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一方通行ってバックで走ったら逆走になるのかな?
ふと浮かんだつまらない疑問を解消すべく警察に行った主人公。
そこで出会った警部の勘違いから、思わぬ事態に。
これはSFなのか?

※くだらないのでご注意ください。

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ポップンルージュ

窪井まさひろ

カラピー出版



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 ボクはケーサツに追われています。しかも二度目です。追われながらいろいろなことを思い出していました。記憶力の悪いボクでも忘れられないことが次から次へと起こりました。ふと、はじめに逃げた時、ゆで玉子を持っていなかったらどうなっていただろうと思いました。家の近くまできて、お母さんのカレーのことを思い出したからでしょうか。


 ある日のことです。突然、ボクの車のドアミラーがポロって落ちたんです。ドアのところについているミラーがです。たぶん落ちてから二十四メートルぐらい走って気づきました。後ろを振りかえるとそれぐらいの距離のところにミラーが落ちているのが見えたからです。ボクの車は三年前の春に、大学の入学祝いとして親戚のおじさんがくれた車です。その時、すでに大学二年生になったところでしたので、「おそっ」とおじさんに向かって言った記憶があります。おじさんはそんなことは気にもせず、「お前には昔いい思いをさせてもらったからなあ」と意味深な発言を残して去っていきました。おじさんのくれたこの青い車は、なぜか、後ろの左側のドアが自動ドアになっています。ただ、乗せる相手のいないボクはその機能をつかうことなく今日まで乗ってきました。特に故障もなく、傷つけたりしたこともないので、ミラーが落ちたのはかなりショックです。そのままバックして取りにいこうとしてチェンジレバーをリバースに入れたのですが、そこでハタと思いました。
(この道は一方通行だけど、バックして走ったら、一方通行を逆走することになるんだろうか?)
 この道はボクの家の前、車庫から車を出した瞬間にタイヤが踏むことになる道です。そこからクネリクネリと二分ほど走ると広い道に出ます。広い道に出るまでの間は、車が一台ギリギリ通れるくらいの幅の道なので、運転にはかなりの注意が必要です。ミラーはどこかにぶつけたに違いありません。ただ、最近車が若干ほっそりとしてきたような気がしたりしていたところなので気が緩んでいたのだろうと結論付けました。
(車の向きが逆ではないから、大丈夫かな?)
(待てよ、そもそも道をバックして走っていいのだろうか?)
(めんどうでもぐるりと回って取りにいった方がいいんだよなあ……)
(しかしそれではあまりにめんどいではないですか、奥さん)などとその場であれこれ考えること七、八分。
「ああ、車から降りて取りに行けばいいじゃん、ジャンダラリン(三河弁)」ってことに思い至り、車を降りようとしたら、パフィッパフィッと後ろから車のクラクションが聞こえました。振りかえると隣の家の奥さんが運転する青い車が後ろから来ていました。隣の奥さんの車は外国(日本以外の国のこと)の車なんですが、奥さんも日本以外の国の人のような感じの化粧をしています。奥さんの車も最近若干ほっそりしてきたように見えます。結局降りることもできず、とりあえずいったんミラーをあきらめて前へ進むことにしたんです、ハイ。ところが少し進んで信号待ちしているときにグッドアイディアが浮かびました。
「ケーサツにいって聞けばいいじゃん、ジャンダラリン(浜松弁)」っていうグッドなアイディアです。ここからならそんなに遠くないのでボクはそのままケーサツに向かうことにしました。
 そういえば、ケーサツには用事があったんです。用事というか質問というか、まあ日ごろ目にする、日常で起こる、普段出くわす、そんな数々の事象に対する疑問を代弁して聞いてあげるというか、何というか、そんなんです。例えば、この前やむを得ず公園で一泊することになったとき、ちょっと寒さを感じ、落ち葉を蒲団の代わりにしようと思ったんですが、誰に許可を得ればよかったのかとか、タバコの吸殻が落ちていたので、その横に灰皿を置いていってあげたら何個あっても足らないじゃないか、という悶えに似た憤りとか、どうしていつもボクの自転車のサドルは、学校から帰って来るとあんなに高くなってしまっているのかとか、とか、とかとかトカトカ。とかとかトカトカ。


 そんなことを横目でメモ帳を見ながら暗証しているうちにケーサツに着きました。なんとなく馴染みがあるんですよ、ケーサツというところには。ついこないだ免許の更新で来ていたからです。駐車する場所もすぐに分かりました。結局ドアミラーを置いたまま来ちゃいましたが、帰りに取りにいけば問題ありません。問題があるのは、きっと帰りにはドアミラーのことを覚えていないボクのうっすらとした記憶力の方です。
 駐車場から三階建ての建物の正面へ回り、薄暗い玄関をサーッと入り、受付嬢(ご婦人のケーカンでした)のところへツーッと近寄り、声をかけました。
「一方通行の走り方についてちょいとばかし聞きたいんだけど、どちらで聞けばいいのかい? マドモアゼル」
「は? 一方通行ですか? それでしたら、二階に上がって、『道路のことについて聞いてみる課』で聞いてください」受付嬢は、やさしさの中にちょっぴりハバネロちっくな侮蔑をちりばめたすてきな笑顔で答えてくれました。
「ありがとよ、おかみさん。近くに来たらまた寄るよ」のれんを右手の甲でさらりと払いながら、さっそうとその場を後にしました。


 階段を二階へ上がるとすぐ横に扉がありました。テレビドラマのセットのような、わざとらしく薄汚い扉です。ボクが廃止論を唱えている色、エメラルドグリーンを塗ってあったことが、扉のふちのほうを見ると分かります。ただ扉の表面には、ボクが廃止論を唱えている色、エメラルドグリーンはほとんど残っていませんでしたので、心の中でザマーミサラセ、このエメラルドグリーン野郎と叫びました。心の中だけでです。
(ここかな?)廊下の奥のほうには、他の扉は見えませんでしたので、ここへ入ることにして、元エメラルドグリーンの扉のノブに手をかけたとたん、ドアごと内側に強く引っ張られてしまいました。うわっ、まずい、このままだと転ぶ! 柔道の心得があるボクは(といっても大学の授業でやっただけだけですけどね)、とっさに受け身をとるためクルリと一回転です。
「とやーっ」
「ひぃーっ」
「どでっ」
「ごろん」
「ぎゃおっ」
「にゃおっ」
「ちゃおっ」
「お茶をっ」
 一瞬の間にいろいろな音が聞こえました(含む自分の声)。
「誰だお前は?」
 受け身をとった左手が床へまっすぐ伸びた姿勢で、太くてはりのある声の方を見上げると、そこには正真正銘柔道をやっていました、なんていいそうな体格のいいおじさんがこっちをにらんでいました。茶色がかった大振りなジャケットを着ています。髪の毛を短く刈り込み、その下には太くて、あと少しでつながりそうな眉毛、そして大きなお鼻とおちょぼ口を適当なバランスで配置した、遠近感がおかしく感じるくらいの大きなお顔をお持ちのおじさんでした。制服は着ていませんが、間違いなくケーサツの人です。
(おっ、おじさん、いい感じのジャケットを着ていますねえ。まさに男色系だねえ。)暖色系のまちがいです。
「何のようだ?」トゲトゲした頭の下にギラリとした目を光らせておじさんが問いかけてきました。
「すっ、すいません」(いかん、意味もなく謝ってしまった、反省、反省)と悔いる自分を他人の振りをしてやり過ごしながらボクは答えました。
「じっ、実はあのー、えっ、えーとですね、一方通行を……」
「おっ、違反者か。ならこっちへ来い」そして床に左手を伸ばした姿勢のままのボクは、そのおじさんに襟首をつかまれて窓際の席まで引っ張られてしまったのです。


 折り畳みのパイプ椅子に座らせてもらいまして、何やら取り調べのような格好になってしまいました。椅子に座って周りを見てみると結構広い部屋です。大きく三つぐらいに仕切られた部屋には十五、六人ぐらいのケーサツのひとと四、五人の普通のひと(普通のひとというのは、ケーサツじゃないひとのことです)がいました。ボクの座ったところにある机と同じ並びにも子供を連れた三十代ぐらいの主婦が座っていて、熱心にケーサツのひとと語り合っています。耳を傾けて二人の会話を聴こうとしましたが、「エーデルワイスが……」「衣につける粉はね……」「トリノに行ったら良いんじゃないか……」「トビウオが飛んでいく……」という言葉の端々が捉えられただけでした。それでも夢がある話に違いありません。世界が平和へと導かれるような話に違いありません。二人のそばでは小さな男の子が退屈そうにしていました。後ろ髪だけが微妙に長いその男の子は、右手と左手を交差させそうで交差させないという動きを延々と続けていましたが、そのうち近くの棚にあった何かのファイルを引っ張り出して、中の何かの書類を抜き出し、くしゃくしゃと散らかしはじめました。お母さんとケーサツのひとは話に夢中で気がついていないようです。くしゃくしゃとなった書類は次第に男の子のまわりに積もっていき、あっという間に男の子は頭の上の一部だけが見えているだけになりました。
(おやおやそんなに散らかして、うーん、君はまるで暴動チャイルドだね。俺っちも昔はそうだったけどね。あの頃は良かったなあ……)

「おいっ、何をそんなに遠くを見つめてんだよ。お前名前は?」おじさんにそう聞かれて我に返りました。
「いやっ、ちょっ、ちょっと待ってください」
「なんだよ?」
「ぼっ、ボクは違反者じゃあないんですよ」
「違反者じゃないんならなぜここに来たんだ?」
「いっ、いやあ、一方通行をバックで走る場合、どっちに向かったらいいのかな? じゃなくて、そもそも車はなぜバックなどするのでしょう? じゃなくて、えーと何だったっけ?」いつのまにか冷や汗タララン状態です。
「何しにきたか分からんのか?」
「いっ、いや実はボクはめっき記憶力というものが弱いんですよ。昔からなんですけど。小さいころの記憶なんてさっぱりなくて、仕方なく適当に思い出話をつくってなんとか生きてきたって言うか、ほっ、ほら、この手帳を見てください。ここに書いてある子供のころの記憶話。これみんなボクが作ったんです。すごいでしょう。クリエイティブっていうんですか、想像力が旺盛で困っちゃうっていうか……。例えば、これ、ボクが小学校のとき小さな円盤を発明したってあるでしょ。この円盤は、例えば音楽だったら、その音符を米粒に文字を書くようにすごく小さく円盤の紙に書いていくんですよ。凄く小さくですよ。シャープペンシルの芯の先をけずってそれで書くんです。なんと一曲丸ごと譜面が書けてしまうというコンパクトなディスク、略してケーディーっていうんですけど。でも本当は発明なんかしてないんですよ。全部ボクの作った記憶話なんです。すごいでしょ」ズボンの左のポッケ(ポケットのことです)から右手で赤い小さな手帳を出してそれを見せながら話しました。
「よく分からんが、どうもあやしいな、お前は。本当は何かしたんじゃないのか?」おじさんは手帳をボクから受けとって、パラパラと中を見ています。
「だっ、だから、ちっ、違いますよう。うーん。あっ、そうだ。車で一方通行の道を走っていたら、ドアミラーがポロッと落ちちゃって」
「ドアミラー? そういやあ、最近車のミラーばかり割られる事件があったような。おいっ青木、あれは場所どこやった?」
「あれは丸子備町ですよ、笠之場警部」柔道家の後ろのところで書類を見ていた若い青年が振りかえって答えました。その若い青年は、黒い縁取りのメガネをしていて、髪の毛は微妙なナチュラルウェーブをその流れに逆らうようにセットしています。青年はちゃんと制服を着ていました。
(青木というケーカンは一見なかなかの好青年だが、そう見えて実は夜中にローソクの炎を揺らさずに民謡の練習をしている感じだね。ふむふむ)
「おい、お前がいたのは、あの辺じゃねえのか?」笠之場警部と呼ばれたおじさんが聞いてきました。
「ちっ、ちがいますよ、丸子備町じゃないです、ボクがいたのは」
「誰かそれを証明できるんか?」
「そっ、そんな無理ですよう。あっ、そういえばその時近くにティナ・ターナーにそっくりのおばさんがいました! それが本当にそっくりなんですよ、ティナ・ターナーに。待てよ、ひょっとして本物かも……」(ひょっとして知らない間に日本に住んでいるのかもよ、彼女)
「誰じゃ、それ。やっぱりお前あやしいぞ。大体お前のそのドヨーンとした目つきがだな、犯罪者の目なんだよ」
「そっ、そっ、そんな殺生なっ」冷や汗タララン状態が冷や汗タリラリラン状態に変化しています。


「ところでお前は学生か?」笠之場警部が聞いてきます。
「はい、今大学五年生です。就職活動しようかなあってところでございます」丁寧風に言ってみます。
「今、どこに住んでるんだ? 一人暮らしか?」
「いえいえ、実家でございます」
「実家か。ご両親は何している?」
「はいはい、ご両親の片方、お母様は、ご健在でして、今日もきっとカレーを作って待ってくれています。もう片方の、お父様は、ご健在かどうか分かりませんです。ご不明というか行方不明というか、どこにいるのかご存知ではございません」
「そうか、それは言いにくいことを聞いてしまったかな。すまん。まあ、いい。それで、お前はドアミラーがどうかしたとか言っていたが、一体何のことだ?」
「あいあい、ボクの家から出るとすぐ細い道があるんですけど、そこでどうやらどこかにミラーをぶつけちゃったみたいで、ポロってとれちゃってですねえ。そして、それを取りに戻ろうとしたところ、リバースをバックにいれて後ろを向かずに後ろへ……」
「リバースをバック?」
「えいえい、ボクの車ってハンドルの近くにレバーがついてるじゃないですが、手で持ってグリグリと動かす棒です。それをこう、手を逆手にしながら手前に引き、下げるふりして上へ上げるとですねえ、車が後ろへ走っちゃうんですよ。すごいですよねえ。二十一世紀ですよね」
「お前さあ、本当に車乗ってるの?」
「失礼ですねえ。ほら、このキー見てください。ボクの車のキーですよ。あ、それよりこのキーホルダー見てください。ボクが作ったんです。スフィンクスに見えるでしょ。でも、違うんです、スフィンクスの形をしたマーライオンなんです。あっ、マーライオンってわかります?」ボクは、キーホルダーを笠之場警部に見せながら答えました。

 ふと机の上に目をやると、ごつごつした顔をした男の子の写真が飾ってあります。短く刈ったトゲトゲした髪。つながりそうな太い眉。大きな鼻とおちょぼ口。(これはどう見ても笠之場警部のお子さんだね)
「こっ、この子って」
「ああ、かわいいだろ。俺の息子だ。スネイクってんだ。スネくんって呼んでやってくれ」
(スネイクってみょうちくりんな名前です。どんな字なんだろうねえ。)脛に育てるで脛育だそうです。
「いっいや、大変、モンドでシュールでモダンタイムスな、結構なお名前で」
「そんなことより、免許証を見せてみろ」
「免許証? どっ、どうしてですか?」
「やましいところがないなら構わんだろ。身の潔白を証明すりゃあいいじゃねえか」
「そっ、そうですか、じゃあ見せます、見せます」ズボンの右ポッケ(ポケットのことです)に左手を入れたところで大変なことに気づきました。
(この免許証は見せちゃやばいのです)
「すっ、すいません。免許証忘れました」右ポッケに入れた左手をそっと元の位置に戻しながら嘘をつきました。ボクは嘘つきなんです。嘘つきなんです、っていう嘘をいかにも嘘っぽく言えるくらいの嘘つきなんです。
(とにかくこの免許証だけは誰にも見せられません。とてつもなくやばいのです)
「おい、お前、車に乗ってきたんだろ、じゃあ免許不携帯だな」笠之場警部が、するどい指摘を口にしました。
「いっ、いや、ちっ、ちっ、違うんです。免許は持ってるんですが、ちょっ、ちょっとこれだけは……」
 本当にこの免許証だけはやばいのです。


 去年の夏、免許の更新に行く前に、ボサボサに伸びた髪をちゃんとしてから写真を撮ってもらおうとおしゃれ美容院に行きました。髪は大学での研究のために三年間くらい切ることができなかったのですが、この前やっと研究が終わったので切っても問題ではなくなっていました。研究というのは、髪が伸びれば下着がいらなくなるのでは、という研究です。髪は伸びるにつれ、アンダーシャツになり、ブリーフになり、うまくいけばソックスにもなるでしょう。もちろん編み込むことが必要です。いかに切らずに編み込むことでそれらの代わりになるかを考えるのです。そういう研究です。しかし結局下着は白じゃなきゃという結論に至り、日本人は黒髪でなくてはならぬ、というボクのこだわりのために黒髪を脱色することもできずに研究は頓挫し、そのままなんとなく終了しました。
 おしゃれ美容院は初めて行くところでした。新聞の折り込みチラシで知ったその美容院のスタッフは三つ子のオバチャン三人(結局何人?)でした。よく見るとよく似ているその三人(結局三人)に勧められていすに座りました。
「パーマネントをあててください。ちょっと染めたりもしてください」実は、そのときが、はじめてのパーマネントでした。パーマネントルーキーです。
「あいよっ、どんな感じにするんだい?」おしゃれ美容院のオバチャン(たぶん末っ子)が聞いてきました。
「近頃巷で大流行の、ヒップでホップでホットプレートな感じでお願いします。チェケラッチョ」一応雑誌の切り抜きも見せました(誰の写真かは秘密です)。
「あーこんな感じね」オバチャン(たぶん末っ子)は馴れた手つきで作業を開始しました。モシャモシャ、クルリン。モチョモチョ、クルリンチョ。他の二人のオバチャンも慣れた手つきで作業を遂行しています。モシャモシャ、クルリン。モチョモチョ、クルリンチョ。
 期待と不安状態で時間が流れました。途中眠くなりウツラウツラもしました。写真も見せたのだからきっとすてきなパーマネントライフが訪れるはずです。パーマネントビリーバーです。しかし、しかしです。出来上がったボクの髪型は、ただのオバチャンパーマネントだったのです。色はパープルです。そう、近所に必ずいる、髪は紫、顔は真っ白、唇は真っ赤、シャツはキンキラキン、パンツはスパッツ、へんてこな甘辛い匂いのオバチャンそのものなのです。頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が頭が、頭頭あたまーっ。あまりのショックにあいていた口がふさがっちゃいました。壁には、出来上がったボクの髪型と同じ三つ子のモデルがパネルの中で、こちらを向いて微笑んでいました。呆然としたままおしゃれ美容院を出たボクはふらふらと街をさまよい歩き、気がつくとケーサツの前にいました。
(あっそうだ、免許の更新しなきゃ)
 そうです、そうなんです。そんなわけで免許証の写真はとんでもないことになっています。記憶力の乏しいボクでも、この写真のことは忘れるはずがありません。夢に現れたこともあります。そのときは親戚のオバチャンとしての登場でしたが。とにかく別人だと思いたい。髪がパープルになっているだけでなく、なぜかお化粧して顔が真っ白になっている免許証の自分。こんなもの他人に見せられる訳がありません。ビデオレンタルの会員になるときは、似顔絵を描いて免許証の写真の上に貼り、難を逃れました。でも、今回は似顔絵を用意していません。


「うっ、うわーっ、やだーっ、これだけはーっ」頭の中が真っ白になったボクは、座っていたパイプイスを倒し、その場から逃げだしました。子供の散らかした書類を踏みつけ、扉へと向かいます。
「おいっ、待て!」笠之場警部が叫びます。ボクはすでに階段を転げ落ちるように下り、外へ向かっています。外に出たところで振りかえると、青木という名の若いケーカンがすごい勢いで追いかけてきていました。その後ろには笠之場警部の姿も見えます。書類が宙に舞い、ゆっくりと落ちてきています。
(こいつはほんまにやばいでー。おかあちゃんに怒られるでー)
 体のあちこちからアドレナリンが溢れ出しています。
(うーん。アドレナリン、あなどれん)だじゃれだ。
 ここでかけていたサングラスを放り投げ、スパートをかけました。あっという間に玄関を抜け、ケーサツの外へ出ました。
「まてーっ!」青木というケーカンの声が聞こえます。どうやら笠之場警部はもうついてきてないようです。ケーサツの前の大通りを横切ったあとは、できるだけ細い道をクネクネと走りました。逃げるのはどうやら得意なようです。父の影響でしょうか。そんな気がします。分かれ道に出くわすたび、より細いほうの道を選んで逃げるようにしました。若干体がほっそりしてきました。ダイエットにもオススメです。それでもしつこく青木というケーカンはついてきています。
「止まれーっ!」
(誰が止まれるかってんだ、このオタンコナスのトーヘンボクのスットコドッコイのコモドドラゴン!)
「止まれーっ! とまらんと撃つぞー!」
(何をおっしゃるウサギさん。走り出したら止まらないぜ、土曜の夜の堕天使サー♪)
「本当に撃つぞー!」
 カチッ。その音に振りかえったボクは、体が凍りついてしまいました。青木という名のケーカンは拳銃をこちらに向けて構えているではないですか。拳銃を持つ手はブルブルブルリンと震えています。
「ちょ、ちょ、ちょっと、待っ」
 バキューン!
 とっさに体を反らして弾を避けました。キアヌというよりジェット・リーです。
 バキューン!
 しかし、次に発射された弾はよけきれず、心臓に命中してしまいました。
 ぐにょしゃっ。
 今まで聞いたことがない音がしました。お湯を沸かしていたやかんがコンロから落ちて、思わず足を出したところ、上手いことやかんの口に足の親指がはまり、落とさずに済んだと思ったのもつかの間、やかんの口から熱気を感じ、やばい、やけどをすると思い足を振ってやかんをはずそうとして体をひねった際に後ろに倒れそうになってしまい、ふんばろうとしてやかんのはまった足の方を床について親指がありえない方向によじれ曲がったときの音といえば分かりやすいでしょうか。とにかくそんな音でした。
「うっ」
(おとさま、おかさま、先立つ不幸を許してね)
 体が風で舞う木の葉のようにクルクル、クルクルと回っています。
(回転が止まったら、逆に回って目が回らないようにしなくては。右回り、右回り……)
 なんだか意識が薄れてきたようです。今までの様々な思い出がグルグル、グルグルと頭の中を駆け巡ります。中学校の入学祝で、ステレオという名のAMラジオを買ってもらったこと。高校の入学祝で、ギターという名の竹ぼうきを買ってもらったこと。大学の入学のときは、一人暮らしという名の屋外退去を命じられそうになったこと。いろいろなことが思い出されました。思い出せないことは、いつも持ち歩いている日記を読むことで補いました。
「あれ、こういうの、何って言うんだっけ? 今までのことが次から次へと浮かんでくるやつだよね、これって。えーと、………」
 ばたっ。
 ブシューッ。(空気の抜ける音です)


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 トントン。トントン。
「はっ」
 誰かに頭をたたかれ目が覚めました。意識朦朧タリラリランランラン状態です。
「うーん」
 目を開けたのですが、何が自分の眼球の裏に写っているのか一向にわかりません。しかし、どうやら助かったようです。何が見えているのかさっぱりわからなかったのは、ボクが道に寝転んでいたからでした。頭の上のほうに目をやるとおじさんがこっちを見つめています。おじさんはボクが起きたのを確認すると、にやりと笑って行ってしまいました。
(あれっ? 確か心臓を撃たれたはずじゃあ……)
 生暖かさを自分の胸に感じ、手を持っていきました。ゆるゆるとした感触を受けたその手をそのまま胸のポッケへ移動して中へ入れると、ぐしゃぐしゃにつぶれたゆで玉子があるのがわかりました。
(そうだ、朝、卵をゆでてポッケに入れといたんだった。良かった、ゆでておいて。これが生卵だったら一巻の終わりだったよね。ありがとう、キン肉マン……)
 それにしても、体が思うように動きません。何とか起き上がろうとしますが、手に力が入りません。ただ、プルプルプルプル、プルプルプルプル、震えるだけです。地面についた手を見ると、打ち所が悪かったのか、真っ赤になっています。
(おまけにこんなシワシワになってさ、チェッ)
 とりあえず起きなくては、と思い体を起こそうとしました。プルプルプルプル、プルプルプルプル、プルプルプルプル、プルプルプルプル、生まれたての迷える子ヒツジちゃんの様ですが、なんとか立ち上がれそうです。
(イテテテテッ)
 なんとか立ち上がることはできたのですが、腰が真っ直ぐに伸びません。いつも持ち歩いている分度器で腰の角度を測ろうと思いましたが、やめておきました。自分の視界には地面の白っぽいグレー色しか見えないからです。きっとかなりの角度で腰が曲がっているに違いありません。こういうところは冷静なんです。分度器はよっぽどのシチュエーションでしか使うべきではありません。プルリン、プルリン体は相変わらず震えていますが、何とか歩き出しました。
(ところでここはどこなんだろうね?)さっぱり見たことがない場所です。


 へんてこりんな建物? や、みょーちくりんな自動車? の様なものしか見当たりません。どの建物も窓やドアのようなものが見当たりませんし、自動車は、縛って食べやすくした糸こんにゃくのようなタイヤを履いています。しかし、なにより問題なのは、それらの色です。エメラルドグリーン。ボクが日ごろから廃止論を唱えているその色が、建物にも自動車にも使われているのです。
「ここは、何だ! 燃やしてやる、燃やしてやる」物騒なことを思わず口にしましたが、本当は火が怖いボクは、そんなことするつもりはありません。それぐらい、エメラルドグリーンという色が許せないだけです。
「ちくしょう、このエメラルドグリーン野朗たち、覚えてろよ!」誰に何を覚えていてほしいのか分かりません。
「燃やしてやる、燃やしてやる」そう口にしながら、燃え上がる炎をイメージしてすっかり怖くなり、盛り上がった激情もどこかへ行って道の端に停めてあったクルマに体をあずけながら、ぼんやりと街を眺めました。
(ほんとここはどこなんだろう?)
 第一、こんな街なのに人がぜんぜん歩いていません。もう三十分ぐらい歩いてきましたが、誰とも会っていません。本当に静かです。なんだか笑えてきました。エヘヘヘ。沈黙に耐えられない人っているでしょ、ボクなんです、それ。エヘヘヘヘヘ。エレベーターなんか乗ったら困りもんです。エヘヘヘ。みんなどうして平気なんでしょうね。エレベーター乗るときは息を止めて笑わないようにしています。高層ビルのエレベーターに乗るときは酸素ボンベを持っていくこともあります。とにかくエレベーターの沈黙ほど危険なものはありません。
 なぜだか、さっきから笛や太鼓の音が頭の中で鳴ってきました。こうなるとなかなか治まりません。ドンドン、ドンガラガッタ、ドドンガドン。ドンドンヒャララ、ドンヒャララ、ワッショイ、ワッショイ、お祭りだーっ! ちなみに踊りはパラパラです。エヘヘヘヘヘ。

 踊りをやめてもう一度腰を上げ、二十分ぐらい歩くと、ようやく前から人が歩いてきました。かなり変わった格好をした若者です。頭には小さな円盤みたいなものをつけ、その円盤がクルクル回っています。耳にはイヤフォーンのようなものが詰まっています。体が少し透けている透明なシャツを着ていて、そのシャツからは細いチューブがあちこちへ出ていました。プラスチックのようなスカートをはいているのですが、歩きにくくないのでしょうかねえ? そんなことより声をかけなくては。
「すっ、すいません」
「12563?」
「わっ、わたし、道に迷ってしまって」
「12563、462?」
 何を言っているのかさっぱり分かりません。どうやらどこか別の国に来てしまっているようです。
(眠っている間に連れてこられたんでしょうかしらん?)
(ケーサツのひとの仕業でしょうかしらん?)
(知らない間に島流しの刑にでもなったんでしょうかしらん?)カシラン、カシラン。
「あっ、ごっ、ごめんなさい。わたしは日本という国から来ました。ドウユウノ、サムライ、ゲーシャ、オスモウ、アカフク? えっ、えーと、こっ、ここはどこでしょう? ホエアああ?」
「3398715263、ハッハッハッハッ」
 突然笑い出したその若者は片手をあげるとすごい勢いで走り去っていきました。(どっ、どうしたんだろう? なんかおかしなこと言ったかなあ? でも足も動かさずになんて速く歩けるんだろう、すごいね君は)感心している間に若者は見えなくなってしまったので、ふたたび歩き出すことにしました。


 更に二十分ぐらい歩くと、前から別の人が歩いてきました。今度はオバチャンです。犬を連れています。ひょっとしたら、さっきの若者のお母さんかもしれません。服装がそっくりだからです。頭には例の円盤もついています。犬の頭にも円盤がありました。(流行ってやつですかねえ、この円盤は。ひょっとして装着するだけで頭の回転が良くなり、頭脳明晰、金運上昇、恋愛成就の通販グッズかもよ。今なら腹痛も微妙に治る、『磁気腹巻き』も付きます。しかもお値段そのまま)これは電話をかけなくちゃいけませんね。そんなことより声をかけなくちゃいけません。
「すっ、すいません」
「12563?」おばちゃんが答えます。
「1!」犬が吠えます。
「わっ、わたし、日本というジャッパンから来ました。こーこーはーどーこーのー国ーでーすーかー?」
「562、55874963。ハッハッハッハッ。」
「1!」犬が吠えます。
 パシッ。オバチャンは大きな手で、ボクの背中を叩くと、そのまますごい勢いで走り去っていきました。さっきの若者と同じです、足が動いていません。犬の足は動いていました。感心している間にオバチャンも見えなくなってしまいました。
(ここの国の人はなんて足の早い人たちばかりなんだろう。みんなジョン・ベンソンみたいだね。)ベン・ジョンソンです。古すぎ。


 それからあてどもなく街をさまよい、何人かの人に会ったのですが、結果は同じ。
「ドウユウノ、コウユウノ?」
「33987」
「ギブミーフリスク。ギブミーフリスク」
「55874」
「ギブミーアイポッド。ギブミーシャッフル」
「123、123、123」
 さっぱり分かりません。中学校のときに、いつもお酒を飲んでよっぱらった体で発音自慢をなさってらっしゃった英語の先生から習ったボクの英語も通じないような、とんでもない所に来てしまったんでしょう。茫然を自失した状態のまま、体もプルプル相変わらず震えたまま、腰もかなりの角度を保ったまま、ひとりふらふらプルプル歩き続けました。

 しばらく歩いていくと、あることに気づきました。あることではなく、ないことです。看板がないのです。建物の上とか、交差点の角とか、そういうところにあるはずの看板がどこにもないのです。広告の看板だけでなく、お店の名前を教えてくれる看板も見当たりません。なんとなくお店っぽい建物はあるのですが、看板はなく、窓ガラスも透明ではないので中が見えません。つい憤ってみます。
「これでは、何屋さんか分からないじゃないか。もし、本屋さんと思って入ったら、古本屋だったらどうするんだ、君は。もし、喫茶店と思って入ったら、茶店だったらそうするんだ、君は。もし、ペットショップだと思って入ったら、サファリパークだったらどうするんだ、君は」君は、君は、って誰に言っているのか、不明です。
(看板があったら、どこの国かわかるのになあ。七カ国語ぐらい喋れちゃうような勢いが今のボクにはあるんだよ)
 そう思いながら、歩いていると十メートルほど前にある建物に人が入って行くのが見えました。ちらりと中が見えたのですが、なにかのお店のようでした。すぐ近づき店の前に立ちましたが、中は見えません。入り口らしきものも窓らしきものもありません。そのただの壁に顔を近づけていたところ、すぐ横の壁が突然開き、人が出てきました。何もまったく見えなかった壁に突然現れたドアから、突然人が出てきたのです。さっきの人とは違います。
「ラッキーチャーンス! イエーン!」思わず小声で囁き、お店の中へ入りました。
 そこは、パン屋さんでした。壁際の棚に、様々な種類のパンが並んでいます。パンを焼いた香ばしい香りやクリームの甘い香り、フルーツのフルーティな香りが店中に充満しています。棚の前には先ほど入っていった人がいました。しばらく何も食べていないことを思い出すと急におなかが空いてきました。先ほど入った人をまねてトレイとパンをつまむ道具を手に取り、棚の前に行きました。どれにしようかな、と棚を見ると、何のパンか、そしていくらなのかを示すカードのようなものがどこにもありません。これでは、何パンか分かりません。パンの形から想像がつきそうですが、もしつぶあんパンと思って買ったら、こしあんパンだったらと考えると、不安になります。
「あのう……」声をかけようとしましたが、言葉が通じないことを思い出し、口をつぐみました。さっき入った人は、すでに三つほどパンを選んでトレイに載せていました。トレイを持った方の手首には時計のような物をしていて、時計のすぐ上の空中には青い光の筋が見えました。棚に並んでいるパンに近づくとその光の筋が変わっているように見えます。
(あれで、何パンか分かるみたいだなあ。いいなあ)
 少し近づいて腕時計のようなものに顔を近づけたところ、青い光が急に赤い光に変わり、点滅しました。気づくとさっきの人がボクの顔を見て警戒した表情をしていました。
「あ、美味しそうなパンですねえ。さあ、ボクは何にしようかなあ。あんぱん、ジャムパン。クリームパン。あんぱん、ジャムパン、クリームパン。バルサミコパンもいいかなあ。ガラムマサラパンもいいかなあ」適当にごまかして、その人から離れました。
 離れる途中で、ここが知らない国だということを思い出し、そしてお金の種類も違うであろうことに思い至りました。ボクは円(イエーン!)しか持っていません。しかも今確認した所、三十円(サンジュウのイエーン!)」しか持っていません。パンは諦めてお店を出ることにしました。
「ああ、おなか空いたなあ。お母さん、今日もきっとカレーだよね。いつも文句言っちゃうけど、おいしいんだよ、お母さんのカレーは。でもね、ほぼ週七日カレーだとね。自分がインド人かと思い込んじゃうんだよ。あれ、ひょっとしてここはインドか? いや、カレーは家に帰らないと食べれないんだ。だからここはインドではない。ああ、お母さんのカレーが懐かしい。今日はとてもカレーが食べたいよ」いつの間にか独り言も堂々と口にするようになっています。おなかが空いているせいでしょう。どうでしょう。
「お母さんってさあ、どうしてカレーしか作ってくれないの? そう言えば聞いたことなかったよねえ。なんでだろうねえ。あれ、ひょっとしてお母さんはインド人か? いや、カレーはちゃんとスプーンで食べてたはず。だから、インド人ではない。ああ、お母さんのカレーがなつかしい。レトルトパックを温めただけのカレーが懐かしい」手抜きお母さんのレトルトカレー。そこに母の愛情はあるのか。きっとある。だっていつもゆで玉子がついてたから。
 独り言はなおも続きます。
「お母さんは、お父さんがいなくなってから元気になったなあ。でも、ボクは分かってるよう。それは、寂しさの裏返し。それは、悲しさの紛らわし。だからボクはレトルトカレーが大好きさあ。お母さんのカレーが大好きさあ。ちょっぴり塩辛いのが涙のせいだって知ってるよう」いつのまにか切ないJポップ風の歌になっています。なってますか?


 もうどれだけ歩いたか分からなくなっていました。もうどうすれがいいか分からなくなっていました。ところが、大きな桜のような木が植えてある交差点を曲がったところで頭を上げると、そこには見たことのある建物があったのです。
「ケーサツだ……」
 一方通行について聞きに行って結局逃げ出した、あのケーサツなのです。
「こっ、ここは日本だったんだ! バンザーイ! でもあんな建物あったっけ?」近づいていくと、見覚えのあるケーサツの建物のすぐとなりに覚えのないピカピカ光った建物があるのです。しかもエメラルドグリーン。
「燃やしてやる、燃やして、む。むーん?」
(うーん、あんなのあったっけ? でも、こっちの建物はケーサツに間違いないと思うんだけど……)
「あっあっ!」
 そのピカピカ光った建物の前まで来たとき、今度こそ見間違うはずの無い人物がその建物から出てきました。その建物は入り口が閉まると入り口自体が見えなくなりました。マジックです。目くらましの子供だましです。
「かっ、笠之場警部!」
 取調べを受けた、あの警部です。思わず走り出していました。大きく手を振って走っていくと、周りの景色はストップモーションのように流れていきます。木々の間からこぼれる太陽の日差しがキラキラと輝いて、星屑のようです。小鳥たちも囀り、二人の再会を祝福しているかのようです。知らない間に一筋の涙が頬をつたっています。知らない間に一筋の鼻水が鼻の下をつたっています。知らない間に一筋のよだれが……、きたないのでこの辺でやめましょう。


「かっ、笠之場警部!」やっとのことで警部の前までたどり着きました。警部と目が合います。
「33356?」
「あれ、警部も頭に円盤つけてる」ボクが円盤を指差したのを見て、警部は腕の時計(パン屋さんにいた人がしていたのと同じようなものです)のボタンを押しました。
「あんた、誰?」警部は普通の言葉で話してくれました。
「やっ、やだなあ、日本語喋れるんじゃないですか、もう。ボクですよ、ボク。ほら、一方通行のことで議論を戦わせた、ほら、ねえ?」
「一方通行? 知らんなあ。それにしても汚い格好だねえ、あんた。ちょっとこっち来て」
 腕を引っ張られ、笠之場警部がさっき出てきた建物へと連れていかれました。入り口は近づくと突然音も立てず目の前に現れ、入るとすぐに音も立てず消えてしまいました。その建物の中はどこに照明があるのか分かりませんがとても明るくて眩しいくらいでした。入ってすぐのところで透明な丸い椅子に座らされました。椅子の中は何やら機械がピカピカ光っています。正面には笠之場警部が座り、その横では女性のケーカンが小さなキーボードのようなものを叩いています。カチカチカチカチ、ブラインドタッチャー。その後ろでは、もう一人の女性のケーカンが時計のようなものを手に持って何かを計っています。カチカチカチカチ、ストップウォッチャー。よく分かりません。ボクの横には薄汚いおじいちゃんが同じように座っています。
(かわいそうにおじいちゃんも捕まったのかい? でも元気出しなよ)
 にっこり微笑みかけるとおじいちゃんも微笑み返しです。


「で、どうしてあんた私の名前を知ってるの?」笠之場警部が聞いてきました。
「だっ、だって、だってだって、だってだってなんだもん」
 車のドアミラーが落ちてから今までに起きたことをできるだけ詳しく話しました。この小説が本になって手元にあったら見せるだけで済んだんですけどね。それは裏技です。
「ということは、道に倒れていたところを起こされたわけだね。うーん、なんか怪しいねえ。起こされたときいた、そのおじさんの顔は覚えてるの?」
「えっ、えーと、だっ、誰かに似てたんだけど……。そうだ、チャールズ・ブロンソンだ! チャールズ・ブロンソンにそっくりなおじさんでした! って、待てよ、待てよ、ひょっとして本物かも……」
(ひょっとして知らない間に日本にすんでいるのかもよ、チャーリー浜。)名前変わっています。しかも相変わらず古いです。
「知らんねえ、そんな人。第一私はあんたのこと全然知らないんだけど」
「そっ、そんなあ、かっ、笠之場警部ですよね?」
「そうだけど、私は警部じゃないよ」
「でも青木っていうケーカンは警部って」
「青木? 青木っていう人も私は知らないんだけどねえ」
「うっ、うそだあ、そっ、そんなはずは……」言葉を失ったままで、笠之場警部の顔をまじまじと見つめました。つながりそうな太い眉。大きな鼻とおちょぼ口。(なっ、なんか違う? まっ、まさか)
「かっ、笠之場さん、ひょっ、ひょっとして、おっ、おっ、お名前は?」
「私か? 脛育だけど」
「すっ、すねくんーっ!」
 何ということでしょう。ここで全てが理解できました。撃たれ倒れてうん十年、眠っている間に時が流れ流れていたのでした。
(一人ぼっちで何十年もあの場所で眠っていたの? そんなことって……)

「うっ、うわーっ、やだーっ、そんなのってーっ」叫びながら椅子から転げ落ちました。横を見るとおじいちゃんも……。
「ぎゃーっ!」
 横に座っていると思っていたおじいちゃんは、鏡のような壁に映った自分自身の年老いた姿だったのです。
「ぎゃおーんっ!」怪獣のような雄たけびを上げて、ボクはその場から逃げ出しました。
「おいっ、待て!」すねくんが叫びます。
「ぱおーんっ!」ふらふらと玄関へと向かいます。ドアがあったはずのところへ行きましたが、入り口は現れません。
「きっと呪文を唱えるんだ。えーと、そうだ確か、あれだ。天然ポメラニアーン!」何が確かか分かりませんが、その呪文が効いたらしく音も立てず入り口が現れました。
 体は相変わらずプルプル震えたままでしたが、入り口から出る途中でその揺れを利用しながら前へ進む方法をあみ出して、外へ出ました。すねくんは、ズボンのすそが絡まったようで、もたついています。その横をさきほど小さなキーボードのようなものを叩いていた女性のケーカンが通り抜けるのが見えました。ボクはあと少しでケーサツの敷地の外へ出れそうなところまで進んでいます。
「83283、2652252001! 87695824!」女性のケーカンが入り口のところから声を発しました。
「何言っているのかさっぱり分かりませーん。ぱきーんっ」後ろを振りかえって大きな声を上げた瞬間、背筋がまっすぐになりました。軟骨の一部がスライドして、ギアが一段上がったかのように、体が加速していきます。これなら速く進むことができそうです。体は相変わらずプルプル震えたままでしたが。
 ケーサツの前の広い道に出て大きな桜のような木の横を通り過ぎ、わき道に入りました。やっぱり逃げるのは得意なようです。父の影響に違いありません。父は、ボクが小学生のとき、豚の形をした陶器の貯金箱に入っていたボクの三百六十四円を、こっそり貯金箱の中から出して廊下の床に置き、「あっこんなところにお金が落ちているよ。なんてラッキーなんだ」と言って持っていこうとしたところを母に見つかり、「ドロボー親父!」とののしられ、家から逃げ出し、そのまま帰ってきませんでした。今もどこかを逃げ回っているのかもしれません。分かれ道に出くわすと、より広いほうの道を選んで逃げるようにしました。細い方の道へ行けばダイエットに成功することは分かっていましたが、逆に広い方へ行くことで自分が大きくなれるのでは、と考えたからです。体も大きくなって逃げやすくなり(歩幅が広がるはずだから)、ついでに人間としての器も大きくなるんじゃないか、と考えながら道を選んで逃げました。
 しかし、実際は広い道に出るたび、自分のちっぽけさに気づかされることになり、どんどん落ち込んできてしまいました。
「どうせ俺なんて虫けらさ。誰かに親指と薬指でつぶされておしまいなのさ」
 虫けらの「けら」って何だろうと考えだしたところ、再びお父さんのことを思い出しました。お父さんごめんなさい、三百六十四円なんてちっぽけなことをいつまでも根にもって今まで生きてきてしまって。角をまがるたび、ひょっとしてお父さんに出会うんじゃないかと淡い期待を寄せながら、謝る心積もりだけはしっかり準備して、頭を低く下げて進みました。でも、自分が老人になっているということは、もうお父さんはこの世にいないのかもしれません。家を出た後、どうやって過ごしていたのでしょうか、お父さん。ボクの三百六十四円は、何に使ってしまったのでしょうか、お父さん。


 ときどき後ろを振りかえって、追っ手(もちろんケーサツの人です)が来ていないか確認しますが、それらしき人はいません。気になるのは、ボクの頭の上、数メートルの所に小さな丸い物体が浮いていることです。クルクルと回りながら、時々ピカッと光ります。手の届かないところにいるその物体は、まるで誰かに僕の居所を知らせているようです。でも、今、この僕を探している人なんかいるのでしょうか。青春時代を道路で寝たまますごし、大人の自覚を感じることもなく、年老いてしまった今の自分を気にしている人がいるのでしょうか。でもどこかで誰かがボクを必要としているのかも、とその相手を勝手にかわいい女の子にして、ニヤニヤしていましたが、その女の子の顔が、おしゃれ美容院のオバチャン(たぶん末っ子)の顔に変わり、次に笠之場警部の顔に変わり、その後息子のスネ君の顔に変わり(ほぼ一緒の顔です)、ああ、ボクは今ケーサツに追われてるんだった、きっとあの物体は、ケーサツにボクの居場所を教えてるんだ、と気づき、進めていた足を止めました。
 そもそもボクは、なぜ逃げているのでしょうか? そんな疑問が現れます。でも、その疑問に答えるよりも先に、あの物体から逃げなくては、というあせるような気持ちがボクの中にわき上がっています。とりあえず、気持ちの問題から、と思い、道路に手をつき、そしてそのまま身体を道路に横たえました。自分の手のシワに目が行き、あらためて年が流れていたことを実感します。涙が出そうです。いけない、気持ちの問題から、と思ったばかりじゃないかと、自分は地面すれすれを舞う砂ぼこりだと自分自身に言い聞かせます。ボクは砂ぼこり、風に吹かれてサラサラと流れていく砂ぼこり。ボクのことは気にしなくていいですよ、と空にある物体に伝わるように念じます。しばらく砂ぼこりを演じた後、今度は風に流されるコンビニのビニール袋だと、自分に言い聞かせ、少し移動してみました。ボクはコンビニのビニール袋、ちゃんとリサイクルしてくださいよ、と思いながら、捨てた人に対する不満を表すように動いてみます。でも、空に浮いた物体は、ボクの動きに合わせて、ついてきてしまいます。


 このままでは、ダメだな、と寝転んだまま前の方を見ると、通りの向こうに大きな木が集まっている所が見えました。そこで今度は、乾燥した草の丸い塊(西部劇で転がってくるやつです)のつもりで、前転を繰り返しながら、その場所へと近づきました。前転は、以前、地球の自転に逆らって生きていた頃に、何度もしていたので身体がおぼえていました。ただし、気持ちの問題として、どこまで乾燥した草のように枯れた感じが出せるかに注意しました。近づいてみると木が集まっている場所は公園でした。公園の中に入ると、中央には小さな池があり、柵を挟んで大きな木が並んでいました。池に近づき中をのぞくと、池の中には、水はなく、キラキラ光るセロファンの様なものが敷き詰めてあります。逃げてきたあの建物の中にあったピカピカ光る椅子を思い出しました。池に水がないのは、エコってものでしょうか? それともこの時代には、水は枯渇してしまっているのでしょうか? 
 池の横を過ぎると、二つ並んだブランコのような遊具の横に、丸く囲われた砂場がありました。わーい。砂場だ、砂場。ボクは砂場が好きなんです。砂場にはとてもいい思い出があるのです。小さい頃(子供の頃です)、誰もいない砂場を掘っていたら、小さな陶器のかけらが出てきて、そのあとそのかけらがちょうどはまる大きな壷が出てきました。その壷には、人間のような、動物のような絵が描いてありました。家に帰ってお父さんに見せたところ、どうやら大昔の土器だということになり、専門家を呼んで調べてもらうと、今まで日本では見つかったことのない時代のものだということが判明し、その砂場は大々的に発掘調査され、ピラミッド形の古墳が見つかり、スフィンクス形の土偶が見つかり、西ヨーロッパ系の人の骨が見つかり、日本の歴史が見直されることになったのです。その古墳にはボクの名前がつけられました。スフィンクス形の土偶キーホルダーを親戚一同で作って一儲けしました。ただし、ボクのオリジナリティを出して、デザイン的にはスフィンクス形のマーライオンキーホルダーということにしておきました。そんな思い出です。そんないい思い出です。でも、お父さんは、日本史の教科書を作っている先生たちから大変な嫌がらせを受けたようなことがあったようです。今思えば、ボクがその先生たちのプライドを傷つけてしまったのでしょう。
 そんなことを思い出しているうちに、ボクは知らぬ間に砂場に入り、手で砂をほじくり返していました。
「子供の頃はよかったなああ。日本の歴史をひも解いてええ」
「子供の頃はよかったなああ。土偶のキーホルダーで一儲けええ」当時作詞作曲した曲を思い出し、思わず口ずさんでいました。意外と良いメロディです。でも、当時すでに子供の頃を振り返っちゃってます。
 手で砂場の砂をほじくり返すスピードはどんどん加速し、いつの間にか身体の半分くらいは、砂に埋もれています。その時です。急に周りの砂が動きだし、身体がズルズルと砂場の中に吸い込まれていったのです。
「子供の頃はよかったなああ。砂場に吸い込まれてズルズルルうう」
 新しい歌詞が浮かんだ瞬間、スポッという音とともにボクは砂場の砂の中に取り込まれてしまったのでした。
 スポポポポッ。
 ドサッ。

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ポップンルージュ

2013年6月16日 発行 初版

著  者:窪井まさひろ
発  行:カラピー出版

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カラピー

元雑貨屋カラードピープルの店長です。 今は、会社で企画や映像の仕事、趣味で小説や童話を書いたり、フリーペーパーを作ったりしています。 だれか私の小説に絵を描いてほしい。

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