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壁のような人だった。それは祖父の体格が由来するだけでなく、彼の厳格な性格も相まっていた。幼い頃、母がまだ里帰りしていた頃の祖父は、孫である私や弟にも厳しかった。挨拶のことやら食事のことやら、父よりもうるさくしつけられた。しかし、末っ子の妹にだけは甘かった。常に自分の膝の上に座らせ、にこにこと妹を愛でた。けれどそれを羨ましいとは一度も感じなかった。別に私が愛されていないわけではないことを、幼心にもわかっているつもりだったのだ。祖父の事は嫌いではなかった。ただ、近寄りがたい、越え難い、大きな、大きな壁。それが私にとっての祖父だった。祖父の隣にいた祖母はどこか弱弱しげで、見るたびに老いていった。その老いは年齢に相応するスピードではなく、まるで祖父が祖母の英気を吸い上げていくようであった。夫婦、という印象は、今になって思うと、なかった気がする。そこにあったのは絶対的服従関係で、幸せという文字がひとつも似合わないものだった。きっと、少しずつ、けれどものすごい勢いで、二人は壊れていったのだろう。私が中学生になる頃には、祖母は旧姓を取り戻していた。それも電話で母が聞いただけで、その前後の二人とは会っていない。
祖父は薄目を開けて、眠っているようだった。私は麻痺した祖父の右手に触れた。脈のリズムはかすかに感じるものの、彼の右腕はマネキンと変わらなかった。悲しいとか、そんな感情は私のどこにも生まれなかった。そのことが悲しくて、唇を噛んだ。安子はまた、私の向いで泣いている。その涙の理由は、私には分からない。祖父の目にはどちらの顔が映っているのだろうか。瞼の間に、何を思うのだろうか。鼻をすすりながら、安子は引きだしから何かを出した。そして、そのままそれを私に見せた。
「この病院には、二週間しかいられないの」
それは別の病院のパンフレットだった。今の病院は救急病院のため、祖父のような患者に空けるベッドはない。祖父は次の病院で、治療ではなく、死ぬ準備をすることになる、と安子は言った。
「何が正しいのか、この人にとって……そんなのは分からないけれど」
それでもこれが一番いいと思うの、と、彼女はため息のように言った。私はパンフレットを読まずに眺めた。何が載っているかなど、私は考えていなかった。死ぬ準備。その意味を、私は理解できずにいた。病院は、それが、それが。私は堪らなくなって病室を出た。病院の玄関ロビーまで来て、私は安子に「今日は帰ります」とメールを打った。かかとは鈍い痛みを覚え、頭には重い痛みが降ってきた。体中が痛いと叫ぶ。けれどその声は、私には届いていなかった。
ぼんやりとした視界が徐々に明るくなると、そこに喪服で立つ自分に気がついた。線香の匂いが立ち込めた畳の部屋に、一人で立っている。目の前には祭壇があり、坊すら座っていない。無音の中に飾られた写真は、祖父の遺影だった。私は棺の前に敷かれた座布団に座って、観音窓を開ける。祖父は眠っているかのように、死んでいた。そんな場面に遭遇しているのに、私の中に、涙を作る構造はないようだ。冷たくなった祖父の顔に触れても、菊の匂いを嗅いでも、何も感じられない。ただ、目の前で死んでいるのが祖父であって、それを眺めているのが孫の私。ただ、それだけ。そのまましばらく祖父を眺めていると、急に視界がぼやけ始めた。そのまま遠のいていく意識の中で、祖父の目が開いた。その目と視線が合った時、祖父の唇が何か言った。声は聞こえなかった。しかし、その唇は確かに私の名前をかたどっていて、その目は何かを訴えていた。
激しい動悸で飛び起きた。鈍痛が頭がい骨でこだまする。いつになく重苦しい土曜日。時計はもうすぐPMを示す。いつもならぐちゃぐちゃになっているはずのシーツが、今日は驚くほど静かだった。私が死んでいたのではないか、そんな勘違いを起こすくらい。とりあえず水をコップに汲んで、頭の中を洗い流そうと思った。しかし、流れ込むのは泥水のような思考ばかりで、あまりの気持ち悪さに吐いた。不味い味が舌に残る。私はあまりにも頭の中が混乱しているので、もう一度ベッドに横になった。しかし、眠ろうとは思わない。むしろ、眠りたくない。またあの祖父の顔が映るのが恐ろしくて、祖父の言葉が分かるのが恐ろしくて、一刻も早く忘れてしまいたかった。しかし、病室で眠っている祖父の姿が焼き付いている瞼が瞬きの度に視界に入って、どうしようもない。誰かが、しかも、肉親が、もうすぐ、死ぬ。ドラマでも、映画でもなく、自分の人生の上で、そんな事実が起こっている。けれど、まだ祖父は死んでいなくて、それでも周りはもうすぐ訪れる死に対して準備や覚悟をしている。私も。ずるい。そんな気持ちで厭になった。ふと、父方の祖父が死んだ時のことを思い出した。私はまだ七歳で、周りが泣いているという状況に、半ば貰い泣きのように泣いていた。確か、リンパ系のガンだった。同居していた祖父がいなくなったことが段々分かってきた時に、初めて自分で勝手に泣いた。そんな、幼い記憶。けれど、今の私は、そんな理由では泣かないだろう。そんな、透明な涙は、流れないだろう。人間は、いずれ、死ぬ。それを知った上で、私はどんな色の涙を流すのだろうか。そんなことをぐるぐると考えていると、携帯電話が小さく震えた。
5
ケンジは冷蔵庫を口でこじ開け、冷気に浴びながら中を物色した。中には魚、野菜、卵など、家庭の食材が鎮座していた。なんたるちやの掛け声とともに、ケンジはそれらを一つずつスーパーの袋に詰め込んだ。卵のパックを咥え手前に引くと、中身の一つが零れ落ちた。グシャ、という鈍い音とともに、薄暗い台所の床に流れ出たそれは、冷蔵庫の光で照らしだされていた。ケンジは吸い寄せられるようにそれを舌で丁寧にすくい取った。
一段落し、食事を詰め込んだ袋を確認する。これだけあれば目的は果たせたと言えよう。ケンジは久しぶりに安堵の溜息をついた。これほど事が順調に進んでいるのはいつ以来だろう。そんなことを思いながら時刻を確認する。午後四時半。まだ夜まで時間があるし、この一軒家の住人も帰ってくる気配はない。外は大雪。ここでしばらく一休みしてから帰るのもいい。
ケンジはリビングに移動し、ソファーに身を沈めた。冷えた皮の感触。ソファーには家庭の匂いが染み込んでいた。おそらくこの家が建った当時からここにあったのだろう。妙な安心感がケンジを包み込んだ。体温で徐々にソファーが温かくなり、自然と力が抜けていくのがわかった。瞼が重くなる。重くなる。
しかし寸でのところで睡魔を押しのけた。ここにいると寝てしまう、やっぱり帰ろう。ケンジは頭を切り替え、食料を咥えて素早く家を出た。この御馳走を見てあいつらはどんな反応をするだろう、などと考えながら一気に倉庫まで駆け抜ける。倉庫に着いて中に入ると仲間たちは全員揃っていた。皆の視線がケンジに集まる。ケンジは袋の中身を床にばらまいた。廃れた倉庫の中で一際輝く御馳走の数々に、皆はケンジの期待通りの反応をした。倉庫にいる全員がケンジに感謝し、ケンジを尊敬し、ケンジの懐の広さに涙した。ケンジはその光景に満足した。すると、不意に倉庫の奥の暗闇に何かの気配を感じた。皆は食事に夢中で気付いていない。しかし間違いなく誰かがいる。ケンジは警戒しながらそこに近づいた。向こうもケンジの歩調に合わせて距離を縮めてくる。暗闇に見覚えのあるシルエットが浮かび上がる。暗闇から姿を現したのはマサルだった。マサル! ケンジはマサルの傍まで駆け寄った。久しぶりの再会にケンジの心は、驚愕と歓喜と安堵の三重奏を奏でた。今までどこ行ってたんだよ。興奮で呂律の回らない口調で、ケンジは尋ねた。しかしマサルは虚ろな目で頭上の何もない空間を見つめている。おい。ケンジの呼びかけにも何の反応も示さない。ケンジは妙な違和感を感じた。どうしたの黙りこくってどうしたの黙りこくって。すると、虚空を見つめていたマサルの眼球がくるんとひっくり返るように白目を剥いた。その目は、もはや生きている目ではなかった。ケンジの心臓は凍りつき、思わず後ずさった。すると、マサルが白目を剥いたまま微かに口を開いた。
おかえり。
「ただいま」
男の声で目が覚めた。バタン、と玄関のドアが閉まる音。すぐ近くからうまそうな匂い。
「お帰りなさい。今日は早かったんですね。丁度お食事の用意が出来たところなのよ」
お食事? お食事って何だ。
「今日は集会が早く終わってね。おっ今日はオムライスか。いいんじゃないでしょうか」
「お父さんお帰り!」
ケンジの目の前を幼い子供が走り抜けた。子供はそのまま長身の男の足に飛びついた。
「真司、見ての通り今日はオムライスだぞ早く手を洗ってきなさい」
「もう洗ったよ」
お父さんと呼ばれた長身の男は、息子の頭を撫でると、ソファーで丸まっているケンジに視線を向けた。ケンジは混乱しながらも男を見返した。すると男が女に尋ねた。
「それで、こちらの方は?」
「真司が学校から帰ってくるとソファーで寝てたんですって。まったくどこから入ったんでしょうね」
ケンジは状況をようやく理解した。これはまずい状況だ間違いなく。
「戸締りはしてたのか?」
「当然でしょう」
嘘をつけ。ケンジはソファーから飛び降り、リビングの隣の和室に入った。侵入する際に開けたガラス戸にはいつの間にか鍵がかけられていた。ガラスの外は既に暗くなっていた。時刻は午後六時半。あれから二時間も眠っていたことになる。リビングに戻るとスーパーの袋に詰めた食料も消えていた。やばい。もう仲間たちは全員倉庫に戻っているだろう。今頃自分の不在を不審に思っているに違いない。
「――とはいっても、迷える子羊を追い出すわけにはいかないな」
でしょう、と女が言う。ケンジは男を見上げた。何だか、嫌な予感がする。
「この方が我が家に現れたのは、きっと神の御導きに違いない。つまりこれは啓示だ。そう、啓示なのです!」
「啓示なのです!」
「しかもこの美しい純白の毛並! 白とは最も神聖な色だと教典にも書いてるだろ、つまりそれが啓示という証なのです!」
「証なのです!」
お名前は? と子供が男に尋ねた。男は顎に手をやって考え込んだ。しばらくそうしていると、女が口を開いた。
「教祖様なら知ってるでしょう」
男は指をパチンと鳴らし、間違いないと呟いた。
「明日、早速教祖様に伺ってみるよ。よしそうと決まればお祈りをして、食事をいただこうか」
家族三人はテーブルに座り、手の平を組んで天井を仰いだ。
「神よ、今日の糧に感謝します。どうか我々をだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだばだば」
「だばだばだばだば? だばだばだばだばだばだばだばだば」
「だばだば」
三人のお祈りが済むと、女がケンジの前にオムライスが盛られた皿を置いた。
「どうぞ召し上がれ」
ケンジはオムライスを注意深く観察した。微かに妙な匂いがしたが、空腹には逆らえなかった。結局、ケンジは全て綺麗に平らげた。オムライスは家庭の味がした。
雨なのにわざわざ、傘を差してまで歩く。彼は、高校生になってアルバイトを始めてからというもの、財布を持たずに外へ出ることがめったになくなった。それは財布にお金が入っているからで、お金は様々な困難から身を守ってくれるからだった。それで彼は、その日は財布を持たずに歩くことにしたのだった。手付かずのタスクをたくさんほっぽり出して歩いた。彼はほんの二十歳だが、それなりにやるべきことややりたいことを抱えて生きていた。彼の心には、別段に言ったり書いたりするようなほどでもない、些細な悲しみがあった。それはちょっと欲しかった服が売れてしまっただとか、洗濯物が乾かないだとか、そのくらいのことだった。それが蓄積して、歩かずにはいられなくなったのだった。
二月に雨が降るたび春へむけて暖かくなるんだ、と彼はよく言っていた。そして実際に、それは、雨のちからは知れずとも、すこしずつ暖かくなった。簡単な服を着て、ビニール傘を差していた。冬の静けさを雨が打ち、辺りはどうしようもない淋しさに満ちていた。舗道はひたひたのパンのようだった。
とにもかくにも歩くしか彼にはなかった。近くの団地の、ちいさな公園のベンチに腰掛けようとしたが、濡れていたのでやめた。雨は強くなったり弱くなったりした。均整の取れた空は身震いひとつせずにただ悠然と居た。彼の靴と地面との間には無数の雨が滑り込み、ピタピタと音を立てていた。ジーンズパンツの裾は濃く濡れたが、彼は気にかけることもなく歩いた。
ひとつ、きれいな形の石を拾った。丸く、誰にも刺さらないような石だ。まろやかなその肌は泥を纏っていた。彼はなぜかそれが、なぜか、妙に、気に入ってしまって、家に持ち帰ることにした。少なくとも公園にあるような形の石ではなかったが、特別な石でもなかった。
彼は石を洗って、柔らかいタオルで拭いた。石は拭いたばかりでも湿ったような冷たさだった。まるでどこかに体温を忘れてきたかのようだった。彼はそれをどう使うか考えた。ただ飾るだけの石には思えなかったのだ。握りこぶしくらいのその石は、見た目よりは少し軽かった。硬いが、押せば沈むような色をしていた。
十五分眺めてもとうとう何も思いつかないので、とりあえずは後回しにして、彼は彼のタスクにとりかかることにした。その晩、彼は高熱を出した。体が小刻みに震え、鼻の奥がツンと痛んだ。重力が三倍にもなったかのように体が重くなった。視界はぼやけて、彼はただ眠るだけしかできなかった。
彼は夢を見た。体中ボロボロになりながらなにかを追いかける夢だった。少し走れば右腕は砕け散り、左腕はなにか猛獣のようなものに食われてしまった。それでも彼は走り続けた。その両足にはエナジーが漲り、孤独に立つ意思があった。何を追っているのかは定かではなかった。ただ走り追うことに意味があるようにも感じた。
次の日も雨だった。熱は下がっていなかったし、体にはズキズキと痛みがあったが、それほど疲れていなかった。台所で一杯水を飲み、それから木製の椅子に腰掛けた。テーブルにはあの石があった。手に取ると拾った時より重く感じた。急に怖くなって、彼は石を捨てることにした。こんなものはあっちゃあいけないと感じた。
外は湿気のおかげでぬるく、発熱している彼にもいくらか優しい気温だった。彼はなるべく暖かい恰好で出て、歩いて駅へ向かった。昼前の駅はやけに閑散として、みんな石を怖がっているように思えた。遠いところへ捨てなくてはならない。彼はそう思って、定期券の及ぶ範囲でできるだけ遠く、かつ滅多に利用しない駅に降りた。ただ歩くだけでも体力はすり減り、熱は上がっていった。それでもなにか義務のような、使命のようなもので彼は歩いた。
駅から一時間は歩いただろうか。住宅街を離れて田畑、川のそばにたどり着いた。静かに流れる川は、石の墓場にちょうどいいように思われた。彼は石を放り投げた。川の、届く限り深い、岸から離れた中央に投げた。誰ももう拾えないのだ。
彼は満足して、家に帰ることにした。家路は長かったが、もう石に恐怖することはないのだと思うと安心した。さよなら、さよならスーパースター。彼はつぶやいて、電車の中、少し眠ることにした。
ー完ー
ようやく部屋に据え置いていたティッシュが最後の一枚になった。仲間の支えを失った唯一の生き残りは、箱から半分身を乗り出して力なく揺れている。
私はティッシュをほとんど使わない。四百枚二百組のその箱が現行のものより一回り大きな背の高いものであることが、それを証明していると思う。
私がティッシュを使わないことに、何か特別な理由があるわけではない。ただ使うような場面がないだけだ。鼻水が出ればハンカチで押さえればいいし、痰は初めから出さなければいい。朝に髭を剃り違えて頬が血を吹いても、すぐそばのタオルに手を伸ばせば何より速い。
私がティッシュを使うときは、今のようにふいに流れた涙を拭うときくらいのものだ。なんとなしに点けたテレビの日曜洋画、ずいぶん前にも観た記憶のあるそのクライマックスから、ずっと涙が止まらなくなっている。――涙は捨てたほうがいい――そう言っていたのは誰だったろう。
映画が終わっても、涙は止まらず流れ続けていた。年を取ると涙もろくなると聞いてはいたが、まさか自分にも当てはまるとは思ってもいなかった。
箱に取り残された最後のティッシュを引き抜くと、何年ぶりかに再会した箱の底に、細いペン字が書かれていることに気づいた。
「ほんとうに、退屈でした」
何年も書道を重ねてきたようなその字は、別れた妻のものに似ていた。
ー完ー
カマキリが死んでいた。
ぽてん、と右側をむいて。
潰れた腹部からは黄色と透明の体液が流れ出て、
アスファルトに小さな小さな染みをつくっていた。
愛した女に噛みつかれたのか、
愛した男に返り討ちにあったのか、
もっと大きな力に押し潰されたのか、
そんなことはわからないけれど。
ぼくが知る、カマキリの性質を哀れに思った。
カマキリという生き物自体がただ、ただ、哀れだった。
だから、もう一度踏み潰してやった。
力を込めて、かかとを左右に動かして。
すこしでも、アスファルトの染みが濃くなるように。
2012年3月1日 発行 3月号 初版
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2012年3月号
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