水城ゆうが主宰するテキストライティング塾「次世代作家養成塾」では、塾生から多くの作品が寄せられています。
そのなかから秀作を選りすぐり、塾長のコメント付きで塾の機関誌を編纂しています。
毎月一回の発行予定ですが、その3号です。
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水城ゆう
すこし間があきましたが、テキスト表現ゼミの機関誌『HiYoMeKi』第三号をお届けします。
もちろんこの間もテキスト表現ゼミは開催されていました。参加者がそれぞれ切磋琢磨をつづけ、着実な成果を重ねています。すでに商業ベースの作品に軽く達しているもの、あるいはそんなせこい基準を超えて驚くほど理解しがたい、しかし確実におもしろい作品など、次々と生まれつつあります。確実にこの場は、次世代の書き手の虎の穴の様相を呈しはじめていると、私は実感しています。
そもそも私自身は小説書きとピアノ演奏という「表現の二股」をかけている男であります。かつてはふたつの別々の表現を行ったり来たりしていると思っていたんですが、あるときふと気づいたのです。このふたつの表現は、実は、根底では共通する原理にもとづいておこなわれているのではないか、と。別々に分けて考えようとするから、よいクオリティにならないのではないか、と。
そこで、まずは自分自身のためにも、いろいろなジャンルの表現に通底する基本原理を探りはじめたのです。
それが現代朗読協会でおこなわれているテキスト表現ゼミの基本理念となりました。
現代朗読協会では、朗読と音楽の表現原理の融合がおこなわれました。そしていま、朗読と音楽とテキスト表現の原理の融合がおこなわれようとしています。いってみれば、アインシュタインが光の速度とエネルギーと質量の相関関係を相対性理論で導き出したときとおなじスリリングな体験です。
ちょっといいすぎですが。
ともあれ、おもしろいことが起こっていることは間違いありません。
この電子マガジンは、ここで起こっていることのほんの一部「うわずみ」にすぎませんが、その一端でもかいま見ることはできるかと思います。どうぞ楽しんでください。
初登場、唐ひづるの作品です。
テーマは「銀の斧」。特にそのような指定はなかったんですが、唐ひづるは例の有名なイソップ童話の物語を本歌としてこれを書いてきました。
童話は現代小説風にディテールを書きこむだけでおもしろいパロディになることがあります。唐ひづるはそこのところを充分にわかった上で、さらにこってりとしたサービスを盛りこんでいます。そこが彼女の味です。まったく遠慮のないこってりサービスてんこ盛りの作品を、今後も期待します。
(水城)
「ここだ」
背負っていた仕事道具を肩からおろして立ちどまると、五郎太は日に焼けた汗まみれの顔をよれた手ぬぐいで拭った。
一度だけ親父と一緒に来たことのある、この池のほとりの木々は、日光がよく射すためか育ちがよく、まっすぐ空に向かって伸びていた。湿った朽ち葉の上に落ちた枯れ枝をバキバキと折り、図太く張り出した曲がり根っこを漕いで、ようやっとこの柔らかい下草の生えたポッカリと明るい場所に出たのだが、親父は、ここには絶対一人で来るなと言っていた。
ごつごつと温かい木の幹をぽんぽんと叩いて斧を入れる位置を定めると、五郎太は父親から譲り受けた古い黒ずんだ斧を振り上げた。砥石で丹念に研ぎをかけ、舐めるように丁寧に磨きあげられた刃先が日の光を受けてきらりと光った。
昨夜、斧の手入れをする五郎太の動きを、五歳になる息子の六助が興味津々といったように目を輝かせて追っていた。六助は賢くて素直な子だが、痩せっぽちで飯をあまり食わない。でも、旨い餅なら、きっと喜んで沢山食うに違いないのだ。この正月にはどうしても六助に餅を食わせてやりたいその一心で、五郎太は他人が休んでいる間も働いて少しでも多く稼ごうとした。
すると誰かが取り上げたかのように斧が手から外れ、ぼしゃりと波をたてて澄んだ青緑色の池に飛び込み、幾重にも円い波紋を広げながら沈んでしまった。
「ああ、なんてこった。なんでこんなことになったんだ。畜生! 俺の斧!」
五郎太は緑の池に向かって叫び、頭を抱えて蹲った。
澄んだ空を溶かしたような美しい池から、浅葱の着物を着た顔の真っ白な女が、光に長い黒髪をなでられるようにすぅーっと浮かんできて、鈴虫の声で憐れむように五郎太に話しかけた。
「斧を落としたのか。お前の斧は、金の斧か。銀の斧か」
五郎太ははっとした。こんな言い伝えを親父から聞いたような気もするが、どう答えればよかったのだったか。思い出せない。どうしよう。金か、銀か。すずめのお宿なら覚えている。小さい方を選ぶと財宝が入っていた筈だ。
「銀の……」
答え終わらぬうち、脳天と目玉に熱く焼けるような衝撃が襲った。どこから降って来たのか、五郎太の頭には、自分が磨き上げたあの古い斧が楔のように打ち込まれていた。ゆっくり傾いてゆく視界の中で、白い女が薄い唇をつり上げてニイイッと笑うのが霞んで見えた。
前野佐知子も初登場です。
とりたてて変わった作品というわけではないし、描かれている状況もよくある話といっていいほどです。が、描写しているディテールと語り口がまぎれもなく作者の姿を照らしだして、読者の前に立たせます。
うまいストーリー展開や軽妙な会話、テクニカルな処理やなめらかな文体があふれるいまにあって、まずは作者の体臭が感じられるような語り口からスタートする姿勢が大事だと考えています。
その点、前野佐知子も今後が楽しみな作者といえましょう。
(水城)
目の前にいる男が吐き気がするほど厭だ、とミホは思った。
ダイアナのベージュの五センチヒールをはいたミホとほぼ同じくらいの身長。一六五センチはないだろう。目をあわせたくなくて、仕方なしに視線を向けた先にある額は、揚げ物を何度も揚げたときの油のような茶色で、それがどろっともてらっともつかない不気味な光をたたえている。そこに二本、長くて深い横じわが刻まれている。
今もらった名刺をその溝に血が出るほど深く差し込んで、キャッシュカードを読み取るように横一文字に引いてやりたい。そしたら、その溝に溜まっている脂も垢も少しはとれてきれいになるだろう。
その様子を想像したミホは、無意識に口の端を動かしたようだ。
自分の話が受けたと勘違いした男は、さらに勢いこんで話し出す。
ミホはこめかみに軽く手をあて、額から更に視線を上に移した。薄く油をひいたような頭皮が見える。決して多いとはいえない細い髪の毛にポマードが塗りたくられ、固定されている。コイツ、絶対三年以内にはげる。ミホは預言者の目でその頭皮を眺めながら、「ええ」「そうなんですか」となんとか相槌をはさみこんでいく。
周りから華やかで穏やかな会話の断片が入ってくるBGMに流れる弾むようなピアノの音色も、ナチュラルな色調で上品にまとめられたホテルのホールも、パーティーという雰囲気には本当にふさわしい。それなのに自分だけ工事現場にいるみたいだ。ドドドドドとドリルのように神経を打ちつけてくるうるさくて間がまったくない男のしゃべりがミホの忍耐をどんどん打ち砕いていく。
こんなゴキブリドリル男と話すために、一万円も払って婚活パーティーにきたのか? 七万円も出してピンクのシフォンワンピースを買ったのか? 三十二歳の事務職女子には、こんなの通勤着にもなりはしない。一体なんの罰ゲームだ。早くパートナーチェンジのベルが鳴ってくれと祈るような気持ちでウーロン茶が入ったグラスを握りなおす。
「おや? どうしました? 顔色が悪いですよ」
テメエのせいだよ、と本音を言うわけにもいかず、ミホはなんとか笑顔に見えるように表情筋をせいいっぱい動かしてみた。
「ちょっと偏頭痛が」
「そりゃいけない、テラスにでましょう! 僕がつきそってやります」
はっきりと青ざめたのが、自分でもわかった。
「いえ、大丈夫です」
「いやいやいやいや、大丈夫じゃないね、その顔は。さ、さ、僕の腕を貸してあげるから。遠慮なんかしないで。これも縁だからね。さあ、さあ!」
ゴキブリが手を伸ばす。
こめかみの辺りがきりきりする。
触るな! 私に触るな!
その時、グラスを叩き割る音とともに、「ちん」とパートナーチェンジを告げるベルの音が控えめに鳴った。
おなじみ船渡川広匡の作品をふたつ続けて。
無意識領域との交信に成功した船渡川広匡は次々とわけのわからない作品を世に送りだしつつあります。いまやまだだれも彼のことを知りませんが、いずれ近いうちに世界征服を成し遂げることでしょう。
彼の作品を楽しむコツは「バカになること」です。バカは最強です。大脳皮質に仕事をさせてはいけません。意味や論理ではなく、ただあるがままのむき出しのストーリーに身を任せて楽しむのです。
(水城)
夜空の雲が、星が、月が、青黒い中に輝きながらずずずぐるぐるとらせんを描いて渦巻いている。その夜空の下の土の一本道がうねっている。
画家の頭の中でダダダダという電子音が鳴っている。
心臓がどきどきする。あせる。いてもたってもいられない。
おぼつかない足で下っていくと、にょろりと高い一本杉が海草のようにゆらゆらと生えている。全長数メートルもある巨大な蝉が一匹、落ちないようにしっかりと張り付いている。その根元の陰に、長柄の斧を地面に突き立てて、青いワンピースを着た少女が立っている。
「お乗り」
少女はそう言うと脇にあったスーパーカブにまたがり、ジェットヘルとゴーグルをかぶってエンジンをふかせた。
画家は何だか分からないまま後部座席に座った。乗らなければならないような気がした。その時少女から斧を手渡されたので何とか片手で抱えながら座席をもう一方の手で握った。
スーパーカブは道をそのまま進んでいくと、森の奥へと入っていく。空に赤い火柱のようなものが見える。何かが燃えているのが画家には分かった。
やがて開けた場所へ出た。巨大な飛行機の残骸のようなものが燃えている。
よく見ると、手前に一人の少女が倒れている。スーパーカブを止めて二人で走って近寄ると、彼女は虫の息で話しかけて来た。
「積み荷を燃やして」
「積み荷なら大丈夫。全部燃えたわ」
「よかった」
少女は息を引き取った。
しかし画家が振り向いてよく見ると、全部燃えてはいなかった。残骸の中心に、土色の巨大な丸い塊がある。それは火にも耐えて燃え残っている。
画家の頭の中でダダダダという音が更に大きくなった。画家にはこれが何なのかさっぱり分からなかった。まるで巨大な胎児が膝をかかえて丸まっているように見えた。しかしはっきり分かるのは、これは邪悪な世界に属するものであり、このままにしてはおけないという事だった。
画家は長柄の斧を両手に持って、飛んでくる火の粉をかぶりながら土色の塊に走りよった。そして野球の投手のように体をしならせて大きく振りかぶった。斧の刃先が炎の照り返しで銀色に輝く。
思い切り振りおろすと、土色の塊にどすんと刃がつきたった。そこからぴきぴきとひびが一直線に入っていき、ばかりと割れた。
ごうわあああという轟音と供に、塊の中から夜空へ一直線に何かが吹き出していく。この世のあらゆる悪意が吹き出しているようであった。そしてそれはどす黒いらせんを描いて夜空のうねりに吸い込まれていった。
アジャンタが小屋の入り口から中をのぞくと、一人のぼろを着た老人がむしろの上でごりごりと石臼をひく背中が見えた。
「どんな病気も治せる薬師がいると伺って参りました。私は悟りを求めて苦行すればするほど、頭痛や吐き気がひどくなってしまうのです」
アジャンタは老人から白い粉薬の入った袋を受け取った。「これでようやく悟れる」と喜んで毎日その薬を飲んでは苦行を続けていると、高熱やだるさで苦行どころではなくなってしまった。
アジャンタは病んだ体をおして老人のいる山小屋に行き、症状を訴えた。
「そりゃそうだろう。それは毒だからな」
聞くなりアジャンタは老人を思いきりぶんなぐった。倒れた所に馬乗りになって、無理矢理口の中に薬を大量に突っ込んで近くの水瓶に溜めてあった水をごぶごぶ飲ませた。
老人は息絶えた。アジャンタは小屋のすぐ脇の土を掘って老人を葬ると、山を降りた。
アジャンタはもはや苦行をしなかった。人里へ向かい、雇われて毎日汗を流して畑を耕し、草を刈った。体を動かしている間はつかの間心が晴れるものの、夜寝る度に夢の中で自分の殺した老人が何度も出て来て、朝起きると頭痛や吐き気がした。
ある日アジャンタはあの老人の山小屋へふらふらと向かった。小屋は老人がいない他はそっくりそのままで、薬を作る石臼や材料が残っていた。
アジャンタは自分の病気を治す為に薬を調合しては自ら試し、様々な薬を作った。風邪薬や水虫を治す薬などは出来るものの、頭痛や吐き気を治せる薬は作れなかった。やがてアジャンタのうわさを聞いた人々がありがたい薬を求めてやってきた。アジャンタは無償で薬を与えるのだが、人々はありがたがって食料などを捧げていった。
アジャンタは石臼をひいて薬を作り続けた。やがて何十年も石臼をごりごりと回すうちに、心安らかになっている自分を見つけた。頭痛や吐き気も無くなっていた。
ある日、一人の若い僧が訪ねて来た。
「どんな病気も治せる薬師がいらっしゃると伺いました。私は悟りを求めて苦行を積んでいるのですが、頭痛や吐き気でそれどころではなくなってしまうのです」
アジャンタは白い粉薬の入った袋を手渡した。
「これをあぶって匂いをかいでみろ」
僧は言われるままに試してみた。すると、世界がうねりだし、自らの身が空を飛ぶような心持ちになった。
「悟った! 私は悟ったぞ!」
アジャンタは僧を殴り倒すと馬乗りになり、口に粉薬をつっこんで水瓶の水をごぶごぶ飲ませた。
僧は息絶えた。アジャンタは小屋のすぐ脇の、大昔老人を埋めた所の隣に穴を掘って僧を葬ると、山を降りた。
武士の帯刀が形式的なものになった時代、貧窮している刀工が手斧の逸品に出会って熱い血を沸き立たせる、というアイディアが秀逸な作品。ごく短い作品ですが、ここには刀工の心のエネルギーが凝縮されています。細筆で緻密に描きこまれている油絵をのぞきこんで観ているような感じがします。
(水城)
「何て物を作りやがる」
月明かりに照らされて、手にした斧は風が吹き抜けた水面の様に揺れた。
洋介は、土間に転がっていた火掻き棒に向って斧を重く振り下ろした。
キンという甲高い音が鍛冶場に響き、棒は真っ二つに両断され吹き飛んだ。
当然斧には刃毀れ一つ生じていない。
恐らくは山浦、もしくはその流れを汲む刀工の作であろうか、
刃紋に流れる金の砂流しが鍛刀技術の高さを物語っていた。
これを作った刀工は一体どんな人物なのだろうかと洋介は思った。
糊口を凌ぐため生活用品をつくる刀工は多いが、簡素な物が多く
実際使う側としてもそれで十分である。
しかしこの薪割り斧はどうだ。
正宗を虎鉄を越えようとする刀工の本能が伝わってくる。
俺はこんなもんじゃない、刀を打たせろと叫んでいるようである。
それが洋介の心をざわつかせるのである。
侍の帯刀が形式的なものとなり、刀工は食えない商売になっている。
洋介も貧困に喘ぎ、既に一流を起こす気力は尽き、商店と結託し過去の名刀の贋作作りで糊口を凌いでいる。
飛龍刀の洋介と謳われたのは過去のことで、それでも一流には及ばなかった。
しかし刀工の本能を揺さぶられた洋介は、叫びたいほど昔に戻っていた。
「また売れない刀を作るのか」
という自嘲めいた呟きに暗さはない、そんな洋介を見て山浦の斧が笑った様であった。
長編の冒頭部分を惜しげもなく切りだしてみせたような作品です。ヨーロッパの、だれもが知る歴史の片隅で起こっているものごとの、それを子どもの視点から見上げた秀作ですが、視点だけでなくそれを見上げる子どもの世界や身体感覚がしっかりと感じられるところが、この作品に魅力的なリアリティを与えています。
つづきを読みたくなりませんか?
(水城)
家のある路地をいつものように飛び出そうとして、マルコはあやうく人にぶつかりそうになり、思い切りよく出しかけていた左足を右足の右側へ下ろして、身体を半回転させた。
自分の俊敏さに小さな快感を覚えながら通りを振り向くと、大人たちがぞろぞろと一方通行の流れを作っていた。
しばらくぽかんとそれを眺めてから、マルコは流れに飛び込んで大人たちと歩きだした。
「ねえ、どうしたの? 何かあるの?」
周りの大人たちに訊ねたが、皆、一瞥するだけで相手にしてくれない。パレードかしら。サーカスが来たのかしら。でも大人たちの顔は祭りの時のように嬉しさ一様ではなかった。
「マルコ」
頭の上を大人たちの少し興奮したような声が流れて行くなかで、自分の耳にじかに飛び込んできた声にマルコはぎょっとして振り返った。
数メートル後ろに見えたミケーレの顔は、真剣そのものだった。彼は腹の森をすり抜けてマルコの横にやってくると、マルコの腕をしっかりと掴んで、まっすぐ前を見て歩き続けた。
「どうしたんだい、何があるの」
マルコが言い終わらないうちに、テヴェレ川沿いの通りに出た。人の数が倍に増えた。
「来たな」
ミケーレが、川の向こうを見つめてつぶやいた。その視線をたどった先に、黒い服の群れがいた。
黒い服の男たちはどんどん増えてくる。大人たちは眉を寄せながら、隊列を組んで侵入してきた彼らに道を空けた。茶色い石畳を黒がどんどん覆っていく。
「黒シャツ隊だね」
マルコは目を見開いて、川の向こうをもっとよく見ようと伸びあがった。それをミケーレの手が引き下ろした。
「マルコ、君はどうする」
驚いて振り返ると、ミケーレが少し青ざめたような顔をしてマルコを見つめていた。
「なにを?」
「僕は彼らには与しない」
川岸から離れて、人の流れにさからって歩きはじめたミケーレを、マルコは川向うの黒シャツをちらっと横目で見ながら追った。
「どういうこと?」
「内閣が総辞職した。これからどうなると思う?」
「どうなるって……」
昨日は戒厳令が敷かれ、いつにない緊張感が町中を覆っていた。それが今日は一転、異様な興奮に取って代わっていた。日常とは違うその雰囲気を、マルコはいつもより多い動悸で身体の中へ受け入れていた。
黒シャツの男たちからはきな臭いにおいがした。彼らの目にはぎらぎらした光があった。肌寒い空気を割って、熱い塊が入ってきたようだった。
「マルコ、僕は彼らに抵抗する。君はどうする?」
「僕は……」
喉がぎゅっと縮んだ気がした。湧いてきた唾を呑み下すのに、少し時間がかかった。
「君と同じだ」
マルコの腕をつかんでいたミケーレの手が、ふっと緩んだ。
「よし、二人で同盟を組もう。ファシスト党に対抗する、秘密の同盟だ」
「わかった、二人の秘密だね」
ミケーレの目の奥で何かが揺らいだのには気付かず、熱い塊が自分の中に分け入ってきたことにマルコは声を弾ませた。
なにもかも説明しようとするといろいろなものが破綻します。
倉橋彩子はなにを書き、なにを捨てるか、その取捨選択が大変たくみで、いさぎがよいほどです。
その資質はどこからやってきたものなのか。意識レベルの表面に浮かんでは消えるイメージをたくみにとらえ、ディテールを描きこみながらも、捨てるものはバッサリと捨てていく。魔女が秘薬を煮込んでいる姿が見えるのは私だけでしょうか。
(水城)
ぼこぼこぼこぼこぼこここ……
クリアグリーンの世界の中から、下の方を見ると隆起した珊瑚礁が美しく息づいている。黄色い小さな魚や、海底を歩く蟹、アオヒトデなどカラフルな動物たち。海の中はタリーが住む世界とは違う。世界は違うけど、つながっている。つながっているこの世界に、たくさんの黒いもの、ドロドロしたものを垂れ流している。
「ラッキーだったね、明日から祭りがあるみたいだから明日だったら山へ登れなかったよ」
その島で行ける場所は、天見台という見晴台だけだった。山といっても珊瑚が隆起してできたこの島では、標高七四メートルの場所が一番高い場所だ。そこに旅人向けに何かがあるわけでもない。
「祭りって、どのくらい前に決まるものなんですか?」
「おばぁがいついつやるって決めたらすぐだからね、俺らもその日に船がこの島に着くまではわからないねぇ。お客さんの中には、この海岸から一歩も出れずに海岸で2時間過ごす人もいるよ。海岸以外は全部立ち入り禁止になるからね。よかったねぇ」
フェリー乗り場のおじさんの歯は白く、肌は南の島独特の褐色だった。
船が島からどんどん離れていく、天見台を頂点とする山が遠ざかっていくにつれて頭がぼーっとしてくる。
——女神のいる島——
どこからともなく声が聞こえる。
ぼこぼこぼこぼこぼこ……
海中にいるタリーは、紺碧の中をぐんぐん潜ってゆく。ほどなく、藻が絡み付きボロボロとなった帆船を見つけて、船内に入る。手に取った瞬間、糸がバラバラになってちぎれる真珠のネックレス。何色だろうか、大きく重い十字架。次々に手に取っては放り投げる。水筒のようなものを見つけた。
——皆殺しだ!——
手に取った瞬間、耳元で大きく響いたその声に反応して、水筒がようなものが手から離れる。ゴトっと静かな音をたてて床へ落ちたものを凝視するが、タリーの心はそれを見ていない。見ているのは、島民が虐殺されるシーン。目がぎょろっとしたひげ面の大男たち、小さな洞窟で怯える男女のこども。水筒ではなかった、湯たんぽだったのか、女の子が怯えた目をしながら抱えている。松明の明かりがどんどん近づいてくる。口を真一文字に結んだまま、男の子は女の子の腕を強く引っ張る。明かりは、目の前までやってきた。
体が一瞬浮いた。大きな波がうねって船が大きく揺れている。
——What are you looking for?——
低い男の声が頭の奥から聞こえる。
たしかに世の中にはたくさんの缶コーヒーの銘柄があり、大量に消費されているみたいですが、実際に缶コーヒーを飲んで「うまい」と思ったことはないような気がします。照井数男は日常の日陰の部分にある落とし物をうまく拾いあげるのがうまいのです。うまいと思ったことのない缶コーヒー。それを飲む男。それを書く照井数男という男。
つづけてもう一篇。占い師と女と穴とライブハウスの話。
(水城)
缶のふたを開けた瞬間立ち上がるにおいと飲み込んだときにのどを抜けていく風味に「これは違う」と思う。
こんなことは時々ある。
自販機の前を通った時に突然、頭の中に刷り込まれた缶コーヒーをおいしそうに飲む男の姿が思い浮かび、つい買ってしまう。
そして飲んでみてがっかりする。
缶コーヒーにはこんなに多くの銘柄があるのだから、と色々試してみたが納得いく物はなかった。
もしかしたらシチュエーションの問題なのかもしれないと思い、暑い日にキンキンに冷えたのを一気に飲み干してみたり、寒い日に冷えた手を温めながらちょびちょびとやったりしたが結局飲み込んでみるとあーとなる。
今日だって一仕事終えて夕日を見ながら一服という状況なのだが結果はこの通りだ。
あきらめてオフィスに戻ってみると隣の机の男が共用の冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して飲んでいた。
こいつはいつも同じやつを飲んでいる。
「それ、そんなに好きなのかい?」
「いや別に、単に家の近所のスーパーで箱で買うと安いから買ってるだけさ」
なるほど。
確かにこの男は自分の中の”缶コーヒーをおいしそうに飲む男”ではない。
いやそもそもそんな人を実際に見たことが一度でもあっただろうか。
ライブハウスに向かう途中に占い師を見かけたので、男は見てもらった。
占い師の水晶玉に、男は小さな村を見た。
「この村には大きな穴があいている。行って埋めてこい。」
と占い師に言われたので、ライブハウスには行かず、その村へ行った。
穴は見事に深かった。
穴を埋めてしまうのは惜しいと思い男はもっと深く掘ってみた。
すると、立派な恐竜の化石が出てきた。
化石の観察に夢中になっていると、男の近くに一人の女性がやってきた。
女性は腕に一匹のトカゲを抱えていた。
そのトカゲは弱っていたので男は世話をしてやった。
トカゲは元気になった。
女性はそのトカゲを置いて穴から出て行った。
それから、その女性は穴の中に動物を連れて度々やってくるようになった。
男はその度に動物を穴において世話をしてやることにした。
次第に穴の中の動物が増えていった。
ある日、いつものように女性がやってきた。
しかし、動物はつれていなかった。
穴の入り口には何かの動物の足跡が付いていた。
女性は、男に軽く挨拶をしてからすぐに穴から出て行ったしまった。
その後、女性は再び穴にやってくることはなかった・・・。
こんな歌を郊外のマンションの一室の小さなライブハウスで聴いた。
山田みぞれ作品を二篇。
それぞれまったく味わいの異なる作品です。が、どちらも山田みぞれの語り口です。
もちろん書き手にはどれかひとつの語り口しかないというわけではありません。無数の語り口があるのが当然なのです。我々が日常生活においてもさまざまな語り口で語っているように。しかし、小説家はどの語り口にも自分自身が乗っていなければなりません。
とても些細なできごとを微細な捉え方で書いてみせる山田みぞれは、日常のなかにスペクタクルを見つける生活をしているに違いありません。
冴えた空にまあるいお月様が、河出家のお屋敷を照らしていた日の出来事です。
一世ぼっちゃまは、何やら沈思しているご様子でありました。毎夜この時分には、食後のお茶をお召し上がりになる頃であるというのに、唇をかたく閉ざしたまま、ブラウスのリボンタイをしきりにいじっているのです。
メイドの岩波妙子はというと、そんな一世ぼっちゃまには目もくれません。今日は思いがけず仕事が早く片付いた喜びで、主の背後に控えて時計をじっと見つめたまま「あと、イチジカン……」と、メイド部屋に引き返す時を待ち望んでおりました。
いつのまにやら銀ねず色の雲が蜜の月に陰をつくると、執事の満象はいよいよの面持ちで妙子をちらと横目で確認し、一世ぼっちゃまにやんわりと呼びかけました。
「一世様。何か、お困りでございますか」
リボンタイは小気味よい衣擦れの音をたてながら、生き物のようにうごめいております。一世ぼっちゃまは庶民の暮らしを学ぶべく、ご幼少の頃からあやとりが得意であられます。どんな極太の紐であっても、一世ぼっちゃまの手にかかれば絹糸のごとくしなやかにあやなされていくのです。
満象のくすんだ紺碧の瞳がきらりと光りを放ちます。
むすんで、ほどいて、むすんで、ほどいた一世ぼっちゃまの右手首をやはりやんわり、けれどしっかとつかみました。
老練の執事、満象は、主の手がたいへん冷たくなっているのを知ったのです。
満象が手を引き戻しますと、柔らかな前髪を軽くはらい、一世ぼっちゃまは目元を緩めてこう申しました。
「今夜は、満月だね」
一世ぼっちゃまはおもむろにティースプーンで、カップの中の満月をくるりとかき混ぜますと、すっかり冷めてしまったディンブラをひといきに飲み干されました。
カップの中の月があとかたもなくなると、北風が庭園の木々をゆさぶりました。
「あと、ゴジュウサンプン……」
相変わらず妙子は、血走った目で時計の針を追いかけております。
そんな妙子に、一世ぼっちゃまは意を決したように振り返り、こうおっしゃったのです。
「岩波。今夜は、湯たんぽをいれておくれでないかい。僕は、湯たんぽというものを一度試してみたかったのだよ。電気毛布はどうも苦手でね」
妙子はきょとんとして、首を小刻みに傾げました。
「あ、あの、イチジカン、ない……」
満象は妙子に、こう囁きました。
「妙子くん、おぼっちゃまに、あたたかいココアを」
絶望に打ちひしがれたように、河出家のメイドは、よろよろとキッチンへ下がって行きます。
あとには一世ぼっちゃまの、満開の桜のような笑顔が咲き誇っておりました。
踏み台に足をかけたらひっくりかえった。
右手に持っていた缶コーヒーの中身が、転んだ拍子に手首を切れよく返したがために、鼻の穴を中心にして飛び散った。
おまけに左手で電燈の紐を引っ張ってしまったらしく、畳の上で仰向けになったトリコは闇の中にいた。
液体はあっという間に鼻の穴から流れ出て、頬からもみ上げ、耳の穴にも侵入してきた。髪の毛にも液体を感じる。
めったに飲まない缶コーヒーなど買うんじゃなかった。
それより、缶コーヒーを片手にどうしてカサの掃除をしようだなんて思ったんだろう。子どもの頃から、「ながらは、やめなさい! 」といわれ続けているのにやめられない。どれもこれも、みんな一度にやってしまいたいのだ。
トリコは、右手のそれの存在を確かめるように握りなおした。ゆすってみると、まだ少しぶわんと手ごたえがある。どうせなら全部私にしみこんでしまえばよかったのに、と軽く舌打ちして上半身だけ起こした。
部屋の中は目が慣れてきて、窓から町の明かりが差し込んできており暗闇ではなくなっていた。私は今どんな顔をしているのか、トリコは見てみたいような見たくないような揺らぎの中にいた。
顔や髪に絡みついた液体が乾いてきた。べっとりとした感触が、不快指数を上昇させていく。糖分ゼロと書いていなかっただろうか。この甘ったるい匂い。
これは暗がりであるから、このべっとりしたものが血であったとしたら、私はどんな仕打ちをされて今こうしているのだろうか。
突然、アパートの部屋のドアを打ち破りスパイが侵入してきた。いいえ、殺し屋かもしれない。二〇〇七年六月のあの悪事を恨む輩が、ついに私の居所を突き止めてなうての殺し屋に高額な支払いを済ませて依頼したのかもしれない。
のうのうと生きながらえているあの女を八つ裂きにしてくれ! と。
全身に緊張が走り、首と肩が凝り固まった。
トリコはテレビの主電源ランプの赤を見つめて、残りのコーヒーを飲み干した。
ごくりと音も立てられないほどしかない。そして、もわりとした甘さ。
――そんなわけがない。
掃除は、明日にしよう。顔を荒い、歯を磨き、布団を敷いて寝てしまおう。
電燈の紐をばちばちと引いた。
眩しさが目玉に刺さった。
テキスト表現ゼミでは、毎週、私から思いつくままに出される「お題」に沿って作品を提出してもらっている。
作品種別はなんでもよく、小説、詩、エッセイ、論文、なんでもありだ。ただし、字数制限がある。あまり長すぎると読むのが大変だからということもあるが、とにかく短いテキストのなかに世界を凝縮する練習が、テキスト表現の練習には非常に有効だからだ。
字数制限は「一文字以上五百字以内」もしくは「千字、前後一割程度」というものだ。
佐藤ほくは小説とも詩ともエッセイともつかぬ、おもしろい切り口の短文のつらなりを寄稿してくる。あえていえば、不定形短歌のようなものか。が、短歌の手触りとも違う。作者自身の手触りとしかいいようのない不思議なものだ。不思議だが、楽しい。もっと読みたくなる。が、短いのであっという間に終わってしまう。読むものは、読んでしまった短い文章の肌触りを、繰り返し想像の空間のなかで反芻することになる。
以下はそれぞれのテーマに沿って提出された短いテキスト群である。不思議なテイストを味わっていただけると思う。
(水城)
「よろめく」
たまらない
だまされたい
だましたくはない
「よろめく」
よろめいてほしいなあ
うそでも
いつでも
ふいに
「よろめく」
やわらかそう
さわったら
指が
きもちいいだろうね
指が
「よろめく」
白くてふんわりとしている
ところどころにくぼみがあって
たぶん
すこしだけあたたかい
「ほうじ茶」
めずらしくはない
でもひとりでは口にしない
「まだあついから気をつけてね」
「ほうじ茶」
えんがわや
日だまりや
きっと本当はどしゃぶりの日も
「ほうじ茶」
麦茶でもウーロン茶でもなく
どくだみ茶ほどではない
うすい茶いろだったような
みどりだったような
体にいいんだっけ
飲みすぎちゃいけないんだっけ
たべてみてもいいかな
またあしたもいいかな
「ほしいからだ」
腕がガリガリでも
むねは小さくても
別に大きくても
自分とはちがうかたち
おかあさんに似てるかな
「おにく」
ももいろのおおきな
ももいろのやわらかいかたまり
やさしいものはすき
「手あて」
うつぶせになってくださいあたまをむこうがわにして
苦しくはないですか
ここは
こうすると
痛みはありますか
胸の音
きれいですね
「肉感的」
言葉だけならいいのに
「銀の斧」
威嚇の武器
ばかり気がつけば欲しくなる
「ギンノオノ」
右耳の小さな光
もっとそばで
みてみたいとずっと思ってた
「ぎんのおの」
段ボールでかたちをつくって
アルミホイルでまきまき
キラキラひかってきれいだね
剣でないところがしぶいね
傷ついても傷つけないで
傷つけても傷つかないで
「銀の斧」
叩き切ったら
傷がつくから
ピカピカのまま
使わないですむといい
あなたは
「ゆたんぽ」
あなたの言葉
なんどもなんども
あきるほど
とりだしては眺めてみる
「ゆたんぽ」
寒そうな人がいれば暖めようとする
大人になれば自然にだれもがそんな人間になれるのだと思っていた
「湯湯婆」
あなたのためだけにただそこにある
あなたはそう思っているのでしょう
「湯たんぽ」
実は亀だったらびっくりするよね
「缶珈琲」
記憶にないのは
きっといつも
部屋の中だったから
「缶コーヒー」
ひとくちちょうだい。
仲良しみたいでたのしいね。
「糖無」
私に馴染まない
あなたの好きな味
「カンコーヒー」
カロヤカナコノヨルガ
オワリマセヌヨウ
「偏頭痛」
また痛む
まだ生きている
「たいへんだ」
あたながいたいですか
いたいのいたいのてんでけー
てんでった?
「偏頭痛中」
耳がひかるとか。
なら。
痛むあなたを見逃さぬよう。
「釣りたいんだけど、乗せてくれる舟はないかな」
英語で話しかけると、見るからに漁師風のまっ黒に日焼けした男は、無表情に彼を見返した。
通じないのか? それもやむをえない。イタリア語ですら通じないかもしれない。なにしろここはマルタ島なのだから。
それにしても、なぜおれはこんなところに?
あきらめて、英語が通じそうなところはないかとその場を離れかけると、思いがけず漁師が返事をした。
「わしの舟でよければ、乗りな」
そこそこの英語だ。強いなまりはあるが、意味はわかる。
「あんたの舟って?」
「そら、あそこに」
指さした先には、地元でルッツと呼ばれている派手な模様がペイントされた木造の小舟が見えた。このあたりの漁船だ。
「なにが釣れる?」
「なんだって。いまの時期だと蛸がいい」
「タコね……」
「あんた、日本人だろう。タコを食うだろうが。もっとも、知られていないことだが、わしらマルタ人もタコを食う。ちなみに、ギリシアの連中もな」
まあいい。釣果が目的ではない。ただなんとなく釣りをしてみたくなっただけだ。
学生時代、マルタで生まれたという同級生の女がいた。父親の仕事のために一家でそこに住んでいた。いい島だと彼女はいっていた。
学生のときに立ちあげた会社がたまたまうまくいき、若い起業家としてマスコミからもてはやされた。実際、業績ものび、株式上場するまでに急成長した。株によって多額の資金を手に入れ、結婚もして順風満帆に思われた矢先、インサイダー取引疑惑で内偵が進められているという情報がはいった。さらに、写真週刊誌にはアイドルタレントとの火遊びをすっぱ抜かれた。実際、少しのぼせあがっていたところはあると、自分でも自覚している。
ほとぼりをさますべく、ひとり、見知らぬ島に逃げてきた。妻にも行き先は伝えていない。来てみれば、乾いた砂ぼこりと、白い土壁ばかりの土地だ。なにもない。ただ、海と空は見たこともないほど美しかった。
丘の上のホテルの窓から、ちっぽけな漁船が浮かぶ湾をながめていて、唐突に「釣りでもするか」と思いたった。日本にもどれば、ほとぼりがさめるどころか、検察が手ぐすねひいて待っているのかもしれない。なぜか知らないけれど、いま、美しい海にわが身を浮かべてみたくなった。置きざりにしてきた妻も、まだ子どもといってもいいようなアイドルタレントのことも、いまはどうでもいい。
海に出ると景色が変わった。赤茶けた丘と、そこに建ちならぶ白い壁の家。海側から見るマルタの街は、ジオラマのようだ。
釣糸をたらしてしばらくすると、手ごたえがあった。ぐねぐねと抵抗する感触を力ずくで引張りあげると、いきなり墨を引っかけられた。
漁師が遠慮のない笑い声を彼に浴びせかける。顔の墨を指さして、ゲラゲラ笑っている。
「いいさ、そうやって笑ってろ」
どうせおれはそういう人間なんだ。これまでだって、けっこううまくやってきたように見えて、じつは無理してた。かっこばっかりつけてた。ほんとは笑われて、こきおろされて、馬鹿にされるのがちょうどいい男なんだ。かんがえてみれば、ガキのころからいつも馬鹿にされていた。だから見返そうと思って無理を重ねてきた。
こちらの日本語に対抗したのか、漁師が笑いながらマルタ語でなにかいう。もちろんなにをいっているのかわからない。
墨を引っかけた蛸は、ルッツの船底でぐにゃぐにゃと足をよじらせてあがいている。自分そっくりだと思った。
彼は着ているものを全部脱いだ。船べりに足をかけ、頭から思いきり海に飛びこんだ。
浮かびあがると、気でも狂ったのかという顔でこちらを見下ろしている漁師の顔があった。それを見て、彼は笑いだした。いましがた笑われた分まで笑い返してやった。
素っ裸のまま海面に仰向けになる。
漁師がなにかいっている。今度は英語かもしれない。波の音に消されて聞こえない。
真っ青な空と地中海の雲が、彼の網膜に焼きつけられる。
よし、日本に帰るか。帰ってまたひとあがきするか、と彼は思う。
丘の上に住んでいる男は、電報がとどくと街に降りてくる。
足が悪いらしく、杖をついている。かくん、かくんと、曲がったリズムで、乾ききった道を降りてくる。
杖でかきたてられた土埃が、男の背中にオーラを作る。
年のころは、そうさな、五十五ってとこか。
たまに若い女といっしょのこともある。二十歳ぐらいの、髪の長い、ぴちぴちした、はちきれそうな胸と腰つきの女だ。娘じゃないの、とカミさんはいうが、おれはオンナに違いないと踏んでいる。
五十五なんてまだまだやれるし、痩せてはいるが、骨が太そうな体格だ。こういうやつが一番強い。
男は電報を握りしめたまま、おれの店の向かいにある銀行に入っていく。しばらくして出てくると、通りを渡ってこの店にやってくる。決まってアニス酒の水割りを一杯注文し、カウンターの上のテレビを食いいるように見つめる。家にゃテレビもないのかね。
女がいっしょのときは、店には寄らない。そのまま帰ってしまうか、近所で買い物をして帰る。うちには来ない。
男があの家に住み始めて以来、この半年、ずっとそんな調子だ。
一度男がひとりのとき、聞いてみた。
「旦那はどんな仕事をなさってるんですかい」
こっちが質問をしたことを忘れてしまうくらい時間がたってから、男はぼそっと答えた。
「本をな。書いてる」
「どんな本なんですかい」
それっきり答えはなかった。それ以来、おれは男に話しかけるのをやめた。
男が電報を忘れたことがあった。おれは悪いと思いながらも、ほかに客もいなかったし、まあ、盗み見をした。
スイス銀行の口座番号と「十四日、二十億ドル、要入金」とあった。
男が忘れ物に気づいて戻ってきた。おれはあわてて電報を戻した。
「読んだのか」
「いえ、滅相もない」
サザエの口みたいに奥まった目に見据えられて、おれはもう少しで白状しちまうところだった。
「私も世界に関わっている。こんな地の果てにいてもな」
男が言った。なんのことだか、おれにはわからなかった。
「おまえもそうであるように。私とおまえは、どこか別のところでもつながっている。見ろ」
男がテレビを杖の先でさした。
摩天楼に旅客機が突っこんで爆発するところが映っていた。
2012年7月25日 発行 初版
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東京世田谷在住。
作家、音楽家、演出家。
現代朗読協会主宰。音読療法協会オーガナイザー。
朗読と音楽による即興パフォーマンス活動を1985年から開始。また、1986年には職業作家としてデビューし、数多くの商業小説(SF、ミステリー、冒険小説など)を出している。しかし、現在は商業出版の世界に距離を置き、朗読と音楽を中心にした音声表現の活動を軸としている。
2006年、NPO法人現代朗読協会設立。ライブや公演、朗読者の育成活動を継続中。数多くの学校公演では脚本・演出・音楽を担当。
2011年の震災後、音読療法協会を設立。音読療法士の育成をおこなうとともに、音読ケアワークを個人や企業、老人ホーム、東北の被災地支援など幅広く展開している。
詩、小説、論文、教科書などの執筆も精力的におこなっている。