「障害に悩む方はもちろん、それをサポートする家族や友人への心強いエール本!」
障害者雇用についての経営者も必読の一冊です!
著者自信の実体験をもとに描かれる、雇用現場の喜びと苦悩を丁寧に綴った秀作。
すべての人に感動と勇気を与える珠玉の一冊です。
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この本はタチヨミ版です。
この本は私が半世紀生きてきて、いろんな人と出合ったり、人生のアップダウンなど、いろんな経験をしてみてわかった事を書いてみました。
そして、自分というものは『周りがいての自分』『自分がいての周り』である事に気が付き、自分が生かされている事に感謝し今後一人でも多くの人に役に立てればと思い私の幼少期から今までに体で学んだ事を元とし、この本を書きました。
まだまだ欠点も多い私ですが、これからも心を磨き、心を鍛えて行ける様精進して行きます。
これからの残りの人生は、もっともっと社会貢献をして行きたいと思い、まずはと思いこの本を執筆しました。今まで私と関わっていただいた皆様にこの場を借りてお礼を申しあげます。本当に色々とありがとうございました。
これからも私に関わっていただける皆様、応援していただける皆様、ちょっと?おかしな私ですが、今後ともよろしくお願いいたします。
平成二十四年三月三日 松永諭志
私は、岡山生まれの岡山育ちで、両親は建具屋を営んでおり、三人兄弟の一番末っ子に生まれ育ちました。
十歳の頃から視力低下が始まり十一歳には〇・一の五級の視覚障害者となりました。現在の私は、八年ほど前には一等級の視覚障害者となり、それはそれとして楽しんで今を生きております。
私もいろんな困難にぶつかり四十六年間岡山でくらし、今から三年半ほど前に、東京都葛飾区に上京して来ました。上京してすぐに三年間ほど、視覚障害者向きの本や便利な機器などを取り扱っている会社に勤務し、約二年間店長として勤務しておりました。
でも、今は、主に障害者をサポートする方をクライアントとして、プロのコーアクティブ・コーチとして活動しております。
さて、私は先天性の視覚障害者です。
生まれつき色素が無いのか、髪の毛やまつ毛、目の色などが茶色でした。
幼稚園に通っていたある日の事、数人の男の子に「外人、外人」と言っていじめられその日は泣いて家に帰り、泣きながら母親にいじめられた事を話しました。
すると母親は「何泣いているの、男ならやり返してきなさい」と言いました。
翌日にまた数人の男の子が、私の手足をもって引っ張りながら「やーい、外人」といじめてきたので、引っ張られて体が空中に浮いた私は、ぐいーっと手足を縮め思いっきりキックとパンチで、皆を跳ね飛ばしました。すると、数名の皆が大きな声で泣き出してしまったのです。
子供は単純なもので、普段弱そうな人間がちょっと強いところを見せただけで、その後の私へのいじめは全く無くなりました。
いじめというものには、いじめられる側にもいじめる側にもどこかに問題がありますが、私の場合は、髪の毛が茶色い事を指摘され一度は黙ってしまいましたが、母親のありがたい言葉で自己主張出来て「自分をいじめるな!」と自己表現出来たときに変わっていくものだと思いました。
後で母親にその事を話すと「そんな事言ったっけ、全然覚えて無い」と言われましたが、まあ勘違いでも何でも、私はその言葉によって自分を変え、立ち向かうことで救われました。
しかし、小学校に入学する前日に、学校の先生から、「髪の毛が茶色いといじめに合ったり不良になったりするので髪の毛を黒く染めて来て下さい」と二人の先生から言われました。
それからずるずると四十年間、毎月一回ですが髪の毛を黒く染めておりました。
この頃は疲れやすい目でしたが視力は一・〇もありましたので両親もまさか今のようになるとは思ってなかったそうです。
視力の方は十歳ごろから悪化して来て、それから一・〇もあった視力が、二年ほどで〇・一に視力が落ち、そのうえ中心部が見難くなり、色弱にもなってきました。
その頃、私は教室で一番後ろの席に座っていたのに、それからは一番前の席が私の指定席となりました。
人よりは見えにくくなりましたが、のんきな子供だったせいか、自分の目が人よりもそんなに見えないとも思っておりませんでした。
学校の先生から、「人が、話をしている時はこちらを見ろ!」とよくしかられていました。
一生懸命見れば見るほど中心が見えない私は、無意識のうちに目玉を動かさずに横を向いて先生の方を見ようとしていたのです。
その事を先生が理解出来る訳も無く「なぜ、そっぽ向いているんだ!こっちを見ろ!」とよくしかられました。そう言われればいわれるほど、先生を見るために中心部が見えにくい私の顔はそっぽ向いていました。その姿を見た先生は、私が歯向かっていると勘違いし、「こっちを見ろ!」と怒鳴り、ビンタを受ける事もありました。しかし、横の方がよく見える私は、不意打ちのビンタなどは反射的によけてしまい、そんなときは周りの生徒たちからは笑いがおこり、逆に先生はカンカンに怒り、「よけるな」と余計にしかられました。そして、「今度はよけるなよ」と言われ、ビンタをうけとても悔しい思いもしておりました。
それから時々、五歳年上の兄からも見えてない事でよくしかられました。
例えばキャッチボールをしたとき少し山なりで飛んでくる球なら、まだ見えるので取れるのですが、直球のボールは両目の焦点が合わないせいか、一生懸命見れば見るほど自分の目の前にボールがきたときには見えなくなり、まるで消える魔球を受け取るような恐怖感がありました。
そんなもんで、飛んでくる球が怖くなり体をよけると「ボールから目を離すな、体で受け止めるんだ、そんな球もとれないのか」と、しかられておりました。
また、兄と私は、柄の違う水色の歯ブラシを使っていたのですが、私には同じ水色に見えていたので、時々歯ブラシを間違えたと言われては殴られておりました。
目の中心部に色を見分ける細胞があり、それが壊れていたのです。私の目は、色弱も進んでいたのです。
学校の授業では、画数の多い漢字などを小学校の中学年ぐらいから習い出しますが、中心が見えにくくなっている私は漢字を読むのも一苦労で、細かい文字が見えない事を先生に言ってもわかってもらえず「こんな文字も読めないのか」と、つねられたりしかられたりしました。私はあまり勉強も出来る方ではなかったので、見えないのではなく、ごまかしていると勘違いされ、わかってもらえず、辛い気持ちで諦めていました。
私の家は、自宅に作業場がある建具屋で、当時はすごく仕事が忙しく、父も母も夜遅くまで働いておりました。ですので、家族での話し合いとかは殆どなく、兄はそこまで私が眼が悪い事は知らなかったとおもいます。
皆様の中で、もし心当たりがあるかたは、一度は家族の話し合いの場をもうけて、家族みんなが理解出来るよう話をされる事をお願いいたします。
それと、眼科などで「弱視」と診断されたなら、「こういう症状だから、横を向くように見ているし、小さな文字や細かい文字が見えにくくなっています」などの診断書を書いてもらい、少なくとも家族と担任の先生ぐらいには知らせておくと良いと思います。
その後、二年ほどかかりましたが家族にも学校にも私が弱視である事をやっとわかってもらえる事ができました。
自分が弱視であることが理解されたことによって、兄もすっごく私に優しくしてくれるようになりました。
誰でも、知らずに誰かを傷つけてしまっている事もあるのだし、一番大切なのは自分と周囲が怖がらずにそれを認め、障害があってもそれと上手につき合う事を皆で話し合うことが重要と思いました。
その後私は、六年生の一学期から弱視教室がある岡山市中心部の学校に転校する事になりました。
転校した学校には私を含め男子四人と女子二人の六人の弱視の同級生がいました。
そこに片眼しか見えないけど私より視力は少し良いし、勉強はすっごく出来るが他の人の半分のスピードでしか走ることが出来ない男の子がいました。
その同じクラスの友達は、運動会のリレーはみんなあいつがいるからどうせ一番びりになるに決まっていると言って本気で走るのはばかばかしいから適当に走ればいいと言ってました。
クラスのみんなはリレーのアンカーは一人で一週走るのでそんな恥ずかしい思いして走るのはいやだと言っていたらしく、身長の一番高い人がアンカーになるか、クラスで走るのが一番速い人がアンカーになるのに私より早い人はたくさんいたし、私の背の順番は後ろから五番目なのに転校して来たばかりの何も知らない私が「君は走るのが速いから」とおだてられたのか、それともはめられたのか、アンカーを走る事になりました。
やはり運動会では僕たちのクラスは他のクラスより一週遅れの一番びりでしたので、私は一人で運動場を一人占めにしました。
その証拠写真は今でも残っておりますが、まじめに走っているからか、真相を言わなければダントツで走っているように見えます。
かけっこが大好きな私は、クラスの皆が一番びりになった事より運動会は通知表には影響無いからと割り切れている事が不思議でした。
ある日彼に「なぜそんなにゆっくりしか走らないの?○○君ならもっと早く走れるよほらほら」と言って、学校の運動場の真ん中で彼の背中を押し走りました。
最初は「怖い!怖い!」と彼は言ってましたが、「大丈夫目の前には何も無いから思いっきり走ってごらん」と言ったら「そうか、それなら」と言って、彼も本気で走り出しました。
これが思ったより結構早かったのでびっくりしたけど、彼もうれしそうだったし僕も友達として涙が出るくらいとてもうれしかったです。
それから、僕たちのクラスはびりという事は無くなりました。
しかし、他の足の遅い同級生からは、「おまえ、イラン事するな!あいつが一番遅いから俺は安心していたのに今度は俺がおそいと言われてしまうじゃあないか」と言われました。
転校生であった事もありおとなしくしていた私も、その時は我慢が出来ず、「こんなのやってられないよ!」と、怒ってしまったことがきっかけで、その後は一八〇度変わりまた強くなってしまいました。
そんなこんなで、子供のつまらない競争心と幼さに嫌気がさしたのか、中学の頃は弱視学級に通っているのに本当の不良ではありませんが、人になめられ無いように体を鍛え、少しつっぱり、カッコウだけ不良っぽくしておりました。
そのためか他の高校生や街のチンピラに「大きな面して歩くな」と言われ、よくからまれました。
中学の弱視学級の仕組みは、普通授業はみんなと受け、放課後の弱視学級の勉強の時間に地図とか、漢字などの見にくいところを質問するという授業がありました。
私は走るのが大好きなので中学一年生の二学期の終わり頃に駅伝部に入部しました。
そのため放課後の弱視学級の勉強をサボっており、弱視学級の担任の先生から「駅伝部に入って放課後の勉強に来ないならこの学校に来る必要が無いので自宅に近い学校に通いなさい」と言われました。転校するのは嫌でしたので、残念でしたが駅伝部を退部し、その代わり時々家までの八キロの距離を走って通学しておりました。
でも、かわいくない中学生でしたので弱視学級の先生に「一年先輩の方は放送部に入っていて放課後の勉強に来て無いがあれはなぜ許可しているのですか?」と尋ねました。
先生は、「放送部は文字を読むのでそれが訓練になるから良い」と答えられましたが、私は、「それはおかしい!それなら先輩も地元の中学の放送部に入りわざわざこの学校に来る事は無いでしょう!」と言いました。結局その先輩も放送部を止める事になりました。
今から思えば、その頃の自分はちっちゃな事を考えてるやつだったなあ?と思います。
その頃岡山の大学病院に定期健診を受けておりまして、ある日、病院の先生から「あなたの目の病気の原因は髪の毛やまつ毛が茶色い事と同じです」と言われました。
以前母親から「ごめんね、あなたの髪の毛が茶色いのはお母ちゃんが妊娠中にかぜを引いてその時とても仕事が忙しく、何も知らないおかあちゃんが市販の薬を飲んだからなの」と聞かされてました。
家に帰り母に今日病院で先生に「あなたの目の病気の原因は髪の毛やまつ毛が茶色い事と同じです」と母に話すと母はびっくりした顔をしてましたが無言でうつむいたままでした。
私に、とてもやさしい母だったのでそんな事は全然気にせず今まで大きくしてくれた事の方が何倍も、いや何十倍もありがたいと思って降りましたので、そんな事は全く気になりませんでした。
こういうときに、親を恨むのも恨まないのも、親がその子にどれだけの情をかけているかどうかだと、今、私は思います。皆さんもここというときは情をかけ、親に感謝出きるように子供を育てて下さい。
さて、本業は学生なのでもっと勉強しなくてはいけないのにそちらの方はサボってばかりでした。
タチヨミ版はここまでとなります。
2012年3月5日 発行 初版
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