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大好評、黒川塾の第二回。今回はソニーが94年に発売したプレイステーションの誕生秘話を紐解く内容になっております。PSのイノベーションを分析することでみえてくる、昔と今とそしてこれから。

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黒川塾 弐

黒川文雄

ぺら出版



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黒川塾とは

 音楽、映画、ゲーム、ネット、IT、すべてのエンタテインメントの原点を見つめなおし、来るべき未来へのエンタテインメントのあるべき姿をポジティブに考える会です。開催時期に合わせてのゲスト・テーマを決定し、参加者とそれらを共有し、現状分析、動向を研究し、新たな化学変化を起こし、まだ見ぬ方向性、あるべきエンタメ像を創造するものです。
 参加者においては、新たな気づき、明日からの活力になる勉強会、企画開催を心がけます。
 音楽、映画、ゲーム、ネットワークなど、すべてのエンタメビジネスに精通した黒川文雄がナビゲートするエンタメ小宇宙。「エンタテインメントの未来を考える会」、黒川塾です。
 明日からのエンタメビジネス、自らのライフスタイルへの気付きを与え、与えられる会にしたいと考えます。毎回、多才なゲストを招待しての事例紹介、クロストーク、質疑応答形式で進めてまいります。

今回のテーマ プレイステーションについて
 94年、今を遡ること18年前に任天堂が圧倒的優位な立場を築いていたゲーム業界にソニーが『PlayStation』というイノベーションを武器に戦いを臨みました。そして大方の予想を覆して『PlayStation』はその後10年間で、世界のNo.1フォーマットの地位を獲得しました。ファミコン誕生から30年に渡るゲーム業界の歴史の中で最大の革命がこの時起こったのです。
 時は移り、そのソニーもそして任天堂も、かつての勢いが見られません。ゲーム業界でのフォーマット争いを尻目にスマートフォン、オンライン系(SNS)エンタテインメントサービスがユーザーから多くの支持を集め、特に国内における既存ゲーム機ビジネスは明らかに岐路に立っていると言わざるを得ません。そんな中、SCE社から米クラウドゲーミング企業「Gaikai」の買収が発表され、驚きをもって報道されました。
 そんな今だからこそ、ソニー(SCE)及びゲーム産業の今後を展望する為に、SCE創業メンバーをお迎えして、その誕生秘話をお聞きしつつ、『PlayStation』というイノベーションは一体何であったのか? そしてそれは、今後のゲーム産業にヒントを与えてくれるのか? という視点から、最終的にはゲームというエンタテインメントはどの地平を目指すべきなのか、という未来予想図を語り合う内容になります。

黒川文雄の 『帰ってきた!大江戸デジタル走査線』
~2012年7月28日のブログより抜粋~





プレイステーションを作った男たち


                 ゲスト 丸山茂雄
                     赤川良二
                     藤澤孝史

黒川 まずは本日のパネラーの皆様に簡単な自己紹介からお願いしたいと思います。

赤川 はじめまして。現在は株式会社ラルクスで代表取締役をしております。ソニー・コンピューター・エンターテインメント(SCE)の創業メンバーで、プレイステーション(PS)ソフト『アーク・ザ・ラッド』のプロデューサーとして関わりました。

藤澤 赤川さんからフェイスブックで「面白いイベントやるから来てよ」と連絡があって、今日はお邪魔することになりました。20代はミュージシャンをしておりまして、20代後半くらいに縁あってSCEの立ち上げに参加しました。PSの起動音や、VAIOの起動音、音楽系のソフト『パラッパラッパー』『DEPTH』などの制作に関わりました。あまり人のふまない道を歩んできました(笑)。
 SCEを退社し、現在は株式会社T.C.FACTORYでドリルスピンというエンタテインメントサイトの運営などをやっております。

丸山 こんにちは。SCE立ち上げの前はソニーの音楽部門で仕事をしていました。CBSソニーの創立時に入社し、その後エピックというレーベルを作りました。実は今日会場になっているこのフロア、かつてエピックが借りていたこともあるんで、懐かしいです。
 SCEのあとはソニー・ミュージックに戻り、定年を迎えました。定年後、沖縄で音楽事業を始めたんですが、あまりうまくいかず・・・東京に逃げ帰ってきて、現在に至る、と。自分じゃわりと・・・あ、僕どんどん話が逸れていっちゃうから、あとで話そうね。そんな感じです(笑)。

プレイステーション前史

黒川 PSが発売されたのは94年。いまから18年前です。今日のお客様の中にはゲームの原体験がPSよりも後っていう方もおられるのかなと思いますが・・・。
 今日のパネラーの方が奇跡を起こしたSCEの御三方です。なぜPSが成功を収めたのかということをまずは、赤川さんからうかがいたいと思います。

赤川 けっこう古い話になります。僕は最初のゲーム体験がファミコンなんですけど、皆さんどうですか。ファミコンの方・・・おお、ほとんどですね。PSだっていう方は、・・・少ない。じゃあ、古くからのゲームユーザーの方が多いようですね。歴史を語るというよりは、リアルタイムの体験を元にお話できそうです。
 ファミコンが83年に発売されて一世を風靡しました。そしてスーパーファミコン(以下SFC)が90年。メガドライブやPCエンジンもありましたが、基本的にはゲーム業界というのは任天堂の天下でして、そこにカウンター的に他社が入り込む余地はあっても、完全に置き換わるような形で次世代に移行するなんて、80年代末~90年代初頭にはまず考えられないことでした。
 実は91年に、ソニーはSFCのCDロムアダプタ(以下CDロム)を開発し始めたんです。SFCの拡張スロットに接続してCDを読ませることでSFCのアプリケーションとして動くものを想定していたんです。

黒川 そのあたりの詳しい話を、丸山さんにお願いします。

丸山 京都の任天堂さんとの交渉をやったのは直接的には久夛良木健さん。そもそもどうしてそういうパイプがあったかというと、SFCの音源チップは久夛良木さんが開発し、任天堂に収めるという形を作っていたからです。そうこうしているうちに彼の中でむくむくといろいろやりたいことが立ち上がってきて、CDロムを提案したんだと思います。
 で、なぜか任天堂さんがいいよと言ってくれたんだ。気分よく、いいよといったわけではなく、久夛良木さんがしつこく迫るから面倒くさくなって仕方なくOKしたんじゃないかと思ってます。久夛良木さんや当時の交渉窓口の人に聞いてもそうだっていうと思う(笑)。

赤川 そこで、CDロムを出すならば当然ソフトも作らなきゃいけないねという話が出てくる。久夛良木さんが、誰かソニー内でソフトを作ってるくれる人はいないかなということでエピックの丸山さんを訪ねた、というのがPSが始まった瞬間として語られているんですが。

丸山 はい。ソニーはハードの会社なので、ソフトを作るノウハウはなかった。MSXの頃かなあ、製作的な立場でソニーのハード担当がソフトメーカーさんに作ってくださいとお願いしに行くようなケースはあった。でも、自分たちのリスクでゲームソフトを作っていたのはソニー・ミュージックというレコード会社の一部だけだった、というわけ。

赤川 当時私はソニーの洋楽部門で宣伝を担当していたんですが、突然辞令が下りまして、エピックソニーのニューメディア部という部署に異動を命ぜられました。
 SFC用のCDロムをつくるということで、任天堂とソニーは非常に親密な関係にありました。エピックもソフトハウスとしてSFC向けのソフトを作っていたんです。ゲームソフトの制作要員として行ったんですが「実はCDロムのプロジェクトが動いているから、そっちも頼む」と言われて、その中で『フォルテッツァ』というソフトの開発を行なっていました。そのあたり藤澤が詳しいと思います。

藤澤 『フォルテッツァ』、懐かしい(笑)。途中で名前変わったり、いろいろありました。私はサウンド担当だったんですが・・・懐かしいです。

赤川良二

赤川 今にして思えば、SFCのCDロムの開発名が『プレイステーション』だったんですよ。その後紆余曲折あって、PSに至るっていうのも面白い話ではあるんですが・・・。
 SFCのCDロム用ソフトとしてソニーがン億円をかけて開発した『フォルテッツァ』について話をしましょう。ゲームの内容はLDゲーム(CGムービーなどの最中に表示される指示に従ってコマンド入力を行うもの。のちのシェンムーや龍が如く、バイオハザード4などに影響を与えた)みたいなものでそこまで面白くはなかった。CDロムの中にある映像データを読みだしてSFCの演算能力で展開していくというものだったんですが、あれが世の中に出ていたらどうだったんだろうという興味もあるんですが、もしかしたらダメだったんじゃないのっていう予感が当時からあった。そんなにめちゃくちゃ面白い内容ではなかったんですよ。
 というような前段があったんですが、91年のCES(現在のE3)で突然、任天堂から「SFCのCDロムはフィリップスとやります」という発表がありました。

丸山 その時まだSCEではなくて、久夛良木さんがハードの部分をやって、私はソフトを作ってるっていう段階でしたので、発表があった時は驚いたよねえ。作ったはいいけど、ソニーじゃなくてフィリップスだってなった時は、「何をアマい交渉してるんだよ」って思った。僕らソフト作ってる人間は被害者ですよ。噴飯もの。

赤川 で、当時の取締役を怒鳴りつけたという・・・。

丸山 そう! その時に交渉やっていた出井(伸之)さんをね。彼はまだ当時ヒラの取締役で、僕はエピックでブイブイいわしてたから怖いものなしだった。だから、電話口で「ばかやろ! なにやってんだ!」って。・・・ま、そのあと彼が社長に就任した時はなんというか、青ざめたよね(笑)。

(会場爆笑)

黒川 その時点は思いもしなかったと。

丸山 そう。言うこときいてゲーム作ってたこっちの身にもなってくれよって。これじゃ全部パァじゃん。

赤川 とまあここまできたら、当然このゲーム機及びソフト開発の話は無くなるだろうなと、いち家臣としては正直、思いました。
 とはいえ、いろいろプロジェクトも動いてはいました。私も詳しい内部事情をそこまで知らないんですが、久夛良木さんはそれでも諦めず、ソニー単独でゲーム機事業を立ちあげようと動いていました。そして世の中的に有名な話として、久夛良木さんが当時の大賀(典雄)社長に「悔しくないですか!」と焚きつけて、社長から「Do It(やれ)!」と内諾を得てプロジェクトは継続された、と逸話が残っています。細かいところをいうといろいろあるのですが、ざっとかいつまんでいうとそういうことです。

PS誕生には、とあるセガ作品の存在が不可欠だった

黒川 エンタテイメントのトップ企業であるソニーが、任天堂というゲーム業界の巨人に踏みにじられるような仕打ちを受けた。SFCのサウンドチップ供給という関係もあったのに、そこまでするか、と。ある意味で、久夛良木さんとソニーの怒りのパワーがPSという新しいイノベーションにつながったのではないか。久夛良木さんをより強く突き動かしたのではないかと、今の話を聞いて思いました。

丸山 でもねえ、どうかなあ。その解釈が一番わかりやすくはある。けど・・・

赤川 ソニー側の技術者はCDロムが一度ご破算になった後も、それでも粛々と歩を進めていたんです。PSという、技術的に言えば3DCGをリアルタイム生成して見せるという、当時ならスーパーコンピューターでやるようなしろものを、高々5~6万の民生機として販売しようとしていたんです。とてつもない自信もあったと思うんです。先程も言った通り、SFCのCDロムという企画のままだったら、果たしてそのあとのPSのような成功をしたかどうか分からないっていうのは、PSには技術的な裏付けがあったからこそなんです。

丸山 そう。久夛良木さんの怒りっていうのも解釈としてありなんだけど、やりたいっていう気持ちが強かったんだと思う。前の(SFCのCDロム)は本当にやりたいことじゃなかった。というのは、任天堂さんありきの規格だから。

黒川 後乗りするわけですからね。

丸山 そうそう。それだと、看板借りて小さい商いさせてくださいって話だけど、それをソニーとしてPSを一からやれるとなったら、実際はしめしめ、というところもあったんじゃないかな。

黒川 むしろそれを望んでいた側面もあると。

藤澤 面白いことに、PS1のサウンドチップってSFCと同じなんですよ。あれの基本構造は同じでメモリ増やして速度上げただけ。CDロム規格の時に培ったものをそのままうまいことPSに現実的なラインで着地させたというものなんです。だから、怒りとか夢だけじゃイノベーションはできない。
 たとえば僕が作った『DEPTH』の背景グラフィック。これは全部CGです。CDからデータ読み込んで流しているだけ。描画しているのは前面にいるキャラクターのイルカだけです。

赤川 さて、ソニー単独のゲーム機PS誕生までの前史をいままで語ってきたわけですが、当時の業界の状況を見ますと、家電メーカーがゲーム業界に参入するのは決して珍しいことではなく、NECさんはPCエンジンを出していてこれはある程度成功したと言われています。その後、パナソニックさんの3DOが出るわけですが、・・・皆さんご存知ですか。

黒川 客席から笑いが漏れてるから、知ってるんじゃないでしょうか(笑)。

赤川 3DOというとんでもないマシンがありましてですね。それこそ当時7万円くらいしたんですが、あまり売れずにあっという間に退場してしまった。当然ソニーもゲーム業界に参入するに当たってそのようなイメージを持たれました。絶対うまくいくわけないと。一〇〇人いたら一〇〇人そう答えたんじゃないかな。

黒川 当時私はセガにいましたが、ソニーさんがゲーム業界に参入すると聞いて、驚きました。

赤川 驚きというか、馬鹿じゃないのっておもったんじゃないですか? 

黒川 馬鹿だなんてそんな。向こうみずなチャレンジだなあ、とは感じましたよね(笑)。

藤澤 実際、馬鹿じゃないの、みたいなことも言われてましたから。

赤川 その後僕らはPSの実機を持っていろんな所に説明に回るんです。久夛良木さん、丸山さん、後に二代目のSCE社長となる徳中暉久さん、高橋裕二さん、佐藤明さん。世にいう五人組というやつです。全国行脚どこへでも行って自信に満ちたプレゼンをしていたんですが、皆さんおっしゃられるのが「あなたたちの技術がすごいのは分かった。でも悪いこと言わないからやめておきなさい」ってことなの。

丸山 ハードメーカーがひょっこりでてきて、ちょちょいとやってうまくいくような簡単なビジネスじゃないっていうことでしょうね。そのとおりなんだけど。当時のセガの社長の中山隼雄さんなんか特に言ってくれましたね。おやめなさい、って本当に懇切丁寧に。中村さんはとてもアクの強い方だから、親切で言ってるのか、馬鹿にして言ってるのかわからなかったけど、基本的にはやめろということを強く言われました。

黒川 ハードメーカーとしてソニーは有名だったけれども、そこからソフトが生まれてくるようには思えないというのが一般的な考えだったというわけですね。
 では、どうしてそのソニーから魅力あるソフトが生み出されていったのか。SCE立ちあげには今日ここにいる御三方をはじめ、ソニーの音楽部門の方が多く関わっています。R&D(研究開発)やA&R(アーティストの育成、制作)と呼ばれていますが、いかにアーティストを見つけて育て、より大きくしていくかというノウハウがあったことが成功の秘密なんじゃないでしょうか。

赤川 それは絶対ありますね。我々がサードパーティのメーカーさんに行く時は、アーティストを探しに行くような感覚でした。

丸山 僕は邦楽、赤川さんは洋楽担当だったから、若干ニュアンスが違うかもしれない。ゲームの仕事する前、僕がエピックにいた頃って一番うまくいってた時で、渡辺美里、TM NETWORK、DREAMS COME TRUEと次々ヒット生み出していた。そういうアーティストの人たちを僕が育てたかのように世間で言ってくれることがあるけど、僕としてはそんなつもり全然ないわけ。本人たちが勝手に育っていっただけの話でさ。

黒川 それでも、制作環境を整えるというのは大事な要素だと思います。

丸山 お金の面とか、そういうのはやったけど。やっぱりアーティスト本人の力が大きい。モノを作りあげる時に資金力、体力さえあればいい作品が作れるのなら、経営者は社長、大社長、偉大なる社長様、いくらだっておだてられるけど、金だけでは新しいものはなにも生み出せない。
 そのことがわかっていたから、ソフトメーカーさんを回る時に、彼らに対して偉そうな態度をとっていたらいっぺんに嫌われちゃうなとおもった。嫌われたら、いい作品を俺たちに提供してくれない。だからアプローチは注意深く、丁寧に、ソフトメーカーに対する敬意をもって臨みました。

赤川 実は、これはあとから顧みればって話なんですけど。当時業界には、2Dから3DCGへという大きな転換期が予兆されていました。ハード開発の岡本伸一さんによれば、各ソフトメーカーを回っている時はまだ家庭用ゲーム機で3Dのゲームができるとは時期尚早だろうと。
 確かにナムコやセガがアーケードでポリゴン3Dゲームを作りはじめてはいましたが、ものすごい高い筐体でようやく実現可能だったしろものです。まさかそんな高価な3Dのゲームが家庭用でできるはずない、メーカーからしたら作り方もわからないっていう状況に、さらに売れるかどうかもわからないPSに投資するのはいかがなものかという意識が根強くあった。

丸山 あったねえ。

赤川 岡本さんいわく「これはダメだ、3Dゲーム機の看板は下ろして、2Dのチップ乗せて従来と同じようなゲーム機として路線変更しよう」というところまでいってたらしいです。ところが、あるソフトの出現によって風向きが一八〇度変わったんです。そのソフトというのが・・・黒川さん。

黒川 『バーチャファイター(以下VF)』なんですね。当時私はセガに入社して、鈴木裕さんに『VF 』の試作版を見せられた時に、映画、映像の未来を感じたんです。前職はギャガで映画の宣伝をしていましたので、衝撃でした。目の前で三次元のCGが作られて、キャラクターとして動いて闘い、結果が出るというさまに映像の未来を感じたんです。
  『VF』を開発したAM2研はF1カーの研究室のようでした。コストをふんだんにかけて、最先端のテクノロジーと最高峰のスタッフを集めてセガの看板タイトルして作られていたのが『VF』というわけです。
 『VF』の登場がSCEさんに強い衝撃を与えたという、その詳細については赤川良二著『証言。「革命」はこうして始まった プレイステーション革命とゲームの革命児たち』(エンターブレイン刊)を御覧ください。

赤川 影響を与えたもなにも、『VF』がなかったらあの時、路線変更を受け入れざるを得なかったのだから、PSはいまとは違うマシンになっていたんです。

丸山 そのとおりなんだ。セガさんはえらいタイミングで敵に塩を送ったことになる。

(会場笑)

赤川 よもやそんなことになるとは双方思いもせず。

丸山 3D映像の素晴らしさをツバとばしながら言ってるのは社内では久夛良木さんだけだった。すごいのはわかったけど、実際なにができるのって説明されても全然わからなくて、しょうがないからわかったふりしてプレゼン回ってたんです(笑)。出来上がったイメージを本人たちが掴めてなかったわけ。

黒川 そうだったんですか! 

丸山 徳中さんもいろんなところで回顧的に語っているんだけど「『VF』を初めて見た時に、あ、これだ! 俺達がやろうとしてることは」って分かったらしいんだ。

黒川 それ初耳です(笑)。

藤澤 あの頃、PSには恐竜が動くデモ映像くらいしかなかったです。

黒川 ああ、それは結構有名なやつで私も覚えてます。けど・・・、そうですかぁ。

丸山 『VF』みたいな、こんなことができるようになるんだ、俺達がやろうとしてることはどうやらすげえことだぞ、って教えられたかっこうですよ。そこで明確に共有できた。おかげでPSの方向性が定まった。

赤川 92年のAMショーで『VF』が電撃的に発表された。それを見た某ゲームメーカーの社長さんがその足で徳中さんのもとに訪れて「PSやります」って言ったという逸話があるくらい。ほとんどの人間がそこではじめて3Dゲーム機の実現可能性を信じた、というのが真実です。

黒川 僕ら当時のセガのメンバーは知る由もなかった。赤川さんの『証言~』を読んで『VF』がSCEに与えた影響の大きさを初めて知ったくらいです。
 少し話が逸れますが、『VF』はプレイヤー目線で語られた本は過去にもあったんですが、作り手側の視点で語られることは少なかったんです。実はそのあたりの開発秘話をいま友人の中村隆之さん(VFではサウンド担当)と一緒に、当時の開発メンバーを取材しているんです。いまちょうど半分くらい取材が終わったところで、出来れば書籍化したいと思っています。

赤川 その本、是非実現してください。

流通改革、クリエイター発掘

赤川 PSのベクトルが『VF』によって定まっちゃったもんで、そこからは一気呵成にすすみました。いわゆるPSのソフトはこうだぞと、ガツガツ作っていくことができた。ナムコさんの『リッジレーサー』を本体発売日にローンチタイトルとして出すというのも大きかった。

丸山 ものすごいお金かけてソフト開発したのに、もしPS本体が20万台しか売れなかったりしたら、最大でもソフトは20万本しか売れない。ローンチで出すのはメリットもあるけど、リスク大きいですよ。ハード自体が空振ったら痛い目にあう。
 後に参入することになるスクウェアやエニックスといった大手メーカーは「三〇〇万台普及してるハードでなければ、開発費が回収できない。できないことはやれないでしょ」って、至極もっともなことを言うわけです。でも、開発費を回収できるかどうかわからない中でやってくれたのはナムコさんだからね。ナムコさんがいなかったらPSはスタートできなかった。

黒川 当時、仲のよかったメディア関係の方が、SCEの戦略発表会で流れた『リッジレーサー』のプロトタイプ映像をこっそりみせてくれたんです。
 それをAM2研で皆に見せたら、どよめきました。ナムコはアーケードの『リッジレーサー』をPSであそこまで再現できるのか! と。セガは『VF』の家庭用へのコンバートがそこまで進んでいなくて「ナムコがあそこまでやるんだったら、うちも下手な状態で出す訳にはいかない」ってその日は大騒ぎになったんです。そこから大慌てで、二ヶ月後の発表会に合わせて急ピッチの開発が進んだ。ですから抜きつ抜かれつという状況があったんですね、当時。

丸山 あの何年間かは、ほんっとに抜きつ抜かれつだったね。梶山季之の『黒の試走車』の世界ですよ。

黒川 車業界の産業スパイ小説ですね。

丸山 あのような、お互いに影響して高め合っていくような競り合いって日本の市場、産業の歴史の中でもそんなに多くはないんじゃないかな。

赤川 セガサターンはPSよりも2週間早く発売されて、値段が四四八〇〇円。PSよりも五〇〇〇円ほど高かった。それにも関わらず、『VF』の完成度の高さであっという間に売り切れた。それをみてPSもいけるかもしれないぞ、と思ったんです。

藤澤 そのすぐあとあたりから『いくぜ一〇〇万台』とか、宣伝文句でも争ってた。

赤川 あの時サターンがうまくいかなかったら、PSもわからなかったですよ。

藤澤 本体の売上、数字のレースがわかりやすい競争としてありました。

黒川 セガとソニーの緊張感が消費者にも影響して、どっちがすごいんだ、どっちを手に入れるんだ、っていう・・・。

丸山 いろんなところを巻き込んだんだ。関わるみんなが必死になってアツくなって盛り上がってたもん。

赤川 セガさんにそういう意識はなかったかもしれないけど、いつの間にか「次世代機戦争」って呼ばれるようになっていた。

黒川 そうなんです!

赤川 SCEの宣伝部長だった佐伯雅司さんがメディアをそそのかしてつけたらしいですよ(笑)。そそのかしたっていうと語弊があるかもしれないけど。気がついたら「ソニーとセガがすごい戦いをやってる」という演出がされていた。

黒川 いかにサードパーティを囲い込むかみたいな競争もありましたからね。

赤川 もう一つ要点があって、実はPS以前のソフトの値段って高かったんです。

藤澤 もう皆忘れちゃってるかもしれないですよ。

丸山 忘れてる忘れてる(笑)。

赤川 ROMカセットで容量を増やしていくとなるとチップをどんどんつまなきゃならない。原価も上がる。必然的に値段も上がっていかざるを得なかった。RPGの人気作が一万円とか平気でしたんですよ。とあるソフトは一万五千円くらいするのもありました。みんな、それをよく買ってたなって。
 そこでCDから派生したCDロムっていう、ぶっちゃけ一〇〇円ですよね。一〇〇円のものにデータ入れるだけで、ロムカセットと同じように記録ができるんだったら、製造側、メーカー側、ユーザー側の三者にとってものすごくメリットになる。誰が考えても明白だったんです。
 当時ゲームソフトの価格が高騰する中で、ソニーが出したソフト1本五八〇〇円というのはものすごい安かったんです。『リッジレーサー』もその値段で、これはすごく安いぞと。
 CDで製造する利点はプリントメディアだということ。かつてROMカセットの時代は、ヒット作が品切れすると次の入荷まで2ヶ月3ヶ月買えなかったんです。売る側も買う側も長く待たされてしまう。ところがCDの場合はスタンプするだけなので、1週間待たずに店頭に届きます。値段は下がる、流通もすばやくなるわ、いいことずくめだった。
 音楽「CD」をそれまでも売っていたソニーが、ゲームソフトもCDメディアにすることで流通改革につながる、という狙いがあったというのがひとつです。

藤澤 それをやりきったってことが大事なんですね。それ以前にもCDメディアのゲーム機は少なからずあった。それを流通網含めてやりきったということなんですよ。

黒川 PSという大きいイノベーションの中のひとつに流通のイノベーションもあったんですね。

赤川 問屋制度というがあって、翌日配送されるものでも、留め置かれていた時代があったんです。

丸山茂雄

黒川 PSは製造流通、クリエイターの発掘育成まですべてイノベーションだったと私は思うんです。丸山さんは謙遜されて、音楽の場合はアーティストが勝手に育っていったんだとおっしゃいましたけども、環境づくりはA&Rの大事な側面です。それが当時のゲーム業界では必ずしも重視されていなかった。ゲームクリエイターのA&Rをイノベーションとして行なっていたのが、当時のSCEだったんじゃないかと思いますが、丸山さんどうですか。

丸山 映画って終わりにスタッフロールがあるでしょ。名前がつらつらと流れる。ゲームのスタッフロールって匿名だったんだよね。会社が作ってるってのはわかるんだけど、匿名っていうのはいかがなものかと。
 つまり、ドリカムやTMが曲作ったのに「それはエピックソニーの製品だよ、作者は匿名」なんて言ったらおかしな話じゃん。クリエイターが作ったんだからクリエイターの名前出すのが当然でしょって。そのことをおおっぴらに言い始めたら、最初はやっぱりそれぞれのゲーム会社の社長さんたちは嫌がったんだよね。嫌がったんだけど、同席してるクリエイターさんたちには喜ぶよね。

黒川 そうですね、実際そうでした。

丸山 社内の力関係として、経営と同じようにクリエイターも尊重されるべきっていう空気がだんだんと出来上がってきた。鈴木裕さんや坂口博信さんといった一部のスターはもう表に出はじめてたけど、そういうクリエイターの名前が次々と出てくる時代にこれからなるってことだったんだ。
 でね、当時はすごい下品な誘い文句を使った。「六本木とかいくとミュージシャンなら女の子が寄ってきてキャーって騒ぎになる。けど、ゲームクリエイターはどう? そうなりたくない?」って。

黒川 その誘い文句、わかりやすいですね。

丸山 「女の子にキャーキャー言われたくないの?」っていう言い方をあちこちで(笑)。

黒川 欲求にダイレクトにヒットしますねそれは。

赤川 丸山さんらしい(笑)。

黒川 僕も当時のゲーム業界の雰囲気として、クリエイターの名前が前面に出て来ないのが気になりました。例えば映画ならスピルバーグの名前が出るだけで期待が広がりますよね。あのクリエイターの次回作はどんなだろうって。ゲームにはそれがなくて、格闘とかRPGとか、ジャンルやシリーズタイトルに依存していた。作り手の顔や意志が見えなかった。そこでソニーのA&R的な手法でゲームクリエイターや作品をプロデュースしていくという手法が生かされたわけですね。

赤川 SCEは「ゲームやろうぜ」という取り組みもやってました。新しい若いクリエイターにPSソフト向けの開発環境を提供するという試みでした。そこで発掘された人たちがのちに『XI[sai]』や『どこでもいっしょ』を生み出すことになります。

『パラッパラッパー』の革新

赤川 あと、今日せっかく藤澤くんに来てもらったので『パラッパラッパー』を例にPSらしいソフト作りの好例としてお話してもらうか。『パラッパ』は非常に革新的なソフトだったと思っていますし、世の中的にもそう受け取られた作品です。

藤澤 『パラッパ』といえば松浦雅也さんです。映画や音楽の制作現場というのは役割分担がきちっとなされていて、その常識をゲーム業界に持ち込んだというのは、松浦さん含め我々はそういう音楽制作的な感覚できているわけだし、作っている側とその環境を用意するというキャッチボールができてたと。
僕はサウンドのプロデューサーとして関わったんですが、どのあたりで深く関わったかというと「どうやったら音楽ゲームが面白くできますかねえ」っていう相談を受けまして。
 初代PSはSFCと同じサウンドチップなんですけど、2chステレオしかできなかったところを、CDに音を圧縮すれば8チャンネル出せる。これならおんなじ時間軸の中で音を上げたり下げたり、GOODとかBADとか評価ができる。評価があればそれはゲーム的要素になるね、となった。音楽スタジオでよく使われていたポン出しみたいなもんで、ポンと押ししたら音が始まる。それをもっとサンプラーみたいなもので遊んでみようと。これをゲームに持ち込んだら、というようなキャッチボールの中で、松浦さんがグイグイ引っ張ってくれました。あと、ビジュアル的なことで言えばロドニー(グリーンブラッド)との出会いは大きい。彼の絵の引きの強さですよね。そういうなかでたぶん良い感じでシンクロナイズして出ていた。

黒川 新しいファン層を開拓したとも言える。ゲームユーザーの裾野を広げたのはPSの功績だと思っていて、それを大きく牽引したのが『パラッパ』のようなキャラクター性もあって、新しいアプローチのゲームっていうのがあったんじゃないかと。

赤川 あと、単純に画面の表示に合わせて×ボタン押す、○ボタン押すっていう簡単なルールも良かった。ここから派生したいわゆる音ゲーはたくさんありますが、この作品が原点です。そういう意味でもイノベーティブな作品でした。

藤澤 松浦さんが音楽業界でひとつ道を極めていたので、そのアイデアをうまいこと転用するのに成功しました。左から右に時間軸が流れるっていうのは、音楽編集ソフトのインターフェースとして普通に使われていた。それをうまいことを仕上げるた。それをゲームにするっていうのがイノベーティブだったんですね。厳密にいうとそうじゃないかもしれないけど、あるところで1という評価だったものが別のところに持っていったら100という評価になったという例なのかもしれない。

黒川 最近のことですけど、まさにSNSゲームにおいて、システムやビジュアルを盗用された、いやうちのがオリジナルだというような主張を展開しあう事例があるわけですが、PSの時代に音ゲーが作られていた時のことがあった上での現在なのですから、当時を知る人からすれば、何をか言わんやといったところですね。

赤川 『パラッパ』後に出てきたさまざまな音ゲーについて、アイデアを盗用されたって主張するつもりなんか、関係者の中にはそんな気全然なかった。

藤澤 そんな気さっぱりなかった。僕らは出来上がったもののことは忘れて次のところに行っちゃってたから。へぇ~、そうなんだ~ぐらいで。なんか、他人事みたいな感じでした。

赤川 その後、リズム系のゲームはゲーセンで大きな成功を納めていきますね。

黒川 太鼓を叩くゲームとか、足で踏むゲームとか、うまくいろんなかたちで昇華されていってます。ゲーム業界の進歩のために共有されたと考えるのが正しい。

赤川 ゲーム業界ってそういうことをずっと続けてきた歴史がありますから。横スクロールアクションって、どこかが特許を持っているらしいですけども、その権利者が「他のところに横スクゲーム作らせないぞ」とは言わなかったわけじゃないですか。アイデアをゲーム業界全体のものとして考えるのがいいだろうと。
 『パラッパ』がそうした、あるジャンルの原点であったということは、みなさんぜひご記憶いただくとして(笑)。

黒川 そういう新しいアーティストを多くPSに連れてきたのはイノベーティブでしたね。PSY・Sの松浦さんをはじめ、『DEPTH』の渡辺善太郎さん(ex.詩人の血。Charaやhitomi、salyuの楽曲プロデューサー)、『グルーヴ地獄∨』で電気グルーヴ・・・、アーティストをゲーム界に取り込んでいこうという気運があったんですね。

藤澤 イノベーティブって多分、人のことなんです。いかにその人がのびのびとものが作れる環境を提供するかっていうのがビジネスの肝でしょうし、面白いことが起こせるんですそっちのほうが。

黒川 企画書だけで仕事ってするもんじゃないですよね。人は人と仕事するものなので。僕は仕事っていつでも人の顔をしてやってくるものだと思っていて、・・・ま、結果的には企画書が作られるんだろうけど、きっかけは出会いだったり、その人のポテンシャルをどう引き出すかってことがイノベーションにつながるんです。

藤澤 そうですね。制作の部長をやっている時に年に何十本もゲームの企画書に目を通したんですけど、同時にやっぱり持ってきた人の顔、人柄もみてました。頑張って作ってきてくれた企画書だから、当然それも読んだ上でね。

消費傾向の変化とクリエイターの気概

黒川 最近はツールが色々便利になって、パワーポイントを作るのが仕事だと勘違いしてる人がいます。どうやって人を感動させるか、どう楽しませるかが音楽やゲームの原点だと僕は常に思っていて、このところ、資料ばっかりすごくて、じゃあ実質なんなの、っていうと、一枚でシンプルに語れなかったりするんですよね。ところがこうやって実際に出来上がったものを見ていると、画像とか動いているものだけで納得してしまうくらいの説得力があるとおもうんです。それを実現したのが当時のソニーさんであり、今に流れる一つの系譜なのかなと思うんですよね。

赤川 こういっちゃうとミもフタもないんだけど、時代が良かったんですね。

黒川 たしかに、そう思います。

赤川 ハードの転換期、制作方法の転換期、業界のビジネスモデルの変革期でもあったから。結構好き勝手にやらせてもらったよな藤澤。

藤澤 そうですね。好き勝手にやらせてもらいました。

丸山 20世紀って常に進歩進化っていわれてたから、やってる方もその夢を実現するだけでよかった。家電はどんどん便利に、車だったら乗り心地とかどんどんよくなっていった。21世紀になって難しいのは音楽の場合、SACDのようなリッチデータの再現性高める方向じゃなくて、MP3が流行ってしまった。音質は、理論的にはCDより悪くなってるわけでしょ。いまのソーシャルゲームだってコンソールゲームに比べたら基本的にはものすごく・・・ねえ。
 で、なにがキーポイントかっていうと、高級感、いいものよりも簡単で便利、早さ、安さとかそういう方に消費の傾向が変わっていったんだ。そしたら作る方向が変わっちゃうわけじゃないですか。いまそこが難しいところで、僕らがゲーム作り始めた90年代は「2Dじゃなくてこれからは3Dだよね。この映像のキメの細かさ見てよ! 他の機械じゃ再現できないゼ!」「うん、いいね! いいね!」ってみんな価値観を共有できたけど、いまじゃリッチなもの作るだけじゃそんなこと誰も言ってくんないよ。

黒川 いまとなっては美麗なCGはスタンダードになってしまいましたからね。

丸山 成熟するっていうのはそういうことでもあるんだ。とにかく美味しいもの、じゃなくて簡単手軽なファストフードでいいんだもん。人間の感覚は贅沢なもので。クリエイターはなにを目指して作ればいいか見えづらくなってる。

藤澤 食事も大体1日3回くらいしか食わないのなら、どうせなら美味いもの食いたいっていう感覚、今はないんだなあ。

丸山 そんなにうまくもの食わなくてもいい、っていう時代なのよ今。

黒川 車乗らない、金使わない、彼女いらないとか、へんなストイックさが主流になりつつあります(笑)。モノが満足に手に入らない時代から経済成長期を経て、僕らなどはマニュアル世代といわれて、『POPEYE』読んで車やファッション、旅行に映画といろんなものに憧れました。いまは目の前にスマホがあってゲームも音楽も服もなんでも手に入る。僕らが育ってきた時代と今とでは前提条件が違いすぎますね。

丸山 雑誌やテレビで情報を見て、現物や実物にふれるまでにタイムラグがあったけど、いまねえんだもん。

黒川 昔はジーパン買うにもアメ横だとか原宿のビームス行かないと手に入らなかったけど、いまはどこでも買えちゃう。

藤澤 何かにたどり着くために、昔は雑誌買うところから始まったのに、今はブラウザ立ち上げりゃなんでもわかるし、なんでも手に入る。数時間もあればちょっとしたプログラム組めちゃったりするし。イノベーションってその中からでも何かしら出てくるだろうとは思うんですけど、だったら、この状況の中でなにを生み出していくか、ってことが重要になってくる。

黒川 ビジネスはいま、どこも厳しい状況です。大盛り上がりだったソーシャルゲームも、コンプガチャ騒動でややトーンダウンしています。新しいゲームや新しいエンタテイメントはそれでも生まれてくると思うし、そうあって欲しいんです。御三方はエンタテイメントはこれからどうあるべきか、思うところがあれば是非お伺いしたいのですが。

丸山 かつて、映画がすごく全盛だった頃にテレビが出てきて、テレビは気楽に楽しめていいよね、映画はなくなっちゃうねって言われたことがあった。ラジオだってテレビに取って代わられると思われてた。けど、映画もラジオもあり続けてるじゃん。エンタテイメント業界で、なにか新しいものが出来たから古いものが完全に無くなっちゃったていう事例は俺が知る限りそんなにないんだ。どんどん細分化して広がっていってるだけで、消えるものはない。
 ゲームの世界も同じで、コンソールだって作ってる限りなくならない。今大事なのはコンソールゲームを作り続けること。予算がないならないなりに、考えてやっていくしかない。コンソールゲームを作り続ければ、それが文化として残っていく。昔みたいに儲からないって思っちゃっちゃあおしまいなんだ。文化って、作り続けるから文化になるんだ。儲かるから文化、ではないでしょ。儲けのあとにも文化として残るものにしたいんだったら、今苦しいかもしれないけど作り続けて欲しいな。そうすることで、22世紀に残る文化になると思うよ。

黒川 僕は今の言葉にすごく心動かされました。

赤川 そんな簡単に動かされちゃうんですか(笑)。

黒川 いやあ、やはり丸さんの言葉は重みが違いますよ。僕のルーツは音楽業界なんです。レコード会社に入って、プロデュースやディレクションをやりたかったんです。就職して最初は地場のレコード店を営業で回ってたんです。その頃丸山さんはプロデューサーとしてすごく有名な方だったし、業界誌のインタビューを受けているのを読んだりしてすごく憧れていたんです。僕もいつかは丸さんに会いたいと思ってたんです。結局、違うかたちで丸さんには出会うことになるんですけど、丸さんがこうして今もエンタテイメントの世界に現役で関わっていて、そういう考えをお持ちだっていうことに、感銘受けたというか、・・・感動ですよね。では、藤澤さんお願いします。

藤澤 SCEやめて久しいのでうまくいえないかもしれないけど、外に出て思うのは、あの会社には今でも優秀なやつがいっぱいいるんですよ。じゃあゲームのために、これからどうすればいいかっていうと、丸さんが文化っておっしゃいましたけど、やりつづけることですよ。
 『高瀬舟』とか『曽根崎心中』って読んだの覚えてますか。たぶん・・・、

(丸山、藤澤の肩をチョンチョン)

藤澤 え、なんですか? 

丸山 あのね、先週、パルコで『其礼成心中』っていうのを見た。

藤澤 え・・・、ギャグですか? 軽いなー(笑)。

丸山 三谷幸喜の舞台で、そういうのがあるの! ギャグっていうか、パクリだよね。

藤澤孝史

藤澤 ・・・パクられるってのはまあ文化になった証ですよね(笑)。原点へのリスペクトがあるかどうかっていうのが大事で・・・。
 えっと、何の話だっけ。つまり、いいものの本質って時代や場所も越えていくんです。他業種の話なんですけど、ひとつ事例を出します。中国でブライダルビジネスが盛況で、しかけてるのは日本のブライダル関係者らしいんです。嫁いでいく時に、オカンありがとうっていう気持ちを演出したら、当然みんな泣くわけですよ。このメンタリティに日本も中国も関係なくて、国境も越える。元来中国には日本的な結婚式演出がなかったそうですが、それでもです。
 技術はいずれサチュレーションしてくるし、飽和してそのうち飽きられてくるんだけど、残るものってのは必ずある。残るものには本質があるだろうと。ショパンみたいな宮廷音楽も、いまポピュラーなものとして時を越えて残ってる。音楽も映画もテレビもそう。多分ゲームもそうなるんです。総合芸術ですから、うまく噛み合えば他のメディアよりも強い何かを残すことができるかもしれない。ずっとその気持ちを追い求めていくのが大事だと思うんです。その姿を見てくれてる層は、必ずいるから。ものづくりに情熱持った人が出てこられる環境づくり。業界全体の空気というかな、それが大事ですね。
 我々はひとまわりもふたまわりもして、酸いも甘いもだいぶわかってきちゃったけど。別に、ものづくりに未来がないなんてことは全然なくて、ただそうなっているようにみえるだけ。メディアがそういうふうに書き立てているだけかもしれない。ここで深呼吸して、周りを見渡してみると何も変わってないんじゃないかって思います。

黒川 もの作りへの入り口も多様化してきて、チャンスは増えていると思います。ニコ動なんかもその例。入り口も出口も多様化しているんです。

藤澤 そうですね。それはすごく感じます。あと、『パラッパ』の松浦さんもそうだけども、アプローチがタイムリーであること。これは絶対外しちゃダメなんです。
 いまドリルスピンっていうサイトでコラムを書いてるんですけど、またひとつ例を出しましょうか。あるCDショップで、前年比4倍売れた店ってのがあるんです。このCDが売れない時代にですよ? 何をやったかっていうと、パッケージもディスプレイも外してただ試聴出来るだけにしておくんですって。

赤川 それ、新聞でみたよ。残響ショップでしょ。

藤澤 みんな本当に自分の耳で感じて、いいと思ったものをレジに持っていくんですよ。レジに持って行ってはじめて裏からパッケージ持ってきてはいどうぞ、となる。

黒川 紀伊国屋書店も似たような試みやっていますね。冒頭の文章だけみせて、買ってくださいっていう方式。

赤川 残響ショップは、洋楽しか買ったことのない人がそこでJPOPに手を伸ばしたりするんですって。

藤澤 売り方、買い方にいかに先入観が影響していたかっていう証左でもある。そんなふうに、届け方もユニークになってきているのだから、それを最大限利用すればいい。やり方だと思う。

黒川 ありがとうございます。では、赤川さん。

赤川 最近、そういう傾向が多いと思うんだけど、なにかひとつヒットが出ると、それを真似したりしがちじゃないですか。

黒川 後追いとか真似っぽいの、多いかもしれないですね。

赤川 それだと、当然刺激は少ない。あれとあれが流行ってるから・・・ってそろばん弾いて計算したところで、売上もそこそこのものになってしまう。ユーザーはエンタテイメントに何を求めるかっていうと、驚きなんですよ。今までに体験したことのないものを見せられると、それにびっくりして、お金を払おうかなって思えてくる。そこを信じて行かないとダメです。
 手前味噌なんですけど『アーク・ザ・ラッド』の時のことです。音楽畑から来たので、CDメディアなら、テーマ曲に生音が使えるというのがわかって、これを生かさない手はないなと思いました。それをロイヤルフィルオーケストラに頼んじゃおう、ってことになりまして、実際にやっちゃったんです。その曲をここで聞いてもらおうと思ったんですが・・・

黒川 CD忘れてちゃったんです、この人(笑)。

赤川 そういうとこが最近の私っぽいんですが(笑)。今でも聴くとすばらしいわけです。曲はT-スクエアの安藤正容さんが素晴らしいものを作ってくれました。世界のロイヤルフィルで録音したらそれが話題になって、テレビでも取材を受けました。あれはひとつの成功例だったと思います。ゲーム音楽に手間と暇と金をそこまでかけるのは当時新しかった。これはひとつの例ですけども、人をびっくりさせるようなことを打ち出していく。さぞ大金をかけたと思われるかもしれませんが、今にしてみればそれほどの多額の予算でもなかったですよ。
 まだいろんな所にチャンスは落っこちていて、こういうことをやったら皆びっくりするんじゃないかなって、考え続けることがクリエーターやプロデューサー、業界人の仕事なんだと思います。数字や売上のことだけ考えてものを作っても、新しいエンタテインメントは生まれてこない。そのことだけは言っておこうと思います。

黒川 今日はゲームに関わるお仕事をされている方が多く来場されているので、いろんな意味でヒントになる話が聞けたとおもいます。
 先程もあったように、娯楽は細分化されているだけで、新しいものは常に生まれてきたわけです。一つすごいものが世の中に出てくると、そのジャンルはもう打ち止めかっていうとそんなことはなくて、何年かするとすぐ新しいイノベーティブなものが生まれてくる。その繰り返しなんです。
 世界的な発明って、実は同時多発的にうまれるものだったりもします。産業革命を牽引した蒸気機関車はジョージ・スティーブンソンが作ったと言われていますが、同時期に他の発明家がいろんなところで蒸気機関を作っていて、誰が最初、というのは難しかったりするんです。そういうエポックって世の中に出てくる時は、同時多発的に出てくるものなんです。コンソールゲームにしてもなんにしても、エンタテイメントは新しく生まれ変わり、新陳代謝していく。そんな新しいアプローチを、この客席にいる誰かが生み出してくれるだろうし、今日のパネラーの皆さんもそれを楽しみにしています。

藤澤 僕らはこうやって頑張れって激励する立場でもあるんですけど、・・・そんなに頑張らなくてもいいから(笑)。

黒川 あ、そうですか(笑)。

藤澤 まったくの新しいものなんてそうそうないですよ。結局は何かしらの影響を過去のものから受けていたり、何かの拡大再生産だったりします。奥田民生を聴いてビートルズのパクリ? っていわないですよね。カッコよければそれでいいじゃないかと。

黒川 ああ、それはそうですね。

質疑応答

質問 大学でゲーム研究をしているものです。丸山さんのご指摘のように、テレビが普及した現在でも映画はたしかに残っています。現在のソーシャルゲームとコンソールゲームもそのような関係にあると思うんです。先ほどの日本映画の例でいうと、映画の作品の質は全盛期に比べたら落ちているといわれます。つまり、ハリウッド的な影響力が強すぎてコンソールの開発力も海外に負けてしまうんじゃないかと。

丸山 う~ん、そう思ったら・・・そうなっちゃうよねぇ。

(会場笑)

丸山 そういうことだとおもうよ俺。アメリカの人たちはショボくれないでがんばったわけ。日本の映画スタジオは不動産屋みたいになっちゃっている。松竹も・・・。

黒川 歌舞伎と不動産ですよね。

丸山 負けてしまうんじゃないですか、っていわれるとぼくらの後輩のSCEや、京都の任天堂さんたちがそのまま諦めてしまったらそうなっちゃう。気持ちの持ちようで勝つか負けるか、それくらいの開きができちゃう。そんな事言わないでがんばろうよって、僕らは言うほかない。どうぞみなさんもそう応援の声を上げてくれたらと思う。

赤川 戦略も大事ですよね。家電も今同じ状況。戦略ミスをすると悪いほうへ行ってしまうかもしれなくて・・・

丸山 いや、俺は精神論でいうけどね、戦略とかそんなもんセコいって! 

赤川 そ、そうですか(笑)。

(会場笑)

丸山 絶対負けないっていう気持ちを持つかどうかなんよ。なんとなれば、俺は映画が好きなんだから、俺はゲームが好きなんだからっていう、そういう強い気持ちがなきゃ、戦略なんか立たねえって! 

赤川 もちろん気持ちが大事っていうのはありますけど(笑)。


質問 イノベーションはこの瞬間も世界中で生まれていて、ひとりの特別な人が生み出すのではなく、ネットやクラウドで集められた知識やアイデアによって生まれていると思うんですが、そうなってくると、どの瞬間からがイノベーションで、どこからが誰のイノベーションになるとおもいますか。

藤澤 難しい質問ですね。ちょっとわかんないな俺も(笑)。たとえばニコ動で出てきた作家の人たちもひとつのイノベーションをしたわけですよね。彼らが目の前にある道具で、何か表現したいと思ったからやった。やりたいからやってた。そこに理屈や戦略ってなくて、・・・丸さんじゃないけど、俺もわりと精神論者だからそう思うのかな。

黒川 今日の壇上、四人とも精神論者ですから。

赤川 いや、僕はそうでも・・・。

黒川 違います? 

赤川 いや、なんでもないです(笑)。あと、スティーブ・ジョブズなんかみても、彼一人でiPhoneを生み出したわけではないですよ。アップルという会社の中で、いろんな人といろんなやり取りの結果生まれてきたもの、その総体がイノベーションになった。そこを気にしても意味ないかなって。

藤澤 方法論や形にこだわってもしょうがないかもね。


質問 趣味でオールドゲームを蒐集しています。ファミコンやメガドラの頃から保存してます。プレイステーションのようなディスクメディアまでならば、媒体があるので保存ができたんです。しかし今後、データ配信が主流になると、いかに作品が優れていても、物理的に保存ができない。ソーシャルゲームやオンラインゲームも、ビジネスとして終わってしまったら消えてしまいます。サーバーを別立てして構築するとか、相当な手間と労力が必要なので個人で維持することは現実的ではありません。オンラインゲームは特に一度終わってしまったら、環境を再現できないので、文化を保存していくという観点で難しさを感じています。そのことについてどう思われますか。

黒川 刺さりますね、その質問。

藤澤 それはもう、記憶に残すしかない! 

(会場笑)

黒川 旅行に行ったりしても、写真にとらずに心の目でっていう方法もありますから。

藤澤 テクニカルなことをいえば、サーバー上にデータがエンティティとしてあるわけだから、可能だと思う。いま初代PSのソフトが配信販売されています。昔が考えられないようなことが今できているのだから、やりようはあると思います。だけど、まずは誰かの記憶に深く刺さってないとダメですよね。

赤川 たとえば、○○年の何とかっていうゲームのことについては、あなた(質問者)に聞かないと分からない、みたいな口承の伝え役みたいなのを目指すのも手ですよ。たとえば、もはや誰も見たことのないかつての白黒映画を、淀川長治さんだけが記憶の中に保存している、なんてこともありますから。

黒川 いつか質問者の方にオールドゲームの評論家としてこの壇上に立ってもらう時がくるかもしれないです(笑)。


黒川 アッ、次の方は僕の知り合いです。

質問 野村といいます。今日の壇上の皆さんとはゲーム雑誌の編集者として親交がありました。先ほど話された、次世代機戦争といわれたあの時代、なぜPSが勝ち、サターンが負け、さらにソニーは任天堂の牙城を崩すに至ったのか。当事者の方にそれぞれの勝因と敗因をうかがいたいと思います。

藤澤 おぅお。いい質問来ましたね。じゃあ僕らが当時、勝つと思ってやっていかたというと、必ずしもそうじゃないんです。ビジネス的には、スクエニさんが参入してくれたとかいろいろあります。でも、冒頭話しがあったように、いろんな人にやめとけといわれてもそれでもやりたいからやってたわけでね。勝算があったわけじゃないけど、負ける気なんてなかった。そこの気持ちの揺れはなかったです。正直、よくわからない。

赤川 難しい質問ですね。一般的にはFFが来たからです。それは坂口博信さんがなんて答えたかっていうと「だって俺作りたかったんだもん」。っていうことだったんじゃないかな。FFという影響力を持つソフトのクリエイターが、PSで作りたいと思わせたというのが大きい。

丸山 ・・・いや、いまずっと考えていたんだけど。勝因、、なんだろうね。二人も言った通りビジネス的に言えばFFが来てくれたってのがものすごく大きくて、それが境目だってのは間違いない。じゃあそれ以前はどういう気持ちだったのかっていうと、勝てるという確信はなかったけど、負けるとも思ってない。だってはじめちゃったから、後に引くわけにいかないじゃん。赤川の本にもかいてあるけど、PSのチップ、一〇〇万台ぶん発注しちゃんたんだよ百何十億円かけて。それ前払いしちゃってるから、やめるにやめられない。もし30万台しか売れず、70万台余っちゃったらただの石ころとして残っちゃってはなしじゃない。何が何でもやらなきゃいけない、もう、たったそれだけの話だものね。俺の立場は。

黒川 その総司令官だったわけですものね。ではセガ側だったわたしから。ソニーさんは総合家電企業だけれども、ゲーム業界的には退路がなくて、セガにはアーケードとかアミューズメント施設、いろいろなチャンネルがあった。セガは家庭用ビジネスも大事にしていたけど、他にも色々あったことが逆に影響したのかなと思います。
 それと、アーチストを大事にしてきたことはやはり大きいと思うんです。坂口博信さんが作りたいと思ったこと。もしかしたらマージン払って、ファーストパーティとして優遇したのかもかもしれないけど。

赤川 そういった事実はね、・・・ないんですよ。

黒川 ただの噂でしたか。この場で改めて否定しておきます。あと、最大の敗因は、個人的には僕がセガをやめたことで、セガの戦略が変わってしまったからではないかと。

(会場笑)

黒川 冗談です(笑)。さて、いいオチがついたところで、今日はお開きとしたいと思います。
 皆様が今日ご来場いただいたのもひとつの勇気だと思います。何かをはじめる時はいかにアプローチし続けるのかがポイントだと思っています。今回のきっかけは、ファミ通で赤川さんのやっていた「80sヒーロー」に出たいって僕の方からメールしたところからなんです。僕もセガでゲームの宣伝を変えた男なので出してください、って厚かましくもお願いしたんです。そしたら「もう取材は終わってます」っていわれてしまったんですが(笑)、そこから赤川さんとのお付き合いが始まりました。もちろん丸さんとの昔の付き合いもありました。そしてそのはるか以前に赤川さんとも一度会っているのですが、このメールがなければ今回のリユニオンもなかったわけです。
 そういう新たな何かのきっかけづくりの場として、このあと懇親会をご用意しております。皆さんふるってご参加ください。本日会場を提供して下さったサイバーエージェント・ベンチャーズさんにも御礼申し上げます。

2012年8月31日 於 サイバーエージェント・ベンチャーズ

左から 黒川文雄 赤川良二 丸山茂雄 藤澤孝史 (敬称略)

黒川塾 弐

2012年10月12日 発行 初版

著  者:黒川文雄
発  行:ぺら出版

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黒川文雄

東京都生まれ。
大学卒業後、アポロン音楽工業に就職。
ギャガ・コミュニケーションズ
セガ・エンタープライゼス
デックスエンタテイメント
ブシロード
コナミデジタルエンタテインメント
NHNJapan
とエンタテイメント企業で活躍。
営業、宣伝企画から販売、コンテンツプロデュースまで、その経歴は多岐に渡る。
コラム、ブログなどを通じてメディアコンテンツ研究家としての顔も持つ。
エンタメの未来を考える会 「黒川塾」主催。

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