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 財布に詰め込まれたレシートを掻き分けても札はなく、小銭は十円玉と一円玉しかないように見えたが一緒に入れている平たい鍵に重なって五百円玉が一枚あった。それを松屋の券売機に入れ、点灯したボタンの中から真っすぐに牛めし(並)を押す。釣りは二百六十円。すでに松屋の店内の券売機の前に立っていたのに今日は夕飯を食べないでおくかと引き返そうとしていたところで五百円玉があってよかった。食券をカウンターに置いて店の奥で忙しなく動き回っている店員のほうを見ながら、帰りの地下鉄の運賃は間違いなく百九十円、釣りは二百六十円で他の小銭と合わせたら三百円以上はあるはずだから大丈夫だと確認していたのだけれど、もし五百円玉がなくて数十数円しか持っていなかったら帰りはどうしたらよかったのだろう、歩いたらどれくらいだ、五~六時間は掛かるんじゃないかと思ったら食欲がなくなってきた。
 財布をもう一度出して小銭を数えると三百五十八円あった。なかったかもしれない釣りの二百六十円を引くと九十八円。その計算をしている間に牛めしと味噌汁が私の前に置かれたが、九十八円では地下鉄以外の手段でも最低運賃に足りていないから家の近くまでも行けずに一晩かけて徒歩で帰ることになっていた。しかし「なかったかもしれない」というのは考えてみればおかしい。すぐに見つからなかっただけで五百円玉は財布に入っていて、私は五百九十八円持っていたのだから、もとから牛丼を食べて地下鉄に乗って帰ることは出来たのだ。
 紅ショウガを多めに三摘み丼にのせ、唐辛子を肉が隠れるほどにかけながら食欲を取り戻し、欲張って大盛にしたり生玉子のボタンを押してしまわないでよかったな、でも、と店内の壁に貼られたメニューのポスターで値段を確認して、大盛三百四十円で玉子は五十円だからこの並の牛めしにプラス百五十円で食べられた、ということは地下鉄代の百九十円は確保できたのか。そうすると残金は十八円になる。十八円はな、と思う。十八円しか持っていないのはあまりにも心細い、やっぱり並でよかった。大盛りにしたところで、まして玉子をかけても食べているときはそれなりに満足するし、並よりは腹も膨れるけれどしばらくすれば同じことだ。並も大盛りも玉子付きも時間が経てば変わらない。一時の満足と残金十八円に比べたら、いまは並を食べられて三百五十円が手元に残るほうを取る。それに店内のポスターで気づいたのだけれど、二百四十円というのはキャンペーン中の値引きされた値段で通常は並二百八十円大盛三百八十円だった。五百円玉を見つけたのをいいことに勢いで大盛と生玉子を頼んでいたら四百三十円。その時点で私が持っていたのは五百九十八円だから、差し引き百六十八円では最寄り駅まで行けない上に百六十円の切符を買ったら残金が八円になっていた。八円くらいならちょっとそこらへんを探せば拾い集められるのではないか。そんな金を所持金と考えること自体が嫌な気分にさせる。せっかくの夕飯が不味くなるからいまは金のことは忘れて牛めしを食べる。
 脂身のところでつながった肉を箸で細かく切り離し、紅ショウガと白飯のバランスを取りながら量を整えて口に運ぶ。飲み干した茶のお代わりを頼んだ女性店員が「オマタセシマシタ」と言うイントネーションが中国の人っぽく、名札には楊と書かれていた。すぐに奥の厨房に早足で向かう女性を横目で追うと牛めしを慣れた手さばきで続けて盛りつけ銀色の台に並べた男性店員もおそらく中国人だ。二人とも動きに無駄がなく、いま狭い店内に客は三割程度の六~七人しかいないが、作業をしながら店内に目を配って次にやるべきことを考えながら動いているのがわかった。女性も男性も柔和な表情を絶やさない。どちらも若く頭が良さそうな人だ、日本に来て勉強でもしながら働いているのだろうか。私もそろそろ仕事を探さないといけない。二人を見ていると牛丼屋で働くのもいいなと思えてきた。
 楊さんを目の端で見ながら湯呑み茶碗を取ろうと手を出したところにコインがあって、それは五百円玉だった。いつからあったのか、気づかなかった。私の両サイドの席には客はおらず、一番近くの客は入り口から来て奥側に二つ空けた席で携帯電話をいじりながら定食モノを食べている。反対側には三席置いて二人組の男がいて、U字型になったカウンターの向かい側にいるOL風の女性はいま食べ終えて店を出て行き、酒を飲んだ帰りのような年配の男、リュックを背負ったまま食べている学生らしき若い男、私と同じくらいの年齢だろう、薄い頭頂部をわざわざ私に見せるように丼に顔を入れて食べているスーツの男がそれぞれ間隔を空けてまばらに座っていた。彼らの視線がこちらに向かないタイミングを計り店員に目をやり、私は口元を拭いた紙ナプキンを五百円玉の上にかぶせた。誰もこちらを見てはいない。これで帰りまでに誰にも何も言われなければ持っていって問題はないと思った。もし言われたら私は手を付けていないのだから気づかなかったふりをして渡せばいい。
 動悸が速まったが何事もないように宙を見て味噌汁を飲み、紅ショウガを足し、ゆっくりと牛めしを食べていると「あっ」という声が自分に向かってきた。ほぼ正面で丼に顔を入れていた男がこちらを見ている。私は驚いて相当に目を見開いてしまったが、五百円玉のほうを見てはいけないと思った。そこには何もない、使ったナプキンを無造作に置いただけだ。その下に何かがあったとしても私は知らない。そういう気持ちを作った。
「わいずみくんだよね?」
 私以外に輪回道などという名前の人間が偶然ここに居合わせているはずはないが男に見覚えはなかった。口調と親しげな表情からすれば学生時代の知り合いだろうか。しかしすぐに「誰?」と訊くのも憚れてうっすら笑ったまま探ろうとすると、そんな私の気持ちを察したように男は言った。
「あ、すみません、忘れてるか、忘れてるよね。覚えてたら逆に驚くけど。中学で同じクラスだったわきくろまる、脇の下の脇にブラックの黒と○の、脇黒丸。思い出した?」
と左手で円を描いて見せられる前に名前でわかった。脇黒丸という名字もそうだが、出席番号が私の次で教室の席も前後だった。しかしいま目の前にいる男の顔はやはり記憶になく、ものすごく嫌なやつだった印象だけが室内の灯りの色が一瞬にして変わるように思い出された。
「ごめんね、いきなり声掛けちゃって。どっかで会ったことある人だなあと思って、そうだそうだ、輪回道くんだ、って。びっくりしたあ。普通ないよね、こんなところでさ。だって何年ぶり? 二十年? 卒業以来だとそれくらい?いやいやいや、すごいね。久しぶりだねえ。何してんの? あ、そうか牛丼か。俺も牛丼」
 脇黒丸は丼を少しだけこちらに傾けて中を箸で突き「松屋は牛丼じゃなく牛めしだね」とおどけた感じで笑った。私が記憶を手繰る時間を持たせるために脇黒丸は気を遣って言葉を継いでいるのだと感じた。気まずさをまったく感じさせない喋り方でとても自然な笑顔だったので私もつい顔を綻ばせて「覚えてるよ、ひさしぶりだね」と口にしていた。
 容姿が一致しないというより脇黒丸の顔の記憶がまったくないままに、そいつのことを徐々に思い出してきた。胸のあたりに何かが澱み始めている。脇黒丸は女子の体操服を盗んで見つかったことがあったはずだ。それも一着じゃなかった、たまたま、出来心で、という言い訳が通用しないレベルで、何着も、他のクラスのものも、大量に盗んで隠していた。みんなに吊るし上げられた時に見せた顔、太々しさと卑屈さと哀れさを混ぜ合わせたように歪んだ、醜いというのでもない、同じ歳で同じ教室にいて家も近いところに住んでいる人間がそういう表情をした、そのことをとても恐ろしく感じた。直視できない顔、見てはいけない禍々しい顔というのがあるのだと、あの時の脇黒丸を見て知ったのだ。
「二人で向かい合って牛丼食べててへんな感じだよね」
 そう言って不躾な視線にならないように配慮しながら脇黒丸は照れ笑いをしている。
「こういうのって困るね。気にせず食べて。俺も食べるんで」
 脇黒丸はそんな気遣いをする人間ではなかった。中学生なんて子どもだ、私も子どもだった。しかし人として他人に対する態度の良し悪しを判断する能力はいまと変わらないくらいにはすでにあったはずだ。そういう能力は直観的に備わるもので一度身につければ、成長してもそう大きく変わるものではない。同じように人間性が形成される十代の頃の他人への態度そのものも十年経とうが二十年経とうがそうそう変わらないのではないか。変わったとしても何か痕跡はあるに違いない。男には記憶の中の脇黒丸の痕跡がまったくなかった。むしろ真逆の印象が脇黒丸についての記憶をずるずると引き出していく。家が金持ちで最新の文房具を揃えていたこと、帰り道にみんなの気を惹くために傲慢な態度で奢っていたこと、新しいウォークマンを学校に持ってきてみんなに自慢げに見せつけた時は自分で落として壊したくせに、いきなり殴り掛かって逆にボコボコにされたこと、いつも鼻をずるずると啜る気持ちの悪い音を立てていたこと、体操服事件があるまでは殊更に真面目さをアピールして教師受けはよかったがテストの成績はいつも最下位だったこと、どんな話題の会話でもすべて自分の話にするのでだんだんとみんなにうざがられていったこと、それがなぜかウケると考えたのか教室の水槽の金魚をすべて網焼きにしたこと、サザンオールスターズのメンバーと親戚だとか名前は忘れたがプロ野球選手の従兄がいるとかしょうもないホラばかり吹いて誰からも相手にされなくなった頃に聞いた悪い噂、脇黒丸が近所の野良猫を殺してまわっているらしいこと、尻尾を集めていてダンボールいっぱいに入ったそれを見たというやつもいたこと。
「すみません、旨辛ネギたま牛めしの小さいの、ありますよね? それ、追加でもらっていいですか?」
 脇黒丸は店員にそう声を掛けると私を見て、失敗失敗、すごく腹減っちゃって、恥ずかしいところ見られたな、と笑った。「ここで、いい、ですか?」と脇黒丸は楊さんに日本語が達者ではない外国人に話すようにジェスチャーを交えて確認して、財布から出した小銭をカウンターに並べた。高級そうな財布だった。ほどよく使い込まれた光沢でいい牛革を使っているのがわかった。よく見ればスーツも仕立てのいい高そうなものだ。金持ちの息子はあんなやつでも当り前に金持ちになるのか。しかしいまのちょっとした仕草ややりとりにもまったく嫌味なところはなく、むしろ見れば見るほどスマートで感じがいい。
 あれからの二十年間に何があったのか私は知らない。しかし脇黒丸は思い出せば思い出すほどひどい人間だったのだ。こういうやつがいつかとんでもない犯罪を犯すのだろうと思って距離を置いていた。本性は経験で隠せるものなのだなと思ったら恐ろしい気持ちがした。ただあんな中学時代を過ごしたことを知っている私に、なぜ声を掛けてこんなふうに話をすることができるのだろう。そこだけは決定的におかしい。身につけた粉飾で隠したつもりだろうが私にはそのスマートさこそが綻びに見える。やはりこいつは脇黒丸だ。もしかしたら脇黒丸はいまも猫や猫以外の生き物を殺すことを密かな趣味にしていて、そんな変態性を大人になったこいつは大量の猫の尻尾を隠していたダンボールに変わる巧妙な手段と狡猾な知恵で隠し通している。そして何食わぬ顔で上質な牛革の財布から出した金で牛めしを食っているのかもしれない。
 旨辛ネギたま牛めしが脇黒丸の前に置かれたのを見て羨ましく思った。あの脇黒丸が平然な顔で食いたいものを食っているのに、たかが牛めし屋で数百円も払えずに並の牛めしで我慢している自分が疎ましくなった。私は紙ナプキンの下に隠した五百円玉に手をやった。この金でせめて何かサイドメニューを追加しようと考えた時に脇黒丸は上目遣いで言った。
「そんなに感じ変わったかな?」
 私は金を取らずに咄嗟に手を引き脇黒丸の顔をまじまじと見た。
「僕、中学の頃とそんなに感じが変わったかなって思って」
 知らずにそういう目で見てしまっていたのだろうか。こんな勘の良さは脇黒丸らしくない。まして他人にどう見られているかなんてまったく頭にないやつだったのだ。脇黒丸は不快な様子ではなく、あくまでも懐かしい幼なじみと久しぶりに会ったうれしさを隠せないような表情をしていた。
「いや、どうかな。うん、ちょっとね、確かにちょっと変わった気がするね」
 私は彼が怖くなって言葉を濁したが恐怖心を見透かされないように目を反らさなかった。カウンター越しに話す私たちの間を店員の楊さんが行き来するのが滑車台のような機械に見える。客は私と脇黒丸だけになっていた。
「そうかなあ。変わったかな。あ、ここ? 頭ハゲたから?ってこのやろう、ハゲじゃねえよ、薄毛だよ薄毛。ちがうか」
「見た目じゃなくて。いい感じになったんじゃないかな。大人になったって言うか」
「大人? 輪回道くんだって大人じゃない、お互いもういい歳なんだから」
「そういうんじゃなくて」
「そういうんじゃなくて? なに? どういう感じ? 気になるな」
 私は半分近く残っている牛めしの丼に目を落としてから
「別人っぽく見えるよ」
 そう言って脇黒丸の様子を伺った。ああ、と脇黒丸は追加した旨辛ネギたま牛めしを口にした。
「いいやつ?」
「え?」
「こんないいやつだったっけ、って思った?」
 脇黒丸は食べながら口をもごもごさせ、しかしはっきりそう言った。やっぱりそうか、という顔で微笑んでいる。
「昔はあんな嫌なやつだったのになあ、って。そう思った? そう思ってるんじゃないかなって思ったよ。話してすぐに感じた。ほら、あの時だって、不思議なもんだよなって、あの時も輪回道くん言ってたよ。あいつ、なんだっけ、あいつ、同じクラスにいた嫌われ者、雪の日に夜中自転車乗ってて交通事故で死んじゃったやつ、名前忘れちゃったけど。あいつの通夜の帰りだったかな。その時も輪回道くん、あんなに嫌なやつが不思議なもんだよって言ってたね。どんな嫌な人間も死んだらいいやつだったってことになっちゃうって。正直いまここでそれ言うかなあって思ったからよく覚えてるんだけどさ。でもそういうのはいまでも許せない? 生きてた時はどんなに嫌な人間も死んだら結局いい人になっちゃうって、そういうのは許せないんだ? やっぱり僕の場合もそういう感じ?」
 カウンターに置かれた携帯電話のバイブが鳴って震動音が店に響いた。ちょっとごめん、と脇黒丸はそれを取り、牛めしを食べながら大声で話し始めた。
「うん、いいよいいよ。全然だいじょぶ、なんとかなった。いまちょうど食ってたとこ。うん。当ったり、そうそう牛丼。ギリだったけど、はははは。券売機の前まできて、あれ、金ないなあってなってさ、十円玉と一円玉ばっかで。でもよく見たら五百円玉が一枚あって。よかったよ。それで並を食べてたんだけど、よくよく考えたら、大盛りでもよかったかなって気が大きくなってきちゃってさ、結局五百九十八円あったんだけど、これなら大盛りで玉子も付けられたじゃん、何びびって並にしちゃったんだろうとか思いながら食ってたら、やっぱりなんかもっと食いたくなってきちゃって。ははははは。そんでどうしたと思う? いやいやいや、さすがにそれはないけども。腹ぺこぺこだったし、いまここで何百円かケチったところで金がないのに変わりはないし。うん。うん。そんな感じ。ここでケチって帰る途中で車に轢かれて死んだら、なんていうか、やりきれませんよ。えーと、三百五十八円か。車に轢かれて死んだ身元不明の男の所持金は三百五十八円でしたって。それなら食って死んだほうがまだましじゃん。所持金八十八円になっても。え? 八十八で末広がり? 縁起いいって。死んでるのに? ははははははは」
 滑車台のように規則正しく目の前を左右に横切る楊さんの向こうで話す脇黒丸の顔がハゲた頭の天辺から徐々に色が消えて白くなっていくように見えた。栓が抜かれた槽の水位が下がるように髪、額、眉、目、耳、鼻、口と、上から順に顔のパーツがなくなり白の侵食はどんどん降りて首から肩、腕、体全体が白くなっていく。色が消えたのは脇黒丸の体だけではなかった。手にした丼や箸、カウンター、カウンターに置かれた調味料ケースや箸入れ、後ろの壁、天井にまで白はひろがっていき、店の中を覆っていく。店員の楊さんはもう楊さんではなく、人の形をした何かだった。軋んだ音を立てて店の奥からカウンターの端を動き続けていた。目の前ではやはり人のような形をした白い物体が少し右に傾いて人の声に似た音を出している。
「で、いま小丼頼んで食べ始めた。いやいや、旨辛ネギたま牛めしってやつ。味は変えてみました。ははははは。なに? え? なになに? 電波悪いのかな、聞こえにくいな。もしもーし。旨いか? 旨い? 旨い? うまい? ウマイ? ウ、マ、イ? ウマイ、ってなんだ? なんだ、だなん、だなん? ダナウン、マウイダナン、ダイウマンナ、マナ、ウイ、ナダ、ダ、マ、マ、ウウ、イ、イ、マイ、マイ」
 見えているものすべてが白一色になり、もとの形が消えて自分を取り囲んでいるのが人か物か、それが何なのかさえわからなくなってきた。ただ白が、無のような白が四方から私に押し寄せてくる。白に呑み込まれる寸前に私はカウンターにかぶせた紙ナプキンを取った。そこに五百円玉はなかった。カウンターテーブルだったはずの何かの白い面だけが無限に広がっていた。ナイネ、と前を横切る白い何かが鳴った。ナイネ、ナイネ、イナイイナイ。
 店を出ると駅前のロータリーは雪で一面覆われ町が消えていた。はじめて来た見たことのない場所のようだった。長年使っているいまの私には分不相応な牛革の財布を開くと残金八十八円。満腹で体は火照っていたがこんな雪の中を何時間も歩いて帰るなんてとてもじゃないが無理だ。駅の近くに行けば放置自転車がたくさんあるだろう。それを盗んで帰ればいい。

なかったかもしれない

2012年2月20日 発行 初版

著  者:nekooto

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