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しこり 2012年11月号

   目 次

 【新連載】
 『遠路』      藤本諒輔

 【短編】
 『ざりがに』    枡田佳奈枝
 『僕の彼女』    長谷川智美
 『今日も空は青いか』篠田郁美

 『きっと間がないのね』
           吉川浩平
 『暗い部屋で三角座り』
           あくた

 【連載】
 『光虫』 2    喜田悠太

  『遠路』
         藤本諒輔

   1 全体の話

 道を歩くとき、特に慣れた、自宅から駅までの道のりでぼくは実に多くのことを考え忘れてしまう。家に一番近い信号には毎朝、警察の制服を着た中年の女性が立っていて、あってもなくてもいいような交通誘導をしている。その人はぼくがほんの少しでも横断歩道を踏み外すと怒るのだ。そして雨の日にはいなくなる。あの人は本当に警官だろうかと考える。あの人は警官の恰好をしたただのおばさんなのではないか。しかしどうだろう、本当の警官とはなんだ。本当の警官が制服を脱ぎ、一般人が制服を着たとして、それはどちらが警官なのだろう。
 どっと汗をかく。ぼくは工場で働いている間ずっと汗をかきつづけているような気がする。それはとても幸せなことだ。汗をかけば働いているという実感が得られるからだ。大量のタマネギを巨大なプールに浮かべ、それらに泥のような焦げ茶色の液体をかけるのが、ぼくの、工場での仕事だ。それが工場にとって、社会にとって、どのような役に立っているのかわからない。だがぼくは言われたとおりにやり、たまに今日は良かったと褒められ、それで毎月いくらかの賃金をもらうのだ。
 タマネギは一定量の泥を浴びると沈んでしまい、どこかへ流れていくらしい。ぼくはタマネギに乗って旅をする。タマネギの皮がどんどんめくれてしまう。ぼくは必死にしがみつく。タマネギは小さくなっていき、それに伴ってスピードをあげていく。どこへたどり着くのかは想像できなくて、そこでやめた。そうこうしているうちに外は暗くなる。終業の時間だ。工場の周りは外灯が少ししかないために、夜はかなり暗くなる。さかんにこうもりが飛び交い、野鳥の声、虫の臭いがもくもくと立ちあがる。ぼくは歩いて駅へ向かう。もやもやのなにかがついてまわるような心地がして振り返る。これはいつもなのだ。実際にはなにもついてこない。これはぼくが嫌なことを考えてしまうことが原因だ。
 ぼくは嘘をついてしまっている。ぼくは普段、自分のことを「ぼく」と呼んでいない。文章という形式の中では、なぜか「ぼく」が似合ってしまうのだ。工場でタマネギに泥をかけている人間が、自分のことを「ぼく」なんて呼ぶはずがない。どっ、ここでも汗をかく。嘘をついていて、その嘘を告白するとき、人は多かれ少なかれ汗をかくのではないだろうか。ぼくは今タマネギに、もみくちゃにされ、涙を流しながら、これを書いている。これは比喩だ。家へ着いて、タマネギを切って、鍋に入れた。そのときに出た涙だ。
 工場にはヨシタクという男がいる。彼は小柄だが、妙に人を萎縮させるような雰囲気を持っていて、工員の多くに怖がられていた。大のアメリカ好きで、革ジャンをぴったりと身に着けてハーレーにまたがるのがなによりの幸せだといつも言っている。一回りも年上のヨシタクとぼくは気が合った。ぼくは小柄でもなければアメリカ好きでもなかったが、彼と友だちなのだった。ヨシタクは気が向くとぼくに缶コーヒーを買って飲ませてくれる。当然ブラックだ。彼はいろんなことにこだわりの強い男なのだ。
 タマネギが煮えている。職場では泥をかけ、家では煮る。不思議なことをしていると思う。ことことと煮込めばタマネギは甘みを増して、そのままスープになる。このままじっくり煮こむ。煮えるまで、こうして、ぼくは書くのだ。
 母は今ひとりで暮らしている。ぼくが工場へ勤め始めてしばらくして離婚した。ぼくや兄と住むつもりもないらしい。家族はみんな離れて暮らしていることになる。特別なことはなにもない家庭だったし、こうなったことを悲しんでもいない。もちろん連絡は程よく取る。なにか祝いや、不幸があればすぐに駆けつける。家族というものは、離れても家族なのだ。とりわけ母はそういう思いが強い。今は子育てや夫婦というしがらみから抜けて奔放に生きているが、すぐにまた落ち着いてしまうだろう。母は、母である以前に堅実な女なのだ。
 ことこと、ことこと、くつくつ、ホールトマトを買っておけばよかった。タマネギが煮えて、ぼくは書くことに集中できないのだ。

   ー続ー

 『ざりがに』 
         枡田佳奈枝

 いってらっしゃい。そんな声が聞こえてきそうな勢いで、水槽の中のそれは雄々しく二本のはさみを振りあげた。両手でブイサイン。それを高く掲げて、私も薄いガラスの向こうにいる彼に見せつける。私の方が立派だ、とでもいうように、お互いにそのまま動かない。
「何してんの」
 背後から突然かけられた声に、わっと小さく声が出た。いつの間に後ろにいたんだろう。気付かなかった。
「別に、何も」
 驚きで震える声を押さえつけて、素知らぬ顔で振り向く。あきれたような、興味がなさそうな、そのどっちともつかない表情で、後ろに立っていた彼はじいっと私を見つめている。なんと居心地の悪いことか。
 ふうん、と鼻で返事をしながら、奥の部屋へと行ってしまう。私もそれに続いて部屋へ戻る。元々彼一人で過ごしていたこの空間には、未だに彼のものばかりが散乱している。私のものなんて、ほとんど見あたらない。
「ざりがに」
 随分経ってから、ぽつりと彼が呟いた。一瞬、突然すぎて何と言ったのかわからなかった。
「ざりがに、怖くないの」
 さっきから読みふけっている漫画から目を離すことはせずに、けれどそれは確かに私に対する問いかけだった。
「今は、ね。住み始めた時は怖かったよ」
 もう慣れた、と言えば、またふうんと鼻だけの返事が返ってくる。自分から質問してきた割に、私の答えなんて気にもしていない。いつだってそうだ。だから、私も気にしない。これが私たちのいつも通り。
 何をするでもなく、部屋で二人ぼんやりと過ごす。彼はまるで、一人で生活しているかのように、自由だ。私の存在は、彼の中でどれだけの価値を持っているかなんて、測ることすら躊躇われる。
 未だ漫画から離れない彼の隣で、何を見るでもなく携帯をいじっているのに飽きた私は、再びダイニングの隅に置いてある水槽を見に行った。真っ白な、手のひらサイズのざりがにが、二匹。割れた植木鉢のようなものの陰に、いつも一匹入っている。私が密かに「しのび」と呼んでいる方だ。いつも隠れてばかりなので、適当に名付けてみた。初めて見たときはビジュアルが気持ち悪く、見るのも嫌だった。なので、名前でも付けてみれば好きになれるんじゃないかと思った。

 相変わらずしのびは私に向かって、高々とブイサインを送り続けている。透明な水の中にゆらゆらと揺れる、長い二本の触覚がとても穏やかな気持ちにさせる。その根元のあたりで、ビーズのような小さな双眼。どこを見ているのだろう。じっと見ていると目が合った、ような気がした。
「そんなにブイサインして、私のことが好きなのね」
 まじまじと水の中を眺めながら語りかける。返事はない。当たり前だけれど、それがなんとなく寂しい。
「むしろ嫌われてるんじゃないの」
 またも背後からの声に驚く。私が離れると、決まって側に寄ってきてはこうして驚かされる。本人に自覚はないようなので、特に何も言わないけれど。
「どうして。いつも手を挙げてくれるんだよ」
 両の手を雄々しく振っているしのびを指さして、彼に抗議する。こんなに仲良く過ごせるようになったのに、どうして嫌われてなどいるものか。
「こいつらはさ……ざりがにはさ、こうして手を挙げるっていうのは、威嚇しているってことなんだよ」
 水槽の横の棚を漁りながら彼は淡々と話す。独り言みたいだ。三回に一回は、彼の声は語尾に向けてフェードアウトしてしまう。
 あったあったと、何かを取り出した彼の右手をのぞき込む。つんと、鼻をつく鰹節のような香りがした。
「餌」
 じっと手のひらの中のそれを見つめていると、彼は私の右手にその茶色の玉を数個乗せた。金魚の糞みたいだと思った。
「餌、あげたことないでしょ」
 水槽の蓋を半分だけ開けて、彼は私の目をじいっと見た。しのびみたいに、どこを見ているのかはっきりとしない。それが怖い。全て見透かされて、私の中の汚いところまで全部全部知り尽くされているかのような錯覚を、いつだって感じている。
 彼の目を見ないようにして、ぱらぱらと水面に玉を落とす。ゆっくりゆっくり、しのびのところへ落ちていく。
「見てるだけじゃ、向こうも警戒するんだよ」
 監視されてると思うのかもね、なんて真顔で言う彼に笑いそうになってしまう。それは、あなたも同じだ、と。
 一緒に住もうと言ったのは彼の方だった。けれど、彼は私が居ようが居まいが、自身の生活スタイルを乱すことはない。私を部屋という檻の中に入れておけば、それで満足なのだ。じいっと見られる度に、動物園の檻の中にいる気持ちになる。
 懸命に茶色の玉を貪るしのびから静かに視線を逸らした。見てるだけじゃ、警戒される。私にとっての餌は、いつ与えられるんだろう。すでに部屋に戻りかけている彼の背中に深くため息を吐いた。

   ー完ー

 『僕の彼女』 
         長谷川智美

「ちゃんと、って、何よ」
 そう言って彼女はアイスコーヒーをストローで掻き回している。僕は何も言わず、同じように黒の透明をぐるぐると回していた。
「大体さ」
 やっぱり彼女は独り言のように話し始めた。相槌は打たず、静かに愚痴を聞いてやるのが僕のポジションであった。栗色のショートヘアが顔の小さい彼女によく似合っている。強気な眉が片方だけつった。
「ちゃんと女らしくしろってさ、一体だれのためにある言葉なのよ。少なくとも女のためではないわよね」
 どうやら会社で何かあったらしい。彼女がこう理屈っぽくなるのは大体そうだ。僕は首だけを傾げて何も言わない。彼女はふうっ、と、ひとつ息をついてコーヒーを飲んだ。
 僕らのデートはいつもこうで、彼女はずっと愚痴を言い、僕は黙って聞いている。一時間もすれば彼女はすっきりした顔でグラスに残った氷を噛む。それを見て僕はいつもほっとする。
 最後にケーキを注文し、嬉しそうに頬張る彼女は、ちゃんと女の子だった。

   ー完ー

 『今日も空は青いか』
         篠田郁美

 風向きはいい。雲ひとつない青空。草原が広がる丘の斜面から見る街は、どこか異国のようだ。視界があけた景色に、何十人もの大人たちが壁を作っている。
「やめなさい!」
 大人たちが叫ぶ。オレの耳には雑音にしか聞こえない。
 後ろにいたダイチとタカヒロに向けて、手を上げずにブイサインを出す。この無言の合図に、二人は林の中から白くて大きな羽を出してくる。それに続くように、ミユキが車椅子に乗ったユウスケを連れてきた。ダイチとタカヒロが持ってきた羽は鳥の羽のようなものではなく、長方形の形をしている。それが一枚。それを取り付けるオレの傍らにあった、寝そべって乗るような形をした骨組みを組み立てる。組み立てると底面だけ長い三角錐のような形になるそれに、金具でしっかり羽を固定すると、ミユキが車椅子からユウスケを降ろしてくれた。骨組みの下には車輪がついているため、動かないよう足で固定する。
 無言の作業が続く中、大人たちは見ているだけだった。あれだけ「やめなさい!」と叫んでいたわりには、行動力のない大人たちばかりで、見掛け倒しに過ぎなかった。ああすれば、子どものオレたちがやめるとでも思ったのだろうか。
 そんな生半可な気持ちでこんなことをするとでも思っているのか。
 ユウスケにハーネスを着せると、骨組みの上に寝かせ、張られた布の上に足を乗せてやる。ずれないよう固定すると、手も離れていかないよう、軍手をはめさせ骨組みを握らせる。オレはユウスケの上に跨ぐように骨組みの上に乗ると、ユウスケの背中と自分の腹を太い紐で結び、離れていかないように固定した。ユウスケの手の上から骨組みを握り、これも離れていかないようにする。ハーネス同士につながれたこの紐が、命綱だ。
「にいちゃん、にいちゃん」
 不安そうなユウスケの声が耳に届く。
「大丈夫。にいちゃんがついてる」
 頭を撫でてやる。やわらかいくせっ毛が、指の間を通っていく。ミユキが二つのゴーグルとヘルメットを持ってきてくれた。ヘルメットとゴーグルをユウスケに装着し、自分も着ける。視界が狭まり、不安と恐怖が一度に襲ってきた。
 脈が早くなっていく。息が荒くなり、呼吸がうまくできない。深呼吸を繰り返すも、うまく空気は肺に入ってくれなかった。
「ケイスケ」
 遠くでミユキの声が聞こえた。ヘルメットにこつん、こつんと音がする。音のした方に振り向くと、ミユキがいた。
「あんたが不安になってどうするの。男でしょ」
 ミユキは怒った様子だった。声はかすかに聞き取ることができた。そうだ。ユウスケにこの不安と恐怖が伝わってしまうかもしれない。オレは大きく深呼吸をすると、前を見た。

 大人たちが壁を作ったまま、呆然と立っていた。その光景は今からオレたちがしようとしていることを何が何でも止めたくて、必死だったことを主張している。でももうその必死さはなくて、ただ目の前に広がるオレたちの行動に呆れた様子だった。
 止められない。それは誰もが思ったはず。
「ダイチ! タカヒロ!」
 準備万端のオレとユウスケを乗せた羽がついた骨組みを、ダイチとタカヒロは大人たちに向かって押した。正確には坂道の草原に向けて、だ。車輪が嫌な音を立てながら進んでいく。ダイチとタカヒロの力を借りながら、それが斜面の角度に達したとき、オレは地面を蹴り上げた。ダイチとタカヒロが手を離す。あとは重力と、オレの脚力で斜面を下っていく。
 走った。走るたび、全身で風を感じることができた。加速が十分に達したとき、走るのをやめる。風を感じる。どんどんスピードが上がっていく。
 計算して作った羽が、空気の流れをつかむ。大人たちは手も足も出せないまま、今目の前で繰り広げられている光景を見ていた。そんな大人たちの頭上をすぎる。体の重さは感じない。
 青い空が目に飛び込んでくる。下にあるオレたちの街が、異国のようだ。風が全身を包む。雲に近づいたような、太陽に手が届きそうな感覚に陥る。かつて空を目指したイカロスや、飛行機を開発したライト兄弟の気持ちがわかったような気がした。
「にいちゃん!」
 ユウスケの大きな声が聞こえた。
「なんだ!」
「空は、青い?」
 ユウスケは空を見たことがない。暗闇の中、オレや母さんや父さんの声を頼りに、ものの存在を認識している。足も動かない。いつも車椅子で感じる振動を頼りに、道がでこぼこなのか、平なのかを感じ取っている。
 オレはそんなユウスケに、空を感じてほしかった。
「ああ! 青いよ!」
 今、空は雲一つなく、オレとユウスケを祝福しているかのようだ。
「にいちゃん! 空は青い!」
「ああ! 青いよ!」
 ユウスケの目が一瞬でもいいから、光を感じることができればいい、と願った。


   ー完ー

 『きっと間がないのね』
          吉川浩平

 「間が悪いんですよねえ、僕」
 こと恋愛において、俺は本当に間が悪い。付き合う相手付き合う相手、その全てに浮気をされている場面に、ことごとくはち合わせてしまう。
 一人目は、俺のバイト先の後輩と、俺のワンルームで。
 二人目は、大学の教授と、俺も通う研究室で。噂では俺の友人も輪に入っていたらしい。
 いちばん最後は、なんと女だった。呆然とする俺の目の前で、趣味だから、と言い張る二人を前に、出る言葉も出なかった。
「はあ」
 すぐに出るのはため息だけだ。
「間が抜けてるよりはいいんじゃない」
 ねえ、どこにあるの、と続いたその声を聞いて、ちょうど切らしていたのを思い出した。
「はあ」
 出たばかりのため息を吸えるほど近くに寄ってきた唇は、部屋の暗い明かりを映していた。
「きっと間がないのね」
 重なった唇の隙間から、声混じりの上向いた息が、俺の頬をかすめてゆく。
「間男のくせに」

   ー完ー

 『暗い部屋で三角座り』
          あくた

二酸化炭素が充満していたのです。
暗い部屋で、二酸化炭素に押し潰されていたのです。
不躾な気体は部屋の隅々までじわりじわりと浸透して、あなたとわたしを困らせました。
脳みそから溢れた言葉は途方もなく喉に苦味を残して溶けていき、
泳いだ視線は絡まることはありませんでした。
二酸化炭素が充満していたのです。
きっと二酸化炭素のせいなのです。
わたしたちを困らせるのは、二酸化炭素なのです。
窓を開けにいきました。
わたしはなにもない部屋にただひとり、座っていました。

 『光柱』
         喜田悠太

   1はこちら
   2

 色別対抗リレー。
 それが例年、運動会の最後を飾る目玉種目になっていた。運動会は各学年が奇数・偶数の組でそれぞれ二色ずつのチームに分けられ、合計四つのチームで優勝をかけて争うことになる。そして最後の色別対抗リレーは、学年を問わずそれぞれのチームの選抜メンバーで行われるものだ。それだけならいいのだが……。
「リーダーはリレーに強制参加だもんなぁ」
 と、健司が僕の心を読んだようなことを言う。
 そうなのだ。各チームのリーダーはこのリレーに参加することが強制的に決められている。リーダー達が各チームの色に染め抜かれた鉢巻を風になびかせ駆ける姿は毎年女の子たちを興奮させてやまない。このシチュエーションに憧れない男がいるだろうか。いや、いない。僕を含めてそうなのだからきっとそうだ。
 ちら、と黒板に向かって必死に腕を動かす皆川梨花に目をやる。梨花は筆圧が強い担任のイエヤスの筆跡と格闘し、何度も黒板消しを走らせていた。ちなみにイエヤスというのはもちろん本名ではない。極端な短足、でっぷり肥えたその容姿から自然とそう呼ばれるようになった。今年から始まった歴史の授業では、資料集を開く度笑いをこらえるのに必死だ。
 友達に呼びかけられ振り向いた梨花のその横顔に目が釘付けになる。今まで必死に戦っていたチョークのようなその白さがまぶしい。なにか冗談を言い合っているらしく顔をくしゃっと歪めて笑う。僕もリレーでかっこよく走れば梨花に笑いかけてもらえるだろうか。
「おい」
 にやにやした健司の顔がにゅっと目の前に現れる。
「な、なんだよ」
「お前もリーダーやれば皆川に好かれるかもしれないぞ」
「皆川さんに何の関係があるんだよ」
「あれだけバカみたいな顔して見つめといてそれはないんじゃないの」と言って有り難いことに健司は僕のバカみたいな顔を再現してくれる。口も開いてたとは。
「まぁ皆川さんはどうでもいいけど、僕はやらないよ」
「そう言わずにさ」健司が横に立って肩を回してくる。「ちょっとぐらい練習したら足ぐらいすぐ速くなるって」
「……そこまで理由が分かってるなら誘うなよな」 
 たったこれだけの理由、と言われるかもしれないが、僕にとっては一大事だった。僕はとにかく足が遅い。人前に立つところまでは我慢できるとしても、大勢の期待がかかったところで他のチームの選手に牛蒡抜きにされるのは我慢ならない。僕も、もちろんみんなもそうだろう。
「お前は多分さぁ、走り方が分かってないだけなんだと思うよ。走ってる時の姿すっげぇ不細工だもの」そう言ってまた健司は僕の走る姿を再現してくれる。そんなオカマみたいな走り方だったのか。なぜか顔がさっきのバカみたいな顔だったことには触れないでおく。
 ひとしきり再現してくれたのち、健司は思いっきり僕の肩を叩く。
「そういうわけで、リーダーは頼む! 走るのはひと夏練習すればどうにでもなる。やったら絶対楽しいから」
 言いながら僕の手に鉢巻を握らせて、止める間もなくチャイムの音とともに自分の席へ健司は走り去っていった。
 途方に暮れながら鉢巻を掌でもてあそぶ。そして密かに、頭にこれを巻いた姿を想像してみる……悪くない。全校生徒の前に立ち応援の音頭をとり、チーム整列させる。クラスの方を見ればそこには僕を見つめる梨花が……
「リーダーするの?」
 ぎくっとして首だけで振り向くと、梨花が僕の掌を見下ろしていた。僕はそのまま妄想の世界から抜けきれずにしばらく固まっていたが、梨花が不思議そうな顔をしたのではっと我に返る。
「こ、これね。健司がいきなり渡してきてさ。俺もやるからお前もやれーなんて……困っちゃうよね、はは」
「健司くん、今年もリーダーやるんだ。去年かっこよかったもんね」梨花が健司の方を見る。その健司は周りの男友達にちょっかいを出して遊んでいる。梨花はそのまましばらく健司の方を見つめている。
「……やらないってあいつには言ったけど、やってみてもいいかなーなんて思ってるんだけどね!」僕は勢い余ってそう言ってしまった。しかも思ったより大きい声が出てしまって、健司にも聞こえてしまったらしい。こっちを振り向き、梨花と僕を見比べて、バカな顔をしながら頭の上に大きくマルのジェスチャーをしている。いったい何の合図なんだ。
「あ、そうなんだ」そんな健司を見て梨花はしばらく笑っていたが、僕の方に振り向く。
「頑張ってね! 二人仲良いし、きっといいリーダーになるよ」
 梨花がそう言ったところでイエヤスが教室に入ってくる。梨花は頑張ってね、と小さく両手でガッツポーズを見せて自分の席に戻っていった。
 そんなわけで、僕はリーダーをやることになってしまったのだった。ため息をつき、手元を見やる。ただの布きれのようだった鉢巻が、少しその重さを増したような気がした。

   ー続ー

しこり 2012年11月号

2012年11月1日 発行 11月号 初版

著  者:
発  行:フリーペーパー『しこり』編集部

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  『暗い部屋で三角座り』あくた
 
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2012年5月号
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