お父さんと二人暮らしの純は、駅が一つしかない小さな街のはずれに住んでいる。商店街の人達と過ごす穏やかな日常。
純は、ある日出会った桜田君とすぐに親友となる。学校に行っていないふたりのずれた会話。知らないこと出来ないこと。桜田君と純には、本人達が知らない大きな秘密があった。
※一応童話のつもりです。
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「純、起きなさい。純」
僕は今、生まれてはじめて目を覚ました。そんな感じがしたんだよ。
ぐるんぐるんと。
もぞもぞと。
真っ白な糸で巻かれた繭の中から指先に力を入れて光をほじり出した。そんな感じ。
でも生まれてはじめて、っていうのは違う。
だって僕を呼ぶ声がいつものお父さんの声だってわかったから。少しかすれた、周りにずんと響く低い声。
僕はいつもお父さんに起こしてもらう。自分ではまだ起きられないんだ。本当は自分で起きられないといけなんじゃないかな、って思うけど、どうすれば一人で起きられるのかわからない。
「純、今日は何を教えてあげようか」
お父さんはとても優しい声で聞いてくる。
目の前で細い目をもっと細くして僕を見ているお父さん。ほんの少しだけ口の端を上げて首を傾けるのは、お父さんのくせだ。そしてこう言うんだ。
「純、何が知りたい?」
お父さんは、何でも知っている。きっとこの街で一番の物知りだ。そんなに大きな街ではないけれど。
この街にひとつだけある小さな駅の前から、斜めに伸びる細い道にそって、電気屋さんやパチンコ屋さん、食器屋さんなどの店が並んでいる。商店街にある店は、どの店も小さいお店だ。パチンコ屋さんは、小さな入り口の割に中は広いみたいだけど、音がうるさくて奥の方まで入ったことはない。その近くに僕の大好きな本屋さんもある。
商店街の端からは遠くに小さな山が見える。
ぽつんと。
ぽつりんと。
ひとつだけそこにある小さな山は、僕にはとてもさびしそうに見えるんだ。でも、大きく胸を張って僕に覆いかぶさってくるように感じることもある。それがなぜかはわからないけれど。その山のふもとからは、街に向かって川が流れている。
僕はときどきお父さんに川の近くまで連れていってもらう。川のそばに並んでいる木は、葉っぱの重みで大きくしなって、その枝の先を川の中に漬けて水を泡立てている。
さらさら。
きらきら。
そして僕はきらきらのかけらを数えるんだ。
「きれい」僕は言う。
「そうだな。きれいだな、純」お父さんも喜んでくれる。
きれい。
僕は、きれいっていう言葉が好きなんだ。
駅前の商店街にはよく行くんだ。川に連れていってもらった日も家に戻る途中で商店街に寄っていく。買い物は全部お父さんがする。僕の家にはお母さんがいないから、お父さんが何でもしてくれるんだ。僕も掃除は手伝う。でも、もっといろんなことができるようになりたい。お父さんみたいに。
お父さんは電気屋さんとか金物屋さんとかが好きみたいだ。商店街に行くと必ずその二つのお店に寄るから。電気屋さんでは、小さな部品をたくさん買っている。とりよせてもらってるんだって。とりよせるっていう意味はよくわからないけど。鳥が寄ってくる、ってことと関係があるのかもね。お父さんは鳥が好きだから。
そして僕は本屋さんに行く。お父さんは買い物があるから途中で分かれて、僕一人で本屋さんに行くんだ。
駅前のその小さな本屋さんは、本当に小さな本屋さんなんだ。細い木の枠にところどころひびの入った薄いガラスがはまった入り口のドアを開けると、湿った空気が体に当たる。日が当たらないせいだと思うけど、それがいいんだよ、ってタミヨさんは言っていた。タミヨさんは店の人。いつ行ってもタミヨさんしかいないから一人でやっているのかなって思うけど聞いたことはない。
「純。今日は何がいい?」
店に入るとタミヨさんはいつも聞いてくる。タミヨさんは、僕が本を読むのを許してくれるんだ。僕はお金をあんまり持っていないから、本はなかなか買えない。
「うーん、今日はねえ……」
僕は本を読むのが早いから、どんどんいろんな本を見て回りたいんだけど、それはできない。絶対に見せてもらえない本もある。
「あっ、純、それはダメだよ」
「うん、わかった。じゃあこれは?」って気になった本を一冊だけ持っていく。
「おお、これかい。いい本だよ、これは。さあこっちに座って読みなさい」
タミヨさんは、レジの横に高く積まれた本の後ろにある椅子を指差して言う。
「うん」
レジの横にはいつも本がたくさん積まれている。僕の背ぐらい高く積まれた本はどこかへ返しちゃうんだって。なんかもったいないけど、小さな本屋だから全部は並ばない。仕方ないよね、ってタミヨさんに言う。
「違うんだよ、純。頼んでもいない本が来ちゃったり、届いてみたら、なんかいまいちって本があったりするのさ。そんな本はとっとと返しちまうんだよ。わかるかい、純」
「うん」
うんって言ったけど、本当はよくわからなかった。返すってどこに返すのかな。書いた人にかな? そうだとしたら、ちょっとかわいそうだなって思った。タミヨさんには言わなかったけど。自分の書いた本が出ていったと思ったら、帰ってくるなんてなんかさびしい気がする。そんなことないのかな。
高く積まれた本の奥にある木の椅子は、他の人が座っていたことはない。僕のために置いてあるような気がする。僕のための特別席だ、きっと。
そして椅子に座って、できるだけゆっくりと本を開いて読んでいく。僕が本を読んでいる間、お店に入ってくる人はほとんどいない。ときどきこの本屋の二つ横にある喫茶店のマスターが来るぐらいだ。
「純、今日は何を読んでるんだ?」
マスターはいつも僕に声をかけてくる。僕はちょっとだけいやな顔をする。でも本を読んでいるときに声をかけられるのがいやな訳じゃないんだ。これは、お父さんが本を読んでいるときに話しかけるといやな顔することがあって、それを真似してるんだよ。お父さんの真似なんだ。
「純の気が散るから声なんかかけるんじゃないよ」
タミヨさんは僕の気持ちがわかっているのかのようにそう言ってくれる。
「『モノはつるせば部屋は片付く』かあ。変な本読んでるんだなあ」
マスターは僕の持っている本をちょっとだけ持ち上げながら言った。片目をつむって、右の人差し指を目の横の所にあてて少しこする。いつも同じ動きだ。着ている服もいつも同じだ。襟の立った真っ白なシャツに黒いパンツ。どちらもピチッとアイロンがかけてある。髪の毛もアイロンがかけてあるみたいにピチッとしている。
「マスター、お店は大丈夫?」僕はマスターに声をかける。
「おっ、純。心配してくれるのかい。うれしいねえ。でも大丈夫。この時間はいつもオオサワのおばあちゃんしかいないから」
オオサワのおばあちゃんは、喫茶店の向かいにある和菓子屋のおばあちゃんだ。いつも店の前においてあるキャンプ用の折りたたみいすに座ってじっとしている。そしていつも白い毛糸の帽子をかぶっている。その帽子がウサギの耳みたいに見えるから、僕はウサギのおばあちゃん、って呼んでるんだ。こっそりだけど。
ウサギのおばあちゃんを知らない人は心配そうに見ていく。おばあちゃんはじっとして動かないから。起きているのか、寝ているのか、生きているのか、死んでいるのか、わからないくらい、じっとしてるんだ。僕にはちゃんと生きているってわかるけどね。
マスターの喫茶店に来たウサギのおばあちゃんは、いつも鉄板焼きそばを頼むんだって。マスターの作る焼きそばは有名らしい。鉄板と焼きそばの間にはたっぷりの卵が敷いてある。僕は食べたことはないけど、その卵のとろとろとソースの絡み合いが絶妙なんだって。絶妙。絶妙っていうのはきっとすごくおいしいってことじゃないかな。
僕は、今すごく欲しい本があるんだ。ウーガ・ルースターっていう人の絵本。何とかお金をためて買おうと思っているよ。
タミヨさんの店にはその絵本はない。その絵本は、一度だけ行った駅裏にある大きな本屋の入り口に飾ってあった。僕は車から降ろしてもらえなかったけど、本屋の入り口の横に飾ってあったウーガ・ルースターの本は光っていた。開いてあったページの絵は、何を描いたものか僕にはわからなかったけど、青く、黄色く、そして白く、いろいろな色が混じり合ってきらきらとしていた。
きらきら。
きらきらのかけら。
僕は絵本が好き。きらきらのかけらがたくさんある絵本が好きなんだ。
タミヨさんのお店には、一冊だけウーガ・ルースターの本がある。でも、駅裏の本屋で見た絵本とは違うものだ。いつかお金を貯めてあの絵本を注文できたらいいなあ、と思う。お父さんにもらうお金を貯めれば、買えるのかもしれないけど、今はまだ無理なんだ。僕も他の人みたいに働いてお金をもらいたいなあ、って思うけど、きっとまだ働くことはできない。
僕の一日はだいたい同じ感じだ。家にいるか、商店街を歩くか。たまに駅まで行って、電車を見るか。そんな感じ。電車は、乗ることができないって、お父さんが言っていたから見るだけなんだけど。
でも、ある日桜田君と出会った。
桜田君と。
桜田君は、僕にできた初めての親友だよ。
いつものように僕はお父さんと街の商店街へ出かけた。商店街の道のちょうど半分だけが強い太陽の日差しを反射して向こう側に見えるお店をゆらゆらさせていた。自分の足がふらふらするみたいだったよ。
桜田君に初めて会ったのは、そんなふらふらしているときだったんだ。
桜田君は僕にできた初めての親友。
商店街の中にあるタミヨさんの本屋さんから桜田君は出てきた。僕の大好きな小さな本屋さん。
目が合った瞬間、僕はわかった。僕といっしょだ。すぐに声をかける。僕は人見知りじゃないからだれにでも話しかけることができるんだけど、このときは緊張したからなのか声がふるふるとしてた。足のふらふらが声に伝わったみたいだったんだ。
ふるふる。
ふらふら。
「あっあのう、僕、純って言うんだ。君は?」
「僕は、さくらだくん」
「さくらだくん?」
「うん」
「じゃあ、さくらだくん君、って呼べばいいのかな?」
「違うよ。桜田に、君がついてるんだよ。花の桜に田んぼの田だよ」
「そうか、じゃあ桜田君でいい? さくらだくんくんじゃあ、匂いをかいでいるみたいだよね」
「僕は匂いなんか、かがないよ」
「僕だってかがないよ」
「ねえ純。学校は?」桜田君が聞いてきた。
「僕は行ってない……」学校に行ってないことはあんまり言いたくないんだ。
「僕も行ってないよ」
「そうなの? じゃあ僕といっしょだ」そう、いっしょ。やっぱり僕といっしょだ。もちろん顔は違うけど、僕が最初に感じたとおり、桜田君は僕といっしょだったよ。
僕の方が顔はいいんじゃないかな。笑顔がかわいいねえってタミヨさんに言われたこともあるし。桜田君は、絵本で見た小熊のチェブーに似ていた。タミヨさんの本屋さんにあるウーガ・ルースターの絵本に出てくる小熊のチェブーに。桜田チェブーだ、って頭の中に浮かんだけど、口には出さなかった。
その日からときどき桜田君と会ったよ。ときどきいろんなことを話した。商店街の角で待ち合わせして、いろんなところに行った。ときどきね。
ときどき。
ときどき。
桜田君は商店街の近くに住んでるんだって。桜田君はタミヨさんの本屋さんにも行っていたんだ。桜田君は本屋さんに火曜日に行っていた。僕はたいてい木曜日。だからいままで会わなかったんだ。
そのことは、タミヨさんに桜田君の話をしてわかったんだ。桜田君も毎週来て本を読んでいってるんだって。レジの横の椅子に座って。レジの横の椅子。あの椅子は僕だけの特別席じゃなくて、僕と桜田君の特別席だったんだ。ほんの一瞬だけ、自分だけのものじゃなくてがっかりしたけど、桜田君だったらいいや、って思った。だって親友だからね、親友。友達よりももっと仲がいいってことだよ。
いつのまにか桜田君は僕の親友になっていたんだ。
今日は、桜田君と喫茶店に入った。お父さんは、駅裏に買い物があると言ったので商店街まで乗せてきてもらったんだ。桜田君と会うって言ったら、お金をくれた。それで喫茶店に入ることにしたんだ。喫茶店に入るなんて大人みたいだと思ったよ。
そう言えば桜田君はときどき大人のようなことを言う。
「人生なんて、目の前にある椅子のどっちに座るかで変わってしまうんだよ」
「どういうこと?」
「たとえばさあ、こっちの椅子に座る。そうするとさあ、前にある絵が見えるでしょ」
僕は壁にかけてある絵を見た。絵には家の窓枠が描いてある。窓は少しだけ開いていて、その先には海が見えている。僕は海を見たことはないけど、知ってるんだ。
「それで、その絵を見て、こう思うわけ。『ああ、海へ行こう』ってね。そうして海へ行き、そこで出会った女の人と恋に落ちるんだよ。そして結婚しちゃうんだ」
「え、結婚しちゃうの? 誰と?」
「だから、海で出会ったきれいな女の人とだよ」
「きれいな人なんだ。いいね」
「でもね、もしこっちの椅子に座ったら、絵は見えないでしょ。そしたら、結婚もしないんだ」
僕は反対側の椅子に座ったところを想像した。座る前に壁の絵は見えちゃうけどなあ、って思ったけど、桜田君には言わなかった。
「いや、そもそも、座ろうとしていた椅子が壊れているかもしれないしさ。そうだとしたら、大変だよ。大変なことになっちゃうんだ」
「うん、桜田君の言っていることって難しいや、僕には。よくわからなくなっちゃった。椅子には座らない方がいいってことなの?」
「ううん、僕もよくわからないんだ。結局どっちでもいいってことなのかも。へへ」
「すごいね、桜田君って。なんか、大人みたいだよ」
「そうかな」
「そうだよ」やっぱり桜田君は親友だ。
僕は壁の絵をもう一度見た。窓の先の砂浜にきれいな女の人が見えた気がしたよ。
「純、知ってる? 最近商店街のなかで起こってること。あちこちに変な形の置物と小さ袋が置いてある、って言うはなし」桜田君が話を変えた。
「知らない。置物って何?」
「うん、なんかね、小さな動物の置物。でもなんの動物かは見てもわからないみたい。それと小さな袋の中には紙が入っているんだけど、その紙には見たこともない字が書いてあるんだって」
「見たことがない字って?」
「わからないよ。他の国の言葉なのか、他の星の言葉なのか」
「他の星って?」
「知らない」
「それってもしかして、ウチュー人のこと?」今僕がいるところではなくて、空に見えるどこかの星にも人が住んでいるかもしれない、この前読んだ本に書いてあったことだ。
「純、質問ばかりしないでよ。僕だって知らないんだから」桜田君が少しだけ声を大きくした。
「そうだよね、ごめん」桜田君は何でも知っている気がして、いつも聞いてしまうんだ。
いろいろと。
いろいろと。
お父さんが教えてくれないことも、桜田君が教えてくれたこともある。僕はまだ、知らないことがたくさんあるんだ。
「その置物の話って誰に聞いたの?」
「オオサワのおばあちゃんだよ」桜田君が喫茶店の窓の外を見て言った。
「ああ、ウサギのおばあちゃんね」
「ウサギって?」桜田君に言われて僕はビックリした。ウサギのことは内緒だったのを忘れちゃっていた。
「ほら、いつもかぶっている帽子がウサギの耳みたいだから」内緒だよ、と僕は桜田君に言った。
「なるほどね。純は想像力があるね」
「ソーゾーリョクって?」僕の聞いたことのない言葉だ。
「僕にはあの帽子は、ただの白い帽子にしか見えない。でも、純にはウサギの耳に見えたんだよね。目に見えているそのものではなく、そこから別の何かが見えてくる。そういうことを想像力があるっていうんだよ」
「へえ、すごいね」
「そうだよ、純はすごいんだよ」
「そうかなあ。僕は桜田君の方がすごいと思うよ」僕は本当にそう思って言った。
「ありがとう」それで、オオサワのおばあちゃんなんだけど、と桜田君が話を戻す。
「その置物のことは、オオサワのおばあちゃんに聞いたんだけど、おばあちゃんは孫のミキオにいちゃんに聞いたんだって」
「ミキオにいちゃんは僕も知ってるよ。孫は子供の子供のことだよね」
「そう。ねえ今からオオサワのおばあちゃんに話を聞きに行こうよ」
「いいよ、行こう」僕は桜田君の向こう側の窓を見た。ウサギのおばあちゃんがさっきとまったく同じかたちで座っているのが見えた。
桜田君は先に店を出てウサギのおばあちゃんの前にいた。僕も遅れて近づく。置物の話を聞くためだよ。
「おばあちゃん、この前言ってたミキオにいさんの話しなんですけど、もう少し詳しく教えてください」桜田君が聞いた。いつもより大きな声を出していた。そしていつもよりていねいな言葉だ。いつもって、僕と話すときっていうことだけど。
「おや、純も一緒かい?」おばあちゃんが僕の方を見てにこりとしてくれた。おばあちゃんは、いつもの白い帽子を被っている。にこりとしたその顔は本当のウサギのように見えた。
「うん、僕たちで何かできないかって思ったんです」僕もいつもより大きな声を出した。
「ミキオはな、本当にいい子じゃよ。ちゃんとした大学に行って、奨学金だってもらってるんじゃよ」
「ショーガクキンって何ですか?」僕は聞いた。
「ああ、奨学金っていうのはな、学校を卒業して働くようになってから、大学で勉強するのにかかったお金を払えばいいってものじゃ。二人は借金って知ってるかい?」
「はい、お金を借りて、あとで返すことです」桜田君が答えた。
「そうじゃ、奨学金もまあ同じようなもんじゃな」
「お金を借りて、あとで返すのはいいことなんですか?」僕はまた大きな声を出した。
「それは、ちがうな、純。ミキオは、自分が勉強するのにかかるお金を自分で働いて返そうとしている。それがいいことなんじゃよ」
「ご両親に迷惑をかけないってことですね」桜田君が答えた。
「そうか」僕も大学に行くことになったら、ショーガクキンをもらおうと思った。でも、だれがお金を貸してくれるんだろう。僕にお金を貸してくれる人はお父さんしか浮かばなかったよ。
「で、ミキオにいさんのことですけど、この前の話覚えていますか?」桜田君が質問する。
「ああ、超能力のことじゃろ」
「チョーニョーリョク?」また僕の知らない言葉だ。
「超能力。自分が考えたことは、どんなことでも実現してしまうんだって」桜田君が僕の方を見て言った。
「ジツゲン?」
「考えたことがそのまま起きちゃうんだよ」
「へえ、すごいね。どんなことが起きるの?」僕が聞く。
「うん、よくは知らないんだけどさ、カエルがいなくなっちゃったり」
「カエルがいなくなる? どうして?」
「だから、よく知らないんだよ。超能力の話はまた今度ね」そう言って桜田君はウサギのおばあちゃんの方を向いた。
「超能力の話じゃなくて、置物の話が聞きたいんです」
「ああ、置物なあ、置物。それならなあ、直接ミキオに聞くとええ。ミキオはその置物も持っているって言ってたからな。二人が話が聞きたいって言ってたことを伝えとくよ」
「分かりました。ミキオにいさんの都合のいいときで構いませんので」桜田君がていねいに言った。
ウサギのおばあちゃんは下を向くとまた動かなくなった。
僕と桜田君はそこでお別れしたんだ。
「これで調べられるね」桜田君が言った。
「うん、チョーニョーリョクが何かをだね」
「違うよ、純。置物のことだよ。動物の置物のなぞ」
「そうか。そうだよね、置物のことだよね」僕は、そう言ってうなずいたんだけど、頭の中はカエルが消えるチョーニョーリョクのことをずっと考えていたんだよ。
コトコちゃんのことはあまり話したくない。お父さんにも桜田君にも話していない。だって恥ずかしいから。僕はコトコちゃんのことが好きなんだ。コトコちゃんは会うといつもいろんなお願いをしてくる。すごくかわいいんだ。
「ねえ、純。のどがかわいたわ。ジュース買ってきてちょうだい」
「うん、すぐ買ってくる」僕はお金を少しだけ持っている。お父さんが1週間に1回お金をくれるんだ。コトコちゃんと知り合う前は、そのお金をためて本を買っていた。今はコトコちゃんのために使っているんだ。
僕はミックスジュースの缶を渡して、コトコちゃんの顔を見る。
「ねえ、純。佐世保バーガーが食べたい」
「サセボバーガーって何?」
「知らない。でも食べたいの。買ってきて」
「ダメだよ、コトコちゃん。僕もうお金持ってないんだ」僕のお金はさっきコトコちゃんのミックスジュースになった。
「そんなのダメ。買って」
「でもそんなバーガー、この街には売ってないんじゃないかな」
「じゃあ、作って」
「ごめん、それは無理だよ。だって……」だって僕は料理が全く作れないんだ。
「使えない男だね、純」コトコちゃんの冷たい視線に僕はぞくっとする。なんだろう、この感じって。やっぱり好きってことなのかな。
ぞくっと。
ぞくぞくと。
「ごめんね、コトコちゃん。来週ならまたミックスジュース買えるよ」そういって僕はコトコちゃんをもう一度見た。でも、コトコちゃんは目を合わせてくれなかった。僕はその時、コトコちゃんの泣き顔を思い出した。街のはずれで、一人靴もはかず、歩きながら泣いていたコトコちゃんの顔を。
あの時は声もかけられなかった。なぜ泣いていたのか、なぜ靴を履いていなかったのか、僕にはわからなかったけれど、僕が守ってやらなくちゃって思ったんだ。でも、そんなことは言えない。
「また、会ってね」それが精一杯。
「しょうがないね、純。もうちょっとちゃんとしてよね」
「うん」
僕はなかなか自分の欲しいものが買えないんだ。コトコちゃんにジュース買ってあげているから。お父さんにはそのことを内緒にしている。お父さんは僕のことを怒ったりしないけど、お金を自分のために使っていないことを知ったらどう思うかな。
ウーガ・ルースターの絵本は当分買えないなあ。でもコトコちゃんのためだからしかたがない。僕は本当にコトコちゃんが好きなんだ。
僕はコトコちゃんのことが好きだからいいんだ。
「しょうがないな。じゃあ来週ね」
「うん、お金持ってくるね」
「ありがとう、純。愛してる」
「うん、僕も」小さな声で僕は答える。小鳥のように澄んだコトコちゃんの声が聞けるだけで僕は幸せだ。コトコちゃんの口元に見えるわずかな笑みにまた、ゾクってする。
かわいいなあ、コトコちゃん。
コトコちゃんのことは言えないけれど、桜田君にサセボバーガーのことは聞いてみようっと。
「純、なんで人間はアスファルトで地面を覆ってるのかわかる?」
桜田君は会うなりこんなことを聞いてきた。いつもの喫茶店のいつもの席だ。
「アスファルトってあの黒いのだよね」僕は、喫茶店の窓から外の道を見た。
「そう。まあ、土を嫌がってるんだと思うんだけど。土ぼこりで汚れたり、雨が降ればぬかるんで汚れたりするから」
「みんな汚れるのが嫌なんだね」僕もそう、って答える。僕はほこりには敏感なんだ。
「でもさあ、地球だって生きてるんだよ」
「そうなの?」僕は驚いた。
「そう、地球は生きてる。あんな風にアスファルトで覆ってしまったらいつか呼吸ができなくなってしまうはず」
「それはいけないね」
「そう、それに、空を見てよ。電線がいっぱいだ」
「そうだね。僕にはあれが大きな網に見えるよ」商店街のところだけは、電線を地中に埋める工事をしているけど、その他の場所は、たくさんの電線がからまるように張りめぐらされている。
びよーん、びよーん。
ぷらーん、ぷらーん。
「人間は、わざわざアスファルトと電線の網で地球を区切って、その間で生活しようとしてるみたいだ」
「うん。なんかもったいないね」
「もったいないっていう表現は純らしいね」
「そう? ありがとう」
僕は、地球の心臓の音を聞こうとして、お店の床の方にじっと集中してみたよ。
「そうだ純、聞いてよ。僕の頭、てっぺんのところを押すとペコッ、って音がするんだよ」桜田君が突然言った。
「桜田君、そりゃあおかしいね」
「そうなんだよ純。ほらここ押してみてよ」
『ペコッ』
「ホントだ変な音。自分の頭じゃできないのかな」
『ペコッ』
「桜田君、僕も同じ音がするよ」
「あれ、純もなんだ。ひょっとしてみんな同じ音がするのかな?」
「そうかもね」
「そうだよ、きっと。そうだ今から確かめに行こう」
「うん、行こう行こう」
桜田君とはいつもこんな感じなんだ。
でもそのあと僕たち警察につかまっちゃったんだけどね。
そういえば桜田君にウソつくの忘れちゃったんだ。
この前エイプリルフールだったのを忘れてたから今日ウソつくつもりだったのに。エイプリルフールはウソをついてもいい日なんだって。喫茶店のマスターが教えてくれた。でも僕はなぜみんながウソをつくのかわからないんだけどね。
昨日は結局警察に泊まったんだ。格子の窓から見た空はとてもきれいだったんだよ。
僕には、めだかの水族館のように見えたんだ。めだかの水族館っていうのは、街のはずれにある水族館のこと。窓から見た空の形が、その水族館の建物の形に、空に見える星がメダカの目に見えたんだ。
人の頭を勝手に押しちゃあいけなかったんだって。迎えにきてくれたお父さんが教えてくれた。でも、他の人は、頭のてっぺんの所を押しても『ペコッ』って音はしなかったんだ。
そのことをお父さんに言ったら「純は特別だからだよ。他の人とは違うんだ」ってお父さんは言った。でも、特別ってどういう意味なんだろう。他の人と違うってことはいいことなの? 僕には良くわからない。僕はみんな一緒だと思ってた。顔はみんな違うけど。楽しいことがあればみんな笑うし、悲しければ泣いたりもする。僕は涙を流すほど悲しいことにあったことがないけれど。
でも、違うって言ったら、みんな違う。同じ顔の人はいない。考えていることも一人一人違うと思う。
特別っていう意味はわからなかった。でも、僕がもし特別なら、桜田君も特別だってことだよね。桜田君が特別なのは、すごくうれしい気がしたよ。
「純さあ、僕と一日一緒に過ごすのと、すごく好きな女の子と過ごすのだったらどっちがいい?」
今日の桜田君は来るなりこんなことを聞いてきたんだ。桜田君は僕の親友。僕たちはいつもの喫茶店のいつもの席で話をしたんだ。
「桜田君、それは好きな女の子だよ」僕はコトコちゃんのことを考えた。コトコちゃんのことは桜田君には話していない。
「じゃあさあ、僕と一日一緒に過ごすのと、好きじゃないけどすごくかわいい子と過ごすのだったらどっち?」
「うーん、すごくかわいい子かな」
「じゃあ、タイプじゃない女の子だったら?」
「タイプって?」
「いいなあ、って思うくらいの感じかな」
「じゃあ、桜田君かなあ……」
「ふーん、そう。じゃあ僕と一日過ごすのと、ひとりで好きなことして一日過ごすのだったらどっちがいい?」
「うーん、ひとりで好きなことして過ごす方かな」
「じゃあひとりで好きじゃないことして過ごすのだったら?」
「桜田君かなあ……」
「そうだよね。僕もそうだよ、純」
「うん、そうだよね」
桜田君とはいつもこんな感じなんだよ。
いろんな話をして一日が過ぎるんだ。親友だからね。
「純は好きな子がいるね」向かいの店の前で座っているウサギのおばあちゃんを見ていると、急に桜田君が言ったんだ。
「どうしてわかったの?」
「どんな子?」桜田君に聞かれて僕は頭の中にコトコちゃんの姿を思い浮かべた。
「ええとね、いつもグレーのザクザクした服を着ている。背中に木の形をした飾りが三つ付いてるよ。あとは、髪がね、髪の先があごの横のところでクルンと丸まってる。とてもかわいいんだよ」
「ああ知ってるよ、その子」
「そうなの?」
「うん、その子いじめられているでしょ」
「えっ? いじめられているって?」いじめって何、って僕は聞いた。
「仲間はずれにされたり、イヤなことをされたり。知らないの?」
「知らない」僕は急に胸の辺りに重さを感じたよ。
「服に付いている木の飾りはね、芳香剤だよ、きっと。誰かに付けられたんだ。服がグレーなのは、汚れてるから。ザクザクはボロボロってこと。きたない、くさいって言われてるのを聞いたことがある」
「そんな、そんなの、何で。何でいじめられてるの?」僕はにおいのことはよく分からないんだ。芳香剤ってものも何か分からない。
「理由は知らないよ、僕は」桜田君が答える。
「ひどい」コトコちゃんに会ってくる、と桜田君に言った僕は、立ち上がりお父さんにもらったお金を机に置く。
「大丈夫?」桜田君が僕を見て聞く。
大丈夫。
「純が守ってやるんだ」桜田君が僕を見て言う。
わかった。
「冷静にね」桜田君が僕を見て言う。
うん。そして僕は店を出たんだ。
会って何を言えばいいんだろう。僕は何をしてあげられるのだろう。守る方法を思いつけない僕は、胸の辺りに重さを感じたまま走り続けたよ。
そして、僕はコトコちゃんを見つける。
学校のグラウンド。
フェンス越しに人集りが見える。
座り込んだコトコちゃんが見える。
コトコちゃんの涙のしずくが見える。
僕は走る。
僕はどうするだろう。
純が守ってやるんだ、桜田君の声が頭の中で聞こえる。
そして僕はグラウンドへ入る。
集まっている人が僕を見る。
コトコちゃんが顔を上げる。
冷静にね、桜田君の声が頭の中で聞こえる。
桜田君の顔が頭の中に浮かぶ。
そして僕は。
そして僕は。
そして。
僕は、コトコちゃんを守ることができたんだ。でも、僕は何もしなかった。コトコちゃんの前にいた一人の男の子が僕を見ると、ちっ、と小さくつぶやいて、歩き出した。ほかの人もそれにつられて、歩いて、そしてグランドから出ていった。
「守られてるからっていい気になるなよ」
背の高い一人の男の子はそう言って、グランドから出ていったんだ。グランドの縁に並んで停めてあった自転車に次々と乗っていなくなった。
「コトコちゃん大丈夫?」僕は砂の上に座ったままのコトコちゃんに声をかけた。コトコちゃんの顔から涙の滴はなくなっていた。
「遅いよ、純」コトコちゃんは眉毛を寄せて、僕をにらんだ。いつものコトコちゃんだ。僕はそこではじめてホッとしたんだよ。
「ごめん、コトコちゃん。僕、足が遅いんだよ」
コトコちゃんがにっこりと笑った。僕は手を差し出した。コトコちゃんも手を出す。コトコちゃんの指の先には、何本も何かで切ったような赤いスジがついていた。
僕はコトコちゃんと手をつないで、歩いたんだよ。
桜田君のことはすっかり忘れちゃってたんだ。ごめんね桜田君、あのあといつまで喫茶店にいたのかな。
今日、僕はウーガ・ルースターに会えるんだ。この前お父さんにお願いしたら、連れていってあげるよ、って言ってくれた。
「お父さん、いつ出発する?」
「そうだな、まだ時間は大丈夫と思うけど、すぐ行くかい?」
「うん、行く」僕はすぐに準備をする。
ウーガ・ルースターが駅裏の本屋に来ることはタミヨさんが教えてくれたんだ。
ウーガ・ルースターはどんな人だろう。なんとなく金色の髪をした背の高い女の人かなって思うけど、なぜかはわからない。あんなきれいな絵を描く人だから、きっときれいな人だと思う。本当は男の人か女の人かもわからない。でも、女の人だったらいいな、って思ったんだ。
「一時間くらいで迎えにくるよ」お父さんは言った。
「うん、じゃあね」
僕は車から降りるとまっすぐに本屋に向かった。タミヨさんの本屋さんとは違って、大きな二階建ての建物で、看板も大きい。本屋の入り口の横には人が並んでいた。
十人。
十二人。
みんなウーガ・ルースターが好きな人たちだ。そう思うとすごくうれしくなったよ。
ざわざわ。
わざわざ。
しばらくすると、本屋の店員が外に出てきて大きな声を出した。
「間もなく、絵本作家のウーガ・ルースターさんのサイン会を始めます。みなさん一列に並んでください」
僕もすぐに列に並んだ。僕の後ろにも人が集まってくる。
「えー、たくさんお集まりいただきましてありがとうございます。本日は、ウーガ・ルースターさんの新作絵本の発表記念サイン会です。新作絵本をご購入いただいた方全員にウーガ・ルースターさん本人からサインをしていただけます。こちらに一列に並んでください」
(あっ、そうなんだ……)僕は店員の話を聞いて列から出たんだ。だって僕は絵本を買うお金を持っていないから。それに僕が欲しい本は、新しいやつじゃなくて前に来たときに飾ってあった絵本だから。
僕が出て行くのを見た店員が僕に声をかけてきた。
「ねえ、君。並ばなくていいのかい?」
「うん、いいんです」僕は少し早足で本屋の中に入った。なぜかちょっと恥ずかしかったんだ。
本屋の中にも人の列は続いていた。
僕はゆっくり、人の列から離れたところを歩いて移動した。でも、あまりよく見えなかった。奥にある階段に上がったら見えるかなって思って歩き出すと、さっきまで外にいた店員が中に入ってきて声を出した。
「えー、それでは、時間になりましたので、ウーガ・ルースターさんの新作絵本の発表記念サイン会を始めたいと思います」
店員は声を出しながら列の先頭に向かい、人の間に消えていった。
「では、ウーガ・ルースターさんをお呼びいたします。拍手でお迎えください」
パチパチと鳴る拍手は聞こえるけど、僕のいるところからはウーガ・ルースターは見えなかったんだ。わあっとか、きれいっとか声が聞こえたけどね。僕は少し急いで階段へ向かった。
階段には何人かの人がいて、下を見ていた。僕も階段のふちに近づいて背をのばして下を見た。さっき声を出していた店員が机の横に立っていた。机のところには髪の長い女の人が座っている。
(ウーガ・ルースターさんだ)
前を流れていく人の間から見える女の人は金髪ではなく黒い髪だったけど、とてもきれいな人だったよ。座っているからわからないけれど、背は高い気がする。流れてくる人から本を受け取って、何かを書いていた。
「サインって名前を書いてるんだよね?」僕は、横にいた茶色い野球の帽子を被ったおじさんに聞いた。
「そうさ、自分の名前を書いてるんだよ。ただ、字がぜんぜん読めないようなものもあるけどな」おじさんはなぜか帽子をとって僕に答えた。
「サインってもらうとうれしいの? 僕はウーガ・ルースターさんの絵本の方がうれしいけどなあ」
「自分のためにサインをしてくれるんだ。それは、特別なことじゃないか。君は純だろ?」
「そうだよ」おじさんは僕の名前を知っていた。
「じゃあ、あの女の人が、純くんへ、て書いてくれたらうれしいだろ。それは世界に一つしかないんだから」
「そうか。そうだね、じゃあ僕もサイン欲しかったなあ」
「おじさんもなあ、あんなきれいな人なら、サインもらってこようかな」
「おじさんはウーガ・ルースターさんの絵本を好きなの?」
「いや、知らないよ」
「じゃあ、駄目だよ」
「駄目ってことはないさ。今日から好きになる。それならいいだろ」
「おじさんは絵本を見たことないんでしょ?」
「ないよ。いいんだよ、あんなきれいな人が描く絵は、きっととてもきれいなはずさ。それで、いいんだよ」
僕には、何がいいのかよくわからなかった。僕は、絵本を見てるから、絵がきれいなのを知っている。
おじさんは結局その場で下を見たまま動かなかったけどね。
サイン会は四十五分を少しだけ過ぎて終わった。お父さんがもう迎えにきているかなと思って、外に出たけど、まだ来ていないみたいだったので、店の前で待つことにした。
「よかった、ウーガ・ルースターさんが見られて」頭の中で思ったことが口から音になってこぼれて僕はちょっとビックリした。
でも、もっとビックリしたのはその僕の口からこぼれた言葉で振りかえった人がウーガ・ルースターさんだったから。ウーガ・ルースターさんが目の前にいたんだ。
「こんにちは、君も私に会いにきてくれたの?」ウーガ・ルースターさんは僕に話しかけてきた。きれいな長い黒髪がさらりと揺れた。
さらり。
さらさら。
「はい」
「そうなんだ、でも並んでいなかったでしょ」
「うん」僕は何も言えなくなる。僕の手には絵本はない。それを見られているような気がしたんだ。
「ひょっとして、会ってがっかりしたとか」
「ちがいます。でも、外国の人だと思ってました」
「そうなんだ。じゃあ、ちょっとがっかりしたよね」
「そんなことありません。とてもきれいです。本と一緒だ」僕はウーガ・ルースターさんの黒くて長い髪を見ながら言った。
「あら、ありがとう。優しいのね。お名前は?」
「純です」
「純。あら。君が純君か」ウーガ・ルースターさんはいった目を大きく開いてから微笑んだ。
「純君は、私の本どうして買ってくれなかったの?」
「僕の欲しかった本じゃなかったんです。それにお金がなくって……」お金をコトコちゃんのために使ったことは言わなかった。
「ごめんなさい」
「そうかあ、私の方こそごめんね、純。お金がないなら買えないわよね。私は新しい本ができたから、その宣伝で来たんだからね。買った人にしかサインはできないしね。うーん。本当にごめんね、純君。まあ、これが私の仕事だからしょうがないんだけど」
「絵本を描くのが仕事じゃないんですか?」
「あっ、まあそうなんだけど……。でもね、こうやって宣伝しないと絵本が売れないからね。絵本が売れないと私たちもご飯が食べられないんだよね」
「大変ですね」
「まあ、色々とね……。ねえ、純。さっき僕の欲しかった本じゃないって言ってたけどどういうこと?」
「うん、前にこの本屋に来たときにあそこに飾ってあった本が本当は欲しかったんです」僕は、入り口の方を指差して答えた。
「そうかあ、新しい本に興味がないってのはちょっと残念だぞ、純」ウーガ・ルースターさんは、細い指で僕をつんって押してきた。
「まあ、でも許そう。ふふ。そうだ、ちょっと待っててくれる?」
そう言ってウーガ・ルースターさんは近くに停めてあった車へ向かった。しばらくして戻ってきたウーガ・ルースターさんは、僕に本を渡した。
「あっ、あの本だ。飾ってあった絵本」
「そう。これはいつも持って歩いている本でね、サンプルっていうんだけど、ちょっと折れちゃってるところがあって、新しいのをもらったところなの。だからこれ純にあげるわ。ここが折れちゃってるんだけどいい?」
「ありがとう。いいの?」
「いいよ。大切にしてね」
「うん。あ、サインしてほしい」
「もちろん」
そうして僕には、宝物ができたんだ。世界に一つだけの僕のための絵本だよ。じゅん君、ってサインが書いてあるから。今度桜田君にもコトコちゃんにも見せてあげようっと。
あっ、と急に思い出して僕は、車に乗ろうとしたウーガ・ルースターさんに聞いた。
「どうして小熊のチェブーの絵本だけ絵が他のと違うの?」
ウーガ・ルースターさんは、僕の名前を聞いたときと同じように大きく目を開いた後、人差し指を立てて口に当てて目を細めたんだ。ないしょってことだよね。
今日は、桜田君と街を歩いた。置物のなぞを解くためだよ。ミキオ兄ちゃんから、街に置かれている置物と小さな袋の話を聞いたから、実際に探すことにしたんだ。
ミキオ兄ちゃんは、見つけた置物を持っていなかった。どこかでなくしちゃったんだって。超能力の話も聞いたんだ。
「いいか、すげえことが起こったんだ」置物の話を聞く前に、ミキオ兄ちゃんが話しだした。
「カエルがな、いなくなっちまったんだよ。俺がいなくなれって念じたらな」
「念じるって?」僕は聞いた。
「こうやって集中して、頭の中心にイメージをつくるんだよ。そうして」ミキオ兄ちゃんは、両手を頭の横で広げたあと、指先をすぼめてこめかみのところに当てて、その指をゆっくり動かしながら目を閉じた。そして少しして手をぱっと開くと同時に目をあけた。
「超能力だよ」
「カエルが消えたんですね」桜田君が確認する。
「そうだ、消えたんだ。田んぼから全部な。カエルはうるさいからな」
「すぐにですか?」
「ああ、まあ、すぐじゃねえんだけどな。次の日だよ。次の日。あとさあ街中の時計が止まっちまったり。ほら俺って時間気にするのがきらいだろ。時計なんてあってもしょうがないじゃないか。なあ。人間が勝手に時間を区切って数えるなんて、宇宙の摂理に申し訳ないよなあ」
「ウチューノセツリ?」
「ああ、まあお前たちには難しいかな」
「時計が止まっているのは僕も見ました」桜田君が言った。
「でも、街中ではないですよね」桜田君がていねいに続ける。
「あ。まあちょっと大げさだったか。ほら商店街のはずれに時計屋があるだろ。あそこの時計が全部止まってしまったのさ」ミキオ兄ちゃんは、また指先をこめかみのところに当てた。
「超能力だよ」
僕は、超能力という不思議な力ではなくて、ちゃんと理由があるとすぐに思った。実際、なぜそんなことが起こったのかもその後少ししてわかった。ミキオ兄ちゃんは気づいていなかったけど、公園のベンチのすぐ近くにいた女の人が犯人だったんだ。
置物の話を聞いてから、僕と桜田君は街に置物を探しに行った。置物の置かれる場所は決まっていないんだけど、すでに七個の置物が見つかっているとミキオ兄ちゃんは言っていた。七個目の置物はミキオ兄ちゃんが見つけたんだって。でも、すぐになくしてしまったみたい。
桜田君が七個の置物の見つかった場所を調べていて、次の置かれる場所を予想していた。規則性があるみたいだよ、と僕に言って、街の南側の方へ向かったんだ。
交差点の角にある鳥かごのたくさん並んだ黒い家の前まで来たところで桜田君が言った。
「このあたりだと思うんだけどな」桜田君は頭をくるくると回しながら、ゆっくりと歩いた。僕も真似をして歩いてみる。でも、置物がどんな形で、どんな大きさなのか分からないのにどうやって探すのかなって思ったまま歩いたんだ。
でも、そのあとすぐに桜田君が、あった! と大きな声を上げて、走り出した。鳥たちがびっくりして鳥かごがざわざわと揺れた。
ざわざわ。
ばさばさ。
「あっ、チェブーだ!」僕は、桜田君が見つけた置物を見てびっくりしたんだ。その置物は小熊のチェブーだった。ウーガ・ルースターさんの絵本に出てくる、小熊のチェブーのことだよ。木を削って作ってあるその置物は、形はがたがたとしてるけど、僕にはわかったんだ。
桜田君はチェブーを知らなかった。僕は絵本の話をする。でも桜田君がチェブーに似ていることは言わなかったよ。
「チェブーはね、熊の子供なんだよ。小熊のチェブー。チェブーはいつもひとりぼっちだったんだ。でも、ある日、人間の子供と友達になるんだよ。チェブーはね、人間の真似をして字を紙に書いて、その紙を小さな白い袋に入れて、人間の住んでいるところに置いていくんだ。街のあちこちにね。人間はそれを見つけ中の紙を読むんだけど、大人にはその字は読めないんだ。でもね、なぜか子供には読めて、子供たちはみんなチェブーの友達になるんだよ」僕は、絵本の話を桜田君に話した。本当はもっといい話なんだけど、僕には上手く話せなかった。
桜田君が置物といっしょに置いてあった小さな袋の中から小さな紙を出して広げた。
「純の今の話だと、僕はもう大人なんだね」書いてある文字が読めないから、と桜田君は寂しそうな顔をした。僕は桜田君の手から紙を受け取り、そこに書いてある文字を見る。
「これは、友達になってくださいって書いてあるんだよ。ああ、でも桜田君が大人だから読めないんじゃなくてね、この文字はさっき話した絵本の中でチェブーが書いた文字だから。僕はその絵本を知ってるから、わかるんだ」
「ああ、そういうことか。純、それは犯人を見つけるヒントだね」
「犯人? ヒント?」
「そうだよ、純。犯人は小熊のチェブーを知ってるってこと。絵本を見たことがあるはずだよ。でも、この置物は小熊には見えないけどね」桜田君はチェブーの置物をくるくると回して言った。
「そうだね、でも僕にはチェブーだってすぐに分かったよ。なぜかわからないけど」
「超能力かもね、純」
「ええっ!」
「冗談だよ、純」
「なんだ冗談か。びっくりしたよ」僕はそう言いながら、超能力じゃないことをちょっと残念に思ったよ。
そういえば、タミヨさんのところにウーガ・ルースターさんから手紙が届いていたんだ。僕への手紙。そこには、ウーガ・ルースターは二人いること。一人はこの前会ったウーガ・ルースターさん。もう一人はそのウーガ・ルースターさんのお父さん。小熊のチェブー以外の絵本はそのお父さんが描いていること。サイン会は娘のウーガ・ルースターさんが行っていること、が書いてあった。最後に、内緒にしてね、純、って書いてあった。いろいろ事情があるんだなって思ったよ。もし、お父さんの方がサイン会に来ていたら、どうだったかなって考えながら。
僕たちはもういちどミキオ兄ちゃんのところへ行った。公園でゴミ拾いするって言ってたから。公園の入り口を入ると、少し坂になっていて、左側には自動販売機が並んでいる。
その坂を下ると噴水のある池が見える。
噴水の横まで行くとすぐにミキオ兄ちゃんを見つけたんだ。でも、桜田君はミキオ兄ちゃんのところへはまっすぐに行かずに、その手前のところで女の人に声をかけた。僕も近づいて女の人を見た。
「あのう、僕は桜田君です。あなたは?」
女の人は、被っていた帽子のつばに手をかけて、そのまま下を向いた。
「いつもミキオ兄ちゃんのそばにいますよね」桜田君がそういうと、女の人は驚いた表情で顔をあげた。僕も一緒にびっくりしたんだけど。
「どうして知ってるの?」女の人が何も言わないから、僕が聞いた。
「手にしているのはチェブーですよね」桜田君がそう言うと、今度は女の人が言った。両手でしっかりと握っているのは確かにチェブーの置物だった。僕はまた驚く。
「チェブーって?」女の人が小さくふるえた声で桜田君に聞いた。
純、って桜田君が言ったので、僕は小熊のチェブーのことを話した。でも、僕はびっくりしたままだったよ。
「あなたが犯人ですね」桜田君がはっきりとした声で言った。
「犯人? なっ何の?」今度は女の人がきょとんとした顔になった。
「その置物はどうしたんですか?」桜田君はゆっくりと歩きながらゆっくりと言った。
「これは……。これはもらったのよ。大切な人から」女の人は、置物を隠すように体をひねった。
桜田君は、歩くのをやめて、少し先の地面を見ていた。時間が少したった。
「大切な人とは、ミキオ兄ちゃんのことですね」
桜田君の言葉に、えっ、と僕が先に驚く。そのあと女の人も、えっ、と声を出した。
「もらったと言いましたが、本当はとったのですね。ミキオ兄ちゃんが気づかないうちに」桜田君はまたゆっくりと歩き出し、話を続けた。手を後ろで組んでいる。
「犯人とは、その小熊のチェブーの置物を街のあちこちに置いている人のことです。その理由は不明です。何かの目的があるのか、愉快犯なのか。私はそれを秘密裏に調査していました。あなたのことに私は以前から気づいていました。ミキオ兄ちゃんのいるところに、いつもあなたはいる」桜田君の話し方はいつもと違っていた。いつもよりもっと頭が良く思えたよ。
「あなたは、一方的にミキオ兄ちゃんを想っている。そうですね。でも、あなたは置物の犯人ではなかった。あなたはただ、ミキオ兄ちゃんの持っていた置物をこっそりとっただけです。私は間違えていました。でも、あなたは超能力の方の犯人ですよね」
桜田君の言葉に、えっ、と僕の方がまた驚く。女の人は、うっ、と声を出した。
そのあと僕たちはミキオ兄ちゃんの所へ行ったんだ。でも、女の人のことは言わなかったよ。
あの女の人はミキオ兄ちゃんのために、田んぼのカエルを全部捕まえたり、時計屋さんの時計の電池を全部取り外したりしていたんだ。あとで桜田君は、ストーカーって言うんだよって僕に教えてくれたけど、ストーカーって言葉も僕は知らなかった。僕は、コトコちゃんにはちゃんと気持ちを伝えているけど、できない人もいるんだなって。ただ、すごく好きだからしょうがないんじゃないかなって僕は思ったんだ。でも、それで相手が怖がったり、困ったりするのは良くないけど。幸い、ミキオ兄ちゃんはその女の人のことに気づいてないみたいだったよ。
公園でミキオ兄ちゃんのゴミ拾いを手伝ったあと、僕と桜田君は駅へ行った。桜田君によれば、次は駅のあたりが怪しいってことだった。置物が置かれる可能性があるってことだよ。
僕たちは、駅前のバスターミナルのあたりを見て回った。それからその横にあるラーメン屋さんの前を探してみたんだ。
「ないみたいだね」僕は桜田君に声をかける。桜田君は周りをくるくると見回しながら、駅の方へ行こう、と言った。
くるくる。
くるる。
僕は桜田君の後について、駅の中へ入る。左側に切符売り場があって桜田君がそっちへ進んでいった。
「入場券」戻ってきた桜田君が切符を僕に渡した。
「じゃあ、中へ入れるの?」僕は声が大きくなる。
「そうだよ、純。純も電車に乗っちゃあいけないって言われてるだろ。でもね、ホームまでは行ってもいいんだ。僕は何回か行ったことがある」
「ホーム。電車に乗る所だね。すごいよ桜田君。電車が近くで見えるんだよね」
「そうだよ。でも、今日は置物を探すためだ」
うん、わかった。そう言った僕の頭の中は電車のことでいっぱいになっていたんだけどね。
僕たちは、駅員さんに切符を見せて中へ入る。
「電車に乗っちゃあいけないよ」駅員さんは、僕に向かって言った。
桜田君が先にホームへ入る。ホームにはたくさんの人がいたんだ。1年前に駅裏に建物がたくさん建ち、住む人がとても増えて、街にひとつしかない駅はいつもたくさんの人が利用している。もうすぐ電車が来るからか、ホームの真ん中に人が通れるくらいの幅が残っているだけで、あとは人で埋まっていた。僕は、電車が来ても見えないんじゃないかと心配になったくらいだったよ。
桜田君は、どんどん進んでいき、途中で人の中に入っていった。僕も追いつこうと歩くスピードを上げた。
ざわざわ。
ばさばさ。
桜田君の姿を見失った僕は、すこしかがんで、桜田君の足を探した。少しして、桜田君の足を見つけた。
そのとき。
風が。
吹いた。
ざわざわ。
ばさばさ。
桜田君のひざが、かくんと折れて。
そのまま前へ体が傾き。
僕の視界から消えた。
ガシャン。グシャ。
大きな音を聞いたとき、僕の目の前が急に真っ暗になって、僕の体から力が抜けたんだ。
じりじりじりじり。
じりじりじりじり。
電車がやってくることを知らせるベルの音だけが聞こえていたよ。
「純、起きなさい。純」
僕は今、生まれてはじめて目を覚ました。そんな感じがしたんだよ。
ぐるんぐるんと。
もぞもぞと。
そんな感じ。でも生まれて初めてっていうのは、違う。
だって僕を呼ぶ声がいつものお父さんの声ってわかったから。お父さんの声だからわかる。
これは夢? でも僕は夢を見たことがない。
目を覚ました僕は周りを見回す。
いつもと同じ。いや違う。
見たことのない場所のベッドの上に僕は横になっていた。
ベッドから顔だけを少し起こし、お父さんの方をみて気づく。
お父さんの後ろ。
そこにはコトコちゃんが立っていた。目の中にいっぱいの涙をためて。
「コトコちゃん」
「純」
コトコちゃんのほほを流れる涙はきらきらと、街のはずれにある川のきらきらと同じように輝いていた。
きらきら。
きれい。
「コトコちゃん、きれい」コトコちゃんは、今まで見たことがない表情で僕を見ている。一冊の絵本を抱えている。
きれい。
そして僕は思い出した。
コトコちゃんと手をつないだ、そのときのコトコちゃんの指先。傷だらけの指先。
「チェブーを置いてたのって、コトコちゃんだったんだ」
木を彫ってつくった小熊のチェブー。
チェブーの書いた手紙。
両手に抱えたチェブーの絵本。
友達がほしいのは、コトコちゃんだったんだね。
僕じゃ。
僕じゃだめなの?
コトコちゃんは何も言わず首をふり続けた。
「いいか、純。私の話を良く聞きなさい。とても大事な話だ」お父さんの声は少し震えて、でも輪郭のはっきりした声だった。その声でとても大事なことだとわかったよ。僕はベッドに横になったままお父さんの顔を見つめた。
「純、実はお前は人間じゃない。ロボットだ。わかるかい?」
「ロボット?」
ロボット。
僕はロボット。
人間じゃないんだって。
わかる。
わからない。
「お前はお父さんが作ったロボットだ」
僕はロボット。
お父さんが作ったロボット。
「純、お前は生まれ変わったんだ。わかるかい?」
「うん」僕はすぐに返事をした。でも、それはお父さんを心配させないようにするため。僕は、生まれ変わった。生まれ変わるってどういうことなんだろうか。ロボット。人間だったはずの僕はロボットになった。違う。僕は最初からロボットだった。
僕が自分で起きられないのは。
僕がきれいという時、きらきらの数を数えているのは。
僕が匂いのことがわからないのは。
いろんなことを記憶しておく装置が僕から抜き取られた。何者かが持ち去った。補助記憶装置というものも抜き取られた。それで僕は急に止まってしまった。でも、僕には記憶を転送する機能があった。お父さんの部屋にある機械に僕の記憶は転送されて残っていた。
お父さんの説明は、よくわからなかった。他のことを考えてしまっていたから。
人間。ロボット。
ロボット。人間。
同じ。違う。
違う。同じ。
僕はずっと悩んでいた。悩んでいない。
何が同じなんだろう。何が違うんだろう。
実験なんだ、とお父さんは言った。ロボットが自分たちだけで、人間のように生活したら、どうなっていくのか。
「自分たち?」僕はお父さんの言葉にひっかかる。
「そうだ、純。私もロボットなんだよ。そういう実験なんだ。街の人は全員が知っている。国のプロジェクトに協力しているんだ」
「プロジェクト」知らない言葉だ。
僕が電車に乗って他の街に行ってはいけないのは。
僕が学校に行っていないのは。
僕にお母さんがいないのは。
僕はロボット。
お父さんはロボット。
「でも、お父さんは僕のお父さんだよ」僕ははっきりと言う。
「お前は、私の息子だ。純は私がちゃんと育てた。それは、本当のことだよ」
いろいろなことを思い出す。ひとつひとつに焦点を当てて考える。
自分の家。お父さんの部屋。商店街。小さな本屋さん。タミヨさん。喫茶店のマスター。オオサワのおばあちゃん。大好きなコトコちゃんとミックスジュースのこと。そして……。
「桜田君」
お父さんを見つめる。
ひょっとしたら。
桜田君も。
ロボット。
「ねえ、桜田君は? 桜田君もロボットだったんでしょ。桜田君も」
「そうだ、でも彼はダメだった」お父さんは言った。
「桜田君も実験の一部だった。彼は一人で生活していた。そういう実験だ。彼と純を比較していたんだ。ただし、彼は記憶を転送する装置が機能していなかった」
桜田君。
そして、もう一度桜田君のことを思い出す。最後のときのこと。
桜田君の足を見つけたとき。
ホームに風が吹き。
桜田君の体が。
「あっ」
あれは。
風じゃなくて。
「落とされた。桜田君は誰かに突き落とされたんだよ」
「純。もういいんだ、そのことは。犯人は捕まっている」
犯人。桜田君が使っていた言葉だ。両手を後ろで組んでゆっくり歩く桜田君が思い浮かぶ。
「桜田君はどうなったの?」僕は聞く。
「無事だよ。でも、彼は何も覚えていない。純、お前のことも」
「覚えていない。僕のことも」僕はお父さんの顔を見てから、次にコトコちゃんの顔を見た。
じゃあ。
僕は。
どうすればいいの。
「それは簡単なことだよ」お父さんがやわらかい声で言った。
「やり直しすればいい。親友のやり直しをだよ」
そして僕は、今、商店街の外れにいる。道のちょうど半分だけが強い太陽の日差しを反射して向こう側のお店をゆらゆらさせている。
一軒の家から桜田君は出てくる。
桜田君と目が合う。やっぱり僕と一緒だ。
少しだけ緊張しているが、ふるふるもふらふらもしていない。
そして僕は声をかける。
「あっあのう、僕、純って言うんだ。君は?」
「僕は、さくらだくん」
「桜田君」僕はもう、くんくんとは言わない。
「ねえ、桜田君はサセボバーガーの作り方知ってる?」
さあ、親友のやり直しだ。
おわり
2013年6月2日 発行 初版
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元雑貨屋カラードピープルの店長です。 今は、会社で企画や映像の仕事、趣味で小説や童話を書いたり、フリーペーパーを作ったりしています。 だれか私の小説に絵を描いてほしい。