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しこり 2013年1月号

   目 次


 【短編】
 『三色ボールペンの青』
           宮崎亮馬
 『わがままなうた』 長谷川智美
 『溶けた脳みその行方』
           あくた
 『Unbroken Holy Night』
           枡田佳奈枝
 『朝焼けの向こう側』篠田郁美


 【連載】
 『遠路』3     藤本諒輔
 『油蝉』5     横田直也
 『光柱』3     喜田悠太

 『三色ボールペンの青』
          宮崎亮馬

 え、何、捨てるの?
 なんで? なんで捨てるの? いや、残ってるけど? 僕まだ残ってるけど? ああ、赤と黒を使い切ったから? いやいやいやいや、おかしいよね。その理屈は絶対おかしいよね。僕まだ残ってるからね。少なく見積もっても六割は残ってるからね。むしろ今が全盛期と言っても過言ではないからね。
 だから拾おうか。僕を。とりあえず僕をごみ箱から拾おうか。言い訳はそれから聞くから。とりあえず僕を一旦ごみ箱から拾って、そして青ボールペンとして使おうか。僕の第二のペン生を青ボールペンとして始めさせて頂きましょうか。若干太いけど。
 え、青ボールペンはもう持ってる?
 いや、いやいやいやいや、ちょっと待って。あまりの驚きにバネの力抜けてきた。え、青ボールペン持ってるの? 単独のやつ? おかしいよね。もうそれ完全におかしいよね。二色ボールペンあるからね。赤と黒だけのやつあるからね。それ買ってたら僕みたいな犠牲者出さずに済んでたからね。
 君、ファミリーレストランで二杯ぐらいしか飲まないのにドリンクバー頼んじゃうタイプだよね。ランチバイキングに行っておいて取ってきたご飯を見たら結局は普通の定食みたいなやつになっちゃってるタイプだよね。わかるからね。君が握る手からそういうこと全部わかるからね。
 よ、よし、それじゃああれだ。替え芯、替え芯を使おう。この事態を脱するには君が心を入れ替えるかこっちが芯を入れ替えるかどちらかしかないからね。ね、替え芯を使って赤と黒を、いや赤さんと黒さんを復活させてもう一回三色ボールペンとして使おうか。
 え、消えるボールペンじゃないから嫌だ?
 あれ、聞き間違いかな。消えるボールペンって聞こえたけど。え、何、怪談? 怪談の類? ああ、最近では字を後から消せるボールペンが出てるんだね。へえ……って何それ。認めないよ。僕そんなものボールペンって認めないよ。そもそもボールペンって消せなくてなんぼみたいなとこあるからね。消せないからこその心意気が篭った字を書けるのがボールペンの良さだからね。消せるボールペンって、むしろそれ強化された鉛筆だからね。そっちはそっちの良さがあるけどボールペンって名乗るのだけはやめてほしいからね。
 え、ボールペンにも修正液があるじゃないって?
 出た出た。修正液ね。まあ君にぴったりだよね。不都合な過ちは全部覆い隠してしまうタイプだよね。そのくせ修正液が乾く前から次のを書き始めちゃうタイプだよね。現に今僕もこうしてごみ箱へと捨てられているわけだよね。利便性を追求して少しでも不便なものはどんどん切り捨てていく、そういう社会は悲しいと思わない? そんな風に便利なものを追い求めて、その先に待っているのは空虚、目を背けていた空しさだけなんじゃないかな。大切なものはもっと他に……あっと、ついつい喋りすぎてしまったよ。まだまだ僕も青いってこと、かな……青ボールペンだけに!
 うん、寒色だねって、その返しはちょっと冷たすぎると思うな。










 『わがままなうた』
        長谷川智美

電車の窓が写す景色は
本当にせわしなくて、
心が焦ってしまうから。

目を閉じて電車が
走る音を聞いてみる。

ガタン、ガタン。

なんだか、自分の鼓動を
聴いてるみたいだった。

崩れる音、はまる音。
組み立てられていく感じ。

未完成なのよ、私。
未完成なのよ、あなた。

ぶつかって、削られて、
崩れて、形がかわって、はまる。

図工みたいね、人生。
工事みたいね、人生。


靴ひもがほどけた。
その足を突き出してみた。

誰もくくってくれないの。
その足につまずいたのね。

仕方なく自分で結ぶ。
できた後に、大丈夫?って
ヒーローみたいにやってくる。

ばか、もうやっちゃったのよ。
あなたがきてくれないのだから。

そして私は靴ひもをほどくの。
笑って、あなたに突き出すの。

意地悪で、わがままで、
でもそれが私の本当で。

未完成なのよ、私。
未完成なのよ、あなた。


ほら、あなたはそこで
靴ひもを結んじゃうのよ。

ばかね、私は
そんなの求めてるんじゃないの。


じゃあ、何がいいって?


そんなの、教えない。



















 『溶けた脳みその行方』
          あくた



猫は女を見ていた。
女は、煙草をくゆらせ立ち上る煙の行方に目を凝らしている。
猫は、いつだったか自分が人間であった頃のことを思った。
とくにいいことがあったようには思わなかった。
誰ひとりとして顔を思い出せる人間はいなかった。
家族であったはずの、友人であったはずの、恋人であったはずの人間が存在していた…はずだというのに。
思い出せるのは、暗闇に浮かびあがるほど白いシーツ、靴下にひっかかる割れかけた爪、湯気のたつコーヒーカップ
そんなものばかりだった。
たまらず猫は鳴いた。
にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ
肝心なことが抜け落ちた記憶に苛立つのか悲しいのか猫にはわからなかった。
口からこぼれるのは、にゃあという間抜けな音だけだった。
女は猫の頭に手を置いた。
女の手は猫の小さな頭蓋骨に驚くほど馴染んだ。
どこかで出会ったことがある気がした。
吐き出した息は白く、冬の空に溶けた。
猫はもういちど、にゃあと鳴いた。

 『Unbroken Holy Night』 
         枡田佳奈枝

 爪が割れた。
 もともと端から裂けかけていたそれは、カーディガンの裾に引っ掛かり、あっけなく飛び散った。
 ああ、もっと気を付けておけばよかった。よく引っ掛かるのはわかってたのに。
 真っ白な絨毯に小さな紅がぽつりぽつりと点を散らしていく。思ったよりも深いところから千切れてしまったため、私の右手親指の先が紅く濡れる。普段目にすることのない皮膚から目が離せない。
 なぜだろう。痛くて痛くて、たまらないのに。気が付けば左手が、固い守りのなくなった指先をぐっと押さえつけていた。血を止めようと思ったのか、更に痛めつけようと思ったのか。自分でもよくわからないけれど、なぜだかそうしなければならない気がした。
 更に溢れた紅に、声にならない叫びが身体の中から溢れ出る。静かな部屋で、きんと頭の中が痺れるような咆哮。痛い、痛い、痛い。
 しばらくうずくまって動けなかった。右親指を握りしめていた左手をそっと開くと、とても直視できないほどに紅く、鉄臭いにおいが鼻をついた。
「そんなことがあったわけ」
 これでもかというほど私の右手に包帯を巻いていた瑠伊るいが、小さく溜息を漏らした。
「どうしてそういうことすんの」
 呆れ果てた顔で睨みつけてくる瑠伊は少し怖い。何とも答えられなくて曖昧に笑ってみれば、眉間に刻まれた皺が更に深くなった気がした。
「俺、痛いの見てると、自分まで痛くなってくるんだよね」
 きゅっと包帯の端を止めながら言う彼は、やっと見えなくなったはずの私の傷跡がまだ見えているかのように、包帯でぐるぐる巻きのそれを優しく両手で包みこんだ。その温かさに、傷がずくんと痛くなる。
 しばらくそのまま触るなよ、と言い残して、瑠伊は再び部屋を出て行った。大学から帰ってきたと思ったら、今度はバイトか。いつものことだけれど、一人この直方体の中に残されて眺める瑠伊の背中が少し悲しい。今日は、いつもよりずっと。
 戻ってきてしまった静けさが、さっきよりもずっと暗くて冷たく感じる。そっと巻かれた包帯に手を添えると、またずくんと重い痛みが右腕全体を走った。それと同時に、まだ彼の温もりが残っているような気がして、どうしてもそこから手を離すことができない。
 きいんと耳鳴りが起こりそうな静寂に耐え切れず、テレビの電源を入れる。次第にはっきりと映し出されたのは、大きなクリスマスツリー。
『本日は大勢の人が駅前の広場に集まっています。皆さん、午後六時からのツリーや装飾の点灯を心待ちにしているようですね。さあ、点灯まであと十五分となりました――』
 リポーターの女性が周囲の騒音に負けじと声を張り上げている。後ろの方でピースサインなんて作ってる男の子たちが馬鹿に見える。全国ネットよね、このニュース番組。恥ずかしくないのかな。

 楽しげな人々を見ていると、さっきよりも余計に自分が惨めに思える。見なければ良かった。乱暴にリモコンのスイッチを押す。画面が真っ暗になり、再び寂しい空間が戻ってくる。無性にテレビをぶち壊してしまいたい衝動に駆られるけれど、それはできない。このテレビは瑠伊がバイトを必死で頑張って買ったものだ。そんなもの、少し叩くことすら躊躇われる。
 むしゃくしゃとした気持だけ、いつも私の中に残る。物に当たるなんて誰にだってできる。爪が割れるよりも、ずっと簡単なこと。カーテンを引きちぎりたい。リモコンを投げて、窓ガラスを割りたい。壁際の姿見を粉々にしたい。この部屋を、めちゃくちゃにしてしまいたい。
 想像の中で暴れ狂う自分を見て、少しだけ気持が落ち着く。ああ、なんて不安定なんだろう、何もかも。カーテンはきれいなままだし、リモコンは私の手元にあるし、姿見も私を映している。けれど、こんなもの、一瞬で姿形を変えられる。爪がなくなった手と同じ。クリスマスが終わるよりも、ずっと早く。
 ぼふん、とベッドに倒れ込む。自分の枕の隣、少し大きなそれに顔を埋めれば彼の匂いがした。こんなに情緒不安定になるなんて、きっと瑠伊のせいだ。そうに決まってる。この四角に切り取られた空間の外では一年に一度の聖夜を楽しむ人々で溢れかえっているのに、私一人寂しく過ごさなければならない。
 普段は気にもしない独りきりの夜。むしろその方が気楽だとも思う。ぴんと張った一本線を緩められるのは、一人でいる時だけ。
 そう思ってるはずなのに、どうしてこんなにもいらいらするんだろうか。瑠伊の枕から顔が離れない。会いたいのに。でも会いたくない。帰ってきてほしい。このまま一人でいたい。だめだ、ぐちゃぐちゃだ。もうこのまま眠ってしまおう。枕が冷たく湿っているのも、きっと気のせい。
 ふわりと、右手を包む温かさを感じた。何だろう、何かわからないけど、とても心地いい。ゆっくりと枕から顔を離して目を開くと、突然の眩しさとぼんやりとした視界に思わず顔が歪んだ。
「うわ、ひどい顔」
 楽しそうに笑う、聞きなれた声。どうしてここにいるんだろう。ああそうか。私まだ、夢の中なんだ。
 再び枕に顔を戻せば、うつぶせになっていた身体をくるりと反転させられる。
「いつまで寝てんの。しかもそれ、俺の枕」
 次第にはっきりとしてきた視界の中で、目を細めて笑う瑠伊。どうしているの。バイトに行ったんじゃなかったの。
「バイトは休み。これ取りに行ったんだよ」
 ほら、と目の前に持ってこられた白くて大きな箱。ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。
「メリークリスマス。何にもしてやれないけど、二人で食べよう」
 白い箱を嬉しそうに開ける瑠伊を見て、ふっと軽くなった気がした。想像の中でめちゃくちゃにしたこの部屋が、何より素晴らしい場所に思える。ここで寝ている間に、一番欲しいものが手に入った。それを私にくれた人。この人にしかもらえなかったもの。それは幼い頃、この夜を心待ちにしていた時の高揚感と似ている。
「……サンタさん、か」
 ぽつりとこぼした私の声に、え、と短い声を出して、いくらか心配そうな目をした瑠伊がなんだか可笑しい。なんでもない、と思わず上がってしまう口角を隠すように下を向いた。そっと包帯に触れる。壊すのは簡単だけど、それはきっと私の中だけに留まるだろう。
 未だ訝しげな彼の目に私はにっこりと笑って、そう、まだ言ってない言葉があった。
「瑠伊、メリークリスマス」

 『朝焼けの向こう側』
         篠田郁美

 たとえば、なりたい人がいるとしよう。
 どんなことがあってもくじけないで顔を上げてまっすぐ進むことができるところとか、悲しんでいる友だちと一緒に泣いてくれるところとか、私のために傷ついたり傷つけたりしてくれるところとか。寄り道したり、本屋で立ち読みしたり、買い食いしたり、ゲームセンター行ったり、普通の高校生にできて私にできないことをなんでもしちゃうところとか。なりたい部分が多すぎて、でも、その全部を持っている人になりたくても、私はなることができない。それが今、私の手を引いているあなただとしても。
 だって、生まれたときからあなたはあなただったし、私は私だったから。
「もうすぐだ」
 右手を握る蒼汰の手が湿っている。早朝だというのに、暑くなろうとしている夏の空気があたりを包んでいた。
「大丈夫? 大隅さん」
 左手を握るかなめの手の力が、蒼汰より強い。二度と離さないようにしっかり握られていて、自然と強く握り返してしまう。要の手も、湿っていた。
 都会から隔離されたような田舎は、ただ山と田んぼが広がるだけだった。夜になるとカエルが合唱を始め、蚊が耳のまわりを飛び回る。数分歩いたところに小川があった。ビル街では見られないきれいな小川で、泳いでいるメダカをはじめて見た。ペットショップでしか見たことがなかったのに、自然の中で生きるその姿はたくましかった。
 これも、全部あなたが教えてくれた。
 太陽に照らされ始めた街を蒼汰と要に手を引かれながら歩く。慣れ親しんだここは二人にとって庭も同然だった。アスファルトで舗装された道の脇には背の低い木が生えている。その先には背の高い木がアーチを作り、光を遮っていた。日が登り始めているというのに、朝日が届いていない。二人に手を引かれながら歩くこの道は、はじめて通る道じゃなかった。この木のアーチの先には、川がある。光の届かない闇が、目の前に広がっている。
 足がすくむ。止まった私の手から二人の手が離れていく。湿り気が尾を引いて、感触だけが残った。あんなに強く握られていたのに、いとも簡単に離れてしまった。見ると、蒼汰も要もこっちを見ていた。
「怖いか?」
 蒼汰の声が聞こえた。正直、そうだった。
 前来たときは昼で、あの木のアーチにも日が差していた。それが今はない。アーチの向こうに見える坂道が、今は見えない。その坂道を下ると川に行けるのに、このまま行くと暗闇に飲まれて知らない世界に行ってしまいそうだった。
 寝るとき、電気を消すことができなかった。暗闇だと、どこからか手が伸びてきて知らない世界に連れて行かれそうで怖かった。お母さんにも言えなかった。昔、小学生のときいじめられてどこかに閉じ込められてから、暗闇にいることができなくなった。
 光が届かない、そんな世界でひとりになれなかった。誰も助けてくれない、暗くて冷たい世界。いじめで閉じ込められたところは、体育館裏にあった倉庫だった。季節は冬だった。窓もなく、光なんて入ってこない。誰も助けに来ない。
 それ以降、友達なんてできないんだと、心のどこかで思ってしまった。中学に入ると、心を閉ざすようになった。心を開いても、相手は開いてくれない。高校もそうやってすごしている。誰にも心を開かず、ひとり、勉強だけに身を注いでいた。勉強をしていい成績を取ればお母さんが褒めてくれる。それだけが唯一の喜びだった。
中学のとき、塾で知り合った蒼汰と要は心を閉ざす私に、遊ぶ大切さと人を愛する喜びを教えてくれた。学校の帰り道、はじめてコンビニに寄り道して買った肉まんのおいしさ。塾のない日曜日、お母さんに秘密で遊園地に行って、はじめて乗ったジェットコースターの楽しさ。そんな二人は私のことを好きだと言ってくれて、私も二人のことが好きだと伝えた。それらを知り、私は逃げていたことに気づいた。

 お父さんは海外赴任で、いつ帰ってくるのかわからないし、お母さんはそんなお父さんに代わって私を育ててくれた。私のために苦労してくれているのに遊んじゃだめだと、いつも心に言い聞かせた。勉強して、いい成績を取ればお母さんは喜んでくれる。勉強だけしていればいいんだ。そうやって遊ぶ楽しさと人を愛する喜びから逃げていた私に、蒼汰と要はそれらを教えてくれた。
でも、二人が言ってくれた「好き」と私の「好き」の意味は違った。
「大丈夫」
 二人に笑顔を向けると、蒼汰は真剣な表情を浮かべた。
「大丈夫じゃないだろ、その顔は」
 そう言うと、蒼汰は私の手を握った。湿った手の温もりが、心地よく伝わってくる。安心する。ずっと、探していた温もりがここにある。
 ここに来た理由は、勉強する理由と人を愛する喜びがわからなくなったからだ。蒼汰と要が教えてくれたことが、違う人間によっていとも簡単に壊された。お母さんがいい成績を取っても喜んでくれなくなって、塾の先生からストーカーの被害にあった。暗闇に落ちた気分だった。そのとき、閉じ込められたときを思い出した。誰も助けてくれない、暗くて冷たい世界。光が届くはずのない場所で光が見えたとき、それは赤色だった。
 体育館裏の倉庫の扉が開く。そこにいたのは、当時親友だと思っていた友達だった。友達は私を見つけると、表情を崩し泣き出した。そして、私を抱きしめた。それ以降、その子は私と口を聞いてくれなくなった。
 二人はその子に似ていた。暗闇で寝ることができない私に寄り添うように、やさしく接してくれた。小さい頃、よくお母さんに抱きしめてもらったような温もりを、注いでくれた。でも、その子のように裏切ったりすることはなかった。
「俺たちがいるから」
 蒼汰の手を強く握り返す。今度は離さない。もう片方の手を、要が握ってくれる。これも、強く握り返す。ゆっくりと、木のアーチをくぐり抜けると、そこには朝焼けに輝く川があった。
 透明な川面が金色に輝いている。流れる水に合わせて金色は揺れ、形作る。朝日が山の輪郭を作り、光を注いでいる。眩しくて、目を細めてしまう。
「ありがとう」
「なんだよ、急に」
 呟いた私に答えてくれたのは、蒼汰だった。
「感謝しなくちゃいけないのは、僕たちのほうだよ」
 要はそう言って、私の手をさらに強く握った。
「なんで?」
「僕たちを変えてくれたのは、大隅さんだから」
 要を見ると、笑顔を作ってくれた。
「私も、二人のおかげで、変わることができた」
 私は二人を引っ張って、川へ走り出す。金色に輝く川面が眩しい。そして、飛び込んだ。
 激しい音と共に、水しぶきが上がる。深さが膝ぐらいまであって、目を開けると三人は尻餅を着いたような体勢で、頭までずぶ濡れになっていた。お互いの顔を見合う。
「おっかしい」
 ぺたんこの髪が見慣れなくて、先に吹き出してしまった。
「なんだよ、それ」
 次に笑い出したのは、要だった。
「お前、似合わねえ」
 蒼汰はお腹を抱えるほど、笑い始めた。
 朝の街に、三人の笑い声が響く。夏なのに冷たい水が心地いい。家に帰ったら、まずお母さんを抱きしめて、それから謝ろう。塾をサボったこと、家出してしまったこと。それから、蒼汰と要を紹介しよう。私にはじめてを教えてくれた人たちで、友達だと。二人の気持ちに答えることはできないけど、それだけのことはできる気がする。川の中にいても、私の手から二人の手が離れることはなかった。
 私はあなたになりたい。でも、なれなくていい。
 もう、それだけ私は変わることができたから。

  『遠路』
         藤本諒輔

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   3 母の話

 おれはここまで書いて、また抽斗を開けた。薄い水色の便箋を取り出して読んでも、まるで頭に入らないのだった。部屋の温度が高くなっている気がする。換気扇を回す。外の空気は思ったより冷たい。もうすぐ秋なのだろう。
ところで、小説の世界で、排泄はあまり書かれない事柄だそうだ。人間を描き出すことを目標にしているやつらが、なぜか排泄は書かない。やつらは自分の排泄を見られるのが怖いのだろう。おれは用を足すことだけが、自分と物語の登場人物を隔てる唯一の証のように思えた。おれだって、自分のことを自分のために書くときでさえ、排泄を省いてしまう。
手紙を抽斗に戻して立ち上がって、冷蔵庫を開け、水を飲んだ。それから電話の音に気づいた。今鳴りはじめたのか、それとも前から鳴っていたのかわからない。携帯電話を手に取ると母の名前が表示されている。もう二回鳴るのを待って、諦めて応答した。
「もしもし」
「もしもし、カケル? 元気にしてるの? ご飯食べてる? いつまでも暑いと思ってたら急に寒くなるんだから、体には気をつけなきゃだめよ。それから、ごめんね、母さんこそ実は喉が痛くって、ね、声、聞き取りづらくない? ほしいものあったらちゃんと言うのよ、って仕送りもしてないのに言えたことじゃないんだけどね。そうそうお兄ちゃんとは連絡とってるの? あんまり男兄弟で話すこともないだろうけど、たまには声くらい聞くものよ」
「うん、なんとか、大丈夫だよ」冷蔵庫にもたれて言った。鍋から湯気がモクモクと上がっていた。母はときおり咳を挟みながら早口に、たくさん喋った。おれはいくつかの話題にまとめて返事をした。そうでもしないと、返事だけで喉が乾いてしまうだろう。
 どこで電話を切ればいいのか迷ったが、タマネギが気になる。幾重にも皮で包まれたタマネギが、熱湯で剥かれていくところを想像する。そしてついに中身のないタマネギである。
「ねえ、もしもし、聞いてる? まあ元気ならいいのよ、またね。ご飯ちゃんと食べるのよ。それから、もう言ってる間に寒くなっちゃうから暖かくしてね」
 母の話は永遠に続いてしまうだろう。おれは、じゃあまた今度ねと言い、半ば強引に電話を切った。コンロの火も切って、立ち上る湯気を肺いっぱいに吸い込んだ。熱く、タマネギの匂いがする、新鮮な湯気だ。それからトイレに行って用を足した。手を洗い椅子に戻る。また書く作業だ。煮たタマネギをどう調理するかは決めていない。タマネギだけを煮て、タマネギだけでたべるのもいいような気がしてきた。塩かぽん酢で食べよう。残った熱湯にコンソメを溶かしてスープにし、物足りなければまたタマネギと、他になにか具になるものを煮るだけだ。コップに水を注いで、それをぐいと飲み干した。
 先に書いてしまうか、タマネギを食べるかで迷ったが、もう書くのはやめにして、タマネギを食べて寝ることにした。寝て起きたら工場に行き、仕事をして、帰ったら母のことを書かねばなるまい。あまりにも普通の、ありきたりな母のことを書くのはなかなか骨の折れることだ。それでも書かなくてはいけないのだ。

   ー続ー

  『油蝉』
         横田直也

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   5

 図書室は一クラス分の教室とほぼ同じ広さで、しばらく掃除の手が入れられていないのか空気が悪く、昇一は露骨に嫌な顔をしたのち、本棚から適当に書籍を抜き取り、それを思い切り床に叩きつけた。昇一は人前ではほとんど表情を変えないが、一人の時、周囲に人がいないことが明白な場合でのみ、このように感情を発露させるという悪癖があった。
 私憤を募らせながら、床に落ちて裏返しになった書籍に目を向けると、それは何やら図鑑のようなもので、妙に気になった昇一はそれを拾い上げた。それは「宇宙の不思議」という題名の図鑑で、頁をめくると様々な天体の写真や想像図が大きく映し出されており、昇一はまるでそれらに吸い込まれるかのように、突っ立ったまま図鑑を凝視していた。というのも、昇一は幼い頃から宇宙というものに特別な意識を持っていたのである。
 
 幼い頃。小学校に入学したばかりの頃の昇一は、週末になるとよく父親に連れられて地元の図書館を訪れた。そこで昇一が興味を示したのは、同じ年頃の子供達が読むような児童図書の類ではなく、重量のある分厚い生物図鑑であった。爬虫類や両生類、昆虫に至るまで様々な分類の生物図鑑の頁を子供の小さな手でめくり、無垢な瞳で無言のまま凝視している姿は、直ぐに職員の目に留まった。そのうち、幼い昇一は週末だけでなく、父親のいない平日でも一人で図書館に通うようになった。
 蝉の鳴き声が響くある夏の日。いつものように一人で図書館を訪れると、突然中年の男性職員が、机で図鑑を広げている昇一に声を掛けてきた。君は図鑑が好きなんやねえ。と言うと、彼は昇一に一冊の図鑑を差し出した。それは宇宙図鑑だった。彼は戸惑う昇一の手を掴み、図鑑を握らせると、それあげるわ。大事にしいや。と言って、そのまま受付の方へと去って行った。
 昇一は突然の贈り物に胸が高鳴るのを感じた。素直に嬉しいことであった。しかし、図書館はあくまでも本を借りる所であり、本を貰えるなどということがにわかに信じられず、昇一は念の為、元々借りるつもりであった魚類図鑑と一緒に、手渡された宇宙図鑑を受け付けへ持って行った。
 そこには先程の男性職員がいた。彼は昇一が差し出した二冊を受け取ると、その内の一冊が自分の与えた筈の図鑑であることに気付き、眉を寄せながらも笑顔で、いらんの? と尋ねた。すると昇一は首をぶんぶんと横に振り、小声で、いる。と答えた。
 図鑑を受け取ると、昇一は図書館の自動ドアを通って外へ出た。すると後方から、それは返さんでええでー。と声がした。昇一は嬉しさのあまり、図鑑を両腕で胸に押し当てながら、家に向かって駆け出していた。それは昇一が生まれて初めて人から与えられた本であった。
 家に着くと、昇一は二階の自室へ駆け上がり、すぐに宇宙図鑑を広げた。それまで夜空の星を見上げながら、漠然と「宇宙」を意識したことはあった。ところが、図鑑の内容には昇一の見てきた宇宙とはあまりにもかけ離れたものが描かれていた。衛星が捉えた様々な惑星、流星群、ビッグバンなどの観測写真。それらのあまりの美しさに、これまで読んできた図鑑には無い感動が昇一の心を掴んだ。しかし、どの写真も普段見上げる夜空には見たことのないものばかりであったので、それらが実在するとは素直には信じられず、誰かに事実を確認したくなった昇一は居ても立ってもいられなくなり家を出た。
 辿り着いた先は、先程の図書館であった。図鑑をくれた男性職員ならば、本当のことを知っている筈と思ったのである。ところが時刻は午後五時を回っており、図書館は閉館したばかりであった。男性職員の姿もなかった。昇一は溜め息をつきながら踵を返した。すると、自転車置き場に見覚えのある若い女性の姿が見えた。彼女は自転車の鍵を開け、荷物を前籠に入れたところで、昇一の目線に気付いた。目が合った。昇一は反射的に目線をそらした。彼女はその図書館で働いている新人職員であった。
 ショウ君。と彼女は昇一に声を掛けた。ところが昇一は首を斜め下に向けながら口をぱくぱくさせるだけで、なかなか要領を得ない。というのも、昇一は物心のついた頃から女性、特に若い女性に話し掛けられると異様に緊張してしまうという習性があったのである。昇一は彼女の声が聞こえなかったかのように辺りを見回し、少し離れた所に自販機を見つけると、足早にそこまで移動し、買うつもりもないのに腕を組み、どれにしようか悩んでいる振りをし始めた。
 しばらく経ち、後ろを振り返ると、すぐそばに中腰の状態で昇一を見つめている彼女がいた。昇一は驚き、声にならない声を発しながら後ずさった。後頭部がドン、と自販機に激突した。昇一の反応に彼女は声を出して笑うと、昇一の後頭部を撫でながら尋ねた。
「ショウ君、何してんの」
「いや、ジュースどれにしよかと思って……」
「ジュース? それ、煙草の自販機やけど」
 言われて、へ? という顔をしながら、昇一は振り返った。自販機を見た。煙草であった。昇一は緊張のあまりものをよく見れていなかったので、自販機と見るやそれを飲み物の自販機であると勘違いしてしまっていたのである。
 煙草やろ。と彼女が言った。昇一は顔を真っ赤にしながら目の前の自販機に向かって、うそやん、うそやん、と連呼していた。そこに彼女は追い打ちをかけるように、ショウ君煙草吸えるんや、大人やなあ。とはやし立てた。とっくに全てを見透かしていたかのような彼女の言葉に、昇一はふるふると恥辱にまみれた。今すぐに消えてなくなってしまいたいと自分を呪った。昇一は泣いていた。
 ところが彼女は少しも悪びれる様子も無く、ごめんごめんと笑いながら言うと、いつまでもふるふるしている昇一の背中をさすった。
「ジュース欲しかってんな? じゃあそこのコンビニで買ってきたげるから一緒に飲もや。ちょっと待っててな」
 そう言うと彼女は自転車に跨り、コンビニへと向かって行った。昇一は彼女の後姿を見つめながら、このまま消えてやろうと思ったが、思いとは裏腹に足は動かなかった。すると、不意にわざわざここまでやって来た理由を思い出した。昇一は両手に握りしめられた宇宙図鑑にゆっくりと目を落とした。

    ー続ー

 『光柱』
         喜田悠太

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   3

 息を吸い込めば肺の中までも陽気で満たされそうな、春の夕暮れだった。ランドセルがばたばたと立てる音、同級生や下級生たちの楽しげな声が坂道の通学路に響く。ふざけあいながら隣を数人の女の子が駆けてゆく。
 そんな中、僕だけは梅雨のまっただ中のような心持ちだった。空から伸びる糸で操られたようにふわふわと危なっかしく飛ぶ蝶をぼんやりと見やり、僕は細くため息をついた。何度もチャイムが鳴って下校時間になったいまでも、ランドセルの奥の方で教科書に挟まれて眠る布切れが僕を憂鬱にさせてやまない。
 僕は給食着の入った袋を揺らしながらゆっくりと坂道を下りきり、国道沿いの道に出る。そう賑わっているわけではない僕が住む町でも、この道の交通量だけは多く、トラックなどの大型車がもの凄いスピードで何台も走り去ってゆく。僕の行く手の少し先ではうちの学校の先生が道路に近づきすぎる児童をたしなめているのが見える。道路が危険だからというのもあるだろうが、きっと道沿いにあるコンビニなどで下校中に買い食いをしないように見張っているのだろう。この道沿いにはそのコンビニや、全国チェーンのファミリーレストラン、美味しそうな香りを換気扇からまき散らすパン屋さんなどが軒を連ねている。もちろんパン自体も抜群に美味しい。そういえばこの間の全校集会でも、強面な体育の先生が買い食いをするなというようなことを注意していた気がする。その集会のあとの教室で、買い食いをするなというのは分からないでもないが、下校中のお腹を空かせた小学生に香ばしいパンの香りを浴びせかけるのはテロのようなものじゃないか、パン屋にも注意すべきだ、というようなことを健児が自分の席の周りのひとたちに真面目な顔で話していた。周りのひとも真面目な顔をして聞き入っていたものだから、その内容が聞こえなければさぞかし真剣な話をしているように見えたことだろう。
 名前も知らない先生に軽く会釈し、その横を通り過ぎる。はいさようならぁ、と野太い声が返ってくる。そうしたあとで、なぜ僕はあんなことを言ってしまったのだろうか、と再び一人後悔する。今日一日、いったい何度自問自答したことだろう。健司だけのことならどうにでも出来る。しばらく経ってから「ごめん、ああ言ってみたものの考えてみたらやっぱり僕には荷が重かったよ」とでも言ってやればいい。ぶつくさ言いながらも、なんだかんだで諦めてくれるような気がする。
 何よりも、梨花にまで言ってしまったのがまずかった。しかも、冷静に考えてみれば梨花や健司だけの問題ではない。周りにいた色んな人が僕の愚かな挑戦を耳にしてしまったのだ。冷静になって思い返せば、僕が大声をあげた瞬間に数人が怪訝そうな目で僕を見ていたような気がする。はっきり言って僕は友人が少ない。
 クラスの中でも、まともに会話が出来る相手は健児を除けばものの数人しかいないだろう。その数人だって、特別仲が良いというわけではない。ただその他と比べれば少しばかり距離が近いというだけのことだった。皆川梨花は、誰にでも自分から話しかけられる、いわゆる誰とでも仲良くなれるひとだ。決して快活というわけではなく、どちらかと言えば容姿にしても割と大人しい部類に入ると思う。それでもその物怖じしない性格がみんなを友達にしてしまう。タイプこそ違えど、女版健児といったところだろうか。一方の僕はといえば、いじめられているということもなく、クラスに溶け込めるわけでもなく、いつだって糸に釣られたように宙ぶらりん。それが今までの、そして小学校六年目の僕だった。学校の退屈な時間は本を読んで過ごすか、授業の復習をするか、行きたくもないトイレに行くか、そんな風にして過ごしてきた。いつも存在が希薄で、たとえば僕が突然いなくなってもしばらくは誰も気付かないだろう。ひょっとすると、担任のイエヤスにさえ忘れられているかもしれない。ただ一人、健児だけは気付いてくれるだろう。梨花に気付いてもらえたら嬉しい。
 そんな僕がリーダーをやるなんて聞いて、周りはどう思ったことだろう。えぇ? あいつがリーダー? もっとふさわしいやつがいるだろ。あれ、田口くんやらないの? でもまぁ、健児くんの指名だったら仕方ないか。あの二人、幼なじみなんだってさ。へぇ、そうなんだ?俺、あいつとあんまり仲良くないんだよね。ところであいつ、名前、何だったっけ?……そんなところだろうか。
 そんなようなことをぼんやり考えながら国道沿いの道を歩いていると、右手は横断歩道だった。ぼんやりしすぎて、うっかり横断歩道を越えてしまうところだった。信号は赤。大型トラックが埃と排気ガスを置きみやげに目の前を走ってゆく。この国道をまたぐ長い横断歩道を渡ってその先の坂道を昇りきれば僕の家、坂道を途中で曲がって突き当たりまで歩けば健児の家だ。たぶん、健児はまだ学校で遊んでいるか、誰か友達の家に行っているだろう。何のスポーツをやらせても上手い健児は、放課後いろんな友人たちから引っ張りだこなのだった。自宅までの上り坂で息が切れてしまう僕とは大違いだ。
 しばらく待って、僕が青に変わった信号を渡ろうとしたそのとき、向こう側の歩道に人影が見えた。
 それは、体操着姿の健児だった。

   ー続ー

しこり 2013年1月号

2013年1月1日 発行 1月号 初版

著  者:
発  行:フリーペーパー『しこり』編集部

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