減な態度をとるんじゃねーよ」
「はいはい、わかりましたよ。だからこうやってお店を休んでまで、部屋を掃除してあげてんじゃないの」
 大都会とはかけ離れた、地方の田舎都市。田舎都市とはいいつつも、市のはずれでは大手企業の誘地が成功し、ここ数年は急速に人口が増え、郊外には新興の住宅地が開発され始めている。そのおかげか、駅前の中心街にもちょっとした高層ビルが建築されはじめ、新しい文化が芽生え始めている。その一方、昔は城下町として栄えたこともあり、駅を挟んで新興住宅街の反対側には古くからの町並みが広がっている。
 「フラワーショップ・フルール」
 ここはその古くからの町並みを、さらに郊外へ向けたほとんど市のはずれに近いところ。その町はずれの商店街の一角にある、五階建ての小さなビルの一階にこのフラワーショップは位置している。
「でさぁ、その羽賀さんって人は何をする人なの?」
「あぁ、これがな、ちょっと変わった職業でな。一言じゃうまく説明できねーんだよな」
「なにそれ! 怪しい職業じゃないんでしょうね? 情報通のお父さんが説明できないなんて…」
「いやぁ、あいつの人柄と仕事内容については間違いねぇ。このオレが保証するわい。だからこそ、ウチのビルの二階にあいつを呼んだんだよ」
 このビルは、舞衣の父である佐木野ひろしがオーナーであり、かつ四階と五階は佐木野親子の住まいになっている。
「しっかし、この二階の部屋もずいぶんと長い間空き部屋だったから、かなり汚れているよねぇ。だいたい、こんな町はずれのビルの一室なんて今どき借りてくれる人はいないわよ。その羽賀さんって貴重な存在だわ」
「あ、舞衣には言ってなかったっけ? ちょっと事情があってな、あいつにはしばらく家賃無しで貸すことにしてんだわ」
「えぇ~っ! お父さん、信じられない! ちょっと人がよすぎるよ、それって」
「まぁそういうなよ。これがそのうち必ずこっちにも返ってくるんだから」
「んとに、いつもこうなんだから。『情けは人のためならず』でしょ。でも、その人の良すぎるところがいつも仇になっちゃうんだから。
 死んだお母さんが、いつも口癖のように『お父さんは人が良すぎるんだから。でもそこがお父さんらしさなのよ』って言っていたのを思い出しちゃったじゃない。ま、とにかく早くこのお化け屋敷みたいな部屋を片づけて、その羽賀さんって人が来るのを待ちましょ。お父さん、ぼさっとしてないで、そこのバケツに水をくんできてちょうだい」
「なんか舞衣のしゃべり方、死んだお母さんにそっくりになってきたな……」
 半分、懐かしみを感じながら、素直に娘の舞衣の言うとおりに従うひろしであった。

「えっと、確かこの先を曲がったところに……えっ、ち、違う……おっかしいなぁ~。なにしろ佐木野さんのところは、ずいぶん前にうかがったきりだからな。地図を無くしちゃったのは痛いなぁ~」
「こりゃ、そこの背の高いあんちゃん。何かお困りのようじゃが、どうしたんじゃ?」
「わっ、びっくりした!」
 駄菓子屋と食品店を一緒にした、地方にはありがちな商店の中からぬぅっと現れたおばあさん。
「ほれ、背の高いあんちゃん。何か困りごとかね?」
「はぁ、実は佐木野さんというお宅を探しているんですよ。一階が花屋さんで、5階建てのビルなんですが……」
「ほぉ、あの佐木野の知り合いかね。じゃったらまだしばらく歩かんといかんぞ。お急ぎでなかったら、休憩がてらウチでお茶でも飲んでいかんかね?」
「は、はぁ。これからこの町にお世話になることだし、それではお言葉に甘えて……」
「ほぉ、ひょっとしておまえさんがあの佐木野のところにやっかいになるというお方かい。うわさはきいとったぞ。おまえさん、名前はなんというんだい?」
「私ですか、私の名前は……」
 背の高いあんちゃん、といっても歳は30過ぎ。そのあんちゃんが名前を伝えようと、ふと上を向いたとき。
「ん、あれは……あれは人じゃないのか?おばあちゃん、あのビルの上、あそこに人が立ってる!」
「どりゃ……どこのビルじゃ?年寄りにはちょっと見えんなぁ……」
「間違いない、あの高いビルの上だ。おばあちゃん、警察に電話して! 今すぐに! あれは飛び降り自殺だ!」
「なんと!そりゃ一大事じゃ。おい、和子さん、和子さんよ!」
「なんですか、おばあちゃん。あら、こんにちは」
「のんきにあいさつなんかしとる場合じゃない。あのビルの上に飛び降り自殺の人がおるというんじゃ!」
「え、どれどれ…あら、ホント。あのビルから飛び降りたら大変だわねぇ」
「奥さん、のんびりしている場合じゃないですよ。すぐに警察に電話して! 私はあのビルに行ってみます!」
「はいはい、わかりました。えっと、イチ・イチ・マルっと」
「和子さん、相変わらずのんびりやさんだねぇ」
「ではよろしくお願いします!」
「おっと、その前におまえさんの名前くらい聞いとかないとねぇ」
「羽賀、羽賀純一です!」
「羽賀さんとやら、気をつけて行ってくるんじゃぞ」

 はぁはぁ、ぜいぜい。
 羽賀が十五階建てのビルの屋上にたどり着いたのはそれから間もなくしてのこと。このあたりではめずらしく高さのあるビルだ。扉を開けると、金網の向こう側に今にも飛び降りそうな若い女性が目に入った。
「君、おい君!」
 羽賀はその若い女性に声をかけた。それに気づいたのか、若い女性はくるっとこちらを向いて、そして今にも泣きそうな声でこう叫び始めた。
「来ないで、近寄らないでよ。わたし、今から死ぬんだから。こっちに来ないで!」
「いかんな、こりゃ。かなり興奮しているぞ。刺激を与えるとやばいことになりそうだ。どうする、羽賀純一……」
 羽賀はまず彼女の様子を冷静に観察することにした。
 見た目は二十歳前後か。この地方にはめずらしく、ちょっと奇抜なファッション。東京当たりでは違和感はないだろうが、このあたりでは浮いているな。自殺しようとしているわりには、先ほどの声はちょっと泣き声だったな。ひょっとして……ん、間違いない。この娘は突発的に自殺しようと思っているんだな。前々から計画していたワケではないのは明らかだ。羽賀は彼女のある一点からそれを見抜いた。
 そう思っていたところ、けたたましくサイレンを鳴らしてやってきたパトカーが1台。たてつづけに覆面のパトカーがもう一台到着。どやどやと警官が屋上へ向かってくるのが、このビルの屋上からもわかった。
「やばいな、彼女に刺激にならなきゃいいんだが…」
 羽賀の胸には、ちょっとした不安がよぎった。
「君が第一発見者か?」
 どやどやと現れたのは、制服を着た警官2名に中年の私服警官と思われる人物が一名。声をかけたのは、制服の警官の方であった。
「ったく、このオレにこんなところまで上らせて走らせるんじゃねーよ。で、どこにいるんだ、その人騒がせな自殺やろうは?」
 ぶっきらぼうにしゃべり出したのはブルドッグのような顔をした中年の私服の男性。屋上入り口での会話が、自殺しようとしている彼女に届いているとも知らずに大きな声で怒鳴り散らす。
「しっ、彼女を刺激させないで下さい」
 羽賀は口元に一本指を立てて、『静かに』のサインを送った。
「ん、なんだよ。おまえが第一発見者か?」
 ブルドッグのような顔の汗を拭きながら、中年の男が顔を上げてる。そしてその口から意外な言葉が発せられた。
「お、おまえは……確か羽賀とか言ったな。何でおまえがこんなところにいやがるんだよ。よくノコノコとこの町に顔を出せたもんだな」
「お久しぶりです、竹井警部」
 羽賀はすました顔でそう答えた。
「竹井警部、こちらの方とお知り合いですか?」
 制服の若い警官が竹井警部に尋ねた。
「あぁ、確か半年ぶりだな。しかし、半年前と同じシチュエーションで顔を合わせることになるとはな。よくよくおまえはこういうのに縁があるヤツだ」
「昔話は後にしましょう。それよりも、今は彼女を刺激しないようにして下さい。
 おそらく突発的な感情からの自殺ですから
「なによ、そこでなにごちゃごちゃ話してんのよ! どうせ私の悪口でしょ。わかってるんだから!」
 自殺をしようとしている彼女が突然、そうわめきだした。
「ちっ、とにかくオレは今からあの彼女を説得してくるから。
 羽賀、おまえはいらんこと口を出すなよ。ここからは警察の仕事だ」
「半年前のあの事件で、それはよくわかっていますよ」
「よし、とりあえず部外者はここから出て行ってもらおう。
 おい、おまえはこいつを外に連れ出して、本部とレスキューに連絡してこい」
 竹井警部は若い警官にそう指示をすると、くるっと向きを変えて金網の向こうにいる彼女に近づき始めた。羽賀はその姿を見て、一言こう発した。
「警部、人は『説得』じゃ動きませんよ。『納得』して始めて行動するんです。それを忘れないで下さいね!」
「うるさい、おまえに指示されたくないわ!」

「来ないでって言っているのがわからないの!」
「まぁまぁ、落ち着いて。お嬢さん、名前はなんていうんだい?教えてくれよ」
 竹井警部は穏便に、そしてやんわりとした口調でそう話しかけた。が、その口調と顔つきが全くマッチしないため、同行した警官が思わず吹きしそうになっていた。
「名前なんて言いたくないわよ。それよりほっといてよ。私は今から自殺して、復讐してやるんだから!」
「おいおい、そんなに早まるんじゃないよ。お嬢さんだってまだまだ若いんだから。そんなにあせるんじゃないよ」
「そうやって大人ぶった言葉で私を慰めようとしてもムダよ!私の決意は固いんだから。とにかくほっといてよ!」
 こりゃ説得するのに難航しそうだ。竹井警部は目でもう一人の警官に合図をして、一度屋上の入り口まで引き下がることにした。
「ったく、こちらが穏便に話しかけりゃ聞く耳持たずだ」
「ウチの署に、取り調べの落としのプロ、なんてのがいればうまくやってくれるんでしょうけどね……」
「落としのプロね……ありゃドラマだけの話しだよ。そんないい具合に人の気持ちを変えられるもんか。それよりも、レスキューの準備はどうだ?」
「今確認します」
 警官が無線でレスキュー隊の状態を確認する。
「ちっ、落としのプロか。なんでこんなときにあいつの顔が浮かんでくるんだよ。いまいましい」
 竹井警部がそうつぶやいたとき、
「なにごちゃごちゃそこで相談してんのよ! どうせ私の陰口をそこでたたいているんでしょ。もうそんなのまっぴらよ!」
「うわっ、完全な被害妄想だな。どうやら自殺の原因はこのあたりにありそうだ」
 竹井警部はそうつぶやくと、女性に対してこう言葉をかけた。
「そんなことはないよ。君のことを心配しているんだよ。どうだい、何があったのかぜひ話してくれないか? きっと君の力になることができると思うんだが」
「その警察の言葉が信じられないから、こうやっているんじゃない!」
「くそっ、完全に否定されっぱなしだな」
「警部、レスキューの状態ですがマットの準備はできたそうです。しかし、はしご車が届く高さではないので、外からの救助は無理だそうです。それに、今の風の強さと、飛び降りたときにマットの位置をはずされると安全の保証はできないということです」
 警官が言うとおり、ビルの屋上は風が強く飛び降りたときに予想もしないところへ流される危険性がある。
「ちっ、万が一の場合もやばいということか。となると、あの小娘を何とかして説得せんとな」
「あの……確かあの羽賀さんという方が『説得』ではなく『納得』させろ、とアドバイスしていったと思うのですが。あれはどういう意味なんですか?」
「あぁ、あれか。ま、あいつの言うことにも一理あるな。詳しくはこの件が終わったらゆっくり話してやる」
「あの羽賀さんって方、彼女を説得するいい方法をご存じ何じゃないですか?」
「ちっ、確かにあいつならあの小娘を説得……じゃなく納得させて引きずりおろすこともできるかもしれん。あの半年前のようにな」
「では、羽賀さんにお願いするのはだめなんでしょうか? 確かに一般の人が立ち入る事件ではないと思いますが、このままだといつ飛び降りてもおかしくないですよ」
 竹井警部はしばらく考え込み、そして一つの決断を下した。
「おい、無線であいつを読んでくるように指示してくれ」
「あいつって……あの羽賀さんのことですか?」
「そうだ、大至急だ!」
 自殺騒ぎのビルの一階。救急車やレスキュー、それにパトカーが集まってきたせいか、周りは野次馬で一杯になり始めた。
「ですから、この町には今日着いたんですよ。今からお世話になるところに向かおうとしていたところで、そこで道に迷ってですね。そこの住所を書いた地図を無くしちゃって」
 羽賀は若い警官に対して、発見時の状況を説明中。
「う~ん、竹井警部とお知り合いのようですけど、それってホントなんですか? あの警部と知り合いっていうと、どうしてもあの人に昔逮捕されたとか、あっち系の人とかを想像しちゃうんですけど……」
 若い警官は、ほほに傷のジェスチャーをして、あっち系の意味をそれとなくほのめかした。
「いや、そんなんじゃなくて……」
 羽賀がそう言いかけたときに、若い警官の無線がなった。
「はい、えぇ、はい。わかりました。直ちにつれていきます」
 警官は羽賀の方を見るとこう伝えた。
「竹井警部が屋上でお呼びです。一緒に来てくれということです」
「竹井警部、半年前と同じくギブアップか。わかりました、行きましょう」
 羽賀はこれを予感していたかの、気を取り直して屋上へと向かった。
 
「もう、あっちにいっててよ!落ち着いて死ぬこともできないじゃないの! 最後に見る顔が、あなたみたいなブルドックじゃ死ぬに死ねないでしょ!」
 女性は竹井警部に向かって、だんだん訳のわからないことを言いたい放題言い始めている。
「なんだよっ、こちらが下手に出てりゃいい気になりやがって。飛び降りるんだったらさっさと飛び降りちまえ!」
「警部、そんなこと言わないで下さいよ。警察の責任問題になちゃいますよ」
 若い警官は竹井警部と自殺志願の女性の板挟みにあって、おろおろするばかりであった。そんなとき
「おまたせっ、竹井警部。やっぱり半年前と同じく私の出番のようですね」
 わりと軽いノリで現れた羽賀。
「ちっ、しゃくだけどおまえにまかせるしかなさそうだな。だがよ、半年前のように最後にドジるんじゃねーぞ」
「わかってますよ、警部。さて、ちょっと行ってきますね」
 羽賀はそう言って少しずつ女性に歩み寄り始めた。
「竹井警部、半年前ってさっきからおっしゃっていますが、いったいあの羽賀さんという方と何があったんですか?」
 羽賀を連れてきた警官が竹井警部にそう尋ねた。
「あぁ、そのことか。これはこの一件が終わってからゆっくり話してやるから待ってろ」
 そう言うと、竹井警部は羽賀の行動を屋上入り口からしっかりと見つめ始めた。
 羽賀はゆっくりと女性に近づく…と思った矢先、どんっと屋上の床に大の字になって寝転がった。そして仰向けに伸びをして、空を眺めて一言。
「あぁ、今日はいい天気だな。空が高いや。ね、そう思わないかい?」
 女性を始め、一同があっけにとられたのはいうまでもない。それでも羽賀はにっこりとして空を大の字で眺めている。
 その視線につられたのか、女性はゆっくりと空を向き
「え、えぇ。そうね。今日はとってもいい天気よね」
 先ほどのヒステリックな叫びから一転、落ち着き払って言葉をそう発した。
「そっか、君もやっぱりそう思うよね。こんな日は縁側でゆっくりお茶でも飲みながら、ぼーっとしていたいよな。君だったらどうやって過ごすんだい?」
「あなたって、年齢のわりには年寄りな趣味を持っているのね。私だったら、おもいっきり体を動かしたいわね」
「へぇ、どんなことをするんだい?」
「そうね、自転車でおもいっきりかっ飛ばすのが趣味なのよね。最近はMTBを買ったから、それで野山をかけまわるのもいいかもね」
「おい、あの小娘の態度、急に変わりやがったな」
「えぇ、あの羽賀さんに対して少しずつですが心を開いているようですね」
「あの羽賀さんて人、いきなり寝そべるから何をするかと思ったんですけど、あんな対応のやり方ってあるんですね」
 竹井警部と同行の警官は、羽賀の対応を聞きながら自殺志願の女性の変化を間違いなく感じていた。
「ところでさ、君って呼ぶのもなんだからなんて呼ばれるのがいいのか教えてよ」
「え、私のこと? そ、そうね。私は『ミク』って呼ばれるのが好きなのよね。高校まではそう呼ばれてたから。でもこっちに来てからはそうやって気軽に呼んでくれる友だちもいないし」
「そっか、ミクちゃんはちょっと寂しかったんだね」
「あ、『ミクちゃん』じゃなくて『ミク』の方がいいわ。その方がしっくりくるもん」 
「じゃぁさ、ミク。さっきこっちに来てからって言ってたけれど、ミクには何か夢があるんだね」
 羽賀は寝そべったまま、視線をミクに合わせてそう質問した。ミクはその時、黙ったまま急にうつむいてしまった。
「やばい、あいつ何か変な事言いやがったな。せっかくいい感じでいってたのによ」
 竹井警部と警官は焦りを感じ始めた。
 しばらくの沈黙状態。ハラハラした目で見つめる竹井警部と警官。しかし、言葉をかけた当の羽賀は、未だ落ち着き払って床に寝そべっている。そのまなざしは、優しくミクを見つめていた。そう、何かを信じるように。
「だって、だって、誰も私のことを見てくれないじゃないの! あの店長が、わたしを見てくれないのがいけないのよ!」
 突然、ミクが大声で今にも泣き出しそうな声で叫んだ。そして塀の上にまたがった格好で、すすり泣きを始めてしまった。
「そっか、ミクはみんなに見てもらいたかったんだね。特に店長さんに」
 羽賀はおちついた、そして優しい声でミクの言葉に応えた。
「そうよ、私だって一流のグラフィックデザイナーになるって夢があったのよ。だからこうやって遠く離れたこの町まで勉強のために出てきたんじゃない。だけど、誰も私のことを見てくれないじゃないのよ。あの店長も、全然私のことを見てくれないじゃないの。いくらあの人の好みの格好をしても、全く私のことをわかってくれてない!」
 ミクは泣き声半分、叫び声半分で羽賀に対してそう答えた。
「おい、どうやらあの小娘、失恋のショックで自殺をしようと思ったようだな。羽賀よ、あとはあいつを塀からおろすようにじっくりと説得してくれよ」
 竹井警部がそうつぶやくと、若い警官がそれに反応した。
「警部、説得じゃなくて納得じゃなかったでしたっけ?」
「うるさい、どっちでもいい! とにかく塀からおろしてくれれば全て解決だ!」
 
「そっか、ミクは自分を見てもらいたくてこんな振る舞いをしていたんだね。ところでさ、ミクはグラフィックデザイナーになりたいんだよね。それってボクにもうちょっと詳しく話してくれないかな?」
 羽賀はゆっくりとした口調でミクにそう話しかけた。ミクは一呼吸置いて、ゆっくりと話しを始めた。
「私ね、高校ではパソコンと美術が得意で、コンピューターグラフィックを本格的に極めようと思ったの。でもね、私のところは田舎だからそんなのを勉強するところもなかったの。だから専門学校に出てきたんだけど、周りは私なんかより才能を持った人ばかり。井の中の蛙よね。ここじゃ平凡な専門学校生の一人でしかないのよ。そんなとき、バイト先の店長が優しくしてくれたの。だからこの人に気に入られようと思って一生懸命だったわ。でも優しいのは最初だけ。私からどんどん離れていって、だからもう一度振り向かせたくて、今日だってあの人に気に入られようと無理して買った服でバイトに行ったのよ。でも、店長は『なに、その格好は?』って。もういや!結局はだれも私のことを見てくれないのよ。だから私のことを見て欲しくて……」
「こうやってそこに座っているわけだ。だったらさ、どうやればみんなはもっとミクのことをみてくれると思う?」
「どうやったら……?」
「そう、ミクの得意なもので、どうやったらミクを見てくれるんだろうね?」
「私の得意なこと……?」
「そうだね、ミクの必殺技!」
 その言葉に反応したのか、ミクの顔からわずかではあるが笑みがこぼれた。その笑顔で何かを確信したのか、羽賀はゆっくりと立ち上がり、そしてミクの座っているフェンスへと近づき始めた。ミクも何かを待っているかのように、羽賀の動きをしっかりと見つめていた。
 二人の間に、見えない架け橋がわたった。
 この様子を見ていた若い警官は、後日このときの二人の状態をそう表現していた。

「ねぇ、その羽賀さんってさ、そんなに時間にルーズな人なの?」
「おっかしいなぁ、あいつは結構時間にシビアな方なんだけど。ひょっとして道に迷ってんのかな?」
 羽賀の到着を、今か今かと待ちわびている佐木野親子。舞衣のおかげで見違えるようにきれいになった部屋で、お茶をすすりながら休憩しているところであった。これがひろし一人だったら、とてもここまではきれいになっていなかっただろう。
「う~ん、迷っている可能性は高いわね。このあたりは旧市街だから、道が入りくんでいるもんね。羽賀さんって携帯とか持ってないの?ちょっと電話してみれば?」
「いやな、あいつはちょっと変わったところがあってな。携帯ってのがどうも苦手らしいんだよ。携帯だけじゃなくパソコンとかああいったたぐいは好きじゃないとか。それでいて、昔はトップセールスマンだったっていうのが不思議なところなんだがな」
「こうやっていても仕方ないな。お父さん、ちょっと探してきてよ」
「なんでぇ、おまえは一緒に探してくれねーのかよ?」
「だって、私は羽賀さんの顔は知らないでしょ」
「あ、そういやそうだな。ちっ、しゃーねーな。んじゃぁちっとでかけてくらぁ」
「あ、お父さんは携帯持っていくの、忘れないでね。もしかしたら入れ違いになることだってあるから」
「携帯かぁ、オレもこれはあんまり好きじゃねーんだがよ」
 ひろしはそう言いながら舞衣から渡された携帯をしぶしぶ手に取り、羽賀を探しに町へ出かけていった。
「ふぅ、やれやれだわ。しっかし、羽賀さんってどんな人なんだろう。いい男かな?」
 舞衣は羽賀の姿を勝手に想像しながら、すこし胸躍らせていた。
 
「しっかし、羽賀のやろうどこほっつき歩いているんだい?」
 ひろしは、とりあえず駅の方向へ歩き始めた。そして『大野屋』と古ぼけた看板の掲げてある、食品店と駄菓子屋が一緒になったところまできて、その先にやたらと人だかりができていることに気づいた。
「おいおい、なんだ。あの人だかりは? よぉ、ばあさん。なんだよ、あれは?」
 ひろしは大野屋のおばあさんを目にすると、ぶしつけにその質問を投げかけた。
「なんじゃ、佐木野のところのひろしかい。あいかわらずぶっきらぼうなやつじゃの」
「ぶっきらぼうはよけいなお世話だ! それよりよ、あの人だかりはなんなんだよ?」
「おぉ、あれかい。あれはな、ビルの屋上から飛び降りようとしとるヤツがおるらしくての。その見物の野次馬じゃよ。そういや、おまえさんのところに客人が行くんじゃなかったのかい? その客人がその飛び降りするヤツを見つけて、すっ飛んでいきおったわい」
「え、ひょっとしてそいつって、背の高い、めがねをかけたぬぼーっとしたヤツじゃなかったか?」
「そうそう、たしかそんな感じじゃったぞ。たしか名前は…えっと…」
「羽賀さんって言ってなかったっけ、おばあちゃん」
 大野屋の奥からのっそりと、ここの奥さんの和子さんが出てきた。この和子さんのスローペース、人をのんびりした気分にさせてくれる不思議な魔力がある。
「おぉ、そうじゃった。ありがとよ、和子さん」
「はは、和子さんの顔を見たらなんだか気が抜けちゃったよ。しっかし、あのやろうまたこんなことに巻き込まれやがって。つーと、羽賀はあの中にいるんだな。ありがとう、ばあさん、和子さん!」
 ひろしは礼を言うと、一度深呼吸してから野次馬の中へ飛び込んでいった。
 
「必殺技か…」
 ミクがそうつぶやく。
「そう、必殺技」
 羽賀がそう答える。そして気がつくと、羽賀はミクの足下の位置まで到達していた。
「私ね、ウルトラマンって好きなのよ。私の歳じゃビデオでしか見られないけれど、あの昔の『シュワッチ』って言いながら十字にかまえてスペシウム光線をだす、あのころのがいいのよね」
「お、ボクと趣味が同じだね。でもボクはどちらかというと、仮面ライダーの方が好きかな。やっぱり仮面ライダーも1号と2号が好きだね。で、ミクの必殺技って何?」
「そうね、デザイン力が必殺技だと思っていたけれど、これはまだまだ平均点だってのがわかったわ。でもね、パソコンに関してはそんじょそこらの男性よりも強いんだよ。高校の時には、パソコンを教えてくれる先生が私にわからないところを聞きに来てくれてたんだから」
「わぁ、じゃぁボクにも教えてよ。ボクはどうしてもそのあたりがオンチでね。いまからの仕事を手伝ってくれるとうれしいな」
「私を必要としてくれるの?」
「あぁ、もちろんだよ。そんな必殺技を持った人を欲しがっているところって、結構あるんじゃないかな」
「私を必要としてくれるところ……」
「そう、ミクを必要としてくれるところ」
 このとき、ミクの体にピンと張りつめていたものが一気に抜けていくのが、誰の目からもよくわかった。
「警部、どうやらうまくいったみたいですよ。あの子、急に力が抜けて飛び降りるような雰囲気じゃなくなりましたね」
 屋上の入り口の陰から見守る、若い警官がそうつぶやいた。
「ちっ、羽賀のやろう、またうまくやりやがったな。しかしここからが問題だぞ。半年前はここでミスったんだからな……」
 竹井警部はまだ油断できないという顔つきで、ふたたび羽賀と女性へ目を移した。
「じゃあさ、ミクを必要としてくれる人を、これから一緒に探しに行かないか?」
 羽賀は塀の上に座り込んでいるミクに、そっと手をさしのべた。しかしミクからは意外な言葉が。
「それがさ、それが……だめなのよ。ここから降りれないの……」
 ミクは蚊の鳴くような声でそうつぶやく。
「え、ど、どういうこと?」
 羽賀もミクの予想外の言葉にすこしとまどっている。
「それがね……降りたいんだけど……下を見ちゃったら体に力が入らなくて……足が動かないのよ……助けて、助けて!」
 蚊の鳴くような声が次第に助けを呼ぶための叫びに変化していった。
「警部、やばいですよ。今度はあの子の力が入らないって。レスキューを呼びましょう!」
「ちっ、思った通りだ。さっきまで気を張っていたからあの場所に座っていられたものの、気が抜けると今度は我に返るから、恐怖心が強くなってきやがる。おい、レスキューを呼べ!」
 竹井警部は警官にそう指示すると、羽賀のところへ駆け寄った。
「ミク、大丈夫だ。ボクがついている。ちょっと待ってて!」
 羽賀はそう言うと、辺りを見回し、塀に上れる箇所を探した。そして先ほどのゆっくりとした動きからは想像できないスピードで、ひょい、ひょいっと塀の上にまたがり、ミクのそばへと近づいた。
「助けて!」
 羽賀がミクの手の届くところに到着した瞬間、ミクは羽賀に抱きついた。
「おぉっ、ちょ、ちょっと待って!」
 あやうくバランスを崩しそうになる羽賀。
「羽賀、そのまま、そのままだぞ!もうすこししたらレスキューが助けにくるからな!」
 竹井警部はおろおろしながらも声を振り絞って羽賀とミクにそう声をかけた。

「おぉぉぉっ!」
 下からその様子を見ていた野次馬たち。あやうくバランスを崩して落ちそうになる二人の様子に思わず歓声をあげていた。その二人を見上げる野次馬の中に、佐木野ひろしもふくまれていた。
「ん、おい、あ、あのやろう。あんなところにいやがった!」
 ひろしの目は、ミクに抱きつかれながら屋上の塀にまたがっている羽賀の姿を確認していた。
「おい、羽賀よぉ。たのむから落っこちるんじゃねーぞ。おまえを必要としているヤツはこれからごまんと出てくるんだからな。
 羽賀ぁ~!」
 
 ミクに抱きつかれて、ようやくバランスと落ち着きを取り戻した羽賀。なんとかミクにも落ち着いてもらわないと。そう思ったとき、ミクの胸に今の服装には似合わない、小さな古ぼけたペンダントを見つけた。
「ねぇ、ミク。そのペンダント……」
「え、ペンダント? あぁこれ」
 ミクの視線がペンダントに移ると、少し落ち着きを取り戻したのかミクはペンダントを首からはずし、羽賀にそっと差し出した。
「これね、おばあちゃんからもらったの。私の大好きなおばあちゃんから。大きくなったらね、ここにミクの大好きな人の写真を入れて、おばあちゃんに見せてちょうだいねって」
 そう言うとミクはそのペンダントをパカッと開けて、中を羽賀に見せた。しかし、その中にはまだ何も入っていない。
「ホントはね、バイト先の店長の写真を入れるつもりだったんだ。でもね、もういいの。なんだかどうでもよくなっちゃった。それに、もう見せるおばあちゃんもいないし……」
「おばあちゃんのこと、心から好きだったんだね」
 羽賀は、ミクのおばあちゃんがもうこの世にいないことを悟り、やさしくそう語りかけた。
 落ち着きを取り戻したミク。あとはレスキューの到着を待って、ゆっくりとこの塀の上から降りるだけ。羽賀も、竹井警部も、そしてミクも一安心したその時!
「うわっ!」
 突然強い風が、塀の上にいる二人の体を襲った。バランスを崩しそうになるミク。その体を押さえようとする羽賀。羽賀がミクの体を押さえようとした瞬間、ミクの手からペンダントがするするっとこぼれ落ちた。
「あっ!」
 ミクが叫んだ瞬間、羽賀はそのペンダントに手をのばし……
「え?」
 思わず反射的にペンダントに手を伸ばした羽賀。今いるのは、十五階建てのビルの屋上の塀の上。そして、思いっきり手を伸ばした羽賀のはるか下の方には、人だかりができている地面が……
 ミクも、そして塀の下からその様子を見ていた竹井警部も、屋上の入り口にいた警官二人も、そしてたった今到着したレスキュー隊員も。みんなそれぞれの目を一瞬疑った。しかしそれは事実。その事実を疑ったのは、おそらく羽賀本人。残念ながら、その事実はおこってしまった。
「うわぁぁぁぁぁぁ……………」
 ペンダントを左手ににぎった体勢のまま、羽賀は吸い込まれるようにその姿をミクの視界のはるか下の方へと消えていった。
「きゃぁぁぁぁっ!」
 事態に気づいたミクが大声で叫ぶ。
「はがぁぁぁっ!」
 竹井警部は叫びながら羽賀が落ちた塀へ急ぐ。その事態の重大さに改めて気づいた。
「あぁぁぁっ!」
 下から見上げていた野次馬たちも、羽賀がゆっくりと落ちてくるのに気づき、思わず声を上げていた。中には目を両手でふさいで、叫び声を上げている者もいた。
「はがぁぁぁぁっ!」
 ひろしは叫びながら、羽賀の落ちていく光景を見て、あわてて人混みをかき分けて、立ち入り禁止のテープが張ってあるところも飛び越して、一目散にビルへと駆け寄った。
 屋上にいるミクと竹井警部の視界から、だんだんと小さくなっていく羽賀。逆に、下にいる野次馬やひろしたちの目にはだんだんと大きくなっていく羽賀。
 そして…
 ドスンっ ぼふっ!
 一同が目にしたのは、レスキュー用のマットの上に大の字になって寝転がっている羽賀の姿であった。
「いててっ…あぁ、びっくりした」
 これが羽賀の第一声。
 そして、羽賀の目にはどこまでも続く抜けるような青い空と、ビルの屋上から心配そうに見つめるミクと竹井警部が豆粒のように見えた。
「おい、大丈夫か、おい!」
 駆け寄ったレスキュー隊員。そしてすぐにタンカを持った救急隊員も駆けつけた。
「とりあえず…体は動くんで生きてるみたいですね」
 羽賀は大の字になった格好から両腕と両足を上にあげて、無事であることを周りにアピール。
「意識は大丈夫のようだな。念のため病院に運ぶから、どこか痛い箇所があったら遠慮なく言ってくれ」
 タンカに運ばれ、救急車へ搬送される羽賀。と、そのときひろしがそのタンカへ駆け寄ってきた。
「羽賀ぁ~、おい羽賀ぁ~、大丈夫なのかぁ~?」
 おろおろした態度で、半分泣きそうなひろし。しかし羽賀は対照的に、にっこりと笑ってこう答えた。
「あ、佐木野さん。またとんでもない登場になっちゃいましたね。ハハハっ。これからよろしくお願いしますね」
「バカ野郎!おめー、オレがどんだけ心配したかわかってんのかよっ!ったく、また無茶しやがって…」
 ひろしは半分涙ぐみながら、羽賀に向かって叫んでいた。
「この方の関係者ですか? とりあえず異常がないか検査しますので、病院に運びます。できれば一緒に乗っていただけますか?」
 ひろしは救急隊員にそう言われ、羽賀と一緒に救急車に乗り込んだ。サイレンを鳴らしながら去っていく救急車。それと入れ替わりに、竹井警部とミク、そして警官たちが屋上から降りてきた。
「羽賀は、羽賀は無事なのかっ!?」
 竹井警部は近くにいたレスキュー隊員にそう詰め寄った。
「えぇ、なぜだかにっこり笑って、手足を動かしてましたからね。念のため病院には搬送しましたけれど、おそらく大丈夫でしょう」
 その言葉を聞いて、竹井警部やミクはほっと胸をなで下ろした。
 
 自殺騒ぎで羽賀がビルの屋上から落ちて二時間後。検査の結果、羽賀はかすり傷一つ追わずに、今病院の待合室でヒロシと一緒にコーヒーをすすっている。唯一の損害といえば、落ちたときに羽賀はめがねをなくしてしまったくらいか。そのため、羽賀は少し歩くのに慎重になっている。
 そんなとき、病院の玄関に竹井警部と屋上に一緒にいた若い警官の姿が現れた。若い警官は手に小さな袋を持っている。
「羽賀ぁ、おまえはまたやっちまったな。半年前と同じじゃねーかよ。だからあれだけ気をつけろと言っただろ!」
 竹井警部は羽賀に近づくなり、ぶしつけにそう言葉を吐いた。
「いやぁ~、まさかまた落ちるとは思っていませんでしたよ。でも、今度はけがもしなかったし。それに今回落ちたのは一人だし」
 羽賀はにこやかな顔でそう答えた。
「警部、私とても気になっているんですが。屋上会話でも『半年前』って言ってましたよね。半年前に一体、何があったんですか?」
 若い警官は不思議そうに竹井警部に尋ねた。
「あぁ、そうだな。別に隠すことでもないので話しておこう。いいよな、羽賀」
 羽賀はにこやかにこっくりうなずいた。竹井警部は言葉を続けた。
「実はな、半年前にも自殺騒ぎがあったんだ。あのときは廃屋になった古ビルで、確か五階の部屋だったよな」
 これに対しても羽賀は無言でうなずく。
「あのときも、この羽賀が飛び降り自殺志願者の中年の男を説得に行ったんだ」
「説得ではなく納得させに行ったんですよ」
 ここだけは羽賀が横やりを入れた。
「どっちでもいいだろうがっ。それでな、あのときもいい具合にいって、自殺は止められたと思ったんだ。あんときゃ羽賀とあの男性、二人して手すりに腰掛けてたんだよな。しかしそれが間違いのもとだったんだ。男性が自殺をやめる決心をして、腰掛けてた手すりから降りようと思った瞬間……」
「どうなったんですか?」
 若い警官は興味深く、竹井警部の続きの言葉を待っていた。
「なにしろ取り壊しを予定されていたビルだったからな。男性が降りようと思って勢いを付けたときに手すりが崩れちまってね。おそらく根元が錆びてたんだろうな」
「それで……ひょっとして……」
「はい、二人してビルの五階から落っこちちゃいました」
 そう答えたのは、にこやかにコーヒーをすする羽賀であった。
「落っこちたって、大丈夫だったんですか?」
 若い警官は羽賀の全身を食い入るように見て、そう質問した。
「はい、私は偶然にも木の上に落ちたので、腕を骨折したのとかすり傷を負っただけでした。けれど、彼は……」
 羽賀はここでちょっと言葉を濁した。若い警官は何かを察したように、うつむいて黙り込んでしまった。
「ばぁか! そんないい方すると誤解するだろうがっ! あの男も無事だったよ。おめーよりもピンピンしてな」
 竹井警部があわててフォローする。
「それじゃぁ、今その自殺志願者の男性は無事なんですね」
 と若い警官。
「無事も何も、ほれ、今目の前におるわい」
 へっ? と声の主の方を見る。それはなんと佐木野ひろし、その人であった。
「あんとき、偶然に居合わせた羽賀がオレの命を救ってくれたんだよ。なにしろあんときはカミさんに先立たれて、むちゃくちゃな生活をしていたからなぁ」
 ひろしはそのときの生活を思い出すように、そう答えた。
「ま、偶然じゃないんですけどね」
 ちょっと秘めた笑いを含みながら、羽賀がそうささやいた。
「ところで、羽賀さんに聞きたいことがあるんですけど」
 若い警官はもう一つ謎になっているところに、興味津々に質問した。
「えぇ、どうぞ。何ですか?」
「あのミクって子に近づく前に、地面に寝そべったでしょ。あれってどういう意図があったんですか。あれにはびっくりしましたよ」
「おぉ、そうだ、オレもあの行動には興味があったんだよ」
 竹井警部が言葉を続けた。それに対し、羽賀は笑いながら答える。
「あぁ、あれですね。あれはミクちゃんの視点を変化させる必要があったんですよ。あの時点では『自殺するぞ!』という思いが強かったですからね。そこから意識をはずすために、ちょっと大胆な行動に出たんです」
「なるほど。そのあとに将来の話しとかしてましたよね」
 若い警官はさらに質問を続けた。
「えぇ、あの時点でミクちゃんは計画的ではなく衝動的に自殺をしようというのがわかっていましたからね。だから、これも視点を今から先の事へと変えさせたんです。自殺というマイナス思考から、未来を生きるプラス思考へと変換させるようにね。周りがいくら説得しても、当の本人が心からその方向に意識を向けない限り、何も変化しませんから。だから、『納得』が必要なんですよ」
 羽賀の言葉に、一同納得。
「しかしよぉ、何で自殺が衝動的だとわかったんだ?」
 竹井警部はそこがわからなかった。
「簡単なことですよ。計画的に自殺するんだったら、必ず残すものがあるでしょ。特にミクちゃんの場合、口では『復讐してやる』と言っているにもかかわらず、大事なものがなかったんですから」
 羽賀は笑みを浮かべて、ひろしと竹井警部、そして若い警官にそう質問した。
「自殺するのに必ず残すもの……あっ!」
 自殺志願経験者のひろしにはすぐにそれがわかった。そして若い警官も気づいたようだ。唯一、竹井警部だけが頭をひねっている。その様子を他の三人は微笑みながら見つめていた。
「な、なんだよ。そのくらいオレにだってわかるわい!」
 竹井警部はわからないのを必死に隠していたが、それは他の三人にはバレバレ。じっと三人に見つめられた竹井警部は……
「えぇいっ、オレの負けだ!なんだよ、その必ず残すものって!」
 負けを認めた竹井警部に、羽賀は微笑みながらこう答えた。
「遺書、遺書ですよ。復讐するのにその意図がわからなければ意味がないでしょ。なのにミクちゃんは遺書を残していなかったんです。それに今から死ぬのに、あの派手な格好はないと思いましたね」
 竹井警部、これも思わず納得してしまった。
「おっと、そういえばこれ。おまえんだろ」
 竹井警部は、若い警官が持っていた包みを指さした。若い警官は包みを開いて、その中にあるものを羽賀に差し出した。
「あっ、ボクのめがね!うわぁ、たすかったぁ~。これがないと、よく周りが見えないんですよね。ありがとうございます」
 羽賀はお礼を言うと、めがねをかけた。その瞬間、羽賀の姿が水を得た魚の様に急にイキイキとしだした。
「ところで羽賀さんって、どうしてそんなに相手を納得させる話術がお得意なんですか?」
 これも若い警官の質問。
「はは、そうだね。どうしてなのか、か。それはね、ボクがコーチだからだよ」
「へっ? コーチ? それってどういう事なんですか? スポーツ指導者がどうして話術を?」
 さらに不思議そうな顔をする若い警官。その顔を見て羽賀はにこやかにこう答えた。
「はは、スポーツのコーチじゃないんだけどな。『コーチング』っていう、まぁ人の目標達成のためのサポートをやる仕事なんだよ。コーチングについてはまた今度ゆっくりと。ね、いいでしょ、竹井警部」
「おい、羽賀!おまえ警官相手に営業するんじゃねーよ。ま、今日の報告書をつくんなきゃいけねーから、明日にでもおめーんところに行くとするか。ところでよ、おめーこの町に何の用で来たんだよ」
 この質問に答えたのは、羽賀ではなくひろしだった。
「警部さん、何の用って羽賀はこれからこの町に住むんですよ。ウチの二階にオフィスをかまえて、本格的にコーチングの仕事をするんですわ。これからよろしくお願いしますよ」
「なにぃ~っ、この町に住むのか! ったく、とんでもねートラブルメーカーがお膝元にきたもんだ」
「トラブルメーカーはないでしょ。竹井警部。ということで、これからよろしくお願いしますよ」
 にこやかに右手を差し出す羽賀。竹井警部は渋った顔で羽賀の顔をにらみつけたが、しぶしぶと右手を差し出した。

「おっそぉ~い!
 お父さんまで一体いつまで待たせるのよ!!」
 フラワーショップ・フルール、佐木野親子の住まいでもあるこのビルの二階。三人前の引っ越しそばを目の前に、舞衣は一人で待ちぼうけ。
「もうっ、お父さんに携帯にかけたら電源が入ってないっていうし。とっくに日も暮れちゃったし。おなかすいたよぉ~。こうなったら、一人で全部食べてやるっ!」
 外の世界では大事件があったことも全く知らず、舞衣はお腹がすいた勢いもあり、三人前のざるそばを思いっきりすすり始めた。
「もう、羽賀さんのバカっ!お父さんのバカっ! これでまた太っちゃうじゃないの! ばかバカばかっ!」

〜舞い降りたコーチ 完〜

コーチ物語 〜明日は晴れ〜 舞い降りたコーチ

2012年2月19日 発行 初版

著  者:古賀弘規
発  行:ユーアンドミー書房

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古賀弘規

たぬきコーチの古賀弘規です。コーチング、ファシリテーション、自己啓発、人材育成、その他もろもろ、人生にお役に立つ小説や物語、ノウハウをお届けします。

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