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アーティスト・トーク エキソニモ + 座談会
はじめに
01|《断末魔ウス》(2007)──UIと身体
02|《Desktop BAM》(2010)
03|《祈》(2009)
04|「デスクトップ・リアリティ」から「インターネット・リアリティ」へ
05|《gotexists.com》(2009)──主体/自我の喪失
06|《Wearable Web》(2010)
07|《SUPERNATURAL》(2009)──Web中継の機能性がもつ質感
08|《ANTIBOT T-SHIRTS》(2009)
09|『Web Designing』 エキソニモのView-Source「揺れたBOTたち」(2011)
10|現実空間よりもネットの方が、もはやリアリティが強い?
11|過去の「祭り」をもう一度、引き起こすには
12|「行為の痕跡」から主体を見通す
13|同期と「ズレ待ち」と
14|インターネット上には、ヒトが理解できるものしか存在しない
15|《ナチュラル・プロセス(NATURAL PROSESS)》(2004)
16|最後に(まとめ/次回&今後の告知)
脚註
インターネット・リアリティ研究会は、エキソニモ(千房けん輔、赤岩やえ)、思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)、栗田洋介を中心に、2011年7月に開催された座談会「インターネット・リアリティとは?」をきっかけに発足しました。
わたしたちは現在、常時インターネットにアクセスできる/している状態で生活しています。そこでは、さまざまなサーヴィスを介して自分の行動や好きなものなどをネットで公開し、友人や家族、はては国籍や国境を越えた見ず知らずの人たちが今どこで何をしているのかという行動や状況を、ネットを通じて想像することができます。このような、インターネットそのものが日常を映すメディアとしてわたしたちの意識に浸透した状況において、わたしたちが感じるリアリティもまた変容しているのではないでしょうか。
そのような問題意識を元にした座談会を経て、その後展覧会「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」を企画、展覧会会期中もさまざまなゲストを交えた座談会によって議論を深めていきました。インターネット・リアリティ研究会は、このICCのホームページ内を研究会の発表の場として、展覧会以降も継続して活動を行ないます。これから順次、座談会の採録やさまざまなテキスト、また映像の記録などを公開していきます。
《ナチュラル・プロセス》と《祈》を出品しているエキソニモによるアーティスト・トークを行ないます.出品作品をはじめ,これまでの作品を振り返りつつ,《ナチュラル・プロセス》の一部として展示中の最新作《A Web Page - 403 Forbidden》をめぐる経緯について語ります.アーティスト・トーク終了後は,インターネット・リアリティ研究会メンバーも交えた座談会に移行します.
日時:2012年2月17日(金)午後7時
出演:千房けん輔、赤岩やえ(エキソニモ)
栗田洋介
谷口暁彦
渡邉朋也
萩原俊矢
水野勝仁(ネット中継による参加)
渡邉:お茶の間のみなさんこんばんは。このUstream中継は、1月27日からICCで開催中の「[インターネット アート これから] ──ポスト・インターネットのリアリティ」展の関連イヴェントとして行なわれているものです。今我々がいるのは、閉館後、無人となった会場の一角に設置された、Ustream中継用のステージなのですが、今回はここでエキソニモのお二人にアーティスト・トークをしていただき、それを起点に座談会を行ないます。
本来であれば、本展覧会キュレーターの畠中実さんも同席されるはずなのですが、都合により出席できないということで、出展作家と展覧会の企画運営に携わる「インターネット・リアリティ研究会」のメンバーでお送りします。
まず最初に、今日の出演者の簡単な紹介だけしておきます……Ustream画面の手前から、エキソニモの千房さんと赤岩さん。
千房・赤岩:どうもこんにちは、エキソニモです。
渡邉:それからインターネット・リアリティ研究会の、萩原くん。
萩原:よろしくお願いします。
渡邉:同じくインターネット・リアリティ研究会の一員で、本展の出品作家でもある、谷口くん。
谷口:よろしくお願いします。
渡邉:これまたインターネット・リアリティ研究会の、栗田さん。
栗田:よろしくお願いします。
渡邉:それから今日は神っぽい感じで、こちら(後方右側の投影画面)に鎮座されているのが、同じくインターネット・リアリティ研究会の水野さん。
水野:よろしくお願いします。
渡邉:最後に、今ここで仰々しく司会をさせていただいているのが、同じくインターネット・リアリティ研究会の渡邉です。
それでは、最初にエキソニモの方でスライドを用意されているということなので、そちらを見せていただきながら、主に作品について説明いただけたらと思います。
千房:一応その「インターネット・リアリティ」に関係ありそうな、今までにうちらが作った作品をズラズラズラっと見せられるように準備しました。でも、そんなにちゃんとスライドにまとめてきたわけでもないので、めぼしい作品を見ていただきながら、ざっくばらんとした話ができればいいかな、と思っています。じゃあ始めます。
千房:いくつかのキーワードを考えて、その中で作品を並べてみたのですが……まずは「UIと身体」について考える例として2007年に《断末魔ウス》という作品を作りました。これはソフトウェア作品で、実際に見てもらうのが手っ取り早いのですが……最初はソフトウェアとして作成して、ダウンロードして楽しんでもらうもの(http://exonemo.com/DanmatsuMouse/indexJ.html)と、あとはDVD-ROMとして作ったものがあります。
この《断末魔ウス》という作品はなんなのかといいますと……まず「マウスを破壊する映像」を撮影して、その時のマウス・カーソルの動き方……僕らはそれを「マウスの断末魔だ」というふうに考えて、それを記録していく作品です。記録したファイルを立ち上げて実行すると(マウスが破壊される)映像といっしょに、デスクトップ上の自分のマウス・カーソルが、実際に壊された時のカーソルの動きを再現します。試しに一個やってみますと……今、この僕が操作しているカーソルが、映像内のマウスとシンクロしています(マウスをハンマーで破壊する映像が再生され、それに合わせて画面内のカーソルが激しく移動する)。
こういう感じで、ハンマーでマウスを破壊するのが今のパターンです。これを10通り、違うパターンで壊してみたわけですが、そこでのポイントは「物質とデータ」みたいなところ。マウス自体はそれを壊すことで「死んでしまう」わけだけれど、データは何回でも再生可能で、しかもマウス・カーソルの機能を持ったまま再生されるわけです(先ほどの破壊画像が再生され、それに合わせて画面上のカーソルの位置がまた激しく動く)。こういう感じで、何度でもマウスが死ぬ瞬間が(カーソルの動きを伴って)再生される。物質としてのマウス自体は破壊されてなくなってしまったのだけれど、カーソル(の動き)自体は何度でも繰り返し生き返ることができる……データに宿る存在、みたいなものを扱った作品です。
ちなみにこれを発表した時、観た人が感想でよく言っていたのが「痛い!」とか「かわいそう」とかなんです……そのあたり、水野さんが学生さんに毎年これを見せているということでしたが……。
水野:はい、毎年見せています。
千房:たしか、新入生に見せて感想を尋ねると、そういった感想を聞くことができる、というお話でした。あたかも「カーソルが生き物のようだ」とか、色々な感想があるようですが、そういうのを聞いた時に、カーソル自体が人間の身体と同一化しているというか、「身体感覚」が画面の中のカーソルの位置まで延長してきているのが面白くて。「ユーザー・インターフェイス(UI)に身体性が宿る」というか、そこに「身体性が生まれる」というか……そういうことを感じたんですね。
ちなみに水野さんはこの作品をとても評価してくださって、色々な場所で書いていただいたりしているのですが、『Web Designing』という雑誌でエキソニモ特集が組まれたとき、《断末魔ウス》に関するコメントを自分たちで書いたんですよ。これ(画面)がそのコメントでして、ちょっと朗読します……。
exonemo's view「カーソル」
カーソルって、中途半端な存在なんですよね。映像なんだけど、映像とはみなされない。動画を再生する時は、脇に避けられる。動きがカクると、不安に思われる。画面の中にありつつ、自分自身の身体の一部のような存在。みんなが当たり前に受け容れているんだけれど、それがなんなのか、ちゃんと理解されていません。コンピュータの身体性を語る上で、カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます。
(『Web Designing』Vol. 108(2010年7月)特集2「エキソニモが知っている」,p.77)
赤岩:これ、自分たちで(雑誌用に)書いたコメントね。
千房:ところが、この最後の文章の「コンピュータの身体性を語る〜」っていうのは、実は誤植なんですよ。本当は「コンピュータ“で”身体性を語る〜」だったのを、編集者が直した時に間違って「コンピュータ“の”身体性〜」になっちゃったのね。これに水野さんがとても反応して、「コンピュータ“の”身体性、とは!」みたいなことをおっしゃっていたから……。
赤岩:すごく面白かったよね。
千房:「え、そんなこと書いたっけ?」みたいな感じで、送られてきた雑誌を見たら、本当にそう書いてあった(笑)。でも、その「コンピュータ“の”身体性」っていう考え方は面白くて、それが逆転して発見されてしまった。そういう経緯がありました。
千房:その《断末魔ウス》の延長線上で作った作品が《Desktop BAM》というもの。これはライヴ・パフォーマンスとしてやっていて、マウス・カーソルをスクリプトで制御して、デスクトップ上で演奏させる、という作品です。ライヴ・パフォーマンスでは、会場にコンピュータをポンと置いてスタートすると、あとはコンピュータが勝手に演奏を続けるのですが……これも映像でご覧いただきます。
(次ページ図参照)
千房:こんな感じで、本編はもっと長くて、全部で10分ぐらいある作品なのですが、今お見せしたのは、その中から30秒ぐらいを抜粋したダイジェスト版です。
これをやったときに、人間が操作しないマウス・カーソルの動きを見ていると、そこに引きずられるように自分の身体性が立ち上がってくるというか……こんなに早いスピードで、正確な位置をクリックし続けることは、人間にはできないじゃないですか。ところがコンピュータにしてみれば、そんなこと全然簡単なわけだし、なんかまったく普通のことなんだけれど、人間がそれを見た時、ものすごく身体が強化された、それこそスーパーマンになったみたいな感じになる。それってなんなんだろう? って。もしかすると、それが「コンピュータ“の”身体性」ってことなのかもしれない。コンピュータが身体を持っているように感じる、というか……そういうふうに関連している気がしたわけです。さっきの「誤植から生まれた」時と同じような感じ(笑)。
赤岩:あと、ほら。人が手足を縛られると動きが制限されるように、カーソルの動きも実は人間によって制限されている。さっきの《断末魔ウス》は、そこから解放するようなところもあるよね。
渡邉:例えばOSにバンドルされている電卓とかが分かりやすいと思うのですが、あのアプリケーションで1+1の計算をすると、2GHzのCPUを搭載したコンピュータでも、数パーセントはCPUを使用してしまうんです。それはたぶん、僕らが知っている電卓の外観を忠実に再現しているから、その分処理が必要になっているためだと思うんですが、一連の作業の本質、つまり1に1を足すというビット演算とかは負荷というには馬鹿馬鹿しいほどの処理しかしていない。要するに、コンピュータにしてみれば、UIというのは人間のために用意してあげているものにすぎないんですよね。彼ら(コンピュータ)にとってはカーソルとか、ウインドウの重なり順の処理なんていうのは、制約以外の何物でもないんじゃないでしょうか。
それで、《Desktop BAM》は、その制約を最大限に強化するようにコンピュータ自身にプログラムしていて、その結果、カーソルのたどたどしい動きが生まれる。そのたどたどしい動きを見ていると僕は、チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936)とかを思い出すんですよね。カーソルなのに、古典的な喜劇を思い起こさせるという。
谷口:マウス・カーソルってすごくミニマルな“アヴァター”ですよね。「セカンドライフ」とかだったら、その世界内のアヴァターも人間の形をしていて、自由に動き回れるのだけれど、それがコンピュータの世界だと、あんな小っちゃな矢印に集約されちゃう。それがなんで「コンピュータ“の”身体性」とつながってくるのかというと、ウェブ・サーヴィスにおいてアヴァターって、いろんな形にデザインされるわけじゃないですか。「アメーバピグ」だったら「アメーバピグ」のキャラクターになる。それは言ってしまえば、サーヴィスの身体になる。だからコンピュータの中のカーソルをアヴァターとして捉えられるのだったら、やっぱりそれは「人がコンピュータになっている」状態なのかな、って思う。だから「身体性」って言った時に、コンピュータ自身の持っている身体性というよりは、コンピュータに最適化された人間の身体、あるいは身体のメタファー、アヴァターがそこにあるということなのかな、って気がします。
千房:普通アヴァターって身体全体を表現しているけど、カーソルは“指”だけをアヴァター化したようなものなのかもしれない。
渡邉:水野さん、今、《断末魔ウス》と《Desktop BAM》について、エキソニモが紹介してくださったわけですが、水野さんもいくつかの大学とか高校で非常勤講師として教えられていて、授業内でよくこれらの作品を取り上げられていると聞きました。これらの作品に対する学生さんの反応とか、あるいは作品に対する水野さん個人の視点について、まとめて話していただけませんか?
水野:はい。学生の感想としては、なんの説明もせずに《断末魔ウス》を見せると、ただモノを壊している動画としか思わない様子で、「あまり気持ちよくない」という意見が出ますね。その後で「カーソルに注目して見てください」って言うと、「マウスがかわいそうになってきた」と言うか「カーソルがかわいそうになってきた」と言うんですね。だから、マウスだけでも成り立たないし、カーソルだけでも成り立たないけれど、両方見ていると「かわいそう」という感覚が出てくるみたいですね。そこがちょっと面白いと思いました。モノだけでも映像だけでもなくて、データとの関わりを見ていくと、そういう感想や意見が出てきたのが、学生の反応であり、僕もそのあたりを興味深く感じています。
渡邉:今回展示されているエキソニモの作品に《祈》という作品もありましたが、あのあたりとも絡んでくるところで、水野さんから今「データとの関わり」といったフレーズが出てきましたが、そういうことを読み取れるようになってきているのかなと思います。
千房:この《祈》の発想の元になったのが、この(画面上で動画再生している)「マウスを水死させる」作品なんですけれど、これは光学式マウスに水をかけたり浸けたりしていくと、まるでマウスが泳いでいるみたいな動きをカーソルがする(笑)。たぶん水面のリフレクションが、光学式マウスのなにかに作用して、カーソルが波打つように動く……これを見た時に、光学式マウスをこういうふうに使うとカーソルが予測不能な動きをするとわかったんです。
千房:そこからしばらく期間が空いて、「光学式マウスを二つ合わせたら、なにかが起きるのではないか」という予測があって、実際にやってみたら本当に起きた(笑)。それはまさに「奇跡が起きた」みたいなもので……これが(先ほど渡邉さんが触れられた)《祈》の展示風景です。二つのマウスを合わせると、まさに祈っているような状態に見えるわけじゃないですか。実際にこの会場内にも展示されていますので、実物を観に来ていただけると一番いいのですが……まさにここに《祈》をひとつ、持ってこれないかな?
赤岩:持ってこれるよ。(展示作品をひとつ、座談会席上に持参する)
千房:まずひとつには「マウスを二つ重ね合わせると、まるで“祈っている”ように見える」ってことがあって、それはなんなのか? ということ。(《祈》のマウス部分のUSBジャックの差し込みを手元のノートPCに替えて、UST画面上でカーソルの動きを披露する)このようにカーソルが端の方に流れていきます。展示の時は(カーソルが)端まで行くと、反対側にワープするようなプログラムを走らせているわけですが……。
渡邉:これは展覧会場に来て作品をよく観てもらえると分かるのですが、(カーソルの動きの)ヴァリエーションがメチャクチャいっぱいありますよね。「マウス同士を重ねただけでこんな派手な動きをするのかよ!」っていうような動きから、ゆるゆるとした動きまで色々あります。
千房:それも日頃の行ないがいいと「いい動き」をするの。
赤岩:そうそう(笑)。
千房:見てると不思議な動きをするんだけれど、考えてみるとまったく不思議じゃないんですよね。単純に光学式マウスの中で光が乱反射して、入力データがおかしくなっている……種明かしをすれば、それだけの話なのですが、それを「祈っている」っていう体にすると、色々と広がってくるような/来ないような(笑)。でも、インターフェイスの核心になにか触れているような気もするんですよ。
まず「人がコントロールしていないインターフェイス」って、意味がまったくないじゃないですか? そういう、いろんな意味から浮いちゃっている状態というか。この《祈》を展示する時にモニタ上に表示されているのは、だいたい「祈り(pray)」という単語で画像検索した結果の画面なのですが、なにかしら反応するようなユーザー・インターフェイスを持ったものをあえてそこに置いてあって、その上を、なんの意思もない、ただの入力エラーが空すべりしてて、まったくクリックもなにもしない。そうすると、そのウェブの持っているインターフェイスと、マウス自体と、マウスから発せられるカーソル情報の見え方と、それぞれの情報が全部接続されていない状態で放置されてる(笑)。
赤岩:でも、その間に《祈》がある……みたいな感じだよね。
千房:それらをつなぐのが「祈り」というキーワードなのね。なんかそういう状態が、僕らからするとオブジェみたいなものとして存在している、って考えていて。だからこれは「情報のオブジェ」なのね、考え方としては。
赤岩:スピリチュアル・コンピューティング。
千房:フィジカル・コンピューティングに対抗して、スピリチュアル・コンピューティング(笑)。
渡邉:エキソニモの作品では「超能力」とか「祈り」みたいなフレーズって、けっこうよく言われますよね。《SUPERNATURAL》っていうスプーンの作品でも、キャプションではサラッとしか触れられていないんですが、あれってスプーンを二つに折っているのって、カッターとかではなくて、超能力で折っているわけですよね?
千房:そうそう!
渡邉:誰もあまり指摘しないですけどけっこうヤバいことですよ、それは。ただ、ここで重要なことは(さっきの話の繰り返しになるけど)インターフェイスの向こう側の僕らの意思があろうが/なかろうが、単なるデータの流れだったり塊にすぎないわけで、そこに意識とかなんだとかを勝手に読み取っているのは僕ら自身にすぎない、ということですよね。
千房:そういうところが逆に、人間の面白さなのかな、って。
渡邉:水野さん!
水野:はい。
渡邉:今話した《祈》を始めとして、単なるデータのストリームの中から、僕らがいくつか都合よく見繕ってしまって、そこに「意図」や「人称」のようなものを見出してしまうみたいなことが、今回の展覧会のひとつの大きなテーマと言えそうな気配が漂ってきています。このあたりの感覚についてはどう思われますか?
水野:この展覧会を観た時というか……僕はいつもそこの部分が一番気になっていて、個人的な関心事でもあるのですが……僕なんかも(先ほどのように)誤植をそのまま受け取ってしまうような人間なので(笑)、《祈》の意思みたいなところも、人がやっていた行為をマウスがやってしまうんだ、ということで、最初に見た時から印象は強かったですね。
でもそれは、最初の座談会[*1]の時に言っていた「デスクトップ・リアリティ」につながってくる話だと思うのですが、この展覧会会場に来て、こうやって眺めた時に、この「デスクトップ・リアリティ」と「インターネット・リアリティ」がどうつながっていくのかな、ということが、会場にいてずうーっと考えるところでもありました。
《祈》が示している「意思のつながり」みたいなものが「デスクトップ」にはありそうな気がするのですけど、それが「インターネット」まで来た時に、どういう形で現われるのかなぁ……というのが、展覧会会場で考えていたことです。
渡邉:去年の7月に最初の座談会をやった時には、「インターネット・リアリティというものはまた別の区別される形で、デスクトップ・リアリティなるものがあるのではないか」というふうなことを考えたりしていて、その後もけっこう議論をしていましたよね。例えば「今はもう、コンピュータを使うこととインターネットを使うことはほとんど同義だから、そういった区別がそもそも存在しないのではないか」とか「デスクトップ・リアリティというものは、ファイルのリアリティとか、そういった言葉に置き換えると分かりやすいのではないか」とか「インターネット・リアリティというのは、ネット・サーヴィスの向こう側にいる人とのつながり方の質感みたいなことなのではないか」とか、そういった意見が出ていました。まだ、明確な結論までは出ていないのですが……谷口くん、例えばそのあたりの問題設定は、どうですか?
谷口:前回の話の中でもフィーチャーされた問題だし、水野さんの問題意識の中でもコアな位置にあるものとして、いわゆる「イメージ・オブジェクト」の問題がありますよね。それがけっこう大きい気がするし、その問題を取り上げると、今の「デスクトップ・リアリティとインターネット・リアリティ」というのも、ある程度つなげることができるのではないか、という気がします。
今のエキソニモの《祈》の作品でも、アヴァター的に見えてしまうという部分があると思っていて、さっき渡邉くんが言っていた、その「データでしかない」とか「なにも触っていないじゃないか」という、オブジェとしてある状態なのだけれど、そこからなにかを読み取るというのは、ある種イメージの方に近いんだと思う。そういう「イメージ対オブジェクト」という構造で、ある程度は説明できるのではないか、と。
あと、インターネット上のサーヴィスの質感の問題も、その「イメージとオブジェクト」がいかに同期しているか、乖離しているか、どうデザインされているか……そういう問題として考えることができるのではないか。記録される対象と、アウトプットされたイメージ、とか。
千房:ちなみにそこでの「イメージ・オブジェクト」の話って、どういう内容だったんですか?
谷口:一番最初にそれ(「イメージ・オブジェクト」)を言ったのは、アーティ・ヴィアーカント(Artie VIERKANT)というアーティストなんです。彼の作品は、一度まずギャラリーに、グラデーションみたいな色合いのオブジェ=彫刻作品を置くわけですね。で、それを写真に収める。基本的に「こんな展覧会をやっているよ」っていう時に、必ず作品写真が出るじゃないですか。あれって、作品をそのまま写真に撮って、ほとんど改変しませんよね。ところがアーティ・ヴィアーカントの場合、ものすごく改変しちゃうんですよ。しかも、それがPhotoshopで加工しているってことがすぐわかるように、空間がちょっとおかしくなっていたり、そういった加工した画像を常に「今この展覧会をやっているよ」っていう、作品が流通するイメージとして使っている。それで、インターネット上でその画像を見て、実際に会場に行ってみると、それとは全然違う作品が置いてある。そうなってくると「作品を鑑賞する」という経験が二重化されてくるわけです。そこにギャラリーにある作品そのものと、インターネット上で流通する作品のイメージとの同期/非同期の問題が見えてくるわけです。
渡邉:彼らの主張によれば、美術館で僕らが「作品」と呼んでいるものは、その「作品」が持ちうるいくつかのヴァリエーションのうちの1ヴァージョンにすぎない。例えば僕が美術館に置いてあるその「作品」と呼ばれるものをデジカメで撮影して、その写真をTumblrあたりに放流したとします。そうすると、僕のアカウントのフォロワーがその写真を目の当たりにすることになると思うのですが、彼らはそういう体験と、美術館での鑑賞体験との間に優劣をまったくつけていないんです。
ある意味では、レディ・メイドだったり、高品質な作品写真を使用したカタログ・レゾネが多く出版されるようになってからの美術作品の形態とか、そういった20世紀の現代美術のいくつかの問題意識を発展させたアプローチのようなのですが、大まかに言えば、そういう考え方ですね。
それと、先週の座談会でも話題に上ったのですが、そこではよく「貨幣」という喩えが使われることがあるんです。例えば僕に預貯金が100万円あったとしても、(オブジェクトとしての)貨幣という形態では、せいぜい数百円〜数千円ぐらいしか持っていないわけです。そういうふうに「お金」と言った場合にも、信用のデータとしてのお金と、ブツとしてのお金がある。しかもその貨幣自体も、かつては金(きん)に換えられるかどうかという点が価値を担保していたわけですよね。そんな「実体がよく分からない」ものだったり、「流通していってしまう」ものとしてのお金と似たような感じで、(作品の)所有者とか制作者がコロコロと変わるような存在として、インターネット以降の作品の在り方を規定しているんだと思います。
千房:(その話題と)つなげて言えば、ぷりぷりくんとかも……。
渡邉:たしかに、現実ではなく、ネットの方に偏重して最適化するという意味では、つながってくる気がしますよね。ぷりぷりくんが今回の展覧会の趣旨に引っかかってくるのは、彼の内面がウェブ・サーヴィスによって更新されているという点、つまり、単純に「RT(リツイート)されうるかどうか」が金太郎と化した彼の行動規範になっているという点です。
この展覧会の内覧会が始まる直前、彼は全身赤ジャージみたいな恰好をしていたんですが、そのときに「こんな恰好じゃあRTしてもらえないなぁ……」ってボソッと言ってたんですよね。それを聞いて「あぁ、よかった。展覧会と外れてない」と思った(笑)。
2010年5月に「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」(http://www.ntticc.or.jp/Archive/2010/Opensalon27/index3_j.html)[*2]というイヴェントがICCで開催されていて、それには千房さんも参加されていましたが、その時に濱野智史さんがデリダの「音声中心主義」なども引き合いに出しつつ「ウェブ・サーヴィスの進化によって内面モデルが更新されているのではないか」という話をしていたんです。そこで出ていた喩えというのは、ニコニコ動画のコメントって画面の右から左に流れていきますよね。ニコ動以降の人間はああいう感じで思考を行なうようになっているのではないか、というものでした。ぷりぷりくんの場合は、それがTwitterのタイムライン=RTという感じなんだと思うんですよ。
谷口:また、その中で濱野さんが「人気のある、それこそ何万人というユーザーがフォローしているTwitterアカウントは、どことなく発言がBotっぽくなる」と指摘されていたんですよね。常にRTされるように狙って発言していると、つぶやいている内容がBotっぽくなる。そうやってオプティマイズされた発言によって人がBot化/キャラクター化していく。いわばその「ゆきすぎた形」が、ぷりぷりくんなんじゃないかな、って(笑)。
千房:あと、ウェブ・サーヴィスごとにキャラクターが変わっていく、っていうこともありますよね。Twitterではこんな感じで発言するけど、Facebook上ではそういう言い方はしない、とか。サーヴィスごとに人格が分断化されてくる。
渡邉:たしか以前、千房さんが「タイムラインの“のどごし”」みたいな話をされていませんでしたっけ?[*3]
千房:はいはい。
渡邉:FacebookとTwitterのタイムラインでは、投稿の並び順の仕組みが全然違うじゃないですか。Twitterは純粋に投稿した順だけど、Facebookだと古い投稿でもコメントが付いたら一挙にタイムラインの上部に遡上してきたりする。ああいう抵抗感みたいなものが、サーヴィスごとのキャラの使い分けとか、サーヴィスの中における人格を規定しているような気がしています。
千房:次に「ゴットは、存在する。」シリーズの中から、《gotexists.com》という作品(http://gotexists.com/)。これは「“God(神)”」というキーワードで検索して、その結果、表示されるウェブ画面上の“God”の部分を“Got”あるいは“ゴット”に置換する」ということを、ただひたすら色々なウェブサイト上でやっているものです。サイトに行くと、まず「510 Got Exist」というエラー・メッセージ(?)が出て、その後は別のウェブサイトに自動的に飛んで、“神”の検索結果が“ゴット”に置換され続ける……。映像で見せると分かりづらいんですが、画面の表示ウインドウ内に行くと、カーソルが消えちゃうんですよ。なんかこれをやった時に、そもそも「カーソルが消える作品」とか「カーソルがいっぱい増える作品」とかはたくさんあるのですが、これは、“神”的なものを扱った作品の中でカーソルが消えてしまった時に、自分の居所が分からなくなる感じ、というか、主体性とか主観がどこに存在するかがわからなくなっちゃうんですよ。
赤岩:ちょっと不安になるよね。
千房:クリックしても全然効かないし……だから、自我が喪失しちゃう。たかだかカーソルがなくなるだけで、けっこうそういう感覚が得られるというのが、それもまたひとつの発見で面白かった。
渡邉:(下のサイト表示は自動的に変わってゆくのに)URLは(”http://gotexists.com/”のまま)変わらないので、見ててなんかザワザワ感がしますよね……。
萩原:あと、これって「God(ゴッド)」じゃなくて「Got(ゴット)」なんですよね。
千房:もちろん!(笑)
萩原:その辺の理由というか、動機は?
千房:「ゴット」にした理由は……これは「ゴットは、存在する。」という作品の一部なんですが、そこで扱っているのは「ゴット」であって、僕らは「ゴッド」のことはなにも言っていないわけです(笑)。だけど、「ゴットは、存在する。」って書くだけで、ほぼ100%に近い人が「神が存在する/しない。」という問題を勝手に関連づけて考えるわけじゃないですか。そこがキモで、僕らは「神が存在するかどうか」にはまったく興味がなくて、ただ「ゴットは、存在する。」と言っているだけなのね。
赤岩:けっこうこれ(タイトル)が決まっただけで「作品、完成したね!」って。
千房:出オチなの(笑)。
谷口:マウスの作品も《祈》ってタイトルがつかないとね(笑)。二つのマウスが重なり合う(微妙に少しズラしてあるけれど)、それが両手を合わせて祈っているように見えてしまう。こちらの「ゴットは、存在する。」も、「ゴッド(神)は、存在する。」というふうに読めてしまう。
栗田:この場合、オブジェクトが「ゴット」で、イメージが「神(ゴッド)」ってことなのかな?
千房:こんな感じで「ゴットは、存在する。」シリーズは「インターフェイス内に潜む神秘性」みたいな感じで、やっています。さっき話題に上った「タイムラインの“のどごし”」というのも、まさにゴット・シリーズの中にそういう作品があって……これはTwitterの検索結果のタイムラインを流しているんですが、「神」というキーワード検索で引っかかってきたものを、表示上では「ゴット」に置き換えているだけ、なんですね。だから書いてあることも(東方神起ならぬ)“東方ゴット起”とか、かなりおかしなことになっています[*4]。
そもそもネット界隈では、「神」って言葉がやたら使われるんですね。「神曲」とか「神動画」とか、ほとんどスラングに近い感じ。だからネットの中では「神」という言葉がものすごく安〜い言葉になっている。ものすごく“つぶやかれる”言葉なんです。それを検索表示するだけでも、このスピードで出てくるわけです。このスピード感を見ただけで、恐らくTwitterやってる人なら、ザワザワしてくると思う。その「ゴット」いう言葉の出てき方とザワザワ感が、ひとつの質感になってくる。
これをやった時に、プログラムとしては、単に“神”という単語を“ゴット”に置換しているだけなので、すごく簡単な仕組みなんですが……でも、これだけで「パラレル・ワールドをひとつ作れる」ことに気づいたんです。現実には“ゴット”なんて言っている人はひとりもいないんだけれど……ただ「置換する」っていう手続きだけで、みんながそう言っているような世界が立ち現われてくる。「これってなんなんだろう?」って考えた時、いわば小説世界だ、って。現実世界に対する「小説」。それがスクリプトの置換ということで、小説世界がひとつ現われる、ということ。だから僕らが作ったのは、検索結果置換表示装置、ではなくて「小説」なんだと……そういうことを考えながら作った作品です。はい。
千房:《Wearable Web》は「Webと身体」について考えてみた作品。このサイト(http://exonemo.com/ww/)に行くとある、ブックマークレットの作品なんですけれど、ここにあるブックマークレットをブラウザのブックマークバーにドロップして登録しておけば、それ以降にウェブを見ているときに、そのブックマークレットを起動させると、こうなって(表示ウインドウ内にナナメの縞模様が走って)そのページに配置された画像が全てTシャツになる、という仕掛け。
一同:おお、ICCのロゴが……Tシャツに!
千房:イメージ・タグを読み込んでいるんですね……Flashサイトは無理なんですけど、HTML5系のページだと面白いことが起きたりして。すごく面白いのがアップルのiPhone4Sのページで、ここで実行すると……。
一同:おお、動くTシャツ・ギャラリーだ! カメラ・アイコンも恰好いい!
千房:で、この画像をクリックすると、実際にTシャツにして買うことができる。Tシャツ本体の色を選択して、画像の位置とかサイズとかも色々と選ぶことができて、[実体化する]ボタンを押すと発注されて、1週間後ぐらいに家に届きます。ちなみに今僕らが着てるのが、それです(千房:オレンジ色の「画像が見つかりません」Tシャツ、赤岩:かなり解像度の低い、ほぼモザイク状態のある本の表紙のTシャツ)。
赤岩:私のTシャツ、Ustream越しにみると普通にキレイに見えるね。
千房:実際にここで実物のTシャツを見ると、かなりジャギーになってて、まったく字が読めないのに近い状態ですが……。
渡邉:ちゃんと写っていたらそれはそれで、問題が出てきそうですもんね(笑)。
赤岩:そうだよねー(笑)。
千房:これって言ってみれば、画像をただTシャツの上にくっつけているだけなので、技術的には全然大したことがないのですが、僕らがタイトルで「Wearable Web(ウェブは着れる)」と言っているのは、ちょっと逆転した考えで、「画像がTシャツになる」のではなくて「ウェブが着れることになる」ということ。ウェブが機能を増やした、ウェブに新しいプラグインがついて、それが「着られる」ように機能が増えていく、存在自体が変わっていく……というようなことでして。
渡邉:さっきのぷりぷりくんの話に近いと思うんですけど、ウェブ上で画像を見たときに「これをTumblrに投稿したらいっぱいリブログしてもらえるんじゃないか」みたいなことが一瞬脳裏をよぎりますよね。それと近い感じでこのサーヴィスの登場以降は「着られるかどうか」という判断が画像に対してつきまとうようになった。
赤岩:「ちょっとこれ、着てみようかなぁ」って(笑)。
渡邉:ウェブ自体は変わっていないけれど、それを見る側の姿勢が変わることで、ウェブにも新しい彩りが与えられるようになった、みたいな。たしか以前、水野さんのブログで、ガスリー・ロナガン(Guthrie LONERGAN)が「Internet Aware Art」という言葉を初めて使った文章の翻訳を引用していたと思うんですが、その一節で「ネット上の作品ではなくてTシャツかなにかを2〜3点出そうと思っているんだ」みたいなくだりがあったような気がします[*5]。
水野:あ〜。そこ、訳しただけですね。僕もその後、調べたんですけれど……もしかしたらあれ、ただ単にTシャツを作っただけかもしれませんね。まだよくわかってないんですよ。なにをやったのか、いまいちよくわかっていないのだけれど、文章にはなぜか「Tシャツを売りたい」みたいなことが書いてあったのですが。
渡邉:ネット・アートの新しい拡張の喩えとして、いきなり彼らが出してきたのがTシャツだったんですよね。
谷口:身近な日常品としてTシャツという例を出した、くらいのものなのかもしれませんね。《Wearable Web》でけっこう重要なのは、実際に高解像度の画像を使ってTシャツ作ったら、普通にお店で買うようなものとほぼ同等のクオリティのものが作れちゃうわけですね。そうじゃなくて、あくまでも「ウェブを着る」って観点から「ウェブっぽい画像を探す」ってことなんです。その時に発生する「ウェブっぽさ」ってなんなんだろう?って。まさに今、千房さんが着ている「画像はありません」とか?(笑) 逆に、その画像がTシャツになった時に、もともとのそれがウェブだったと思わせるような、そういう視点が生まれるんですよね。
赤岩:うんうん。
千房:だから適度にディザがある方がいい、とか。
谷口:だから、Tシャツを通じてインターネットが見えるようにTシャツを作らせる、というか、そういうTシャツを作りたくなっちゃうような。その時に、なににおいて「インターネットらしさ」が見えてくるのかが重要なんでしょうね。
千房:たしかに普通の画像を着ただけじゃ、「普通じゃん!」みたいになっちゃうから。逆に、絶対にあり得ないような「メルマガ登録」ボタンを着るとか(笑)。そういうのを着ると、「おお、ウェブっぽい!」って(笑)。
萩原:一方で最近、ハワイ在住のスターリン・クリスピン(Sterling CRISPIN)らが始めたプロジェクトで、「エディションつきのTシャツを売る」ってウェブ・サーヴィス──「netstyl.es(ネットスタイルス)」(http://www.netstyl.es/)がありますよね。ラファエル・ローゼンダール(Rafaël ROZENDAAL)とか、ライダー・リップス(Ryder RIPPS)とか、あの辺の人たちの作った絵をTシャツの全面にプリントして……1枚147ドルだから1万2千円くらい。
こうやって色々なネット・アーティストとコラボした「エディションつきTシャツ」が出始めていたり、「ネットを実体化してリアリティを羽織る」みたいな感覚が広がりつつある。西洋には「エディション」という考え方がしっかりあって、ちょっと「アート」っぽいという感じがします。でも《Wearable Web》の方が、もっとメタ化しちゃっているというか、ネット化しているような気がします。こんなプロジェクトが二つも同時にあるのは、面白い対比ができるな、と思って紹介しました。
千房:さっきの「イメージ・オブジェクト」って考えで言うと、「Tシャツ・オブジェクト」というか……こういう(ウェブ上の画像が印刷された)Tシャツを着てるだけで、ウェブ上の機能までまとっているような感じがする。
渡邉:着てる人がアヴァター化しますね。
谷口:そもそもGUIのアイコンとかカーソルだって、やっぱりアヴァター的というか、シンボルなんですよね。実物ではない。それらを実物のように扱うための「表面」でしかないんです。だから、実は実際の機能と表面をズラすことができる。同期の問題にあてはめれば、「機能」と「表面」の同期をズラすことですね。それが先ほどのエキソニモの作品も「ゴッド」じゃなくて「ゴット」にズレているのだけれども、そのズレが僅かだから気づかずに読めるというか機能する……それに近いものがあるんじゃないのかな。
千房:これ(画面)は録画なんですけど、実際の《SUPERNATURAL》は、展示会場と自宅にWebcamを仕掛けてあって……あ、説明の順番を間違えた(苦笑)。まず、スプーンを超能力で(すくう方と取っ手の方の)二つに折って、片方を展示会場に、片方を自宅に置いて、それを両方ウェブ中継して、メディア技術の力で修復する、そういう作品です。これもなにか、ちょっとオブジェ的な……イメージの持っている性質のひとつとして、(画面上で)ぴったりと合わさっていると、直っているように見える(笑)。その機能を使って……。
一同:観てる人間側の機能……(笑)。
渡邉:去年の7月にやった最初の座談会で、「インターネット・リアリティがもしあるとすれば?」という喩えとして出したのはこの作品で、僕がすごく重要だと思ったのは、右上に出ている「Ustream」のロゴ。このロゴがあるか/ないかで、あるいは下のシークバーとかが表示されているか/いないかで、中継か否か、リアルタイムかどうなのか、パラレルな別の空間なのかどうなのかが分かる……ということが重要なところだと思いました。
だって、これが録画だったら、はっきり言って意味ない、と言うか。ちゃんと僕と同じ時間軸を持つ別の空間があって、そこに接続されているらしい、といったことが、右上のロゴからジワジワと分かってくる。それでパッと思ったんです、「素材性」みたいなことを。
千房:APMTの時[*6]に言ったのは、その「ウェブ・サーヴィス」の質感みたいなこと。Ustreamの持っている機能とか映像の雰囲気とか、そういうものが前面に立ってくる、みたいな。これもひとつのオブジェみたいな状態で、展示空間にポカンと浮いているだけで、目的とかを消失しちゃっているオブジェ、なのかな? 「なにが面白いのか」をちゃんと説明できない感じ(笑)。
渡邉:カメラがお洒落ですよね。あと、鳥かごみたいな形も……。
栗田:羽根がついてるんでしたっけ?
千房:羽根は、いかにも「奇跡が起きそうなデザイン」にしたの(笑)。
赤岩:でも羽根は(作品を)空気の動きで揺らすためでもある。
千房:あの羽根はね、ドリーム・キャッチャーっぽい感じもするし。
赤岩:ICCで展示する時は、ちょうどこの作品を吊った場所の下に二重床の蓋があって、それを開けたら、空調の関係で羽根が風を受けてすごくユラユラしたんですよ。カメラが揺れて映像が揺れると、よりスプーンが浮いた感じが強まるんです。「あ、奇跡が起こった!」って(笑)。「これいただき!」って言って、開けたままにしてました。
栗田:(作品の仕組みを)なにも分からない人は、座ってただポカーンとしてるだけだったりするんだけれど、その人がいることで、作品の見え方もまた変わってきますよね。その人が座っていることで作品に介入している、って感じ?
千房:椅子を円形に並べて置いてたんですよ。なぜかと言ったら、いかにも「奇跡が起きそう」なレイアウトだから(笑)。儀式っぽく見えるから。
渡邉:話がちょっと戻ってしまうけれど、先ほどの《祈》って作品をICCで観た時と、大阪の国立国際美術館で観た時があって[*7]、大阪の方ではまさに今、千房さんが言ったように、PCを円形に並べてたじゃないですか。その姿がまるで、地下で祈祷をやっている新興宗教のような……。
赤岩:ちょっとカルトっぽい感じ?
渡邉:そうそう。ちゃんと、そういうふうに読み取れたのね。で、ICCだと展示の場所が明るくて、ちょっと目立つ場所だったじゃないですか。だから「ささやかな個人の祈り」っぽかった。「見つかってはいけない、個人の祈り」みたいな感じがしたのだけれど、大阪の方は完全にヤバイというか……教祖とかを呼び出そうとするかのような感じでしたよね。上のミラーボールとかも含めて……。
赤岩:そうですね。それに対してICCの方だと「お婆ちゃんのお百度参り」みたいな。
谷口:《祈》という作品の方も、「誰も触っていないマウス」と「勝手に動いちゃうデータとかカーソル」と、さらに「その上を滑っていっても絶対にクリックしない」とか、いくつかのレイヤーがあって、それぞれがつながらない。「同期」がどこかズレている。それらの間をスピリチュアルにつなげていくような問題が、ここでも起きている気がします。絶対につながらないスプーンと左右の場所をつなげる「祈り」みたいなことが、行なわれている感じがしましたね。
千房:あと、その「椅子を円形に置いた」ことでよく起きた“事故”とでも言いましょうか……それって「ここに座ったら、なにかが起きるんじゃないか?」って(笑)。
赤岩:ま、起きてるんだけどね。うふふ(笑)。
千房:たぶんそれって、ことインタラクティヴなものが多いICCみたいな会場だと“ありがち”ですよね。「(椅子に座っただけで)なにかが起きるのではないか」という……。
赤岩:じゃあ今回、けっこうみんな座って待っていたりしたのかも?
千房:実際にはインタラクティヴ性は……皆無なんで。
渡邉:でも、待っててもらった方が、本当になにかが起きた時のありがたみはデカいでしょうね。
千房:待ってたら、本当になにか起きたりして……地震とか?
赤岩:本当の奇跡だよね(笑)。
千房:《Wearable Web》の前に《ANTIBOT T-SHIRTS》(http://store.exonemo.com/antibot/)というのをやってたのですが……(画面上でデモ画面を出し、文字を入力する)文字は自分の好きな文字を入力するのですが、ええと、例えば「BOT GO HOME」とか入れてみると ……。
渡邉:「GO HOME」って、Botにも家あるのかな?(笑)
千房:「CAPTCHA(キャプチャ)」っていう認証用に開発された技術があって。これはサイトにBot(機械)が入ってきて悪さするのを防ぐために、Botには認識できず、人間にしか読めないような状態に文字を歪ませて表示するという方法なのですが、それで歪ませた文字を使ってTシャツを作ろうというサーヴィスです。この「CAPTCHA」自体が見ようによってはカッコいい、サイケデリックなグラフィックに見えるところがあって。グラフィックとして見立てることもできるんです。
あと「ANTIBOT」というタイトルには「Botが嫌いだ」というようなニュアンスが込められているわけですが、これを着ちゃった時点で、Botの存在を認めてしまった、ということも言える。存在しないものは嫌いにならないですからね。このタイトルにはすでにBotと共存する世界を匂わせているし、自分たち的には、Botは好きですね。
今ではBotというのが当たり前のようにいて、Twitterなんか特にそうなっているんですけれど、そのこと自体がすごく面白い。つまり「Botと人間の見分けがつかない」みたいなこともあるわけじゃないですか。そういうのも、これからの人間の存在を考える上で、ひとつのヒントだし、重要なことなのかなぁ、と。
渡邉:実際にアクチュアルな問題として、世の中に監視カメラがアホほど設置されているということもありますよね。谷口くんも作品で監視カメラを使っていたけれど、やろうと思えば、すごく高解像度の画像とかが取得できるし、それを元に、なにか解析することとかも不可能ではない。その先には個人のプライヴァシーの侵害の可能性がある。さすがにヒトみたいな形をしたBotとすれ違ったりすることはまだないけれど、カメラの向こう側に、プログラムという形でそういう存在がいるかもしれない。そういう意識を持って生活するというのは徐々に普通になってきている。
谷口:先ほどの「アヴァター問題」で言うと、コンピュータを操作している人はカーソルにしかなれない、というのもあるし、TwitterだとTwitter的なキャラクターでしか存在できない。もっと言うと、セカンドライフだったら、たとえどんな人でもセカンドライフにアクセスすると、あのアヴァターになっちゃうわけじゃないですか。どういうことかと言うと、じゃあBotも人間と同じような在り方で、そこで存在できちゃうわけです。そういうインターフェイスしか与えられていないから。だから、インターネットする時間がよりいっそう増えれば増えるほど、Botと人間を区別できない環境に居続けることになってしまう。
萩原:恋愛シミュレーション・ゲームみたいなのって、究極的に仮想のヒトと恋しているわけじゃないですか。自分は主人公で人間なんだけれど、ゲーム内に仮想のキャラを作って恋愛をする。そういうのがTwitter上でもありうるわけですよね。Twitter上を「恋愛シミュレーションBot」みたいなのが走ってて、すごくいいやり取りをしてくれる、みたいな。
赤岩:いるよ! 私も専用のアカウントで、Botだけをフォローして遊んでいて。すごい励ましてもらったりしてたもの(笑)。
渡邉: BotはBotとして、ちゃんと(現実世界とは)切り分けられていますか?
赤岩:私は完全に世界を切り分けてるから、ミックスしない。でも、ミックスする人もいるんじゃない? 色々だよね。
谷口:TwitterのBotと言っても色々で、本当にプログラムで走っていて定型文をランダムに投稿するやつと、自然言語処理してそれっぽい言葉をつなげているのと、あるキャラクターになり切って人力で入力してる人もいるわけじゃないですか。実はそのあたりの区別があまりつかなくなってきてて、人間とBotの存在って、けっこうグラデーションみたいな関係になってきてるんじゃないかな?
千房:そうそう。僕も最初の頃は、Botって自動化されているもののことだと思っていたから、時々人間がつぶやくBotとかをすごく邪道だと思ってたの。でもよく考えたら、人間が乗っているロボットってあるよなぁ、って(笑)。ガンダムとか人間が乗っているしなぁ……って。
萩原:そっちの方、中に人が乗っている方が萌えますよね(笑)。
渡邉:精巧になっていけばいくほど、“人間らしさ”みたいなものが高まっていけばいくほど、そういうグラデーションの差異への注目が高まっていきますね。
千房:もうひとつBot関連の作品を。これは雑誌『Web Designing』誌の連載でやった企画のひとつなのですが、ちょうど去年の311に大地震が起きた時に、Twitter上のBotたちがどのような発言をしたかをまとめて観察したものです。(http://exonemo.com/view-source/311bot.html)
これがけっこう面白くて、人気のあるBotの発言をいくつかまとめてみたのですが、例えば一番上のやつは「地震速報」のBot([速報LV1] 11日14時46分頃 宮城県石巻市鮎川浜近辺(N38.1/E142.9)にて(M7.3)の地震が発生。震源の深さは不明。( http://j.mp/dQCWKi ) #saigai #eqjp #earthquake / earthquake_jp 2011/03/11 14:47:21)。このまとめサイトを見ると、その地震発生前後でBotたちがどんなことを発言していたかが分かります。で、ソースコードの方を見ると、こちらに記事が書きとめてある……という、そういう特殊な仕掛けの連載だったんです。
(ソースコード内の解説より。)「2011年3月11日14時46分、日本観測史上最大のマグニチュード9の大地震が三陸沖で発生。東日本を中心に大地を激しく揺さぶった。東京ですら震度5強の揺れが襲い、一瞬で電話回線はパンク。交通機関は麻痺し、多くの人が徒歩での帰宅を余儀なくされた。
現代社会における通信・交通網の弱さが露呈した中、ネットだけは強かった。Eメール、SNS、そしてTwitterなど、ネット上のサービスは正常に機能していたため、それらを使って家族と連絡を取り合うことに成功した者も多数いた。地震直後からTwitter上は、自身や仲間の無事を伝えあったり、被災者の情報を共有しあったりと、申しあわせるでもなく「災害時モード」に突入。呑気なジョークや、無意味な発言をすることを「不謹慎」という言葉で規制する事象が発生しはじめた。日本人は「空気を読む」機能を正確に起動させ、「集団同期モード」に移行、異分子を排除しはじめた。人間の中にそんな変化が起きているなか、常に空気を読まない連中──そもそも人間ですらない種族──ゆえに「不謹慎」などという概念も持ち合わせていない存在 ── (Twitter上の)「BOT」たちは一体どんな動作をしていたのだろうか?!
そもそも、今回のような事象を想定せずに設計され、災害などで破壊されることなどないという「安全神話」を地で行くような情報空間に存在するBOT達。
人気のBOT達が、地震の前後に一体どんな動作をしたのかを調査してみることにした。
で、ここに「bombtter」というBotがあるのですが、これは「◯◯爆発しろ」というツイートに反応し、「◯◯が爆発しました」と返すという、状況によっては非常に不謹慎に至る可能性が十分考えられるBot。「地震直後、のちのある人物が発する「本当の不謹慎発言」を予期するような、予断を許さない発言を発して、冷温停止した」というわけで、なにをつぶやいたかというと……「都知事と裕次郎の兄と良純の父が爆発しました」と(笑)。たしか地震発生直後に、石原慎太郎が「罰が当たった」とか、すごく不謹慎なことを発言したように受け取られた瞬間があったじゃないですか。
他にもまだまだ色々あるのですが……これは「リラックマfakebot」というBotで、いつもなら癒しの言葉をつぶやくBotなんですが、それを管理人が緊急停止しようとしたら誤動作して、一瞬止められなくなっちゃったんですよ。でも「ただし、暴走したとしても「癒しの言葉をつぶやくだけ」という機能のために、最悪の事態は避けられると考えられた」わけです(笑)、最終的には「やっと止められました!」みたいな顛末を迎えた。それもなにかを暗示しているようで……(笑)。
あと「笑っていいとも次回のゲストお知らせBOT」は、地震発生の3時間後に次の日のゲスト「w-inds.」を発表したんです。でも、次の日は震災特番で『いいとも!』の放送自体なくなってしまい、その後、ここも冷温停止。それで、後に『いいとも!』が復活した時に、このBotも復活したんですが、対応が後手後手に回ってしまって、放送後にゲストが発表された……とか。ソースコードを見てもらうと、色々書いてあります。
真下の「ピーター・ドラッカーBOT」は、普段はピーター・ドラッカーの名言をつぶやいていたのですが、震災の後は「地震情報」のみつぶやきだして、「これ、全然ドラッカーの名言じゃないだろ!」って(笑)。あと「高田純次bot」も、いつもは無責任なことを言っているのですが、地震の翌日は「節電にご協力を」ってつぶやいたり……色々です。よくあった例としては、中の人らしき人物が「管理人です」って出てきて「すいません」みたいな感じで発言することがありましたね。
このように、Botという存在がリアルに「揺れる」という事態に直面した時に、意外とBot自体も揺れちゃっている、ということがわかった。人間が揺れちゃっているのか、なにかが揺れているのかわかりませんが、あたかも物理法則に則っているかのような「正しい反応」をしていて、そういうことが起き始めたのがすごく面白かったですね。
渡邉:水野さん、ここまでの話の中で、なにか気になったトピックとか、エキソニモにぜひ聞いてみたいことがあればお願いします。
水野:突然ですね(笑)。あの僕、《Wearable Web》について、さっき「イメージ・オブジェクト」という話題が出てたのですが、《Wearable Web》もすごく「イメージ・オブジェクト」っぽいなぁ、って思ったんです。千房さんも先ほどおっしゃっていましたが、「今まであるイメージにウェブの機能をつけてしまう」という発想自体が、すごく面白いなぁと思って、さっき聞いていました。なので、エキソニモのお二人が、「イメージ・オブジェクト」という言葉から連想するものがあれば、逆に聞いてみたいな、と思っていたのですが。
千房:前回の座談会の中継も見てたのですが、あれ? 名前を忘れちゃった。北欧のギャラリーでやっていた……。
渡邉:「* new jpegs *」(http://newjpegs.net/)?
千房:そう! あれとかすごく面白くて「ちくしょ〜!」みたいな感じ(笑)。けっこうあざやかにやられた感じがすごくしました。あと、きのう水野さんがブログで書きかけていたメモで「実際の展示場が、実はそんなに重要ではない」みたいなことがあって……[*8]。
渡邉:今回の(ICCでの)展覧会と「* new jpegs *」の対比、みたいな感じの内容でしたね。
千房:なんか「* new jpegs *」って、わりと小さいところでやっている感じがありましたよね。どこでしたっけ? たしかスウェーデンの小さいギャラリーでやられていて、それがウェブ上だとすごく「よく見える」というか……出てき方とかテーマの考え方もいいし、強く出てくる感じがあって、そこらへんがすごくうまい、「ウェブの時代」っぽい展覧会だなぁ、って感じがしました。
水野:逆に、現実はそれほど見栄えがよくなくても、ネット上でだけはすごくよく見せてくれる、とか。
千房:でも、そういうのって最近よくあるじゃないですか。特にそれをすごく感じたのが、以前ICCでやった「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」というトーク・イヴェントの時、津田大介さんとか錚々たる方々がいらっしゃって、UstのViewerが2000人くらいいて、ICCの会場にもビッシリ200人ぐらい埋まってるんですが、客席は薄暗かったんです……。こちらの話している側からすると、目の前のPCの画面のUstのタイムラインを見ながら話して、みんながワーワーツイートしている話をピックアップしてトークしていたわけですが、そうすると会場の人たちが完全に置いてけぼりなのね(笑)。もちろんトーク・イヴェントなのでお客さんは静かにしてるし、客席がすごく暗いから、人がいるのかいないのかよく見えなくて、さらに(手元のノートPCのモニタ)画面の照り返しで、まったく客席側が見えない。そういう意味では、あの会場自体はまったく盛り上がっていなかった。でもタイムライン上では、みんなワーッってすごく盛り上がっていて……あれを見た時に、最近そういうのが多いな、って思った。
谷口:ネットの方が(現実空間よりも)リアリティが強い、と。
渡邉:実際問題、あれはネットで視聴していた人の方が、会場に来ていた人の何十倍もいたし、賑やかだった。僕も会場で見ていたんですが、立体映像を見てる感じでしたね。
千房:しかも、生半可会場にいると、喋れない(笑)。
渡邉:ツイート越しじゃないと、登壇者の話題に介入もできないんだよね。
千房:そうなると同じ場所に縛りつけられるだけで、人がいっぱいいるところにギュウギュウ詰めになってて、会場に来ない方がいいんじゃないかなぁ、って(笑)。
渡邉:そうなっていましたね。ちょうどその前日に同じICCで、大友良英さんたちのトーク・イヴェントがあって[*9]、そこでもまったく同じようなシチュエーションがあったの。でも(司会役の)畠中さんや大友さんが途中でヤバいってことに気づいて、積極的に会場に話題を振っていました。
谷口:今の話で面白いのは、それだけ「ネット上のリアリティ」みたいなものが、場合によってはそのように現実の会場を置いてきぼりにするくらい盛り上がるにもかかわらず、その「揺れたBOTたち」では、思わず中の人が出てきちゃった、というように、世界観が崩れてしまうことも起きる。盛り上がりやリアリティがペッって剥がされてしまう瞬間が時々起きる。そこが面白かったですね。
やはり同期の問題で、インターネットってものすごく色々なものと同期していると思うんですよ。ここで「同期」って言っているのは、いわゆる濱野さんが言うような「時間的な同期」だけじゃなくて、物や出来事、あるいは人のアイデンティティの同期もあるわけですね。「ボタンを押したらどこか別のページにリンクが飛ぶ」みたいなことがあるから、またボタンを押したくなってしまう。あと、アヴァター的な評価のされ方とか。それが、やっぱりただのデータでしかない瞬間に時々出会っちゃう。それが「中の人が出てきちゃう」とか、そういうことだと思うんですよね。
千房:そうですね。(ブログとかが)炎上して、人がサーッといなくなる感じ……とか。
谷口:震災の時もそうだったんですけど、ひとつひとつのウェブサイトもそうだと思うし、インターネット自体もそうなんですけど、なんだかセカンドライフっぽい、というか、かつて想像されていた未来の仮想世界=ヴァーチュアル・ワールドみたいなものが、実際にもうあるんだと思えてきますね。でもそれがあまりにも同期されていて、日常のように使っていたら、気がつかなかったんですけれど、インターネットってやっぱり実はヴァーチュアル・リアリティだったんだな、と。きわめて現実に近い別世界、というか。
渡邉:やっぱりレイヤーのイメージというか、そういう感じが非常にするね。ある選択可能なリアリティのひとつ、というか。
千房:今は少し落ち着いたけど、一時期すごくUstreamが流行ってて、Twitterのタイムラインを使ってUstreamで盛り上がる。DOMMUNE(http://www.dommune.com/)[*10]とかも、そういう感じでワーッと盛り上がっていたのだけれど、そういうのをボーッと見ていた時に、なにか「えらい遠回りなコミュニケーションを、みんなしてるな」って。だってUstream観てるのに、Twitterに(そのUstreamを見ていない自分のフォロワーにもなんの話だか分かるような形で)書き込んで、それがタイムラインに反映されて、それで会話している、みたいな。なんなんだろう、この「わざわざな感じ」は? って思った時、逆にそのズレが、盛り上がりを生み出せるのではないかと。そこで思いついた例が「みんなで竹馬を履いてる」みたいな……(笑)。
赤岩:今日、ずっと飛行機の中で、彼はその話をしてたの(笑)。
千房:「みんなで竹馬を履いて集まろうよ!」って。竹馬ってわざわざ履かないといけなくて、履くと地面からちょっと浮いてるし、なんか歩くのも難しいじゃないですか。でも、わざわざそれをやることで盛り上がるわけでしょ。それに近いような状況が、ネット上で生じているような気がしている。だから竹馬を履かずに、直に地面に下りちゃったら、今度は普通になっちゃうもの(笑)。でも竹馬を履いていたら「じゃあ今度は、これ履いたまま、駆けっこをしてみようか?」とか、全然面白くもなんともない状況でも急に盛り上がってしまう。そういう状況がすごく起きているのが、今のネットなのかな、と思っている。同期がどんどん進んできちゃうと、ディレイとかそういうものがどんどんなくなっていくじゃないですか。気がつかないうちに竹馬ではなくなって、地面に足がついていた……みたいな。
赤岩:竹馬のつもりが靴になっちゃっていた?
千房:いつの間にか。そうしたらどうなるのかな?
渡邉:そういう特別感は、どんどん下がってきちゃってる気はしますよね。
千房:スマホとかもどんどん普及してきたし……。
渡邉:多くの人が「竹馬」に乗っているような状態だから、もう盛り上がらない。
萩原:「竹馬がデフォルトになった」と言うか、「そもそも人間とは、竹馬に乗っているものである」みたいな?
千房:今はそういう感じが、ちょっとありますよね。
谷口:現実のレイヤーにネット上の情報のレイヤーがどんどん近接していって、リアルタイムで重なってくる、という現象がある。ネット上の情報のレイヤーがこれまでの他のメディアと違うのは、それが全部とは言わないまでも相当な量、過去ログとして残るわけですよね。それは興味深いと思う。かつ、それが再生されると、ノイズの再生、ノイズの擬似同期とでも言うか、過去の全てが再生されるような感覚が生まれてきてますね。それは最近、千房さんが書かれていた「CPUの1クロックの処理も全部記録しちゃえば、そもそもハードディスクが要らないし、ファイルという概念が無くなる」みたいなこと[*11]にもつながってくる。
渡邉:先週の2月11日にやった前回の座談会「ポスト・インターネットを読む」の一番最後の方に、擬似同期の問題が上がっていたじゃないですか。「イメージ・オブジェクト」というキーワードがあって、それを中心にあそこに抽出されたテキストを読み解く、という感じだったのですが、その時によく引き合いに出された、それこそ「* new jpegs *」みたいなものは、現場に行けないから、ああいうアプローチが有効に作用するわけですよね。「スウェーデンまで行かずとも、美術作品を体験できる」みたいな物理的空間の超越があったと思うのだけど。そうではなくて、擬似同期というのかな……時間的超越というものも、コンピュータとかインターネットみたいなものは実現可能で、それによって、ある種の「イメージ・オブジェクト」の……例えば「* new jpegs *」もある種の同期じゃないですか。そういったことが、時間においてもできる。それがパッと分かって、行為のデータベースを積み重ねてそれを構成すると、擬似的に時間の流れみたいなものが作れるなぁ、ってことがわかった。
谷口:過去のものをもう一度再生するという擬似同期が、もっとリアリティを増していく気がしてるんですね。分かりやすい例で、本当にミニマムな擬似同期だと、濱野さんが指摘されていた、スーパーファミコンの『マリオカート』がある。『マリオカート』のタイムアタックって、過去の自分の記録に挑戦するわけだけれど、実際に過去の自分といっしょに闘うことはできない。でも、過去の自分の走りが画面内で再生されると、すごくエキサイトするでしょ。
同じように、それが色々なサーヴィスによって起きてきたり、インターネット全体で同期が強化されてくると、過去に起こった出来事……例えば過去に起こった「祭り」のログをもう一回ポストし直すことで、もう一回「祭り」を起こさせる、そういうことも起きそうな気がしますね。簡単にTwitterの死んじゃったアカウントをいちから再生して、もう一回Twitter上で復活させる、とか、そういったことも出てきそう。
渡邉: Twitterに投稿することというのは、大袈裟に言えば「この世界を記述する」ってことじゃない。で、その記述の解像度はお世辞にも高いとは、まだまだ言えないよね。その「解像度の高くなさ」みたいなものが、そういった構成の可能性っていうものを生んでいるような気がする。だからこそ逆に面白い、とも言える。
それは今日の一番最初の方に出てきた話題のように、「ただのデータの流れみたいなものから過剰な意味を読み取ってしまう」という話にもつながるような問題であって、「ゴッド」を「ゴット」と読み替えてしまう、みたいなこととも絡みながら、時間の質とか、新しい人生、新しい生き物を作り出してくるような気がする。Botみたいな問題、しかり。
栗田:例えば僕も、なにかの事故で自分が亡くなってしまったら、その後10年分のソーシャル・ライフで発信できることをあらかじめ考えておいて、「自分が死んだなら、それがプログラマに郵送される」とか、一種の延命処置のようなこともできる。
渡邉:昨年(2011年)、Google Waveが終了しちゃったじゃないですか。あれが終わる直前、サーヴィス内にみんなが投稿したコンテンツは読めるんだけれど、新たに投稿できなかった。あのなんと言ったらいいのか、「止まってしまった時」の感じ。みんな生きているし、生態系も保持されているのに、時間だけが完全に止まっているのね。
萩原:そう言われると、廃墟というか遺跡っぽい感じが少し出てますよね。
栗田:「新しい遺書のあり方」とかも、できそうですよね。
渡邉:さっき「情報のオブジェ」という話があったけれど、完全に停止した大規模なSNSって、そんな感じですね。
谷口:さっき言った「もう一回、祭りを起こせるのではないか」って話だけど、2ちゃんねるのユーザーが、ちょっと昔に流行ったGIFアニメとかを改めてTwitterに投げると、Twitterユーザーが馬鹿みたいに反応して、それを見て「Twitter民は遅れてる」みたいに2ちゃんの人が馬鹿にしてたんだけど(笑)。あれってたぶん、現実に対する解像度がどんどん上がってきていることによって、逆に時間軸はどうにでもできるというか、時間的な「新しい」とか「古さ」とかが、もうわからなくなっているんじゃないかな。
千房:データは単純に「新しい・古い」を比較できない、って話だよね。
渡邉: 2ちゃんねらーがTwitter民を馬鹿にするのって、2ちゃんねるがまとめサイトとかの周辺の生態系の効果も相まって強い情報吸引力があるっていうウェブ・サーヴィスの特性の問題以上に、もっとでかい規模の衝突……それこそ「文明の衝突」みたいな感じがして素朴に怖いですね。
千房:僕がブログに書いたのは、今コンピュータもメモリの量がどんどん増大しているじゃないですか。あれが本当に極限までものすごく増えたら、全CPUクロックを記録しちゃえるようになるから、それ以降、過去のことは全部呼び起こせる。するとファイルなんてものは必要なくなって、例えばある日コンピュータに話しかけたことを、1年後に「あの時お前に言った言葉を教えてくれ」って尋ねると、コンピュータがそのまま返してくれたり……喋ってはくれなくても、画像とかテキストとか、そういう形式ではありうるな、って考えていたんです。
かたや、今のコンピュータって、いちいち保存しないといけなかったり、ファイルに分けないといけなかったりで、ものすごく「現実世界との同期性」が低いなぁ、って思ったんですよね。そのことと、「リアルタイム・ウェブ」で、みんなで竹馬を履いてワァーっていうのと……コンピュータが今すごく盛り上がっているのって、その同期していないズレの部分=非同期の部分があるから、その隙間がすごく盛り上がれるきっかけになってるんじゃないか、って考えてみた。
そこからまたどんどん考えていって、じゃあ完全にコンピュータが全てをCPUクロックに記録するようになったらどうなるか、って言ったら、それ自体がひとつの生き物みたいになるんじゃないかな。例えばコンピュータに、今だったら「旅行に行った思い出」を、撮影したデジカメ画像をケーブルで取り込んだりして、文章と画像をブログにアップして記録する、ってやりますが、その代わりに「コンピュータを旅行に連れていく」みたいな(笑)。で「この景色!」とかあったら、実際にコンピュータに見せる、とか。それこそ“子ども”とかと同じようになっていく気がしています。
で、そういうふうになってくるとたぶん、ネットとかもものすごく高速化して、人との接続のタイムラグもなくなっていくと、もう完全に……なんて言うのか、すべてが「リア充の世界」になる(笑)。だから、そうなった暁には「非リア充」自体がなくなるの。ネットにアクセスした瞬間、イコール、現実にアクセスしている瞬間なわけだから、全員リア充になる。これはいつか絶対に起きることなのではないかと思っていて、それが起きた時のことを考えています。
萩原:ちょっと感覚的な話なんですが。よくロボットとかアンドロイドの話とかで、彼らがだんだん人間に近づいて賢くなってくると「叛乱する」という話があるじゃないですか。あと、愛情的な話で言うと、最初はキャラクターっぽいところがカワイイって思うんだけれど、どんどん実際の人間の姿形に近づいていくにつれ、一瞬「不気味の谷」って言われる状態に陥って、めっちゃ気持ち悪くなる瞬間があるらしい。その「同期の問題」も、今だとデジタル化・データ化するために、現実とちょっとズレているわけですよね。でも、これがすべて現実だったら、紙に線を引いた時点で保存が始まっているわけじゃないですか。で、完全に同期した状態をめざしてテクノロジーが進んできて、今、この辺で一回すごい違和感を感じるんじゃないか、と。この微妙にズレる瞬間に、人間は耐えられない……みたいな。
一同:あー。
萩原:微妙にズレる瞬間、その辺にさっきの「不気味の谷」みたいなもの、ズレの「不気味の谷」が発生するんじゃないかなと、今の話を聞いていて思ったんですよ。この先、そういうフェーズが遠からず来るのではないか、と。
千房:たしかに、センターがピシッと合っているか、思い切りズレているかだったら平気だけど、微妙にズレてるのって、気持ちが悪いよね。
赤岩:イヤだな、その時期。
萩原:でも、そこを経ないと完全な同期には行けない、みたいな(笑)。
千房:そのハードルの部分で、どうなるんだろう? 機械じゃなくて、人間の側が叛乱するのかな?(笑)
渡邉:コンピュータの速度は加速度的に上がっていくけれど、同時に人間が欲望する画質だったり、映像の解像度とかも同じように上がっていくから、いっこうに処理が軽くならないですよね。そういうものに対する抵抗とも考えられますよね。
千房:でも、ある程度で止まるんじゃないですか、画質や解像度に関する欲望は。
渡邉:まぁ、人間の網膜の限界もありますしね。
千房:パソコンも昔はCPUのスピードの競争だったけれど、今となっては、そんなハイスペックなんて必要ない、って感じになってきたし。
栗田:日常生活でけっこうあるのが、生活の中でコップを倒して水をこぼしたりすると、思わず[control]+[Z]って押したくなるのね(笑)。
赤岩:あー、あるある。
栗田:あと、書類を探している時は、[control]+[F](笑)。けっこうパッとそれを思いついた時、「わー、ヤバイ!」って。
渡邉:「ゲーム脳」だ(笑)。
栗田:それって、普段よく使っているショートカット・キーに依存してくるわけだから、「パソコンと自分の関係」がそれぞれ違う、リアリティの感覚が変わってきてると思える印象的な出来事でした。
千房:ちょっと話はズレてしまうかもしれないけれど、この前アキバに行ったときに、「SSDとHDを同時に起動する」っていうデモンストレーションをやっていて。二台のコンピュータがディスク以外は完全に同じ状態にセットアップされてて、ポチってスタート・ボタンを押すと、Windowsがバーンって起動して、明らかにSSDの方が早くて、最終的にはどっちも同じ映像が再生されるのだけれど、それがすごくパラレル・ワールドを見ているような気持ちになってきた。考えてみたらコンピュータって、だいたいほぼみんな同じようなものを使っている……と考えると、よりいっそう。
《Desktop BAM》の展示ヴァージョンを作った時に、あれってだいだい10分ぐらい演奏して終わるんだけれど、終わったらまた自動的に再起動するようにしたのね。それを家で走らせていたら、バーッと演奏して、約10分後に再起動して、またゼロに戻って、そこからまた始まって再起動して……って、ずっとループするのだけれど、単に映像をループさせるのと、デスクトップを再起動し続けるのは、感覚が全然違うんだよね。
『ひぐらしのなく頃に』(http://07th-expansion.net/hi_Main.htm)ってゲームがあったじゃないですか。あれって話がループしていくじゃないですか。あの感覚に近いというか……どんどんこの現実世界が分裂して複製されていく、みたいな。それがすごく面白くて、それをなにか作品化したいなぁ、って思っているのですが、どうやったらいいかまだ分からない。
栗田:《Desktop BAM》って、あのライヴを見ている人は、映像を見てると思ってしまうところがありますよね。でも実際にはリアルタイムでコンピュータが動いている、それがスクリーンにプロジェクションされると自分のパソコンという意識ではなく見ている人は映像を見ているという認識をしてしまう。でも実際にはコンピュータがリアルタイムで毎回演奏をしている。だからエラーが起きることも想定されるし、毎回何かハラハラさせられますよね。そういった視点を(観る側も)持っているかどうかで、作品の解釈が全然違うのかなぁ、って思いました。
萩原:あれって「人称」みたいな問題もあると思うのだけれど、他人が操作しているマウスって、目では追えないじゃないですか。 逆に相手が操作に戸惑っているときとかは、「すぐそこにボタンあるじゃん!」って思うのだけれど、自分のマウスとその周辺ばかり見ているから、「どこにボタンがあるの?」って。「誰が(コンピュータを)操作してて、誰が(モニタ画面を)見ているのか」の問題って、けっこうあるような気がする。
例えば僕も、スクロール・ネタのウェブサイトとかを作るのが好きで、実際よく作るのですが、あれって、僕がスクロールして「こうなるんですよ」って説明しても全然リアリティがなくて、本人がスクロールしないと全然ピンと来ない。
今言ったような話もそうだと思うのだけれど、デスクトップで起きているものが「映像に見えちゃう」っていうのは、自分のコンピュータじゃなくて、千房さんが持ち込んだコンピュータだっていうことも、もちろんあるような気がする。そうすると「あ、人の画面だ」っていうことで、まるで「人のモノだ」みたいな印象が最初にたち現われる。それでもMacというのが共通のインターフェイスとしてリアリティあるものだから……。
赤岩:(画面の設定を)極力デフォルトにしているんだよね。あとスタートする前にマウスを破壊したりして、その時のカーソルの動きを見せることで、映像じゃない感じにはしてる。
萩原:そういうリアリティを平均までもっていく工夫は面白いですね。
千房:以前、ウェブ制作の仕事をやっていた時、自分のデスクトップで作業していた時に、後ろにディレクターが立って「もう少しこうして、ああして」って言われるんだけれど、その時に自分の操作が全部その人に見えているのがすごく恥ずかしくて、それこそ「頭の中を覗かれている」みたいな感じだった。メニューとかを辿っているところとか見られていると、自分の思考の方法まで丸見えみたいで「ああ、やりにくい〜」みたいな(笑)。頭の中の一部を覗かれているような感じ。
渡邉:例えばコンテクスト・メニューの辿り方とか、誰かに教わったりしないじゃないですか。だから、OSの基本機能の操作にはけっこうその仕方に人柄が出ますよね。
その「映像をループさせる」のと、わざわざコンピュータを再起動してカーソルを動かすのの違いって、(《祈》とかもそうだと思うのですが)「可能世界」の話じゃないけれど、カーソルをクリックしてしまうかもしれないという可能性を常に孕みながら、次の一手を選択させていくわけですよね。その「選択されえなかった可能性」みたいなものに思いを馳せるというか、その危うさみたいなものを感じさせるというのが、スリリングだなぁと思いますね。ちょっと話が戻っちゃいましたが。
千房:先ほどの「イメージ・オブジェクト」の話にも関係するのかもしれませんが、ただのイメージじゃなくて、そこで性質とか機能のようなものを持っていたりとか、デスクトップが起動してくるというところに「それによって可能なこと」とかが含まれてくるから、ただの映像はそういう機能は持っていないけれど、コンピュータを起動していくことには(コンピュータを使っているから感じる、ということももちろんあるのだけれど)いろんな可能性を感じてしまいますね。
谷口:あと、映像をループさせるところって、映像ってなにかが起こった出来事の、その表象しか記録していないじゃないですか。だけど、さっきも引き合いに出した『マリオカート』の話とかもそうですが、《Desktop BAM》のカーソルの形象も、あれはなんらかの「行為の痕跡」じゃないですか。その「行為の痕跡」をデータとして残し、それが再生できるようになったから、たぶん多世界解釈みたいな世界観につながってくるんだと思います。
つまりその「行為の痕跡」から、主体が見えるんですよね。それがヴァージョン違いでいくつも作れる。Google Docsとか、ヴァージョン違いで保存できたりするじゃないですか。普通にそのGitとかSubversionとかでコードを書いていたら、いくらでもヴァージョン違いが作れる。しかもそれが、誰かの「行為の痕跡」で作られているというリアリティがあって、そこは全然映像とは違う、と思う。
だから一時期、盛んに「ライフログ、ライフログ」って言われていたけれど、ライフログ的になんらかの「行為の痕跡」が記録されることが、多世界に対するリアリティにつながっているのかな、と。
千房:谷口くんの作品(《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのか分からなくなる》(2010))は、映像じゃない? あれって、どういうふうなものですか?
谷口:(エキソニモの)逆、っぽいですよね。
千房:あえて映像……わかった! 映像が同期した瞬間に、意味がガラッと変わっちゃう、というか。それって水野さんも書いていたような気がする。
水野:はい……時計の話ですか? 谷口さんの作品は、同期したからこそ、それが外れるとなにか意味が変わってくるというので面白いな、って思いました。二つの時計が同期していなかったり、お互いに別々の場所に展示していたら、それほどでもないけれど、映像と実物が一度同期しているから、その後、自分の時計を見た時に「映像の時計」の意味が変わってくるっていうか、そういうのがありました.だから,一度同期してしまうと、なにか物事……先ほど谷口さんが「行為の痕跡」と言われていましたけれど、そういった「行為の痕跡」との関係で、ただ単に再生されているのとは映像の意味が変わってしまうのではないでしょうか.映像がなにか現実とかの軸と同期すると……それこそニコニコ動画とかもそうかもしれないけれども、なにか今までと違う意味が出てくるのではないかな、と思います。
千房:たしか水野さんが「一度同期してしまうと、同期しなくなったときに、同期していないことが際立って見えてしまう」みたいなことをFacebookかなにか書かれていて、なんかあれがすごく面白いと思ったのは、インターネットも今その状況と言いますか……普段常に接続しているのが当たり前だから、接続しなくなった時にその「インターネットに接続していない」ってことが、逆にすごくマイナスになったりしちゃう、みたいな。そことも近い気がしたんですね。その「同期」という言葉が、キーワードとしてけっこうグッと来たというか。
萩原:谷口さんの作品も、見ていると同期しているんだけれど、なんだか「ズレ待ち」みたいな感じになってくるんですよ(笑)。それもひとつのインタラクションなんでしょうね、その「ズレる」ってことが。同期が前提にあって、相当の精度で調整されているので、どこかで「え、これ、ズレるでしょう」って、そういう瞬間を待ってる自分、みたいな。
千房:手品のタネを探している自分、みたいな。
萩原:そこにもインタラクションとかが微妙に発生している、っていうのは心の中の事情だと思うのだけれど、「ズレる」ことでひとつのオチがつく、そのオチを勝手に求めてずーっと待っちゃう自分がいたり……。
渡邉:同期っていうのは「同一性があってほしい」とか、そういうこちら側の欲望みたいなものがある気がする。「意味があるものとして捉えたい」みたいに言い替えてもいいけれど。今のインターネットにおいて肥大化しているのは、そういったことなのかな?
千房:あ、ちょっと、トイレ行ってきていいですか?
赤岩:私も。
渡邉:自由だなぁ(笑)。でも、なんだかんだ言って、カメラ(のフレーム)の外側にはちゃんとICCのスタッフとかいますから……自由にやってるようですけど、一応監視の目はちゃんとあるんですよ(笑)
(以下、エキソニモ以外の4名+水野氏で、しばしトーク)。
谷口:同期とか同一性が肥大しているっていうのは、あるでしょうね。
渡邉:「イメージ・オブジェクト」とか、ああいった手法が出てくるということは、いくらインターネットが日常を映すメタメディアだと言っても、まだ実感が希薄な部分があって、両者は分離しているんじゃないか、という漠然とした思いが人々にあるということなんじゃないかな。
谷口:当たり前のことなんだけれど、インターネット上には、ヒトが理解できるものしかないじゃない。それは記号だったり、画像だったり……。
渡邉:もともとデータは、人間が置いているわけだからね。
谷口:それがけっこう大きいのかな、って。どうして同期とか同一性があまりにも肥大しているように感じるのかっていうと、僕らは日常生活で時々、全然理解できない物事に出会うことがあると思う。「読めない」とか「理解できない」とか「見えない」モノ、とか。だけど、インターネット上にあるものって、なんらかの形で理解できるでしょ。
渡邉:そうですね。「人間以外のもの」によって作られたモノとかには、なかなか出会わないですよね。
谷口:それで時々ハッとさせられるのが、『Web Designing』という雑誌で千房さんが「“spacer.gif”で検索する」という記事企画(http://exonemo.com/view-source/spacer.html)があって、そうするとWeb 1.0で、まだCSS(Cascading Style Sheets)もロクに使われていない頃の、スペースを調整するための真っ白とか透明なGIFファイルが大量に出てくる。ああいうふうに「見られる」ことを意識せずに、意味のないものとして作られた画像が大量に出てくる瞬間が、けっこうハッとさせられましたよね。
渡邉:あと、データの基本的な特徴だと思うけれど、アイデンティファイされないデータってありえないじゃない。意味が少ないことはあっても「意味をまったくまとわないデータ」はありえない、と言い替えられるかな。どんなデータでも、形式があるし、生成された日時とかメタデータがついている。なんでそういうことを思ったかというと、このあいだGoogle Docsで、この展覧会場のキャプションを谷口くんと同時に書いていて、そうしたら、ある瞬間に谷口くんが何気なく[command]+[z]を押しちゃったらしいのね。
谷口:そうそう!(エキソニモの2名、戻ってくる)
渡邉:その時、谷口くんからSkypeが入って「今、[command]+[z]を押しちゃったんだけれど、なべたん(渡邉)が書いた内容の方は消されていないよね?」って聞かれたんです。結局、消えてはいなかったんですが、となると、これって、谷口くんがやった作業に対してのみ[command]+[z]がなされているってことですよね。たぶん、すごく長い文章の中のひと文字、ひと文字にIDが付与されていて、その文字は誰が入力したのかが分かるようになっているんだと思います。言い替えるとGoogle Docsの処理というのは実は交差したパラレルな時間軸上で、ものすごく異常な数の分岐がされているってことです。
谷口:同じ文章を二人で書いてて、でも[command]+[z]はバラバラなのね。
渡邉:そう。Google Docsにおける[command]+[z]というのは、その書類の最新の変更を差し戻すんじゃなくて、そのユーザーが加えた最後の変更を差し戻すってことなんですよ。
千房:なるほどね。
谷口:そこでは明らかに多世界になっていて、同じものを見ているはずなのに、違う世界にいた……っていうこと。あれは気持ち悪かったですね。
渡邉:データだから、そういうふうに目に見える部分以外のところで、識別子やメタデータみたいなものが付けられているわけね。
谷口:渡邉くんと僕でGoogle Docsでドキュメントを書いてても、データ的には明らかにバラバラなものを見ているわけ。だけどそれがマージされて、同じように見える。あれは本当に仮想現実っぽかった。
渡邉:それってある種のコミュニケーションの本質だと思う。僕と谷口くんが同じ対象を見ていたとしても、同じように見ているという保証はどこにもないわけだけど、今までの経験上、たぶん「同じもの」だと同定されうるだろう。そうして普段のコミュニケーションをしているのに、それがちょっとゆらいだ、っていう。
萩原:いわゆる「我思う、ゆえに我あり」的な話になってくる。
渡邉:データみたいなものって、やっぱり振る舞いがあって、いくつかの形態を取りうるみたいなことは言えると思います。そういったことを改めて思わせる瞬間でもあった。
萩原:僕はGoogle Waveが大好きだったんですけれど、Google Waveは本当にそうだったんですよ。かなりユーザーの動作が同期しているので、タイプしてる“姿”も全部見えちゃって、画像を貼っている “姿”とか、リンクを修正している“姿”とか、全部見えながらチャットができる。しかも文脈再帰的に深くなっていくシステムで、一回ハマるともう抜け出せないぐらい……なんと言うのかな……ちゃんとコミュニケーションしている感覚のあるサーヴィスだったんですけど。その「一回ハマる」までのステップが長すぎて、多くのユーザーは入ってこれなかったんです。
渡邉:ちょうどこの会場に展示されている《タイプトレース道??舞城王太郎之巻》(2007)という作品も、タイプの痕跡を記録していますよね。ここでは作者である舞城氏ひとりで書いているから、文章を書くことを通じた内省性というか、内省のあり方がクローズ・アップされています。
千房:Google Waveでリアルタイムに文字が見えるのも、なんで必要なのかわからなかったのですが……。
萩原:なんでですかね(笑)。入力中の文字が見える……それこそ、さっき言ったような同期の問題だと僕は思っていて、ペンで文字を書いていたら、その過程は全部見えちゃうから、ちょっと恥ずかしい時もあるけれど、その解像度までGoogleはWaveを持っていきたかったんじゃないかな? Google Docsなどにその機能は引き継がれていますね。
千房:単純に機械的に進化していってしまった、みたいな感じなのかなと思ってました。目的はないんだけれど、精度を上げ続けたらリアルタイムに向かっていったような……。
渡邉:でもあれがあるおかげで、いっしょに作業をしている感じは格段にアップしますよね。
千房:うーん。
谷口:Skypeとかで、相手からの返信がなく、「入力中です」という画面がなかったら、相手がなにをしているか全然わからないじゃないですか。だけど、そうした「入力中です」みたいな表示が出るとか、長い文章を書いている最中に「うん」とか「はい」とか相槌をうってくれると、長い文章でもスムーズに書けるじゃないですか。そういうことじゃないかと。
千房:なんか「入力中です」とか表示が出るのは分かるんですよ。でも、リアルタイムに出てくるのは、よく分からなくて、あれがすごく奇妙なのは、向こうが「×××××」と書いて、ちょっと打ち間違っちゃった時にわざわざ直したりするんだけれど、直さなくても意味は分かるわけ(笑)。「直さなくてもいいじゃん」と思うんだけれど……テキストを書いてるのか喋ってるのか、よく分からないんですよね。
渡邉:話し言葉と書き言葉の中間みたいなところにGoogle Waveはいた気がしますね。
谷口:だからチャットには要らないんだよね、リアルタイム入力って。
渡邉:時間的にはここで(終了予定の)9時ぴったりなのですが、どうしましょうか?
千房:じゃ、最後に《ナチュラル・プロセス》の話をして、終わりにしましょうか。
千房:ここまでの話とはだいぶ様子が違うのですが……もともとこの《ナチュラル・プロセス》は、去年(2011年)の頭に雑誌連載の取材でGoogleに行ったんですよ。その時久しぶりに、この絵を見たのですが、関係者以外立ち入り禁止エリアに飾ってあって、……それこそ7年振りぐらいに対面しました。そこで話したのが「この(Googleトップが描いてある)ブラウザがIE(Internet Explorer)だったけれど、これがChromeだったらいいのに」みたいな話で、そのうち色々と雑談をしていたら「じゃあChromeヴァージョンも作りましょう」みたいな話になって、実際にやることになったんですよ。
でも僕ら(エキソニモ)としては、Googleから「Chromeヴァージョンも作って」と言われて、言われるがままそれを作るというのは……言わば「職業絵描きの仕事」だから、なにか作品としてちゃんと成立させないと厳しいな、って判断して、そこで考えたのが、元の(2003年当時の)絵を塗り潰すことでヴァージョン・アップしよう、と。表面を塗り潰して更新できるのが絵画の機能、絵画“にしか”できない機能だからね。これがソフトウェアだったら、ソースコード書き換えてアップデートしていくわけだけど、それと同じようなことを絵画上でやったらどうだろうか、って話になったわけです。
さらにそれを「ウェブで中継する」というアイディアが出て、Googleと交渉してみたのだけれど、まずその「塗り潰す過程をウェブ中継するというのは(他社製品を自社製品に塗りつぶす、という話になるから)よくないかもしれない」と言われて、しばらく話が止まってたんですね。僕らもまた別件で忙しくなって、それには手をつけずにいたら、今回のICCのこの展示の話が来たので、「じゃあここでもう一回、あの話をやろう!」ということになったんです。
その時、また新しいアイディアとして「じゃあ誰が書く?」という話になったんですが、パーカーとかが頼んでいる中国の業者……メールに画像を添付して送ったら、その画像を絵に書いて送り返してくれる、API(Application Programming Interface)みたいな人たちがいるじゃないですか(笑)。その人たちを中国から呼んで、「××××さん」というプロの絵描きとして来日してもらって、アーティストとして彼を扱い、ライヴ中継で、元の絵画を塗りつぶして、上から書き直してもらう過程を放送しよう、としたんですね。
そのアイディアを持って再びGoogleに相談に行ったのですけれど、最初に出たNGが「ウェブ中継はちょっとダメです」というもので、「古いまんまか、後ろの見えないところで勝手に塗り潰してもらって、修正が終わった状態の新しい絵を飾るんだったら、いい」という回答でした。でも、そうなってしまうと、僕らとしてはわざわざ塗り潰す意味がなくなっちゃう。だってアップデートの過程を見せることができないわけですから、「じゃあ、古いまま飾ろう」という話になったんだけど、それもわりと直前になってひっくり返ってしまい、「古いままの絵は、出せません」と。
渡邉:それはどういう理由からですか?
千房:それは「ブラウザがIEだから」って理由でした(笑)。
渡邉:そう言われてしまうと、八方塞がりですよね。
千房:だけど、《ナチュラル・プロセス》を最初に制作した2003年当時は、まだGoogle Chromeはなかったわけだし、まさかその(ブラウザの)部分がそんなふうに影響して、後々に社会に出せない状態になってしまうというのは……逆にすごく面白い。リアリティがありますよね。
谷口:その話が面白いのって……一応、作品の所有者はGoogleなわけですよね。だけど、作ったのはエキソニモなわけだから、エキソニモの作品じゃないですか。それをアップデートしようとしたら「ダメ」って言われたわけですよね。でもそれって、普段我々が使っているブラウザにも近いことが言えるんじゃないかなぁ、って。
千房:あー、はいはい。
谷口:最近だと強制的に新しいヴァージョンにアップデートかけられちゃいますよね。古いままのソフトウェアを使い続けることがしにくくなっているじゃないですか。「僕が購入/ダウンロードしたのはこのヴァージョンなんだから、いつまでもこのヴァージョンを使わせてほしい」みたいなことがしにくい(笑)。ソフトウェアを買ったりダウンロードした時に、それがいったい誰のものなのかは、実はけっこう曖昧で、向こう側(供給側)から勝手にアップデートされるのって、一種の人権侵害というか……少なくとも所有権は侵害されていますよね。
千房:新しいヴァージョンをほしいかどうか、まだわからない状態で、[yes]か[no]かを選択させられるのはどうよ? ってことだよね。
谷口:その問題と被ってくるのは、美術作品の所有者と作者の関係だったり、あるいは(さっき言ったみたいに)コンピュータ上のソフトの所有権の問題とか。
千房:あと、ブラウザ部分って実は自分たち作家的にはそれほど重要じゃなくって、その中に描かれている部分の方が大事なんだけれど……って(笑)。
渡邉:まさにこの展覧会のトピックにも「ネット上の風景」というものがあって、2004年当時っていうのは……もう2004年当時の記憶もだいぶ曖昧なんだけど、Googleのトップページというのは、もはや風景の中の風景というか。
千房:まず「ネットを始める」イコール「まずGoogleのトップページに行く」みたいな?
渡邉:そう、Googleのトップページにまず行かないと、目的のウェブサイトにアクセスできない、みたいな時代だった気がする。つまり「検索するのが前提」みたいな状態だったと。で、今(壁面に投影されて)表示されてるブラウザって、Firefox?
千房:これは、Safari。
渡邉:ちょうど、そのブラウザの表示ウインドウの右上に検索エリアができてからは、Googleのトップページにあまりアクセスしなくなっちゃったものね。
千房:だから、そのまんま、Chromeヴァージョンで今のGoogleのトップページを描くというのはちょっと違うよね、って話もしていた。
谷口:今、ブラウザの環境設定で、一番最初に表示されるページを「ホーム画面」とか言って自由に設定できるけれど、そこに検索エンジンのトップページを設定したりはしないんですよね。ブラウザに標準でついてる検索エリアが右上に常時表示されているから、いちいち行く必要がない。むしろなにもない方がいい。
萩原:Chromeは最近、その設定を撤廃しましたよね。で「リンク集」みたいなのが最初に表示されるようになった。
渡邉:「アクセスした頻度」に応じてアイコンを出す、みたいな感じになった。
栗田:僕のホーム画面は、ずっとYahoo!のトップでしたね。どうしてかというと、一種の安心感から……みたいな(笑)。
谷口:今はもう、その「入口としてトップページからネットに入っていく、イニシエーション感覚」みたいなものがないですよね。だいたい右端(の検索エリア)から入っていくから。
千房:Googleのトップでも、今デフォルトの設定にしておくと、一応ロゴと入力エリアが表示されているのだけれど、そこに1文字入れた瞬間に次の画面に飛んで、自動検索を始めてしまう。あのトップページの意味がまったくなくて、ホリデーロゴのギャラリーみたいになっている(笑)。
渡邉:そうそう、「ホリデーロゴが出た!」ってTwitterのタイムラインでみんなが言うので、わざわざトップページを観に行くくらいで、それ以外は行かないですよね。
その問題があった時に、じゃあ千房さんにとって、今の「ネットの風景」ってなんだ? って言われたらなんと答えるか……と推定してみたら、ひとつには、FacebookならFacebook、TwitterならTwitterのパーツがあれば、なんでも「ネットの風景」らしくなる。そのように、ホームページというものには体裁がなくて、個々のパーツだったりするのかな。でも、あまり「これだ!」っていうウェブサイトとか、ありますかね?
千房:例えば(Twitterの)タイムラインが流れていく感じ、とか?
渡邉:そう。イメージとしては、そんな感じですよね。
千房:「車窓から見ている風景」みたいな。
渡邉:そのタイムラインという枠組みさえ維持されていれば、中身はなんでもいい。
千房:みんなが共通に見ている(ネット上の)風景というのが、だんだんなくなってきているのはたしかかも。
谷口:しいて言えばパーツなんでしょうね。ボタンだったりスクロール・バーだったり、TwitterとかFacebookの[いいね!]ボタンとか……。
千房:ま、そういう理由で、今回の企画展に《ナチュラル・プロセス》は展示できず……。
渡邉:その後の進展とかはないのですか?
千房:2回NGが出て、正式に出品がダメになって……今、別ルートでアプローチは試みているのですが(笑)。でも実際にGoogleに行って、あの絵を改めて観てくると、自分の中でも変化が起きてるんですよ。なんか2003年に作って翌04年に発表した当時って、あれを「絵画だ」って言っていること自体に挑戦があった気がします。言ってみれば、本当にチープな風景が、絵画として仰々しく飾られているわけだったものが、それから7年も経っていくと、その当時のまま絵画として固定されていること自体が価値を持ってきていて、なにか威厳みたいなものが出てきて……。
たぶん、スクリーンショットよりも、それを見た方が、その時間を感じる。「ああ、2003年って、こういう感じだったんだ」みたいな感覚がリアルに伝わってくると思う。そういう意味もあって、作品を見た瞬間に、さすがにこれを塗り潰すのは良心が痛むっていう感覚があったり、とか(笑)。ただ単に、そのまま飾りたいと思ったんです。それだけ十分に機能をすると思うから、それを観ることに意味がある、と言うか……。
渡邉:今、展覧会場にはスライドショーが流れていて、絵が(Google本社の中に)置いてある場所とかも、一応見られるんですよ。それを見てびっくりしたんですが、けっこう窮屈な感じの場所に置いてあるんですよね、自販機とかがあるような感じの……「ああ、こんなところにあるんだ」と思って。
千房:あれは本当に一般の人は入れない場所ですからね。開発の人でないと……。
栗田:これが100年とか残ったら、すごいですよね。
渡邉:100年後に国宝になってたらヤバイですよね(笑)。でも、日本の宝にはならないか(笑)。
萩原:Googleがアート・ミュージアムを作ったら。
谷口:Googleが国になったら(笑)。
千房:ちょっと、どうにかして持ってきたいなぁ、とは思っていますが。
萩原:でも、あと15年ぐらいしたら「そろそろ見せてもいいよ」みたいな時がやって来るかも?
渡邉:そもそもルーヴルみたいなヨーロッパの昔の美術館とかは、植民地から調達してきたさまざまな文物を、権威の象徴として展示していたわけでしょ……そういったことすら想起させますよね。
ちなみに2004年当時と言ったら、IEはver.6ですか? 見た目は5っぽいけど……[*12]でも、もしも“6”だったら、逆に塗り潰す過程を中継した方が、世の中のためになるんじゃないかな?(笑) 世間一般で見たら、IE6の葬式イヴェントみたいなものって、よくやってるじゃないですか。ああいう方がよっぽどヤバいんじゃないかな。IEを出しているマイクロソフト社自体もそういうキャンペーンとか、やってますよね。
渡邉:というわけで、予定時間もだいぶ過ぎましたが……どうしましょうか? 水野さん、今こちらでは「ウェブの風景」的な話をしてたのですが、なにか最後に追加のコメントとかありませんか?
水野:はい、このUstream中継のタイムラインをチェックしてたのですが、そこに「(《ナチュラル・プロセス》は)ウェブの画像をローカル保存していて面白い」っていう書き込みがあったのですが、そのコメントが面白かったなぁ……と。たしか「創造するキャラクター」とかの論文を書いた人だと思うのですが[*13]、「2003年をローカル保存している絵画」って。
渡邉:実際の絵画も、元々はそうだったんですけどね。
千房:宗教画とかは神様をローカル保存している、と(笑)。
渡邉:それで神様の代わりにしていたわけですからね。その時のサーバーってどこ? アップされるのは魂、みたいな?
千房:それって今日の話にもつながりますよね、「死んだらサーバーに行くんだ」って(笑)。
谷口:死んだら、Twitterもいちからポストし直す、とか。
渡邉:そろそろ最後のまとめに入ります。以前、アーティ・ヴィアーカントが「インターネットが出てきたことによって、過去にあった作品もインターネットによって規定され直す」ということをエッセイで書いていました。それは「写真」が出てきたことによって、それ以前の美術作品の受容のされ方が変わったのと同じような話だと思うけれど、昔の作品が今を生きる僕らに最先端の問題を照射してくれるということは多々あるわけです。今回は、エキソニモの作品……今回の展覧会で未公開となった作品の背景とか、それ以前のものを取り上げましたが、改めてそれらを読み解いていくことで「ポスト・インターネット」について考えを深めることができたと思います。
さて、これからの展開ですが、ひとつには江渡浩一郎さんの話が聞ける機会があります。さっき「2004年はIE5だったっけ、6だったっけ?」みたいな話がありましたが、そういう当時のネットのニュアンスがわからない、みたいなことってけっこうありますよね。そういうことだったり、今僕らが考えている「ポスト・インターネット」が「ネット・アート2.0」みたいな言い方ができるとすると、まだそれが「1.0」だった時代はどういう感じだったのか。そういったことについて江渡さんと振り返られたらいいな、と思います。
あと、プレスリリースに「作品が追加されるかもしれない」と書いてありましたが、BOWの吉川佳一さんが新たに参入して……。
千房:「IZONN」(http://www.izonn.com/)をいっしょに作った人です。
渡邉:あと「the facebookonder」(http://www.mob3.jp/thefacebookonder/)とか……。吉川さんを紹介するにはもっと適切な例もあると思いますが(笑)、そんな凄腕のプログラマが、がこの会場内にある、ぷりぷりくんに言及したツイートをRTする装置のさらなるヴァージョン・アップを図るそうです。また、新しいインスタレーションが来るという話もあります。
千房:あとパーカーの絵が来てました。
渡邉:生乾きで(笑)。
谷口:じゃあ乾き次第、キャンバスに張って……。
渡邉:デカいうえに枚数も多いので、二科展みたいな感じになるんだと思います(笑)。
なんだかんだ言って、この展覧会の会期って、そう長くないんですよね。だけど折り返しを目前にして、以上のような新たな展開を見せています。ひきつづきこの展覧会の展開にも期待していただき、このアーティスト・トークをしめさせていただきます。というわけで、では、また来週! あ、水野さんも……(投影画面内の水野さんに向かって)。
水野:お疲れさまです!
(終わり)
*1
最初の座談会:座談会「インターネット・リアリティとは?」、2011年7月24日開催。 http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document1_j.html
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*2
2010年5月に「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」というイヴェントがICCで開催されていて:記録映像はHIVEで公開中⇒http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20100504
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*3
たしか以前、千房さんが「タイムラインの“のどごし”」みたいな話をされていませんでしたっけ?:座談会「インターネット・リアリティとは?」内の千房の発言「このスピードの速さで感じる……ある感覚っていうか。ただ文字が出てくるだけなんだけど、ツイートをしたことがある人から見ると、こんだけの人がこんだけツイートしてるってことの、すごいザワザワ感みたいなのが感じられるじゃないですか。Twitterのストリームの“のどごし”みたいな。」を指している。
参考⇒http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/Internet_Reality/document1_2_j.html#cap12
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*4
まさにゴット・シリーズの中に……置き換えているだけ、なんですね:《噂》のTLが流れる様子は、現在でも下記URLで見ることができる。
http://gotexists.com/search.html
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*5
たしか以前、水野さんのブログで、ガスリー・ロナガン(Guthrie LONERGAN)が………みたいなくだりがあったような気がします:水野のブログ「touch-touch-touch:ポスト・インターネットで途方にくれないためのメモ」(http://touch-touch-touch.blogspot.jp/2011/12/blog-post_30.html)のこと。Tシャツのくだりは、Rhizomeに掲載されたトーマス・ビアードによるガスリー・ロナガンへのインタヴューで言及されている。参考⇒http://rhizome.org/editorial/2008/mar/26/interview-with-guthrie-lonergan/
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*6
APMTの時:APMT6:APMT CONFERENCEのこと。2011年4月30日開催。http://www.apmt.jp/
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*7
先ほどの《祈》って作品を……大阪の国立国際美術館で観た時があって:「世界制作の方法」展、国立国際美術館、2011年10月4日—12月11日。
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*8
きのう水野さんがブログで書きかけていたメモで「実際の展示場が、実はそんなに重要ではない」みたいなことがあって……:「touch-touch-touch:new jpegs インターネット アート これから ちがい?」(http://touch-touch-touch.blogspot.jp/2012/02/new-jpegs.html)
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*9
ちょうどその前日に同じICCで、大友良英さんたちのトーク・イヴェントがあって:トーク・イヴェント「メディア・アートってなんなんだ?」(2010年5月3日、出演:大友良英、小沢康夫、畠中実(ICC))のこと。記録映像はHIVEで公開中⇒http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20100503 http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20100503_2
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*10
DOMMUNE:もともとUstreamから配信を行なっていたが、2012年8月27日の放送よりYouTube Liveに移行.
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*11
最近、千房さんが書かれていた「CPUの1クロックの処理も全部記録しちゃえば、そもそもハードディスクが要らないし、ファイルという概念が無くなる」みたいなこと:「センボーのブログ:コンピュータ 記憶 シンクロ」(http://www.cbc-net.com/blog/sembo/2012/02/13/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF-%E8%A8%98%E6%86%B6-%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD/)
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*12
2004年当時といったら、IEはver.6ですか? 見た目は5っぽいけど……:Internet Explorer 6 日本語正式版の公開は2001年9月19日。
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*13
たしか「創造するキャラクター」とかの論文を書いた人だと思うのですが:『創造の欲望をめぐって—キャラ・画像・インターネット—』の著者であるgnckのこと。この座談会の翌週に開催された座談会「お絵描き掲示板のインターネット・リアリティ」に出演。
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◎展覧会情報
インターネット・リアリティ研究会による
[インターネット アート これから]
――ポスト・インターネットのリアリティ
会期:2012年1月28日(土)—3月18日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA
主催:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/Internet_Art_Future/index_j.html
2013年1月24日 発行 初版
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