じゃあね、さよなら、また明日。
そんなありふれた言葉を、当たり前のように交わす。それが私たちの日常。教室から出て行く友人の後ろ姿に声をかける。軽く手を振って視界から消えていく背中。笑いながら廊下を駆けていく彼女たちは、こんな日が毎日続くと思っているのだろうか。私たちの”当たり前”なんて、人生の中のほんの一瞬でしかないのに。
「そんなことを考えてたの」
教室で一人ぼんやりと窓の外を眺めていた紗夜が独り言のように話す。じゃんけんで負けて、仕方なく半年間やらされている図書委員会の会議から戻ってくると、彼女はそこにいた。「おかえりー」と、こちらを見もしないで私の帰りを迎える。本当に、いつも何を考えているんだろう、この子は。そんな私の心の声が聞こえたのか、彼女は窓の外を見たまま話を始めたのだった。
「ねえ、友里はどう思う」
「どうって、何が」
「私たちの当たり前って、本当に当たり前なのかな」
私たちの当たり前。朝起きて、学校へ来て、勉強して、部活動や委員会をして、友達とばかな話をしたりして。それが私たちの毎日。
「当たり前なんじゃないの」
深く考えず、軽く返事を返す。正直、どちらかというと私は紗夜が苦手だ。何を考えているのか、いつもぼんやりとした印象を与える。あまり話したことはない、というか紗夜自身があまり他人と関わろうとはしない。おはよう、ばいばい、また明日。彼女とはそれくらいの言葉しか交わした記憶がなかった。
「でもさ、来年には卒業して、高校生になって、大学生になって、就職して、結婚もしちゃったりして。そうなったら私たちの”当たり前”ってどんどん変わっちゃうんだよね。ね、”当たり前”って”ずっと”ってことじゃ、ないんだね」
遠く、空を飛んでいく鴉を見ながら紗夜は言葉を繋ぐ。オレンジ色の空に真っ黒なシルエットで、群になって飛ぶ鴉。変わっていく、私たちの”当たり前”と違って、あの光景はずっと当たり前のものなんだろう。ずっと昔から、そして、ずっと先の未来でも。なんて、私までそんなことをぼんやりと考えてしまった。
「そう言われたら、そうなのかな」
自然と口からこぼれた私の言葉は紗夜に届いているのかいないのか、彼女はグラウンドを走り回る野球部の男子たちに視線を落として、何も言わなかった。
つられてその目線の先をなんとなく見やると、汗だくになりながら走る慎太郎の姿が見えた。私たちのクラスの学級委員長で、私の幼なじみ。小さかった頃は、私の後ろを泣きながら「ゆーちゃん、ゆーちゃん」と追いかけてきていたのに、いつからだろう、彼は泣かないし、私のことも「ゆーちゃん」とは呼んでくれなくなった。立ち止まって振り向けば、泣きながらも可愛らしく笑う彼の顔が見れたのは、もうずっと遠い昔の”当たり前”。
「俺のこと、『しんちゃん』って呼ぶのはやめろよな」
拗ねたような、けれどどこか寂しげな彼の声が今も耳に残っている。彼も私を名字で呼ぶようになったし、私も名字で彼を呼ぶ。それが私たちの新しい”当たり前”。
「変わらない人なんて、いないんだよねえ」
私と同じくグラウンドを見つめたままの紗夜がぽつりと呟く。それは独り言のようで、けれど確かに私の心の中に重くのしかかった。
私も帰るねー、と教室から出て行く紗夜の背中を見送って、再びグラウンドに目をやれば、もう部活も終わりの時間らしく、ほとんど人の姿はなくなっていた。無意識に、見慣れた姿を探してしまう自分が悲しくなる。
もう帰ろう。帰り支度をして、教室の中を振り返る。一瞬、昔見た私の大好きな笑顔が見えた気がした。それはすぐに、教室へと差し込むオレンジに溶けて見えなくなった。明日もきっと、当たり前の一日。
ー完ー
夏の終わりだけは何をしても変えられないものだった。ぼくは静かにその流れるのを見ているしかないのだった。ある夕暮れに、それが嫌で、ひたすら自転車を漕ぎつづけた。ぼくが中学生になる前のことだったように思う。その日はやけに涼しい八月の下旬で、晴れていて、もう明日が来なくなるとでも言いたげな夕暮れだった。みんなが知っている、あの赤い夕焼けの日だ。
自転車は俗にいうママチャリだった。だいたい小学四年くらいで子供っぽい自分たちの自転車を嫌がり、銀色で前かごのついたシティサイクルを好むようになるのだ。それでぼくたちは町じゅうを走り回った。お金もないのにコンビニへ行って涼み、また大きなデパートへ、金持ちの友人がゲームソフトを買うのに付き添って、それから帰って一緒に遊ぶのだった。
とにかく家に帰りたくなくて、友だちがみんな帰ったあとにひとりで坂道を登った。ぼくの住んでいた町は勾配の激しいところで、登るところはいくらでもあった。家からずっと高いところには有名な神社があり、その周辺には住宅街がどこまでも広がっている。そこへの大きな道路の脇に、ドーナツ型の、いささか不自然なオブジェがあるのを思い出し、うろ覚えの道順で見に行くことに決めた。
小学生のぼくはどんな角度もものともせずにただ走った。空は赤から次第に青っぽく、暗く、静かになっていった。汗をかいていた。そして急に心細くなった。ひとりで来るには遠い場所だからだ。だからといって引き返そうという気分にもならず、がむしゃらに自転車を漕いだ。
突然、平坦な道へ出た。オブジェは坂道にあったから、間違えてしまったのだろう。もうとっくに知らない道だった。そこは古めかしい住宅街で、どの家も長めの廂を持っていた。強い風が吹いて、なにか金属がこすれるような音がした。風鈴だった。風鈴はある家の廂を埋め尽くすように提げられていた。風鈴どうしは擦れ、あの独特の音をついに聞かせなかった。本当にたくさんの風鈴だった。色や形が異なるそれらを、一ミリの隙もなく並べてある。ただその舌がべろべろと揺れてガラスを叩くのだった。
ぼくは怖くなった。夏やオブジェなど、もうどうでもよくなった。風だけが無関心に吹いていた。そそのかされてしまう。早く帰らないとそそのかされてしまうのだ。
―完―
愉快なサーカスが去ったあと、無機質な片付けの音が広場にこだました。隊員に置いていかれた小さな猿が、足をひきずってその音の周りをぐるぐるしていた。誰も猿を見なかった。目を合わせたら襲われる、そう思っていたのだ。でも、あの足じゃ、到底人なんて襲えない。夜になって、猿は広場の真ん中に落ちた小さな月の明かりの中でうなだれた。何の音もしなくなっただだっ広い空間に、猿が一匹、邪魔者にされてしまった。昨日までは、みんな一緒に、サーカスの輪のなかにいたはずだった。軽快に跳び回っていた猿は、今、ここに、独り。渡る綱も、くぐる火の輪も、ここにはもうない。これからも、猿はそれを見ることはできない。私はそんな猿を、広場を見下ろす小さな丘から見つめていた。猿は私の影だった。長い尻尾を枕にして、猿は眠ることにしたようだ。おなかを空かせた淋しい猿が、孤独の中で眠りについた。私も膝を抱えて座り、そのまま眠りが迎えにくるのを待った。
なにがおかしいって、私と猿が同じであったこと。もう私は、誰にも必要とされていない。消された、無視された、孤独な、猿。置き去りにされた、私の気持ち。もう私には、生きる場所がない。輝く場所が、ない。信じるは、自分の体の温度だけ。それ以外に、私を証明するものがなかった。猿も自分の尻尾の温度を、あの頬に感じながら、耐えているのだろう。夢の中で、誰かが迎えにくるのを、待っているのだろう。足音もしない、この場所で。
自分以外の存在を感じて目が覚めた。私の爪先で、あの猿が眠っていた。尻尾を私のふくらはぎに巻いて、離れないでと言わんばかりに、眠っていた。ぽろぽろ涙がこぼれて、私は声をあげて泣いた。すると猿はおどろいて、大きな目で私を見上げた。それでも私は泣き続けた。広場に泣き声が滑り落ちて、溜まった。もう疲れたんだ。頑張れないんだ。そんな言葉を溶かして、涙はどんどん溢れ出す。そんな私の肩に、猿はよじ登る。右目から流れる涙をちいさな手ですくって、こすって消した。そして、猿は鳴いた。小さな、高い音で鳴いた。夜空は一人と一匹を包むように抱いて、静かに星をちらつかせた。
もうこのまま、もう一度眠ろうか。
私は猿を胸元で抱きしめた。猿も安心したように、私の胸で目を閉じた。私はそのまま横になって、風の音と猿の寝息を聞きながら眠りについた。秋の風は、案外冷たい。
―完―
トレモロギターを尋ねて 坂野嘉彦 第3回:クラウド・ナッシングス
この夏は僕にとって、大きな夏だった。ブライアン・ウィルソンの些細なジェスチャーが、マイク・ラヴの繊細な声が、アル・ジャーディンの緻密なピッキングが大きな波を起こすように、僕のこれまで歩んできた21年間の人生もたった一週間で大きく変わった。人生で最も濃密な一週間だったと思う。もう言葉にするのも惜しいぐらいに、狂おしいほど、濃密だった。
あまりに極端な状況に身を置いた所為で、頭がおかしくなっているかもしれない。しかし、頭がおかしくなるほど、夢中になれる仲間に人生で何人出会えるだろうか。頭がおかしくなったって良いじゃないか。これは経験した人にしか分からない、とびきりの思い出。ささやかながら、これからも大切にしていく、とびきりの思い出。
そのささやかな1週間を思い出しながら、クラウド・ナッシングスを聴く。彼らの曲もまた、ささやかだ。だが、このささやかな星は一等星にも負けない輝きを放つ。水も森も雲もない、標高3000mを超えた場所で、何の気なしに上を見上げれば、それでも星がこちらに屈託のない笑顔を返してくる。時々、横切る流れ星。このクラウド・ナッシングスも流れ星のようにすぐ消えてしまうのか。いや、そのささやかな輝きこそ、僕が記憶にとどめておきたいものなのだ。何もないと思っていた雲の上には、とても大事な、大事な輝きがあったのだ。
僕は何年経っても、この夏を忘れない。それはこのクラウド・ナッシングスのアルバムにしてもまた、同じだ。
この夏が終わったら、終わってしまったら、この恋も波にさらわれ、消えてしまう。どこか、手の届かないところに。
近くて遠い波の音を聞きながら、克海は本気でそう思っていた。実際のところ、一年はそれぞれの人が抱える小さな葛藤には目もくれないで同じサイクルを繰り返す。夏が終わったら秋の風がきて、その風が不機嫌になると自然は黙り込む。すっかり静まりかえったころには本格的な真冬だ。風も落ち着き、生命たちがお喋りを始めるころには少しずつ日差しがまるくなってきて、そいつがだんだん強くなってくるとまた命の輝きにあふれる夏の到来。なんとなくおや、もう夏の終わりだな、なんて感じることはあれど、季節に明確な区切りがあるわけじゃない。すべては穏やかに、グラデーションを描くようにゆっくりと変わっていくものだ。しかし、そのときの克海は、高校三年生の克海には、そうではなかった。
「ひと、おおいね」
「えっ?」
「だから、ひと、おおいね」
小さな葛藤で頭の中がいっぱいだった克海の耳には、普段から小さい実里(みのり)の声は一度では届かなかった。
「まぁ……週末やし、神戸やし……花火やしな」
その上、こんなわかりきったことしか言えない。鋭く、一般的に言えばあまりよろしくない目つきとがっしりした顎、日頃からのくせで浮世絵の歌舞伎役者のように「へ」の字に曲がった唇、という人相の悪さに似合わず恋愛モノの映画や小説が好きな克海だが、それらはこういうときには何の役にも立たない。いつだって行動の引き出しにあるのは過去の生活で培ってきた経験である、というのはどの小説に出てきた文章だったかな、と克海は心の中でぼんやり考える。そして残念ながらこういったやりとりにおける克海の引き出しは空っぽだった。引き出しの中がいろんなもので溢れかえっていたならば、無造作に開いて適当にひとつ摘み出し、相手にひょいと渡してやればいいだけなのだが、克海にはその経験値が絶対的に不足していた。
そしてどうやら実里の方も、自分から場を盛り上げるほど活発なわけではなく、穏やかで、それでいて控えめな性格のようだった。克海に恐々と話しかける様子からそのことが伺える。見た目も、丸く大きく開かれた両目ときゅっと閉じられた唇がなんとなく草をはむ小動物を連想させる。小柄で、人混みのなかできょろきょろと周りをうかがう様子もまさに小動物のそれだ。なんとなくふっくらした頬もハムスターっぽいよな、と克海は思う。
「早めに来といて、よかったね。ゆっくりしてたら、辿り着けへんかったかも」
と、実里が額の汗を控えめに拭き、肩口で切りそろえたショートカットを風になびかせ、はにかみながら言う。実里は文章をところどころで区切る、独特な喋り方をする。この喋り方が実里を必要以上におっとりと見せてしまう。ただ今の場合は、人波の中を克海に着いて歩くのが精一杯で息が切れているせいでもあるのだが。花火大会に合わせて着てきた、紺に色とりどりの花柄が染め抜かれた浴衣の下はすでにかなり汗をかいていた。かれこれ一時間もこうして真夏の太陽光の下にいるのだから、当然ではある。それでも少しずつ夜が近づいてきた港は、時折強く吹く潮風がよく通るので気温よりも涼しく感じる。しかし花火を楽しみにする数万人もの人々の熱気の前では、それも空しく感じられた。
二人は、海に面して半円型にレンガが積み上げられ、段差がつけられたところに腰掛けている。周りの石段も多くの人が座っており、この端の席を見つけたのは幸運だった。ちょうどいいところを見つけられなければ人ごみの中、立ちっぱなしで花火を見上げることになっていただろう。
「……ちょっと早すぎた、ごめん。」
克海がむっつりと海面を見つめたまま言う。なにせ、会場の最寄りの駅で合流したのが始まる四時間も前だったのだ。有名な観光地を軽く見ながら来たものの、それでも時間は少し余ってしまっていた。
「大丈夫、座れるところも見つかったし。シートも持ってくればよかったね」
周りを見回せば家族連れは当然のように遠足で使うような可愛い柄つきのシートを持ってきているし、こういう場に慣れているのであろう若いカップルもきちんとシートを持ってきている。中には釣り用の小さい椅子を持ち込んでいる老夫婦もいた。一通り周りを見回したところで、実里はしまった、と思う。今の言い方だと、まるでシートを持ってこなかったことを責めるように聞こえてしまったかもしれない。自分も気づかなかったくせに、なんて厚かましい女だと思われなかっただろうか……。ため息をつきながらちらっと横を見ると、花火もまだ上がっていないのにもう抱き合っている男女が目に入り、思わず目を背ける。というかまだ日も沈みきってはいない。顔が火照っているのは暑さのせいだけではないようだ。あっつーい、などと小さく言いながら汗を拭くふりをして誤魔化そうとしてみる。
「いや……足。痛かったやろ、下駄やし……それに、浴衣って、暑そうやし」
実里の心配には気づかなかった様子で、克海は顎で実里の足下を指す。本当のところ、気合いを入れてお洒落しようと兄から借りた革のブーツを履いてきた克海も足は相当に痛かったのだが、もちろんそんなことは口には出さない。小さな秘密を積み重ねて男女の仲は作られるものなのである。これを世間ではやせ我慢という。なお涼しい顔をしているがTシャツの背中はすでに汗でびっしょりであり、色が黒でなければかなり見苦しい様子になっていたことだろう。よりによって灰色なんて選ばなくてよかった、と克海は思う。こういうことにかけては女の子よりも乙女になってしまうのがこの年代の男子なのである。
「あ、うん……だいじょうぶ。ちょっと痛いけど、このままゆっくり座ってれば、だいじょうぶ」
「そっか」
「うん」
そしてその後に訪れる、本日何度目、いや何十度目かの沈黙である。こんな小さなやりとりを時折交わしては、黙り込む。こんな時間をもう何分過ごしたことだろうか。腕時計は打ち上げまで残り五十分であることを知らせている。もちろん克海としては実里と一緒にいられる時間は何物にも代え難いほど素晴らしいものであるが、いかんせんこの沈黙がよくない。黙っていること自体は苦ではないが、なんとかして実里を楽しませたいと思う気持ちが克海を焦らせ、時計の針を進まなくさせる。せめてもう少し笑顔でも作れたら、もっと会話も弾むだろうに。普段以上に口が曲がっているのは不機嫌だからではなく、気を抜けば緩みそうになる頬を引き締めているだけなのだ。こんな締まりのない顔を実里にみられるくらいなら、せめて真顔でいようという努力の結果なのだった。打ち上げまであと四十五分……。針は進まない。しかし、確実に時間は流れている。
なんとかしなければならない。克海は拳を強く握りしめながらそう思った。このまま何事もなくこの花火大会が終わってしまったら、もう夏休みに実里と会うことは無くなるだろう。一学期の終業式に、周りにばれないようこっそりと花火大会に誘うだけでも信じられないくらいの勇気が必要だったのだ。
あのときの、いつも以上に目を大きく見開いて、きょとんとした実里ちゃんの顔を思い出すと、あの緊張が甦ってくるようだ。なにかのきっかけで連絡先こそお互いに知っていたけれど、普段からろくに話したこともない、こんなコワモテの男にいきなりデートに誘われたのだから、きょとんとするのも当然だ。あの顔を見たとき、どれほど後悔したことか。でもそのあとの、顔を赤くして、こくん、と頷いてスカートを翻し走り去っていった姿はどうしようもなく可愛かったな……とふと思い、克海はまた奥歯を噛み、顔を引き締める。あぁ、そろそろ眉間も凝り固まってきた気がする。
そんなわけだから、気まずいまま別れて、もう一度別の日に実里を遊びに誘うことなど克海は出来る気がしなかった。今日という一日が終わり、始業式を迎えてしまえば、また二人はただのクラスメイトに戻ってしまう。始業式というのはなんてことないちょっとしたイベントに思われるが、夏休みという非日常を情け容赦なくぶったぎってしまえる力を秘めているものだ。少なくとも、克海にとってはそうだった。
もちろん今だってただのクラスメイトだけど、そこから少しだけ、ほんの少しだけ、前に進んでいる気がする。そう思っているのは自分だけかもしれない。でもそんなことはどうだっていい。この夏に、少しだけいつもと違うこの一日に、その一線を越えてしまわなければいけないんだ。
克海にとっては、この花火大会の一日こそが夏のすべてだった。まずは行動だ、と克海は思う。屋台にでも行って気持ちを落ち着かせよう。そういえば喉もかなり渇いている。
「飲み物、何か買ってくる。何か飲みたいものある?」
克海がジーンズの尻を払い、立ち上がりながら言う。
「あっ、うちも、行くよ。一人だけ行かせるの、使ってるみたいで、悪いし」
「ちょっとやけど荷物もあるし、何より場所が取られたら大変やからここで待ってて。ラムネでええかな?」
いくら経験値が少なくても、これくらいの気遣いは俺にだって出来るのだ、と克海は思った。顔がちょっと緩んでいたかもしれない。実里は少し迷ったようだったが、
「じゃあ……それで、お願い。ちゃんとお金返すから、値段言ってね」と言った。
克海はそれには答えないで、軽く手を挙げて応じる。座席の後方へと回り、実里には見えない位置にいる近くの親子連れの父親の方に「すみませんが女の子を残していくのでお願いします」と頼んでおく。少し戸惑った様子だったが、二人を見比べて察してくれたらしく、快く了解してくれた。実里は贔屓目に見ても、可愛い子だ。浴衣を着ているとそれがさらに際立つ。克海は待ち合わせ場所で実里を見つけたときなど、顔面が弛緩するのを抑えるので必死だった。もちろん気の利いたことを言えるはずもないので、へぇ、浴衣か、と言っただけだったけども。そんなわけで、一人で行かせるよりはましだが、それでも置いていくのはやはり不安だったのだ。親切な家族に向かってしきりに頭を下げながら克海は屋台の方へ向かった。
※
克海が人混みに消えたことで緊張の糸が切れ、実里は大きなため息をつく。こういう経験ってあんまり無いからなぁ、と背伸びしながら実里は思った。ましてや沈黙の時間が何度も続くので肩に力が入って仕方ない。それでも、克海のことは嫌いではない、と実里は思っていた。
目つきが悪くて怖いと女友達のうちでは不評だけども、克海くんが仲の良い友達と楽しそうに笑いながらじゃれているのを見ているととても怖いひとには見えない。友達には素行が悪くてよく呼び出しをされているひともいるけど、克海くん自身はそんなことはないし、むしろ真面目に生活しているように見える。ただ異性に対してシャイなだけなんだろう。私も同じようなところがあるのでよく分かる。慣れた相手--例えば親しい女友達--なら割とそうでもないけど、あんまり親しくない相手だと言葉を選んで話すから普段よりもっとゆっくりな喋り方になってしまうのが本当に嫌だ。ただでさえとろくさい喋り方なのに、これ以上ゆっくりになると意味が届く前に消えちゃいそうな気がする。言葉と心がいつも一拍遅れだ。このままじゃいけないとはもちろん思うけど、いつまで経っても言葉が心に着いてきてくれない。
克海くんとこれまでに喋ったことがないわけじゃない。どちらかと言えば男友達が極端に少ない私からすれば普通に接することのできる数少ない異性のひとりだと思う。考えてみれば一年生のときも同じクラスだったし、同じクラスになるのはこれが二度目だ。一学年八クラスある学校だから、結構な確率。同じクラスだから当然近くの席になることもあった。一年生の時の、それぞれの班で調べたことを授業の中で発表するグループワークのときに携帯電話の連絡先も交換してる。お互いにあんまりアドレスを変えたりしない性質みたいで、自然と連絡先はそのまま電話帳に残ってる。だから、本当にたまにだけれど、メールを交わすこともあった。なんてことはない、試験の内容に関するものだったりしたけれど、今も私の送信箱に残る唯一の男の子からのメールだ。
今までも、こんな風に異性から遊びに誘われたりすることが無かったとは言わない。けれど、男の子に慣れない自分としては、なんとなく怖く見えてしまう。身の回りの異性が悪人ばかりだとはもちろん思わないけど、どうしても臆病になってしまう。相手の話にも相づちを打つのが精一杯で、やり取りが一方通行になってしまう。そのうちに相手の方が私といることをつまらなく感じて、自然と離れていってしまう。私の方はつまらなく感じていたわけではないのに。ただ、接し方が分からなかっただけ。なんとか相手とうまく会話しようと思っても、言葉が出てこない。
けれど、克海とはそうではない、と実里は思う。
克海くんと自分はお互いに感じている距離が同じ。どちらも異性との触れ合い方が分からなくて手探りだからこそ、黙り込みもする。でも、その沈黙は決して不快じゃない。克海くんが時々自分を心配してくれたり会話の接ぎ穂をなんとか見つけだそうとしてくれているのは感じるし、その気持ちはとってもうれしい。克海くんとなら対等に向き合えるかもしれない。こうして花火大会に誘ってくれたときは確かにびっくりしたし、どういうつもりで誘ってくれたのか克海くんの真意はまだ分からないけれど、いい友達にも、それ以上にもいつかなれるかもしれない……。そう思って、実里はまた頬を染めた。誰にも見えないように、小さく照れ笑いを浮かべて。
ふと時計を見ると、打ち上げまではあと十五分。まだ少し夕方の名残を残していた海辺には、気づかぬ間にいよいよ夜が満ちていた。喧噪と波音が交差する。潮風がまた強く吹いた。
※
思えば、いつから好きだったんだろう。特に関わりがあるわけでもなかったけど、いつからか気がつくと実里を目で追いかけるようになっていた。クラスも二回同じになったし、まったくの他人というわけではないけれど、向こうからしたら、数多くの友達の一人に過ぎないだろう。
しかし、克海にとってはそうではなかった。
知らぬ間に突然やってきて、心の中を滅茶苦茶に乱してしまう。恋というのは、竜巻みたいなものだな……と克海は苦笑する。今まで人を好きになったことが無かったわけじゃない。でもそれはもっと薄ぼんやりとしたもので、今実里ちゃんを想うような強いものではなかったような気がする。本当に人を恋しく想うことがいかに苦しいものかということを、いま痛感している。小説や映画で、お客さんとして見物している分にはこんなに面白いものはなかったのに自分の容姿や性格が、もっと実里とつり合うものだったなら……。克海の悩みは尽きない。
克海はややぬるくなったラムネを二本購入し、混雑の中をゆっくりと歩いていた。打ち上げが目前に迫った港は、いままで以上に混雑していた。いたるところで警備員が声を張り上げている。実里とのことは相変わらず克海を悩ませていたが、ただ純粋に花火の打ち上げが楽しみになっていた。克海自身、こんな大きな花火大会に来るのは初めてだったのだ。
実里ちゃんも初めてだと、会場に向かうときに言っていた気がする。実里ちゃんの言うことはすべて漏らさず聞き取ろうと思っているけれど、頭の中の独り言が耳をあまり役に立たなくさせるし、興奮と緊張とで聞いたそばから会話の内容がどこかへ飛んでいってしまう。
でも今は、一旦実里と距離をとったからか今までよりだいぶ落ち着いている。このままのペースで歩けば、だいたい打ち上げ十分前くらいには実里ちゃんのところへ戻れるだろう。そこでラムネを飲んで、そして、どうする?
心臓も少し落ち着いてきた。どうやら想いを打ち明ける覚悟は少しずつ出来てきたみたいだけど、打ち上げの前に告白して変な空気になってもまずい。かといって終わったあとに告白するのもなんとなく興ざめだ。克海は新たな葛藤に悩まされる羽目になってしまった。
そうこうしている間にも脚は徐々に実里の方へ近づく。実里の紺の浴衣が少し遠くに見える。相変わらず周りをきょろきょろうかがっている。胸が高鳴る。汗が噴き出す。
駄目だ。落ち着いたつもりでも、実里ちゃんの姿を見た途端すべて吹っ飛んでしまう。デートに誘ったことで少しは自分の気持ちに気づいてくれているかもしれない。それにしても、まさかいきなり告白されるとは思ってもいないだろう。困らせることになりはしないだろうか……。
そういったことを考え出すと、克海は何とも逃げ出したい気持ちになっていた。時計を見ると、打ち上げ十五分前だ。潮風が吹き抜け、克海の背中を押す。シャツがはためき、火照った体を冷やしてくれる。
よし、行こう。克海は唾を飲み込む。言いたいと思ったときがタイミングだ。恋なんていつだって自分勝手なものなんだ。自分の好きなように踊って、相手がそれにつき合ってくれるかどうか、それだけなんだ。なんにせよ、舞台の幕は開かれようとしているんだから。
克海はラムネをポケットに押し込み、汗ばむ顔を思い切り両手でこすり、苦手な笑顔を作った。風は相変わらず海の遙か向こうから強く吹き続けている。しかしそれはいまや、夜の風になっていた。
※
「ただいま」
克海が軽く微笑みながら言い、ラムネを片方渡す。実里はあまり見ない克海の笑顔に驚いた様子だったが
「おかえり」
と返事をした。
「ごめん、待たせたな。屋台混んでてさ。ちょっとぬるくなってしもたし」
「いいよ、気にしなくて!」実里は両の手のひらを克海に向け、顔の前でぶんぶんと振りながら言った。「いくらやった?」
実里は手元の巾着袋を開きながら言う。こういうことにきっちりしている性格なのだ。異性に奢られ慣れていない、ともいう。克海は軽く手を振りながら、
「いいよ、そんなん。それよりもうじき始まるし、はやく開けちゃおう」
と言って、ラムネの栓を開ける。緊張していたので気づかぬうちに喉が乾いていた。一息に半分ほど飲み干す。真夏の熱気と克海の体温でぬるくなったラムネは軽く喉に絡むような甘ったるさがあり、それは夏の味だった。海沿いの繁華街のネオンを吸い込んだ瓶の中でビー玉と泡が踊る。炭酸が火照った体に心地よかった。克海がほっと一息ついて実里の方を見ると、やっぱりというべきか何と言うべきか、蓋を開けるのに失敗していた。なるほど思い切りがよくないと上手く開けられないラムネは、実里にはあまりよくない飲み物かもしれない、と克海は新たな発見に感心する。一方の実里の手はびしょ濡れで、瓶からは炭酸と中身が漏れだしていた。なんとも悪いことに両手が濡れてしまったため、手持ちの袋からハンカチを取り出せないらしい。自分の両手と瓶と、それから袋の上で目線が行ったり来たりしている。
「ほら、これ」尻ポケットからハンカチを取り出し、実里に渡してやる。「べたべたになるで」
克海がこんな風に実里と自然なやりとりが出来るようになったのは、夜がずっと深まったせいかもしれない。心の奥にある素直さの明かりは、それ自体が弱いために眩しすぎる太陽の下では姿を隠してしまう。
「……うん、ありがとう」
実里はハンカチを受け取り、手を拭いた。なぜか実里は、さっきから克海の目を見ることが出来ないでいた。屋台から戻ってきたときに克海が見せた笑顔のせいかもしれない。今まで遠くで他人にだけ向けられていたそれが、いま自分にだけ向けられた。それだけでこんなにも心を惑わせるものだろうか。だとすると、笑顔というのはほんとうに卑怯な武器だ、と実里は思った。そのとき、どこか遠くから女性の声でアナウンスが聞こえる。エコーと爆発した歓声でほとんど聞き取れないが、どうやらいよいよ花火の打ち上げが始まるらしい。腕時計の分針は、もうほとんど開始時間に触れようとしていた。
「これ、洗濯して、返すね。ほんとにありがとう」
「うん……新学期でもええから。そんなに感謝されるほどのことでもないし、むしろいきなり誘って、来てくれてありがとうな」
克海は鼻の頭を掻きながら言う。周囲のざわめきで声が通らなくなったため、自然と二人の距離がぐっと近づいたことには気がついていない。アナウンスが流れてからは、二人は打ち上げ予定の海の方を向いて座っている。こんな言葉が出てくるのも実里の顔が見えていないからだろうな、と克海は思う。
少なくとも、実里の顔が見えていないなら俺は少しは素直になれる。
「あのさ」
興奮しきった観客の声にかき消されないように実里の方へ向かって大声を張り上げる。実里は瓶に口を付けたまま振り向く。
「どうしたの?」
実里もいつもより大きな声を出して尋ねる。二人の目が合う。
何も言えない。
そのとき、眩しい光が二人の顔を打つ。
※
一発目の花火が打ち上げられた。
光線がすっと弱々しい鳴き声をあげながら上空へ飛び上がり、開く。そして少し遅れて、夜を、海を、目一杯揺さぶらんとするような轟音。一発が打ち上がれば、それに呼応するように次々と開く、花束。歓声。一瞬一瞬がフラッシュを焚いたようにちぎり取られる。夜なのに、眩しいばかりの輝き。菊が、牡丹が夜空に咲き、蜂が飛び回る。羽音。輝きは花火だけではない。街の夜景、大きな観覧車のイルミネーション、観光塔が放つ光。それらすべてが一体となって、夏の一夜の非日常を作り上げていた。
実里は、空を見上げていた。初めて見る大きな花火に感動し、ぽかんと口をひらきながら見ていた。そして、なんとなくそれ自体に親近感を覚えていた。ぱっと鮮やかに花火が開いて、音が鳴る。一拍遅れ。きらきら、どん。私の気持ちと、遅れる言葉。伝わらない気持ち。この音、なんだか可哀想、と実里は思った。
じゃあ、私は可哀想なのかな。いや、違う。可哀想なのは私の気持ちだ。気持ちはずっと私の奥で待っているんだ。言葉と一緒に伝えてもらえるのを。気持ちも言葉も、それぞればらばらじゃ、駄目なんだ……。
克海は、海を見つめていた。唇を噛みしめる。そこに映るのは、空の輝きを照り返す光の散らばり。七色の夜光虫。まるで海月みたいだな、と克海は思う。すごく大きな、丸い海月。それ自体も美しいのに、もちろん誰も見ようとはしない。真実は、花火そのものだから。花火が言葉だとするなら、この海月はなんだろう。この会場で、こんな気持ちで、海を見つめているのは自分くらいだろうな、とも思う。自分の勇気の無さが歯がゆい。
なぜ言えないんだろう。こんなに想っているのに。
一旦ひとつのプログラムが終わり、打ち上げが止まる。観客は一斉にため息をつき、一緒に来た友人や家族と興奮した様子で言葉を交わす。実里も普段より興奮した様子で克海に話しかける。
「すっごかったねぇ、花火。まだ心臓どきどきしてる。あんなにおっきいと、思わへんかった……」
「うん……せやな。綺麗やった」
「……克海くん、どうかしたん?」
「えっ?」
「なんとなく、元気無さそうやし」
克海はまた、笑顔を作って答える。偽りの花火。
「ううん、なんにもないで」
「そう」実里は軽く首をかしげる。「それならいいけど」
残りのラムネに口を付けながら実里は言う。
克海くん、なんとなくいつもと違う気がする。いつもと違って笑ってるけど、それだけじゃないような……無理してるような感じ。お腹でも痛いんやろか。そういえばさっきちらっと見たら唇噛んでたし、やっぱり我慢してるのかも。花火、いいところだけど、やっぱり我慢するのはよくないし……でもこういうとき、男の子になんて言ってあげたらいいんだろう?
「あの」実里は顔を赤くして言う。「その、我慢せんと、いってね。私、待ってるから」
克海は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。それも、何度も何度もすごい力とスピードで。
もしかして、気づいているんだろうか。そういえば、恋愛モノの映画なんかでは、男は鈍くて女は鋭いものと相場が決まっている。なんとなく実里ちゃんはそういうタイプではないように思っていたけども、やっぱり女だった、ということか。そもそも、冷静に考えてみれば、こんな風にデートに誘われた時点で気持ちは分かっているだろう。あとは雰囲気のいいところで告白するだけだ。実里ちゃんもそのつもりなのかもしれない。だとすると、あまり待たせてもいけない。どうせ、振られるか、受け入れてくれるか、どっちかだ。覚悟を決めろ、克海。
「わかった」
また、花火が打ち上がり始めた。
※
四十五分間、予定されていたプログラムは滞り無く終わった。最初から最後までクライマックスと言ってもいいような出来だった、と克海は思う。といっても、他に比較対象が無いので克海には分からないが。実里の方は、世の中の火薬が全部花火になったら平和でいいのになぁ、とのんびり考えていた。
それよりも、克海の夏はこれからクライマックスを迎えようとしているのだった。克海はまだ、気持ちを伝えられてはいない。克海が毎夜毎夜考えていた文句は、花火のように脳内に打ち上がってはむなしく消える。そんなことを考えているうちに、周りの客はいそいそと立ち上がり、最寄りの駅へと向かいだしている。
「ほんまに、楽しかったねぇ。途中で上がったハートの形の花火なんか、めっちゃ可愛かったし。……駅混みそうやし、そろそろ帰ろっか」
と、実里が立ち上がりながら言う。
「ちょっと」
「うん?」
「ちょっと、待ってくれへんかな」
完全に真下を向いている上に、ほとんど聞こえないくらいの小さく弱々しい声で克海が言う。
克海の目線の先には、光源を失い、夜とひとつになった海があった。海月はもういない。
「えっ、あっ……はい」
実里は浮き上がりかけた尻をまた石段に降ろす。やっぱり克海くんお腹痛いのかな、と実里は思ったが、なんとなく口には出さなかった。
「あのさ、その……俺ら、もう、受験やんか」
「うん、そやね。そろそろ勉強に本腰入れやな、あかん頃やんね」
それがどうしたのだろう、と実里は思ったけども、今日初めて克海が積極的に話しかけてきたので何か重要な用事なのだろうと、耳を傾ける。
「それで、俺、アホやし、実里ちゃんとは違う大学になると思う。それで、大学に進んだら、それぞれ別の友達が出来ると思うねんな」
「うん」
「ほんで、別々の友達と遊ぶようになったりすると思うねんな。夏休みも、そう」
「うん」
「そうなるのは仕方ないことやと思うねんけど……それでも、俺、また実里ちゃんと一緒にこの花火を見たい。これからも、ずっと」
そう言い、心からの自然な微笑みを浮かべて、実里の顔を見る。「そう思ってる」
あぁ、言ってからで良かった。この顔を見たら、きっと俺はまた言えなかっただろう。そんな風にして、この夏が終わって、高校生活が終わって、それで……何もかも終わってしまった気がする。少なくとも、伝わろうが伝わらまいが、この夏は、他の夏と同じじゃない。ただの思い出ではなくなった。心からそう思える。
一方の実里は、どう答えていいものか分からなかった。
今のは、告白だったのかな……。このまま仲の良い友達でいようね、という風にも聞こえるけれど。ただ間違いなく分かることは、いま自分の顔が真っ赤になっているだろうということ。それでも、顔を背けられない。克海くんが、今までで一番素敵な笑顔で、こっちを見ているから。
あぁ、笑顔というのは、やっぱり卑怯だ、と実里は思う。
「あの、それって……」
と言い、慌てて首を振り、
「ううん、私も、そう思う。また、克海くんと一緒に、花火、みたい。……それに、ハンカチも返さなあかんしね」
と、優しく微笑みながら言い直す。一拍遅れじゃ駄目なんだ。思ったことは、すぐ口にしなきゃ、意味が消えてしまう。花火の輝きは、いつだって一瞬なんだ。告白かどうかなんて、どうでもいい。いま、私は克海くんとまた花火が見たいと思っている。この気持ちだけが、今、真実だ。
それから二人は、ぎこちなく、それでいて世界一優しく、お互いの指先をつないだ。二人の自然な笑顔という花火が、お互いの瞳の海に写りこんでいる。それは、二つで一つの天海月(そらくらげ)だった。
ー完ー
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2
由川、と束五郎が昇一を睨みつけながら言った。
「お前、何で窓閉めとんねん」
言われて昇一はしまった、と後悔した。自分は蝉の鳴き声を聞くのが嫌で窓を閉めようとしたが、教室には冷房が設置されていない。当然、この時期に窓を閉め切るとただただ暑くなるばかりであり、蝉の鳴き声が嫌いであるという事情を知らない束五郎達にとって自分の取った行動が奇行にしか見えなかったであろうことに気付いたのである。しかしこのまま黙っているわけにもいかないので、昇一は取り敢えず事態の収拾を図ろうと、吃りながら束五郎に言った。
「あの、蝉の鳴き声が」
「何?」
「いや、ほら。さっきから蝉の鳴き声聞こえてるやん。あれ、鬱陶しいねん。あれ鬱陶しない? ない?」
「せやから何やねん」
「せやから。要するに俺が窓閉めたんはそれが直接の原因ちゅうか。俺、昔から蝉の鳴き声聞いたら苛々してまうねん。何で苛々すんねんて聞かれたら話ややこしくなるし、言ってもあんま意味ないと思うから省くけど、とにかく苛々すんねん。で、苛々しすぎた結果、気付いたら窓閉めてたっちゅうか。変やと思う? 思う? でもこうゆうのって、案外誰にでも当てはまることちゃうかなあ」
「お前、何言うとんねん」
「いや、ちょっと話最後まで聞いてな。つまり俺が言いたいのは、人は苛々してたら衝動的になってしまうってことやねん。そう考えたら、さっき俺が窓閉めたのも納得やろ? あの時は皆俺の行動が意味不明やったかもしれんけど、こうして説明すれば明快やろ? 一応まとめて言うと、蝉の鳴き声に苛々してたから、つい衝動的に窓閉めてもうたってことやねんけど」
昇一はそこまで言い終わると一息ついた。ここまで言えば理解してくれるだろうと思い、昇一は束五郎の顔を見上げた。ところが、束五郎の形相はさっきよりもさらに険しくなっており、今にも首筋に噛付いてきそうな気配を醸し出していた。やってもうたと思い、昇一はすぐに顔を伏せた。
実は、昇一の言ったことはほとんど出鱈目であった。昇一は、窓を閉めたのは苛々していたから、と言ったが、実際はそうではなかった。なぜなら、昇一自身、何故自分があのような空気を読まない行動を取ってしまったのか、分からなかったからである。無意識の行動。ここで正直に「無意識にやった」と言えば済むものを、それでは周りから無意識に窓を閉めだす変人としての扱いを受けると思った昇一は、咄嗟に出鱈目な言い訳をこしらえたのである。
このように、昇一は自分でも理解出来ないような、合理的ではない行動を取ってしまう癖があった。その癖は昇一を大いに苛立たせた。なぜなら、昇一は自分のことを、頭が良く、合理的な判断能力に於いて常に周囲の一歩先を行く人間であると信じていたからである。
ところが、実際はそうではなかった。むしろ他人から阿呆、若しくは天然などと言われることの方が多かった。そして昇一はそのようなことを言われる度に、独り恥辱にまみれた。昇一は自分を頭脳明晰な人物であるとしていたので、他人から阿呆、天然などという指摘をされることは、実に遺憾であった。屈辱であった。しかし、他人から指摘されたとしても、昇一はそれに対して反論することが出来なかった。己を優秀であると信じてはいる一方で、心の奥では、本当の自分は他人が言うようにむしろ救いようのない阿呆であるのかもしれないと薄々感じていたからである。
違う、と昇一は思った。俺は阿呆ではない、俺は阿呆ではない、俺は阿呆ではない。
昇一は何かを打ち消すかのように、心で何度も呟いた。しかし、ふとした瞬間にある疑念が脳裏をかすめた。
本当にそうなのだろうか。
確かに俺は学業に於いて優秀な成績を収めてはいるが、本当にそれだけで阿呆ではないと言い切れるのだろうか。俺はこれまで学業の成績が本来の頭の良さに直結すると思っていた。ならば、今この状況は何なのだ。優秀な筈の俺がいつもこのような理不尽な状況に立たされてる。俺よりも頭の悪い筈の連中は安全圏を確保出来ているにも関わらず、俺は地盤沈下寸前のポジションに立たされ、ふるふるしている。つまり、これは俺が周りの連中よりも劣っているという証明なのではないか。だとすれば、俺は悲しい。
ここにきて脳内に頭角を現してきた現実に、昇一は絶望した。そして目の前に束五郎がいることも忘れ、俯きながらピンポン球を思い切り握り締めていた。昇一は泣いていた。
すると、耕介が軽薄な笑みを浮かべながら言った。
「束ちゃん、そいつ泣いてんのちゃう?」
「泣いとるわ。なんやこいつ、気持ち悪」
「こいつ、束ちゃんにびびっとるんやろ」
昇一の泣き顔を見て、三人の悪童は大声で笑い出した。そこで昇一は我に返り、咄嗟に涙を拭った。
「言っとくけど、泣いてへんで」
突然の昇一の不可解な言葉に、笑っていた悪童達の顔面には大きな疑問符が張り付いた。束五郎は再び眉間に皺を寄せながら、昇一に詰め寄った。
「は? お前、五秒前まで歯ぎしりしながら泣いてたやろ」
「泣いてへんし。意味わからんし」
「何でそこを否定すんねん。意味わからんのはお前や」
束五郎は昇一の胸倉を掴み窓際に押し込んだ。窓ガラスに、昇一の後頭部がぶつかった。
昇一は己の面子を保とうと束五郎に反発したものの、早くも心が折れかけていた。泣いていたにもかかわらず、泣いていないなどと嘘をつきながら反発したことによって、面子を保つどころか、却って嘲笑の的となってしまったからである。実際、束五郎の後ろにいる耕介と武雄はもちろんのこと、遠巻きに見ているクラスメイト達も昇一に対して奇異な目線を送っていた。このような場面で昇一を助けようとする者は、常に皆無であった。しかし、昇一もそのようなことは分かり切っていた。そもそも、このような場面で人に助けて貰うなどということは、面子や外聞を極端に気にする昇一にとっては論外であった。
何とか言えや、と束五郎が言った。昇一はそれに対して、何も答えなかった。これ以上、訳の分からないことを口走って醜態を晒したくなかったのである。ところが束五郎はこれを無視されたと思い込み、昇一の頬に思い切り平手を放った。風船が弾けるかのような乾いた音が、教室中に響き渡った。その瞬間、昇一の頭の中は真っ白に染まった。痛みは無かった。ただ、いずれ去来するであろう絶望が、頭の片隅で顔を覗かせていた。そして今や、教室にいる全員の目が、昇一に焦点を合わせていた。
自分の放った平手の音に満足した束五郎は、昇一から手を離し、悪童同士の遊びを再開しようとした。しかし、束五郎は途中で何かが足りないことに気付き、周囲を見渡した。そして、放心状態の昇一の左手の中に目当ての物、ピンポン球を発見すると、その手を掴みながら言った。
「いつまで持ってんねん。はよ返せや」
すると、突然昇一は束五郎の手を思い切り振り払った。
「嫌や」
言われて、束五郎は自分の脳を疑った。念の為、束五郎は再度昇一の左手を掴みピンポン球をもぎ取ろうとした。すると、やはり昇一は再び、嫌や、と言ってその手を振り払った。
「お前、舐めてんのか」
束五郎の罵声に、昇一は唇をふるふるさせながら言った。
「だって、俺がこれ返したらお前ら、ここで飛ばして遊ぶつもりやろ。そんな迷惑千万なこと、許せへん。許すまじ」
「何をごちゃごちゃ言っとんねん、はよ返さんかい」
束五郎は両手で昇一の手首を握り、思い切り上下左右に揺さぶった。しかしそれでも昇一は頑なにピンポン球を離そうとはしなかった。それは、大勢の目の前で盛大に尊厳を傷つけられた昇一のやけくその抵抗であった。
そのような昇一に対し、束五郎の苛立ちは沸点に達した。束五郎は両手で昇一の手首を掴んだまま、足を軸にして身体をぶんぶんと回転させた。昇一は振り回されながらも、もはや何が起きているのか分からなかった。しかし、何をされていようともこれだけは絶対に離すまいと、力の限りピンポン球を握り締めていた。
近くにいた耕介と武雄は、一歩後退した。もし、この勢いのまま束五郎の手が離れると、昇一の身体が飛んで来て周囲に被害を及ぼすかもしれない。耕介と武雄はいち早くその危険性を察知し、この大車輪が回転しているかのような勢いに恐怖を覚えたのである。その瞬間、束五郎が回転しながら言った。
「こら、お前ら何突っ立っとんねん。見てんとはよ手伝えや」
突然、束五郎に罵声を浴びせかけられた耕介と武雄は、お互いに目くばせし合うと、勢いよく回転する大車輪に恐る恐る近づき、タイミングを合わせて昇一の腕を掴んだ。昇一はいやんいやんと抵抗したが、悪童三人の力によって大車輪はさらに勢いを増し、昇一の体力と気力を削いでいった。
「よっしゃ。じゃあ、せえので離すで」
束五郎は耕介と武雄に言った。束五郎にとって、もはやピンポン球などどうでもよかった。それどころか、ついさっきまでの苛立ちなどとうに忘れたかのように嬉々とした笑みを浮かべていた。束五郎はこのまま手を離すことによって昇一の身体が投げ飛ばされ、叩きつけられる様を拝みたかったのである。
「いくで。せえの」
束五郎が言った瞬間、昇一の腕から何かが剥がれるような、妙な音がした。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
昇一はあまりの痛みに床に崩れ落ちた。三人は驚いて動きを止め、昇一から手を離した。すると、昇一は左上腕部を押さえながら苦悶の表情を浮かべ、両足をばたつかせた。その惨状に、昇一が腕に何らかの怪我を負ったであろうことは、誰の目から見ても明らかであった。
突如、教室のスピーカーから昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。武雄は束五郎に言った。
「束ちゃん、これちょっとやばいんとちゃう?」
「せやな。この辺にしとこか」
束五郎は負傷した昇一を見下しながら、口惜しそうに言った。悪童達がやばいと思ったのは自分達が怪我を負わせてしまったからでも、ましてや悶え苦しむ昇一を心配して救急車を呼ぶ必要性を感じたからでもなかった。チャイムが鳴ったことで、この場に教師がやって来ることを懸念したのである。
束五郎は俯せに倒れている昇一の髪の毛を掴み、顔を上に向けさせた。昇一は涙と鼻水にまみれながら嗚咽を漏らしていた。
「俺らがやったとか言うてみい。もう一本の腕もやってまうぞ」
そうと言うと束五郎は何事もなかったかのように自分の席に着いた。耕介と武雄も各々の席に着き、早くも眠る態勢をとっていた。その他大勢の生徒達は倒れている昇一に同情したものの、声を掛けたり手を貸そうとする者はいなかった。そのようなことをすれば、今度は自分達が昇一のような目に合うと知っていたからである。
昇一は俯せのまま、焼けるような肩の痛みに目を閉じてじっと耐えていた。悪童達の暴挙により、昇一の左肩は脱臼してしまっていた。昇一は薄く目を開き、教室を見渡した。何人かのクラスメイトと目が合ったが、その瞬間に彼らは一様に目を逸らし、各々次の授業の準備に取り掛かるだとか、机に顔を突っ伏すだとかした。
昇一はここにきて強烈な悲愴感を感じ、再び目を閉じた。
窓の外では、しゃんしゃんと鳴く大勢の熊蝉に混じり、油蝉がじじじと弱々しく鳴いていた。
2012年9月1日 発行 9月号 初版
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