spine
jacket

PASS the MIC

パス ザ マイク

マイクランナー

───────────────────────

安藤次朗/小川留奈/岸本雅樹/シミズダニヤスノブ/

須貝 悠/古屋貴広/岡崎咲子/小川智宏/山口温子/

山口尚子

 目 次

はじめに

今週の頭の中

一緒に展覧会をしよう

母校、多摩美術大学

ひげ付箋をつくること

そう、WORLDの半分はIMAGINEでできているのさ。

「現在地」のはなし

未来を映すノスタルジーについて

宇宙を超える葦

外見がすべて

ドキドキよ永遠なれ。

オトナ

やりたいことやってるひとは強い

そう。話がつながってないので大変申し訳ないのですが、言わせてほしいことがあるのさ。

イメージは実現する

東京、トーキョー、TOKYO

小噺

通奏低音

のっぺらぼうの気分

ひげ

奥田染工場

工場の逆襲

デザイン。

バリアを張る作業

「グルーヴ」ってのはレコードの溝のことなんだぜ

冬のポエット

明けましておめでとうございます

トイレ工事(2013/1/30/22:00)

みんなが生きやすい社会とは

生活をする

すーばーらーしーいー日ー々ーだー

わたしのなかのヨハン

お互い様

色について

一方その頃—

働きマン、働きウーマン

カラオケスナック『雅子』

所変われば、医療も変わる

あまちゃん

「ダサくても楽しいからやってんだ!ダサいのくらい我慢しろ!」

夏朝

魔物

結局何も変わってなどいない

祝辞

アジア熱

旅先から

予期せぬ旅

英語

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年の目標は

春のおしゃれ

バックグラウンド

なんか、そういうタイミングなので

チャレンジ

かかとと出会わない

ふと

2015年2月9日(月)曇り

「育児」と「デュクシ」で踏める

クアラルンプール

犬食わない

3月6日

4月2日

パス ザ マイク

前の人の内容からテーマを見つけて、順番に文章を書く。
みんなでそれを読む。たまには集まっておいしいものを
食べながら、お酒やジュースを飲む。で、たくさん話す。

そういうこと!

はじめに

「みんなどんなことを考えてるんだろう?」
それがこの『パス・ザ・マイク』のスタートです。

飲み会での話だったり
家で家族と話すこと
ちょっと真剣な相談や
なかなか言えない恥ずかしめのこと
あいつはあれをどう思ってるのかな
俺はこう思うんだけど、これってどうかなあ
こんなことおもいついたよ!

僕の知らないところで
僕の知っている人たちは
何を考えて、何を話しているんだろう

僕の知っている友達の頭の中
ちょっとのぞいて見てみたい。

きっとみんなものぞいて見たいよね?

じゃあ、まずはこのマイク
手に取って始めようかね!



梅雨のよき日に
安藤 次朗

今週の頭の中

ここ最近、自分の頭の中を占めているものをサラッと書いてみようと思います。

・レバ刺し

私のレバ刺しとの出会いは、19歳の頃吉祥寺の「いせや」で。
それまで、レバーにはあまり興味が無かったのですが、今迄のレバー感を根底から覆される衝撃でした。それ以来、お店のメニューにあれば必ず頼んでいます。

(レバ刺しが食べられなくなるまで、あとわずかです。もしも口にするようなことがあったとしても、あなたは背徳の念も一緒に食べることになるのです。同じ味は戻ってきません。レバ刺しは消滅するので 〜椹木野衣氏 twitterより〜)


・身体の事

今迄、自分の身体というものにほとんど興味が無く、違う物事に興味や時間を費やして生きてきました。しかし、大人になり、日々の精神的重圧や、出産や年齢、など様々な経験を重ねるうちに、少しずつですが、身体と外の世界、自分に起こる良い出来事と悪い出来事、全てが一つに繋がっている感覚を実感しています。
最近は、身体にパワーをみなぎらせるガソリンを注入する感覚で、運動を始めました。
パワー溢れる人間を目指しています。


・原発と通称 : 紫陽花革命に関して

私自身は、原発推進派でも反対派でもありません。
色々な事を知れば知る程、どちらが「正しい」かなんて到底判断できません。
単純に勉強不足という所も大きいですが、第3世界と原発の話、貧困と原発の話、利権と原発の話、色々な事が複雑に絡み合い、様々な意見が交差する。知れば知る程、公の場で意見を言う事が困難なように感じます。
ですが、実際に自分の生活や、自然、環境に大きく影響をもたらす世の中になり、美しい自然が損なわれていくこと、素朴に慎ましく働いてきた、東北の人々の美しい自然が取り戻せなくなってしまった事は、もう2度と見たくない光景です。
では、アフリカで続く虐殺は飢餓や紛争はどうでしょう?(結局のところ自分に影響が無ければ何事も関心は低いものです) 極端な事を書いているようですが、そんな事がぐるぐる頭をまわって到底まとまりません。自分に出来る事は、勉強することと、世の中は一つと考えて、その全体像を捉えつつ、身近な問題を考え、時に行動することなのかなぁ、と今は思っています。
学生時代に読んだ、バックミンスター・フラーの宇宙船地球号のような感覚をもっと身につけたいと今は思っています。

そんな今週の頭の中でした

2012.6.26 小川留奈

一緒に展覧会をしよう


東京に出てきたのは短大卒業した翌日(二〇〇〇年)、京都の先輩が四大に編入するとの事なので、当時、なあんにもやりたい事がないくせに、何か分からない野望を持った20歳の僕は、先輩の親父のトラックに布団だけ乗っけてもらって、憧れの東京ライフが始まった。家は即決まり、
翌日には知り合いの紹介で仕事も決まり、世の中を舐めきった世間知らずのクソガキに、
「生きて行ける」と、デタラメな自信をつけてしまったのだった。

 数ヶ月働いた頃、これまた憧れのワタリウム美術館(※1)で、超絶憧れのバックミンスター・フラー(※2)の個展が開かれていた。
言ってみれば、買いたてのiPadの操作にドキドキしながら、好きなアイドルをワクワクしながらググるようなものである。(※3)
即座にパスをゲットし、足しげく通い、フムフム…とドキドキしながら何度も展示を見に行った。

そして数回目に見た時に、とあるチラシが目に入ったのである。今でも忘れないそのタイトル。
「バックミンスターフラーと一緒に展覧会をしよう」
………………したい。これはしたい!よくわからないがしたいと強く思った僕は、応募要項の通りに企画書を作成し、作品の写真や熱い思いをマンパンに込め、ポストに投函したのである。
デタラメ自信野郎の僕は必ず通ると信じきっていたが、帰ってきた返事は「NO! 若人よ、いずれまた会おうぞ!」という物だった。
うちひしがれた僕は東京のデカさを思い知り、上の階に住むウズベキスタン人を誘ってお酒を飲み、励まされ、瞬時に立ち上がり、ここTOKIOで頑張ってみようと思えたのだ。→今に至る。(※4)


『フラーは独特の富の概念を公言していた。それは、一般的に私たちの大部分に認められている貨幣ではなく人間の生命を維持・保護・成長させるものとした。それらを達成するための衣・食・住・エネルギーを、そして究極的にはより効率的に成し遂げるための形而上的なものであるノウハウの体系であるテクノロジー、それ自体が更に発展し続ける、それこそが「富」の本質であるとした。
「自分の時間をより有効な探査的な投資に解放すれば、それは自分の富を増やすことになる」
この言葉にも彼の独特の富の概念が現れている。』ーWikipediaよりー


 注釈解説
※1…十代の頃、大竹伸郎を崇拝していた筆者は、氏の略年表の中に「初個展/ギャルリーワタリ」という文字を見、調べるとそれは現在のワタリウム美術館だった事から以後、勝手に聖地となった。が、氏は後にワタリとは決別したとも記載されており、若い僕は混乱するのであった。

※2…自分が勝手に美術とは無関係な小屋や建築物をただ楽しむ為だけに作っていた時期であり、そこにフラードーム等の建築物を自由に知的に表現するフラーに、何故かクソガキの筆者はシンパシーを感じていた。若さとは偉大である。

※3…例え話しとは時に無情な空気を漂わせる。

※4…今の話をする、というのがこの本のルールではなかったのか。

自己紹介を込めて昔話。こんちは!二〇一二年 六月二十六日 月曜日 岸本雅樹

母校、多摩美術大学

2012年、この春から母校である多摩美術大学にまたお世話になることになりました。
自分の出身であるテキスタイルデザインの非常勤講師として。

自分が初めて八王子にある多摩美に行ったのは1998年、高三の夏。
とても暑い日でした。

その頃の橋本駅は今からは考えられないくらいなーんにも無いところでした。
小学校の頃、西八王子に住んでいたことのあった自分には懐かしい象のマークのハンバーガーショップ「ドムドム」くらいしか無い様な駅。

橋本駅から多摩美への行き方がわからず、
近くにいたおばさんに聞くと「歩くと大変だからバスに乗った方が良いわよ」
と言われたのに、バス代をケチるという愚行によりその助言を無視。
今となっては当たり前の橋本駅と多摩美をつなぐあのトンネルも当時はなく、
しかもイマイチ場所がわかってないのでかなり遠回りをし、1時間以上汗だくで歩きました。
男4人組で知らない土地を歩いたあの日は、
僕の1番好きな映画「スタンド・バイ・ミー」みたいでした。
ちなみに2番目は「グーニーズ」、
あの頃のアメリカ映画が好きです。

そもそも多摩美に行ったのは学校説明会の為だったのだけど、
学校説明会は上野毛校舎でした。
そこから上野毛に行く元気など微塵も無かったので大学内を探検して帰りました。
死体も宝物も見つけられませんでした。

かれこれ14年前の話。


そして、今日もまた多摩美に行ってきたよ。


2012.6.28
シミズダニヤスノブ

ひげ付箋をつくること

ぼくは多摩美を卒業した後、何十社も会社を受けました。が、落ち続け、一年半フリーターしてました。落ち続けていた理由は、きっと面接で「キミなにになりたいの?」と聞かれ「そっち側に座ってる人(面接官)のように人を採用できるくらい偉くなりたいです」とメンチ切って言っていたからだと思います。会社に落ちまくっていたので自分は社会にいらない存在だと強く思っていました。でも今はそうは思ってません。今、就職難で困ってる人に「あなたは社会にとても必要とされている! この世の中をよりよくするためにあなたがとても必要です!」と言いたいです。いずれ、“就職する”という考えは社会からなくなるんじゃないかと思っています。一億総起業家の時代がくると思っています。

多摩美時代は時間を持て余していたので、ビジネスをやればよかったと強く思います。もしぼくが教授になったら、「起業家育成塾」をスタンフォード大学のティナ・シーリグ先生のまねをしてやりたいです。彼女は「20歳のときに知っておきたかったこと」という本を出しているんですが、その本の中で「だれにでも可能性があり、自分に許可を与えることが重要」と言っています。「自分で自分の作った限界の檻に入ることはない」と。時間がない、お金がない、チャンスがない、というのは自分の完全なる思い込みだと本を読んで思いました。信じられないかもしれませんが、授業ではクリップを家に変えることができたり、レモネードでヘリコプターに乗ることもできたそうです。

大学生活の時間と若さがあれば、なんでもできることを大学生に言ってやりたいです。

話は変わりますが、今のこの日本の電力の全部を自然エネルギーに変えることだってできるのに、電力会社は、もし原発をやめたら何千億もの負債をかかえる、と言います。でもそれはただの思い込みだと思います。日本の“いらない思い込み”を全部変えてやりたいです。

あともうひとつ話は飛びますが「成功という言葉に惑わされてはいけない」ということをビル・ストリックランドさんのMAKE THE IMPOSSIBLE POSSIBLEの本で教えられました。“(貨幣の)富イコール成功”ではないと。情熱を傾けるものがあれば、その人はほぼ成功しているらしいです。「いくら(貨幣の)富を得ても成功とは別の話」だと。ぼくもそう思います。いつからだれが「成功」の定義を「(貨幣の)富と名声を得ること」にしたのか、許せません。

「限界を決めるな、失敗から這い上がれ、挑戦し続けろ、自分が信じることができれば、この世にムリなことはない、自分が夢見る場所は実はこの世にはない、なぜならこれから自分が作らなければ存在しない場所だから」とケータイにメモって自分に言い聞かせてます。

少し前のことですが、大学でお世話になった先生に「須貝くんが言ってる目標と今やってることはかけ離れてるけど、須貝くんはヘンな人だからそのままいったらいいんじゃない?」と言われました。

ぼくにとって“夢の広がる社会にしたい”ということと“ひげ付箋をつくること”はつながっています。
ということで引き続き、へんな発明品を企画開発します。

2012.6.29 SUGAI WORLD(スガイワールド)
http://www.sugai-world.com/

そう、WORLDの半分はIMAGINEでできているのさ。

あー、しかし、最近どうなんだろね。

自分の意見があるようでそんなにないかんじ。
考えてるようで考えてる風というか。
んー、まあいいか。

最近、こどもがうまれてからよく思うのは、
いのちっていうのがほんとにだいじなものなんだなということです。
だから、べつに道に見ず知らずの困ったおばーさんがいたら助けるし、
席も譲ります。そのおばーさんが誰かの家族だからです。
自分のばーちゃんがどこかで困ってたら
やっぱりだれかにそうしてもらいたいですし。
(こういうとだいたい「偽善だ」っていいたがるやつがいますが
くだらないから無視でいいね!)


でもそれは自分に子供がいるからとかいないからとか
そういう問題じゃなくてそれぞれのイメージ力の問題だと思う。

お金は欲しいけど、手に入れたあとどうするかイメージしとくのが大事だし、
原発止めたあとはどうなるか、どうしていくべきかまで考えておくのが
反対する場合のルールかと。いや、ないほうがいいんだけどねやっぱり。

ただ政治家やめろ、原発止めろ、というのも責任感がないというかね。
なんなら、おれにやらせろ、おれだったらこうしてこうして、、って
考えないと、というか、考える。

別に政治家になりたいわけじゃなくて、みんながそういう頭になれば、
いまみたいな腹の探り合い、だまし合いみたいなのは(なくなりはしないだろうけど)
まかり通る世の中にはならないんじゃないかと思う。

んで、やっぱり某フライングダッチマンも言うように
子供がいちばんいい迷惑を被ってると思う。
何も言えない子供はどうすりゃいいんだろうね、ほんとに。

あー、WORLDがHAPPYであることを望まない生き物なんていないだろうに。
やっぱり宇宙人でもせめてこないとだめなんぢゃなかろうか。


2012.6.30 ふるや

「現在地」のはなし

 世界はオカルトである。
 きっと、それは、文明や社会や宗教が生まれたときからそうだったのだけど、世界のごく一部の人(上のレイヤーの人たち)だけで操作されているものだから、一般庶民は知らなかっただけ。だけど、その都市伝説的な事柄が実際に起きているのかもしれない、ということが主にSNSやBlogなどが発端となり、首都圏だけではなく地方にまで普及しているのが「いまここ」である。

 日本の政治・経済が現在、過去に例を見ないほどに危機的状況であることはわかっているし、原発問題や放射能問題など、目に見えない恐怖を感じつつも、3.11以降、私の生活はライフスタイルは具体的にどう変わったのか。

 まず、変わったことは、水や家での食料にすごく気を遣うようになったこと。水はミネラルウォーター(できれば放射線検査済のものか、海外産のもの)を買うし、食材は主に放射線検査済の宅配野菜サービスを使ったり、オーガニック食材を海外から購入する。もちろん、スーパーでも買うけど、産地はチェックする。オットはそれをいやがり、たまにdisられるが、私がなんでそこまでするかというと、こどもがほしいから。外食ではコントロール不可能だから、家でくらい安心したいから。

 変わらないことは、いろいろ気は遣いつつも、普通に産地とか気にせず外食するし、酒ものむし、タバコもやめられない。
 そして、仕事のサイクルも変わらない。最近は忙しくて、朝まで仕事して、気持ちいい朝日を浴びるとげんなりして死にたくなって、家に帰って出勤準備をしているオットと会話を交わしてから仮眠をとり、昼過ぎに出勤。そろそろ体力的にもしんどいし、いつまでこんな生活続けられるんだろう、と思いつつも、仕事をする(この原稿も日曜の16:00に会社で書いている)。

 要は、3.11とは言わず、大学を卒業して以降、社会情勢がこんだけ変わっても、私の生活はそんなに劇的に変わっていないのだ。別にそれがいい/悪いとかではなく、その「社会」と「生活」の乖離こそがオカルトだと思うのだ。

 昨日、「NO NUKES 2012」というイベントに行ってきた。坂本龍一が呼びかけた、脱原発を目的とした音楽フェスだ。フェスと言えども、祝祭感は全くないし、会場の雰囲気はわりとシリアスだった。
 YMOとクラフトワークのライブはマジ最高だった(そこに関しては割愛)。
 彼らはもう、割り切ってしまえば、ただのんびり暮らしていくという選択肢もあるはずなのに、なぜここまでがんばるのか。それは、「未来」と「HAPPY」のためではなかろうか。自分たちのこどもたちに、自分の愛しているひとたちがHAPPYでいられるように。なんでそんな単純なことがこれほど難しいのかな。そして、私たちの世代は、何ができるのだろうか。

 原発反対/賛成。私はどちらの意見もある程度は理解できる。ただ、いまは、もっとお互いが生産的で具体的な着地点を見いだしていかないと行けないと思う。ただやみくもに反対や賛成するのではなく、お互いの意見を理解して、着地点を見つけること。未来のことを考えた上で、今はどうしていくべきか。プロセスがない事柄は成立しない。そのプロセスを見いだせればいいな、と思う。絶対にあると思うから。
 そして、私個人がが本当に望んでいるのは、私の愛しているオット、未来の家族(こどもとか)、私とオットの家族、大切な大切な友達や同僚、友人や同僚にとって大切な人や愛する人がHAPPYであること。別にお金持ちにならなくてもいい(多分なれない)けど、仕事して、おいしいごはんを作って食べて、お布団で寝て、お風呂に入れて、たまには楽しく飲んで騒いで、くだらないことで怒ったりけんかしたりして、日本の四季のうつろいを感じつつ、太陽の下で暮らせること。そんな些細なことだったりする。

 そんなことを思いつつ、日曜日に出勤して仕事します。まあ、いろいろあるけど、がんばるしかないよね、結局。当たり前のことを大事にしつつ。ある種の楽しみを感じつつ。

2012.07.08 Sakiko Ogawa

未来を映すノスタルジーについて



 電車の窓からは風車が見えた。

 白い塔に大きな羽根、あからさまなほどにオランダ風の風車が、いきなり田園地帯の真ん中に現れる。実家の最寄り駅である岩槻駅から、埼玉県最大のターミナルである大宮駅に向かう東武野田線の、進行方向向かって右側。駅でいうと大和田駅と大宮公園駅のあいだ、地名でいうと見沼という場所で、見沼代用水という運河というか用水路が走り、それにそって田んぼが広がっている。関東平野なんてものを意識したことはないけれど、この場所は驚くぐらい平らだなと思う。
 どんな所以で、何のためにそこにあるのか、さっぱり見当もつかないような唐突さで目に飛び込んでくるその風車は、飛び込んでくるとはいっても距離的にはかなり遠くにあるはずなので建造物のディテールまでははっきりわからず、しかし白い塔をもった風車であることはわかり、その曖昧な違和感というか不思議な存在感は、それを視界に捉えることのできる数秒か十数秒かのあいだ、僕の目を釘付けにするというほどではないが、とにかく意識の片隅で「ああ、風車があるな」と思わせ続けるくらいの居座り方をする。

 あの風車は何だったのか。高校に入って電車通学を始めて以降、毎日何となく眺め続けていた風車だが、20歳を過ぎたあたりからまったく目に入らなくなった。それですっかり忘れて、大学を出た後も実家に帰るたびに僕はあの風車を視界にとらえていたはずだけれど、一切思い出さなかった。それをふと思い出したのでいまこうして書いているのだが、はたしてあの風車はいまもあるのだろうか。というか、あの風車は本当にあの場所に存在していたのだろうか。
 いや、もちろん風車は本当にあの場所に存在していた(している)。あの風車は見沼見晴公園という公園のなかにあって、いちおう春には桜が咲いて花見客が集まるらしいのだが、それ以外にこれといった名物も特徴もないような公園で、その中で唯一のランドマークがあの風車であるということだ。さいたま市営の公園のようなので、図書館に行って市史を調べるなり役場に問い合わせるなりすればもっと詳しいことも分かるだろう。
 しかし僕が知りたいのはそういうことではないし、もっといえば、あの風車をもう一度見たいと思っているわけでも、実際に行って確かめてみたいと思っているわけでもない。それに、いくらこの風車のことについて知ったところで、僕のなかにある「あの風車は何だったのか」「あの風車は本当にあの場所に存在していたのだろうか」という疑問は決して消えない。
 そして、ここが重要なのだが、その疑問が消えないかぎり、あの風車は僕のなかで厳然と「ある」。たぶんその状態を、人は「原風景」や「ノスタルジー」と呼ぶ。「ない」けど「ある」記憶。

 という話が何のメタファーなのかといえば別に何でもないのだけれど、ところで「原風景」や「ノスタルジー」は過去だけを意味するものではない。
 最近『機動警察パトレイバー』の映画を観て、TVシリーズやOVAのDVDを観て、文庫版になっている漫画を大人買いして、つまり何度目かのパトレイバーブームが到来しているわけだが、基本的にロボットアニメなどに惹かれることの少ない僕がなぜ『パトレイバー』だけにはこんなにもぐっと来てしまうのかといえば、やっぱりノスタルジーなのだ。「ない」けど「ある」記憶、ただし過去ではなく未来についての。
 『パトレイバー』が作られたのはだいたい1980年代末から1990年代前半にかけてで、そのあといきなり2002年になって外伝的な映画がもう1本作られたのだけれど、だから僕はこの作品をリアルタイムで観たり読んだりしていたわけではない。作品の舞台は1999年頃という設定になっていて、むしろ僕が『パトレイバー』にハマったのはその頃、作品世界における「リアルタイム」だ。
 いちおう説明しておくと、『機動警察パトレイバー』はそのタイトルのとおり警察官が主人公で、ショベルカーやブルドーザーのような工事用機械が発展したものとして手足を持ったロボット(レイバー)が生まれ、それが広く普及しているという設定のもと世界観が作られている。

《テクノロジーの急速な発展とともに、あらゆる分野に進出した汎用人間型作業機械「レイバー」。しかしそれは、「レイバー犯罪」と呼ばれる新たな社会的脅威をも生み出すことになった。続発するレイバー犯罪に、警視庁は本庁警備部内に特殊車両二課を創設してこれに対抗した。通称特車二課パトロールレイバー中隊、「パトレイバー」の誕生である。》

 というのがアニメのオープニングのナレーションで、要するにそういうことなのだが、ご存知のとおり、現実には21世紀になって10年が過ぎたいまも、「レイバー」などという代物はこの世の中に登場していない。『パトレイバー』に描かれているのはありえなかった未来だ。街中をレイバーという名のロボットが闊歩し、それらは人々の生活に溶け込み、まるで自動車同様に、当たり前のものとして存在している。地に足の付いた、リアリズムとしての「近未来」。
 バブル時代ゆえの牧歌的な雰囲気もあったのかもしれないが、作品中には手を延ばせば届くような身近さで、ありえない世界が生き生きと表現されている。
その想像力、現在と地続きのものとして未来をイメージする力が、おそらくここ15年くらいで、この国からは急速に失われてしまったのではないか。想像力にはふたつの種類があって、ひとつは現実から逃避するためのもの、もうひとつは現実を超えてその先を創り出すためのものだ。というのは何かの本に書いてあったわけではなくていま僕が勝手に思いついたことだけれど、そしてそのどちらかが悪いというわけではないが、少なくともあらゆる表現の分野で、いまは前者の想像力が幅をきかせ、後者はほとんど駆逐されてしまっている。
 戻るべき場所を生み出すのがノスタルジーなら、進むべき場所を生み出すのもまたノスタルジーである。
 現実の21世紀が、かつて夢見た21世紀の未来像と似ても似つかないものだということが明らかになったいま、じゃあ、たとえば22世紀に対して同じような夢を描けるかといえば、それは難しいのかもしれない。しかし、22世紀といえば、ドラえもんが生まれた世紀だ。ドラえもんもまた、ごく当たり前に日常に溶け込んだ「未来」だった。かつての想像力が現実に追いつかれようとしている今、その「先」を描く想像力もまた生まれてこなければならないはずだ。

 電車の窓から見えていた風車が僕の中でふたたび回りはじめたことと、『パトレイバー』にまた回帰したことに、関係があるかどうかは知らないが、少なくとも、原風景を再発見すると同時に、久しぶりに未来について考えようと思ったのは偶然ではないだろうと思う。考えよう、じゃなくて、未来を夢見よう、か。「ない」のに「ある」過去に手を延ばしながら、背中越しにまだ「ない」のに「ある」と夢見る未来へと進む。バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。

 さ、明日からもがんばろ。

2012.7.15 小川智宏

宇宙を超える葦

「人間はひとくきの葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。葦は考えることによって宇宙を超えることができる。」
ー「クレオパトラの鼻が…」でおなじみのフランスの哲学者、パスカルの『パンセ』の有名な一節。


 こんなふうに感じることはないだろうか?
「この場所来たことないけど知ってる気がする」
「初めて来たのに懐かしい」
「初めて会った気がしない」
「やっと会えたね」
時にはもっと感覚として明確に
「この場所、この季節、この人と、この瞬間が前にもあった」となぜか感じる。
 これを既視感、デジャヴュ(仏・déjà vu)という。
(ちなみに調べたら対義語に「未視感」とあった。見慣れたはずのものが未知のものに感じられること。ジャメヴュ(仏・jamais vu)っていうんだって。)
 デジャヴュって何なんだろうか、なぜおこるのかをずっと考えていて、最近の私の考えをとりとめもなくまとめてみる。

 まとめ。
 「デジャヴュってシステムエラーみたいなものなんじゃないかしら。」
 私たちはもしかして、何回も何十回も何百回も何万回も同じ生を繰り返していて、記憶は毎回リセットされるけど、感覚がシステムエラーを起こして「懐かしい」「知ってる」という感覚が生じるんではなかろうか?
 数えきれないほど同じことを繰り返しているから「この場所、この人と、この時」があったと感じるんじゃないだろうか。そして、この、ただ繰り返す人生は、大いなる意志のもとで、意味があるから繰り返すんじゃなくて、季節がうつりかわるように、そこに意味はないんじゃないか。
 人は自分の存在理由や、人はどこから来てどこへゆくのか、経験できない自分の死など、こわくてわからないことがいっぱいある。だから昔から議論をしたり、研究したり、神をつくったりして思考の着地点を求めるのだろう。
 人がそんなことをするのは、人が考える葦だから。
 しかし、人生に隠された意味、課せられた使命はないと仮定しても、きっとより善く生きたいと努力するのは大事。
 近代哲学の父、デカルトの哲学では「我思う、故に我あり」。その我が我をより知るためには他者の存在が必要不可欠で、他者との差異によってアイデンティティーを確立できる。
 他者とのコミュニケーションにおいては、より善く生きたいと努力することは大事だろう。他者と対話することによって葦はぐんぐん伸びて、草むらになったり、森になったり、山にだってなるかもしれない。

 こんなことを考えていると、いつか真理に行きつくかしら、と思ってわくわくする一方で、真理に行きついてしまったら、秘密の組織に消されるかもしれない、とか、いや、そもそも今現実だと思っているものがぜーんぶ夢なのかもしれないなどと思考の迷宮に入ったりしてこわくなったりもする。


思考によって葦は宇宙を超える。
もっと伸びたい。パンセしよう。


二〇一二、七月十九日
山口 温子

昔からさ
「器物九十九年にして霊宿る」みたいなこと言うよね。
妖怪だお化けだって話は置いといて、
これってやっぱり本当だと思うし、すごく好きなのね。
だからってわけじゃないけど、ものは大切にするし。

で、それとはまたちょっと別の話で。
ま、自分の中ではつながってるんだけどね。

太陽とか

山とか

でっかい木
でっかい石
そこらへんの草とか花とか
死んじゃった家族、友達とかペットも
もう何でもいいけど。

十字架にかかった誰かより(悪くないね)
でかい箱の中身より(立派だよ)
座ってこっちを見てる誰かより(いい顔してる、でもね)
そういうものの中にこそ「神」的な何かを感じているなと。

神やら仏がいっしょの国の宗教のない家で、
自然が残る田舎で育ったからかも知れないけど。

言いたいのは、
「九十九神」って考え方がすごく愉快で納得できて、すごく好きだってこと。
で、確かに万物に神は宿るってこと。
でもそれはきっと「神」って感じじゃないってこと。
あと、神様っていうような絶対的な力は、何だかいけ好かないってこと!


二〇一二/七/二十二
安藤 次朗

外見がすべて

私が通っていた幼稚園は、今思うとスパルタ幼稚園だった。

教育者である母の審美眼にかなったその園は、仏教に基づいた教育方針で、一日の始まりは教室で正座の瞑想から始まり、そこからパンツ1丁で寒風摩擦(真冬でも)。その後、マラソンをして一日の活動が始まる、というものだった。

記憶の奥の奥にあるそのときの経験が、今になって自分の人格形成に、少なからず影響していると感じる。

当時、毎日歌う短い園歌のようなものがあって、その歌詞の詳細は覚えていないんだけど
「母さんは、口では言わないけれど、僕のしたこと知っている。
父さんは、口では言わないけれど、僕のしたこと知っている。
ののさま(当時の園の神様のようなものなんだけど「自分の心」と今は解釈できる)は、口では言わないけれど、私のしたこと知っている」

みたいな歌詞で、こっそり隠れて悪い事しても、どっかで誰かが見てるんだよ。それは、もう一人のあなただよ、的な意味も感じていて、だから悪い事は出来ないな。と幼心に思っていた。
(どうしても寒くて死にそうな日に、こっそり下駄箱の隙間に隠れて、寒風摩擦さぼったけれど。大嫌いなプールの授業も、親と先生に嘘ついて2週間さぼっていたけれど。。。後にバレて大目玉を食らう。)

毎日の寒風摩擦のおかげか(中高運動部だった事もあると思うけど)いまだに風邪は全然ひかないし、身体は超がつくほど健康と言っていい。

当時の歌の歌詞が、妙に心に残っていて、悪い事をする事ももちろん有るんだけど、自分は、良心の呵責が大きかったり、結構厳しい目で見ているもう一人の自分がいたり、因果応報という言葉に敏感なように感じる。

大人になって、実感として感じるのは、目には見えない物であるけれど、日々の考え方や、生活、思考や、どんな環境で生きているか、生活しているか、何を着ているか、何を食べているか、に至るまで、ライフスタイルの全て、思考のすべてが、人の外見に色濃く現れているように感じる。自分も他人も。見た目ってやっぱり重要で、よくよく観察してみると色々な事がわかったりするよね。

年齢的なものや、私自身の興味の対象が「人」そのものになっているので、その様に見えてくるのかもしれないが、外見を見るだけでも「嘘はつけないな」なんて思ってしまう。

だから、嘘をついたり、悪い事してシメシメって思っていたり、だらしなーい生活してたり、不安定な心で生活していたり、邪な心をもっていたり。そういうのは、どっかで誰かが見ているっていうあの歌の通り、私の心は、本当は何よりもそれを分かっているし、私の貴方の外見や雰囲気に全て現れるんだと思う。。。

でも、綺麗なだけじゃつまんないから、清濁あってこそが人間の魅力ですよね。

2012年7月30日 小川留奈

ドキドキよ永遠なれ。

愛は地球を救う、という言葉。
「愛」って、実に曖昧で大義。
でもって、その曖昧こそが地球を救えてるか?、いや地球こそがその「曖昧」を誕生させ、育て、たまにつき返してはひっついて出来たもの、それがおおまかな愛だろう?
だから、「地球は愛を産んだ」のがスマートなのかなあ。

いろんな愛があるしなー

恋人へ、家族へ、動物へ、草木へ。
相反する考えの君へ(それは例えば右翼が左翼に、大人が子供に、ベジタリアンが焼肉屋に、ノンケが同性愛者に。)

愛達は色んな「物」にも向けられてる訳で。

それは自分や誰かが作った物で愛用していた、手作りの靴箱や、引っ越しの時に気付く踏み続けた絨毯へ、そして住んでいたその部屋。
逆に大嫌いな物にも愛は包まれていて、タイ料理にも、痴漢で捕まった、元々消えてしまえばいいと思っていた昔の担任にも、あのニオイ忘れらんねー、あんな事言ってやがったなーー、的な嫌な思い出という愛。

とても曖昧かつ便利な言葉だ。

だけど、わかっている確かな事はドキドキだ。めっちゃ怖くてドキドキも含むよ。
これが一番の個人個人の判断方法だよね!(…ね?)

ドキドキしたら行動を起こさなければならない。
ドキドキはほっとくとしぼんでしまう。
それは今回ほんとよーくわかった事。
ドキドキしたら、ドキドキしたよと、ドキドキさせてくれたものに伝えなければなくなってしまう。

後悔してドキドキしても、伝えなければならない。
時既に遅しでも、今起こったドキドキは確かなんだ。

だからケンカをして、後でドキドキしても伝えなければならない。

あまりにもドキドキした風景を見たら風景に、絵を見たら絵に、本を読んだら本に。

難しいドキドキもあって、食事に誘われて嫌なドキドキをして断わったら、後で後悔してドキドキしてきた的な…

大嫌いなプールの授業で、親にも担任の先生にも、プール大嫌いと言ったらその後ドキドキしてきたのを思い出したよ。
結果そのドキドキは大人達をドキドキさせ、こいつを泳がさなければならない(それは親のサダメなのか、職員会議で決まった事なのか)となって、
必死に練習させられ、もっと大嫌いになったけど、結果、学年で最後だったけど50メートルが泳げたんだ。
ドキドキしたなーー。
あの頃の僕はすぐドキドキしたぞ!って言っていた、気がする。
(若い、とは若さ故にわからない。)by Kamachi Yamada.

だけどその感覚は大人になった今でも使わなければならない。
使えてないのが実状だけど…。

地球がとんでもないドキドキを沢山産んで、ドキドキしてるって叫んでるのにそのドキドキを放っといてしまったからこうなったんだよ。

「ドキドキ、聞こえてるぞこの野郎!」
と僕は返事をしなければならない!

返事をするからにはその返事を確実に届けたい。メールじゃダメだ。
ハグしてブチュッとして伝えなければならない!!!

最近、自分にそう言い聞かせ、毎日を過ごしています。

2012年8月2日 岸本雅樹

オトナ

いくつになったら大人になれるのかなー。

実年齢に自分が全く追いついてきません。

今の自分の年齢の時に自分の親はもう親でした。
自分が子供の頃に思い描いていた大人はもっと大人だったなー。
高校生の頃、バイト先の店長はすっごい大人に見えたなー。(今の自分より全然年下。)

いつになったら大人になるのだろう。

どうやったら大人になれるのだろう。

どうなったら大人なのだろう。

結局そんなこと思っているうちはまだ大人じゃないんだろうな。


自分の周りも新たな家族を持つ人が増えてきた。
旦那、奥さん、息子、娘。

小人(子供)が出来たらやっぱり大人かな?


コーヒーが美味しいと思えたら?
子供の頃、親が飲んでるコーヒーはすごく大人の飲み物でした。
寝れなくなるからとか言われて飲ませてもらえなかった気がする。
初めて飲ませてもらったコーヒーは砂糖とミルクをたっぷり入れなきゃ苦くてマズかったなー。
いつの間にか、缶コーヒーは微糖でも相当甘く感じる様になってきた。
今やブラック飲みたい時が全然有るよ。

ビールが美味しいと思ったら?
昔は無理してビール飲んでたなー。
ビールよりコーラの方が100倍美味しいと思っていた。
けどいつのまにかコーラじゃ物足りなくなってきて、
今やビールが本当に美味しい飲み物になったし、
コーラよりビールの方が全然よく飲むよ。

タクシーに1人で乗れる様になったら?
ずーっとメーターから目がはなせなかった。
ちなみにこれは今も継続中。笑
32歳になった今でもタクシーに1人で乗るとすごくドキドキする。

松尾スズキの「大人失格」という本にもタクシーについて書いてあったな。
確か松尾スズキは「己れに勝つ」ためにタクシーに乗るらしい。

よし、俺は1人でタクシーに乗ってもドキドキしなくなったら一歩進んだことにしよう。


大人だから○○。
大人じゃないから△△△。
そんな言葉の縛りはつまらない。

結局のところ、いつまでも何でもドキドキ、ワクワクするヒトでいたい。

そんな曖昧さを楽しめるヒトになりたいな。


2012.8.15
シミズダニヤスノブ

やりたいことやってるひとは強い

 先日、メダカを二匹買いました。奥沢の熱帯魚屋さんで。暑くて、家に帰る前に熱中症で死なないか心配しながら帰りましたが、無事生きていてくれました。体がオレンジ色の楊貴妃メダカと、体が白い白メダカを一匹づつ飼いました。楊貴妃メダカは、お姫様のように優雅に泳ぐので、「ヒメちゃん」と呼ぶことにしました。白メダカは、よくウンチをするので、最初「ウンコ太郎」と呼んでましたが、直球のネーミングなので、オブラートに包んだ表現で「コタロウ」にしました。そんな二匹が優雅に泳ぐ金魚鉢の前でこの文章を書いています。

 ところで最近、「やりたいことやってるひと」は、本当に強いと思います。「やりたいこと」と言うと、「自分のためにやりたいことをやってるひと」なんてイメージになりそうですが、そうではなくて、「ひとのためにやりたいことをやってるひと」です。

 そんな「ひとのためにやりたいことをやってるひと」のひとり、ヤスくんのテキスタイル(JUBILEE http://www.jubi-lee.com)を見たのは、学芸大のバーデンバーデン(badenbaden http://www.badenbaden.jp)さんでの個展でした。友人のセキユミ(sekiyumi http://www.senobiweb.com)さん経由でヤスくんの作品を知り、その清々しく、ひとめ見ただけでハッピーになるテキスタイルに魅了されました。テキスタイルを見てすぐに「このひとは、ひとをハッピーにしたくてやってるんだなあ、」と思いました。

 友人に「ヤスくんは、10年がんばってきたからね」と聞きました。10年の間にきっと山あり谷ありだったと思います。でも、ヤスくんのテキスタイルからは、汗や涙を感じさせない清々しさだけが伝わってきます。それはとってもすごいことでかっこいいことだと思います。

 ぼくは、ひとの想像力に無限の可能性を感じますし、だれもが持ち得る力だと思っています。だれもが想像力と創造力を持ち得ているのに「ぼくはセンスないから」とか「センスの問題」、「センスないね」とか言うひとが大嫌いです。なんだよそのセンス至上主義、って思います。

 こんな進んだ世の中になってもなお「夢は叶わない」と思っているひとがいることが不思議に思いますし、「それはやめた方がいい」「やってもムダ」と大人の顔して言うヤツは大嫌いです。

 だれもがファンタジーの世界を作り出すことができるし、その光を消さないように大切に大切に生きてきたひとや、ひとの光を感じ取れるひと、ひとと光を共有しようとするひとに、とても魅力を感じます。

 自分の想像力と創造力をひとのためにやりたいように全力でやる。それをやっているひとの頭からは、「情熱」という目には見えない脳波が出ていて、ひとの脳波を突き動かします。その脳波がつながり、ひとりではできない何倍の脳波になってこの世界を突き動かし、より多くのひとをハッピーにすることができます。

 アメリカンドリーム思想の父、鉄鋼王のアンドリュー・カーネギーさんは言っています。「だれもが可能性を持っている、それを知ってほしい」と。

 ぼくは、就職浪人のときに「ゆうくんは社会不適合者だから」と毎日のように言われました。そうなんだろうなあ、と思いました。でも実はそんなひとは、この世にひとりもいなくて、
「みんなにこの世界をハッピーにする使命があるんだ」ということに気づいたのです。

2012.8.18 SUGAI WORLD(スガイワールド)
http://www.sugai-world.com/ 世界が虹色に輝き出す「虹色めがね」発売

そう。
話がつながってないので大変申し訳ないのですが、言わせてほしいことがあるのさ。

そう。
話がつながってないので大変申し訳ないのですが。

告知を2つ。

わたくしそろそろ会社を設立しようかと思っております。
(…が、諸事情によりちょっと先になりそうなのでプレ告知ね、プレ)
会社名は未定です。
わたくしはもちろん社長と名乗ります。
以後、お見知りおきを。

どうぞよろしくお願いします。


もうひとつ。

9/2から「毎日が文化祭(仮)」というプロジェクト名で
勉強会を継続的に行なっていこうと思っています。

このパスザマイクメンバーにはちょっと相談含め
話したことがあることがあるのですが、
「勉強会」と言ってますが、どっちかというと
「しゃべり場」に近いノリで考えています。
通常のトーク企画ではなく(例外はありますが)
できるだけディスカッションにしたいと思っています。
そして、こっちもアーカイブとして勉強会ごとに冊子にする予定です。

取り上げるテーマは毎回違うし、
デザインとか全く関係ないこととかも平気で話そうと思っています。
企画を立てるのは、私含め関係者のみならずだれでもOKにしています。

なにかにつけて「コミュニケーション」が
引き合いに出される現代社会において
満員電車での降りたいアピールが人にぶつかることか、と。
一言「すみません、おります」で人は道をあけるよおっさん、と。
わたしは思う訳です。

いじめしかり、センカク云々しかり、TAKESHIMA云々しかり、
相手をものか動物かとしか思っていないような振る舞いを平気でしているわけです。
そりゃあんたけんかになるわいな。

つまり、面と向かった相手を相手と認め、
互いに意見を交わすことなしに、
高度で円滑なコミュニケーションに満ちた
ハッピーな社会はないとわたしは思う訳です。

ちなみに9/2は、「文学から現代を読み解く会(仮)」の第一回目で、
ベタなところですが、村上春樹の「海辺のカフカ」を題材に語り合う、そうです。
場所は、荻窪にある六次元です。
18時から1500円

また、詳細詰めて(おそらく今週)もうちょいまとめて
また告知させてください。

パスザマイクでも何かできるといいなと思ってますが
またおいおい。OIOI。

ではー。


2012.8.21  ふるや

※2012.9.29追記 プロジェクト名に関しては当時のものであり、
 現在は他の名称を検討中です。



イメージは実現する

 想像と違っていたね。
という話を、友人とよくする。

 まだ私がティーンエージャーだった頃、30歳というのはとても大人で、お金も地位もそれなりに手に入れていて、結婚できていたらきっと子供もいて、家も購入して……というような漠然としたイメージを抱いていたものだ。今年で32歳になるが、蓋を開けてみれば前述のイメージ内のものはほぼかなっておらず、歳だけとった(苦笑)。唯一現実となったのは、結婚したことくらいだろうか。
 とは言っても、様々な状況を鑑みるとそれはいたしかたないし、別にそれを憂いているわけではない。ただ、理想と現実は違うなあ、と思ってみたり。

 十数年くらい前の私は、なんでそんな(今で言えば無茶な)想像ができのかと考えると、やはり「大人」の存在が大きかったのではないか。大学卒業まで支援してくれた親や先生、周囲の人間など、「そういうイメージを抱かせてくれる大人」が多かったと思うのだ。あとは情報の質量の問題もあるとは思うのだが。

 なんでこんなことをいきなり言うのかというと、今の子どもやティーンエイジャーにとって、この世界や社会はどう見えているのだろうか、とふと疑問に思ったのである。ほんの少しでもいい、希望や光を感じとることはできるのだろうか。あと、希望への道を無理矢理でもいいから切り開くような、そんな力は残っているのだろうか。私には子どもはいないけれど、未来はティーンエイジャーや子どもにかかっているとは思っている。だからこそ、少しは大人になった私たちが、その年代や時代を牽引していくようなコトやモノを生み出していかなければ、と漠然と思うのだ。

 ちなみに、もうすぐ32歳の私は昔に想像した姿とは違うけれど、昔の私が抱いていたイメージは、もう数年先のビジョンだろうな、と超ポジティブに受け止めている。いろいろあるけど、絶望してるだけでは何も始まらないし、前進していくのみ。来年は私にとっては変化の年となる予感がしているのだけれど、それも含めて、すばらしい未来がきっと待っている。

2012.09.05
Sakiko Ogawa

東京、トーキョー、TOKYO



 国道246号線は年がら年中工事をしていて、そのたびに渋滞が起きている。深夜帰るときにバスに乗っていると、あまりに時間がかかるので辟易する。明治通りでも延々と工事が続く。地下鉄の工事だそうで、完成までにはまだ10年くらいかかるらしい。山手通りの首都高建設もずいぶん長い。

 何をそんなに作ったり直したりする必要があるんだろうかと思う。

 いや、もちろん必要なのだろうし、新しい線路や新しい道路ができればいろいろと便利になったり豊かになったりするのだろうと思うが、それにしても、と思ったりもするのは、最近、歩いて帰っているときだ。
 だいたいが都市というのは永遠に発展途上で、必要に応じて新しい道路や駅やビルや公園や……が作られ、また別の必要が生まれたときにそれらは壊され、作り変えられ、更新されていく。人間の想像力なんてせいぜい向こう10年か20年くらいのスパンでしか未来を「具体的に」考えられないのだから、綿密に練り上げられた都市計画なんてものは必ずどこかの時点で行き詰まって方向性がぶれていつの間にか考えていたのとはまったく違うかたちになる(これがもともと生物としてそういうものなのか、それともある時点からそれ以上考えるのをやめてしまったのかは分からないが、少なくとも、より生きることがシビアだった大昔の人は、何千年も前のことを想像して伝説や宗教のかたちで言い伝えてきたのに対して、未来のことは1年か2年くらい先のことしか思っていなかったのではないか、というのは、ニューヨークの都市計画とその発展の顛末を追ったレム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』なんかを読んで思ったことだ)。
 そういうものなので街が常に作り変えられていくのは当たり前なのだが、それにしても東京は「生まれ変わる」欲求が異常に高い街だ。ニューヨークでもロンドンでもパリでも、最先端の都市機能とおそろしく古いものが同居しているというか、どんなに新しいものでも歴史の上に立脚しているという気がするのだが、東京にはそれがあまり感じられない。古いものを「保存」するか、それともすべて壊して新しい何かを作るか、その両極端しかなくて、とくに壊す場合は土台からすべて作り替えてしまう。まさに生まれ変わろうとするかのようだ。
 今、北京や上海が繰り広げている都市開発に、その様子は似ている。少なく見積もっても戦後70年、東京は成長してきたはずなのだが、その変化のスピードはたぶんほとんど緩んでいない。「必要」という意味ではすでに過剰な領域に突入しているようにすら思う。
 日本は地震が多いし、戦争も経験しているし、せっかく作ったものが理不尽な力によって粉々になるという体験を繰り返しているから、そもそも都市の歴史というものを信用していないのかもしれないし、あるいはそもそも近代的な都市というものが海外からの輸入品(借り物)だから、新しい服に着替えるように街もその様相を変え続けているということなのかもしれないが、いずれにしても、東京の街はいつまで経っても目まぐるしい。

 東京都現代美術館で開催中の「館長 庵野秀明 特撮博物館」にようやく行く事ができた。この展覧会には「ミニチュアで見る昭和平成の技」という副題が付けられていて、円谷プロや東宝の特撮映画で使われたミニチュアが並べられ、特撮技術の解説が行われている。クライマックスは庵野秀明監督の短編特撮映画『巨神兵東京に現わる』の上映と、巨大なミニチュアセットの展示だ。
 日本のミニチュア特撮といえばゴジラとウルトラマンだが、よく言われているように、ゴジラの背景には戦争と原爆の体験がある。水爆実験の影響で誕生したゴジラはそのまま広島と長崎に原爆を落としたアメリカのメタファーで、それが日本の都市を蹂躙し、焼き払うというのは、そのまま太平洋戦争の焼き直しだ。1954年の第1作『ゴジラ』では最終的にひとりの科学者が発明した化学兵器もろともゴジラに突っ込み人類を危機から救うのだが、この言説に従えばこの科学者は特攻隊の投影にほかならない。
 その強烈な負のイメージをもった怪獣が、海外に輸出される際に「GODZILLA」――「GOD」という言葉を含む名前に翻訳されたのはちょっと皮肉っぽいが、それはともかく、そのゴジラを描くために、円谷プロはおそろしく精巧なミニチュアで日本の街並みをつくり、それをリアルに撮影する技術を編み出した。都市が必要によって生まれ変わり続けるのだとしたら、彼らが作り出したミニチュアの都市は、どんな必要によって生まれたのだろうか。
 ミニチュアセットは、簡単にいってしまえば壊されるために作られる。怪獣に踏み潰され、焼かれ、薙ぎ払われるために作られる。ビルが粉々になったり、鉄塔が飴のようにひん曲がったり、車が爆発したり、山が燃え上がったりするシーンは、特撮映画のハイライトだ。どうせ壊されるものを手塩にかけ、本物と見まごうほど精密に作り上げるというのは、見ようによってはかなりマゾヒスティックな行為だ(しかも、テレビの時代になると毎週新しいセットが登場し、そして破壊される!)。
 ――と思っていたのだが、ミニチュアの数々を見ているうちに、しかしそれは違うのではないかと考えるようになった。そこにあった動機は、「壊すため」というよりむしろ「作るため」、より正確にいうなら「もう一度作るため」だったのではないか。怪獣に踏み潰され、焼かれ、薙ぎ払われる、それは確かに特撮映画の大きな魅力だが、それが常にリニューアルされ、新しい街並みとしてよみがえる、そこに本当のカタルシスというか本能があるのではないか(まあ、それはそれで充分にマゾだけれど)。
 そのカタルシスや本能というのはフェニックスのように灰の中から再び生まれるというような崇高な精神論的ではなくて、どちらかといえば「どうせ壊されるし」「どうせ死ぬし」「どうせ消えていくし」の「どうせ」に込められているような諦めや割り切りに近いものだ。その「どうせ」が、逆説的に常に新しい街並みと新しい文化と絶え間ない生まれ変わりを下支えしている。「どうせ」失われるという発想の前で、歴史は意味を失う。過去から逃げ切るために、東京は70年間「発展」という名の変わり身を続けてきたのではないだろうか。

 じつは、僕は東京のそんなところがずっと苦手で、工事中に道路にアスファルト舗装の代わりに敷かれている滑り止め付きの鉄板、その上を歩くたびに居心地が悪くなるのだが、最近、ようやく慣れてきた。慣れてきたというか、分かってきたというか、要するにそれは大した問題ではないのだということに気づいたというか。
 この頃歩いて家に帰るようにしていて、深夜の街を、大通りからちょっと離れて歩いていると、思いのほか東京は静かだと思う。ちらほらと明かりのついた窓があり、そこからはうっすらと笑い声が聞こえてきたりして、あるいはこんな時間にもかかわらずジョギングをしている人がいたり、犬の散歩をしている夫婦がいたり、家の前でダンスの練習をいている女の子がいたり、公園でスケボーをやっている男の子がいたり、たまには路上で酔いつぶれて寝ているおじさんがいたりする。そういう、人々が静かに生活している雰囲気を感じて、何だか安心するのだ。そして、今まであまりにも何も見えていなかったことに驚く。東京コンプレックスを抱きまくりの埼玉県人である僕は、この街にむやみな幻想を描いていたのかもしれない。この街に暮らす以上、変化をし続けなければならないし、東京の街はそれによって僕に何かを与えてくれるかもしれない、と。
 確かに東京は渦を巻くようにぐるぐると変化を続けているし、その渦の中心はいつだって空っぽだ。その高速回転運動から弾き飛ばされないように自分も一緒になって回転していると、いつの間にか僕の中身も空っぽになってしまう。もっとも、この街にはその空っぽを埋めるための情報やカルチャーやエンターテインメントが溢れかえっているので、それはそれで楽しい人生なのかもしれないけれど、それはそれとしてこの街でうまく生きていくことが、ようやくできそうな感じがしてきている。東京に暮らし始めて7年経つので、ちょっと時間がかかりすぎたようにも思うけれど。

 現代美術館から出ると、ビルの隙間にスカイツリーが見えた。うそ臭い、変なかたちだ。機能的に必要なのは承知した上で、あんな高いものを作るというそれ自体が東京が成長と発展と変化の手綱を少しも緩めていないことを示しているように見える。終わりのない道路工事と同じところから出発している気がする。東京は再びこの街でオリンピックを開催しようとしている。それ自体はまったく反対するつもりなどないが、その発想の根本にも、明らかに上昇志向の未来像がある気がしている。どうせ実現したら、新しい施設や新しい交通網がバンバンできることだろう。まあ、それはそれでいい。今日と明日でも、東京の街は変わっていく。そこでも、人は同じように笑ったり犬の散歩をしたりしながら暮らしている。

 夜中ぶらぶらと歩いていて気づいたことがある。まったく考えもしなかったし、むしろそんなこと認めたくない気分でいたときもあるのだが、東京の空には、意外なほど星が多い。

2012.9.16 小川智宏

小噺

〜出囃子

毎度いっぱいのお運びありがとうございます、ハライ亭ファル光でございます。
えー、お馴染みのくだらないおしゃべりを一席。

最近じゃ、スカイツリーってのができまして、
しかしまぁ、東京は目まぐるしい所でございます。


「若旦那、若旦那!新しくできたやぐらを見に行ったって話じゃねぇかい!」

「おお、弥助か。相変わらずせわしない奴だねぇ。なに?新しくできたやぐらのことかい?」

「あたしゃ、あれが完成する日(し)を楽しみにしてたんだよ!」

「おお、そうかい。しかしまぁ、たいそうな人(しと)でごったがえしてたよ!」

「いやぁ、まったく東(しがし)の都はあきないねぇ!ねぇ若旦那!」

「いやいや、弥助、さすがに京の都の方があきないよ。」

「あれ?若旦那は江戸の人(しと)じゃなかったかい?」

「あたしは生まれも育ちも江戸だけど、おとっつぁんが京の出でねぇ。
 やっぱりあきないのは京の都だよ!」

「しょうがないねぇ若旦那は!江戸のことをわかっちゃねぇ!」

「おお、どうしたどうした!商いの話かい?」

「お!豆腐屋の喜八郎じゃねぇか!ちょうどいいところに来たねぇ!
 若旦那が京の都の方があきないって聞かねぇんだよ!まったくしょうがないよ!」

「いやいや、喜八郎!弥助は京の都に行ったこともないくせにまったくひ(し)どい話だよ!」

「なるほど、そういうことかい。
 わたしは三代前から江戸だけど、京の都にも三年住んでたことがあるからよく分かる。
 比べてあきないのは東(しがし)の都ですよ、若旦那。」

「ほれ、若旦那!物知りの喜八郎が言うんだからまちがいねぇ!」

「おうおう、喜八郎!それはいったい、どういう了見なんだい?」

「まあまあ、落ち着いてくだせぇ、若旦那。
 京の都よりは短いけれど、
 東京には、飽きる間もないほど短い、秋があります。」


二〇一二、九月十八日
山口 温子

通奏低音

 いつのときでも本気で興味を持ったり、今思えば何だかなーって思っても、当時一生懸命やってたことってのは、通奏低音みたいに、ずーっと自分の人生の中で流れてて、たまに途切れたり他の音に隠れたりして、聞こえなくなったりするけど、それは別に止まってしまってるんじゃないと思うんだ。
 そんなだから、ふとした時に突然、また聞こえだすことが当然あるだろうし。
 もしかしたら、その時しか鳴らない音なのかもしれないけど、その音のおかげで、今の自分の「鳴り」っていうか「響き」があるっていう。

〜参考(省略可)〜
ブロック遊び?嫌だね。俺は鳥小屋に行く(保育園)
ビックリマンの下敷き?いらねえよ!(小学校低学年)
Jリーグ?何だそりゃ?じろうのJか?(小学校高学年)
バスケ?サッカー?男は陸上だろうが!(中学校)
受験勉強?バカヤロー!麻雀やってりゃ頭使うんだよ!(高校)
デッサンだと?俺は蟻を見ることで世界を見ているんだ、わかるか?(浪人中)
流行?ケッ!動物柄がこの世で一番お洒落なんだよ!(大学)
髪?伸びるもんは伸ばしとけバーロー!(大学)

 今思えば、あれはやっといてよかったなーとかもあるし。生きてりゃ色んなことをやったり、色んなことに興味をもつだろうから、何が自分の通奏低音になったのかは、結局、先になってみないとわからないんだろうけどね。それこそ雑音もいっぱいあるだろうし。


で、ここで言ってる通奏低音。
それは、俺の中ではやっぱり、デザインだろうがアートだろうが、自分のためだろうが誰かのためだろうが、何かを作るってことなんだってこと。
高校で流れ始めたよ。


二〇一二/九/二十五
安藤 次朗

のっぺらぼうの気分

私事ですが、最近結婚式をしました。
で、数年ぶりに自分の顔をちゃんと見たわけです。

もちろん毎日鏡は見ていますが、左右が変わると出来上がる物体が全く違う物になるように、鏡に映る顔と実際に皆が知覚している顔は違いますね。
で、元々そんなに自分の写真て撮ってないんですが、特に妊娠→子育ての中で、自分の写真を撮る機会なんてより一層減ったわけです。

で、今回結婚式で大量の撮影していただいた自分の写真が送られてきた訳ですが、
あれ、私ってこんな顔だったっけ?
とビックリしたわけです。
自分が認識しているよりもずっとずっと鋭い顔に見えた訳です。


昔予備校時代に、何枚も何枚も自画像を描きました。
どんなに測って測って測りまくって、自分の顔をキャンパスに描いても
出来上がって遠くから眺めると、そこに描かれているのは私の母にそっくりな女性で
何で自分の顔を描いているのに母になるの!!?と、毎回思っていました。

今回あがってきた写真を見ていて、なんだか知らない女性がそこに写っているようで
びっくりしました。

この違和感は何なんだろう。
顔も成長するのかもしれません...
人には冷静にアドバイス出来るのに、自分の事となると客観的になれない
とはよく言ったものですが、やはり自分の事は一番わからない謎なのかもしれません。
だから死ぬ迄付き合うのかしら...

皆もそういう事ってあるんでしょうか???

2012.9.26 小川留奈

ひげ


高校時代、ひげを生やしてるいけてる人(代表的なのは浅野忠信)を見てから31歳になるまで、
ひげはいつも鼻の下やあご、ほお骨にあって、

時に10センチくらいのばして、それを口に入れるギャグをしたり、
ひげにポスターカラーのオレンジ色をつけてライオンになってみたり。
僕にとってのひげは、服以上の自分の装飾品であり武器、
眼鏡以下の生きて行く上での必需品だったんだ。
だから、ひげと眼鏡と天パ、そして鷲鼻を描けば自分が描けた。
(それは時として、自分の顔自体は無個性だと、『無個性』を意味も分からず嫌っていた頃は、少々悩んだりもした。)

15年間、生やし続けてたひげとしばし別れて1ヶ月。
たまに触ってみるとまだヨソ者で、プルンプルンだ。


まるで尻だ。



ひげはじぶんにとって必要なものだと認識した。
日本人がするタトゥーや(極道のそれとは別)、男が髪を染める事、ドレッドにしたりするのは、
自由なんだけど、なんか本気度が高くないと逆にしょぼくも見えたりするけど、
ひげだけは別だ。
生える、その事がすでに動物としての本気(大事な部分に生えるって言うあれ)の象徴っぽいっちゅうか、なんちゅうか。。

人生初のサラリーマンになるべくひげを毎日剃っている。
必要なのに、T字で、だ。

今まで着ている服や帽子がひげ在りきだったって事も気づいてしまった。

だけど毎日剃っている。風呂場で。

会う人会う人にひげないのキモい!って言われても、

今は迷いなく、毎日剃っている。

ノマド化する時代と逆行している気がしても、毎日。

とってもくだらない、どうでもいい事だけど、強い決心を持って剃っている。

なあみんな、こんなにしょぼいことなのに俺は本気なんだ。



また生やし始めるのはいつかな

もっとハゲた時かな


2012/10/1/岸本雅樹




奥田染工場

自分が普段とてもお世話になっている奥田染工場。
http://www.okudaprint.com/
「JUBILEE」の生地のほとんどは八王子にあるこの染工場で生まれている。
奥田染工がなければ「JUBILEE」は存在しなかったと言って過言ではない。

ご存知の方もいるかもしれないが、八王子は元々絹織物の街で繊維産業が盛んな地域だった。
八王子に限ったことではないが、日本の工場は今やどこも厳しい状況のところがとても多い。
倒産、廃業が続くその厳しい状況の中、日々熱い気持ちで闘っている工場の一つが奥田染工場だ。

先代の社長さんには学生時代に始まり、研究室で働いていた時、その後「JUBILEE」を始めて現在に至るまで本当に助けてもらった恩人の一人。
全く儲けにならない自分の仕事も嫌な顔一つせず自由に工場を使わせてくれた。
やさしい笑顔の中に時に厳しさが有り、そして最高の思いやりのある方だった。
感謝してもしきれないたくさんのモノを頂いた。

残念ながら一昨年病気で亡くなった。
お通夜、告別式とお手伝いさせてもらったのだが、本当に多くの方に愛されていたことを証明するかの様にたくさんの人がお見送りにきた。
企業の偉い方もいれば、若い学生までとても幅広い層の人が集まった奥田先生の人柄を表す温かい愛情あふれる葬儀だった。

その熱い気持ちは現在の社長、奥田博伸さんに引き継がれている。
同世代ということも有り、親しみや尊敬の念も込めて「ヒロさん」と呼ばさせてもらっている。
ヒロさんもまた先代の社長に負けない熱い人間だ。

ヒロさんが書いたこのブログを是非みんなにも読んでもらいたい。

みやしんの廃業について思うこと 『いいものを作ることと儲かることはそもそも違う』について
http://blog.okudaprint.com/2012-09/miyashin


とても身に染みる文章だ。
ここに書かれていることはテキスタイル業界だけの話ではなく、
様々な場所、状況に当てはまることだと思う。

奥田染工の様な素敵な工場を絶対に無くしてはいけない。
大した力にもなれない自分でも少しでも必要としてもらえるなら力になりたいと思っている。
ヒロさんと話し合い、今年から時間が取れる時は自分の仕事以外でも工場に行き、お手伝いをさせてもらうことになった。
職人さんのお手伝いをさせてもらうことは勉強になり、最終的に自分の仕事にも活きてくる。
しかもお手伝いの代わりに空いている時は工場を使わせてもらったりと、これまた特別な扱いで接して頂いている。
結局はお世話になりっぱなしだ。

自分達の仕事に心から誇りを持ち、工場に関わる人、物を作ること、そして何よりも現場を大切にする姿勢。
この様な工場と仕事をさせてもらい自分は多大な影響を受けている。

自分にとって大切な場所が八王子にある。


僕は先代の社長である奥田先生には何も返せなかったのがとても心残りだ。
自己満足かもしれないが「JUBILEE」を続けることが恩返しの1つだと思って、
今もまた新たな柄を描いている。


2012.10.19 JUBILEE シミズダニヤスノブ

工場の逆襲

ぼくは、すぐ「これどこで作ったんですか?!どこの工場ですか?!その工場どこにあるんですか?!」と人に聞きます。

でも大体の人は教えてくれません。それは、自分や会社の特別なノウハウと思ってるらしいです。ぼくは、それが理解できません。工場が有名になれば、もっともっと工場に仕事が入り、利益を見込める受注の可能性が広がるのに。自分や会社のことしか考えてないように思えてなりません。

ぼくは、どこで製品を作っているか明かさない人間にはなりたくありません。

多くの工場は、今まで下請け一筋でメーカーの陰にひそめ、ものづくりをやってきたと思います。メーカーに従い、謙虚に、誠実に、信じてやってきたのに、ある日突然、いとも簡単に何も言わず、安い海外の工場に製造を任せようとします。

海外で製造することは全然否定しません。けれど、今までとてもお世話になったのに、義理も人情もなく、簡単に見切りをつける行動が許せないのです。

とあるメーカーの景気が悪くなれば、工場がそのまま痛手を負う。そんな仕組みはもう終わりにしたいです。メーカーの景気が悪くなっても、工場は将来性のある他のメーカーから仕事を受注する権利があります。

一時期、工場と有名デザイナーがコラボして製品を作るのが流行りました。

でも工場の人に聞くと「有名デザイナーにデザインを任せたんだけど、売れなかったなあ」という声をよく聞きます。デザイナーは、企画、デザインができても、流通までできないからだと思います。

工場の逆襲を実行するには、
企画→製造→流通の仕組みを作る必要があると思います。
企画は、人間の本質をとらえた、他社と違った良いものを考え、
製造は、ジャパンクオリティーで、仕上がり在庫の最小化とスピードアップとコストダウンを。
流通は、誰にどこで、いくらで、どうやって使ってもらうか、お店でどう見せるか、を。

工場をテーマにしたネットやテレビや写真集はたくさんありますが、単に紹介するだけで終わるのではなく、機能する仕組みを作り、工場の存在感をもっともっと大きくしていきたいと思います。
それが工場の残る道であり、ぼくが生き残る道だと思います。

ちなみにぼくが企画した製品をどこで作っているのかをご紹介します。
「ひげ付箋」「めがね付箋」「ロゼットふせん」は東京紙器さん。
「エリング」「虹色めがね」は、アクリルの三幸さん。
こちらの工場は、こんなぼくでも親身になって無理なお願いを聞いてくれます。
「須貝くんの将来性を見込んで!」と言って協力してくれます。
東京紙器の山田社長。
アクリルの三幸の小野さん。
本当に感謝し尽くせません。感謝しつくせない人とこれからもたくさん出会いたいと思います。

会社と会社の付き合いではなく、人と人とのつながり、心と心のつながりが大切なことを忘れないように。
奥田先生の魂は、確実にヤスくんの心に灯っていると思います。

2012.10.19 SUGAI WORLD(スガイワールド)
http://www.sugai-world.com/ 新企画進行中

デザイン。

遅くなってごめんなさい。。

デザイン。なんでしょうか、デザインて。
いや、ネガティブな話ではないよ。


そもそも、言葉自体の意味は、使う人や状況によって含まれる内容が変わるので
答えはいろいろあるんだろうけど。

じゃあ、料理することはなんだろ?
毎日着る服を選ぶことはなに?
どこに住むか決めること、なにで移動するか、どこで食べるか、
だれといるか、なにを話すか、どういう話し方にするか。

そもそもデザインすることはそんなに遠くないよね。どのひとにも。


いや、最近ほんとにデザイナーが(というか、自分が)
もっと仕事をやりやすくするにはどうすればいいか、を考えていて、
ただ名前が知れて信頼されて、的なルートじゃなくて、
根本的に考えないと、この先ないな、と思っているわけです。

やりたいことを精一杯がんばればなんとかなる、かもしれないんだけど
そういうことともちょっと話が違ってたりするし。


学校の時間割に「デザイン」の時間を作って
いろんなデザインの考え方を話す授業とかやると
興味がわくかしら。

その授業では、いわゆるグラフィック、プロダクト、みたいに
専門分野としてのデザインの話もするんだけど
デザイン=考えること/計画すること、みたいな概念的なこととか、
日常生活と創造性は密接な関係なんだよ、特別じゃなくて、みたいな話をするわけだ。
普通に自給自足の生活をしてみるとか。

んー、ごめんなさい、ちょっとまとまらないんで、
これはまた別の機会に、直接会っていろいろ話したいです。

ではでは。

2012.10.31 古屋

バリアを張る作業

 毎週日曜日、日が変わる少し手前。数時間で間もなく月曜日になり、また一週間が始まろうとしている時間。私は毎週マニキュアを塗り直す。もともとモノトーンの服を好む傾向にある私は、冬が本気を出してくるこの時期は全身ブラックカラーのコーディネートになることが多いので、最近はせめて爪くらいは明るいもの、と、濃青のカラーで爪を包む。夕方と夜の境目、若干夜寄りの空を包むような濃い青。
 マニキュアをまめに塗るようになったのは、ここ最近のことだと思う。多分2〜3年前くらい。その前は思い起こしても、ネイルに対して時間を割くことなんてなかった。理由はそんなに大したことではなくて、一番はネイルをきれいにしているとある程度テンションが上がるし、どんなにずぼらな格好をしていても、多少マシに見えるような気がするから。そして、もうひとつは、「戦闘服」のような役割なのかな、と思う。

 いつかは定かではないが、数年前のとある日のこと。打ち合わせをした女性がとても美しかったのをよく覚えている。暑い時期だったので、マリンカラーのボーダーか何かのデザインが施されて、きれいに手入れがなされていた。とてもキュートだったので褒めると、「昨日サロンにいったばかりなんですよ〜」なんて嬉しそうに話していたと思う。そのとき、私はカラーは塗っていなくて、おそらく自爪のままだったと思うのだが、なんか妙な「負けた」感じがしたのだ。顔やスタイルの表面的な優劣ではなくて、その奥に潜む「何か」に対して。

 私の仕事は、直接的に目に見えるものを作っているわけではない。プロジェクトの中でスタッフに気を配ったりサポートしたり、進行管理をしたり、クライアントとの折衝だったり、見積りを書いたりと、言うなれば「お母さん」的な役割なのだが、客観的に見ても私は自分の仕事はとても重要だと思うし、誰でもできるとは思っていない(これはなかなか理解してもらえないのだが)。人に対して気配りをするというのは全身からの気力と体力が必要なので、そこに対する気の向け方が大きすぎて、自分に対する気遣いが持てない余裕のなさにちょっとがっかりしたのだ。
 あとは、メイクやネイルというのは一種の自己満足的な側面もあると思うが、少なからず他者を意識して行うものだと私は思っている。外出時は必ずメイクをして出かけるのにネイルが素なのは、なんかアンバランスだなあと思ったのである。隙があって、そこから攻め入られてくるような感じ。なので、ネイルまでがっちりガードすると、なんとなく自己満足する上に、月曜日からまた戦場で戦っていく「戦闘態勢」に入るような気がするのだ。

 動物的な勘と、創造力と、タイミングと運と、才能。すべてを駆使しないと負けてしまう戦場のような日常の中で、ネイルをすると自分のまわりにバリアが張られて、レベルアップしたような気分になる。まるでRPGゲームでアイテムをひとつ獲得したような感じ。また明日から一週間がんばろう。

 しばらくこの日記を書けないモードだったのは、自分の中に怒りや虚無感が渦巻いていて、何も言語化することができなかったのです。本当にごめんなさい。それは、またの機会に。

2012.11.25  Sakiko Ogawa

「グルーヴ」ってのは
レコードの溝のことなんだぜ




 元ミッシェル・ガン・エレファントのチバユウスケが現在組んでいるThe Birthdayというバンドに「爪痕」という曲がある。僕はこの曲が好きだ。


  小さく引っ掻いて残してった
  あの娘は今はもう笑ってるかな

  限りなく 夏が続くと思ってた
  限りなく 夏は続くと思ってた

  優しく引っ掻いて雲みたいに
  形を変えて流れてった

  限りなく 夏が続くと思ってた
  限りなく 夏は続くと思ってた

  忘れてしまおうと思ってたけど
  爪痕 消えなくて 消えなくて

  忘れてしまいたいと思ってたけど
  爪痕 消えなくて 消えなくて

  あの時ゆっくり抱きしめてたら
  あの娘は今でも笑ってたかな

  銀杏の林は まだ青かった
  限りなく 夏は続くと思ってた

  忘れてしまおうと思ってたけど
  爪痕 消えなくて 消えなくて

  忘れてしまいたいと思ってたけど
  爪痕 消えなくて 消えなくて


 シングル「なぜか今日は」のカップリングとして収録されているこの曲は、男と女の話なのか、それとも飼っていた猫が逃げていったという話なのか、その真意はこの際どうでもいいのだが、この曲で歌われている「消えない爪痕」というイメージが、僕はとても好きなのだ。
 この歌はそこに残った「爪痕」について肯定も否定もしていない。「忘れてしまおう」「忘れてしまいたい」と思っていた「けど」、何だかんだ爪痕は消えないままそこにある。ただそれだけのことを歌っている。センチメンタルなニュアンスはあるけれど、爪痕が消えなくて悲しいでも、消えなくて辛いでもない。その事実だけを放り出す感じがいいし、そうあるべきだとも思う。
 どんな人生だろうとどこかに爪痕は残り、その積み重なりがつまりこの世界なのだという、なんだか言葉にするとじつに陳腐だが、実際そうなのだ(と僕は信じている)からしょうがない。世界には無数の爪痕があって、そのひとつひとつに物語と意味があって、そのうちの限られたいくつかは歴史の中に明確に刻まれていく。
 ところで僕の中にはこの世に生を受けたからには何かしら生きた証のようなものを遺したい、という気持ちが常にある。常にあるというか、30歳を目前にして、その思いはほとんど強迫観念のレベルに達しつつある。
 何かを遺したいというのはずいぶん控えめでおとなしい言い回しであって、本音をいえば世界を変えたいと思っている。どう考えてもその感情の根っこにあるのは世の中に、社会に、他人に認められたいという、とても幼稚な承認欲求である。考えなくてもわかる。そして、その承認欲求は、最終的には基本的には地位や名誉や富といった、社会的な価値基準に結びつくものでもある。結局カネか、とか、なんだ中二病か、と言われればあまり反論しようがないが(お金ほしいし)、「世界を変えたい」と願っていることについてはわりと本気だ。
 だからいい大人ではあるが、あらゆることを踏まえた上で「僕が何かを遺したいと願うのは地位や名誉や富のためではなく、ただ『世界を変えたい』からだ」と言ってみることにする。結構爽快だ。すっとする。パンクロッカーにでもなっとけばよかったかな、とも思う。嘘だ、思わない。
 この「世界を変える」というのはどういうことかといえば、すごく抽象的な言い方で申し訳ないのだけれど、たとえばずっとノイズだと思っていた音の集まりや流れがある瞬間に「音楽」になったり、無秩序で支離滅裂な言葉の集まりや流れがある瞬間に「物語」になったり、うめき声や叫び声がある瞬間に「歌」になったり、法則も指向性ももたない光の点滅の集合がある瞬間に「映画」になったり、そういうことに近い。そして、「爪痕」という歌で歌われてもいるとおり、知らず知らずのうちに誰もが残している爪痕は、少しずつ、誰かの世界を変えているのだから、「世界を変える」というのはそこまで大それたことではない。
 問題は、「世界は変えられない」と思っている人が大多数のように見えるということだ。だから僕がやりたいのは「世界を変える」ということではなくて、「世界を変えられない」と思っている人を「変えたい」ということなのかもしれない。
 そのためには、自分の残す爪痕が、どれだけポップなものであるかにかかっている。
 
 あ。

 今ポップという言葉を使ってしまってちょっと後悔しているのだが、ほかに言いようがないのである。要するに自分が残していく爪痕が誰かにとって「消えない」ものであるかどうかは、当然だけれどこちらが決めることではないから、その爪痕が小さく深い傷となるのか、それとも表面をなぞっただけのかすり傷となるのかはひっかいてみないとわからない、ということで、それを「ポップか、そうでないか」というふうに言い換えることも可能なのだけれど、そうすると今度はどっちがポップでどっちがポップじゃないのかという問題も生まれてきてわけがわからなくなる。
 さらに、僕がここで書いた「ポップ」という言葉の定義は、おそらく世間一般における「ポップ」の意味とは激しく乖離している気がする。
 狙いすまして投げたダーツの矢が的を外すこともあれば、逆によそ見しながら放り投げた矢がど真ん中を射抜くこともある。よそ見しようが鼻くそほじりながらだろうが結果として的の真ん中に刺さればそれは「ポップ」ということになりそうなのだが、じつは僕が考えている「ポップ」は、むしろ狙いすまして的を外した矢のほうにある。
 これ以上書くとますますわけがわからなくなりそうなので、このテーマについてはまた改めて整理したいと思うけれど、つまり自分の残す爪痕が、どこかの誰かにとって意味を持ち、物語となるかどうかが重要なのであり、それが「世界を変える」ということなのだと思っている。僕は今仕事として雑誌で文章を書いているけれど、それが僕の残すひとつの爪痕だとして、それがどこかの誰かにとって「消えない」ものになっていることを願うしかない。

 話は変わるけれど、最近ひょんなことからターンテーブルを手に入れたのでレコードを聴いている。レコードを聴いていると、というかターンテーブルの上でぐるぐる回転しているレコードを見ていると、音楽って時間なんだよなということをまざまざと見せつけられる感じで面白い。盤面に刻まれた溝が、毎分33と3分の1回転とか45回転とかの一定のスピードで、そこに記録された「時間」を再生する。そこに残った傷やゴミがノイズとなり、レコードの時間は上塗りされていく。
 僕がどこぞの中古レコード屋で手にしたこの盤には、そんな時間の蓄積がある。CDでも原理的には同じことがいえるのだろうが、それが目に見え、耳に聴こえてくる。
 僕のもっているビートルズの「ラバー・ソウル」のLPはB面の4曲目「イン・マイ・ライフ」の冒頭で必ず針が飛ぶことになっていて、何だかんだいってもムカつくのだが、それを聴いていると、ビートルズは確かに世界を変えたが、じつは世界を変えたのはビートルズではなくて、ビートルズが録音したレコードの上に塗り重ねられ、刻まれてきたこの爪痕の集積なんだろうなと、今まで書いてきたこととつながるようでつながらないようなことを思ったりも、する。

2012.12.7 小川智宏

冬のポエット

めざした世界とたとえなんか違ったとしても
理想を捨てて諦めてもしかたないから
いまできることを考えて
工夫して知恵をしぼって
理屈じゃない、大事なものに気づいたんなら
すこしでも
ましな世界に
すこしでも
良くなるように
いまできることを
おおきく考えて、ちいさなことから
となりの人に優しくしたら
したらさ、
をかし、でしょ


二〇一二、十二月十七日
山口 温子

明けましておめでとうございます

みなさま
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

少し間があいたり、知らない女がいたり、まるで尻だったり、恩返ししたり、無限の可能性を感じたり、精神がパンクだったり、化粧という武装したり、襲名したり、しまいにゃルールを守らない無法者がでたりしましたが、
リレー開始から結構良い感じで進んでいると思ってます。

で、今年もね
もっとたくさんリレーして
メンバーも足したりなんかして
たくさん集まって
恥ずかしがらずに
ワイワイ話が出来て
皆と皆の周りの人が
楽しく健康でありますように。

じゃ、新年一発目、きっしんよろしくね!


二〇一三/元旦
安藤 次朗

トイレ工事(2013/1/30/22:00)

引っ越して、ネットがつながってないので携帯から。

約二週間たって、
水圧の弱いトイレは、
朝ウンチして、
23時に帰ってきても流れつづけてたから、止水栓をとめたり流したりしながら、管理会社にクレームをいいまくっていたら、遂に夜の作業を結構してくれたよ。

向こうサイドの余りにも遅い判断とはいえ、作業員の人は夜遅い時間に作業をするってのが致命傷なのはわかってる。

職人達の一日は太陽が昇る前に家を出て、日が沈む前にうちに帰らないと、次の日使い物にならないのは、よーくわかってて、だけども客サイドとしては最低限言わなくちゃならない。

次は不動の建具を動かすべく、共用廊下でカンナを削り始めました。
きっと担当者に、
「この客はめんどくさいから一発で決めて来い」と言われてるのかもしれない。

東京の職人さん達は、
地方の職人さん達と違う身分だ。

東京の職人達は道具や材料をいっぱい詰めて、電車で通勤する人達がかなりいるんだ。渋滞ごときで遅れようもんなら、
施主や、依頼者にブチ切れられることも多いからね。

地方は元々車社会だから、
遅れても、怒らない。
そして電車でなんか、現場にいかないよ。電車はないからね。

東京の職人達は電車の中で、きたないと、荷物が邪魔だと嫌がられる。
あたかも、ホームレスを見るような目で。

実際にバカにされたりした事もかなりあったけども、毎日がパンクロッカーのアレの精神のようで、日々楽しかったよ。

ボチボチ工事が終わりそうです。
現在22:30
今回はまえの方のパスをもらってないと思われます。

2013/01/30/岸本雅樹

みんなが生きやすい社会とは

 ロンドンから郊外に旅する時にはときどき長距離電車を利用する。
首都ロンドンと地方都市を結ぶ電車は、日本で言うとちょうど地方の特急電車みたいな感じの古さと汚さで、新幹線の様に超速くはないが遅くもない。木立と丘陵の流れる景色がミュージックビデオを見ている様で心地よい。

 イギリス ロンドン市に来て、もうすぐ1年が経とうとしている。
多くの日本人が高い志とセンスとちょっとのあこがれか、もしくは高いステイタスを持ってこの国にやってくるのだろうが、私は、「好きな人と一緒に住む」という単純明快な理由一つとスーツケース三つ、おそらく全く違う文脈でこの国に来てしまった。
郊外型地方都市 藤沢から来た私が、東京というバイアスなしにいきなりこの超多様型メトロポリタンに放り込まれ、今までマジョリティだったのがいきなりマイノリティという立場になり、戸惑う事もあれど気づかされる事も多い。

 イギリスと言えば、ロイヤルファミリーの白い顔を思い浮かべていたらどっこい、実はロンドンは多様性(Diversity)の街として有名なのだ。ここには、イギリス人だけでなく、アフリカ人、ヨーロッパ系、カリブの国の人々、インド人、中東系、アジア人、ユダヤ人…と、実に多様な人種が入り乱れて暮らしている。ロンドンの人口 八百万人の中で日本人はたったの五千人しかいない。
この国にやって来る人は口を揃えて、「ロンドンほどエキサイティングな街はない」と言う。これだけ多様な人種が世界から集まり、等しく居られる都市は世界でも珍しいそうだ。
それもそのはず、ロンドンはローマ帝国であった時代があり、スカンジナビアからバイキングがやって来てのっとられた時代があり、フランスから占領された時代あり…歴史的に多様さを受け入れざるを得なかった。
なんと昨年即位60周年を向かえた女王 エリザベス二世ですら実はドイツ人で、夫はギリシャ人だそうで、つまり伝統的にぐちゃぐちゃでみんな違うのだ。

 イギリスの電車と日本の電車が大きく違うのは、日本の新幹線がすべて進行方向に向かって前を向いているのに対し、前向きの席と後ろ向きの席と半々くらいの割合で設置されている点だ。全席ボックスシートという意味ではなく、完全に前後半々の妙ちくりんな光景なのだ。
「一体何のために車両の半分を後ろ向きのシートにする必要があるんだろう…
後ろ向きになぞ進まれた日には酔ってしまう。いったい誰が好き好んで後ろ向きのシートに好んで座るんだろうか…」大方の日本人は私の考えに同意してくれると思う。

 ところが、驚いたのはこの国では後ろ向きシートの方を好む人が結構いるということ。事実、七歳のイギリス人である家の子どもは、後ろ向きシートに好んで座った。列車を見渡すと、比較的空いているのに、驚いた事に後ろ向きシートに座る人いらっしゃる。
この後ろ向きシートが、正にこの街の多様な価値観を表している様に思え、またその多様な価値観を認める社会がそこにある様に思えてならならなかった。感覚なんて人それぞれでいいはずなのに、私たちは知らず知らずのうちにいろいろな事を多数派の方に修正されていたのかもしれない。

 思うのは、世界はいろいろな価値観が混在しているってことで、自分もその一部でしかないってこと。
ぐちゃぐちゃで混沌としているものだってこと。良いと悪い、白と黒の二色では塗り分けられないってことで、だからおもしろいってこと。
そして、あなたらしくいていいってことが認め合える社会は、たとえ終ってても生きやすいってこと。

 そんな事を考えたサザン鉄道の車窓から。
 二千十三年 二月七日    山口尚子(新入り)

生活をする

生活。
(1.生きていること。生物がこの世に存在し活動していること。2.人が世の中で暮らしていくこと。暮らし。3.収入によって暮らしを立てること。生計。)

「生活」って「生きる」と「活きる」っていう2つの「イキル」で出来た言葉。


まずはお詫びから。
この度、『PASS the MIC』を「PASS」せず一ヶ月近く「STOP」させてしまったこと、
心よりお詫び申し上げます。
誠に申し訳ございませんでした、、!
以後気を付けます。


そう、この『PASS the MIC』を「STOP」させてしまったことも
これから書く内容に繋がっていくのだとと思う。

ここ最近気付いたことの1つ。
バタバタしてたからこそ気付けたこと。

きちんと「生活」をする、
「イキル」(生きる、活きる)といこうことの大切さ。

これを知れたことの理由の1つとして、「そして生活はつづく/星野源」を読んだことが有ります。
今やご存知の方も多いと思いますが、星野源は「SAKEROCK」(日本のインストゥルメンタルバンド。)のリーダーで俳優、音楽家、文筆家として活動中の人物。
SAKEROCKが以前から好きで、
そのリーダーの源くんが歌うってことで聞き出したら、
思いのほか結構、いやかなりはまってしまったのでした。
今や星野源好きです、というとミーハーっぽくて若干恥ずかしいくらいに売れてしまった。(いいとも出てたし。笑)

あ、話がそれてしまいました。ゴメンなさい。

その星野源も「生活嫌い」で掃除とか洗濯とかそういう毎日の地味な生活を大事にしていなかったらしい。
ただ仕事を頑張っていれば自分は変われるんだと思い込もうとしてたらしい。
ちょっと前の自分も本当にそんな感じでした。

僕は多分とても偏った人間で、かなりバランスの悪いヒトで。
フリーになった時から何時間でもどんな状況でも仕事をすること、
頑張っていっぱい仕事をしていることが一番の正義だと思ってしまっている時期が有りました。
もちろんお金を稼がなきゃ生きていけないし、人に認めてもらいたいし。
自信のない自分に自信をつけさせるために仕事をいっぱいやり続ける。
いわゆるWorkaholicの一種の様な考え方に。
リフレッシュする時間も必要なのに、周りの目も気にするから遊んでると変な罪悪感が生まれたり。
貧乏暇無し。

色々吸収する時間、インプットする時間の大切さ。
例えば、意味なくプラプラ散歩して花や緑を見たり、友人と旅行やキャンプに行ったり、彼女とデートしたり。
良いものを自分に貯めて、
その後に放出、アウトプットする。

そんな単純なことが出来なかった。
苦手だった。

体育会系の部活とかのノリで1日休むと取り戻すのに3日掛かるみたいな感覚に陥ってた。
本来生活の糧であるはずの仕事に、私生活の多くを犠牲にして打ち込むことに違和感を持っていなかった。

実家を出ていて、結婚してない自分にはそれを注意してくれる人もいない。
部屋が多少荒れようと片付けず、洗濯物や食器の洗い物もおきっぱなし、
ゴミも2週間くらい溜めたりしようと仕事を頑張っていれば仕方ない。
だって忙しいだもん、と現実逃避。
たまに誰かが家に来るとなれば見える部分だけ掃除する。
外見だけ着飾る見栄っ張り。

そんな自分のダメさにここ最近ようやく気付いたのでした。

変わりたい。

けど一気に変わろうとすると絶対に無理が生じる。
おそらくすぐに飽きて同じ失敗を繰り返す。
なので少しずつ、ゆっくり。
無理しない。

部屋を全部キレイに掃除するとかではなく、1カ所ずつ掃除。
気になるところからスタート。
貯めてしまっていた食器の洗い物は少なくとも1日の終わりには洗う。
余裕があれば水回りもキレイに。
料理して油がとんだりして汚れた箇所は食べる前にキッチンペーパーでさっとで良いから拭く。
ガッツリ油汚れは落とすのが大変でやる気なくなる。
洗濯物もカゴの半分をこえたら洗う。
洗濯って干すのが面倒くさいけど、やり始めれば大して時間掛からない。
取り込んだ洗濯物は山積みにせずきちんと畳んで収納に入れる。
心もスッキリ。

ゴミ、不要品を捨てることが最も苦手なこと。
だから部屋やアトリエは散らかる。
ここ数年の間によく耳にする様になった「断捨離」は、モノづくりをしていることも有って物に対する執着がある自分には抵抗があったのだけど、少しずつ敢行中。
フリマに出店したり、古本屋に売ったり、リサイクルもしつつ、
だいぶ使っていないものは捨てる。
何のためにとっていたかよくわからないものは処分。
少しずつ、ゆっくり、無理ない程度に。


そして、「頑張って仕事をすること=正」から、
「頑張って仕事をすること=正、そして良い生活もする」へただ今少しずつ移行中。

自分の周りの仕事バリバリやってるステキな人の多くは、生活も充実してて、遊びも一所懸命、仕事やらせても超一流。
それってめっちゃくちゃかっこいい。
それを目指すことにします!


最後にまとまっていないのですが、、
大変なこと、面倒くさいこと程、積極的に、
この姿勢は何と言われようと変えずにやっていこうと思っています。


2013.3.5 JUBILEE シミズダニヤスノブ

すーばーらーしーいー日ー々ーだー

おそくなってごめんなさい!そして、これからとりとめのないことを書くと思います。

忙しい忙しい、と言いますが、わたしの場合、時間がない、というよりは、余裕がない、状態がそれです。

そういうときはユニコーンの「すばらしい日々」を聴きたくなります。
そうするとだいたい(彼らがそこにどんな意味を込めたかはわかりませんが)
「君はぼくを忘れるからその頃にはすぐに君に会いにいける」のところで
センチメンタルな気分になる訳です。いろいろ思い出して。

いい歌。わたしは好きです。メロディーなのか、歌詞なのか、なにがぐっとくるのかはアレですが、忙しいなーと思いながら動いてるときのテンションにはまるんですね。寂しいのにまだ余裕があるっぽく聞こえるかんじ。ちょっとあきらめてる感もあるのかなあ。今はやるしかねーだろみたいな。

そしてまたそれはそれで楽しくなってきてしまうのがやっかいですね。(特に家族にとっては。時間がないというのはやっぱりね、、)

なので、ヤスが書いてた「バランス」って大事だなーと思います。
無理やりバランスとれないからね、自分のバランス感覚をいろいろ試して養っていくイメージよね。

かといって、まだまだ守りに入る状況ではなく、
基本の姿勢は常に攻めなので、バランスのとれた攻め方を探っていきたいと思います。

んー、やる気になるぜ。次は遅れないようにします!
ちょっと短いかもしれないがパスザマイク!

2013.3.25(月)古屋

わたしのなかのヨハン





 トータル・フットボール、という言葉がある。
 70年代に流行ったサッカーの戦術用語、というよりはキャッチフレーズのようなもので、もっと具体的にいうと1974年のワールドカップ西ドイツ大会でオランダ代表チームが見せたプレースタイルのことだ。これが戦術用語ではないというのは応用がほとんど不可能だからで、当時のオランダ代表の選手のラインナップと当時のサッカーのスピード感と主流だった戦術、監督の手腕といった要素に加え、いやそれ以上に、ヨハン・クライフという天才プレイヤーの存在に依存したスタイル、それがトータル・フットボールである。
 そういうわけなのでトータル・フットボールは何かといえば「74年のワールドカップでオランダ代表がやったサッカー」のことで、それ以上の定義はあまり意味がないのだが、強いていうならば、ポジションにとらわれず、常にスペースを生み出すように選手とボールが連動して動き、全員で攻撃をし、全員で守備をする、というようなサッカーだ。現代のサッカーでは当たり前となっている流動性や連動性、スペースをつくる動き、ワイドに展開してサイドアタッカーから相手を崩す攻撃プラン、そういったものを信じられないくらいのハイ・クオリティで実行するもので、だから語感はスタイリッシュだが実際はとても泥臭い。要するに全員が90分走り続け、スペースをつくり、あるいはスペースを埋め、アメーバのように陣形の形を変え続けることで相手の守備網に穴を生み出すのだから、考えただけでも疲れる。ひとりでもサボったらトータル・フットボールは機能しなくなるのだ。
 その中心にいたのが、ピッチ全体を見渡すような視点をもち、卓抜したボールコントロール技術で攻撃を司る、ヨハン・クライフという天才だった。クレヴァーで、洗練されたサッカー哲学を持っている知性派でありながら、攻撃のシーンでも守備のシーンでもことごとく重要な局面に顔を出し、誰よりも汗をかく選手でもあった。そういう選手が真ん中にいたからこそ74年のワールドカップ・オランダ代表は高度なスタイルを確立できたし、快進撃を続けることができた。逆に、西ドイツとの決勝戦では、徹底的にクライフ封じを行なってきた相手を前に、なすすべなく破れてしまった。

 目指すべきはトータル・フットボールであり、ヨハン・クライフである。前日本代表監督のイビチャ・オシムもそう言っている。そこに「それは永遠に実現されない」という言葉を付け加えるのがいかにもオシムらしいのだが。オシムが言っていたのはサッカーの話だが、ここで書きたいのはサッカーではなく生き方の話だ。
 積極的に攻め続けることが守備の第一歩であり、果敢にボールを奪いに行くことが攻撃のきっかけとなる。それがトータル・フットボールの根本的な思想だ。そのために全員が常に動きまわり、相手にアプローチする。非効率だしスタミナは必要だし、優れた知性と先を読むヴィジョンがなければ成立しないものだが、とにかくトータル・フットボールは美しい。しかしその美しさは、決してトータル・フットボールの最終的な目標ではない。彼らが目指していたのはアートではなく、サッカーとしての結果だったのだから。

 心のなかにヨハン・クライフを。

 最近何となくそんなことを考えている。トータル・フットボールのように生きたい、と思っている。非効率で泥臭いが攻撃も守備も自分自身で走り回って挑んでいく生き方。それが結果的に洗練された美しさを生むような生き方。もちろん、無理難題ではある。イビチャ・オシムおじいちゃんのいうように「永遠に実現されない」のかもしれない。何より、自分自身でも周りにとっても相当面倒くさいことである。
 でも、やっぱり目指すべきはトータル・フットボールでありヨハン・クライフなのである。
 トータル・フットボールのように生きるとは、自分で自分の役割を規定しないということだ。固まったポジションを捨て、もっと大きなヴィジョンで知的に行動するということだ。サッカーの場合はゴールネットにボールをぶち込んでゲームに勝つのが最終目標であり、人生の場合は……それは人それぞれだし、僕には僕の目指すべきところがあるが、その大きな目標はしばしばそこに至るまでの過程と方法論によってかき消されそうになってしまう。俺はセンターバックだから相手との競り合いで勝つことがすべてなんだ、俺はミッドフィールダーだから華麗なスルーパスにすべてを懸けているんだ、俺はサイドバックだからとにかくオーバーラップしてクロスを上げ続けるんだ。そんな「生き方」にノーと言い続けるヨハン・クライフを心の中で生かし続けること。自分の中のプレイヤーを総動員して、攻撃と守備を一体化させて動き続けること。
 効率を追いかけて手段が自己目的化することほど虚しいことはない。そんなもんどうでもいい、と手段をすべて蹴飛ばした結果がトータル・フットボールで、それが最終的に至極美しいものになっていたとするなら、それが目指すべき唯一の正解という気がするのだ。僕の中のクライフは生きているだろうか。サッカーゲームをやりながら、そんなことを考えている土曜の朝です。


2013.4.13 小川智宏

お互い様

 自分の限界ってのが仮にあるとしてさ、それは別に恥ずかしいことではないわけじゃん。出来ないことがあるなら、だれか出来そうな人に相談したり、助けてもらったり。出来ないことがあって当たり前だと思うし、自分に何か人より出来るかもなってことがあるなら、それで人を助けるのも当たり前だと思うのね。だから、俺はわからないことがあったら、すぐに人に聞いちゃうし、聞かれたら教えようと思う。すぐに人に聞いてしまうのは良くないって思う人もいるだろうけど、結構すぐ聞いちゃう。(そりゃマナーとして自分でも調べるのは当たり前ね)
 聞いちゃう方が話が早いし楽チンってのもあるけど、連絡とりやすいってのもいいよね。「久しぶり〜、元気?ちょっと聞きたいんだけどさー」とか言ってさ。
 自分が感じている限界っていうのは、それこそ自分が感じているだけで、その業界のそのジャンルの今直面しているその内容の限界ではないわけで。だったら誰かに聞いてみよー!ってするのが当たり前にいいだろうと。まあ、中には教えてくれなかったりする人もいるかもしれないけど、それはそれでまあ仕方ないし。そりゃ教えたくないこともあるだろうし。
 でもさ、めちゃくちゃ秘密主義の人ってさ、自分のポジションみたいなのをすごい意識してるというか、自分の市場価値?みたいなものを意識しまくってるというか。自分のことしか考えてないというか。別にいいけどつまんないよね。
 まあよく言われてるのかもしれないんだけど、『全体の中の個』っていう考え方と『個が集まった全体』っていうのだとかなり違うと思うのね。意識の高さとか責任感とか。割り算よりも、足し算かけ算というか。全体が見えててそれをわけるよりも、輪郭はぼんやりとしてるけどみんなが色々持ち寄って、さあ結局何ができた?って方が楽しそうじゃんね。そうこうしてると、全体の中の『個』ってどんどん魅力的なものになっていって、結果『全体』も魅力的になってるかなと。
 つまりさ、自分の限界なんて紙くずみたいなもので、ぜーんぜん気にしなくていいってこと!周りには色んなこと出来る人や知ってる人がたくさんいるよ。前提として自分一人はちっぽけでさ、あんま何にもできないじゃんってことで。でも意外に他の人もそうでさ。知らないことやわかんないことがあってさ。だから自分も気にせずへっちゃらというか。助けて〜!って。誰か〜!って。お互い様だよ。
 ま、でもここが結局肝心なとこなんだけど、「あ、がんばってんな」って思えないとさ、ちょっと手伝えないよね。だからがんばるしさ、がんばっててほしいよね。


二〇一三/四/十八
安藤 次朗

色について

 最近、オーラの見える知人にオーラを見てもらった。私はオカルト話とかその類の話が大好物なので興味深く聞いていたのだが、アドバイスとしては要約すると「周囲の意見をよく聞きなさい」らしい。そして、現在のオーラの色は「濃い赤」らしい。
 赤いオーラを持つ人の正確は、「現実的だが、アツくなり過ぎる傾向がある。とにかくおだててあげるとどんな事でも一生懸命やってくれる。自分の目的を発見した時の行動力や精神力は抜群で、誰も寄せ付けない程それだけに心血を注ぐので、そんな時はそっとしておく方がよい」らしい。なるほど。ふむふむ。自分でも何となくそんな気がしていた。ただ、人の意見を聞かないのはよくない。それ以降、人の言葉や意見の真意をよく咀嚼するように注意している。主に仕事で。

 組織において、特に日本では『全体の中の個』という考えが尊重されることが多々ある。ただ、会社がどうなってほしいかという問いかけをしたときに、『全体の中の個』であることを望んでいる人もいるし、『個の集合体である全体』になってほしいという人もいる。ただし、組織にいる全員が全員そういう考えにはならないかもしれないし、そのあたりは難儀だなとも思ったりするけれど、長期的に見て自分が求めているものは再認識できたので、安藤くんの日記を読んでとてもスッキリしたのだ。ありがとう、安藤くん。

 私の経歴は結構イレギュラーらしいのだが、自分の中ではもう10年くらい変わらない目標があって、それを実現させるシステムを構築させるために必然的な道筋を辿っているつもりなのである。最近、それがもう一歩進んでいくような感覚があって、とてもワクワクしている。立ち止まるタイミングと走るタイミングを見極めつつ、ひとつひとつ具現化していこう。オーラの色についてはよくわからないのだけど、いろいろな色が集まってイロトリドリの景色や関係が築けたら、それはそれは魅力的だろうな。

2013.05.13
Sakiko Okazaki Ogawa

一方その頃—

 パラグアイ共和国大統領ヤッバス氏はのっぴきならない問題を抱えていた。
ヤッバス氏はその血筋を遡れば、あの悪政で名高いハラソーギャー帝に辿る家系。しかしヤッバス氏はその人柄とゲイリーオールドマン似の端正なマスクで、市民の心を掴んでいた。

 いま、ヤッバス氏は緊急来日を控えていた。
というのも、先日行なわれた日本対パラグアイ戦に緊急招集された伊調選手がパラグアイ側のラフプレーで故障したことに端を発し、国際問題に飛び火、両国間に緊張が走っているからだ。実際、暴動も何度か起きていた。

 ヤッバス氏は親日家だ。公務以外でも度々来日し、来日時には必ず贔屓にしている腹胃亭一門の高座に足を運ぶ。エヴァンゲリオンもYouTubeでみる。

 ヤッバス氏は執務室にもう何時間もこもり、厳しい表情を崩さなかった。
腹心の補佐官がエヴァンゲリオンの新作映画を手にいれ、ヤッバス氏に届けようとしたが、ヤッバス氏の張り詰めたオーラにただならぬものを感じ、渡すのをためらうほどだった。
ヤッバス氏のそのオーラに、補佐官がハラソーギャー帝の威厳を感じたのはもちろん言うまでもない。

 ヤッバス氏は執務室でひとり頭を抱えていた。
ふと目に入った写真たて。そこで微笑む、愛しい妻、ビオフェルミン。彼女はもういない。彼女はなんともいえない優しいオーラを持ち、優しく人を包むことのできる女性だった。彼女がいれば、この荒れた状況がいくらかましになっただろうか、などと、ヤッバス氏は弱気なことを考えては、己の非力さを嘆いた。

 しかし、ヤッバス氏はやらねばならない。やりぬかねばならない。己のため、己の国のため、そしてパラグアイ戦で故障した友、伊調選手の今後のために。

 ヤッバス氏はやっと重い腰をあげ、腹を割って話そうと、日本の首相へとつなぐホットラインに手をかけた。



※この物語はフィクションですが、私の腹具合はこの様な拮抗した状態に頻繁に見舞われます。

©固有名詞などは次朗くんとのメールのやりとりなどで生まれた共有知的財産であり、それを展開させたものです。


二〇一三、五月十五日(次朗くんハピバスデ)
山口 温子

働きマン、働きウーマン

 最近、仕事の面なのですが、今までと全く違った環境に身を置き始めました。
それまで、乗った事のない満員電車に乗って、オフィスカジュアル(にまだまだ成りきれません。当面の目標は、肌色ストッキングにボックススカートにパンプスを格好よく履きこなす女性)に身を包み、新聞を読んでスーツに身を包む特殊言語を操る男達に、ちゃらんぽらんの私日々囲まれております。

 満員電車の中で、働く人々の顔をまじまじと観察するのですが、皆さん、眉間にシワ率が半端ないです。厳しい顔をしています。なるほど、毎日こんな顔だとこの表情が定着しそうです。
 ただ、そこで何よりも一番感じたのは、この人たちはこうやって毎日仕事に向かって、自分の家族を守るために働いているんだな!とか、社会を支えているんだな、素晴らしいな!という思いでした。

学生の頃や20代の頃は、何で皆同じ顔してんの!とか、なんでこんなにグレーな空気感なの!とか、満員電車に揺られるなんて!とかスーツなんて絶対着たくない!とか、思っていました。
 しかし、一昔前のコーヒのCMや栄養ドリンクのコピーのごとく、皆さんお疲れ様!早起きして、ちゃんと時間守って仕事に向かって、あんたたち偉いよ!日本を支えているんだな。とかそんな風に感じるんです。

「趣味が仕事」のような比較的時間や服装に自由で、緩い環境で働いてきたからそう思うのか、母になり現実的な思考が加わったからそう思うのか、お金を稼ぐ事、仕事を産み出す事、お金を作って流す事がいかに大変な事か、この一年で少しは分かったからそう思うのかは分かりません。自分が今までいたような業界や、一見華やかに見えるような業界の別の側面を色々見てきたので、懐疑的になっていることから湧き出てくる感情なのかもしれません。

とにもかくにも、色々な職業があって、ものすごい数の人々が毎朝移動して仕事をして、それで社会はまわっているんだなぁと改めて実感したり(社会人歴はもうそろそろ10年ですが。。)会社が成立するという事もすごいことだなぁと思うし、世の中にはたくさんの会社があって、お金を産み出して、それぞれの生活を支えるシステムが出来てて、それを維持していくってものすごい事だなぁと思います。
働きマン働きウーマン達に心から敬意を...と思うのでした。

日時不明 小川留奈

カラオケスナック『雅子』

「今までと全く違う環境」

●男性
昨日のおいらとはちがうぜ
さっきまでのおいらとはちがうんだぜ

明日のおれはもっとちがうし
明後日は言葉が変わって
来年のおれは別人になって
再来年なんて外人かもね

5年後はでっかくなっちゃって
10年後は手足がグルグル〜
30年後はグルグルからほどきかけたとこにグルグル〜
50年後はぐちゃぐちゃのドロドロべっちゃべちゃ〜

台詞●男性
「秋が短く冬が長いのが辛いときみは言っていたね」

サビ●男性○女性
それでもそれでもなんにも変わらない、変わらない
季節が変わるのと一緒でおいらは変わらない
ちがうけど変わらない
右と左は結局出会うのさ(わよ)、ねえ。


○女性
昨日のわたしと一緒にしないで
さっきまでのわたしとはちがうの

明日のあたしはもっとちがうわ
明後日なんかあたしは見ないわ
来年なんて興味ないの
再来年なんてなにがあたしを待ってるの?

5年後はまだ独りかしら
10年後は歌い始めて
30年後からでもバレエを始めるの
50年後あなたより長生きしてるわ

サビ●男性○女性
それでもそれでもなんにも変わらない、変わらない
季節が変わるのと一緒でおいらは変わらない
ちがうけど変わらない
右と左は結局出会うわよ(のさ)、ねえ。

台詞○女性
「春の次は夏じゃなくて、梅雨なの、あなたがそう教えてくれたわね。」

作詞作曲 岸本雅樹 

「コメント」
この歌は自分自身が変わってしまうのではないかと思い、変わりたくない、
いや、でも変わりたい、そういった自分自身の葛藤や、そんな中でも変わらず日々の喜びや悲しみはあり、なにも恐れず生きて行こう、そう強く思いながら、自分自身に投影させながら作詞作曲した歌です。

所変われば、医療も変わる

 フランスには、「物事は変われば変わるほど、同じであり続ける」ということわざがあるそうです。
と、岸本くんの記事を継承したフリをして別の話題を。

 イギリスには、ナショナルヘルスサービス( 通称NHS)という医療制度があり、基本的には、「国が、全ての人に等しく無料で医療を提供してくれる」という大変素晴らしい制度がある。
 仕組みとしては、地域にGP( General Practiceジェネラル・プラクティス)と呼ばれる何でも診れる診療所があり、そこに登録し、病気になったら先ずは予約を取って家庭医に相談しに行く。ちょっと理解しずらいけれど、内科とか耳鼻科とか眼科とか専門別の診療所というのはなくて、ドクター・コトーみたいな、内科から婦人科まで何でも診れるお医者さんが地域にたくさん居るみたいな感じ。だから、「耳が痛ーい!耳鼻科に行くー!」なんて時いきなり専門医に診せる事はほとんどできない。耳鼻科に行くには先ずGPに予約して診察を受けた上で、専門医による処置が必要な深刻な状態だと判断した場合のみ、専門医に行くための紹介状を書いてくれる。
 イギリス人だろうがなかろうが、等しく住民は診てもらえるので、外国人としては無料で医療を受けられるのはとってもありがたいんだけど、問題はGPがどこまで治療ができるかという事。そして、所定の手続きを踏まなければ診察してもらえない事。先ず予約を取らなきゃ診てもらえないので診療を受ける前に治っちゃうなんて意味のないケースもしばしば起こる。国費負担なだけに、治っちゃうくらいの軽いケースは極力ふるいにかけたいという意図もあるんじゃないかという分析もある。お金を払って診てくれる私立病院もあるけれど、保険に加入していない場合、一回の診療で二百ポンド(三万円)以上も取られてしまうので、庶民にとってはNHSにかかる方がずっと現実的。
 そんな中、日本の医療とこの国の医療にはどうも大きなギャップがありそうだと感じた昨年秋の珍体験について書きます。

 昨冬、私はひどい風邪からの中耳炎を併発してしばらく難聴だった。症状に変化はあるものの、もうかれこれ一ヶ月聴こえない状態。この間、週一で計四回も救急外来に通っているのに、お医者さんはただの一度も期待する様な細かい診療をしてくれなかった。
 一人目のお医者さんはイギリス人の女医さんだった。耳の中を確認し、「抗生物質を出そうかどうか迷う所だけど〜」と言ったものの結局抗生物質は処方してくれず、保湿、解熱、痛み止め、鼻スプレー、ベポラップの五つの効果的な対処法方をアドバイスしてくれたが、当然ながら快方せず翌週もこの救急病院に舞い戻る事になる。
 ニ人目のお医者さんはインド人の男性医師。速攻で抗生物質を処方 以上。その間ニ分。超効率的。案の定、抗生物質を飲んだら痛みと耳垂れが止まったけれど、耳は相変わらず聴こえないままだったので翌週も通院することになった。
(後に登録制のお医者さんに診察された時、この抗生物質は皮膚病用の物だったと判明し、冷や汗をかくことになる)
 三人目のお医者さんはアフリカンの女医さん。聴力検査を提案し、ちょっと待っていてくださいと言って部屋を去っていった。ここで初めて聴力検査を提案されたので、「やれやれ、やっとか」と胸をなでおろす。
そもそも、中耳炎と言えば先ず聴力検査が当然だと思ってたしー、ネットでもそう書いてあったしー、それまでのニ回に失望していた私は、やっと念願の聴力検査が受けられるという事に胸のワクワクを抑えられず、心から安堵した。
 しばらく経って、お医者さんは戻って来たが、あれ?どこを見渡しても大型の精密医療器具が見当たらない。何と言うか、大きくて重厚な医療機器風のアレ、小部屋の中に入れられてヘッドフォンみたいな物を耳にあてながら高デシベルから低デシベルまで聞き取れるかどうか検査するアレ、虫の飛ぶ様な音が聞こえたらボタンを押すアレ、を期待していた私は、辺りをキョロキョロ見回したけれど、そんな高度医療テクノロジーが見当たらない。
 おかしいなぁと思ってふと目をやると、その代わりにお医者さんが片手に持っていたのは、なんと音叉だった。
「ヒアリングテストします」
 その女医さんは、音叉を乱暴に机やイスの背もたれにガンガン打ち付けた。
「アレ?おかしいわね」
 背もたれがやわらかいクッション素材でできているため上手く音叉が振動しないのか、固い机の角などに更に力強く音叉を打ち付けては、鉄の棒を私の頭のてっぺんやらこめかみ辺りにあて、「聞こえますかー?」と確認する。アフリカンのおばちゃんの力強い腕で打ち付けられた音叉は確かに振動して聞こえない方の耳でもバッチリ振動をキャッチする事ができた。
 次におばちゃんは、「目をつぶって聞こえた言葉を繰り返して言ってください」と指示した。目をつぶると、やや遠くの方からウィスパーボイスで、「フ ッ ト ボ ー ル」とか「バ ス ケ ッ ト ボ ー ル」とか「ベ ー ス ボ ー ル」とかボール系の単語をつぶやく声が少しずつ近づいてくる。
ウィスパーボイスはウィスパーボイス以上でも以下でもなく、デシベルレベルの検査ができるとは到底思えず、目をつぶりながらおばちゃんのウィスパーボイスを聞き続けているうちにショックと悲しみと笑いが入り交じった複雑な心境になってきた。
 これを左右の耳で確認した結果、アフリカンおばちゃん先生は「あなたの耳、聞こえてます」と診断した。
でも、事実右耳がほとんど聞こえてない状態がこんなにも長く続くので不安になった私は、めずらしく食い下がる。
「耳の炎症は治っているのに聞こえないのに聴こえないのは何でですか?」
問いただす私に、おばちゃんは最も医者らしからぬ回答をした。
「わかりません」
「……」
一蹴され更に失望した私は、特に何も処方されずとぼとぼと帰路についた。
 四人目のお医者さんも同じくアフリカンの別のおばちゃん。
過去三回で適切な医療が受けられず、且つ耳もずっと聞こえないのは、症状を正しく伝えられなかったせいだと確信した私は、イギリス人の夫に同行してもらい万全の態勢で挑む。この度も同じく、耳の中を確認され「炎症はありません」と診断されるが、さすがに一ヶ月も聞こえない状態である事を夫が伝えると、おばちゃんは、耳掃除などで耳をいじったかと尋ねた。
「耳かきと呼ばれる木の棒で耳を掃除しました」と言うと、
おばちゃんは、「ノーーー!」と叫び、そんな危険な事は絶対にダメっと叱り、聞こえないのは自分のせいだとばかりに言われるだけ言われ、やはり何の処方もないまま帰された。
(ちなみにこちらでは耳あかは"イヤーワックス"と呼ぶくらいネバネバ オイリーなもので、かさかさな耳あかがこの世に存在する事など想像もできなかったんじゃないかと推察している)
 五人目にして、ついに地域のGPに登録し、精密検査を受けないまでも納得のいく説明を受け、今まで処方された薬について適切なアドバイスを受け、ようやく処方箋を書いてもらい、結果的にそのニ週間後回復するに至った。時間はかかったけど回復したので、四人の医師の診療は正しかった事になるんだけれど、その間の不安は日本でかかった場合と比べ物にならない。かかった時間も比べ物にならない。

 病院に行ったら、しかるべき検査があって、関連する部位も診てくれて、必要であれば薬を処方してそれ以上悪化しないようにしてくれるのが医療じゃなかったっけ?日本のお医者さんの丁寧な診療が当たり前と思い込んでいたのだけれど、どうも世界ではそうじゃない様子。更に驚いたのは、この変さを周りのイギリス人は誰も理解してくれないという事。夫をはじめ家族や親戚も自然治癒力を異常に信じていて、「ほっときゃ治る」ってな姿勢。むしろ、「日本人はおおげさだなぁ」と揶揄されてしまうくらい。この国には予防という言葉がないのか…
 等しく医療は受けられるというのは、つまり重篤な患者や弱者が優先になるという意味で、それに全く異論はないし、我れ先に診てくれというほど自分勝手ではないけれど、こんなにもいつでも安定した医療を受けられるというのが特別な事だとは考えた事もなかった。
 そして、意外と日本の医療はイケてるんじゃないかと思った。

二〇一三年六月二五日 山口尚子

あまちゃん

NHK連続テレビ小説、通称朝ドラにがっつりハマってます。

NHS、からのNHKはかなり強引だと思いますが、
後ろめたく思いつつも強引に進むことをお許し下さい。

今まで33年の人生の中で全てを見きったことのないNHKの朝の連続ドラマを毎日楽しみにしてます。
ほんと面白い。
笑えるし、泣けるし。
充実した15分。

朝起きるのが不規則だった自分が、朝8時のあの軽快で、そしてキャッチーな音楽に間に合う様にキチンと起きてます。
これは自分にとって奇蹟です、
じぇじぇ!!


前置き長くなりましたが、、
そうです、
『あまちゃん』です。

主人公のアキちゃん役、能年玲奈ちゃん、かわいいです。
素のまんまっぽくてどこからどこまでが演技なの?
と思うくらい役柄に溶け込んでいる様に見える。
表情がほんと素晴らしい、なまりっぷりも良い。あ、あと猫背も。
好きです、かわいいです。大好きです。(捕まる。笑)

そしてアキちゃんを筆頭に魅力的なキャスティング。

アキちゃんのママ、小泉今日子。キョンキョン。
昔から好きでしたが、今もやっぱり好き。
アイドル後のキョンキョンの進化はほんと素晴らしい。

アキちゃんのおばあちゃん、夏ばっぱこと、宮本信子。
「たんぽぽ」を見て魅了され、「マルサの女」でやっぱすげーってなって、
今回の『あまちゃん』で更に好きな女優の上位に食い込みました。
アキを見送るシーン(かつては春子も同じく見送ってた)、泣けます。

この3世代の女性、個人的に最強の3人です。

脇を固める俳優陣もほんと良いんだよな〜。
杉本哲太、荒川良々、渡辺えり、でんでん、片桐はいり、松田龍平、GMTの娘達、、数え上げたらキリがない。

その様にとても魅力ある人物が毎回たくさん出てくるんですよね、『あまちゃん』。


そして聞き逃せない名ゼリフ、フレーズの数々。
朝から宮藤官九郎ワールド全開。
劇中歌「潮騒のメモリー」、「暦の上ではディセンバー」も一度聞いたら耳から離れない。
気付いたら口ずさんでます。


今週(7/15の週)の『あまちゃん』で一番自分の中に入ってきた言葉。

「ダサくても楽しいからやってんだ!ダサいのくらい我慢しろ!」

個人的に歴史に残る名言だと思います。
ダサいかどうかなんて関係ない、楽しい方を優先した奴が勝利するんだと、
アキちゃんに教えられました。

すげえぜ、アキちゃん。


こんなにも、どハマりしている『あまちゃん』が終わってしまった後の自分がどうなってしまのか正直今から不安です。笑

この感覚は小学生の時に初めて「となりのトトロ」を見た時と似てる気がする。
好きな物語は終わって欲しくなくて。
サツキとメイ、トトロ達のその先をずっと見ていたかったんだよなー。

ずっと見続けられるならもちろん見ていたいけど、
どうせ終ってしまうものだから、
バシッと気持ちよくサイコーの形で終わってくれることを心より願っております!

頼むぜ、アキちゃん。

頼むぜ、宮藤官九郎さん。


2013.7.18 JUBILEE シミズダニヤスノブ

「ダサくても楽しいからやってんだ!ダサいのくらい我慢しろ!」

ですね。

その通りだとおもいます。

わたしが、あまちゃんを観てるかというと、観ていない。
ですが、この言葉を聞いて、最近ちょっと似たことを話したので、そのはなしを。


「自信があるからやってんじゃねんだよ!覚悟があるからやれてんだ!」
(あまちゃん風にいうとね)

深い意味はないです。ままです。
これはあるおっさんとの飲み屋での会話で行き着いた結論なのですが、
まだ経験したことがないことをいざはじめようとするときに、
(特に仕事とか結婚とか、人生の大きな出来事に置き換えるとわかりやすいすけど)

「自信がないから今はやめとくか。。。じぇじぇ」

というのは、ただの逃げだろ、という話です。

おっさん曰く、やったことないのにはじめから自信を持ってるヤツはバカ、
ということでした。そうかもね。

でも、なぜそれをしようとするかというと、
そこに覚悟があるからだろ、ということなわけです。

それをすることで、これを必ずこうしてやる。
その約束は、死んでも守る。

的なことです。つまり、自分の意志の話なわけです。
結果は関係ないわけです、はじめから。
だから、始められる。始めて終わりじゃなくて、そこから(苦労が)スタートするわけで。
どうやっても目指したゴールに近づけないとダサいし。やるしかなくなるよなと思います。

結果どうなるかわかんない、から、それを不安がってやらないとか、
これは、まあまあ、失敗しない、から、やってみるか、
というのは(いや、別に全然アリなんだけど)いろんな要素を並べて、
推測しているだけだから、そりゃ、ちょっとビビるよね。
意志がないし、想像しかしてないから大体悪いほうの想像が邪魔しちゃいそう。
でも、始まりもしないし、ゴールに1ミリも近づかないまま死ぬのはそこで確定なので、
あとの人生、山にこもるなりなんなりしたほうがいいと思います
(自分がもしそういう考えになっちゃったらの話ね)



昨日は選挙でしたね。
結果は、まあ、それでも、民主主義で決まった結果だからね。
それぞれ言い分もあると思うけど、大事なのは家族とか生活とかっつーのは変わらないから、
もしそれがほんとにヤバくなるなら守る方法は死んでも考えるよね。
そもそもこどもが戦争いって喜ぶ親はどこにもいないと思う。バカ以外はたぶんみんなそう。

そして、わたしはある候補者にその覚悟を感じたわけです。
そのひとが当選したら日本をどうにかしてくれる、とかそういう期待はしてないです。
が、政治家にそういうひとがいて、大変だけど楽しくやろうぜ的なことを
ダサくても言い続ける。というのも、アリだと思いました。(いいか悪いかは別としてね)


なら、おれもやってやる、と思いました。
家族や生活を守る為にわたしは仕事を続けます。死んでも。

ということで、ご存知の方もいらっしゃいますが、
(なんどかフライングもしてますが)
会社作りました。今度はほんとう。すでに登記もしてます。

株式会社Werkbund(ワークバンド)です。
名前の意味とかはまたおいおい。
潰さないようにやりますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
内装も終わって事務所もなんとなく落ち着いたので、あそびにきてね。
(流れ的にはイエローじゃないよね?たまたま告知になっちゃっただけだもんね??)

では!


2013.7.22 ふるや

夏朝






 遅くなってすいません。今回の話はフィクションです。詩のような小説のような。ふるやくんの文章とつながっているような、つながっていないような。もちろん、僕自身はつながっていると思っていますが。



          ○

 朝八時半すぎ、新宿行きの電車は混雑していて、駅のプラットフォームも人が溢れている。朝とは思えないほど強い日差しが左斜め四十五度ぐらいの角度で全身に突き刺さる。小田急線の車両の窓ガラスは紫外線をカットするスペシャルな仕様だそうで、そのガラスを通して見る外の景色は青みがかって見える。そのせいか、朝、通勤しながら見る世界はまるで夏っぽくない。涼しげで、静かで、まるで水族館の水槽を眺めているような気分になる。
 両耳に突っ込んだ安物のヘッドフォンからは世の中の流行り廃りとはまったく関係のない種類の音楽が流れていて、一応ダンス・ミュージックではあるがこんな不規則なリズムと鉄板を引っ掻いたようなノイズで果たして人は踊れるものだろうかと不思議に思う。
 目の前に立ったサラリーマン風のおじさんが着たワイシャツの背中にはもう汗が滲んでいて、彼は首筋をハンカチで何度も何度も拭う。車内の冷房は効き過ぎているほどで、風が直接当たると鳥肌が立つほどに冷たい。窓の外を見ながら、季節の感覚が失われていくなかで、おじさんの背中の汗染みだけが、今が夏だということを思い出させてくれる。
 夏の暑さと日差しは時間の流れを澱ませる。意識を濁らせ、その底に記憶を堆積させる。紫外線を遮る青いガラスも、冷たすぎる冷房も、心の中に沈殿する夏の記憶に足を取られないように、人々を静かに、いつもの街へと運ぶ。青白い空気で満たされた通勤電車の中で、僕たちは夏を忘れる。

 夏の夜が寝苦しいのは、ただ暑いからではないと誰かが言っていた、と誰かが言っていた。
 春から夏へ、夏から秋へ、秋から冬へ、そしてまた春へ。移り変わっていく季節の中で、夏だけは簡単に「次」へいくことを許さない。夏には、これまで経験してきた夏の記憶がすべてまとわりついている。あの夏も、あの夏も、あの夏も、再び夏が巡ってくるごとに、鮮やかに甦ってくるような気がする。
 たとえば小学生最後の夏休みに、僕がどこで何をしていたか。初めて恋人と過ごしたあの夏が、その後の人生の何を変えたか。あらゆる記憶が「今」と一緒くたに浮かび上がってきて、僕を戸惑わせ、「思い出」という名の沼地に引きずり込む。怠惰な空気とそこに吹き溜まる記憶の断片が「夏」というものの実体だ。そしてそんな夏は、いつだって「今」の座標を狂わせる。「今」も「あの日」も同じになる。一日ごとに、日差しがすべてを明るみに引きずり出し、夕立がすべてを洗い流す。そして、また、寝苦しい夜がやってくる。そうやって、夏は前に進むことを拒み続ける。

 夏が嫌いだ。にはまることを甘美に思う自分が嫌だった。夏の魔物なんていうものがいるのかいないのか、そんなことは知らないが、少なくとも夏という季節には魔物的な何かが潜んでいて、それは夜ごとに僕の手足をがんじがらめにして「ここにいろ」と命じるのだった。

 額を伝う汗。
 吹かないほうがよっぽどマシに思える、生ぬるい風。
 芝生の濃い緑。
 尻が焼けそうなベンチ。
 真夏の炎天下で開けたワイン。
 くしゃくしゃになったビニール袋。
 すっかり溶けてしまったアイスクリーム。
 着替えのTシャツ。
 白いカーテン。
 すり減ったビーチサンダル。
 湯気を立てるボンネット。
 水たまり。
 花火の燃えかす。
 焼鳥屋の煙。
 首に巻いたタオル。
 夜の公園。
 蚊柱。
 切れかかった街灯。
 缶ビール。
 汗でベタベタになった二の腕。
 虫さされの跡。
 かげろう。
 かげろう。
 かげろう。

 本当にあったものも、そうでないものも、そこでは「夏の記憶」の名のもとにごちゃ混ぜになってぐるぐると回っている。その真ん中で僕は立ち止まり、そのひとつひとつを追体験する――。
 もちろん、夏はもうすぐ終わるのだ。
 澱んでいた時間は再びさらさらと流れ始め、冷房は切られ、おじさんの背中に汗が滲むこともなくなるのだろう。ヘッドフォンから聞こえる音楽も、そのときにはまた変わっているに違いない。
 でも、僕はまだ、この気だるい夏の沼地から、抜け出す術を知らないまま、電車に揺られて水槽をのぞきこんでいるのだ。この夏が終われば、また新しい何かが始まるはずなのだが。

 さっき通過した駅で、僕は向かいのホームにひとつの夏の断片を見た。その断片は白い服を着て、白いスニーカーを履いて眩しそうに顔をしかめていた。

 電車は新宿駅に着く。
 僕は押し出されるように車外へと出る。地下のホームにも、確かにむせ返るような夏はあった。エスカレーターをのぼっていく。
 もうすぐ、夏が終わる。



2013.8.10 小川智宏

魔物

 魔物って怖いよね。
 悪魔みたいな、まあ直接的なものから、見た目にはきれいで美しくても惑わされてしまうような厄介なもの、不安や嫉妬、みたいな気持ちのものまで、何にせよ怖くて厄介で、できれば会いたくない奴ばっかり。もれなくみんなにそれぞれの魔物がいるし、倒したと思ったらまた別の魔物いたりね。もっと怖い奴が。あと、別の場所に似た奴が現れたりもするよね。「あーそいつ前いたわ!」みたいなね。「いや、少し前から居座っちゃってさ」って。しかも人が魔物を退治してても、自分の方には全く関係ないしね。

 小さい頃はまあね、夜とかお化けとかのいわゆるって感じのものが怖かったな。だんだん大きくなっていくにつれて、そんな単純な魔物ばっかじゃなくなってきて。もっと怖い奴がいっぱい出てきたよ。嫉妬とか嘘とか病気とかお金とか怠惰とか社会とかもう色々。色々ね。こうなってくると、明かりをつけて寝るとか、トイレに親を起こすとかそういうんじゃ対処できない。お手上げ。戦うだけ損。負けるが勝ち。参りました。

 で、まあ小学生か中学生か忘れたけど、お手上げだって言っても、魔物にいいようにされるのが本当に嫌で嫌で、どうすればいいのかなって考えてて、いつからか少しずつわかってきて。どうするって、もう友達になるしかないんだよね。友達とまではいかなくても、居てもいいよって言ってあげる。魔物に。怖い奴に。嫌だけど。退治するのも悪くないんだけどさ、なーんかイメージとしてそういう手段をとってきた人って、その人自体が魔物みたいというか。なんと言うか俺は怖い。漠然とそんなイメージを持ってるから、そうなるのは俺は嫌だから、普通に話しかけてみるしかないなと。「おっす」って。「あがっていく?お茶でも飲みなよ」って。それで、まあ距離をはかりながらよーく見てみる。そうするとさ、まあ自分なわけよ。どっからどう見ても。自分の中にこんな魔物がいるなんて!って思ったりもするけどね。でもさ、そりゃ地球に人間いるんだから、人間の中にも魔物もいるだろと。相模湾にあんなサメがいるなんて!でしょ。それでいいんじゃないかと。そんぐらいの肯定しても罰は当たらないよ。

 そんな魔物共とうまくやっていけるようになったのって、どうすればいいのかわかってきたのっていつ頃からかなーって思い出してみると、明らかにこの時期だなってのがあって。その時期に出会った人たちが、みんな失敗とかカッコわるいこととかあっても笑ってて、すごく楽しそうにしていたんだよね。それでこっちも楽しくなって。自分の失敗も他人の失敗も受け入れて、だからみんな自由になってて。
 どんな場合にも当てはまると思うし、散々言われてることなんだけど、『楽しめる』って最強だと思う。それも『自分以外の誰かと楽しめる/自分以外の誰かを楽しませる』だともっといいよね。俺はまだまだ『自分が楽しむ』とこの見習いだなー。
 俺は庭にアメ玉を置いてアリを集めてずーっと見てるのも好きだけど、みんなと話したりするのも好きだよ。俺の周りのみんなは、自分以外の俺を楽しくしてくれてるよ。


二〇一三/八/十三
安藤 次朗

結局何も変わってなどいない

 今年の夏は熱かった。というのも、気温などの気象的な話ではなく、テレビドラマの話である。

 ここ数年、一部を除いてテレビドラマというものからすっかり遠のいていたのだが、今夏は結構楽しませてもらっている。
 私が見ているのは、NHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』とTBS『半沢直樹』。みなさまご存知の通り、ある種の社会現象を巻き起こしている大ヒットドラマである。『あまちゃん』は、「東京から遠く離れた、東北・北三陸の小さな田舎町が舞台。そこで海女さんを目指すうちに、挫折・奮闘を経て「地元アイドル」に成長していくヒロイン。そしてついに東京で本格的にアイドルを目指すことに。ヒロインとその母・祖母が織りなす、女三代記の“人情喜劇”」(公式サイトより)。『半沢直樹』は、「大手都市銀行に入行した半沢直樹が、銀行内外の人間や組織による数々の圧力や逆境と戦う姿を描く、池井戸潤による企業エンターテインメント小説シリーズのドラマ化」(wikipediaより一部抜粋)である。テンポのいい展開と視聴者のツボをつくような演出や小ネタ、すばらしい音楽ーー端的に言えば、ただただおもしろいのだ、すごく。もう9月だし、もうすぐ終わることを思うと悲しくなったりもする。


 そして、普段テレビを見る機会が少ない人、そしてドラマを見ていない人々が、これらのドラマを楽しみにしているのが個人的にはすごく興味深い。テレビを見る人が減っているやなんやかんや言われているが、結局、多くの視聴者を惹きつけられるおもしろいコンテンツがなかっただけで、おもしろければ毎日だって毎週だって見る。それはものすごい普通のことだし、テレビ局もさまざまなマーケティングデータや技術や方法論(そして魔物のようなしがらみ)に従ってコンテンツを作っているとは思うが、PCやタブレット、スタートフォン上のデータはあくまで“参考程度”のものであり、人が人に向けて作っているものは、そこに血が流れていないと結局は届かない。技術や通信手段が進歩・多様化されても結局根本は変わらないような気がするのだ。と思うのは、自分への戒めでもあったりするのだろう。

 残暑は厳しいが、そろそろ日本の夏も終わり。秋の匂いも漂いはじめた。2020年東京オリンピック開催も決まって、いろいろな物事が動いているような 一周して戻っただけのような感じのする今日この頃である。

2013年9月 オカザキサキコ

祝辞

私と新郎新婦は 主人を介して出会いました
出会った頃 新郎は 彼の燃えたぎる熱い血が流れた作品を作るアーティストでした
周囲にアーティストなる人物がひとりもいなかった私はとても興味をもちました
彼の 彼そのものの作品はとても楽しく 儲け度外視とも思える作品のパワーが私はとても好きでした
愛する人と結婚するために 今は作品作りから少し遠のいてしまっているけれど また新郎の作品を見たいと思います
出会った当時から新婦はアーティストの恋人なのも頷ける とても自由な少女のようで かつ責任感が強くとてつもない行動力をもつしっかりとした女性で 私も彼女の虜になりました
彼女は 私にとって時にほっとけない妹のようで でも時に頼れる姉のような そんなかけがえのない存在です

新郎新婦とは はじめは6〜10人の大所帯で展示会に行ったり 小旅行に行ったりしていましたが
いつの頃からか 何きっかけか 新郎と私達夫婦は毎週のように3人で遊ぶことが増えていきました
新婦が多忙なこともあり おデートをする予定がないと聞けば さっそく呼び出し 自分達の行く予定だったところに新郎も連れて行く
何も予定がない時はただ会って街をぶらぶら歩き ただただ笑い転げる
六本木 銀座 表参道 原宿 渋谷 代官山 神田
東京のアッパーサイドを岡山弁で 私は拙い岡山弁で おしゃべりしながら歩く お茶をする ごはんを食べる お酒を飲む
ただそれがとても楽しかった

意味不明に盛り上がり 一晩に百件ほど行き交う炎上メール
我々にとってスカイプとは新郎とするためのアプリ
新郎新婦がケンカしたと聞けば 明け方まで どうすれば仲直りできるかを夜通し話し合う私達夫婦
愛しすぎだろとの御言葉はごもっともです
新郎新婦と4人で遊べる時は嬉しいけどせっかくの2人の時間なのに私達といてお邪魔じゃないかとヤキモキしたり
新婦が結婚のことで悩んでいると聞けば 少しでも力になりたいと 新郎に怒られてもいいと がむしゃらに相談にのったり
私達夫婦にとって新郎新婦は親友以上家族未満 てかほぼほぼ家族なのです

たまにすれちがってしまう時もあるけれど ほんとうにお互いを必要としているふたり
人生の三大袋だって三大坂だって
ふたりなら何だって乗り越えられる そう確信しています
いろんなものをふたりで知って見て 雅な樹を育てていってください
本当に結婚おめでとう
岸本家に幸せがたくさんふりそそぎますように
週末会えるのをとても楽しみにしてるよ

岸本雅樹知見夫婦に捧ぐ

二〇一三 九月十六日
山口 温子

アジア熱

先週、初めて子連れで海の外に出ました。
行き先は台湾です。私にとっては4年ぶりの海外旅行です。
この4年あっという間でしたが、今から4年後は何歳?と考えると結構長いです。

結果を言うと、今燃えたぎる暑いアジア熱に侵されています。
今まで「アジアはいつでも行ける」という感覚で、行くにしても東南アジア。
中華圏はそこまで興味がありませんでした。

保育園一くらい元気で活動的な娘なので、大変だろうな、、、とか飛行機大丈夫かな?と
思っていましたが、近さもあり無事楽しむ事ができました。

年々体力の衰えを感じる年頃ではありますが、逆に思ったのが
「あれ?私まだ全然体力あるし元気だわ...」ということです。
ベビーカーを持参しなかったので、旅中の半分は抱っこでしたが、15kg片手に慣れない英語で
交渉して街中を歩き回る位のパワーが、自分にはまだまだある事が確認できました。
半分は精神論な気もしますが...

となると突然
「あれ、なんか服買うより貯金するより、私、パワーがあるうちにまだまだ色々な世界を見たいかも」
という好奇心がムクムク沸き出しています。

「子連れ」という事で、どの位行動が変わるだろうか、と懸念していたのですが
うん、いけそう。
32歳、20代のようにはいきませんが、まだまだ若いっぽい 笑
20代の頃よりは時間がある...

つぎはマレーシア、香港とマカオ、北京あたり狙います。w
こんなに近いんだから、もっと頻繁に行き来したいと思いました。
中国語も興味わきました。

見た目が限りなく近いのに、でもやっぱりどこか違うという事がすごく自分の中で興味をもつポイントになっています。似ているんだけど話すコトバが違うから、すごくオリエンタルな気配を感じてわくわくします。(自分も東洋人なのに)

3泊4日という短い期間でしたが、ここ数年は腰を据えたり守る事、保つ事、落ち着く事、備える事に重点を置いていたので「一歩動いてみるか」と肩を押された気持ちになりました。新しい空気に触れる事で新しい感覚がどんどん自分にインストールされていくようで、とても気持ちよい旅でした。

2013.10.03 小川留奈

旅先から

「海外旅行」そのものは人生で一度だけ経験した。

岡山の高校時代、修学旅行で韓国へ行った。
姉妹校が有り、そこ、釜山?の高校との交流、と国際的なアレの一環による事の即ちのアレの為だ。
楽しかったようで、なぜだかあまり記憶がないのは、自分の意思で行こう!
と思わなかったからかな。
記憶として残ってるのは、
三十八度線の有刺鉄線、ロッテワールド(遊園地)で遊女に誘われた事、
姉妹校の同じ歳の高校生とのプレゼント交換で、試行錯誤を重ねた当方日本土産との引き換えに用意していなかったのか、ポケットから取り出したグシャグシャの三〇〇〇ウォンを真剣に謝りながら手渡された事、
片想いのあの子に写真を撮りませんかと使い捨てカメラを持って・・
やばい、あかんで、走馬灯やで・・・

というように『旅』は一度だけ。

あとの海外、国内は全て用事がある時にしか行っていない!!!?
なんてつまらない人間なのでしょう!!
と今気づいたわこれせつないでほんま!

・ニューヨーク、ロンドン→美術関連の超貧乏ツアー
・中国→出張とは名ばかりの高額アルバイトツアー
・ネパール→ボランティア活動とは名ばかりのツアー
・広島・大阪・京都・名古屋・新潟・金沢・仙台・福島・青森・・・・・のツアー

いつも『用事』が先行する31年でした。(去年までやで!)
しかしながら奥さん、
18歳から旅は始まっている感覚で、
今それが家族が出来て、旅先で腰を据えている感覚。割とドッシリ。

旅先から旅先へ国内の旅を先日。

月並みだけども、もっと旅をしたいと感じたわ。

用事が先行しても旅が先行しても

旅先から旅先へ(書くとかっこええやんなあ!)

とにかく一にも二にも今は蝉が自由に出入りする、巨大なスペースを保有する夢をマジに見てしまう。

ツアーしたいな〜(永遠)

2013/10/22 岸本雅樹

予期せぬ旅

この秋から、移民向けの英語講座ESOLイーソルに通い始めました。
ESOLイーソルってのは、「外国語話者のための英語講座(English for Speakers of Other Languages)」の略で、要はガイジンのための英語講座。

イギリスは、大英帝国時代、世界を旅して植民地にしまくっていたので、各大陸に1つはイギリス領が存在するほど、かつては世界の1/3が大英帝国だったのだ!という訳で、当然各植民地からの移民の人口は多いし、加えて最近は経済危機に瀕したEU圏からの労働者もたくさん移住してきているし、私の様にアジアからの移民も少ないながらいるし、意外に思うかもしれないけど、ヨーロッパ圏の人も結構英語をしゃべれないので、自治体が主体となってアダルトラーニングの講座を無料や安価で提供している。

私は、幸運にも週4日違うクラスに無料で通う事ができて、歴史、行事や慣習を学んだり、はたまたベタに、エイミー・ワインハウスとか、チェ・ゲバラとか馴染みのある有名人のバイオグラフィーを読んだり、ライティングでは、オートバイオグラフィー(=自伝)を書いたりしている。
いろいろなバックグラウンドの人がいるので、大人でも必ずしも文字がスラスラ読める、スペリングができる人ばかりではない。学習障害については、ここでは割とオープンで、チューターがきちんと把握して個々が気持ちよく学習できるように配慮してくれるし、クラスメートでお互いを尊敬し合い、助け合おう学び合おうというのをクラスルールとして初めに共有している。

国のお金で学ばせていただいているので、真面目に通わないとお断りされちゃうなどゆるいながらも厳しいんだけれど、それでも自発的に真面目に通っている人が多く、なぜかと言うと、英語の勉強が生きるのに必要だからという目的意識も去る事ながら、やはり今までコミュニケートしたことのないろんな国の人と肩を並べて対等に付き合えるというおもしろさに尽きると思う。
ロンドンが多様性の塊の様な都市とはいえ、違う文化や宗教の人と道では頻繁にすれ違えど、交流する機会はなかなか限られている。よっぽどの機会もなければ深く付き合う事はない。だから、学びという良いきっかけで、こうも扉がパッと開かれようとは!?とても嬉しいのだ!ソマリア人、スペイン人、ギリシャ人、フランス人、ポーランド人、イラク、パキスタン人、バングラディシュ人、マレーシア人、ベトナム人、中国人、日本人、コロンビア人、チリ人、ブラジル人…etcと世界中の人達と机を並べ一緒に勉強できる。

自伝を書くにあたり、自分年表というのを書いてみた。
ベトナム人のヒープさん(男性)は、ベトナム戦争中に国から逃れて来たそうで、カンボジアでの戦闘にも駆り出され、たぶん辛い経験をたくさんされたんだろう。スコットランドに着いてからも、人種差別には会うし、一文無しだし、ここに辿り着くまでかなり辛い経験をたくさんされたそうだ。
名前は忘れちゃったけど、ソマリア人の女性は、なぜこの国に来たかというと、旅行が好きだからとお茶目に言っていたけれど、たぶん戦争から逃れて来たのだろう。ソマリアは、英国領だったソマリランドとイタリア領だった南ソマリアがあって、南が紛争地域で21世紀の現在も戦争をしていると教えてくれた。ソマリア人は結構たくさん移民してきている実感はある。
私の初めての旅は、記憶に残っているのは4つの時、初めて飛行機で行った長崎の祖父母の家。ちょうどすれ違った飛行機が墜落した日航機だったらしい。
初めて海外へ行ったのは、19歳で行ったカンボジア。大学時代はヨーロッパへ初めて行ったり、仕事で日本全国いろんな所へ行かせてもらったり、28歳で愛する人に会って地球の向こう側の国で暮らす事になったり…まぁ、月並みだけれど、私にとって旅は(多かれ少なかれ)いつも幸せなものだった。

けれど、彼らの様に意図しない旅ってのもあるんだよな、と思って。
家族と離ればなれになって暮らさなきゃいけないとか、
故郷がめちゃくちゃになってしまって離れなければ命が危ないとか、
想像を絶するけれど、私と同じ普通の人に起こっている事なんだよね。

だから自分は幸せだよね〜ていうのを強調したい訳じゃなくて、
だからって私たちに何ができる、何もできないじゃないかって葛藤したいわけでもなくて…世界で何が起こっているか、何が起こってきたかを冷静に知るのがとっても重要だと思う。その上で、今となりに座っているこの人も、道ですれ違うちょっと風変わりな格好の人達も、海を隔てた違う価値観の人達も、私と同じ普通の人と思えるこの感覚を大切にしたい。神の視点じゃなくて、アリの視点。

と、たいそうな事をのたまわっている様だけれど…
同居人が皿を洗わないとか、冷凍庫が「これは冷やす必要ねーよ!」って物で満タンになってるとか、想像の範疇外の事態にキレたりもしている日常。
人生って難しいけどおもしろいよね!

2013年11月16日 山口尚子

英語

僕は英語が苦手です。
I'm not good at English.

コンプレックス。
complex.

たまに海外からメールで問い合わせなどを頂くことがあるのですが、
ほんと一苦労。
辞書やらネットで調べに調べ、
何を尋ねられているのかを何となく大まかに理解。
その後、和訳以上に必死に調べに調べ、
最終的に重要な部分は英語の出来る友人にも聞いたりしてどうにか英訳。
それはそれは1日仕事です。
学生時代きちんと勉強しなかったからなー、、、


勉強を全くしなかった中学生時代。
特に英語が大嫌いでした。
意味がわからないことだらけで完全に逃避してました。
そもそも基本ベースがアホ過ぎて、
一人称、二人称、三人称とか日本語としてもよくわからず。
受動態とか出てきた日には「be動詞と一般動詞は一緒に使わない」って言ったのに何故??みたいことでよく頭がパンクしておりました。
学ぶ気がなかったので全然頭に入らず。
苦手意識の固まりだった中坊にとって英語は嫌悪以外の何物でもありませんでした。
ほんと嫌いだったなー。苦笑


自分がどれだけ英語が苦手だったかというと、ローマ字・英単語でいきなりつまずきました。
生活の中で英語を見たり聞いたりすることはあっても意味などほとんどわかってなかった、
何となく文字や音として認識していたのだと思う。

そんな中、まず英語の授業の初歩として登場したローマ字。
ここはどうにか覚えました。
僕は名前が長いのでローマ字も結構な文字量です。

SHIMIZUDANI YASUNOBU
my nameを書くのも苦労しました。笑

その後、出てきた英単語の数々。

自分の中で衝撃でした。
最初本当に意味が分からず。
せっかく覚えたローマ字の法則が使われないことが
馬鹿な自分には全く理解出来ませんでした。

なんで乗り物のバスは「basu」でないのか?
「bus」??
せめて「bas」だろ、と本気で思ってました。

英単語を覚えるということに納得出来ない捻くれ者の私は、
英単語を暗記するという行為を完全放棄。
単語テストの時に全部ローマ字で記入。
当然先生に呼び出され「違う!」と指摘されても断固無視、
頑にローマ字で書いてました。
なぜあんなにも譲らずにローマ字推しだったのかは今となってはよくわかりません。
ちなみに先生の温情により、毎回「tomato」、「piano」のどちらかが入っていたのでかろうじで0点はまぬがれていました。笑

隠していた酷い点数の小テストがごっそり親に見つかった時、ぶち切れられたことは言うまでも有りません。
その後、英単語をきちんと覚え始めましたが、当時自分の中で一番苦手だったのは何故か「school」でした。
「s」の後の「ch」の順番がおかしくなったり、余計なモノ増やしちゃったり。
今も若干怪しいです、違和感ある。笑


そんな駄目駄目だった中学時代を過ごした自分ですが大学入学後に海外への憧れも有って一時期留学も考えていました。
結局タイミングなどが合わず断念してしまったけど今もやはり海外への想いは有ります。
これから留学するのは色々考えると現実的ではないので、
仕事で海外に行ったり呼ばれたりすることにいつからか目標は変わりました。

そんなこんなで最近コツコツ「English」勉強中です!!
Merry Christmas !!!

2013.12.25
JUBILEE
シミズダニヤスノブ

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。今年の目標は

おっと、見出しのまま書き出しそうしなってしまいました。

二〇一四年、今年の目標はひとまず、3つです。

一、英語を勉強して話せるようになる。
…まずは中学のおさらいをします。

二、料理をする。
たまにはね。

三、会社をバキバキに鍛える。
もちろん自分も含めてね。

です。

おかげさまで年明けから社員も増えます。
予定では今年は仕事の領域も広がります。
なにか一緒に仕事ができるといいな〜とも思っています。
なかなかタイミングと条件が揃わず難しいところではありますがここは是非にと考えています。
みなさま今年もどうぞよろしくお願いします。


今回は年明け早々なので、短く簡潔に。
では、ごきげんよう〜。


2014.1.4 古屋

春のおしゃれ





※一か月以上も放置してしまった。ごめんなさい。死ねばいいのに。言い訳はしません。誰か今度会ったらビンタしてください。



 もうすぐ春だ。
 大雪が降ったばかりで何が春だという感じだが、東京に雪が降るというのは春の前触れなのだから、やはりもうすぐ春である。

 そして春といえばおしゃれの季節だ。そろそろおしゃれでもしてみましょうか、という気分になってくる。というか、おしゃれな大人になりたい。そうだ、それを今年の目標にしよう。

 ではおしゃれとはなにか。とか考え出してしまうのが僕の悪いクセなのだが、これについては明確な持論があって、たとえば着ている服とか履いている靴とかにちゃんと物語があるかどうか、である。なんか面倒くさい話になりそうでしょう。もう少しご辛抱ください。なんか申し訳ないので、せめて以後ですます調で少しでも柔らかくお届けします。

 要するに、なんで自分がこれを選んだのか、どうしてAではなくBなのか、を言語化して語れるかどうかが重要なのです。
 たとえばモッズコート、ちょっと前にものすごく流行って、今や定番ですね。なぜあのコートをモッズコートと呼ぶのか、果たして着ているうちの何人がきちんと理解しているでしょう。いや、別に理解していなくてもいいんです。形がかわいいとか、色がかっこいいとか、それでも別に構わない。ただ僕はそれだと納得がいかないので着ることができない、と。うわあ厄介。それってオタクのウンチクでしょうと、まさにその通りなのですが、ただ知識さえ持っていればいいのかというと、そういうわけでもないのがさらに面倒くささに拍車をかけます。
 あるアイテムがあったとして、そのバックグラウンドにある物語を理解した上で(これが、たとえばモッズコートだったらもともと六〇年代に持っずと呼ばれる若者たちがスーツが汚れるのを避けるために軍払い下げ品のコートを羽織ったのがはじまり、とかそういうこと)、その物語に同調することが大事なのです。ここで勘違いしないでいただきたいのは、これはモッズコートを着るなら起きてから寝るまでモッズじゃないといけないということではないということです。僕、モッズコート好きですけど、別に3つボタンのスーツ着てチェルシーブーツ履いてベスパ乗り回したりしていませんから。それではコスプレなんです。
 そうじゃなくて、たとえばザ・ジャムのポール・ウェラーに憧れたからとか、オアシスのリアム・ギャラガーが着ていたからとか、そういうことでいいんです。自分の人生のリアリティと、その服のリアリティが、どこかの点で結びついている、そしてそれをちゃんと言葉で説明できる、これが重要なんです。だから極論いえば本物でなくてもいい。というか、別のものでもいいのです。だから……世の中にはやたらスーツの仕立てや生地や靴の形状や時計のメカニズムに詳しい人がいますね。それとは、まあ似たようなものですがちょっと違うんです。スーツの仕立てや生地の種類についての知識は、教科書化することが可能ですが、僕が「この服」を着る理由というのは教科書化できない。だってきわめて個人的な物語にすぎないわけですから。
 ゆえに、なぜ自分がこの色のぼろぼろのセーターを着ているのか、について僕は誰にも語りません。語ったところで人と共有できる理由(理解されるかどうかは別として、○年もののヴィンテージでいくらいくらぐらいの価値がある、という話なら意味はわかりますよね。でも昔見たドラマで○○という登場人物がこんな感じのセーターをこんなふうに着ていたから、という説明は非常に難しい。なぜならその参照点としての○○のセーターと、今僕が着ているセーターはまったくの別物だからです)がないのです。同じウンチクでも、ものすごく抽象的で、ものすごく気分的で、ものすごく意味がないウンチク。うわあ、やっぱり厄介。

 ここで気になるのは、果たしてそれがおしゃれなのかということです。
 たぶん、世間一般的にはおしゃれではないのかもしれません。というかおそらくおしゃれではありません。でもそれを続けていくと、いつの間にかおしゃれな大人になっている、ということが起きる可能性があります。たとえば、それがおじいちゃんとの思い出だからと、毎日ドテラを着ていると、たぶん最初の何年かはものすごく馬鹿にされますが、それを五十年続けていればスタイルになります。そういうのを目指したい……いや、違うな。ニュアンスは近いけど、違います。ドテラだからいけないのか。でもまあ、だいたいそういうことです。

 今年はおしゃれな大人への一歩を踏みだそうと思います。



2013.2.16 小川智宏

バックグラウンド

 誰のバックグラウンドもすべからく尊いものであると思うわけ。やっぱ命はさ、大切だしね!

 そうね例えば、滋賀に生まれて、小さい頃は何でか雀と電線が好きで、中学校の部活は水球部で、そのときに好きだった人は今は二児の母で、そのとき聴いてた音楽はMr.BIGで、一回だけ万引きした駄菓子は食べずに捨てて、はじめて観た映画はミセスダウトで、一番好きな本の一つは志賀直哉の『城の崎にて』で、食べられないものはカボチャで、たばこは吸ってたけどやめて、一度だけ入院したことがあって、その時にはPファンクを聴いてて、大学の時に東京に出てきて、東京ではじめて食べたラーメンに感動して大学辞めて、ラーメン屋で修行したけど今は印刷屋の営業やってるんですよね、とか。あれ?尊くない?

 まあさ、どんな人にも、それまで生きてきた分だけバックグラウンドがあって、その積み重ねが今になってるという。当たり前のことなんだけど。つまり「こんな私ですが、これが私です」ってこと。それは単にクソポジティブに「今の自分サイコー!」みたいに思うってこととは全く違ってて。自分のしてきた良いことも悪いこともしっかりわかってて、そういう全部をひっくるめて「こんな私」だけど「これが私」だって思うこと。「肯定」よりは「諦め」に近い感覚かな。それも悪い意味ではなくね、何かもう受け容れるって感じ。
 犯罪者も昔はみんな子どもだったとかは、よく言うじゃん。もちろん人生には道を踏み外してしまうこともあって、でもそれは全く他人事じゃないんだよね。犯罪に限らず何かの拍子にたまたま道を踏み外してしまった人もたくさんいて、そういう人と自分は、一体何が違ったんだろうって考えても、結構同じだったりするんだよね。自分もずるいこと考えるし、楽したいし、嫌なことからは逃げたいし。自分は絶対大丈夫って言えないもん、俺。

 でね、みんなの人生、みんなのバックグラウンド、全ての命が尊いならば、大切なのは何なのか。
 それは、今どんな奴かだなと。今何を考えて、今何をしていて、これから何をしようとしているのか。そもそも、今みんなを大切にしてるの?みんなにちゃんと好かれてるの?大切にされてるの?と。
 あんまり今だ今だと言うのも嫌いなんだけど、その日その時に色んな事があって、それがすぐに自分の後ろにいって、歩くそばから道になって。今日ここまで歩いたものはもう戻れないし、だったら今を大切にってことだよね。今ちょっと自分やだな、何か違うなって思ってても、今ちょっと気をつけるだけで色々変わると思うのです。それは、靴をそろえたり、花を飾ったりすることかもしれない。

二〇一四/三/三
安藤 次朗

なんか、そういうタイミングなので

かなり間があいてしまって申し訳ありません。
 ぼやぼやしているうちに、春がやってきていて、桜も散っていました。春といえば、出会いと別れのシーズン。卒業や入学、就職や転職など、環境を変えた方も多いでしょう。

 そういう私も、生活を変えました。会社を辞めました。
 大学を卒業してから今年ではや十年。振り返ると、ただただがむしゃらに走ってきた十年間でした。徹夜も数えられないほどしたし、働きすぎて身体も壊したし。根が真面目な人間なので、生活の中心はとにかく仕事、仕事、仕事。言葉通りの仕事中心の生活をしてきた気がします。
 仕事人間だと自覚して、趣味があまりない私にとって、会社を辞めるというのは、それなりに大きな決断なような気がしていたのですが、精神的にも案外すんなりいけました。「やめたら暇を持てあますな〜、きっと」なんて思っていたけど、それも杞憂でした。心配や不安が全くないわけではないけれど、とても穏やかに日々暮らすことができているので、今のところいい感じです。この生活にもようやく慣れてきたので、そろそろまた、以前とは違った感じでエンジンをかけようかと思っている今日この頃です。

 会社を辞めて一週間ほど経ったころ。不思議なことが立て続けに起きました。スピ系(スピリチュアル系。大好物です)のため、若干引かれそうなのと、まだスピ系週間は続いているので、今書き残すのは避けますが(そのうち書くかも)、私にとってはショッキングな出来事だったのです。心の最下層のレイヤーに金庫で鍵をかけてしまっておいたものが、あることをきっかけに開いてしまったとでもいいましょうか。今まで蓋をしていたことを、第三者、しかも初対面の方にズバリと言われてしまったのです。
 
 自分の名誉のために言っておきますと、それに心酔しているわけでもないし、ある種冷静に見つめているつもりなので、大丈夫です。ヤバいものにハマッたり、違う世界の人間になったりはしていませんので、ご安心ください。

 簡単に言いますと、人間が悩んだりモヤモヤしたりするのは、描いている「理想」と現在位置との間にギャップがあるからなので、「理想」に振り回されるのをやめただけなんですけどね。きっと、会社員として仕事にがむしゃらな時は気づくことが出来なかった気がします。タイミングの問題でもあるし。そして、私にいろいろとリセットさせるための時間を与えてくれた夫には、心底感謝しています。本当にありがとう。

 今後は、しばらくはフリーランスのディレクター/エディター/ライターとしてがんばっていくつもりです。もしかしたら会社に入りたくなるときがくるかもしれませんが、その時はその時でまた考えます。とりあえずは、三十三年目にして初めてのフリーランスというこの状況を楽しみつつ、がんばって行きたいと思います。新しい名刺は、古屋くんに作ってもらいました。活版印刷独特の手触りの匂いがとても素敵な名刺です。新しい名刺を見ていると、気分がシャキッとします。

 新たな生活が始まった私を、これからもよろしくお願いいたします。そして、何かあったら仕事をください。

二〇一四年四月二三日 岡崎咲子

チャレンジ

2014年8月、自分の中の大きな1歩を踏み出します。
今まさに、日々その準備をしつつ、頭の中で色々思い描きつつ、日々を過ごしています。

この計画を思いついたのが2年以上前。
正確にはいつだったか思い出せないんだけど、当時は慣れない育児と自由すぎる夫と自分の仕事と将来とで、いっぱいいっぱい過ぎて365日眉間にシワがよっていて、常に何か謎の不安に追われていて、自分の33年の人生の中で最も暗黒だった時期のような気がします。

そのときに、ふと一筋の希望の光のように、日本脱出してどっか行きたいなー
と思ってました。当時は、まず逃げがあって、ちょっとの希望と、色んな事に飽きてて、失望してて、何か違う事してみたいとか、ここには書ききれないくらい色んな感情がグルグルに混ざり合って、濾過されて、抽出された結晶のような、唯一の希望の光のような、本当にそう思っていて、そんな感じで未来に照準合わせて、なんとか前向きな一歩を踏み出せた事を覚えています。

あの時から2年以上経ち、色々な状況も変わりつつ、自分で自分をコントロールする術も身につけつつ、自分に本当に必要なもの、求めているものも少しは分かるようになりつつ、それでもこれは行くしかない!と今でも本当に思うので、行く事にしました。

以前、アメリカ帰りで現在はオランダ在住の友人が「縁があればその時はくるよ」と言っていたのですが、今まさにそのときが来ている気がします。

行く場所はマレーシアです。
なんでマレーシアなの?ってすごい聞かれるんですが、正直本当にどこでもよくて
治安、言葉、物価、日本との距離等考えた結果、子連れで一番無理が無かったからです。
その後、昨年旅行で台湾に行ったときに「アジアだ!」とピンと来たので、迷いがなくなりました。
偶然にもその後、夫の旧友が家族でマレーシアに移住して留学斡旋業をやられているのと、親友の旦那さんがマレーシア育ちなので、色々情報も聞けそうです。
と、色々状況も整い、娘の学校も決まりそうな今日この頃。

じゃあ行って何をするのかというと、もうとにかくひたすら健全に生活を楽しみながら、言葉を勉強して、違うカルチャーで生活する事を楽しもうと思います。
私は産休中もずっと細々家で仕事をしていたので、完全な産休をとっていなく、また自分の会社を立ち上げたてて夫が忙しかったので、子育てもほぼ一人でやっていたので、ここらで休もう、という目的も多いにあります 笑

せっかくWEBが作れるので、ECサイトを立ち上げたいなぁとも思うのですが、まずは生活を始めつつ、困らないレベルの言葉をマスターしようと思います。

夫は自分の会社があるので、日本に残ります。
国際別居婚てやつですね。
まぁ、型にははまりませんが、こんなカタチの家族もあるんですよ、を実践してみようと思います。

自分の中のテーマは「アジアを身近に!」です。
昔自分が思い描いていたライフスタイルに、少しは近づけるかしら。
現在義理姉1がタイに、義理姉2がベトナムにおり、私の妹がサンフランシスコにいるので
全部行こうかと思ってます。
誰か、異国で待ち合わせしません?笑

新しいチャレンジ、楽しみます。
このような試みを、いってらっしゃい〜と支援してくれる夫にも感謝ですね。

815に渡る予定ですので、マレーシアの情報やお友達等いらっしゃいましたら、是非紹介してください!!!
SKYPEやチャットワーク通じて、担当している案件は持っていこうと思っているので、引き続き何かお仕事ありましたら是非!


2014年6月3日 小川留奈

かかとと出会わない

ふと。

自分がどうやって人と出会って、
物や事と出会って、消化してきたかを考えてたよ。

「出会おうとしない」のがここ十年くらいのスタイルなのかなあと。
壁を作るのではなく、ガツガツいかないわけでもなく。
話したい時に話し、見たい「物」を見る。

一生会社員にならないと思ってた自分が三十一歳の時になり初めて感じた事。
みーんな、人も電車内も電話の向こうも
「出会おう!出会おう!」なんだな〜、つかれねえのかなあ〜

ただ環境の変化がある時々、もっと若い時、少しだけ出会いかも?!
みたいな事を求め、結構色々参加した結果、
宗教だったり、金かしてって言われたり、辞めたら全然会う気しないわーってなったり。
はなからそういうにおいのする人を見分けをつけるようになり、
そうかんじたら(確信したら)どんな人気者でも一切の距離をとるようになり。

やはり自分が環境に自然に足を運び、
特に友達になるでもなく語らい、しばらくして気づいたら友達になってたり、
愛し合っていたり、飼ってないのに愛してしまった近所の野良猫(グチャ)のように。
物なら大事な物になっていて。
全然気にならない裕木奈江と内田有紀が何故か同時に夢に出てきて好きになって、ドキドキしたあれとは似てないよね?ね?
あと痔瘻の時もだな。
あれもよかったなんか、色々。痔の一種だし。いや痔か。

メディアでも、出会おうとしてくるものにあんま興味ないよ。
でも致し方なく選ばなければならない時は
「ま、そういうのもありやろ」となだめている。

でも気づいたら、交流させてもらっている人達はみんな面白くておかしくって、
大好きだなあ、
それも沢山いるような気がして嬉しい。
出会おうとしないスタイルはいつも最高の出会いをくれるよ。
ブックスもその一つ。

で、驚いた出会いがあって、
東京に来て半年くらいの頃、二十歳の僕は家の近所の登り坂の道路に
サラリーマンの黒い革靴のかかと部分だけが
割りと人通りある道路のど真ん中にほんと綺麗に真っすぐ縦に立ってて、
坂あがる所の中腹で、自分は坂登る前の段階だから、
目線ね、目線の真ん前に、その綺麗な靴のかかとがものすごい「スッ…」て視線に入って、
「スッ…」って
持ち歩いていたカメラで何の気無しに写真撮ってコレクションすっかー
みたいな気持ちが一転、
「これ残して何がおもろい?」
「こいつはここにいるのが最高なだけで、これを再現してもチョー意味ねーんじゃねーか」
「この景色はここにしかない」(少しクールな考え方をしようとする若さがにくい)
「アートにくくるのはまじ恐れ多い」
で心に強く刻み、泣く泣く去ると結局なんか意味変わってくるからとか複雑に考え、
最高の出会いを最高にカラッと去ろう!
(それがかっこいいなあ!若い僕よ!)
と、かかとを背中に、当時の上石神井を闊歩していたのを、

ふとね!

二〇十四・七月・岸本雅樹

ふと

ふと、立ち止まってみる。
的なことしてないなとふと思って、いまパスザマイク書いてる。

パソコンに向かっているときはだいたい仕事してるし、
外出たら打ち合わせ、休みの日は家族と(それはむしろ楽しくはあるけどね)
子供がいるからバタバタしてる。

さっきJIROくんが投稿してくれたときも会社で仕事してた(ま、いまもなんだけど)。


で、ふと手を止めていまこれを書きだした訳なんですが
やっぱしこれはいいなと思う。

最近何考えてたのかな、とか書き出す前に
1、2分でも考えたもんで。

あ、そういえば、みたいなこととかちょっと思い出したし、
ムダに焦ってるけど案外まだ時間あるし、的なかんじです。いま。

多分これからも当面、立ち止まれない生活は続くんだろうけど
こういう時間は大事にしたいなとふと思ったよ。

J氏よ、ありがとー。
あとちょっとしたらまた仕事に戻るんだけど
トイレにでも行ってからにしようと思う。


では!ドンビィシャイ!


2014.11.18  古屋

2015年日(月)曇り

 今日は午後から打合せのため、外出。最近のお昼ご飯は娘に合わせて12時くらいに済ませるのだが、今日はお腹が空かなかったので食べずに打合せに。新宿の都庁付近のオフィスビル。新宿三丁目から地下道で行ったが、風が冷たい。病み上がりにはこたえる。

 いい感じで打合せを終えて、帰り道に遅めの昼食。食べながら家では見ないテレビのニュースを見ながらぼんやりと考え事。キャスターの薄っぺらい感想や大げさな表情、言い回しに辟易。民放は本当に死んでる。戦争は嫌だ。宗教って何だ。結構前から、マジで愛と平和があればすべて大丈夫なんじゃないかと思って、ラブアンドピースのトレーナーとTシャツを作ろうとしていたことを思い出してボディの色やデザインを考えて楽しむ。かっこいい?きっと大丈夫。妻とおそろかな。娘も着ちゃう?胸に愛、背中に平和。それとも胸に平和、背中に愛。別にオノヨーコは特別好きじゃないけど、携帯の待ち受けはずっと、オノヨーコの「Dream! Imagine! Love!!!」というメッセージだ。胸の谷間には嫌気が差すが、やっぱかっこいい。

 16時過ぎに帰宅してからはまだまだ風邪の妻を気にしつつ、娘と遊びたい気持ちを抑えつつPC作業。18時くらいからしばらくは家事育児の時間。仕事の流れは切れるがちょっと話したり、娘と遊んだり、大切な時間。でも忙しいと、「なんでじゃ!仕事あるんや!」と思ったりもしてしまう。まだまだ未熟。風呂、夕飯、少しの休憩をはさんで仕事を再開して、2時か3時くらいに寝て、79時の間に起きるのが最近の感じ。なんだかんだで家族が寝る夜は集中できるので、しばらくは夜型がいいのかなと思う。

 年を重ねる毎に時間が早くなってきてたのに、娘が生まれて加速度的に時間が早くなった。さすがの俺も焦るけれど、焦っても仕方ないので、ゆっくりと今現在をなうしていく。

二〇一五/二/九
次朗

「育児」と「デュクシ」で踏める

YO YO
ボディの痛みはマザーの勲章
眠いからだろ、おまえのテンション
岡山×東京ハイブリッド
ほらほら頑張れ はい、ブリッと
いつも気づけばインザナイ
それでも育てばいんじゃない

オールナイト授乳
オールマイラブ to you

M・E・I・K・O うちのこちゃん
さあさあ 今日はえらいこちゃん
M・E・I・K・O あなたこちゃん
SO SO 今日もだっこちゃん


エブリデイサンキュー マイクルー
おまえがいなきゃ参ってる
今夜も離乳食作ってる
そんなおまえをペクってる
明るい笑顔でみんなが笑顔
悩みがあってもそれでえかろぉ

オールデイロング自由
オールアワーラブ to you

M・E・I・K・O うちのこちゃん
なかなか どうして寝ない子ちゃん
M・E・I・K・O あなたこちゃん
それでも いちばんかわいこちゃん


二〇一五、二月二十日
MCファルコフスキー
山口 温子

クアラルンプール

皆さん、お久しぶりです。
ここに書くのは、約8ヶ月振りです。
マレーシアのクアラルンプールに暮らし始めて、ちょうど半年経ちました。
今はチャイニーズニューイヤー真っ最中で4連休です。

多分マレーシアという国自体がまだまだマニアックな気がするので、ここに来て得たマレーシアに関する情報と、私の印象を書いてみたいと思います。

とりあえず、子一人母一人で暮らすのにも比較的安全な街であると思われます。
英語は通じるし、皆さん外人慣れしているし、ご飯も美味しいし、アジアなので親近感があります。人ものんびりしていて優しいです。

国教はイスラム教ですが、国民の6割がマレー系、3割が中華系、残りがインド系であり、中東の方たちの避暑地として、街には日本にいたら絶対見かけないような中東やムスリムの方が常にたくさんいます。
サウジアラビアの次にハラール(イスラム法において合法なもの)に厳しい国、ということで中東の方が気軽に来やすいようです。
日本で滅多に出会わないような方限定で言うと、シリア、パレスチナ、エジプト、サウジアラビア、イランの方と今まで出会いました。ただし、「自分の国が大変なことになっているから逃げて
来ている」という方もいました。
ムスリムの方は日本とはカルチャーが180度違うので、中々仲良くなるのは難しいですが、ムスリムにも色々な種類があるんだなぁ。と思います。
(マレーシアは適当なので、ゆるい方もたくさん出会いました)
韓国の英語母子留学の方、ゴルフ留学の方(ゴルフをするのが安い)、韓国の芸能人や富豪たちもたくさん移住してきていたり、中国の富豪たちもたくさん移住してきているとのことで、クアラルンプールは世界一富豪の数が多いんだそうです。(シンガポールでもドバイでも無く意外)

物価は安くも高くも暮らせます。
日本の1/3と言われていましたが、それは無いです。
ものによります。でも、安く暮らそうと思えば、かなり生活費はおさえられます。
タクシー初乗り100円位、水が1本35円位、女性誌(ELLE,MarieClare等)が一冊300円位です。
フードコートで一食350円位。
でも、いつもローカルの食堂でご飯をたべるわけでもないし、外資の飲食もたくさん入ってきてるので、その辺は普通に東京価格です。

「どこから来た?」といわれて「東京」というと、とても歓迎されます。
日本のイメージ良いっぽいです。

ただし、誘拐だけは多発していると聞くし、日本人の観光客の方が刃物で現金を要求されたり、最近では大使館から私が住んでる地区で強盗事件が多発しているという注意喚起のメールが届いたり。
やはり日本とは違うので、気を緩ませてはいけません。
とはいえアジアの中ではとても安全な国の一つなのでは?と思います。
夜、私は余裕で出歩いてます。ただし場所やシチュエーションは選んでます。
タクシーでぼられた事も危ない目にあった事も今のところないです。

こちらで出会う日本人の方について。
「日本やばい!外行かなきゃ」って出てきた人が今のところ多いです。
駐在員の方にしろ起業家の方にしろ。
私は夜の飲み会とかは基本参加しないので出会う数は限られてますが。
あと長く住んでるであろう方は、この人なんか変な人だなぁというか(笑)アジアにいる(外国にながくいる?)日本人特有のあの感じです。長く住むということは、その土地に最適化しなければならないので、そうなるのかもしれません。
あとは、超意識が高い若者達。
これは会社に来るインターン生達なのですが、大体皆アメリカやオーストラリアや色んなところで語学を学んで、インターンをしにきます。
そして世界を視野に就職を考えています。(起業を考えてる子もいます)
日本のニュースで「最近の若者は外に出ない」とか見ますが、あれ嘘だと思う。
皆すごく自然体に、何かを得ようと頑張っていて、自由に日本に縛られずに未来をみているなぁと。

私の近況は、以前パスマイを書いたときは学校いって語学の勉強するとか言ってましたが、学校行ったのは4回位で、現在日系企業でWEBデザイナーしつつ、来週からローカルのインターナショナルナーサリーでホームスクーリング(学校にいかずに家庭教師をつけている子たち)の8〜10歳の子たちにアート、デザイン、ITの授業をすることになりました。
英語もままならないのに、どうなることやら。。。

この他民族の国にいると、誰かに差し入れ等するときも、「あの人は豚肉たべられるっけ?」とか「牛肉だめだっけ?(ヒンドゥ、仏教の人)」とか「ハラールじゃないけど平気?」とか考えるし、仲良くなるためには相手を知らなければいけないので、いろいろな国の文化やら宗教やらに興味もわき。それを知るたびに日本ていうのは何てフリーダムな国なんだ!と驚き。
基本日本て自己責任じゃないですか。
みな神に従ってる訳ではなく、自分の良心に従っている訳で。
それであれだけ秩序が保たれてるってすごい事なんだな。とか。
いかに日本が特殊であるかを早くも感じております。

ぼんやりと思う事は、たぶん私はここに就労VISAと娘の小学校あがるタイミングで、あと2年はいると思うんですが、それまでに何かしら行き来できる術(仕事かなぁ)を身につけたいなと。

世界には色んな人がいるんだなってもっと早くに知れたら良かったなって思うし、多分その方が人生楽しいんで、子供たちには是非どんどん外に出て欲しいなと思う訳です。
もちろん、そこで何かを得られる得られないも、ひとえにキャラクター次第だと思うので、外国がどうこうとかよりも、チャレンジ精神や、切り開く力とか、楽しめる力とか、次世代に教えなければならないのは、そういう事なのかもしれません。

来週から新しいチャレンジが始まります。
正直どうなるのかよくわかりませんが、大人なので出来る事を無理無くしてみます。


2015年2月21日旧暦正月
宮本 留奈

犬食わない

また何か黙っている。
定例のあれだ。

“これを言っても良いことはないから言わない”

そう、“これを言っても良いことはないから言わない“シリーズのお出ましだ。

頻度として月1回〜2ヶ月に1回 だ。
同棲する前は2週間に1回だった。

“これを言っても良いことはないから言わない”は割りとまじでその時だけ良いことはない。
聞くと絶対ちょっと辛い。
そして“これを言っても良いことはないから言わない”は良いことないだけになかなかどうして、全然言わない。
良いことないってわかってるけどかなり言わないからそうなってくると俺は

“聞いても良いことないけど絶対に聞くまで寝ない”へ移行する。

そして約1時間後、絶対に聞くまで寝ない粘りのせいで良いこと無い事を言う。

本当に良いことないし、めっちゃブルーだけど、
言った本人は被害者の俺より何だか言ってしまって自己嫌悪だからそれを元気づけるのに俺は全力を出す。

本当に“これを言っても良いことはないから言わない”の威力はすごい。
翌日も尾を引いている。(大体俺だけ)

でも少しづつ、朝〜昼〜夜と過ぎる頃にすっきりしてくる。
そうなぜか少しづつスッキリしてくる。
きっと何かが発散されてて、
夜には完全にスッキリしていて、

“聞いても良いことないけど絶対に聞くまで寝ない”俺の労力は、
“これを言っても良いことはないから言わない”の内容を、翌日には
“聞いてて良かった”に変える。

ただ前日に“聞いても良いことないけど絶対に聞くまで寝ない“だったから超眠い。

でも大体これが後に効いてきて、笑い話になったりして結構楽しい。

2015年2月26日 岸本雅樹 

3月6日

3月6日 晴れ
ここ数日、晴れの日が続いているが、とりわけ暖かいポカポカ日和。道端には水仙がところどころ咲き始めた。家の窓辺で枯れ草を栽培していたと思ってた鉢からも、超ちっさい水仙が顔を出した。
世界一短い水仙と名付ける。

今日で妊娠39週目。あと一週間でお腹の中のものが出てくる。
クリスマスくらいまでは、
「出てくるのは人かな?いや、ペンギンかもしれないし…」
という感覚だったけれど、今やハッキリと人が内側でつっぱったり伸びたりしているのが分かる。これが、ある日突然顔を出すんだから不思議だ。
この、お腹にチョウチョが宿ってモンスターになっていく過程。

今週は3月8日のインターナショナル・ウィメンズ・ディを控え、各種イベントが目白押しで、私の通学しているワーキングマンズ・カレッジでも関連イベントが催される。
助産士さんとの面会があるにも関わらず、そちらも準備しなきゃならず頑張って時間を調整したのに、予約した時間に行ったら前の人が遅れている為45分待たされたあげく、「スケジュール表に予約が入ってないわね」と告げられガックリ…こういうミスマネージメントが、行政とか病院とか大事な所に限ってたまに、否、結構な確率で起こる。

慣れてきたせいか諦めか、普段は全く気にしないのだけれど、今日は頑張って時間を調整したからか、ホルモンの影響のせいか、久々にキた事件に無性〜に腹が立つ。ムカついたので、今日どれだけ頑張ってここへやって来たか、そもそも母子手帳にも書いてあるよね、いやあなたのせいじゃないのは分かるけど…ってのをアピールし、翌日の検診をねじ込んで(調整)してもらう。そういえば、こういうやり取りも大分慣れてきたな…その度に、ここはAsk文化の国だなと思う。

ここへ来てほぼ3年、草の根的に人から学ぶ事も多いけれど、やっぱり英語を学ぶ機会に恵まれたのは大きかった。
まだここへ来たばっかりの頃、住んでいる区に問い合わせたけれど、「日本人はプライオリティじゃない」だの、政府の方針が「滞在1年だったのを3年以上を住民と定義する」と変わった為、留学生価格(3000ポンド=600000円/10週)がかかるだの告げられふて腐れていたのが今では嘘の様。おかげさまで、英語で手紙も書ける様になったし最近は電話をかけるのも苦じゃなくなった。多様性を歓迎するすばらしいカムデン区の行政に感謝感謝!

検診の結果は良好。アブソルートリー・ノーマル。息子よ、私の子なのになんて出来た子なんだ。

今日の午後、両親が日本からやって来る。
父は今年リタイヤしたので、このイベントをかなり前から楽しみにしていてくれたみたいで理屈抜きに嬉しい。夫や子どもと少しでも会話が出来るように、iPadのアプリで頑張って英語も勉強してくれていたみたいでありがたい。母はヘンクツで私の結婚式でもプリプリ怒っていたくらいなので、孫との対面でどう豹変するか興味深いところ。


3月12日 晴れ
いやしかし、体調は最初から最後まですこぶるよろしくて本当にラッキー。
直前まで学校にも週2で学校にも通ってたし、ボランティアで頼まれたちょっとしたデザインの仕事もできたし、太っているので前屈みはしんどいけど家事もちょっとした力仕事もやれちゃっていた。
(これはかなり稀な事であって、基本的に妊婦は老人と同じくらい弱くて病気にも感染しやすい)

振り返って思うのは、国民総医療の国で出産する機会を持つ事ができ、本当にありがたいという事。妊娠中の検診、何か問題が出た時の医療費・薬代、歯科検診、出産にかかる費用も全て無料!必要最低限の医療だけど、全体を考えたらとても素晴らしいと感じる。
もし、まだ日本に暮らしていたら妊娠した時、出産する決断ができただろうか?もし、夫がアメリカ人だったら…?私の収入から考えると子どもの将来の事など考え断念していたと思うもの。
まして、自分が先進国とは全く貨幣価値の違う国や紛争地域からの難民だったりしたら、涙が出る程ありがたいと思う。

数年前までは、「育てられないのなら子どもを持つべきじゃない」論に多かれ少なかれ納得がいっていた部分はあったけれど、違うよね。子どもを持つ権利は全ての人に等しくある。裕福でも貧しくても、等しく生きる権利があるって事を再認識させられる。
こういう制度に助けられている側からすると、世間が窺う様に「ただ乗りしてやろう」というよりは、近い将来絶対にお返しますからって気になるけどなぁ。税金を払いたくなる社会ってこういう事でしょ?絶対に民営化なんかしちゃいけないって!なんでわざわざ壊そうとするんだろう…?
明日は13日の金曜日…じゃなくて出産予定日。産まれてくるのか、息子よ…?

ご報告:現在3月16日になりましたが、まだ産まれておりませぬ。

山口尚子

4月2日

今日は4月2日だ。弊社は2度目の決算月を迎え、5月から3期目に入るのだが。
んーあっという間だ!

本日はある案件の撮影があり、
終わりに、50歳になったらなにをやってるか想像してるか?っていう話を
カメラマンとしてたんだけど、おれはそんなことより、
50歳ってすごく遠いところにあると思ってたけど、
あとたった15年そこそこで自分も、、と気付いて
結構近いことにびっくりしたよ。

でも、それ気づいたあとに思ったのは、
50歳になったときの想像ができなかったらいまの一歩がでないじゃないか、という話。
当たり前なんだけどね。
なんだけど自分で言って、そりゃそうだわな、と思いつつ、
いやしかしリアルに50歳の時を想像はしたことなかったな、とハッとしてね。

目前にある1819?期目の決算を迎えるときにどうしていたいか、か。
そんなところを考えながら、
とりあえずまずビールでものもうかな、仕事も切りがいいし。


2015.4.3 FURUYA

PASS the MIC

2015年8月12日 発行 初版

著  者:マイクランナー
発  行:シャイ パブリッシング

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