「市長、このシンポジウムへのご参加はどう考えても不利ですよ。次の市長選のことも考えてご参加下さい」
「いや、だからこそワシは『市民と行政のまちづくりを考える』のシンポジウムに参加する意味があるんじゃ。なぁに、反対派の妨害があろうとも心配することはない。わっはっはっ」
冨士井市長は心配する秘書の桜井へ向かってそう言葉を放った。
この街では三ヶ月後に市長選挙を控え、現市長の冨士井と新人の羽田が立候補表明を行っている。それぞれが選挙のためのパフォーマンスをあちらこちらで行っており、今回のシンポジウム『市民と行政のまちづくりを考える』では、行政代表として現職市長である冨士井がパネラーとして招かれている。
冨士井市長の秘書である桜井は、選挙戦が不利にならないようにこの時期の市長の発言や行動一つ一つに気を遣い、日々の管理を怠らないようにしている。が、冨士井の気まぐれな行動にいつも頭を悩ませては、裏で不利となるような言動をもみ消すということを繰り返している。
今回の桜井の進言も、冨士井市長への忠告と共に「オレにこれ以上神経を使わせないでくれ」という隠れたメッセージも込めていたのだが……。
「それでは行政の代表としてこの方にご登場していただきます。冨士井市長です」
シンポジウムの開始。司会者のアナウンスと共に冨士井市長は壇上に上がる。おおよそ二百人もの観衆の拍手にむかえられ、パネラー席へ座る冨士井市長。
これで会場に向かって横一線にパネラー五人が並んだ形となった。
パネラーは、市民活動の代表として地元では有力なNPOの代表、民間企業の代表として地元商工会議所の会頭、さらには地元大学でまちづくりについて研究を行っている教授の顔が並んでいる。冨士井からすれば、どの顔も前回の選挙戦でこちらの陣営についた人間。まずは一安心というところだ。
しかし、パネラーの中に一人、冨士井の見たことのない人間が座っていた。今回、もう一名市民側の代表として参加した者らしい。名前は「小林一紀」。歳はまだ二十代といったところで、他のパネラーと比べると若さが目立つ。肩書きは「行政提言委員会代表」となっている。最近設立された組織らしく、今回のシンポジウム開催にあたって、積極的に運営に参加した人間らしい。
冨士井の耳には、この若者についての情報はこの程度しか入っていなかった。まぁいい。気にすることはないだろう。
冨士井は小林の存在を多少気にしながらも、行政代表としてパネルディスカッションの話題に集中することにした。ここで行政としてのパフォーマンスを示しておけば、次の選挙戦には有利に働くはずだ。しかし、冨士井のその期待を裏切るかのような事件が起こるとは、冨士井も、そしてパネラーも、さらには会場の誰もが予想もしていなかった。ただ一人、小林という若いパネラーを除いては。
このシンポジウム、まずは現在行政が行っている政策についての説明から始まった。プロジェクタから映し出されている画面には、現在進行中の都市整備計画の全容や教育についての政策などが映し出されている。
どれも現市長の冨士井が前回の選挙戦での公約として掲げたものばかり。普通に見れば、とても斬新でわくわくするような内容なのだが、よくよく見ればなんてことはない。他にも進めている政策もあるはずなのに、映し出されているのは冨士井の力が及んで効果が期待できるものばかりだ。
わかる人が見れば、冨士井の次期市長選へのパフォーマンスであることは一目瞭然である。しかし、それを感じさせないように冨士井自らが「行政としての活動」を言葉巧みにPRしている。ここはさすが政治家である。
カーテンの陰に隠れて、冨士井の言動を見守る秘書の桜井も、このときまでは安心していられた。が、この安心もパネルディスカッションでの小林のこの発言からもろくも崩れていくことになった。
「さて、今冨士井市長から行政の取り組みについてのご説明がありました。他のパネラーの皆様、これについて何かご質問やご意見はございませんか?」
コーディネーター役を務める商工会議所の職員が発言。そしてしばしの沈黙。
パネラーのみんなはわかっていた。ここで冨士井の市政に対して意見や反論をしたところで、自分たちに何もメリットがないことを。だからこそ、沈黙をもって冨士井へ同調していることを示しているのである。
冨士井は自分のプレゼンテーションに酔っていた。どうだ、オレのやり方はすばらしいだろう。次期市長選もこの調子でよろしく頼むぞ。そういわんばかりの態度でパネリスト席に腰を落ち着けていた。
が、その空気を破ったのはあの小林であった。
「他に質問者がいないようなので、私が質問してもよろしいでしょうか?」
そろそろ次の段取りへと進もうと準備していたコーディネーター役の商工会議所の職員はあわててしまった。自分のシナリオにない展開であったためである。
「あ、はい。それでは行政提言委員会代表の小林さん、どうぞ」
このとき、冨士井は横一線に並んだパネラー席をもどかしく思った。なにしろ、冨士井と小林は、パネリスト席の端と端に位置している。そのため相手の顔がよく見えないのである。顔が見えない相手の意見を聞く。これはとてもつらいことだ。
逆に小林は、顔の見えない相手に対して次のような容赦ない言葉を発し始めた。
「冨士井市長の政策はとてもすばらしいと思いますよ。実際に選挙で公約として掲げていたことを次から次に実行していますから。しかし、その陰で前の選挙戦で対立候補があげていた『子育て支援施設』の問題と『ゴミ処理場施設』の問題には何も手をつけていませんよね。手をつけていないどころか、一説によるとこれらの項目については予算削減を行っているとか。これについてはどうお考えなのですか?」
ちっ、痛いところをついてくる。冨士井が一番気にしているところを責めてくるとは。この小林という男、ただ者ではないぞ。
冨士井の顔には緊張が走っていた。
その声に同調してか、会場で若いお母さんが手を挙げて発言を求めている。
シナリオからいうと、会場からの質問の時間ではないのだが、コーディネーターもあわてていたのだろう。おもわず会場へマイクを差し向けてしまった。
「私もそれを思っていたんです。今日は子育て支援施設についての意見を聞きたくてこのシンポジウムに参加しました。市長、この件についてどのように考えられているのですか? それに、予算を削減しているって本当なのですか?」
このお母さんの質問をきっかけに、会場のあちらこちらからいろんな声が。
「そういえばゴミ問題って何も手をつけてないわよね」
「そうそう、公共工事はやたらと増えたみたいだけど、これってどっからかお金が流れているんじゃないの?」
「あ、この間市長と丸菱建設の社長が料亭に入っていくの見たわよ。あれってやっぱりそうなんじゃないの?」
人のうわさというのは怖いもの。だんだんと根も葉もないことまで会場内でささやかれ始めた。
「市長、ここはグッとこらえてくださいよ。ここでムキになって反論してしまうと、市民は逆に不信感を抱きますからね。じっとガマンです。ガマン……」
舞台のそででは市長秘書の桜井が市長をじっと見つめてそうつぶやいていた。
壇上では顔色がだんだんと悪り下を向く冨士井市長、それに対して腕組みをしてにやりと微笑む小林。その間にいる他のパネリストは、冨士井市長についての事実を知っているのか知らないのか、終始無言のままであった。
困り果てたのはパネルディスカッションのコーディネーター役を務める商工会議所の職員。無言のパネラーに対してざわめきが時間と共に大きくなってくる会場。どうやって収拾をつければいいのかわからなくなっていた。
「市長、そろそろご発言を。答えられないということは、今会場でささやかれているうわさは事実、ということになるのですか?」
小林はここぞとばかりに冨士井市長を攻撃し始めた。群集心理の操作方法をしっかりとつかんでいる発言だ。
ここで市長が何も答えないと市長は不利に。さらにムキになって発言をしてしまうとこれも市長は不利になる。
「さぁ、市長。ご発言を!」
会場の市民の目線も徐々に市長へと集中。それにつられてか、コーディネーターもついこんな発言をしてしまった。
「し、市長。会場の皆様に向けて何か一言お願いします」
「市長、グッとこらえて。グッと。反論はせずにここは何とか場をおさめるようなご発言を…」
桜井は舞台袖から胃の痛くなる思いで市長を見つめている。それは市長の心中を見舞っての思いではなく、ここでうかつな発言をした後に自分が後始末をしなければならない、そのストレスを避けたいがための思いがほとんどであることは桜井の中でも明白であった。
追いつめられた冨士井。ついにガマンの限界がきたのか、バンッと机をたたきドンッっと立ち上がる。そしてマイクを片手にしようとしたその瞬間……
「わぁっはっはっはっ」
会場の後ろの方で、誰よりも大きな声で、そして誰もが注目する声で笑い声が。会場の視線は、冨士井からその声の主へと移された。その視線は市民のみならず、冨士井、パネラー、コーディネーター、そして小林までもがその声の主へと集中された。
舞台袖で隠れるように潜んでいた桜井までも、舞台から顔を突き出してその声の主を見つめていた。
「はっはっはっはっ。いやいや愉快だ愉快だ」
その声の主は笑いながらゆっくりと立ち上がった。大きな笑い声から、その姿は豪快な大男を想像していた者も多いはず。が、その期待は見事に裏切られた。
後ろの席から歩きながら舞台へ向かうその男。背丈は小柄な方だろう。太っているわけでもなくやせているわけでもなく。背格好からすればどこにも目立つようなところは見あたらない。
歳はおそらく三十代半ばか後半といったところ。服装もうす茶色のジャケットとパンツ。休日にちょっとおしゃれをしたビジネスマンといった程度のもの。これもどこにでもいる格好だ。だが、その容姿とは関係なく、どことなく存在感を周りに与える空気を持っている。むしろ、こんなオーラを発する男性が今まで会場の後ろにいて気づかない方がおかしい。そう感じさせるものがあるのだ。
会場の注目を一点に集めたその男は、笑いながらとうとうパネリストのいる壇上へ上がり込んでしまった。そして、コーディネーターが座っている向かって右端の席へ移動し、会場と、そしてパネリスト五人、さらには舞台の左袖に位置していた桜井までもを見渡しながら言葉を発した。
「いやいや、なかなか愉快なシンポジウムですね。私をここまで楽しませてくれたパネリストの皆様、とくに冨士井市長と小林さんには感謝しますよ。あ、それにこんな風に盛り上げていただいたこちらのコーディネーターにも感謝いたします。ありがとうございます」
その声はマイクも使わないのに、今までマイクを使っていた誰よりも遠くまで通る声であった。
「き、きみ、一体何なんだね? このシンポジウムをどうしようというのかね!」
そう叫んだのはパネラーに並んだ大学教授。その声に、パネラーを始め壇上の一同はやっと我に返ったようだ。
コーディネーター役の商工会議所の職員もあわててこの男に向かってこう言葉を発した。
「い、いきなり出てきて何なんだ? シンポジウムの進行のじゃまだ、出て行きたまえ!」
この男、その言葉にあわてず騒がず、逆にこう切り返した。
「おや、それは愚問ですね。ではお聞きしますが、このシンポジウムの本来の目的って何だったんでしょうね? どうですか、そちらの先生?」
男は大学教授に向かってそう質問した。
「そ、それは…このシンポジウムは行政と市民、そして私たち学校や民間企業が一体となってこの街をどのような姿にしていくか、それを明確にしていくのが目的じゃないか」
「なるほど、この街の未来像を明確にするってことですね」
「そ、その通りだ」
「ではそちらの商工会議所の会頭はどのような目的で来ておられるのですか?」
「も、もちろんワシも同じ意見だ。ここで出たこの街の未来像をいかにして私たちが実現していくのか、そして民間企業がどのような関わりを持つのかが重要だと考えておる」
「未来像に対しての民間企業の関わり、ということですね。ありがとうございます。ではこちらのNPOの代表にはこの質問を。今、私が出てくるまでに交わされていた議論。これは今の目的に対してどのような意味をもつのでしょうか?」
「そ、それは……現市長が行っていることを再確認して……そして……」
言葉に詰まったNPOの代表。この質問に対してはもう一人、渋い顔をしている人物がいた。この騒ぎの発端をつくった「行政提言委員会代表」の小林である。
「では同じ質問を、こちらの小林さんにも。いかがでしょうか?」
男が小林に対して質問をふる。小林は立ち上がってこう答えた。
「い、今の行政のやり方をここで見直さないと、きちんとした市政は行えないじゃないか。それのどこが悪いんだ!」
小林の怒ったような口調にもかかわらず、冷静にその言葉を受け止める謎の男。続けて小林にこんな質問を行った。
「なるほど、ありがとうございます。では質問を変えましょう。このシンポジウムの目的は、何なのでしょうか?」
「それは……この街の未来像を行政と市民が一緒に想像する……」
先ほどの勢いとは違い、だんだんと言葉を小さくする小林。言葉の最後には、とうとういすに座り込んでしまった。そしてその謎の男がこんな指示を行った。
「そこの舞台袖にいる方、ちょっと手伝ってくれないか。ほら、そこにあるホワイトボードをこちらに持ってきてくれ!」
指名されたのは、舞台袖で事の次第を眺めていた桜井。男にそう指示されて、あわててその言葉に従った。
会場の一般市民も、壇上のパネラーも今はその男が今から何をやらかすのかを興味深く見つめていた。
壇上に用意されたホワイトボード。男はペンを握り、ホワイトボードの上の方にこう書き記した。
『市民と行政のまちづくりを考えるシンポジウム』
そしてその下にこのように書いた。
『目的:行政と市民が一緒にこの街の未来像をつくり出す』。
「ここにお集まりの皆様、このシンポジウムの目的はこれで間違いないですよね? いかがですか?」
これには会場の参加者全てが首を縦に振った。その光景を確認した男は、続けてこう書き記した。
『経過:市長からの報告 スライドにて
質問:子育て支援およびゴミ処理問題の予算現状について(小林)』
「シンポジウムが始まってから、現在まで約一時間ほど経っていますよね。そして進んだのはここまで……ということで間違いないですね?」
男はコーディネーターを務める商工会議所の職員にそう尋ねた。
「え、えぇ。確かに言われてみれば……その通りです」
これについては誰も異存はなかった。
「どうですか、皆さん。愉快だと思いませんか。この街のトップクラスがそろって、一時間かけても、まとめてみればこの程度しか審議が進まないんですからね。ま、市長のスライド説明が十五分ほどあったとはいえ、それを差し引いても四十分の間、何をしていたんでしょうか? これは愉快としか言いようがないじゃないですか」
その男の言葉にムカッときたのか、大学教授がこんな事を言い出した。
「だったら、君がこの場を取り仕切ればもっと議論が進むとでもいうのか。そこまで言うんだったら、ぜひ君のお手並みを拝見したいものだ」
男はそのセリフを聞いてにんまり。待ってましたと言わんばかりの顔つきである。
「今こちらの先生から『私に進行役を』というご提案がありました。そうですね。そこまで言うんだったらぜひやらせていただきますよ。他の皆さんはいかがですか?」
他のパネラーもそこまで言うのだったら、という思いでこの男をにらんでいる。どうやら同意したという意思表示らしい。
「よし、ではここから私がこのシンポジウムの進行をやらせていただきますね。では今までちょっと緊張感が走っていたので、少し息でも抜きましょうよ。じゃぁそうですね。会場の皆様もお隣同士とちょっと二人組をつくってみて。そして二人組を組んだら、ジャンケンをして下さい」
男の声に誘導されるように、会場ではジャンケンを始める参加者たち。
「ほら、こちらのパネラーの皆さんも隣同士でジャンケンして下さいよ」
壇上の五人のウチ、小林とNPO会長、商工会議所会頭と大学教授が二人組を組んでジャンケンを始めた。残されたのは市長の冨士井。
「市長、こちらのコーディネーターの方と、ほらジャンケンポン!」
冨士井もその声に促され、あわててジャンケンを始めた。
「では今勝った方、今日あなたはとてもラッキーな方だ。とっても運がいいですね」
男がそう伝えると、会場ではジャンケンに勝った方が思わず笑みをほころばせている。続けて男がこう伝えた。
「ではその強運を、負けた方にもちょっと分けて上げましょう。では勝った方、負けた方の後ろに立って下さい」
会場では男のいうとおりに動きが。
「では勝った方、負けた方にしっかりとその強運を分けてあげましょう。負けた方の両肩に両手をのせて……」
男のいうとおりに行動する会場。
「ほら、パネラーの皆さんも同じように」
あわてて壇上の六人も同じ動きを。
「ではその両手をゆっくりと動かして、負けた方の肩を揉んであげましょう」
会場は笑顔であふれている。中には目を閉じて気持ちよさそうな顔をしている人も。壇上のパネラーも、先ほどまでの緊張感がどこかにいったかのように、誰もがリラックスした顔つきに変わってきた。ただ一人、コーディネーター役の商工会議所の職員だけは、市長に肩もみをしてもらっているという緊張感からか、ちょっと顔がこわばっているが。
二分ほどたった頃、
「はぁい、負けた方は勝った方から強運を分けてもらいましたね。その強運、できたら勝った方と分かち合いましょうよ。それでは役割交代です!」
今度はジャンケンに勝った方がいすに座り、負けた方が肩に手を当てて肩もみを始めた。会場はさらにリラックスした空気に満ちあふれている。壇上の冨士井も、あ〜う〜とうなりながら笑みを浮かべている。
「はぁい、それでは皆さんいすにお座り下さい。さて、ご気分はいかがでしょうか?」
男が壇上に上がる前に走っていた緊張感がウソのように、会場は一転してリラックスムードが満ちあふれていた。
「さて、皆さんリラックスしたところでいよいよ始めましょうか。その前に、ちょっとご提案です。進行の方法として、パネラーの皆さんにこの街の未来像を語っていただきます。それに対して、会場の皆様から質問やご意見をもらい、それに答える形で街の未来像を形作っていく。これでよろしいでしょうか?」
この提案については、特に誰も異存がないようだ。リラックスムードも手伝ってか、会場および壇上のパネラーもにこやかに首を縦に振る。
「ではすすめていく上で、いくつかルールを設けますね。まず、人の発言中に口を挟まないこと。私が『ご意見やご質問のある方』というまではしっかりと話しを聞いて下さい。」
男はそういって、ホワイトボードの隅に
『発言中に口を挟まない』
と書き記した。
「といっても、一人の人の話が長すぎるのも困ります。なるべく発言は短く。私の方で長いと思った場合は口を挟ませていただきますのでご了承下さい。」
これもホワイトボードに書き記した。
『発言は短く』
「そして、ご意見のある方はパネラーそして会場の皆さんは挙手にてお願いします。挙手のない方のご意見は向こうとさせていただきますのでご了承下さい。」
ホワイトボードには
『発言は挙手にて』
と記されている。
どれも簡単なルール。男の「よろしいですね」という発言に一同は軽く首を縦に振った。
桜井は一度は舞台の表に出たのだが、ふたたび舞台袖でこの男の様子をうかがっている。何かを期待しているかのように……。
「さて、そろそろ本題に入りましょう。まずは冨士井市長から現在の取り組みについてご説明がありましたね。では冨士井市長、市長が考えている今後の街の姿というのを教えていただけないでしょうか?」
男は先ほどまでの横柄な態度とは正反対。あの肩もみからは言葉が急に丁寧に、しかも柔らかい口調となっていた。
「ワシが考えている今後の政策を述べればよいのだな。」
「えぇ、できるだけ具体的に、ここにお集まりの皆様がどのような生活を送ることになるのかを教えて下さい。」
「よし、ワシが考えているこの街の将来像はな……」
冨士井の説明が始まった。男は冨士井が繰り出す言葉を、
『都市再計画→駅前地区の有効活用化』
『学校教育→地域一帯となった子どもの保護活動』
『雇用促進→港地区の工場誘致』
と短い言葉に変えてホワイトボードの書き記していった。
しかも、その男はただ単にホワイトボードに書き記しているわけではない。
「そうですか、都市計画再生計画については駅前地区の有効活用にまず着手したい、ということですね」
冨士井が一つ発言すると、このようにその言葉を短く要約して、そして繰り返して確認を取っている。そしてホワイトボードに書き記しているのだ。それに触発されたのか、冨士井の発言も一つ一つがだんだんと短くなってきている。
気がつくと、わずか二分程度の発言時間なのに、ホワイトボード上には六つの政策が書き記されていた。
「ではこれについて、まずはパネラーの皆様からご意見やご質問をいただきましょう。どなたからでもどうぞ」
ここですかさず反応したのは、あの小林であった。
「さっきも言いましたが、今取り組まれていない子育て支援施設とゴミ処理の問題、これについてどうしていくのかをお聞きしたいのですが」
小林の質問、内容は最初と同じものであったが、言葉をぶつける相手が冨士井ではなくこの男であるせいか、口調が多少はおだやかになっている。
「なるほど、子育て支援施設とゴミ処理の件ですね」
男はそういうと、ホワイトボードにこの二つを青色のペンで書き出した。
冨士井はこの質問にどう答えようか、頭の中を駆けめぐらせている。実際、冨士井の頭の中にはこの二つの問題はずっと棚上げされていた状態であったのだ。
「ではここで他のパネラーの方に聞きましょう。この二つの問題、皆さんはどのような姿がこの街にふさわしいと思っているでしょうか?」
男はこの質問を冨士井ではなく、他のパネラーにぶつけている。これは冨士井も、小林も、そして舞台袖で心配そうに眺めている桜井も意外であった。もちろん、他の三人のパネラーもこちらにその質問がふってくるなどとは思いもしなかったため、あわてて姿勢を正して考えを廻らせ始めた。
「この問題、こちらのパネラー以外にも会場の皆さんもぜひ考えてみて下さいね。さぁて、どんな未来像を思い浮かべますか?」
男はこの質問を会場へも投げかけてみた。すると、すかさず一人の男性が手を挙げたではないか。
「はい、ではそちらの男性の方、どうぞ」
先ほどまでコーディネーターとして進行役を務めていた商工会議所の職員は、あわててワイヤレスマイクをその男性の元へと届けている。急遽、会場係への転身だ。
「あ、はい。私は市の清掃係を務めているものです。市のゴミ担当として、ゴミ処理問題について私なりにあたためていた思いがあるのでぜひ聞いてもらいたいと思います。ゴミ処理場で一番困るのは、きちんとした分別がなされていないことなのです。ひどいところでは生ゴミと一緒に空き缶などの不燃物まで一緒にされてしまって。ゴミ処理場の職員は、こういった余計な分別まで強いられている状態なのです」
パネラーや会場の多くが、そんな事実があったのかと目を丸くしていた。清掃係の男性はさらに言葉を続けた。
「やはりゴミ処理の問題は、行政がいくら呼びかけたり工夫をしたりしても、最後はゴミを出す側のモラルなんですよね。ですから、ゴミ処理の問題を解決するためには、ゴミ処理施設そのものの改善や新設もいいけれど、それ以前にどうやって市民モラルを高めていくのか、といったところに注目して、行政の取り組みを考えるのはどうかと思っているんです」
「なるほど、ゴミ処理施設と同時に市民モラルを高める、というご意見ですね」
進行役の男の言葉に、清掃係の男は大きく首を縦に振った。
「ではこれについて、パネラーにも意見を聞いてみましょう。いかがですか?」
この言葉に反応して、大学教授が手を挙げている。
「はい、ではお願いします」
男の促しに、大学教授が自分の考えを述べ始めた。その内容は反論ではなく、自分も同じ考えがあり、その解決策として他の市の例を持ち出していた。
これに触発されたのか、小林と冨士井を除く他のパネラー、また会場の市民からも「どうやったら市民モラルを高められるのか」というところに焦点が絞り込まれていた。
出された意見、一つ一つをホワイトボードに書き記していく男。おそらく十五分程度であっただろうが、ホワイトボードはまたたく間にたくさんの意見で埋め尽くされてしまった。中には行政として即実行できるものや、行政に頼らずに市民一人ひとりがちょっとした工夫で行えるアイデアも盛り込まれている。
冨士井は、出された意見一つ一つを必死にメモしている。行政の代表としての意識がそうさせているのだろう。
「さて、ゴミ処理問題についてたくさんの意見が出されましたね。ではここで冨士井市長にご意見をいただきましょう」
男はここで始めて冨士井へ意見を求めた。
「はい、まずはこれだけたくさんのご意見を出していただきありがとうございます」
冨士井は会場とパネラーを見渡して、一礼して感謝の言葉を述べた。その態度からは、社交辞令的なものではなく心からの感謝が伝わってきた。
「今回出された意見を参考に、議会へ提案できるものをひとつ作成し、行政としての取り組みを根本から考えてみたいと思います。皆様のご意見やアイデア、本当にありがたく思っております。ありがとうございます」
冨士井は再び深々と頭を下げて、丁寧なお礼を行った。
「さて、ではゴミ処理の問題についてはこのくらいにして、次は子育て支援設備についてのご意見を、同じように皆様からいただくこととしましょう」
男はどこから出したのか、デジカメでパチリとホワイトボードを撮影すると、ボードをクルッと裏面にひっくり返しながら会場へそう言葉をかけた。先ほどの十五分で、会場もパネラーも要領を得たのか、男のその発言に待ってましたとばかりに多数の手が挙がっていた。
シンポジウムは、かつてない活気に満ちあふれたものへと変化しているのが誰に目にもはっきりしていた。ただ一人、小林を除いては……。
「はい、ではそちらの方。お願いします」
「では次はこちらの女性の方、よろしくお願いします」
男は会場やパネラーを順序よく指名しては意見を聞いている。それと同時にホワイトボードにも端的な言葉でその意見を書き記している。また、一つ一つの発言に対しても「それはこういうことですね」ときちんと確認をとり、次に進むようにしている。気がつくとまた十五分。子育て支援施設についての意見が活発に交わされ、先ほどと同じように冨士井へ意見を求める。
冨士井も必死になって会場から出された意見をメモしている。そしてお礼の言葉と自分なりの取り組みを述べて、次のテーマ。いっぱいになったホワイトボードは、男がデジカメで写真を撮るとさっと消されて次のテーマの受け入れ準備へと移る。
そんなことを合計四回も繰り返したところで、男は会場に向けてこう投げかけた。
「さて、今回私が進行役を請け負ってから、約一時間ほど経過しました。もうすでに皆さんおわかりのように、たった一時間でもこれだけの答えを導き出すことが可能なのです。そう、それだけの力が皆さんには備わっているんですよ」
たった一時間。気がつけばあっという間。しかし一時間でこんなにもたくさんの答えが出されたことに、会場の全ての人間が満足感を覚えているのは間違いなかった。
「さて、皆さんの頭の中にはこの街の未来が思い描けましたか? では最後に皆さんにご質問します。今皆さんでつくったこの街の未来。これを実現させるために、まずあなたはどのような行動から始めますか? それをお近くの方と語り合ってください。時間は今から五分ほど差し上げます。パネラーの皆さんも、横一列に並ぶのではなく、一度いすを持って円になって話し合ってみてください。準備はいいですか。それではスタート!」
男のその言葉に従い、会場では前後左右で思い思いにグループを作り話し合いが始まった。
壇上にも動きが。冨士井が率先していすを動かし、パネラーを呼び込んで円になって話しを始めたのだ。まずは冨士井が熱く、市長として自分のできることを話し始めた。他のメンバーも順に自分ができることを語っている。
そして、最後はあの小林の番。小林は頭の中では何か思いを巡らせているようだが、それが素直に言葉として出てこなかった。
じっと黙り込む小林。しばらくの沈黙。
「わ、私にできること。いや、私は本当は……」
ようやく小林が口を開き始めたとき、
「はい、五分経ちました。では一旦お話しをやめてこちらを向いてください」
男が小林の声を遮るかのように、終了の声をあげた。その瞬間、小林の顔には安堵の表情が見えたのを男は見逃さなかった。そして、男は小林の方を見てにっこり。「あんたの言いたいこと、わかってんだよ。でも今は言うべきじゃない」とでも言いたそうな微笑みであった。
シンポジウムは、最後のパネラー代表として冨士井が自分のできること、というのを簡単に話して幕を閉じた。終わったときには、割れんばかりの大拍手。多くの人が口々に
「いやぁ、参加してよかったよ」
「とても充実した内容だったね」
「こんなのだったら、毎回参加したいよ」
と好評を述べている。
「はい、では私の役目はここまで。あとは進行役のこちらの方にバトンタッチします。それでは私はこの辺で」
男はマイクを元々の進行係であった商工会議所の職員に渡すと、壇上を降りて会場を去ろうと奥の扉へ向かっていった。
会場からはその進行をたたえるように、大きな拍手。マイクを渡された商工会議所の職員、あわててマイクのスイッチを入れ
「あ、ありがとうございました。あの方に皆さん大きな拍手を!」
会場の拍手はさらに大きくなる。扉を開けて、男が去っていこうとした瞬間、ふと思い出したように商工会議所の職員が叫んだ。
「あ、ちょちょ、ちょっと待って! あの、せめてあなたのお名前を……」
その声に男はくるっと振り向き、会場に向かってあの通る声でこう語った。
「オレか、オレは通りすがりのおせっかいやき。名前を名乗るほどのものじゃねぇよ。そうさな、あえて名前を覚えておいてくれるというのなら、オレのことをこう呼んでくれ。『さすらいのファシリテーター』ってな」
そういって、男は扉を開けて去っていった。
「結局あいつは何者だったんだ? まぁいい、ワシのピンチを救ってくれた恩人ではあるからな。わっはっは」
「えぇ、あの男性のおかげで、シンポジウムも今までになく盛り上がりましたからね。しかし、最初に先生にくってかかったあの小林という男、一体どのような意図があったのでしょうか?」
「うむ、ひょっとしたら次期市長選の相手、羽田のやつの手先かもしれんな。ワシの悪評を広げることで、間接的に妨害工作をしておるのかもしれん」
シンポジウム終了後、控え室で休憩をとった後、冨士井は秘書の桜井と会場を後にしながらそう会話を交わしていた。
秘書の桜井も、冨士井と同じくあの小林という男を明らかに『敵』として見ていた。冨士井の言ったとおり、今度の市長選での相手となる羽田の手先ではないか、そう考えるのが自然だろう。
「では車を回してきますので、こちらでしばらくお待ち下さい」
「うむ」
桜井は駐車場へ車を取りにいく。シンポジウム会場であった市民文化センターの入り口で、一人車を待つ冨士井。参加市民はすでに帰っており、スタッフ以外は冨士井と桜井のみという状況。スタッフも会場の片づけを行っているため、市民文化センターの入り口は冨士井ただ一人という状態。
そのとき、背後から冨士井に近づいてくる者があった。あの小林である。
「市長、冨士井市長!」
冨士井はその声で始めて小林の存在に気づいた。よく見ると、小林の手には携帯電話よりも一回り大きな、黒い物体が握られていた。
「市長、悪いがこれから私とちょっとおつきあい願いますよ」
小林はそう言って、その黒い固まりを冨士井の背中に素早く押し当て、手元のスイッチを押した。
叫ぶまもなくその場に崩れる冨士井。
小林が手にしていたもの、それはスタンガンであった。
冨士井の重たい体を引きずり、ソファの見えないところへ連れて行く小林。そこへ秘書の桜井が到着。が、冨士井の姿が見えない。
「市長、冨士井市長、どちらに行かれましたか?」
声をあげて探す桜井。ソファの陰で息を潜ませて小林は桜井をやり過ごす。
「市長、冨士井市長、どこにいるんですか?」
秘書の桜井はトイレからシンポジウム会場であった二回の会議室、さらには休憩所といたるところを探して回っていた。小林は桜井が二階へ上がったのを見届け、冨士井を一番近くの用具室へとひきずっていった。
「ったく、重てぇやつだ。市長の権力でこんなにブクブクと太りやがって」
小林は冨士井が目を覚ます前に、猿ぐつわと目隠しをし始めた。
「うっ……うぅ」
「ちっ、もう目を覚まし始めたのか。だったらもう少し寝ていろ!」
小林はそう言って、二発目のスタンガンを冨士井へあてがおうとした。と、そのとき
「おいおい、おいたはもうそのくらいにしておいた方が身のためだぞ」
不意に小林の耳に響く声。どこかで聞いたことのある、遠くまで通る声だ。どこから聞こえてくるのか、小林はその声の主のありかを必死になって探した。
「おまえさん、冨士井市長にいろいろと恨みはあるんだろうが、これ以上やっちまうと結構重大な罪になっちまうぞ」
再び響く声。
「だ、だれだ! どこにいるんだ、出てきやがれ!」
小林は大声でその声の主に叫んだ。そのとき、冨士井を必死に捜し回っていた桜井が、その小林の声を聞きつけた。
「市長、そこにいるんですか?」
桜井は小林の声が聞こえた方へ足を急いだ。
「ほらほら、お痛が過ぎるから見つかっちまったぞ。さぁて、どうするかな?」
「き、きさま。どこにいるんだ? オレのじゃまをするな!」
小林は見えない相手にとまどっている。そのとき、冨士井がようやく立ち上がり、用具室の扉へと駆けだしていった。
「た、助けてくれ。おぉい、桜井、わしはここだ!」
冨士井は必死になって助けを求めるために、用具室の扉を叩きまくった。が、用具室の扉は小林が内側から鍵をかけているため、すぐに開くことはなかった。内鍵をひねればいいだけなのだが、冨士井はパニックに陥りそのことすら気づかなかった。
「えぇい、静かにしてろ! きさま、一体どこにいるんだ。出てきやがれ!」
一方、小林の方も得体の知れない声に不安を覚えていた。小林が不安を覚えるのも無理はない。密室のはずの用具室なのに、姿の見えないところから声が聞こえるのだ。そして、とうとう扉の向こうには桜井が到着した。
「市長、冨士井市長!そこにいるんですね」
「おぉい、桜井、わしはここだ。早く開けてくれ!」
「市長、落ち着いて。市長!」
桜井もあわてているのか、冨士井のいる内側の鍵を開けてさえくれれば扉は開く、ということに気づかないでいた。
「市長、冨士井市長。あわてないで」
先ほどまで小林に向けら得た謎の声、今度は冨士井へと向けられた。
「市長、よく見て。ほら、ドアノブに鍵がついているでしょう。それを回せば扉は開きますよ」
「か、鍵だな。おぉ、これか!」
ガチャリ
冨士井はドアを開くと、勢いよく外に飛び出た。勢いよすぎて、思わずこけてしまったほどだ。
「市長、大丈夫ですか!」
桜井はあわてて市長のもとへと駆け出す。
「ちっ」
小林は舌打ちして、もうここには居られないとばかりに用具室から逃げ出そうとした。そのとき!
「ようやく役者がそろったようだな。ほらほら、そんなにあわてるんじゃない」
用具室の扉の横には、いつの間に立っていたのか、あの男が立っていた。そう、自分のことを「さすらいのファシリテーター」と言っていたあの謎の男である。
小林はその男の出現に面食らったのか、思わず尻もちをついてしまった。
「なな、何でおまえがこんなところにいるんだ…」
小林はその男を指さして、声にならない声をあげた。
「なぁに、まだ私のファシリテーターとしての仕事は終わっていないってことですよ。さぁて、役者がそろったところできっちりファシリテートしましょうかね。小林さん、冨士井市長、それに桜井さん。ちょいとあちらの部屋へ移動願いますか?」
小林も観念したのか、その男の指示に従ってとぼとぼと歩き始めた。
「市長、ここはこの男の指示に従った方がよろしいようですね」
桜井は何かを感じたのか、冨士井にそう耳打ちして、冨士井を支えながら一緒に移動を始めた。
「よぉし、みんないい子だ」
謎の男はにこやかな顔つきで三人を隣の小会議室まで案内した。小会議室にはいると、その正面にはホワイトボードが一枚。そしてテーブルが向かい合わせに置いてあり、そこにはイスが四脚。冨士井と桜井をホワイトボードに向かって右側に、小林をその反対側に座らせ、謎の男はホワイトボード向かって左横に位置した。
「さて、役者も舞台もそろったところで、冨士井市長と小林さんのファシリテーションを始めましょうかね」
「い、一体何を始めるつもりなんだ。ワシはこんなことにつきあっとる暇などないぞ。そもそも、どうしてワシがこんな目に遭わんといかんのだ!」
謎の男の発言に、冨士井はそう反発した。が、謎の男はあわてず騒がす、小林に向けてこう言葉を発した。
「小林さん、まずは冨士井市長に向けて言いたいこと、スパッと言っちゃいましょうよ。せっかくの機会なんですから」
小林は何も言わずに下を向いてじっとしていた。が、何かを決心したのか突然立ち上がり、冨士井の方を向いてこう語り出した。
「あんたが、あんたがきちんとオヤジの意志も継いでくれれば、こんな事せずにすんだんだよ!」
小林の声には怒りと悲しみが混じっている。そのことに桜井もそして冨士井もはっきりと気づくことができた。
「オヤジの意志って……い、一体何のことだ。ワシが一体何をやったと言うんだ。小林なんぞというヤツに知り合いはおらんぞ」
小林の悲痛な叫び。しかし、冨士井はまだその言葉の意味を把握することはできなかった。小林は拳を握りしめ、泣きそうになりながら「くそっ!」とつぶやいた。しかしその拳は行き場をなくし、テーブルを激しく叩くだけに終わった。
「おい、一体どういう事なんだ。いい加減に説明してくれないか」
冨士井は未だに納得のいかない顔をしている。
「あの顔、確かどこかで見たことが……あっ!」
どうやら桜井は気づいたようだ。そう、小林が悔しがっているその顔を見て。
「あ、あんた、確か前市長の……」
桜井は指をさして思わず叫んだ。その声に反応して、冨士井は再度小林の顔をのぞき込んだ。そしてようやく気づいた。
「お、おまえは確か前市長の濱野口の長男じゃないのか。たしか秘書として活動していたと聞いていたが。しかし、おまえがどうして小林なんて名乗ってこんなことを?」
小林……いや濱野口前市長の長男、一紀はいまだに悔しそうな、そして今にも泣き出しそうな顔でうつむいていた。
「その理由は、私の方からお話ししましょう」
謎の男は全てを知っているかのように、そう口を開いた。
「小林さん…いや、濱野口一紀さんはね、前市長であるお父さんの意志をとても大事にされていたんですよ。確か『小林』というのはあなたのお母さんの旧姓でしたよね。お父さんにあこがれて、市長秘書としてお父さんと政治によって市民の安心と安全を願っていたんだ。しかし、前回の選挙では冨士井さん、あなたにわずかの差で負けてしまった。まぁ、これは政治の世界なので仕方ないことです。ね、そうでしょう」
謎の男はうつむいている前市長の長男、一紀にそう尋ねた。その声に対してこっくりとうなずく一紀。謎の男はそれを確認すると、さらに話を続けた。
「ところが、唯一許せなかったことがあるんです。そう、それが冨士井市長、あなたが濱野口前市長と約束した事を何一つ実行に移していないことなのです」
「わ、ワシが濱野口と約束を……そ、そんなこと覚えておらんぞ」
「でしょう。だからこそ、ここにいる一紀さんはそれが許せなかったのですよ」
「ワシはしらん、濱野口とはなにも約束なんぞしておらん!」
冨士井は強気でそのことをアピール。今度は逆に一紀が反論に出た。
「あんたは確かにこう言ったよな。オヤジから行政を引き継いだときに。『あんたが公約で打ち出していた、そして実行に移す寸前だった子育て支援とゴミ処理の問題。あれはワシがしっかりと引き継ぐから安心しろ』と。オヤジはあんたのその言葉に安心して、行政を引き継いだんだ。しかしな、あんたはいつまで経っても、なにも行動を起こさないじゃないか。それどころか、オヤジの手でほとんどできあがっていたプランを、紙くず同然のような扱いで……まったく白紙にしたじゃないか!」
ドンッ。一紀は再び拳を机に叩きつけた。
「そ、それだからといってワシがおまえにこんな仕打ちをされる事はないだろう。単なる逆恨みではないか」
「おまえのせいで、おまえを信じていたせいで、オヤジは政界に復帰できなくなったんだよっ!」
「ど、どういう事だ、一体……?」
冨士井は未だにワケがわからない状態。一紀は再びうつむいて、口を貝のように閉ざしてしまった。
「ではこれも私から説明しましょう」
謎の男が再び口を開いた。
「前市長の濱野口さん、実は今、痴呆の症状が出てしまったのです。まだ軽い状態なのですが、おそらく政界への復帰は不可能でしょう。それは濱野口さん自身がそう自覚しています。痴呆の症状が出たのは、冨士井さんのとっている政策の進行状況を事細かく知ってしまったそのときからと聞いています。そうですよね、一紀さん」
その言葉にだまってこっくりとうなずく一紀。謎の男の言葉はさらに続く。
「冨士井さんの政策の全てを、ある筋から入手した濱野口前市長はかなり長い間呆然としていたそうです。『私の今までの活動は、一体何だったのだろう』その言葉を繰り返して。そしてその後から次第に様子がおかしくなってきたようですね」
その言葉にもこっくりとうなずく一紀。
「そ、そんなのワシのせいじゃない。完全な逆恨みではないか!」
「そんなことわかってんだよ! でも、おまえがきっかけを作ったのは間違いないじゃないか。オレは、オレはおまえを許すことができねーんだよ! おまえがオヤジの政策をしっかりと受け継いでいれば、オヤジはこんなふうにはならなかったんだよ!」
一紀はそういって、悔し涙を流し始めた。
「さて、一紀さん。あなたは冨士井市長に一体どうして欲しかったのでしょうか?」
謎の男が立ち上がり、ペンを握ってそう尋ねた。一紀は気を取り直して、ゆっくりと言葉を発した。
「私は……私はオヤジの政策を、オヤジの政策をしっかりと引き継いで欲しかった……オヤジがあそこまで作り上げていたものを、そのまま実行に移して欲しかったんだ……」
謎の男は、ホワイトボードに『濱野口前市長の政策継続』と書き、さらに質問を繰り返した。
「冨士井市長が政策を継続すると、その先はどうなるのでしょうか?」
「その先……その先は……」
一紀は言葉に詰まってしまった。
「では冨士井市長に聞きましょう」
謎の男はくるっと向きを変えて、冨士井市長へとその矛先を変化させた。
「冨士井市長は、濱野口前市長の政策をどのようにしたかったのでしょうか?」
「ワシは、ワシは自分の公約を実行することが先決だと思ったんじゃ。じゃから、濱野口が立てた政策なんぞに目を向ける余裕がなかったんじゃ。別に無視したわけではない。あの問題もこの市で解決せねばならんことだと、このワシもしっかりと把握はしておるわい」
謎の男はホワイトボードに『冨士井市長公約実行』、そして矢印を下向きに書き、『濱野口前市長公約』と書いた上、矢印に×印をつけた。
「では、この問題に手をつけないと、この市はこの先どうなると予想されますか? これはお二人に聞きましょう」
「そうじゃな……全く手をつけんと、子育て、特に働いておる母親にとってはさらに苦しい状況へと追い込まれるじゃろうな。それにゴミ問題。今日のシンポジウムでも出ておったが、これはこの市だけでなく地球環境を取り巻く大きな問題じゃからな。このままだと、市民モラルの低下も身のがせん問題に発展するじゃろう」
謎の男は、冨士井から発せられた言葉を短くホワイトボードへ記す。その書かれた言葉を見た一紀の顔に、徐々に冷静さを取り戻していることがそばにいた桜井にははっきりとわかった。
「では一紀さんはいかがですか?」
「確かに、冨士井市長の言われるとおりだ。だからこそ、この問題もしっかりとにらんで欲しいんだよ」
「なるほど。思いは冨士井市長と同じですね」
謎の男はホワイトボードに『濱野口→冨士井市長と同じ』とだけ記した。
「では質問を変えましょう。冨士井市長が今の政策を進めずに、この問題だけに集中したとしたら、この市はどうなるでしょうね?」
二人に向けられた質問なのだが、謎の男の顔は明らかに一紀へと向けられていた。一紀も、自分に聞いているのだとわかったのか、先に言葉を発した。
「はい……今、冨士井市長がやっている政策、これもあの二つと同じくらい大事な問題だとは思っています。私だって政治に足を突っ込んだことのある人間だ。その重要性くらいは理解していますよ」
ホワイトボードには黒で『他の政策』そして赤文字で『同等性を持つ』と記された。
「さて、冨士井市長。今日のシンポジウム、さらに今の一通りの経過をにらんで、今後どのような政策を公約として掲げていきますか?」
「公約か……もうじき市長選も始まる。しかし、どうやらワシの政策を一度見直す事が必要のようじゃな。今すぐ約束できるものを打ち出すことはできんが、さらに多くの声を拾い上げて、多くの市民が満足できるようなものを練り直すことはできる。一紀くん、それには君の力も必要じゃとワシは感じた。前市長のお父さんの意志も含めて、ワシに力を貸してくれんか。頼む」
冨士井市長のその目は、まっすぐに一紀へと向けられていた。その目には強固な意志と決意が込められているのは、誰が見ても明らかであった。
「はい、父の意志を継ぐものとしてぜひ協力させて下さい」
一紀は立ち上がり、冨士井の両手を握って熱い思いを口にした。冨士井も立ち上がり、一紀と熱い握手を交わしていた。
「ミッション、コンプリート」
謎の男は小さな声でそうつぶやいた。
「ところで、あなたは一体何者なのですか?どうしてそんな事情まで知っているのですか?」
冨士井と一紀の様子を端から見ていた桜井は、冷静にこの謎の男を観察していた。そしてこの質問である。その質問に、冨士井も一紀も同様の思いを持ったのか、あらためてこの男を見つめ直した。
「はは、確かに皆さんには不思議な存在でしょう。が、今回はクライアントからの要望もあるので全てをお話ししましょう。私はね、濱野口前市長、つまりあなたのお父様から今回の件を依頼されたのですよ」
「え、父が……」
「はい、このところあなたの様子がおかしいということで、前々から相談を受けていたのです。そして、冨士井さんの出席するシンポジウムの実行委員として、偽名を使って組織を作ってまで行動する姿に気づいて、何か起こるのではないかと心配していまして。で、私にお二人の間を取り持つファシリテーションを行ってくれないかと」
「あ、あなたはもしかして……」
一紀はなにか思い当たることがあったのか、そう言葉を発した。その言葉に促されるように、桜井はあることを思い出した。
「そ、そういえば濱野口前市長には、決して表には出ないけれど凄腕の参謀がいるといううわさを聞いたことがあります。参謀と言うよりは、複数の人のアイデアを引き出してそれをまとめ、さらには実行に移すという。さらには、人と人の間をとりもち、人間関係の修復までやってしまう……」
さすがは桜井。政治の裏の世界に対しても情報を握っている。
「はは、私はそんなたいそうな人間ではありませんよ。でも、一紀さんのお父さん、濱野口前市長にはお世話になりましたからね。その恩を返したいと思って、自分がご協力できることをやっただけに過ぎませんよ。それに、正式に仕事としても引き受けましたからね」
この男の言葉で一紀もようやく思い出したようだ。
「そ、そういえば……確か父から一度だけ聞いたことがある。『私には優秀なファシリテーターがいるから、安心して事を起こせる』と。でも、前回の選挙戦の時にはその人と連絡がとれなくなり、全体をまとめながら選挙戦をすすめることができなくなった、と」
「えぇ、あのときは申し訳ありませんでした。私にもいろいろと事情があったもので」
謎の男は一紀の言葉にそう答えた。
桜井がさらに思い出したように言葉を続けた。
「ということは、やはりあなたがうわさのファシリテーター……確か名前はコジローさん」
情報通の桜井ですら、この程度のことしか知らないらしい。そして冨士井も思い出したようだ。
「え、お、おまえがあの男なのか? ワシもうわさでしか聞いたことがなかったし、そんな男がおるのか半信半疑じゃったが。まさかファシリテーターのコジローという男が本当に実在する人物とは」
政治の世界にいる冨士井、さすがにそのうわさは聞いたことがあったらしい。
「いやいや、私はそんなにたいそうな男じゃないですって。ま、確かに私はコジローと名乗ってはいますけどね。さて冨士井市長、それに一紀さん。最後に私からお二人に質問です。あなた達お二人は、この先この街をどのようにして作り上げていくのでしょうか?」
コジローは二人を真剣な目で見つめて、そう質問した。
「ワシは……ワシは今まで市民のためと思って自分の思うがままに市政を動かしておったようだな。これからはこの一紀くんや桜井の力を借りて、さらに多くの人間の声を拾い上げて市政へ反映していくつもりじゃ」
「私は父の意志を継ぐことばかり考えて、それが誤った方向に向いていたことに気づかされました。本当に父の意志を継ぐのであれば、今は冨士井市長のような方と共同で政策の策定をすすめ、さらに自分の力を磨いていこうと思います。まだまだ私も政治家としての修行を重ねていかなければ、そう思っています」
冨士井、一紀、桜井、そしてコジローの四人は互いに見つめ合い、固い決心を確認しあっていた。
「ではそろそろ私はこの辺で」
そう言って部屋を立ち去ろうとするコジロー。
「あ、待って」
桜井はあわててコジローを呼び止めた。
「またあなたにお会いするには、どうしたらいいのですか? ぜひウチの冨士井を、そしてこの街をつくるお手伝いをしていただきたいのですが?」
コジローはくるっと振り向き、冨士井、一紀、そして桜井に向かってこの言葉を伝えた。
「私はさすらいのファシリテーター。おまえさんたちが困っていれば、そして本気で誰かのためになにかをつくり出したいと思えば、そのうち現れるだろう。そう、おまえさんたちが本気で望めば、ね」
さすらいのファシリテーター、コジローは謎めいた言葉を残し、この場を去っていった。
後に残った三人。その心の中には一陣の風が。
その風がふいたあとには、ほんのり暖かなものが残っていた。
第一話 完
2012年2月21日 発行 初版
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たぬきコーチの古賀弘規です。コーチング、ファシリテーション、自己啓発、人材育成、その他もろもろ、人生にお役に立つ小説や物語、ノウハウをお届けします。