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しこり 2012年5月号

装丁 坂野ローリングソバット
制作 フリーペーパー『しこり』編集部

   目 次

  BONNOH     なかもず

  連載
 『マニュアル』 2 藤本諒輔
 『かん、せい』 4 長谷川智美
 『紀州犬ケンジ』6 横田直也

 『フィーバー・ドリーミング』
            坂野嘉彦
 『Izzat Love?』   吉川浩平

 『魔女と魔法の鏡』  宮崎亮馬

 『目の前の優しさ』  あくた

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パン〖ポルトガル pão〗
小麦粉を主な原料とし,水でこね,イーストを加えて発酵させてから焼きあげた食品。
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しゃく【酌】
酒をさかずきにつぐこと。また,それをする人。
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ショートケーキ〖shortcake〗
スポンジ-ケーキを台にして,果物やクリームをあしらった洋菓子。
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欣喜雀躍 きんきじゃくやく【▼欣喜▼雀躍】
おどりあがって大喜びすること。
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 連載『マニュアル』
          藤本諒輔

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   2

 結論から言えば、おれはあのとき水を飲まなくてよかったと思う。あの水は異常だということをおれはこの現状を知らずとも察知できた。少年が程なくして死んだからだ。右足の付け根から下、それと右手の指の一部はあのときから痛覚というものを失い、あるとき大腿骨内顆骨壊死症を患って切除することになった。あの水を口にした金持ちたちのほとんどが、自らの体が発する危険信号に気づかずにおよそ苦痛も無く死んでいった。生き残った人たちも病に対する恐怖から次々に麻薬へ依存していった。
 人間の体の七十パーセントは水でできている。そしてその水とは水素と酸素の化合物である。水分子は、ひとつの酸素原子に対して一対の水素原子を、まるで脚のようにひっつけて存在している。おれは水が大地を踏みしめて立つ様を想像した。水は不定形で、それは境界としか呼びようのない輪郭だった。脚の部分はあらゆる生物を網羅したような色だった。
 あの水を、おれは売った。無痛の毒をおれはまき散らしたのだ。三日ほどあそこで過ごし、少年が死んだ後すぐに発った。昼間の空に手を振り、おれは捕虜になった。それから水筒に満たしておいた川の水を提示して、身の安全と金を要求した。その水にビジネスを見出した権力者たちは続々と集まり、オークション式に莫大な金を出してくれた。なにしろ広い森林地帯なのだ。そのうえ毎日巡回している偵察機にも発見されない川ならば、おれの声ひとつで金がいくらでも動くことが容易に想像できる。
 そのようにしておれは解放され、金を持って元の生活へ戻った。当初の筋書きとはいくらか変わったが、むしろハッピーエンドだった。おれは普通の人間として暮らし、仄子と出会い結婚した。子には恵まれなかったが悪い人生ではないと言える。おれはこの暮らしに満足している。
 仄子は不思議な人間だった。変な歩き方をする女だ。おれは初めて仄子を見たときそう思った。そして結婚してからは、紙袋を無駄に集めたがる女だ、そう思っている。
「集めたいわけじゃないんです。なんか、捨てられなくて」
 おれは、簡単に言えば幸せだった。水はおれの罪悪感すら溶かしてしまったかのようだった。だがそれも消えて無くなるわけではなかった。ある一定の温度まで下がったら今度は凝固し、胃の深い部分でうずくまるようにして居座り続けた。
 ある日のことだった。働く必要のないおれと仄子はその日も一日中家にいて、おれは本を読み仄子は洗濯物を干していた。日は高く高く昇り、地球上のあらゆる生物を乾かしていた。仄子は綿のシャツをパン、パン、パンと三回はたいてからハンガーに吊るした。彼女はどうしても三回はたかねば干せないようで、他のものについてもまるで機械のように同じことを繰り返していた。海のように青く晴れた空だった。平和や平凡というものは綿の白いシャツのことで、それを脅かす事件や事故とは雨のようなものだった。一生に一度も雨に濡れないということはきっと不可能だろう。おれはすでに右足を失っていた。仄子の助け無しには買い物もできない。それを逆手に取って彼女はおれをいつも買い物に連れだした。彼女はひとりで夕飯の材料を買いに出られないタチなのだ。波すら立っていないような晴天の日にはなおさらだった。仄子とおれは夕飯の、スパゲティのための食材を買うために外へ出た。

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 連載『かん、せい』 
         長谷川智美

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   4

 一週間がこんなにも早いものだとは思わなかった。祖父がホスピスへ転院してからの私の生活は、何も変わっていない。何のために働いているか分からない職場で、今日も灰色の塊が紙を吐き出しているのをぼうっと見ているだけだった。このコピー機が私と分かつものは、ただ人かそうでないかだけのことで、その境界線を取っ払ってしまえば、私は無機質なそれと相似していた。こんなはずじゃなかった、そんな言葉を飲み込んで、一定のリズムでレジュメを作成する。私とこの世を結びつける、パチ、パチという軽いホッチキスの音。存在価値。疲れることなんて何もしていないのに、部屋に帰る頃にはふくらはぎはパンパンになっていて、体は勝手にベッドに埋まる。仰向けになって天井を見つめて、そこに映る私は、祖父と何が違うのだろう。それは、ただ、死が近いかそうでないか、それだけの話だった。そう、向っている場所は一緒。そう考えると、どうして、どうして、そんな考えが無限にぐるぐるして、またあの吐き気が襲ってくるのであった。

 驚くほどに大きくしていた着信音で目が覚めた。時間を確認すると、まだ明け方の五時を過ぎた所だった。
「おじいちゃんが危ないそうだ。迎えに行くから準備しろ」
 父は荒々しく電話を切った。一瞬何が何だか分からなかったが、じわじわと湧いてきた感覚に、胸がズキンと疼いた。何を着ていいのか思いつかず、とりあえず私は黒の服を選んで支度した。
 車の中での会話は一切なかった。母は助手席でじっと自分の手元を見つめていた。重苦しい空気の中で、ため息もつくことも許されない雰囲気だった。空はそれに比例するかのような曇天。仕事は思いのほかすんなりと休みを貰えた。そんなものだろうとは思っていたが、部長への電話を切ったあと、虚しくなった。サービスエリアでの小休憩で、思い切り、いろんな気持ちでため息をついた。缶コーヒーを買う父の横顔も、小さくため息をついていた。母は車から降りてこなかった。
 祖父は不規則な機械音の中で、今まで見たことないような荒い息遣いになっていた。安子は私達を迎え入れると、ハンカチを目にあてて泣いていた。父は一歩下がって、母を先に祖父の傍に行かせた。母は泣くことなく祖父の手をさすった。最初に私が来た時よりもさらに痩せた祖父は、もう本当に私と血がつながっているのかさえ疑う程だった。安子は小さな声で話し始めた。
「倒れるまでは、デイサービスに行っていたんですよ」
「え……友達もろくにいなかった父が……?」
 母は驚いて安子を見た。安子はまた涙を流して頷いた。
「花札とかして遊んでいたみたい」
 それは私にとっても意外なことで、少し驚いた。あの、壁のような祖父が、友達と花札をするなんて、想像できなかった。母は小さく微笑んでいた。
「花札楽しかった?お父さん……」
「よかったね、友達いっぱいできたんだね」
「お父さんが買ってくれた振袖、この子が着てくれたのよ」
 返事をするはずのない祖父に向って、母は話し続けた。私は堪らなくなって、泣いた。その時、祖父が薄く目を開けて、母の方をかすかに向いた。心拍数も一瞬上がって、父が身を乗り出してモニターを見た。しかしそれも一瞬で、何かを伝えたかったのか、最後の力を振り絞ったのか、祖父はまたそっと目を閉じた。
 そして、そのまま祖父は眠るように、死んだ。母は泣かなかった。

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 連載『紀州犬ケンジ』
            横田直也

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   6

 ケンジが目を覚ますと朝になっていた。どうやら食べた後、そのまま眠ってしまったらしい。ケンジは立ち上がり、家の中を散策したが、家の者の姿がどこにも見当たらない。よっしゃ、と意気込み冷蔵庫に向かおうとしたのも束の間、ケンジは重大な事に気付いた。それは自分が今居るべき場所は本来仲間達の元、つまりはあの錆びついた倉庫であり、こんな小奇麗な、しかもあの憎むべき人間の一軒家ではないということ。そして今頃仲間達は血相を変えて自分を捜索しているだろうということだ。
 やばい、早いとこ帰らねば。
 ケンジは早速一軒家からの脱出に取り掛かった。脱出口は簡単に見つかった。トイレの窓の鍵が開いていた。小さい窓なので人間の出入りは困難、というより不可能に近いが、犬であるケンジにはなんとか可能な大きさだった。ケンジは器用に顎を駆使して鍵を開け、窓を開いた。窓の外は狭い道路だった。見上げると、青い空が一面に広がっていた。昨日までと全く違った晴天に、ケンジは血沸き肉躍る思いだった。今日からは食事の調達が捗るに違いない。ケンジはそのままアスファルトに飛び降りた。
 ざまあ見さらせっ! 
 ケンジは一度も振り返ることなく、一軒家を後にした。
 
 久方振りの晴天に血沸き肉躍る心持のケンジだったが、倉庫へ一歩、また一歩と短足を進めるにつれて、その足取りが重くなってきていた。その理由は、一重にひどく憂鬱になってきたからである。ケンジはふとした瞬間に、昨日の食料調達前のミーティングのことを思い出した。そのミーティングでケンジは、タロウが一匹で行動するのは危険だ、と忠告したにも関わらず自信満々の顔でこれを無視、挙句に、俺は一匹でも問題ない、などとキザ丸出しのセリフを、これまた自信満々の顔で言ってしまったのだ。その時は実際に結果を出す自信があった。結果を出すことが出来てこそ、あのようなキザなセリフも説得力を持つ。しかし今この状況は誰が見ても惨敗そのものであり、カリスマ性溢れるリーダーの言葉となる筈が大幅にランクダウンし、ただのナルシストの虚言となってしまった。
 ケンジは溜め息を吐くと同時に、立ち止まった。きっと仲間達は自分に失望したに違いない。そう思うとケンジの心はさらに暗澹となった。今頃、しかも何の収穫もなく、ノコノコと帰って行ったらどうなるだろう。流石に殺されはしないだろうが、殺されなくとも無視ぐらいは余裕でされるだろう。皆に。しかしケンジにとってそれは最早生き地獄であり、いっそ殺せと懇願する程の責め苦であり、つまり殺されるのと何ら変わらないのである。
 ケンジは路上に立ちつくし、ただただ、ひたすら、考えた。どうしよう。まずケンジは倉庫に戻った場合の言い訳を必死に考えたが、まるで何も浮かんでこなかった。かといって正直に話すと世にも恐ろしい仕打ちが待っている。それに今ここでこうしている間にも仲間に見つかったらどうすればいい。こっちは何の準備もできていない。最早命の危険を感じたケンジは身をひるがえし、できるだけ倉庫から離れようと、ダッシュで走った。二十分ほど走り続け、ひとまず小さな公園に入った。ケンジは滑り台の真下に身を隠し、今後の方針を模索することにした。
 とにかく今戻るのはまずい。とりあえず三日、いや一週間は仲間達に見つからないように身を隠した方がいい。そしてマサルと同じように自分は死んだと思わせる。そのタイミングで倉庫に戻り、仲間達と感動の再会を果たす。何故それまで戻らなかったのかは、一週間の内に何でも適当に考えればいい。それにこの場合は戻らなかった理由よりも、帰ってきたという事実の方が重要であり、そんなことは再会の感動が吹き飛ばしてくれるだろう。溝に挟まって身動きが取れなくなった、などと適当なことを言っていればいい。
 我ながら素晴らしいプロットだ、とケンジは感激した。方針が固まり、とりあえず一安心したケンジは、念の為さらに倉庫から離れた場所に行くことにした。一週間は長い。その間に見つかる可能性はできるだけ少なくしておくべきだ。ケンジは公園を出て歩き出した。
 しかし、流石に溝に挟まったは無いな、などと思いながら、ケンジは通りすがりの電柱に小便を振り掛けた。
 ケンジが倉庫から二十一キロ離れた小さな公園に身を隠してから四日が経った。ケンジは草叢に横たわり、太陽の光を満喫していた。今日もいい天気だった。リーダーの重荷から解放され、一匹で自由気ままに生きている今の生活を、ケンジは案外気に入っていた。もしかしたら自分は元来、孤独が好きなのかもしれないとさえ思った。しかし孤独を楽しいと感じるのはあくまで一時的なものである。ケンジはこの貴重な期間をできるだけ気楽に、楽しく過ごそうと心に決めた。これはいわば、リーダーというプレッシャーの受け皿のような立場である自分に与えられた、ささやかな春休みなのだ。ケンジはこの一週間をそのように考えることにした。
 腹が減ってきたな。
 ケンジはどこかで腹ごしらえしようと、草叢から身を起こした。すると、ケンジの鼻が突然危険信号を察知した。四時の方向から獣臭。
 この臭いは。まさか。
 ケンジは恐る恐る振り返った。二十メートル先、公園の出入り口。そこにタロウが立っていた。ケンジはタロウの姿を視認した瞬間に草叢に身をかがめた。予想外のタロウの登場に、ケンジの心臓は一気に氷結した。恐怖と困惑と焦燥が、ケンジの脳内に増殖していった。
なに、なに。もしかしてこれ、コード・レッド?
 ケンジはとにかく落ち着こうと深呼吸し、頭を整理した。ケンジが見たところ、タロウは、まだケンジの姿に気付いていなかった。しかし発見されるのは時間の問題である。ケンジは己の馬鹿さ加減を呪った。タロウが元警察犬ということを完全に失念していた。
 タロウはケンジが道中に残していった臭いを一つずつ辿りながらここまで来たのだ。そしてケンジがこの公園のどこかにいるということを臭いで察知していた。ケンジは完全に警察犬を、タロウを舐めていた。ケンジは自分が今置かれている状況の深刻さに、ただただゲロを吐きたくなる思いだった。今このタイミングで見つかれば、計画が全て水泡に帰すばかりか、リーダーとして築き上げてきた威厳や名声やその他諸々が音を立てて崩壊、すなわちそれは死を意味する。
 「兄貴! いるのか!」
 タロウの声にケンジは震えあがった。歯がガチガチと音を立てた。落ち着こうと深呼吸しようとしても、震えでうまく息を吸い込めなかった。気付くと、タロウの匂いが濃くなっていた。タロウは確実にケンジのいる草叢に近づいてきていた。
 突破口! 突破口! 突破口!!
 ケンジは周囲に眼球を巡らせた。しかし突破口はどこにも無かった。背後から迫るタロウの臭いがさらに濃くなった。もうかなり近い。今動けば確実に見つかってしまう。
 「兄貴」
 再び背後からタロウの声がした。ケンジは全身を震わせながら、強く目を閉じた。その瞬間、ケンジは生まれて初めて神に祈った。

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 『フィーバー・ドリーミング』
          坂野嘉彦

 鳥が飛ぶ。鳥の羽は上下に湾曲し、その反動は体の一点に収斂していく。私は窓のへりに体を預けながら、それを見る。木は不穏にざわめきながら、その幹をしならせる。私は窓からそれを見る。
 周囲には他の小屋も、人の姿も、ない。山は嶮しく、絶えず無機的な視線をこちらに向けている。
 私は窓のへりから体を離し、目の前の机に置いてあった手記に視線を戻した。その古びた革張りの手記は煤や油が染みこんで酷く汚れており、手に取るのも嫌になるほどべたついていた。しかし、人気のないこの場所で、それしか知識を得るすべがないことを悟った私はその手記を開き、読み始めた。
 その手記は日記のような形式で書いており、日付こそないものの、どうやらその日に起きた出来事をまとめているらしかった。しかし、読み進めていけばいくほど描写はより抽象的に、出来事はより内的な方向へと変化していることに私は気が付いた。
 『私は非常に緊張した関係に身を置いている。これが死に向かう階段の最初の一段であることが分かり、私は高揚している。』
 『計画が着実に進んでいるのが感じられ、私は安心している。これによって一時的な段階から離れ、永続的なステップへと進むことが出来る。』
 その筆致は抽象的に、内的になっていった。
 そして、私はその手記の最後の頁にたどり着いた。その頁は『ミニマリスム』と名づけられていた。
 
 『ミニマリスム』

 『私は最小であることを望んだ。全てを取り払ってなお、目の前に見えたものこそ真実だという確信があった。渇くような青空。溶けていくまなざし。全ての壁を取り払ったとき、私の足元はゆがみ、身体はふっと霧散した。私は還るべき場所を見つけたと感じた。ここが還るべき場所だったのだ、と。気が触れそうなほど切り立った岩壁はより私を興奮させた。そこにあったのは最小の関係性だけだった。壁を壁と感じない、そういった関係だけが私に残された。
 しかしながら、その関係は長くは続かなかった。私はこの関係性が破綻していることを悟ったのだ。目の前にものすら存在しない世界。そこに生きる私ははたして私かどうか分からなくなってしまったのだ。自分が生きているのか、死んでいるのかさえ正確に知覚できない。これは私が望んだことだった。しかし私は私であることをやめられずに、私と非私の漸近線の上に立っていたのだ。私はそこから動こうと必死でもがいたが、動くことは出来なかった。もう全てが遅かった。遅すぎたのだ。
 こうして、今私は書いている。もはや、書くことしか出来ない。こうすることでかろうじて自我を保っている。これは自分の為でもあり、私のように関わり方を間違えた誰かのためでもある。
 私は死ぬ。老いて死ぬ。どちらにせよ、今も死と対峙して過ごしている。だが、私は生きなければならない。また、関わり方を間違えた誰かがここに来る。それを救わなければ私は死ねない。』

 「君か。」
 後ろから声がし、振り向くと男が立っていた。白い髭が彼の口を覆い隠し、服はよれて、至る所に黒いシミが付いていた。
 「君はここにいるべきではない。」
 彼の額に刻まれたしわが一層深くなった。
 「帰れ。今すぐに帰れ。ここは『還る』場所ではない。」
 私の意識が遠くなる。帰れ……帰れ……かえれ……かえ……。彼の声の残響が鼓膜に何重にも重なって届く。意識は私の元から滑り落ちていく。

 私の意識が戻る。私は急いで体を起こし、周りを見渡す。白い髭の男は消えていた。寝室のライトが私を照らす。あれは夢だったのか。私はライトを消すために手を伸ばす。しかし、私は伸ばしかけたその手を途中で止めた。ライトを消そうと伸ばしたその手は油でべとついていた。


   ー完ー

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 『Izzat Love?』
          吉川浩平

 男の子からCDを借りると、九分九厘と言っていいほどラブレターが添えられているような人生を、これまで私は送ってきた。
 ラブレターの内容は、
 「好きです。付き合ってください」
 というようなシンプルなものから、新聞の文字を切り抜いて怪文書のようになってしまった自作のポエム(総文字数が私の誕生日である十二月三十一日に合わせて1231文字になっていた。もう一日あとに生まれてあげればよかったと変な後悔をしてしまった)など、本当にいろんなものをもらった。
 原稿用紙六百枚分の長編小説、なんてのもあった。たったCD一枚が大きな紙袋に入れられている時点で変だなとは思っていた。冒頭が、
 「きょう、由美子が死んだ。」
 で始まる私小説だった。私の名前は由実子だったので、全ての「美」の文字を「実」に朱で修正を入れて返してやった。話自体は大変面白かった。
 大学生になったあたりから急に増えだしたのが、電話番号とメールアドレスだけをメモしたものだ。これは本当に苦手だった。数字と記号の列が毛虫の行進に見えるなんて思ってもみなかった。それ以来タウンページは家に置かないようにしている。メールアドレスの代わりにメールアドレスを読み取れるQRコードを印刷しているものもあった。そんなことする暇があったらこちらの気持ちを先に読み取れと言ってやりたくなった。
 借りたはずのCDの代わりに中身が自作ラブソングになっているのもあったけれど、それに関してはアカペラであったこと以外触れない。
 数あるラブレターのなかでも、私が唯一返事をしたラブレターは履歴書だった。顔写真に名前、年齢、生年月日と住所。どこの大学を出て、どんな資格を持っているといった個人情報から、私を志望する理由に加えて私の自宅(同じ職場に勤めているその彼は、たびたび私を自宅まで送り届けてくれている)までの距離と通愛時間(!)まで、事細かに記されていた。私はその履歴書を見るなり、書類審査合格の旨と二次面接の日程を彼にメールした。
 思えば私は、生まれてから今まで、男の人の顔をしっかりと見るという経験がまるでなかった。死んでしまった父親の顔ですら満足に思い出せないほどだ。だからどれほどの数のラブレターをもらっても、それらは私にとって、毎日送られてくる見に覚えのない化粧品メーカーのDMと同じようなものだった。
 今一度、履歴書の顔写真を眺める。例えば職場で交わす挨拶、週に何度も開かれる会議、ランチタイム。仕事終わりに共にした食事、私を送ってくれた車内、また明日の声。パズルのピースのように散らばった彼の断片が、ようやく一つの大きな額に収まった気がした。数えられないほど見てきたはずのその顔に、私は一目惚れをしていた。

 もうすぐ彼は二次面接を受けに来るはずだ。気づかぬうち、私は作り笑いの練習をしていた。


   ー完ー

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 『魔女と魔法の鏡』
           宮崎亮馬

「女王様のー、お帰ーりー!」
 はあ、やっと帰ってきた。あ、ちょっと衛兵、こんな夜中にそんな大きな声出すのやめようね。近所迷惑だからね。あー、それにしても疲れたな。今日は本当に散々な目にあった。あいつらが珍しく会おうって言うから行ってみたけど、こんなことなら今日一日城でおとなしく過ごしてたらよかったな。もうとっくに日付も変わってるし……。あー、疲れたけど日課のあれ、やらないとなあ。私とコイツのアイデンティティみたいなものだしな。よし。
 コホン、鏡よ鏡、この世で一番美しいのは、誰?
「それはもちろん魔女様です。今日は若干顔色が悪いですけど、渾身の一発ギャグがシュールという一言で片付けられてしまったときのような顔してますけど、それ考慮しても魔女様です」
 いきなり色々と余計なこと言うねお前は。イラっとしたよ。昔「あ、それ白雪姫です」って言われたときぐらいイラっとしたよ今。あんまり調子に乗ってたら割るよ。ハリウッド映画ばりに割るよ。私がハリウッド映画ばりな行動をすると色々と権利関係がややこしいことになるけど気にせず割るよ。
「ちょ、ちょっと、冗談ですって。そんな怒らないでくださいよ。今日は久しぶりに白雪姫たちと飲むって言って出かけてましたけど、そんなにひどい目にあったんですか? まあ、僕はここで全部見てましたけど」
 そう、それがさあ……って、え? 見てたの? まじで?
「魔法の鏡ですからね! 衛兵たち集めてみんなで見てましたよ」
 やめてね。仮にもここ女王の部屋だからね。そんな勝手に衛兵を招き入れて、あまつさえ女王である私を観察するのやめてね。威厳とかそんな問題じゃないからね。
「べろべろに酔っぱらった王子が『女王よぉー、未だ独り身でさぁー、熟れた身体持て余してるんじゃないのー?』って言っちゃって魔女様に殴られて前歯折られたところ、衛兵一同大盛り上がりでしたよ!」
 やめてね。やめてねまじで。それ今日一番思い出したくないところだからね。
「魔女様、魔女なのに物理攻撃でしたね!」
 いや、これは直接殴るでしょ。ちまちま毒りんご作ってる暇ないでしょこれは。
「魔女様なら殴るよりもっとえぐい呪いをかけたりできるんじゃないですか? 居間で寝てたら親戚の子供が遊んでるミニ四駆のホイールに髪の毛が絡まる呪いとか」
 なんだよその呪い。えぐいよ。えぐいし、そんな呪い思いついたこともないよ。あと王子は居間で寝たりしないよ。たぶん。
「あ、そういえば魔女様はキスで解けるようなロマンチックな呪い専門でしたね」
 ちょっ、やめてー! それ改めて言われると恥ずかしいからやめてー!
「魔女様、下着とかも割と清楚系ですもんね」
 ちょっ、やめ……っておかしいよね。私の下着見てるのはおかしいよね。それにしてもお前はさっきから人のプライバシーを侵害しまくってくるね。空中に浮かせて容赦ないコンボで侵害しまくってくるね。
「じゃあさらにコンボを繋げると、うちの衛兵が最近ひどいんですよ」
 えっ。どういうこと?
「毎日『女王様のー、おなーりー!』って言ってる衛兵、いるじゃないですか」
 あ、ああ、あれね。別に私は言わなくてもいいかなって思ってるんだけどね。声大きいし。
「あいつ、週に三回ぐらいは『女王様のー、おなーにー!』って言ってますよ」
 最低だなおい! 呪うわ。さっきのえぐい呪い、今すぐ使うわ。
「本当、プライバシーの侵害にも程がありますよね」
 いや、それはしてないからね。この場面では侵害されるプライバシーないからね。断じてないからね!
「魔女様、魔法の鏡は、真実だけを映します……」
 今になって魔法の鏡っぽいこと言われても遅いよ。何もかもが遅いよ。
「今日は魔女様が帰ってきてからずっと、魔法の鏡らしい言動を心がけてますよ」
 魔法の鏡らしい言動、一つもなかったけどね。私のテンプレートな質問にさえ魔法の鏡感ゼロな返しだったけどね。
「じゃあ魔法の鏡らしく、魔女様に有益な情報をお知らせしますね」
 それが魔法の鏡らしいのかはよくわからないけど、言ってみて。
「魔女様がよく使ってる近所のコンビニの店員の間で、魔女様は『魔女』ってあだ名で呼ばれてます」
 合ってるけど腹立つな。それで合ってるけどどうしても腹立つな。そこは「女王」って呼ばれたかったな。あいつら陰でそんなこと言ってたのかよ。次からあのコンビニにどういう顔して行けばいいのかわからないわ。あとこれ全然有益な情報じゃなかったわ。
「でもその店員のうち一人は魔女様に本気で惚れてて、魔女様が来る度に作業できなくなるぐらいドキドキしてます」
 ちょっ、やめてー! 急に有益な情報をお知らせするのやめてー! 本当にどういう顔して行けばいいのかわからなくなるからやめてー!
「いやー、魔女様って本当にかわいいですよね」
 もう、急に何を言い出すのお前は! からかうんじゃないよ。もうこんなこと言っても手遅れな気もするけどからかうんじゃないよ!
「からかってなんかいないですよ、魔女様」
 えっ?
「本当にかわいいなって思ったんです」
 えっ? えっ?
「長年魔女様の道具として仕えてきましたけど、ずっと考えてたんです。できたら、道具以上の関係で、魔女様に仕えたいなって……」
 も、もう! 鏡の分際でいきなり何を……!
「そしてあわよくばエロ漫画でありがちな『ほら……鏡に映った君はこんなにもエロティックだよ……』という台詞を鏡である僕自身が言うという夢のシチュエーションを……」

 この後「ダイハード!」って叫んだ女王の右の拳が魔法の鏡に炸裂しました。


   ー完ー

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しこり 2012年5月号

2012年5月1日 発行 5月号 初版

著  者:
発  行:フリーペーパー『しこり』編集部

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発行者 BCCKS
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  『魔女と魔法の鏡』宮崎亮馬
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  『眼の前の優しさ』あくた
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  装丁:坂野ローリングソバット
  編集:吉川浩平







2012年5月号
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