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ドアスコープを覗くとその勧誘員は確かに女だった。20代後半だろうか。眼鏡を掛けたショートカットの小柄な女で、美人ではないが一目見て好感を持った。いつもなら新聞の勧誘員が訪ねて来ても玄関は開けないし話も聞かない。一度だけうっかり応対してしまい、あまりにもしつこい上に「いま忙しいから帰ってくれ」と言った私に「平日の昼間から部屋に籠って忙しいって何やってんすか」とか言うので顔面を拳で殴ったら警察沙汰になって懲り懲りした。腹が立つとわかっている人間とは関わらないほうがいいに決まっている。
私は玄関のドアを半分開けて「悪いけど新聞は取らないんですよ」と言いながら女の顔と体を見た。小さな目は黒目がちでかわいらしく、顔の大きさに薄茶のセルフレームの眼鏡が似合っている。色白で髪は地色かカラーリングしているか微妙な濃い栗色、前髪を眉毛の上で切って横に流している。肩にかからない短い髪は首の細さと鎖骨をきれいに見せている。チャコールグレーの薄手のジャケットと白の丸衿シャツに覆われた胸の膨らみは小さく、細い脚を想像させるエンジ色のパンツを穿いていた。靴はよく手入れされた黒のシンプルなレザーパンプスで、肩には白いキャンバス地のトートを提げている。無難で地味なスタイルは勤務先の指導だろうか。女はドアを体で支えながら言った。
「お忙しいところ誠に申し訳ございません。ご無理なお願いはいたしません、1分だけお話をさせていただけませんか」
涼やかでおっとりとした口調だった。
「そう言って1分で済んだ試しはないんですよ。ドアを開けてからもう15秒は経ってますよ」
女は顔を伏せて笑ったが愛想笑いではなく心から楽しげに声を弾ませているように聞こえた。
「すみません、それでは、そうですね、あと2分ほどよろしいでしょうか。いま現在新聞はお取りになっていらっしゃらないとのことですが、それはやはりネットとかでご覧になられるので必要を感じていらっしゃらないとか?」
「そんなことはあなたに説明する必要ないでしょう。でもネットは見ないですよ、パソコン持ってないし。ニュース? 報道? 関心ないんだよね」
「さようですか。では」
と言いかけてトートから何か取り出そうとした女の言葉を遮って
「珍しいですね」
「え、何がですか?」
ときょとんと私を見返す表情は少女のようで、もしかしたら20代後半よりもっと若いかもしれない。女は私の言葉を待っている。このまま黙ってその顔をただ見ていてやろうかと思った。
「女性の勧誘員? 拡張員? 新聞取れって言いに来る人が女性ってはじめてだから」
「ああ。そうですね。そうかもしれませんね。あ、でもいまは多いみたいですよ。私の勤務先にも私以外に3人ほどいます」
きっと行く先々で言われるのだろう。女は慣れた調子でそう言った。何がですか、というのは私が何を訊いたかわかっていて会話をつなぐためにとぼけてみせたに違いなかった。
「女性のほうが契約取りやすいんでしょうね」
「さあ、どうなんでしょうか。それはどうなのか私にはわかりませんが」
「やっぱり一人暮らしの男のところを狙って行くんですか? 職場からそう指示されるの?」
「いえいえ、そういうのはなくて、私の場合は区画で担当を割り振られていますので、お客様が男性とかそういうあれは特にないんですけど」
「そんなことないでしょ。会社のほうは女でどうにかしようと考えてるに決まってますよ。たいへんなんでしょ、いま新聞取る人が少なくなってて」
「あははは、よくご存じですね。ほんとに今日はそういうあれで困っているといいますか、助けていただきたいというのもこちらの不躾なお願いで恐縮なんですけど、せめてお話だけでもさせていただいて、ご検討いただければと思いまして」
「いや、だから取りませんよ」
「そこをなんとかお願いできませんか。1ヵ月だとちょっとあれなのでせめて3ヵ月でもご購読いただければ、ただいまキャンペーン中でして、いろいろサービスさせていただいておりますし」
「サービスって何? 洗剤?」
「ご入り用でしたら洗剤はおっしゃっていただけるだけお持ちいたします。それから夕刊のほうは無料でお届けさせていただきますし、もしお酒をお召しになるようでしたらビールも1ダースですがお付けできますし」
「他にはないんですか?」
「野球はお好きでいらっしゃいますか?」
「まったく見ないです。ルールもよく知らない」
「では美術館や博物館などのそういったミュージアムのチケットや割引券もいろいろありますので、そちらのほうもよろしければ、ちょっと特別に」
「特別に?」
「はい、私のほうであれしまして、特別にお付けさせていただきますので、どうかご検討をいただけませんでしょうか」
「他の特別はなかったりしないんですか?」
「どういうことでしょうか?」
女はまたさっきと同じ、私は何も知らない、わからないという表情をした。
「女性の勧誘員ってそういうことなんじゃないかと思ったんですけど」
「おっしゃられている意味がわかりませんが」
「わからないことないでしょう。でもいいです。もう2分は過ぎたと思いますがどうしますか。お話は聞かせてもらったし帰っていただいてもいいですかね」
私が玄関のたたきに下り女を押し出すような形で開いたままのドアに手を掛けようとすると、いや、あの、と女は手のひらで私を止めて緩く押し返し、後ろ手でドアノブを引いて閉めた。
「なんですか、あんた。取らないって言っただろ。それとも特別なサービス?」
「ちょっといいですか。これ見てください」
女は営業の顔と口調を一変させて硬化した動きでトートを探り、私に一枚の写真を差し出した。小さな子どもが写っていた。
「どうですか?」
「どうですかって何?」
「その子に見覚えはありませんか?」
渡された写真をもう一度よく見ると日差しのあるベビーカーに乗せられた子どもで、赤いつなぎの服を着ているので女の子だろうか、背景は駐車場のようなアスファルトの広い場所で人も建物も写っていないが強い日光が当たっているせいかよく撮れていた。子どもはカメラとは違う方向を向き無表情で小さな目を細め、白い頬を丸く膨らませて両手を脇に揃えている。まだ1歳か2歳か、そんなくらいの幼児に見えたが特に見覚えはなかった。
「知りません。どこにでもいそうな子どもじゃないですか」
女は答えずに私の表情を強ばらせた顔で窺っている。頭がおかしい女なのだと思った。しかし感情を抑えて唇を横に引き、眼鏡越しにこちらを凝視する表情は最初の印象よりも魅力的で私は欲情していた。ドアが閉じられ密室になったモルタル造りのアパートのこの部屋は道幅2メートルほどの舗装されていない路地に面した2階にある。路地の反対側は大きな民家の庭を囲う高い塀で、道はアパートの隣家と突き当たりの廃屋の前で終わっており、この二つの建物に住む者かここに用事のある者しか通らない私道だった。赤黒い土の路面は夏の早朝に1時間ほど陽が差すだけで一年中湿っていてほのかに腐臭がした。いま路地には隣の家の軋んだ音を立てる自転車が一台止まっていて人の気配はない。平日の午後は路地に面した建物の中にいるのは私一人だけになる。部屋の前の薄暗い回廊に降りた雀の鳴き声が聞こえた。二羽の雀が跳ねているのがわかる。
「もう一度よく見てください。知らないわけがないでしょ」
女はドアに背中を付けたまま詰問するような口調で言った。
「知らないって。よく見たよ。こんな子知らないよ。なんだおまえ、どういうことだよ」
私が写真を女に見せるように振って言うと、女は
「嘘つかないでよ、ほらっ」
と声を荒げて写真を取り上げ私の顔に突きつけた。
「とぼけんじゃないよ、あんたでしょ、私の子を誘拐したのは。いまのやりとりで全部わかった、絶対あんただ。あんたは私のこと忘れてるようだけど冗談じゃない、こっちはすぐわかったわよ、髭なんか生やしてごまかしたってすぐにわかった」
いよいよ女は狂っていると思ったのと同時に下腹部から胸元に突き上がるような刺激が走り、ここでやっちまおうと女の首を掴んで部屋の中に引き倒した。眼鏡が外れてキッチンの下に飛んだ。女は叫んで暴れ抵抗したが顎を手で床に押し付けて体をかぶせ膝で太腿を開いた。
「黙れ、黙ってれば新聞取ってやる、取ってやるから」
「やめろ、このやろう、返せ、返せ、私の子を返してよっ」
狂ってる女を無理矢理やったところで後でいくらでも弁明できるし、こんな女の言うことなんて誰も信用しない。私の体の下でもがく女の手には写真が握られていた。
「だからこの写真はこんなくしゃくしゃになってるの」
娘がそう言ってアルバムに貼られた写真を私に見せた。どこかのショッピングモールに行った時に撮った娘の写真で、15歳になったいまの面影はほとんどないが妻も私も気に入っている一枚だったのでプリントアウトをしたものだった。夏の暑い日で娘はぐずっていて、私もあまり気が進まず妻に強引に連れ出されたことをよく覚えている。不愉快そうな娘の表情がかわいくてすでに自我の強い性格も写真にはよく出ていた。娘はまだ1歳になったばかりの頃で私は彼女が自分の子どもだという実感がまるで持てなかった。ベビーカーに乗せて陽の中に置いた娘からちょっと距離を置いて見ているとますますそれが知らない生き物のように感じられて、どうも信じられないな、本当に自分の子なのかな、とそういう意味ではなく言いながらシャッターを押して妻を怒らせた。自分の子どもが自分とはまるで関係のない、知らない生き物のように思える感覚はそれからずっといまになるまで残っていて、それは娘がこんなことを日常的に話すことと関係があるのかわからないが、特に驚きもせずに私は聞き返した。
「黙って聞いてればなんの話だよ。いま書いてる小説の話じゃないのかよ」
「そうだよ、小説だよ。お母さん、勧誘員やってたんでしょ?」
そう言いながら娘はアルバムのフィルムに挟まれた写真の縒れを直すように手のひらで押し伸ばしている。
「やってたらしいね。パパがママと会う前のことだから詳しくは知らないけど」
妻とどうやって出会ったのか、何年か前に娘に尋ねられた時に私は合コンで知り合ったと嘘をついた。本当は妻が新聞の勧誘員をやっていた時に私のところを訪れたのが切っ掛けだった。それはあまりいい出会いとは言えなかったのでまだ小学生だった娘にはつい隠してしまい、それから本当のことは話していなかった。
「そのママのこととこのくしゃくしゃの写真から考えた話だよ」
「ママとパパがモデルかよ。ということは何、どういうこと? 写真の子はその男と女の子どもってこと?」
「そう、そういうこと」
「でもそれおかしくないか。まず男はなんで女を知らないの? 女だって男が誘拐したやつだって言うけど、子どもの父親で自分の相手の男なんでしょ? 結婚してるかどうかの設定は知らないけど、実の父親への態度じゃないよね」
「男はそんなものなんじゃないかなあ、セックスした相手のことなんか忘れちゃうんでしょ? 子どもがデキたなんて知らなかったら、こんな感じになるんじゃないのかな。その感じをデフォルメしたかったんだけど。でもオンナの好みは変わらないから、忘れてるのにまた同じ女とやっちゃうっていうマヌケな感じ?」
娘は天井のどこかわからない一点を見上げながらイメージの輪郭をなぞるようにして言って自分で笑った。
「やっちゃうのかよ、相当ひどい男だな。ていうかさ、やっちゃうとか女の子が言わないほうがいいよ」
「でもその女、母親のほうはわかってるの。男がかつて寝た相手で子どもの父親だってことも。自分の子を連れ去ったのはその男だって思い込んでいて、勧誘員しながらようやく探し当てた」
「男は? 男は本当に子どもを誘拐したの? それなのにとぼけてたってこと? 誘拐したとしたらなんで? 当然自分の子だとは知らないよね」
うーん、と娘はソファに顔を埋めて何か言いながら開いたままのアルバムをパンパンパンと叩いている。そうか、その先はまだ考えていないのか。私は途中ならそんな小説は書かないでいいんじゃないかというのをどうやって言おうか考えていた。
「そこがね、謎なんだよねえ。男は本当に誘拐したのか、したとしたら動機は何か。まさか自分の子とは知らずにね。ねえ、お父さんはどう思う?」
「知るかよ。おまえさ、小説はいいけど、その話はどうかな。パパは好き嫌いでしか言えないけど、あまり好きな話じゃないな、いま考え中でこれから書くにしても好きな話になりそうな予感がしないよ。あきらめて違う話にしたら?」
「もういまのところくらいまでケータイのサイトに投稿しちゃったもん」
「そうか。しちゃったのか。今度教えてな、そのサイト」
「もしこの話が嫌いだとしたら、それはきっとお父さんにとって嫌な話だからだよ」
「どういうこと?」
「この話の何かが痛いとこ突いちゃってるってこと」
「こわいこと言うね、おまえは。突いてないよ、全然突いてない、ハズレもいいとこ、まったく痛くないよ。そんなふうに大人をなめちゃいけない」
「でもこの小説はハッピーエンドになるのは決まってるんだよ。絶対的にハッピーエンド。だって写真の子ども、私は二人に育てられて、こうやっていまお父さんと楽しく喋ってるんだから」
娘はもう一度写真を私のほうに見せて言う。1歳の娘と15歳の娘が私の前にいた。私は娘を愛している。その気持ちに一点の曇りもない。自分の命を捨ててでも守りたいと思える存在はこれまで生きてきた中で彼女しかいなかった。ただそれが自分の子どもだからなのかどうかはいまもわからない。奇妙なつくり話を父親に聞かせる15歳の少女はやはり自分とはまったく別の生き物のようにしか感じられなかった。
「そろそろ準備しようか。続きがあるならまた聞かせてな」
ちょっと待ってちょっと待って、お母さんの好きな赤いワンピースに着替えたい、と娘はアルバムを抱えて奥の部屋に入って襖を閉めた。
「いまの小説の話、病院でママにするなよ。ママびっくりしてまた具合悪くなっちゃうかもしれないから」
モルタル造りのアパートのこの部屋は道幅2メートルほどの舗装されていない路地に面した2階にある。路地の反対側は大きな民家の庭を囲う高い塀で、道はアパートの隣家と突き当たりの廃屋の前で終わっており、この二つの建物に住む者かここに用事のある者しか通らない私道だった。赤黒い土の路面は夏の早朝に1時間ほど陽が差すだけで一年中湿っていてほのかに腐臭がした。いま路地には隣の家の軋んだ音を立てる自転車が一台止まっていて人の気配はない。平日の午後は路地に面した建物の中にいるのは私一人だけになる。部屋の前の薄暗い回廊に降りた雀の鳴き声が聞こえた。二羽の雀が跳ねているのがわかる。私は閉じた襖を見つめて娘が出てくるのを待っていた。
2012年3月9日 発行 初版
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