夕陽に向かって飛んでいく鳥を見ていた。何の鳥なのかは全然わからなかったけど。あんなふうに、群になって飛べたら楽しいんだろうなあ。
オレンジ色に染まった空の下、子どもたちが遊んでいる声を聞きながら河原の草が柔らかい場所、緩やかな坂道に寝転がるのが俺の日課だった。学ランが汚れる、と母ちゃんはぶつぶつ言うけど、こればっかりは何でかやめられない。高校に入って帰宅部一本の、何の趣味もない男の唯一の楽しみ。何が楽しいかと聞かれても困るけれど、単純にここにいるのが好きなんだからしょうがない。
「はー、そろそろ帰るかあ」
誰も聞いちゃいないとわかっているけど、うーんと伸びをしながら欠伸混じりにぼやく。なんてことのない、いつも通りの日が終わっていく。ああ、平和だ。
ふと視界にいつもとは違う景色が目に入った気がした。河を挟んで、歩行者用の細い橋の上。ちょうど橋の真ん中あたりに黒い影が見える。
珍しいな、あんなとこに立ち止まる人がいるなんて。
橋の手すりは高さ五十センチメートルほどの低いもので、簡単に乗り越えられる。影はどうも手すりぎりぎりに立っているらしい。夕日をバックにしていてよく見えない。
髪も長いし、女だな。制服っぽいけど、うちの学校じゃなさそうだな。
俺の通う高校は大したレベルではない、というか底辺に近い。そのせいか、女子はほとんどがミニスカート。見たくもないやつのパンチラを拝まされては非難されるという、とんでもない環境だ。
まあとにかく、そいつのスカートは膝丈よりも長く見えたってこと。そんな長いスカート履いてる女子なんて、学校じゃ見たことがない。
その女は少しずつ橋の際に近づいて行った。やべえ、あれ、飛び込むつもりじゃないのか。
大人しい系の女子が、ギャル系の女子から標的にされ、クラス中からいじめられるのを苦にして飛び込み自殺…。
そんな想像がリアルに感じられた。そう考えるとほぼ同時に俺は橋に向かって走り出していた。
「なあ、ちょっと待てよ」
久しぶりに走ったもんだから息も絶え絶え。掠れた声になっていることが自分でもわかるほどだった。
後ろからの突然の声に、その女はびくっと肩を震わせて振り向いた。少し大人びた、どこか冷たい感じのする顔だった。眉間に皺を寄せて、訝しげに俺のことをじっと見ている。
「そんな早まんなくてもさ、きっとあんたのこと好きなやつは現れるって。いじめてくる奴らなんて、相手にしててもさ…」
「はあ…」
ますますわからないという顔をする女。自分でも何を言ってるんだかわからなくなってきて、「あー」とか「うー」とか意味のない単語(とも言えないような声)が漏れるばかりだった。やばい、俺今、完全に変な人だ。
「だからさ、俺は、いじめなんかで死んだらもったいないって、そう言いたかったんだよ」
とにもかくにも言いたいことを吐き出してすっきりした。女は相変わらずぽかんとした顔をしている。しばしの沈黙。なんだこれは。居たたまれない。思わず俯いてしまった俺に、申し訳なさそうな声が降ってくる。
「あの、心配してくれてありがとう。でもね、私、飛び降りるつもりなんて全くないの」
へ、と見上げた先には困ったような笑い顔。思っていたよりも可愛いかもしれない。
「ええと、とりあえず、死なないんだよな?」
「はい。死にません」
よかったー、と言いつつ橋の上にへばり込む。なんだよ、本気で心配しちまったじゃねえか。かっこ悪い以外の何者でもない。
「飛び降りるつもりはないけど、飛びたい、かな」
河の方を向いて、長い髪を風に遊ばせながら女は言う。その背中はやっぱり今にも飛んでいきそうで、なんとも落ち着かない。
「でもさ、そんなとこ立ってたら危ないじゃん。なんでそんな落ちそうなとこにいんの」
「だってほら、このぎりぎり端っこに立ってたら、この手すりなんて見えないでしょ」
楽しそうな笑顔に引っ張られるように、俺も女の隣に立ってみる。赤く染まった河。子どもたちはそろそろ帰るようだ。遠くに見えるマンションも、河原の向こうの瓦屋根の家も、みんなみんなオレンジ色に染まっている。
「ずっと前を見ているとね、手すりも、足の先の地面も見えないから、私は浮いてるんじゃないかって、そう思えるんだよね」
足は固いコンクリートの上にしっかりと着いているのに、おかしなことを言うやつだ。俺の想像力が乏しいのか、この女の頭が電波なのか。
「まあ、とにかくお前が飛び降りないなら良かったよ」
俺のお気に入りの場所が自殺の名所なんかになってたまるもんか。ここは落ち着くためにあるんだ。死ぬための場所じゃない。
「あはは、ありがとう。でもこんな素敵なオレンジ色になら、沈んじゃってもいいかな」
「怖いこと言うなよ」
飛びたいとか沈みたいとかよくわからない、名前も知らない女はさよなら、と一言残して去っていった。
「飛びたい、か」
橋の際に立って、もう一度河を、空を見る。また鳥たちが群になって飛んできた。お前等はいいな、気楽に集団の中で生きていける。
飛びたいと言ったあいつの気持ちが少しわかるような気がした。子どもたちは皆家に帰ってしまったのか、水の流れる音ばかりが風に乗ってくる。今日はもう少し、ここにいよう。夕陽の断末魔を見届けるまでは。
記憶の彼方に置いてきた、思い出が頭の中で蘇る。とっくの昔に忘れたはずなのに、それらをいつの間にか思い出していた。遠い昔の、私がまだ十代だった頃の記憶。その時間を確かに生きていたはずなのに、その証拠は卒業アルバムと何枚かの写真にしか残っていなかった。
気づいたときには夜行バスに乗っていた。空席のある女性専用の夜行バスに飛び乗った。発車時、カーテンを開けないよう注意されたが隣に誰もいなかったので半分だけ開け、夜に沈んだ街を眺めた。オレンジ色の街灯の明かりが、次々と流れていく。暗くのっぺりとした高層ビルが夜行バスを見下ろしていた。ひとり、東京の夜を下から眺める。東京は想像以上に冷たくて、広かった。地元だと街灯のかわりに星が輝いていたのを思い出した。
東京の大学に進学することになって、上京した。家具付きの家を借りたため、持っていくものは大好きな本数十冊と、何日分かの着替えと、お気に入りの靴と、卒業アルバムなど、細々したものだった。
上京する日、いつもより豪華な食事とお母さんが作るオムライスをおなかがはち切れそうなほど食べた。二つ下の妹と久しぶりに一緒にお風呂に入って、語り合った。東京行ったらジャニーズみたいな彼氏作ってな、と妹は目を輝かせていた。憧れの都会、なんでもそろう東京。妹はそんな街をおとぎ話に出てくるシンデレラ城のように語っていた。
風呂から上がりリビングに行くと、父さんが珍しく缶ビールを飲んでいた。フローリングのリビングの片隅に設置されたテレビで野球中継を見ながら、お母さんが気に入って父さんに内緒で買ったソファに座り、ビールを飲んでいる。母さんは対面式キッチンで洗い物をしていた。リビングの入り口はそんな父さんの背中側にある。昔は細くて筋肉もあったのに、今ではお腹から背中まで筋肉が脂肪に変わりつつあった。でも、そんな父さんはお酒を飲むことはなかった。家では絶対だった。
冷蔵庫から牛乳を取出し、マグカップに注ぐとレンジで温める。チン、と鳴るのとテレビでホームランが出たのは同時だった。牛乳に張られた薄い膜をそのままにして、ココアの粉を多めに入れてスプーンでかき混ぜる。ホットココアを持って、私は父さんの隣に座った。
父さんの顔は、赤くなっていなかった。ソファの前にあるローテーブルには、テレビ欄が広げられた新聞紙と缶ビールが一つ置かれている。テレビ画面に夢中になっている父さんの手には缶ビールが一つ握られていた。でも、蓋は空いていなかった。ホットココアを作っているうちに、二本目に突入したのだろうか。
「もう、行くんか」
選手がまたホームランを打って客席が盛り上がっているのに、父さんはそう言った。実際、出発まで時間はまだある。これを飲み終わって忘れ物がないか確認して、猫のミシェルとお別れしてお母さんと妹と、父さんにハグをして出る予定だ。
「まだ行かんよ」
一口ココアを飲むと、ちょうどいい温度と甘みが口の中に広がる。父さんはそんな私を見て缶ビールのプルタブに指をかけた。ぷしゅ、と炭酸が外に飛び出す音が聞こえた。
「正月とか、お盆休みとかは帰ってきいや」
父さんは缶ビールをぐいっと飲んだ。私もまたココアに口をつけた。
目を開けると、バスはまだ走っていた。休憩所までまだまだ先のようだった。カーテンを開けると高速道路の灰色の防音壁が流れていた。
あの日、父さんがビールを飲んでいた理由はなんとなくわかっていた。私が東京に上京することが決まってから、冷蔵庫に入っているのは知っていた。未成年だというのに祝い酒でもしたかったのだろう。でも、父さんは私がいつも風呂上りにホットココアを飲むことを知っていたから、あんな風になったんだと思う。
突然帰ったらびっくりするかな。お正月には必ず帰っていたけど、今は三月の終わり。大学を無事卒業した私は東京で就職して三年が経っていた。
地元から東京へ上京するときも夜行バスを使った。地元から電車に乗って夜行バスが発車するところへ行き、乗った。そのときも暗くのっぺりとしたビルが私を見下ろしていた。
東京はどんなところだろう、と頭で考えながらうとうとしていると、携帯電話のバイブレーションが鳴った。見てみると、ミキオからの電話だった。バスの中だったが隣に人がいなかったので電話に出た。
「ハル」
電話に出ると、名前を呼ばれた。ミキオの声だった。
ミキオとは高校で出会った。高校二年生のときに同じクラスになって、出席番号が前後だったせいか、座席も前後だった。フィールドワークのとき同じ班になって、会話をたくさんした。この人だったら一緒にいて楽しいかも、と思っているときミキオから告白された。高校二年生の冬だった。
「ハル、今、どこにおるん」
ミキオの声は焦っていた。
「……もう、東京行ったんか」
ミキオには上京する日を伝えていなかった。
高校三年生になり、大学受験が近くなるとミキオとあまり話をしなくなった。お互い塾で忙しくて、進学校だった私たちの学校は休憩時間も勉強する人がほとんどだった。私はあまり勉強しなかったけど、ミキオはそうじゃなかった。放課後になっても一緒に帰ることがなくなった。そんなある日、一緒に帰ることになり私が東京の大学から推薦をもらったことを伝えると、
「何でなにも言わんかったん」
と言って、ミキオはひとり帰ってしまった。それ以降、連絡は取っていなかった。
「今、夜行バスの中やから、あんま電話できひん」
「そ、そうなんか」
ミキオの顔が悲しむのが想像できた。何度か見てきたミキオの表情が思い出される。楽しそうに遊んだゲーセン、真っ先に涙を流しながら見た映画、ケンカしたたこ焼きの具材。そんなミキオと過ごす日々ははじめてばかりで、とても楽しかった。
「もう切っていい、電話」
「ちょっと、待って」
ミキオの言葉のあとは、何も続かなかった。携帯電話の電子音だけが聞こえる。息を詰めるような音が聞こえた。生唾を飲む音も一緒に聞こえた。
「忘れへんから、ハルのこと」
そう言って、ミキオは電話を切った。
それからミキオから連絡はなかった。自然消滅してしまったんだ、私たちの恋は。そう思いながら大学生活を過ごした。恋も何度かした。就職も無事でき、順風満帆の人生だと思っていた。
社会人になって三回目の春を迎えようとしていたとき、電話がかかってきた。
ミキオからだった。
「ハル」
ミキオの声は昔より少し低くなっていた。
またあの夜行バスの中の出来事を思い出す。思い出されていくミキオと過ごした時間。重ねた思い出。記憶の彼方に置いてきたはずのものたちが、蘇っていく。名前を呼ばれただけでここまで思い出が出てくるとは思っていなかった。それだけミキオと過ごした時間が楽しかったのだろうか。急に、ミキオに会いたくなった。
「ミキオ、まだ、そっちにおるん」
久しぶりに地元の言葉を使った。
「おお、おるで」
ミキオの声は明るかった。
「つまんない」と言って彼女は飛び下りていった。僕には何がつまんないのかという疑問だけが残り、彼女への感情は何一つ残っていなかった。屋上で感じる風は地上でのそれより冷たく、僕の肌に突き刺さった。
彼女が好きだったかどうかはよく分からない。葬儀で彼女の母親が泣いているのを見ても僕は泣けなかった。ただ僕は彼女の「つまんない」の意味と、涙も浮かべず本当に「つまんない」という顔で死んでいった理由を漠然と考えながら上る線香の煙を眺めていた。
初めて彼女を抱いた夜も、彼女は「つまんない」と言った。確かに僕は初めてで、どうすればいいのか分からず、ただ本能のまま彼女の身体を求めたのだが、どうやらそういうことではないらしかった。彼女はため息をついて、ベッドに腰かけて煙草を吸った。僕はシーツにくるまって、天井を眺めていた。そして彼女は「つまんない」と吐いたのだった。
無趣味な彼女はいつでもつまらなさそうであった。僕はよく彼女の「つまらない」に遭遇していた。僕はその彼女の不思議さに惹かれていた時期は確かにあった。彼女は暇つぶし程度で了承したのかもしれないが、僕はそれで良かった。彼女が火葬される鉄の扉へ消えていっても、僕の中にはまだあの疑問が悶々としているだけであった。すすり泣く声が聞こえて振り向くと、そこには彼女の親族しかいなかった。彼女が骨になるまでの間、僕は誰とも話せなかった。吸えない煙草を吸ってむせた。彼女はこんなものを吸っていたのかと思うと、ああ、つまんないな、とうっすら思った。
彼女が還ってきて驚いた。そこに彼女の骨は欠片の一つもなかったのだった。彼女の母親はその場で崩れ落ちた。小さな灰の山だけがそこに残っていた。僕はその灰を手ですくい、さらさらと落とした。
ああ、つまんなかったのは、彼女自身だった。
星の無い夜 街を歩いて
こんなに遠くにいる二人の影 ひとつになる
目を閉じたら すぐ隣に温もりの亡霊
それからすこし 夜への願掛け
どうかこのまま二人
融け合わせたままで
光の届かない 時の井戸の底
二人が寄り添える場所
眩しすぎる光では 照らされる心の底
交わることのない二人の時
闇のなかでだけ生きられる深海魚
ただはやく はやくと夜の訪れを待つ
はっきりした影が溶け出して
どこまでもどこまでも広がって
やがて世界がひとつになって
僕は影になった
君も影になった
涙がただ溢れた
星の無い夜 君を探して
どんなに遠くても響く声……耳を澄ます
今夜すこしだけ君に逢いにゆこう
交わる影から抜け出して
目の眩むような光をふたりで待つために
これが最後の 夜への願掛け
どうかこれから照らされる心
ほんのすこし支えて
ただ、それだけを
2013年2月5日 発行 2月号 初版
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