地味で陰気と云われ続けて約三十年———その性格故に恋人も友人もできず、ひっそりと身を隠すように日々を送っていた藍原くるみ。このままでいるのは嫌だ、もっと変わりたい———そんな希望を胸に会社に三ヶ月の有休届を出し、自分探しを始めたくるみは、ひょんなアクシデントから出会ったゲイの樹の紹介で、ニューハーフバーのキッチンで働くことになる。
恋、友情———勇気を出して踏み出す一歩が、明日を変える!
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行動は、必ずしも幸福をもたらさないかもしれないが
行動のないところに、幸福は生まれない
———ベンジャミン・ディズレーリ
「あれ、君いたの?」
あっけらかんとした男の声に、藍原くるみは眉を不機嫌にしかめた。この男は、よく知っている顔だ。くるみが所属する経理部の上司である松木だった。そして、その隣にいる女もまた然り、経理部の一つ上の先輩だ。笠野恵は、嫌悪に満ちた目で、くるみを見下ろし、「信じらんなーい」と、唾棄するように云った。
———信じられないのは、おまえの方だろうが。くるみは心の中で悪態をついたが、それを口にはしなかった。そんなことを云えば、後で何を云われるかわかったもんじゃない。
昼休み、くるみは昼食を取るため、この会議室へやってきた。一緒にお昼を食べるような友達もいないものだから、人目を避けるためにいつも昼食時には空き部屋を探し、そこで食事を取るのだ。今日も、いつものように使われていなかったこの会議室に入り、隅っこの方で床に座りこみ、手作りのお弁当を食べていた。
そこに突如入ってきたのが、この二人である。声を掛けようとも思ったのだが、突然二人が抱き合い始めたので、そのチャンスを逃してしまったというわけだった。松木には妻子があると聞いているから、いわゆる不倫の関係なのだろう。くるみの存在に気付かない二人の行動はエスカレートし、キスを始めたかと思いきや、松木が恵のシャツに手を入れ、胸をまさぐり始めたのだ。それに驚いたくるみは、「ひっ」と声を上げてしまい、二人に見つかってしまった、という次第だった。
恵は、まったくくるみに意を介さないように、呑気にシャツのボタンを留めていく。松木が、額についた脂汗を持っていたハンカチで拭いながら、情けない声で云った。
「君ねぇ、会議室は食事を取るところじゃないよ」
まったく悪びれる様子もなかった。くるみはこみあげてくる苛立ちを飲み込み、平静を保って口を開いた。
「……お言葉ですが、会議室はそんな……淫らなことをする場所でもないと思いますが」
「とにかく、このことは他言無用だ。そこのところ、よーくわかっているだろうね?」
松木が、そう云いながらくるみに詰め寄る。座り込んだまま、くるみは思わず後ずさりをしたが、恵がそれを制した。
「大丈夫よ、この子、話すような友達いないもん」
思わず眉をしかめ、恵を睨みつける。松木は、笑みを浮かべ、「そういやそうか」と、あまりにも呆気なくくるみから離れた。
「ならまったく問題ないなぁ」
何が「ははは」だよ———文句の一つでも垂れてやりたかったが、恵の言葉が図星なのに、返す言葉も思い付かなかった。。
「それにしても、君、いつもこんなところでご飯食べてるの?しかも、超豪華じゃない。え、もしかして君も彼氏と待ち合わせとか?」
松木が、くるみの弁当箱を覗き込む。漆塗りの小さめの二段重には、煮物や酢の物など十品以上の料理が綺麗に詰められている。これといって目立つところのないくるみだが、料理だけは好きで、毎朝四時に起きてお弁当をこしらえているのだ。その他に特に趣味もないから、これだけが楽しみだと云っても過言ではない。松木の好奇に満ちた目に、思わずくるみはお重を隠した。
「そんなに料理できるんだったらさ、さっさと結婚して寿退社すればいいのに。もういい歳だろう?」
「だめだめ、料理ができても人にこんな暗い女じゃ、相手なんてできっこないもの」
「え、じゃぁ何?これ、一人で食べてるの?寂しいー」
恵が見下すように、ふふんと鼻で笑った。そして、松木の腕を取ると、「もう行きましょう」と扉の方へと促した。
二人が出て行き、閉じられた扉を見つめながら、くるみは大きく溜め息を付いた。隠したお重を取り出し、箸を伸ばす。我ながら、よくできていると思う。おにぎりだって、わざわざたらこを網焼きしたのをほぐし、それをご飯に混ぜて桜の型で形を整えたのだ。
だが、それを褒めてくれる人もいなければ、一緒に食べる人もいない。でも、それを虚しいと思ったことは一度もない。ずっと一人なのだから、これが普通なのだ。
くるみは、小さい頃からずっと、一人だった。人前に出るのが苦手で、内向的で、常に俯いている子どもだった。小学生の頃から目が悪く、ずっと厚底の眼鏡をしていたせいか、陰気で暗いと云われ続け、ろくに友達もできないまま今まできてしまった。もう二十九になるが、彼氏の一人もいたことがない。
もう少し若いときには、変わりたいと思ったこともあった。短大を卒業し、この会社に入社したときには頑張って慣れない笑顔を作り、人に話し掛けもしてみたが、これまで出来なかったことが急に出来るようになるはずもなく、明らかに引きつった笑みが気持ち悪いと、みんな離れていってしまった。結局、それ以来誰かに不用意に話し掛けたりすることもなく、黙々と一日中パソコンに向かい仕事をするだけの生活になった。周囲は、そんなくるみを、存在が見えない空気のような人間だと云う。
今はもう、そんな自分に諦めがついている。それぞれ、人には生まれ持った星というものがあるのだ。私の人生は、こういうものなのだと思っている。
それでも、無性にやりきれなさを感じるのはどうしてだろう。
「……なんで、私が怒られるのよ。ばっかじゃないの……」
ぽつりと、呟くように云った。
「ただいま」
実家の引き戸を開け、家に入った。奥の居間から、笑い声が聞こえる。玄関に揃えられた靴を見ると、どうやら姉夫婦が来ているようだった。
二つ上の姉・みちるは、数年前に結婚し、今は実家からさほど遠くないマンションで暮らしている。くるみとは違い、賑やかで社交的な性格だった。どうして、その血が半分ずつにならなかったのだろう。そんなことを、何度思ったかわからない。
くるみはそのまま居間には顔を出さず、部屋に荷物を置いて、台所へ向かった。夕食を作るのは、いつもくるみの仕事だ。会社帰りに買い物してきた袋から野菜を取り出し、洗い始めた。
今日は、肉じゃがに油揚げと小松菜の煮浸し、刺身という和食の献立を考えていたが、姉夫婦が来ていて人数も増えてしまったわけだからと、献立を変更することにした。冷蔵庫に残っている野菜と、刺身を使えばちらし寿司ができる。ちらし寿司なら、人数が多くても米の量を増やせば対応できる。
米を洗い、炊飯器に入れると、早速他の食材の準備に取り掛かった。干ししいたけを水に戻し、薄焼き卵を焼くためにフライパンを火に掛ける。作業も中盤を過ぎた頃に、台所の戸が開いた。
「あらやだ、くるみ、帰ってたの?」
振り返ると、母親と姉が立っていた。驚いたように、目を見開いている。
「帰ってたわよ」
「アンタの帰り遅いと思って、簡単に夕食作ってしまおうって云って来たのよ」
「……玄関に靴あったでしょ」
呆れたように、くるみが云った。だが、姉は訝しげに首を傾げた。
「見たけど、アンタの靴なんかなかったように思うんだけど……」
「アンタ、ただでさえ影も薄いけど、靴まで影が薄いんじゃないの?」
母親がそう云うと、二人は顔を見合わせてけらけらと笑い声を立てた。くるみは、自分の顔が引きつっていくのを感じた。
「良い匂い、今日何?」
「……ちらし寿司。お姉ちゃんたち来てるから、人数多くても対応できるものの方がいいかなって」
「アンタ、本当に料理だけはうまいのにねぇ。これでもうちょっと器量が良くて愛想でもあれば、結婚も簡単なのにねぇ」
「本当、陰気なところが問題よねぇ」
母親たちは、くるみの苛立つ様子に気付くことなく、云いたい放題だった。終いには、くるみの暗さが露呈した過去の思い出話まで始める始末である。くるみは、邪魔だから出て行ってと、二人を台所から追い出した。
———本当に、今日は何なのよ。
私だって、好きで陰気で俯いているような生き方をしているわけじゃないのに。諦めがついたとは云え、気にしていないわけではないのだ。悔しさや憤りが胸に込み上げてくる。
炊きあがった米に自身で調合した寿司酢を入れ、うちわで扇ぎながらしゃもじで切るように混ぜる。料理の良さは、調理をしているときは、調理のことに気を取られ、他のことを考えなくていいところだ。だが、今日は邪心ばかりが頭によぎり、料理に集中できなかった。
寿司米と炊いた野菜を混ぜ、上に薄くスライスしておいた刺身や卵、さやえんどう、いくらを綺麗に飾り付けた。いつもなら、綺麗に出来上がった料理を見ると、満たされた気持ちになるのに、今日はどこか浮かない気分だった。
昼間の松木と恵の会話、そして先ほどの母親と姉の言葉が、ぐるぐると頭に回っていた。それらが引き金になって、これまで抱いたきた様々な感情がこみ上げてくるのを感じた。いつの間にか、目尻に涙が浮かんでいた。
———変わりたい。本当は、まったく違う自分になって華やかに生きたい……
くるみは、シャツの裾で目元を拭うと、ちらし寿司にラップを掛け、作っておいた煮浸しの鍋を並べてテーブルに置いた。そしてエプロンを外し、足早に台所を出た。
———やるなら、もう今しかない。
二階の自室に戻り、少し大きめのボストンバッグに必要最低限のものだけを無造作に詰め込んだ。
会社に勤め始めて九年、一度も有給を使ったことがないから、おそらく数ヶ月分くらいはあるはずだ。そもそも、私がいなくなったところで、誰も困る人間なんていない。
どうせ、私は空気のようなものなのだ。
パンパンに膨れ上がった荷物を手に、階段を駆け下り、くるみは荒々しく玄関の引き戸を開いた。居間から、「くるみ、どこか行くの?」と、呑気な母親の声が聞こえてきたが、振り返らなかった。
どこでもいい、私のことなんか誰も知らない土地に行きたい。
家を出たくるみは、早足で駅の方へと急いだ。
会社に、有休消化の電話を入れ終えると、くるみは深く溜め息を付いた。溜まっていた有給休暇は、全部で三ヶ月あった。
もう後戻りはできない。つまり、前に進むしかないということだ。
会社には、母が倒れて看病のために傍にいたいと嘘をついた。こんな嘘をつくのは初めてで、ひどく緊張して声も上ずっていたに違いないが、電話に出た松木は何の疑問も持たないように承諾してくれた。なんならそのまま、永久休暇でもいいけど、と云ったときには、キレそうになったが。
突発的に家を出たのはいいものの、どこへ行けばいいのかわからなかった。
考えてみれば、感情に任せて何かをしようと思ったことは、一度もなかったのではないだろうか。
新宿駅に降り立ち、とりあえずどこかで今後のことを考えようと、カフェを探すことにした。
そのときだった。
突然、身体に強い衝撃を覚えたかと思うと、身体のバランスを崩し、地面に勢いよく叩き付けられた。弾みで眼鏡が外れ、同じように地面に投げ出される。
痛っ———腰を打ち付けたらしいのに鈍い痛みを覚え、思わず顔を歪める。顔を上げると、すぐ目の前に同じように地面に倒れ込んだ男の姿が目に入った。若い男で、ホストのような派手な容姿をしている。だが、くるみの視線は男ではなく、その先にあった。
「あ!」
男が、「痛てて……」と打ったらしい膝を押さえている。そのすぐ後ろで、眼鏡が無惨な姿になっていた。
「ちょ、ちょっと!」
「あ、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫じゃない、眼鏡!」
だが、男は眼鏡でなく、背後に目をやった。くるみも思わず振り返った。五十メートルほど先に、こちらへ向かって走ってくる二人組の男の姿が見えた。
「やべぇ!」
男が勢いよく身体を起こし、立ち上がる。くるみは慌てて男を呼止めた。
「ちょっと……」
「弁償するから、アンタも来て!」
男はそう云うと、引ったくるようにくるみの腕を掴んだ。
身体が引っ張られるのに、慌てて鞄を掴んだ。次の瞬間には、男に引かれるままに駆け出していた。
帰宅ラッシュのせいで、駅構内にはが人が溢れかえっていた。その人並みを掻き分けて、我武者羅に男に手を引かれ、駆け抜ける。
駅を出て、大通りへと出る。それでも、男は走るのを止めなかった。一体、何がどうなっているのかわからない———だが、冷静に状況を咀嚼する余裕もなく、男の走りに付いて行くのに精一杯だった。眼鏡をしていないせいで、視界がぼやけてよく見えないのに、何度も人にぶつかっては小さく謝るが、きっとそれも相手には届いていないだろうとぼんやり考えた。
繁華街に浮かび上がるネオンの灯りばかりが、目におぼろげに映る。その繁華街の中をただひたすらに駆け抜けて行く。
男がようやく速度を緩め、足を止めたのは十分ほど走ったところだった。変わらずネオン街には違いない。ビルの中に身を隠し、くるみを奥へ引っ込めると、外を窺うように覗き見た。
「よっしゃ、なんとか撒けたな」
云いたいことはいっぱいある———だが、息がひどく切れて、言葉を発する余裕がない。もともと体育会系ではないのだから、こんなに走ったのは高校の持久走以来だったように思う。
鉄の味がする———何度も大きく息を吐きながら、苦い唾を何度も呑み込んだ。
男も同じように息を切らし、呼吸を整えるように大きく息をついている。
不意に、男の手が自分の腕を掴んでいるのに気付いた。男はすっかり腕の置き場所のことを忘れてしまっているのだろう。くるみは慌ててその腕を振り払った。
「ちょっと、何なんですか」
男が振り返る。顔はぼやけてよく見えなかったが、悪びれない様子でへらへらと笑う様子が窺えた。
「あ、ごめん。ちょっと追われててさ」
「追われてる?」
くるみが、警戒するように思わず身体を離した。
「あいつらのとこの女の子をね、ちょっと引き抜いたの。そしたら、恨み買われちゃって」
「女の子?」
「そう、風俗嬢」
風俗嬢という言葉に、くるみは眉をしかめた。そして、汚いものでも見るような目で、男を睨みつけた。
「……どうして、私まで」
「だってアンタ、眼鏡弁償しろって云うから」
「……そこまで云ってないけど」
「そういう目してたじゃん」
男は、辺りを窺うように見回してから、くるみに「来なよ」と手招きした。
男が、ビルを出て来た道とは違う道を歩き始める。くるみも慌てて男の後を追い掛けた。
「どこ行くの?」
「何も見えないのは困るでしょ?ずっと、目細めてて、怖いよ」
そう笑うように男が云う。監禁されなきゃいいけど———くるみは、そう危惧しながらも、何も見えないのは困るものだから、黙って男に追従した。
「……これって、眼鏡じゃないですよね?」
くるみは、連れて来られた店の看板を、目を細めて見ながら云った。
男が連れて来たのは、眼科とコンタクトレンズ屋が一緒になった店だった。男が、軽い口調で云う。
「そ、コンタクト」
「あの……眼鏡弁償してくれるんじゃないんですか?」
「今どき、あんな太い縁の眼鏡掛けてるなんて、ダサイよ。しかも、黒」
男の言葉に、くるみは思わず男を睨みつけた。
「それに、コンタクトの方がいいよ。せっかく美人なんだから」
くるみが何か云うのも待たずに、男がさっさと受付の方へと歩いて行ってしまった。くるみも慌ててそれを追い掛ける。
身長が違うと歩幅も違うのか、男の足は速かった。さっさと受付の前に立つと、ようやく追いついたくるみを振り返った。
「保険証、出して」
「え?」
「眼科で診察受けてからじゃないと作れないからさ、ほら、さっさと出して」
くるみは渋々財布を取り出し、保険証を出す。男がそれを引ったくって一瞥すると、受付の女性に渡した。
「くるみちゃんって云うんだ。雰囲気に似合わず、可愛い名前だね」
「……放っておいてください」
受付の女性が、「待ち合いでお待ちください」と、奥のソファを指差した。男はずかずかと奥へ歩いていくと、周囲の人間に構わず、ソファに思い切り座り込んだ。
くるみは、少し男から離れて座る。どうして、こんなことになっているんだろう———おぼろげにしか見えない男を横目に見ながら、そんなことを考えた。突然ぶつかられたと思えば眼鏡を壊され、文句もろくに云えないままに腕を掴まれ、十分近く全力疾走させられたのだ。眼鏡を弁償してくれると思いきや、コンタクトレンズ店に連れて来られた。
でも、男の人に手を取られたことは初めてだった。くるみは、掴まれた腕を見つめた。考えてみたら、他人と一対一で時間を共にするなんてことは、これまでになかったかもしれない。
「ねぇ」
突然話し掛けられて、くるみは思わず肩を強ばらせ、振り向いた。男が、くるみを見ていた。
「アンタ、暗いって云われない?」
「え?」
「全然喋らないし、ずっと俯いたままだし。なんか、別に壁とかないのに、ずっと隠れてるみたい」
男の言葉に、くるみは顔を背けた。どうして、初対面の男にまで、そんなことを云われなければならないのだ。黙っていると、男がくるみとの距離を縮めるようににじり寄り、小さく肘でくるみの腕を小突いた。
「ほら、黙る。図星なんでしょ」
「……放っておいてください」
「そんなにつっけんどんしてると、男にモテないよ、くるみちゃん」
「名前で呼ばないでください」
くるみは男を思い切り睨みつけた。そのとき、「藍原さん、どうぞ」と診察室から名前が呼ばれた。くるみはこの場を早く去りたい一心で、すっくと立ち上がると、診察室の方へ急いだ。
「いってらっしゃい、くるみちゃん」
男の、調子のいい声が聞こえる。くるみは振り返らず、看護師に促されるままに扉をくぐった。
「こんなに視力悪いのに、コンタクトを付けるのは初めてなんですねぇ」
「ちょっ」
看護師の女性が、指に置いたコンタクトレンズをくるみの目に近づける。指が目の中に入るのが怖くて、くるみは思わず身体を引いた。
「大丈夫ですから、怖がらないでください」
女性は、半ば無理矢理くるみの目蓋を押さえ、持っていたコンタクトレンズを捩じ込んだ。
初めて入れるコンタクトレンズは、不思議な感覚だった。突然視界が明るくなる。
「どうですか?違和感はありますか?」
そう尋ねられたが、くるみは答えるのも忘れ、目の前の鏡に映る自分の姿をじっと見ていた。
眼鏡がないのに、自分の顔がはっきりと識別できる。眼鏡だと縁もあり、また汚れも出てくるせいか、どこか視界が狭かったが、コンタクトだと世界が急にくっきりと輪郭が浮かび上がったように視界が鮮やかだった。
診察を終え、試供品のコンタクトを付けたまま、診察室を出た。一人の男が手を挙げ、くるみに向かってその手を振る。初めて、男の顔がはっきりと見えた。
くっきりとした二重の、整った顔立ちの男だ。浅黒い肌に茶髪のせいか、軽い印象は拭えないが、笑顔が貼り付いたような愛嬌が滲み出ている。くるみは、俯いたまま、やはり男から多少の距離を取ってソファに腰掛けた。
「やっぱり、そっちの方がいいじゃん」
くるみは、軽く咳払いをして、視線を逸らした。顔がはっきりと見えた途端、顔を付き合わせるのが怖くなる。
男は、言葉通り、コンタクトレンズと診察代を支払ってくれた。店の入ったビルを出て、くるみは前を歩く男に声を掛けた。
「あの、ありがとう……ございました」
「せっかくなんだから、服装と髪型、あとメイクも変えた方がいいと思うよ。なんか、芋っぽい」
くるみは思わず自分の服装を見た。ベージュの長袖のシャツに、淡いオレンジのロングスカート。人に面と向かって云われると、途端に恥ずかしくなった。
「そういやくるみちゃん、大きな荷物持ってるけど、どこか行くの?」
「え?」
「それ、普通のお出掛けにしちゃ、荷物多過ぎでしょ」
パンパンに膨れ合ったボストンバッグを指差して、男が云う。
「あ、えぇ、ちょっと」
「そりゃ、悪かったね。大丈夫?彼氏と旅行とか?」
「いや、そういうのじゃないけど……」
「じゃぁ、何なの?」
どうしてこの男は、こんなに人のプライベートにずけずけと踏み込んでくるのだろうか。嫌悪を感じながら、くるみが答えた。
「何だっていいじゃないですか。あなたに関係ない」
「何、家出?……って歳でもないよね」
「……家出だったら、悪いですか?」
「マジで?」
男は、目を見開いたと思えば、可笑しそうに笑った。
「いくつよ?」
「……二十九」
「家出って歳じゃないでしょ」
「放っておいてください」
くるみは苛立つように云ったが、男は笑ったままだった。その様子に一層腹が立ち、男を無視するように踵を返した。眼鏡の代わりも弁償してもらったことだし、もう関係のない男だ。背後から、「もう行っちゃうの?」と声がしたが、くるみはそのまま歩き始めた。
だが、ふとあることを思い出して、振り返った。男が不思議そうな顔をして、くるみを見ていた。
「あの、この辺で一人で泊まれるホテルってあります?」
生まれてこの方、一緒に出掛ける相手もいなかったものだから、地元以外の地理にはまったく無知だった。家族旅行と修学旅行以外でホテルに泊まったことなど一度もない。特にこの辺りは人が多いのに、必要以外に立ち寄ることもないのだから、ホテルがどこにあるかなどまったく知らない。
くるみの言葉に、男はまた吹き出すと、ケラケラと笑った。
「……何が可笑しいんですか?」
「ラブホテル以外はどこでも一人で泊まれるよ。あ、最近はラブホも一人で泊まれるところがあるんだけどね。そっちにも、あっちにも、ビジネスホテルはあるし」
「……ありがとうございます。じゃ、さようなら」
男を一瞥して、再びくるみは歩き始めた。だが、後ろから男が追い掛けてきて、くるみの肩をぽんと叩いた。
「ねぇ、どうせ暇なんでしょ?飯でも食いに行かない?」
「はぁ?」
「もう十時前だしさ、お腹空いてるでしょ?奢るし」
「でも……」
「はい、断る理由ないんでしょ、決まり。大丈夫、君に食って掛かろうなんて思ってないから」
男はそう勝手に話を進めると、くるみの肩を抱いたまま歩き始めた。くるみが「ちょっと……!」と抵抗するのも聞かずに、歩を進めて行く。ご飯くらいなら、いいか———くるみは空腹だったのと、抵抗するのも面倒臭くなって、男に促されるままに夜の新宿の街を歩いた。
目が覚めたとき、ひどい頭痛にくるみは思わず唸り、頭を抱えた。
脳みその代わりに大きな岩でも入っているかのように、頭が重い。それでも、なんとか身体を起こす。ベッドの上だった。身体には、白いタオルケットが掛けられている。一瞬自分の部屋かと思ったが、知らない部屋だった。ラックと小さな折りたたみの机、あとは家電しか家具はないが、物や服が散乱している。その部屋の様子から、一目で女の部屋ではないことがわかった。
昨夜のことを思い出そうと、くるみは髪を掻き上げた。ふと、いつの間に髪を下ろしたのだろうかと疑念が湧いた。
———そうだ、昨日あの男とご飯を食べに行ったのだ。繁華街の中にあるビアパブに入り、三杯ビールをおかわりしたことまでは覚えている。だが、その後の記憶がまったく思い出せなかった。
がらっと、部屋の引き戸が開いた。上半身裸で、下にスウェットを履いただけの男が、顔を覗かせた。
「あ、起きた?」
「……これ、どういうことですか?」
「アンタ、昨日大変だったんだよ。こんなひどい酔っぱらい、初めてだよ」
ふと、男を見て、くるみは身体を退けた。その顔は、ひどく歪んでいる。
「……あなた、私に何かしたの?」
男は一度踵を返しどこかへ消えたかと思うと、コップを片手にくるみの方へ歩み寄ってきた。
「処女とやろうとは思わないよ。はい、水」
差し出したのは水とバッファリンだっら。それを前に、くるみの顔はますます険しくなった。
「……どうして処女だって知ってるんですか」
「あ、図星なんだ。やっぱり処女だったんだ」
まんまと騙されたことに、くるみは嫌悪に満ちた目で男を睨んだ。
「昨日、アンタはビールを飲みまくって、散々周囲の客に絡んだ後、こてんと眠っちまったんだよ。さすがに、酔っぱらい女を一人ホテルにぶちこむわけにはいかないだろ?仕方ないから、俺の家に連れてきたわけ。勿論、襲うなんて馬鹿なことはしてない。衣服だって、乱れがないだろ?」
「……でも、髪……」
「さすがに寝るのに邪魔かと思って、髪留めだけ外したよ。それだけ、後は触ってない」
はい、と男が水を突きつける。半信半疑の気持ちで、くるみはその水を受け取った。
「本当に襲ってないのか、信じてないみたいだな。他の男とやったらわかるんじゃない?処女なら、処女膜あるじゃん」
軽い調子で笑いながら男が云った。その言葉に、くるみは恥ずかしさと憤りがこみ上げてくるのがわかった。目に涙を溜め、唇をぎゅっと噛みしめるくるみを見て、男が軽く溜め息を付いて云った。
「あのね、俺、女に興味ないの。だから、アンタを襲いたいとも思わない」
「……何それ」
「ゲイってこと」
その言葉は、少なからずくるみにショックを与えた。ゲイという世界があるのは知っているが、目の前にしたことはない。
「あー、どうしてこんなこと、女に云わなくちゃいけないんだよ」と、男が悔やむように頭を抱えた。
「……ごめんなさい」
「いいよ、もう。云っちゃったもんはしょうがない」
男は机に置いてあったペットボトルを掴むと、一気にそれを呷った。くるみは、あることに気付いて、口を開いた。
「ねぇ」
「何?」
「あなた、名前は?」
くるみの言葉に、男はペットボトルを下し、声を立てて笑った。どうして名前を聞いただけで笑うのか、くるみは訝しげに顔をしかめた。
「やっと聞いたね、名前。いつ聞いてくれるのかと思ってたんだ」
「は?」
「昨日も、ずっと一緒にいたのに、名前、聞いてくれなかっただろ?」
そう云えば、とくるみは痛む頭を押さえた。ずっと「あなた」と男を呼んでいたせいで、名前を聞かなかった。
「志田樹、二十五歳、独身。職業は風俗のキャッチ」
風俗のキャッチ、という言葉にくるみは明らかに嫌悪の顔をしたが、樹は気にしていないようだった。
「志田、さん」
「樹でいいよ。くるみちゃん」
樹はそう云うと、踵を返し、引き戸を開けて奥へと消えて行った。
部屋は十畳程度の広さで1Kの造りになっているらしい。引き戸の向こうに簡易なキッチンがあり、樹はキッチン横の冷蔵庫の前にしゃがみこみ、冷蔵庫の中を物色していた。
「朝飯になるようなもん、ないなぁ。てか、もう朝飯の時間じゃないけど。さとうのご飯と卵しかないや」
確かに、壁に掛かった時計は、すでに昼の二時を過ぎている。くるみは、おどおどとした声で云った。
「あの、卵焼きくらいなら作りますけど……」
水とバッファリンのお陰か、さっきよりは頭痛がマシになった気がする。くるみはベッドから降りて、台所の方へ歩いて行った。
「マジで?くるみちゃん料理できるの?」
「……多少なら」
「でも、調味料まったくないけどね。唯一あった醤油もなくなったし」
確かに、台所のどこを見回しても調味料が一切ない。くるみは、冷蔵庫を開けて中を見た。
缶ビールばかりで、食料がまったく入っていない。だが、あるものを見つけて樹の顔を見た。
「……あの、この中にあるもの、使ってもいいですか?」
「あぁ、って云っても何もないけど」
くるみは、コンロの上に置かれたフライパンを簡単に水で流し、深皿に卵を三つ割った。樹が不思議なものを見るような目で、その様子を見ていたが、踵を返し、ベッドルームの方へ戻って行った。
数分後、机の上には食事が並んでいた。レンジで温めたご飯の隣に、ふんわりと焼き上がった卵焼きが湯気をあげている。樹は、それを箸で切って口に入れると、目を大きく見開いた。
「うまっ!」
樹がくるみを振り返る。その言葉が嘘でないのは、樹の高揚とした顔つきからわかった。
「何これ、調味料もなしに、何でこんなにうまくなるの?」
「冷蔵庫に取ってあった納豆のタレを使ったの。お醤油の代わりになると思って」
「すげぇ、俺普段納豆は醤油掛けて食うから、タレ使わないんだよね。それにしても、こんなにうまい卵焼き初めて食ったよ」
樹が、卵焼きとご飯を交互に口に掻き込んでいく。その様子に、くるみはどこか嬉しさがこみ上げてくるのがわかった。自宅で食事を作りはするけれど、出てくるのが当然といった家族の反応は良いものじゃない。純粋においしいと云って食べてくれる姿に、心が温かくなっていくのを感じた。
樹が、ふと顔を上げて、くるみの顔を見る。人にじっと見つめられることなんてほとんどないのに、くるみは思わず目を逸らした。
「あーあぁ、何で逸らすかな。今の顔、良かったのに」
突然の言葉に、くるみが「え?」と眉をしかめた。
「今、すげぇ穏やかな顔してた。いつも、そういう顔してたらいいのに」
途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。くるみは思わず俯いた。
「てか、これからどうするつもり?家出ってどれくらい本気なわけ?仕事は?」
再びご飯を掻き込みながら樹が訊ねた。
「……仕事は有給取りました。三ヶ月くらい。どうするかは、考えてない」
「それってあれ?感情的になって突発的に飛び出して来たみたいな感じ?」
樹の云うことは、いつも的を得ている。くるみは思わず黙り込んだ。
「また図星。わかりやすいね、反論の一つでもしてみりゃいいのに」
「……関係ないでしょ」
「こんだけ世話なっといて、よく云うよ。でもまさか、三ヶ月もふらふら旅でもする気?そもそも、何で家出なんかしたの?」
ずけずけと聞いてくる樹に、くるみは苛立つ口調で云った。
「……ちょっと、どうしてそんなに質問攻めにするんですか?プライベートでしょ」
「だって気になるじゃん。気になることは聞く、そんなの当たり前」
はぁ……と、くるみは大きく溜め息を付いた。くるみの代わりに、樹が口を開いた。
「男関連じゃないことはわかってるから、仕事で何か嫌なことがあったとか?いや、家出だったら、家で何かあったとか。早く結婚しろとか?」
「……べつにそういうわけじゃ」
「じゃぁ、何だよ。もしかして、自分探しとか?」
「……自分探しっていうわけじゃ」
「じゃぁ、自分を変えたいとか?」
どうしてこの男は、確信をつくのだ。黙り込んだくるみに、樹が「ビンゴ!」と嬉々とした声をあげた。
「やっぱり気にしてるんだ、暗いの。二十九になってまだ処女だし」
「……放っておいてよ」
「それなら、旅でふらふらするより、違う生活作る方がいいんじゃないの?」
くるみが、顔を上げた。
「違う生活?」
「そう、違う仕事に就いて、心機一転」
そういう選択肢は考えていなかった。くるみは箸を手にしたまま、首を傾げた。
「くるみちゃん、料理得意そうだよね?」
突然料理のことに触れられて、くるみは眉間に皺を寄せた。
「丁度さ、料理できる人探してるとこあんだけど、行ってみない?」
料理を仕事にする。そんなことは考えたことがなかった。確かに、料理は好きだ。それが仕事になれば、楽しいかもしれない。だが、とくるみは思った。
「私、そういう資格、持ってないし……」
「そこまで本格的なもんじゃない。簡単な調理だけだから。どう?」
樹が、くるみの目を窺うように覗き込む。
———どうせ、断ったところでこれからのことは考えていないのだ。くるみは、不安の入り交じった顔で、曖昧に頷いた。
夕方、樹がくるみを連れて来たのは、新宿駅からさほど遠くない繁華街の中にあるクラブ街のようなところだった。だが、一見して立ち並ぶクラブやスナックが、普通のものでないことがわかる。歩いているのは、男ばかりだった。嫌な予感がして、くるみは小さな声で耳打ちするように樹に聞いた。
「……ねぇ、何か普通の店じゃない気がするんですけど」
「新宿二丁目」
「……何それ?」
訝しげに首を傾げるくるみに、呆れたように樹が云った。
「本当に、世間知らずだね。すげぇ内向的なのがよくわかったよ。新宿二丁目は、ゲイの街」
その言葉に、くるみは顔を思い切りしかめた。その反応に、「云ってなかったっけ?」と、おどけたように樹が云った。
「ゲイバーだよ。って云っても、厳密に云えばニューハーフバーに近いんだけど。俺の行きつけの店なんだけど、丁度調理してた人が辞めて、ママ困ってたんだよね。ママには話付けてあるから」
「でも、私……その、女だし」
「べつに、ホールに出るわけじゃないし、大丈夫でしょ」
あっけらかんとして樹が笑った。何がどうして、ゲイバーで料理を作らなくちゃいけないのだ———今すぐ引き返したい衝動に駆られたが、今さらそんなことを云う勇気もなかった。
「ここだよ」
樹がそう云って指を指した先には、「CANDY HEART」と書かれたピンクの派手な看板があった。一人なら絶対に、間違っても入らないような店だ。樹は構わず、その扉を開けた。
扉の向こうには、テレビドラマで見たことのあるような豪奢で派手な空間が広がっていた。天井にはけばけばしいミラーボールやシャンデリアが吊るされ、壁は鏡張りになっている。まだ開店前らしく、ホールに人の姿はなかった。
「ママ、連れて来たよ」
樹がそう、奥に向かって声を掛けた。その声に反応したように奥から人影が出てくる。その人物の姿が見えたのに、くるみは思わず息を呑んだ。
六十は越えていると思われるその人は、ピンクの衣装を身に纏い、派手な化粧を施している。一見女かと見紛うが、それが男だというのは、顔が明るみに出れば一見してわかる。
「樹ちゃん、悪いわねぇ、調理人探してもらっちゃって」
声は、男特有のしゃがれたもので、女言葉に違和を感じずにはいられなかった。くるみは隠れるように樹のすぐ後ろにぴったりとくっついていた。
「で、その子どこなの?」
樹が隠れていたくるみの腕を掴み、前に引っ張りだした。
ママが、くるみを見て、顔を引きつらせたのがわかった。明らかに嫌悪の色を浮かばせている。
「ちょっと、女じゃない」
「そう、くるみちゃん。今丁度求職中で、料理もうまい。いいんじゃない?どうせ、ホールに出るわけじゃないんだし、ここ女性とノンケにも解放してるじゃん。次が見つかるまでの臨時雇いってのはどう?」
聞き慣れない言葉に、くるみが眉をしかめ首を傾げる。だが、ママがくるみに視線をやったのに、思わず姿勢を正した。
ずかずかとママがくるみに詰め寄ってきたと思うと、じっとりと舐めるようにくるみを見る。その顔がいやに険しいのに、心臓の鼓動が早鳴っていくのを感じた。
樹が、くるみに勤め先がゲイバーだということを知らせなかったのと同様、ママに連絡を取ったときにくるみが女だということを知らせていなかったのがわかる。思わず眉をしかめたいのは自分だけではないのだと、くるみは平静を保つのに自分にそう云い聞かせた。
「そうっちゃそうだけど、それにしても地味な女じゃない」
ママが、吐き捨てるように云った。くるみは、自分の顔が引きつるのがわかった。こんなところにまで来て、地味扱いされるのは心外に他ならない。
「……あの、私やっぱり」
一刻も早くここから立ち去りたい———くるみが、躊躇いがちに口を開いたが、奥のカウンターの中で作業をしていた、やはり女装姿の男の声に掻き消された。
「ママ、大変!」
思わずママが振り返る。その男が、おどおどとした様子で云った。
「コンロの火がつかないの。また、壊れちゃったみたい」
「あら、またぁ?」
「どうしたの?」
樹が訊ねる。ママが、困ったように腕を組んで云った。
「コンロの調子がここ最近ずっと悪いのよぉ。やっぱり修理来てもらった方がいいわねぇ」
「今日のお通しどうしようかしら。火が使えないんじゃぁ、きんぴら作ろうと思ってたのもできないし……またミックスナッツだと次郎ちゃん文句云うわねぇ、きっと」
奥の男が、ママ同様に困ったように眉をしかめた。
「しょうがないわねぇ、お惣菜買ってくるしかないわね」
「あの……」
くるみが、小さく声をあげたのに、一同の視線がくるみに集中した。人に注目されたことなど、これまで一度もなかったものだから、緊張が走るのがわかった。躊躇いがちに、くるみは云った。
「食材、見せてもらっていいですか?」
ママが、べつにいいけどと、道を開ける。くるみはカウンターの中に入り、中にいた男に軽く会釈をして、台所回りを見回し、冷蔵庫を開けた。
どうやら、出す料理の大半は冷凍と乾物に頼っているようだ。殆ど、食材が入っていない。きんぴら用に用意していたというにんじんとごぼうの薄切りが水に付けてあるだけだった。
くるみは、冷蔵庫に八丁味噌があるのを見つけると、それを取り出し男に向き直った。
「あの、調理用のお酒、ありますか?」
「あるけど……」
男が、調理台の棚の扉を開け、酒を取り出してくるみに渡した。くるみは、近くにあった深皿に八丁味噌と少々の酒を入れ、スプーンで混ぜた。三人が、じっとくるみの手元を見つめている。だがくるみは気にせず、混ぜた調味料を電子レンジに入れた。軽く加熱し、皿を取り出して、今度は軽く水を切った少量の薄切りにんじんとごぼうを入れて加熱をする。最後は、その二つを混ぜ合わせ、もう一度加熱した。
レンジの蓋を開けると、味噌の香ばしい匂いが鼻を付いた。出来上がったものを小さな小鉢に盛りつけ、上に小口切りにした葱を軽く振りかける。これで完成だ。
くるみは出来上がったものをママに差し出した。ママは何も云わず、それを受け取り、指でそれをつまんで口に入れた。次の瞬間、目を大きく見開いた。
「あらやだ、おいしい!」
その声に、もう一人の男と樹もつまんで食べた。二人とも顔を見合わせて、大きく頷いた。
「レンジできんぴらができないこともないんですが、やっぱり炒めた方がおいしいし、レンジを使うならこっちの方がおいしいと思って……」
くるみが云うと、ママは皿を男に託し、くるみにじり寄ってきた。思わず後ずさりするくるみに、ママが云った。
「いいわ、アンタ雇ってあげる。ただし、条件付きよ」
えっ、とくるみが怯えるようにママを見上げた。
「この芋臭いのどうにかしてもらうわよ!地味過ぎるのよ。髪型といい、服装といい、化粧一つしてない顔といい、あたしねぇ、せっかく女として生まれたのに、何の努力もしない女ほど嫌いなものはないのよ!」
そう云うと、くるみの頬を両手でつねった。
「い、いたひっ」
くるみは腕を振り払おうとするが、女の格好をしていても男なのだから力で叶うはずがない。
「よかったね、くるみちゃん。この子の改造はママたちに任せますよ」
「ちょっと……!」
「じゃぁ、俺キャッチの仕事あるから、また仕事帰りに寄るよ」
そう云うと、樹は「じゃぁ」と手を振り、店を出て行った。一人店に取り残されたくるみが、恐る恐る振り返る。ママと、もう一人の男が、にやりと笑みを浮かべてくるみを見下ろしていた。
———何がどうなって、こんなことになっているのだろうか。くるみは、台所に立ち、洗い物をしながら頭を抱えたい気持ちになっていた。
顔を上げると、すぐ前に小さな鏡が掛けられていて、自分の顔が映っている。その顔は、数時間前とは似ても似つかないものだった。
樹が出て行った後、ママと忍さん(もう一人の男性の源氏名)は、くるみを奥の控え室へ連れて行った。控え室には派手な衣装がずらりと並んでおり、奥の扉からは賑やかな音楽が聞こえた。その扉を開けると、これまたスパンコールなどで彩られた艶やかな舞台衣装を身に纏った数人のニューハーフたちがダンスの稽古中だった。ママが音楽を止め、くるみを前に出してみんなに紹介した。
ママと忍がいかつい男そのものであったから、そういう場所かと思っていたが、ダンスをしていた数人のニューハーフたちは女性と見間違えるほど若く綺麗な人ばかりだった。くるみは、自分よりも美しい男たちに、驚きと嫉妬を覚えずにはいられなかった。
くるみを紹介されたニューハーフの面々は、女が雇われたことに驚いているようだったが、ママたちほど嫌な顔をする者はいなかった。だが、口々に「地味ねぇ」という声が飛び交い、くるみはその度に顔を引き攣らさねばならなかった。
ママの説明によれば、このバーでは二時間置きにショーを行うことになっていて、彼らはそのショーメンバーだということだった。人気のあるキャストが抜擢されるショーは、この店の名物なのだという。
樹が帰った後、くるみは無理矢理化粧台に座らされ、ママにヘアメイクを施される羽目になった。会社では眼鏡で顔が隠れるし、誰が見るわけでもないのだからと、ファンデーションを塗るだけで殆ど化粧をしたことはなかった。
「女はねぇ、着飾ってなんぼの生き物なのよ」と、次々に化粧品を取っ替え引っ替えし、くるみの顔を塗っていく。くるみは、人に化粧をされることも皆無だったので、化粧を施される間、ただずっと目を閉じていた。
「こっちの方がいいじゃない」
ママの言葉に、くるみは恐る恐る目蓋を開けたのに、思わず目を見張らずにはいられなかった。
目の前にいたのは、別人のような自分だった。ラインやマスカラが塗られているせいか、目元がぱっちりとした印象がある。髪は、ヘアアイロンで巻かれて綺麗に整えられていた。
初めて、自分は女だったのだと、くるみは感じた。嫌な気はしなかった。むしろ、今まで見たことのなかった自分に、少し嬉しさを覚えたくらいだ。
だが、問題はその後だった。その服装をどうにかしなくちゃとママが引っ張りだしてきたのは、思わず顔がひきつってしまうようなノースリーブのピンクのシフォンドレスだった。くるみは、台所で汚れるからと拒否したが、外から見える限り適当な服装は許せないと、無理矢理くるみにその衣装を着せた。しかも、むだ毛の処理を怠っていたのが際立ち、その場で毛を剃られる始末である。おまけに、胸元が寂しいと嫌味を云われた。
そうして、げっそりとして今、台所に立っているわけだった。
店は七時オープンだったが、七時前にはもうホールは客の男たちでいっぱいになっていた。次々に艶やかなドレスに着替えたニューハーフたちが出て来て、客の席に付いていく。ホールは、派手な音楽と賑やかな話し声でいっぱいになっていた。
くるみは、そんなホールには背を向けて、淡々と調理と洗い物をする。コンロが使えないのと食材が少ないため、作れるものは限られていたが、できる限りの献立を提案した。きゃべつと塩昆布の簡単なサラダ、キューリのごま油和え、ポテトとタラコのグラタン。作っている場所に違和感はあるものの、料理をするのは楽しかった。
ふと、振り返りホールを見る。スーツ姿のどこにでもいそうな中年の男たちが、ニューハーフのホステス相手にべったりとくっつき、いやらしい笑みを浮かべている。ここにいるのはゲイばかりなのだろう。差別をする気もないが、不思議な気持ちでそれを見つめていた。
「くるみ、アンタの料理、評判いいわよ」
客席から戻ってきたママが、くるみに耳打ちした。
「傍から見れば、アンタもニューハーフと見間違うし、問題ないわね」
「はぁ……」
ニューハーフに見間違うというのはまったく良い褒め言葉だとは思わなかったが、料理を褒められるのは嬉しい。軽く視線を逸らしているくるみの顎を掴み、上を向かせてママが云った。
「人と話すときは、相手の目を見る。これ、マナーよ」
「……すみません」
「アンタ、樹ちゃんに何と云いくるめられてここに来たのかは知らないけれど、お客さんを冷ややかな目で見るのはやめなさい」
「……そんなつもりは」
否定するように小さく首を振るが、ママの言葉は図星だったのに視線を逸らしてしまう。ママはふんと鼻を鳴らして、突っ掛かるような口調で云った。
「だから女は嫌いよ。ここは、観光バーだから、女の客も日によっては入れるけど、みんな好奇心に満ちた目であたしたちを見るわ。偽物だと云って馬鹿にして。あたしたちは見世物小屋じゃないのよ。真剣にこの世界を愛してやってるの。軽蔑するなら、辞めてもらうわ」
そこまでまくしたてると、ママは踵を返し、再びホールへと戻って行った。
私だって、好きでここで働いているわけじゃない———そうは思うものの、ママの真剣な目が思い出される。
自分の知らない世界が、この世にはたくさんあるのだとふと感じた。ずっと一人ぼっちで、それこそ腕を伸ばしてぐるりと円を描いただけの目の前の世界しか見てこなかった。今自分は、間違いなく会社にいた頃の自分と違う世界に立っている。それがニューハーフバーであっても、求めていた「変わりたい」という願いの先にあった世界でないにしても、悪い気はしないでいる自分がいた。
洗い物を終え、洗った食器をタオルで拭いていると、突然照明がピンクに変わり音楽が変わった。ママの「イッツ、ショータイム!」という掛け声が上がり、場内が一層賑やかになった。
客席の奥に設置された小さな舞台に、先ほど控え室の奥でレッスンをしていたショーメンバーが現われた。軽快なリズムと共に、彼らが艶やかに舞い始める。
「ミヅキちゃーん」「リオンちゃーん」と、次々に名前を呼ぶ歓声が上がった。
くるみも、食器を拭くのを忘れて、そのショーに見入っていた。
純粋に美しいと思った。男だとか、女だとか、そういうものは関係なしにただ美しい。
七人のショーメンバーがいて、そのどのメンバーもそこらの女性に引けを取らない綺麗さであったが、その中で一際目を引くニューハーフがいた。ステージの端っこに立っているが、小顔で色も白く、全体的に顔のパーツが大きくアイドルのような顔をしている。道で歩いていても、彼が男だと気付く人はいないだろう。どのメンバーよりも若いらしく、化粧で飾ってはいるが、十代後半か二十歳そこそこくらいだろうと思う。
思わず、彼の姿を目で追う。ダンスの技術はまだ未熟なようだが、オーラがある———くるみの目は、そのダンサーに釘付けになっていた。
それからショーは、二時間置きに二回あった。特に問題なく仕事をこなし、一時を過ぎた頃、樹が入って来た。
樹はホールのボックス席には座らず、そのままカウンターの席へとやってきた。くるみの姿を見つけたのに、樹は目を見開き、驚いたように声を上げた。
「くるみちゃん、すげぇ変身振りじゃん」
その言葉に、自分が随分と派手な身なりをしていたことを思い出した。恥ずかしくなって後ろを向いたが、お構いなしに樹は続けた。
「普段ももっと華やかに着飾ったらいいのに。処女もすぐに捨てられると思うけど」
「……余計なお世話です」
樹がケラケラと笑う。くるみはそんな樹を睨みつけた。
「……仕事、終ったの?」
「あぁ、一応ね。女の子二人掴まえたから、上がっていいって」
「……そうですか」
その女の子たちは、風俗嬢になるわけだ。あまり良い響きではないが、自分には関係ないことだ。
くるみは、気になっていたことを聞いた。
「あの、樹さん……その、ゲイだって云ってましたけど……ああいうニューハーフの人が好きなんですか?」
そう云って、くるみはホールの方を見た。艶やかなニューハーフのホステスたちが目に入る。樹は、首を振った。
「いや、俺はガチムチがタイプだから、ここでは出会い求めないけど」
「ガチムチ?」
「ガタイが良い男のこと」
ふーんと、冷静を装って相槌を打ったが、なんだか微妙な気持ちだった。あまり、樹ががっちりとした体格の男と抱き合っているところは想像がつかないし、想像したくもない。
「……じゃぁ、どうしてここが行きつけなんですか?」
「昔ママに助けられたことがあってさ。十八のときに初めて二丁目に来たんだけど、最初に入った店で俺どうしていいのかわかんなくてさ。酒だけやたら飲んで、潰れて店の外に出されちまったんだ。そのときに、拾って介抱してくれたのが偶然通りかかったママだったってわけ。それ以来、俺はニューハーフには興味ないけど、酒だけ飲みにちょくちょく立ち寄ってる」
「へぇ……」
ホールで客の相手をするママを一瞥した。つっけんどんな物言いで、やたら女を毛嫌いしているが、悪い人でないことはわかる。
くるみの視線に気付き、ママが立ち上がってカウンターへやってきた。樹を見つけて、嬉しそうな声を上げる。
「どう?くるみちゃんは」
樹が聞くと、ママは難しい顔をしてくるみを上から下まで見ながら云った。
「料理はうまいけど、愛想がないのがねぇ。まぁホールに出すわけじゃないからべつにいいけど」
「……すみません」
くるみは、思わず俯いた。だが、一喝するようにママが云った。
「顔上げる!」
「す、すみません!」
慌てて顔を上げる。ママが、ふんと呆れたように鼻を鳴らした。
「アンタ、もう上がっていいよ。女だし、遅くなると面倒でしょ」
「あ、ありがとうございます」
ママから出勤のシフトだけを聞いて、くるみは控え室に戻った。さすがに、この格好のまま外に出るわけにはいかない。ドレスを脱ぎ、ハンガーに綺麗に掛けて、もともと着ていた私服に着替えた。この化粧には、いまいち不似合いな気はしたが、わざわざ化粧を落とすのは面倒だった。
鞄を持ち、控え室を出ようとしたときに、奥の部屋から一人の店子とはち合わせた。それは、先ほどショーでくるみが目で追っていた、あの彼だった。
彼は、すでにドレスを脱ぎ、化粧も落として私服に着替えていた。どうやら帰るところのようだ。こうして面と向かってみると、思っていた通り随分と若いのがよくわかった。
「お疲れさまです」と、男の子が軽く会釈をした。さっさと部屋を出ようとする男の子を、くるみは「あの」と呼び止めた。
「何ですか?」
男の子が振り返り、くるみを見つめる。大きな瞳が揺れる様子は、思わず見とれてしまいそうなほどに綺麗だと思った。
「さっきのショー……すごく綺麗でした」
自分から呼び止めて、誰かに話し掛けたのは久しぶりだった。声が少し上ずったように思い、慌てて顔を伏せた。何故か、どうしても云いたくなったのだ。だが、男の子は怪訝な顔一つせず、笑顔で「ありがとうございます」と答えた。
「あの、帰るんですか?」
「はい、僕は十八なので、遅くならない方がいいってママの厚意で先に上がらせてもらうんです」
今どきの若い男にしては、穏やかなおっとりとした話し方だった。くるみは、予想通りとは云えど、十代という若さに驚いていた。
「えっと……あなた」
「カオルです」
「あ、カオルさん……ご両親とか知っているんですか?」
くるみの質問に、カオルが一瞬戸惑ったように視線を浮かせた。
「あ、すみません……変なこと聞いちゃって」
「いえ」
カオルは笑顔を浮かべて首を振った。
「知りません。両親には居酒屋のバイトだって云ってます」
「そ、そうですか」
「くるみさん、料理うまいらしいですね。お客さん、今日のご飯はいつもよりおいしいって云ってました」
カオルはやさしい笑みを浮かべたまま云う。くるみは何か言葉を返したかったが、褒められなれていないので何と云って良いかわからず、黙ったまま俯いてしまった。
「また、料理教えてください。お先に失礼します」
カオルは黙り込んだくるみに嫌な顔一つせず、穏やかな口調でそう云うと、会釈をして控え室を出て行った。
———どうして、ありがとうの一言も云えないんだろう。
くるみは、自分の不器用さを悔やむように額を押さえた。だが、黙って俯いたにも関わらず、陰口の一言も叩かれなかったことに少し嬉しさを感じていた。
「……あの、すみません、二日も厄介になってしまって」
くるみが、申し訳ないように視線を逸らして云った。
「全然いいよ、むしろあれだけ警戒してたのに不思議だよな……まぁ、ゲイってのが利いてるんだと思うけど」
「べつに、そういうわけじゃ……」
「そういうわけでしょ?思ってること素直に云ったらいいじゃん」
「……すみません」
くるみは、再び樹のアパートにいた。本来ならホテルでも探して出て行くべきなのだが、今日は突如仕事が決まったせいで準備をする時間がなかった。時間も時間だったから、結局樹の部屋に厄介になることになったのだった。
時計は既に午前二時を過ぎている。くるみは、目元を押さえた。コンタクトレンズが乾いて、目が痛む。コンタクトレンズを外せばいいのだが、眼鏡がないため外してしまうとまったく見えなくなる。寝る前までは何とか我慢しようと目をしょぼしょぼさせていると、ぽんと目の前に何かが投げられた。
「これ……」
くるみがそれを手に取り、樹を見上げた。
「眼鏡、ないと不便なんだろ。壊したの俺だし、弁償するよ」
包みを開けると眼鏡ケースが入っていて、中には赤い縁の眼鏡が入っていた。くるみはコンタクトレンズを外し、それを掛けてみる。度数はぴったりだった。
「……どうして度数?」
「コンタクト買ったときに、その数字見てたから、その通りに作ってもらった」
「でも、コンタクト買ってもらったし、眼鏡は自分で……」
「コンタクトは俺のプレゼント。気にしないで」
でも、とくるみは躊躇うように云った。樹は冷蔵庫からペットボトルを取り出して、蓋を開けながら云った。
「男からのプレゼントは素直に受け取っとけばいいの。頑固なのは可愛くないよ」
「……べつに可愛さとか」
「こういうときは何て云うか知ってる?」
「え?」
くるみは、樹の目を見た。樹がコップに水を注いで、くるみに差し出した。
「ありがとうって云うの」
樹が笑う。くるみも、その顔につられて頬を緩ませた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
くるみは、持っていたファンデーションのコンパクトを開き、鏡で眼鏡を掛けた自分の顔を映した。以前付けていた眼鏡と違って、お洒落な感じで垢抜けている。鏡に向かって、軽く笑みを作ってみた。
そのとき、鞄の中で携帯電話が振動するのに気付いた。そう云えば、今日一日携帯電話を一切見ていなかった。だが、メールや電話をする友人もいないので、普段も殆ど使うことがないから特に慌てることもない。携帯電話を開くと、着信で、相手は母親だった。
「……もしもし」
くるみが着信に出ると、電話口の向こうからすごい剣幕で怒号が飛んで来た。
「くるみ!アンタ何回電話したと思ってんの!いきなり家飛び出したかと思えば、帰ってこないし、会社にまで電話しちゃったわよ!」
「え、会社に電話したの?」
くるみの声が引きつる。会社に、有休消化の理由を母親の看病と云っていたのだ。これほどまずい事態はなかった。
「したわよー。だって、アンタ連絡の一つも入れないんだもの。そうしたら有給取ってるって云うじゃない。もう、死んじゃったかと思ったじゃない」
母親の声は、本当に心配していた声だった。くるみは、「ごめんなさい」と、躊躇いがちな声で謝った。
「で、どこにいるのよ」
「え……」
さすがに、本当のことを云うのは躊躇われる。見ず知らずの男の家に転がりこみ、そのくせニューハーフバーで仕事を始めたなんて云えば、卒倒するに違いなかった。そのとき、背後で声がした。
「くるみちゃーん、パジャマTシャツとスウェットでいい?」
台所の方にいた樹は、くるみが電話していることに気付いていないようだった。母親の慌てた声が聞こえてくる。
「ちょっと、アンタ男の声がしたけど!」
「くるみちゃーん、聞いてるー?」
くるみは電話の通話口を手で押さえ、引き戸を開けて樹に「しーっ!」と静かにしてくれるように合図した。気付いた樹が、軽い調子で「悪い」とジェスチャーで返すと、そのまま浴室に消えていった。
「もしもし?」
「ちょっと、アンタいつの間に男なんていたの?やだぁ、そういうことなら云ってくれたらいいのに」
母親の声色は、どこか嬉々として楽しそうだ。だが———慌てて弁解するようにくるみが云った。
「いや、これは事情があって、彼氏とかそういうのじゃ……」
「安心したわぁ、アンタ二十九にもなって男の影一つないんだもの。処女なんじゃないかって心配してたのよ」
母親の言葉に、くるみは思わず咳き込んだ。このクソ母親———そう悪態をついたが、母親には聞こえていなかったみたいだった。
「また連絡なさいよ。あと、彼氏さんにもよろしくね」と、らんらんとした口調で云うと、電話は切れた。
一方的に切れてしまった電話を見つめて、くるみは大きく溜め息を付いた。その男というのがゲイだと知れば、母親はひどく落胆するだろう。後ろめたさを感じるものの、母親の卒倒する顔を想像すると楽しい気もして、くるみは思わず一人で笑った。
樹が風呂から上がり、「どうぞ」と促されてくるみも浴室に入った。きちんとパジャマ代わりの服が用意されている。
なんだか、初めてなことだらけだな———くるみは、熱いシャワーを頭からかぶりながら、ふと思った。
誰かの家に泊めてもらったことも、こんな風に人の服を借りたことも、これまでの人生で一度もなかった。誰かが、「長く生きると、初めてがなくなっていくから慣れるばかりで楽しさが減っていく」とテレビで云っていたが、考えてみれば私は初めてがとても多く残っているような気がする。
風呂から出ると、ドライヤーが見当たらなかった。昼に風呂を借りたときにはあったから、おそらく樹が持って行ったのだろう。くるみは引き戸を開け、机の前に座っている樹に声を掛けた。
「樹さん、ドライヤー借りたいんですけど」
すると、樹が振り返りすごい形相で「しーっ!」と人差し指を立てた。よく見ると、電話中だった。くるみはすぐに口を噤み、ごめんなさいと声にならない声で呟くように云った。
「いや、これは違うんだよ。彼女とかじゃないよ」
樹は誰かと電話をしている最中だった。先ほどの自分のときと、同じことをやってしまったわけだ。これがいわゆる彼氏からの電話であったら、それはとんでもない誤解になると、くるみは申し訳なさで台所の隅っこに座り込んだ。
電話を終えた樹が引き戸を開け、「ごめんごめん」と、いつもの明るい口調で云い、ドライヤーを差し出した。
「あの、すみません……その彼氏、さんですか?」
おどおどとしてくるみが云った。
「いや、母親」
あっけらかんとして樹が云う。母親、という言葉に、くるみはほっと胸を撫で下ろした。
「くるみちゃんの声でさぁ、おふくろすげぇ舞い上がっちまったよ。彼女ができたのかって」
まさに、先ほどの自分と同じ事態である。くるみは、苦笑するしかなかった。樹が、話を続ける。
「良い歳なんだから、早く良い相手見つけろってうるさくてさ。いつも誤摩化すんだけどね」
思わず樹を見やる。樹は両親に自身が同性愛好者であることを話していないのか———それはそうかもしれないと考える。同性愛者に対して閉鎖的な日本社会において、子どもが同性愛者であることを受け入れ、認めてくれるような親は、ほとんどいないはずなのだから。
「結婚なんて一生縁ないだろうから、これから先が思いやられるよ」
そう面倒くさそうに云う樹は、どこか寂しそうだった。確かに、同性愛好者だと告白することは、容易なことではないはずだった。ふと、さっきまで自分がいたCANDY HEARTのことを思い出す。あそこには、たくさんのゲイたちが集まっていた。彼らもまたみな、自身の嗜好をひた隠しにして生きている人たちばかりなのだろう。カオルが居酒屋で働いていると嘘をついていると云ったように。
「でもおふくろ、すげぇ喜んでたなぁ。くるみちゃんの声に」
樹は笑ってそう云うと、もう寝よっかとベッドの下に敷いた布団に寝転がった。
「くるみちゃん、ベッド使っていいから」
「あの……」
ベッドルームに入り、くるみはいつきの前に立った。
「何?」
「私、彼女の振り、しましょうか?」
「は?」
「色々お世話になってるし……その、一度くらい彼女と会っておけば、何も云わなくなるんじゃないかなって」
樹が身体を起こし、訝しげにくるみを見上げた。
「本気?」
「……その、なんとなくわかるから。私も、ずっと男の一人もいないのかとか、暗いとか、気にしてること云われ続けて、気が滅入ってたって云うか。親が心配する気持ちも……その、わかるから、不安な顔させてるのも嫌って云うか……だから、その、少しでも安心させられるなら……手伝えるなら……」
自分でも、何を云っているのかがわからなくなっていた。うまく気持ちを伝えられない。ああでもない、こうでもないと、言葉を探すが良い言葉が浮かんでこない。その様子を見てとった樹は、目を細めた。
「ありがとう、じゃぁ頼んじゃおっかな」
「えっ?」
くるみは驚いたように、目を丸くして樹を見た。
「何その反応、手伝うって云ったのそっちじゃん」
「いや、云いましたけど……うん、云いました」
———彼氏もいた経験もないくせに、何て余計なことを云ったんだ。くるみは、自分の云ったことの重大さに、今さらながら気付き、後悔した。
「また、日にち云うし」
にやにやと、意地悪な笑みを浮かべて樹は云うと、電気を消した。くるみは、髪を乾かすために、台所の方に出た。
男の人の、母親に会うのか———くるみは髪を乾かしながら、何度も溜め息を付いた。
翌日、まだ寝ている樹を起こさぬよう、くるみは不動産屋へ出掛けた。さすがにいつまでも樹の家にお世話になるわけにはいかない。
不動産屋へ行き、長期滞在でないことを伝えると、マンスリーマンションを勧められた。月単位で滞在するような人に向けて、一週間や一ヶ月単位で部屋を借りられるようなマンションは、近年東京にも増えている。基本的な家具も備え付けてあると云うのに、くるみは勧められるままにマンスリーで契約をした。
不動産屋に入るのも、一人で暮らすのも、初めての経験である。マンスリーマンションの契約は、思っていたよりすんなり進んだ。身分証明証の確認はあるが、普通に部屋を借りるよりは簡易な手続きらしい。保証人のサインが必要ではあったが、それは後日持ってくるという話で収まった。適当に、母親の名前でも書いておけばいいだろう。家賃はそれなりの値段であったが、これまで何の娯楽もなく、貯金するだけだった給料がそれなりの額で溜まっている。問題はなかった。
CANDY HEARTと、樹の家からもさほど遠くない距離のマンションに決め、荷物を取るべく樹のアパートへ戻った。時刻は正午を回っていたが、樹はまだ眠っている。くるみは、帰り道にスーパーで買って来た食材と調味料を取り出し、樹を起こさぬよう、調理に取り掛かった。
三十分ほどして、引き戸が開いた。寝ぼけ眼の樹が、目をこすりながらくるみを見た。
「くるみちゃん、朝早いねー。どっか行ってなかった?」
「……不動産屋に行ってたんです」
「不動産?」
「いつまでも……お世話になれないので」
「そんなのべつにいいのに」
樹が大きな欠伸をしながら云う。ふと気付いたように、くるみの手元を覗き込んだ。
「何、何か作ってくれてんの?」
「お礼……これくらいしかできないから」
目の前に置いた鍋には、味噌汁が湯気をたたえている。中の具は菠薐草と油揚げだ。味噌汁の他に、牛肉のしぐれ煮と、筑前煮を作った。樹は料理をまったくしないようだから、日持ちがするものを選び、少し多めに作っておいた。樹は顔を輝かせ、「すげぇ」としぐれ煮を一口指でつまんで口に入れた。
「うめぇ!やっぱくるみちゃん、料理うまいんだな。俺の目い狂いはなかったな」
「もうすぐご飯炊けますから」
「急いで顔洗ってこよっと」
樹はそう云って、洗面所へ入って行った。その樹の嬉々とした様子に、くるみも笑みを噛み締めた。
結局、保存できるようにと多めに作ったにも関わらず、樹は全部平らげてしまった。若い男に料理など作ったことがなかったものだから、こんなにもよく食べるのだということをくるみは初めて知った。同時に、誰かのためにご飯を作ることがこんなにも楽しいことなのだということも改めて気付いた。
樹は、最寄りの駅までくるみを送ってくれた。別れ際に樹は携帯電話を取り出し、云った。
「連絡先、聞いてなかったよね。赤外線、ある?」
「赤外線?」
くるみが、首を傾げて聞いた。
「赤外線、知らないの?自分のアドレスとか送れるやつ」
くるみは、居心地悪くなっていくのを感じた。連絡先を交換したことなど、一度もない。仕事で必要な連絡先は、すべて名刺を見て手打ちで入れていたのだ。
「携帯、貸して」
樹に携帯電話を渡すと、自分の持っている機種と違うにも関わらず、樹は器用に操作して、自分の連絡先をくるみの携帯電話に送った。
「メール、送っておいて」と、携帯電話をくるみに返すと、踵を返して元来た道を戻って行った。
携帯電話を開き、アドレス帳を確認する。志田樹という名前が増えている。
———初めて、友達ができた。くるみは、嬉しくなって、電車に乗ってもずっとアドレス帳を見ていた。
CANDY HEARTで働き始めて、一週間が経った。
人間には適応という素晴らしい能力が備わっていることを改めて実感する。最初は違和感ばかりを感じていた空間にも、すっかり慣れてしまった。相変わらずくるみはホールに背を向けて、淡々と調理をするだけだったが、コンロが直り、作れる品数も増えてより楽しさを感じていた。
「くるみ、本日のやっこ、また追加よぉ」
三十五歳のニューハーフ・ミヅキがくるみに声を掛けた。
「あ、はい、わかりました」
「これ、すごく評判いいわね。昨日のも良かったけど、あたし、今日の方が好きだわ」
ミヅキが、愛嬌のある笑みを浮かべて云った。ミヅキは、切れ長の目で面長の輪郭のせいか、少し男っぽさが拭えないところがあったが、綺麗に化粧を施した顔は美人と云って過言はない。その佇まいはくるみよりもずっと女性らしかった。どこか、肝っ玉姉さんという感じで世話焼きなのに、くるみも好意を抱いていた。くるみは、ミヅキの言葉に、少し間を置いてから俯きがちに「ありがとう」と呟くように云った。
ミヅキがホールに戻っていくのを見送って、くるみはやっこ作りに取り掛かった。もともと、お通しのつもりで温やっこに甘長唐辛子を細かく切って甘辛く味付けたものを乗せて出してみたのだが、これがとても評判が良かったため、ママが日替わりで味の違うやっこを出したらどうかと提案したのだ。新メニューとして「本日のやっこ」が打ち出され、今日はカリカリに焼いたじゃこをやっこに乗せ、酒とみりんで味付けした和風だしを掛けた温やっこを用意していた。これが、とても評判が良かった。
綺麗に皿に盛りつけし、カウンターに置く。ボーイがやってきて、それをミヅキのテーブルへ運んで行った。
これで今のところ全部出たかな———注文された料理がすべて出たことを確認して、くるみはシンクに向かった。料理の注文が増えたのはいいけど、洗い物が大変なのよね———そんなことをママが漏らしたのが思い出されるほどに、シンクは戻ってきた皿でいっぱいになっていた。小さく溜め息を付きながらもスポンジを手に取る。不意に後ろから「ちょっと君」と声が聞こえた。
振り返ると、スーツを着た中年の男が立っていた。くるみは、猫に睨まれた鼠のように、肩を強ばらせた。
「なんだ、他の子に比べて地味だが美人じゃないか。どうしてホールに出ない?」
突然話し掛けられたことに戸惑い、くるみは言葉を返せず黙って男を見た。
「なぁ、この後、二万でどうだ?ん?」
二万、という言葉にくるみは眉をしかめずにはいられなかった。さすがのくるみでも、その意味するところはわかる。
「……それは……」
くるみが返答に困っていると、男は目を見開き驚いたように声をあげた。
「なんだ、アンタ本物の女か?」
くるみは、思わず口元を押さえた。ママは、「ニューハーフに見間違えるか」と云っていたのだ。女とバレるのは良いことでないのは確かだった。男は、つまらなさそうに嫌な表情を浮かべ、「何で女がいんだよ」と吐き捨てるように云った。
「それは……」
どうしたらいいのかと狼狽していると、背後から声がした。
「その子はあたしの姪だよ」
顔を上げると、ママが立っていた。腕を組み、男を見下ろしている。男が、いやらしい笑みを浮かべて、バツが悪そうに身体を引いた。
「調理の子が辞めちまったもんでね、臨時で雇ったんだ」
「……なんだ、そうだったの?てっきり、研修かなんかの子かと思ったよ」
「アンタ、うちは売りはやってないんだよ。変なちょっかい掛けるんじゃないよ」
売りとは、さっきの二万のことに違いなかった。男は顔を引きつらせ、「悪かったよ」と一言謝ると、慌てた様子でそそくさと逃げるようにテーブルに戻った。
ママがじろりとくるみを見る。濃いアイシャドウの塗られ、ラインできりりと鋭く釣り上がった目に、くるみは怖じ気づくように身体を強ばらせた。
「さすがにちょっかいを掛ける輩もいるからね、アンタはこれから姪ってことにしといておくれ」
「……すみません」
「謝るところじゃないよ。話さなけりゃ、逆に怪しいからね。何でもかんでも謝るもんじゃない。アンタはすぐに謝りたがる」
ママが云うと、くるみはつい、「すみません」とまた謝ってしまい、それを見てママがくるみを睨む。くるみは、居心地悪さに、身体をすくめるしかなかった。
「今日のやっこ、評判いいみたいね」
ぶっきらぼうにママが云う。くるみは顔を背けたくなったが、また怒られるのが怖くてじっとママの目を見た。
「あ、はい」
「ホント、アンタ愛想ないわねぇ。ちょっとは笑いなさいよ」
そう云うと、ママがくるみの口の端を両手で掴み、無理矢理横に広げた。
「い、いたひ」
「不自然なだけね」
くるみはその手を振り払った。余計なお世話だ———心の中で唾棄したが、さすがに口にする勇気はなかった。
「客に話し掛けられたときくらいは、無理矢理でも笑顔作るんだよ。客商売だからね、こっちは」
「……すみません」
そう口にして、すぐに口元を押さえた。ママが呆れたようにくるみを見下ろした。
「ホントどうしようもないねぇ。ま、料理の評判はいいけどね。最近、フードの注文率が上がって助かるよ。なんか必要な食材があったら前もって云ってくれたら用意しとくよ」
ママの言葉に、くるみは顔を上げ、ぱっと瞳を輝かせた。これまでは、用意された食材を見て、それを使ってできる献立を考えていた。自分で食材を頼めるなら、もう少しレパートリーも増やすことができる。そんなくるみの顔を見て、ママが云った。
「料理のこととなると、多少はマシな顔をするんだねぇ。それをもっとうまく、普段にも活かしてくれりゃぁいいのに」
「……あ、はい」
「アンタ、今日はもう上がっていいよ。どうせやっこももうないんだろ?あとは適当にやっとくから」
ママにそう云われ、くるみは躊躇いがちに入り口の方を見た。ボーイが立っているだけで、特に変化はない。その様子を見て取ったように、ママが腕を組んで唇を舐めた。
「今日も来ないねぇ。連絡、取ってないのかい?」
それが、樹のことを云っているのだとすぐにわかる。くるみは、伏せ目がちに小さく頷いた。
駅まで見送ってもらった日に一度メールを送って以来、樹とは連絡を取っていなかった。CANDY HEARTにも顔を出していない。
べつに、さほどおかしいことではないのはわかっている。樹は彼氏でも何でもなく、知り合って数日しかたたない人間なのだ。それでも、十二時を過ぎる頃になると、どうしても入り口の方を見てしまう。
「やめときな」
くるみの様子を察したママが、ぶっきらぼうに云った。
「あの子は女にゃ興味ないんだから、下手な期待なんか持つもんじゃないよ」
「……べつにそんな意味じゃ」
「じゃぁ何だってんだい。それだけ入り口気にしといてよく云うよ」
ママは煙草を取り出し、火を付けた。何か云い返したかったが、言葉が出てこない。くるみは黙って顔を伏せた。
「面倒くさい女だねぇ」
ママは吐き捨てるように云うと、半分ほどになった煙草を近くにあった灰皿に押しつけ、踵を返した。
期待……私は期待をしているのだろうか。くるみは、よくわからない感情に、戸惑うように頭をもたげた。せっかくできた友人から連絡がないことを気にすることは、おかしいことではないはずだ。これまで誰かを待つような経験はなかったので、そのあたりの感情の戸惑いや迷いがよくわからない。
くるみは、控え室に戻り、更衣室で身に纏っていた青のノースリーブのワンピースを脱いだ。必ず、この店にあるドレスを身につけなくてはいけないという命令のため、毎日何かしらのドレスを選ばなくてはならないのだが、くるみはなるべくシンプルな作りのものを選ぶようにしていた。とは云っても、普通に外で着ることができるようなものはないのだが。
服を着替えて更衣室を出ると、丁度カオルも上がりのようで、控え室に入ってきたところだった。くるみとは対照的な可愛らしいピンクのミニ丈のドレスを身に纏っている。くるみは、カオルに話し掛けた。
「お疲れさまです」
くるみに気付き、カオルがにっこりと笑顔を作った。
「お疲れさまです、くるみさん」
その穏やかな笑みに、ふっと心が穏やかになる。カオルがくるみに近づいて来て云った。
「今日はもう上がりですか?」
「えぇ」
「今日のおじゃこのやっこ、とても評判良かったですね。僕もお客さんにいただいて食べましたが、すごくおいしかったです」
カオルにそう褒められ、くるみは照れるように含み笑いをした。そのとき、お腹が鳴る音がした。カオルからである。
カオルは驚いたように「あ」と声を上げたが、すぐに恥ずかしそうに笑った。くるみも、それを見てつられて笑った。
「よかったら……何か作りましょうか?」
「いや、でも」
「もうあんまり材料がないんですけど、簡単なものなら作れます」
カオルは少し躊躇っていたようだが、「お願いします」と小さく笑った。ママからは、店子の賄いは頼まれたら作ってあげてくれと云われている。くるみは、「ちょっと待っててね」と、控え室を出た。
ママの許可を取って、私服のまま冷蔵庫を開けた。梅干しを取り出し、調理台にラップを掛けて置いてあったやっこに使って余っていたじゃこを出す。フライパンに火を掛けて、炊飯器から白米を茶碗一杯半ほど取って、よく炒めた。
じゃこと梅であれば、味付けは醤油と和風だしがいい。ちゃんとぱらぱらになるように強火で一気に炒めるのがポイントだ。出来上がった炒飯に香り付けに細かく刻んだシソとお通しに使ったみょうがを乗せれば、香ばしい和の炒飯の完成だ。
茶碗に味噌と鰹節、乾燥若布を入れ、お湯を注いで即席の味噌汁を作ると、それらをお盆に乗せ、控え室へ戻った。
すっかり着替えも終え、化粧も落としたカオルが、テーブルに座っている。くるみは、カオルの前に用意した食事を置いた。
「いただきます」と、ちゃんと手を合わせてカオルは云うと、スプーンを手に取った。
「すっごくおいしい」と、満面の笑みを浮かべて云うカオルに、くるみも思わず笑顔が零れた。きちんとした家庭で育てられたんだろうなと、本当においしそうに食べるカオルを見てくるみは思った。
ふと、樹のことを思い出す。樹も、本当においしそうに作ったものを食べてくれた。
———仕事が忙しいのかな……
ぼーっとそんなことを考えていると、覗き込むようにしてカオルが聞いた。
「くるみさん、どうしたの?」
「え?」
心配そうにカオルが大きな瞳を瞬かせている。
「何か、悩み事でもあるみたい」
「……そんな」
「樹さんのことでしょ」
悪戯っぽくカオルが云った。くるみは、不意打ちに慌てたように視線を泳がせた。
「くるみさん、すごくわかりやすい。今日も、ずっと入り口気にしてましたよね」
「……そんなこと」
「みんな知ってますよ」
そう云われて、くるみは恥ずかしさに顔を伏せた。ここの店子たちは、くるみに対して寛容的であるのは確かだったが、そこまで話をするわけでもない。自分がそんな話題に上っていることに、緊張を覚えた。
「可愛いって、云ってます」
「可愛い?」
思わず顔を上げる。カオルが笑って頷いた。
「恋する少女みたいって」
「べつに……恋とかそういうのんじゃ」
一瞬、噂話に上るというのだから、あまり良い云われようではないと、これまでの経験から思っていた。くるみは、突然の言葉に、動揺を隠せなかった。
「会いに行ったらいいじゃないですか」
「……え?」
「会いたければ会いにいけばいい。待ってるばかりじゃ、何も始まらないですよ」
「……でも、べつにそういうのんじゃ」
「友達だって、会いたければ会いにいくでしょう?」
そう云われて、くるみは唇をぎゅっとつむんだ。そうだ、樹は友達なのだから、そんなに遠慮することもないのかもしれない。
考えるように、くるみは俯いたまま腕を組んだ。カオルの表情が鈍く翳ったことには、気がつかなかった。
店を出て、くるみは駅の方へ向かう。さすがにもう終電はないので、帰りはタクシーを使わざるを得ない。距離的にはワンメーターだし、交通費も支給されるということだから、それも問題ではない。
大通りに出て、くるみはタクシーを停めた。乗り込み、自宅の最寄りを伝えた。
だが、カオルの言葉が思い出される。
「会いたければ会いにいけばいい」
どうして、こんなにも躊躇いがあるのだろう。こういうとき、普通、人々はどうするのだろう。
くるみは少し悩んだ挙げ句、運転手に行き先の変更を申し出た。樹の家の最寄り駅を告げる。運転手は面倒くさそうな返事を返し、車をUターンさせた。
何と云って訪ねたらいいのだろう。会いたくなって、とか云ったら、恋人に会いにいくような感じになってしまう。くるみは、タクシーの中で良い云い訳をずっと模索していた。
駅に付き、樹のアパートの方へと歩き始めた。
「ちょっと、飲みたくなったから来てみちゃった……って、なんかわざとらしいかな。少し飲みたい気分だったから一緒にどうかなと思って……どうして一緒にって聞かれたらどうしたらいいんだろう?」
何度も口にしながら反芻してみる。そのうち、目の前にアパートが現われた。立ち止まり、息を飲んだ。
樹の部屋を見上げると、電気が付いている。樹は帰っているようだ。駅前のコンビニで買った缶ビール数本を確かめ、「よし」と、気合いを入れた。
いざ、とアパートの階段の方へと歩き出そうとしたときに、ふと樹の部屋の扉が開いた。
だが、出て来たのは樹ではなかった。
髪をスポーツ刈りにしたガタイの良い男の姿が見える。中に向かって何かを話している。ふと、見覚えのある顔が見えた。樹だ。上半身は裸で、先日と同じように下にスウェットを履いている。
「ガチ、……ムチ?」
くるみは、黙ってその様子を見ていた。すると、信じられない光景が目の前に飛び込んできた。突然男が樹を引き寄せたかと思うと、口づけしたのだ。
「あのね、俺女に興味ないの」
「ゲイってこと」
樹が何気なく云った言葉が、頭の中で反芻される。知っていたことだ。そんなことは、わかっていたことだ。でも、どうしてこんなに動揺するのだろう。心臓の鼓動が、早くなるのだろう———
突然の出来事に、くるみは思わず持っていた缶ビールを落としてしまった。
閑静な住宅街に、鈍い音が響いた。その音に気がついたように、二人がこちらを向く。
樹の目が、くるみの姿を捉えていた。一秒かもしれないし、何分も経ったような気もする。くるみは落ちた缶ビールを拾うのも忘れて、踵を返し、元来た道を駆け出していた。
———私、何してるんだろう……
くるみは、無我夢中で振り返らず、ただ一心に駅に向かって走り続けた。
———頭痛い……
重たい身体を引きずるように、くるみは上半身を起こした。ひどい頭痛に思わず頭を抱える。ベッドの脇に置いた時計はもう昼の十二時を過ぎていた。
バッファリンどこだっけ———ベッドを降りて、這うように台所へ向かった。フローリングの床には、昨夜飲み干したビールの空き缶が数本転がっている。それを見て、昨夜の出来事が蘇ってくる。
樹の家へ向かったのはいいが、そこでおそらく彼氏だろうと思われる男とキスしているところを見てしまった。樹と目が合い、慌てて逃げてきた。
何をそんなに慌てる必要があったのだろう———くるみは、痛む頭を抱えるようにして自問した。
樹はただの友人に過ぎない。それなのに、何故か落ち込み、自暴自棄になっている自分がいる。
自己嫌悪がふつふつと蘇り、思わず叫びだしたい衝動に駆られる。どうして、家なんかに行ってしまったのだろうか。樹がゲイだということも知っているのだから、彼氏が来ていることだって十分予測ができたことなのに。空き缶を手に取り、思い切り壁に投げる。だが、すぐに壁に傷が付かなかったかと心配になり、壁に駆け寄った。
何かにこの怒りや情けなさを思い切り当たりたいのに、それさえうまくできない。傷がついていなかった壁に触れて、くるみはどうしようもない自分に、また自己嫌悪した。
そのとき、机の上に置いた携帯電話が鳴った。くるみは、くしゃくしゃになった髪を掻き上げ、それを取ろうと身体を引きずりながら机に向かったが、直前で着信は鳴り止んでしまった。
———お母さんかな。
手に取り、着信履歴を確認してみると、樹からだった。それも一度でなく、何度も掛けてきていたようである。昨夜の後ろめたさから、少し悩んだが、くるみは電話を掛け直した。
樹はすぐに着信に出た。
「……もしもし」
「あ、くるみちゃん?」
くるみの予想に反して、樹の声はいつもの軽い調子だった。くるみは何を切り出していいかわからず、黙り込んだ。樹はそんなことを気にも留めていないように云った。
「昨日、俺のチューシーン、盗み見したでしょ」
まるで何でもないように、単刀直入な物云いだった。「えっ」と、狼狽するようにくるみが小さく唇を開いた。
「逃げるなんてひどいじゃん。あ、ビールありがとうね。でも、落としたせいか、開けたときすげぇ吹きこぼれたじゃん。嫌がらせかと思ったよ」
樹が電話の向こうで笑うのがわかった。樹のあまりの普通の調子に、くるみは自分がこれほどにまで悩んでいたのが馬鹿らしく思えてきた。
「まぁ、驚くよね、普通」
「……彼氏?」
くるみが、小さく呟くように聞いた。
「うん、まぁそんなとこかな。一郎ちゃん……って彼の名前だけど、一郎ちゃんも驚いてたよ。人目につくところでチューなんてするもんじゃないね。どこのにゃんこちゃんが見てるかわかんないし」
悪戯っぽく樹が云った。一郎ちゃん———くるみはその名前を復唱した。心が針で刺されたように小さな痛みを感じた。
「そうだ、くるみちゃんいつお店休み?」
突然そう聞かれ、くるみは誰もいない部屋で一人慌てるように「へっ」と引きつった声をあげた。
「くるみちゃん、この前彼女の振りしてくれるって云ったじゃん。あれ、いつがいいかなって」
そう云えば、前に樹の部屋にお世話になったときに、そんな約束をした気がする。我ながら、どうしてあんなことを云ったのか、今さらながらに後悔した。
「くるみちゃんの休みの日の方がいいかなって。ちょっと遠いんだよね、長野だし」
「長野?」
「そう、長野。俺、長野出身なんだよ。車で五時間くらい」
樹が長野出身だということを、初めて知った。くるみは、よく考えてみれば、樹のことを何も知らないなと思った。
「で、いつ休み?」
くるみはスケジュール帳を鞄から出し、シフトを確認した。
「今週は、日曜日、あとは……来週水曜日です」
「じゃぁ、日曜にしよう。朝八時くらいに、くるみちゃんの家に車で迎えに行くのでいい?」
「え……」
トントン拍子に話が進んで行くことに、くるみは戸惑うように視線を泳がせた。
「どうせ、約束してる友達なんかいないんでしょ」
「……大きなお世話です」
「じゃぁ、おふくろにもそう伝えとくから、よろしくね」
樹はそう云うと、一方的に電話を切った。切れてしまった電話を見つめて、くるみは「日曜日……」と小さく呟いた。今日は木曜日なのだから、もうあと三日しかない。
振りであるとは云え、誰かの、それも男の親に会ったことなんて一度もないし、一体どうすればいいのだろう。
くるみは、頭痛も忘れて再び頭を抱えた。
「何読んでるの?」
控え室の机に向かって本を広げているくるみを囲むように、出勤してきた店子たちが近づいてきた。
「……え」
「なになに?」と、ミヅキがくるみの手から本を取り上げた。
「あ、ちょっと!」
「何これ、『彼のお母さんに好かれる方法』?」
一同の視線がくるみに注がれる。くるみは慌てて机の隅に重ねた数冊の本を隠そうとしたが、すかさずそれを他の店子たちが手に取った。
「『好感度アップの鉄則』?」
「『これであなたも会話上手』?」
訝しげな目で、一同がくるみを見る。恥ずかしさのあまり、くるみは肩をすくめた。
「くるみ、彼の親に挨拶に行くの?」
背が高く、すっきりとした和美人のリオンが、驚いたような仕草をして声を上げた。
「……いや、そういうわけじゃ」
「でも、これってそういう本でしょ?くるみ、彼氏いたんだぁ」と、ミヅキがペラペラと本をめくった。
「あたし、こういう本無意味。ニューハーフって時点でアウト」
まだ若い細身のニューハーフ・エミリがおどけるように云うと、一同に笑い声が起こった。笑っていいのかわからず、くるみは曖昧に表情を濁した。
「で、どういう男なの?」
エミリが覗き込むように聞く。くるみは、否定するように慌てて手を振った。
「あの、ホントにそんなんじゃなくて……」
「もう、はっきり云いなさいよ」
ミヅキに促され、くるみは渋々白状した。
「樹さんの……」
「樹ちゃん!?」
途端にどよめきが起こる。それはそうだ、事情を知っている人間ばかりである。くるみは事の経緯をたどたどしく説明した。日曜日に樹の実家へ行くことになっている、というところまで説明すると、リオンが納得するように腕を組んで頷いた。
「なぁんか、わかるなぁ、樹ちゃんの気持ちも」
「え?」
他の店子たちも、同様に頷いた。
「あたしももう三十過ぎてるでしょう?何も知らない親がね、結婚は、孫かってよく電話してくるの。まさか、付き合ってるのが男だなんて知ったら、きっと卒倒しちゃう」
「そうよねぇ。後ろめたい気持ちがどうしても残っちゃう。でも、本当のことは云えないし」
「嘘でも、なんかちょっと安心させてあげたいって気持ち、ちょっとわかるよね。でも、わざわざ女の子に自分はニューハーフで結婚とかする気ないけど、安心させたいから振りだけしてほしいなんて云えないしねぇ」
くるみは、何と言葉を返していいのかわからなかった。彼らの気持ちを、同じように共有することはできない。黙って店子たちの会話を聞いていると、ミヅキが突然くるみの顎を掴み、引き上げた。
「でも、こんなん連れて行って、どうなのかしら?」
「え?」
くるみが思わず眉をしかめる。だが、店子たちはミヅキの言葉に納得するように、「そうよねぇ」と次々に頷いた。
「ダサイのよね。その服とか」
くるみは、自分の服装を見る。グレーの七分袖のカットソーに、ベージュのロングスカート、ベージュの紐付きの靴という格好である。店子たちも同じようにくるみの全身を見回し、呆れるように云った。
「今どき、そんなやぼったいロングスカートってどうなの?」
「それに、髪も後ろでひっつめ、飾りの一つもない」
「てか、その鞄何?よれよれだし、擦れてるじゃない」
次から次にダメ出しをくらい、くるみは身をすくめるしかなかった。通勤以外に私服を着ることなどなかったものだから、格好に気を配ったことはない。
「ちょっと、挨拶にそんな格好で行くつもり?」
「ダメ……ですか?」
怯えるようにくるみが云うと、「喜ぶものも喜べないわ」と、呆れるようにリオンが天を仰いだ。
「……すみません」
「わかった、買い物付き合ったげる」
リオンが手を叩いて云った。その声に、「いいわねぇ」と、店子たちが次々に嬉々とした声を上げた。
「土曜日、どうせアンタ昼間暇でしょ?服、買いに行こう」
「へ?」
「いいわね、決まり」
そう云うと、店子たちが一気に盛り上がり、場が賑やかになった。自分の意志に関係なく、勝手に物事が進んでいってしまうことに、戸惑いを覚えずにはいられなかった。だが、と手にした本を見る。樹を失望させるようなことをするわけにはいかない。
そこへ、控え室の扉が開き、カオルが出勤してきた。カオルは細身のジーンズにロック調のイラストがプリントされた身体にフィットしたTシャツを纏い、キャップ帽を被っている。もともと中性的な顔のカオルは、うっすらと化粧が施してあり、傍から見れば十分女だった。
「どうしたんですか?楽しそうですね」
カオルが云うと、ミヅキがくるみの事情と買い物へ行くことになったという話を聞かせた。カオルはくるみを見てにっこりと笑うと、「楽しそうですね」と穏やかに云った。
「僕も行っていいですか?」
カオルが、くるみに訊ねる。断る理由だって勿論ないし、話慣れたカオルがいるのはありがたい。
「はい」とくるみが云うと、カオルは嬉しそうに笑った。
ミヅキが、土曜日の詳細を決めると、各々着替えの準備に入った。くるみも本を鞄にしまい、立ち上がった。事情はどうあれ、誰かと買い物へ出掛けるなんて初めてである。思わずほくそ笑むと、化粧をするため化粧台の方へ向かった。
そんなくるみを、カオルがじっと見つめていた。
土曜日、待ち合わせ場所の銀座・和光前に行くと、くるみは思わず身体を引きそうになった。
CANDY HEARTの店子の面々が、既に集まっている。だが、その空間だけ、随分と滑稽だと思った。店の中で綺麗なドレスを身に纏っているのは違和感がないが、さすがに公衆の場にニューハーフが勢ぞろいしている光景は、異様である。一般の女性に比べ、背が高く、身体もごつい彼らはただでさえ目を引くが、その服装がまたすごい。さすがに店の中のような派手なドレスを身につけているわけではなかったが、美しくシェイプアップした身体のラインを強調するような、華やかなワンピースを着ている。普通にOLが買い物へ出たのとは違うことが、一目でわかる。
怖じ気づいたように、くるみは視線を逸らそうとしたが、「くるみ!」と声を掛けられ、振り返らないわけにはいかなくなった。
「アンタ、遅いじゃない。ダメよ、待ち合わせの十分前にはいなくっちゃ」
周囲の視線が、くるみたちに集中する。ただでさえ目を引く身なりの集団で、そのくせ叫んだ声は男のハスキーボイスだ。時間は、待ち合わせの三分前だった。くるみは「すみません……」と小さく謝る。店子たちがそんなくるみを囲んだ。
「さ、行きましょう」
ミヅキがそう云うと、くるみはリオンに肩を押された。
———自分は、周囲に一体どのように見えているだろうか……
くるみは、周囲の視線が怖くて、俯きがちに歩いていた。あのとき、控え室で話をしていた店子すべてがいるわけではなかった。中には、自分は公衆の場には出られないと云って辞退した者もいる。やはり、あのとき自分も辞退しておけば良かったと、身をすくめる思いでくるみはそう思った。
元は男とは云え、一般大衆とは掛け離れた艶やかな面々の中に、普通の、むしろ地味な女が囲まれて歩いているのである。奇妙な光景という他に、何と云えようか。
くるみのそんな様子にお構いなしに、店子たちはブランドの話に花を咲かせている。くるみは、隣をちらりと覗き見た。ドレスアップした他の店子たちとは違い、細身のパンツにTシャツを着たシンプルな装いのカオルがいる。カオルの透き通るように白い肌が美しいと、思わずくるみは見とれた。
ミヅキが入ったのは、ビル一つが丸ごと店舗になっているインポートブティックだった。一歩中に足を踏み入れただけで、自分が場違いだと感じずにはいられなかった。明るく天井の高い店内には、くるみがこれまで縁のなかった高級なブランド服が並んでいる。地元のスーパーで買った服を身につけているくるみには、ひどく居心地が悪かった。
店員たちが、人目を引くこの集団に近づいてくる。そのうちの一人と、ミヅキは親しげに話を始めた。どうやら常連らしい。ミヅキはくるみを引っ張りだし、「この子の服を見繕ってほしいの」と女性店員に云った。
「彼の親に挨拶に行くんだけどね、この通り無様な格好でしょう?なんとかしてやってほしいのよね」
店員がくるみの全身を見回す。くるみは思わず、不安に顔をしかめた。
「わかりました、どうぞこちらへ」
そう云って、店員が奥へと歩いて行った。くるみは、渋々その後を付いていった。
その後は、くるみのファッションショーだった。店員が代わる代わる服を持って来ては、くるみは試着室に押し込まれる。出て来たくるみを見て、店子たちがあれやこれやと注文や文句を付け、また中に押し込まれる。そんなことの繰り返しだった。
結局、モスグリーンのノースリーブのAラインワンピースと、オフホワイトの七分袖の薄手のテーラード、ワンピースの色に合わせたパンプス、ベージュの革のバッグで決着が付いたのは、一時間経ってからだった。
どうせだからと店子たちに進められ、数着のカットソーやスカートも購入する羽目になり、そのうちの一着をその場で着ていくことになった。
会計の金額に正直怖じ気づいたが、今さら引き返すこともできず、カードで支払った。こんなに高い服を大量に購入したのは、初めての経験だったが、すこしすっきりと清々しい気持ちになったのも事実だった。
会計を終えると、店子たちは自分の買い物をしていた。くるみは、疲れたように店の端に置かれたソファに腰掛けた。
「疲れたでしょ」
そう声を掛けたのは、ミヅキだった。ミヅキも、いつの間にか、自分の服を購入したらしい。手に、袋を持っている。
「少し……」
「身に纏うものを探すっていうのは、それなりに労力が必要なのよ」
その通りだ。くるみは、度重なる試着に、すっかり疲弊していた。
「でもね、衣服が人を創るといっても過言じゃないのよ。適当な格好をしていれば、そういう人間になる。きちんとした装いは、その人の人間性をも美しく見せる。たかが服と思うかもしれないけれど、装いって本当に大事なのよ」
穏やかな口調で、ミヅキが云った。くるみも思わず顔を上げ、ミヅキを見た。
「私はアンタも知っての通り男だけど、綺麗な服を身につけることで、少しでも女としての自分を手に入れられていると思うの。物事を始めるときに、形から入る人っているでしょう。あれって、良いことだとあたしは思うわ。何でも、まずなりたい自分の輪郭をはっきりさせないと、それに見合った努力をすることはできない」
ミヅキの視線は、どこか遠くにあった。それは、くるみにではなく、自分に云っているような、そんな感じだった。
くるみは、今自分が纏っているものを見た。薄いブルーのキャミソールに、それと揃いの七部丈のカーディガン、それに白のAラインのスカート。
「あの……」
くるみが、躊躇いがちに聞いた。
「今でも女性になりたいですか?」
その言葉に、ミヅキは呆れたように眉をしかめた。
「アンタ、本当に馬鹿ね。当たり前でしょう?でもなけりゃ、こんな格好してないわよ」
「……すみません。でも、今のミヅキさん、すごく綺麗だし……私なんかより、ずっと」
本当はもっと、伝えたいことがある。それをうまく言葉にできない自分が、もどかしかった。ミヅキは頬を緩めると、「ありがとう」と云った。
「アンタ、この後どうする?私たちはショーのレッスンがあるから店に行くけど」
「私は……美容院に寄っていこうと思います」
くるみは、隣の全身鏡に映った自分を横目に見て、云った。
「……この格好に、この頭はちょっと不細工だから」
「アンタも、ちょっとは成長したんじゃない?女として」
ミヅキが、くるみの背中を思い切り叩いた。
やっぱり、男だ———その力の強さに、くるみは呻いた。
ふと、視界の端に映るカオルに目が止まった。カオルは、他の店子たちから離れ、店内に置かれた服の中でもカジュアルめのブランドのものを物色している。くるみは立ち上がり、カオルの方へと歩み寄った。
「良いの、ありましたか?」
突然話しかけられたことに驚いたのか、カオルが肩を強ばらせた。だが、すぐに相手がくるみだとわかり、相好を崩した。
「くるみさん」
「カオルさんは、やっぱりこういう……カジュアルな感じがいいんですね」
「はい、年齢的にも姉さんたちみたいな大人っぽいのは似合わないので」
確かに、ショートヘアでボーイッシュな雰囲気でまとめているカオルには、他の店子たちが着ているような艶やかなものよりは、カジュアルなものの方が似合うだろうとくるみは思った。
そのときだった。ふと視線を入り口の方へやったくるみは、「あ」と、小さく声を上げた。
店内に、数人の女が入ってくるのが見えた。その顔の一人に、見覚えがあった。小学校から短大まで、ずっと一緒だった、幼なじみの真壁愛里だった。幼なじみと云っても、仲が良いわけではない。愛里はくるみとは対照的に派手な性格で、いつも俯いているくるみを馬鹿にしてきた一人だった。
くるみは愛里に見つからないように、顔を隠し、棚に隠れた。そんな様子に、カオルが訝しく首を傾げ、「どうしたの?」と聞いた。
「……ちょっと」
愛里たちは、くるみに気付かず、店の奥へと入って行く。服を手に取っては身体に合わせて、きゃっきゃとはしゃいでいるのが見えた。そのとき、店の入り口の方から大きな声がした。
「くるみー、カオルー、行くわよ」
ミヅキの声だった。その声に、愛里が振り返る。そして、こそこそと笑うのが見えた。派手で身体のごつい女の集団に気付いたようだった。声から男だとわかったのだろう。店子たちの方を指差し、他の二人に何か囁いているのがわかった。
くるみは、顔を隠すように棚ずたいに入り口の方まで行こうとする。だが、何も知らないカオルがくるみの手を掴み、「こっちの方が近いよ」と、店の中央へくるみを引っ張った。
「くるみ、アンタ何してるのよぉ」
そのミヅキの言葉に、くるみは思わず「しーっ」と人差し指を立てて声を止めようとする。
「くらみ?」
その声に、くるみは心臓が止まりそうになる思いがした。身体が強ばり、鼓動が早くなっていく。
愛里の声だった。愛里がくるみの前に回り込み、覗き込んだ。
「あー、やっぱりくらみじゃん」
背後に立っていた店子たちが、不思議そうな顔をしている。くらみというのは、小学生のときに愛里がくるみに付けたあだ名だった。暗いから、本名のくるみをもじってくらみ。ずっと学校が一緒だったせいもあり、くらみというあだ名は短大まで続いた。
「どうしたのぉ?アンタ、こんな格好するキャラじゃなかったじゃん。あのだっさい眼鏡はどうしたの?今さら、デビューでもしたの?三十路デビュー?」
くるみの身体は震えていた。ずっと忘れたいと思っていた感覚が蘇ってくる。みんなに暗い、陰気と後ろ指を指され、陰口を叩かれた学生時代。孤立し、ずっと独ぼっちだった、捨てたかった過去。
くるみは愛里の言葉に答えられず、黙りこんだ。
愛里の連れである女たちが、好奇な目で「何、何?」とくるみを見た。
「この子、幼なじみなんだけどねぇ、すっごく暗くて地味だったの。さすがに、変わりたいとでも思ったの?」
愛里が、意地の悪い笑みを浮かべ、嘲笑するようにくるみを見ていた。
そのとき、くるみの腕が掴まれた。思わず振り返ると、リオンが険しい面持ちで立っていた。
「行きましょう」と、くるみの腕を引っ張る。それを見て、愛里は目を見開き、次の瞬間、面白そうに声をあげて笑った。
「何、アンタ。女友達できないからって、オカマと付き合ってんの?超ウケるんだけどぉ」
その声に、他の二人もケラケラと笑う。
そうだ、昔もこんな風に笑われていた。
いつも、自分を嘲笑する声が、周囲に響いていた。暗いと笑われ、ダサイと笑われ、ときに陰口を叩かれ、いやがらせを受けた遠い過去———
それでも平気だった。いつものことだから、そうただ諦観して、何も見ない振りをしていた。
でも、今は私一人じゃない———
「何よ、メスガキどもが!」
リオンが、三人に突っ掛かる。だが、三人はより一層面白そうに笑い声を上げた。
「出来損ないの女のくせに!不自然さ満点だっつーの。そんな格好して恥ずかしくないの?」
店子たちの表情が曇っていくのがわかった。だが、そんなことお構いなしに、愛里の中傷は続く。
「男のくせに、女の格好なんかしてみっともない。人間の出来損ないのくるみと、女の出来損ないのオカマなんてぴったりじゃない」
「アンタね、黙って聞いてりゃ……」
ミヅキが前に出ようとした。だが、くるみの方が早かった。
「女がそんなに偉いのか!」
震える声で叫ぶと、くるみは持っていた鞄を愛里に振りかざした。鞄が愛里の頭に当たり、愛里が悲鳴を上げた。だが、くるみは止まらなかった。
「ニューハーフの何が悪いのよ!身体が女だったらそんなに偉いのかよ!」
何度も何度も、持っていた紙袋を愛里たちに投げつけた。店員たちが慌てて寄ってくるが、それもお構いなしにくるみは袋を手に殴り掛かった。感情という感情が、胸に溢れてくる。涙が頬を伝い落ちるのも気にせず、くるみは鞄を振り続けた。
「もう、いいわ!」
ミヅキが、力づくでくるみの腕を押さえた。その手の力強さに、くるみはようやく我に返った。
愛里が地面に倒れ込み、声を上げて泣きじゃくっている。他の二人は退き、身体を震わせて立ちすくんでいた。
ミヅキが、顔馴染みの店員に謝罪の言葉を告げる。くるみはリオンに引き渡され、店の外に引っ張りだされた。
くるみの感情は、収まらなかった。次から次へと、涙が溢れ出てくる。その涙を、カオルが持っていたハンカチで拭った。
他の店子たちは、呆れたようにくるみを見ていたが、その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「本当にもう、アンタは加減ってものを知らないの?」
怒り口調で、店からミヅキが出てくる。ミヅキは、くるみが先ほど投げた紙袋を、くるみの手に持たせた。愛里に思い切り投げつけたせいか、ぐじゃぐじゃになってしまっている。
「もう、仲の良いスタッフだったから何とかなったものを、下手したら訴えられてもおかしくないのよ。まったく無茶するんだから。あれくらいの陰口気にしてたら、ニューハーフなんかやってられないわよ」
「……すみません」
鼻を啜り上げて、くるみは呟くように云った。ようやく、気が落ちついてくるのがわかった。途端に、自分のしたことを後悔した。
俯き、啜り泣くくるみに、ミヅキは「でも」と息を付いた。
「ありがとう」
くるみが顔をあげる。ミヅキの顔には、笑みが浮かんでいた。同様に、他の店子たちの顔も笑っている。
「それにしてもくらみって、アンタらしいわね」
ミヅキがくるみの肩を押し、歩きながら云った。
「でも、良い気分だったわねぇ。あれだけ思い切りやってくれると」
「ホント、こんなに暴れ馬だったなんて、予想外だったわねぇ」
口々に、くるみの失態を持ち上げる。だが、その声に嫌味なところは一つもなかった。みんな、笑っている。
ぐじゃぐじゃになった紙袋。だが、それが勲章のようで、くるみも涙を手で拭い、小さく笑った。
日曜日、くるみは朝五時に起き、洗面台に向かった。化粧ポーチから買ったばかりの化粧品を取り出して、すぐ隣に置いてある洗濯機の上に並べる。ミヅキに教えてもらった順序で、たどたどしい手つきで化粧を始めた。
「濃過ぎず、薄過ぎず……」
何度も云われたことを呟きながら、マスカラを睫毛に塗っていく。慣れないせいか、すぐに目の下や目蓋に付いてしまう。それを、綿棒で拭いながら、なんとか塗り終えた。
今日は、樹の両親に会いに行く日である。それも、彼女を紹介するという名目だ。それ自体が嘘であるとはわかっていても、ずっと緊張しぱなしだった。誰かに会うということだけでも滅多にないのに、男の親である。昨夜は、あまりの緊張に殆ど眠れなかった。
化粧を終え、髪のセットに取り掛かる。ずっとストレートのロングだった髪は、美容院で軽くウェーブを当ててもらった。勧められて購入したワックスを手に取り、それで軽く髪を整える。
そうこうしているうちにあっという間に八時になり、玄関のチャイムが鳴った。
樹は、目の前にしたくるみに、驚いたように目をぱちくりとさせていた。
「くるみちゃん、どうしちゃったの」
「え?」
「随分と綺麗になったじゃん。そういう格好の方が、似合うよ」
さすがにわざわざ買いに出掛けたとは云えず、くるみは曖昧に言葉を濁した。
樹の借りたレンタカーに乗り、東京を離れて行く。ビルばかりが立ち並ぶ道路はいつしか高い壁に囲まれた無機質な高速道路へと変わる。鼻歌を歌いながら運転をする樹の隣で、くるみは緊張で身体を強ばらせていた。
事情はどうあれ、男の人と二人で車に乗るというシチュエーションが初めてなのだ。こういうとき、他の人はどうしているのだろう。くるみは落ち着かない様子で、視線を泳がせていた。
「ねぇ、くるみちゃん」
「え?」
突然声を掛けられ、くるみは慌てて振り向いた。
「それ、わざわざ用意してくれたの?」
樹が、くるみの膝の上に乗せられた紙袋を見て云った。さすがに実家を訪ねるのに手ぶらで行くわけには行かないと、昨日銀座で購入しておいた焼き菓子だった。くるみが遠慮がちに頷くと、「そんなのいいのに」と、樹が笑った。
「そういえば、昨日派手にやったんだってね」
樹の言葉の意味が咀嚼できず、くるみは「え?」と聞き返した。
「みんなと買い物に行ったんでしょ?そこで、昔の友達に会って一悶着起こしたらしいじゃん」
「……どうして知ってるの?」
くるみは、動揺を隠せなかった。つまりは、この服をわざわざ新調したことも知っているということだ。たかだか嘘の挨拶のためにここまでするなんて、と樹は思っているかもしれない。そう思うと、自己嫌悪に陥っていく。だが、昨日はくるみも店に出ていたが、樹は店に来なかった。その疑問を察したのか、樹が軽い調子で云った。
「昨日、店に行ったんだよ。入れ違いだったみたいだけどね。そこでミヅキさんが教えてくれたんだ。見直したって云ってたよ」
「……見直した?」
「くるみちゃん、ニューハーフに対してもうちょっと冷めた考えを持ってると思ってたって、云ってた。だから、自分たちのためにあれだけ怒ってくれたの、嬉しかったって」
そう云われ、くるみは恥ずかしくなって顔を伏せた。でも、きっと自分も何も知らなければ、ニューハーフとかゲイとか、そういうものに偏見を持っていただろう。きっと、愛里たちの反応は、悪いにせよ、普通の感覚だったのかもしれないと、くるみは思った。
樹の家に着いたのは、一時過ぎだった。東京とは違い、高い建物は殆どなく、山に囲まれた閑静な住宅街である。どちらかというと古い建物の並ぶ街並で、屋根瓦の家が多く見られた。
樹の家も、やはり瓦張りの立派な一軒家だった。「志田」と書かれた表札に、くるみは思わず息を呑む。樹が門を開け、中に入って行く。扉を開けると、「ただいまー」と、奥に声を掛けた。
ドタドタと奥から足音が聞こえ、数人の人影が現われた。母親と思しき中年の女性が、満面の笑みを浮かべて駆け寄って来た。
「あらあら、はじめまして、樹の母です。長旅でお疲れでしょう」
母親の視線に、くるみは一瞬頭が真っ白になったが、すぐに読んだ本を思い出し、極力笑顔を務めて云った。
「はじめまして、藍原くるみと申します。樹さんにはいつもお世話になっています」
これ、よかったら召し上がってくださいと、くるみは用意しておいた紙袋を母親に渡した。母親は嬉しそうに、その袋を受け取った。
「まぁ、お気遣いなんていいのに。ありがとうございます。さぁ、どうぞ上がってくださいな。散らかってますけれど」
はしゃいだ様子で、母親がくるみを奥の部屋を促した。
廊下の壁には、たくさんの絵画が飾られている。そのどれもが、樹や、その他の兄妹たちが小さい頃に描いたらしいものばかりだった。それらを、温かな気持ちでくるみは眺めた。樹は、とても愛されて育ったのだろうということがわかる。
居間には、樹の家族が勢ぞろいしていた。樹が、一人一人紹介してくれる。父親に、二つ上だという兄と、三つ下だという妹。みんな、樹と同じで、愛嬌のある温かな家族だった。樹の両親は、くるみの方が四つも年上だということにも嫌な顔一つしなかった。
「こんなに綺麗なお嬢さん連れてくるなんて、母さん、嬉しいわぁ」
くるみは、何と返答していいかわからず、困ったように樹を見た。
「おふくろ、あんまりいじめないでくれよ」
「いじめやしませんよ。アンタが彼女連れてくるなんて、初めてだから喜んでるんですよ」
その言葉に、樹が悪戯をした子どものような瞳で、くるみに目配せする。くるみは、苦笑するしかなかった。
母親は色々なことをくるみに聞いた。樹との付き合いの経緯については、予め打ち合わせをしてあったので、思い出しながら話した。打ち合わせの上では、出会いは友人の紹介で、付き合って半年という設定になっている。家族は、樹と同じように調子良く話を振ってくれたため、くるみはたどたどしくも、なんとか間を持たせることができた。
「俺、お茶取ってくるよ」と、樹が立ち上がり、居間を出た。それを確かめて、母親がくるみに耳打ちした。
「それにしても、本当に良かったわぁ」
「……え?」
くるみが、きょとんと母親を見る。母親は、頬を緩ませた。
「あの子、これまでずっと女っ気がなかったから、心配していたのよ」
「……はぁ」
樹のパートナーが、一郎というガタイの良い男だと知ったら、この母親はどういう顔をするだろう。くるみは、先日樹の部屋で見た一郎のことを思い出しながら思った。
「実はね、お恥ずかしい話、同性愛者なんじゃないかって、心配していたの」
同性愛者、という言葉に、くるみは思わず息を呑んだ。
「でも、くるみさんみたいな素敵なお嬢さんとお付き合いしていると知って、安心したわ。あの子も、マトモだったんだって」
素敵なお嬢さん———これまで云われたことのない褒め言葉にくるみは照れるように顔を伏せる。だが、複雑な思いだった。
「あの……」
くるみは目を上げ、思い切ったように母親に云った。
「もし……もしも、子どもが同性愛者だとわかったら、どうしますか?」
くるみの言葉に、今度は母親がきょとんとする。くるみはしまったと思い、すぐに補足を付け加えた。
「いえ……知り合いにそういう人がいて、その、母親に云うかどうか悩んでいて……どう思われるのかなって」
「そりゃぁ、ショックよねぇ」
母親は、肩を下ろして云った。
「そんなこと云われちゃったら、どうしたらいいかわからないわ、きっと。子どもが、息子だと仮定するなら、息子がその、男の人と付き合うってことでしょう?知らないでいたいと思うわ」
「……そうですか」
くるみは、思わず視線を逸らした。お茶を取りに行った樹のことが思い出される。確かに、他人の自分でもあのキスシーンは衝撃的だった。あれを母親が見たなら、その衝撃の大きさは計り知れない。
「マトモじゃないものね。親なら、結婚するのも見届けたいし、孫だって見たい。どうしてそんな風に育っちゃったのか、自分を責めるかもしれないわね」
母親の言葉は、とても冷静だった。それは、他人事だと思っているからに違いなかった。勿論、本当のことなど云えるはずもない。母親は、くるみに微笑みかけ、「そのお母さんには、云わない方がいいかもしれないわね」と、やさしく云った。
「……はい」
「ちょっと、何の話?」
扉が開き、お盆にお茶を乗せた樹が入ってきた。くるみと母親の会話を気にするように、覗き込む。母親は、「女同士の話よ」とおどけるように云った。
今の話は、樹には云えないな———くるみは、自分の胸に秘めておこうと、ぎゅっと手を握りしめた。
樹の家を出たのは、夕方の六時過ぎだった。夕食を食べていけばいいのにという母親の誘いを仕事の事情と嘘をついて断り、二人は再び車に乗り込んだ。時間的には食事をご馳走になっても問題はなかったはずだが、樹はおそらく、長くは家にいたくなかったのだろうと、くるみは思った。自分にしてみれば付き合っただけであるが、樹には親を騙している罪悪感があったに違いない。
「こんなにお土産もらっちゃった……申し訳ないですね」
くるみは、母親に帰り際に手渡された紙袋の中を覗き込んで云った。中には、手作りのリンゴジャムと、信州蕎麦が入っている。
「全然いいよ、遠慮しなくて。おふくろ、嬉しかったんだよ、紹介してもらえて」
「でも、私みたいなのが行って、がっかりさせなかったかな」
「全然。すげぇ喜んでた。こんなに良いお嬢さん、滅多に出会わないんだから早く結婚決めちゃいなさいって、そう云ってたよ」
樹の言葉に、くるみは思わずほくそ笑んだ。嘘だとしても、そんなことを云ってもらえるのは嬉しかった。あの分厚い本を何冊も読み明かした甲斐があった。
「でも、すげぇ喜んでたな」
ぽつりと、樹が云った。その横顔は、どこか憂いが帯びているように見えた。
「あんなに喜ぶもんなんだな、彼女連れて行くだけで」
母親の顔を思い出す。ずっとはしゃいでいた様子が思い出される。そのことを考えると、くるみもどこか後ろめたい気持ちになった。くるみでもそうなのだから、樹の心はもっと痛んでいるに違いなかった。
「そういえば、俺がお茶取りに行ったとき、二人で何話してたの?」
不意にそう聞かれ、くるみは思わず言葉を詰まらせた。
「何かこそこそ話してたでしょ?」
「あれは……」
「ん?」
本当のことを話していいものか、躊躇いがあったが、くるみは口を開いた。
「……安心したって、云ってました」
「安心?」
「彼女、連れて来て……って」
嘘をついても、すぐに見透かされるだけだ。くるみは正直に話した。だが、最後のくるみのした質問の話だけは伏せていようと思った。
「そっか。ゲイだと思ってたとか、云ってなかった?」
樹の視点は鋭い。声を詰まらせたくるみに、樹は「やっぱり」と苦笑した。
「やっぱり、そう思ってたんだ」
「……ごめんなさい」
「どうしてくるみちゃんが謝るの?」
「でも、樹さんがそうだとは、云ってないです」
「そりゃぁ、云っちゃってたら始終あんなに機嫌よく運んでないよ」
樹は笑って云った。くるみは、なんとなく樹と目を合わせていられず、視線を背けた。
窓の外の光景は、山や自然のそれから、ビル街へと変わっていく。くるみの家に着いたときには、すでに九時を回っていた。樹はくるみをマンションの前で下ろした。
「くるみちゃん、今日は本当にありがとうね」
「そんな……大したことは」
「せっかくの休み、潰しちゃったし。申し訳なかったよ」
「良い、ご家族ですね」
くるみが云うと、樹は相好を崩し、「どうかな」と照れるように云った。
「あの、お腹空いてませんか?」
くるみがそう聞くと、樹は予想外の言葉だったらしく、きょとんとくるみを見た。
「……その、お蕎麦、いっぱいいただいたし、でも一人で食べ切れないし……よかったら、食べていきませんか?」
樹は、変わらず目をぱちくりさせてくるみを見ている。その様子に、くるみは余計なことを云ってしまったと、慌てて首を振った。
「すみません、いいんです、忘れてください」
「じゃぁ、ご馳走になっていこうかな」
へっ、とくるみが樹を見る。樹は車のエンジンを掛けた。
「そこに車留めてくる。ちょっと待ってて」
そう云うと、樹が車を発車させた。取り残されたくるみは、その車の後ろ姿を見送りながら、笑みを浮かべていた。
「へぇ、良い部屋なんだね」
くるみの部屋を見回しながら、樹が感心するように云った。くるみは洗面所で服を着替え、エプロンを身につけた。
「どこでも座ってください。すぐに用意しますから」
くるみはそう云うと、台所に立ち、樹の母親からもらった紙袋から蕎麦を取り出した。
鍋に水を張り、火に掛ける。蕎麦の出汁は、焼き味噌を溶いて入れた辛つゆを作る。辛子大根があるのが一番良かったのだが、さすがにそれはないので、普通の大根をすり下ろした。
沸騰した水に、蕎麦を入れる。作り方を書いた紙を見て、きっちりと時間を計った。蕎麦などの麺類は、微妙な時間の誤差で、歯ごたえが随分と変わってしまう。慎重に時間を見て蕎麦を取り出し、冷水によくさらした。この過程が大切である。シンプルな食べ物ほど、一つ一つの作業の細かさで、味がぐんと変わるものだ。
できあがった出汁と蕎麦を盛りつけ、付け合わせに作ったキュウリとワカメの酢の物を一緒にお盆に乗せた。
「ごめんなさい、待たせちゃって」と、くるみがお盆を手に振り返った。
樹の姿がすぐに目に入ったが、樹はベッドに頭をもたげ、眠っていた。くるみはお盆を机に置き、樹を覗き込んだ。穏やかな寝息を立てて、樹はよく眠っている。日帰りとは云え、ずっと運転をしていたし、家族の前で気も張っていて疲れたのだろう。くるみは、静かに樹の身体にタオルケットをかぶせると、樹の分の蕎麦にラップを掛け、腰掛けた。
起こすのは可哀想だし、かといって時間が経つと蕎麦もおいしくなくなってしまう。樹の分はまた作り直すなりすることにして、先に食べてしまおうと箸を手に取った。
ふと、樹の方を見る。気持ち良さそうな寝顔に、くるみは静かに近づいた。
あどけない顔が、すぐ目の前にある。くるみは無意識のうちに、その薄い唇に自分の唇を近づけた。
静かな口づけだった。唇に、柔らかい感触が触る。だが、すぐに我に返ったように、くるみは身体を離した。
———私、今何を……
樹は、相変わらず寝息を立てて眠っていた。まったく気がつかなかったようだ。くるみは、思わず自分の口元を手で押さえた。
一体、何をしているのだろうか。無意識であったと云え、自分の行動にただ気が動転するばかりだった。
樹は友人だ。樹は同性愛者で、パートナーだっている。なのに、何てことをしているのだろう。
生まれて初めてのキスだった。キスは、幸せなものだと思っていた。たくさんの幸福な気持ちに心が満たされるものだと思っていた。
———なのに、どうしてこんなに悲しくなるんだろう……
胸に云いようのない悲しさや寂しさが募って、ぎゅっと締め付けられるように心が痛む。安らかに寝息を立てる樹を、くるみは唇をぎゅっと噤みながら見つめた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。その音に、反射的に立ち上がった。動揺する気持ちは、まだ収まりきらない。だが、黙って座っていると、頭はこんがらがっていくばかりだ。
こんな時間に、誰だろう———くるみは、怪訝に思いながら、「どなたですか?」と扉の向こうに声を掛けた。
「僕です、くるみさん」
扉に取り付けられた覗き穴から、扉の向こうを見る。そこに立っていたのは、カオルだった。
扉の向こうに立っていたのは、カオルだった。くるみは、慌てて扉を開けた。いつものカジュアルな出で立ちで、カオルは笑みを浮かべていた。
「……カオルさん、どうしたの?」
「すみません、夜分遅くに。ママにくるみさんの家、聞いてきちゃいました」
中にいる樹のことを思い出したが、このまま立ち話というわけにもいかない。くるみは、カオルを家にあげた。カオルは、奥で樹が眠っているのを見つけると、途端に申し訳なさそうな顔になった。
「あ、樹さん来ていたんですね。僕、お邪魔でしたね……帰ります」
「ううん、全然構わないの。ほら、昨日云ってた挨拶、さっき帰ってきて夕食を一緒にって云ってたんだけど、樹さん眠っちゃって」
くるみは、そう云いながら、安堵していた。このまま樹と二人でいると、いろんな感情に押しつぶされてしまう。カオルは、やはり躊躇いがちのまま、「すみません」とくるみに促されて中に入った。
「カオルさん、お腹空いてない?樹さんの分作ったんだけど、眠っちゃったから、よかったら食べて」
そう云って、くるみがラップを外した。
「いいんですか?」
「えぇ、樹さんの分は後で作り直すから」
「じゃぁ、お言葉に甘えていただきます」
にっこりとカオルは笑みを浮かべると、手に箸を取った。くるみも前に座り、自分の分の箸を手に取った。カオルは、「おいしい」と満面の笑みを浮かべた。
樹は、依然として眠ったままである。少し声のトーンを落として、くるみが聞いた。
「でも、どうしたの?こんな時間に。今日はお店は?」
「店は休みだったんです。僕、大学商学部なんですけど、経理の実技でわからないことがあって。くるみさん、ずっと会社で経理していたって聞いてたんで、教えてもらいたいなと思って来たんです」
そう云って、カオルが鞄から教科書を取り出してくるみに見せた。
「あ、そうだったんだ……でも、私に務まるかな」
「もしダメだったら、そのときはそのとき」
カオルが、おどけた口調で云った。くるみも、その言葉に小さく笑った。
食事を終えてから、くるみはカオルの勉強を見ることになった。教科書を開くと、基本的なことばかりが書かれていることにほっと胸を撫で下ろす。
カオルの質問は、なんとかくるみが教えられる範囲内だった。人に教えた経験もないため、説明はたどたどしかったが、カオルはくるみの言葉に真剣に耳を傾けていた。
樹が目を覚ましたのは、勉強が一段落したあたりだった。身体を起こした樹は、目の前にカオルがいることに、驚いた様子で「えぇ?」と、素っ頓狂な声をあげた。
「あれ、カオルちゃん、どうしたの?」
「すみません、お邪魔してます。くるみさんに勉強教えてもらおうと思って来たんです」
「あ、そうなんだ」
樹が、くるみの方を見る。くるみは、先ほどのキスのことを思い出し、一人挙動不審に視線を逸らした。だが、何も知らない樹はいつもの調子で話し掛けた。
「ごめんね、眠くなっちゃって。あ、もう飯済んでるよね?」
「いいんです。疲れてたのに、夕食誘っちゃった私が悪いんです。よかったら、今から作りますけど」
「ラッキー、お願いしていい?」
樹が悪戯っぽく笑った。くるみはその視線を避けるように、立ち上がり、台所に立った。後ろから、カオルと樹の話し声が聞こえる。くるみは、集中しようと、再び鍋に火を掛けた。
くるみが用意した食事を、樹はおいしそうに平らげた。いつもならその様子に満足するところだが、今日は複雑な思いがしていた。樹が何も知らないのはわかっているが、それでも樹を見ると自分がした行動を思い出してしまい、心が動揺するのを押さえ切れない。
カオルが帰りますと立ち上がったのは、十二時前だった。食事も終えた樹が、「じゃぁ、送っていくよ」と立ち上がった。
「でも、いいんですか?」
カオルが、躊躇いがちに聞く。樹は笑って頷いた。
「いつまでも乙女の部屋に居座るわけにはいかないからね。俺も戻るし、ついでだから」
そう云って、樹は立ち上がった。二人を見送るために、くるみも玄関まで出た。
「くるみちゃん、ご馳走様。おふくろも、あの蕎麦をあんなにおいしく食べたって聞いたら喜ぶよ」
「また、よろしく伝えておいてください」
そう云うと、カオルにも顔を向けた。
「カオルさん、また明日ね」
「はい、ありがとうございました」
二人がエレベーターホールの方へと歩き始める。くるみは扉を閉め、一人部屋の中へと戻った。
カオルは、助手席に座っていた。樹が車のエンジンを掛け、車を発車させる。
「家、どこ?」
樹が聞くと、カオルはいつもの穏やかな笑みを浮かべて、「麻布です」と答えた。
「うわ、すっげぇ良いとこ住んでるじゃん。カオルちゃん家、お金持ちなんだ」
「……そんなことないですよ」
カオルは、視線を逸らし、窓の外を見る。くるみのマンションが遠くなっていく。カオルは、樹の方を振り返り、云った。
「ねぇ、樹さん」
「ん?」
樹は、前を向いたままだった。その横顔を見つめながら、カオルは聞いた。
「女性を抱いたこと、ありますか?」
唐突な質問に、樹は思わずカオルの方を振り返る。「え?」と驚いた声を上げたが、いつもの軽い調子の笑みを浮かべている。
「樹さんも……僕と同じような人間じゃないですか。女性と付き合ったこと、あるのかなと思って」
カオルがそう云うと、樹は「カオルちゃんらしくない質問だね」と誤摩化すように笑った。
「聞いちゃいけない質問でしたか?」
カオルの顔は、真剣だった。樹はそれを見て、下唇を舐めた。
「いや……うん、あるよ」
その言葉に、カオルの表情が曇った。だが、樹はその様子には気付かなかった。
「それ……くるみさんですか?」
「えー?」
驚いたように、カオルを見る。まさかぁ———樹は豪快に笑った。
「くるみちゃんはそんなんじゃないよ。随分と昔の話。自分が、本当に同性愛者なのか、確かめるために告白してきた女の子と付き合って、その子とやった。もう十年近くも前の話だよ」
樹は、忘れていた記憶が蘇ってくるのを感じていた。ラブホテルで、恥ずかしそうに顔を伏せる少女。脱がせた衣服、露になったよく日に焼けた身体。何も感じなかった、空虚感———
その当時覗いていた同人誌サイトのゲイものの漫画を思い出しながら、無理矢理勃たせた性器。
「どうしてそんなこと聞くの?」
赤信号で停車し、記憶を払拭するように樹はカオルを見て聞いた。カオルの表情は、考えていることが読み取れないような、無表情だった。
「……どうなのかなって、疑問に思っただけです」
「くるみちゃんは可愛いけど、女だしね」
「……そうですよね」
カオルが、ふっと頬を緩めた。
「そうだよ。女の子相手には残念ながら何も感じない。普通の男だったら、可愛い女の子にあんなうまい料理食べさせられたら、惚れちゃうんだろうけどな」
その言葉に、カオルは心が安堵していくのがわかった。樹が、「でも」と云った。
「ときどき、くるみちゃんを見てると思うよ。もしかしたら、くるみちゃんならいけるんじゃないかって」
「……え?」
カオルが、思わず顔をしかめ、樹を見た。
「俺は確かに男が好きだけど、やっぱり家庭にも憧れはあるし……親も安心させたいしね。女の子を愛せるなら、愛したいとも思う」
カオルは、ただじっと樹を見ていた。樹は、変わらず笑みを浮かべたままだ。
「樹さんは、どういう男の人がタイプですか?」
カオルが、樹の目を見て云った。大きな瞳が、樹の瞳をしっかりと捕らえる。青信号に変わり、樹は再び前に視線を戻してアクセルを踏んだ。
「俺はガチムチ系」
「……そうなんですか」
カオルには、すぐに伝わったようだ。くるみが、その言葉を聞いたときに、怪訝な顔をして意味を聞き返したときのことを思い出した。
「カオルちゃんは、どういうのがタイプなの?」
樹にそう聞かれ、カオルは思わず言葉を詰まらせた。喉まで出掛かった言葉を呑み込み、笑みを浮かべて云った。
「内緒です」
「えー、俺には聞いておいてそれはないんじゃない?」
樹が笑う。カオルはその横顔を見つめながら、唇を噛んだ。
「でも、カオルちゃんだったら、寄ってくる男も多いでしょ。CANDY HEARTでも大人気だし」
「そうなの?」
「えぇ、好きな人には」
樹は、変わらず前を向いたままだ。カオルは、そんな樹の横顔を、ただじっと見つめていた。
その日のCANDY HEARTも、盛況だった。ショーでは、たくさんの歓声が上がり、これ以上にない盛り上がりようを見せている。特に、今日は女性や異性愛者へも店を開放しているので、女性たちのはしゃぐ声も多く聞こえる。働き始めて知ったことだが、最近はこういったニューハーフバーは、一般の人々の間でも一種の人気を誇っているらしかった。この界隈の店舗の中には、好奇心半分に寄ってくる一般人を敬遠するところも少なくないようだが、大衆の関心を買うということは、そういったマイノリティに対する差別意識が少なくなったとも云える。CANDY HEARTは、週に二日だけ、女性や異性愛者も出入りできる開放デーを設けている。女性だけの客や、会社帰りに同僚たちと試しに来てみたというような団体客がよく出入りしていた。逆に、そういう開放デーには、常連の客はあまり来ない。
くるみは、いつものように台所に立ち、料理を作っていた。今日も、本日のやっこがよく出ている。今日のやっこは、合挽ミンチと細かく刻んだ奈良漬けを味噌で炒めた、特製の肉味噌やっこだった。
ママがカウンターへ戻って来て、「今日もやっこ、盛況ね」と、背後からくるみに声を掛けた。くるみは振り返り、怒られないようにママの目をしっかりと見た。
「はい、おかげさまで」
「アンタの料理の評判、聞いたっていう新規が最近増えたよ」
「……そうなんですか?」
くるみは、その言葉に嬉しくなって、小さく微笑んだ。
「アンタ雇って正解だったね。まぁ、食材の注文が面倒になったけど」
「……すみません」
「その分、利益に貢献してくれてるからね。問題ないよ」
ママが、そう云ってくるみの肩をぽんと叩いた。そして、また客席へと戻って行った。
確かに、入った当初に比べ、料理の注文が増えたと、くるみは思っていた。献立も、日替わりのものを増やし、レギュラーのものも随分増えた。
自分の作る料理で、客が増えるのはとても嬉しい。くるみは、やっこ用の豆腐を切りながら、思わず笑みを零した。そのとき、後ろから声を掛けられた。
「あの、すみません。トイレって、どこですか?」
振り返ると、スーツを着た男が立っていた。おそらく、団体客の中の一人なのだろう。歳は自分と同じくらいだろうか。くるみは思わず顔を背けた。
「……この奥です」
男にあまり顔を見られないよう、俯いたままトイレのある奥の通路を指差した。だが、男は動こうとせず、くるみを覗き込むように云った。
「あれ、君……」
くるみは、先日中年の男に「女か」と問いただされたときのことを思い出した。男に何かを聞かれる前に、くるみは慌てて云った。
「あ、あの、私は確かに女ですけど、その、ママの姪なもので、手伝いで来ていて……」
しどろもどろに云うくるみに、男が「やっぱり!」と大きな声をあげた。
「藍原さんじゃないの?藍原くるみさん」
えっと、くるみが思わず顔を上げた。男は、目を見開き、作り笑いを必死に浮かべるくるみの顔をじっと見ている。だが、くるみにはその顔に見覚えがなかった。
「随分と変わってて一瞬わからなかったよ」
「……あの、失礼ですけど、どちらさまですか?」
警戒するように眉をしかめてそう聞くと、男は肩を落とし、頭を掻きながら「覚えてないかぁ」と、残念そうに云った。
「俺、高校三年のとき同じクラスだった、高梨遼」
高梨遼、という名前に聞き覚えがあった。記憶の糸を辿るように、少し考えてから、「あっ」と、くるみは声を上げた。
遼のことは、薄らと記憶にあった。クラスでも、人気のあった男子生徒だった。容姿も格好良く、学級委員長もやっていて、いつも集団の中心にいた覚えがある。だが、勿論クラスのはみ出しものだったくるみは、遼と話をしたことはなかった。
「思い出してくれた?」
遼が、爽やかな笑みを浮かべて云う。くるみは、途端にバツの悪そうな顔をして、目を逸らした。こんなところで、まさか自分のことを覚えている同級生と再会するとは思ってもみなかった。居心地が悪くなって黙り込んでいると、遼が云った。
「道理で、ここの料理がうまいわけだ。藍原さんが作ってるんだね」
「道理でって……?」
くるみが顔をあげる。
「覚えてないかな。家庭科の調理実習でさ、みんなが作業放棄して藍原さんが一人で殆どの料理作ったでしょ。それが、他の班と比べ物にならないくらいうまくってさ」
そう云えば、そんなこともあったような気がする。だが、何でも、面倒な作業はくるみに押し付けられていたので、細かいことまでは覚えていなかった。
それでも、遼がそれを覚えているということは、驚きだった。
「いつも一人で寡黙だったから話し掛けにくかったんだけど、あの料理にはすごく感動したんだよね。だからすごく覚えててさ」
「……そう、なんですか」
自分の過去に対して好意的に云ってくれる遼に、くるみは嬉しいという気持ちよりも戸惑うしかなかった。
「それにしても、本当に変わったよね。あの頃はいつも眼鏡掛けて髪もひっつめだったじゃない。こんなに化けるとは思わなかったな」
「……高梨さんは、変わりないですね」
くるみは、何か返さなければと、口を開いて云った。
「それ、良い意味、それとも悪い意味?」
「も、勿論良い意味です」
くるみは慌てて云う。その慌てようを見て、遼が笑った。
「そういう挙動不審なところ、変わらない感じだね。いつも、ここにいるの?」
「……今は。会社は、有給を取ってるので」
「そうなんだ。手伝うために、わざわざ有給取ってるなんて、お人好しなところも変わらないね」
本当はそうではなかったが、いちいち説明するのも面倒だったので、くるみは、「はぁ」と言葉を濁した。
「ねぇ、もう結婚してるの?」
突然そう聞かれ、くるみは狼狽えるように「ま、まさか」と首を振った。
「まさかって、もうしてもいい歳じゃん。彼氏は?」
「……いませんけど」
一瞬樹の顔が浮かんだが、それを払拭するように目をぎゅっと瞑った。
「ねぇ、携帯電話、今持ってる?」
「……持ってますけど」
「貸して」
遼が手を差し出す。くるみは訝しげに顔をしかめながら、カウンターに置いた携帯電話を遼に渡した。遼は携帯電話を開き、ボタンを押していく。くるみが、それを止めようと手を出したときに、遼が携帯電話をくるみに返した。着信履歴に、知らない番号が入っている。
「それ、俺の電話番号。俺の携帯にも藍原さんの番号入ったし、また連絡していいかな?」
「え?」
その言葉が理解できず、くるみが聞き返した。
「俺もフリーなんだ。今度、ご飯でも行こうよ。勿論、藍原さんの休みの日に合わせるから」
遼はそう云うと、軽くウィンクをして見せた。くるみは、携帯電話のディスプレイに表示された番号に目を落とした。
「ちょっとぉ、何話してんのよぉ」
ミヅキが現れ、遼の肩を思い切り叩いた。驚いた遼が、「わぁ!」と声を上げた。
「ちょっと、良い男じゃない。お相手は、あたしじゃ、ダ、メ?」
そう云って、遼の顎を撫でた。身体を強ばらせた遼が、上ずった声で「よ、喜んで」と引き腰気味に云う。ミヅキが、遼の腕を引っ張って客席へと連れて行った。入れ替わりで、リオンがやってきた。
「ちょっと、こりゃまた良い男に声掛けられたもんね」
「……リオンさん」
「見たところ、ノンケね。番号でも聞かれた?」
「ノン、ケ?」
「ノーマルってこと」
あぁ、と納得するようにくるみは頷いた。確かに、見たところ同僚たちと興味半分で遊びに来たようだ。
「ホント、解放デーは面白くないわ」
少し恨めしそうな顔で、リオンが云った。
「……すみません。彼、同級生なんです、高校の」
「そうなの?」
驚いたように、リオンがラインとマスカラでぱっちりとした目を瞬かせて、くるみを見た。
「……えぇ」
「アンタ、学生時代は一人だったって云ってたけど、覚えてて、番号まで聞いてくれる男もいるんじゃない。まさか、アンタから聞いたわけじゃないでしょ?」
「まさか……」
「あー、あたしにも良い男、声掛けてくれないかしら」
リオンが歌うように云って、客席へ戻って行った。
遼の座るボックス席の方へと、くるみは視線を移した。遼は、ミヅキに腕を掴まれたまま、戸惑っているようだった。
くるみは携帯電話を閉じ、またカウンターの隅に置いた。社交辞令とか、からかいとか、そういうものだろう。
あの番号が、かつてのクラスメートの間で回されて、悪戯電話でも掛かってくるかもしれない———やっぱり教えるんじゃなかったと、小さく溜め息を付いた。
一時過ぎにママから上がっていいと云われ控え室に戻ると、既に着替えを済ませたカオルが化粧を落としているところだった。くるみに気付いたカオルが、「お疲れさまです」と笑みを浮かべた。
「お疲れさまです。昨日は、大丈夫でした?」
昨夜、樹と一緒に家を出て行ったことを思い出すように、くるみが云った。
「はい、樹さんに家まで送っていただきました」
「そう、良かった」
くるみは自分の着替えをロッカーから取り、更衣室のカーテンを引いた。着替えていると、カオルが云った。
「くるみさん、樹さんと付き合っているんですか?」
突然の言葉に、くるみは「えっ」と声を上げた。昨日、樹にキスをした記憶が蘇ってくる。まさか、カオルが見ていたなんてことはあり得ない。くるみは慌ててそれを否定した。
「ま、まさか。樹さんは、その、女性には興味ないじゃないですか。どうして私なんかと……」
「あれ、じゃぁ違うんですね」
カオルが、残念そうな口調でそう云った。その言葉に、くるみは眉をしかめて、脱いだドレスを手にカーテンを開けた。
「違うって……どういうこと、ですか?」
カオルは、大きな瞳をくるみに向け、微笑みを浮かべて云った。
「樹さん、女性とお付き合いしたことがあるって云ってたから。深い関係もあったって。てっきり、くるみさんのことだと思ってました」
「え……」
その言葉に、くるみは心が不穏になっていくのを感じた。動揺していくのがわかる。
「相手が誰かまでは云ってくれなかったんですけど、くるみさんだったら素敵だなって思ったんですけどね」
声のトーンを落として、静かにカオルが云う。くるみは、視線を泳がせて、その場に立ちすくんだ。
樹は、男にしか興味がないと云っていた。一郎という彼とキスをしているところも、この目で見たのだ。女の人と深い関係があったというのは、どういうことなのだろう。樹は、いわゆる両方の性を愛することができるバイというやつなのだろうか。様々な憶測が、頭の中を駆け巡る。だが、樹はくるみにそういった態度を一切見せない。
カオルが、遠慮しがちな笑みを浮かべて云った。
「ほら、くるみさん、樹さんの家にも泊まってたって云ってたから、そういう関係もあったのかなって思ったんです。変な憶測で物云ってしまって、すみません」
その言葉は、一層くるみの心を暗くさせた。
———私は、樹の眼中にはないということか……
だが、樹は単なる友人に過ぎないではないか。それなのに、何をどうして動揺する必要があるだろう。樹が女性も愛することがあるとしても、それは私には関係のないことなのだ。
そう考えようとしても、複雑な思いがこみ上げてくる。どうしてなんだろう、どうしてこんなに悲しくなるのだろう。
「くるみさん?」
カオルが、くるみの顔を覗き込んだ。すぐ目の前に、大きな瞳があった。
「あ、ごめんなさい……ちょっと疲れたみたい」
そのときだった。それは、一瞬の出来事だった。
突然カオルの顔が近づいてきたかと思うと、次の瞬間カオルの唇が、くるみの唇を塞いだ。
一体何が起こっているのかわからず、くるみは抵抗することもできず、ただ立ち尽くしていた。カオルが、静かに顔を離した。呆然としているくるみに、カオルが囁くように耳元で云った。
「僕は、くるみさん、好きですけどね」
その言葉に、くるみが目を見開いた。目の前にいるのは、いつものあどけない様子とはまったく異なった、別人のようなカオルだった。
「では、お先に失礼します」
カオルはそう云って鞄を手に取ると、さっさと控え室を出て行った。
くるみは、唇に指で触れた。一瞬の出来事に、一体何が起こったのか咀嚼しきれない。
どうして、カオルは自分にキスをしたのか。「くるみさん、好きですけどね」と云った、あの言葉の真意は何なのか———
くるみは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
翌朝、くるみはいつものように遅い朝食を作るために台所に立っていた。
「あっ……」
ボールに割ろうとした卵が、ボールの外に零れ落ちる。くるみは、慌ててティッシュでそれを取り、布巾で台を拭く。だが、布巾だと思っていたそれは、エプロンだった。
大きく溜め息をつく。何度目の溜め息だか、もはやわからなかった。
どうかしてる———くるみは、ぎゅっと目蓋を閉じ、より大きな溜め息を付いた。
昨夜のことが思い出される。樹が女性と付き合っていたという事実もそうだが、何よりもカオルの不意打ちのキスが脳裏から離れなかった。
キスの後、目の前のカオルは、いつものカオルとはまったく雰囲気が違っていた。どこか、鋭利な月を感じさせるような、冷たい印象を受けた。どういうつもりだったのだろうか、今夜会ったときにそれを問いただせばいいのだが、カオルの顔を真正面から見ることができるか、自信がなかった。
そのとき、携帯電話が鳴るのが聞こえた。くるみは汚れたエプロンを洗濯機に入れ、机に置いてあった携帯電話に手を伸ばした。
着信相手は、遼からだった。カオルの一件で、遼との再会のことなどすっかり忘れてしまっていた。くるみは躊躇いながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「あ、藍原さん?」
遼の、軽快な声が聞こえてきた。
「今、大丈夫?」
「……えぇ」
「ほら、昨日云ったでしょ。食事にでも行こうって。それで、いつが都合良いのか、聞きたくて」
くるみは、驚きに声を詰まらせた。社交辞令程度だと思っていたから、まさか本当に電話が掛かってくるとは思っていなかったのだ。黙ったままのくるみに、「もしかして、嫌かな?」と、遼が不安そうに云った。
「いえ、そんなことは……」
「じゃぁ、いつなら空いてる?」
くるみは、スケジュール帳を開き、シフトをチェックして云った。
「水曜と、日曜が休みです」
「じゃぁ、水曜日の夜、空けておいて。俺、仕事終るの大体八時くらいだから、それからでもいいかな?」
遼が、とんとんと話を進めていく。くるみは、小さく「わかりました」と答えた。
「じゃぁ、八時に表参道ヒルズの前で」
くるみは、電話を切ると、スケジュール帳に遼との約束を書き込んだ。色々なことがあり過ぎて、頭はこんがらがってくるばかりだった。だが、ふと書き込んだ予定を見ながら、呟くように云った。
「……これって、デート、なのかな」
二十九年も生きていて、男の人と手さえ繋いだことがなかったのに、たった二日間の間に二人の男とキスをし、それとは違った別の男とデートの約束までしてしまった。この急展開は一体何なのだろう。くるみは、頭を抱えずにはいられなかった。
「今日は、カオルさん……お休みですか?」
店に出ると、ショーのレギュラーメンバーがダンスのレッスンを終え、休憩をしているところだった。くるみは、すぐ傍にいたリオンに話し掛けた。
「そ、今日は非番よ」
「……そうですか」
くるみは、内心ほっと胸を撫で下ろしている自分に気付いた。カオルに昨夜のことを問いたい気持ちもあったが、顔を合わせるのにも躊躇いがあった。
「ちょっと、くるみ」
突然、ミヅキに呼ばれ、くるみは振り返った。
「アンタ、昨日の男に電話番号聞かれたんだって?」
ミヅキが、少し怒り混じりの口調で云う。くるみは、怖じ気づいたように「……はぁ」と一歩退いて云った。
「あーぁ、好みの男がノンケとは、悲しいもんねぇ」
そう云うと、ミヅキが大きく溜め息を付いた。それを見たマナが、すかさず、「ミヅキちゃん、あぁいう爽やかタイプが好きなのよねぇ」と、小突くようにして云った。。マナは、この中では歳のいったニューハーフだ。化粧をしていると綺麗な女性だが、すっぴんだとのっぺりとした男顔に戻る。
「そうなのよ。あれは、どんぴしゃだったわね。悔しいったらありゃしない」
ミヅキが悔しそうに云う。リオンが、そんなミヅキに云った。
「ほら、でもああいう爽やかなタイプほど、女に汚いのよ。挨拶代わりに、誰にでも電話番号聞くってこともあるんだから、ねぇ」
リオンが、くるみに目配せする。リオンは、ミヅキを慰めようと云ったのだが、その意図を理解しなかったくるみが、少し躊躇いながら云った。
「……今朝、電話がきました」
「マジで?」
一同が、驚いたようにくるみを見る。ミヅキは、「何て?」と、くるみに詰め寄った。そのただならぬ気迫に、くるみが怖じけずくように肩をすくめた。
「水曜の夜に……食事に行こうって」
リオンが、あちゃーと額を押さえて天を仰いだ。ミヅキがその隣で、がっくりと肩を落とし、項垂れていた。
「す……すみません」
「いいわよ、もう。ノンケなんかに恋しても、しょうがないしね」
ミヅキはふてくされたように、そう云って煙草に火を付けた。
「……ってことは、デートなわけだ」
奥に座っていた、少しごつめのニューハーフ・リカが楽しそうに云った。
「……はぁ」
「はぁじゃないでしょ、アンタ」
ミヅキが怒ったように再び立ち上がり、くるみの前に立った。かと思うと、突然くるみのトップスを掴んだかと思うと、それを引っぱり胸を覗き込んだ。
「ちょ……何するんですか」
慌てるくるみにお構いなしに、服を離したかと思うと、今度はスカートのウェスト部分を掴み、中を覗き込んだ。くるみが、振り払うように退いた。
「ちょっと、アンタ下着上下合わせなさいよ」
「え……」
「しかも、ベージュなんておばさんくさい。下着、新しいの買いなさい!それに、ちゃんと毎日上下を合わせる!女として、当然でしょ」
突然叱られて、くるみはただ呆気に取られるしかなかった。
「下着ですか……?」と、呟くように聞いた。
「食事に行った後は、ホテルでしょ。そうでなくても、何が起こるかわかんないんだから、日頃から下着くらい揃えておかなきゃダメでしょ」
その言葉に、一同が頷いた。くるみは、慌てるように、手を振った。
「そんなつもりは……」
「なになに?なんか盛り上がってるじゃない」
控え室の扉が開き、樹が顔を覗かせて云った。一同が、「樹ちゃーん」と、嬉しそうに声を上げた。
「い、樹さん。どうしたんですか?こんなに早い時間に」
くるみは、目を丸くして樹を見た。
「いや、今日非番だから、そろそろ開店だし顔出そうかなと思って来たの。ちょっと早かったけど」
おどけるように樹が云う。そんな樹に、リオンが楽しそうな口調で云った。
「くるみがね、水曜にデートなのよ」
くるみが、慌ててその口を止めようとする。だが、樹は興味を示したように「デート?くるみちゃんが?」と嬉々とした声をあげた。
「そ、だから今、下着は揃えておかなきゃダメよって、説教してたところよ」
ミヅキがくるみを横目に見て云った。くるみは恥ずかしさに、俯くしかなかった。
「マジで?じゃぁくるみちゃん、処女脱出?」
樹の言葉に、一同が「えぇ!」と声をあげた。
「樹さん、その話は……」
くるみが、情けない声で云ったが、店子たちは「処女だったのー?」と、一気に場が賑やかになった。
「アンタ、その歳で処女はないでしょう」
ミヅキの声に、くるみは穴があったら入りたい気持ちになった。
「処女の女とやるのって、結構面倒よねぇ。しかも、この歳でしょ」
「確かに、処女は面倒よねぇ。わかったら、逃げられるんじゃない?」
店子たちは好き勝手云いたい放題である。くるみは、反撃に出たかったが、言葉が出てこなかった。
「なんなら、あたしが抱いてあげようか?」
リオンが、くるみにじり寄って云った。
「あたし、こっちの機能はまだ男だし。くるみのためならひとはだ脱いであげてもいいわよ」
真っ赤なマニキュアを施した指が、くるみの首筋を這う。身体に鳥肌が立った。
「……ひっ」
「なんなら樹ちゃんが一発抱いてやったら?」
リオンが、樹の方を見て云った。くるみも、驚いたように思わず樹の方を見た。
「いやぁ、さすがにそれはマズいでしょ。いいじゃん、好きなら処女も関係ないよ」
樹が、笑いながら云う。だが、その言葉に、くるみはどこか心が落ち込んでいくのを感じた。
そのとき、扉が開き、ママが入って来た。
「そろそろ準備してね、開店よ」
その声に、一同が「はーい」と、立ち上がる。くるみも、顔をそむけ、化粧台に置いたコサージュを手にとり、髪に留めた。樹が、店子たちに促されて、外に出て行く。その後ろ姿を鏡越しに見ながら、くるみは大きく溜め息を付いた。
開店と同時に、店に客がなだれ込んでくる。早速料理の注文が入り、くるみは準備に大忙しだった。樹はカウンターでビールを飲みながら、云った。
「くるみちゃん、仕事順調そうだね」
樹に背を向けたまま、「……まぁまぁかな」と小さく答えた。
「今日は、カオルちゃんは休みなの?」
カオル、という言葉に、くるみは思わず肩を強ばらせた。だが、それを悟られないように、平静を装って云った。
「今日は非番です」
「そうなんだ」
「あの……」
くるみは出来上がった料理をカウンターに置き、樹の方を見た。ボーイがすかさずその料理を取り、客席の方へ運んでいく。それを見送って、意を決したように云った。
「その……樹さん、女性と付き合ったことがあるって、本当ですか?」
くるみの言葉に、樹は飲んでいたビールを吹き出した。慌てて、くるみが布巾を渡す。その布巾で濡れたテーブルを拭きながら、樹が明らかに動揺した様子で云った。
「どうしていきなり」
「……いや、カオルさんが、そう云ってたから」
そう云うと、「アイツ……」と、樹は恨めしそうに言葉を漏らした。
「あ、べつに答えたくなかったらいいんですけど……」
「本当だよ。って云っても、十年近く前の話だけどね」
「十年……」
そんなに前の話だったのか。くるみは、少し安堵するように胸を撫で下ろした。
「普通の男じゃないのか、確かめたくて、女の子と付き合ったことがある」
「……そうだったんですか。……なんか、ごめんなさい」
くるみは、申し訳ない気持ちになり、頭を下げた。
「べつにいいんだけどね。カオルちゃんの奴、意外と口が軽いんだな」
その言葉に、カオルの顔が浮かんでくる。突然表情を変え、くるみに不意打ちに口づけをしたカオルの、冷たい微笑。
「……あの」
「何?」
樹がビールのグラスを傾けて、くるみを見上げる。
「カオルさんも……女の人と、その、付き合ったこと、あるのかな」
「カオルちゃん?」
訝しげに樹が眉をひそめた。
「……さぁ、そこまでは聞いてないけど。でも、好きな人はいるみたいだよ」
「へっ?」
好きな人、という言葉に、くるみは思わずどきりと顔を強ばらせた。カオルが云った、「僕、くるみさん、好きですけどね」という言葉が、脳裏に蘇ってくる。
「それって……」
「さぁ、誰かは教えてくれなかったけど。へへへ、俺のこと勝手に話した、仕返し」
そう樹は笑って云うと、ビールを飲み干した。くるみは、心が穏やかでなくなっていくのを感じた。それを紛らわすように、樹に背を向け包丁を手にすると、ミックスナッツを思い切り刻み始めた。
「良かった、本当に来てくれて」
遼の、人懐っこい笑みが零れ落ちる。その顔に、くるみも思わず微笑んだ。「行こうか」と、遼が先立って歩を進めた。
水曜の夜、約束通り、くるみは八時に表参道ヒルズへとやってきた。薄いクリーム色の布地に小さな花柄の刺繍があしらわれたノースリーブの膝丈ワンピースに、樹の実家へ行ったときにも着ていた白のテーラードを身につけていた。このワンピースも、店子たちに半ば強制的に買わされたものの一つだった。
遼は、近くのイタリアンを予約しているということだった。遼の隣を歩きながら、くるみは少し嬉しさを感じると同時に、複雑な心持ちでもあった。
結局、昨夜もカオルは大学の試験の関係で休みを取っており、会うことができなかった。カオルの行動の真意がずっと気になっているままだった。
「藍原さん?」
遼の声に、くるみははっと我に返った。遼が、くるみを心配そうに覗き込んでいた。
「……あ、ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしちゃって」
「体調が悪いとか、そういうのじゃない?」
「全然……あの、そういうのんじゃないので……」
「良かった」
遼が、安堵の笑みを浮かべた。くるみは、そんな遼を不思議な思いで見ていた。
遼が入って行ったのは、カジュアルな白を基調としたイタリアンレストランだった。遼は、予めコース料理を注文していてくれたようで、嫌いなものがないかを聞かれた後、とんとんと料理が運ばれて来た。
こんなにお洒落なレストランに入ったのは、初めての経験である。それも、一緒にいるのは男性だ。くるみは、緊張しながら縮こまるようにして座っていたが、運ばれて来た料理にそんなことも忘れてしまった。
「このドレッシング、すごくおいしい……バルサミコ酢に何が入ってるんだろう」
くるみは、サラダのドレッシングをフォークに付けて何度も舐めて、その味を確かめてみる。その様子を見て、遼が笑った。
「本当に料理が好きなんだね、藍原さん」
「……あ、ごめんなさい」
遼のことをすっかり忘れて料理に気を取られていたことに、くるみは思わず肩をすくめた。
「でも、本当に驚きだな」
「……何が、ですか?」
「いいよ、同級生なんだから、タメで話してよ。いやさ、あんなところで藍原さんと再会して、しかもこんなに綺麗になっててさ。高校のときの連中が知ったら、卒倒すると思うよ」
あんなところ、という言葉に引っ掛かったが、くるみはあえてそれには触れず、「はぁ……」と小さく相槌を打った。
「前のドレスも良かったけど、そういう格好の方がやっぱりいいよ。でも、伯母さんの手伝いとは云え、ああいいところで働くっていうのは、抵抗ないの?」
ああいうところ。やはり、一般の人間は、そういう目で見ているものなのかと、くるみは考えずにはいられなかった。ドレッシングを舐めながら、くるみが口を開いた。
「……最初は、なかったわけじゃないですけど……でも、みんな良い人だし」
「でも、やっぱりああいう世界って、異常じゃない。男が女装して、男にべたべたして、俺には理解できないな」
腕を組み、眉をしかめながら遼が云った。くるみは、少なからず、その言葉に嫌悪を感じずにはいられなかった。ミヅキたち店子はみな、本気で女性に憧れ、女性以上に女性を極めようとする努力には目を見張るものがある。その思いを、軽蔑されているような気がして、くるみは思わず黙り込み、俯いた。
「長くは続けないんでしょ?有給取ってるって云ってたもんね。いつまで?」
遼はくるみの気持ちには気付いていないように、あっけらかんとした顔で尋ねた。くるみは、小さく口を開いた。
「……あと三ヶ月くらい」
「三ヶ月、結構長いんだね」
くるみは曖昧に頷いただけだった。遼が、くるみの顔を覗き込むようにして云った。
「あんまり長くはいない方がいいんじゃないかな?」
「……どうして?」
「やっぱり、若い女性が働く場所じゃないよ、ああいうところは。危ないことだってないとは限らないし、女装してたって男ばっかりだろ。心配だよ」
「……心配」
くるみが、呟くように云った。遼の顔を見上げると、遼は真剣な顔をしてくるみを見ていた。
「藍原さんが、危ない世界に身を置いているのが、心配なんだよ」
お待たせしましたと、メイン料理が運ばれてくる。二人で取り分けることを前提としてあるようで、大皿に盛られたパスタと肉料理がそれぞれ中央に置かれ、店員が取り皿を並べた。
くるみは、遼の視線を逸らすように、取り皿に料理を取り分け始めた。
「……私、今の仕事、楽しいんです。会社では……あ、経理をしているんですけど、ずっと黙々とパソコンに向かってるだけで……だから、料理、好きだし……楽しいんです」
なんとか、伝えたい言葉を一つ一つ紡ぐようにして、云った。
「料理なんて、どこでもできるじゃない」
「……そうですけど」
「わざわざ、あんな……オカマバーでやることはない。藍原さんの腕なら、こういうレストランでだって雇ってもらえる」
くるみは、取り分けた料理を、遼の前に置いた。自分の分も前に置き、フォークを手に取った。口にした料理はおいしい。だが、それをしっかりと味わうような気分ではなくなっていた。
くるみの様子を察したのか、遼はすかさず話題を変えた。その話し振りから、遼はよく話慣れていて、それでいて賢い人間なのだということがよくわかった。話題は豊富で、切り返しや相槌も上手い。相手を決して飽きさせなかった。話し下手のくるみをカバーするように、遼は質問の形で話し掛けることによってくるみの言葉を巧妙に引き出してくれる。いつもよりも饒舌になったようで、純粋に楽しいと思えた。
店を出たときには、既に十一時を回っていた。それでも、街はまだ多くの灯りがともっていて、明るい。
遼は家まで送ると申し出てくれたが、くるみはそれを断った。ミヅキの言葉通り、新しい下着を買い、上下の柄をきっちりと合わせてはきていたが、さすがにそれを遼に晒すつもりはなかった。
タクシーを停めようと、遼が大通りに出て、道行く車を覗き込んでいる。くるみは、ふと口を開いた。
「あの……」
遼が、振り返りくるみを見た。
「何?」
「あの……さっきの話……って云っても、随分前の話なんですけど」
「ミトコンドリアの話?それとも、仲間由紀恵の声優時代の話?」
「……いや、もっと前で……その、ああいうところ……というか、ニューハーフバーって、そんなにいけないでしょうか?」
くるみの言葉に、驚いたように遼が目を見開く。だが、すぐに頬を緩め、人懐っこい表情に戻った。
「なんだ、その話」
遼は、なぜか安心したように笑う。くるみは、じっと遼の目を見つめていた。
「いけないっていうのじゃないけど……異常だとは思うね。特に、そこに女性がいるっていうのが」
「女性に憧れることが、異常なんでしょうか?」
くるみは、自分が何を云っているのか、よくわからなかった。何を云いたいのかも、よくわからない。だが、このまま帰るのは、どうしても気持ちが悪い気がしたのだ。遼は、そんな真剣に訴えるくるみの瞳に、戸惑うように云った。
「どうして、そんなにこだわるの?」
「え?」
「伯母さんの店だから?」
「それは……」
くるみは、嘘をついているのが心苦しくなって、白状するように、CANDY HEARTで働くことになった経緯を、しどろもどろに説明した。本当はママは伯母でも何でもなく、偶然知り合った男に誘われて、料理が活かされるならと働き始めたこと。人に食べてもらえることが嬉しいということに気付けたこと。拙い言葉にも関わらず、遼は真剣にその話を聞いていた。一連の話を終えたくるみに、解せない顔で云った。
「それなら尚更のこと、違う店でもいいじゃない」
「え……」
「今日、藍原さん、食べた料理においしいって感動してたじゃん。他の店で働いても、一緒だよ」
「……そういうわけじゃなくて」
くるみは、言葉足らずな自分に、もどかしさを感じるばかりだった。伝えたいのは、料理ができるとか、そういうことじゃないのだ。だが、それをうまく補足する言葉も思いつかない。言葉を探そうと四苦八苦していると、遼がくるみに歩み寄り、云った。
「俺は、藍原さんには、普通の店で、普通に料理を作っていてほしい。あんな派手なドレスなんか着ずに、オカマたちに囲まれることなく、普通に」
「……どうして、ですか?」
くるみが、不安な瞳を向けて聞いた。
「……気になる女性に、そんなところにいてほしくないからだよ」
くるみは思わず、遼を見上げた。
「再会して二回目でこんなことを云うのはおかしいかもしれないけど、俺は本気だよ。今すぐ返事が聞きたいとは云わない。けど、考えてほしい」
くるみは、呆然として、ただ遼を見上げていた。遼は、そんなくるみの身体をを引き寄せ、抱きしめた。
「また、会ってくれるよね」
遼のスーツからは、何かの香水なのか、良い匂いがする。その、腕の温かさに、くるみはただされるがままになっていた。
「くるみちゃん、なんかずっと上の空」
樹が、ずっとどこか遠くに視線を置いているくるみに、呆れるように云った。
「へ?」
思わず、くるみが視線を戻し、樹を見た。
くるみと樹は、CANDY HEARTの近くにある喫茶店にいた。頼んだコーヒーは、とうに湯気を潜め、冷めてしまっていた。
樹から電話があり、母親から送られて来た荷物を渡したいということで、この喫茶店にやってきた。樹の母親は、以前お土産にと渡した蕎麦をくるみがうまく調理して樹に食べさせたということに喜んだようで、またくるみにと食料を送ってくれたというのだ。受け取った袋には、蕎麦だけでなく、わさびや佃煮など、色々な長野の特産品が入っていた。
「そう云えば、この間デートだったんでしょ?もしかして、やっちゃったとか?」
樹が、好奇な目でくるみを見る。くるみは、それを全力で否定した。
「そ、そんなわけ……」
「じゃぁ、何でそんなにずっとぼーっとしてるの?」
くるみは思わず黙り込んだ。水曜の夜の、遼のことが思い出されてくる。
遼はしばらく、くるみを抱きしめていた。だが、それ以上のことはしようとせず、タクシーを拾ってくるみをそれに乗せた。くるみが何度も拒むのにも関わらず、タクシーの代金までもってくれたのだ。
遼は、くるみに交際をほのめかす言葉を残した。食事中に聞いたメールアドレスに、食事の礼を云うメールを送って以来、遼とは連絡を取っていない。だが、考えてほしいという言葉が、ずっと頭をぐるぐると回っていた。
本当に、ここ数日間の自分はどうしたものだろうか。くるみは、自分のことでありながら、身体と心が追いつけていないと感じていた。二十九年もの間、浮いた話など一度もなかったのに、突然嵐が起こったかのように波が怒濤に押し寄せているような気がする。
くるみは、樹を目の前にして、遼のことを云い出せずにいた。樹に、無意識にキスをしてしまったことが、ずっとしこりのように残っていた。ここで、遼のことを云い出せば、樹はどんな顔をして、何を云うだろうか。どんな反応をしようと関係のないはずだったが、その反応を見るのが、なぜか怖い気がしていた。
「……べつに、ちょっと疲れてるだけです」
「ずっと働き詰めだもんね、くるみちゃん。うちの仕事くる?CANDY HEARTよりずっと日給良くて、日数少なくても稼げるよ」
樹が、からかうように云った。樹の職場と云えば、風俗である。くるみは、思わず樹を睨みつけた。
「冗談だよ。処女じゃ、やってけないよ」
その言葉に、より一層憎しみを込めて、睨みつけた。
「でもくるみちゃん、随分変わったし、男もわんさか寄ってくるんじゃない?」
「え?」
「私服も、変えたの?」
くるみはそう云われて、思わず口を噤んだ。これまでは着るものに特にこだわることもなく、適当に値段が手頃なものを買っていたが、今日は胸元に少しギャザーの掛かったシンプルな茶色のトップスに、薄めの茶色のAラインの膝丈スカート、黒のヒールという出で立ちだった。ミヅキたちと出掛けた店のような高級なブランドのものではなかったが、一人でショッピング施設へ出掛けて購入したものだった。ミヅキに云われた言葉に感銘を受けて、もう少し服装にこだわりを持とうと思ったのだ。くるみはそれをツッコまれたことに恥ずかしくなった。
「でも、寂しいなぁ。男の色に染まっちゃうくるみちゃん」
「は?」
「この間のデートで、何かあったんでしょ?」
確信をついてくる樹に、くるみは思わず黙り込んだ。
「やっぱり。くるみちゃん、嘘つけないよね。わかりやす過ぎ」
「べつに……何も」
「キスしちゃったとか?」
「え?」
「あ、図星?もしかして、ファーストキスなんじゃないの?」
面白そうに、樹が云った。くるみは、喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。ファーストキスの相手は樹だったなどと、どうして云えるだろうか。
「……私、もう行きます」
くるみは鞄と樹からもらった袋を手にとり、立ち上がった。
「え、怒っちゃったの?」
「お母さんに、お礼云っておいてください」
そう云うと、くるみはお金だけを置いて、足早に店を出た。背後から、樹の声が聞こえたが、振り返らなかった。樹には、遼のことで何かを云われたくなかった。言葉にしようのない感情に、くるみは髪を掻きむしった。
少し早かったが、くるみはそのままCANDY HEARTへ向かった。一度自宅に戻るには、時間がひどく中途半端だった。店に入ると、すでにママがいた。
「あら、今日は早いじゃない」
「おはようございます。ちょっと、外に出ていたので」
「そう。食材、もう届いてるわよ」
「あ、ありがとうございます」
くるみは、カウンターに置かれたダンボールを見た。以前、ママが好きに注文をしていいと云ってくれたので、食材の注文はくるみが個人でしている。さっさと着替えて、料理で気を紛らわせよう。くるみは、荷物を置くべく控え室に入った。
控え室に入ると、すぐに机で何やら書き物をしているカオルが目に入った。くるみは、思わず緊張が走るのを感じた。カオルがくるみに気付き、いつもの愛想の良い笑みを浮かべて、「おはようございます」と云った。
あのキスの一件以来、カオルと顔を合わせていなかったわけではなかった。だが、いつも入れ違いになることが多く、結局あの日のことを聞けずじまいになっていた。くるみは肩を強ばらせたまま、「おはようございます」と、ぎこちなく返した。
カオルは、大学の授業の課題でもしているらしい。教科書らしき本を片手に、ノートを取っているところだった。くるみはそっと奥のロッカーへ赴き、荷物を鞄に入れた。
このまま黙って部屋を出ることもできる。だが、いつかは向き合わなくてはならないことだ。くるみは意を決して口を開いた。
「あの、カオルさん……」
「はい」
カオルが顔をあげる。あどけない瞳をぱっちりと開いて、くるみを見ていた。
「この間のこと……なんだけど」
「この間?」
「……その、キス……したじゃないですか」
くるみは、カオルの視線を逸らすようにして云った。だが、カオルは平然とした様子で、「いけなかったですか?」ときょとんとして云った。
「え?」
「キスをしたいと思ったから、キスをした」
あまりにさっぱりと云うものだから、くるみも呆気に取られて口を噤むしかなかった。カオルが立ち上がり、くるみに近づいてくる。くるみは少し引き腰になった。
「で、でも、カオルさんはその……同性がいいんじゃ……」
「女性も好きですよ。おかしいですか?」
「おかしい……ってわけじゃ……」
「可愛い女性、好きなんです。くるみさんみたいな」
そう云うと、カオルは顔を近づけてきた。くるみは、思わず強く目蓋を閉じた。
そのとき、扉が開いた。思わず、くるみが身体を離す。入ってきたのはママだった。
「くるみ、ちょっとおいで」
ママは、二人の微妙な空気には何も気付いていないようだった。くるみは、慌てて逃げるように控え室を出た。
心臓の鼓動が早くなっているのがわかる。それを押さえるように、くるみは大きく息を吐いた。ママがそんなくるみの肩を押した。
目を上げると、知らない男が二人立っていた。ラフなシャツにジーンズ姿という出で立ちで、二人とも若い。くるみは、訝しげに眉を潜め、警戒するように二人の男を見比べた。
「テレビ局の人なんだって。アンタの料理の評判聞きつけて、取材したいって」
男の一人が、「どうもー」と、にへらとへりくだったような笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「本当に女性なんですねぇ」
そう云って、くるみの顔を不思議そうに覗き込む。くるみは、思わず後ろに退いた。
「あ、私たち、国民テレビで番組制作を請け負っている者です」
男が名刺を差し出す。受け取った名刺には、制作会社と足立満行という名前が書かれていた。
「私たちは、日曜の九時から放送している、日本裏ツアーというバラエティ番組を制作しています。日本中の、マイナーな観光スポットに光を当てて、それを取材するという内容なんですけどね。それで、ちょうど知り合いからこの店のことを聞きましてね。そこらのレストランよりもおいしい料理を出すニューハーフバー、しかもシェフはまさかの女性というじゃないですか。そのギャップが面白いと思いましてね。ぜひ、取材させてもらえないでしょうかね?」
突然持ち掛けられた話に、くるみは困ったようにママの方を見た。
「そういうことなんだよ。こっちとしちゃぁ、テレビに映れば良い宣伝になるし、悪い話じゃないんだけど、メインはアンタだからね。アンタがどう思ってるかを聞きたいってわけだ」
もう一人の男が、くるみを舐めるように見て、笑みを浮かべた。
「今は時代も寛容になって、こういった特殊バーは一般人も出入りするようになって数も増えた。その中でプラスαのある店ってのは、強い。しかもこういう店には不似合いな控えめな美人ときた。面白いっすよ。あなたも、一躍新宿二丁目のヒロインになりますよ」
男の言葉に、くるみはただ戸惑うしかなかった。日本裏ツアーという番組は知っている。いつも、母が夕食の後で、食いつくように見ている番組だ。ゴールデンタイムの番組なのだから、知っている人も見るかもしれない。テレビに顔が映るのはご免だとくるみは思った。
「……私、テレビはちょっと」
くるみが、曖昧に云った。すると、足立が食らい掛かるように、くるみの前に立った。
「このお店の宣伝にもなるんですよ。テレビほど、コマーシャル効果のある媒体はありません」
「……でも、顔が映るのは……その、困るんです」
「どうして?」
「それは……」
くるみはママの方を振り返った。ママの目つきは、鋭かった。その目は、どう見ても取材を受けてほしいという意志がこもっていた。
「顔、顔を隠してもらえたら……」
半ば怖じ気づくように、くるみが弱々しく云った。その言葉に、もう一人の男が不満そうな声をあげる。だが、足立はそれを制し、「わかりました」と云った。
「顔には、モザイクを掛けさせましょう。勿論、実名も出しません。それで、オッケーですか?」
正直、気乗りはしなかった。だが、自分の行動に店の繁栄が掛かっていると思うと、下手に断ることもできない。くるみは、視線を逸らし、「それなら……」と呟くように云った。
「よし、決まりだ。ありがとうございます。取材日程や段取りについて詳しい打ち合わせ等をさせていただきたいのですが」
足立がそう云い、ママが奥のボックス席へと二人を案内した。すれ違いぎわに、ママがくるみの肩をポンと叩いた。その顔には、笑みが浮かんでいる。
テレビの取材———くるみは気が滅入ったように、大きく溜め息をついた。
テレビの取材の話に、店子たちは大盛り上がりだった。
詳細な日程がママから伝えられる。週明けの月曜日が取材の日になった。その日は、一般の人々が入店できる開放デーだった。客が入っているときに取材をしたいという話だったが、本当にそれ目当てにくる客を取材するのでは、客のプライバシーに関わってくる。そこで、単に雰囲気を楽しみたいと観光気分でやってくるノーマルな客ばかりの開放デーになったということだった。
店子たちは、誰がテレビにインタビューされるかという話で持ち切りだった。勿論、すべての店子たちがそれに乗り気だったわけではなかった。ニューハーフをしていることを隠している店子も、少なからずいる。カオルもその一人だった。
「僕は、遠慮しておきます。親に知られたらまずいので」
カオルがそう云うと、マナも「あたしもパス」と顔の前でばってんを作って云った。
「妻に知られちゃまずいしねぇ」
その言葉に、驚いたようにくるみが声を上げた。
「マナさん、結婚されてたんですか?」
「そうよぉ、知らなかった?」
他の店子たちは、みな知っていたようだ。平然とした顔で、逆にくるみを不思議そうに見ていた。
「でも……マナさん、男性と……」
マナがいつも、男の客にべったりとくっついて甘えている姿が思い出される。
「男が好きなら、結婚しちゃいけないの?」
マナが、ふてくされたように頬を膨らめて云った。
「マナはね、普段は公務員だから、結婚してなきゃ居辛いのよ」と、くるみの傍でミヅキが耳打ちした。くるみは、解せないように、眉をしかめるしかなかった。
結局、インタビューには、ミヅキとリオンが応じることになった。二人は、女子高生のように、きゃぁきゃぁとはしゃいでいた。
くるみだけは、やはり気乗りせず、表情がずっと暗いままだった。
「なによー、主役のくせに、その浮かない顔」
リオンが、くるみの腕を小突く。それでもずっと険しい表情をしたままのくるみに、リオンが云った。
「顔は出ないんでしょ?ならいいじゃない」
「そうですけど……」
「せっかくのテレビデビューチャンスだってのに、じめじめしちゃって嫌ねぇ」
ミヅキが、つまらなさそうに云う。そんなミヅキたちに気に留めず、くるみは大きく溜め息をついた。モザイクが掛かっているにしても、放送日にはなんとかして母親をテレビから離さなくちゃ———そのことばかりが、ずっと頭の中をぐるぐると回っていた。
取材は、特に問題なく進んだ。
開店から二時間ほど経った九時過ぎにカメラが入り、番組の司会をしている有名なタレントたちが店内に入ってくる。あまりテレビを見ないくるみでも知っている、旬のアイドルたちだった。事前に客には撮影があることが知らされていて、タレントたちが入ってきた瞬間、場が大いに盛り上がった。特に女性客たちは、歓喜の声を上げて、中にはファンだという女性もいたらしく涙を流す人がいたくらいだ。
くるみは、そんな歓声からは取り残され、自分にカメラを向けられることへの緊張で、頭がいっぱいだった。ADがやってきて、「スタンバイ、お願いします」と声を掛けた。
事前に細かな動きに関する打ち合わせは済んでいる。料理をしているくるみの姿が映され、司会に声を掛けられる。その質問に、簡単に答えるだけでいい、という話になっていた。
くるみは、いつも以上に派手なドレスを着せられ、髪の毛も綺麗にセットされていた。普段は脇役なのだから、髪のセットにまでこだわることはなく、下ろした髪にコサージュを付けるくらいなのだが、今日は控え室に入るなり店子たちに掴まえられ、無理矢理アップにさせられたのだ。それだけに、落ち着かない。
「なんと、このお店のシェフは、女性なんですよ」
「え、本物のですか?」
「そうなんです。本物の女性が、料理を作っているんですよ。あ、こちらの方ですかね」
アイドルたちが、台本に沿った会話をして、台所のあるカウンターの方へと近づいてくる。
「あのー、すみません。シェフの方ですか?」
その声に、くるみはおずおずと振り返った。
カメラや照明が、こちらに向けられている。くるみは、思わず顔をしかめた。
「カット、カット!すみません、くるみさん、もうちょっと笑顔にしてもらえませんか?」
すかさず、足立の声が飛んで来た。
「……でも、顔、映らないんですよね?」
「……そうですけど、やっぱり雰囲気は伝わりますから。無理矢理でいいんで、笑ってください」
もう一度いきまーす、とADの声が聞こえ、アイドルたちが戻っていった。くるみは、何度ついたかわからない溜め息をまたつくと、走って逃げ去りたいと天を仰いだ。
「藍原さん、どうしたの?ずっと浮かない顔してるけど」
遼が、怪訝な顔をしてくるみを覗き込んだ。くるみははっと我に返り、手元のカップを手に取ると、コーヒーを口に含んだ。
「何かあった?」
「……べつに、何もないです」
遼から電話があり、今から会えないかと云われたのは、撮影の翌日の朝だった。くるみは、前日の撮影に生気が吸い取られたようにげっそりとしていて、本当は断りたいところだったが、あまりの遼のプッシュに家を出て来たのだった。
しばらくはトラウマだわ———くるみは、昨夜の取材を思い出す度に、そう思わずにはいられなかった。
結局、笑顔が堅いと何度もやり直しになり、トークも声が小さいと怒号が飛び、そのうち店子たちに説教される始末だった。くるみは、気持ちが悪いくらいの作り笑顔を受け、妙に不自然な声で話さなくてはならなくなった。どれだけ着飾って、みんなに変わったと云われても、性格まではそう簡単に変わるものではない。くるみは、そのことを思い知った。
遼が、「何でもないなら、いいんだけど」と、同じようにカップを手に取り、コーヒーを飲んだ。遼は営業回りの途中らしく、スーツ姿である。さすがに遼には撮影のことは云えない。
「この間のこと、考えてくれた?」
不意にそう云われ、くるみは「えっ」と小さく声をあげた。
「この間、帰り際に云ったこと。俺、本気だって、云ったでしょ」
ふと、先日の遼とのやり取りが思い出される。抱きしめられたときの感覚が蘇り、恥ずかしくなってくるみは俯いた。遼は、「そうだよね」と、焦るように髪を掻き上げた。
「いきなり云われても、困るよね。再会してから、会うのはまだ二回目だし……いきなり付き合ってほしいって云われても、決められないよな。ごめん、うざかったね」
遼が、項垂れるようにそう云った。くるみが慌てて、首を振った。
「いえ……うざいなんてそんな……」
「でも、現に困ってる」
遼が見透かしたように云う。くるみは視線を逸らしたまま云った。
「……ちょっと色々あり過ぎて、頭の中が整理できていないんです。その……気持ちはとても嬉しいんですけど」
「本当?」
遼が、身体を乗り出して云った。
「それは、良い返事だと取っていいのかな?」
「それは……」
「他に好きな人でもいるとか?」
好きな人、と云われ、頭に樹の顔がよぎる。だが、それを払拭するように云った。
「そんなことは……ないです」
「良かった。じゃぁ、付き合う気になってくれるまで、気長に待つよ」
遼は、安心したように笑みを浮かべ、店員を呼び止めてコーヒーのおかわりを注文した。くるみは、途端に罪悪感にも似た申し訳なさがこみ上げてくるのに気付いた。
遼は、くるみの目から見ても、素敵な異性に違いなかった。容姿も良く、話も面白い。気配りもしてくれて、それでいてまっすぐである。遼に異性として魅力を感じるし、好意も持っている。そんな男性に交際を申し込まれるなんて、夢のまた夢のような話に違いなかった。
なのに、なぜか素直に頷くことができない自分がいる。
一時間ほどして、二人は店を出た。遼は、これから取引先に赴くという。最寄りの駅は同じだったので、肩を並べて駅までの道を歩いた。遼が不意に、くるみの手を握った。驚いたように見上げるくるみに、遼は「これくらいはいいでしょ?」と悪戯っぽく笑った。拒む理由も見当たらなかったので、くるみはそのままされるがままに遼に身を任していた。
「くるみさん?」
突然名を呼ばれ、くるみが思わず振り返った。
「……カオルさん」
カオルが、満面の笑みを浮かべて立っていた。いつものカジュアルな格好で、手にはキャリーケースを持っている。どうやら、大学の帰りのようだ。
くるみは咄嗟に、遼の手から自分の手を離した。遼はそれには触れず、「偶然ですね」と穏やかな声で云った。
「こちらは?」
遼が、尋ねる。くるみが何と答えようかと考えあぐねていると、カオルが口を開いた。
「CANDY HEARTのカオルです」
その答えに、遼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの爽やかな笑顔に戻った。
「そうですか。全然わからなかったな。俺が店に行ったときにはいなかったのかな」
遼がニューハーフに対して良い印象を持っていないことは先日の会話でわかっていたが、そんなことを感じさせないような話し方だった。そういうところは大人なのだろうとくるみも思った。
「僕の考えが間違いでなければ、僕はその日は店にいませんでした。店でも話題になってた、噂の彼ですよね?」
カオルが、茶目っ気たっぷりにくるみを覗き込んで云った。くるみは、「あの……」と、狼狽えるように言葉を濁した。
「噂になってるんだ。それは驚きだな」
「くるみさんに素敵な彼ができたって、店で話題になっていたんですよ。確かに、とてもお似合いですね、くるみさん」
カオルが笑って云う。その言葉の真意が読み取れなかった。くるみは眉を潜めてカオルを見ていたが、そんなことには気付かないように、カオルが聞いた。
「くるみさんはこれから店ですか?」
「……えぇ」
「じゃぁ駅に向かうんですよね。お邪魔でなければ、ご一緒してもいいですか?」
一瞬遼が顔をしかめたのがわかったが、遼は「どうぞ」と笑顔を浮かべた。
駅までの道のりは、奇妙な並びになった。カオルが、他愛のない会話を持ちかける。遼も、カオルの屈託のなさに、警戒心は薄れたようだった。
駅に着くと、遼は「じゃぁ、また」と反対側のホームへ踵を返そうとした。カオルが、「僕も」とその後を追う。くるみは、慌ててカオルを呼び止めた。
「店に、行くんじゃないの?」
「今日は非番なんです。家は、こっちの電車なんで」
そう云うと、遼に「ご一緒してもいいですか?」と窺うように聞いた。遼は、多少警戒を強めたように顔を強ばらせたが、「勿論」と愛想笑いを浮かべた。
「じゃぁ、また連絡入れるから」
そう云って踵を返し、カオルと共に反対側のホームの階段を上っていく。
なんとなく、心が不穏になっていく。だが、くるみは仕事があるため、二人とは違う方の階段を上がり、ホームへと向かった。
カオルは、遼の顔を一瞥した。明らかに、そわそわとしているのがわかる。ニューハーフバーの店子と知り、自分も狙われているのではないかと思っているのだろうと、カオルは思った。
「くるみさんとは、付き合っているんですか?」
カオルがそう聞くと、遼は「えっ」と、慌てたように振り向いた。
「さっき、手、繋いでたから」
「あぁ……俺は、付き合ってほしいと思ってるんだけどね。まだ返事待ちなんだ」
遼は「付き合ってほしい」という言葉を強調させるように云った。それで、カオルを引き離そうとしているのだろう。カオルは、平然とした口調でで、「やっぱり、そうなんだ」と遼を見た。
「どういう意味だい?」
遼が、顔をしかめる。カオルは、そんな遼を挑発するように見上げて云った。
「くるみさん、ずっと樹さんが好きなんだと思ってましたから」
「樹……?」
遼の顔が、みるみるうちに曇っていく。
「くるみさん、樹さんの家にも居候してたことがあるみたいだし、ちょっと前に樹さんの実家にも遊びに行ったみたいですよ」
「……付き合ってるの?」
遼の唇が、微かに震えていた。カオルは、素っ気ない様子で、首を振った。
「いえ、付き合ってはいないみたいですけど。くるみさんの片思いですかね」
「その男は、藍原さんのこと、どう思ってるのかな」
「さぁ、遊び程度じゃないですか?本命は他にいるみたいだし」
その一言に、遼は黙り込んだ。車内放送が鳴り響き、次の停車駅を告げる。
「あ、僕降りるんで」
カオルが、笑みを浮かべて云った。踵を返そうとするカオルを、遼が慌てて呼止めた。
「君……その樹って男、どこに行ったら会えるのかな?」
電車が停まり、扉が開く。人々が車両から吐き出されていく喧騒の中、カオルが小さく口を開いた。
「アンタが食事に誘ってくれるなんて、珍しいじゃない」
「本当に。いきなり家を飛び出したかと思えば、食事に誘うなんて、どういう風の吹き回し?」
母親と姉のみちるが、店内を見回しながら、くるみに云った。くるみは、バツの悪い顔をして、「そうかな」と濁すように云った。
くるみは、母親とみちるを伴って、青山のフレンチレストランにいた。目の前に前菜が並べられる。それを見て、一層二人がはしゃぎ声をあげた。
———出費は痛いけど、仕方ない……
くるみは、財布を覗き込みながら、そんなことを思った。こうなった以上は、料理を楽しむしかない。そう考え、ナイフとフォークを手に取った。
今日は、二週間前に撮影したテレビ取材の放送日だった。予想外に放送が早いことに驚いたが、放送される以上、手を打たない訳にはいかなかった。
くるみは、最近買った服は着ず、実家にいたときのままの服装を選んだ。髪も、ひっつめである。眼鏡だけは壊れてしまってないので、樹に買ってもらった赤縁のものをつけているが、それ以外は以前のままだった。
「それにしてもくるみに男がいたなんて、驚きよねぇ」
みちるが、前菜を頬張りながら云う。くるみは思わずむせ返った。
「本当よぉ。同棲したいなら同棲したいって、正直に云って出て行けばいいのに。もういい大人なんだから」
「だから、一緒に暮らしてないってば。さっきも説明したじゃない」
くるみは、溜め息をつきながら云った。
「じゃぁ、どうして家、出たままなのよ」
「それもさっき説明したでしょ。今は、マンスリーマンションにいるって。勿論、一人で」
「毎日、何してんの?仕事も長期休暇取ってるらしいじゃない」
母親が、訝しげに眉をしかめる。くるみは、視線を逸らしたまま云った。
「……友達がね、飲食店してるから、そこ手伝ってるの」
ニューハーフバーで働いているとは勿論云えるはずもなく、くるみは苦し紛れに嘘をついた。
「友達?アンタ、そんな友達いたの?」
みちるが驚いたように目を丸くする。その様子に、苛立つ思いだったが、何も云わなかった。
「まぁ、料理だけしか取り柄ないしねぇ、いいんじゃない?」
母親はそう云うと、人のお金だと思ってワインをおかわりした。
料理はメイン、デザートと続き、時間はいつの間にか九時を回っていた。
今頃、店ではみんなで番組を見ているだろうか———くるみは、昨夜用意されていた巨大スクリーンを思い出しながら、そんなことを考えた。主役である当のくるみは番組を見たいなどとは間違っても思わず、録画も何もしていなかった。それどころか、あの体験がトラウマになり、テレビを見るのも嫌になって、テレビに布をかぶせている始末だ。
「ねぇ、例の彼は何をしている人なの?」
コーヒーを飲みながら、母親が云った。くるみは、思わず声を詰まらせた。
「どこで働いているの?」
風俗店のキャッチと云うのはまずい。くるみは咄嗟に遼のことを思い出して云った。
「その……帝都貿易商事……」
そう云うと、二人は歓声にも似た声をあげた。
「すごいじゃない!どうやってそんなの掴まえたの?」
みちるが云う。くるみは、曖昧に誤摩化すしかなかった。
そう云えば、樹とも遼とも、ずっと会っていなかった。樹はちょくちょく店には来るらしいが、いつも入れ違いになっているらしい。遼からも他愛のないメールはあるが、会う約束は取り付けていない。
カオルも、あの日、キスをされかけて以降は、着かず離れずの距離を保ったまま、特に何もなかった。遼を彼氏だと思い、変なちょっかいを掛けるのはやめようと思ったのかもしれない。カオルが自分に好意を持っているのかどうかは定かではなかったが、下手に詮索するのはやめようと思っていた。また、先日のようなことになっては、どうしていいのかわからなくなる。
遼と付き合うべきなのか、くるみはずっと悩んだままだった。だが、どうしてもそれを考えたときに思い出すのは樹のことだった。キスをしてしまったことが、ずっと心に残っているのかもしれないと、くるみは思っていた。変なことをするんじゃなかった———くるみは思わず、溜め息を漏らした。
放送が終るのを見計らって、三人は店を出た。二人は、番組のことなど忘れてしまっているようだった。二人を駅まで送り、自分はタクシーに乗り込むと、安堵したように胸を撫で下ろした。
遼は、地図を見ながら、ネオン街を歩いていた。
この辺りだ———地図を鞄にしまい、遼はビルを見上げて辺りを見回した。小さなビルでも、多くの看板が掲げられている。それらを一つずつ念入りにチェックしていく。三つ目のビルで、目当ての名前を見つけた。ピンクのネオンの看板には、「PINKY PEACH」と、いかにも下品な文字で書かれている。ビルの狭い入り口からは、派手な衣装を身に纏った女たちが、ひっきりなしに出入りしていた。遼は覚悟を決め、中に入っていった。
PINKY PEACHは、ビルの三階にあった。看板と同じピンクの派手な扉を開けて中に入る。すぐに、ボーイらしき男が出て来た。
「いらっしゃいませ……新規の方ですか?」
男が、警戒するように遼を見る。
「いや、ここに志田樹って男がいると思うんだけど、彼に会いたいんだ」
「……警察か何かですか?」
男が眉を潜めた。遼は首を振った。
「いや、違うよ。個人的に、彼に用があってね。ここに行けば彼に会えると聞いて来たんです」
男は警戒を解いたわけではなさそうだったが、面倒に巻き込まれるのも嫌なのだろう。すぐに中の部屋に声を掛けた。
出て来たのは、若い男だった。茶髪で肩まで垂れた髪から、いかにも軽卒な様子が窺える。樹は、顔をしかめ、「どちらさんでしたっけ?」と、軽い口調で笑って云った。
「藍原くるみさんのことで、お話があってきました」
「くるみちゃんのこと?」
樹が怪訝な顔をする。だが、すぐに表情を戻して手を叩いて云った。
「もしかして、くるみちゃんのデート相手の良い男?」
にへらと笑う様子に、遼は苛立ちが募っていくのを感じた。
カオルの話によれば、この男はくるみを玩んでいるということだった。見た感じからしても、そういうことをしそうな男だと、遼は思った。
「とりあえず、ここじゃなんだし、外、行きましょうか」
ボーイの顔色を気にするようにして、樹が遼を外へと促した。遼は樹を睨みつけながら、店を出た。
くるみは、タクシーを降り、マンションのエントランスをくぐった。
なんとかテレビから母親とみちるを離すことはできたが、二人に散々質問攻めにされたせいか、急に疲れが身体に押し寄せてくる。
さっさとお風呂に入って寝てしまおう。エレベーターを降り、部屋の方へ歩を進めたが、ふと足を止めた。
「おかえりなさい、くるみさん」
部屋の前に座り込んでいたカオルが、顔を上げて云った。その顔には、笑みが浮かんでいる。
「……どうしたの?」
身体が強ばっていくのを感じる。カオルが立ち上がり、ジーンズをはたいて云った。
「また、勉強でわからないことがあるから教えてもらおうと思って。明日試験なんです。夜分遅くにお邪魔しちゃ悪いかなとは思ったんですが、単位が掛かっているもので」
そう云うと、カオルが悪戯っぽく笑った。くるみは警戒するようにカオルを見たが、さすがに待っていた人をそのまま付き返すのは気が引けた。部屋の鍵を開け、「どうぞ」とカオルを通した。
「今日はこの間の取材の放送日だから家にいると思ったんですけどね。お出掛けだったんですね」
カオルが、悪びれない様子で云った。くるみは顔を背けた。
「……ちょっと、約束があったから」
「高梨さんですか?」
カオルが、大きな瞳をぱちくりとさせて聞いた。
「……ううん、家族よ」
「そうだったんですか」
くるみは、台所に立ち、紅茶を入れてカオルに出した。カオルは、いただきますと、屈託のない笑みを浮かべて、カップを手に取った。
「……勉強、見ましょうか」
「高梨さんって、素敵な人ですね。くるみさんが靡くのもわかる気がします」
くるみは、思わずカオルを見た。そこにある顔は、あのキスをしたときと同じ、冷たい微笑みをたずさえた顔だった。
「もう、セックスはしたんですか?」
「……何云ってるの」
くるみは、身体を引くように後ろへと下がった。だが、カオルが立ち上がり、くるみのすぐ傍までじりじりと歩み寄った。逃げようとするくるみの腕を掴んで、云った。
「僕も女性を抱けるんですよ」
ひっと、くるみが小さく声を上げる。カオルが顔を近づけてくるのに、くるみは思い切り力を込めて腕を振り払い、身体を離した。
「僕のこと、嫌いですか?」
カオルが云う。その声は、凍てついたように冷たく、無機質だった。次の瞬間、肩を思いっきり押さえつけられたから思うと、そのまま床に身体が叩き付けられた。くるみが抵抗する暇もなく、カオルが容赦なくその身体に覆いかぶさる。
「やさしくしますよ」
声を出そうとするが、情けなく口が開くだけで言葉にならない。カオルは小さく笑みを作ると、くるみの首筋に顔を埋め、自分の唇を這わせた。
カオルの薄い唇が、くるみの首筋をなぞった。背筋に旋律が走るように、鳥肌が立つのがわかった。その唇が、首からデコルテの方へと移動していく。くるみは、恐怖に身体を硬直させ、瞳には涙が溜まっていた。
———逃げられない……
カオルが服をたくしあげるように、細い指を服の中に入れた。冷たい手の感触が、腹部に触る。諦めかけたそのときだった。玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。
カオルが驚いたように動きを止め、顔を上げた。その瞬間、くるみはカオルを思い切り押しのけ、急いで身体を起こして玄関の方へと走った。
慌ててドアを開ける。前に立っていたのは、樹だった。
「……くるみちゃん、どうしたの?」
赤く血走ったくるみの瞳を見て、怪訝そうに樹が聞いた。背後から、「樹さんじゃないですか」と、カオルの声が聞こえた。
くるみが、恐怖に身体を強ばらせ、おそるおそる振り返る。カオルは、何もなかったかのように平然とした顔をして、いつもの穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「あれ……カオルちゃん、いたの?」
「えぇ、くるみさんに勉強を教えてもらってたんです。ね」
カオルが、くるみに目配せをする。顔はにこやかな笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
「……えぇ」
くるみが、樹から視線を逸らすように、消え入りそうな声で頷いた。
「でも、なんか泣いてるように見えるけど」
樹がくるみの顔を覗き込もうとする。それを避けるようにくるみは身体をひねって云った。
「……ちょっと、疲れてるの。カオルさん、悪いけど今日はこれでおしまいにしましょう」
くるみが云うと、カオルは素直に鞄を手に取った。
「夜分遅くにすみませんでした……続きはまた今度、お願いします」
カオルが、くるみの耳元で囁くように云った。また今度———その瞬間、背筋に震えが走る。ぐっと息を呑むくるみを尻目に、「お先に失礼します」とカオルはにこやかに樹に笑いかけ、部屋を出て行った。
カオルの姿がエレベーターホールの方へ消えていく。姿が完全に見えなくなると、安堵したのかくるみは全身の力が抜けていくのがわかった。途端に視界がぼやけた。身体のバランスを崩し、その場に倒れそうになった。
「ちょっ、くるみちゃん?」
樹が、慌ててその身体を掴んだ。くるみは、そのまま意識を失った。
目覚めると、くるみはベッドの上にいた。カーテンの隙間から光が差し込み、床に光と影のコントラストが描かれている。見上げた時計の針は、八時を過ぎたところだった。
身体を起こし、部屋を見回す。ベッドのすぐ横で、樹が床に横たわり眠っているのが目に入った。
———あれから、どうなったんだろう……
くるみは、昨夜のことを思い出すように額に手をやった。カオルがいなくなったのを見届けた後、急に力が抜け、そのまま玄関先で倒れたことまでは覚えている。どうやら、気を失っていたらしい。
身体には、服装はそのままに、タオルケットがきちんと掛けられていた。樹が自分をベッドに運び、掛けてくれたのだろう。くるみは、ぐっすりと眠り込んでいる樹の身体にそのタオルケットをそっと掛けると、洗面所へ向かった。
衣服を脱ぎ、そのまま浴室へ入る。この季節に不似合いな熱いシャワーを出し、頭から思い切りかぶった。目が覚めるようだ———ぼんやりとしていた記憶が鮮明に思い出されていくのを感じた。
昨夜、樹が来なければ、間違いなくカオルに犯されていた。くるみは、熱いシャワーをかぶっているにも関わらず、身体に鳥肌が立つのがわかった。何故樹が突然やってきたのかはわからないが、樹に感謝をしなければならないのは事実だ。
「僕も女性を抱けるんですよ」
そう、冷ややかに云い放ったカオルの冷たい表情が思い出される。あのときのカオルは、本気だった。ふと、首筋に手を触れた。線を引くように這ったカオルの唇の感触が、ひしひしと蘇ってくる。カオルは、一体何を考えているのだろうか。最初は、自分に好意を持っているのだろうかと思っていた。だが、カオルの瞳には愛情のようなやさしさを一切感じなかった。何を思い、自分を抱こうとしたのか。思わず、髪を掻きあげる。だが、問いただしたいとも思わなかった。店で、カオルを前にするのがひどく恐ろしかった。
浴室から出ても、樹は眠ったままだった。くるみは、エプロンを身に付け、台所に立つ。食欲はなかったが、樹が目を覚ましたときに何か出せるものがある方がいいと思い、冷蔵庫を開けた。
残っていた野菜を一口サイズに角切りにする。鍋に水を張って火に掛け、沸騰したところに切った野菜を入れた。味付けは、コンソメと塩胡椒のみ。自分でも食べられるようにと、シンプルな野菜スープにするつもりだった。
背後で物音がし、樹が伸びをする声が聞こえてきた。振り返ると、樹が身体を起こしてくるみを見ていた。
「あ、くるみちゃん、気がついたんだ」
あっけらかんとして、樹が云った。その目は、まだ半分ほどしか開いていない。
「おはようございます……朝食、食べますか?」
くるみが聞くと、樹は喜んだように笑みを浮かべ、「勿論」と身体を再び伸ばした。
机には、くたくたに煮た野菜のスープに、作り置きしておいたセロリのピクルス、それにスクランブルエッグと焼いたベーコン、トーストが並べられた。樹はスプーンを手に取り、スープに口を付けた。
「やっぱり、うまいなぁ、くるみちゃんのご飯」
がつがつと、樹がスープに食らいつく。そんな樹を見ながら、くるみが云った。
「……昨日は、ごめんなさい。お世話、掛けちゃって……」
「本当、ビックリしたよ。いきなり倒れるんだもん。よっぽど救急車呼ぼうかと思ったけど、そのうち寝息立て始めたから、そのまま寝かせちゃった。もう大丈夫?」
樹が、心配するようにくるみを覗き込む。くるみは、曖昧に笑って頷いた。
「一応さ、昨日ママに連絡して、今日は休めるように云っておいたよ。くるみちゃん、疲れてるみたいだし」
くるみは驚いたように顔をあげた。樹の気配りに、くるみは心地の良い感情で心が満たされていくのがわかった。
「ありがとう」
「昨日、カオルちゃんと何かあったの?」
不意に、樹の顔が険しくなった。くるみは、「えっ……」と声を詰まらせた。
「俺が来たとき、くるみちゃん泣いてたよね。何かあった?」
途端に、心が乱れていくのがわかった。云うべきではないのはわかっていた。だが、昨日の恐怖が思い出され、身体が震えていく。顔を引きつらせているくるみに、樹が傍に寄り、その震える肩をやさしく抱いた。
くるみは、言葉をところどころ詰まらせながら、昨夜のことを樹に話した。以前、カオルにキスをされたことも簡単に話した。それを黙って聞いていた樹は、驚きを隠せないように、怪訝に顔をしかめていた。
「……カオルちゃんがそんなことするなんて、一体どうしたんだろうな。何考えてるんだろう」
一通り話を聞き終えた樹が、眉をひそめて云った。
「カオルちゃんが好きな相手が、くるみちゃんだったってこと?」
「……わからない。でも、そんな感じじゃなかった気がするの。カオルさんの目……とても冷たかった」
ふとカオルの自分を見下ろす冷たい視線を思い出し、くるみは身震いするのを感じた。
「俺、カオルちゃんと話、してみようか?」
樹が、思いついたように云う。くるみは、「でも……」と視線を机に落とした。
「また同じことがあったら、怖いんでしょ?」
「……そうだけど、こんなこと話したって知ったら、カオルさん……」
うまく言葉が出てこず、くるみはぎゅっと唇を結んだ。わからないが、不穏な予感を感じる。
「でも、くるみちゃん、自分で話、できる?」
樹が心配そうにくるみを覗き込んだ。それには、あまり自信がなかった。直接、あの瞳に対峙するのは怖い。
「大丈夫、話を聞くだけだから」
「……すみません」
くるみは、思わず俯いて云った。
「どうして謝るの?くるみちゃんが悪いわけじゃないじゃん」
樹が笑う。その顔に、くるみも顔を上げ、小さく笑った。
「そう云えば、どうして樹さん、昨日ここに来たんですか?」
ずっと疑問に思っていたことを、くるみは口にした。樹が来なければ自分の身がどうなっていたかはわからない。だが、樹が偶然ここにやってきたわけではあるまい。樹が、「あぁ」と思い出したように声を上げた。
「昨日さ、高梨さんが俺を訪ねてきたんだ」
「高梨さんが?」
今度は、くるみが驚きに目を丸くする番だった。
「そう。いきなり店まで来てさ、くるみちゃんのことで話があるって。高梨さんって、すごくくるみちゃんが好きなんだね。爽やかだし、好青年だし、良い男掴まえたじゃん」
その言葉に、なぜか複雑な感情がこみ上げてくる。だが、問題はそこではなかった。
「……高梨さん、何て?」
くるみが、樹の顔を見上げるようにして聞いた。
「うん。くるみちゃんにちょっかいを出すのは止めてほしいって、そう云われた」
「ちょっかい?」
思わず、くるみが眉をしかめる。
「そう、彼は俺がくるみちゃんを玩んでいると思ってたみたい。何か、くるみちゃんが俺に好意を持っていて、それを俺が利用してるみたいな云い草だったな」
「……好意」
くるみは思わず息を飲んだ。突然心臓の鼓動が早くなっていくのを感じた。樹はそんなくるみの様子に気付かず、話を続けた。
「でも、話にひどく誤解があるとは云え、どうして俺のこと知ってたんだろうな?とりあえず、話を否定はしておいたけど」
「……カオルさんだ」
くるみが呟くように云った。樹が「えっ?」と、身体を机に乗り出した。
「この間……高梨さんと一緒にいるところに、カオルさんと出くわしたの。電車に乗るときに、カオルさんと高梨さんは反対側のホームだからって別れたの。きっとその後、何か云ったんだわ」
それしか考えられないと、くるみは思った。それ以来、遼と会っていない。メールは来るが、それまでの積極的な様子とは打って変わり、どこかくるみを探るような遠慮しがちなメールになっていた。あのときに、何かがあったとしか思えなかった。
樹はますますわからないと、訝しげに顔をしかめた。
「……どうして、そんなこと云ったんだろうな。カオルちゃんは、俺がゲイだってことも、くるみちゃんがそれを知ってることもわかってるはずなのに」
くるみも、首を傾げ、苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。カオルが、一体何をしたいのか、まるで見当がつかない。
「俺、やっぱりカオルちゃんに話してみるよ。くるみちゃんに襲いかかったことも、一緒に」
「……すみません」
「だから、くるみちゃんが悪いわけじゃないでしょって。すぐに謝るくせ、直したら?」
樹が、茶目っ気たっぷりに云った。くるみはまた「すみません」と謝った。
「……高梨さん、納得したの?」
くるみが、樹の目をまっすぐに見据えて聞いた。
「うん」
「……意外とあっさりなんですね」
意外そうにくるみが云う。樹は、悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「ゲイだって云ったら、あっさり。くるみちゃんもそれを知ってるって云ったら、すぐに納得したよ。安心したみたいだった」
「……云ったんですか?それ」
「だって、そうでも云わなきゃ話終らないじゃん。俺も、話長引くの面倒だし」
途端に、くるみは申し訳ない気持ちでいっぱいになっていくのを感じた。樹は、そんなことを簡単に人に話したいはずがない。初めてくるみにそれを云ったときも、云ったことをひどく後悔していたのだ。
「……私のせいで」
自分を責めるように、くるみが唇をぎゅっと噛んだ。
「くるみちゃんのせいじゃないよ。でも、面白かったな。俺、どっちかって云うと、あなたの方が好みですってじり寄ったら、逃げちゃった」
樹はそう云うと、面白そうにケラケラと笑った。そのあっけらかんとした様子は、ただ気を紛らわせているだけのようにも見え、くるみは笑えなかった。
食事を済ませると、樹は部屋を出て行った。一度家に戻り、仕事の時間まで寝直すと云う。くるみは、少し寂しさを感じている自分に、戸惑いを覚えた。
樹がいなくなった部屋で、食器を片付ける。ふと、遼が云ったという言葉が頭をよぎる。
「くるみちゃんが俺に好意を持っていて……」
樹に、好意を持っている。カオルは、そう遼に水を差した。そんなことはないと、その考えを振り払おうとしたが、どうしてか完全に否定できる自信がないことに気付いた。
———私は、樹に好意を持っているのだろうか。
いなくなるのが寂しいと思う。寝ている横顔に、ふと愛おしさを感じる。恋というのは、こういう感情を云うのだろうか。
どうしてだろう、胸が締め付けられて、ひどく痛む。くるみは、皿を水にさらしながら、云いようのないこみあげてくる感情に、頭を抱えるばかりだった。
その日の夜、くるみは遼に会いたいとメールを送った。自分からメールを送ったのは初めてだった。遼からはすぐに返信があり、仕事が終り次第連絡を入れると返って来た。その後、遼から改めてメールが返って来たのは、八時過ぎだった。
くるみは身支度を整え、待ち合わせ場所に指定された渋谷へと出た。気持ちをしゃんと持たせるように、白のトップスに、珍しく深い紺のスキニーのジーンズを選んだ。ズボンを身につけるのは久しぶりだ。ハチ公の像の前には、多くの人だかりができている。背の高い遼の姿は、すぐに見つけることができた。
遼は、くるみを見つけ、いつもの屈託ない笑みを浮かべて手を上げた。
「ごめんなさい、いきなり会いたいなんて云って……」
「いや、嬉しいよ。藍原さんから連絡くれるなんて」
そこまで云って、少し言葉を詰まらせ、くるみの瞳をじっと見つめて云った。
「くるみちゃんって、呼んでもいいかな?」
「へ?」
「いや、藍原さんって云うのも、なんか他人行儀だし……」
少し躊躇うように遼が云った。おそらく、昨夜樹に会って、樹がくるみを名前で呼ぶのを聞いて思ったのだろう。くるみは、「えぇ」と笑みを返して云った。
「じゃぁ、くるみちゃん」
遼が、嬉しそうに云う。その素直な様子に、くるみも思わず笑みを零した。
「お腹、空いてない?何か食べに行こうか」
遼は、くるみの手を躊躇いがちに掴み、歩き始めた。くるみは、樹のことを思い出し少し躊躇ったが、その手を振り払うのはやめた。黙って遼の後を、付いていった。
遼が入っていったのは、若者向けのカジュアルなビアパブだった。くるみを席に座らせ、遼がカウンターへと注文に出掛ける。しばらくして、ビールの入ったグラスと、つまみのような料理をいくつか乗せたお盆を持って戻って来た。
遼は、樹に会ったことを云い出さなかった。会社であった面白い話を、くるみに話して聞かせる。くるみはそれをところどころに相槌を打ちながら聞いていた。
だが、ここへ遼を呼び出したのには、理由がある。話が一段落したところで、くるみは口を開いた。
「……あの」
ん?と、遼がくるみの目を見た。ビールのせいか、頬が薄らと赤らんでいる。
「昨日、樹さんに会いましたよね」
笑顔がみるみるうちに翳って、遼が眉を潜めた。
「……どうして」
「誰に聞いたんですか?樹さんのこと」
くるみが、ぎゅっと唇を噛み締めるようにして聞いた。遼は、狼狽しているようで、言葉を詰まらせている。くるみが云った。
「カオルさん……ですか?」
くるみの強い視線に怖じ気づいたように、遼が曖昧に頷いた。口止めをされていたのかもしれない。遼は、躊躇いがちに云った。
「くるみちゃんが……樹って男に玩ばれてるって聞いて、どうしても居ても立ってもいられなくなったんだ。自分でも、恥ずかしいことをしたと思ってるよ。彼にも、申し訳ないことをした」
やっぱり、カオルだったのだ。どうしてそんなことを吹きかけたのか、解せないことばかりでくるみは眉をしかめるしかなかった。だが、はっきりして良かった。
「でも、彼が……その、同性愛者だと聞いて安心したよ。君もそれを知ってるって」
「……えぇ」
「とんだ勘違いだったな。その、嫌な思いをさせたなら悪かった。ごめん」
遼が、らしくない疲弊した表情を浮かべる。くるみは、小さく首を振った。遼は、それを振り払いたいかのように、ビールを一気に仰いだ。立ち上がり、新しいビールを注文しにいく。くるみは、複雑な気持ちで、その様子を見ていた。
その日の遼は、何倍もビールをおかわりした。さすがにくるみが途中で止めたが、止めなければその後も何杯も飲んだかもしれない。店を出るときには、遼はひどく酔っていた。さすがにそのまま返すのは躊躇われ、タクシーを拾った。
遼をタクシーに乗せようとすると、遼はくるみの腕を掴んだ。
「君も乗っていけばいい。君の家は、丁度通り道だから」
くるみは少し躊躇したが、心配もあって、その意見に同意した。一緒にタクシーに乗り込み、行き先を指定した。
くるみのマンションの前にタクシーが停まると、遼がしがみつくように云った。
「トイレを貸してほしい、いいかな?」
さすがに、嫌だとは云えない。くるみは運転手に料金を支払い、ふらつく遼の肩を持って、自室へと戻った。部屋に入り、遼をトイレに案内する。遼が中に入ったのを見届けて、くるみはベッドに荷物を投げた。
本当なら、今頃はCANDY HEARTにいるはずの時間だ。それを休み、今高梨と共にいることに少し罪悪感を感じる。だが、さすがに今日はカオルと顔を合わせる気にはなれなかった。樹の配慮に、感謝せざるを得ない。
トイレから出て来た遼は、ひどく蒼ざめていた。くるみはコップに水を入れ、座り込んだ遼に差し出した。
「……すまない」
遼がそれを受け取り、一気に喉に流し込んだ。
「少し、休んでいってください。後で、タクシー呼びます」
くるみはそう云うと、コーヒーを入れようと、やかんを手に取った。
そのときだった、突然背後から抱きすくめられた。すぐ顔もとに、遼の息づかいを感じる。くるみは、肩を強ばらせた。
「……どうしたんですか」
「……好きだ」
遼はそう云うと、くるみの身体を振り向かせ、次の瞬間、その唇を塞いだ。
ねっとりとした感触が、身体に伝わってくる。くるみは突然のことに、身動きが取れなくなっていた。遼の唇が離れたと思うと、そのまま首筋に顔を埋めた。
昨夜の、カオルのことが脳裏によぎる。くるみは反射的に、遼を押しのけた。だが、遼はより一層強くくるみの身体を抱きしめる。
「……離して、ください」
「好きなんだ」
遼の手が、服の下に入ってくる。くるみは恐怖に、思い切り遼を突き放し、部屋の奥へと逃げた。
「高梨さん、やめてください」
遼がくるみを追ってくる。ベッドの脇までくるみを追い込むと、力任せにくるみの腕を掴み、そのまま遠心力に任せてくるみの身体をベッドに叩き付けた。思わず、くるみが悲鳴を上げる。だが、それもお構いなしに、遼がくるみに覆いかぶさった。
「……嫌っ、離して!」
必死に、その身体を押し戻そうとくるみは腕を突き出した。ふと、遼の腕を掴む力が抜けた。
息を切らし、恐怖に怯えた目で、くるみが遼を見つめる。遼が、呟くように云った。
「……どうしてなんだよ」
遼の目は据わっていたが、どこか憂いを帯びている。躊躇うように、くるみが身体を起こし、身を引いた。遼が荒々しく叫ぶように云った。
「どうしてダメなんだよ!どうして!」
いつもの冷静で穏やかな遼の姿はそこにはなかった。玩具を買ってもらえなかった子どもが駄々をこねるように、遼は思い切りベッドを壁を叩き付けた。
「……あの、樹って男がいいのか」
「え……」
くるみが、声を詰まらせる。
「アイツはゲイだろ!男が好きなんだろ!それでもあの男が好きなのか!」
狂ったように叫ぶ遼に、くるみはただ呆然として、涙に濡れた遼の瞳を見つめていた。
樹はメモを見ながら、電柱に表記された住所と見比べていた。
樹は仕事を早めに切り上げ、カオルに会うべくCANDY HEARTへ向かった。だが、ママの話によれば、体調不良を理由に休みを取ったという。どうせなら店ではなく、二人で外で話をする方がいいと思い携帯電話に連絡を入れたが、繋がらなかった。そこで、ママに急用を理由にカオルの家の住所を聞き、やってきたというわけだった。
「……ここ?」
樹は、豪邸を前にして、思わず立ちすくんだ。
高い塀の向こうに、異国を思わせるような洋館が立っている。表札には、カオルの姓である「江藤」と書かれていた。江藤薫、それがカオルの本名だった。この家の外観を見る限り、カオルの家は余程の金持ちのようだった。
家の中には電気が灯っている。体調が悪いのであれば、カオルは家にいるはずである。樹は意を決して、インターホンを押した。
すぐに反応があった。ぶっきらぼうな表情のない声で「どちらさまですか?」と女の声が聞こえた。
「あの、夜分遅くにすみません。志田という者ですけど、カオルさん、いらっしゃいますか?」
「薫はおりません」
ぴしゃりと突き放すような声が返ってきたかと思うと、次の瞬間インターホンは切られていた。樹は呆気に取られ、インターホンに向かって声を掛け続けたが、何の返事もなかった。
———何だ、この家。樹は、眉間に皺を寄せ、睨みつけるように洋館を見つめた。インターホンに出たのは、おそらくカオルの母親だったのだろう。そうとすれば、あの冷たさは一体何なのだろう。まるで、カオルが家にいないというよりも、この家にカオルなんていう人間は存在しないというような口ぶりだった。
カオルは一体、どこへ行ったのだろう。
樹は、仕方なく諦めるように踵を返し、駅へと向かった。
くるみは、呆然としたままベッドの片隅で膝を抱きかかえるようにして座り込んでいた。
ふと、古新聞の回収車のアナウンスが耳に入り、既に朝になっていることに気がついた。昨夜、遼が狂ったように叫び、荒れていた様子を思い出す。遼は結局、くるみには何もしなかった。突然踵を返したかと思うと、荒々しく部屋を出て行った。声を掛ける気にもならなかった。その後ろ姿をただ呆然として見送り、そのままずっとぼんやりとしていたら、いつの間にか夜が明けていた。
くるみは立ち上がってシャワーを浴び、コンタクトを入れ、軽く化粧を施した。夕方の出勤まで特に出掛ける用事があるわけではなかったが、何かしていないと落ち着かない。洗面所を出ると、そのまま台所に立った。お腹が空いているわけではなかったが、手を動かしたくて冷蔵庫を開け、残っている野菜をすべて取り出し、それをおもむろに刻んだ。
野菜は、細かくは刻まず、ざっくりと大きめに切る。大きめの圧力鍋にたっぷりと水を張り、切った野菜を入れると、そのまま火に掛けた。
食欲がないときには、野菜スープか、材料を大きめに切ったポトフを作る。ポトフなら、大量に作って元味をシンプルに薄めに仕上げておけば、後から小分けで取って味噌を入れたりトマト缶を入れたりして味を変えられる。それでいて、食べやすいからよく好んで作るのだ。沸騰したら火を弱め、そのまましばらく置いておく。野菜がくたくたになるまで煮るのが、コツだった。本当はウィンナーや塊の豚肉なんかがあればもっと良かったのだがと思ったが、わざわざ買いに行こうとまでは思えない。
圧力鍋を使っているから、野菜全体にしっかりと火が通るのにはさほど時間は掛からなかった。くるみは調味料を加えると、食パンを取り出し、もう一つのコンロにフライパンを置いて、火に掛けた。こんがりときつね色になったのを見て取り出し、軽くバターを塗る。冷蔵庫から、樹の母親にもらったリンゴジャムを取り出して、それをたっぷりと塗った。手作りのものであるから、既製のものと違い日持ちがしない。ポトフを皿に取り、一緒に机に並べる。立派な朝食だ。
トーストを一口齧る。リンゴの甘みが口全体に広がっていく。おいしいと、素直に思った。だが、あまり食は進まない。
遼の叫ぶように云った言葉が、頭の中で幾度も反芻される。あの、樹って男がいいのか。遼は、そうくるみに云った。唐突な言葉に、何か返すことも忘れてしまったが、何か口にしたところで否定することはできただろうか。くるみは、スプーンを置き、大きく溜め息を付いた。
遼のことは嫌いではない。でも、遼を受け入れることはできなかった。やはり自分は、樹が好きなのだろうか。
だが、もしそうであったとしても、どうすればいいのだ。くるみは、締め付けられるような胸の痛みに、表情を歪めた。樹が、自分を愛してくれることなどない。そもそも、女性を愛しはしないのだ。彼には、一郎というパートナーがいる。そのキスシーンまで、実際に見たではないか。
樹に好意を持ったところで、彼が自分に振り向いてくれることなどない。そう自分に云い聞かせれば云い聞かせるほどに、胸が苦しくなった。
———どうしたらいいのよ……
くるみは、食事を口に入れる気にもなれず、そのままベッドに横になった。枕を引っぱり、顔を埋める。そのまま、意識が遠のき、眠りに落ちた。
目が覚めたのは、携帯電話の着信からだった。のっそりとベッドを這うように机に置いた携帯電話を掴むと、ディスプレイを見た。着信の相手は、ママだった。ママから電話が掛かってくるなんて、滅多にないことだ。それも、夕方には出勤することになっている。わざわざ電話など、どうしたのだろうか。
時計の時刻は、いつの間にか三時を回っていた。通話ボタンを押し、くるみは電話に出た。
「もしもし……」
「くるみ?」
ママの声は、どこかよそよそしい様子だった。
「昨日はすみませんでした。今日は出ますので」
くるみがそう云うと、ママは「違うのよ」と、かすれた声で云った。声を静めているようだ。
「今すぐ店に出て来なさい」
「……どうしたんですか?」
「あなたの……お母様がいらっしゃってるわ」
その言葉に、くるみは思わず飛び起きた。
「お母さんが?」
思わず、大きな声をあげる。ママが、「しーっ」と、それを制するように云った。一体、どうして母が店にいるのだ。くるみは、わけがわからず、ただ動揺した。
「とにかく、出ていらっしゃい。お母様には、こちらでお待ちいただくよう云っているから」
そう云うと、電話は切れた。くるみは、呆然として携帯電話を見つめた。
だが、すぐに立ち上がると、クローゼットから適当な服を取り出し、すぐに身支度を整えた。そのまま引ったくるように鞄を手に取り、家を出た。
CANDY HEARTまでは、タクシーで十分ほどだった。新宿二丁目の交差点でタクシーを降り、店へと急ぐ。店の扉は、勿論まだcloseという札が掛かっている。それをおもむろに開け、中に入った。
すぐに、ママの姿が目に入った。まだ開店前のため、さほど派手な衣装を身に纏っているわけではない。ママが手を出し、奥のボックス席を指した。通路を通り、ホールに出る。すぐに母親の姿を視界に捉えた。
母親が、身体を堅くして、やってきたくるみを凝視した。その視線の鋭さに、くるみは思わず怖じ気づくような思いだった。
「……お母さん、どうして」
それに答えたのは、母親ではなく、ママだった。
「一昨日の番組、見たんだって」
一昨日の番組、それは以前の取材を受けたときの放送に違いなかった。だが、とくるみが訴えるようにママを見て云った。
「でも……顔には、モザイクを」
「アンタ、見てないの?放送」
そう云われて、「えっ」とくるみは声を詰まらせた。ママが、溜め息をついて云った。
「確かにモザイクは掛かってた。でも、顔が判別できる程度の軽度のモザイクだったのよ。声もそのままだから、見る人が見ればくるみだってわかる」
「……そんな」
———話が違うじゃないか。くるみは、怒りがふつふつと沸き上がってくるのを感じた。ふと、母親の方を見る。母親の目には、怒りか、悲しみなのか、強い負の感情の色が浮かんでいた。
「でも、あの日、お母さんは……」
私が誘って、一緒に食事をしていたはずだ。母親は、静かに、でも少し震えた声で云った。
「みちるが、番組を録画していたのよ。あの子、あの番組好きだから。出ているのがくるみなんじゃないかって電話が掛かってきたときはビックリしたわ。すぐにみちるの家に行って、見せてもらった」
母親が途端にすがるような声色で、声を荒げて云った。
「ねぇ、どうしてなの?友達の店を手伝ってるって、そう云ってたじゃない?これは、どう見ても違うわよね」
母親がすっと立ち上がり、くるみの前に立った。怒り、不安、憎悪———負の感情に取り憑かれたその目を、まっすぐに見ることができなかった。
母親の目は、充血している。今にも泣き出しそうだと思った。くるみが口を開こうとしたが、それを制するように母親が云った。
「どうしてこんなところで働いてるのよ。会社を休んでまで、こんな……オカマバーなんかで働いて、あなたは何がしたいのよ」
くるみは、視線を逸らし、ママの方を見る。ママは、涼しい表情で煙草を吹かしていた。母親は、まるでママの存在など知らないかのようにおかまいなしだ。ママに母親の言葉が聞こえていないはずがない。罪悪感にも似た申し訳ない感情が込み上げてくるのを感じた。
母親が、突然くるみの腕を掴んだ。一瞬、身体のバランスが崩れる。それも構わず、母親がその腕を引っ張り、入り口の方へと引っ張っていこうとする。
「ちょっと、何するの」
「帰るに決まってるでしょ。娘を、こんなところに置いておくわけにはいかない」
くるみはそれを必死に止めるように、腕を引っ張った。
「ちょっと……話を聞いてよ!」
「どうしてこんなところで冷静に話を聞けるって云うのよ!いかがわしい店ばっかり立ち並ぶようなこんなところで、何を聞けっていうの!」
母親の掴む手の強さに、思わず痛みを覚えて、くるみは顔をしかめた。だが———くるみは歯を食いしばると、その手を思い切り振り払った。反動で、母親の身体が大きく揺れる。バランスを建て直しくるみを見上げる顔が、悲痛に歪んでいた。
「自分が、何やってるかわかってんの!」
母親の目には、悔しさが滲んでいるのが嫌でもわかる。こんなにも感情的になった母親を、かつて見たことがなかった。それはそのはずだった。いつだって、自分は両親の勘に触るようなことはしてこなかったのだ。いつも、ひっそりと身を潜め、主張もせず、云い訳も口答えもせず、当たり障りのない子どもだった。母親はそんな自分を「手の掛からない良い子」だと褒めたが、裏を返せば自分というアイデンティティのない、がらんどうだった。進路も、何でも、流されるままにして生きてきたのだ。
そう、まるで空気のようだった。
それが、自分の生き方なのだと、ずっと諦めてきた。人には生まれもった星というものがある。私は、そういう星に生まれたのだと、そう思ってきた。
でも、違う。今は、はっきりとそう思う。そういう自分が嫌で、家を飛び出したのだ。ここで働くことになったのは単なる偶然に過ぎなかったけれど、初めて知る自分や世界に、どれだけ驚いただろう。いつでも、自分の環境は仕方のないものなのだと諦めてきた。だが、何かのせいにするのは間違っていたのだ。外を歩けば綺麗な景色や、新しい人に出会うように、自分だって行動すれば新しい自分に出会える。それを教えてくれたのは、樹であり、どこでもない、この場所だった。
母親が、再び掴みかかるようにくるみの腕を掴んだ。くるみが静かに云った。
「……帰らない」
その言葉に、母親の腕を掴む力が緩んだ。母親が、驚いたようにくるみを見ていた。くるみはまっすぐに母親の目を見て、云った。
「私は帰らない。絶対に帰らない」
身体が震えている。今、自分はとても怖がっている、そう感じた。自分の意志を伝えることが、こんなにも怖いものだとは思わなかった。いや、知っていたからこそ、私は今まで何も主張してこなかったのかもしれない。ただ、色々な視線や批判に晒されるのが怖くて、逃げてきただけなのかもしれない。
でも、もう後には引かない。
「……どうしてなの。どうしちゃったの」
母親の肩も震えていた。くるみが強く反抗したことなどこれまで一度もなかったのに、戸惑っているだろうことは容易に想像ができた。
「……楽しいの。今、生まれて初めて、生きているのが楽しいって、そう思えるの」
くるみは、訴えるように云った。自分の気持ちを、欲求を、言葉にしたことなど、一度だってなかった。でも、言葉にして口に出してみると、ずっと胸の中にしまってあった色々な感情が高ぶってくるのがわかる。ずっと押しこまれていたものを吐き出すように、くるみは言葉を続けた。
「料理も、この店も、この店の人も、好きなの。初めて、自分は生きてるんだって、そう思った」
涙が頬を伝ってくるのがわかった。伝った涙が服に落ちては小さな黒い染みを作る。でも、それを拭おうとは思わなかった。本当に何かを変えたいなら、本気でぶつかっていかなくちゃいけない。思ってるだけじゃ何も変われないということが、今はよくわかる。口にしなくちゃ、行動に移さなくちゃ、何も変わらない———
「お願い……このままいさせて」
お願いします———くるみは深く、深く頭を垂れた。
母親は、しばらく黙ったまま、動かなかった。母親がどんな顔をして自分を見下ろしているのかはわからない。不安に、脈が早なっていくのがわかる。だが、ふと母親の指先が頬に触れたのに、くるみが思わず顔を上げた。
見上げた母親の顔は、先程までの切迫した憂いを帯びた表情は消えていた。戸惑い、不安が滲んではいるが、その顔は穏やかに見えた。
「……いつの間にか、大人になってたのね。綺麗になっちゃって。この間会ったときとは、えらく違うじゃない」
「……お母さん」
「ずっと云おうと思ってたけど、アンタの普段の格好、正直センス悪かったわよ。そういう格好の方が、ずっといいわ」
慌てていたせいか、身なりを誤摩化すのも忘れていたことに、くるみは今さらながら気付いた。ブルーのキャミソールの上に同じ色のカーディガン、それに細身のジーンズという出で立ちだった。眼鏡もしていないし、髪もひっつめていない。母親が小さく笑ったのに、くるみもつられて笑った。
母親が、くるみの目元の涙を拭うと、踵を返し、ママの方へ歩み寄った。ママが慌てて煙草の火を消し、母親を見上げた。
「お騒がせいたしまして、申し訳ありませんでした。失礼な言動が多々ありましたこと、お許しください。この子……くるみのこと、よろしくお願い致します」
そう云うと丁重に頭を下げ、母親は店を出て行った。
慌ててくるみがその後を追い掛ける。母親は、大通りの方へと向かおうとしているところだった。
「お母さん!」
くるみが母親を呼び止める。振り返った母親の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
「くるみが自分の意見主張するなんて、初めてね。頑張りなさい」
そう云うと、軽く手を挙げ、そのまま歩いて行ってしまった。その後ろ姿を、くるみはとても清々しい気持ちで見送っていた。
店に戻ると、ママが新しい煙草を吹かしていた。くるみは、躊躇いがちにカウンターへと歩み寄った。
「あの……すみませんでした」
そう云って頭を下げる。ママが、ぶっきらぼうな口調で云った。
「昨日、アンタが頼んであった食材、冷蔵庫に入れてあるわよ」
くるみが、「えっ」と顔を上げた。ママは煙草の煙を大きく吐き、くるみの方に向き直った。
「本当、アンタの料理目当てに来た客が、ひどく文句云ってたわよ。ったく、今日は気合い入れて作りなさいよ」
吐き捨てるようにママが云う。だが、そこに嫌味な感情はなかった。くるみは笑みを浮かべ、「はい!」と大きく返事をした。
「……少しは、云えるようになったじゃない」
そうくるみの肩をぽんと叩くと、「あー、両替行かなくちゃ」と面倒臭そうに云い、くるみに背を向けた。
くるみは、冷蔵庫を開け、中に入った食材を確認した。昨日、本日のやっことして出すつもりだった、豚ひき肉と生姜の和風あんかけを作ろうと、材料を取り出す。生姜を軽く洗ってまな板に乗せ、皮を取って薄切りにしていく。
いつもよりも、包丁を持つ手が軽快な気がする———きちんとぶつかって何かを得ることが、こんなにも清々しいだなんて知らなかった。くるみは思わず、小さく微笑んだ。
歌舞伎町のホテル街の一角に、カオルの姿はあった。ホテルのエントランスをくぐり、外に出る。まだ外は明るい。日差しの強さに、カオルはかぶっていたキャップ帽の鍔を下げた。
「ごめんごめん、支払いに手間取っちゃって」
後ろから男の声がし、振り返った。
どこにでもいそうな、スーツ姿の中年の男がカオルの姿を見つけて、相好を崩して駆け寄ってくる。カオルは、その視線を避けるように、少し身体の角度を変えた。
「これ……忘れてたね」
男がそう云い、背広のポケットから数枚の一万円札を取り出した。それを、カオルのジーンズのポケットに押し込む。
「少し余計に入れておいたよ。また、会ってくれるよね」
男が、へつらうようにカオルの顔を覗き込んで云った。
「えぇ」
短く返事をして、カオルは男に顔を向けた。その顔には、人懐っこい笑みが浮かんでいる。
じゃぁ行こうかと、男が先立って歩を進めた。その後を、従うようにカオルが歩き始める。帽子に隠れたカオルの顔には、笑みが浮かんだままだった。だが、その目は冷たく、笑ってはいなかった。
「まぁ、そうなんですの」
母親が、嬉々とした声を上げて、はしゃぐように云った。みちるも、上機嫌な様子で母親の肩を叩いている。
隣にいるのは、ミヅキとリオンだった。ミヅキもテンションが高くなっているようで、いつも以上に声を上げている。
「そうなのよぉ、だってあの子地味なんですもの。そんな格好で、男の家なんかに行かせるわけにはいかないでしょう」
くるみは、それを一瞥して、大きく溜め息を付いた。どうしてこんなことになっているのだろう。先程から、溜め息しか出てこない。
突然母親がみちるを連れ立ってこの店に入ってきたのは、一時間程前のことだ。ちゃんと、今日が一般の人の入店ができる開放デーだと調べてきたようだった。くるみは慌ててカウンターから出て入店を思い留まるように云ったが、控えていた店子たちが面白がって二人をボックス席に案内してしまったのだ。
その席にホステスとして付いたのが、ミヅキとリオンだった。母親たちは、予想外にも二人が女性らしく美しいことに驚いていたようだった。最初は戸惑いもあったようだが、ミヅキの天性の話し上手な様子にすぐに打ち解けてしまい、いつの間にやら最も盛り上がっているボックス席になってしまっていた。
母親は、ミヅキたちにくるみが地味だった過去を笑い話にでもして話して聞かせたのだろう。ミヅキたちはそれに便乗して、くるみが樹の実家を訪れる際に服を買いに出掛けたというエピソードを面白可笑しく披露しているようだった。
母親たちが案内される際に、くるみは頭を下げて、樹の話はしないようにとお願いしていた。さすがに、樹がこの店の常連であり、風俗店のキャッチで、かつゲイなどと知ったら、母親がどんな顔をしたものか、知れたものではない。それだけに樹の名前が出ていることにひやひやしていたが、ミヅキたちも心得ているのか、買い物の話の上でも、樹の身の上のことについては触れられてはいないらしい。それだけが、せめてもの救いだったが、あまりにも脚色され過ぎている会話に、くるみは頭が痛かった。
「良いお母さんじゃない」
そう声を掛けられ、振り返るとママが立っていた。
「あれだけ怒ってたのに、こうして店に来てくれる。そんなことができる親は、なかなかいないわよ」
「……はい」
くるみはそう云われて、堅くしていた表情を少し緩ませた。
先日、母親があのテレビの取材を見て、怒りに震えてくるみを連れて帰ろうとしたときのことが思い出される。くるみの必死の訴えに、なんとか納得をして帰っていったわけだが、こうして数日経って再び店を訪れるとは思いもしなかった。だが、母親は母親なりにくるみの選んだ道を受け入れようとしてくれているのだろう。そう思うと、文句を云う気にもなれなかった。
ママが時計を見て、カウンターを出て行く。そして、マイクを手に取ると「イッツ、ショータイム!」と声を掛けた。
途端に、場内の照明が変わり、派手な音楽が流れる。ホールは盛り上がり、拍手が溢れた。奥からきらびやかな衣装を身に纏った店子たちが音楽に合わせてステップを踏みながら出てくる。今日は、若手の店子たちによるショーがメインになっていて、ショーのレギュラーメンバーは、その様子を見守るように見つめている。
だが、とホール内を見回す。くるみは、他の店子たちと同じようにステージを見守っている忍に声を掛けた。
「……今日もカオルさん、お休みですか?」
ホールには、カオルの姿がなかった。くるみの家にやってきて襲いかかって以来、カオルは店に姿を見せていなかった。
「えぇ、風邪をこじらせて寝込んでいるらしいわぁ。あの子、身体弱いから」
「……そうですか」
本当に風邪で寝込んでいるのかどうか、正直のところ違うのかもしれないとくるみは憶測でそう思っていた。あんなことがあった以上、自分と顔を合わすのが気まずいのかもしれない。それはくるみも同じであったが、やはりずっと休み続きなのは気になっていた。
樹とも、あれ以来連絡を取っていない。樹はカオルに話をすると云っていたが、あの後カオルと顔を合わせたのだろうか。メールをしようかとも考えたが、それも躊躇われた。樹のことを考えると、胸が締め付けられる。
自分は、樹を愛している。だが、それに気付いたところでどうしていいのかもわからない。今、樹を目の前にしたところで、私はどんな顔をすればいいのか———くるみは、それを考えると、開いた携帯電話もすぐに閉じてしまうのだった。
遼からは、何通かメールが入っていた。すべて謝罪のメールで、酔っていて君に迷惑を掛けたと悔恨の意が切々と述べられていた。どのメールにもまた会ってほしいと括られていたが、くるみは返事を返していなかった。
樹への気持ちに気付いた今、遼の気持ちを受け入れることはできない———はっきりとそう云うべきであることはわかっていたが、それを伝えるのが怖くて、後回しにしてしまっている自分がいる。
ホールの盛り上がりは絶頂を迎え、手拍子や歓声が場内に響き渡っていた。母親やみちるも、まるで韓流スターのライブでも見ているかのように興奮して、声をあげている。それらから目を背け、くるみはまた大きな溜め息を付いた。
ショーが終わり、再び照明が明るくなる。途端に、場内の雰囲気が穏やかなものに変わる。ボーイが受けて来た料理の注文を聞き、くるみは冷蔵庫から必要な食材を取り出した。そのときだった。「くるみちゃん」と、軽い調子の声が聞こえてきた。
「い、樹さん」
カウンターの向こうには、「よっ」と軽く手を挙げる樹の姿があった。くるみは動揺したように、声を上ずらせた。
「ど、どうしてこんな、早い時間に?」
「仕事、今日休みだったからさ。たまには、ショーでも見ようかと思って」
樹が、あっけらかんとした笑みを浮かべて云った。ショーは、今終ったばかりで、次は二時間後である。それを樹に云うと、樹は呑気に、「マジで?」と、残念そうな様子を微塵も感じさせることなくケラケラ笑った。
「まぁいいや、くるみちゃんにも話があってさ」
「話?」
「あらやだ、樹ちゃんじゃなぁい」
背後からミヅキの、甲高い声が聞こえた。くるみは、ボックス席に母親とみちるがいることを思い出した。ミヅキに声を掛けようとしたが、樹が先に口を開いた。
「こんばんは。ショー観に来たんだけど、終っちゃったんだってね」
「それよりも、面白いものがあるわよ。くるみちゃんのお母様とお姉さんがいらっしゃってるの」
ミヅキが、耳打ちするように樹に云うのがわかった。くるみは慌てて、「ミヅキさん!」と制したが、樹は興味を持ったように客席を見回した。
「え、どこどこ?」
「あちらよ」
ミヅキが、奥のボックス席の方を見た。母親とみちるが、リオンと何やら楽しそうに談笑している姿が見える。
「そりゃ、挨拶しなくちゃ」
樹がスツールから立ち上がろうとする。くるみが、慌ててそれを止めた。
「い、いいんです。放っておいてください、もうすぐ帰るんで」
「何云ってんの。お母様たち、ショーにいたく感動されたみたいでね、次のショーも観て帰るって云ってらっしゃるわよぉ」
何て間の悪い———くるみは、思わず天を仰がずにはいられなかった。樹が、立ち上がり、止めるくるみを無視して母親たちのいるボックス席の方へと歩いていってしまった。くるみもそれを追い掛けるように、カウンターを出た。
樹が、「どうもー」と、母親たちに挨拶をする。母親たちは、突然現われた男に、警戒するように眉をしかめた。
「こちらが、先程まで話していた樹ちゃん」
ミヅキがそう紹介すると、母親たちは驚いたように声を上げた。予想外にも若い男に驚いているようだ。
「まぁ、初めまして。くるみの母です。あらぁ、こんなに若い人だなんて」
母親が立ち上がったと思うと、樹の手を取り握手をした。くるみが、その間に割って入った。
「ちょっと、いい?」
くるみが樹の手を取り、席を離れた。不満そうな顔で、樹がくるみを見る。
「あのね、お母さん、樹さんと私が付き合ってると思い込んでるの」
「くるみちゃんと俺が?」
「……前に、樹さんの家で電話したときに、樹さんの声が聞こえてたんです。それで、家に泊めてもらうような間柄だって……」
「何で否定しないの?くるみちゃん、高梨さんいるじゃない」
ずきりと、針が刺さったような鈍い痛みを感じた。高梨、という言葉にも複雑な感情が込み上げる。
「……樹さんだって、お母さん、勘違いしてたじゃないですか」
くるみが苦し紛れにそう云うと、「確かに」と樹が納得したように頷いた。
「でも、さすがにその……同性愛者だとは云ってないし、風俗のキャッチだってことも……」
「わかってるよ。体裁悪いもんね」
「……そういうわけじゃなくて」
「じゃぁ、どういうこと?」
樹が覗き込むようにくるみを見る。その目は悪戯っぽく笑っていたが、くるみは後ろめたい気持ちになっていた。
「……すみません」
「仕方ないよ。オーケー、話合わせておけばいいんでしょ?」
「……助かります」
「任せておいて」
樹がどんと、拳で胸を叩いた。母親が「くるみ、何してるのよ」と不満気に云うのが聞こえた。
「樹さん、くるみに会いにいらしたんですって?」
みちるが好奇心に満ちた瞳で、樹に云う。ミヅキが、目配せするように樹に合図した。それを見て、樹が「そうなんです」と調子を合わせた。
———大丈夫だろうか。くるみは、ハラハラと嫌な緊張に身体が疲弊していくのを感じた。心配ではあったが、料理の注文がいくつか通っている。仕方なく台所へ戻り、調理に取り掛かった。
本日のやっこは、オクラとキューリを出汁と醤油で味付けした、ねばねば冷や奴だった。上には、薄切りにしたみょうがをトッピングしている。あまり自分が食欲のないせいか、さっぱりとしたものを作る傾向にあった。性欲がついて良いわねぇと、リオンが豪快に笑って云っていたのを思い出す。
みょうがをトッピングし、出来上がった皿をカウンターに置いた。すかさずボーイがそれを取りにくる。その後ろ姿を見送っていると、店の扉が開いた。
入って来た人物に、くるみは目を見開かずはいられなかった。立っていたのは、遼だった。遼は、少し痩せたようだ。遼はくるみの姿を捉えると、頼りない笑みを浮かべ、軽く手を振った。
「……どうしたんですか、こんなところにまで」
「君に会いたかったんだ。メールを返してくれないからさ」
痩けた頬が、どこか痛々しい。くるみは気まずさに、思わず目を伏せた。
「……すみません」
「一人、カウンターにいいかな?今日は一般の人も大丈夫なんだよね」
断ることもできず、くるみはカウンターに案内した。ふと、奥の席に目をやる。こんなときに、樹と遼が二人とも店にやってくるなんて、運命の悪戯にしても程がある。苦々しく顔をしかめたが、どうしようもない。
奥の席にいる店子たちに気付かれぬよう、遼を席に案内し、自身もカウンターに入った。
「……何か、飲まれますか?」
「ブランデー、水割りで」
「わかりました」
くるみは、コップを取り、少量のブランデーを注いだ。そこに、氷を入れ、水を入れていく。軽く混ぜて、遼の前にお通しと一緒に出した。今日のお通しは、ひじきだ。客に出すお通しは、なるべく栄養もあり家庭の味に近い方がいいと思い、いつも定番の和食を作って出している。
遼はそれに口を付けると、笑みを浮かべた。
「やっぱりおいしいな」
「……ありがとうございます」
くるみは、まっすぐに遼を見ることができなかった。そんなくるみを察してか、遼が静かな声で云った。
「この間は、本当にごめん。飲み過ぎた。俺、酒癖悪くて……その、あんなことするつもり、なかったんだ。だけど、どうしても君の気持ちを知りたくて」
「わかってます。もういいんです、忘れてください」
わかっているとは、どういうことだろう。自分で口にしておきながら、くるみは自問した。私は何もわかってなどいない。ただ、遼に恐怖を覚えただけだ。だが、遼は「良かった」とほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
「樹……くんのことも、申し訳なかった。あんなこと云うなんて、どうかしてた」
「……そのことなんですが」
くるみは正直に話すなら今しかないと思っていた。だが、言葉を続ける前に、違う声がそれを遮った。
「あらやだぁ、遼ちゃんじゃなぁい」
ミヅキだった。ミヅキが、遼をいたく気に入っていたことをくるみは思い出した。満面の笑みを浮かべてミヅキが抱きつくように遼の肩に掴まる。遼の顔が、引きつっているのがわかった。
「今日はなんだか、変な日ねぇ。アンタのお母様と云い、樹ちゃんと云い、何か示し合わせてきたの?」
ミヅキが不思議そうに化粧でばっちりと開かれた目をより大きくして云った。くるみがその口を止めようとしたが、遼の方が早かった。
「お母さん?」
くるみはバツの悪い表情を浮かべて、諦めたように云った。
「……お母さんと姉が来てるの。偶然、樹さんも来てて、それで一緒に……」
黙っていたことに罪悪感が募り、ついしどろもどろになってしまう。遼は驚いたように目を見開き、ボックス席の方を見る。すぐに樹の姿を見つけたようだ。
遼がスツールから立ち上がり、云った。
「挨拶、してもいいかな?」
「えっ……」
くるみがうんとも云わぬ間に、遼が踵を返した。「ちょっと、待って」とくるみが止めるのも聞かずに、ボックス席の方へと歩いて行く。慌ててくるみもカウンターを出て、それを追い掛けた。
遼が、母親たちの席の前に立った。
「あれ、高梨さん……どうして?」
素っ頓狂な声を上げ、樹が目を丸くして遼を見た。母親たちは訳がわからず、「どなた?」と眉をひそめた。
「初めまして、くるみさんとお付き合いさせていただいている、高梨と申します」
途端に、不穏な空気が流れる。くるみが、慌てて遼の腕を掴んだ。
「お付き合いって……」
「くるみ、一体どういうこと?」
母親とみちるが、樹と遼を見比べるようにして云った。くるみは勘念したように、渋々口を開いた。
「くるみちゃん、高梨さんと付き合ってたんだ。それならそうと、最初からそう云えばいいのに」
樹がカウンターに身を乗り上げるようにして云う。くるみは、溜め息を付きながら、眉をしかめて云った。
「……付き合うって云った覚えはないの。どうしてあんなこと、云ったんだろう」
母親たちの席の方を一瞥した。樹に取って代わって、遼が母親たちと談笑しているのが見える。
結局、くるみは真実を話さざるを得なくなった。樹の家には事情があって泊めてもらっていたこと、実家に行ったのもちょっとした事情があってのことだということ、遼とはこの店で再会し、食事を何度か共にしたことなどを、拙い言葉で説明していった。さすがに樹が同性愛者であることまでは話さなかったが、くるみが口にした会社は遼の会社であり、樹は風俗のキャッチであることはバレてしまった。それがわかった途端、母親は樹を目の敵にしたようだ。そうして、樹は席を追われ、カウンターへ舞い戻って来たというわけだった。
樹はちびちびとビールを口にしながら、云った。
「それだけ、くるみちゃんが好きなんでしょ。形はどうあれ、幸せじゃん」
樹の言葉に、くるみは思わず黙り込んだ。私はあなたが好きなんだと、つい口にしたくなる。幸せなんて言葉を、樹の口から聞きたくはない。でも、そんなことは口が裂けても云えなかった。
「……樹さんは、どう思いますか?」
くるみが、躊躇いがちに口を開いた。
「どうって?」
「……私と、高梨さんのこと……」
そう云って、目を伏せた。何を聞いているんだ、私は。くるみは途端に、自己嫌悪に陥るのを感じた。
「いいんじゃない?」
「……いい?」
「良い会社に務めてて、好青年で、くるみちゃんのこと本気で愛してる。これ以上の何を求めるの?」
くるみは言葉を詰まらせた。予想できた言葉に違いなかった。でも、そんな言葉を聞きたかったわけじゃない。
「そう……ですか」
やっとのことで相槌を口にしたが、不穏に揺れる心に、胸が苦しくなっていくのがわかった。
遼はあんなことを云って、一体どうするつもりなのだろうか。くるみは、解せずに愛想良く振る舞う遼を見た。さっき、自分が云おうとしたのは、付き合うことはできないということだった。なのに、母親たちには付き合っていると断言してしまったのだ。
次に遼を前にしたときに、自分はどうすればいいのだろう。くるみは、顔をしかめた。
「あの、くるみさん。あちらのお客さんが、一緒に写真を撮ってほしいって云ってますが」
ボーイがくるみに耳打ちするように云った。ボーイに云われ、客席を振り返る。指されたボックス席からは、女性客たちが手を振っていた。
テレビに出て以来、こういった注文がときどきあった。ある種のタレントに祭り上げられているようだ。だが、もろに顔が出てしまうのは嫌で、いつも丁重に断っている。くるみは、ボーイに「自分で行きます」と云い、カウンターを出た。樹に、「ちょっとごめんなさい」と声を掛けると、女性たちの方へと歩いて行った。
一人取り残された樹は、ビールを一気に飲み干した。ボーイが、「おかわりは?」と聞いてくる。
「あ、お願い」
樹がそう声を掛けると、ボーイが新しいジョッキを冷蔵庫から取り出した。
「ちょっといいかな」
後ろから突然声が聞こえ、樹は振り返った。立っていたのは遼だった。どうやら、以前より痩せたようだ。頬が痩けている遼の顔をまじまじと見つめながら、「いいっすけど」と、躊躇いがちに云った。
「外で話そう」
そう云って、遼が踵を返し、入り口の方へと歩いて行く。樹も、その後を追った。
「どうしたんすか?外で話そうなんて」
軽い調子で樹が尋ねた。店の外は、多くの男たちで賑わっている。客引きをする者、会社帰りのサラリーマン。だが、その誰も樹たちに気を留める者はいない。遼が振り返り、樹の目をまっすぐに見て云った。
「君は、くるみちゃんをどう思ってる?」
「は?」
「どう思ってるか、聞いてるんだ」
そう云う遼の顔は真剣だった。その強い眼差しに、樹は思わず怖じ気づくように声を詰まらせた。
「いや……どうって云われても、前も話したじゃないですか。俺は……その、同性愛者だし、くるみちゃんもそれを知ってるし」
「俺は本気だ」
遼が、強く云い放った。
「君だって、気付いているだろう。くるみちゃんが、君を好きなこと」
遼の言葉に、樹は息を飲んだ。言葉が出てこない。黙り込んだ樹に、遼は「やっぱり」と、視線を逸らした。
「はっきり云おう。俺からして、君は邪魔者以外の何者でもない。君がくるみちゃんの回りをちょろちょろしてる限り、くるみちゃんは君のことを意識し続けるだろう」
「……何云ってるんですか」
「くるみちゃんの前から消えてほしいと云ってるんだ。君は、くるみちゃんの気持ちに応えるつもりはないだろ?」
樹は、ただ狼狽するしかなかった。あまりにも、話が唐突だった。
「……でも、くるみちゃんは、俺がゲイなのも知ってるし、そんな好きとか」
「君にだって、身に覚えが一つくらいあるんじゃないのか?彼女が君に好意を持っていることを感じさせるような覚えが」
そう云われて、樹はあることを思い出していた。言葉を詰まらせ、視線を背ける樹に、遼が大きく息を付いて云った。
「彼女から身を引いてほしい。そうでなければ、はっきりとそんな気はないと云ってくれ。君がはっきりしてくれたら、くるみちゃんだって気持ちの整理がつく……君は、彼女の幸せを願わないのか?」
くるみの幸せ。その言葉が、矢のように胸に鋭く突き刺さった。くるみの幸せとは、何なのだろうか。少なくとも、自分がいる限り、くるみがそれを手にすることがないと遼が云っているのはわかる。
「俺なら、くるみちゃんを幸せにしてやれる。君も……くるみちゃんを気に入っているのはわかる。だが、君にくるみちゃんは抱けない。愛情も持てない。君が傍にいても、くるみちゃんは幸せにはならない」
遼が、厳しく云い放った。その真剣なまなざしに、樹はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「あれ、樹さんは?」
ようやく女性客たちから解放されてカウンターに戻ってきたくるみは、辺りを見渡してボーイに尋ねた。写真を断った後、引きずり込まれるように席に座らされ、あれやこれやと質問攻めにあった。このような店で女が働いていることに好奇心を煽られたようだ。料理の注文が入り、なんとか逃げてきたのだが、樹の姿がなくなっていた。樹が座っていた席には、手をつけていないビールグラスだけが残っている。
「先程帰られました」
「帰った?」
「えぇ、急用があるって」
「……急用?」
くるみは怪訝な顔をして、残されたグラスを見つめた。仕事で呼び出しでもあったのだろうか。
……何か、話があると云っていたが、あれは何だったのだろう。くるみが首を傾げていると、奥の席から母親たちがこちらへと向かって来た。
「くるみぃ、ニューハーフバーって楽しいのねぇ」
酒が入ったせいか、母親はいやにふわふわとした様子だった。みちるに肩を支えられている。
「お母さん……飲み過ぎなんじゃない?大丈夫?水、入れようか」
くるみがそう云ってコップを手に取り水を入れたが、母親はいらないと首を横に振った。
「タクシー、掴まえてきますね」と遼が云い、店を出て行く。それを見送って、母親が云った。
「高梨さんって良い人ねぇ。アンタ、ずっと男っ気がないと思ったら、こんなに上玉掴まえちゃって」
ねぇーと、みちるが同意するように相槌を打つ。
「あの……高梨さんは、そんなんじゃ」
「それにしても、樹って男はどうなのよ。風俗のキャッチだって云うじゃない。道理でチャラチャラしてるわけよ。一目見たときからね、どうも軽そうな男だと思ったのよ」
———そんな顔は、一つもしていなかったじゃないか。くるみは、思わず呆れるように溜め息を付いた。だが、母親が続けて云う。
「それに比べて、高梨さんは立派なもんよ。一流大学出て、一流の会社の社員だって云うじゃない。気配りもできるし、話も上手いし、素敵だわぁ」
母親が、遼のことをベタ褒めしていく。樹と比べられていることに、くるみは我慢できず、強く云った。
「樹さんは……確かに仕事はあれだけど、すごく良い人なのよ」
突然口調を強めたことに、母親たちは驚いたようだった。だが、構わずくるみが続ける。
「調子は軽いけど、やさしいし、気遣ってくれるし、一緒にいると楽しいし、ご飯もいつもおいしいって食べてくれるし……」
一体自分は何を云っているのだろうか。唖然としてくるみを見つめている母親たちの視線を感じながら、くるみは髪を掻き上げた。
「……タクシー、掴まえましたけど」
目を見開き、くるみが振り返る。遼がそこには立っていた。
どこまで話を聞いていたのだろうか。くるみは思わず遼から顔を背けた。母親が、「まぁまぁ」と、繕うような笑みを浮かべて、遼の方へとよたつく身体で寄っていく。
「じゃぁね、くるみ。また連絡入れなさいよ」
そう母親は云うと、先程くるみが云った言葉など何も聞こえていなかったかのように、そのまま店を出て行った。遼もその後を追って行く。ミヅキたち数人の店子も、何やら云いながら二人を見送りに出掛けた。
一人その場に取り残されたくるみは、押し寄せてくる虚無感に、唇を噛み締めた。
数分後、遼と店子たちが戻って来た。くるみはカウンターの中に戻っていて、皿洗いをしていた。遼はボックス席には戻らず、さっきまで樹が座っていたスツールに腰掛けた。くるみはそのことに気付いていたが、気付かない振りをしてそのまま遼に背を向け、洗い物を続けた。
「良い、お母さんたちだね」
ぽつりと、遼が口を開いて云った。少し躊躇いがあったが、くるみは背を向けたまま云った。
「……どうしてあんなことを云ったんですか」
「あんなこと?」
「付き合ってるって……そう、お母さんに云ったじゃないですか」
声が震えそうになるのを抑えるように、唇をぎゅっと噤んだ。怒りにも似た感情がこみ上げて来て、苛立ちを感じる。
「いけなかったかな?」
遼は悪びれない様子で、そう云った。くるみは振り返り、睨みつけるようにして遼を見た。
「私は、付き合うなんてそんなつもりは……」
「樹くんが好きだから?」
遼がまっすぐにくるみの瞳を見据えて、静かに云った。思わず、声を詰まらせる。視線を逸らしたくるみに、遼は小さく溜め息を付いた。
「もう、彼は君の前には現われないよ」
その言葉に、くるみは顔を上げ、遼を見た。鋭い瞳が、くるみを捉える。
「……どういうことですか?」
「彼には君を幸せにはできない。君の気持ちに応えられない、だから彼は君から離れた。それだけだ」
金槌で頭を殴られたような衝撃というのは、こういうことを云うのだろうか。くるみは、胸に響く鈍い痛みに、動揺を隠せなかった。遼の言葉の意味が咀嚼できず、ただ狼狽えるようにして視線を泳がせる。
くるみは声を震わせて云った。
「……どうして、そんなことを樹さんが云うんですか。樹さんは私の気持ちなんか……」
「知らないと思ってるのは君だけだ」
「えっ……」
遼のまっすぐな瞳に、くるみは泣き出しそうな顔で息を呑んだ。
「君を見ていればすぐにわかる。樹くんにだって、心当たりはあったようだけど」
そう云われ、すぐに脳裏に思い浮かんだのは、あのキスのことだった。樹が眠っているときに、無意識のうちに口づけてしまった記憶が、鮮明に思い出される。でも、樹は眠っていたはずだったのだ。
———もしかして、気付いていたの?
ふと、嫌な予感に駆られる。否定したかったが、否定しきることもできない自分にもどかしさを感じた。
「思い当たる節があるようだね」
遼はひどく落ち着いていた。その落ち着きように、くるみは恐怖さえ覚えていた。震える身体を両手で押さえるように抱きかかえる。遼は、静かに、だが強い口調で云った。
「樹くんが、君を愛することはない。君だってわかっているはずだ。彼は同性愛者なんだから」
遼の言葉を聞き終えないうちに、くるみは母親のために入れた水の入ったグラスを手に取っていた。次の瞬間、それを思い切り遼にぶちまけた。
一瞬の出来事だった。すぐ近くにいたミヅキが、「何してんの!」と、くるみに詰め寄る。事態に気付いたママが、慌てて近くにあったタオルを手に取り、濡れた遼のスーツを拭いた。
怒りが収まらず、くるみは肩で息をしながら遼を睨みつけていた。遼は黙ってそれを見ていたが、すぐにママに向き直り笑みを作った。
「すみません、こぼしてしまいました」
「こぼしてって……これは」
ママが、悲痛な表情を浮かべて何か云おうとしたが、遼がそれを制した。
「飲み過ぎたみたいです。今日は帰ります」
そう云い、スツールから立ち上がった。財布を取り出し、数枚のお札をカウンターに置くと、ママが止めるのも聞かず踵を返した。
くるみは、リオンに抱きかかえられるようにして、その場に立ちすくんだままだった。身体が、まだ震えている。遼が扉の前まで来たときに、振り返って云った。
「俺は諦めないよ」
そう云い残すと、店を出て行った。ママも、それを追い掛けて行く。
「……アンタ、一体何があったのよ」
リオンが、心配そうにくるみの顔を覗き込んだ。くるみは、泣いていた。とめどなく、涙が次から次へと溢れてくる。そして、そのままリオンにすがるように抱きついた。リオンは、そんなくるみをやさしく抱いた。
部屋に戻って来たくるみは、着替える気力もなく、そのままベッドに倒れ込んだ。
散々リオンの胸で泣いた後に待っていたのは、ママの説教だった。幸いにも随分と場内は盛り上がっていたから、店の隅のカウンターでやらかしたくるみの失態に気付いた人はいなかったようだ。
くるみの知り合いであるにしても、遼は店の客には違いない。ママは、客に対して何ということをしてくれたのかと、くるみを責めた。くるみは云い訳をする気にもなれず、黙って説教を受けていた。
結局、そのまま半ば強制的に帰らされることになってしまい、まだ十二時過ぎにも関わらず家に戻ってきたというわけだった。たくさん泣いたせいか、ひどく目蓋が重い。鏡を見れば、きっと真っ赤に腫れ上がり、無惨な姿だろうとくるみは思った。
明日も、仕事がある。くるみはふらつく身体を持ち上げ、冷凍庫を開けてドライアイスを取り出し、それをキッチンタオルでくるんだ。腫れた目を冷やそうと、目の上に当てる。ひんやりとした冷たさに、ようやく気持ちが落ち着いていくのを感じた。
樹が、自分の気持ちに気付いていた。そのことが、ひどくショックだった。遼が樹に何を云ったのかはわからないが、遼が云っていたことが本当ならば、樹が突然帰ってしまったことも頷ける。
樹は、自分を受け入れられないから、自分の元から去ったのだ……ふと、また目頭が熱くなってくるのを感じた。せっかく目を冷やしているのに、また泣くわけにはいかない。涙を堪えようとぐっと唇を噛み締めたが、溢れてくる涙を抑えることはできなかった。
カーディガンの裾で、涙を拭う。化粧が落ち、服が汚れるのも気にしなかった。
「……どうしたらいいのよ……」
ぼやくように、くるみが小さく呟いた。でも、言葉にしたところで、誰が答えてくれるわけでもない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。身体が強ばり、思わず息を飲んだ。
———遼だろうか。もしかしたら、カオルかもしれない。くるみは立ち上がることができず、固唾を飲んで扉を見つめていた。
だが、チャイムが再び鳴る。そして、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「ちょっとぉ、くるみ、いるんでしょ?出て来なさいよぉ」
「近所迷惑だと思うなら出て来なさぁい」
ミヅキとリオンの声だった。くるみは慌てて飛び起き、玄関の鍵を開けた。
私服に着替えたミヅキとリオンが、仁王立ちして目の前に立っていた。
「やっぱりいた、アンタね、居留守使おうなんて百年早いのよ」
ミヅキが、ふんと鼻を鳴らして云う。訳がわからず、くるみは「どうして?」と、二人を見上げた。
「ママが、行って来いって。なんだかんだ云っても、アンタが可愛いもんだから心配なのよ、ママも」
ぶっきらぼうにそっぽ向くママの顔が思い出される。くるみは、思わずまた涙がこみ上げてくるのを感じた。それを見たリオンが、困ったように云った。
「ちょっと、何で泣くのよ。泣くところじゃないでしょ」
そう云われても、涙を抑えることができない。くるみは、服の裾で目元を押さえた。
「もう、だから女は苦手よ。すぐに泣くんだから」
「……アンタも、女のつもりなんでしょ?」
ミヅキが呆れたようにリオンを見る。リオンもはっと気付いたように、「そうだった」とお茶目に舌を出した。
そんな二人のやり取りを見ながら、くるみは安堵が胸中に広がっていくのを感じた。
せっかく来てくれたのに玄関先で立ち話はなんだからと思い、くるみは二人を部屋の中へと招いた。二人は部屋の中を物珍しそうに見回した。
「女の部屋とは思えないくらい、殺風景ね」
訝しげに顔をひそめ、リオンが云う。ミヅキもそれに頷いた。
「私だったら、壁全体にピンクの布貼って、きらびやかな装飾品飾るけどね」
その言葉に、くるみはピンクの布を貼り、暗い照明の中にシャンデリアがぶら下がる部屋の真ん中で、ちょこんと座る自分の姿を想像した。どう考えても、気持ちが悪いだけだ。
「コーヒーでいいですか?」
くるみが聞くと、リオンがベッドに座り込み、お腹を抱えて云った。
「あたし、お腹空いちゃったぁ。何か作ってよ。がっつりね」
えっ、とくるみがリオンを見る。だが、すぐに腫れた目を見せるのが恥ずかしくなり、視線を逸らした。
「確かに、あたしもお腹空いちゃった。わざわざ来たんだから、ご飯くらいご馳走してくれてもねぇ」
ミヅキも、同意するように云う。くるみは、エプロンを身に付け、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中に、ラップでくるんだご飯が大量に保存されている。ご飯を炊くのはいいのだが、あまり食べられず、いつも冷蔵庫行きになることが多かった。そのおにぎり大のご飯をいくつか取り出し、レンジに掛ける。メンマと高菜の漬け物を取り出し、それらを細かく包丁で刻んだ。
コンロの上にフライパンと小さな鍋を置き、鍋の方に水を貼り火を掛ける。残っていたコーン缶を開け水を切り、ボールに卵を五つ割って落とした。
炒飯と、中華スープを作るつもりだった。フライパンはよく火で熱し、そこに自家製の 葱をよく炒めて作ったごま油を少し多めに入れてフライパン全体に馴染ませる。割った卵を半分程流し込み、木のヘラでよく炒める。そこに細かく刻んだメンマと高菜を入れた。ご飯を入れた後は、塩胡椒だけで味付けし、ひたすら強火でよく炒める。メンマにも高菜にもある程度味がついているから、余計な味付けはしないようにしている。パラパラになるまでとにかく炒めることが、炒飯のコツだ。それと並行して、沸騰した鍋の水に、宙ウかスープの元を入れる。コーンを入れた後、溶いた残りの卵を入れ、ゆっくりと箸で混ぜる。塩胡椒で味付けし、最後に水で溶いた片栗粉を入れた。こうすると、とろりとあんかけ風のスープに仕上がる。
出来上がった炒飯とスープを皿に盛りつけ、二人の前に出した。よっぽどお腹が空いていたのか、二人はすぐにがっついた。くるみも少量だけを皿に取っていたが、二人が瞬く間に平らげていく様子に、お腹がいっぱいになりそうだった。
「悔しいけど、アンタが作るとおいしいわ」
ミヅキが、口いっぱいに炒飯を頬張りながら云った。
「良かったです」
くるみが、ふと笑みを浮かべた。それを見たリオンが、少し微笑んで云った。
「ようやく、気分も落ち着いたみたいね」
そう云われ、くるみは自分が平静に戻っていることに気がついた。リオンは、くるみの気持ちを落ち着けるために料理を作らせたのか。見透かされているようで恥ずかしかったが、くるみは思わず頬を緩めた。
「で、何があったのよ、遼ちゃんと」
ミヅキが、くるみをじろりと見た。
「えっ……」
「何もなけりゃぁ、あんなこと、しないでしょ。ただでさえアンタ、気が弱いんだから」
「……まぁ、前の銀座のときみたいに、ときどき予測不可能なこと仕出かすけどね」
それもそうだ、と二人が顔を見合わせて笑う。茶化すようなことを口にしても、ミヅキとリオンが自分を心配してくれているのは、くるみにもよくわかった。
くるみは、樹への自分の思いを云うべきか、考え込むように顔を伏せた。だが、先に口を開いたのはリオンだった。
「樹ちゃんのこと?」
樹の名前が出され、くるみは驚いたように顔を上げた。
「……どうして」
「アンタね、わかりやす過ぎ。アンタの気持ち、みんなが気付いてないとでも思ってんの?」
ねぇと、リオンがミヅキを見た。ミヅキも、大きく首を縦に振った。遼にも、同じことを云われたことが思い出される。そんなに、気付かれていたのか。くるみは、知らぬは自分だけということに、恥ずかしさでいっぱいになっていた。
「でも、アンタも厄介な男に惚れたもんねぇ」
「……えっ」
「樹ちゃんは……その、同性愛者じゃない。それもタイプは」
「ガチムチ系」
引き継ぐように、ミヅキが云う。くるみは、一郎のことを思い出し、溜め息を付いた。
「アンタは女だしね。まぁ、それでなくても、ガチムチ系からは程遠いけど」
くるみは視線を床に落とし、黙り込んだ。自分の恋が、無謀なものであることは云われなくても自分がよくわかっている。だが、わかっていても、気持ちを抑えることができない。
「なぁに、しょぼくれた顔、してんのよ」
リオンが、思い切りくるみの肩を叩いた。その力強さに、思わず身体がよろめいて、床に手をついた。
ここまで知っているならと、くるみは遼に云われたことを二人に話した。二人はところどころに茶々を入れながら聞いていたが、一通り聞いたところでミヅキが真面目な顔をして云った。
「そんなことで悩んでたの」
くるみは目を上げ、ミヅキの目をまっすぐに見つめた。ミヅキは、唇をつまらなさそうにへの字に曲げて云った。
「アンタね、他人に云われたことにいちいち傷ついてるんじゃないわよ」
意味が理解できず、くるみはすがるような目でミヅキを見ていた。ミヅキはふんと鼻を鳴らし、湯のみを手に取りお茶を一気に呷って云った。
「他人の云うことなんかにいちいち振り回されてちゃぁね、恋愛なんて労力の使うもの、やってらんないわよ」
そう云うと、くるみに詰め寄るように顔を近づける、怖じ気づいたように、くるみが一歩身体を引いた。
「自分の目で確かめなさい。泣くのは、それからよ」
「……確か、める?」
おどおどと視線を泳がせて、くるみが呟くようにミヅキの言葉を反芻する。
「そうよ。自分で、樹ちゃんに直接聞きなさい。それでごめんなさいって云われたら、そのとき泣けばいい。そのときは、一晩中飲みに付き合ってあげるわよ」
どんと、ミヅキが拳で胸を叩いて云った。女性の身なりではあるが、男の逞しさを感じる。
確かに、遼の言葉に振り回されただけで、樹の口からは何も聞いてはいない。でも、樹に自分の気持ちを云うのはとても怖いと思った。友達であれば、ずっと一緒にいられる。でも、一度男と女の関係を露呈してしまえば、例えそれが片思いに過ぎなくても、同じようには戻れないかもしれない。そう思うと、躊躇してしまう自分がいた。
そんなくるみの気持ちを察したのか、リオンがやさしくくるみの肩を抱いた。
「恋愛は、ときには傷つくこともあるわ。でも、好きになった気持ちをうやむやにして、見ない振りをするのは、自分に対して失礼よ」
「……失礼?」
くるみがリオンの目を見る。やさしい瞳が、そこにはあった。
「そう、誰かを好きになることは、誇らしいことでしょ。相手がどういう人間であれ、アンタはその人の良いところをいっぱい見つけて、愛おしく思った。悩んだり、泣いたり、水をぶっかけちゃうほど心乱されたんでしょ。そんな強い感情、普段持つことないじゃない」
云い尽くせないほどの様々な感情が、胸の中に溢れていくのがわかった。同時に、自分に対してとてもやさしい気持ちになっているのに気付いた。樹を愛おしいと思う自分がまた、愛おしいと思った。こんな気持ちになったことは、今まで一度もなかった。
くるみの表情は、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。それを見たミヅキが、強くくるみの背中を後押しするように叩いた。
「潔く振られてらっしゃい」
その言葉に、くるみは思わず笑った。
樹は、夜明けと共に、居酒屋を出た。ちょっと飲み過ぎたようだ。足下がおぼつかず、身体のバランスを崩して近くの看板にぶつかった。
昨夜、遼に云われたことが、ずっと頭にこびりついたまま、離れない。
「彼女から身を引いてほしいんだ」
遼はそう、自分に云った。自分がいると、くるみは幸せになれないのだと。
くるみの気持ちに気付いていなかったわけではない。長野へ行った帰りにくるみの家へ立ち寄ったとき、ついうとうととしていた自分に、くるみがキスをした。どう対応していいかわからず、眠った振りを続けたから、くるみは自分が気付いていたことは知らないはずだ。結局、くるみも何も云いだしてこなかったから、それに甘えてそれまでの関係を保とうとしていた。その愚かさを、今になってぐつぐつと感じざるを得ない。
「君は彼女の幸せを願わないのか?」
遼が最後に云い捨てた言葉に、樹はずっと頭を悩ませていた。くるみが嫌いなわけではない。くるみのことは、大切な存在だと思っている。だが、くるみに対して身体に触れたいとか、そういう欲求が湧いてはこないことは事実だった。
遼が云うように、遼のような普通の男に愛され、抱かれ、満たされることこそが、くるみにとって幸せだということは、重々承知だった。遼のように、自分にはくるみを愛することはできない。中途半端な愛情で、くるみを受け入れることなどできないと思った。
だが、そうとはわかっていても、納得しきれない自分にただただ情けないばかりだった。酒で誤摩化そうとしても、少し醒めればすぐにまた思い出してしまう。
このまま、くるみの前から姿を消すことが、くるみの幸せになるのなら、身を引くべきだった。だが、どこかでそれを寂しく思う自分がいる。女性に対して、こんな感情を持つのは初めてだった。
一体どうしたらいいんだ———樹は、壁を思い切り拳で殴った。鈍痛に、思わず唸り声をあげる。だが、痛みがあるくらいが、今は丁度いい。
ふと、五十メートルほど先に、見知った顔を見つけ、樹は怪訝に眉をしかめた。キャップ帽を深くかぶっていて顔はよく見えないが、持ち物からそれはカオルのようだ。
隣にいるのは、スーツを来た中年の男だ。二人は何やら話をしていたが、ふと男がポケットに手を入れ、何かを取り出してカオルに渡した。それは、数枚のお札のようだった。
カオルがそれを素早く受け取ると、ジーンズのポケットに捩じ込んだ。男が、手を振り、カオルの傍から離れていく。樹はその様子を、看板に身を隠し、黙って見つめていた。
———援助、交際?
その疑いを払拭することは、今目の前にした事の始終からはできなかった。確かにカオルは、金を受け取っていた。二人が歩いてきたのは、ホテル街の方からに違いない。
カオルは何も気付かず、踵を返して駅の方へと歩き始めた。樹は、それを追い掛けた。
足音に、カオルが軽く振り返る、その手を、樹は強く掴んだ。
「樹さん……」
予想外だったのだろう、カオルは戸惑ったように目を見開かせて、樹を見ていた。
「おまえ、今何してた」
「……何って」
「金、受け取ってただろ」
息を荒くしたまま、樹が厳しい表情で云った。カオルは、いつもの愛想の良い笑みを浮かべた。
「何云ってるんですか」
樹は、カオルに有無を云わせず、カオルのジーンズのポケットに手を突っ込み、それを取り出した。数枚のお札が、引き出される。カオルは、思わず黙り込んだ。
「……援交か」
「樹さんに、関係ないでしょう」
しらばっくれるのは無駄だと思ったのか、開き直ったようにあっけらかんとしてカオルが云う。樹は、怒りがこみ上げてくるのを感じた。
「おまえ、自分が何やってんのかわかってんのか」
道行く人たちが二人を一瞥していく。カオルはそんな視線を避けるように、樹に云った。
「場所、変えませんか?ここじゃ、目立ちますから」
カオルの目は、もはや笑っていなかった。樹は息を飲み、お札をカオルに返した。
二人きりで話をしたいというカオルを、樹は自分の家へ連れて来た。さすがに、ホテルに入ろうとは思わない。カオルは物珍しいものでも見るかのように、ぐるりと樹の部屋を見回していた。
「狭い部屋だろ。カオルちゃんの家に比べりゃ、飼育小屋みたいなもんだ」
そう云って、樹がコーヒーをカオルの前に置いた。カオルの顔が、みるみるうちに翳っていく。
「……どうして僕の家、知ってるんですか?」
「話したいことがあって、ママに住所聞いて、カオルちゃん家訪ねたんだ。聞いてない?」
インターホンに出た女性のことを思い出しながら、樹が聞いた。カオルは首を横に振った。
「あの家じゃぁ、僕は空気のようなものですから」
「空気……」
確かに、「薫はいません」と云い放った女性の口ぶりは、あまりにも素っ気ないものだった。
カオルは気にしていない風に、カップを手に取り、コーヒーに口を付けた。樹は何と云っていいかわからず、もどかしさに頭を掻いた。
「僕に聞きたかったことって、何ですか?」
カオルが不意にそう聞いた。思わず樹は言葉を詰まらせたが、すぐに表情を戻して云った。
「そんなことより、先にカオルちゃんのことだよ」
「くるみさんのことですか」
カオルが、カップを机に置いて云った。くるみ、という名前に、思わずカオルの顔を見る。
「どうして襲ったのか、聞きたかったんじゃないんですか?」
「おまえ……」
次の瞬間、樹はカオルの取った行動に身体を強ばらせずにはいられなかった。カオルが、じりじりと樹の方へ這うように寄ってきた。樹は、思わず警戒するように身体を引いた。だが、カオルの方が早かった。カオルが樹のすぐ目の前まで来ると、真剣な眼差しで樹の目をじっと見つめた。そう思えば、その瞳が突然おどおどとしたものになる。カオルの様子がおかしい。身体が小刻みに震え始めたかと思うと、急に声を上ずらせて云った。
「……くるみさんが悪いんだ。樹さんに、ベタベタくっついて回るから、あの女が……」
———何を云っているんだ、こいつ。
突然カオルの声色が変わったのに、樹は息を呑んだ。目の前にいるのは、いつだって冷静沈着で少し離れたところで微笑んでいる大人しいカオルではなかった。落ち着きをなくし、途端に身体を揺らし爪を弾き始める様子は、駄々をこねた子どものようだ。
カオルの様子に樹は恐怖を覚え、身を引こうとした。だが、次の瞬間、カオルが樹を床に突き倒した。
その上に、カオルが覆いかぶさる。樹は、咄嗟の出来事に、ただカオルを見ていた。
「樹さんが好きなんです」
泣きそうに瞳を潤ませ、カオルが云った。樹は、固唾を飲んだ。次の瞬間、目の前までカオルの顔が迫った。
「樹さんが好きなんです」
カオルはそう云って突然樹に飛び掛かるように覆いかぶさってきたかと思うと、樹に口づけようと顔を近づけて来た。樹は、思い切りそのカオルの身体を突き飛ばした。
カオルの身体が後ろに飛び、ラックにぶつかった。鈍い音と共にラックに並んでいたCDが崩れ落ちる。CDをもろに頭から被ったカオルは、呻くように頭を押さえていた。
樹は、乱れる呼吸を落ち着かせるように深く息を吐きながら、身体を起こした。カオルは頭を押さえたまま、そんな樹を睨みつけるようにじとりと見つめていた。
咄嗟に状況を咀嚼しきれずに、呆然としてカオルを見つめ返す。カオルが、その視線に耐え切れなくなったかのように身を起こし、素早く立ち上がり鞄を手に取ると、逃げるように部屋を出て行った。
ほんの一瞬の出来事だったのに、まるで長い時間が経過しているように感じる———カオルが出て行った扉をぼんやりと見つめながら、樹はようやく安堵の息を付くように肩を撫で下ろした。
———カオルが好きだったのは、自分だったのか。
初めて知る事実に、樹は戸惑いを隠せなかった。どうしてこれまで気付かなかったのだろう。
カオルは、自分と仲の良いくるみに嫉妬し、それゆえ暴行を働こうとした———ようやく話の筋が繋がったのに納得する思いだったが、何故憎い相手を抱こうなどとしたのか、樹は疑念を抱かずにはいられなかった。くるみを、傷物にしたかったのだろうか———
結局、カオルの援助交際のことは聞けずじまいになってしまった。だが、そんなことはもはやどうでも良くなっていた。途端に身体が疲弊したようだ———樹は、大きく溜め息を付くと、そのまま床に仰向けになって倒れ込んだ。
八時ぴったりに目覚ましが鳴り、くるみは目を覚ました。
昨夜、ミヅキとリオンが帰っていったのは、深夜の二時過ぎだった。そのまますぐにシャワーを浴び、片付けもせずにベッドに潜り込んだ。机に目をやると、やっぱり食器はそのままである。
くるみは洗面所で顔を洗った後、それらの食器を洗い場に運び、水を出した。
「潔く振られてらっしゃい」
そのときは、その言葉に強く励まされ、清々しい気持ちにもなったものだが、一度眠りにつき時間を置いてみると、それがとんでもなく怖いことであるとひしひしと身に染みてくる。皿を洗うことで気を紛らわそうとしたが、その途中、何度も溜め息を付いた。だが、このままうやむやにしておくべきことでもない。いつかは、はっきりとさせなくてはならないのだ———くるみは、心の中で強く自分に云い聞かせた。うじうじ悩んでいても、何も始まらない。
皿を洗う手を止め、机の上に置いた携帯電話を手に取った。アドレス帳を開き、樹の番号を画面に呼び出す。通話ボタンを押そうとしたが、すぐに携帯電話を閉じた。
———ダメだ、押せない……
大きく溜め息を付き、携帯電話を机の上に再び戻した。
仕事に行くまでには、あまりに時間があり過ぎる。それまでの時間を、どうやって過ごそう。このまま黙って携帯電話と睨めっこをしているのは、どうもやりきれない。
くるみは、ふっとあることを思いつき、勢い良く立ち上がった。
「……何、その格好」
店の控え室に入ると、集まっていた店子たちが目を点にして、くるみを凝視している。ミヅキが、訝しく眉をひそめ、くるみの全身を見回した。
「おかしいですか?」
入って来たくるみが身に付けていたのは、原色の赤と青の波模様がランダムに入り交じった派手なノースリーブのミニワンピースだった。足下は金のピンヒールで、鞄はワニ皮のショルダーである。
髪型も、いつもはウェーブがかった髪を垂らしているだけだが、今日は美容院へ行き、アップにしてもらった。ミヅキが、声を潜めて唸るように云った。
「……何でそうなったの?」
くるみは空いた椅子に勢い良く腰掛けると、ショルダーバッグから文庫本を取り出して開いた。その立ち振る舞いは、いつもの控えめなくるみとはまるで違う。堂々と出して広げた本のタイトルは、「脈のない彼に告白する方法」である。もっとも、振られることが前提だが。
リオンが、心配するようにくるみの額に手をやった。
「熱はないわ」
「熱なんてありませんよ」
くるみは、目をぱちくりとさせて云った。
「……じゃぁ、何なのよ、その格好」
ミヅキがくるみの前に立ちはだかった。くるみは顔を上げ、いつになく強気な口調で云った。
「ミヅキさん、いつか云ったじゃないですか。服を纏うということは、なりたい自分になることだって」
樹の実家へ行く際に、店子たちに連れられて出掛けて行った銀座のブティックで、ミヅキが云った言葉だった。携帯電話の通話ボタンを押せず、溜め息をついていたときに、ふとそのことを思い出したのだ。
なかなか行動に起こす勇気が出ないのなら、勇気が出るような自分になればいい。そう思ったくるみは、すぐに身支度を整え、銀座へと繰り出した。接客してくれた店員に、とにかくアクティブな雰囲気の派手な服が欲しいと云ったら、これが出て来たのだ。確かに、普段の自分なら絶対に手に取らないような服だった。くるみは即決でそれに決め、それに合わせて靴と鞄も揃えた。それだけじゃまだ物足りず、美容院で髪もいじってもらい、ついでに化粧も少し派手に変えてもらった。
鏡に映ったこれまでとまったく違う自分に、くるみはそれまで持てなかったような積極的な心を持てたような気がした。気分が高揚し、本屋でこの本を購入してここへやってきた、というわけだった。
「……単純バカ」
ミヅキは、呆れるように天を仰いだ。
「くるみちゃん、誰かにアタックするの?」
好奇な目を浮かべて、マナが云った。途端にくるみは顔をしかめ、「えっ」と情けない顔になった。
「……みんな、知ってるんじゃ……ないんですか?」
くるみがおずおずと振り返り、ミヅキとリオンを見た。二人はくるみの視線を避けるように、顔を背けた。
「それにしても、こんな派手な女、水商売でも見ないわねぇ」
「なんか、方向間違ったって感じよね」
話を逸らして、二人は違う店子に話し掛けた。……騙された。くるみは、ようやくそのことに気付き、途端に居心地が悪くなるのを感じた。よく考えたら、昨日母親たちの席についていたのはこの二人だった。遼を気に入っているミヅキなら、遼からくるみの樹への思いを聞いていてもおかしくはない。
くるみは思わず頭を抱えた。さっきまでの威勢の良さも、どこかへ吹っ飛んだようだ。
「で、それで振られにいこうっての?」
囁くように、リオンが耳打ちして云った。
「……そうですけど」
くるみがリオンを思わず睨みつける。リオンはそんなくるみの頬を両方から思い切り引っ張った。
「い、いたひ……」
「単純っていいわねぇ。アンタのそういうとこ、結構好きよ」
リオンが手を離し、くるみはじんじんと痛む頬を撫でた。「さぁさ、仕事仕事」と、リオンが云い、それに伴って店子たちが立ち上がった。
「そう云えば、今日もカオルは休み?」
心配そうに、リカが云った。カオル、という言葉に、くるみも思わず顔を上げる。
「忍さんの話じゃ、今日も休みみたいねぇ」
「どうしちゃったのかしら」
「ほらほら、早く行くわよ」
ミヅキが立ち話をする店子たちの背中を押して、控え室を出て行った。
カオルは、今日も休みなのか。一人、控え室に取り残されたくるみは、安心する気持ちと、不穏な気持ちとで、複雑な思いだった。カオルは一体、どこで何をしているのだろう。それとも、もうここへは戻って来ないつもりなのだろうか。
あんなことがあったとは云えど、カオルは自分に親身に接してくれた、この店で初めての友人でもある。そう思うと、このままカオルと顔を合わさずに別れてしまうのは、あまりにも納得がいかなかった。
そう云えば、昨日樹は自分に話があると云っていた。結局樹が帰ってしまい、その話は聞けずじまいになってしまったが、もしかしたらカオルのことだったのかもしれない。くるみは、樹がカオルに話をしてみると云ったことを思い出した。
やっぱり今日、仕事が終ったら樹の家を訪ねてみよう———くるみは、そう決意すると、力強く立ち上がった。
その日の仕事は、順風満帆だった。少し間抜けな結果になったとは云え、身なりを変えると多少気持ちの持ちようも変わってくるようだ。くるみはボーイの取って来たオーダーにも、愛想の良い返事を返した。酔っぱらってテレビ取材のことをからかってくる客にも、笑顔で対応する。そんなくるみの変わりようにママも驚いたようで、くるみを不思議そうに見ていた。
「……アンタ、普段からそういう格好にしておけば?」
ママが、皮肉のようにそう云ったが、くるみはまるで気にならなかった。
仕事を上がったのは、一時過ぎだった。軽く化粧を直し、店を出る。新宿二丁目は、どこもネオンの看板で、昼間のように賑やかで明るかった。くるみは行き交う人の間をぬってタクシーを拾おうと大通りの方へ歩き始めた。
「あの」
ぽんと背後から肩を叩かれ、くるみは振り返った。立っていたのは、知らない中年の男である。きっちりとタキシードを着込んでいる様子から、この周辺の店の人間のようだった。警戒するようにくるみが男を睨みつけると、男は慌ててタキシードのポケットから名刺を取り出してくるみに差し出した。
「わたくし、こういう者です」
渡された名刺には、「CHERRY BOY 店長 長田圭一」と書かれている。CHERRY BOYという店は知っている。CANDY HEARTと同じニューハーフバーで、一本隣の筋にいやに派手な外観の店を構えている。この辺りには似たような店がいくつもあるが、CHERRY BOYはその中でもライバル的な存在であることは、くるみもママから聞いたことがあり、知っていた。
「あなた、CANDY HEARTのくるみさんですよね?」
そう聞かれ、くるみは曖昧に頷いた。否定したところで、テレビにも映ったし、いつかはバレるのがオチだ。男は、嫌らしい笑みを浮かべ、舐めるようにくるみを見て云った。
「少しお話があるんです。そこのコーヒー屋で、ちょっとだけお時間いただけないですか?」
「……話?」
くるみがうんともすんとも云わぬ間に、男がさっさと歩き始めた。何か云おうとしたが、男はどんどん歩いて行ってしまう。くるみは、何が何だかわからなかったが、慌ててその男を追い掛けた。
入ったコーヒー屋には、明らかに水商売であろう派手な身なりの人間たちばかりが集まっていた。店の隅の方で、くるみは長田と向かい合っていた。目の前に、湯気をたたえたコーヒーが置かれる。長田はそれを一口口に含むと、テーブルに腕を付き、身を乗り出すようにして云った。
「あなたの評判は、よく聞き及んでいます。大層、料理がお上手なようで。テレビでも取り上げられて、最近はCANDY HEARTさんの一人勝ちだ」
「……はぁ」
くるみはまったく長田の真意が理解できず、眉をしかめて長田を見ていた。長田は乾いた唇を舐めて云った。
「今、そちらでいくら貰ってます?」
「え?」
「お給料ですよ。一日、いくら?」
長田が突っ掛かるようにして聞いてくる。二万?三万?と指を広げていく。
「……時給、千六百円ですけど」
くるみが躊躇いがちにそう云うと、長田はオーバーリアクションで「なんとまぁ!」と、嘆くように声を上げた。
「そこらの喫茶店と変わらないとは、なんと嘆かわしい」
くるみは、思わず首を傾げた。……会社に務めていたときなんかは、時給にしたら千円もなかったかもしれない。それを考えれば、好きなことを仕事にしているわけだし、良過ぎるくらいだ。だが、長田はそんな事情を知るはずもなく、ただただ納得しないように嘆くばかりだった。
突然、長田が真顔になった。顔の前で腕を組み、声を静めて云った。
「うちに来ませんか?」
「は?」
くるみが、顔をしかめる。だが、長田は真剣な目のまま、続けた。
「うちに来ていただいたら、日給三万、いや五万出してもいい」
五万、という言葉に、くるみは驚きを隠せなかった。五万と云えば、一週間働いた額と殆ど変わらない。
「あなただって、自分の料理にもう少し価値がついてもいいとお思いのはずだ。あなたのおかげで、CANDY HEARTさんは盛り返した。正直、CANDY HEARTさんでのあなたの待遇は、あまりに軽んじられている」
長田の云う言葉の意味を、くるみはすぐには咀嚼できなかった。確かにママはぶっきらぼうなことが多いが、それでもときには心配してくれたりと、ひどい扱いを受けた覚えはない。店子たちもみんなやさしいし、働いているのは楽しい。くるみが戸惑いに視線を泳がせていると、強い口調で長田が云った。
「あなたには価値がある。我々の店なら、あなたの価値を大いに評価します」
———私の、価値。くるみは、思わず息を呑んだ。確かに、料理の評判は良く、それを目当てに来てくれる常連客もいるのは知っているが、それが自分の価値というような大層なものだと考えたことはない。
何と答えていいかわからず、くるみは思わず口を噤み俯いた。逸らしていても、長田のまっすぐな視線を感じる。そんなくるみに、長田が云った。
「ここだけの話、CANDY HEARTはそう長くは続かない」
その言葉に、くるみは思わず目を上げて長田を見た。長田は、口角だけを上げた笑みを浮かべている。くるみは顔を引きつらせ、「どういう意味ですか?」と聞いた。
そのとき、携帯電話が鳴った。すみませんと、鞄から携帯電話を取り出す。着信相手を見たが、知らない番号だった。
くるみは恐る恐る通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「夜分恐れ入ります。新宿警察署の者なんですが……」
「警察?」
くるみは素っ頓狂な声を上げた。長田も、くるみの顔を思わず覗き込む。くるみは動揺していく心を抑えながら、電話に耳を傾けた。
新宿警察署のエントランスをくぐり、くるみは慌てて目的の部署を探した。地図で確認し、一気に駆け出す。
コーヒー屋で電話を受けたくるみは、長田に断りを入れて、颯爽と店を後にした。長田はまた返事をくださいとしつこくくるみに念を押したが、くるみはそれを曖昧にあしらってすぐにタクシーを拾い、ここまでやってきた。
少年課の看板を見つけて、くるみは急いで中に入った。数人の制服姿の人間が、こんな夜分にも関わらず業務に就いている。そのうちの一人に、くるみが恐る恐る声を掛けた。
「……あの、江藤薫さんがこちらにいると聞いて伺ったんですが……」
警官が、怪訝な顔をしてくるみの全身を見回す。くるみは、初めて自分の身なりを後悔していた。警察に来るには、あまりに不似合いで、怪しいこと極まりない派手さだ。だが、今さらそんなことも云ってはいられない。
「藍原くるみさんですね。どうぞ、こちらへ」
警官の男は腑に落ちないような顔をしていたが、重い腰を上げ、奥の方へとくるみを案内した。
電話の内容は、カオルが補導されたから、引き取り人になってほしいという内容のものだった。すぐにはその内容を理解できず、くるみは顔をしかめて少年課の刑事だという男の言葉を流されるように聞いていることしかできなかった。男の話では、援助交際を取り締まるべく囮捜査をしていたところにカオルが現れ、まんまとそれに引っ掛かったということだった。カオルは囮捜査官に援助交際を持ちかけたところを補導されたのだと云う。
取り調べで、カオルが過去にも金を受け取り、性行為に及んでいたことがわかったらしい。その相手は、いずれも中年の男だったということだ。
まだ二十歳にならない未成年だったことと、初犯だということで、調書を取り、親が引き取りに来れば釈放されることになった。だが、カオルは調書作成の際にも一切家の連絡先だけは口を開こうとしなかったのだという。困り果てていた刑事に、カオルはくるみの名前を出したという。引き取り人をくるみにしてくれるなら、調書作成にも応じると云うカオルに、刑事はしぶしぶくるみに連絡を入れた、というわけだった。
取調室2と書かれた部屋の扉が開かれ、くるみは促されて中に入った。無機質な部屋の中央に、キャップ帽を目深に被ったカオルが、刑事と向かい合って座っていた。
「藍原さんをお連れしました」
警官の言葉に、刑事が顔を上げる。だが、警官と同じく、訝しく眉をしかめた。それを見て、恥ずかしさでくるみは思わず目を伏せた。
カオルも顔を上げ、くるみを見た。その目は、いつものように笑ってはいない。疲れているのか、ただでさえ白い肌が一層蒼ざめて見えた。
「……カオルさん」
「失礼ですが、江藤くんとのご関係は?」
刑事が腕を組み、くるみを見る。カオルは、何も話してはいないようだ。くるみは迷った挙げ句、「友人です」と呟くように答えた。
「カオルさん……どうして援助交際なんて……」
信じられず、くるみが声を詰まらせた。カオルは無表情のまま、くるみを見つめていた。だが、ふっと頬を緩ませたかと思うと、いつもの愛想の良い穏やかな口調で云った。
「すみません、くるみさん。くるみさんしか、思いつかなくて」
「……ご両親は?」
「云ったところで、関係ないというのがオチです」
カオルの表情が一瞬、翳ったように見えた。くるみは、息を呑み、カオルの目を見つめた。
カオルの身の上話は聞いたことがない。だが、この口振りからすると、両親とはあまり良い関係ではないようだ。それ以上聞いてもいいものかと戸惑っていると、再び扉が開いた。
入って来たのは樹だった。カオルは明らかに動揺したように目を見開き、くるみを見た。
警察署から電話があったとき、動揺したくるみは樹に連絡を入れていた。一人では、冷静に対処できないような気がしたのだ。
「どうして……」と、カオルは顔を引きつらせ、くるみと樹を見比べた。
「……ごめんなさい、樹さんにも連絡したの。私一人だと、その……不安だったから」
これまで直面したことのない事態に対峙することに不安があったのは勿論だったが、くるみはカオルと一対一で向かい合うのが怖くもあった。そのことを、カオルもすぐに感じ取ったのだろう。それ以上、何も云わなかった。
樹は厳しい表情を浮かべ、カオルをまっすぐに見据えていた。だが、くるみのような動揺した様子は見られない。初めて聞いて驚いたというよりは、前から知っていたような風さえある。くるみは、苦々しく樹を見た。
「……こちらは」
「共通の友人です。私も、連絡を受けてひどく動揺していましたので……」
くるみが口を開いて云った。それ以上、刑事も何も聞こうとはしなかった。
その後は、あっという間だった。くるみは引き取り人として身分証明証の提示とサインを求められた。カオルは、くるみが来たことで調書作成が再開され、しばらくは取調室に残されたままだった。
すべてを終え、刑事に一喝された後、三人は警察署を出た。すでに、外は夜が明けかけていて、明るくなっていた。通勤の人たちが、道を行き交っている。
「……どうして。援助交際なんてしたの?」
ずっと俯いたままのカオルに、くるみが聞いた。キャップ帽の鍔に隠れて、カオルの表情は見えない。カオルではなく、樹が口を開いた。
「……やっぱり、一昨日ちゃんと話しておけばよかったな」
カオルが振り返り、樹を見た。訳がわからず、くるみが云った。
「……一昨日?」
樹が、険しい表情で云った。
「一昨日、俺、こいつが男から金受け取ってんの見たんだよ」
……やっぱり、樹は知っていたのか。くるみは、取調室での樹の微妙な表情に納得がいくのを感じた。だが、ならばなぜそのときに止めなかったのか。疑問が浮かんできたが、カオルの言葉に遮られた。
「お金が欲しかったからですよ。それ以外に、援交する理由なんてありますか」
視線を逸らしたまま、開き直ったようにカオルが云う。その投げやりな様子に、樹が怒りに顔を歪め、カオルに飛び掛かった。
「おまえ、自分が何してんのかわかってんのか!」
カオルが樹の胸ぐらを掴む。くるみは慌てて、樹をカオルから離そうと樹の身体を掴んだ。
「ちょっと、何やってるんですか!」
「金が欲しけりゃ、何してもいいっていうのか!」
「落ち着いてください!人も見てますから!」
くるみが泣きそうになりながら、云う。道行く人たちが、怪訝な顔をして振り返っていくのがわかった。くるみの言葉に、樹はカオルを掴んでいた手を離した。カオルはその反動で、地面に倒れ込んだ。
「……帰ります。くるみさん、迷惑掛けてすみませんでした」
カオルが立ち上がり、ジーンズを叩いて云った。そして、さっさと踵を返し、タクシーを拾う。
「逃げるのか!」と、樹が再び飛び掛かろうとしたが、カオルの方が早かった。素早くタクシーに乗り込むと、そのまま発車させてしまった。
「……くそっ」
樹が近くにあった電柱を思い切り蹴った。くるみは、ただ呆然と小さくなっていくタクシーの後ろ姿を見つめていた。
くるみは、樹の部屋にいた。カオルがタクシーに乗り込み走り去ってしまった後も、樹の怒りは収まらなかった。道を歩く度に、何かしら周囲にあるものを蹴ろうとする。このまま一人で返すのは心配で、「少し話しませんか?」と、樹の家に転がり込んだのだ。
家に着く頃には、樹も随分と気が収まっていた。樹はくるみを部屋に通すと、「コーヒー入れるよ」と台所に立った。
久しぶりに来る樹の部屋は、特に変わったところはなかった。考えてみれば、ここに居候させてもらったときは、まだ樹のことを殆ど何も知らなかった。
あれから、さほどの月日は経っていないのに、もう随分と長い時間が経ったように感じる。衝動的に家を飛び出し、偶然樹と出会い、次から次へと色々な出会いや出来事があった。一体これまでの二十九年間は何だったのだろうと思うくらい、自分の人生の大きな出来事がこの短期間に凝縮された気がする。
樹が、コーヒーの入ったカップをくるみの前に差し出した。くるみは礼を云って、それを受け取った。
「ごめん、取り乱したりしてさ」
樹が熱いコーヒーを啜りながら、ぼそりと云った。
「……ううん、私も同じこと、云いたかった」
くるみはカップを机に置いて、云った。
「……カオルさんがお金受け取って……そんなことしてたなんて、知りませんでした。警察から連絡があってそれ聞いたとき、すごく動揺しちゃって。いきなり呼び立てちゃって、ごめんなさい」
どこか、気まずい空気が流れるのを感じた。直接何を聞いたわけでもなかったが、遼が樹をそそのかしたことは確かだ。だが、樹以外に誰に頼っていいか、わからなかった。樹は、「気にしないよ」といつもの軽い調子を装っていたが、やはりどこかぎこちない。
「この間……店で、話があるって云ったでしょ。結局、聞かずじまいになっちゃったけど……それ、カオルさんのことだったんじゃないんですか?」
くるみは、出来るだけ平静を装って聞いた。
「さすがくるみちゃん、勘鋭いね」
樹がそう云って笑った。
「俺さ、前にカオルちゃんの自宅、行ったんだ。すげぇ豪邸でさ、ちょっと足竦んじゃったけど、インターホン鳴らしたんだよね。そしたら、カオルはいませんって、突き放すような声だけ返ってきて、それっきり反応なし。今、冷静を取り戻して考えてみたら、カオルちゃん、色々と抱え込んでることあったんだろうなって思うよ。あんな責め方して悪かった」
唇を噛み締めるようにして、樹が云う。樹がカオルの家を訪ねていたのは、初耳だ。でも、それなら合点がいくと思った。カオルが、引き取り人を親でなくくるみに頼んだのも、家族との関係が良くないせいなのだろう。なぜ良くないのかまではさすがに計り知れなかったが、カオルが援助交際に走ったのも、そういったところに原因があるのかもしれない。
樹は、くるみにこの部屋であったカオルとの出来事を話すべきか悩んでいた。くるみだって、どうして自分に対してカオルがあんなことをしたのか、気にはなっているはずだ。だが、くるみの気持ちも知ってしまった今、カオルの気持ちまでもを吐露するのは躊躇われた。
———黙っておこう。そう思い、話題を逸らそうと、樹がからかうようにくるみに云った。
「ところで、すげぇ気になってたんだけど、今日の格好、どうしたの?くるみちゃんらしくないじゃん」
樹の言葉に、くるみは恥ずかしくなって俯いた。どうしてこんな格好をしていたのか、その理由は樹にあるのだ。まさかそんなことは云えず、くるみは声を詰まらせた。
「デートとか?」
樹はそう云うと、しまったというようにすぐに口を噤んだ。くるみにも、そのことはすぐにわかった。樹は自分の気持ちを知っていて、それでいて遼とのことに触れてしまったことに、気まずさを感じたのだ。くるみは、小さく溜め息をついて云った。
「……いいですよ、気を遣わなくて」
途端に、脈が早くなっていくのを感じる。怖い、と思った。母親に対峙したときのような怖さを感じる。人と本音で向かい合うことの恐ろしさを、あらためてひしひしと感じる。だが、下手に後には引けない。
「……あのときのこと、気付いてたんですね」
賭けのつもりだった。樹が、自分がキスをしたことに気付いていたのかは、正直わからなかった。だが、心当たりがあるのだとしたら、それしかない。
否定してほしいと、心から願っていた。何のこと?と、いつもの軽い調子でとぼけてほしかった。だが、樹は正直だった。
「……くるみちゃんが、俺にキスしたこと?」
急に、居心地悪さで心がいっぱいになっていくのがわかった。息を呑み、樹を見つめる。樹は笑ってはいなかった。震え出しそうになる身体を抑えようと、くるみはぎゅっと手を握った。
「……やっぱり……気付いて、いたんですね」
言葉がところどころ詰まってしまう。樹はカップを手に取り、コーヒーを一口啜った。
「ごめん……でも、くるみちゃん気付いてないと思ってるみたいだったから……云わない方がいいのかなと思って」
「……いいんです」
遼に云われなければ、自分もずっと樹が気付いていたことは知らずにいただろう。知らなければ良かったと、思わずにはいられなかった。どうして知ってしまったのか、それならば樹とこんな形で向かい合うこともなかったのに。
「……くるみちゃんの気持ち、気付いてたのに、見ない振りしてた。……ごめん」
樹が視線を床に落とした。くるみの視線を避けようとしているようだった。そんな樹に、くるみは声を震わせて云った。
「どうして……謝るんですか。どうして謝るの?謝るくらいなら、はっきり云ってください。きちんと、振ってください」
くるみは、天井を見るように顔を上げた。下を向いたら、泣き出してしまいそうだった。最初から樹の気持ちなどわかっていたはずなのに、いざ目の前にすると、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
次に樹が発する言葉に、自分はひどく怯えている。云われる言葉はわかっているのに、心を鷲掴みにされるような痛みを感じる。
だが、樹は何も云わなかった。俯いたまま、ひどく身体を強ばらせているのがわかった。どうして何も云ってくれないのか、悲しさと苛立ちが募っていく。
「……どうして、何も云ってくれないんですか」
耐え切れず、涙が一筋、頬を伝うのがわかった。それでも、樹は黙ったままだった。くるみはいたたまれなくなって、這うように樹の方へと歩み寄った。樹が驚いたように顔を上げる。くるみは、涙が流れ落ちるのも構わず、樹の目をまっすぐに見つめて云った。
「抱いてください」
不意打ちの言葉に、樹が「えっ」と、唇を開いた。
「……何も云わないなら、抱いてください」
自分は一体何を云っているのだろう———くるみは、自分で自分のしていることがわからなかった。樹が女性をそういう対象に見ていないことはよく知っている。でも、女性を抱いたことがあるのも知っている。
「……嘘でいいんです、抱いてください……一度でいいから」
最後の方は、声がかすれて言葉にならなかった。次から次へと涙が溢れてくる。それを拭うことも、忘れていた。まっすぐに見つめた樹の瞳が、ひどく困惑しているのがわかる。だが、衝動を止めることができなかった。
樹はしばらく黙ったままくるみを見つめ返していたが、恐る恐る手をくるみの方に差し出すと、その肩に腫れ物に触るように静かに触れた。樹の手の温もりを感じる。その手に力が入り、樹はくるみの身体をやさしく抱きかかえるようにして後ろに倒した。アップにした髪が床に擦れて頭に小さな痛みを感じたが、それも気にならなかった。樹はくるみに覆いかぶさるような形で、くるみの瞳を見下ろしていた。
樹の顔が、ゆっくりと近づいてくる。すぐ目の前まで樹の顔が迫り、くるみはぎゅっと目蓋を閉じた。怖さにも似た感情に、心臓の鼓動が耳にまで聞こえてくる。
だが、しばらくしても樹がくるみに触れることはなかった。恐る恐る目蓋を開けると、樹が唇をぎゅっと噛み締め、眉をしかめて震えていた。
「……ごめん、できない」
漏らすように云った言葉に、くるみは頭が真っ白になっていた。絶望とは、こういうことを云うのだろうかと、客観的に俯瞰していたもう一人の自分が呟いているような気がした。突き落とされたような、鈍い感覚が急に身体全体に広がっていく。
くるみは身を翻したかと思うと、そのまま鞄を引ったくるように手に取り、逃げるように荒々しく部屋を出ていった。大きな音を立てて扉が閉まる。
樹は、そのままの格好で、身を震わせていた。そして、机にあったコーヒーカップを我武者羅に掴むと、壁に向かって思い切り投げつけた。
ガラスの割れる音が響き、割れた破片が床に散らばる。
樹は、頭を抱え、言葉にならない声で吠えた。悲痛な声ばかりが、静寂な朝に鳴り響いていた。
樹の部屋を飛び出したくるみは、誰も追ってこないのはわかっているのに、ずっと逃げるように走り続けていた。道行く人たちに時折ぶつかる。振り返る人たちの顔が、不満気に歪むのが見て取れたが、立ち止まり謝ることも忘れていた。ただ、とにかく逃げたいと思った。何から逃げるのか、それもわからないが、少しでも樹から離れたい一心だった。
涙は止めどなく溢れ、嗚咽が漏れる。拭っても拭っても、気持ちは収まらなかった。
痛い、胸が、心が、痛い。樹の背けた目が、脳裏に焼き付いている。受け入れられないと云った、震えた声が、耳に貼り付いて離れない。
———云うんじゃなかった。あんなこと、するんじゃなかった。
大通りでタクシーを拾い、くるみは自宅のあるマンションへと戻った。タクシーの運転手は、明らかに不審の目でくるみを見ていた。そんな運転手の視線を避けるように、くるみは始終顔を俯かせたままだった。
エントランスを足早にくぐる。自分の家に戻ってきたことに少し安堵を感じたものの、高ぶった感情はなかなか収まらなかった。もう九時を回っているせいか、住人の姿がちらほらと見える。くるみは泣いてぐしゃぐしゃになった自分の顔を隠すように、エレベーターに乗り込んだ。自分の部屋のある階に着いても、誰かとはち合わせることへの不安から、顔を下げたままだった。駆け出すようにエレベーターを飛び降りると、前から歩いて来た人に思い切りぶつかった。
スーツ姿の男だった。相手の方ががっしりとしているせいで、反動に身体をよろつかせたのはくるみの方だった。
咄嗟に、男の手が伸び、くるみの腕を引いた。
「くるみ、ちゃん?」
その声に、くるみは顔を上げた。
立っていたのは、遼だった。遼が、驚いたようにくるみの顔をまじまじと見る。
「……どうしたの?」
慌てて遼がハンカチをポケットから取り出し、くるみの目元を拭った。それを避けるように、くるみが顔を背けて云った。
「……こんなに朝早くに、どうして……」
「今日は、昼出勤なんだ。この間のこと、謝りたくて……くるみちゃん、朝八時には起きてるって云ってたから」
そう云って、右手に持っていた小さな箱をくるみの前に掲げた。近くの、有名なケーキ屋の箱だった。
次の瞬間、くるみは遼の胸に抱きついていた。
「……くるみ、ちゃん?」
戸惑ったように遼が、くるみを見下ろす。だが、胸に顔を埋めるくるみの背に腕を回すと、そのまま細い身体をきつく抱きしめた。
「……あのさ、もう帰って寝たいんだけど」
疲弊しきった顔で、ミヅキが云う。そんなミヅキを、くるみはじろりと睨みつけた。くるみは酒が入っているせいか、ひどく目が据わっている。
「ミヅキさん、一晩中付き合うって云ったじゃないっすかぁ」
いつもよりも強気な口調で吐き捨てるように云うくるみに、ミヅキが助けを求めるようにリオンの肩を持った。
「……これって、もう昼よね」
くるみが、持っていたジョッキを力任せに机に置いた。さっきからずっと、この様である。いつか割れるのではないかと、ミヅキもリオンも冷や冷やしていた。
「……だって、夜は仕事してるじゃないっすかぁ」
「……アンタが云ったんだからね、恨むわよ」
リオンが軽くミヅキを睨みつけて、カクテルのグラスを傾けた。ミヅキは、大きく溜め息を付いた。
仕事が休みにも関わらず、くるみが店にやってきたのは午前二時を回った頃だった。そのときには、くるみはどこかで酒を飲んでいたのか、すでに酔っていた。そこから店が閉店するまでの三時間は、ひどかった。カウンターに一人腰掛け、ひたすら酒を呷っていたのだ。その滲み出る人を寄せ付けない空気に、誰も理由さえ聞くことができなかった。樹からはくるみはあまり酒は強くないという風に聞いていたが、くるみは制御することを知らず、何杯も飲み続けた。ママは、そんなくるみを半ば呆れ顔で見ていたが、その切迫した様子に止めに入る気にもなれなかった。黙って飲ませてあげなさいと顔を引きつらせていたママの様子を、ミヅキは思い出していた。
「……一晩中付き合うって云いましたよね」と、店を閉めた後くるみに声を掛けられたときは、正直逃げたい気持ちでいっぱいだった。結局、ミヅキはリオンを道連れに、二十四時間営業している居酒屋にやってきたのだ。
くるみは酒を飲むばかりであまり言葉を口にはしなかったが、樹に振られた経緯をぽつぽつと話しはした。話すたびに頭を抱えるか涙ぐむばかりなものだから、樹の家へ行き、樹に迫ったら拒否された、という大旨の内容しか把握はできていない。ミヅキとリオンは、ただ黙って酒の席に付き合っているだけのような形になっていた。
「……それにしても、自分から抱いてほしいなんて迫る女も、あまりいないわよねぇ。しかも、振られることがわかってる相手で、かつゲイによ。こんな女、世界中探したってそう簡単には見つかりはしないわ」
リオンが、何気なく云った。くるみが、視線を鋭く尖らせてリオンを睨んだ。リオンは思わず口を噤んだ。
「でも」と、ミヅキがくるみの肩を引き寄せ、鼻をくんくんさせて云った。
「男の匂いがするけど、気のせい?」
途端に、くるみが「えっ」と、狼狽えるように身体を引いた。それまでの自暴自棄な様子とは打って変わり、突然弱気になる。
「なになにぃ、アンタもしかして、違う男とやったの?」
リオンが、面白そうに身を乗り出した。
「……そんな匂い、わかるんですか?」
おずおずとくるみが聞く。ミヅキが大きく息を吐いて云った。
「あたしを誰だと思ってんのよ。男の匂いには敏感よ。もしかして……遼ちゃん?」
ミヅキがじろりとくるみを横目に見る。くるみは、肩をすくめて俯いた。
「マジでぇ?アンタ、さすがにそれはないんじゃないの?本命に振られた足で、違う男とやるってのはどうなのよぉ」
リオンが呆れたように云った。急に酒が回ってきたようだ———くるみは、ミヅキとリオンの視線を避けるように、思わず頭を抱えた。
エレベーターホールではち合わせた遼に、抱きついたのは自分だった。
何故あんなことをしたのか、今でもよくわからない。だが、誰かにすがりたい気持ちでいっぱいだった。
遼は、何も云わずにしばらくくるみの身体を抱きしめていた。だが、住人がやってきたことで、さすがに身体を離さざるを得なくなった。
何をしたいわけでもなかった。そのまま自然の流れでくるみの部屋に行くと、遼は再びくるみの身体を包み込むように抱きすくめた。その後は、流されるままだった。
初めて受け入れる男の身体に、くるみは驚くほど冷静だった。樹に迫ったときに感じた強い緊張や怖さは、まったくといっていい程感じなかった。初めてのセックスは、もっと戸惑うものだろうと思っていたが、生物の身体というのはよくできている。その状況に身を置けば、自然と本能が働くものなのだと、くるみは身に染みて思った。
身体の温もり、肌を這うやさしい愛撫、触れる唇、その快楽にくるみはすべてを忘れられるような気さえした。
だが、さすがにいざ男を身体に受け入れるときには、その痛みに呻いた。遼はそのことにひどく驚いていたようだったが、何も云わず、くるみを気遣ってくれた。遼の温かさに、救われるような思いだった。
遼は、くるみに何も問いただしはしなかった。泣いていた理由も、あんな時間に帰ってきた理由も、それがありがたくもあり、どこか後ろめたくもあった。
遼は、その日、結局仕事を休んだ。それから何度となく、遼と身体を重ねた。最初は痛かっただけのセックスにも、次第に慣れる。さすがに、夕方になる頃には互いの身体に触れるだけになっていたが、それでも良かった。身体にぽっかりと空いた穴を、何かで埋めたかった。遼に対して後ろめたさを感じれば感じるほど、くるみはそれを振り払おうと強く遼にしがみついた。それを、遼が包み込むように受け入れてくれる。
瞬く間に外は暗くなり、二人は近くに食事に出掛けた。遼は、他愛のない話をくるみに聞かせた。その当たり障りのない会話に、くるみはよく笑い、いつも以上に相槌を打った。
食事を終えた後、遼を駅まで見送った。そのときに、遼の云った一言が、くるみの胸に鋭く突き刺さった。
「……また、会ってくれるよね?」
遼は、やはり気付いていたのだ。くるみが、樹との間に何かあり、それを紛らわせるためだけに遼に身体を許したということを。小さくなっていく遼の後ろ姿を、ただ呆然と見つめていた。その姿が見えなくなって初めて、くるみは自分のしたことに激しく後悔した。
どんな理由があれ、自分が遼を利用したことは疑いようがなかった。遼は、それを知りながらくるみを受け入れたのだ。
わたし、最低だ———くるみは、呟くようにそう口にした。
本当は、遼にしがみつきながらも、それが樹だったならと何度も思った。樹のことを払拭したくて仕方なかったのに、ときどき遼を樹と錯覚しそうになった。私は、誰と身体を重ねていたのだろう———
「……気持ちはわからなくもないけどね」
ミヅキは、肩を震わせるくるみを、包み込むように抱きしめた。その温かさに、くるみは嗚咽を漏らした。
「でも、それが初体験っていうのも、悲しいわねぇ」
くるみが涙に濡れた顔を上げ、眉をしかめてミヅキを見た。ミヅキが、あっけらかんとして云った。
「ま、処女脱出祝いってことで、乾杯?」
そう云って、茶目っ気たっぷりにグラスを掲げた。
少しでも、情に揺らいだ自分がバカだった———くるみは、引ったくるようにグラスを手に取り、思い切りそれを仰いだ。勿論、乾杯などするはずもない。リオンも、その様子を見て、ふっと笑った。
「誰だって、強くないもの。誰かにすがりたくなるときもある。でも……すがられた方の気持ちも、忘れちゃダメよ」
ミヅキが、静かに云った。ミヅキの言葉に、くるみは胸が締め付けられるようだった。遼の、別れ際の言葉が思い出される。あのとき、ふと寂しそうな顔をした。だが、どすればいいのかもわからない———くるみは、額に手をついて、大きく息をついた。
そのとき、携帯電話の振動する音が聞こえた。ミヅキの携帯電話だった。派手にデコレーションされた携帯電話を取り出して、ミヅキが通話ボタンを押す。「もしもしぃ?」と、軽快な口調で電話口に出た。
「あら、ママ。どうしたの?」
どうやら、電話の相手はママのようだ。くるみとリオンは、黙ってミヅキを見ていた。
「え?カオル?知らないわよ」
カオルという言葉に、くるみは思わず息を飲んだ。一昨日の夜、カオルを警察署まで迎えに行ったことが思い出される。結局逃げるようにタクシーに乗り込んでいったが、その後樹との一件ですっかりカオルのことを忘れていた。
「え……どういうこと?」
ミヅキの表情が、突然翳る。ミヅキは、「わかった、すぐ行くわ」と、険しい口調で云うと、電話を切った。
「……どうしたんですか?」
「アンタ、カオルと仲良いわよね。カオルと、連絡付けられない?」
ミヅキが向き直り、険しい表情で云った。
「……電話、してみます」
慌てて鞄から携帯電話を取り出し、カオルの番号を引き出した。電話を掛けてみるが、留守電話に繋がるばかりだった。仕方なく、連絡がほしいという内容のメールを送った。ミヅキは荷物をまとめ、立ち上がって云った。
「今日はお開きよ。店に戻るわ」
「……何かあったの?」
リオンが窺うようにミヅキを見上げた。苦虫を噛み潰したように唇を歪めて、ミヅキが云った。
「カオルがやらかしてくれたみたいだわ」
「……やらかす?」
くるみも、ミヅキを見上げる。ミヅキは、「話は後よ」と、伝票を手に、レジの方へ足早に歩いて行った。慌てて、くるみとリオンもその後を追う。
嫌な予感がする———押し寄せる不穏な予感に、酒の酔いも吹っ飛んでいた。
店に着くと、ママはミヅキの到着を待っていたかのように、入り口で腕を組んで佇んでいた。その顔は、ひどく強ばっている。
くるみとリオンが一緒だったことに多少驚いた様子だったが、ママは何も云わなかった。ミヅキが、「ママ」と、駆け寄る。ママは大きく溜め息をついてカウンターの方を見た。
カウンターには、中年の男が身体をすくめるようにして座っていた。思わず、くるみは「あっ」と声を上げた。その男は、いつかくるみに「二万でどうだ?」と援助交際を持ちかけて来た男だった。歳は五十代半ばといったところだろうか、白髪の頭は薄くなっており、くたびれたスーツを着ている。男が顔を上げたかと思うと、くるみたちをきつく睨みつけた。そして、声を荒げて云った。
「他の奴らを呼んでるんじゃないんだ!カオルはどこだ、カオルを呼べ!」
「カオルは、今探していますから」と、ママが男を宥めるように云う。そんなママに殴り掛からん勢いで男が威勢を払う。尋常じゃないほどに取り乱しているようだ———そのただならぬ様子に、くるみとリオンは顔を見合わせた。
ママが、何やらミヅキに耳打ちをしている。話終えたらしいミヅキがママから離れ、「ちょっと」と、くるみとリオンを手招きした。
取り乱す男を横目に、くるみとリオンがミヅキの方へ歩み寄り、そのまま控え室に入った。
控え室の扉が、いやに重々しい音を立てて閉まる。それを確認して、ミヅキが溜め息混じりに口を開いた。
「カオル、店の客からお金を受け取ってアフターしてたみたいなのよ」
えぇっ、とリオンが甲高い声を上げる。くるみは、黙ってそれを聞いていた。ミヅキが、話を続ける。
「それだけでも大問題なのに、本当の問題はここから。あの客、カオルからHIVをうつされたって云うのよ」
援助交際のことは、実際に自分が補導されたカオルを迎えに行ったのだから、くるみも知っている。だが、HIVをうつされたという言葉にはさすがに驚愕せずにはいられなかった。
事の経緯は、つまりこういうことだった。男は青少年活動に携わる機関に務めており、その機関が事業の一環として取り組んだエイズ撲滅運動で、職員全員がエイズを含む性感染症の検査を受けたのだという。その結果、男の検査結果でHIVに陽性反応が出た。男は以前からカオルと性行為を含む援助交際をしており、そのHIVがカオルからうつされたものだと考え、店に乗り込んできたのだ。
淡々と経緯を話すミヅキに、リオンは深く溜め息を付いて、苛立ちを見せながら口を開いた。
「そんなの、カオルだって証拠はないじゃないの。HIVなんて、潜伏期間が数年から十年なんてありふれてるのよ。昔の男が持ってた可能性だって否定できないわよ」
「その可能性はないって、あの客が云って聞かないのよ」
リオンの言葉を切り捨てるように、ミヅキが云った。
「あの客、自分はゲイだから定期的に検査を受けてたんですって。前に検査をしたのは二年前らしくて、そのときは陰性だったって云うの。それ以降、抱いたのはカオルだけだって」
くるみは、二人の会話が耳から耳へと流れていくのを感じていた。ただただ恐ろしさに、身体が震えてくる。
カオルは、部屋を訪ねてきたときに、くるみを襲おうとした。もしあのとき、樹が来てくれなければ、自分もHIVに感染していたかもしれないということになる。勿論、本当にカオルがキャリアかどうかは本人に問いただしてみなくてはわからない。
だが、もしキャリアであり、そのことを自身で知っていたとしたら。それでいて自分を抱こうとしたのだったら———冷たい表情で自分に覆いかぶさってきたカオルの顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「勿論、カオルがそうだという確証は、今は何もないわ。あの客のとんだ云い掛かりかもしれないもの。とにかく、カオルを探し出さないことには何も始まらない。違うなら違うで、証拠を突き付けてやらなきゃ、あの客は収まらないわよ。くるみ、連絡ないの?」
名前を呼ばれ、くるみははっと我に返った。慌てて携帯電話を取り出す。だが、カオルからの連絡は入っていなかった。
ミヅキとリオンに向き直り、首を横に振る。ミヅキは、頭を抱え、壁にもたれ掛かった。
「これがもし事実だったら、カオルだけの問題じゃないわ。店の存続も危なくなる」
「え……?」
くるみが、ふと顔を上げてミヅキを見た。ミヅキは悔しそうに唇を噛み締め、震える声で云った。
「狭い世界だからね、こういう情報は回るのも早い。特にHIVとなれば、ゲイを嗜好する人間たちにとっちゃ恐怖も倍増よ。HIVは、最近じゃ異性間の感染も増えてるけど、やっぱり同性愛者間の感染が根強いのは確かなの。異性間のような妊娠の心配がないから、コンドームを付けない人間が多いのよ。噂であってもこういう店だからって安易に信じる客も多いだろうから、例えカオルがキャリアじゃなかったとしても、キャリアが出たって噂が出りゃぁ、店は大打撃よ」
HIVについての知識はほとんど持ち合わせていない。だが、確かにゲイに感染者が多いというのはよく聞く話だ。だが、それを別にしても、やはりHIVのキャリアがいると聞けば、あまり近づきたくないとは思うかもしれない。
不意にある言葉を思い出す。くるみは、「あっ」と小さく声を上げた。
もろもろの出来事ですっかり忘れていた、長田のことをくるみは思い出していた。長田は、くるみに店を移らないかと持ちかけた後、意味深なことを口走っていた。
「ここだけの話、CANDY HEARTはそう長くは続かない」
確かに、長田はそう云った。そのときはその言葉の意味がわからず、ただ怪訝に顔をしかめただけだったが、もし長田がカオルのことを知っていたのなら、話は繋がる。長田は、いつかこうなることがわかっていたのだ。
そうならば、カオルがHIVのキャリアだということに、信憑性が出てくる。
「何、どうしたのよ」
二人がくるみを覗き込んで、問いつめるように云った。くるみは、息を呑み、気持ちを落ち着かせるように声を静めて云った。
「CHERRY BOYの店長が、云ってたんです……この店は、そう長くは続かないって」
「どういうこと?」
リオンが、声を上ずらせて云った。今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……そのときは意味がわからなかったんですけど、それがカオルさんのことを指していたなら、合点がいきます。CHERRY BOYの店長は、カオルさんのこと、知ってたんじゃないでしょうか?」
くるみが、すがるように二人を見上げる。二人は、ひどく動揺したように視線を泳がせていた。ミヅキがくるみを見つめて云った。
「どうしてアンタが、CHERRY BOYの人間なんかと話してるのよ」
くるみは、CHERRY BOYへの移籍を持ちかけられたことを話さざるを得なかった。驚いたように目を見開いて二人は聞いていたが、ミヅキが納得したように頷いて云った。
「……長田は、カオルのことが明るみに出る前に、アンタに店を移ってほしかったんだわ。それで、自分から吹聴するようなことはしなかった。アンタが移動しても、しばらくは伏せていたでしょうね。そう考えると、やっぱりカオルは……」
そこまでまくしたてるように云うと、ミヅキは言葉を詰まらせた。次の瞬間、くるみは身を翻していた。部屋を出て行こうとするくるみを、リオンが慌てて止めた。
「どこ行くのよ!」
「カオルさんを、見つけ出します」
くるみは、二人が止めるのも振り切って、控え室を出た。すぐにママと男と目が合ったが、軽く会釈だけしてまっすぐに出入り口を目指した。
大通りに出て、タクシーを広い、素早く乗り込んだ。カオルの実家があるという最寄りの駅の名を告げる。
本当は、連絡はしたくなかった。だが、事態が事態だ。くるみは携帯電話を取り出し、樹の番号を引き出すと通話ボタンを押した。まさか、あんなことがあったすぐ翌日に、自分から連絡を入れることになろうとは、思いもしなかった。
カオルを、このまま放っておくわけにはいかない。カオルは、自分がHIVのキャリアだと知っている、くるみにはその確信があった。
「お金が欲しかったからですよ。それ以外に、援交する理由なんてありますか」
どうして援助交際などしたのかと問いただしたときに、カオルはそう云った。だが、本当は違うのではないか。くるみは、カオルがそう云ったときに視線を逸らしていたことを思い出していた。いつだってカオルは、相手の目をじっと見つめて話をした。それをせず視線を逸らしていたのは、そこに偽りの感情があったからではないのだろうか———くるみは、カオルが金銭を手に入れるためだけに男たちに身を売ったとは、どうしても思えなくなっていた。カオルが何を考えているのかはわからない、だが放っておけば必ず同じことを繰り返す。
「もしもし……?」
樹の声が電話越しに聞こえてきた。くるみは、気まずい感情も忘れて、訴えるように口を開いた。
目の前にした豪邸に、くるみは思わず息を飲んだ。
隣には、険しい表情をした樹が、同じようにカオルの家を見上げている。
電話を受けた樹は、とても困惑しているようだった。あんなことがあった後だから、当然だと云えば当然である。だが、カオルのことだと告げると、樹は冷静に話を聞いてくれた。緊迫したくるみの様子に、すぐにそっちへ行くと云い、電話を切った。
くるみは、まっすぐにインターホンのボタンを押した。
すぐに機械越しに女性の声が聞こえてきた。
「どちらさまでしょうか?」
相手は老女のようだった。樹は、「前とは違う人間だ」と小さく呟くように云った。声から推測できる年齢からも、母親ではないようだ。祖母なのか、今はまだ昼間だから家政婦か何かかもしれない。くるみはなるべく不審に思われないようにと、穏やかな口調を務めて云った。
「私、藍原と申します。カオルさんのことでお話があって伺いました」
「……少々お待ちください」
インターホンが切れる。くるみは樹の方を振り返った。樹は表情を険しくしたまま、くるみを見つめ返した。
門の向こうで、扉がゆっくりと開く。出てきたのは、小さな老女だった。おどおどと遠慮しがちな様子で、こちらに静かに会釈をした。
くるみたちも、それに伴って会釈を返す。老女が、こちらへと近づいてきた。
通されたカオルの家の中は、外観に見劣りしない立派な造りだった。価値まではわからないが、豪奢な装飾品があちこちに飾られている。まるで異国に来たかのような錯覚さえ覚える。
老女は、二人を客間と思しき広い部屋に案内すると、ソファを進めた。お茶をご用意しますのでと、部屋をそそくさと出て行く。くるみと樹は、腰掛けたソファにひどく居心地悪さを感じていた。
「……すげぇ、家だな」
樹がぽつりと云う。くるみも、その言葉に小さく頷いた。以前樹にカオルの実家は金持ちに違いないという話を聞いてはいたが、これほどまでとは思わなかった。両親は、よほどの有権者か、会社でも高い地位にある人間に違いなかった。
老女は家政婦のようだった。お茶の用意を手に戻ってくると、それらを二人の前に置く。樹が老女を見上げて聞いた。
「……カオルさんは?」
老女が表情を強ばらせる。そのとき、背後の扉が開いた。入ってきたのは、四十代半ばかと思われる女性だった。一目で、カオルの母親だとわかる。陶器の人形を思わせるような真っ白な肌に、大きな瞳は、カオルにそっくりだった。くるみと樹は慌てて立ち上がり、会釈をした。
だが、カオルの母親と思しき女性は、それを無視するように老女に厳しい口調で云った。
「どうして通したの」
思わず二人は眉をひそめる。老女が、怯えるように慌てて云った。
「……カオルさんのことでお話があると云われるものですから……」
「あの子のことで、話すことなんてありません。お引き取りください」
カオルの母親は震える声でそう一蹴すると、踵を返そうとした。
「ちょっと……待ってください」
くるみが、それを止めるように云った。カオルの母親が振り返る。その顔は、嫌悪に満ちている。
「カオルさんは、今どこにいるんですか?」
「……そんなこと、知ったことじゃありませんわ」
「……自分の子のことでしょう?」
くるみは、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。この、異様な程に突き放した冷たさは何なのだろう。だが、カオルの母親は、冷めた目でくるみを一瞥して云った。
「あんな子、うちの子じゃありません。本当に、恥もいいところよ」
思わず、くるみが口を噤んだ。本当に、家族なのか。樹が、引き継ぐようにして口を開いた。
「アンタ、母親なんだろう?自分の息子のことが心配じゃないのかよ」
「だから、云っているでしょう。あんな子、うちの子じゃないと。……汚らしい」
「汚らしいって……」
一体、この母親がカオルの何を指してそう云っているのかまでは、推し量ることができない。だが、カオルがこの家で厄介者扱いにされていることだけは確かだった。
「……カオルはどこだ?」
「だから、知らないと云っているでしょう。あなたたち、突然やってきて何なんですか」
カオルの母親は、忌々しいものでも見るかのような目つきで、二人を睨みつけた。
「……心当たりはないんですか?見つけ出さないと、大変なことに……」
くるみがすがるように云うと、カオルの母親は吐き捨てるように溜め息をついて云った。
「またあの子、何かしでかしたの」
そのあっけらかんとした様子に、くるみはただただ呆然とするばかりだった。樹が、意を決したように云った。
「……カオルは、この間警察に補導されたんだ」
「……樹さん?」
それを云ってしまっていいのかと、くるみは思わず樹を見た。樹の顔は、ひどく強ばっているのがわかる。母親は、予想外にも平然とした様子でそれを聞いていた。
「援助交際だ。引き取り人として、カオルが呼んだのはこっちの女性だ。親として、関係ないことじゃないだろう」
樹の身体が、怒りに震えている。母親は、大きく溜め息を付いた。
「またですか……何度同じことをしたら気が済むのかしら」
「またって……」
くるみが絶句して呟いた。刑事は、カオルは初犯だったと云っていた。その疑問に答えたのは、母親だった。
「どれだけ揉み消したと思ってるのかしら。また、手を回さなくちゃいけないじゃない」
その言葉に、くるみは納得した。父親は余程の有権者のようだ。これまで幾度となくカオルが掴まっても、それをすべて権力で揉み消してきたのだ。だから、初犯になっていたのだ。だが、今回は親の名前を出さず、引き取り人にくるみを選んだ。
ふと、あることが浮かんで、くるみは震える声を抑えるように、静かに口を開いた。
「……カオルさんは、HIVのキャリアかもしれないんです」
樹が驚いたようにくるみを見る。だが、母親は一切表情を変えなかった。くるみをじっと睨みつけて云った。
「だから、何なんです?」
「……驚かないんですか?」
母親は、ふんとそっぽ向くように視線を逸らした。その母親の態度は、くるみに衝撃を与えずにはいられなかった。母親は、知っていたのだ。それなのに、援助交際を揉み消すことばかりに躍起になって、咎めることもしない。何より、カオルの身体を心配する様子もない。
次の瞬間、くるみはカオルの母親に掴み掛かっていた。母親の悲鳴が上がる。樹は慌ててくるみの身体を離そうと、背後からくるみの肩に手を掛けた。だが、くるみの勢いは収まらなかった。
「母親なんでしょ!自分の子どもが、HIVに掛かってるかもしれないんですよ!どうして放っておくんですか!」
「くるみちゃん、落ち着いて……」
「他の人にも、感染する可能性があるのに、何を呑気に関係ないって……何バカなこと云ってるんですか!HIVは、放っておいて治る病気じゃないでしょう?」
カオルが力づくでくるみの身体を母親から離す。母親は息を上げて、その場に座り込んだ。だが、くるみの憤りは収まらない。
「心配じゃないんですか!アンタたち、一体何なんですか!家族じゃないんですか!」
感情が高ぶり、衝動的に涙が溢れてくる。ただ黙って云われるままの母親に、くるみは何度も声を荒げた。それを制したのは、樹だった。
「……くるみちゃん、行こう」
暴れるくるみを、樹が抱きかかえるようにして引っ張った。涙と怒りに、くるみの顔はぐしゃぐしゃになっていた。座り込み、視線を逸らしたままの母親を部屋に残したまま、二人は家を出た。
門を出ても、くるみは気持ちが落ち着かなかった。涙が止めどなく頬を伝い、流れ落ちる。そんなくるみを樹は宥めるように云った。
「……俺たちで探しに行こう。このまま、あそこにいても何も始まらない」
樹の言葉はもっともだ。あの母親は、カオルの居場所の見当も付くはずがない。もしかしたら、カオルはまったく家に近寄ってさえいなかったのかもしれない。
くるみは悔しさに唇を噛み締めて云った。
「……カオルさんは、ずっと気付いてほしかったのよ。本当は、ちゃんと向かい合ってほしくて、それでわざとあんなことを……」
そこで、言葉を詰まらせた。だが、樹にも云いたいことは伝わっていたようだ。樹も、小さく、でもしっかりと頷いた。
カオルは、止めて欲しかったのだ。何をしても父親の権力で揉み消され、なかったことにされてしまうことが、どれだけ辛かったのだろう。だから、あの日は自分の身の上を明かさず、くるみを呼んだのだ。公に出ることを、カオルは望んでいた。そうして、止めて欲しかった……両親に、家族に、きちんと止めて欲しかったのだ。
「お金が欲しかったからですよ」と、目を背けたカオルの顔が、ひしひしと浮かび上がってくる。
絶対に、見つけ出してみせる。くるみは、涙を手で拭うと、力強く前を向いた。
東京という広い都会で、カオルを探し出すのは容易ではなかった。
樹とくるみは、カオルが行きそうな場所に見当を付けて、手分けをして探した。カオルが通っている大学、歌舞伎町のホテル街、若者の行きそうな青山や渋谷といった街。ミヅキに携帯電話でカオルの写真を送ってもらい、それをコンビニのプリンターで大量に印刷をすると、手当たり次第人に見せて行方を尋ねた。勿論、探している本当の事情は伏せている。だが、一向にカオルの情報は得られなかった。
いつしか日は暮れ、街は会社帰りと思われるスーツ姿の人や、学校帰りの高校生で溢れかえっていた。人通りが増え、キャッチや宣伝をする人たちの声で街が覆い尽くされていく。人だかりの向こうに、樹の姿を見つけ、くるみが手を挙げた。樹もそれに気付き、手を振り返す。
「どうだった?」
樹が聞いた。くるみは、大きく首を横に振った。
「……範囲が広過ぎてわかんねぇな。でも、もう夜だし、どこか泊まる場所を求めるはずだ。もう一度、歌舞伎町に戻ろう」
その推測には同感だった。家に帰っていないのであれば、カオルが向かうのはホテル街だろう。援助交際の相手を探し、一夜を過ごす場所を確保する。それが一番、可能性が高かった。二人はタクシーに乗り込み、運転手に歌舞伎町の名を告げた。
夜の歌舞伎町は、とても賑やかだった。昼間はなりを潜めていたホストクラブやキャバクラといった店々のネオンが灯り、豪奢な外観が映し出される。キャッチのホストたちの勧誘をすり抜けるようにして、歓楽街の奥にあるホテル街を目指した。
さすがに、一人でホテルに聞き込みに入るのは躊躇われるからと、二人で一軒一軒ホテルを回り、受付の人にカオルの写真を見せて尋ねていった。客でないとわかると、嫌な顔をする管理人も多い。それでも、粘り強く交渉し、見掛けたら連絡が欲しいと電話番号を書いた紙を渡していった。
歌舞伎町内のすべてのホテルを回り終える頃には、時刻は十時前になっていた。探している間にも何度もカオルに着信を入れていたが、一向に返ってはこない。樹が息を付くようにして云った。
「……とりあえず、一回店に戻ろう」
くるみもそれに頷く。同時に、自分がその日出勤だったことを思い出したが、ママから連絡は入っていなかった。容認ということなのだろう。二人は徒歩で、二丁目にあるCANDY HEARTへ戻った。
店は、いつも通りの賑やかだった。店内を見渡すが、昼間の男の姿は見当たらない。どうやら、諦めて帰ったようだ。だが、またすぐに訪ねてくるに違いない。カオルを見つけ出さない限り、何も解決はしない。
くるみと樹の姿を見つけたママが、厳しい表情を浮かべたまま、歩み寄ってきた。
「……カオルは?」
そのすがるような目を避けるように、くるみが大きく首を振った。ママが眉間に皺を寄せ、「そう」と、小さく呟いた。
「一応見掛けたら連絡くれるように、いろんなところに連絡先は渡してきたから、もしかしたらどっかで引っ掛かるかもしれない」
樹がそう云うと、ママは樹を労るように、「樹ちゃんにも迷惑掛けて悪かったわね」と、二人をカウンター席へ促した。
くるみはそのまま仕事に出ようとカウンターに入ろうとしたが、ママがそれを止めた。
「今日はいいわよ。疲れたでしょ、何か飲む?」
そう云うママの方が、ずっと疲弊しているとくるみは思った。ママにだって、このことが店に大きな打撃を与えることはわかっているはずだった。ミヅキの云っていた通り、店の存続さえ危ぶまれるに違いない。
くるみと樹はそれぞれビールをもらうと、黙ってそれを口にした。ママがカウンターを出て、マイクを取り、「イッツ、ショータイム!」と高らかに声を上げる。軽快なミュージックが店内に鳴り響き、場内は大きな歓声で包まれた。
ショーメンバーたちが舞台に現われる。そこには、ミヅキやリオンの姿もあった。笑みを浮かべ、いつもと一寸違わぬ美しい舞いを見せている。他のメンバーたちがカオルの一件を知っているのかどうかはわからなかったが、このショーの様子からはそんなことは微塵も感じさせなかった。くるみは、ふと端の方を見やる。いつもはカオルが踊っていたポジションには、新しい店子が入っていた。カオルほどではないにしても若く、愛嬌のある容姿のニューハーフである。
くるみが黙ってショーを眺めていると、樹が呟くように云った。
「……今日も、カオルちゃんは誰かと寝るんだろうな」
くるみがふっと振り返る。難しい顔をして、樹が頬杖を付いていた。
「怖いよな……HIVなんてそう聞く言葉じゃないけど、確実に浸透していて、水面下で広がってる。この中にだって、気付かないうちに感染してる人間だって、いるかもしれないんだから」
樹が唇を噛み締めるようにして、そう云った。くるみも、苦々しい気持ちでいっぱいだった。あのとき、カオルと寝ていれば、自分だって今頃キャリアだったかもしれないのだ。HIVは潜伏期間がある。自分で調べることなく症状も出なければ、気付くことなく他の人へとうつしていってしまう。
その恐ろしさに、今さら怯える思いだった。くるみが視線をカウンターに落とし、黙っていると、樹が云った。
「……その、くるみちゃんは、カオルちゃんと何もなかったんだよね?」
くるみが顔を上げ、樹を見た。樹の目が、じっとくるみの瞳を捉えていた。
「……えぇ、樹さんがあのとき入ってきてくれなかったら、危なかったかもしれないけど……」
躊躇うようにくるみが云う。樹が、大きく息を付いた。
「あれは、俺のせいだったんだ」
突然の樹の言葉に、くるみは「えっ」と声を上げた。
「カオルちゃんの援交の現場を目撃したときに、俺、カオルちゃん掴まえて話をしようと家に連れていったんだよね。そうしたら、カオルちゃんが俺に襲いかかった」
初めて聞く話に、くるみは動揺していくのを感じた。樹が視線を逸らし、「勿論、何もなかったけど」と、乾いた唇を潤すようにビールを一気に飲み干した。
「カオルちゃんに聞いたんだ。どうしてくるみちゃんを襲おうとしたのかって。カオルちゃん、俺と仲が良かったくるみちゃんに嫉妬したんだって云ってた。俺のことが好きだから、くるみちゃんに襲い掛かったって、そう云ってた」
目の前が真っ白になっていくのを感じずにはいられなかった。カオルが、樹のことを好きだった。そのことに驚きは隠せなかったが、それならば納得のいくことが多いと、くるみは思った。わざと遼に樹のことをけしかけたり、くるみに樹が女性を抱いたことがあると吹聴したりしたのも、くるみと樹の仲を裂くためだったと云われれば合点がいく。
「俺は単に傷物にしたくてくるみちゃんに襲いかかったんだと思ってた。でも、HIVをうつしてやるつもりだったんじゃないかって、思うんだ。勿論、カオルちゃんが本当にキャリアかどうかはわからないよ。でも、そう考えれば納得いくよ」
くるみちゃんに何もなくて、本当に良かった———樹が、頭を抱えるように、溜め息を付いた。
深くついた溜め息に、安堵の色は見えなかった。樹にだって、そう云いながらも腑に落ちないことがあるに違いなかった。それを、くるみが口にした。
「……でも、本当にキャリアなら、どうして樹さんまでもを襲ったりしたんでしょうか?もしカオルさんが樹さんに……好意があったなら、好きな人まで傷つけたいと思うのかな……」
樹が黙り込む。樹も、同じことを疑問に思っていたのだ。どうして、カオルが樹にまで手を出そうとしたのか。樹はしばらく答えを模索していたが、諦めたように大きく溜め息をついた。
「……それは、カオルちゃん本人に聞かなくちゃ、わからないな」
おかわり、と樹がカウンターの中にいたボーイに声を掛けた。くるみは携帯電話を取り出し、着信がないかをチェックする。だが、やはりカオルからの着信はなかった。気付いていないはずはないだろう。やはり、自分たちを避けているのだと、くるみは思った。
「……カオルさん、大丈夫でしょうか?」
ん?と、樹が顔を上げる。くるみは、唇を噛み締めた。
「……カオルさんを見つけたところで、私たちはどうしたらいいんでしょうか。店との話し合いは勿論ですけど、問題はそれからじゃないですか。もし発症なんてしてたら……」
実際に、HIVを発症している人を目の前にしたことはない。それが、免疫不全症候群であることは知っていても、どういう症状を引き起こすのかまでは知らない。カオルの身体のことも心配だし、何より彼を守るはずの家族との関係も心配だった。カオルは、孤独の中にずっと身を置いていたのだ。
どれだけ、辛かっただろう。くるみは、カオルのことを考えると、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。誰も、カオルの心の闇に気付いてやることができなかったのだ。一人で、その闇と向き合い、戦うのはどれだけ辛かっただろうか。多くの人間にカオルがしてきたことは許されることではないが、そういう形でしか自分を守ることができなかったカオルが、あまりにも不憫だった。
樹は、そんなくるみを黙って見つめていた。そのとき、樹の携帯電話が鳴った。慌てて樹が着信に出る。
「はい……本当ですか」
樹が声を上げる。くるみも、思わず樹を見やった。
「わかりました、すぐに行きます」
そう云って電話を切ると、樹はすっくと立ち上がった。
「ヒットしたよ。歌舞伎町のホテル・アベニュー。写真によく似た人間が部屋に入って行ったって」
「本当ですか?」
樹はボーイが持ってきたビールを断り、足早に入り口の方へと駆けて行く。くるみも、その後を慌てて追った。
ホテル・アベニューは、ホテル街の端の方にあった。南国を思わせるような外観である。ヤシの樹に覆われた入り口への通路を足早にくぐり抜け、中へと入った。
部屋を決めるための掲示板が中央に置かれ、基本的に管理人と客が顔を合わせることはない仕掛けになっている。だが、管理人は奥の部屋で監視カメラで客を見張っている。二人はまっすぐに管理人室の扉を叩いた。出てきたのは、 先刻、カオルの写真を持ってきたときにも顔を合わせた老婆だった。
「あぁ、アンタたちか」
老婆が後から入ってくる客を気にして、二人を管理人室へと招き入れた。老婆はパイプ椅子に腰掛け、二人を見上げて云った。
「貰った写真によく似た子が、三十分程前に部屋に入っていったよ。キャップを被ってたけどね、監視カメラに目を向けたときに見えた顔がよく似てた」
キャップ帽を、カオルはいつも身につけている。おそらくカオルだろうと、くるみは思った。だが、部屋に入って三十分が経っているとすると、既に行為に及んでいる可能性は高い。相手の男は、何も知らないに違いなかった。悔やまれる気持ちに、くるみは苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。監視カメラを気にしているところからも、後ろめたさや警戒心が強いのを窺わせる。
「入っていったのは、三○五号室。どうする?面倒なのは、避けてほしいけどね」
老婆が面倒臭そうに云った。正直、ホテルからの連絡は期待していなかった。こういった店舗には色々な人間が来る。身を隠すには丁度いいからだ。それでも連絡を入れてくれたことに、くるみは感謝の気持ちでいっぱいだった。
「電話、できますか?」と、樹が老婆に尋ねた。
「ちょっと待ちな」
老婆が内線電話の受話器を手に取り、番号を押していく。しばらく受話器を耳に傾けていたが、相手が出たようで、口を開いた。
「あ、恐れ入ります。フロントなんですけどね。そちらにいらっしゃる若い方に、ちょっとお伝えしたいことがあって。降りてきてもらえないでしょうか?鍵、開けますんで。えぇ、すみませんねぇ」
相手は了承したようで、老婆が部屋のロックを解除するボタンを押した。
「ありがとうございます」
くるみが礼を云うと、老婆は鼻を鳴らしてそっぽ向いた。
「ここで騒ぎはごめんだよ。静かにやっとくれ。そっちの部屋、使っていいから」
そう云って、老婆が奥のリネン室のようなところを指差した。
二人の顔が見えた瞬間に、カオルが逃げ出す可能性がある。くるみと樹は先にリネン室に身を潜めることにした。カオルが来るまでの数分が、ひどく長く感じた。カオルと顔を合わせたところで、何から話を切り出せばいいのだろうか。
ふと、隣の管理人室から人の話し声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。
———カオルだ……
くるみは、身体が強ばっていくのを感じた。樹も同じ思いのようだった。険しく顔をしかめ、扉の方を見る。
「お客さんを訪ねてきていらっしゃる方がいましてね」
老婆の声が聞こえる。カオルの顔は見えないが、おそらく顔を強ばらせているに違いなかった。リネン室の扉が開く。くるみは息を呑んだ。
カオルも同じだった。くるみと樹の顔を見ると、途端にカオルの白い顔が蒼ざめていくのがわかった。くるみが声を掛けようとした、そのときだった。カオルが身を翻し、次の瞬間ホテルの入り口の方へと駆け出していた。
「待て!」と、樹が慌ててその後を追う。くるみは老婆に「また後ほど」と声を掛け、その後を追い掛けた。
カオルはホテルを出て、そのままホテル街を疾走していった。その後を、樹とくるみが追う。ふと、初めて樹と出会った日のことが蘇ってくる。あの日も、こんな風に樹と歓楽街を駆け抜けた。二度目とは云え、普段運動をしない身体では男二人の足に付いていけるはずもなかった。どんどん二人と距離が開いていってしまう。それでも、くるみは必死に二人の姿を見失うまいと全力で走った。
歓楽街を抜け、オフィス街をもすり抜けてなお、カオルは疾走を続ける。東京の地理にあまり詳しくないくるみには、今自分がどこを走っているのかさえわからなかった。ネオン街からは遠ざかり、静閑なビル街に入っていく。さすがに息を切らし、もうこれ以上を走るのは厳しいと諦め始めたときに、カオルがあるビルに入って行くのが見えた。古いビルで、既に中に入っているテナントは営業も終っているようで電気はついていない。階段を駆け上っていくカオルを追うように、樹も階段の上階の方へと消えて行く。くるみも、それに追従して階段の手すりに手を掛けた。
ビルの中は非常灯があるとは云えども、暗かった。真っ暗な階段をひたすら駆け上っていく。八階まで来たときには、息も絶え絶えだった。
八階のフロアに辿り着くと、その上へと続く階段には「立ち入り禁止」という札が立っていた。だが、二人はそれを無視して上へ上がったようだ。くるみも、その札をすり抜けて、上を目指す。階段の上には踊り場があり、その向こうに扉があった。屋上へ続いているのだろう。扉がうっすらと開いており、外から光が射し込んでいる。
その扉を開き、くるみは外へ出た。突然歩を緩めたせいか、心臓がひどく鼓打っていた。呼吸を整えようにも、なかなか思うようにはいかない。ぜいぜいと息を切らし、屋上をよたつく足取りで歩く。ずっと向こうに、カオルと樹の姿が見えた。樹が、カオルに何か話しているのがわかる。だが、カオルは屋上の手すりに手を掛け、叫びにも近い声色で樹に言葉を返していた。
「あなたたちに関係ないじゃないですか!」
五十メートルほどにまで距離を縮めたときに、カオルの言葉をようやく聞き取ることができた。
「関係ないはずないだろ!どれだけの人間に迷惑が掛かってると思ってんだ!」
樹が怒鳴り声を上げる。くるみは何かを云いたかったが、息が整わず、言葉を発することができなかった。カオルが悲痛な表情を浮かべ、樹を睨みつけているのがわかる。くるみは、一歩一歩カオルに歩み寄って行った。
「店に、おまえにHIVをうつされたっていう客が来た。おまえが、違うっていうなら証明すればいい。だが、もしそうなら、おまえには店に戻って話す義務がある」
くるみは、カオルに「違う」と否定してほしかった。そんな覚えはないから、戻って検査を受けると、そう云ってほしかった。だが、カオルは何も云わずに黙り込んだまま、樹を見つめ返していた。
「……どう、なんだ?」
樹が、窺うように静かに云った。
次の瞬間、くるみは目を疑った。カオルは、突然目の色を変え、高らかに笑い声を上げたのだ。その様子は、くるみに襲い掛かろうとしたあのときの、冷たい顔だった。樹も、思わず息を呑み、カオルを見ていた。
「だから何だっていうんだ」
「……なに?」
「金で人間を買うような奴らが悪いんだろ!金出して、良い目見て、その代償じゃないか!」
カオルの顔は笑っていた。引きつった笑い声を上げ、怒りなのか、楽しさなのか、計ることのできない声色で叫ぶ。その様子に恐ろしさを覚え、くるみは足がすくむのを感じた。
カオルは、やはりHIVのキャリアだった。それを、自分自身で認識していた———
「僕は悪くない!悪いのは、他の奴らだ!金で人間を買おうとしたバカな奴らだ!僕は悪くない!」
笑っていた顔が、次第に泣き出しそうに翳っていく。僕は悪くない、カオルは何度も何度もそう叫び続けた。それは、樹やくるみに云うのでなく、自分に云っているようにさえ聞こえた。
「いい加減にしろ!ならば、くるみちゃんや俺はどうなるんだ!おまえは、俺たちにも同じことをしようとしただろ!」
樹が、そう叫んだ。くるみも、はっと息を呑み、カオルに目をやった。カオルは、再び笑い声を上げた。だが、その目は笑っていない。
「アンタたちが悪いんだ……くるみさんが、樹さんにベタベタして回るから、目障りだった」
その話は樹から聞いてはいたが、いざカオルの口から直接聞くとなると、ショックも大きかった。樹が、苦々しく眉をしかめ、「俺は……」と呟くように云った。
「樹さんが悪いんだ……女なんか好きじゃないって云いながら、くるみさんなら愛せるかもしれないって、そんなこと云うから……」
カオルの表情は一変して、また泣き出してしまいそうな怯えたものになっていた。震えるように云ったカオルの言葉に、くるみは狼狽していた。思わず樹を見たが、樹の視線はカオルをじっと捉えていた。
「最初はくるみさんだけのつもりでしたよ……まさか、あんなタイミングで樹さんが入ってくるなんて、思いもしませんでしたけどね。でも、あのときに思ったんだ。うつすのは、くるみさんじゃなく、樹さんにしようって。もし、樹さんがくるみさんとセックスなんかしたら、樹さんがくるみさんにうつすことになる……くるみさんは樹さんを憎むはずだ、この上ない恨みを持って。
樹さんを受け入れる人間はいなくなる。そうすれば、同じ境遇の人間同士、傷を舐め合っていける……樹さんは、僕のものになる……」
言葉をところどころ詰まらせながら、カオルが一気にまくしたてた。初めて知るカオルの心に、くるみは戸惑うしかなかった。そんなにカオルに恨まれていたことも勿論だが、愛する樹にさえそんな乱暴な考えを持っていたことに、ショックだった。樹は、怒りに唇を震わせ、声を荒げて云った。
「ふざけたこと抜かすな!」
次の瞬間、樹がカオルに掴み掛かろうとした。くるみは慌てて駆け出すと、樹を止めようと背後から抱きついた。
「やめてください!樹さん!」
「離せ!こいつのやってること、わかってんのか!人の命を左右するんだぞ!」
樹がカオルに殴り掛かろうとする。くるみは必死にそれを止めようと、腕に力を入れる。カオルは身体を後ずさらせ、悲痛に叫ぶように云った。
「みんなが悪いんだ!誰も、僕のことなんて見てくれない!誰も、僕のことなんて愛してくれないから……」
カオルの大きな瞳から、涙が頬を伝って落ちた。それから、堰を切ったように、幾筋もの涙が溢れ出て、地面に零れ落ちていく。
「どうして……僕だけ……僕だけ……」
くるみも、泣いていた。無意識のうちに、涙が頬を伝っていた。
HIVのキャリアだとわかってもなお、何も云わず心配することなく突き放す、カオルの家族。カオルは、ずっと一人ぼっちだった。孤独と、HIVの恐怖に、たった一人で立ち向かってきたのだ。それを訴える手段を、こういう形でしか持てなかった。愛を伝える手段を、愛されるための手段を、こういう方法でしか考えられなかった。
カオルの想像を超えるだろうこれまでの辛さを、すべて理解することはできない。でも、くるみにはカオルの気持ちが少し、わかるような気がしていた。自分も、ずっと空気のようだと思って生きてきた。一人で生きていくことの辛さが、自分にはわかる。
次の瞬間、くるみは樹を押しのけ、駆け出していた。そして、思い切りカオルの身体を抱きしめた。
「……誰も見ていないなんて、そんなこと云わないで……」
初めて、カオルを見たときのことが思い出される。ショーのステージで、端のポジションにいながらも、一人、一際目を引く踊り子がいた。それが、カオルだった。あのとき、純粋にカオルを美しいと思った。その美しさに感動して、勇気を出して控え室で自分からカオルに話し掛けたのだ。人に話し掛けることに恐怖を抱いていた自分に、その力を与えたのは、他でもないカオルだった。カオルは、くるみがCANDY HEARTで出来た、初めての友人だった。いつだって、カオルが傍にいた。
抱きしめたカオルの身体から、温もりを感じる。その華奢な身体は、ひどく震えていた。
カオルは、しばらく呆然としたようにくるみに抱かれたままだった。だが、途端にその身体を突き放すと、手すりを乗り越えた。
くるみが身体を起こし、カオルを見る。カオルの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「……そんな言葉、信じない……そんな言葉、信じない!」
カオルが静かに身体の向きを変えた。カオルの向く方には、広い空が広がっている。
———飛び降りる気だ。樹が慌てて、カオルの方に駆け寄ろうとした。だが、カオルは「来るな!」と声を荒げた。
「僕なんて、いなくなっても誰も困らない……」
そう呟くと、カオルが建物の縁へと歩を進めた。
「……ダメ!」
くるみは立ち上がり、カオルの方へと駆け寄った。
次の瞬間、カオルが建物の外へと足を踏み出した。くるみが手すりを飛び越えるようにして、そのカオルの身体を掴む。二人の身体が、絡まり合って宙に浮いた。背後で、樹の悲鳴が聞こえる。そのまま、二人は地面に向かって急速に落下していった。
目を開けると、真っ白な天井が広がっていた。一瞬、記憶が混乱し自宅のベッドの上かと思ったが、すぐにそうでないことがわかる。身体を起こそうと動かしただけで、体中に鈍い痛みが走った。
「気が付いた!」
すぐ傍で、嬉々とした声が聞こえた。ミヅキと母親が、上からくるみを覗き込んだ。
「お医者様、呼んでくる!」と、顔は見えないがリオンの声がする。
「もう、本当に心配したじゃない」
母親が、疲弊したように大きく溜め息を付いて云った。
「こんな歳にもなって、冷や冷やさせないでよね」
「……ごめんなさい」
くるみが、反射的に呟くように云った。母親が立ち上がり、「お父さんに連絡入れてくるわ」と、席を立った。母親が病室を出て行くのを見送って、ミヅキが「大丈夫?」と、心配そうな表情を浮かべてくるみに尋ねた。
ようやく、記憶がふつふつと蘇ってくるのを感じた。樹と共にカオルを追って、古びたビルの屋上へと向かった。そこで、カオルが手すりを乗り越え、飛び降りようとしたのを止めようとして、一緒に落ちてしまったのだ。
「……私、生きてる……」
くるみが呟くと、ミヅキがくるみの手を取った。目には、涙が浮かんでいた。
「アンタたち、本当に運が良かったわよ。丁度落ちたところが屋上農園になってて、助かったのよ」
確かに、地面に落下した瞬間に、柔らかいものに当たったような感覚はあった。あれは、土だったのか———くるみは、思い出したように云った。
「……カオルさん、は?」
一緒に落ちたカオルは、どうなったのだろう。くるみがすがるようにミヅキを見る。ミヅキは、息を付いて答えた。
「大丈夫よ。アンタと違って落ちたときに骨を折ったけど、命に別状はないわ。アンタ、見掛けに寄らず意外と丈夫なのね」
その言葉に、くるみは安堵するように大きく息を付いた。
病室の扉が開き、リオンが医者を連れて入ってきた。くるみは運良く、骨を折ることもなく、打撲だけで済んだようだった。ただ、頭を打った可能性があるから検査を受けなければならなかったが、その結果が良好であれば早々に退院していいということだった。
ミヅキの話で、くるみは丸三日意識を失っていたことを知った。カオルは、昨夜には意識を取り戻していたようだ。両親に連絡をしたが金は払うからという言葉だけでまるで取り合ってもらえず、今はママがカオルに付いているということだった。おそらく、ママはカオルと話をしているに違いなかった。だが、今は身体の痛みに、そこまで頭が回らない。
でも、生きていて良かった———くるみは、生きて戻れたことに安堵と嬉しさを噛み締めた。後先のことを何も考えずに、無謀にも手すりを飛び越え一緒に落ちてしまったことを、今さらながらに反省する。二人一緒に死んでしまっては、何の意味もない。そもそも、カオルにとっては後味が悪いだけかもしれない。
再び、扉が開き、誰かが入ってきた。視界の端に映ったのは、樹だった。ミヅキがそっと席を立ち、部屋を出て行った。気を利かせたのだろう。
「くるみちゃん」
樹が、くるみの瞳をじっと捉えた。その瞳には安堵の色が浮かんでいるが、目の下にはくまが出来ていて、少し痩せたようだった。
「……樹さん」
「ごめん……あのとき、俺……足がすくんだ。くるみちゃんをこんな目に遭わせるなんて、俺、最低だ」
樹がそう云って項垂れる。樹もこの三日間、自分を責めたのだろうとくるみは思った。目の前で、自分以外の二人の人間がビルから飛び降りたのだ。気が気でなかったに違いない。
くるみは笑みを浮かべ、口を開いた。
「二人とも生きていたんです。……それでいいじゃないですか」
「でも……」
樹が、きつく唇を噛み締めるのがわかった。
「……私も、無謀でした。反省してます。いい歳して、助けるどころか一緒に落ちちゃって、バカみたい」
くるみがそう云って笑うと、樹がくるみの手を取った。驚いて、くるみが樹の目を見る。樹の手は、とても温かかった。
「生きてて良かった」
樹の瞳が、心なしか潤んでいるように見えた。穏やかな視線に、心が温かくなっていくのを感じる。
「……はい」
小さな声で、だがしっかりと頷いた。やさしい時間が、二人の間には流れていた。
検査結果に問題はなかった。入院して五日目に、くるみは退院することになった。まだ身体を動かすとあちこちが痛むが、動けないほどの痛みでもない。
くるみはカオルの病室へ行きたいと申し出たが、ミヅキたちがそれを止めた。カオルは、くるみや樹に会うことを躊躇っているということだった。カオル自身が自分を拒否していることに寂しさを覚えたが、カオルもまだ状況の整理がついていないに違いなかった。くるみはカオルに会うのは諦め、迎えにきてくれた母親と共に病院を出た。母親は実家に戻るように勧めたが、くるみはそれを断り一人、自分のマンションへ戻った。
自宅に戻ったときは、昼の三時を過ぎたところだった。久しぶりに戻ってきた部屋の中は、きちんと片付き、シーツやタオルケットが洗濯されてきちんと畳まれていた。母親が、入院用にとくるみの荷物を取りに訪れたときにしてくれたのだろう。くるみはボストンバッグを開け、洗濯物を取り出して行った。退院したばかりとは云え、いつまでもうだうだしているわけにもいかない。
ふと、鞄の底で携帯電話を見つけて、それを拾い上げた。病室にずっといたものだから、すっかりその存在を忘れていた。開いてみると、メールは着信が何件も残っている。すべて、遼からのものだった。
開いたメールは、くるみと連絡が取れないことを心配している、という内容のものばかりだった。遼は、くるみの身に起こったことを何も知らない。くるみは、着信履歴を開いて遼の番号を呼び出すと、通話ボタンを押した。
もしかしたら、今は仕事中かもしれない。そう危惧したが、それは杞憂だったようだ。すぐに遼が電話に出た。
「もしもし?」
「……もしもし、くるみです」
電話の向こうで、遼は「良かった、やっと連絡が取れた」と安堵した様子で呟いた。余程、心配してくれていたに違いない。
遼と、身体を重ねたときのことが、ありありと思い出されてくる。遼と寝たことは、樹とのことを紛らわせるための何者でもなかった。遼も、おそらくそのことに気付いていた。それでも、あんなことがあったまま音信不通になるのは、後味が悪かったに違いない。「すがられた方の気持ちも、忘れちゃダメよ」そう云ったミヅキの言葉が思い出されて、くるみは申し訳なさでいっぱいになった。
「あの……すみません、何度も連絡入れてもらってたのに。ちょっと、色々あって……」
くるみは、しどろもどろになりながら云った。
「いや、いいんだ。くるみちゃんの無事を確認したし。昨日、さすがに気になって店に行ったんだ。でも、臨時休業の札が掛かってて」
「臨時休業?」
くるみが、驚いたように声を上げた。それが予想外だったのか、遼が訝しげに云った。
「……くるみちゃん、知らなかったの?」
昨日は、ミヅキたちも見舞いに来てくれていたが、夕刻になる頃には「店に戻るから」と云って帰っていたはずだった。それなのに、何故休業だったのだろうか。
くるみは、自分が入院していたということを、遼に話して聞かせた。電話の向こうの遼はひどく動揺したらしく、しきりに「大丈夫なのか?」「もう具合はいいの?」と、くるみに尋ねた。
「……大したことはなかったので、もう大丈夫です。でも……どうして休業だったんだろう」
「そこまでは、わからないけど……」
遼が、戸惑ったように云う。くるみは、ふと不吉な予感を感じた。そうであってほしくないと願う。だけれど、その可能性は高い。
「あの、すみません……また後で、連絡します」
遼が何かを云い掛けたのがわかったが、構わず電話を切った。そのまますぐに鞄を手に取ると、痛む身体に顔をしかめながら、足早に家を出た。
大通りでタクシーを拾い、店の近くの交差点の名を告げる。タクシーで十分ほどの距離だったが、その十分がいやに長く感じられ、早く着かないものかと気持ちがひどく急いていた。
ようやく目的の交差点に着き、くるみはタクシーを降りると、小走りで店へと向かった。まだ夕刻だから、殆どの店は営業が始まっていない。夜とは比べ物にならないくらいに静寂な路地を、くるみは駆け抜けた。店の営業は七時からであるから、勿論今はまだ営業は始まっていないが、「臨時休業」という札が扉に掛かっていた。くるみは息を呑み、扉を押した。扉は開いている。恐る恐る中に入っていく。
「くるみ!」
驚いたように声を上げたのは、ミヅキだった。こんなに早い時間であるのに、店子の多くが既に店に集合していた。みんな、いつものドレス姿ではなく、私服である。一同の視線が、くるみに集中した。
「アンタ、もう大丈夫なの?」
心配そうに、ミヅキがくるみに駆け寄り、肩に手をやる。くるみはミヅキの顔を見上げて云った。
「さっき退院してきました。その……店が臨時休業になってるって聞いて……心配で」
くるみの言葉に、ミヅキはバツが悪そうに視線を逸らした。他の店子たちも、黙り込んでいる。くるみの言葉に応えたのは、ママだった。カウンターからママがゆっくりと出てくると、厳しい表情でくるみに向かい合って云った。
「店は休業よ。無期休業」
「えっ……」
くるみが言葉を詰まらせた。それを補足するように、リオンが云った。
「アンタが意識を取り戻した日のことよ。営業中に、あの男がやってきたの。店に客がいるのも構わず、カオルにHIVをうつされたって怒鳴り散らしてね。店の中は、騒然よ。客は逃げるわ、野次を飛ばすわ、大騒ぎ。休業にせざるを得なくなったの」
リオンの言葉を、くるみは黙って聞いていた。
やはり、嫌な予感は当たっていたのだ———遅からず、こんな事態になるだろうことは、誰もが予想していたに違いなかった。
男とカオルは、話をしたのだろうか。ママを介して話をしたのかもしれないが、そんなに簡単に男が納得するはずもないだろうと、くるみは思った。HIVは潜伏期間があり、発症するかどうかも人によって違うが、命に関わる問題である。
無期休業、と云ったママの言葉の重みを、くるみは強く感じていた。それは、閉店を意味している。くるみが言葉を返せないでいると、ママが口を開いた。
「……今、これからのことを話すために、みんなに集まってもらっていたのよ。全員じゃないけどね、既に辞めていった店子もいるわ」
辞めていった店子もいる、という言葉に、くるみは心が痛んだ。HIVは、空気感染ではなく、普通に生活をしていてうつるものではない。入院している最中に、母親に頼んでHIVに関する書籍を買い込んでもらい、隅から隅まで読んだ。簡単に感染するように思われがちだが、コンドームなしの性交渉でも、感染する可能性はたった数パーセントの確率に過ぎないそうだ。だが、正しい知識を有していなければ、恐怖に苛まれるのも仕方なかった。
ママは、店子たちに向き直った。店子たちの顔が、途端に引き締まるのがわかった。
「この店は……もう持たないわ。こんな形で店を閉めるのは本意じゃないけれど、こうなった以上、仕方ない。希望があれば、新宿ではないかもしれないけれど、出来る限りあなたたちの後見は探すつもりよ」
ママの言葉に、一同は一瞬騒然となった。ミヅキは、悔しさに唇を噛み締め、視線を地面に落としている。くるみは、そんな店子たちをただ黙って見つめることしかできなかった。
「こんなことになるなんて……カオルのせいよ」
そう呟いたのは、エミリだった。今にも泣き出しそうな顔をして、唇をわなわなと震わせている。
「カオルはどうしたのよ!あの子が、私たちにきちんと話をするべきでしょう!」
その悲痛な声に、周囲の店子たちが同意するように口々にカオルを責める言葉を口にした。それを制したのは、リオンだった。
「カオルは、入院中でしょ。そんなの、みんな……わかってるじゃない」
リオンが、声を詰まらせながら云った。
「……でも、納得いかないわよ」
エミリが、吐き捨てるようにそう云った。その気持ちは、みな同じのようだ。
「起こってしまったことは、どうしようもないでしょう。アンタたちは、自分たちのこれからを考えなさい」
ママが、叱咤するように口調を強めた。リオンが、そんなママを覗き込むように聞いた。
「……ママは、どうするの?」
一同の視線が、ママに集まる。だが、ママはリオンの質問を跳ね返すように云った。
「あたしのことは後でいいのよ。アンタたちのことが先よ。経営者として、あたしは、アンタたちに責任がある。後見が必要な人は、あたしに申し出てちょうだい。話し合いましょう。そうでない人は、今日は帰ってもらっていいわ。また後日連絡するから」
ママの言葉に再び場はざわついたが、一人、二人とママの元へ歩み寄る。踵を返し、やりきれなさに溜め息を付き、店を出て行く者もいた。くるみは、呆然とその様子を見ていた。
「……アンタは、どうするの?」
突然背後から声を掛けられ、くるみは慌てて振り返った。立っていたのは、ミヅキだった。
「……CHERRY BOYに、移るの?」
その言葉に、他の店子たちがくるみを見た。くるみは言葉を詰まらせ、ミヅキを見上げた。
「くるみちゃん、CHERRY BOYに移るの?」
店子の一人が、驚いたように声を上げる。途端に、くるみに嫌な視線が向けられる。くるみは居心地が悪くなって、思わず俯いた。そんなくるみに、ママが静かに云った。
「アンタが移籍を持ち掛けられたって話は、ミヅキから聞いたわ」
くるみが恐る恐る顔を上げ、ママを見た。ママの表情は、とても穏やかだった。
「移るなら、移りなさい」
ママの背後から、「そんな、ライバル店じゃない……」と、非難する声が聞こえてくる。だが、ママはそれを制するようにして言葉を続けた。
「アンタがいなければ、長田はもっと早くにこの店に揺さぶりを掛けていたはずだわ。アンタのお陰で、一日でも長く、この店を営業できた。感謝してるわ。アンタが移りたいのなら、移ったらいい。せっかく良い腕があるんだもの、評価してくれる店があるのなら、そこで頑張ればいい」
「……ママ」
胸が締め付けられるような思いだった。そんなくるみを、ママがやさしく抱きしめた。突然のことに、くるみは驚いて棒立ちのままだったが、ママの温かさが全身に伝わってくる。
「ありがとう、アンタを雇って、本当に良かった」
視界が、ぼやけていくのがわかった。涙が、自然と溢れてくる。
元はと云えば、逃避したいがためだけに有給休暇を取り、偶然出会った職場だった。ニューハーフバーだとわかり嫌悪を示したものの、樹にうまく乗せられて働き始めたのだ。
いつの間に、こんなにも大切な場所になっていたのだろう。たった二ヶ月ちょっとの時間だったのにも関わらず、今まで生きてきた二十九年の間に積み重ねてきたもの以上に、たくさんの思い出がある。無愛想なことをママに叱咤されたこと、身なりが地味だとみんなに銀座のブティックへ連れて行かれたこと、母親が乗り込んできたこと、初めて自分の意見を主張したこと、カオルにキスをされたこと……色々な記憶が走馬灯のように脳裏に蘇ってくる。
いつの間にか、くるみはしゃくり上げて泣いていた。そんなくるみを、ママは黙ってやさしく抱きしめていた。このまま、時間が止まればいい。叶うはずもない思いに、くるみはただ涙を流していた。
どれだけの時間を、そうして過ごしていただろうか。一頻り泣いた後、くるみは一人店を出た。ミヅキは、ママと話があるからと、店に残った。
目蓋がいやに重い。あれだけ泣いたのだから、きっと目は赤く腫れ上がっているに違いなかった。それでも、くるみは大通りの方には出ず、一本横の筋へと歩を進めた。
CHERRY BOYは、まだ営業を開始していないらしく、看板のネオンは付いていない。何度か通り掛かってはいるが、実際に目の前で足を止めたことはなかった。入り口の前まで来て、中に入ろうか躊躇していると、後ろから「くるみさん?」と声を掛けられた。
振り返ると、長田がいた。くるみは、腫れた目を見られないように、深く会釈をした。
「CANDY HEARTさん、大変だったみたいだねぇ。話は、聞いてるよ」
長田が、にやにやと笑みを浮かべながら云う。腹の底から苛立ちが込み上がるのを感じたが、それを抑えるようにくるみは口を開いた。
「……知っていたんですね、カオルさんのこと」
「はて、何のことかな」
長田が、とぼけるように云った。もしかしたら、あの男にけしかけたのは長田なのではないだろうかと、くるみは思った。だが、今さら問いただしたところで、どうにもならない。そんな無様は晒すべきではない。
「その様子じゃ、閉店のようだな」
長田が顔をにやつかせたまま云った。
「もっと早く、あの坊やを解雇しておくべきだったな。まぁ、知らなかったんだから、仕方ないか。顔だけは可愛いからなぁ、あの坊やは」
店の扉を開けると、くるみを招くように「どうぞ」と云った。
「いえ、ここでいいです」
そうくるみが云うと、不思議そうに長田が首を傾げた。
「この間の返事を、聞かせにきてくれたんじゃないの?」
「えぇ、そうです」
くるみは、長田をまっすぐに見つめて云った。
「お断りしたいと思って、来ました」
「断る?」
長田が、眉をしかめ、くるみを見る。そして、慌てたように云った。
「どうして断るんだ?金が不満か?それなら、もっと考えてもいい」
「お金じゃありません」
長田が、解せないようにより顔をしかめた。
「なら、何が不満なんだ。もう、CANDY HEARTはなくなるんだろ?君だって、そこらのレストランで働くより、うちで働く方がずっと待遇は良いはずだ。我々は、君の価値を評価しているんだ。君だって、自分の腕を評価してくれる場所で働きたいだろう」
長田が、必死にくるみに説きかける。長田の云う、私の価値とは一体何なのだろう。入院中、することもなく、それまでの出来事を思い返していた中で、そのことも幾度となく考えていた。価値とは何なのか、評価とは何なのか。
でも、今の私にはわかる。
「私の価値は、私が決めます」
きっぱりとくるみはそう云うと、踵を返した。後ろで、長田が何かを云うのが聞こえたが、くるみはそれを無視して足早に大通りの方へと向かった。
私は、CANDY HEARTで確かに愛されていた。笑ったり、泣いたり、ときには怒ったり、それこそが私にとって大切な価値だった。他人に料理の腕を評価してもらえることは幸せなことだ。でもそれ以上に、自分が自分を認められることが大切なのだと、今は思う。
見上げた空は、陽が傾き、橙色に染まっていた。あちこちに、ネオンが灯り始める。今日も、歓楽街の一日が始まる。だが、そこにCANDY HEARTの朝は来ない。そう、永遠に———くるみは、寂しさを振り払うように、ひたすら新宿の街を歩き続けた。
「傷、もう大丈夫なの?」
遼が気遣うように、くるみに尋ねた。
白のノースリーブのワンピースから伸びた腕には、ところどころに絆創膏が貼ってある。まだ、青痰が残っているところもあった。ときどき周囲の客の好奇心に満ちた視線を感じることもあったが、くるみは大して気にしていなかった。
「えぇ、打撲だけだったので」
くるみはそう云いながら、目の前に置かれた前菜に口を付けた。普通のキッシュだが、香草が入っているのだろうか、それがアクセントになっていてとてもおいしいと思った。そんなくるみを見ながら、遼は、「その傷が痛々しいなぁ」と溜め息混じりに笑った。
「……カオルくんは?」
遼に聞かれ、くるみは手にしていたフォークを皿の上に置いた。
「三週間くらい、入院が必要みたいです。でも、経過は順調だって、聞いています」
「会いに、行っていないの?」
その言葉に、くるみは小さく頷いた。
くるみが退院して一週間が経ったが、カオルは断固としてくるみの面会を拒否しているということだった。そのことに、心が痛んだが、カオルの心の傷が癒えるのには随分と時間が掛かるに違いなかった。
相変わらず、カオルの見舞いには、ママが行っているらしかった。その話を教えてくれたのは、ミヅキである。店が無期休業になり、みんなと顔を合わせることもなかったが、先日ミヅキからメールが入った。店で、最後に送別会をするという連絡だった。そのときに、カオルのことも聞かせてくれたのだ。
店が閉店に追い込まれたのは、カオルのせいに違いはない。それでも、ママがカオルの両親に代わり、カオルの世話をしているというのは、滑稽な話だと思った。だが、あのママなら、それもありなのかもしれないと、くるみは思う。店子たちをいつも一番に考えているママだ、最後までカオルに責任を持とうとしているのかもしれなかった。
「なんか、色々大変だったんだね。店も、なくなるんだろ?」
「……えぇ」
くるみは、躊躇いがちに答えた。
「これからどうするの?会社に戻るの?」
遼が質問攻めにしてくるのに、くるみは苦笑した。まるで、親のようだ。
昨夜母親からも電話があり、店がなくなることを告げると、同じことを聞いた。そのときは曖昧に言葉を濁し、電話を切った。
正直、一週間考えてみたが、結論はまだ出ていなかった。会社に伝えてある有給休暇の期限は、あと一週間というところまで迫っている。普通に考えれば、そのまま会社に戻るのが妥当なのはわかっている。だが、どうしてもそれに乗り切れない自分がいた。短期間ではあったが、調理の仕事に就いてみて、そっちの方が自分に向いているとつくづく感じた。
調理の仕事に転向するのもありかもしれない。でも、どうせならいつか自分の店を持ちたい。店を切り盛りするママを見ていて、そんなことを考えるようになっていた。でも、そのためにはそれなりの資金が必要になる。会社でしばらく働けば、今ある貯金と合わせてなんとか開業できなくもない。
そのことを遼に告げると、遼は笑みを浮かべて云った。
「くるみちゃん、変わったよね」
「……えっ?」
くるみがきょとんとして遼を見る。遼は、穏やかな口調で言葉を続けた。
「再会したときも、随分変わったなぁって思ってたけど、あのときよりもすごく前向きに見える」
「……前向き、ですか」
「初めて食事に行ったときあったじゃない。あのときのくるみちゃんは、始終俯いてて、相槌を打つばかりだった。でも、今は自分の言葉で、話をしてる」
二ヶ月ちょっとでこんなにも変わるもんなんだね、と遼がからかうように云った。その様子に、くるみもつられて笑う。
自分では、外見の変化を認めても、内面の変化という点ではあまり実感が湧かなかった。確かに遼が云うように、前よりも口数は多くなったかもしれないと、くるみは思った。関わる人の数だけ、伝えるべき言葉も、返す言葉も増えてくる。それが変化に繋がっているというなら、これまで、自分はどれだけ人を避けてきたのだろう。
メインの肉料理が運ばれてきた。赤ワインの良い香りがする。それを口にしながら、遼が他愛無い話をしした。くるみもそれに適当な相槌を打ち、よく笑った。遼は、いつも以上に饒舌だった。それが、何を意味しているかが、くるみにはよくわかっていた。それだけに、言葉を切り出しにくい。だが、いつまでも背けているわけにはいかない。
「あの……少しいいですか?」
くるみが、食べ終えたナイフとフォークを皿に置き、遼の目をまっすぐに見つめた。途端に、遼の瞳の色が憂うのがわかった。
「……良い話じゃ、ないんだろ?」
静かな口調で、遼が云う。くるみは、この場から逃げたい気持ちでいっぱいだった。だが、目を背けてはいけない。気を引き締めるように姿勢を正し、口を開いた。
「……私、高梨さんのこと、利用しました」
遼は表情を変えずに、まっすぐにくるみを見ている。その真摯な瞳に、心が痛んだ。
「……あの日、高梨さんと……その、関係を持った日の朝、私、樹さんの家にいたんです。樹さんに、自分の気持ちを伝えました。樹さんは、最初から知っていましたけど」
唇が震えているのがわかる。それでも、言葉を止めてはいけない。くるみは云い聞かせるように、言葉を続けた。
「でも、振られちゃいました。わかってたんですけど、それでもすごく辛くて、誰かにすがりたくて仕方なくて……そのときに、丁度高梨さんが家の前で待っていて……私、利用したんです。自分の辛さを紛らわせるために、高梨さんと寝ました」
ごめんなさい、とくるみは深く頭を下げた。
ミヅキに、「すがられた方の気持ちも、忘れちゃダメよ」と云われ、その責任の取り方をずっと考えていた。でも、良い形で責任を果たすことができないことはわかっていた。気持ちが他にあるのに、責任という言葉に引きずられるように遼と付き合うことは、できないししてはいけない。恋をすることは、誇りなのだと、いつか教えられた。自分にとって樹に対する気持ちがそうであるように、遼の気持ちもまた、同じなのだ。そんな遼の誇りをないがしろにすることなど、許されるはずがない。
今日、遼から食事に誘われたときに、くるみは正直に話をして謝ろうと心に決めてきた。遼にどれだけ敬遠されても、自分にできるのはそれしかなかった。
だが、遼は予想に反して冷静だった。
「知っていたよ」
そう静かに云うと、くるみに「顔、上げてよ」とやさしく云った。
顔を上げ見つめた遼の顔は、憂いを帯びてはいるものの、穏やかだった。やさしい口調で、遼がくるみを見つめて云った。
「くるみちゃんの気持ちも、わかるんだ」
「え?」
「俺も、昔同じことをしたことがある」
遼の言葉に、くるみは訝しく首を傾げた。
「俺、高校のときに好きな女の子がいたんだ。その子はね、クラスのはみ出し者で、いつも一人ぼっちで……でも料理だけはすごく上手かった」
くるみがはっと遼の目を見る。遼は笑みを浮かべたまま、話を続けた。
「調理実習のときにね、みんなが作業を放棄したにも関わらず、一人で真剣に包丁に向かっててさ。いざ出来上がった料理は、他の班とは比べ物にならないくらい上手くて、俺思わずその子に声掛けたんだ。すげぇ、うまいって。そしたら、その子、すごく嬉しそうに笑った。それが、すごく可愛いと思った」
ふと、忘れていた記憶が蘇ってくる。確かに、いつかの調理実習で、一人だけくるみに話し掛けてくれた男子生徒がいた。うまいって、そう云ってもらえて、そんなこと云ってもらったのが初めてで、すごく嬉しかったのを覚えている。そのときの男子生徒が遼だったことを、今初めて知った。
「俺、その子に好きだって云いたかったけど、云えなかったんだ。クラスのはみ出し者に告白したら、他の奴らに何云われるかわからないって、怖くて云えなかった。それで、その気持ちを紛らわすために、他に告白してきてくれた女の子と付き合ったんだ」
くるみは、黙ったままただ遼の目をじっと見つめていた。遼が照れくさそうに笑う。
「だから、くるみちゃんと再会したときは、すごく嬉しかった。こんなこと云うのはバカみたいだけど、運命ってあるのかなって、本気でそう思った」
「……そう、だったんですか」
「くるみちゃんを抱いたとき、くるみちゃんの気持ちが自分にないことはすぐにわかった。あのときの俺と、同じだと思った。俺も、その女の子と寝たんだ。彼女を抱きながら、俺の気持ちは違うところにあった。ふとホテルの鏡に映った自分が見えたときに、すごくやるせない目をしててさ。……くるみちゃんも、そのときの俺と同じ目をしてた」
そう云う遼に、くるみは申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになっていくのを感じずにはいられなかった。まっすぐにその目を見るのが辛くて、つい視線を下に落とす。それでも遼は、言葉を続けた。
「あのときは、それでもいいって思ったんだ。でも、それでいつまでも関係が続くはずはない。俺と、その女の子がずっとすれ違っていたように、同じことを繰り返すだけだろうって、そう思った」
遼が、ゆっくりと言葉を選ぶように、確かめながら話す。くるみが遼にどうけじめを付けようかと考えていたように、遼もこの日のために言葉を考えていたのだと、くるみは思った。その真摯なやさしさに、ただただ後ろめたいばかりだった。
「でも、まさか処女だったとは、思わなかったな」
遼が、落ち込んでいるくるみを見て、茶目っ気たっぷりにそう云った。その言葉に、くるみは恥ずかしさでいっぱいになり、思わず肩をすくめた。
「……くるみちゃんのことだから、俺が樹くんのことを忘れるまで待ってるって云ったら、責任感じちゃうだろ?だから、潔く身を引くよ」
くるみが顔を上げ、遼の目をまっすぐに見つめる。遼は、やさしい笑顔を浮かべた。
「幸せになってくれよ」
見上げた遼の瞳には、憂いの色はもうなかった。心から、くるみの幸せを願ってくれている、清々しい瞳がそこにあった。
私は、ずっと誰にも気付いてもらえない、空気のような存在だと思って生きてきた。でも、自分のことを見てくれていた人も、ちゃんといた。高校生のあどけない顔をした遼が、スーツ姿の遼にだぶって見えた。
「……ありがとう」
ごめんなさいとは云わない。くるみも、精一杯の笑みを、遼に返した。
樹から電話があったのは、それから二日後の朝のことだった。
ママから連絡があり、カオルがくるみと樹に会って話をしたいと云ってきたのだそうだ。その言葉に、くるみは思わず満面の笑みを浮かべて喜んだ。
昼過ぎに樹と待ち合わせの約束をし、くるみは台所に立った。ずっと病院食では、カオルも飽き飽きしていることだろうと、何か差し入れをしようと思い立ったのだ。冷蔵庫を開け、残っている食材を確認する。カレーの味付けをした唐揚げに、アボガドとカニかまのマヨネーズ和えサラダ、揚げ茄子とパプリカのマリネを作り上げると、それらをタッパーに詰める。身支度を整えている間に時間は刻々と過ぎ、くるみはギリギリになって慌てて家を飛び出した。
待ち合わせ場所には、樹が既に来ていた。くるみが手を挙げると、樹がそれに応えるように手を振り返しす。傍から見れば、カップルの待ち合わせに見えるかもしれない。そう思うと心が少し痛んだが、払拭するように首を振った。
二人並んで歩くのは、あのカオルを探し歩いて以来になる。陽光が照りつけるアスファルトの道を、くるみと樹は黙って肩を並べて歩いた。季節はもう夏になる。日に日に、日差しは強くなる一方だ。樹が半袖のTシャツを身につけている一方で、くるみは長袖のカーディガンを羽織っていた。薄手とは云えども、肌に汗が滲むのがわかる。くるみは、黙々と歩く樹を横目に眺めた。すぐ隣り合わせに歩いていても、どこかよそよそしく距離を感じずにはいられなかった。
あのときはカオルのことで頭がいっぱいで、その前にあった色々な出来事のことなど忘れてしまっていたが、平穏な日々を取り戻した今、くるみは樹の家での一件のことを再び意識しないわけにはいかなかった。それは、樹も同じようだった。気まずい空気が流れる。それを打破するように「……あっ」と、唇を開いたのは樹だった。
「くるみちゃんも、何か持ってきたの?」
そう云う樹の手にも、紙袋があった。くるみが料理を作ってきたと答えると、樹は安心したように息をついた。樹の袋の中身は、ケーキだった。
つい一週間程前まで自分も入院していた病院のエントランスをくぐる。カオルに会えることに、浮き立つ気持ちはあったが、いざ病室を前にすると身体が緊張していくのがわかった。どんな顔をして、カオルの目の前に出ればいいのだろう。そんなくるみの気持ちを察したのか、樹が扉をノックし、先に中に入った。くるみは、樹に隠れるようにして、後に続いて中に入った。
病室は個室だった。おそらく、世間体を考えたカオルの両親が、個室を貸し切ったのだろうとくるみは思った。本来のカオルの怪我であれば、団体の部屋にいるのが普通だ。もしかしたら、HIVのキャリアだということが考慮されている可能性もあるが、そこにはこだわらないでいようと、くるみは平静を努めた。
およそ半月振りに目にするカオルは、以前よりもずっと痩せていて、顔も蒼白かった。元が痩せていたから、少し病的にも見える。足と腕を骨折しているらしく、ギブスがはめられている姿は痛々しかった。
「来てくださってありがとうございます、樹さん、くるみさん」
カオルは、笑顔で二人を迎えた。あのとき、狂ったように泣き叫んでいたカオルの姿は、そこにはなかった。随分と落ち着いたように見える。
「……ママは、今お二人が来るからと、お茶を買いに行ってくれています。どうぞ、掛けてください」
そう云って、カオルが二人にパイプ椅子を勧めた。躊躇いがちに腰掛け、くるみが口を開いた。
「……これ、持ってきたんですけど、良かったら」
カオルがくるみから袋を受け取り、中身をテーブルの上に広げた。出てきた料理に、カオルが笑みを浮かべた。
「くるみさんの手料理、嬉しいです。病院食には飽き飽きしてたんで」
その言葉を聞き、くるみは思わず自分が予想していた答えと同じだったことに笑った。樹も負けじと、「ん」と素っ気ない様子で紙袋を差し出した。カオルの顔がほころぶ。いつもの、やさしく穏やかなカオルである。ありがとうございますと満面の笑みでそれを受け取った。
「……くるみさん、怪我、大丈夫ですか?」
ふとカオルの表情が翳り、不安そうにくるみを見上げた。
「えぇ、私はかすり傷だったから」
そう云うとカオルが自分のギブスをはめていない方の手を差し出した。
「手、貸してください」
そう云われ、何かわからずくるみが手を差し出すと、次の瞬間カオルがそのカーディガンの裾を肘の辺りまでまくり上げた。カーディガンの下から、青痰や絆創膏を張った痛々しい腕が現われる。くるみが、はっと息を呑む。カオルが、深く溜め息を付いて云った。
「……僕に見せないために、こんなに暑いのに長袖を着てきたんですか?」
そう云われ、くるみは思わず俯いた。図星だった。カオルが、自分の傷に責任を感じてはいけないと思い、長袖のカーディガンで隠したのだ。
「……本当にお人好しですね、くるみさんは」
樹は、カオルに何か云いたげに顔をしかめていたが、くるみが目配せをしてそれを止めた。樹は、カオルを心配はしているものの、まだあんな行動に出たカオルを許せないようだった。あのビルでの屋上でも、樹はカオルに掴み掛からない勢いで怒鳴り散らしていたのを思い出す。
カオルが、不意にくるみの瞳をじっと見つめる。鎖に繋がれたように、くるみはその瞳に釘付けになった。
「……本当に、バカですよ。一緒に飛び降りるなんて」
カオルのその言葉に、樹が立ち上がった。
「おまえ、誰のせいでこうなったと思ってんだ!くるみちゃんも、死ぬとこだったんだぞ!」
「樹さん!」
くるみが、樹をなだめるように、その身体を抑えた。殴り掛からんばかりの勢いである。カオルはくるみに視線を置いたまま、口を開いた。
「僕みたいな人間のために、命を張るなんて、本当にバカですよ……」
そう云ったカオルの目は、潤んでいるように見えた。
直接言葉にしなくとも、カオルの気持ちが目に見えるような気がした。これまでのカオルは、いつもニコニコと愛想良く素直な様子で話をしてくれていたが、その瞳の向こうが見えなかった。だが、今は違う。言葉に出なくても、カオルの瞳の向こうが見える。
くるみは、カオルの瞳に、心が満たされていくような気がした。あのとき、無謀なことをしたとは云え、カオルを助けようと、手すりを乗り越えて良かった。自分のしたことは、決して無駄ではなかった。
「おまえ、素直じゃないな」
樹が、つっけんどんな物云いで、カオルに云う。
「そういうときは、ありがとうだろ?」
そう云うと、カオルが笑った。これが、本当のカオルだったのだろう。素直に自分の気持ちを伝えることができない、不器用で未熟な青年。カオルは、自分によく似ている……くるみはそう感じて、思わず微笑んだ。
病室の扉が開き、ママが入ってきた。ママは、いつもの派手な身なりではなく、女装のままではあるものの、年相応の落ち着いた格好をしていた。
「あら、アンタたち、もう来てたの」
「お邪魔しています」
くるみが立ち上がり、軽く会釈した。ママが、買ってきた缶コーヒーを取り出し、三人に配った。
「ママ、僕ブラックは飲めませんよ」
カオルがそう云うと、じろりとママがカオルを睨みつけた。
「アンタ、人に買いに行かせておいて、それはないだろ。出されたもんは、黙って飲む。これが礼儀ってもんよ」
ったく———ママが奥のパイプ椅子に腰掛けた。その二人の様子に、くるみは思わず笑わずにはいられなかった。樹も同様だったようで、くるみと顔を見合わせ、笑い声を漏らす。
「何よアンタたち、何笑ってんのよ」
ママの視線が、二人に移る。樹が、それを見て云った。
「だって、なんか親子みたいなんだもん」
その言葉に、今度はママとカオルが顔を見合わせた。ママは嫌そうに、「こんな問題児はお断りだよ」と、眉間に思い切り皺を寄せて云った。だが、その顔はまんざらでもなさそうだった。
どうして、ママがこんなにもカオルに対して親身なのか、ただの経営者としての責任と云うには思い入れが強いのではないかと、くるみは疑問に思っていた。でも、ここまでカオルが落ち着きを取り戻したのは、ママのお陰という他ないだろうと思うと、本当に良かったと心から思う。カオルには、自分を自分として認めてくれる誰かが必要だった。くるみがそうであったように、カオルもまた、自分を認め、受け入れてくれる人に出会えたのだ。
カオルは、HIVのキャリアではあるが、まだ発症はしていないということだった。発症を遅らせるための薬を服用しながら、今後は生活すると云う。
「……これから、どうするの?」
くるみがそう聞くと、カオルはママの顔を横目に見て、少し笑みを浮かべて云った。
「ママに、ついていこうと思います」
「ママに?」
樹が怪訝な顔をして、ママを見る。ママは缶コーヒーを一気に飲み干すと、ぶっきらぼうな口調で云った。
「あたしの実家、大阪なんだけどね。昔、親がやってた店がそのまま残ってるのよ。小さい店だけどね。今は物置になってるみたいだけど、そこに戻って小料理屋でもやろうかなと思ってるの。この子も……どうせ行き場もないみたいだし、しょうがないから性根叩き直してやろうと思ってね。連れていくことにしたのよ」
カオルが、思わず微笑む。ママはそんなカオルを見て、ふんと鼻を鳴らしたが、嫌そうな様子は微塵も見えなかった。
くるみと樹はそのことにとても驚きはしたが、二人の様子を見て、互いに顔を見合わせ、笑い合った。
「くるみさんに、料理教えてもらっとけば良かったな」
カオルが悪戯っぽく云う。
「退院したら、いつでも教授するわよ」
くるみがそう云うと、カオルが嬉しそうに「やったぁ」と声を上げた。
「約束ですよ」
そう云って、小指を差し出した。その細い小指に、自分の小指を絡める。
ゆーびきーりげんまん、と歌うカオルは、まだ幼い子どものようだった。そんなカオルを見ながら、くるみはとても晴れやかな気持ちになっていた。
CANDY HEARTの送別会の日は、見慣れた面々が華やかなドレスを身に纏って店に集まった。
くるみはみんなよりも早めに店に来て、料理の仕込みをしていた。最後なのだからと、いつもよりも腕によりを掛けて調理に取り掛かる。ママの計らいで、豪華な食材が店に運ばれてきたときには、くるみは思わず手を叩いて喜んだ。
ピザにパスタ、メインの肉料理を数種類と、前菜にキッシュやマリネ、サラダと、カウンターには色とりどりの皿が並んでいった。その良い匂いに、やってきた店子たちは嬉々とした声を上げていた。
「でも、最後の最後くらい、くるみちゃんもゆっくりしたかったんじゃないの?」
マナが、一人調理にあくせくするくるみを見て云った。
「でも、せっかくなんだから、おいしいもの食べたいじゃない?くるみの料理は、この店の名物なのよ」
リオンがそう云うと、他の店子たちも同調するように頷いた。くるみは、それを見て嬉しくなって満面の笑みを返した。
送別会には、樹も参加していた。樹はお土産だと云って、高級なシャンパンを数本持ってきていた。
だが、やはりカオルの姿はない。まだ入院中だということもあるが、やはり店の中にはカオルに対して良い感情を持っていない人間も少なからずいた。カオルがママに付いていくという話はオフレコということになっている。
出来上がった料理がテーブルに並び、店子たちがそれを囲むように円になる。みんな、手には樹の土産であるシャンパンが注がれたグラスを持っている。そのきらびやかな光景は、これが最後であるとは微塵も感じさせない。
くるみは、珍しく赤のロングドレスを身につけていた。いつもはなるべく目立たないようにと、地味めで形もシンプルなものを選んでいたが、最後なのだからと少し派手なものを選んでみたのだ。髪の毛も、来る前に美容院でアップにしてもらった。
「じゃぁ、みんな、長い間お疲れさま。本当に今までありがとう。これからのみんなの前途を祝して、乾杯!」
ママが乾杯の音頭を取ると、一斉に「乾杯!」と、グラスを掲げた。
くるみの作った料理も、評判は上々だった。おいしい、おいしいと食べてくれる姿を見るだけで、幸せな気持ちになる。それも、今日で終わりだと思うと、寂しさが押し寄せてくる。
「くるみ、アンタは結局これからどうするの?」
皿とフォークを手に、ミヅキがくるみの傍に寄って云った。
会社で取った有給休暇は、今日で終わりだった。考えた末、くるみはやはり会社に戻る道を選んだ。いつか、自分で店を持つための資金稼ぎのためだ。またあの黙々とパソコンに向かい合うだけの事務仕事に戻ると思うと、気持ちが鬱々してはくるが、目的ができたことで少しは気分も晴れるような気がする。
それをミヅキに伝えると、「アンタらしいわね」とミヅキは笑った。
ミヅキは、悩んだ末、店を移ることにしたということだった。ただし、新宿ではなく、大阪だと云う。ママは大阪出身であるというから、そちらの方にも顔が広いのだろう。ミヅキは、カオルがママに付いていくという話を知っていた。それを聞き、ミヅキも大阪の店に移ることを決めたそうだった。
「ママ一人じゃ、あのじゃじゃ馬を抑えつけられないでしょ。あたしが監視役よ」
そう笑うミヅキが、とても逞しく見える。なんだかんだで、ミヅキもカオルのことを心配しているのだ。
リオンや、他の店子の一部も、すでにママの計らいで移転先が決まっていた。中には、これを期にこの世界から足を洗うという店子もいる。それぞれが、明日から新しい道を歩き始めるのだ。
もう、この面々と共に、時間を共有することができない。出会いがあれば別れがあるのは当然だが、別れがこんなにも寂しく辛いものだとは思わなかった。
「今日は、店に残ってるお酒、全部空けちゃっていいからねぇ!」
客のボトルも全部よ———ママがそう云うと、店子たちが大いに盛り上がる。くるみも店子たちにたくさん酒を注がれ、二時間も経つ頃には足下がおぼつかなくなっていた。
少し休もうと、カウンターのスツールに腰掛ける。ボーイが、気を利かせて水を入れて出してくれた。それを受け取り、酔いを冷ますようにゆっくりと口に含んだ。
ステージでは、軽快な音楽が鳴り響き、最後を惜しむようにショーのレギュラーメンバーたちがダンスを始めた。その足取りは、くるみと同じようにどこかおぼつかない。それでも、笑い声の絶えない場内に、思わず笑みが零れる。
樹は、ミヅキたちに無理矢理女装をさせられ、ステージの中央に立たされていた。やけくそになった樹が、無茶苦茶な振り付けでダンスをしている。
会社に戻れば、樹とも会う機会は殆どなくなるだろう、そう思うと寂しさを感じずにはいられなかった。
だが、その方がいいのかもしれないと、くるみは樹の姿を遠目に眺めながら思っていた。叶わぬ恋に、いつまでも心を引きずるわけにはいかない。人の意志や強い気持ちは、さほど長続きはしない。それを持続させられるような環境に身を置いていなければ、薄れていく一方だ。樹への気持ちも、そうやって冷ましていけばいい。
「くるみ」
そう肩をぽんと叩かれ、くるみは咄嗟に振り返った。ママが、くるみの隣に腰掛ける。
「最後の日まで悪かったわね、調理させちゃって」
ママが静かな口調で云う。くるみは首を振った。
「いえ、料理好きなので……最後にもう一度、ここで台所に立てて良かったです」
くるみは、まっすぐにママの目を見据えて云った。ママが、そんなくるみを見てふっと笑う。
「ちゃんと、人の目を見て話せるようになったわね」
「えっ……」
急に恥ずかしくなり、くるみは視線を逸らした。だが、ママは気にしないという風に、口を開いた。
「アンタ、会社に戻るんだって?」
「はい、丁度今日で有給が終わりなんです」
くるみがそう云って、少し舌を見せて笑った。ママが、くるみの瞳をじっと見つめた。
「あのね……」
途端にママの顔が真剣になる。くるみは、ママの言葉に耳を傾けた。
東京駅は、今日も人が多い。スーツケースを持った観光客や、スーツ姿の出張のサラリーマンなどで、新幹線の駅のホームはごった返していた。
くるみは、小さなボストンバッグ一つを手に、列車の時刻板と手元に持ったチケットを見比べていた。
まだ、発車までには十五分ほど時間がある———売店でお茶でも買おうと、くるみは踵を返した。だが、その視界の向こうに見えた人影に、思わず足を止めた。
「……樹さん」
ピンクのTシャツにジーンズという出で立ちの樹が、手を振っていた。
「……どうして、ここに?」
驚いたように、くるみが樹に駆け寄る。樹が、眉をしかめて口を開いた。
「くるみちゃん、ひどいじゃない。何も云わないなんて」
その言葉に、くるみは思わず声を詰まらせた。狼狽して、思わず視線を逸らす。
「……大阪に、行くんだって?」
樹の顔は、先程のしかめ面ではなく、穏やかなものになっていた。くるみはまっすぐに樹を見ると、小さく頷いた。
あの送別会の日、ママは真剣な面持ちで、一緒に大阪へ来ないかとくるみに切り出した。
「アンタ、将来は自分の店を持ちたいんだってね」
おそらく、ミヅキがママに云ったのだろう。くるみは照れるように小さく頷くと、ママが続けて云った。
「アンタみたいな腕の良い料理人がいてくれたら、こっちも助かる。アンタも、どうせ稼ぐなら、調理の仕事で稼ぐ方が性に合ってるんじゃないかい?……まぁ、最初のうちはさほどの給料は出してあげられないけどね。それに、あたしには子どももいない。カオルは連れていくけど、あの子は経営者向きでもない。もしアンタがその気になってくれるのなら、いつかはアンタにあの店を譲りたいと思ってる」
その言葉は、くるみを驚かせた。えっ、と唇を開き、思わずママの顔を見る。ママは、笑みを浮かべてくるみを見ていた。
「無理にとは云わないよ。下手すれば、向こうに骨を埋めかねないからね。でも、考えてみてくれないかい?」
大阪は、修学旅行で少し立ち寄ったくらいで、殆ど未知の世界だった。東京とは、土地柄も人柄もまったく違うだろう。それを思うと、少し不安な気持ちもあったが、良い話に違いなかった。店を持ちたいと思っていても、実際に行動に移していくのはひどく労力が必要に違いない。それらの道筋を、ママがくるみに用意してくれると云っているのだ。
「……あの」
くるみは、ずっと疑問に思っていたことを、口にした。
「何だい?」
「どうして……その、カオルさんに、そんなに親身なんですか?」
カオルは、この店を閉めることになった直接の原因でもある。本来なら憎むべき相手であるカオルに対して、ママはずっと病院で付き添うなど、あまりにも献身的だった。ましてや、新しい店にも、連れて行くというのは、あまりにも解せない。
ママには、くるみの云いたいことはよくわかっているようだった。ママは持っていた煙草に火を付けると、深く吸って口を開いた。
「……あたしも、あの子と同じだったのよ」
思わずくるみが「えっ」と眉を潜める。ママが、笑って云った。
「HIVだってんじゃないのよ。あたしもね、ずっと親と仲が悪かった。物心ついたときから、ずっと男として生まれたことに意味を見出せなくてね。十七のとき、歳誤摩化して、売りやってたことがあるのよ。それが親にバレて、勘当されたの。それから家を飛び出して、東京に出て……そのときにあたしを拾ってくれたのが、このCANDY HEARTの先代のママだった」
初めて聞くママの過去に、くるみはただ黙って耳を傾けていた。ママは二本目の煙草に火を付けて、話を続ける。
「人は、誰かとの出会いで新しい道を生きられる。先代のママに出会って、あたしは生きる意味を見出した。あたしはね、カオルにとって、自分もそうありたいと思ったのよ。先代のママが、自分にとってそうであったように、その恩返しに、あたしもカオルにとってそういう存在であろうと決めたの」
ママの目は、どこか遠くにあった。だが、その瞳には、強い意志が漲っている。
「両親とは、それっきり顔を合わせることなくて、三年前に亡くなったと弁護士を通じて聞かされたわ。両親はね、あたしがどこで何をしているのか、調べて知っていたのよ。ただ黙って、見守ってくれていたの。両親が亡くなって、両親のやってた店が自分に残された。両親は、随分とお金に苦労してたみたい。それでも、店だけは売らなかった。なぜだかわかる?」
そう聞かれ、くるみは首を振った。
「あたしが帰る家がなくなったら困ると思って、ずっとその場所に店を構え続けたのよ。結局、あたしは彼らのやさしさに気付くことはなかった。こんな形でその店を頼ることになるとは思わなかったけれど、本当は少しほっとしているの。ようやく、家に帰れるって。両親が迎えてくれる家に、帰れるんだって。カオルは、これから先ずっと、親と相容れないかもしれない。でも、気長に一緒に待とうと思うの。それが、あたしの人生の最後の仕事」
ママの顔には、これまでにないほどの充実した笑みが浮かべられていた。くるみも、思わず微笑んでいた。一人ぼっちじゃないと気付いたカオルは、きっと強くなっただろう。両親との仲を修復していくのは随分と時間が掛かるかもしれないが、ママと一緒なら、それにも粘り強く耐えられるはずだ。
人との出会い、その素晴らしさをくるみも強く噛み締めていた。出会いは一瞬だが、それが自分の人生を大きく左右することだってある。このCANDY HEARTや、樹との出会いが自分にとってもそうであったように。
くるみは、ママに少し考えさせてくださいと返事を保留した。ママは嫌な顔一つせず、「ゆっくり考えてちょうだい」と云うと、祭り騒ぎの中へ戻っていった。返事を保留はしたものの、心は既に大阪にあった。目の前が開けたように、自分の心が浮き立っているのがわかった。
翌日、くるみは予定通り会社に出社した。三ヶ月振りに出社する会社は、九年間通い続けた見慣れた光景のはずなのに、いやに新鮮さを感じずにはいられなかった。初めて訪れたような、初々しさを感じさえする。
所属する部署へ足を踏み入れたときの周囲の反応は、それはそれは見物だった。三ヶ月前までずっと身につけていた黒縁眼鏡も、ひっつめの髪も、もうない。コンタクトを身に付け、きちんと化粧を施した顔にウェーブの掛かった髪をワックスで整えられている。服装も、本来なら制服に着替えているところを、あえて私服のままでデスクの間の通路を闊歩した。赤のシフォン地の胸元がリボン結びになった半袖シャツに、ベージュののストレートパンツ。「衣服が人を創る」と云ったミヅキの言葉に従い、強い意思表示のために敢えてインパクトのある赤の服を選んだ。
くるみを目の前にした上司である松木は、度肝を抜かれたように目をばちばちと瞬かせていた。
「……あ、藍原くん?」
狼狽した松木の反応は、実に爽快だとくるみは思った。女子社員との逢い引き現場で、「君、いたの?」と、あっけらかんとして自分を見下ろしていた松木を、今は自分が見下ろしている。その松木をまっすぐに見据えると、くるみは鞄から封筒を取り出し、机に叩き付けるように置いた。
「じ、辞表?」
素っ頓狂な声を上げ、周囲の視線がくるみに集中する。
「お世話になりました」
そう一言告げると、颯爽と来た道を戻った。
常識ある大人として、責任のある行動だとはお世辞でも云えなかったが、人生に一度くらいそういう自分があってもいいと、くるみは思った。三ヶ月もいなかったのだから、今さら自分がいなくなったところで、この会社は何も変わりはしない。そもそも、九年間、自分がこの場所に本当にいたのかどうかさえ、怪しい。私は、この会社でずっと空気だったのだ。遼と同じように、自分に気を留めてくれた人間も、もしかしたらいたかもしれない。だけれど、私自身が空気であろうとしていた。
だが、今はもう違う。あんぐりと口を開けて見ている同僚たちに、くるみ笑みを返して部署を出た。
空気として生きる自分とは、もうおさらばだ。
「……ミヅキさんから、聞いたんだ。この時間の新幹線に乗るって」
樹が、少し躊躇いがちにそう云った。
本当は、何も云わずに樹の前から消えるつもりだった。下手に顔を合わせてしまえば、未練に引きずられるような気がして怖かったのだ。だが、ミヅキはそれではいけないと思ったのだろう。だからこそ、樹にくるみの乗る新幹線の時間を、教えたのかもしれなかった。
「……すみません、黙ってて」
くるみが呟くように云うと、樹は笑って云った。
「でも、くるみちゃんまで大阪に行っちゃうなんて、寂しいな。おふくろ、寂しがるだろうなぁ」
樹は笑ってはいるが、どこか寂しげに見える。くるみは、カオルと対峙したあの屋上でのカオルの言葉を思い出していた。
「くるみさんなら、愛せるかもしれないって……そんなこと云うから」
樹がそんな風に自分を見てくれていたことを、あのとき初めて知った。そのことについて樹に言及したことはなかったが、樹も樹なりに、自分の生まれ持った同性愛者という運命に、向かい合ってきたのだ。樹が両親にカミングアウトするかどうかはわからないが、 これからもずっと、向かい合っていかなければならないだろう。
「向こうの料理屋も、くるみちゃんの手料理なら流行りそうだね」
その言葉に、くるみは笑みを返す。
「大阪に来ることがあったら、また寄ってください」
「勿論、絶対に食べに行くよ。名物シェフの料理をね」
樹の顔をまっすぐに見つめる。見慣れた顔が、すぐそこにある。綺麗な二重の、くっきりとした顔立ち。少し浅黒い肌、明るい茶色の髪。
途端に、寂しさに心が埋め尽くされていくのがわかる。云いようのない感情に、くるみは唇をぎゅっと噛み締めた。だが、もう後ろ髪を引かれるように立ち止まることはしない。
ホームに列車が入ってくる。扉が開き、多くの人たちが押し出されるようにしてホームになだれ込んだ。その喧騒の中で、くるみは口を開いた。
「樹さん」
「ん?」
穏やかな笑みがそこにはあった。樹も、くるみをじっと見つめている。
「あなたが、すごく好きでした。今も……きっと、好きです」
今にも泣き出してしまいそうなのを堪えるように、くるみは精一杯の笑みを作って云った。ふと、笑ったかと思うと、次の瞬間、樹の表情が歪む。樹が、呟くように小さな声で云った。
「……ごめん」
くるみの気持ちを気遣って出た言葉に違いなかった。だが、くるみは満面の笑みを作ると、樹に云った。
「こういうときは、何て云うか知ってますか?」
「え?」
樹がきょとんとしてくるみを見た。
「ありがとうって、云うんです」
途端に樹の顔がほころぶ。同じことを、いつか樹に云われたことがある。
「……やられちゃったなぁ」
そのときのことを、樹も思い出したのだろう。照れくさそうに、髪を掻き上げながら樹は笑った。
一瞬の出来事だった。くるみは樹の肩に手を掛けると、次の瞬間、その薄い唇に自分の唇を重ねた。
樹の唇の温かい感触が伝わってくる。樹は驚きに、目を見開いてくるみを見ていた。
唇を離し、樹に向き直る。列車の発車のベルがホームに鳴り響いた。
「あなたに出会えて、本当に良かった」
くるみは踵を返し、列車に乗り込んだ。それと同時に、扉が閉まる。
扉の向こうで、樹が呆然と立ち尽くしているのが見えた。そんな樹に、くるみは精一杯の笑顔で手を振った。
列車が動き出す。それと同時に、樹が駆け出した。くるみの後を追うように、列車を追い掛ける。だが、すぐにその姿も見えなくなった。東京駅のホームが小さくなり、窓の外は高層ビルの羅列になった。
途端に、涙が溢れてくる。堪えようとしても、次から次に溢れ出ては、頬を伝った。思わずしゃがみ込み、嗚咽を漏らした。
軽い調子で、いつもくるみをからかった樹。その低い声、人懐っこい笑み、少し鼻を付く香水の匂い、くるみを見るやさしい眼差し。それらがありありと脳裏に蘇り、胸をきつく締め付ける。
こんなにも、誰かを愛おしく思ったことはなかった。胸が苦しくなり、呼吸もままならず、こんなにも心が掻き乱されるほどに、私は樹を愛したのだ。
また、新しい土地で誰かを愛するかもしれない。でも、樹を愛したことは、私の誇りであることに変わりはない。それは、これから先、他の誰かを愛しても、変わることはない。
見上げた窓の外には、真っ青な夏の空が広がっている。くるみは涙を拭い、立ち上がった。
私の人生は、まだ始まったばかりなのだ。まっすぐに、前を向いて歩いていかなければならない。
くるみはチケットを手に、客席へと続く扉をくぐった。新しい一歩を踏み出すように、しっかりと通路を踏みしめた。
(了)
2012年8月24日 発行 初版
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