遠くのほうで何かが爆発したような音が聞こえたからQはそれを確かめに行こうと言った。私には聞こえなかったので、正直いえばちょっと面倒くさいと思った。いま考えれば理由はただそれだけのことだった。タイミングが少しずれていたら彼といっしょに出掛けていたかもしれない。その時に私はなんと答えたのだろう。PCから目を離さないまま、うなずきとも拒絶とも取れないただ曖昧な声を出しただけだったんじゃないだろうか。視界の端には北東の窓から顔出して空を見上げていたQがいたような気もする。それもぼんやりしていてたとえ目には映っていたとしても記憶には残っていない。窓が半分開いていたのであとから想像しただけだ。彼はコンビニにでも出掛けるような感じで、実際に私の、というか二人でいまでは共用していたナイキの赤いサンダルだったのだけれど、ゴミ出しに行く時などによく履くそれで、ちょっと見てくるね、と部屋を出て行った。それも履いた姿は見ていない。サンダルがなくなっていたのであれを履いていったのだろうと思った。
遠くのほうで何かが爆発したような音が聞こえた。確かめに行こう。ちょっと見てくるね。彼が本当にそう言ったのかどうかさえはっきりとはわからない。部屋に一人になるとPCのファンの音だけが低く聞こえていて、普段は気にしていない音が一度聞こえてしまうとその音は消えなくなって、いつまでも耳が捕われてしまうのはなぜなんだろうと思ったのは覚えている。私はその時友人のAに頼まれたウェブデザインの作業を通常の退屈な仕事の気分転換にしていて、それはフリーライターの彼が自分で収集したフィールド音をアーカイブ化するサイトだった。
tehran,Iran,06.19.1990/kobe,hyogo,01.16.1995/fukagawa,tokyo,03.09.1995/kasumigaseki,tokyo,03.19.1995/hirosima-shi,hirosima,08.05.1995/Kyiv,Ukraine,04.25.1996/izmit,Turkey,08.16.1999/odawara,kanagawa,08.31.2000/nyc,us,09.10.2001/tokachi,hokkaido,03.02.2002/Vasco,Spain,04.25.2002/naha,okiwawa,03.25.2004/xtoukamachi,niigata,10.22.2004/phuket,tailand,12.25.2004/neworleans,us,08.28.2005/islamabad,pakistan,10.07.2005/port-au-prince,Haiti,01.11.2010/talcahuano,chile,02.26.2010
時間も場所もまちまちのファイル名が付いた三百以上にも及ぶMP3ファイルを世界地図上にマッピングし、サーチエンジンで分類ごとに時系列で呼び出せる設計にした。インターフェイスのデザインはシンプルなものだし、データベースに流し込みさえすれば作業自体はさほど手間の掛かるものではなかったが、1ファイルで短いものは数秒、長いものだと十分以上もあるフィールドレコーディングの音声を私はひとつひとつすべて聞いた。雑踏、車、人の話し声、機械音(工場?)、息づかい(歩行中?)、雨音、鳥、波、風で木が擦れ合う音、何かを叩き続ける音、クラブの喧噪、子どもの声、電話のさまざまな着信音、テレビの音、レストラン、キーボードを叩く音、遊園地(?)、教会の礼拝、砂利を踏みしめる音、空港、電車内、アナウンス、シーツと寝息、窓を開ける音、鐘、泣き声、笑い声、怒鳴り合い、拍手、スポーツ観戦(?)の会場、巨大な物(鉄柱?)が倒れる音、川のせせらぎ、滝の音、複数の音や電波ノイズが入り交じり想像のつかない音、女性の喘ぎ声、銃声(?)、爆発音、くしゃみ、市場(?)のざわめき、自転車を漕ぐ音、ボートを漕ぐ音、知らない国の言葉で交わされる挨拶、それは聞いていくうちにひとつとして同じものがないことがわかってきた。同じ雑踏でもちがう、ただ歩いているだけのような音も、付けられたファイル名にあるデータが本当だとすれば、たしかにその時その場所に固有なもので、行ったこともないパキスタンの二〇〇五年十月七日の雑踏にいるような錯覚を覚えた。
それを確かめに行こうとQが言ったそのときも私はその音に聞き入っていたかもしれない。だとしたら、爆発音もQの声も私を外に誘った言葉も、発せられたかどうかはともかく私にはほとんど聞こえていなかったはずで、それはモニター用ヘッドフォンを付けていたからだ。でもQが出て行ったことはわかって、しばらくしてからヘッドフォンを外し、私は少し開いた窓から曇った空と宙を渡る電線を見て、いつもと同じ位置に立てかけてある彼のアコースティックギターを確認して、PCのファンの音を聞いていた。おそらくQが直前まで座っていた床には私が仕事で出力したミスプリントをクリップで束ねた紙が置いてあった。
Qは曲を作る時に思いついた歌詞やコードを書き留めるメモ帳としてその紙の裏面を使っていて、相変わらず意味不明な単語や記号が汚い筆跡で書かれていた。あとから何度もそれを見返したが、なげる/つかめない/つかまない/トマトのマトのトマト/穴犬/吼え声だけで見たものはいない/空/空水=くそまずいただの水/とけるとける/くさるくさる/ゆれるゆれる/おちるおちる/おちあいふじん/不尽/不尽男/蕩尽おくち/粒子→貫通/ぐるりんぐんるりるりるり!/もう汚ないシャツしか着ない宣言/もげたモゲゲ/さかむけ/乱交/ランバタ/乱端→井戸端乱交/1億人の乱交パーティー/なうシカ/シカなう/ぞうなう!/なうまんぞうなう!/風の谷のガチョ〜ン/神喰虫/蟲蟲蟲蟲さらに蟲/蟲蟲大行進、といったかろうじて解読できる文字に塗れて言葉以上に意味がわからない古代人の残した壁画のような落書きがされていただけで、つまりいつもと同じQの歌のメモだった。
Qがいる間はまったく感じなかったのに一人になるとQはいないんだと当り前のことを思った。ヘッドフォンをしてQの存在が私のなかでほぼ消えていても彼はそれまでたしかにいっしょの部屋にいたことを、部屋の上のほうから椅子に座った自分の姿と半分だけ開いた窓とギターとメモ帳、あったはずのサンダルがないことで繋ぎ止めとうとしていた。
Qから連絡が来たのは夜遅くなってからだ。連絡といっても件名と本文が空白の空メールで、差出人は彼の携帯アドレスだった。それから毎日二~三通の空メールが届いた。あの日の恰好はサンダルにいつも部屋で着ている緑のパーカとほとんどブルーが消えて白く掠れたダメージジーンズだった。ごく近所か離れていても隣駅くらいの町まで食事に行くような服装だ。そのせいかわからないが彼はひょっこり戻ってくるだろうと思っていた。二ヵ月ほどが過ぎいくつかの仕事を納品して、合間に進めていた友人のサイトを完成させてもまだ空メールは日課のように届き続けた。
完成遅くなっちゃってごめんね。
サイトを頼まれたAからギャランティ代わりの食事に誘われて会うなり私は言った。
急ぐものでもないし。そもそもきみがいなかったらウェブに上げようなんて考えもしなかったもの。データがただ溜まり続けるだけで。ありがとう。
Aが何を目的に音の収集をしているのかは聞いたことがなかった。たぶん理由なんてないと思ったからだ。Aは新しい音が入っているというDVDを差し出して言った。
また何時間分かあるんだけど、お願いしていいかな。いつでもいいから。
聞いてみてもいい?
もちろん。でもおもしろい? こんなのが。
あ、ううん、これはまた聞かせてもらうけど、そうじゃなくて質問。これ、本当なのかなって。
本当? 本当ってなにが?
書かれてるファイル名は本当なのかなって思って。本当じゃなくてもいいんだけど。
実際にそのときにそこで音を録ったのかってこと?
友人はコップの水に口をつける。本人にはもちろん誰にも言ったことはなかったが、私は昔からこの人の唇の形が好きだった。何度も触れてみたいと思ったし触れられたいとも感じていた。でも人が望もうと望むまいとこの世界には起きることと起きないことがあって、それは現実には起こらないほうのことだとわかっていた。現実に起きなければ、つまり私が自分の望みを口にしなければ、世界に存在しないものだ。私はそういうふうに考えて生きてきた。多分そう割り切るほうが楽だったからだ。Aの唇が少し歪んだのを見てなんてつまらないことを聞いたんだろうと思った。
本当だよ。だいたいこれは誰にも知られずにいるものだったんだから。嘘にする意味がないよ。
そう言って振った手でAはコップを倒し水が零れた。彼はすぐにコップを立てたけれど、水は最初は勢いよく、その後はゆっくりと白いテーブルクロスにグレーの地形を描くように広がっていった。私たちはフロアの人を呼ばずにしばらく水が動く様子を見ていたように思う。注意深く見ていないとわからないくらい微細な動きが予測できない模様を作っていくのがおもしろかった。私はAの唇を見た。その唇は子どもが悪戯をした時のように小さく開き水に濡れて光っていた。
Aと食事をして帰った深夜にQから電話があった。彼はついさっき出掛けたような感じで、元気元気、そっちはどう? とあまりにも呑気な口ぶりだったので、私は笑って、それから泣いてしまった。Qは私が泣き止むまで黙っていた。
やっぱりね、爆発はあったよ。あの音は爆発音だったんだ。でもまだ何が起きたのか僕にもわからないんだよね。人はたくさん集まってて、それでも誰もはっきりしたことはわからないみたい。いっしょに来ればよかったのにな。
行かないよ。私はそんなところに行かない。てか行けない。仕事あるし。
うん。二人で来れたらよかったのにってずっと思ってた、来てみたらやっぱりちょっと怖いし。でもなんだかわくわくしてるんだよなあ、すごいことが起こりそうな気がして。だから本当はもう帰りたいんだけどまだ帰れそうもないや。ごめんね。ああ、そうだ。
なに?
サンダル。あの赤いサンダルで来ちゃった。途中で気づいた。完全にローソン行く恰好で来ちゃったよ。どこから来たんですかって言われたよ。そういや、僕どこから来たんだっけなあ、だって。
ばかだね。ね、いまどこにいるの? 風の音がするね。波? 海が近いの? もしもし? 聞こえてる? もしもし? ねえ、そこどこ? いまどこにいるの? いま、本当にそこにいるの?
Qはそれきり何も言わなくなったが、電話はつながったままだった。私のほうから電話を切るまでずっと携帯のマイクに直接当たる風と離れた場所の波の音がしていた。私はずいぶん長い時間その音だけを聞いていた。
電話がかかってきた時にQはもう死んでいるんじゃないかと思った。彼の声はいまここではない、どこか別の世界から聞こえているような気がした。Aの集めたフィールドレコーディングのようだった。たとえデジタル信号に分解され再構成された音であっても疑いのない現実であり、固有の時間があるのに不確かで、ちょっとした均衡のズレでかんたんに崩れてしまう、そこには居続けられない場所。居続けてはいけない場所。死んでいるのか、生きているのか、彼の安否よりも不確かな場所に吸い込まれてしまう感覚が怖かった。私はそこに行けない。そう思った。たとえそれが避けられない未来だとしても自分から踏み出せなかった。
でも電話はあのまま切るべきではなかったかもしれないと自分を責めた。責めながら繰り返し思い返していたのはあの日のことだった。彼が出て行った日。彼は私にどんなことを言っただろう。私は彼に何を言って何を思ったのだろう。いつものように小さなテーブルの隣り合った辺に座ってCDを聞きながら、バターを厚く塗っただけのトーストとコーヒーの朝食を食べて、どんな会話をしたのだろう。私がヘッドフォンをしてPCに向かっていた時、彼は何を考えてどんな新しい歌を作ろうとして、どういう声で歌っていたのだろう。それまで退屈なくらい続けてきたいつものことが「あの日」になってしまった。部屋を出て行った時の彼の姿が記録されていないことを悔やんだ。Aから受け取ったDVDの音はまだ聞いていない。もう聞かないかもしれない。私は明け方までかけてAにメールを書いた。直接言わずにメールにしたのはサイトの更新を断りにくかったからではなくて、口では言えないことも書いたからだ。Aをずっと以前から好きだったこと、Aの顔が、唇が好きで触れてみたいと思っていたこと、いまも思っていること、でもこの先はもう会えないかもしれないこと。Qのことは書かなかった。QはAの存在を知っていたけれど、AはQがいることもいなくなったことも知らなかった。
Qはそれから数ヶ月して突然部屋に帰ってきた。ただいま、と出掛けて行った日の恰好のままで朝の玄関に立っていた。おかえり、と私は言った。パンをオーブントースターに入れようとしていたところだったので、食べる? と咄嗟に言い、うん、おなか減った、と普通に返事を返されて、なにこれ、と二人で笑った。
そしてテーブルの隣合った辺に座って朝食を食べた。元気でよかった。そっちも。なんだかあまり覚えてないんだけどさ。いいよいよ、またゆっくり聞くよ。で、思ったんだけどさ、あのサンダルは僕のにして、新しいのもう一足買おうか。そんなのどっちでもいいよ。いや、けっこう履きつぶしちゃったし、二つあったほうがいいよ。言われてみればゴミ出しの時、いちいち靴履くの面倒だった。そうでしょ、悪かったね。そんなのたいしたことじゃないよ、サンダルなんて。このパンおいしい、すごくおいしいね。変えたの、近所に新しいパン屋さんができたから。そう、コンビニのとは全然違うね。ちょっと恥ずかしい店だけど。恥ずかしいの? オサレなの。オサレ、ああ、オシャレなんだ、それはどうなの、いいの? いいの、おいしいから。そうだね、おいしいならオサレも許せるね。心では嘲けるけど。うん、心で嘲ってね、オサレな店でよござんすねってね。そうそう、嘲るけど、舌と腹が喜ぶからいいの。食欲に甘いなあ。甘いよ、何にだってアタシは甘いよ、コーヒーもっといる? あの日もきっとこんなような会話をしてたんだろう、そう思いながらQの顔を見ていて出て行った時と印象が少し変わっていることに気がついた。この半年に変化したのか、久しぶりに会って記憶のQと誤差があったのか、すぐにはわからなかったが、印象は補正されなかった。Qの顔は真ん中から左右が微妙に縦方向にずれていた。長く生活を一緒にしていないとわからないくらいの崩れだけれど、明らかに彼の顔は変わった。でもQであることにまったく疑いはなかったし、そんな変化にもすぐに慣れてしまった。
何日かして、顔がちょっと変わったよね、と言うと、彼も、そうなんだよね、と言った。僕こんな顔だったかなあと思ったけど、やっぱりそうだよね。なんかズレてるでしょ? でもへんかな、気になる? ううん、全然気にならないよ、きっと誰も気にしないよ、そんなこと、でも確実にズレてるけどね。笑うとQの顔はもっとズレて左半分は泣いているみたいな表情になった。
私はQが死んでいるのかもしれないと思っていた。あの電話でしゃべった瞬間からずっとその気持ちを拭えないままでいる。でもそれだけは言うまいと決めていた。Qは現実に私の前に帰ってきて、顔はズレてしまったけれど、笑っていて、相変わらずちょっと馬鹿のままで、以前と同じ生活をしている。それが起こったことなのだ。起こらなかったことは口にしない。口にして世界に放たなければそれは存在しない。だから私は「爆発」のこともQに聞けなかった。聞きたくなかった。
いま私はPCに向かい隣の部屋でギターを弾きながら手を止めては多分メモをしているQの歌を聞いて仕事をしている。Qは出て行く前と変わらずに時々バイトをしてごくたまに小さなライブハウスで歌っている。時間があれば私も見に行くが客は十人もいれば多いほうだった。いまも昔も私には彼の歌がいいのかどうかよくわからない。私が作業しているのはウェブ環境さえあれば世界中の人が見られるが誰が喜ぶのかもわからない、生活情報が掲載されたウェブサイトのデザインだ。そういえば、とQが言った。
あのパン屋、やめちゃうらしいね。張り紙が出てたよ。
そう、惜しいね。でも味も落ちた気がするし。高いから。
おしゃれなんていらないよね。普通でいいのにな。普通でいいから普通においしいパン屋の歌ってどうかな。
誰が聞くの、そんな歌。
普通でいいから普通においしいパン屋の歌を歌ったら、普通でいいから普通においしいパン屋が増えないかな。
それ、気の長い話だね。
私はそんな歌を歌ってもいいパン屋は増えないと思ったが言わなかった。Qは半分笑って半分泣いた。
2012年2月25日 発行 初版
bb_B_00103964
bcck: http://bccks.jp/bcck/00103964/info
user: http://bccks.jp/user/114884
format:#001
発行者 BCCKS
〒 141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp/