水城ゆうが主宰するテキストライティング塾「次世代作家養成塾」では、塾生から多くの作品が寄せられています。
そのなかから秀作を選りすぐり、塾長のコメント付きで電子マガジンを編纂しました。
毎月一回の発行予定ですが、その初号です。
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水城ゆう
「次世代作家養成塾」発の機関誌『HiYoMeKi』の二号をおとどけします。
大上段なものいいではありますが、閉塞している日本の文芸界にでっかい風穴をあけるつもりで今後も勢力的にやっていきたいと思っていますので、読者の方も、そして書き手の方も、どうぞお付き合いのほど、よろしくお願いします。
『HiYoMeKi』初号の十二作品につづいて、第二号では十三作品を送り出すことができました。
初号でもお伝えしましたが、この作品群を選定するにあたって、私はただ「技術の優劣」だけを見ているわけではありません。そもそもテキストライティングの評価に「うまい/下手」という基準をあてはめていいものかどうか、疑問に思っています。
私はピアノ弾きなので、ひと前でしばしば演奏します。そのとき、聴衆から、
「ピアノ、うまいですねえ」
といわれてうれしいでしょうか。なぜなら、私はピアノを「うまく」弾こうと思って弾いているわけではないからです。なにかを伝えるために弾くのです。むしろ、なにかを伝えるために、わざと「下手」に弾くことするします。うまい/下手という評価では、その評価の壁に表現がさえぎられてしまい、残念な気がします。学芸会じゃないんだから、うまい/下手などということはどうでもいいのです。
なにが伝わってくるのか。この作品には書き手の存在が感じられるか。ありありとその肉体や息づかいを感じることができるか。それを見ます。
テキストに自分の存在を乗せる。言葉でいうのは簡単ですが、では実際にどのように書けばそのようなことが起こるのか。私たちはいま、そのことに真剣に取りくんでいます。
(次世代作家養成塾・塾長)
船渡川広匡の作品をふたつ続けてお送りします。
おなじ題材を扱った連作といってもいいでしょう。
まず、最初の作品。イソップ童話のこの話を知らない人はいないでしょう。
「ありときりぎりす」という話は、ありの勤勉さを「良」とし、きりぎりすの放蕩・その場限りの生き方を「悪」とした教訓物語ですが、その構造からいっててっきり、産業革命以降の近代資本主義社会が生み出したストーリーなのかと思っていました。
起源は意外に古かったんですね。
つまり、この手の教訓話は、人類が農耕を始めたころからある、とかんがえてもいいのかもしれません。
子どものころ、これを読んだ私は、かすかな違和感を覚えながらも、蟻が正しくてキリギリスがバカだというふうに刷りこまれていました。これは社会システムが個人に対しておこなう一種のパワーオーバーです。私たちは無数のこのような思い込み、刷り込みを身にまとって生きています。
それらの「システム」を破壊してみせるのが、芸術の重要な役割のひとつといってもいいでしょう。
船渡川広匡のこの作品を読んだとき、私たちはこの典型的なストーリーの裏側を見ます。そして自分の刷り込みに気づくのです。
意図的に蟻に「軍靴」をはかせ、軍隊という社会システムの極地の立場に置かせたことで、イソップをひっくり返してみせたわけです。
ささいなアイディアではありますが、重要な示唆を含んでいます。そして、ささいなアイディアを作品にまで持っていって完成させたのは、真摯な仕事といっていいでしょう。
この作品はまちがいなく、船渡川作品のなかでもっともまじめなものでしょう。
蝉氏が道端に仰向けに倒れていたのを見つけた時、彼は既に息を引き取っていた。
彼は歌う姿勢のまま固くなっていた。私は彼との数々の共演を思い出しながら、亡が
らの前に座って祈りをささげた。
すると遠くから軍靴の音が聞こえてくる。
蟻氏が仲間の隊列を引き連れ足並みを揃えてやって来た。
「全体、止まれ!」
蟻氏は一人、私の足下までやってきた。
「やあ、きりぎりす氏」
蟻氏は小さな体で我々を見下すように冷ややかに言った。
「君ら音楽家は演奏ばかりに熱中して、労働しないのかね。もうじき夏は終わる。その結果がこういう事になるのだ。みんな、とりかかれ!」
蟻氏達はもの凄い力で大きな蝉氏の亡がらを持ち上げると、どこかへ運んで行ってしまった。
私にはバイオリンを弾く事しか出来ない。私は遠ざかる蟻氏の隊列の後ろ姿を見ているしかなかった。
「労働しないのかね」
蟻氏の言葉が頭をよぎる。そう、私にはその時必要なだけの食料と水さえあれば十分なのだ。そして私の心の中に浮かぶ宝石のような、ごみのような訳の分からない何かを、音で表現せずにはいられない。私は生まれついての音楽家だからだ。
今夜も演奏会が始まった。草木や月や星々が聴衆であり、舞台でもあった。共演の鈴虫氏が澄んだ音色で鈴を響かせている。こおろぎ氏がフルートを高らかに吹く。私はその音を体全体で受け止めてから、生まれて来た何かをバイオリンの音色に変換していく。
そこへ蛾氏が踊り来た。目玉の描かれた大きな羽が月夜に照らされてひらめく。聴衆達もまたそれらに呼応してざわめき、うなり、輝く。
最高の瞬間だ。私は今、この時を生きている。
遠くない将来、私も息を引き取る日が来るだろう。そして蟻氏達に運ばれていくのだろう。しかしその時まで私は演奏し続けるのだ。
「ありときりぎりす」のイソップ童話に題材を得た船渡川作品の二作め。超問題作の登場です。
実はこの作品、最初に届いたものを私がアドバイスして、少し書き直したものが次に届きました。放っておいたら、さらに書き直したものが第三弾として届きました。
この最後のやつが、超問題作なのです。筒井康隆か、というくらいえげつないです。グロいです。でも、きっとこれが船渡川広匡の心の奥にあるバイオレンスの闇なのでしょう。その闇の深さはかつてのバイオレンスノベル作家・西村寿行をも凌駕しています。嘘です。
わずかに開いた玄関のドアから、蟻氏が渋柿を食ったような顔をちらりと出した。
「きりぎりす氏じゃないか。何か用かね」
「寒くて死にそうです。食べ物もありません。助けて下さい」
私はもう恥も外聞も無かった。
「自業自得だろう。知ったことか」
「入れてあげなさい」
風鈴の音のような声がドアの奥から聞こえた。
私はすぐさま蟻氏やその仲間に担がれて暖炉の前に運ばれ、毛布をかけられた。蟻の女王がやって来て、雲間から差し込む春の陽光のように言った。
「あなたは夏の間に働かなかった。だから今、私達を楽しませる為にバイオリンを弾きなさい。その対価として私達はあなたに温もりと食事を与えます。よろしいかしら?」
私の音楽は売り物じゃない。しかし断れば死ぬ。
「まず食事を与えて下さい。それからでないと演奏出来ません」
女王の指示により蟻氏が肉入りのスープの皿を運んで来て、スプーンで私に飲ませた。手足にようやく血が巡って来た。指が動く。これでバイオリンも弾ける。
「うまいか」
蟻氏はにやにやと下卑た笑いを浮かべて聞いて来た。
「うまい」
私は正直に答えた。
「肉がうまいだろう」
「うまい」
「それは蝉氏の肉だぜ」
私はバイオリンを蟻氏の頭に力いっぱい叩きつけた。ガイーンという不協和音と供に蟻氏の額がぱっくり割れて体液がどぴゅりと出た。
すぐさま一足飛びに女王の後ろへ回ると、首根っこを抱えてバイオリンの弓の先を口の中に突っ込んだ。
「誰も動くんじゃねえ!変な動きしたらこいつをぶっ刺すぞ!」
俺はお付きの者に案内させて女王の部屋へと入り、内側からドアの鍵を閉めた。
「あなたは何という事をするのです。自分が何をしているのか分かっているのですか」
俺は女王の顔面に思いきり平手打ちを食らわせた。女王はベッドの上に倒れ込んだ。俺はそのまま女王の上に覆いかぶさり、力ずくで組み伏せて犯した。事が済むと俺はバイオリンを弾き始めた。女王は枕に顔をうずめて声を殺して泣いていた。
その日から俺と女王の同居生活が始まった。俺は蟻達に命令して食事を部屋に持ってこさせ、肉をむさぼり食った。
やがて女王は妊娠し、子供を何百匹も生んだ。蟻ときりぎりすのあいの子だった。子供達は手下の蟻達が飼育し、みるみる成長した。
やがて雪が溶け、暖かな日差しが野山に射す頃、俺と女王は小高い丘の上に立った。眼下には手下の蟻達が埋め尽くしている。
女王は俺の足下にひざまづき、王冠を俺に差し出した。俺はそれを受け取ると、自分の頭に載せた。蟻達は皆地面にひれ伏した。
俺は雄叫びを上げながらバイオリンを空に向かって弾き鳴らした。
小説をはじめとする虚構にはいくつかの型があります。しかし、たいていの書き手や作り手は型など意識せずに、無自覚にストーリーを作っています。
今回取りあげる照井数男の作品は、どんな型でできているのでしょうか。いっしょに見てみましよう。
まず、プレコが登場します。プレコはアマゾンから日本に連れられてきて、水槽で飼われていたようです。完全に擬人化されています。日本語をしゃべります。人間となんの不自由もなく意志疎通をしています。
「私」という主人公がいます。こちらは普通の人間です。とくにデフォルメはされていません。
ストーリーは擬人化されたプレコと、普通の人間の「私」の会話として展開します。私の会話相手が擬人化されたプレコでなければ、普通の会話となんら変わりません。しかし、プレコという設定なので、会話のなかにはプレコならではの特殊な状況が散見されます。そのことが、会話に異化をもたらします。
たいていの小説は、なんらかの異化を埋めこむことで、読み手を牽引しようとします。
たとえば、小川洋子の『博士の愛した数式』という小説があります。あれは、八十分しか記憶がもたない数学者、という「ある特殊な状況に置かれた人物」を虚構に埋めこむことで、ストーリーが展開します。小川洋子の小説は、たいていこのパターンで成り立っています。
邦画のラブストーリーなどもたいていこの型です。たとえばあと何日かしか生きられない恋人をオーストラリアに連れていく話、とか。
照井数男のこの作品も、日本語をしゃべるプレコが突然窓の外に現れる、という異化を持った型だといえるでしょう。
型を使うときには、書き手ははっきりとその型のことを意識すると、より効果的に虚構を展開できるのです。
深夜、窓ガラスに張り付く強烈な気配を感じてギョットして目を覚ました。
「こんばんは、私は熱帯魚のプレコです。」
「なんだプレコ君か。こんな真夜中にやってくるなんて驚いたな。まあほうじ茶でも飲んで行きなよ」
「ありがとうございます」
きゅ、きゅ。
「まあ聞いてください。私は日本から遥か遠いアマゾン川の川底に張り付いて、流木のコケを磨く日々を過ごしていました」
きゅ、きゅ。
「ところが、ある日網にかかり、魚身売買の憂き目に遭いました。そして、ガラス磨きとして、今の水槽に入れられることになりました」
きゅー。
「はじめのうちは、一緒に水槽に入ったかわいいグッピー達とも仲良くなれて、ここでの生活も悪くないなと思っていました。しかし、何年か経つとあれほど綺麗だったグッピー達も何度も交配を重ねて行くうちに奇形ばかりになってしまいました。私の体もあの水槽の中で過ごすには大きくなりすぎて身動きが自由にできなくなりました。我慢できなくなりとうとう水槽を飛び出し旅に出ることにしました」
と、プレコ君は口を湯のみの内側に貼付けて器用に茶を飲みながら話をした。その様は、まさに茶をすするという表現がぴったり当てはまるものだった。
「ごちそうさまでした、懐かしい流木の味がしてとてもおいしかったです」
茶を飲み干した湯のみを見ると、茶渋だらけだった使い古した湯のみが新品のように真っ白くつるつるになっていた。
私はこれはうまいと思い、
「もっと飲まないかい。水槽から出てきたなら乾くだろう。遠慮せずやかんから直接飲みなよ」
と、すっかり内側が黒ずんでしまったやかんを差し出した。
「ありがとうございます、でももう行かないと。今日はお別れを言いにきたのです」
そういってくるりと身を翻した。
その後ろ姿を見ていると目の奥に熱いものがこみ上げてきて、目からぽろっと何かが落ちた。
「それは私の鱗です。荒川屋ではじめて出会ったときに目の中に入れさせてもらいました。」
プレコ君は振り返ってそう言った。
「君はナマズみたいなのに鱗があるのかい」
「さあ、私にもよくわかりません。詳しくはウィキペディアを見てください」
「これからどこへ行くんだい」
「わかりません。流木の流れ着くままに、というやつです」
そういって両方の脇ひれで窓をすっと開け、夜空の中に消えて行った。
文章を書くという行為は「言語活動」であり、「論理思考」がどうしてもつきまとうため、脳みその表面の部分ばかり使ってしまいます。大脳皮質とか前頭葉といった部分ですね。なので、文章は観念的なものになってしまいがちです。
なにかストーリーを書こうとしても、描写ではなくあらすじになりがちなのも、そのような傾向が脳みそにあるからです。
描写は眼で見たもの、耳で聞こえたもの、身体で感じたものを文字化するのです。が、あらすじや説明は観念的なものです。脳でいったん処理された情報です。
また、文章自体もとかく、観念的な言葉を使ってしまいがちです。
三木義一も、観念的な言葉や文章が多い人でした。というより、観念的な文章を書かせたらピカイチ、くらいなものでした。思想や哲学を語るには最適な文章ですが、小説やエッセイや自己表現の文章としては最悪な文章です。
もちろん、観念的な文章を好む読者はいるし、それが絶対にだめといっているわけではありませんが、観念的な文章しか書けないのでは問題があります。
三木義一は体言止めを多様した、詩のような文章を書くことが多かったのですが、観念的な文体から抜けだすために、ある秘策をさずけました。その結果が、この作品です。
観念から抜けたとき、そこには三木義一の身体性がみごとに現れてきました。この作品を読むとき、読者はそこに三木義一自身の存在を感じることでしょう。
市の中心部から少し離れると、のっぺりとした住宅街が続いていた。
ハウスメーカーが仕立てた夢の隙間を二十四時間営業のスーパーが埋める、いまや日本のどこにでもある街。
歩きながら、懐かしさに甘く息を詰めらそうになる。
調和しているかに見えた風景は、突然掻き乱された。
国道を跨ぐ歩道橋の上で女が奇妙なうなり声をあげている。
多くの人がそうするように、反射的に目をそらそうとするが、私にはできなかった。
視線のエアポケットの中で、季節外れのワンピースが右へ左へよろめく。
旧型のトラックが通り過ぎたとき、彼女の声が、下を通る車の音と呼応していることに気付いた。
目の前、四車線の幹線道路は、このあたりに一キロメートルほど信号がないのをいいことに、ほとんどの自動車が相当な速さで突っ込んでくる。
彼女は、その一台一台の音を聞き、声を発していた。
模するのではなく、響きを作るように。
にわかに雨が降ってくると、タイヤと路面の間を転がされる水の音があたりを支配する。
雨粒の密度が増していくとともに、彼女の声もざぶざぶとくぐもっていき、やがて雨の音と一つになった。
ずぶぬれになりながら、低い声でうなりをあげている自分がいる。
車の流れがゆっくりしたものに見える。
子どもの頃のやり方で息をしている。
「文体」とはなんでしょうか。
私たちがある文章を読むとき、そこにたしかに書き手の体臭のようなものを感じることがあります。だれが書いた文章なのか、はっきりと手触りを感じることがあります。
村上春樹の小説には、村上春樹の感じがあります。
それを「文体」と読んでいるわけですが、では、具体的に文章のどこをどう感じることによって、文体を認識しているのでしょうか。
三木義一の作品を見てみます。
冒頭。
「枯れ枝を沸かしたような液体から、瞬くように微粒子が舞い上がっている」
ここから彼の文体を感じることができるでしょうか。できるとすると、どの部分でしょうか。
比喩表現が二か所、使われています。「枯れ枝を沸かしたような」と「瞬くように」ですね。
こうやってあらためて見ると、比喩表現は読者に文体らしきものを感じさせるのに有効な手段であるように思われます。
ほかにはないでしょうか。
「舞い上がっている」
現在形で文章を終えています。「舞い上がっていた」ではなく「舞い上がっている」。この時制の使い方も、わずかに文体らしきものを生れさせているように思えます。
三木義一は意識してかどうかわかりませんが、この作品全体を現在形で語っています。そして、最後の最後だけ過去形にしています。「おかわりを頼んだ」。この時制の用法も、文体らしきものを浮かび上がらせる効果があるかもしれません。
ほかにも「文体」のための要素はいくつかありそうです。かなり多いかもしれませんし、逆に意外に少ないかもしれません。
もしあるとすると、自分の文体がどのような要素で特徴づけられているか、客観的に読み直してみるとおもしろいかもしれません。
枯れ枝を沸かしたような液体から、瞬くように微粒子が舞い上がっている。
「ヒロシさん」
目の前の男に話しかける。白熱電球が映す彼の影は、ひび割れた三和土の上で凝固したままだ。
「ねぇ、ヒロシさん」
顔のどこかが動いたようだったが、あまりにも一瞬で視認することができなかった。大きく剥かれた目は相変わらず斜め45°上方へ向けられている。オレンジ光の色が普段の赤ら顔をさらに紅潮させて見せているようだ。
「そろそろ決めなきゃ」
口がわずかにすぼまって、息が少し漏れた。頬が細かに痙攣している。眉根がきりきりと引き絞られ、無数の皺がひずみのように顔面に蓄えられる。顔のパーツが自分とは全く違う組み合わせで制御されているので、どんな感情を表しているのか想像がつかない。涙目になってきたのか、目の中に映る電球がギラギラと輝きを増していく。
「トンカツと親子丼、どっちにしようか?」
訝り顔のおかみさんが向こうでため息をつく。テレビから冴えない芸人の一人笑いが聞こえてくる。私は湯のみを掴み、裏返った声でおかわりを頼んだ。
来ました、来ましたよー、「みぞれのかたまり」のような作品が。
どこを取っても、山田みぞれの脳みそと身体が感じられるような、楽しい作品です。
一読して、私は児童文学のようだと思いました。矢玉四郎の「はれときどきぶた」を連想しました。不条理だけど、女の子の身体感覚と感受性がしっかりとテキストに乗っている。わけがわからないけれど、ああこういう感覚って子どものころにあったよな、という普遍性を持っている。
耳から出てきたわけのわからない物体で、女の子がいろいろと妄想をめぐらせ、自分のささやかな悪事に思いあたって、勝手にピンチに陥っていく。ただそれだけの話です。それだけの話なんですが、耳から出てきた物体っていったいなんだったんだろう、とか、最後のシーンはなにを意味しているんだろう、とか、いくつかの謎が作品に奥行きを与えています。
タイトルの意味、私は知らなかったんですが、ちゃんとこういう言葉があるんですね。知らない方はぜひ調べてみてください。
「私」が「乾物屋」から出てきた背景とか、狭山のおばちゃんのキャラクターなど、もう少し丁寧に書きこまれているとさらによかった、という点がいくつかないではありませんが、たっぷり楽しませていただきました。
乾物屋から出たところで耳に違和感を感じた。ひとさし指を右耳に突っ込むと、仁丹みたいなものが耳からぽすっと出た。
え、これは何。耳あか?
毎晩、お風呂上りに綿棒でぐりぐりと掃除しているのに。昨日の晩も確かにしたはず。なぜこんなにも大きな耳あかが出てきたんだろうか。
買い物袋を握り締めたまま、あたしは右の人差し指の上に乗った耳あかと睨みあった。
待てよ。これは、本当に耳あかなのだろうか。
耳あかと見せかけて、実は別のもの?この耳あかは随分赤い。耳あかは黄色っぽい白
じゃないか。
そういえば、夕べ夜中に窓際で物音がして目が覚めたっけ。おじいちゃんの育てている盆栽の陰に何か隠れたのは覚えてる。人間じゃないなと確信があったから、ほっておいてまたすぐ横になったけど、あれが私に何かしたのかも。
あたしはハッと息を飲んだ。
あれは、あれは宇宙人だ!
耳の中に特殊チップを埋め込んで人体実験の目的で収容するために、今頃宇宙船の中からあたしの動向を見張っているに違いない。
と言う事は、もしや京太くんのリコーダーとあたしのリコーダーの吹き口をこっそり交換しちゃったとことか、理科室横のトイレが流れなくて、大きいのが床に溢れ出して逃げ帰ったのも見られたのか?
あ。でもあれは昨日の放課後だから、まだチップは埋めこまれていないはず。いや、あたしのまったく知らないうちにやられた可能性もあるし。十分有りうるし。だって相手は宇宙人なんだから。わかった!そしたらお母さんにお小遣いもう貰ったのに「今月まだー」って、お父さんにも貰ったのばれてるのか?
それはまずい。
ど、どうしよう。
ひゅう、と七月の半ばだというのに、木枯らしみたいな音の風が吹き付けてきた。ああ、あたしの心はすっかり葉を落としてしまった銀杏の木のようだ。
「いい子」で通ってきたあたしの神話が音を立てて崩れ去り、朽ち果てるんだ。あたしは、荒野の真ん中でひとり立ち尽くしているような心持ちだった。
「あれ、千加子ちゃん」
声のほうを振り返ると、のんきに微笑むお向かいの佐山のおばちゃんが現れた。
「どうしたの?なあに、それ……」
不自然なあたしの右人差し指に怪訝な視線が突き刺さった。
全身から汗が噴出してくるのを感じた。
人生最大のピンチだ!
あたしは決死の覚悟で自然に、ごく自然に親指で人差し指のあれを爪弾いた。
宇宙人に屈したりはしない!
その瞬間、世界が光で満ちた。あたしは真っ白な空を仰ぎ、よろめく。
つづけてもう一篇、山田みぞれの作品をお送りします。
これまたなんとも楽しい小品です。
男性視点の三人称。このように、自分とはかけ離れた視点と主人公を設定するのは、技術トレーニングにとても有効です。
あまり書きなれてない人がやりがちなのが、「私」のように一人称で、しかも自分自身に近いキャラクターを設定して書きはじめてしまうことですが、これは楽なんです。そして楽を覚えると、その楽からなかなか出られなくなります。文体が固定化していきます。ようするに「癖」で書くことが身についてしまう恐れがあります。
まだあまり技術が身についてないうちは、つとめていろいろな視点、いろいろな主人公を設定して書いてみるといいと思います。
山田みぞれもそれに挑戦して、おもしろい作品がポンと出てきました。これは主人公を女性の「私」にしていたら出てこない作品でしょう。
めろんぱん。
甘い言葉を囁いて欲しいと言うから、自分なりにせいいっぱいの甘さでもって彼女の耳元でそっと口にした。
それなのに、彼女は褒めてくれるどころか湯飲み茶碗の中身をぶちまけて「ばかにしやがって!」と深夜零時を迎えようとしているのに、玄関を飛び出して行ってしまった。
わからん。
だって君はメロンパンが好きじゃないか。
駅前の移動メロンパン屋のためなら、仮病を使って会社を早退するって言ってたじゃないか。
女心と秋の空とはよくいったものだな。秋刀魚の焼き加減はわかるようになったが、どうも彼女については理解できん。こんな時は心を落ち着けるために茶でも喫するか。いや、まずはこの濡れてしまった畳を拭こう。
雑巾を固く絞り、やかんを火にかけた。
しゅんしゅんしゅんしゅん。
やかんの立てる音に耳を澄ます。
メロンパーン。
カタカナよりひらがなのほうが甘いと思ったのだが、それがいけなかったんだろうか。
死んだ魚のような目で、ぼんやりと茶を淹れた。
めぇろぉんぱぁん。
やはりひらがながしっくりくる。
ひとり首肯し、ずずっとほうじ茶をすすった。
野々宮卯妙の作品を四篇、お送りします。
小説を書きはじめていきなり長いものを書こうとする人がしばしばいます。
たいていは途中で投げだしてしまうか、無理矢理書きあげたとしても読むに耐えない粗大ゴミができあがることがほとんどです。最初から長いものを書いて、それが読むに耐える作品になるような人がもしいたとしたら、それは天才でしょう。そして天才などはめったにいるものではありません。げんにこの日本では、夏目漱石以来、それを越える天賦の才はあらわれていません。芥川も太宰も、ノーベル賞を取った川端も、そしてもちろん村上春樹も、全員凡人です。私たちとなんら変わりません。
逆にいえば、私たち凡人も努力しだいで彼らとおなじ地平に達することはできる、ということです。すべての人にその可能性があります。
凡人がなにかを達成するためには、いきなり分を越えた大きなものにかじりつくのではなく、やはりコツコツと積みあげていくことが一番ではないでしょうか。
テキストライティングもそうで、毎日コツコツと書きつづける人、短くてもちゃんと書ききった完成品を地道に積みあげていく人、こういう人がいずれは大きな力をつけることになります。
なぜこんなことを確信的にいえるのかというと、私がそうだからです。
自慢するみたいですが、私は作家をめざしているとおっしゃる皆さんのだれよりも、毎日書いています。そりゃ暇なんだろう、といわれるかもしれませんが、そればかりではありません。なにも物理的に書いている時間だけが「書いている時間」ではありません。書くことについて考えている時間もまた書いているといえるでしょう。
野々宮卯妙は何年か、作品としてのテキストを書くことから離れていたそうです。なので、いまはリハビリ中だという意識が本人にはあるのだと思います。
これらの作品も、「長距離を走る抜くためのアスリートの身体を作るための筋トレ」のような印象を受けます。
ある流れのなかの一場面をスパっと切りとったスケッチ。読者はこの前後にさまざまなストーリーや世界を想像します。その想像を大きくするためには、このスケッチにどれだけの情報量を込められるか、にかかってきます。
野々宮卯妙はかなり多くの情報量を埋めこむことに成功しています。情報がみっちり埋めこまれた文章が、ずっしりとした立体感を作品にあたえています。しかもただぎゅうぎゅうに詰めこんだわけではなく、とぎすました文体でそれをおこなっているので、スケッチの切り口はじつにあざやかに鋭角です。
なぜドアを開けてしまったのかわからない。
退屈……だったのだろうか。
「実は今日、たまたまご贔屓のお客様に見たいと言われて実物を持ってきているのです。ご覧になりませんか」
首を横に振ったつもりが、うなずいてしまっていたのも、今となってはなぜだかわからない。
ただ、ゴランニナリマセンカ、という言い方に品の良さを感じたのだ。
……それがいま、私の欲しかったものだ。
美津子はまじまじと目の前の男を見つめた。男も見つめ返した。
「奥さん……」
美津子は後ずさった。男は距離を保って前へ出た。一歩下がれば、一歩出る。
ふと、前へ出てみた。
男は下がらなかった。
手のひらを男の胸に当てる。きれいにプレスされたスーツ。この人が自分でやるのだろうか。
心臓の音が聞こえてくるかと、耳を当ててみた。あまりよく聞こえないと思ったとき、背中からぐっと押されて、スーツに押しつけられた。
いい匂い。ラベンダーかしら。あったかい。生きている。
美津子は久しぶりに新鮮な息を吸ったような気がした。
奥の部屋には夫がいる。だらしなく太って、夜中にアダルトビデオを見て、スポーツ新聞を読みながら食事をする夫。自分本位で下卑た笑い声を立てて美津子を足蹴にする夫。昨夜だったか、もっと前だったのか、トイレに立って居間を通り抜けようとしたら、ビデオを見ていた夫にいきなり腕を掴まれ、押し倒された。叫ぼうとして、ご近所迷惑になる、と咄嗟に口を閉じると、そこに舌をねじ込まれた。気が遠くなりそうになるのを堪えようと歯を噛みしめたら、口の中が生温かいもので一杯になった。気持ち悪くなって夫を押しのけて上になり、その顔に口の中のものを吐きかけてやったら、夫が激しく噎せたので、吐き戻させないように口を押さえた。絶対に吐きださせるものか。自分のものは自分で処理しろ。私は汚物処理係じゃない。心の中で叫びながら渾身の力で口を押さえ続けた。やがて疲れて手を退けた。夫が動かなかったのでほっとして、口を10分以上もかけて漱いで布団に戻った。心の中とはいえ思い切り叫んだせいか、その晩はぐっすりと眠った。起きて居間に行くと、夫は口の周りと股間を汚したままだらしなく寝そべっていたのでラグごと巻いて部屋の隅へとどかし、掃除をして、一人分の食事を作って食べ、テレビをぼんやり眺めていたら、ピンポンと鳴ったのだ。奥さん、ちょっとお時間よろしいですか。
美津子は目を開けた。
居間の天井板のクロスがぼやけて映っている。
ぐらぐらと視界が揺れる。視点を一点に留めようとすればするほど、揺れは激しくなり、やがてぐるぐると回り始めた。
視界の隅が深い黒に沈んでいる。その面積が回りながら中心へ浸食してくる。外側へ散って行くなら納得がいくのに、寄って増えてくるなんて。
留めようとするのを諦めて、回るにまかせた。
すると速度が緩まってきて、じょろじょろと尾を引くように残像が薄まって行き、やがて止まった。
完全に止まったのを信じられるまで、待ち続けた。
ながい沈黙。息の音も聞こえない。
居間の真ん中に敷いた布団の上に肘をついて上半身を起こした。
室内は、カーテンの隙間から洩れてくる街灯の明かりで薄ぼんやりとしている。
右手を伸ばしてテレビ台の端を掴み、身体を引き寄せて立ちあがる。膝の関節がみしみしと音を立てた。
持ちあげた左足を下ろそうとしたら、何かを踏みつけた。身の詰まった何か。
そのままぐっとその何かを踏みつける。布地を通して足の裏に熟れた何かが潰れていく感触。右足をその先へ下ろす。これもまた何かを踏みつけた。
ぐにゃぐにゃとした床を踏みつけながら居間を出た。
台所に入って、水道の蛇口をひねると、じゃばじゃばと水が好き勝手な方向に派手に撥ねた。シンクの中は食器や残飯が散らばっていて、美津子はそれを掘ってやかんを置くスペースを作り、水を入れた。
やかんを五徳の上に置き、ガスコンロのつまみをひねって火をつけると、あたりが少し明るくなった。
やかんの下から火がはみ出して揺れるのを眺める。
食器棚から急須を出し、ほうじ茶を茶筒から直接振りいれる。ばらばらと急須の周りに茶葉が散る。
沸いた湯を勢いよく入れる。湯が茶葉の上にも散る。
ふたたび闇に戻った台所で、ほうじ茶をすすった。
熱いものが喉の奥を抜け、食道を下り、胃に落ちてわだかまった。
――ほうじ茶はカフェインがないから夜飲んでもいいんだよ。
母の声が聞こえた。
そうね、お母さん。私はまだまだ眠くてたまらない。
湯呑をシンクの中の食器の隙間にそっと押し入れると、居間へ戻った。
目が闇に慣れ、床に何本かの丸太が転がっているのが見えた。注意深く丸太の間を選んで足を置き、布団を目指す。
ラグを巻きつけた丸太の端から覗く、黒ずんだ親指を踏みつけた時だけ、一瞬立ちどまった。
足の裏から黒い親指の存在がゆっくりと這い上がってくる。
布団の中に戻ると、美津子はその感触を反芻する間もなく睡魔に抱かれた。
息を吸うたび、ぐりぐり、ぐりぐり、とリンタロウの背が伸びていく。
目の前にあるごつごつした壁から身体が少しずつ離れ、視界がぐるぐる広がっていく。
遥か頭上に、土を感じる。暗い中、見えたわけではないが、慣れ親しんだ土の匂いが頭上からゆらゆらと降ってくるのだ。
視線を手元へ戻していくと、リンタロウの少し上にタカシが縮こまっているのが見えた。まだ鎧を被ったままだ。
なぜ、と思ったとたん、ひやりとしたものを腹に感じた。腹は宙に無防備に晒されていた。
鎧を脱いだとき、背中から滑りこんできた空気の清々しさがリンタロウの理性を飛ばし、護るということを忘れさせていた。
タカシはさっきから動いていなかった。
……恐ろしいのだ。腹を晒した俺を見て、タカシは鎧を脱ぐのをやめたに違いない。
リンタロウは頭上の土をあおいで、茫然とした。
腹を護りたい。しかし力が入らない。入れようとすることすらできない。
身体が徐々に硬くなっていく気がする。焦りだけが募る。
死ぬのだろうか。暗い狭い世界からようやく這い出たとき、すでに死の影を感じていたのを思い出す。だが進めと何かが言った。止まるな、進め、と。
そして、止まった今、すべてがリンタロウの手を離れてしまったようだった。自分に
起こっていることでありながら何もできない。
ダレ、カ、タス、ケ、テ。
足が少し動いた、気がした。
やがて、感覚がじわじわと戻ってきた。リンタロウはその感覚を味わうことに夢中になった。どんどん動く範囲が広がっていく。身体は硬いのに柔らかかった。硬いのに動くことができた。さっきまでまったく動かなかったはずなのに、そう思い込んでいただけだったのだろうか。
手足が完全に自由になり、ついにリンタロウは腹を内側へ曲げることに成功した。
鎧をぐいとつかんで身体を曲げる。頭がぐるりと半回転する。
背中がむず痒い。リンタロウの背中にくしゃくしゃと畳みこんであった皮が勝手に開いていこうとしている。
周囲は明るくなっていた。水蒸気が身体を包む。気温が上がってくる。
リンタロウの背中の皮がぶるぶると震え、ビンと伸びた。完全に身体から離れたそれは翅となって、薄緑から濃い茶へと急速に色を差していった。
頭の上を覆う緑の葉の隙間から、白い光が差しこんできた。
みっちりと身体を包む空気を翅で切り刻みながら、リンタロウは歓声を上げて光の中へと飛び出していった。
タマが庭を見ている。
庭は真っ暗で、雑草が茂っているはずの地面も、その先にある池も、人の目には見えない。タマには見えるのだろうか。
夜になって少し温度が下がってきたが、湿気が高く、過ごしづらい。青い匂いが縁側に立ちこめる。
網戸にカナブンが体当たりしている。ブブブブブブバン、ブブブブバン。何度も何度
も繰り返しぶつかって、ダメージはないのだろうか。それが四、五匹もいる。
突然、タマが肩を落とし、顎を上に向けた。視線を止めて、一心に宙を見つめている。
何か見えるかと、ミツはタマの横に立った。
こうして並んで立ってみると、タマの視線の先あたりに、何かあるような気がする。
闇の中に、ほんのり白い部分があるような気がする。
きらりと何かが反射した。
タマが「フーッ」と静かな唸り声を漏らした。
小さな光が、ふんわりと漂うように、右から左へと移動していった。
「お父さん」
思わず口にして、ミツは自分の声に驚いた。
父とふたりで、この縁側に座って庭を眺めた。青い匂いと、煙草の匂いが、空気に重さをつけて、ミツの肌を押し包んでいた。煙草の匂いは鼻の奥まで入り込んで、ミツの涙腺を刺激した。台所から、包丁がまな板をカタンと鳴らす音がした。そこには母がいて、夕食の片づけをしているはずだった。包丁で何を切っているのだろう。
ふと父が立ちあがって、庭の中へ出た。父の白い浴衣が暗い中にぼんやりと浮き上がって見えた。ときどき赤い光がふうっと輝き、また小さくなった。
「お父さん」
ミツが声をかけると、赤い光がふうっと僅かに動いて、
「いい夜だ」
と父が言った。
何がいいのかよくわからなかったが、父の満足げな声が、ミツの内側を柔らかくした気がした。
それからは二人とも何も言わずに、ゆっくりと団扇を使いながら、何も見えない庭を眺めたのだ。
母が西瓜を持ってくるまでの、ほんの僅かな時間だったはずだ。しかし、ミツの肌を包んでいた空気のように濃密な時間は、いつもと違う、長いような短いような、不思議な感覚をミツの奥の方に残した。
あの夜。
目の内側がきゅっとなって、目尻にじんわりと湿り気が滲んだ。
「お父さん」
闇の中にその声は不思議なほど響いて、まるで庭の向こうの塀と縁側の硝子戸とに反射しあうように、いつまでもそこにわだかまっているようだった。
白いものが闇に溶けていく。
突然、蟋蟀が鳴きはじめた。
タマは欠伸をすると、縁側に長々と胴を広げて寝転がった。
ある塾生から、このようなメッセージをいただきました。
「萎縮して書いてるのか」について考えたんですが、そんな意識はなかったけど、
確かに、今回「こんなの書いてて意味ないかも…」とか、バーッと書いてて「これ全部不要かも」と思っていました。
ぜんぶ不要かもしれない、くだらない文章をボスに読ませるのが忍びないと思いつつ、またえいやっと送信します。
歌いたくないときは歌わなくていいのです。
描きたくないときは描かなくていいのです。
踊りたくないときは踊らなくていいのです。
読みたくないときは読まなくていいのです。
書きたくないときは書かなくていいのです。
ある人が、自分の内側から生まれる「~したい」という喜びをともなった表現欲求にしたがってなにかを表現したとき、それを受け取る人にはプレゼントとして届きます。そこには利害関係はありません。
ある人が「~しなければ」という義務感や、「これを読んだときに不快にならないだろうか」「退屈しないだろうか」「変な人間に思われないだろうか」「こんなの(他人にとって)意味ないかも」といった「外部評価」を気にしながらおそるおそるおこなった表現は、プレゼントとして届くことはありません。読む人のなかには無意識に「読んでやる」という「義務」を受け取る立場が生まれたり、「評価してやる」という立場が生まれ、そこには上下関係や利害関係が生まれます。
締切もおなじです。
締切がないと書けない、という人がいますが、それは外的要因を自分を依存させているのです。締切りがあろうがなかろうが、喜びをもって書きたいと全身が思っているときだけ書いてください。
それ以外には書かなくていいです。私もそのようなものは読みたくありません。
締切に合わせて無理に作品を送らなくてもいいのです。
さて、前置きが長くなりましたが、特集の第二は石川月海の作品を三篇お送りします。
ここには石川月海という人がいる。彼女の存在がそのまま文章に埋めこまれている。文体から彼女の存在、手触り、息づかいが立ちあらわれてくる。
この文章を読む、というのは、そのまま、石川月海に会う、ということになっています。なぜなら、この文章は彼女自身の身体性と感受性をフルに動員して書かれているからです。
それだけではなく、話運びのセンスもすばらしいですね。大きな流れのなかのワンコーナーをうまくすくいとっていて、読者はその全体の流れも感じています。
「いっそ裸足で歩こうかと半ば本気で思いながら地下鉄からの階段をようやく上りきったところで見上げた先に、星がひとつだけ輝いてた」
ここなんか、ハッとしませんか?
ゆっくり味わってください。
引き寄せた手を掴み直して、その手首の内側にくちづけた。
触れるか触れないかほどに軽く、ただ、唇を触れさせた。
閉じられた彼女のまぶたが少しゆるむ。
瞳が、ボクを捉えようとさまよっているのを数秒愉しんでから、今度は彼女の唇に唇を寄せた。
やわらかに開いた彼女の上唇と下唇のつながった場所に、唇をそっとかすらせる。
すっかりボクにもたれかけられた上半身が微かに動いた。
手首を捕らえたまま、体を離した。
上目遣いの瞳から、すがるような視線が滲み出している。
ピンク色の小さなピアスをした耳まで真っ赤に染めて、ただ、ボクを見つめている。
手を離してやった。
数秒の間、支えがなくなったことに気づいていないかのように動かなかったが、やがて彼女はその手を自分に引き寄せ、もう一方の手を添えて胸の前で合わせた。
フリルだらけで実体のわからないブラウス。その上から拷問具のように絞められたコルセット。大きくふくらんだスカートは、どれだけのペチコートを咥えこんでいるのだろう。
「脱いでよ」
甘い声で命令してやると、少し高めのか細い声でいくらか鳴いたあと、素直に脱ぎはじめた。
ボクは、さっき気づいた彼女の靴下のバイオリンの刺繍をぼんやり見ている。
今朝おろしたばかりのパンプスは魔法使いの靴みたいな色使いがかわいくて衝動買いしたもの。
連日残業だらけの自分への激励のつもりで履いてきたのに、両足とも、踵にも親指の辺りにも足の裏にまで靴擦れができてしまって、立っているだけでもじんじんと痛い。
いっそ裸足で歩こうかと半ば本気で思いながら地下鉄からの階段をようやく上りきったところで見上げた先に、星がひとつだけ輝いてた。
あの時すぐに気づいていれば、なんていまさら思ってみてもしかたない。それはわかってる。だいたい、気づいたからってどうにかできることでもないんだし。
思わず「フゥー」と漏らした息が上唇を揺らした。
さっきからこっちを伺っていた猫が、しゃーってヘビみたいに開いた口から牙を覗かせて威嚇してる。
お腹ぺこぺこだけど。明日は大事なプレゼンがあるから血生臭い息なんてありえないもんなぁ。
あーあ、なんだって空が開いているんだろう。今夜ってそういう日だっけ? そんな
ニュースあった? そもそも今夜って満月だっけ?
ま、今は難しいこと考えられる脳みそじゃないから悩むだけ無駄なんだけど。
……っと、家まで走って帰ろうにも、むき出しになった後ろ足の靴擦れの痛さって言ったらパンプス履いてる方がまだましってレベルだし。フゥー。
あ、猫、まだいる。
ドアベルを無遠慮に鳴らす集荷の宅配便と入れ違いで入ってきた男がひとり、佇んで店内を見回している。
三十代半ば、プラスチックのボタンをつけた安っぽいスーツを着ている。これといって特徴のない顔を愛想よさげに歪めて、
「すみません、あのー、お薦めってありますか?」
無駄な会話はいろんなものを費やす、声、神経、時間。
豆を選別する手を休めることなく目だけを男に向けてやった。
「あ、あの、じゃ、ブレンドをください?」
「豆、粉」
「あ、粉で?」
「いくら」
「えっと、二〇〇グラム?」
男の返事はいちいち質問形だ。
煎り置きのブレンド豆を瓶から量りに移し、二〇〇グラムを挽いて、袋に詰めてやる。
「七百四十円です」
代金を受け取って、粉の入った袋を渡してやる。
男は何か言いたげだったが、大人しく帰っていった。
またよけいな客が来る前に入口のシャッターを下ろした。
急須に、今朝煎っておいた茶葉をひとつまみ入れ、熱湯を注いだ。
店内に滲みこんだコーヒー豆の匂いと、手作りパウンドケーキの少し甘い匂いに、ほうじ茶の清浄な香ばしさが混じる。
四脚しかない店の椅子のひとつに腰掛けて、ほんの数分の贅沢を味わう。
2012年5月9日 発行 初版
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東京世田谷在住。NPO法人現代朗読協会代表。作家、音楽家、演出家。 朗読と音楽による即興パフォーマンス活動を1985年から開始。また、1986年には職業作家としてデビューし、数多くの商業小説(SF、ミステリー、冒険小説など)を出している。しかし、現在は商業出版の世界に距離を置き、朗読と音楽を中心にした音声表現の活動を軸としている。 世田谷文学館と共同開催している学校公演「Kenji」や「Holmes」では脚本・演出・音楽を担当。この活動は文化庁の協賛を得ている。ほかにも小中学校、高等学校など、学校公演、朗読指導を数多くおこなっている。 現在、音読療法協会の設立準備中。音読療法士の育成をおこなっている。