spine
jacket

───────────────────────



座談会「ポスト・インターネットを読む」

インターネット・リアリティ研究会

インターネット・リアリティ研究会+ICC



───────────────────────

目次

インターネット・リアリティ研究会とは


座談会「ポスト・インターネットを読む」
プロフィール


はじめに

1|ネット・アート1.0からポスト・インターネットへ
2|SNSにみるポスト・インターネット的感覚
3|Paint FX
4|ハッキング vs デフォルト
5|アーティ・ヴィアーカント「イメージ・オブジェクト」
6|《10000セント》——Bot化する人間
7|《インターネット史上最も悪名高き女性》——どこまでが作品か?
8|DJぷりぷり=金太郎
9|二艘木洋行とお絵描き掲示板展
10|ポスト・〈インターネット・アート〉
11|擬似同期的サーヴィスから感じる他者の気配——インターネット上の〈幽霊〉

脚註

インターネット・リアリティ研究会とは

インターネット・リアリティ研究会は、エキソニモ(千房けん輔、赤岩やえ)、思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)、栗田洋介を中心に、2011年7月に開催された座談会「インターネット・リアリティとは?」をきっかけに発足しました。

わたしたちは現在、常時インターネットにアクセスできる/している状態で生活しています。そこでは、さまざまなサーヴィスを介して自分の行動や好きなものなどをネットで公開し、友人や家族、はては国籍や国境を越えた見ず知らずの人たちが今どこで何をしているのかという行動や状況を、ネットを通じて想像することができます。このような、インターネットそのものが日常を映すメディアとしてわたしたちの意識に浸透した状況において、わたしたちが感じるリアリティもまた変容しているのではないでしょうか。

そのような問題意識を元にした座談会を経て、その後展覧会「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」を企画、展覧会会期中もさまざまなゲストを交えた座談会によって議論を深めていきました。インターネット・リアリティ研究会は、このICCのホームページ内を研究会の主な発表の場として、展覧会以降も継続して活動を行ないます。これから順次、座談会の採録やさまざまなテキスト、また映像の記録などを公開していきます。

座談会「ポスト・インターネットを読む」

日時:2012年2月11日(土)午後4時
出演:萩原俊矢
   谷口暁彦
   栗田洋介
   渡邉朋也(ネット中継による参加)
   畠中実(ICC)

プロフィール

萩原俊矢
1984年生まれ。ウェブ・デザイナー。2012年、セミトランスペアレント・デザインを経てセミ・セリフ(http://semiserif.com)を設立。ウェブ・デザイン、ネット・アートの分野を中心に幅広く活動し、同時にデザインと編集の集団クックトゥ(http://cooked.jp)や、flapper3(http://flapper3.co.jp)としても活動している。CBCNETエディター。IDPW正式会員として第16回文化庁メディア芸術祭新人賞を受賞。
http://shunyahagiwara.com/

谷口暁彦
1983年生まれ。インスタレーション、パフォーマンス、ネット・アート、彫刻、映像作品などを制作する。主な展覧会に「ダングリング・メディア」(「オープン・スペース 2007」内「エマージェンシーズ!004」、ICC、2007)、「Space of Imperception」(Radiator Festival、イギリス、2009)、「redundant web」(インターネット上、2010)など。処女小説『四月の続き』が第二回京急蒲田処女小説文藝大賞にて大賞受賞。
http://twitter.com/hikohiko

栗田洋介
1981年生まれ。GRANDBASE inc.代表。ウェブ・デザイン、グラフィック・デザイン、CI/VI計画などのデザイン制作全般を中心にデザイン・ポータルサイト「CBCNET」やデザイン・カンファレンス「APMT」の企画・運営を行なう。その他にもデザイン・プロジェクトのディレクションやアーティストのコーディネーションなども広く手がける。
http://www.cbc-net.com/
http://www.grandbase.jp/

渡邉朋也
1984年生まれ。コンピュータやテレビジョンといったメディア技術をベースに、自作のソフトウェアを用い、パフォーマンス、インスタレーション、映像作品などを制作する。主な展覧会に「セントラルイースト東京(CET)」(東京・馬喰横山周辺、2007-09)、「scopic measure #07」(山口情報芸術センター[YCAM]、2008)、「redundant web」(インターネット上、2010)など。処女小説『中洲(川の)』が第二回京急蒲田処女小説文藝大賞にて優秀賞受賞。
http://bit.ly/watanabetomoya

畠中実
ICC主任学芸員。

はじめに

畠中:今日は、「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」展の座談会第二回「ポスト・インターネットを読む」をお届けしたいと思います。
 「ポスト・インターネット」というのは——この会場の中にインターフェイス論の水野勝仁さんが書かれた「ポスト・インターネットの質感」というテキストがあるので、そちらをお読みになった方もいらっしゃるかと思うんですけれども——この展覧会の大きなテーマでもある「インターネット以後」の美術、あるいは美術にかぎらないさまざまな兆候を表わすものだと考えています。それを「ポスト・インターネット」と呼んでいるわけですが、まだ結論のようなものがが出ているわけではありません。その中でわれわれ研究会が「ポスト・インターネット」について、水野さんのテキストを読みながらこの展覧会とも擦り合わせつつ、そうした「ポスト・インターネット」と呼ばれる状況を読み解いていく、今日はそういう趣旨で行ないたいと考えています。
 といったところで、いきましょうか。
萩原:それでは、よろしくお願いします。
(会場拍手)
萩原:ありがとうございます(笑)。まず最初にお聞きしたいのは、さきほど畠中さんのお話に出た水野さんのテキストを読まれた方ってどのくらいいらっしゃいますか?
谷口:おー、けっこう読まれてる、すごい。
萩原:人名や作品のタイトルなどの固有名詞が盛り込まれていて、もしかしたら難解な部分もあったかもしれません。今日はこのテキストを頭から追っていって、ここに書かれている作家はこういう活動をしてるんだ、とか、海外の「ポスト・インターネット」のムーヴメントとはどういうふうに起きているのかというところを僕たちも勉強しながら、探りながら、みんなでネット・サーフィンするような感覚で進めていければいいかなというふうに思っています。

1|ネット・アート1.0から
ポスト・インターネットへ

パーカー・イトー《インターネット史上最も悪名高き女性》2010-12

栗田:じゃあ最初はポスト・インターネットが出てきたあたりから始めましょうか。関連するアーティストたちは意外と若いんですよね。
谷口:そうですね、ポスト・インターネットに関連する作家、たとえば水野さんのテキスト内で触れられている「イメージ・オブジェクト」というタームを提言したアーティ・ヴィアーカント(Artie VIERKANT)が1986年生まれですよね。この展覧会に参加しているパーカー・イトーも86年生まれで、アメリカの西海岸的な——スケボーだったりファッションであったり——ライフスタイルも垣間見えてくる作家でもありますね。ポスト・インターネットは若手が牽引しているムーヴメントだという側面はあります。栗田さんは、数年前の時点ですでにパーカーにインタヴューを行なっていましたが、彼の作品を見つけたのはどういう経緯だったんですか?
栗田:それはやっぱりインターネット上で。パーカーの《インターネット史上最も悪名高き女性》に描かれているあの女の子は、ドメインが失効したときに表示される「404 Not Found」のページに使用されている、レンタルサーバ会社が適当に選んだ写真素材に写っていた子なんですが、結果としてドメインを失効するときの残念な気持ちの象徴になっている。ウェブを良く見ている人には馴染みあるモチーフなんです。それを絵にしてるっていうだけで「なんだこれ?」と思って、「パーカー・イトーは何者だ?」っていうブログ(http://www.cbc-net.com/log/?p=1264)を書いたのが最初です。すると、書いた1時間後くらいにメールがきて、さすがだな(笑)と思ったりして。それで、彼の他の作品とかを観るようになったのですが、どうやらその前から僕が個人的に好きで追っていたラファエル・ローゼンダール(Rafaël ROZENDAAL)というアーティストともつながりがあることがわかった。ラファエルは1980年生まれなんですが、ネット・アートの歴史に非常に詳しくて、90年代のネット・カルチャーについて話をしたりすると、「あれはもう、ネット・アート1.0だ」とか、そういう話をしたりしてましたね。
萩原:ちょうど「ネット・アート1.0」という単語が出てきたので90年代の話、つまり「ポスト・インターネット」という動向が起こる前の話をしましょうか。海外では90年代後半からすでにウェブ上のアート作品や活動が盛んでした。日本だと美術とネットという関係を作品として公開している人はあまり多くはなかったように思いますが、この研究会のメンバーであるエキソニモのお二人は早くから積極的に活動をされていました。
栗田:そうですね。僕が簡単にネット・アートを紹介するときによく見せてるのは、エキソニモの《DISCODER》(1999)(http://www.exonemo.com/DISCODER/)と《Space in Veda》(2001)(http://exonemo.com/SiV/)ですね。
萩原:いまはJavaScriptやHTML、CSSだけでできることもかなり充実してきて、ウェブで実験的な表現も気軽にできるようになっていますが、当時この作品で実現している込み入ったことをやろうとすると、Javaというコンピュータにとってネイティヴな言語を使うことが多かった。それで、エキソニモはJavaアプレットを使って、ブラウザをハックするような作品を作っていた。《Space in Veda》は、あるウェブページにいくと勝手にウィンドウが次々にポップアップして、動きまわりながら音を奏ではじめる作品ですね。
栗田:この作品が発表された2001年当時は、コンピュータの性能が低かったので、作品を見ようとするとクラッシュしたりとか、予期せぬことが起きるんです。だから、一般の人向けではないんですけど、ブラウザという僕らの新しい環境そのものを遊ぶっていう感じがあって、そういうのが初期のネット・アートだった。エキソニモ以外にも海外ではJODIとかオリア・リアリナ(Olia LIALINA)とかがこの時期にさまざまな試みを行なっていたのですが、そういうことが「ポスト・インターネット」の背景にはある。
萩原:やっぱり「ブラウザでこんなことできるんだすげー」みたいな感動が当時はあったんですよね。当時はまだインターネットをしようと思わないとインターネットをできないから、ブラウザという存在が僕たちにとって非日常だったんですよね。だから、そういうモチベーションでエキソニモのサイトにいくと、ウインドウがガシャガシャガシャーって動きはじめたりして、予測も見当もつかないわけですよね。
栗田:次に紹介したいのはアレクセイ・シュルギン(Alexei SHULGIN)の《Form Art》(1997)です。
萩原:これも有名な初期のネット・アート作品ですね。HTMLが提供しているいろいろなフォームのインプットボタンやテキストフィールド自体を素材とみなして、それを自由に配置して鑑賞者がクリックすることで作品が展開されていくというウェブサイトです。これも、本来ページの中に溶け込む、ただのボタンとしての機能しかないものだった要素を、いわば絵の具的に、というか、彫刻でいう素材的にひとつのオブジェクトとしてとらえて、配置していくことで作品を作り出すっていう。
栗田:これはOSやブラウザが変わると、質感も変わっていくっていうのがテーマとしてあって、いま見ると当時と全く印象が違う。
谷口:いまでもまだ見られる作品の形態ですよね。
萩原:最近ではアンドレイ・ヤーツェフ(Andrey YAZEV)というモスクワのアーティストが、このフォーム・アートを一歩進めた表現をしていますね。フォームっていうのはただのブラウザの機能だと思ってたのに、こういう見せ方もあるんだって驚きとともに、特別な体験として提供されていたっていうのが初期のネット・アートにはあるのかなぁと思います。
栗田:そこから一時期Flashを使ったリッチ・コンテンツが増えてきて、2000年からの10年くらいはそういうネット・アートみたいなムーヴメントが一気に衰退して、あんまり見られなくなった。
萩原:Flashのヴァージョン5の発売が2000年で、そこからはAction Scriptでいろんなものが動かせるようになってきた。
栗田:そして、映像だとかコンテンツがリッチになって、ユーザー側もこういう、ブラウザ自体の質感をあまり気にしない時代になってきた。さらに、2005年くらいからSNSをはじめとするウェブ・サーヴィスが普及して、もっと個人の日常にインターネットが近寄ってきた。そういう時代の新しい感覚を活かした新しい作家が活動し始めてきてポスト・インターネットが出てきたのかなと思う。

アレクセイ・シュルギン《Form Art》1997
http://www.c3.hu/collection/form/

2|SNSにみるポスト・インターネット的感覚

萩原:ただ、「ポスト・インターネット」という言葉が、いまどういうものを具体的に指してるのかというのが非常にわかりにくい。ムーヴメントの話なのか、それとも日常的にある感覚の話なのかっていうのがすごく曖昧。「インターネットってなんだ?」って聞かれてもわからないのと同じように、「ポスト・インターネットってなんだ?」って聞かれてもなんだかよくわからない。ただ、「ポスト・インターネット」的な感覚は確実にどこかにあって、たとえばSNSとかが流行りはじめたときに、日本ではmixiがまず出てきましたが、そのときには、衝撃的な「足あと」という機能がありました。それまではBBSにしてもウェブサイトにしても、ユーザーが能動的に投稿することによって初めてそれが反映されてテキストや写真が見えていたわけです。しかし、mixiでは他のユーザーのページに行っただけで足あとが残ってしまう。これによって、こちらの意志とは関係なく行為が可視化されるようになってしまった。それまでは、僕がたとえば谷口さんのページに行ったら、僕が行ったという感覚はあっても、谷口さんに見られたっていう感覚はなかったはずなんですよね。そこに足あとが残るということによって、みんなが異常に足あとを気にするようになってきた。「あの人が見に来てくれてる。僕の日記読んでくれたんだ」とか「じゃあこのことを知ってくれてるんだ」という意識が生まれ、「足あと」の奴隷のようになって、「mixi疲れ」と呼ばれる現象が起きたわけじゃないですか。ああいう現象がいま、ここでいう「ポスト・インターネット」みたいな感覚の始まりに近いような気がします。
谷口:それちょっとわかるな。たとえば、足あとのつかない、ほんとにどこにでも自由に行けるっていう状態だと、べつにどっかエロサイト見に行ったってなんの負い目もなく見られるわけですよね。だけど、足あとがつくっていうことが起きると、日常の生活空間と同じように傷跡というか痕跡が残っちゃう。それによって自分の行動とかが制限されるということが起きはじめたのがその頃かもしれないですね。
萩原:SNSが徐々に広がっていったことによって、いままでのBBSのように、掲示板に書き込んだことに返信があって初めてコミュニケーションが発生していたところからもう一歩踏み込んで、よりプライヴェートな領域をインターネットに渡してしまったという感覚があるのかなって。で、mixiが当たり前になった頃に今度はTwitterが出てくる。
 Twitterだと今度は、ふぁぼるという行為があります。ふぁぼるっていうのは、要するに個々のツイートを「お気に入り」に入れるということです。最初は誰がいつ自分のツイートをふぁぼってくれたかを可視化する機能がなかったのですが、サードパーティ製のTwitterクライアントが乱立する中で、そういう機能を独自に盛り込んだクライアントが出てきて、いまではオフィシャルな機能として通知が来るようになった。要するに、mixiの足あとと同じで、自分のふぁぼりが相手に伝わってるということですね。これでまた、自分だけの領域だったはずの部分が相手に譲ることになって、プライヴェートが侵されるような感じになりました。具体的に言うと、気合い入れてツイートしたのに誰からもお気に入りにされなかったときに、はずした感やすべった感みたいなのが現われてくる。ただの言語のやりとりだけだったはずのところに、無意識だった部分が出てきちゃったという面は、ありますよね。
渡邉:これはTwitterに限らず、SNSではもう一般的な仕掛けですよね。FacebookやInstagramのLikeとかもそうですし、Pathに至っては投稿を見られただけでそれが数字としてカウントされます。Pathは心理学だか脳科学だかの知見に基づいてアーキテクチャが設計されているという話題がありましたが、こういうことはもう人間の本能レベルの欲求の表われなんだろうなと思います。ただそこをピンポイントで刺激して、アディクトさせられ続けるとやっぱり疲れてきちゃうんだろうなとも思う。あと、このあたりのことは日本だとTwitterに先駆けて、はてなダイアリーとはてなブックマークとはてなスターといった、はてなのウェブ・サーヴィス群がかなり先鋭化した状況をつくりだしていたように記憶しています。
栗田:実感としては確かにあるんだけど、一方でそういう文化は海外ではあまり聞かないし、パーカーたちの周辺にはまったく欠如してる。そもそも基本的にTwitterをやってないんですよ、みんな。やっていても、たいしたことを書いてなかったり、とにかくそこには全然リアリティを見出してない。日本人はやっぱり神経質だから、「あの人にふぁぼられた」とかで嬉しくなったりするけど、彼らの「そういうのどうでもいいんじゃね?」みたいな態度にも、ポスト・インターネット感をちょっと感じる。一喜一憂してたらすぐ人生終わっちゃうよ、みたいな。ラファエルなんかも「Facebookは一日20分で充分」と言ってたりとか、そういう日常生活におけるウェブ・サーヴィスの位置づけの違いはすごく感じますね。だから彼らが「インターネットはもう日常的で、それ自体が生活のものだから、インターネットがある状況みたいな、オンライン/オフラインみたいな区別はもうない」って書いているのが、水野さんのテキストの冒頭で引用されているのは、すごく理解できる反面、僕らとはちょっと違う意識もあるのかな?と感じますね。
萩原:たとえばiPhoneなどのスマートフォンが一般的になって、いつでもどこでもTwitterを見ることができるようになった。というか、Twitterを見てなくても、メールが届くよりも気軽にTwitterからのお知らせがプッシュされたりして、実際にインターネットから切断されるということが少なくなってきてる。そういう状況だと、たとえば僕がTwitterで20人フォローしていたとしたら、その20人のうち3人が「これ面白い」ってつぶやいていると「これ世の中ですごい流行ってるんだ」という感覚になってしまう。そうなってくると、さっき栗田さんが言ったような「インターネットはもはや目新しいものではなく、平凡であり、陳腐なものになった」っていうような話につながるのではないでしょうか。
栗田:ポスト・インターネットでよく言われる「Banality」っていう言葉は、「陳腐」とか「平凡」という意味になるんですけど、彼らは「それ自体を取り上げても面白くない」みたいな感覚で言ってるみたいです。「ふつうにインターネットを扱う作品はもうつまんないから、意識しないで、ふつうに作る」みたいな感じ。一方で、僕らは、「日常的に見ている」という意味——「オフラインがない」って意味もあるけど——でとらえている。
萩原:そこで、 ウインドウを使った作品のような初期のインターネット・アートが持っていた、あからさまに、インターネットをハックするような前のめりな姿勢を否定しはじめる若い世代のアーティストによるムーヴメントが、いま国内外を問わず根づきはじめているんではないか。

3|Paint FX

谷口:ちょっとここで「Paint FX」とかを見せましょうか。(会場内のプロジェクションを指しながら)いま、表示しているのが「Paint FX」っていう、Tumblrをベースにした……なんていうかな、一ヶ月から二ヶ月ぐらいの、いまの日本のネット上のスラングでいうと「祭り」に近いイヴェントで……いや、ちょっと違うか。
萩原:ジョン・ラフマン(Jon RAFMAN)とパーカー・イトーと、テイバー・ロバック(Tabor ROBAK)をはじめとする5人のアーティスト[*1]が、Tumblrを使って、ひたすらベターッとしたマチエールの——マチエールって言うのかな?——意味不明な画像をアップしているウェブサイトですね。ただ、絵自体は見ていても、よくわかんないんですよね。
谷口:僕はたしかTumblrかなんかで流れてきた画像に出会って知ったんですよね。で、このセンスちょっとヤバいなと思って(笑)、ちょっと追っかけてたんです。最初はPhotoshopにデフォルトで入っているエフェクトを使っているのかなと思っていたんですが、その後、パーカーに会う機会があったので聞いてみると、「ArtRage」という、ちょっと特殊なソフトを使ってるんだそうです。ArtRageというのは油絵とか水彩画っぽい雰囲気を気軽に出せるPhotoshopみたいなアプリケーションで、あくまでフェイクをつくり出すものなんですね。
萩原:たぶん本来は、趣味で絵を描いてる人が、パソコンでも「絵画的な絵」を描けるというようなソフトだったはずなんですけどね。だけど、Paint FXでは基本ツールである油絵のブラシだったりとか、そういうものを多用して、エフェクトもスライダーいっぱいまで振り切ったりとかして(笑)、一番過激に見える状態で、絵を描くっていう。
渡邉:主題と呼ばれるようなものは一見なさそうだし、作家の内面とか神秘性もほとんど感じられないんだけど、逆にArtRageのスライダーのパラメーターの振り切れ方とかは痛いほど伝わってくるのが面白いですよね。半ばArtRageに描かされているといったような趣きがある。いま、コンピュータ画家の「アーロン」がそれこそ水彩画風、油絵風の画像を生成できるように進化しつつあるその脇で、こういうムーヴメントが出てきたというのも面白いなと思います。
栗田:けっして美しくないんだけど、こういう質感と色彩をもっているイメージが、このへんの界隈とか、ヨーロッパも含めて大量に出てきている。こういう色彩と、あと猫。みんな猫大好きだから、インターネットには猫の写真や映像が大量にあったり、そういうのも作品の要素として使っていたりする。
谷口:さっき取り上げたエキソニモの《DISCODER》や《Space in Veda》みたいな、すごいプログラムを駆使した作品とは全然違うベクトルなんですよね。それがたぶん、「ハッキング対デフォルト」という問題系だと思います。

Paint FX
http://paintfx.biz/

4|ハッキング vs デフォルト

Hacking vrs. defaults:http://guthguth.blogspot.com/2007/01/hacking-defaults-hacking-nintendo.html
※和訳ページ:http://okikata.org/ir/hacking_vs_defaults/hacking-defaults-hacking-nintendo.html 

谷口:水野さんのテキストのなかにトム・ムーディ(Tom MOODY)っていうアーティストが出てきます。彼もポスト・インターネットを語るうえで重要な人物のひとりなんですけれども、彼がこの90年代以降のネット・アートの潮流について、「ハッキング対デフォルト」っていうような言い方でまとめてるんですね。
 要するに、最初に取り上げた初期の90年代ぐらいまでのネット・アートは、いわゆるハッカーによるものだというふうに言ってるんですね。テクノロジーに対するある種の恐怖、たとえばインターネットにおいて個人情報が流れていってしまうことだとか、行為がデータベース化されて監視に近い状況に置かれることだとか、そういう状況に対して、「本来のある姿を取り戻すべきだ」とか、「そこに対してハッキングして自分でコントロールできるものにしてかなくちゃいけないんだ」という危機感や責任感のようなものがあった。だから、プログラムを書いてそこにアクセスして変えていこうという、ハッカー文化的なことが考えられていたんだと思います。
 ムーディはここで「Anxiety」、つまり「恐怖感」とか「不安」という言葉を使っていて、これに対する言葉として、「Banality」を位置づけているんですね。だけど、さっきのPaint FXなんかを見ていてもわかると思うのですが、もう全然そういう危機感や恐怖感はないんですよね。
栗田:面白いですよね。ハッカーは「ロックンロール的態度(Rock & Roll attitude)」で、デフォルティストは「むちゃくちゃ謙虚(Exuberant humility)」みたいな(笑)。たしかに、90年代は「壊す」みたいな精神があったけど、いまはみんなオシャレな感じはしますね。
谷口:ぼくらが最初にこの展覧会を考えるうえで、「ポスト・インターネット」をどういうふうにとらえるかっていうときに、この「ハッキング対デフォルト」って構図は極めてシンプルで、説明がつきやすいものだった。けれど展覧会の設計を進めていくうえで、ちょっと違ってるんじゃないか?っていう部分も出てきたと思うんですね。またそれは後半で話せたらいいのかな、と。
萩原:あとジョン・ラフマンの《The Nine Eyes of Google Street View》ですよね。この作品名は、Google ストリートビューを撮影する9個のレンズが付いたカメラのことを指しています。ラフマンは、ただ単にGoogleストリートビューにある景色で面白かったものをキャプチャしてTumblrにアップすることで自分の作品を作っている。写真家という言い方はできないかもしれないけど、セレクターみたいな言い方はできるかもしれない。
栗田:このプロジェクトは最近、本として出版されましたね[*2]。ストリートビュー上の画像ってGoogleのものじゃないですか。(《ナチュラル・プロセス》の方を見ながら)権利関係は大丈夫なのかな?って思いましたけど。
萩原:「ポスト・インターネット」では、これまで話してきたように「わりともう日常になってるじゃん」という感覚を前提に置いたうえで、作品づくりを考えていくっていう作家がすごく多いなぁっていう印象なんですよね。
谷口:水野さんのテキストにも登場するルイ・ドゥーラス(Louis DOULAS)が、ハックするかたちで生み出されるアートとは別の、生活の一部になったデフォルト的なインターネットの在り方をテーマとして使うアートのことを「ポスト・インターネット」と言いはじめた。それが、僕らがこの展覧会を作るうえでのベースになっている。
萩原:もちろん、ハッキング的な精神がいいとか、反対にデフォルト的な精神がいいというような二項対立で話をしているわけではなくて、どっちでも作品はもちろん発生するんだけど、最近こういう風潮が出てきてるから、一回みんなで調べてちゃんと考えてみる。そういう感覚ってどういう感覚なんだろう? って、考え直してみようということで、この座談会が行なわれたという経緯もあります。

ジョン・ラフマン《The Nine Eyes of Google Street View》
http://9-eyes.com/

5|アーティ・ヴィアーカント「イメージ・オブジェクト」

アーティ・ヴィアーカント《イメージ・オブジェクト》2011- の紹介ページ
http://artievierkant.com/imageobjects.php

谷口:ここで紹介したいのが、アーティ・ヴィアーカントっていうアメリカのアーティストで、去年パーカー・イトーがキュレーションした「* new jpegs *」というグループ展[*3]にも参加していました。水野さんが書かれたテキストに出てくる「イメージ・オブジェクト」の問題を最初に提示したというか、提言したのが彼で、インターネットが日常化した先にどういったヴィジョンがあるのかということを、けっこうわかりやすく、悪く言えばすごく即物的に実現していて、今回の展覧会をより深めて考えていくうえで、重要なアーティストのひとりかなと思ってます。
 彼はそういう問題を提示したと同時に、同名の作品シリーズを作っていて、これは、コンピュータで作成したグラデーションの画像を、写真と同様の高精度でプリントして、ギャラリーに展示するというものです。で、この展示の模様を一度写真に記録して、そのデータをPhotoshopか何かで改変してウェブサイトにアップするんですね。これを見ると、同じパターンが反復してますよね。Photoshopとか仕事でしたことある人はわかると思うんですけど、スタンプツールや選択ツールというツールを使うと、そのままズルって、コピー&ペーストの要領で同じものを反復できるんですね。そうやって、こういう画像を作るんですね。で、展覧会を行なうたびに、必ずこういう画像をいっぱい作って、オフィシャルな記録として、たとえばフライヤーに掲載する図版として使用するんです。でも実際に観に行くと、改変前の作品が置いてあったりする。
萩原:すごく複雑な構造になっているんですね。彼は、インターネットによってオブジェクトっていうものの考え方がちょっと変わったんじゃないかっていう提言をしています。「イメージ・オブジェクト」における〈イメージ〉は、画面の中のもの、イメージという意味で使われています。〈オブジェクト〉っていうのは実物、リアルに置いてある物体っていう意味なんですが、でもその間の子みたいな、〈イメージ・オブジェクト〉という存在が、インターネット以後は感覚として生まれているのではないか。「ポスト・インターネット」の時代では、そういうものが発生してるのではないか、という読み方を水野さんはされているんですが、実際にアーティ・ヴィアーカントは、かなり意図的にそのへんでアプローチしようとしているように見えるんですよね。
渡邉:アーティの論文「The Image Object Post-Internet」(http://jstchillin.org/artie/vierkant.html)でも触れられているのですが、なにか美術作品があるとして、ギャラリーに展示されているものと、その記録との間に優劣の差を付けない。いずれも数あるバージョンのひとつに過ぎない、ということですよね。シミュラークルの延長と言うか。ふつうは、実物の方を「本物」と見なして、なんとなく絶対化しちゃってますけどね。でも、経験の質の差を無視したうえで、いま僕らが美術作品に触れるときのことを考えると、ギャラリーや美術館よりも、カタログレゾネやインターネットの画像共有サイトなどを通じてなされることの方が圧倒的に多い。
谷口:たぶん、アーティ・ヴィアーカントの作品を目にするとき、多くの人が最初に、Tumblrとかネット上であの改変された画像を見ると思うんですよね。で、それを観に行ったら、改変された画像のような作品はない。だって、改変された画像が流通してるわけですから。この作品は、流通することと、実際そこにあるものの差異ってことを問題にしてるんですよね。
 あと、この改変された画像にはギャラリーとかで展示されているようなリアルな質感も残ってるじゃないですか。だから、「どこかで展示したんだろうなぁ」と思う一方で、その画像には明らかに実空間では不可能な質感もあるから、「Photoshopで加工したんだろうな」とも思うわけです。それに、もともとのレリーフ自体がけっこうわかりにくい。質感が薄いっていうか、なんというか。だから、どこまでがPhotoshopでどこまでが実空間なのか曖昧なままに経験されてしまうんです。そういう経験の二重化の問題もあるのかなと思います。
 20世紀のアメリカの美術教育/研究の形式で「ピクチャー・スタディ」っていうのがありましたよね。雑に言うと、アメリカにいるとヨーロッパにある作品を観られないけど、写真によって流通とある程度の分析が可能になるっていう話なんですけど、そこで要求されていたイメージの同一性というのが、いまのインターネット上ではさほど重視されていないってことで開かれてる作品とも言えると思います。
畠中:ちなみにその改変というのは、誰がやってもいいの?
谷口:これは本人しかやってないですけど、「* new jpegs *」では、プレスリリースに会場内の写真を一緒に添付してるんですよ。誰でも自由に改変して、Tumblrにどんどん流していいよってことになってるんですね。
萩原:ネットと実世界をパラレル世界だとして、双方におけるリアルの、実際のオブジェクト同士で、〈イメージ〉と〈オブジェクト〉が一緒に合わさって初めてひとつの作品として成立する、みたいな概念を「イメージ・オブジェクト」っていう名称をつけて言おうとしているんですね。こういう、イメージとオブジェクトっていう感覚が一体になっているっていう状態は、非常に「ポスト・インターネット」的で、ヴァーチュアルなものがリアルに浸食してきちゃっている、もしくは、リアルなものがヴァーチュアルなものに浸食してきちゃっている。それは、僕たちがTwitter以後身につけてる感覚とすごく相性がよいので、「ポスト・インターネット」っていうものを一概にアート・ムーヴメントと言い切ることができない。もっと抽象的な……インターネットによって変換された感覚というか、インターネットがないともう成立しない何か。
 それこそよく栗田さんが言う、風邪をひいてたことを直接伝えたつもりはないのに、打合せに行ったらその人に「萩原さん、風邪大丈夫ですか?」って訊かれて、「え? なんで知ってるんですか?」って感じになるけど、その人はTwitter越しに、Twitterの萩原から、その情報を受け取っているみたいな状態がもう発生している。それはたぶんTwitterの萩原が〈イメージ〉で、実物の僕が〈オブジェクト〉で、その〈イメージ・オブジェクト〉が重なった状態で打合せに行くと、そういう状態が起きる。そういう「ポスト・インターネット」的な現象が日常的に起こっている。で、水野さんのテキストにあるように、ガスリー・ロナガン(Guthrie LONERGAN)っていうネット・アーティストが、「インターネットを意識したアート(Internet Aware Art)」っていう考え方を提唱している。この言葉には、「アートはまだまだだけど、インターネットについてはみんながとっくに意識している」っていうような皮肉が込められている。たぶんそういう、風邪ひいてるのを事前に知ってる、みたいな〈イメージ・オブジェクト〉の状態はさんざんみんな経験してきたくせに、アートはそれに追いついてないっていう批判を込めて。
谷口:インターネットにカッコが付いてて、「まだ、意識的なアート」とも読めるちょっと皮肉を込めた言い方でね。
 展覧会場内のこのスペースで、僕らが座談会をやっていない時には、Google Docs上に書いている「ポスト・インターネットのリアリティ」についての論考が表示されています。これは、断続的に更新されていて、リアルタイムにその様子がわかるようになっています。この論考の一番最初の方で、いま言った〈イメージ〉と〈オブジェクト〉、アーティ・ヴィアーカントの作品だとか、萩原君の「風邪ひいた問題」とかにも関係してくるんですけど、「サザエbot」というTwitterのアカウントについての問題に触れています。というのは、この展覧会の内覧会の時に、そのサザエbotが『オペラシティICCにて「インターネット アート これから」展なう』(http://twitter.com/#!/sazae_f/statuses/162835760842686464)って投稿していたんですよ(笑)。ちょうどその時にここで、僕と渡邉君と僕と畠中さんで座談会をしてたんですね。で、そのときにこのつぶやきを見つけて、けっこう会場内がざわついたんです(笑)。「サザエbotどこにいるの?」みたいな。結局、内覧会が終わるまでにサザエbotが誰なのかはわからなかったんですね。そうなってくると、少なくともこの実空間においては、サザエbotが本当に来てるかどうかっていうのは疑わしさも含めた感じで、中途半端になってしまうんですよね。だけど、会場ではなくて、たとえば自宅とかでこのサザエbotのつぶやきをみたら、たぶん、それ信じちゃうと思うんですよね。なんの疑いもなく「あーサザエbotの中の人がICCの会場にいるんだな、それやべーな」と思う。だけど会場内にいると、それが誰だか特定できずに、ちょっと疑わしいものになって、Twitterのつぶやきのリアリティが相対化されちゃうんですよ。こういう現象の起き方っていうのが、さっきのアーティ・ヴィアーカントの〈イメージ〉対〈オブジェクト〉の問題とけっこう近いのかなって思ったんですよね。Twitter上だったら信じられる問題が、実空間と相対化されるとちょっと曖昧になる。
萩原:サザエbotにはフォロワーが17万人もいるんですが、それってもう芸能人みたいっていうか、ある種のセレブですよね。セレブなんだけど、みんな〈イメージ〉の方は知っていても、〈オブジェクト〉の方は誰も知らない。だから、みんなが会場でサザエbotを探していたその中で、もしかしたらそのサザエbotの中の人自身も「サザエbotどこだよ?」とか言ってたかもしれない……という状況がここで起きていて。そこにすごい「ポスト・インターネット」らしさを感じた。
渡邉:サザエbotって名前に「bot」って入ってますけど、厳密にはBotじゃないですよね。サザエさんのふりをした人間が、自力で入力して投稿している、いわば「なりすまし」です。ただ、普通の人間のアカウントと違って、文体が醸し出す世界観が異常に強固だったり、こちらがリプライを飛ばしても、そんなに返してくれなかったりするあたりがBotっぽくて、そこから「bot」という名称が付いているんでしょうね。このあたりは、「メカニカル・ターク」の問題ともつながると思います。

アーロン・コブリン+川島高
《10000セント》2008

6|《10000セント》——Bot化する人間

萩原:この展覧会にも出品されている川島高さんとアーロン・コブリンさんの作品《10000セント》(2008)は、世界中のいろんな人が100ドル札のパーツを描いていって、それを集めて大きい一枚の100ドル札の絵にするという一連のプロセスのプラットフォームとして、Amazonが提供している「アマゾン・メカニカル・ターク」というウェブ・サーヴィスを使っているんですよね。この「メカニカル・ターク」というのは18世紀に作られたトルコ人風のかっこうをした人形がチェスを指すという装置で、最初は人間とチェスを対戦してくれる機械、ロボットだと喧伝されていたんです。でも、実際は箱の中にはチェスの名人が入っていて、その人が挑戦者と対戦していたというわけです。[*4]で、それが、サザエbotにつながっていく歴史上の最初の例ではないかと思います。いまはそこのブラックボックスに対してみんなが柔軟になりすぎちゃってるから、Botと言われているものが人間なのか、プログラムなのか、ということがもうどうでもよくなっちゃってて、「つぶやきがおもしろけりゃいいじゃん」みたいな、そういう感じもありますよね。
畠中:そういった、機械がやってるように見せかけて実際には人間がやっているというのは、実はいまのインターネットのデータのフローにも言えることですよね。《10000セント》では、作者は二人なんだけど、実際には1万人で1枚の絵を描いている。インターネットも同じで、たとえば検索結果の精度が向上するのも、多くの人が検索をする、その結果によるところが大きい。インターネットの仕組みの裏側では、実はかなり——意識的にではないにせよ——人間が関与しているっていう、そういう話ですね。
谷口:アーティ・ヴィアーカントの〈イメージ・オブジェクト〉のような同一性のベクトルを逆にしたような作品を見せられたときにはっと気づかされるのは、インターネットって、やっぱりちゃんとメタメディアになっていて、「こういう美術展の展覧会がありました」とインターネット上に写真がアップされたら、「ああこういう展覧会だったね」って信じちゃうわけじゃないですか。その写真の同一性を疑わない。だけど、本来それは改変可能だし、ただのデータでしかないから、アーティ・ヴィアーカントのように改変してしまってもいいんですよ。それでも、みんな疑わずにある程度リアリティをもって受け取ってしまう。
 同じように、サザエbotの「ICC展なう」っていうつぶやきをTwitterで見る限りにおいては、その同一性とか確からしさを信じてしまう。だから、インターネット上における主体っていうか人間のあり方は、サザエbotのような、半分手動、半分自動的なBotについて、本当に中に人がいるのかどうかっていうのを疑わなくてもよくなっている。
 あと、《10000セント》を展覧会に出そうっていうときの、別のプランとして、震災のときに、電車の運行状況をTwitterの検索結果からひっぱってくるという事例があったと思うんです。あれは、単純に「山手線」と検索したら、いまの山手線の運行状況がTwitterの検索結果からわかるっていう話だった。それは、やっぱり人間が検索Bot化してしまう瞬間だと思うんですね。そういうふうに、けっこうインターネット上にある情報については、同一性を僕らは疑わないんだけれども、つまりそれはBotと人間が区別できないくらい、インターネット上の主体のあり方の解像度みたいなものが粗いってことでもある。インターネット上ではBotも人も平等というか(笑)。
萩原:そうですね。インターネットではプログラムにしても、文化にしても、たとえばGoogleが提供したアルゴリズムが、どんどん人によって改善されていく。「これは人間が本当に『いい』って言っているから、たぶんいい情報なんだろう」というような取捨選択をプログラムがやって、でもそのエンジンというか、回してる部分を人間がやっているような状態っていうのは、インターネット上のけっこういろんなところにあると思うんですよね。たとえばWikipediaでいうと、仕組み部分はすごく抽象的なプログラムのかたまりなんだけど、記事を書いたら誰でも改変できて、それがどんどん大きくなっていく。一般のユーザーはあまり書いた側のことを意識しないで、ただ情報のかたまりとしてみんな見てるんだけど、実は全部それが人間から生まれているという状態が、ほんとうに日常的になってる。そこへきて、TwitterではBotが、Botなのか人間なのかもわかんないし、むしろ、もうそういうことを人間が気にしないっていう感覚も出てきている。今回の展覧会の作品って本当にそういうテーマでやってるものが、たくさんある。結局何人で作ってるのか、誰が作ったのかがよくわからない。
栗田:そのへんの問題はけっこうずっとぶつかってきていますよね。《10000セント》も紙幣の偽造にあたるのか、あたるとしたら誰の犯罪なのかという問題もあった。それこそ、たとえば最近のムーヴメントでいうとカオス*ラウンジがぶつかってるのも最終的に著作権だった。そこの社会との接続がいまだにどこもできてないっていうのは、けっこう単純な話といえば単純な話なんで、もうちょっと社会の仕組みとどうつながるのかなというのは、今後も考えるべき点かもしれないですね。

7|《インターネット史上最も悪名高き女性》
——どこまでが作品か?

萩原:誰が作ったのかという問題は、パーカーの作品もまさにそうですよね。あのパークドメイン・ガールっていうのは、どこかのドメイン業者が期限が切れたドメインを勝手にかっさらって、その「差し押さえたんで、お金を払ってくださいね」っていう象徴として、たまたまあの女性の写真が使われていたことに起因してます。写真自体は誰でも買って使える写真素材(http://istockphoto.com/stock-photo-746781-attractiv-student.php)なんだけど、それをパーカーが、中国にある、自分が送った画像を油絵にしてくれるっていうサーヴィスに発注して絵にしている。そのサーヴィスだってもともとは「お父さんが60歳になったから、記念にお父さんの写真を油絵にして飾ろう」みたいなときに使われるサーヴィスだと思うんですよ。それをパーカーがハックというか、ちょっと工夫して、誰だかわかんないけどウェブ上によく出てくる女性を、中国の誰かよくわからない、専門的な教育を受けたかどうかもわからない人に描いてもらって、「自分の作品です」っていって売っている。自分の作品だと言っているのはパーカーだけど、本当は誰の作品なのか? このことは《10000セント》が、アーロンと川島さんが仕組みを作ったけど、じゃあ誰の作品なんだって言ったらそこが全部宙ぶらりんになっちゃうのと、構造としては同じですよね。それが今回、隣同士に並んで展示されている。
 「Twitterが誰のものか」とか、「Wikipediaが誰のものか」とか、そんなこと言っててももうわかんなくて、「インターネットっていうのは、もうそういうことが当たり前でしょ」っていう感じもある。さっきの〈イメージ〉と〈オブジェクト〉の問題とは別のところで、そういう境界がどんどん曖昧になってきていて、それも、なんかポスト・インターネット的なんですよね。
栗田:どこまでが作品かが、体験者にも委ねられてるというか、どこまで考えるかで作品となる。パーカーは業者にメールしかしてないんだけど、様々な文脈を通って作品へつなげている。
萩原:「ポスト・インターネット」という言葉がすごく複雑に感じる原因は、そこにあるのかな。アーティ・ヴィアーカントが個人で作ってる作品は、〈オブジェクト〉と〈イメージ〉っていう二つのパラレルな世界の乖離とヴァージョンの複数性について触れている。一方で、川島さんやパーカーのやっていることも、作品を匿名と複数人というで作るし、改変もどんどんされちゃうようなものを作って、どこまでが作品かっていうのがわからない状態っていうのを意図的に作り出している。つまりポスト・インターネットへのアプローチに、個人的なものと、複数人からなるものの同じようで違う二つがまざっている。その接続を、今後ちょっと考えていきたいなあと思っています。
谷口:ただ今回ICCに展示されてるパーカーの作品のうち、彼のサインが四回繰り返されているものなんかは、「この作品が誰のものなのか問題」を、作者本人がけっこう悩んでるんじゃないかなと思わせるんですよ。というのは、よく見ると、微妙に背景とか、ハンナ[*5]の髪の毛とかがプリントなんですよね。で、よく見ると髪の毛だけ描いてあったり、顔だけ絵の具で描いてあったりする。で、そこにさらにオリジナルにはない絵の具がけっこう雑にのっているんですね。何カ所かポンポンポンと。かつ、パーカーのサインが四回入っている(笑)。なんかあのへんにパーカー本人の迷いのようなものが読み取れるのではないか、とも思ったりしたんですよ。
 例えばハンナのイメージは大量生産が可能、複製が可能な、いわゆるキッチュなものじゃないですか。それに対してサインを行なうっていうのはデュシャンの《泉》ぽい。しかも一回だけじゃなくて四回サインしている。もしサインが一回だけ画面の右下で行なわれてたら、ふつうに絵の署名として見るから、絵の中の要素としては見ない。だけどそれが二回以上行なわれると、「意図して二回行なった」という意味が出て、画面の一部として見えてきちゃう、っていうか。サインじゃなくてグラフィックとして見えてきちゃう。ロバート・ライマンっぽい。きっとそういうことも考えているんじゃないかと。あの絵の変化を見ていると、実はパーカーはけっこう戦略的で、かなり悩んでいる作家なんじゃないかと思えてくる。
渡邉:欧米のポスト・インターネット界隈の作家って、20世紀の現代美術からの引用が多い印象がある。
萩原:「パーカーがどこまで考えてるか問題」っていうのもすごいありますよね(笑)。ものすごく構造が複雑で、すごくおもしろいんだけど、やっぱり彼ってスケーターなんですよ。スケーターって都市を読み解く力がハンパなくて、ちょっといいスロープがあったら「そこを攻めてやろう」とか、滑ったりとか、階段の手すりにスケボーでがーんと乗っかってすごいスピードで下りて来てコケて怪我するとか、「怪我しないためのもの」を別の用途で使いこなしてる。パーカーって、そういう感覚でインターネットを見てる感じがする。手すりを見つけたら「ここだー」みたいに突っ込んでいく感じがすごいあって、その、パークドメイン・ガールをサッとさらって「俺のもん」みたいな感じにして、あれで一気にインターネット界隈ですごく有名になったのが、見事なトリックを決めたような感じがするんですよね。たぶん彼は、そういうことを一個一個言っていったら「そんなこと考えてない」って言うかもしれないけど、どっかでそのインターネット的な感覚が染みついてやってる結果、ああいうものが生まれてきてしまってるのかな。
谷口:結果としてああいうふうになったってのがおもしろい。
萩原:すごいおもしろい作品だとは思う。

8|DJぷりぷり=金太郎

DJぷりぷり=金太郎
撮影:小浜晴美 
《金太郎》2012(「[インターネット アート これから]」展示風景)
撮影:木奥恵三

畠中:この論考は、今回のような座談会を繰り返しつつ、いままさに書いてるものなんだよね。その続きを書くためにもいろいろ話をしていければと思うんですが……。
萩原:そうですね。ぷりぷりさんの作品とかはある種唐突に見えるところがあると思うんですけど、この作品というか、状態も難しくて。
谷口:このテキスト書いてるときに、この議論が参考になるんじゃないかと思って紹介したのが、以前ICCで行なわれた「Twitterの中のわたし」(http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2011/Architecture_I_make/index_j.html)っていう企画内での濱野智史へのインタヴューです。その中で濱野さんが、Twitterにおける人称みたいなものを取り上げていて、Botじゃない実在する人物のTwitterのアカウントでも、人気のある人っていうのはある種Bot化してるんじゃないかってことを言うんですね。Bot的に、Twitterユーザーの好む内容に洗練されていくというか、最適化されているんじゃないか、と。
 で、ぷりぷり君ってTwitter上だと自分に関連するつぶやきを全部リツイートしているんですね。自分の情報をありとあらゆるかたちで拡散させていくっていうことをやっていて、金太郎状態のぷりぷり君の目撃情報がバーってTwitterのタイムラインで埋め尽くされたりすることがあるんだけど、それがまさにTwitterに最適化された存在の在り方なんだよなってのは思います。
萩原:これもどこまで言っていのかわからないけど、いまは冬で寒いから、ぷりぷり君はちゃんちゃんこみたいな服を着てるんですよ。でも、「これじゃあ金太郎って思われないからつぶやいてもらえないかも」ってすごい心配していたんですよね。
渡邉:同じ前掛けを付けていても、肌の露出度が高い方がツイートされやすいらしいんですよね。今回、ぷりぷり君の展示キャプションは、本人にあまり深く話を聞かずに、展覧会のテーマに引き寄せるかたちで書いたんですけど、展示の仕込みで会ったときにそういう話を聞いて、「ああ間違ってなかったんだな」と安心すると同時に、ちょっとヒキましたね。すごい内面モデルですよ。
萩原:まさに「Twitterの中のわたし」が作品化してるというか。この展覧会の会場では、ぷりぷり君について言及したツイートがプロジェクションされてるんだけど、それを見るとけっこう目撃されてるのがわかるんですよね。もちろんぷりぷり君っていうことを知っててツイートする人もいるんだけど、夏場とかほんとに裸に前掛けしかしてないんで、電車とか乗ってるとかなり不気味な状態で、「中央線に金太郎が乗ってる!」みたいに、知らない人もバンバンつぶやいてる。夏のTLもすごいいい感じの状態になってるんですね。
畠中:今はもうちょっとデフォルト化しちゃったよね。最初のころは衝撃度が高かったんだけど、今は少し慣れちゃったんで(笑)——みんななんか、どんだけ慣れるのかわかんないけど——まぁこれからちょっとてこ入れしてやろうって感じだけど。
渡邉:デフォルト化したってことで言うと、先日、仕込みの時に、この展覧会と同時開催のエマージェンシーズ!に出品してる津田道子さんが来たんですよ。それで、ぷりぷり君のエリアに講談社から出てる金太郎の絵本が置いてあるじゃないですか。津田さんがそれを見て、「あ、ZINEつくったんだ〜」って言ってたんですよね。もう倒錯しちゃってるんですよ。いま金太郎って言ったら、僕らが小さい時に読んだアレじゃなくて、ぷりぷり君のことなんですよね。
畠中:それ、津田さんがちょっとおかしい気がしなくもないけど(笑)
(一同笑)
谷口:そもそももともとの金太郎も、地元にいた変な奴が口承で伝わっていくうちに話が改変されていっていまのヴァージョンになってるわけですよね、たぶん。そう考えると、新しい民話の発生みたいな、そういう瞬間に立ち会ってる気がしなくもない(笑)。
萩原:これが10年後には、絵本として出版されてたりする可能性もあるかもしれませんね。
渡邉:山の中で熊とかと相撲をとっていた従来の金太郎像に代わって、ビル・ヴィオラや亀井静香にオリジナルこけしをつくらせて原宿で展覧会をやるっていう新しい金太郎像が定着した未来社会を想像するだけで胸が熱くなりますよね。
谷口:ぷりぷり君の在り方をみると、さっき話に出ていた2000年代中盤のSNSが持っているトラッキング機能によって自分の行動に対してすごい自意識過剰になってきて、ネット上での自分の行動に対して意識的になるということの、ある種の究極形態なんじゃないかと思える(笑)。

9|二艘木洋行とお絵描き掲示板展

二艘木洋行《梨》2011

萩原:あと、二艘木洋行さんが、「展覧会内展覧会」を開いているんですけど、そこで展示されている作品も独特ですね。コンピュータで描かれた作品って、リアルに印刷されると残念になっていくことが多いんですね。というのは、モニタ上で見る美しさにはRGBの光源やピクセルが効いているからで、インクジェット印刷されたものでは、いい部分が消えてしまう。それで「画面で見たほうが面白かったかも」と思うことがあります。二艘木さんはそれを回避するためなのか、すごくモニタ的なギザギザした感じとか、コピペした感じをあえて手書きでもう一回やり直してたりするじゃないですか。それによって残念感がなくなって、「あ、どっちもいけるんだ」みたいな感じが出てきている。あれはあれで〈イメージ〉と〈オブジェクト〉っていう両方を、すごく意識して行き来してる状態にあるんで、そこはおそらく自覚的にやられているんだろうなと。アーティ・ヴィアーカントの作品と二艘木さんの「お絵描き掲示板展」っていうのはどこかでリンクする状態に置かれている気がします。
谷口:あと、本人の肉体とか身体っていうことを言うと、ぷりぷり君は自分の行動原理とかそれに付随したキャラをTwitterにマッチさせるようなことをやったんだけれども、二艘木さんの場合は、描き方、スキルのほうもお絵描き掲示板的に改変するみたいなこともやっているなぁと思います。
萩原:そのお絵描き掲示板的に改変というところはさっきも言ってたような、〈イメージ・オブジェクト〉という個人の作品としての展開のしかたと、ぷりぷり君のように〈Twitterの中のわたし〉を主にして、そこから生活を作りあげちゃう状態っていうのは、違うものだけど、どちらも「ポスト・インターネット」的である。さっき、似てるんですよね、みたいな話をしたのは、もしかしたらそういうところでつながりがあるのかなって、話を聞いて思うかな。
栗田:その辺りの話が水野さんのテキストの「人ではない人」みたいな話に相当するのかなと思います。
萩原:そうですね。「オブジェクトではないオブジェクト」みたいな。このテキストって、最初読んだときは難解で、半分わかって半分わかんなかったんですよね。でも、今日こうやって話していくと、ぷりぷり君は「人ではない人」というところがあるのかなぁ。水野さんは、完全に意識してこのテキストを書かれてたんですよね、たぶん。

「二艘木洋行とお絵描き掲示板展」(「[インターネット アート これから]」展示風景)
撮影:木奥恵三

10|ポスト・〈インターネット・アート〉

畠中:ここでいう〈人〉に、「〈人〉対コンピュータ」という関係があるとすると、ハッキングっていうのはやっぱり人がコンピュータに対して行なう行為だって感じがするんですよね。で、やっぱりこの展覧会ってあらためて観ると、「ポスト〈ネット・アート〉」っていう感じがして。かつて「ネット・アート」と呼ばれていたものは、いわゆるハッカーみたいな人たちがやってた、そういうシーンだったわけですよね。シーンというか、態度としてアクティヴィストみたいな、攻撃的というか、ある仕組みをぶっ壊すという感じがします。一方で、この展覧会に出てる作品とか、「ポスト・インターネット」って呼ばれてるものっていうのは、すでにそういったものがすべてお膳立てされている状況から生まれている。この会場の中にもいろんな解説の中に「……というサーヴィスを使っている」という感じで、「サーヴィス」という言葉が出てきます。「サーヴィス」っていうのはもうわれわれはふつうに与えられていて、いくらでも使えるもので、もはやあまり意識しなくなっているものですが、そういう制度みたいなものをちょっとひっくり返して、作品のアイデアにしているっていう感じがしますね。だから、かつてのネット・アートは、どうしてもある種反権力的な——当時コンピュータができる人はすごく限られた層だったので——性質を帯びてくるものだったんだけど、今はそれに対応するものが権力っていうほどのものではなくて、どちらかというと、システムとか制度みたいなものに対して反対ではなくて、それを使って何か使い方とか見方を変えてみるというような態度が顕著かなっていう気がします。そういう意味では、ネット・アートのヴァージョン2じゃないけど、ふつうにコンピュータとかソフトウェアだとかネットみたいなものが日常化したところに現われてくるネット・アートの在り方、コンピュータ・アートの在り方みたいな気はしますね。だから、この展覧会が「インターネットの展覧会だ」って言ったときに、なんとなく印象が違うと思われるのはそういうところもあるかもしれないという気がします。僕も最初「ポスト・インターネット」がどういうことなのかってなかなかうまく理解できなかったんですけど、今日あらためて話してみると、非常によくわかったような気がするんですけど(笑)。
 聞いてる人はどうだったかなって気もしますが、「ハッキング対デフォルト」というのはうまく言い表わしてるなって気がします。「ポスト・インターネット・アート」をやってる人は特にハッカーである必要はなくて、サーヴィスっていうのをどういうふうに使おうかっていう、そういうものにすぎないかもしれない。でもそこで、非常に変わったことをやっているという、そういう感じがします。
谷口:初期のインターネットって、ウェブ・サーヴィスそのものが貧弱だったり、そもそもサーヴィス自体なかったりしたと思うんですよね。だからゼロからサーヴィスを作るということと、ハッキング的に体制を壊すことが区別できないというか、たいして変わらなかった。プログラムを介してサーヴィスをゼロから作るというのは、ある種ユートピア的な思想とか、アクティヴィスト的というか、左翼っぽい面がある。あったと思うんです。だけど、2000年代になると、ICCでマッシュアップのコンテストも開かれましたが、ゼロから作るのではなくて「マッシュアップ」になるんですね。一回壊してから、あるいは何にもない所から自分たちの世界を作るんだっていうことじゃなくて、もういろいろ用意された空間になってきた。いまはTwitterがものすごいインフラ化してるようなところがありますよね。サーヴィスが強固にできあがっちゃってるからこそ、そこを壊すかどうかっていうことすらもサーヴィスの中に取り込まれちゃうような状態になっていて、むしろそこでハッキング的なふるまいをしなくても、サーヴィスの根幹を揺さぶることができるかもしれないっていうような、サーヴィスが豊潤にある状態がいま、ベースにあるのかなって。逆に言うと、ハッキングしにくくなった。
萩原:サーヴィスが浸透した状態に対して、ユーザー側は「満足してはいないけど不満はない」というような感覚がある。だからTwitterには140字っていう規制はあるわけですけど、そこに対しての不満でやめてやろうとか別のもの作ろうみたいなことではなくて、そのルールを前提として受け入れたうえで、140字内でどれだけいけるか、みたいな、そういうサーヴィスに準拠した表現というのが、さきほど出たPaint FXや、ArtRageで提供されているツールでできる範囲でめちゃくちゃやる、というものと同様に言える。
 そういうことに関して言うと、この研究会のメンバーでもあるyoupyさんというネット・アイドルが、Flickrにコンピュータで再現可能な全ての色を画像にして一枚一枚をアップロードしていますよね。世界で一番Flickrに画像をアップロードしているのが彼だという噂もある(笑)。

  youpyのFlicker:Your photo's photostream
  http://www.flickr.com/photos/youpy/


栗田:現時点で200万枚くらいあるんでしたっけ。
萩原:これは別にFlickrをハッキングしているわけではなくて、Flickrが提供しているAPIの機能を使って画像をアップロードしているだけなんですよね。youpyさんがおもしろいというか迷惑なのは、サーヴィス側が提供してる機能を使ってギリギリのところを攻めようとするところですよね。たとえばyoupyさんの「はてなアンテナ」(http://a.hatena.ne.jp/youpy/)とかに行くと、表示がバグっちゃって読めないんですけど、でもそれは別にサーバに侵入してソースコードを改変したわけじゃなくて、あくまで「はてな」の編集画面でCSSとかを変更してその状況を生み出している(笑)。それはある意味すごいPaint FX的で、youpyさんのそういう趣向というか、センスの良さみたいなのはどのサーヴィスにおいてもブレずにあると思う。
渡邉:youpyさんの活動を言い表わすときに「いやがらせ」っていう言葉がたまに使われますけど、けっこうピンポイントで面倒なところを突いてきますよね。
谷口:実はFlickrに一枚一枚アップするというのは、キム・アセンドルフ(Kim ASENDORF)もやってるんですね。だけど、キムは、短時間に一気にアップしたために、Flickrからアカウントを削除されてるんです。その点、リミットを超えずに制限内でやるyoupyのしたたかさと品の良さが際立っている(笑)。
栗田:しかも、これプロアカウントだから、ちゃんとお金払ってるんですよね(笑)。
畠中:でも、注意はされてたり、止められたりしてるらしいよ、時々。
谷口:知らない人はTwitterで「youpy」っていうふうに検索してもらえばわかるんですけど、ほんとにBotみたいなアカウントなんですね。最初見たときに、これが実在する人物だとは思わなかった(笑)。それもさっき話した話と重なってくるなって。
萩原:そういえば、youpyさんがこの展覧会のために、公式ウェブサイトのトップページにあるオブジェクトの表示位置を同時に見ているユーザー間で共有するというUserScriptを作ってくれていて、あれも一応展示作品なんですよね。
(https://twitter.com/#!/youpy/status/165253246355648516)
 今回の展覧会には、触ってボタンが光るとか、そういう単純なインタラクションという意味でのインタラクティヴな作品ってほとんどないんだけど、《タイプトレース道——舞城王太郎之巻》とか、ぷりぷり君や、谷口さんの作品もノン・インタラクティヴだけどつながってる、みたいなテーマで一応共通のトーンはあった。だけど、youpyさんがつくったUserScriptは見事にそこから逸脱してインタラクティヴ(笑)。
栗田:最近、そういう「インターネットで同時にやりましょう」みたいなコンテンツが減ったよね。
萩原:リアルタイムだと、その場に同時にいないといけないんですよね。そうすると、オープンしたてのときはすごい人がいっぺんに集まるからすごいにぎわうんですが、一週間も経つとまばらで、ひとりでいても全然おもしろくないみたいな状態が出てきちゃう。それを解決するために、ニコニコ動画でいう擬似同期みたいなものが開発された。ニコニコ生放送は完全に同期していて、生放送っていう限られた時間軸があれば、それは同期コンテンツとして利用できるんだけど、それがアーカイヴされてしまうと、擬似同期させないとタイミングを合わせられない、にぎわってる感じを出せない。ウェブはみんなリアルタイムで進行していて、見に来る人は任意のタイミングで来るから、擬似同期に持ちこまないと、コンテンツとして成り立たないことが多くなって、最近リアルタイムコンテンツっていうのは減ったという気がしてます。

dividual《タイプトレース道——舞城王太郎之巻》2007
(「[インターネット アート これから]」展示風景)
撮影:木奥恵三

11|擬似同期的サーヴィスから感じる他者の気配
——インターネット上の〈幽霊〉

エキソニモ《再生》2010
(「ゴットは、存在する。」展示風景)
撮影:木奥恵三

谷口:エキソニモの作品で、ニコニコ動画で、動画は消えたけどコメントだけ残ってる動画をもってきて、その流れるコメントをミラーボールに投影する作品(《再生》)あったじゃないですか。千房さんは確かあの作品を供養って言ってて(笑)。動画は死んじゃったけどコメントだけ残ってるから成仏させるってことなんでしょうか。インターネット上のサーヴィスが擬似同期的になってきてから生まれた幽霊みたいな存在ってあるなぁって思うんですよね。さっき言った〈イメージ〉と〈オブジェクト〉の問題で、リアルタイムだったら〈イメージ〉と〈オブジェクト〉がきっちり同期してるんだけれども、アーカイヴ化して擬似同期を持ちこんだ瞬間に、その二つが切り離されちゃう。かつ、〈オブジェクト〉みたいなものを保持し、イメージ的であるコメントの同一性を規定していた動画がなくなっちゃって、コメントだけ空白の動画に流れ続けるっていう。
萩原:不気味ですね、盛り上がってるんだけどなんでかわからない(笑)
谷口:あれも、インターネット上の新しい幽霊だと(笑)。
萩原:谷口さん、おばけとか幽霊とか好きですよね? 言葉として。気配みたいなものが、ネット以降すごいリアルに感じられるようになってきたということですか?
谷口:うん、あるかもしれないですね。最近「First Person Ustreamer(http://okikata.org/study/test66/)」というのを作ったんですが、もともと僕はネット上にあるライヴカメラを見るのがすごい好きだったんですね。監視カメラだったりとか、観光地とかに設置されてるカメラとか。で、それらのカメラは、単に映像を見るだけじゃなくて、コントロールするインターフェイスがあって、ボタンを押すと、そのカメラを一定時間コントロールできるようになるんです。同時に複数人アクセスしてる場合はあと何人って順番待ちの列ができる。僕はめんどくさいからそのコントロールのインターフェイスを介さずに、画像だけ引っこ抜いて見ることが多いんですが、見ていると、別の誰かがアクセスして、ズームしたりパンしたりすることがあるんですね。そうすると、他の人がそこにいて、他の人の視線の欲望みたいなのを感じられる。アジアとかで雑に設置されているカメラのなかには、隣のホテルとかアパートの中がちょっと見えたりするものもあるんですが、それを、僕じゃないもうひとりの誰かが執拗に追うんです(笑)。そういうときに、もうひとりの存在をすごい感じたりとかします。
 あといま、あんまりアクセスカウンターってないじゃないですか。昔はけっこうみんなアクセスカウンターをサイトにつけてて、中には、リアルタイムに更新されるカウンターとかもあったと思うんですよ、それを見ていて、カウンターの数値が上がる瞬間の「いま誰か来た!」っていう(笑)気持ち悪さとか、そういうのはありますね。
栗田:ウェブサイトにカウンターをつけるっていうのも最近なくなりましたね。Googleにはリアルタイム検索があって、いま何人見ているのかがわかるので、自分のサイトのやつはずっと開いてる。ちっちゃい駄菓子屋やってるおじさんが、来る人を見て「……。(手を組んでうなずくポーズ)」みたいな感覚で。有名な人がツイートしたりすると一気にドーンと増えて、でも、ファーっていなくなっちゃて寂しかったりとか。けっこうリアリティがあるから、よく見てますね。
谷口:(Facebookの)「いいね!」とかもやっぱりリアルタイムな同期じゃないですよね。アーカイヴして貯めてく方向っていうか、擬似同期的な仕組み。
萩原:アイコンのないTwitterがあったら、さっき谷口さんが言ってた「誰かが操作してる様子を見てる」感じになるのかなぁ。アイコンがあるから人称性みたいなのが生まれて、ユーザーというアイデンティティが発生しているけど、操作だけじゃないですか。たとえばTwitterから本文と名前とアイコンを消すと、タイムラインだけがずっと降り続ける状態になる。それはゴーストっぽいですよね。究極的には、そういうBotと人間が一体化する瞬間、アイデンティティを全部消して、気配だけが残った瞬間に、Botの気配みたいなものが発生するのかなって、聞いてちょっと感じました。カメラが動いてるっていうだけだと、それがBotっぽいのか人間っぽいのかわかんないじゃないですか。ぷりぷり君の気配であったり、ネットにおける気配の部分ていうのは、アカウントとかと離れて存在しているっていうふうに思いました。
畠中:インターネット以後っていう感じというか、特にいわゆるネット・アートからの流れっていうのは非常にとらえやすい感じがしますね。インターネットが日常化した後の表現は、それが、かならずしもインターネットを使った作品として現われるわけじゃない、というのは非常に面白いと思います。
谷口:ネットから参加の渡邉君のほうから何かありますか?
渡邉:今日はある種のイメージ・オブジェクトとしてネットの彼方から座談会に参加したわけですが、最近、いわゆる擬似同期がイメージ・オブジェクトとかポスト・インターネットの問題とかなり関連してきそうだということがようやくわかってきて、今回改めてその思いを強くしました。
 数日前に、ICCで開催された三上晴子さんの展覧会のアーティスト・トークの模様がHIVEで公開されたんですけど[*6]、そこでゲストとして参加されていた池上高志さんが「複雑系っていうのは、時間を構成して、一回性を構成するんだ」というようなことをおっしゃっていたんです。複雑系のことはわかりませんが、その「時間を構成する」というのが非常にピンとくるところがあったんですね。
 よく、インターネットの特徴として、地球の裏側に住んでいる人ともコミュニケーションを取ることができるとか、遠くの街の風景を見ることができる、といったような空間的な超越の部分が喧伝されますよね。でも、いまウェブ上に存在する膨大な量の人間の行為のログというのは、新しい時間軸のようなものを派生させているような感じがますます強くなってきた。それのわかりやすい例が擬似同期で、これって時間的な超越ですよね。イメージ・オブジェクトが取り扱っている同一性というのは、こういった超越が背景にあると思うんですが、この擬似同期とイメージ・オブジェクトの関連は、海外のポスト・インターネットを取り巻く言説でも語られていない側面だと思うので、今後の座談会で掘り下げることができればなと。
谷口:結局、インターネット上にあるものっていうのは、単なるデータでしかないはずなんです。前に渡邉くんが指摘していたんですけど、Facebookにおける「あいさつ」——英語でいうと「Poke」ですね——も、たかだか数バイトのデータが飛ぶだけ。pingコマンドっぽい。だけど、それに「あいさつ」っていう名前をつけることで意味が生まれる。そのように、インターネット上に起きている単なるデータのやりとりに適切なインターフェイスや名前を与えて、そこにリアリティを付与することができる。それってたぶん同期に近い考え方なんですよね。本来、そもそも同期するはずのない情報——それはたぶん、アーティ・ヴィアーカントの作品と、作品の写真の問題だと思うんですけど——本来同期しなくていいものを同期させるようにどんどんみんながデザインしてサーヴィスを作ってきちゃったからこそ、そこをいとも簡単につるっとずらせちゃう。
 ニコニコ動画の擬似同期のサーヴィスは、その中間くらいにあると思うんですよね。なにも考えずに作ったら、やっぱりリアルタイムで同期の強いサーヴィスを作っちゃう。だけどそれだと盛り上がらないことに気づいたから、ほんのり、〈イメージ〉と〈オブジェクト〉をずらす、遅らせる、あるいは溜めるっていうことをやったのが、ニコニコ動画の擬似同期みたいなものだと思う。
畠中:今日は「〈ポスト・インターネット〉ってなんだろう?」っていうことを考えるのがテーマだったわけですけど、今後も、何回か座談会が開催される予定です。そのほかにも個別の出品者によるアーティスト・トークも予定されていますので、彼らの考え方もあわせながら考えていくと、より考えを深められるかもしれないし、いろんな解釈の幅が出てくるんじゃないかなっていうふうに思ってます。
それでは、座談会はこれで終了します。研究会のみなさん、お疲れ様です。どうもありがとうございました。
一同:ありがとうございました。

脚註

*1
ジョン・ラフマン(Jon RAFMAN)とパーカー・イトーと、テイバー・ロバック(Tabor ROBAK)をはじめとする5人のアーティスト:ほかクレジットされているのはJohn TRANSUE、Micah SCHIPPA。
[章頭に戻る]

*2
このプロジェクトは最近、本として出版されましたね:
Jon Rafman, “The Nine Eyes of Google Street View,” Jean Boîte Éditions, 2011
http://www.jean-boite.fr/box/the_nine_eyes_of_google_street_view
[章頭に戻る]

*3
去年パーカー・イトーがキュレーションした「* new jpegs *」というグループ展:2011年7月23日—8月20日、Johan Berggren Gallery、マルメ、スウェーデン
http://newjpegs.net/
[章頭に戻る]

*4
この「メカニカル・ターク」というのは……対戦していたというわけです:「ターク」については、『謎のチェス指し人形「ターク」』(トム・スタンデージ著、服部桂訳、NTT出版、2011)に詳しい。
[章頭に戻る]

*5
ハンナ:パークドメイン・ガールの名前とされる。
[章頭に戻る]

*6
数日前に、ICCで開催された三上晴子さんの展覧会のアーティスト・トークの模様がHIVEで公開されたんですけど:2011年12月16日開催、出演:三上晴子、池上高志、榑沼範久、畠中実(ICC)。池上の発言は、トークの記録映像後半に収録されている。
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20111216_2
[章頭に戻る]

◎展覧会情報

インターネット・リアリティ研究会による
[インターネット アート これから]
――ポスト・インターネットのリアリティ


会期:2012年1月28日(土)—3月18日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA
主催:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/Internet_Art_Future/index_j.html


座談会「ポスト・インターネットを読む」

2013年1月24日 発行 初版

著  者:インターネット・リアリティ研究会
発  行:インターネット・リアリティ研究会+ICC

制  作:大岡寛典事務所/畑友理恵

bb_B_00112370
bcck: http://bccks.jp/bcck/00112370/info
user: http://bccks.jp/user/121263
format:#002y

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

internet-reality

インターネット・リアリティ研究会

jacket