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2001年11月、俺は「闇バス」に乗り込み、チベットへ向かった。

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チベットへ

福林靖博

蒼風出版

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 目 次


  チベットへ


  ゴルムドにて(一)


  ゴルムドにて(二)


  ラサへ(一)


  ラサへ(二)


  ラサにて(一)


  ラサにて(三)


  ラサにて(四)


  ラサにて(五)


  ラサにて(六)


  ラサにて(七)


  ラサにて(八)


  ラサにて(九)


  ギャンツェへ


  シガツェにて


  エベレストベースキャンプにて


  エベレストベースキャンプにて


  ザンムーへ


  旅のつづき

果てしなく広がるチベット高原。
Y.FUKUBAYASHI

チベットへ

 西蔵チベットに行ってみようかなと思った。

 身動きがとれないというのはこういう状況のことをいうのだろうか。俺は、カシュガルの華僑賓館の一室で、一人頭を抱えていた。
 ウルムチでは、カザフスタンどころか、新疆北部のイリ地方にすら入ることができなかった。長距離バスの切符売り場で、「外国人はこの地域への立ち入りが制限されている」と門前払いを食らった。その数日後、タシュクルガンからパキスタンに入ろうとしたが、このルートも閉じられていた。それだけではない。
「なぜ外国人立ち入り禁止地域のタシュクルガンに貴様がいるのだ?」
と、タシュクルガンからカシュガルへ戻る途中のチェックポストで、別室送りに遭う始末。行きは通してくれたのに。
 上海からひたすら西へ、というのが今回の旅のテーマだった。しかし、タシュクルガンから先へは進めない。一介の旅行者にはどうすることもできない、「二〇〇一年十一月の世界情勢」というやつが、俺の西と北への進路を塞いでいでいた。

 新疆自治区の南、西蔵自治区。
 ユーラシアの真ん中の、ヒマラヤ山脈を中心に展開される高度三千五百メートルをこ超える一帯はチベットの文化圏であり、そして現在、その大部分は中華人民共和国の国境内に含まれている。それが、西蔵自治区なのだ。
 南進して西蔵自治区を突き抜け、ヒマラヤを縦断すれば、ネパール、インドへ出ることができる。そしてそこから西へ、パキスタン、イランへと抜けていくことができる・・・
 チベットに行ってみよう。他に方法はない。そう、思った。

 今から千年前、チベットは中央ユーラシア有数の軍事国家だった。その勢力範囲はチベット高原にとどまらず、一時期はタリム盆地にまで及び、ついには西域南道(タリム盆地南縁)を押さえるに至った。
 古来よりチベットの民が中心地ラサから西域南道へ出るには、二つのルートがあった。即ち、一つは西チベットからヒマラヤ山脈に沿って北上し、崑崙山脈とカラコルム山脈の間をすり抜けてヤルカンドへ至る西方ルートであり、今一つは、チャンタン高原、ツァイダム盆地を突っ切って、河西回廊の西端の敦煌へ至る東方ルートである。かつて吐蕃と呼ばれたチベットの民は、これらのルートを通って、中央ユーラシアの東西を結ぶ幹線を押さえたのである。

 千年後の現在、西方ルートは新蔵公路と、東方ルートは青蔵公路と、それぞれ呼ばれているが、外国人旅行者に公式に開かれていたのは青蔵ルートだけである(とはいえ、古来のルートからは少しずれてはいるらしいが)。
「ツァイダム盆地のゴルムド(青海省)から旅行者をラサまで運んでくれる『闇バス』が出ている」
 大阪から上海までの船旅で僕の隣に寝転んでいた大学生の旅行者が言っていたのを思い出した。『闇バス』というのもよく分からなかったが、これに乗りさえすればラサにはたどり着けると俺は思いこんでいた。そのゴルムドへは、敦煌(甘粛省)からバスが出ているらしい。
 この時、カシュガルのすぐ南、ヤルカンドからラサを目指す新蔵公路の存在が思い浮かばなかったわけではない。しかし、当時の俺には致命的に情報がなかった。ヤルカンドからどうやって西蔵に入っていいか分からない。こういう時には、往々にして手堅い方を選んでしまう俺の性格、もどかしい時もあるが、仕方ない。
 とりあえずホータンなどの新疆南部の都市を巡りながら敦煌まで戻り、そこからゴルムドへ出てみよう。そうすれば西蔵へ入り込む手立てが見つかるだろう。
 かくして俺は、十一月十二日の昼のバスでカシュガルを出発し、ホータン、コルラ、トルファン、敦煌とバスを乗り継いで、六日目の早朝に、ようやくゴルムドに到着した。

ゴルムドにて(一)

 寝台バスのベッドから身を少し起こし、垢で薄汚れた毛布を少し押しのけて窓の外を見たが、何も見えない。本当にここはゴルムドなのだろうか?
 昨日の晩に敦煌を出てすぐ寝てしまったし、そもそも真っ暗闇の祁連山脈を縦断してきたので、外の景色は見ていない。しかし、運転手が「ゴルムドだ」と叫んでいるし、他の客も降りてしまったので、おそらく俺はゴルムドに着いているのだろう。
 それにしても、暗すぎる。おまけに、寒い。いかにボロバスとはいえ、せっかくの寝台バスのベッドを早々に捨てることはない。俺はもう一度目を閉じた。

 少し明るくなってからバスを降りた。
 人気のないバスターミナルを抜けると、無味乾燥な、灰色の街並みが続いていた。これがどうやらゴルムドらしい。こんな街に一日でも留まるのは御免だと思った。
「ラサに行くのか?」
 バスターミナルの入り口でウロウロしていた中年の回族の男が、俺の横にぴったりと寄せてきた。薄暗くて顔はよく見えないが、小柄だががっちりした体格だ。闇バスの客引き氏が、早速のご登場だ。
「千元(当時のレートで約一万五千円)でどうだ?」
 周りには他に客引きらしき男の姿は見えない。そもそも、まだ俺は、このバスターミナルが、ゴルムドという街のどこに位置するのかも把握していない。ひとまず話だけでも聞こうか。
「それじゃあ、俺の店まで行こう。ここじゃまずい。」
 客引き氏はそう言うと、右手をあげて暗がりの中からタクシーを呼んだ。

 五分も乗ったところで、タクシーを降ろされた。一見どうということもない回族レストランの前だった。そして、俺は客引き氏に導かれるまま店の中へ入った。
 中では、同じような白いムスリム帽を頭に戴いた数人の回族の男が、スチームストーブに手をかざして座っていた。そして、一斉に俺を見た。俺を値踏みしているのかもしれない。
「彼から聞いているだろうが、ラサまで千元だ。」
 この中で一番若そうな男が、単刀直入に切り出した。見るからに目端の利きそうな顔だ。
「待ってくれ。俺は西蔵に入るための許可証を持ってない。だから許可証が欲しい。」
 俺も、たどたどしい中国語でとりあえず言ってみる。
「許可証を取るなんて馬鹿げてる!幾らするか知ってるか?四千元だぞ!?悪いことは言わない。俺たちのバスで行け!」
 そんなことは、俺も分かっている。それでも、言葉を続ける。
「でも公安には捕まりたくない。」
 この国の田舎街では公安に暇つぶしでいびられたし、タシュクルガンからカシュガルに戻る途中の検問所では、解放軍の尋問の際にカメラを壊された。今度は何をされるか分かったものではない。
「大丈夫だ。俺たちは何度も旅行者を乗せている。問題ない」
 ここを出て別の闇バスを求めて街を彷徨うのは得策ではなかったし、もうここで決めるつもりだったのだが、確認すべきことはしておかなければいけない。
「俺は西蔵からネパールへ行くつもりだ。出国のときに許可証はなくてもいいのか?そもそもラサに滞在するとき、例えばホテルなどで許可証を出さなくていいのか?」
 俺が気にしていたのは、ほぼこの一点に尽きていた。そして、その最大の懸案事項に対して、回族の若者は爽やかな笑顔を浮かべて即答した。
「不要(プーヤオ)!!」

 かくして、商談は成立した。そうしたら、途端に熱々の麺が出てきた。タダ(中国語では「免費」)だと確認してから、俺はがっついた。
 順調に事が運べば、俺は明日の夜にはラサに着いているはずだ。少しは値切れるかとは思ったが、船で会った学生が、やはり千元位だと言っていた記憶もあるし、こんなものなのかもしれない。しかも、この麺といい、サービスも良さそうだ。
 何となく、ラサに一歩近づいた気がした。

ゴルムドにて(二)

 出発は昼過ぎになると言う。
「あまり外をブラブラするなよ!公安に見つかると厄介だしな!」
 男達は何度も念押ししたが、俺は無視することにした。
「見つかって困るのは、公安よりも商売敵だろ?」
と日本語で言い残して、俺は敦煌で買った人民解放軍コートを羽織って街へ出た。

 明るくなってみると、ゴルムドは何の変哲も無い灰色の四角い街並みを田舎街だということが一層よく分かる。そこを、漢族と回族が苦虫を噛み潰したような顔をぶらさげて闊歩している。
 暫く歩くと、中国旅遊のオフィスが見えた。
 西蔵自治区への入境許可証は、この中国旅遊が一括して発行している。建前上、外国人は、この中国旅遊が主催する西蔵ツアーに申し込まないと西蔵自治区には入れない。そして、このツアーに申し込めば、自動的に許可証が発行される。また、このツアーは、自動的にツアー出発地までの復路の交通費も含まれている。つまり、建前上、個人旅行者は特別に申請しないと、西蔵自治区を通り抜けることができないのである。どこかへ抜けるとなると、復路の代金は溝に捨てることになる。
 先ほど、回族の若者が四千元と言ったのは、このツアーの代金であり、それはここがゴルムドである以上、バスのツアーの代金である。成都や雲南省から出ている飛行機のツアーだとこれより遥かに高額なのは当然である。因みに、ネパールのカトマンズからもラサへのツアーはあるらしい。

 勿論、今述べたようなことは所詮「建前」でしかない。
 このような高い金額を払いたくないバックパッカーは、巡礼バスなどにお金を払って乗せてもらうか、闇バスを利用する。これだと、値段は格段に下がるし、そのままネパールへ抜ける場合には、復路の交通費まで払う必要はない。当たり前だが、違法行為なので、道中の検問は何とかして乗り越えなければいけないし、見つかったら罰金(+賄賂)を払わされた上に、出発した街まで強制送還されてしまう。つまり、それなりのリスクを負わなくてはいけないのだ。

 話が少し逸れたけれども、本来ならば、俺はゴルムドに着いたら真っ先に立ち寄るべきこのオフィスに、紆余曲折を経てたどり着いた。そして、閉ざされた扉に貼られた紙を見た。そこには簡単に、「来週の月曜までこのオフィスは休みです」と英語で書かれていた。
 何のことはない。そもそも俺には、闇バスに乗るしか取るべき道は残されていなかったのだ。
 高度五千メートルに国家の庇護なし―そもそもそんなものがあるのかどうか疑わしいが―で挑む腹を決めた俺は薬屋に行き、薬局員が「これは高山病に効く」と薦めた「紅景天」という薬と酸素を二本購入した。
 もっとも、これらは何の足しにもならなかったのは数時間後に実証されるのだが、気休めというのも必要なのだ。

チベットを旅していると、いったいいつの時代のものか分からない廃墟に出会うことがある。
Y.FUKUBAYASHI

ラサへ(一)

 昼を少し過ぎた頃、タクシーに乗せられて、街外れの貨物用と思しきターミナルに連れいかれた。人影は、ない。
 てっきり、何人かの旅行者と一緒にラサまで連れて行かれると思っていたのに、どうやら客は俺一人らしい。
「このバスだよ。先に乗って少し待っていてくれ」
 先ほどの若者がそう言って、俺を右の一番前の下鋪(ベッド)に座らせ、バックパックを大豆の袋の奥のベッドの下に押し込むと、他の二人の男たちと一緒に袋詰めされた大豆をバスの後部から詰め込みだした。
 どうやら、このロートル寝台バスは、今では貨物バスとして使われているようだ。そして、今回は旅行者も運ぶ闇バスとなったわけだ。

 十三時、バスは静かに出発した。
 乗っているのは、俺の他に例の若者―ヤンといった―と、二人の男。一人は若く、あまりこの仕事に慣れているように見えないが、少し軽そうな人懐っこい笑顔をいつも浮かべている。名前はマ。もう一人は、名前は忘れてしまったけれども、無口な中年男だった。
 バスが動き出したので、カーテンを少し上げて窓の外を覗こうとしたところ、
「だめだ!公安に見つかったらどうするんだ!?」
とヤンに厳しい顔で制された。
「いいか、これから街を走っているときはカーテンを絶対に開けるんじゃないぞ。毛布に全身くるまっているんだ。これから、検問とかもあるんだから注意するんだぞ!」
 ヤンのいつもより厳しい表情に、俺も少しのまれてしまい、大人しくカーテンを閉めた。闇バスに乗るということは、そういうことなのだ。このバスに乗っている間は、つまりラサに着くまでは、俺は大手を振って街を歩ける旅行者ではないのだ。
 不安がないと言えば嘘になる、というより、むしろ不安だらけだった。公安に見つかったらどうなるのだろうか、高山病になったら誰が助けてくれるのだろうか、この三人に身ぐるみを剥がれたらどうしようか、と考えても仕方ないことが、頭の中に去来する。
 ただ、心のどこかで“アウトロー”となった自分を心地よく感じていたのは確かだ。

 ゴルムドを出ると、チャンタン高原を通り抜けるこのルートは、ひたすらチベット高原を登っていく。
 高度が上がるに従って、段々陽射しが厳しくなる。そのせいか、あまり寒さは感じられない。もう冬が近いので、チャンタン高原は黄金色の絨毯をしきつめたようになっており、そこをエメラルドグリーンの河が流れている。垢で真っ黒のカーテンの隙間の外に広がる雄大な景色に、俺は心を奪われていた。
 しかし、バスのエンジンの調子はいかにも頼りなかった。上り坂に差し掛かると途端に時速三十キロくらいにまでスピードが落ちてしまい、まるで老人がぜいぜい喘ぎながら杖をつき坂を上るような情けない有様である。坂道で何十人もの巡礼者を乗せた巡礼トラックに抜かれたときには、これから走破する千数百キロを思うと、さすがに気が重くなった。
 たまらず「本当にこんなバスでラサまで行けるのか?」と、俺は何度かヤンに今さらどうしようもない質問をぶつけた。結局は、ヤンの「大丈夫大丈夫。明日の晩には着くからさ。」という言葉に自分を納得させるしかなかったのだったが。
 それでも、バスは進んでいく。遥か彼方のラサに向かって五体投地しながら歩みを進める巡礼者に比べると、格段に早いスピードで。

 ところで、青蔵公路には、要所要所にチェックポストが置かれている。チェックポストには解放軍の兵士が詰めていて、行き交う車両をチェックするのだ。もちろん、街の出入り口にチェックポストがある場合もある。
 チェックポストに人がいなければどうと言うことはないのだが、公安や解放軍が真面目に勤務している場合には、そうはいかない。「どうする?」と俺はヤンに尋ねた。
「いなくなるまで待つさ」
 ヤンは事も無げに答えたけれど、俺は内心絶句したものだ。

 そして、本当に二時間待った。
 チェックポストの手前の山影に隠れ、反対側からやって来るトラックを捕まえて、情報を集める。そして、「休憩中」ともなれば、一気呵成にチェックポストを、そして街を駆け抜けるのだ。
 とは言え、この手は毎度使えるわけではない。やはり避けられないチェックもあるのだ。何処の街だったかは分からないが、今回は避けられないと覚悟したヤンが、俺の頭の上から毛布をスッポリ被せてこう言った。
「いいか、お前は夜通し運転したから寝ているドライバーだ。解放軍が乗り込んでくるけど絶対に顔を出すなよ!好(ハオ)?」
「ハ、ハオ・・・」
 そうしているうちにチェックポストにつき、本当に解放軍の兵士が乗り込んできた。毛布越しに人影が動いているのが見えて、人生で最もスリリングなかくれんぼに、俺の心臓は高鳴っていた。
「誰だ、この寝ているやつは?」と兵士の一人が言い出した。嫌な予感がした。
「運転手ですよ。夜通し運転していたから寝てるんだ。起こさないでやってください。」とヤンが軽やかにシラを切った。
 しかし、次の瞬間、兵士の手がこちらに伸びてくるのが目に入った。もちろん、毛布越しに。「マジかよ」と思ったが、もう腹を括るしかない。それに、その時俺は人民解放軍の払い下げコートを着ていた。何とかなるかもしれない・・・。そして、一気に毛布が剥ぎ取られた。
 俺は、世界中の不機嫌を集めたかのような寝起きの顔を作り―おまけに頭はもともとボサボサなのだ―、そして一言。
「シェンマ?(何だ?)」
 兵士はちょっとびっくりしたように俺を眺めていたが、ヤンがすぐさま毛布を被せながら言った。
「言ったでしょ?寝てるって・・・」
 あの胡散臭い演技で納得したのかどうかは分からないが、それ以上は俺の毛布に突っ込みが入ることはなかった。ただ、その後の旅でもよくチベット人と見間違えられることがあったことだけ付け加えておこう。

ラサへ(二)

 夜になった。
 暗くなるとチェックポストの監視が緩くなるからか、バスは止まらずに暗闇の中を走り続けた。気温はぐんぐん下がってくる。毛布を頭からかぶってひたすら堪える。真っ暗な車内を時々照らすような対向車もない。ひたすら漆黒の闇の中を、頼りないヘッドライトだけで―。

 眠っていたらしい。気づくと、バスは何かの建物の前で止まったようだった。ヤンたちはバスを降りて、建物の中へと入っていった。食事だろうか。うとうととしていた俺は、ヤンたちを追いかけなかったために、一人車内に残ることになった。
 エンジンが止まり、人気の無くなった車内の気温は、ぐんぐん下がっていった。枕元に置いてあったペットボトルの水も、気づけば凍っていた。おまけに、高山病の症状も出てきた。頭痛だ。ゴルムドで買った薬も酸素ボンベも、本当に気休めにしかならなかった。降ってきそうなくらいに眩いチベットの星空の下、俺は一人、寝台バスでのたうちまわった。

 明け方、おっさんが戻ってきた。
「朝飯だ」
 頭痛と眠気で朦朧としたまま中へ入った建物の中は、オンドルのおかげで本当に暖かかった。建物は、回族のトラックやバスの運転手たちのための食堂兼仮眠所のようだった。仮眠スペースで、ヤンたちは朝飯を食べ散らかして、すっかりくつろいでいた。むかついたが、それどころではない。
「高山病で頭が痛い。何とかならないか?」
 ヤンたちは顔を見合わせて困った顔をした。特に何も持っていないらしい。そう言えば、昨日の夕方にワンが頭が痛いとか呻いていたが、誰もケアしていなかった。
 見かねたのか、店の主人が奥から出てきた。小汚いエプロンから白い錠剤を取り出し、お湯を注いだコップと一緒に差し出した。
「これを飲んで寝な」
 こうして俺は、朝飯を食べることなく、再び極寒のバスに送り返された。そして今度は、程なく眠りに落ちた―。

 目が覚めると、頭痛は嘘のように消えていた。バスは朝の光に照らされた高原の中を走っていた。
 昨日まで流れていた川は凍結している。草原を行く牛は、毛の長いヤク牛だ。家財道具を積んだリヤカーを家族に引かせて、一心不乱に五体投地でラサを目指す巡礼者も増えた。いよいよチベットに入ったのだ。
 その後、幾つかの検問や街を走り抜けて、陽も傾いた頃、小さな集落にある回族レストランに入った。ラサまであと数時間のところでの宴は、これまでの緊張感溢れる道中と打って変わって、さながら「打ち上げ」のようなリラックスした雰囲気だった。
「これまで大変だったなぁ」
「寒かったし、高山病もきつかったしな」
「あの検問のときはドキドキしたよな」
 恐らくお互いに半分も理解できていなかったと思うが、道のりの厳しさを共有してきたことで、単なる客ではない、妙な仲間意識のようなものが生まれていた。少なくとも俺はそう思っていた。さすがに酒こそ飲まなかったが、ゲラゲラ笑いながら俺たちは用意された豪勢な羊料理をしこたま平らげた。

 ラサに近づくと、道も一気に整備されるようになった。おんぼろバスも快調に進む。これでもう、客である俺がエンジンを冷やす水をかけ続ける「手動ラジエーター」の役目を果たす必要もない。
 ゴルムドを出て二日目の夜十時半。ヤンの「着いたぞ。降りてくれ」という声は、再び緊張感溢れるものになっていた。
 暗くてよく分からないが、閑散とした広バスターミナルのようだった。そう言えばラサの東には長距離バスターミナルがあったな、と僕はガイドブックの地図を思い出していた。
「見つかるとまずい。さっさとあのホテルに入れ」
 ヤンがそう言って指差したのは、駅やターミナルの側には必ずある交通賓館(ホテル)。明らかに設備は悪そうな感じだったので、俺は首を横に振った。
「ヤク・ホテル(亜賓館)に行きたい。連れていってくれ」
 特にこだわりははなかったのだったが、町外れのボロいホテルよりも、市内のバックパッカーの多そうなゲストハウスの方が、何かと都合がいいと思って、俺は唯一覚えていたゲストハウスの名前を出した。
 ヤンは「困ったな」という表情を浮かべ、三人で相談した。やがて、腹を決めたらしい。通りかかったタクシーを止めて、俺をそこに押し込んで、運転手に十元を押し付けてからこういった。
「こいつをヤク・ホテルまで連れて行ってくれ。じゃあな、兄さん」
 ろくに別れを言う間もなく、扉は外から閉められ、車は漆黒のラサの中心へと走り出した。やっぱり俺は客でしかなかったらしい。

草を食むヤク。季節は秋から冬に変わろうとしていた。
Y.FUKUBAYASHI
ヤクホテルの屋上からポタラ宮殿を望む。
Y.FUKUBAYASHI

ラサにて(一)

 翌朝、目が覚めると、真っ先にシャワーを浴びた。勢いよく出る湯で、旅の汚れを洗いおとした。
 九時すぎにホテルを出た。ホテルの前の大通りを、方角もよく確かめないままに歩いていった。ラサの標高は三千七百メートル。酸素が少ないためか、足もとが少しフワフワしているような感覚にとらわれる。気温は低いはずなのだが、刺すような日光のせいで、体感温度はそれほど低くは感じられない。セーターに皮のジャケットを着込んだだけで十分だ。

 大通りを車が疾走し、歩く人間はチベタン巡礼者の数よりも漢人や旅行者の姿が目立つ。最近できたらしいホテルやデパートなどの大型施設も少なくない。二十一世紀のラサは、「秘境」という部外者の勝手なイメージを鮮やかに裏切ってくれた。

 そして、不意に視界が開けた。目の前にポタラ宮があった。
 それは、あまりにも唐突な出会いだった。俺は言葉を失った。その偉容の前にして、これまでの全ての苦労―五体投地でここまでやってくる巡礼者とは比べるべくもないが―が報われた気がした。
 とはいえ、冷静になってポタラ宮を見てみると、その偉容も孤立したものであることに気づく。昔はポタラ宮のあるマルポリの丘の麓にはチベット式の住居が所狭しと軒を連ねていたらしいが、それらの殆どは取り壊されてしまっている。代わりに建てられた中国特有の無味乾燥な「人民広場」と近代的(=漢人趣味的)なビル群の中に、主を失ったポタラ宮が取り残されてしまっているかのようだ。おまけに、人民広場では、チベット解放五十年を記念したモニュメントが建設中だった。

 巡礼者たちの流れに乗せられて、ポタラ宮へ。外国人旅行者である俺は、五十元を払ってから、中へと入った。
 建物の中は薄暗い。燈明を燃やすバターと何世紀にも渡って積み重ねられたカビの匂いが鼻をつく。真言を唱える巡礼者たちの後をついて、右も左も分からない閉ざされた空間を歩いていると、眩暈を起こしそうになる。巡礼者たちは、仏像やダライラマの墓に、カタをかけ、賽銭を投げ入れ、祈りを捧げていた。俄か仏教徒の俺は適当な真言を形だけ唱えてお茶を濁した。
 狭い階段を登っていくと、急に視界が開けた。ポタラ宮の屋上に出たのた。眼下には、ラサの街とヤルツァンポ河が広がっていた。吹き上げる風は肌寒かったけれども、心地よかった。
 それにしても、ポタラ宮の内部の、壮麗な外観とは裏腹のあの鬱屈したような空間は何なのだろう。ポタラ宮を人間に例えるならば、その体内を巡ったといえるかもしれない。外見はどんなに美人でも、体内の肉や内臓は、閉ざされた暗闇で蠢いている。

 ポタラ宮を下りて、人民広場から東に入っていくと、「パルコル(八角街)」と呼ばれるエリアに入る。この一帯は、チベット風の建物が軒を連ね、土産物から日用品、衣料など、様々な物で溢れている。名刹ジョカン(大昭寺)を囲むこのエリアでは、観光客以外では漢人の姿はほとんどみかけない。、ジョカンを一周する八角形の通りは、マニ車を回し真言をとなえながら、或いは五体投地しながら時計回りに周回していく巡礼者や物乞いの子どもたちで溢れている。
 チベタンも様々だ。長髪を頭に巻きつけた勇壮なカムパの男や、赤い房飾りをつけたお洒落なアムドの男がチベタン服を片袖がけにして闊歩する。かと思えば、商売で成功したのか、小ざっぱりした洋服に身を包んだ男が唾を吐きながら歩いている。
 歩き疲れれば、パルコルに点在している茶館に入ればいい。薄暗い食堂の粗末な木の椅子に腰掛け、チベタンと肩をくっつけながらラサ特有の甘いチャイで体を暖めれば、それでオーケーだ。
 ラサの持つ強烈な磁場に魅かれるように、俺は何時間もパルコルをぐるぐると回った。そして思った。フワフワしているのは、決して酸素の量だけのせいではない、と。

ラサにて(二)

 陽も傾いてきたので、ヤク・ホテルに戻った。
 部屋は清潔で、ベッドが五つ並んだドミトリー形式になっていた。相部屋になっていたのは、日本人の大学生の男二人組と、日本人とイギリス人の一人旅の女性がそれぞれ一人ずつの、合計四人。昨日の夜遅くに入ってきたのでまだろくに挨拶もしていなかったが、日本人の女性が、相手の状態に構わずのべつくまなく喋りたおす以外は、特に気になるところはない。
 部屋に入ろうとすると、開け放った入り口のベッドに腰をかけている長髪の日本人がいた。チベタンの民族衣装を着込んだ、なかなかの男前だ。どうやら同室の二人組とは顔見知りらしく、しきりにカッカと声を上げて笑いながら話し込んでいた。
 「軽薄そうなやつだな」と第一印象で一方的に判断した俺は、それには加わらずに、自分のベッドに寝そべって本を読むことにした。しばらくすると、長髪の男がやおら話かけてきた。
「こんにちは。俺、リュウっていいます。よかったら晩飯でも食いませんか?あいつ、体調崩してるみたいで。」
 彼が指差した二人組のうち、一人―ノブといった―は、昨晩からずっと体調が悪いらしく、布団にくるまったまま出てきていない。もう一人―八角形のメガネをしていたのでハッカクと呼ばれていた―も、今日は部屋で大人しくしているという。
 俺としても断る理由はない。いいですよ、とつとめて冷静を装いつつ、即答した。何せ、これまでの1月あまりの旅で、日本人と飯を食うどころか、日本語で会話すらしてこなかったのだので、単純にうれしかった。ただ、第一印象のこともあるので、多少のもったいもつけたけど。

 リュウの案内で、ジョカン近くのチベタン食堂に入った。
 高度三千七百メートルで飲むビールは、まわるのも速い。リュウと二人で、モモ(チベット風蒸し餃子)をつまみながらラサ・ビールを飲んだ俺は、中瓶一本ですっかり酩酊してしまった。
 俺より一週間ほど先に中甸(香格裏拉)から飛行機でラサにやってきたというリュウは、喋らない方がモテるタイプの男前だ。勢い込んで自分が見聞したことを伝えようとするその様は、子どもが大人に一生懸命自分の想いを伝えようとしているようで、本人には悪いが、何とも微笑ましい絵になってしまう。
 最初はラサまで馬で来ようと思っていたこと。飛行機から見下ろした雪のチベット高原の美しさ。昨日見学してきたという鳥葬での生々しい人体解体の手順。大好きだというダイビングと海の話。麗江のディスコで見かけた、おかしなテンションで大はしゃぎする人民の話。今でこそチベタンのコートを羽織っているが、東南アジアから中国に上がってきたために冬支度がなく、最初はダイビングスーツを来て雲南を歩いていたこと…。
 何のことはない。軽薄そうに見えたが、単なる変態だったのだ。
 大学を卒業して、特に期限を決めずに旅に出てきたらしい。インドまで下ってから、オーストラリアでダイビングの仕事でも探そうかな、という。旅の目的地が故郷ではなくまだ見ぬ異国の地だということに、旅が終われば家に帰るもんだとばかり思っていた俺は、新鮮な驚きを感じていた。

 食事が終わると、リュウはこう言って氷点下の夜のラサへと俺を連れ出した。
「ディスコに行こう!」
 変態の上に、大のディスコ好きでもあったのだ。漆黒の闇に覆われた人気のないラサの、いったい何処にディスコがあるのか俺には想像もつかなかったが、「ラサのディスコ」への好奇心は、眠気と疲労を軽く上回った。
 かくしてリュウの後について出てみたのだが、程なく後悔の念にかられることとなった。何のことはない。リュウはディスコの在り処どころか、そもそもディスコがこのラサにあるのどうかかさえ知らなかったのだ。
「麗江にあるんだから、そりゃあラサにもあるでしょう」
 そりゃあ何処かにはあるのかもしれないが、この寒さである。それでも、数少ない道行く人に
「ディスコ。分かんないかなぁ。こうやって踊ることころ。ほら(実演)。知らない?」
と尋ねまくった挙句、たどり着いたのは「民族舞踊ショー」の楽しめる高級そうなラウンジだった。さすがのリュウも「こりゃあディスコじゃねぇなぁ…」と断念せざるを得なかった。
 ともあれ、こうして俺は、極寒の夜の散歩と引き換えに、リュウという一風変わった「飯友」を見つけることができたのだった。

ジョカンは朝から参拝客で賑わっている。
Y.FUKUBAYASHI

ラサにて(三)

 朝、目が覚める。

 外はまだ暗い。しゃべり疲れたドミトリーの住人たちはまだ眠っている。起こさないように静かにセーターを着込んで、Gパンをはく。敦煌で買った人民解放軍払下げの羊毛コートを羽織り、スニーカーをはく。ニット帽をかぶり、軍手をつける。重い扉をそっと開けて外に出て、中庭を横切る。吐く息が凍る。
 ホテルの門は閉まっている。ガチャガチャやっていると、門の脇の小屋で眠ってい小姐が眠い目をこすりながら出てきて、門を開けてくれる。毎朝のことだけど、少しふくれっ面。謝々。
 ホテルの前の大通りには、少しずつ人が戻ってきている。子どもたちは学校に向かって歩いている。北京時間ではもう八時なのだ。大人たちはポケットに手をつっこみながら、それぞれどこかに向かって歩いている。

 ジョカンに向かって歩く。前の方にポタラ宮を望みながら、左に折れて路地に入っていく。店はまだ閉まっている。路地は、バターの匂いが充満していて、軽く倒錯感をおぼえる。同じようにジョカンに向かう巡礼者たちもいる。マニ車を持っている者もいれば、五体投地するためのエプロンと手袋をはめている者もいる。みんな無言だ。
 五分もすれば、ジョカンの前に出る。勢いよく焚かれた香草の匂いにむせる。前の広場はすでに巡礼者であふれている。彼らが口の中でつぶやく真言が地鳴りのように脳髄に迫ってくる。自分の前で五体投地をする老人の、その伸びた背筋と手足の線の美しさに見とれる。しばらくすると、夢遊病者のようにふらふらとパルコルを回りだす。巡礼者たちの流れに乗って、ただ歩く。物乞いの子供たちの手を振り払う。その時だけスピードを少し上げる。
 道の脇にある建物に迷い込む。寺院だ。朝の勤行が行われている。小坊主がいたずらっぽい目でこちらを盗み見る。若い僧侶が微笑みながら手まねきしてくれるので、さらに歩みを進める。すると、おもむろにトゥン・チェン(チベットのホルン)が吹かれ、太鼓がたたかれる。腹の底から自我をひっくり返される。少し狼狽する。我に返ると、思わず手を合わせている。

 元の広場に戻ってくる。空もかなり白んでいる。そして、身体が冷え切っていることに気づく。広場のそばの光明食堂に入る。手垢にまみれた重い緞帳をめくりあげると、薄暗い閉ざされた空間に浮かびあがった白い眼球が、いっせいにこちらを見つめる。ひるまず中に入り、空いているスペースを見つけて潜り込む。固い長椅子に腰かけ、黒光りするテーブルに手を置く。男たちの値踏みをするような視線にさらされるので、精一杯の虚勢を張って毅然とした視線を返す。
 そこへ、ヤカンを持って巡回する小姐がチャイをひょいと差し出す。温かい。しばらくすると、ヤク肉入りのトゥクパ(チベットのうどん)をもってきてくれる。それを勢いよくかきこむと、ようやく店内を見回すことができるようになっている。空になっていたコップに、すかさず小姐がチャイを注いでくれる。あわてて紙幣を出す。トゥジェッチェ。

 チャイを何杯かお替りしてから、外へ出る。刺すような日差しがもう顔をのぞかせている。今日も晴れるみたいだ。顔を少ししかめながら、再びパルコルを歩く。少しずつ店が開き始めている。片袖がけにしたチベタン・コートに片手を突っ込んだリュウに出くわす。店の女の子と何か話していたらしい。挨拶を交わしてから、肩を並べてパルコルをもう一周する。そして、再び光明食堂へ。

 これが、ラサの朝。

ラサにて(四)

 夕方、リュウが部屋にやってきた。
 「晩飯、食おうよ。ジョカン前で知り合ったチベタンのカップルと仲良くなってさ、飯の約束したんだよねー。」
 断る理由はない。どうせ暇なのだ。同じく部屋で暇そうにしていたハッカクも行くというので、三人でホテルの二軒隣のヤク・バーガーが売りの洋風レストランに向かった。

 中に入ると、三十代のちょっと垢ぬけたチベタンの男がいた。俳優の升毅氏に似た顔立ちの男前である。何でも、今はアメリカ在住で、ビジネスで成功したとかで、自信満々の口調で英語を繰り出してくる。明らかに年下の日本人のプータロー、つまり我々を子分扱いしていて、なかなか鼻持ちならない男だった。
 そして、彼の両脇には妙齢で、しかもなかなか可愛いチベタン女性を二人従えていた。片方が婚約者で、もう片方(広末涼子にそっくり)がその友達らしい。何でも、結婚することになったので、田舎から連れてきたばかりとか言っていたが、見るからに純朴そうな女の子で、恥ずかしがってこっちの方をまともに見ることもできないくらいだ。
 何でこんな性格の良さそう子がこんな悪そう奴と・・・と腹の中では思いつつも口には出さないままに、出されたヤクバーガーを頬張っていたが、そのうち、升氏がとんでもないことを言い出した。
 升氏はアメリカ帰りの英語を話すが、女の子はチベットの田舎から出てきたばかりなので英語はまったく理解できない。それをいいことに、升氏の話は、別れた女の話から今の婚約者との比較、果てはラサの夜遊び事情へと、妙な方向に話は膨らんでいった。そして挙句の果てには、
「食事が終わったら彼女たちをホテルに送ってくるから、それから売春宿に行こう」
などと持ちかけてきた。升氏は第一印象の通りの悪い奴だったのだ。
 俺たち三人は升氏に心底あきれ果てつつも、彼の持ち出した「ラサの売春宿」という何とも興味をそそられるキーワードを耳にして、ひとまず「うん」と頷いたのであった。

 升氏ばかりがひたすら喋り倒して、盛り上がったのか盛り上がらなかったのか分からないままに、夕食は終了した。予定通り近くのホテルに女の子人を送り届けた升氏と俺たち三人は、タクシーを拾って置屋街へと向かった。
 十分ほど走って下ろされたのは、人気もまばらなうらぶれた商店街のような路地だった。店のドアからは灯りが漏れている。升氏は、迷うことなくその中の一つの店のドアを開けて、俺たちを手招きした。どうやら、馴染みの店だろうか。だとしたら、ますます悪い奴だ。ちなみに、アメリカ在住のチベタンがなぜラサに馴染みの売春宿があるのか、この時は不思議に思わなかった。
 店の中に入ると、ストーブを囲むようにベンチが備え付けられており、ヤカンの湯気が勢いよく吹いていた。薄暗くなっている奥のベンチにはまだ年端もいかないような女の子が何人か座っているらしく、キャッキャと升氏にじゃれついている。本当に升氏の馴染みの店らしい。本当に悪い奴だ。
 俺は、出されたお茶を流し込んで、妙に昂ぶる気持ちを押さえ込んだ。そして、目が店の暗さに馴れたころあいを見計らっておもむろに彼女たちの顔を見た瞬間、俺は愕然とした。
 どの子も、しゃべる口調からして彼女たちが十代なのは間違いないのに、滑稽なほどに白粉が塗りたくられたその顔は、四十代か五十代のそれだったのだ。彼女たちの労働環境、衛生環境、食事情などが手に取るように想像できた。
 ここは、そういう場所だったのだ。
 俺の無責任な好奇心は一瞬で消えうせ、言いようのない感情が吐き気とともにこみ上げてきていた。リュウやハッカクたちも一言も発しなかったところを見ると、同じ気持ちだったのだろう。そんな空気を一向に介さず、両脇の女の子の肩に手を置きながらご機嫌にトークを楽しむ升氏を見ると、さっきのレストランで連れていた婚約者の女の子が本当に気の毒に思えてならなかった。

 戸惑う俺たちを見て楽しむかのうように升氏のトークの興が更に加速してきたきたころ、通りで怒号が飛び交った。「喧嘩かな?」と思った瞬間、升氏と女の子たちの表情が一変した。
「隠れろ!!公安だ!!」
 呆気に取られる俺たちを、女の子たちは有無を言わさず奥の部屋のベッドの下に押し込んだ。もちろん、升氏も一緒である。売春宿のベッドの真っ暗闇の中で息を殺す男四人。さすがの升氏の顔も強張っていた。こんなところで捕まったら末代までの恥だ・・・という身勝手な思いだけが俺の頭の中をリフレインしていたが、時間にするとそんなに長くなかったと思う。公安と思しき男たちは、俺たちのいる店にはちょっと扉を開けて確認しただけで出て行ったようだった。
 その後、通りに人気がなくなったのを見計らって、升氏と一緒にそそくさと流しのタクシーを捕まえて、ホテルに戻ったのであった。今になっても、つくづくひどい夜だったと思う。

 升氏とは、この次の日も同じメンバーで夕食を共にした。前日と同じような盛り上がり方だったので詳細は省くが、今回は升氏が自分の婚約者の友人の広末嬢を何とかリュウとくっつけようとあれやこれやと世話を焼いていたのが印象的だった。さすがに昨日の一件で懲りて、ちょっとは爽やかに盛り上がろうと思っているのかな、と俺たちはちょと微笑ましくその様子を見守ったものだった。
 が、食事が終わるころ、「彼女たちをホテルに送ってからクラブに行こう」と言い出した。升氏はやっぱり悪い奴なのだった。

路傍には、旅の安全を祈って石が積み上げられていた。
Y.FUKUBAYASHI

ラサにて(五)

 チベットからネパールに抜けようとする場合、どういう手段を取ればよいか。
 夏場はツーリスト・バスなんかも出ているらしいのだが、旅行者が激減し、道路事情が悪くなる冬場は、ランドクルーザーをチャーターするしなかい。そして、そのチャーター代金は往々にしてバックパッカーにはとても手が出ない額だったりするので、何人か同類を集めて一台の車をシェアするしかない。
 そのため、ホテルやゲストハウスの伝言板には、「行方不明旅行者」の貼り紙と並んで、「ランドクルーザーのシェアメイト募集」のメモもたくさん張り出されている。こういうメモには、「大まかな出発の日程」、「国境までのルート(立ち寄る街など)」、「募集人数」、「本人の名前と滞在ホテル名」といった事柄が書きなぐられている。ネパールに下りようとする者は、自分でこれを張り出すか、張り出されたメモから適当に選んで、道連れを探すのだ。

 もちろん俺も、その一人。ラサに着いた二日後には、リュウと二人で張り出されたメモをチェックしてまわっていた。そんな中、一つのメモが目に留まった。リュウと同じキレー・ホテルに泊まっているダレイというアメリカ人のシェア・メイト募集の貼り紙だった。
 チョモランマのベースキャンプに立ち寄ってからネパール国境の街ジャンムーに向かうポピュラーなルートで、出発は三日後だという。何となく旅を焦っていた俺と、一週間ほどラサにいてちょっと飽きていたリュウの二人は、「興味あり」のメモをダレイの部屋のドアにはさんでおいた。
 その日の夕方―悪いチベタン・升氏との一回目の会食の前のことだ―、リュウと俺の部屋で話をしていたところ、そのダレイがやって来た。ダレイとは初対面だと思っていたが、見覚えのある顔だった。キレー・ホテルのベランダで韓国人の女旅行者を侍らせて、下手なギターの弾き語りをやっていた奴で、神経質そうな喋りが何かと耳に障ったのでよく覚えていたのだ。「明日の十八時、ペントック・ゲストハウスでミーティングをやるから来てくれ」とだけ言い残して、ダレイは帰っていった。
 補足しておくと、ネパールに入るにはビザが必要だ。ビザは、ラサ市内の西はずれにあるネパール領事館でとることができる。一日目の午前に申請し、翌日の午前に受け取るのだが、俺もこの日に朝からネパール領事館まで一時間近くかけて歩いて行って、群衆を押しのけかき分け、何とか申請を済ませていた。

 さて翌日の夕方、ダレイの指定した場所にリュウと向かうと、そこには件のダレイとダレイが侍らせている韓国人の女が二人に、イスラエル人の夫婦という何とも奇妙な取り合わせの面々が待っていた。出発は二日後なので、メンバーの顔合わせや車の確認などが主な目的だったのだが、このミーティングが揉めた。
 もともとダレイとリュウの折り合いは良くはなかったのだが、ダレイの神経質で嫌味タップリの喋り方もさることながら、その独断専行気味の話の進め方が、何でも自分で納得しないと気が済まないリュウの神経を逆撫でしまっくったらしい。ルートを決めるのに揉め、車をチェックするのに揉めで、参加者のイライラが募るだけでミーティングは終わってしまったのだ。
 この時は、どうにかこうにか話は落ち着いて、「じゃあ明後日に」ということで別れることになったのだが、せっかくのネパールへの旅路に雷雲が立ち込めてきたのだった。

 この後、俺とリュウは前出の升氏との二度目の会食に向かったのだが、正直なところ、このままダレイたちとネパールまで行くべきかどうか相当悩んでいた。ダレイがいるだけで明らかにこのツアーから抜ける十分な条件になるのだが、さすがに土壇場に来てのキャンセルは人としていかがなものだろうか。とは言え、一人で考えてもなかなか答えが出ない。升氏の自慢トークを上の空で聞き流しながら、俺は一人で悶々としていた。
 食事中に抜けて入ったトイレでリュウと一緒になったとき、「悪いけど、ぶっちゃけ、俺やめたい」とリュウが切り出した。こうなると、俺としても「実は俺も・・・」と応じることになる。渡りに船というやつだ。
 これで話は決まった。
 俺たちは、クラブに行こうという升氏に別れを告げ、意を決してダレイの部屋の扉をノックした。気が重かったが、これは人として踏まなければいけないステップなのだ、と自分に言い聞かせて。が、幸か不幸かダレイは不在だったので、「ごめん、やっぱりツアーやめるわ」というメモだけ扉に挟んでホテルに戻った。

 翌日、ヤク・ホテルの部屋でリュウやハッカクたちと喋っていたら、ダレイが血相を変えて怒鳴り込んできた。そりゃ怒りもするだろう。
「昨日は行くって言ってたじゃないか。イスラエル人の夫婦もやめるっていってたし、これじゃあ車のチャーターはできなくなる。どうしてくれるんだ!」
 イスラエル人の夫婦がやめたというのは初耳だったが、その原因も簡単に察しがつく。おまえのせいだよ、という言葉はぐっと飲み込んで、二人で謝った。
「すまなかった。でも決めたことだから」
 こういう時は二人だと本当に心強い。ダレイは散々文句を言った挙句、俺には聞き取れない捨て台詞を残して帰っていったが、たぶんあまり上品でない罵り言葉だったのだろう。

 そういうわけで、ダレイは翌日以降もホテルのバルコニーで下手なギターをかき鳴らし、俺たちはダレイに会うたびに嫌味を言われることになった。そしてその度に、俺とリュウは「すまなかった」と謝った。何でチベットまで来て、しょうもない人間関係に気を遣ったり悩んだりしなければならんのだろうか。
 しかし、その数日後にはダレイもいなくなった。他の旅行者に聞いたところでは、侍らせていた韓国人の女の子にも先にネパールに行かれてしまい、一人で里帰りするネパーリーのランドクルーザーに乗り込んでいったらしい。

ラサ・セラ寺で問答に明け暮れる僧侶たち。手をたたきながら問いを発している。
Y.FUKUBAYASHI

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ラサにて(六)

 ヒマラヤを取り巻く高地一帯に付けられた名称である「チベット」という言葉の響きは、旅行者を惹きつけるものがある。それが、近代の一時期と中国共産党の支配下に入ってからの閉鎖的な政治状況から連想されるものなのか、チベットに根付いた仏教のエキゾチックなスピリチュアルなイメージによるものなのか、はたまた、チベットというものが本来持つ「磁力」によるものなのかは分からない。
 明治時代以来、何人もの日本人が閉ざされたチベットに潜入しようと試みて、ある者は成功し、ある者は失敗した。ある者はチベットに仏教の源流を求め、ある者はスパイとしての密命を帯びた。ある者は、インドからヒマラヤを越え、ある者はチャンタン高原を横断した。ある者はにとっては最初で最後の機会だったが、ある者は二度チベットの土を踏んだ。ある者はチベットで華やかな生活を満喫し、ある者は素性を隠して修行に励んだ。ある者はチベットを追われ、ある者は多くの仏典を携えて凱旋した。
 いつの時代も様々な思いを抱いた旅人がいて、旅人の数だけ旅のスタイルがある。

 この二十一世紀、チベットはもはや閉ざされた神秘の国ではない。もちろん、外国人の立ち入りが難しい地域も多くあるし、チベットに関する情報もバイアスにまみれている。けれども、きちんとお金を払って許可を取れば合法的にラサに入れるし、チベットの自然や宗教を取り上げた映像を見ることもある。
 それなのにどうして、闇バスやヒッチハイク、果てはサイクリングとあらゆる手段を駆使して非合法にラサを目指す者が後を絶たないのだろうか。俺がラサにいた当時、ウロウロしていた個人旅行者を見ていると、おおよそ半分くらいは非合法な手段を取っていた。その多くは闇バスだったと思うが、ヒッチハイクで来たツワモノも結構いた。
 闇バスの旅は、すし詰めの長距離バスに紛れ込んでラサまで運んでもらうのが一般的なので、検問さえクリアすればそう大変なことではない。そもそも、これはプロの仕事である。
 しかし、ヒッチハイクだとそうはいかない。ヒッチハイクといっても無料ではなく、闇バスほどではなくてもそれなりのにお金を払って、巡礼トラックなどの車に乗せてもらうものなのだが、闇バスとの違いは、運び手がプロではない、ということに尽きるだろう。従って、車が何日も捕まらないとか、乗った車のスピードが遅いとか位なら大したことはないが、検問で引っかかって出発前の街に強制送還されたり(もちろん、罰金つき)、運が悪ければ身包みを剥がれたりチベットの土くれになってしまったりする。
 ラサのホテルやゲストハウスの掲示板には、前に書いたとおり、消息を絶ってしまった旅人たちを探すビラが貼られている。もちろん、こうやって尋ね人のポスターを作ってもらえるのは、実際にチベットで行方不明になっている旅人のごく一部だし、そもそも行く不明になってしまう人自体が圧倒的少数派なのだが、ラサにたどり着いた旅人は、こういったポスターを見て初めて、自分の辿ってきた道の危うさに気づくのだ。

 俺がラサに到着して三日後、ラサ滞在中ずっと体調を崩していて何しに来てたのか分からないノブと、必要以上に最新式装備を誇っていたハッカクの二人組がネパールに向かった。それと入れ替わるように、その日の昼過ぎ、日本人の二人組の男が入ってきた。四川省からアムドを抜ける川蔵南路をヒッチハイクで抜けてきたらしい。一人は伸ばした髪をツイストにした、鹿のような鋭い眼光を放つ男。もう一人は坊主に黒ぶち眼鏡の男。くわえ煙草で、ラサの直射日光が眩しいのか、目を細めながら近づいてきたその様子は、正にヤンキーである。
 基本的に人を見た目で判断する俺は思った。こいつらとは関わりたくない。
 ツイストの方がそのまま近付いてきて、煙草の煙を吐き出しながら言った。
「金、貸してくれませんか?」
 おいおい、白昼堂々とホテルの中庭でカツアゲかよ・・・
「いやね、ラサで両替しようと思ってたんですけど、週末なんで。金ができたら返しますから」
 喋ると意外に穏やかな口調で、どうやらカツアゲに遭っているわけではないらしい。というか、よくよく話してみると、二人とも普通に良い人たちだった。ツイストの方がリョウで、坊主の方がマサ。隣の部屋に入ったらしい。
「ヒッチハイクの方が安上がりやし、何か面白そうやな」
 ひとしきり二人の旅の様子を聞いた俺が思わず口にすると、リョウは即座にこう返してきた。
「確かに貴重な経験やったけど、決しておススメはせんよ。宿に泊まるときも車に乗るときも街を歩くときも、常に日本人という自分の存在を隠さなければいけないのは、本当に辛かった」
 闇バスでそれっぽいのは味わったが、所詮プロの運び屋の庇護の下にあった俺にとっては、「自分の存在を消す」というのはちょっと想像もつかない感覚だ。
 彼らは二人だったが、カム地方の玄関口・カンディン(康定)を出たときには三人組だったという。もう1人は、リタンからチャムドに抜ける川蔵南路を進んだ二人とはラサでの再会を約束して別れ、カンゼ・デルゲを抜ける川蔵北路を選んだという。「もうすぐ着くとは思うんだけど・・・」と二人は東の空を見上げていた。
 チベットへ至る道程には、旅人の数だけドラマがあるのだ。第三の男は、チベットの空でどんな旅路を歩んでいるのだろうか。

ポタラ宮の周りはすっかり整備されてしまった。
Y.FUKUBAYASHI

ラサにて(七)

 ラサについて五日も経つと、最初の昂揚感も次第に薄れ、惰性の日々が始まる。
 まず、朝早く起きることが難しくなってきた。「明日も朝日を見に行こう」「朝からパルコルを回ろう」とか考えながら眠りにつくのだが、夜が明けても温かいブランケットから這い出すことができない。二度寝などをしているうちに、九時頃になる。この時間帯には太陽も高く出ているので、それほど寒くはない。まずは、シャワーを浴びて洗濯。
 洗った服を屋上に干してから、中庭のベンチでボーっと本を読んだり、他の旅行者と話をしていると、リュウがやってくる。彼は毎日朝早くから散歩するのが日課なので、テンションは高い。俺もリュウに引きずられるように、ホテルの隣の食堂でちょっと遅い朝飯を食べる。四川省からの移民が経営しているこの食堂は、重慶風のお粥がうまい。ちなみに、この食堂の女主人は、どこかの日本人旅行者から間違って教わった挨拶を、俺たちを見かけると必ずやってくれる。
「マタニー!!」

 食事を終えると、腹ごなしに軽くパルコルを一周してから、光明食堂でチャイを一杯。そこでリュウとは別れて、ラサの街を歩く。
 ある日は、バスに乗って西の郊外にあるデプン寺に遊んで、破壊されたままの伽藍に思いを馳せる。ある日は、南へ歩いてヤルツァンポ河を渡り、漢人移民の多い新市街を散策。ある日は自転車を借りて北の外れにあるセラ寺―百年前に河口慧海が身分を偽りながら過ごした寺だ―に行って、某さんたちのたぶんに客の目を意識した問答を見る。ある日は、ジョカン周辺の店を巡りながら、土産を物色する。
 そして、日が少し翳ってきた頃、ホテル近くのインターネットカフェに入って、最低一時間はそこで過ごす。ラサのインターネット事情は、これまで旅をしてきた中国北西部と比べて格段に良いので、ついついメールを乱発してしまうのだ。

 夕方になって部屋に戻ると、これまた散歩を終えたリュウが遊びに来ているので、何人かで連れ立って近くのチベタン食堂へ向かう。晩御飯はもちろん、モモとラサ・ビール。高度三千七百メートルの気圧でしたたかに酔っぱらってから、ジャガイモの串揚げ(麻辣風味)をつまみながらホテルへ戻る。その後、興が乗れば、部屋に戻って日付が変わるまでおしゃべりするし、その気にならなければ日記を書いて寝る。
 こうやって、自分の中に何となくラサの街での「一日のリズム」のようなものが生まれてきていた。そのリズムに乗っていれば、快適に過ごすことができた。こう書くと何となく良さそうな響きがあるが、これは俗に言う「沈没」という状態でもある。

 けれども、こういった日々を送りながらもネパール行きの準備を進めていたので、純粋に「沈没」していたとは言えないかもしれない。
 ラサに到着した二日後に、ラサの西にあるネパール領事館に行って、ツーリスト・ビザの申請を済ませた。優雅に役人仕事をこなす窓口に、同じようにネパールに出ようとしているチベタンと一緒になって殺到し、申請締め切り時間に何とか滑り込ませたので多大なエネルギーを消費したが、その二日後には無事にビザを取得することができた。それと同時並行でアメリカ人のダレイが主催するランドクルーザー・ツアーにリュウと一緒に乗っかろうとしたが、ダレイの人間性に問題ありと判断してドタキャンし、彼の恨みを買ったことは前に書いたとおり。ちなみに、その後しばらく、街でダレイに会うたびにイヤミを言われたものだ。
「よう、日本人。まだいたのか。俺はお前らのせいでまだラサだよ…」

 そんなダレイのイヤミ攻撃にもめげず、俺はリュウと二人でつつましやかにビラを貼るなどしてランドクルーザーのシェア・メイトを少しずつ集めていった。
 最初にコンタクトしてきたのは、俺と同じ時期に四川から女一人でヒッチハイクしてきたというツワモノの素振りが傍目には一切感じられないフワフワした感じのヨウコさん。彼女とは、ヤク・ホテル前のちょっとお洒落なカレー屋兼ギャラリーで偶然居合わせたのを機会に喋るようになっていた。
 次にやってきたのは、日本に暫く滞在してタレント活動をしていたので日本語がペラペラな、しかしせっかちなのかやたらどもるオーストラリア人のローレン。そのツレで、韓国で英語教師をしているジェームズもやって来た。二人ともいかにもオージーらしいテンションの高さが面白い。
 二人の参加が決まった翌日、ローレンと同じホテルに泊まっているというオランダ人のフランクも参加することになった。フランクは三十過ぎのおっさんだというのに、いつもヘラヘラしてちょっとつかみ所のない感じの奴だった。ゴルムドからフランクと同じ闇バスに乗ってきたウチダ君の話によれば、フランクはいつもパンツ一丁で寝るのが習慣らしく、闇バスの中でも律儀にパンツ一丁になってブランケットを羽織って寝ていたらしい。当然ながら寒さでガタガタ震えていたので、気の毒に思ったウチダ君が「僕には寝袋があるから、このブランケットを使ってくれ」と差し出したところ、「ありがとう」と言って受け取ったブランケットを丸めて、枕にしてそのまま―相変わらず震えたまま―寝てしまったそうだ。
 最後に参加が決まったのは、四六時中ウォークマンでボーイズ・Ⅱ・メンを聴いている韓国人のジェニス。最初はキレー・ホテルにいたのだが、設備の良いヤク・ホテルが気に入って移ってきていた。ちなみに、彼女がホテルを移動してくるときに、上はセーター、下は毛糸のスパッツというあり得ない組み合わせで扉を開けて、中にいた俺たちの度肝を抜いたものだ。
 ともあれ、こうしてビラを貼りだして二日ほど経った頃には、十分にランドクルーザーをシェアできる頭数が揃っていた。しかもこの濃いキャラクターである。これなら、ネパール国境まで楽しく旅ができるだろう。ラサを出発するのは、三日後の朝と決まった。
 こうして、「沈没」しつつも、俺は着々とラサの持つ不思議な磁力とそれに守られた奇妙な安心感から脱出する手配を整えていった。

ラサにて(八)

 ラサに到着して一週間も経とうとした頃気温がぐっと下がりだした。遠くに望む山々も少しずつ雪化粧をするようになっていた。
 冬の足音が少しずつ大きくなってきたある日、ヤク・ホテルの隣部屋のツイスト・ヘアーのリョウが、相棒の丸刈り眼鏡のマサと鳥葬ツアーの参加者を募集し始めた。ラサに着いた日にリュウから事細かに鳥葬の際の死体の前処理や、ハゲワシの食いっぷりを聞かされていた俺も興味がなくはなかったが、観光気分でそういった場に行くのは不遜なような気がしていた。そんなわけで、当初はこのツアーを見なかったことにしようと思っていたのだが、結局は行くことになってしまった。
 ホテルの中庭でいつものようにデッキベンチに寝そべっていたリョウが、俺が通りかかったときにむっくりと身体を起こし、「せっかくやし、どう?」と直接声をかけてきたのだ。隣で聞いていたリュウも「行っておいて損はない」と畳みかける。「他人の勧誘」という責任転嫁の対象が生まれると、後ろめたさよりも好奇心の方が勝ってくるのだ。
 参加者は、リョウとマサの二人に、ダレイのツアーを一緒にドタキャンしたイスラエル人夫婦、ウチダ君、ジェニス、新しくラサにやってきたナガイ君にトミさん、そして俺と、何やかんやで総勢十三名になった。ツアーは二日後の夜中にランドクルーザーで出発し、早朝から行われる鳥葬の儀式を見学して、昼前にはラサに戻ってくるという。ツアーのアレンジは、ダレイのツアーも担当していた"デビッド"と名乗る見るからに悪人面のチベタンのエージェント。

 そして、ツアー当日の夜中一時半。漆黒の闇には、蒼白な満月だけが浮かんでいた。
 三時間ほどの仮眠を取ってから、ホテルの前に集まった俺たちは、まずはその車に驚いた。ランドクルーザーのはずが、そこには普通の路線バスが止まっていたのだ。十三人もの人数をさばくために、ランドクルーザー二台ではなく大型バス一台を用意したデビッドのこの判断が、良くない結果を生むのだがこの時はまだ分からない。俺たちは何の気もなしにバスに乗り込んだ。

 ラサを出ると、車は暗闇の中を走る。寝ているのか、これから目にするであろう光景を想像してか、誰も口を開かない。沈黙と月光と、隣のジェニスのウォークマンから漏れ聞こえるボーイズ・Ⅱ・メンだけがバスの空間を支配している。
 二時間ほど走ったところで、バスが止まった。ぬかるみにはまったらしい。運転手が俺たちに声をかける。
「男は後ろから押してくれ!」
 バスを降りてバスの後ろに回り込む。小さな集落を通り抜ける路地のぬかるみで、不似合いなまでに大きなバスの後輪が空しく回転していた。声をかけてバスを押し上げる。エンジンが唸る。俺はこの時初めて、デビッドの悪人面に怒りを覚えた。

 明け方、バスはとある寺院の前に泊まった。何という寺だったのか、名前を聞き忘れてしまったので分からないが、ラサから北へ四時間ほど行ったと思う。大きな渓谷の谷あいにある結構大きな寺だった。
 バスを降りたところで運転手が手振りを交えながら言う。
「儀式の場では、カメラは絶対駄目だ。右手を切られるぞ。それに、余計な口をきくんじゃないぞ…」
 山門の側の東屋で、寺男の差し出すチャイで身体を温めてから、まだ夢の中にいる犬の間をすり抜けて、運転手の先導で寺の背後の山を登っていく。高度がラサより相当高いらしく、すぐに息が切れた。ラサではお目にかかれない突き抜けたような青空を見上げると、ハゲワシが大きな弧を描いていた。
 山を登りきったところはちょっとした平地になっていて、その一角が鉄柵の中に囲われている。ここが鳥葬を執り行う場だ。
 談笑しながら出刃包丁を研ぐ僧侶。お手伝いをして小遣い稼ぎをしようとする近所の少女たち。沈痛な面持ちを浮かべて佇んでいる遺族。ずた袋に入った遺体―今日は四体だった―。いつの間にか舞い降りて、マラソンのスタートのときのように前のめりのハゲワシたち。俺たち鉄柵の中に入ったところでプレイヤーはすべてそろった。
 僧侶がフックにひっかけて死体を引っ張り出し、足の裏から包丁を入れる。骨は木槌でつぶしてミンチにした。最初の死体は少女だった。次の死体は太った僧侶だった。あとの二人は老人だった。「それら」は手際よく解体され、フライング気味に駆けてきたハゲワシの胃袋に収まっていった。鳥葬という死体処理の方法が、チベットという、仏教の思想が人々の心に根付き、そして燃料すら貴重な環境においては、合理的なものなのだろう。
 最後に、誰かのシャレコウベがハゲワシに蹴られて、ヤクがゆっくり草を食む山の斜面をコロコロと転がっていた。

 こうして儀式は終わった。プレイヤーたちは、何事もなかったかのようにもと来た道を引き返して行った。ハゲワシも大空に還って再び大きく旋回していた。けれども、例外なくちょっと野次馬的な好奇心をもってこの場に臨んだ俺たち観光客だけは、放心気味に来た道を降りた。その時、一足先に降りていた運転手が血相を変えて走ってきた。
「大変だ!韓国人の女の子が犬にかまれた」
 急いで近くの病院で簡単な手当はしてもらったが、幸い怪我は大したことはなかった。けれども、狂犬病が怖い。田舎の病院には、血清はないということだった。ジェニスはショックでずっと泣いていた。
 ラサへ戻るバスの中では、誰も口をきかなかった。ホテルに戻って熱いシャワーを浴びて初めて、現実に戻ってきたような気がした。

鳥葬の場へと続く山道。空にはハゲワシが舞っていた。
Y.FUKUBAYASHI

ラサにて(九)

 犬にかまれたジェニスは、ラサ市内の病院で診てもらって大事に至らなかったが、念のために飛行機で北京に戻ることになった。仕事を辞めてきた旅を途中で切り上げなくてはならない彼女の胸中はなかなか読めなかったけど、吹っ切れたような笑顔で、ランドクルーザーのツアーをキャンセルすると言った。こうして、メンバーはローレン・ジェームズ・フランク・ヨウコさん・リュウ、そして俺の六人になった。

 そんなときである。
 いつものように朝の散歩と朝食を終えてからインターネットカフェでネットサーフィンをしていると、「ネパールで内戦勃発」というニュースが目に飛び込んできた。メールボックスを開けると、「ネパールが大変だけど大丈夫?」と安否を気遣う友人のメールも入っていた。
 俺は思わず腰を浮かして声を上げてしまった。共産党過激派(マオイスト)によって、東部の空港など各地の政府側の拠点が襲撃され、カトマンズにも戒厳令が布かれたという。半年前の当時の皇太子による王族殺害事件以来ネパールの情勢は不安定だとは聞いていたが、こういう形で自分の旅に関わってくるとは考えていなかった。そう言えば、昨日立ち寄った土産屋のマスターが「ネパールでは気をつけな」と言われたのを聞き流していたが、こういうことだったのだ。
 慌ててネットカフェを飛び出して流しのタクシーに乗り、ネパール領事館に向かった。さぞかし混乱しているだろうと思っていたのだが、着いてみるといつもどおり小さな窓口に殺到する人民を横目に、ネパーリー役人が優雅に仕事をこなしていた。タクシー代の十元が無駄に終わりそうな嫌な予感を抱えながら、たまたま出てきた階級の高そうなおっさんをつかまえて尋ねてみた。
「内戦が起きたって聞いたんだけど、ネパールは大丈夫なのか?」
 そうしたらおっさんは、面倒くさそうに予想通りの一言を返してきた。「No Problem !」
 俺は、ホッとしたの半分、十元損してむかついたの半分、釈然としないまま30分の道のりを歩いて帰った。とは言え、せっかくの情報だし一応リュウには伝えとこうかと思ってキレー・ホテルに入ると、フランクがホテルのバルコニーに足を上げて本を読んでいた。俺は、腹いせにちょっとは驚かせてやろうと思いながら声をかけた。
「よぉ、フランク。聞いたか?ネパールで内戦だってさ」
「あ、そうかい。まぁでも大丈夫だろ。観光で成り立ってる国が観光客を入れないなんてないよ」
 フランクは、いつものようにヘラヘラしながらこともなげにこう言った。確かに、内戦とは言っても、一部の政府拠点が武装ゲリラに襲撃されただけである。とは言え、この状況でこの冷静な判断はなかなかできない。「フランクの奴、できるかもしれん」と俺は密かに思った。
 結局、ネパール内戦騒動は俺の独り相撲であっさり幕を閉じ、ラサを出る準備は着々と進んでいった。
 ラサからギャンツェ、シガツェ、ティンリー(チョモランマ・ベースキャンプ)と通り抜ける五日の旅ということで、それなりの準備を揃える必要がある。俺も時間を見つけては、ミネラルウォーターやフィルム、サングラス、お菓子などを買い込んだ。

 そして夕方、再びキレー・ホテルに向かった。エージェントであるデビッドと最後のミーティングを持つのだ。一度目はルートと値段の確認、二度目はランドクルーザーと契約書の確認、そして今回が三度目である。
 客である俺たち六人は集まったのに、肝心のデビッドがなかなか来ない。一時間も過ぎると、最初は駄弁っていたリュウや俺が真っ先にイライラして悪態をつきだした。実は、打ち合わせの度に必ず待たされていたのだ。もしかしたら、ここまで入念に事前チェックや打ち合わせをかけるグループは多くなかったのかもしれないが。
 そうしてフラストレーションを溜め込み、一時間半遅れでデビッドが悪人面に薄ら笑いを浮かべながら登場したところで、リュウと俺は切れてしまった。
「おまえ、何考えてるんだ!?いい加減にしろよな!」
 かなりけんか腰で詰め寄る俺たちとややムッとした表情のデビッドの間に、フランクがヘラヘラと「まぁまぁ」とか何とか言いながらしながら割り込んできた。そして、次の一言に、俺は改めて「フランクの奴、できる」と思ったのであった。
「一時間半遅れてさぁ、俺たちずっと待たされたわけだけど、百元負けてくれるなら許してやるよ」
 デビッドもさすがに形勢不利と見たのか、あっさりその条件を飲んだ。一人頭に換算すれば20元かそこらの金額だが、やはりこういう交渉ごとにおいては怒った方が負けなのだ。
 ともあれ、こうしてラサを出る準備は整った。

 ミーティングを終えたその足で、リュウとジェニス、そして前日の鳥葬ツアーで一緒になったナガイ君とトミさんたちと連れ立って、ラサ最後の晩餐に向かった。店はラサ最初の夜にリュウと来た江竜飯店で、メニューはいつもどおりにビールとモモ。どんなことを話したのか覚えていないけれど、店員さんたちと記念撮影したりしていたので、それなりに楽しんでいたんだと思う。
 ラサ・ビールにほろ酔い気分になって、ジャガイモの串揚げをつまみながらリュウと二人でヤク・ホテルに戻ると、部屋では「あの男」が待っていた。
 話は一日ほど遡る。
 鳥葬ツアーから帰った日の夕方、ホテルの隣の「マタニー」飯店でリョウやマサたちと晩御飯を食べていたときだ。一人の日本人旅行者が店の前を通りかかった。今さっきラサに着いたらしく、薄汚れた服に大きなバックパックをかついでいる。髪の毛は長いが、男のようだ。その瞬間、リョウとマサは何だか言葉にならない言葉を発しながら店の外に走っていき、そしてその旅行者と熱い抱擁を交わした。
 そう、その旅行者こそ二人が康定で別れた一人川蔵北路からのラサ入りに挑んだ「第三の男」だったのだ。その旅行者は、いかにも何かを考え込んでいるかのような面持ちで、もったいぶったように言葉を発した。
「初めまして、タダヒコといいます。よろしく」
 ほろ酔い気分でヤク・ホテルの扉を開けると、そのタダヒコを囲むようにして話に花が咲いていた。彼は、俺と同じ部屋にチェックインしていたのだ。
 その話の内容は、一言で行ってしまうと「川蔵北路でいかに俺は苦労したのか」。二度も公安の検問に引っかかり、一度は成都まで連れ戻されたこと。その時に賄賂を要求されたこと。身分を隠して宿に入ったこと。巡礼トラックに凍えながら揺られていたこと。そんなエピソードが芝居がかった口調で語られていく。みんな腹を抱えて笑っていたし、リュウなんかは身を捩じらせながら「カカカカカ」と手を叩いて喜んでいた。
 ラサ最後の夜は、日付が変わっても笑い声の絶えない賑やかな夜となった。俺たち以外はアルコールの力を借りていないのに。そして午前三時過ぎ、カトマンズでの再会を約束してその場は解散となった。

ヤムドク湖を見下ろす峠には、タルチョが懸けられていた。
Y.FUKUBAYASHI
ギャンツェ市内を望む。
Y.FUKUBAYASHi

ギャンツェへ

 翌朝、六時過ぎに起きた。
 ほとんど荷造りを済ませておいたバックパックを久し振りに担いで、リュウと二人でキレー・ホテルへ。部屋の連中はみんな寝ていたが、ジェニスだけが眠たそうに目をしょぼつかせながら、布団の中から手を振ってくれていた。
 七時頃にはフランク・ジェームズ・ローレン・ヨウコさんも合流し、そして俺たちを国境まで乗せてくれるランドクルーザーもやってきた。運転手は、ケサルと名乗った。三十才位の真面目そうなチベタンで、ローレンたちの必要以上にフレンドリーな挨拶に、英語が喋れないからかそういう性格なのか、照れ笑いを浮かべながらちょっと会釈を返していた。
 早速、出発の準備に取り掛かる。フランク・ジェームズ・ローレンはただでさえでかいバックパックに、お菓子や水、そして酸素ボンベなどかなりのボリュームの荷物を持ってきていた。その荷物を何とかランドクルーザーに積みこんで、一八〇センチメートルを超える長身の三人がどっかり座ると、俺たち日本人が座るスペースはそれほど残っていない。俺とヨウコさんが助手席に座り、リュウは後ろの荷物の上に寝そべることになった。もちろん、交代制で。
 その後、検問で必要なパスポートのコピーを白人三人組が用意していなかったりするなどちょっとバタバタしたが、夜が明ける頃には、ラサを出ることに成功していた。

 ラサを西に出ると、暫くは舗装の行き届いた道が続いたが、ヤルツァンポ川にかかる曲水大橋を越えてしばらくしたところでヤムドク湖に向かうために未舗装道路に入る。そのまま、延々と続く山道を登りながらぐんぐんと高度を上げて、一時間ほどで高度四七〇〇メートルのカンパ・ラに到着した。ここからは、冬の茶色いチベットの大地に抱かれた、紺碧の水を湛えるヤムドク湖を一望することができる。
 俺たちは、その荘厳な美しさに言葉もなく見とれていたが、ただ一人それどころではない人間がいた。ローレンである。高山病のせいで、高度を上げ始めてから胃をやられてしまったらしく、しょっちゅう車を止めては吐いていた。出発前の高いテンションはどこへ行ったのか、真っ青な顔をしてうんうんうなっているので、たまにこちらから声をかけてやると、
「ダ、ダ、ダ、ダイジョウブ」
と返す(彼は英語でも日本語でも、どちらでもよくドモる)のだが、明かに大丈夫ではない。俺たちはヤムドク湖の景観堪能もそこそこに、昼食のためにナガツェへと向かうことにした。ここなら多少高度は下がる。

 ナガツェでは、グロッキーのローレンを除いたメンバーでチベタン・カレーを食べた。山を越えればインド・ネパールというカレー文化圏というチベットに、カレーっぽい食べ物があっても不思議ではない。出されたものを見ると、カレーっぽいソースで煮込まれたジャガイモとヤク肉が米にぶっかけられていた。カレー好きの俺としては喜び勇んでスプーンを口にした・・・が、ジャリッとした米の噛み応えと、何とも間の抜けたカレーソースにげんないりしてしまった。日本にる感覚からすると、田舎の方が都会より安くて美味いものが食べられるようなイメージが(少なくとも俺には)あるが、ここはそうではないようだ。値段も、ラサと比べると破格だった。それでも俺は何とか完食したが、横にいたフランクなどは、一口食べただけで顔をしかめて皿を押し戻してしまった。贅沢なやつだ。

 ギャンツエに到着したのは十五時頃だった。これは、ケサルが延々と同じチープなチャイニーズ・ポップのテープをかけ続けるという、トランスというか拷問のような空間から俺たちが解放された時間でもある。
 ホテルは特に決まってないらしく、ケサルが順番に知っているホテルに案内してくれるという。結局、何軒目かは忘れたが、街外れの建蔵賓館というホテルに、無事に荷物を置くことができた。フランクがちゃっかり値切っていたので、二十元。悪くない値段だ。

ギャンツェにて

 ギャンツェは、ラサ・シガツェに次ぐチベット第三の街だ。インドとチベットを結ぶ交易路上に位置していて、それでいて農業も盛んで…という話は聞いていた。
 しかし、である。
 まだグロッキー状態のローレンを残して街に繰り出した俺たちを待っていたのは、「ゴーストタウン・ギャンツェ」だった。ギャンツェ・ゾンが見下ろす茶色い街には、人の気配がほとんどない。砂ぼこりを舞い上げ強風が吹き抜ける通りでは、時折ロバ者を引いた男とすれ違ったり、道路沿いの住居の窓の中に人の気配を感じるばかりだ。ジェームズは「"dead city"だな…」なんて言っていたが、実は、たちの悪い生き物だけはいた。
 チベットを旅するときに気をつけなければいけないことは、高山病や念仏を唱えながら人を殺すという山賊(最近は殆ど出ないと思うが)など幾つかあるのだが、もう一つある。
 「犬」である。チベットの犬は、荒野で生き抜いているだけあって、逞しく、そして獰猛だ。生きているのか死んでいるのか分からない東南アジアの犬とは比べ物にならない。
 ギャンツェの街には、そんな野犬の群れがところどころにタムロしていた。五人の顔に緊張が走った。犬にお尻をかまれた韓国人の話を書いたけれど、その余韻が覚めやらぬこの状況において、一人だったら確実に回れ右をしていただろう。
「やばいんじゃないのかな?」
「五人もいれば大丈夫だろう」
「目を合わせるなよ…」
などと言いながら、努めて冷静を装いつつ、慎重に歩みを進める五人。その時、フランクがいつの間にか拳ほどの石を両手に持っていることに気づいた。
「なるほど、この方が丸腰よりはいいよな」
と他の四人も足元に転がっていた石を手にしたが、「やっぱりフランクの奴はただ者ではなかった」と俺は、やけにごつい(恐らくスキー用の)手袋で石を持つ三十路のオランダ男の背中を見直したのだった。

 結局、犬に襲われることもなく街を通り抜け、反対側の外れにある白居寺(パルコン・チューデ)へとたどり着いた。この寺は、パンコル・チョルテンという上の方に「仏陀の目」がついた、階段状のフォルムが美しい仏塔が有名だ。
 入り口で拝観料を尋ねると、小坊主の口から「一人二十五元」というとんでもない答えが返ってきた。正直、ちょっと高いなと思った。観光客から取れるだけ取ろうとする中国のこのやり方は気に食わないところだが、そうは言っても道楽でここまで来た外国人としては、お布施という意味でも払わざるを得ないのかな…と思っていたその時、フランクが思わぬ行動に出た。
 ジェームズと二人でこの小坊主を囲んで、拝観料を値切りだしたのだ。その様子は、正しくカツアゲである。
「高すぎるんだよ、この値段。この時期、客なんて殆ど来ないんだから全員で二十五元にしてくれよ…」
 小坊主は明らかに困り切っていたが、何分かの押し問答の後、諦めてこちらの言い値での拝観料にしてくれた。
 「ほら見ろよ」とやや得意気なフランク達に促されるまま、俺たちも寺に入ったが、寺にいる間、俺の中では何とも言いようの無い気分の悪いものがこみ上げていた。
 確かに、高い。しかし、そうまでして値切るということ自体が、寺院/仏教に対する敬意を欠くことではないのか。そもそも、この程度のことは「持つ者の義務」ではないのか。そして何より、何だかんだ言いながら結局五元で拝観してしまった自分。
 エージェントと巧みに交渉してきちんと契約を結び、野犬なんかにもきちんと備えをする一方で、二泊の宿代程度の拝観料を値切る。そんなフランクに、自分を含めたバックパッカーの抱える正の部分と負の部分を見たような気がしていたのだろう。
 せっかくのパンコル・チョルテンだったのだが、ずっと居心地が悪かった。

 寺を出てしばらく街を歩くと、移動の疲れからか、次第にみんなの口数も少なくなってきていた。たまに口を開いても、皮肉や愚痴しか出てこない。街中の喫茶店でチャイを飲んで温まると、晩御飯までもうやることはなくなってしまった。
 この日は、街外れの場末な四川料理屋での夕食もそこそこに、みんな九時にはベッドに入った。

シガツェにて

 翌朝、起きると今度はリュウがグロッキーだった。
「げっぷが卵の臭いする…」
 アジアの旅行者の間で言われる「卵げっぷ病」というやつだ。何かの細菌が胃の中に入って、下痢やら吐き気(嘔吐)を引き起こす病気らしいが、正式な病名や詳しいことは分からない。けれども、これにやられてしまうと、げっぷが止まらない上に、その度に腐った卵のような臭いが口の中に広がる。そして、だるくて体が動かない。ラサでもホテルにいた旅行者の誰か一人は常にこれにやられていたし、後で知ったことだが、南アジアなどを旅する人間は結構やられっているらしい。ちなみに、俺はこの後、カトマンズでやられた。
 ともあれ、リュウは卵げっぷ病に苦しんでいた。今日も移動なのだが、幸い、目的地であるシガツェまでは三時間ほどの道のりだ。

 昼にはシガツェに到着していた。シガツェの宿は、二軒目に立ち寄ったフルーツ・ホテル。荷物とリュウを置いて、まずは食事に。
 ここで、道連れとしての白人のバックパッカーの難点に改めて気づかされることになる。
 海外を旅しているとよく目にするのは、白人の旅行者の多くが、何とかの一つ覚えのように朝食の際には"コンチネンタル・ブレクファスト"を注文し、夕食には同じような旅行者が集まる(似非)西洋風の料理の店に行くシーンではないだろうか。もちろん、全員がそうだとは言わないけれども、結果として、やれ「ローカルフードは食べたくない」だの、やれ「高くてもいいからスパゲッティが食いたい」だの、こちらとしては考えられない要望というか我侭を寄せられることになる。
 今回はフランク、ローレン、ジェームズの三人がこれを言い出した。挙句の果てには、3人とも「トゥクパ?モモ?何だそれ?」とか言う始末。彼らは、ラサでは一体何を食べていたのか?
 ギャンツェの時は選択肢がなかったので渋々食べていたらしいが、店もそれなりにあるシガツェではそうは行かないようだ。それで困るのは、そんなに金のない日本人三人組である(今回はリュウはいないが)。結局、今回はわりと高めな中華料理屋で落とし所は見つかったが、これから先が思いやられる一件だった。

 腹が落ち着いたところで、街歩きへ出かけた。チベット第二の都市シガツェは、比較的新しい時代に刷新されたらしく、無機質な格子状の区画が印象的だったが、歩く人々は、近郊に駐屯している軍隊関係者の漢人ばかりでなく、チベット各地からの巡礼者も多く集まってきていて、ラサとは比べるべくもないが、それなりに活気がある。実際、マーケットを覗いても、野菜や色々な製品が出ている。
 しかし、ここの見所は、何といってもパンチェン・ラマの居所だった屈指の名刹タルシンポ寺だろう。この寺は、街の西外れで、野犬に守られるようにしてその威容を誇っている。
 俺たちも、何はさておきこの寺に向かったのだが、ギャンツェの時より遥かに旅行者ずれした小坊主が、嫌らしく笑いながら「外国人は一人五十五元」と言うのを聞いて、今回は全員一致で迷わずUターンした。
「ありえねー。大体チベットの寺なんてどこも似たり寄ったりなんだよ。こんなの見る位ならホテルで寝てるわ」
 フランクたち三人はそんなことを言いながら帰っていった。まぁ確かに、別段素養のない俺たちのような人間にしてみれば、これまで訪れた寺と同様にゲルク派の寺なわけだし、段々とどれも同じように見えてきていたのも事実なので、その気持ちもわからなくはない。とは言え、それで帰ってしまうのも勿体ないので、ヨウコさんと二人で巡礼者に混じって寺の周りをコルラすることにした。

 比較的まったり寝そべっている犬の尻尾を踏まないように気をつけながら、これまでの旅の話なんかをとめどなく話しながら、寺の外塀に沿って、マニ車を回しながら左周り歩く。塀は寺の裏の山にもっかっているので、塀沿いに歩いていくと山のてっぺんまで登ることになる。山の上の大岩には、色鮮やかな仏画が描かれていて、その下の石の上で一人の年老いた巡礼者が腰を下ろしていた。さすがに、この急坂は老体には堪えたのだろう。
 俺たちが坂を登りきったところで、老人は微笑みながら声をかけてくれた。
「タシデレ!(こんにちは!)」
 街が一望できる山の上に立って、この街はこれで十分だなと思った。

タルシンポ寺院の裏山からシガツェ市内を見下ろす。
Y.FUKUBAYASHI
シガツェ・タルシンポ寺前で踊りを披露する巡礼者たち。彼らはこうして旅費を稼いでいた。
Y.FUKUBAYASHI

エベレストベースキャンプにて

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エベレストベースキャンプにて

 ランドクルーザーの旅三日目。この日、エベレストのベースキャンプへ向けて出発した。リュウは、まだ死んでいる。
 高原の一本道をずっと飛ばしていくと、突如、左に折れる曲がり角が見えてきた。その脇には、真っ蒼な空ににゅっと突き出した緑の看板があった。
「左に行くと、チョモランマ(エベレスト)」
 ケサルがゆっくりハンドルを切る。ランドクルーザーはベースキャンプに向けて、ひたすら高度を上げていく。高度が上がるにつれて陽射しの鋭さは格段に増し、肌をジリジリ焼くように刺す。そして同時に、息苦しくなってくるので、みんな深呼吸を繰り返す。
 しばらく行くと、管理事務所があって、そこでケサルが入山料を払った。これはツアーの代金に最初から含まれているものだ。休憩がてら車から降りると、近く―どこにも家は見えないが―の子ども達が「一元!一元!」と叫びながら、屈託の無い笑顔で駆け寄ってくる。
 俺たちに突き出されたその小さな手のひらを覗き込んでみると、それは小さな貝の化石だった。この近くで採った、エベレストが昔改訂だったというこのささやかな名残を売って、小遣いを稼いでいるらしい。「アンモナイトだよ」とケサルが同じように覗き込みながら解説してくれる。
 結局、誰も化石は買わなかった。それでも子ども達は、笑顔で車を見送ってくれた。

 その日の夜はキャンプの近くの小さな集落に泊まったのだが、食事を終えてチャイを飲みながら暖炉の周りで色々と話しながら温まったところで、もよおした俺は主人に屋上のトイレへ案内してもらった。
 「屋上」と書いたけれど、チベットのトイレは、家畜小屋の屋根に幾つかボコボコと穴を開けただけのもので、その下では落下物を餌として待ち受ける家畜がスタンバイする仕組みになっているのだ。分かりやすい循環型のエコ・スタイル・トイレで、さすがにラサのような大都会ではあまり見かけることはないが、田舎ではこれが標準仕様になっている。
 そのトイレに案内された俺は、屋根の上に出た瞬間に息を呑んでしまった。東の空の青白い月に照らされたチベットの山々の美しさに、俺は尿意も忘れて暫く立ちつくしてしまった。下でヤクがいなないて我に帰るまでの数分間のことなのだが、あの時のぞっとするような美しさは一生忘れることができないだろう。

 翌日も、九時前には宿を出た。リュウもさすがに回復してきたが、幾分ゲッソリしていた。
 この日もぐんぐん高度を上げて、次第に海底から生々しく隆起した岩山が両側に迫ってくる。地学の先生が見たら喜んで解説を始めてしまいそうなくらいに、くっきりと地層が積み重なっているのだ。俺は、高校時代の地学の先生の白髪頭を思い浮かべていた。
 そんなことをぼんやりと考えていると、二時間もしないうちに、道のどんづまりのようなところでケサルが車を止めた。そこがベースキャンプの基地ロンボクだった。山沿いには寺院も見える。こんなところにも日常の営みを持つ人がいるらしい。
「ここから真っ直ぐ一時間ほど歩いていくと、ベースキャンプだ。十四時までに戻ってきてくれ。」
 俺たちは、五人それぞれにゆっくりと歩みを進めていった。標高五〇〇〇メートルを超える高地では、焦りは禁物だ。振り向くと、フランクの姿がない。
「あれ、あいつ何処へ行ったんだ?」
「あそこだよ、あいつあんなところに…」
 ローレンが指さした方を見ると、俺たちの歩いていた道の崖下の道を一人ポツポツと歩くフランクの姿が見えた。一人でエベレストの足許に向かいたいというその気持ち、分からないでもないが、相変わらず人騒がせなやつだ。
 暫く歩くと、手前の山影から、不意に世界最高峰が姿を現した。その圧倒的な迫力に全員が言葉を失い、そしてその場に立ち尽くした。お喋りなジェームズとローレンも一言も口をきかなかった。吹き下ろす風だけが唸りを上げていた。
 一時間ほどエベレストの雄姿を堪能してから、来た道を戻った。ちょっとゆっくりしすぎたので、ケサルとの約束の時間にはとても間に合いそうになかったが、さすがにペースを上げるわけにもいかない。けれども、途中までケサルが迎えに来てくれていた。心配して様子を見に来たらしい。ちょっとムッとしたように「十四時って言ったじゃないか」とか言ってたが、シレっと「対不起(すまん)」と言って車に乗り込んだ。

 この日の宿であるティンリーという街道沿いの小さな集落に着いたころには、陽も暮れかけていた。たまたま同宿していた旅行者のグループがオランダ人だったおいうことで嬉しそうに話の華を咲かせるフランクとベッドでダラダラするローレンとジェームズたちをおいて中庭に出てみると、西の空がきれいな夕焼けに染まっていた。そう言えば、チベットではこれまで夕焼けは見なかったなぁと思いながら、ヨウコさんとリュウを誘って、外に出てみた。
 宿の西側の湿地帯だとよく見えるよな~とか言いながら道路を歩いていくと、道路のはるか先から黒い塊の集団が物凄い勢いでこちらに疾駆してくるのが見えた。
 そう、またしても犬である。しかも、今回は明らかに「本気」である。言葉を換えると、尻をちょっと噛まれただけでは済みそうにない勢いである。
 三十六計を全チェックするまでもなく、ここは逃げるしかない。俺たちは宿までの五十メートルほどを全力で走った。自分の筆力の至らなさで緊迫感が伝わってないかもしれないが、本当に必死だった。結局、辛くも宿の中に駆け込むことができたのだが、扉を閉めた瞬間にその扉がガリガリとやられるというまるで映画のようなシーンまで経験してしまった。
 チベットはもう十分…と、俺はその日の日記に書いたのだった。

ザンムーへ

 翌日はツアー最終日。さっさと国境へと車を飛ばしたいところだ。
 出発の準備で皆がバタバタしていた頃、リュウが妙なことを言い出した。
「馬でネパールまで行きたい!」
 見ると、宿の馬を引っ張り出してきている。どこかでそう言う話を聞いたことあるような気もしたが、この馬に関して完全なる素人が、しかもここまで来て何を言うのか。第一、宿の主人たちは明らかに困惑している。
「今度一人で来た時にやってくれ」
と言いながらまだ未練がましく馬を見るリュウを車に押し込み、ケサルは車を急発進させた。

 一つの車に揺られ続ける旅も最終日となれば、長い距離を走ってきたというささやかな達成感と解放感で、テンションも上がるというものだ。この旅の間中、ケサルがメンバーのブーイングに一切耳を貸さずに頑なにかけ続けたチャイニーズ・ポップも、今や立派なBGMだ。ジェームズが妙な替え歌まで披露し始めて、普段は寡黙なケサルも笑いしっぱなしだった。
 ケサルもちょっと楽しくなってきたのか、「ちょっとアドベンチャーしていくか!」とか言いながら、道のない平原を爆走し始めた(恐らく近道だったのだろう)。ランドクルーザーの本領発揮である。ちょっとした小川を渡る度に、フランクが、そしてジェームズ・ローレンが叫ぶ。
「Amazing Adventure!!」
 平原を過ぎて道路に戻ると、高度が一気に下がりだした。蛇行しながら、谷の底へと一直線に進んでいくような道路だ。右の窓の外には、チベット高原では殆ど見なかった灌木や背の高い杉が岩肌を覆っている。そう言えば、空気も若干湿度を帯びてきているような気がする。ヒマラヤの南と北では、こんなにも山の表情が違うのか。
 谷側の窓に寄ってローレンやリュウとそんな話で盛り上がっていると、反対側の山側の窓でロクに景色が見えないフランクが突然叫んだ。
「Amazing discovery! Look at that tree !」
 見ると、何ということのない杉の木だ。他の人間だけで盛り上がっているのが面白くなかったらしい。三十路のくせにな何なのだ。
 昼過ぎにはヒマラヤにへばりつくように展開する国境の街ザンムーに到着した。国境を越えて物資を運ぶトラックが、商店やホテルが立ち並ぶ狭い車道に連なっている。人の顔つきも、漢人やチベタンよりもネパール系が優勢だし、トラックもインドのタタ社製だ。
 ケサルとはここでお別れ。代金の半額を払ってお別れでも…と思っていたら、あっという間に闇両替のおばさんたちに包囲されてしまい、まともにお礼も言えないまま、ケサルはあっさりと車を返していった。五日かけてここまで来たが、飛ばせば明日のうちにはラサに着くだろう。

 中華料理屋で腹ごしらえして、両替も済ませてから、いよいよ国境へ。
 イミグレーションでは、中国を旅行している間中何かとお世話になった人民解放軍のお出迎えがあったが、今回はあっさりパス。ゲートを出ると、今度はトラックの客引きにつかまった。何でも、ここからネパール側のイミグレーションまでは八キロメートルもあると言う。この中間地帯にはホテルなんかもあって、ここで泊まればパスポート上に空白の時間が出るなぁ…などとどうでもいいことを考えているうちに、フランクが客引きと一人百ルピーで話をつけていた。さすがにこういう時は頼りになる。
 このトラックが面白かった。普段は人足や木材を運んでいると思しきこのオンボロは、荷台に俺たちを乗せて、バンピーな坂道を猛スピードで疾走するのだ。まるでジェットコースターである。ジェームズとフランクは荷台の上に立ちあがってまた「Amazing Adventure!!」とか奇声を発していた。もっとも、一番体のでかいローレンは、こういうのが苦手らしくちょっと顔面蒼白だったが…。

 ネパールのイミグレーションもすんなりパスして、俺たちはネパールに入った。この時まですっかり忘れていたが、確かに内戦の影響も特にはないようだった。そこからローカル・バスに乗って、バラビセという小さな街へ出た。ここからはカトマンズまでバスも出ている。
 俺たち日本人三人組は、ここで一泊休んでからカトマンズに行くことにしたが、フランクたち白人三人組は「今日中に何としてもカトマンズに行きたい」と言って譲らなかった。できれば全員でカトマンズに入りたかったが、彼らとしては、(彼らにとって)まともなホテルや食事もなさそうなこんな田舎町にいる位なら、多少きつくても何でも揃うカトマンズに行っておきたかったのだろう。
 仕方がないので、彼らとはここで別れることにした。
「お蔭で楽しい旅になった。ありがとう」などと型通りの挨拶をしていると、不意にフランクがトレーナーをまくって下に着ているTシャツのロゴを見せつけてきた。
「Anytime baby !!」
シャツには一言、そう書かれていた。そして、フランクは笑顔で言った。これが俺のモットーだ。カトマンズで会おう…。
「フランク、そのシャツ…」
「もちろん、俺のオリジナルだよ。このために取っていおいた」
 呆気に取られる俺たちを残して、三人組はカトマンズ行きの路線バスの屋根に乗り、漆黒の暗闇へと消えていった。
 
 こうしてチベットを縦断する旅は終わった。

バラビセの朝。ヒマラヤは朝靄で見えなかった。
Y.FUKUBAYASHI

旅のつづき

 その後、俺はネパール、インド、バングラデシュと旅を続けた。旅の途上で色々なものに出会ったが、それでもやっぱりチベットの旅だけはずば抜けて印象的だった。だから、訪れた街にチベタン難民キャンプがあると聞けばとりあえず行ってみたし、街でチベタンらしき人を見かけて話しかけたこともある。そして、この旅の後も、インドのラダック地方、中国のカム地方(四川省)、そしてダラムサラと、チベットへの旅を重ねた。
 
 チベットの旅は、辛いことばかりだ。高山病、寒さ、食事、衛生、交通…それなりの金を積めばそれに応じた快適さを買うことができるが、基本的にはどれを取ってもおよそ快適とは言い難い。(場所にもよるけれど)東南アジアやヨーロッパを旅する方が、どれだけ気楽で快適か。俺も、来る度に「来るんじゃなかった。早く下りたい。これで最後にしよう」と思っていた気がする。
 そんなチベットに、能海寛や河口彗海の時代から、多くの日本人が吸い寄せられていった。先達たちの苦労とは比べるべくもないけれど、俺もその流れの中に位置づけられる二十一世紀の旅人の一人だ。そして、今まさにこの時も、闇バスに揺られてラサを目指す人がいて、デリーで翌朝のレーへのフライトを心待ちにしている人がいて、康定のゲストハウスで荷造りをする人がいて、そしてダラムサラで飲んだくれている人がいる。

 残念ながら、俺はジャーナリストでも、学者でも、はたまた政治家でもない。チベットに関する知識こそ、学生時代の貯金やここ数年の間に読み込んだ本のお蔭で、チベットを訪れる旅行者の平均値よりは少し上くらいかとは思うけれど、所詮は単なる一介の旅行者に過ぎない。おまけに、現在のチベットに関する明確なポリシーがあるわけでもない。
 それでも、何度となくチベットの蒼い空を仰ぎ見た。
 チベットで出会った友人が言っていた。
「僕らは見てしまった。見てしまったからには、たとえ旅行者であっても、それなりの責任がある。」

 その「責任」というものがその時はピンとこなかったけれど、旅を重ねるうちに何となく分かってきた。俺にとっての「チベットに対する責任」とは何か。
 一介の日本人の旅行者として、一歩引いたところから見れるものは見て、伝えるべきことは伝える。
 今はそう思っているのだが、これも格好よく言えば、何かの業(カルマ)なのかもしれない。

ネパール・ポカラのチベット難民キャンプにて。カムにルーツを持つ彼は、チベットの土を踏んだことがない。
Y.FUKUBAYASHI

参考文献

―石濱裕美子 『チベットを知るための五十章』 (明石書店、二〇〇四年)
―日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会(編) 『チベットと日本の百年 十人は、なぜチベットをめざしたか』 (新宿書房、二〇〇三年)
―平野聡 『清帝国と中華の混迷(興亡の世界史十七)』 (講談社、二〇〇七年)
―旅行人編集部(編) 『旅行人ノート チベット 第四版』 (旅行人、二〇〇六年)

インド・ダラムサラにて。彼もまた遠くヒマラヤを越えてきたのだろうか。
Y.FUKUBAYASHI

チベットへ

2012年5月3日 発行 初版

著  者:福林靖博
発  行:蒼風出版

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福林靖博(FUKUBAYASHI Yasuhiro)

1978年奈良県生まれ、東京在住。旅と本とフットボールを嗜好する図書館員。
Web; Traveling Librarian (http://d.hatena.ne.jp/yashimaru)
twitter; @yashimaru

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