虹は架かっていただろうか。
それはもはや定かではないが、雲の隙間からこぼれる光の柱が、昼前からの雨で濡れた運動場をゆっくりと温めていたことははっきりと覚えている。
なぜならそれは、僕が待ちに待った晴れ間だったからだ。朝、僕が家を出るときから天気は思わしくなかった。気温こそ涼しく、運動に適したものだったが、空は僕と同じで今にも泣き出しそうな顔をしていた。それでも唇を噛み、ぐっと堪え、おろしたてのスニーカーを履き、湿り気を含んだ通学路を歩いてきたのが今から六時間ほど前のことだった。
「晴れてくれてよかったなぁ」
僕と同じように教室の窓から運動場を眺めていた健司が声をかけてくる。
「そうだね、本当によかった」
「団体競技は昼からまとめてするってさ」
「本当に?」
「うん、間違いない。先生に確認してきた。もちろん、リレーもだ」
「そっか」僕は運動場に面した窓枠にもたれかかりながら言う。爽やかな風が耳朶をくすぐった。「出来るんだね、ほんとに」
健司が僕の肩をばしん、と強く叩く。
「あったりまえだろ! これから逆転だ。そのためにやってきたんだから」少しずつ人の増えてきた運動場を見ながら、健司は言う。一年生や二年生たちのはしゃぐ声が風に乗ってかすかに聞こえる。「お前も、俺も……みんなもさ」
健司が叩いた右肩から、嬉しさがじわじわと体中に広がっていった。とうとう、だ。
思えば僕は、運動会が晴れになって喜ぶような子供ではなかった。今だって当然運動は得意じゃない。それでも、その日の僕はそれまでの五年間の僕とは違った。健司と同じように浅黒くなった肌と、お揃いの真っ赤な鉢巻がそれを証明している。
僕はあの日を思い出す。
「この鉢巻、巻いてみたくないか?」
あの日、まだ僕の肌がいつもと同じように真っ白だった春の日、健司は僕に鉢巻を渡してそう言った。運動会のとき、それぞれのチームのリーダーだけが巻ける鉢巻ーー健司はそれを五年生のときから巻いていた。五年生からふたり、六年生からふたり。まさに各チームの代表だ。僕は頭につけるのは、その他大勢と同じ、チームの色に染められた帽子。健司はその鉢巻を額にびしっと締めて、みんなの前でエールをきって……幼なじみの僕が見てもびっくりするほどかっこよかったのだ。あまりにもかっこよかったから、自分がそれを巻いている姿なんてとても想像できなかった。他のチームのリーダーだって、健司に負けないぐらいかっこよかった。そもそも、普段から人気者で、スポーツ万能で……そういう「カッコイイ奴」しか巻いちゃいけないものだと思った。
当然僕は断った。どう贔屓目に見ても、僕は「カッコイイ奴」ではなかった。巻いてみたくないか、と聞かれたら、当然巻いてみたい。あの姿を五年間見てきた男なら、まず憧れないものはいないだろうとまで思えた。ただ巻くだけならいい。みんなの前に立って応援や行進の先導をするのも、苦手だけど頑張ってやろう。それでも、僕にはどうしてもそれを巻けない理由があったのだ。
「なんでやりたくないんだ?」
健司は心底不思議そうな顔をした。そして、こんなに楽しいことがあるんだ、お前も一緒にやろうぜーーそう目が語っていた。自分ばっかり楽しいことをするのはずるいような気がするから、僕にも分けてくれようとする。小さい頃からそうだった。買ったばっかりのゲームを貸してくれたり、マンガを読ませてくれたり……そういうところも含めて、健司はやっぱり「カッコイイ奴」だった。少しずつ歳をとるにつれて、健司はどんどんカッコイイ奴になって、僕はそのままだった。
「ありがたいけど、やめとく。他にもっと巻くべきひとがいるよ」僕は自分の席に座ったまま周りを見回した。地元のサッカーチームや野球チームに参加している連中はいくらでもいる。「田口とか、平澤とか」
健司はそれを聞いてちょっとむっとしたようだった。
「俺はお前とやりたいって言ってるんだ」
「なんで?」
「なんでって」
健司はぽかんと口を開けたまま少し考え、
「なんでだろうな」と言った。
「お前こそ、なんかやりたくない理由があんのかよ」
健司は、いつだってこうと決めたら意地でも動かない。こうなったら健司は理由を言わないと絶対に納得しないだろう。良く言えば意志が強くて、悪く言えば頑固なやつ、だ。僕はうつむいて答える。
「……僕は、健司みたいに運動が出来ないから」
僕がそう言うと、健司は腕を組んで笑った。
「そう言うだろうなと思ったよ」
「えっ?」僕が顔を上げると、にやり、と唇を歪めた健司の顔がすぐそばにあった。
「要するに、リレーが嫌なんだろ」
……図星だった。
ー続ー
泣きたい、と思った。けれど、いつも涙はゆっくりと閉じられた瞼の裏側に散っていく。流してはいけない、と本能的に身体に力が入ってしまう。
こういう夜はいけない。何もないのに悲しく感じる。何もないから悲しいのかもしれない。自分でもよくわからない。ただただ、涙だけが溢れてきてしまう。
一人で暮らし始めて三ヶ月。ようやく新しい街での生活にも慣れてきた。仕事から帰ってきて、誰もいないことが当たり前に感じられるようになった。今までは母が出迎えていてくれたから、引っ越してきて間もない頃は違和感を感じていたけれど、慣れというものは必ずやってくるらしい。
それでもこうして視界が揺れる日は次第に増えていく。気持ちと身体がばらばらになっていて、ぐちゃぐちゃに重なり合いながらぎりぎりの角度で留まっている。それが、今の私だ。
ばふん、と勢いよくベッドに倒れ込む。こんな夜は、さっさと寝てしまうに限る。枕に顔を埋めて、ぎゅっと目を瞑った。
「お、給与明細来てるわ」
嬉しそうに笑った優弥が、ポストから小さな紙切れを取り出す。その上に書かれたさらに小さな文字を、真剣な目で追い始める。私はその横顔をそっと盗み見ていた。
優弥が何かを真剣に見ている時、私はその横顔を見るのが好きだ。そういう時、私は彼の視線の先を追うことはしない。彼の瞳に映るものを、なんとなく見たくない。
「早く、ちゃんと仕事見つけないとね」
一歩先を歩きながら、優弥の部屋へと向かう。四階建てマンションの二階一番右端の部屋。そこが優弥の仮宿だった。「いつか地元で働きたいから」と、自身の住まいを”仮宿”と呼ぶ優弥を馬鹿にしたのは、いつだったか。今なら、その気持ちもわからなくはない。
わかってるよ、と気にした様子もなく靴を脱いでさっさと部屋に上がっていく彼の背中に舌を出してやった。いつまで学生気分でいる気なんだ。
肩からかけていたボストンバッグをどさり、と床の上に投げ出した。重かった。たった二日分の着替えを入れただけなのに、女の荷物はどうしても多くなるものだ。小さなボストンバッグは、今にもチャックの部分が張り裂けそうになっている。
散らかり放題の床の上に座るのは少し躊躇われた。時計を見ればすでに夜の十時を過ぎている。この時間では、掃除機は近所迷惑かもしれない。仕方なくティッシュを拝借して、座るスペース分だけを軽く拭う。潔癖性、というわけではないけれど、彼の部屋は本当に汚い。付き合い始めた大学生の頃の方が、まだましだったかもしれない。
「久しぶりだね」
ようやく、彼とまともに話を始める。駅に迎えに来てもらったものの、お互いに言葉を交わすこともなく、ずっと黙ったままだった。
「そうだな。何ヶ月ぶりか、もう覚えてないわ、俺」
皮肉なのか、何も考えていないのか、彼は無表情で私にそう言い放つ。給与明細を見ていた時の顔の方が、よっぽど真剣だ。
「忙しかったんだよ、本当に」
じっと彼の目を見つめる。彼も私の目を見ている。お互いに、何かを探り合うかのように目を逸らさない。
ふっと、視界が揺らめきだす。いけない、と思った。いつものように、ぐっと眼球に力を込めてみても、それを阻むことは無理だった。それは一つの線のように、途切れることなく流れ続ける。
反則だろ、と頭上から彼の声が溜息と共に聞こえてくる。いつの頃からだろう。涙を流す私を、抱き締めてくれることはしなくなっていた。何も言わずに、ただ泣き続ける私の頭に置いてくれていた手の温もりは、もうずっと昔の記憶になってしまった気がした。
窓がカラカラと音を立てて開けられた。ふわりと、秋の香りを含ませた風が、私の頬を冷たくなぜていく。
真っ暗な景色をじっと見つめる彼の背中を見る。もう、届かない気がした。何もかも、私は気付くのが遅過ぎるのだ。本当はきっと、一人で住むことにだって慣れてなんていない。眠りにつくまでのあの孤独は、どんな闇よりも私を独りにさせる。それを選んだのは、私だ。壊れてしまわないように、私は私を誤魔化そうと必死でもがいている。
今の彼とのこの距離は、あのうんざりする程長い、独りきりの夜と同じ孤独を感じさせる。二日後、きっと私は笑って彼にまたね、と言うのだろう。
そっと息を吐く。涙はとうに止まっていた。乾いた頬に吹き続ける風の中に、彼の香りを微かに感じる。懐かしいと、ただそう思った。
窓から見える空は、星が一つも見えず、ただただ暗い闇が広がっている。まだ、朝は来ない。全てが止まってしまった部屋の中で、私たちは静かに朝を待ち続けていた。
ー完ー
「あまのじゃく」
さようなら、という言葉の意味は
こんにちは、の、向こう側
ありがとう、という言葉のぬくもりは
ごめんね、の、向こう側
言葉の裏の、そのまた向こう
ほんとの気持ちは、向こう側
だいきらい、のほんとの気持ちは
だいすき、の、向こう側
あまのじゃく、あまのじゃく、
人はみんな、あまのじゃく
あまのじゃく、の、向こう側
ほんとの気持ちの、向こう側
「ぼっち」
ひとり、ヒトリ、一人、独り、
だいすき、だいすき、だいきらい
つながる、つながり、つながらない
漢字の違いで大違い、
感じの違いでさみしいね
帰る場所、向かう場所
眠る場所、起きる場所
私のホームはいまどこに
心のホームはいまどこに
ひとりはだいすき、ひとりはきらい
かまわないで、そっとして
無視しないで、こっちみて
毎日矛盾のたたかいで、
毎日妥協のたたかいで
「ふらり」
スカートひらり、秋風ふわり
パーマをあてたい今日この頃
乾いた季節、潤う心
あなたの背中が愛しくて
ページがぱらり、時間はゆるり
眠りにつくのがだいすきな夜
黒い時間が恋しくて
今宵の月はおおきくて
私の体はちいさくて
鈴虫の音がりーんりん
また秋風が吹いて行く
ああまた今日が、終わってく
君の隣はまだ遠い
いつのころからか、世界中で終わることのない戦争がはじまりました。
はじめの理由はなんだったでしょう
土地の取り合いだったか、資源の取り合いだったか、たまたま虫のいどころが悪かったのか
そんな理由はみんなとっくの昔に忘れてしまっているのに、戦争は続くのでした。
舌ったらずにしゃべる子どもから、背中の曲がったお年寄りまで
みんなみんな、銃を持ちました。
理由のない戦争にあきれた地球は動くことをやめてブラックホールに身を投げました。
そのときから、世界中に朝がこなくなりました。
空を見上げても、靴墨をベタ塗りにしたような真っ暗な空間が広がるだけなのでした。
朝がこなくなったことにも、星も月もない空にも気づかず
世界には銃声が響くのでした。
ある日、ある国の青年が銃を空にむけました。
もう、こんな生活やめだやめだ。
引き金をひくと、パン!と乾いた音が響きました。
すると、空にぽちりと穴があきました。
それを見た、ちいさな弟が真似して空に向かって引き金をひきました。
また、ぽちりと穴があきました。
弟の友だちがまたひとり、その友だちがまたひとり
ぽちり、ぽちりと穴を開けました。
通りすがりの兵隊が、暇を持て余した老人が、死体をかじる野良犬が
いろんな人が久しぶりに空を見上げたのでした。
空にあいた穴からはほんのりと明かりがもれて、
もう、何年も見ることのなかった星が空に現れたのです。
その日から銃を捨てる人が増えました。
銃に込めた弾は空に向かうのでした。
どこの国にもすこしずつ星が増えました。
どこかで誰かが思い出したように言いました。
星だけじゃない!この世界には、太陽だってあったんだ!
この世界には、毎日朝がきていたんだ!
もっともっと、明るい世界だったんだ!
どこの国でも明るい世界への憧れが高まりました。
武器を捨てよう、銃弾は闇へ!
はじめは近所の住民どうしからはじまって
街全体に広まって、国中が団結し、
いつからか国どうしが協力しあうようになりました。
毎日ぽちり、ぽちりと空の穴が広がって、
何年も何年もたってから、ブラックホールの厚い皮がぺろりと剥がれ落ちました。
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油川家がここ、梅原市に越して来たのは、昇一が奈良の小学校を卒業した直後のことであった。
梅原市は大阪のほぼ中央に位置する住宅都市であり、およそ十二万人の人々が暮らしている。全く山に面していない土地であるが、田圃や畑などが多く見られ、夏から秋にかけて、夜になると蛙や虫の声が聞こえてくる。このように全体的に緑の多い、のどかな町であるが、大阪市内の中心部まで電車で十分程と近く、楽に都会に出向くことが出来るという地理的な好条件も兼ね揃えていた。
さらに、夏には地蔵盆、秋にはだんじりなど、地域の祭りも積極的に行われており、市民同士の結束も固い。特にだんじりに対する一部の市民達の意欲は半端ではなく、血気盛んなおっさん達を中心に、本番の四か月も前から太鼓を叩く訓練や、「わっしょい」の発声練習に取り組んでいるのである。
昇一は引っ越して来たばかりの頃、偶然にもその練習風景を目撃したことがあった。飼い犬の散歩の途中、市民公園に立ち寄ると、そこには十数人の目を異様にぎらつかせたおっさん達が横向きに並び、手を後ろに組んで大声を張り上げていた。頭領と思しきおっさんが、並んでいるおっさん達の前に立ち「わっしょい」と叫ぶ。すると、並んだおっさん達も一斉に「わっしょい」と叫ぶ。再び頭領が「わっしょい」と叫ぶと、その他のおっさん達もまた叫ぶ。わっしょい、わっしょい、わっしょい、わっしょい。これを延々と、ただひたすら繰り返しているのである。
この光景を目の当たりにした昇一は、心の底から、阿呆ちゃうか、と思った。しかし、昇一はこの町の緑の多いのどかな雰囲気や風景を気に入っていた。だからこそ、公園で大声を張り上げ、近隣住民に迷惑を及ぼしているおっさん達に対し、昇一は反感を覚えた。景観を損ねる、と思った。
小学校を卒業したばかりの段階で、既に昇一はここまで偏屈となってしまっていたのである。
しかし、この時、昇一は変わろうとしていた。
奈良の小学校では、性格が偏屈過ぎるが故に、昇一は六年間うだつのあがらない少年時代を過ごしてきた。しかし、新入生として新しく通う梅原市立第五中学校には、奈良の小学校時代の惨めな昇一を知っている者など誰一人としておらず、全てを一からやり直すことが可能であることに昇一は気付いた。
この引っ越しを機に過去を清算し、偏屈な考えにとらわれず、何事に於いても明るく前向きに取り組もうではないか。この見知らぬ町に来て、昇一はそう思ったのである。
ところが、その決意は中学に入った直後、束五郎達悪童の存在により、一瞬にして崩れ去ることとなった。
ー続ー
2012年10月1日 発行 10月号 初版
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