チャイムが鳴った。ばらばらと、席を立って出ていく学生たち。
二時間目が終わると、お昼ご飯の時間。この時間になる前に、朝早くに家を出てきた私は腹部からの悲鳴が絶えない。
「お昼、食べよう」
春美はいつも小さなお弁当を作って持ってきている。可愛らしくナプキンに包まれたそれが、春美の顔の横でゆらゆらと揺らされている。
「今日お弁当持ってないから、買いに行ってくる」
じゃあ着いてく、と春美はお弁当を再びカバンに戻した。なんとなく申し訳ない気分になりながら、私たちは学校の近くのコンビニに行った。
適当におにぎりを二つほど選んで、空いている教室を探す。どこも人がいっぱいで、二人並んで座ることすら難しい。少し遠いけれど、次の時間は授業もないので部室で食べることにした。
「やっぱここが落ち着く」
食べながら、春美がぽつりとこぼす。春美は人混みが嫌いだから、自分たちだけの空間が気楽らしい。部室には、今は私たち二人以外誰もいないから、一番くつろぐことのできる空間だった。
「それにさ」
「それに?」
「人がいっぱいいると、話しづらいし」
部室の中に一つしかない窓を眺めながら、春美の声を聴く。人がいっぱいいると、話しづらい。本人は何気なくそう言っただけかもしれないけれど、私はその言葉を少し嬉しく思った。
私は大勢の中で“聴く”ことはできない。周囲の音が全て雑音と認識されるように、補聴器はできている。その多くの声の中から、聞きたい声だけを選ぶことができない。それを知ってから、春美は私と話すとき、なるべく静かな場所を選んでくれるようになった。
「そういえばさ」
きれいに食べ終えた弁当箱を、再びきちんとナプキンに包む春美が、思い出したように言う。
「便所飯、って、聞いたことある?」
食べ終わった後すぐの会話に便所なんて、いきなり何を言い出すのかと思ったけれど、春美はそんなことは気にもしていない様子で、こちらを見ていた。
「ないけど。なんか、汚い響き」
便所と、ご飯。あまりいい組み合わせではない。
「まあ、言葉的にはね。一人で、トイレの個室でご飯を食べることを、そう言うらしいんやけど」
この狭い空間で静かに食べてると、その言葉を思い出した、と春美は笑った。私も笑う。うまく笑えていたのか自信がない。便所飯、と言うのか。トイレにこそこそと弁当を持ち込んだ自分の姿が思い出されて、首を振った。
中学の頃、週に一回、教室内な自由に移動して昼食を食べていい日があった。他の日はたいてい、動いてはいけないか、班で食べるので、仲の良い友人と食べることのできるその日は、皆盛り上がっていた。
私はどこのグループにも「他の人と食べるから」と断られてしまうことが常だった。でも、思春期の女子中学生が誰とも一緒にいない、というのは、子どもにとってはそれだけで大事になる。一人で食べる姿を、先生までが同情した目で眺めているのに耐えられなかった。それからは、自由の日になる度に「気分が悪い」と、カバンごとトイレに逃げ込んでいた。食べなくてもいいなら食べないでいたい。けれど、毎朝きれいな彩でお弁当を詰めてくれる母のことを思うと食べずに帰ることができなかった。
あの時の私の行為には、名前が付けられていたのかと思うと、妙な気持だった。名前が付くということは、それだけ社会でよく見られる光景なんだろう。一体何人が、こうしている間にも個室に駆け込んでいるのか。考えたくなくて、また首を振った。
「でも、わからなくはない」
ふっと、遠くを見るように、春美はまた窓を見る。部室は三階にあるけれど、ごみごみとした電線が見える程度で、あまり景色のいいものではない。
「自分の居場所がないと思ったら、一人の方が気楽やもん」
さすがにトイレは嫌やけど、と春美はまた笑った。もしかして、春美も便所飯をしたことがあるのか、と思ったけれど、聞かなかった。私は彼女の過去に関して、ほとんど何も知らない。春美も、私の過去を知らない。お互い、あまり過去の話をすることがなかった。
知られたくないこともあるだろう。自分がそうであるから、私も聞かないし話さない。けれど、彼女がトイレにこそこそ駆け込まなくていい空間を作れているのなら、それだけでいいと思った。
ー完ー
「きらきらしてるね」と言う、ユウタの瞳のほうがきらきらしていた。
「は?」
「音がさ、他の人と違う気がするんだ」
そんなユウタはトランペットを構え、チューニングベーを四拍のばす。
「アイコの音はこんな感じ」
そう言って、またチューニングベーを四拍のばした。最初にのばした音と確かに響きが違った。私たちは楽器を始めてまだ一年しかたってないのに、ユウタは吹き分けまでできるようになったのか。
「アイコは絶対、コンミスになるよ」
“なれるよ”じゃなくて“なるよ”と言うあたりが、ユウタぽかった。
そんな中学二年生。放課後、四階建ての校舎の最上階は、吹奏楽部で占領される。理科室に家庭科室。美術室に廊下。四階のすべてが音楽で満たされる。太陽が傾き、練習が終わった後、ひとり理科室で個人練習をしているときにユウタがやってきた。今はトランペットを持って、開け放たれた窓に背を向け立っている。
「んなわけないじゃん」
ユウタに中断される前にやっていたロングトーンを再開する。下のベーからチューニングベーまで、半音階で昇り八拍のばして四拍休んで。息をたっぷり楽器に流して、音が一定の速度で流れていくのをイメージして。
下校時間まであと十五分。残りをすべてロングトーンに費やすぞ。私が練習に夢中になっている間、ユウタは飽きることなく、外に向かってトランペットを吹いていた。
曲は「赤とんぼ」だった。三度の跳躍が練習できると言って、ユウタはそればかり練習していた。まだかっこいい音色にたどり着けていないユウタのトランペットは、どこか彼にそっくりだった。小学生に学ランを着せたようなものだった。それを本人は気づいているのか、部活の練習が終わっても個人練習は欠かせずやっていた。
「あのさ」
ユウタがこっちを向いた。ロングトーンと赤とんぼが止まる。音がなくなった空間に残されたのはメトロノームが刻むテンポと、運動場から聞こえる野球部の掛け声だった。開け放たれた窓から見える夕日のせいで、ユウタの顔は見えない。ユウタから見た私は、きっとはっきり見えている。急に声をかけられたさっきの表情に似た、驚いた顔をしているに違いない。
「聞いてて。今度、文化部発表会のときにやる曲」
ユウタはさっきまで外に向けていたベルを私に向けた。私の了承を得る前に、そのベルから音が作られていく。
来月に体育館で文化部の活動発表会が行われる。活動発表会と言っても、研究の成果だったり、どんなボランティア活動をしたのか発表したり。生徒会まで寸劇でプログラムに入っているくらいだ。そのトップバッターを務める吹奏楽部は、約四〇分の演奏をすることになっている。そのアンコールでやる曲のメロディーをユウタは吹いている。
“君のひとみに恋してる”。ソロではなくトランペットが主旋律を吹く部分があって、その音域はユウタにはむずかしい高音域で、どうしても詰まった音になってしまう。先輩のようなきれいな音を出すには、まだまだ練習が足りなかった。
でも、きれいなフレーズになっている。
前に一度、聞かされたことがあった。そのときよりうまくなっている。音の伸びが出てきて、あと少しできれいな音が出そうな感じ。夕日でユウタの顔は見えなかったけど、きっと真っ赤になっている。
私とユウタの貴重な時間。幼馴染で家が近所で、しかも家族同士仲がいい。幼い頃からユウタは私の隣にいて、そして一緒に成長してきた。同じ中学校に進学して、同じクラブに入って、同じように個人練習をして。私が一歩成長したなと思ったら、ユウタは二歩先に進んでいる。私がもう二歩進むと、ユウタは三歩進んでしまう。昔は私の方が身長が高かったのに、いつの間にか抜かれていて、足の速さも勉強も音楽も、気持ちも。すべて抜かれてしまう。
ねえ、今、どっちが前を進んでいるのかな。
夕日がスポットライトのように、ユウタを照らしている。後ろから当てられる照明はシルエットだけを残し、音の輪郭を明確にする。
ユウタは私を置いていく。確実に。
「ユウタ」
音楽が止まる。やっと見えたユウタの顔は高音域を吹きすぎたせいか、真っ赤になっていた。それが一瞬のうちに消えていく。
「なに?」
「いいよ。前よりいい感じ」
嬉しそうな笑顔を浮かべ、ユウタはまた「赤とんぼ」を吹き始めた。そんな体力が残っていたら、いつか高音域も楽に吹けるようになるよ。
ロングトーンを再開する。残り三分。きらきらしているのは、ユウタの方だ。
きらきら。気持ちが輝く瞬間を見たような気がした。
ー完ー
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2 全体から少し遠ざかる
こんにちはと声をかけられて、佐藤カケルは振り向く。
「こんにちは」
もういちど、その女は言った。「こんにちは」
数秒かかって、やっとこんにちはと返した。佐藤カケルはあまり愛想のいい男ではないために、とつぜん声をかけられると面食らってしまう。
その女はいつも、駅から長く緩い坂道を下りたところの、市内ではわりとおおきな交差点で交通整理していた。だからカケルは女の顔も声もよく知っていた。それでも緊張してしまうのだ。女がなぜその日に限ってあいさつしたのかはわからないが、おかげで彼が横断歩道を渡り切る三歩前で青信号が点滅した。彼はすこし怯えた。ほんのすこしのルール違反にさえ怯えてしまう。ルールと呼ぶかどうか、人が首を傾げることにさえ。それから赤に変わるまでに三秒、交差する道路を車が走り出すまでにまた三秒だ。カケルはその六秒の間、クラクションが鳴らされてもいいように準備した。眉をしかめるのだ。
当然クラクションは鳴らない。カケルはほっとした表情で歩いていく。しばらく行って、駅の改札を抜けて、奥から数えて二番目の車両に乗り込む。いつもと同じ電車の、いつもと同じ座席に座る。その駅は終点駅で、常に乗り込まれる車両があり、常に人で賑々しかった。散り散りにそれぞれの目的地に向かう人々。そのそれぞれがそれぞれに考え行動している。カケルにとってそれはなぜか不思議なことに思えるのだった。
工場に着くとすぐに朝礼が始まる。朝礼が終わると業務が始まる。工場では様々な食材を加工し、飲食店へ出荷していた。飲食店が早く客に料理を提供できるよう、下準備をしてしまうのだ。カケルはタマネギの皮を剥き、機械へ放り込む仕事をしていた。放り込まれたタマネギはほとんど均等な大きさに切られ、バラバラになる。それを今度は一定の重さごとに袋詰めにし、真空状態にして出荷である。工員は一日で、一人あたり百個以上ものタマネギを剥くことになる。夢中になれる者はいいが、そうでない者にはつらい仕事だ。
昼休憩になると、吉田が缶コーヒーを二本持ってカケルのそばに座った。休憩室はそう広くなく、たいていの者は外へ、昼食を摂りに出かける。カケルと吉田はたったふたり、休憩室でタバコを吸うのだった。
「コーヒー、飲むか」
吉田が言う。カケルは、自分が飲まないと言ったらどうなるのか考えたことがある。メリットはなにひとつなかった。だからいつも早口で、ありがとうございますと言って飲むのだった。吉田はカケルが心を許している、数少ないひとりだ。悪口ばかり言って、それからアメリカのことを褒め、コーヒーを買ってくれる。なにも求めてはこない吉田に、カケルはひどく安心するのだった。
「例えばな、あいつらと仕事してたら、あー、こいつらの吐いた二酸化炭素、吸ってんだなーって、思うわけよ。そしたら、気持ち悪くなるだろ、急に、殴りたくなる」
当然、吉田は急に人を殴るような男ではないが、態度が悪くなり、結果みんな萎縮してしまう。それでさらにイライラしてしまう。自分に原因があるとは、吉田は気づいていないのだ。
「そういうこと、おまえはないか? いや、あるだろ、ぜったい」と言う。
ああ、おれは、はい、まあ、たまに、とカケルは答え、脇に少し汗をかいた。吉田はだよなあと言って灰を落とす。つられてカケルも灰皿を叩いたが、落ちる灰はあまりなく、ほとんど空振り同様だった。
午後の業務を淡々とこなし、カケルは帰路に就く。夕闇をこうもりが飛び交った。虫が鳴き、またカエルも鳴いた。朝は赤かったポストも、すっかり色がわからなくなっている。工場の周りには極端に電灯が少ないためだ。朝は十時から、工場での仕事が終わるのは六時だ。それから吉田の愚痴に付き合う日にはこうして遅くなる。
カケルが家に着いたのは八時を少し過ぎたころだった。家に入って服を着替え、冷蔵庫からタマネギを取り出す。丁寧に洗って皮を剥き、頭と尻を切り取って鍋に入れた。火にかけるまでほんの一分くらいの動作だ。それから抽斗を開けてペンと紙を取り出した。火が弱火であることを確認して、テーブルに座る。息を大きく吸って吐いた。一度ペンを持ち、また置いた。まだ沸騰すらしていない鍋を覗いて、また抽斗を開ける。中から便箋を取り出して手紙を読んだ。そして息を大きく吸い、吐いた。カケルは文章を書きはじめた。
少し書いては立ち上がり、鍋を覗いては息を吸い吐いた。汗をぐっしょりかいていた。母や兄、と書いては消し、書いては消した。
ー続ー
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4
満を辞して迎えた入学式当日。梅原第五中学校の講堂には多くの新入生達が組ごとに列をなしていた。ところが、その光景が整然な状態を留めていたのはほんの僅かの間であり、校長が壇上に上がる頃には、嬌声や奇声、罵詈雑言が飛び交い、最早制御不能な状況と成り果てていた。
昇一は混乱した。思っていたのと違う、と思った。黒いかっちりとした生地に、金色のボタンが配列された学ランに初めて袖を通したつい先日。その時昇一は、中学の入学式とはもっと理路整然としているものであると思っていた。ところが、この有様はどうしたことか。大勢の人、人、人が全く秩序を保とうとせず、本来それらを鎮め管理する側の人間達も、元よりその役割を放棄しているように見える。完全なる無法地帯。偏屈な昇一の目にはそのように写ったのである。
こんなオランウータンが百匹住んでいそうな所で三年間も生活しなければならないのか。そう思うと、昇一は完全にやる気を喪失。真面目に学ランの第一ボタンとホックまで留めてしまっている自分が阿呆らしく感じた。
いつまでもこんな所には居ていられない。阿呆がうつる。そう思った昇一は人ごみから抜け出し、後方の出口に向かった。扉を開け廊下に出ると、心地よい風が吹き抜けた。思ったより汗をかいていることに気付いた。昇一は第一ボタンを外し、ふう、と溜め息をついた。
静かな所へ行きたい。そう思うと、昇一は喧噪から逃れるように講堂から遠ざかった。
廊下を端まで歩き、角を曲がると、そこには図書室があった。周囲を確認し、恐る恐るドアノブを回してみると、どうやら鍵が掛かっていない。そこでしばらく逡巡した挙句、昇一は図書室に入ってみることにした。講堂に戻るつもりはなかったし、入学式が終わるとクラスの教室に移動しなければならない。それまでの時間をここで潰そうと考えたのである。
妙な背徳感を感じながらも、昇一は思い切って扉を開け、図書室に足を踏み入れた。しかし、この時の昇一は自分が悪夢のような泥沼に片足を突っ込んでしまっていたことなど、まだ知る由もなかったのである。
ー続ー
2012年12月1日 発行 12月号 初版
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