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座談会「インターネット・リアリティとは?」

インターネット・リアリティ研究会

インターネット・リアリティ研究会+ICC



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目次

インターネット・リアリティ研究会とは


座談会「インターネット・リアリティとは?」
プロフィール


はじめに

01|インターネットは他人とはもう共有できない
02|GIFとJPEGどっちが硬い?
——Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉
03|ネットが特殊なものではなくなった現在におけるネット展のありかた
04|既存のサーヴィスにスクウォッティングして新しい使い方を提示する
05|《祈》と《YouTube》
——ウェブ・サーヴィス固有のパーツをマテリアルとして扱う
06|でかいウェブ・サーヴィスは大自然っぽい?
07|過去の出来事やその記録を現在に重ねあわせる
08|リアリティとはなにか
——〈私〉が死んでも世界が存在しつづける確からしさ
09|インターネットにおける人称——「1」に見出される自分
10|APIに直に触る感じ——live camera stitching、《twitter骰子一擲》
11|サーヴィスごとのリアリティ/インフラ化するウェブ・サーヴィス
12|「ゴットは、存在する。」——サーヴィスのもっている力を利用する
13|インターネット空間ならではの歩き回りかた
14|インターネットという制度/制約にアプローチする
15|インターネットでできること/インターネットそのもの
16|インターネットそのものによって変わる美意識/コンピュータの身体性
17|ネットのスピード感に対峙する
——「なるべく手間をかけない」というスタイル
18|今後の展開

脚注

インターネット・リアリティ研究会とは

インターネット・リアリティ研究会は、エキソニモ(千房けん輔、赤岩やえ)、思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)、栗田洋介を中心に、2011年7月に開催された座談会「インターネット・リアリティとは?」をきっかけに発足しました。

わたしたちは現在、常時インターネットにアクセスできる/している状態で生活しています。そこでは、さまざまなサーヴィスを介して自分の行動や好きなものなどをネットで公開し、友人や家族、はては国籍や国境を越えた見ず知らずの人たちが今どこで何をしているのかという行動や状況を、ネットを通じて想像することができます。このような、インターネットそのものが日常を映すメディアとしてわたしたちの意識に浸透した状況において、わたしたちが感じるリアリティもまた変容しているのではないでしょうか。

そのような問題意識を元にした座談会を経て、その後展覧会「[インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ」を企画、展覧会会期中もさまざまなゲストを交えた座談会によって議論を深めていきました。インターネット・リアリティ研究会は、このICCのホームページ内を研究会の主な発表の場として、展覧会以降も継続して活動を行ないます。これから順次、座談会の採録やさまざまなテキスト、また映像の記録などを公開していきます。

座談会「インターネット・リアリティとは?」

1991年8月6日、世界最初のウェブサイト(http://info.cern.ch/)が設立されました。それからちょうど20年が経とうとする現在、インターネットはわたしたちにとって、ごくあたりまえの存在となっています。誰かとコミュニケーションをとったり、調べものをしたり、自分の創作物を発表したり、さらにそれを批評しあったり……そこには、ネットならではの作法やリアリティが存在しているように感じられます。日々わたしたちがネットに接しているなかで、ネット特有の〈リアリティ〉を認識するようになっている、とすれば、それはどういうことなのでしょうか? この座談会では、出演者それぞれがネットに感じる「インターネット・リアリティ」ともいうべき〈リアリティ〉とは何か、なぜそう感じるのか、を探ります。

日時:2011年7月24日(日)午後6時
出演:千房けん輔(エキソニモ)
   思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)
   栗田洋介(CBCNET)
   youpy
   畠中実(ICC)

エキソニモ
撮影:赤岩やえ
思い出横丁情報科学芸術アカデミー
栗田洋介

プロフィール

撮影:赤岩やえ

エキソニモ
怒りと笑いとテキストエディタを駆使し、さまざまなメディアにハッキングの感覚で挑むアートユニット。千房けん輔と赤岩やえにより1996年結成。デジタルとアナログ、 ネットワーク世界と実世界を柔軟に横断しながら、テクノロジーとユーザーの関係性を露にし、デジタル・メディアが現代社会へ与えるインパクトについて、 ユーモアのある切り口と新しい視点で作品に反映させる実験的なプロジェクトを数多く手がける。2006年《The Road Movie》がアルス・エレクトロニカ ネット・ヴィジョン部門でゴールデン・ニカ賞を受賞。
http://exonemo.com/

千房けん輔
アートユニット、エキソニモ(http://exonemo.com/)メンバー。株式会社nuuo(ヌーオ http://nuuo.jp/)共同設立者。エキソニモでは赤岩やえと共にWeb上の実験的アート・プロジェクト、インスタレーション、イヴェント・プロデュース、ライヴ・パフォーマンスなどを行ない、国内外の展覧会、イヴェントに多数参加。2011年より林智彦と株式会社nuuoを立ち上げ、広告や生活シーンにおける新しいWebのあり方を模索している。「IS Parade」で第14回文化庁メディア芸術祭エンターテイメント部門大賞受賞。

思い出横丁情報科学芸術アカデミー(谷口暁彦+渡邉朋也)
谷口暁彦と渡邉朋也によって結成。新宿・思い出横丁を活動拠点とし、メディア・アートという芸術表現について思索と実践を行なう。現在CBCNETにて「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」を連載中。
http://oamas.org/

谷口暁彦
1983年生まれ。インスタレーション、パフォーマンス、ネットアート、彫刻、映像作品などを制作する。主な展覧会に「ダングリング・メディア」(「オープン・スペース 2007」内「エマージェンシーズ!004」、ICC、2007)、「Space of Imperception」(Radiator Festival、イギリス、2009)、「redundant web」(インターネット上、2010)など。処女小説『四月の続き』が第二回京急蒲田処女小説文藝大賞にて大賞受賞。
http://twitter.com/hikohiko

渡邉朋也
1984年生まれ。コンピュータやテレビジョンといったメディア技術をベースに、自作のソフトウェアを用い、パフォーマンス、インスタレーション、映像作 品などを制作する。主な展覧会に「セントラルイースト東京(CET)」(東京・馬喰横山周辺、2007-09)、「scopic measure #07」(山口情報芸術センター[YCAM]、2008)、「redundant web」(インターネット上、2010)など。処女小説『中洲(川の)』が第二回京急蒲田処女小説文藝大賞にて優秀賞受賞。
http://bit.ly/watanabetomoya

栗田洋介
1981年生まれ。GRANDBASE inc.代表。ウェブ・デザイン、グラフィック・デザイン、CI/VI計画などのデザイン制作全般を中心にデザイン・ポータルサイト「CBCNET」やデ ザイン・カンファレンス「APMT」の企画・運営を行なう。その他にもデザイン・プロジェクトのディレクションやアーティストのコーディネーションなども 広く手がける。
http://www.cbc-net.com/
http://www.grandbase.jp/

youpy

畠中実
ICC主任学芸員。

はじめに

01|インターネットは他人とはもう共有できない

畠中:今日は「インターネット・リアリティとは?」と題しまして、座談会をお届けします。まさにこのタイトルにあるような、インターネットにおけるリアリティとはいったいなんなのか、それがどういうふうに生じているのか……というようなことを、今日集まっていただいている方々、それぞれの体験や経験をふまえまして、いろいろお話をいただきつつ、考えていこうというわけです。
 まず最初に、「インターネット・リアリティ」っていう言葉が出た経緯についてですが、栗田さんが今年の4月末に企画・開催されたイヴェントがきっかけなんですよね。
栗田:今年の4月に主催した「APMT6」というカンファレンス(http://www.apmt.jp/)のなかで「インターネット・リアリティ」というテーマのセッションがありまして、三組の方々にプレゼンテーションをしていただいたんですが、そのうちの一組がエキソニモでした。
畠中:そこで「インターネット・リアリティ」という言葉がでてきたんですね。その言葉について、エキソニモのおふたりはちょっと思うところあった、という感じだったわけですね。
千房:そうですね。
畠中:実はICCでは毎年ウェブ企画というものをやっています。これまでにもメタバースやTwitterというテーマでやってきたのですが、今年度はエキソニモのおふたりを中心に、いわばキュレーター的な立場になっていただいて、ウェブ企画を立ち上げようとしている。今年のテーマが「インターネット・リアリティ」になるかどうかは現時点では未定ですが、そのなかで間違いなく中心的なテーマになるであろう「インターネット・リアリティ」というものを今日、この場ではとりあげて、まず今年度のウェブ企画の始まりとしたいというわけです。この座談会で話されたことは、今後ウェブに発表されていくことになります。そこからまた議論を重ねていって、展覧会として、年度の後半に、ウェブ展として立ち上げられるといいなと思っています。
 ではまず栗田さんに、「インターネット・リアリティ」という言葉を作られたというか、取り上げられた意図や、その4月のイヴェントを開催された経緯などをお話しいただいたあと、それぞれのインターネット・リアリティ観みたいなものを発表していただけたらいいかな、と。そのなかで都度、意見の交換をしていきたいと思います。

栗田:自分はCBCNET(http://www.cbc-net.com/)というポータルサイトを2002年からやっていまして、個人的に昨年「インターネットを探しにいこう」というテーマで何回かプレゼンをしたんですが、そのことを少し話したいと思います。
 僕が学生のときに考えたのは、〈ウェブ〉と〈モノ〉と〈場所〉という三つのメディアを作ることでした。ウェブは、すぐに誰かに伝わって、物理的な距離は関係ないけれど、物体としては実体がない。モノは実体があって、物理的に残って、時間を超えて残る。場所は——みんなで集まってイヴェントをやるというような意味なんですが——実体があるけれど、時間や場所に制限がある。これらのメディアを絡めてなんかできないかな……ということで、CBCNETっていうウェブを作って、場所としてAPMTっていうイヴェントをやって、モノもなんか作ったりできたらいいな……と考えて、スタートしました。
 この三つの関係性が、SNSなどが普及してからけっこう変わったなあと思っていて。それまで、テレビは家で見るもの、映画は映画館で観るもの……というように固定されていたものがどんどん崩れ落ちていって、コンテンツと、それを橋渡しするツールと、それを見るデヴァイスという関係に変化したのかな、というのが去年ぐらい。そのあいだに「インターネットがいっぱいある」みたいな感覚があって。それがいわゆるWeb 2.0と呼ばれているものの始まりだったのかなぁと。
 さらにiPhoneが出てきたことによって、インターネットを常に携帯できるようになった。iPhoneが発売されてからまだ5年も経っていませんが[*1]、急速に僕らの日々接する情報が変化していると感じます。
千房:2009年ぐらいに、TwitterとiPhoneが同じようなタイミングでバーッと一般に普及した気がする。
栗田:そうですね。さきほどのコンテンツ/ソフトウェアの話をTwitterに例えると、あるつぶやき(=コンテンツ)を、Twitterクライアント(=ソフトウェア)を通して、パソコンとかiPhone(=ハードウェア)で見る。この方法はみんな違うし、見ているタイムラインも人によって違う。なにを見ているかわからないし、なにを見られているかもわからない。自分の見ているインターネットが、唯一のインターネットになっている。ウェブサイトしかインターネットがなかったときは、そのブラウザ内がインターネットだったけど、そうじゃなくなっている。
 そうなると、よく言われるように、コンテクストが欠如したり、抜け落ちたりする。あとコンテクストをリミックスするのが普通の行為になってくる。そういったことが、アートやいろんな分野で表現として汲み上げられてるんだろうなあと、去年ぐらいから感じていました。
 「コンテンツはコントロールできないから、もうどんどん出してくしかない」みたいなところが、最近の表現には感じられます。みんなが、すべてがインターネットにつながっていて、個人は、自分だけのインターネットを通じてそのコンテンツを受け取り、それにリアリティを感じている。「僕が見てるインターネットは他人とはもう共有できないなあ」という感じです。そんなことを考えるなかで、「インターネット・リアリティ」という言葉が出てきたんだと思います。このテーマを決めたのは去年の12月ぐらいです。
 APMT6を開催したのは4月30日で、このイヴェントは、デザイン関係の人とか、アート関係の人とか、いろんな分野の方たちに出てもらうのが特徴です。紙などの印刷物のデザインをやっている人からメディア・アーティストの方まで、いろいろ出てもらっています。「インターネット・リアリティ」というテーマのセッションに出ていただいたのは、エキソニモと、Semitransparent Designと、江渡浩一郎さん。それで、今回の話に展開した、という。
千房:そうですね。「インターネット・リアリティ」ってテーマを見たときに、僕らが活動してきたなかで感じていることと、近いような感じがして。それでちょっと気になって。
畠中:それから、インターネットを使った表現で今後どういったものがキーになってくかということを、考えられたっていうことですよね。
千房:そうですね。
畠中:それがどういうものだったのかっていうのを、じゃあ……
千房:じゃあ僕の、やりますか。

02|GIFとJPEGどっちが硬い?
——Webの質感と〈インターネット・リアリティ〉

千房:エキソニモは、僕、千房けん輔と、赤岩やえの二人でやってるアート・ユニットです。1996年にウェブで活動を開始して、そのあとインスタレーションとか、ライヴ・イヴェントとか、イヴェントの運営をやったりしてきました。で、15年やってるんですよね、実は。もう15年になっちゃうんですよ。けっこう活動歴は長くて(笑)。ウェブが最初に流行り始めたっていうか、一般化した頃からやってるので、作品作ったりしているときにお互いに話すことのなかで、例えば「GIFとJPEGどっちが硬い?」というようなことが出たりするんですよ。これはAPMTでもプレゼンで出して、会場の人にどっちが硬いか聞いたんですけど。
渡邉:そのときは、思いのほか僅差で、大した差は出なかった印象があります。
千房:うん、若干GIFが多いかな? っていうくらい。どういうことかというと、GIFとJPEGって画像の形式じゃないですか。画像の形式に硬さなんかないわけですよ、本当は。でも、「どっちが硬いか?」って聞かれたら、確実にGIFのほうが硬いって言えるっていう、そういう感覚があって。
畠中:それはどうしてですか?
栗田:ふつうに、「うん」ってうなずける感覚があるんです。
谷口:うなずける感じですよね。
畠中:えっ本当(笑)?
渡邉:いや、本当ですよ。「わかるわかる」って。
栗田:最初に聞いたときに、「ああそれ、全然GIFです」って。
youpy:JPEGはぬめっとしてる……感じがします。
畠中:ほう、なるほどねえ。
千房:そうなんですよ(笑)。そういうことが、もう言えるようになってきてる気がしていて。あとたとえば、「Flashの角に頭をぶつけて死ねるか?」みたいなことを話したりもしていて(笑)。たとえば、昔ウェブでインタラクティヴなものを作るときには、FlashかJava Appletか、他にもShockwaveとかが選択肢としてあったんですけど、そのなかでJava Appletの角は、触ると切れそうな感じがするんですよ。すごく危ない感じがして。そのJava Appletの危うさというか、けっこう不安定なところが、うちの作品のテイストと合うという理由で、Java Appletという技術を選ぶということをやっていて。
 で、これは、Webの質感なんじゃないか? って思ったんですね。とはいっても、15年活動してきて自分たちはそういう質感みたいなものを感じる一方で、そういった作品のマテリアルを表に出すことは、あまりできないなと思っていました。でも最近、だんだんそれができるようになってきているように感じています。
 例えば、2009年に始めた《SUPERNATURAL》という作品では、そういうものが前面に出てきているような気がしています。どんな作品かというと、まず“超能力”でスプーンを半分に割って、その片方をある場所に置き、もう片方はギャラリーのスペースに置いて、その両方をウェブ中継する。そしてそのウェブ中継上で、壊れたスプーンをピタッと修復する……というものです。展覧会の会場に入ってきた人は、投影された映像を見るんですが、それ以外にギミックやインタラクションはなくて、ただ目の前に、でかいスプーンが修復されている。
 このときにUstreamを使ったんですけど、Ustreamを使うと、わざわざ説明しなくても生中継だってわかってもらえる。たとえば、これをYouTubeでやったらまったく意味が変わっちゃうんですよ。それはいったいなんだろう? ということを考えたときに、Ustreamがもっているシステムとか、他にも「以前見たことがある」という個人の経験が、作品に質感を与えている。あと、最近のウェブ・サーヴィスのコミュニティ——そこにどんな人たちがいるのか、というようなこと——が質感として現われてくるということがあるんじゃないか、と思いました。
 そのときにAPMTの「インターネット・リアリティ」という言葉が出てきた。僕らはプレゼンで「Webの質感」と言ったんですけど、それはたぶん、インターネット・リアリティのサブセット……つまり、インターネット・リアリティは、「Webの質感」の上位概念なんじゃないか。ネットにしか存在しないリアリティ、というか。Webに存在するコミュニティやソーシャル・ネットワーク、またはインフラ的なものに、質感やリアリティのようなものがあるというようなことって、いままで言われてないような気がするんですね。だから、それを一回、ちゃんと追究してみるのは、すごくいいんじゃないかと思いました。
 そんなときに、ICCが節電のため一時休館するという状況が発生した。
(一同笑)
千房:それを聞いたときに、「じゃあネット展をやればいいじゃん」と思ったんですね。場所が節電で開けられない、だったらネット上でやればいいじゃんって思って。そこで畠中さんに「ネット展やったらいいんじゃないですか」と話をしたら、ちょうど思い出横丁もそういう提案をしていたらしくて。それで、じゃあ、誘って一緒にやったら、おもしろいんじゃないか。そういうふうに考えたんですね。

《SUPERNATURAL》
(「みえないちから」展示風景)
撮影:木奥恵三

03|ネットが特殊なものではなくなった現在におけるネット展のありかた

千房:ただ、いままでネット展みたいなことは経験があるんですが、なんかものたりなくて。なんていうんですかね、実際の展示には絶対勝てないというか(苦笑)、なんか足りない感じがするんですよ。でも、いま「インターネット・リアリティ」というものがあって、みんながネットにリアリティがあると言えるんだったら、その上でやれば普通の展示に勝てるということが起きるかもしれないな、と思って。それを考えたいんですよね。
 いままでのネット展って、普通の展示の劣化コピーみたいな状態が多いような気がします。形式も、グループ展だったらいろんなアーティストを集めてきて、ウェブページが展示会場のような見せ方をするじゃないですか。もしかして、そのやりかたに限界があるのかなと思って。いまはTwitterとかをはじめ、みんながネットにずっとつながっているような状態なので、じゃあその状況のなかで、ふだんの生活のなかにいきなり入ってくるとか、継続的にずーっとなにかやっているとか、そういうことをつなげてネット展みたいなことができるんじゃないか。それを最終的には実現したいなと思っています。
畠中:これにも、実は……まあそんな長くもないけど、長い(笑)歴史があるような気がします。2009年度のウェブ企画で「ICC メタバース・プロジェクト」をやったとき、エキソニモに《ゴットは、存在する。》(http://www.ntticc.or.jp/Archive/2009/Openspace2009/GotExists/index_j.html)を展示していただきました。「メタバースを使って作品を作る」というのが前提だったんですが、企画段階初期に(関係者から)出てきたのは、やはり「ヴァーチュアル・ミュージアム」的な(笑)発想でした。
 さっき「劣化コピー」とありましたが、たしかに、実際の展覧会の代わりをウェブ上に作っても、しょうがないという意見もあります。「メタバース・プロジェクト」では最初に「メタバース研究会」として座談会やインタヴューをやったんですが、そのときすでにいわゆるセカンドライフ的な、代替現実みたいな話はほとんど出てきませんでした。それがよかったかどうかは、わかりませんが。
 「リアル」と「ネット」というものを考えたときに、リアルの反映としてネットがある、みたいな捉え方がありましたが、一方で——メタバース(・プロジェクト)のときだったかな、うろ覚えなんですが——「サイバースペース」とはいっても、実際にそこに空間があるわけではない。さっき物理的な場所がないという話がありましたけど、まさに物理的な空間はないわけですよね。そこに振れ幅がある。
 いままでのお話は、現実のリアルとは別に、ウェブのリアルっていうものも、実際にあるはずだということですよね。GIFとJPEGというのはいい例えだと思うんですが、たとえば絵を描く人が画材として絵具を選ぶのと同じように、コンピュータでものを作るときにも自分が表現するものに応じて(技術やサーヴィスなどを)素材として使い分けられるようになってきたという状況があるわけですよね。
千房:そうですね。たとえばアート作品を作るとしたら、素材ってすごく重要じゃないですか。たとえば彫刻作るとしたら、木で作るのか、鉄で作るのか、それとも石で作るのか……って、めちゃくちゃ重要ですよね。同じように、どのウェブ・サーヴィスとか、どういう技術を使うかっていうことが、すごく重要だと思う。でもそういうの、ネット上の作品ではそんなに意識されてないような感じがする。ただ「ネット使えば新しい」みたいな。でもそういうのは、もう成り立たないと思う。もうすでにネットは特殊なものじゃないし、全然普通になっちゃってるから。だから、「インターネット・リアリティ」とは言ってますけど、最終的にはネットワークの部分が消失して、ただの「リアリティ」になる——ネット・アートがただの「アート」になるというか、そういうことなんじゃないかなと思ってます。
畠中:さきほどの栗田さんのお話で、ウェブの特徴として、非・場所、非・物質みたいな話がありましたが、でも実際は〈場所〉も当然あるし、物質じゃないけど、マテリアルとしての質感もあるという話ですよね。
栗田:はい。それが15年でけっこう、バーって変わってきたのかなぁって。
千房:あとさっきの、ネット上にあるふだんのリアルみたいなものを、そのまま作品に展示するという話では、例えばyoupyとかは、いつもやってるじゃないですか、そういうなんか……ネット上で(笑)。
(一同笑)
youpy:ああ
千房:いつもなんか、やってるじゃない。ヘンなことを…ヘンなことっていうとアレだけど(笑)
youpy:発言とかね
(一同笑)
千房:発言じゃなくて(笑)、なんかいろいろ、あの……場所、位置情報を騙したりとか。
youpy:はい
千房:あと、Flickrに画像上げるとか。そういうのって、たとえば展覧会でやってるわけじゃなくて、ネットの中にしみこんで、ずーっと続いてるという感じ。そういうのを切り取って、「これアートだよ」と言って、ちゃんと批評するとか、そういうのをやったほうが絶対面白くなるような気がして。……そういうのができたらいいですよね。
渡邉&栗田:そうですね。
渡邉:じゃあ、次いきましょうか
畠中:じゃあ、渡邉さんから。

04|既存のサーヴィスにスクウォッティングして新しい使い方を提示する

渡邉:渡邉です。栗田さんが主宰されているCBCNETというウェブ・マガジン上で、隣にいる谷口くんと一緒に「たにぐち・わたなべの思い出横丁情報科学芸術アカデミー」(http://www.cbc-net.com/dots/taniguchi_watanabe/)という、メディア・アートの制作にまつわる連載をやっております。最近はもっぱら司会業が目立っているので、連載のことをご存じない方も多いかもしれません。まずは簡単に、僕個人の日頃の営みのようなものをご紹介したうえで、さきほどの千房さんのお話につなげられればと思います。
 まず、今日(2011年7月24日)くしくもテレビの地上波アナログ放送が終わってしまいましたけど、学生時代の2005年ごろは《IAMTVTUNERINTERFACE》[*2]というテレビ放送を素材に使った作品を作っていました。
畠中:そうか、まさに今日やるべきだったね。
千房:これどういう作品なんですか?
渡邉:これは、放送中の地上波テレビの映像や音声をリアルタイムにサンプリングして、それをもとに構造体のようなものを構築していく、というインスタレーション作品です。構築にあたっては2ちゃんねるの実況板の状況を計測したデータなどを使用しています。インターフェイスにはテレビのリモコンをそのまま使っているので、いちおうインタラクティヴな作品だと思っています。僕は昔からテレビの猥雑な感じだったり、こちらの意志とは関係なく情報がねじ込まれる感じが大好きで、ずっとテレビの映像をマッシュアップしたりしながら映像を作る、といったようなことをしていました。でも、みなさんも感じられているように、いつしかテレビがすごくつまらなくなってしまって、あんまりこういうことやる情熱みたいなのが、なくなってきた(苦笑)。
千房:これテレビがおもしろいからやってたの(笑)?
渡邉:そうですよ! もちろん(笑)!
千房:テレビが面白くないからやってたんじゃないの?
(一同爆笑)
渡邉:そんなわけで、去年くらいからインターネットを使った作品を作るようになってきました。
畠中:というかまさに、インターネット展覧会をやってたんじゃない。
渡邉:はい、それが「redundant web」(http://redundant-web.net/)です。谷口くんのキュレーションのもと、僕を含めた九人の作家が集まり、インターネットを使った小さな作品を作って、それを展示していました。公式ウェブサイトがいまではもう見る影もなくなっていますが(笑)、もともとはちゃんとしていたんです。
(一同爆笑)
渡邉:いま、こんなありさまになっているのは、今年の年始に谷口くんの発案で、展覧会の参加者全員で「福袋.zip」という、作品になりきらなかった断片とかコードとかを寄せ集めたZIPファイルを公開していたからです。1GBくらいのファイルサイズがあったので、公開してすぐレンタルサーバーの転送量制限にひっかかって、BANされてしまいましたが……。
千房:なんかZIPがもっているパッケージ感みたいな……それも、こっちから勝手に言わせてもらえば、ウェブの質感……。
(一同笑)
渡邉:そうですね、どっちかっていうと「デスクトップ・リアリティ」的なんですけど、Mac OS X上のZIPファイル(のアイコン)って、律儀にジッパーがついているじゃないですか。ああいう感じが、「福袋」のもつパッケージ感と結びついているというのはあると思います。
 それで、その「redunant web」展で発表したのが《UNIQLO_(SUPER)GRID》(2010)[*03]という作品です。これはその名のとおり、中村勇吾さんらが所属するtha ltd.が制作したUNIQLOのキャンペーンサイト「UNIQLO GRID」を利用した作品です。元ネタになっている「UNIQLO_GRID」というのは、そこにアクセスしている不特定多数のユーザーでUNIQLOのロゴをいじったりするサイトで、《UNIQLO_(SUPER)GRID》では、このサイトにBotのようなものを走らせています。簡単に説明すると、この作品用のTwitterアカウントがありまして、参加者がそれに向けてつぶやきを投稿すると、そのつぶやきの内容が「UNIQLO GRID」上にひたすら書かれていくというものです。「しまむら」とつぶやけば、UNIQLOのキャンペーンサイトに「しまむら」と書かれるという。

 これを作った当時に考えていたのは、お客さんが参加するタイプのキャンペーンサイトがウェブ上を席巻してますよね。それこそ千房さんが手がけられた「IS Parade」[*4]も、それに近いのかなと思います。で、さきほどサイバースペースという話が出ましたが、そういったユーザー参加型のキャンペーンサイトというのは、大規模な公共空間のような側面があると思うんです。そこに対してグラフィティを書くといったら大げさですが、スクウォッティングして、本来の用途ではない使い方をしてみたい、そういうコミットのしかたがありうるのではないだろうか、ということを考えていました。
 あとは「UNIQLO GRID」には、そのサイトを楽しむために一定のルールみたいなのがあるわけですよね。たとえば、フィールド上にマウスで円を描くと、UNIQLOのロゴが現われたり、ロゴを横切るようにマウスをドラッグすると、ロゴが分割されたり……といったことです。そうしたルールが、「UNIQLO GRID」でできあがるコンテンツの性質を決定づけているわけですが、Botを使って無理矢理ルールを追加することによって、そこで生まれるコンテンツの性質や方向性を変えることができるんじゃないか、ということも考えていました。
もうひとつインターネットを使った作品を紹介させてください。最近、《somehow camera》(2011)[*5]というiPhone用のカメラアプリを作りました。これは、撮影した写真に「よく似た」写真をネット上からピックアップしてきて、それをTwitterに投稿するというものです。たとえば、僕の職場には大きな公園が併設されているのですが、このカメラアプリを使って、そこで写真を撮り、コメントをつけて投稿したとしましょう。たとえば「きょうはいい天気」とか。すると、このカメラアプリが僕の撮ったその風景写真に似た写真を探してきて、その写真を僕がつけたコメントと一緒にTwitterに投稿するわけです。結果どうなるかというと、僕が撮った写真ではない、関係ない他人の写真に、僕のコメントが付いて投稿されるわけですね。ただ、僕が撮った写真にはよく似ていて、確かに晴れている屋外の写真だから、対外的には意味は通じるんです。撮影した人間が指し示して、共有したい対象と、結果的に指し示した対象が一致してなくて、微妙にずれているんだけど、コミュニケーションとしては妙に成立している、というそういう状況を作り出すアプリです。
 さきほどyoupyさんがふだんいつも変なことをしているという話がありましたね。たとえば、foursquareをいじって、しょっちゅうタイのセブンイレブンで買い物をしているように見せかけたりするみたいな。ある種そういうことに近いと勝手に思っていて、自分の人格とか、あるいは自分の日常にインストールするタイプの作品といったらいいでしょうか。Twitter上の自分の言動を強制的に変質させるフィルターのようなものをつくって、それこそ「Twitterの中のわたし」(http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2011/Architecture_I_make/index_j.html)を変える。そうすることで、TLに僕のつぶやきが表示されるみなさんに違和感を覚えさせることができないかなと思って作りました。
千房:うん、おもしろいね。
渡邉:ありがとうございます。先ほど千房さんのプレゼンで、これまでのネット・アート展は、実空間での展覧会の劣化コピーにすぎないのではないかという話がありましたが、基本的には僕も同意です。そうならない方法はないかなと模索しながら作ったものがいまご紹介した二つの作品です。

05|《祈》と《YouTube》——ウェブ・サーヴィス固有のパーツをマテリアルとして扱う

エキソニモ《祈》2009

撮影:木奥恵三
ucnv《YouTube on Vimeo》2010
http://vimeo.com/6531417

渡邉:それでは、千房さんのお話から続けていきましょう。僕はエキソニモの《ゴットは、存在する。》における《祈》という作品がすごく気になっている、というかおもしろいと感じています。なぜそう感じるのか、自分でも興味深いんですね。この《祈》という作品は、コンピュータの前に置かれた二つの光学式マウスが、手のひらのように合わさっていているんです。その合わさり方が少しずれているためか、マウスの裏側のレーザーが点滅していて、光学センサーがそれをお互いに読み取り合って、画面上のカーソルが少しずつずれていくというものです。
千房:光学式のマウスの合わせ方の案配によって、なぜかカーソルが動きだすんですよ。
渡邉:そうそう。それだけでもちょっと奇跡っぽいわけですが、マウスがどういう目的でつくられていて、光学マウスはどういう仕組みになっているのか、ということを僕らがわかっているから、カーソルが動いてしまう理由はなんとなくわかるんですよね。で、その延長で、あの調子でいくと、なにかの拍子にデスクトップ上のファイルとかをクリックし始めるんじゃないか、そういうことを予期させるところもあるんです。そういう、読み解けたり、その発展で読みすぎてしまう感覚が不思議だなと思っていて、今回こういう機会で、そのメカニズムをもっと解き明かしたり、いろいろなヴァリエーションを探っていけるといいなと思います。
 こうしたことを踏まえて、今日は僕がインターネット・リアリティを感じる作品を二つピックアップしてきました。一つはエキソニモの《SUPERNATURAL》です。この作品はさきほど千房さんがほとんど説明してくれたので、もう説明は不要かと思います。もう一つは、ucnvさんという、日本におけるグリッチ帝王みたいな人がVimeoにアップロードしている《YouTube》という映像です。
これはYouTubeのシークバーの部分をキャプチャした映像を、Vimeoにアップロードしてるんですね。この映像を見てると、このYouTubeのシークバーを掴んで左右にドラッグしたくなるんですけど、あくまで映像なので実際にはそんなことはできないし、シークバーをドラッグしようとして、そこにカーソルをもっていくと、Vimeoのシークバーが出てきてしまう。
 僕らがYouTubeで映像を見るときには、あまり意識には上ってきませんが、実はいろんな要素があるわけですよね。シークバーもそうだし、ヴォリュームを調整するボタンだったり、YouTubeのロゴだったり。そういったものを、暗黙の了解としてスルーするのではなく、作品を構成するひとつのマテリアルというか、事物のレベルにまで還元して、それに対して自己言及的な態度をとる感じがこの映像にはあるように感じます。
youpy:類似サーヴィスの、VimeoとYouTubeの差異みたいなのが出てくるっていうか。
渡邉:そうそう、そのあたりをすごく意識させられるわけです。Vimeoにあることによって、YouTubeに固有の素材感みたいなのが強調される。そういう意味で、この映像作品が非常に気になっています。
 《SUPERNATURAL》をピックアップした理由も同じです。サーヴィスに固有の画面上のパーツみたいなものを、きちんとマテリアルとして扱う。そのマテリアルには性質がありますから、無限の可能性をとるわけでもないし、かといって単一の可能性をとるわけでもなくて、いくつかの可能性がある。その可能性をつなげていって、それをお客さんに読み取らせる、みたいな感じの作りかただと思うんですよね。たとえばUstreamのロゴが透かしで表示されていることによって、「ああライヴなんだな」ってことがすぐわかるし、ふたつの画面の背景が違うことから、同一時間軸上の違う空間なんだ、ということも当然わかる。
 そういうことをうまくコンポジションしていくことで作品を作っていくのが、インターネット・リアリティっぽい作品なのかなぁ、と思っています。ただ、ucnvさんの映像は、どっちかというとデスクトップ・リアリティよりのアプローチかもしれないなと思ってるところもあって、それはうまく説明できないんですけどね。
千房:Vimeoの上にあるインターフェイスを期待しているところを完全に裏切って、そこにYouTubeがきてる。だから、たぶんVimeoとかYouTubeを知らない人が見たら、まったくわかんない。でも知っていれば、自分がふだんネットやってるときの記憶と結びついて、すごい違和感が生まれちゃう。
谷口:そうですね。さっき千房さんが批判的に言っていた「インターネットを使えば新しい」系の作品がどういうものかというと、「インターネットとかYouTubeをこういうふうに使うから、文脈的にこういうふうにおもしろい」みたいに、文脈とか社会的な問題にコミットする作品が多かったんじゃないかと思うんですよ。いまucnvさんの映像とか《SUPERNATURAL》を見ていると、YouTubeとかUstream、もしくはVimeoっていうそれぞれのサーヴィスがもっている固有の質感みたいなものを意識して、コンポジションをしているだけなんですよ。そこには、明確に文字に起こせるようなコンセプトは存在しない。それは、やっぱり質感の問題なのかなと思うんです。コンセプトじゃなくて、質感がどのようにコンポジションされているかという、その強度とか弱度の問題ですよね、接続の。
千房:そうそう。
渡邉:それが重要なポイントだと思うので、今回の座談会や、展覧会で掘り下げていきたいですね。美術作品としてはわりとオーソドックスな作り方でもあると思うので、いろいろ他のジャンルの美術作品などとも結びつけながら、議論できるのかなと思っています。
 あとアメリカに「Paint FX」(http://paintfx.biz/)というPhotoshop系のアプリケーションのデフォルトのエフェクトをそのまんま積極的に使って描いたような絵を集めたウェブサイトがありました。ジョン・ラフマンとか、CBCNETでもインタヴューをしていた(http://www.cbc-net.com/article/2010/07/parker_ito.php)パーカー・イトーとかが立ち上げたプロジェクトです。この話はそうした流れともつながるのかなと思っています。日本固有の問題ではないと思います。
 あと、きょうはyoupyさんもいるので、思い出したのですが、前にyoupyさんにお会いしたときに、シンセでしたっけ? プリセット音源だけで音を作るのに最近ハマってるとか……。
youpy:MIDIで
渡邉:MIDIだ
youpy:そのまま流したりとか。
渡邉:そうそうそう
youpy:そういう、素材そのまんまとか、Photoshopそのまんまっていうのが、昔はすごく嫌われてたけど、いまはそれが逆に新しいんじゃないかっていうのが、すごくあって。
渡邉:そのあたりとつながってくるのかなと。

06|でかいウェブ・サーヴィスは大自然っぽい?

渡邉:あとは、やっぱりメタファーの問題があるかなと思っています。これはyoupyさんのFlickrなんですけど。

 Flickr: Your photos’ photostream
 (http://www.flickr.com/photos/youpy/)


渡邉:これは全部で……
youpy:(約)1600万色を入れる予定で。でもいまは500万色ぐらいかな。
渡邉:まあこういうかたちで、1色1色って言ったらいいんですかね……
youpy:そうですね。
千房:RGBの数値を一個ずつずらして、全部上げてくっていうことですよね。
渡邉:256の3乗(=1,677,216)色ってことですね。Flickrという写真共有サーヴィスの上で、そういうことをやっている。いま、世界で一番写真がアップロードされているんでしたっけ?
youpy:Flickrでたぶん一番上がってる。
(一同爆笑)
youpy:これって実際のプログラムは10行ぐらいなんですよ。でも、そんな簡単なものでこれだけインパクトあるものができるのが、インターネットのすごいところだと思って。
渡邉:これを見ていると、僕はウォルター・デ・マリアの《マイル・ロング・ドローイング》(1968)とかを思い出すわけですよ。あるいはリチャード・ロングの《ア・ライン・イン・ザ・ヒマラヤ》(1975)とか。白い石集めてきて一列に並べて白い線を作る、みたいな自然環境に対する最小限の負荷で、壮大なものを作る……みたいな感じがすごくあるんです。なんでそう思うかっていうと、そもそもでかいサーヴィスってなんか大自然っぽいんですよね。
(一同笑)
渡邉:個々のユーザーのアカウントのページとかは、庭っぽくもあるんですけどね。盆栽や植木が置いてある感じ。でも全体の集合として捉えたときに、すごく大自然ぽいって感覚があって。このyoupyさんのは、とてつもなくでかいランド・アートみたいなものがあるという感じなんですよ。
千房:あれ、Flickrでやっているから意味があって。たとえば同じことをFlickrじゃなくて自分の作ったオリジナル・サイトでやってもまったく意味がない。そこらへんだよね。
渡邉:他者と比較することによって、Flickrのアーキテクチャが浮かび上がるし、同時にyoupyさんの特異性も浮かび上がるんでしょうね。
千房:あとFlickrにいくと、だいたいみんな普通の写真がメインだから。それを期待するんだけど、全然そうじゃない。
渡邉:本当にそうじゃない。ちなみに、これAPIを半自動的に叩いているから、それってショベルカーみたいな工作機械を使っているのと同じなんじゃねぇのって気もしていて、そういう意味ではロバート・スミッソンとかの方が例えとしては近いのでは……みたいなことも、ちょっと考えたりしたんですけど、この話は展開がないんで置いておきましょう。ともあれ、SNSとかCGMが登場して、それらがAPIを提供したことによって、ユーザーがウェブサイトに対して能動的に介入できるようになったという感じがします。ネット・サーフィンという言葉は大昔からありましたが、それは誰かが作ったコンテンツを受け手が切り替えているだけにすぎません。それとはちょっと違う、コンテンツを作る/コンテンツを変えるという能動性が出てきたと思います。この能動性がある種の身体性みたいなことと結びつきつつ、インターネット上の存在するさまざまな事物の現前性といったら大げさだけど、そうした感覚をより感じられるようになったのかなと思ったりもしていますね。
 これはちょっと余談になりますが、サーヴィスとか、サーヴィスの機能の名づけの問題もリアリティに影響を及ぼしていると思うんですよね。たとえばFacebookで「あいさつ」って機能あるじゃないですか。あんなの、僕らが実空間でしているあいさつとはおよそかけ離れていますよね。だって、Max/MSPでいったら単なるbangですからね[*6]
(一同笑)
渡邉:それを「あいさつ」と名づけたことによって、「『あいさつ』されたからには、し返さないといけないんじゃないか」っていう脅迫観念にかられたりする(笑)。このあいだyoupyさんのFacebookのウォールのところに「あいさつ2秒くらいで返ってきた」みたいなことが書いてあって、要するにFacebookの「あいさつ」が2秒で返ってきたことに驚いたわけですよね。それはたぶん偶然の産物だと思うんですが、意図的に2秒で返しているとするならば、Facebookに常時張り付いてリロードを繰り返さないことには不可能な数値です。でも、あいさつを2秒で返すの、実空間だったら遅すぎますから(笑)
(一同笑)
栗田:「あいさつ」は英語版Facebookでは「poke」、つまり「つっつく」といいますね。だからサーヴィス、国によって全然質感が違ったりすることもあるのかなと。
渡邉: Twitterも昔は「poke」に近い「nudge」、つまり「小突く」という意味の機能がありましたね。ほかにもTwitterだと、「つぶやき」とか、そういう行為を表わす言葉が機能に割り当てられることで、どうしても想起してしまうイメージってあって、それは大きいのではないかと思っています。とはいえ、今回はあんまり重要ではない可能性もあると思うので、あくまでちょっとしたトピックとして。ひとまず、そんな感じですかね。じゃあ、次は谷口くんお願いします。

07|過去の出来事やその記録を現在に重ねあわせる

《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》2010
谷口暁彦

谷口:思い出横丁情報科学芸術アカデミーの谷口です。今日のテーマは「インターネット・リアリティ」ですが、その「リアリティ」っていう言葉が漠然としていて。このまま「リアリティ」って言葉を曖昧なまま使い続けると、そこで思考停止しちゃう部分もあるかもしれないと思うので、ここでひとつ真面目に、こういうモデルで「リアリティ」ってものを説明できるんじゃないかっていうのを——僕が今回提示するモデルが、必ずしもすべてではないと思うので、一側面として——ちょっと説明できればいいかな、と思っています。
まず最初に自分の作品のなかから、共通の構造をもった作品を四点紹介します。
 一つめは、2008年に作った《jump from…》[*7]という作品です。これは、モニターの右上の方に『スーパーマリオブラザーズ』の画面があって、実際にプレイできるんですね。実際に映像を見てみます……

  jump from_2 on Vimeo(http://vimeo.com/25143842)
  jump from on Vimeo(http://vimeo.com/7203251)


千房:これは映像作品なんですか?
谷口:いや、実際にゲームとしてプレイできます。あらかじめ僕がプレイして——マリオの1-1のステージなんですけど——ありとあらゆるところでジャンプする映像を全部、記録しとくんですね。で同じ場所で鑑賞者がジャンプしたら、その映像にバッと切り替えちゃう。あらかじめデータベースとしてあったものに重なっちゃったときに、過去の僕にもってかれちゃう感じですね。鑑賞者がマリオをプレイしているのか、過去の僕がマリオをプレイしているのかわかんなくするということをやってます。
千房:これやってみたらどんな感じがするんですか? 気持ち悪い?
谷口:ごくまれに、画面の中に映っている人を自分だっていうふうに勘違いする人がいるんですよ。僕に容姿が似てる人。
(一同笑)
谷口:そうすると、リアルタイムにウェブカメラで撮られてるんじゃないかって、後ろを振り向いたりするんですよ。そういう錯覚におちいる人が、ときどきいますね。女性の場合はあんまりなくて、やっぱり男性で僕と容姿が似てる場合だけなんですけど(笑)。
 二つめは、思い出横丁の連載で作った作品で、タイトルが《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》(2010)[*8]という作品です。これは《jump from...》と同じような作品で、右側にモニター、左側に本物の時計があるんですね。右側は、映像として撮影された時計です。12時間分録画してあって、実際の時刻とぴったり同期して動いている。完全にレコードされたものが、いまの時刻にぴったり合わせて、再生されているだけという状態です。
 思い出横丁の第二回の連載の中の作品制作の課題として「幽霊を作る」というテーマを設定したんですね。それで「メディア・テクノロジーを使ってどういうふうに幽霊を作ることができるか?」と思ったときに、まず動画を撮って記録、再生するということを考えました。だけど、例えば映像の中に映っている人が銃を向けてこっちに発砲してきても、別に驚かないわけですよね。なぜならその映像の中に映った銃は、銃としての機能を失って、表面の映像しかないから。映像の中に映ったものはすべて過去のもので、機能することはないわけです。で、いろいろ考えてみて、「じゃ機能するものなにかないかな?」と思ったら、時計だったんですよね。ここではクォーツとか歯車とか、物理的な時計の構造が失われてて、時計の表象しかないんですよね。時計の映像しかないんだけれども、実際にいまの時を刻むことによって、時計として機能する。だからこれは、身体をもっていないけど見えてしまう幽霊と一緒で、物理的な構造がなくて表象しかないんだけれども、現実に影響を与えるというか、実際に時計として使えるということによって、機能し、影響を与えられるんじゃないか、と考えて作りました。
 ここまでが実際にものがあるタイプの作品で、残り二つがインターネットを使った作品です。三つめは、2009年に作った《lens-less camera》[*9]というiPhone用のウェブアプリです。実際にアクセスして「shoot」ってボタンを押すと写真が撮れるんですが、なにをやってるかというと、iPhoneにはGPSが内蔵されているので、位置情報を取れる。その情報をもとに、Googleストリートビュー上の同じ位置の画像にアクセスするんですね。そうすることによって、過去にGoogleストリートビューの車が撮った写真で写真を撮ったことにしちゃおうと。時間とか撮った人も違う、けれどもだいたい同じ場所の写真が撮れるという。
千房:渡邉くんの《somehow camera》とちょっと近いものがある。
谷口:そうですね。もう一個、一番最近作った——作品というよりはスケッチなんですけど——《dejavutter》(http://okikata.org/study/test45/)というTwitterアプリです。これはなにかっていうと、サイト上で「デジャブする」ってボタンを押すんですね。そうすると、過去3000件ぐらい遡って、昔のつぶやきをランダムに勝手に投稿する。過去のつぶやきをひっぱってきてもう一回出すことによって、時空歪むんじゃねえか、みたいな(笑)ことを、やっている。
畠中:最近(Twitter上で)アーサー・C・クラークが死んだっていうニュースがあったじゃない?[*10]
谷口:ありましたね、はい(笑)
畠中:3年前の、もしかしてそれかな?
谷口:いや、それはどうかなと思うんですけど……。
畠中:それは関係ないか。
谷口:でもTwitterって時々そういうことありません? 調子悪いっていうか、昔のつぶやきが出てきたりして。知らない人がつぶやいたら、それがバーッと波及して、さっきのアーサー・C・クラークのような問題が起こったり。
千房:前にTwitterが調子悪かったときがあって、どういう状態だったかちょっと覚えてないんですけど、それこそ他人の発言が見られないとか、自分の発言が反映されないとか、ちょっとヘンなふうになってたときがあって。そのときは、自分が頭おかしくなったような(笑)感じがした。Twitterが、自分の感覚? 神経の一部みたいになってるというか。システムがおかしくなることで、世界がおかしな世界に変わっちゃうみたいな。
谷口:ありますよね。dejavutterでつぶやくと、それに対してリプライがついたり、Favがついたりするんですよ。一番ひどかったのが、一か月前ぐらいのイヴェントの情報をもう一回僕が投稿してて、友達がそれを見て間違えてそのイヴェントの会場に行っちゃったんですよ(笑)。それで行ったら、イヴェント・スペースが閉まってて、すごい怒りの電話がかかってきた(笑)。そうなると、ほんとに現実の空間が歪むっていうか、時空がおかしくなるっていうようなことが起きたかな、と思いますね。
 なんでこの四つの作品を紹介したのかというと、すべて過去の出来事=記録されたものを用いているという共通点があります。過去に起きた出来事や、それが記録されたものを、いまの時間や、同じ場所に重ねあわせるってことをやっているんですね。
千房:なんかそういうのって、データは古くならないっていうこととも関係ある気がする。
谷口:ありそうですね。さきほどから、APIの話があったり、栗田さんからコンテクストをミックスするという話もあったんですけど……表象にあるタイムラインとは別にデータに直接アクセスできることによって、出てくる可能性もあるんだなっていうのがありますよね。あとdejavutterに対してはすごくヒステリックな反応が多くて。みんな試したら、(dejavutterで投稿された過去のつぶやきを)全部削除しちゃうんですよ。「なんてひどいことを!」って(笑)。「おまえそれ自分のつぶやきだよな」って思うんですよ(笑)。
千房:そこすごい、なんか重要……
谷口:重要なことですよね、時間軸が一致するっていうことに意外と執着があるし、そこにアイデンティティがある。けれどTwitterのつぶやきの文字そのもの、データそのものにはそういった時間的一致を要請する構造はないんですよね、インターフェイスとして「私」が仮構されている感じがある。先ほど渡邉君がふれた、「あいさつ」の名づけの問題とも関係してくると思う。

10|APIに直に触る感じ
——live camera stitching、《twitter骰子一擲》

谷口:あと、ライヴカメラっていうのがありますね。これは、96年とか95年ぐらいからある技術で。常にネットワークにつながりっぱなしの低解像度のカメラがあるんですね。

  live-camera stitching
  (http://okikata.org/work/study/live-camera-stitching.html)


谷口:最大で640×480(ピクセル)ぐらいしか撮れないカメラ。ずっと動画を流し続けているんですけど、APIを叩くことによってある特定の位置の画像を一枚のJPG画像として撮影できるんですね。この作業をカメラの向きをずらしながら、少しずつやっていってつなぎあわせていくんですね。
栗田:これ動いて……?
谷口:いま、本当にリアルタイムに動いています。実際に撮ると、[画像を見せながら]こういう解像度で写真が撮れるんです。ライヴカメラの技術自体は95から96年くらいからあるものなんですけど、それを大量に貼りあわせることによって、いまのデジカメより高い解像度が撮れるんですよ。最大で1,000万画素くらいになります。まあちょっと見落としてた点として、こういう写真が撮れるっていうことが、おもしろいかなと思ってます。あとやっぱりこの……Motion JPEGの質感というか……気持ち悪さっていうのはあるのかなと。
千房:おもしろいね。
栗田:これ全部撮ったやつ?
谷口:撮ったやつです。
栗田:いい写真。
千房:うん。
栗田:なんかジョン・ラフマンとかのあれ[*12]を感じるよね。
谷口:そうですね。
千房:ホックニーとかね。
谷口:そうなんですよ。これは全部撮影し終わるのに、5分とかかかっちゃうんですけど、それでも、いまこの瞬間、その世界のどこかで誰かが生活してる姿っていうのを、1,000万画素ぐらいの解像度で得られるっていうのは……
栗田:そのライヴカメラっていうのは、公開されてるもの?
谷口:公開されてるものですね。
栗田:どうやって探すの? 検索するの?
youpy:検索するテクニックがあって。Webカメラの型番とかで検索するっていう方法が。
谷口:そうです、そうです。本来だったらアクセス制限がかかっていて、パスワードとユーザ名が必要になってくるんですけど、そうじゃないカメラがけっこうある。それを制御するっていう。制御といっても、HTMLに撮りたい画像のURLをバーッとはっつけてくだけなんですけどね。
千房:なんだろうねこの感じ。
千房&谷口:
谷口:これについてはあんまり整理できてないんですけど。
畠中:これってさ、カメラが動いてるってこと?
渡邉:ネット上の監視カメラってだいたいデジタル雲台がついていて、見ている人がリモートでパンとかチルトができるんですよ。
畠中:ああ
栗田:そういうのが世界中にあって、ネットで確認するために、オンライン化してるってこと?
谷口:ええ、そうです。
谷口:[画像を切り替える]ここはなんか……研究施設みたいなとこで。雰囲気としては、これ公開していいのかな? ってぐらいの感じなんですよね。
栗田:……なんか、怖いね。
谷口:ですね。こういう……メカメカしいものが(笑)、すごい解像度で写ってる。なんか、APIに直に触る感じっていうか、それによってできる感じっていうか。
千房:なんかその、向こうで撮影している感じと一緒に、見れるといいのかもしんない。
谷口:ああ実際に動いてるとこ?
千房:わかんないですけど……うん。
谷口:実際に動いているカメラを……
千房:わかんないけど。うん。
栗田:そのときそのときで撮れるわけだもんね、実際ね。
谷口:そうですね。
 最後に、 Twitterでタイムラインを見ていると、お互いをフォローしてない二人組があたかも会話してるかのように並ぶ瞬間があるじゃないですか。
千房:ああ
谷口:それで生まれる文脈が気持ち悪いなと思ってたんですよね。あれによって、《lens-less camera》のように、誰かが作ったつぶやきを使って文章とか小説とか詩とか、そういうものを作れないかなと思って、やってみたのが《twitter骰子一擲》(2010)[*13])っていうのです。マラルメの「骰子一擲」っていう詩があるんですけど、その詩の冒頭の文章を、みんなのTwitterのつぶやきを使って作っていくっていう。(「骰子一擲」の)一文字一文字、Twitterで検索をかけていって、その文字列が含まれる最新のTwitterをひっぱってくるんですよ。それで、含まれている文字をハイライト表示で出していく。それが積み重なっていって、ひとつの文章ができあがってくっていう。個別にクリックしてみると、全然関係ないつぶやきなんですよ。中に欲しい文字が一文字含まれているだけで、全然関係ないんだけども、文字列によって串刺しされて取り出される感じとか。こういうこともおもしろいかなと、いま思ってたりしますね。
千房:前にマイケル・ジャクソンの「Billie Jean」をこの方法で歌ってるのがあったけどね。「Billie Tweets」(http://billietweets.com/)といって、「Billie Jean」の歌詞の単語をTwitterでサーチして、ひっかかったやつらのツイートが歌にシンクロしてバーッとでてくる。
谷口:僕からは、これで以上です。

08|リアリティとはなにか——〈私〉が死んでも世界が存在しつづける確からしさ

谷口:ここでいったん切って、冒頭で話した「リアリティ」って言葉をちゃんと正確に考えようと思います。「リアリティ」を辞書で調べると「現実感」という言葉が出てきます。だけどふだんの生活において、そのふだんの生活を指さして「リアルだ」とは言わないわけですよね。無意識に過ごせているわけです。じゃどういうときに、それが「リアルだね」と言うのか?
 例えばそれは、本物みたいによくできたCGなんですよ。それに対して「超リアル」と言う。でも本物が出てくると、べつに普通なんですよね(笑)。なぜふだんの、現実の生活に対して「リアル」と言わないのか。これは仮説ですが、ふだんの現実はあまりにも無意識に生活できるから、それは無意識に動かせるこの手足とか指のようなもので、全然意識に上ってこない。たとえば、家を出るときに鍵かけたかどうかってけっこう忘れるじゃないですか。てことは、もう意識せずに行なっちゃってるわけですよ。鍵をかけるって、家のドア閉めて、鍵を持って、回す……ってけっこう複雑な動作なんだけれども、繰り返していくうちに意識に上ってこなくなっちゃう。それくらい、ふだんの生活を送るっていうのは自明のことで、それは本来リアル(現実)なんだけれども、全然意識には上ってこない。
 じゃあ、その自明のものが意識に上ってくるときっていうのはどういうときか? 自分の身体で例えてみると、しびれとかケガをしたときではないか。腕を下にして寝ちゃったときに、すっごいしびれて、朝起きたら全然動かないことがありますよね。これがすごい気持ち悪いなと思って。こういうときって全然自分の腕のように感じられないわけですよね。他人の腕だったりとか、なんか肉のかたまりのように感じる。ケガしてギプスを着けても同じようなことが感じられると思う。この他人の腕のように感じられたりとか、肉のかたまりとして感じられる腕っていうのはなにかといったら、これは客観的事実だと思うんですね。つまり、ふだんちゃんと動くときは「私の腕」として経験するから、それは主観的経験ですよね。〈私〉にだけ見えている。一方、それがしびれてうまく動かないとき、他人の腕のように感じる。これは例えば僕が渡邉くんの腕をつかんでいる時と同じ感覚ですよね。反対に渡邉くんが僕の腕をつかんでも同じように感じるから、これは客観的な事実なんですよね。「肉のかたまり」というのも事実です。つまり、他の人にも同じように見えるという客観的事実が、ここで起きている。このとき、「私の腕」が、同時に「他人の腕」や「肉のかたまり」としても感じられるということが起きるわけですね。これが拡張していけば、〈私〉がいなくてもこの世界が存在しつづけるっていう確かさになるんじゃないかなと思うんですよね。
 すごい伝わりにくい話で申し訳ないんですが(笑)。自分の腕が他人からはこういうふうに見える/感じられるという事に気づくということはつまり、僕がいなくても、僕が見ていなくても、この世界が存在する確かさだと思うんですよ。それがリアリティなんじゃないかと。さきほどのリアルなCGの例でいえば、僕が見ているように他の人も見えているんだ、ということに気づくことによって、リアルなCGが「超リアル」だと思うわけですよ。僕だけに見えているものを見て「リアルだ」と言えないのは、そういう客観的な事実の担保がないからだと思うんですよね。栗田さんがさっき話していた、インターネットでは見ているものがみんなバラバラでコンテクストも共有できない、でもリアルさを感じるっていうのは、なんとなくこれに接続できるんじゃないかなぁと思うんですね。つまり、矛盾するようですが、「みんな見ているものが違う」という客観的事実が見えるっていうことに、一段メタレベルになっていますが、このリアリティのモデルから説明できるんじゃないかとも思える。
で、ちょっと戻って、思い通りに身体が動かせない状態に常にある人物といったらやっぱり赤ん坊だと思うんですよね。それこそ、全身がしびれているみたいに全然思い通りに動かない。そこから、どこまでが自分でどこまでが世界かというのを統合し峻別していって自我を形成するといわれている。自転車に乗れるようになることも同じですよね。それによって「自転車に乗れる私」が形成される。で、〈私〉がいなくてもこの世界が存在する確からしさというのは、鍵かけが慣れてくればもう意識しなくなるということのように、どんどん自明なものとしてもう一回回収されうる。だけど、しびれるとか、事故とかケガとか、「この日に限って鍵が合わない」とかってことが起きると、もう一度それが取り戻されることがある。まとめると、「リアリティ」とは「この私が死んでも世界が存在しつづける」という確からしさで、それは、調停され自明になっていく。だけど、しびれとかケガみたいなことがその確からしさの再発見の契機になっている。
 それをインターネットにつなげて言い直せば、「インターネット・リアリティ」とは、私が見ていなくても、あるいはログインしていなくても、そこにインターネットが存在して、あるいはつながっているというような確からしさのことなんじゃないか、そして、それに出会う契機があって、そこに「インターネット・リアリティ」を見つけるんじゃないかなと。
千房:なるほど。
谷口:栗田さんの、「iPhoneが出てきたことによって変わってきた」って話もそうなんですけど、かつてはダイヤルアップしてつながなければインターネットはなかったわけですよね。だけどいまは、常に接続された端末がポケットの中にあるという状況になってきている。それにどんどんプッシュ通知で情報が入ってきちゃう。そうなってくると、僕が積極的に見ようとしなくても、もう全然僕と関係ないところでインターネットはありつづけるという確からしさが出てくる。それがもしかしたら、インターネット・リアリティのある一側面としていえるんじゃないかなっていうのを、考えました。
千房:このまえちょっと話したけど、僕Twitterがけっこう肌に合うという感覚があって。でも他人の発言はあまり読まないし、自分もあまりポストしないんだけど、でもずっとログインしてるっていう感じがする(笑)。
渡邉:[背後を指しながら]ここに流れてるって、言ってましたよね(笑)
(一同笑)
千房:そうそう。だからもし1年間くらいTwitterを見ていなくても、Twitterに自分がいるという感じがあるように思うんですよね。人によってはFacebookかもしれない。
谷口:今ほとんどのウェブ・サーヴィスで、ログアウトって概念が薄らいでるというのもあるかもしれない。
千房:うん
渡邉:そうそう。常時ログインしているし、TwitterのOAuth[*11]などでサーヴィスが串刺しされているということもあります。もちろん、プッシュ通知も大きいでしょうね。

09|インターネットにおける人称——「1」に見出される自分

谷口:ここからは、最近気になるインターネットの事例を三本紹介します。いままでの話と接続できてるかわからないんだけど、インターネットにおける〈僕〉とか〈誰か〉という人称への意識があって。
 まず……[Ustream画面を見ながら]これ普通のUstreamの画面ですね。えっと……109人見てて、まあ合計視聴者数187になって。いま何人ですか?……130人ぐらい、あんま変わらないですね。こういう感じでやってる。ところが、一人しか見てないUstreamがある。どういうことかというと、僕が見てるわけなんで、インターネットで二人っきりになるっていうことです。つまり、[Ustreamの画面の現在の視聴者数を指しながら]「1人」ってのが、僕なんですね。この、インターネット上で二人っきりになるっていうシチュエーションがけっこうおもしろいなと思って。
栗田:これはどうやって見つけるの?
谷口:Ustreamの画面で、一番新しいものでソートかけて検索するか、もしくは、一番人気のないもので検索すると出てきやすい(笑)。おもしろかったんでいろいろ写真撮ってみたんですね。
[以下キャプチャ画像を次々と見せる]
千房:これなに?
谷口:これ、黒人の女の子二人が、キッチンでUstream始めたばっかりの瞬間。
(一同笑)
渡邉:向こうも配信を始めたばかりで、よもや谷口くんがわざわざ日本から来てくれたとは思ってなかったでしょう。
谷口:思ってないと思いますね。やっぱりカウントが1になると、ちょっとみんなドキッとする。
千房:ああ(笑)
谷口:リアクションしてくれたり。
栗田:絶対知り合いだと思ってるもんね。
谷口:思ってますよね。でこういう[画像を切り替える]、ちょっとかわいい女の子がやり始めたんですね。学校かなんかで。これはすぐにヴュー数が上がってっちゃったんで、残念。
千房:残念(笑)
栗田:もう少し二人きりになりたかった(笑)
谷口:二人になりたかった(笑)。[画像を切り替える]……これもいいですよね。
千房:その数字のとこに自分を見出すってなんかヤバいね(笑)
(一同笑)
谷口:[「1人視聴中」を指しながら]これ私ですね。[画像を切り替える]これも日本で、知らないおっさんが深夜にUstやってて。二人っきりになっちゃって、いろんな犬とか見せてくれたりして。ちなみに僕は一切、チャットとか使わないんですよ。
千房:ああ(笑)
渡邉:完全にROM専なんだ。
谷口:ROM専で。
千房:「1」として存在する。
谷口:「1」として存在する……美学を。
渡邉:神だね、それ。
千房:ある意味神だよね。

谷口:これおもしろかったんですけど[画像を切り替える]……写真撮ってくれたんですよね、僕に。
千房:爆笑
渡邉:これはやっぱり、谷口くんが写っていてほしいよね(笑)。
谷口:向こうには写ってないと思うんですけどね(笑)
千房:じゃ、いまって「1」になれるんだ。
谷口:なれるっていう。最後に[画像を切り替える]、これが二人になったときに、〈私〉性というのがどのように損なわれるのか? っていうのはけっこう問題だと思うんですね。
千房:笑)
谷口:一人だったら「あ、僕だ」ってわかるんだけど、二人だったときにどっちなのかわかんない。たしかにこの「2」の中に僕はいるんだけれども、どのようにここにコミットすればいいのかっていうか。
渡邉:もう片方の人も同様の感覚を抱いているんだろうね。
千房:だから「2」になった瞬間に、一気に興ざめだよね。
谷口:これが「3」とか「4」とかになっていくと、〈私〉が薄まってくる感じがするっていうか。

11|サーヴィスごとのリアリティ/インフラ化するウェブ・サーヴィス

畠中:いまの話のなかでも、“インターネット”ってつかないリアリティも含めて、ちょっといろんなベクトルがあるかなと思ってるんですけど。
千房:そうですね、うん
畠中:ちょっとその……Twitterのやつ(《twitter骰子一擲》)についてちょっと確認ていうか(笑)、聞きたいんだけど。
谷口:はい。
畠中:ここで気になるものとしてTwitterを挙げたときに、そのリアリティうんぬんの文脈でいうと、これはどういう解釈になるわけ?
谷口:ちょっと文脈はずれるかもしれないんですけど、ただそこに、たしかにツイートがあるっていうのが、けっこうリアリティとして大きいかなと思うんですよね。自分がフォローしているTwitterでもなくて、全然関係ない文脈で話をしている人が、偶然出会う感じっていうか。この一個一個をクリックすると、たしかに、つぶやいてるっていう。
渡邉:こういうふうに串刺しにされると、この人たちが、マラルメの「骰子一擲」を言うためにつぶやいたんじゃないかというふうに見えなくも……
谷口:……ないっていう。
畠中:なるほど。まあ一文字だけどね(笑)
(一同笑)
渡邉:さっきの「Billie Jean」のほうがおいしいというか、ベクトルが強い分、わかりやすいってのはあるかもしれませんね。
畠中:そうそう、そうかなぁっていう(笑)、気もしなくもない。でもそうすることによって、無関係な人たちが串刺されるっていう……
谷口:あるひとつのベクトルに向かわされるっていうか……そういう文脈に見えなくはないっていうか。
畠中:(Twitterの)タイムラインを見たときに、まったく無関係な話をしているのに筋が通っちゃうという話と似ている、という気もしなくもないんだけど。タイムライン上でまったく文脈の違う会話をしている二人が、自分のタイムライン上ではなんか会話しちゃってるっていう気持ち悪さっていうか面白さには、ある種のリアリティが……
千房:ありますよね。
畠中:その人が確実に、いま、この時間、そこにいて、つぶやいてるっていう。その二人はつながってないけど、自分の、たとえば…何人ぐらい? 300人ぐらい見ているなかの人は、確実にその時間を共有しているというリアリティにつながるっていうのは、あるかもしれないですね。
栗田:サーヴィスによってそれぞれリアリティがあるっていうのが、いま旬な感じがして。さっきの話も、Twitterは時系列に動いてるっていう認識をみんなもっているから通じるので。Instagramっていうソフトがあって、いわゆるTwitterの写真版なんですけど、家に帰ってから「今日いい写真撮ったからInstagramに上げよう」と思っても、〈いま〉(の写真)じゃないからちょっと躊躇しちゃうんですよね。それぞれのサーヴィスにクセがあって、それに対してみんなが適応する。でも将来的には、そのサーヴィスのクセも、普及していくにつれてなくなる可能性もあるのかなぁと思って。
谷口:サーヴィスのクセということで言うと、Facebookだったら一時間遅れぐらいの投稿でもまだ許される感じがあるじゃないですか。だけどTwitterなら「いまこの瞬間つぶやかなくちゃいけない」というのがある。僕ちょっと試しに、これの資料作るためにTwitterでつぶやいたんですよね。つぶやいた瞬間だと(投稿した時刻が)「現在」って表示されるんですよね。その瞬間を写真でおさえようとしたんですけど、すぐに「30秒前」になっちゃった。Twitterにおける「現在」の表示が30秒で切り替わるってことは、Twitterの設計において、〈現在〉は30秒なんですよ[*14]
千房:ああ
畠中:「現在」の幅がね。
渡邉:(ベンジャミン・)リベットの「マインド・タイム」のサーヴィス版ともいえそうですね。
千房:でもそういう意味でいったら、実際は〈現在〉ってこの瞬間しかないから、30秒ってけっこう長いよね。
谷口:たとえばウェブ・サーヴィスごとの性質の違いを時間軸にしぼって考えたら、現在が何十秒なのか、何分なのか、何時間なのかっていう差がけっこう見えてくるんだろうなと思いますね。
千房:さっきの(Facebookの)「あいさつ」2秒で返ってきたら早いみたいな(笑)
栗田:あと、最近メールは返ってこないけどTwitterのDMは返ってくるってありますよね。早く連絡とりたいときは、だいたいTwitterで連絡したほうがいい。メールはどんどん積み重なっていっちゃう。そういう生活のリアリティもみんな変わってきてますよね。よく、Twitterで得た情報をあたかも会って話したかのように言う人っているじゃないですか。その人にとってはそれがリアリティなんですよね。
畠中:それを考えると、呼び名の通りのリアリティみたいなものが付着してる感じがする。メールっていうのはまさにそうで、たとえばちょっと見ないと郵便受けに何百通もたまっちゃったよっていう話になっちゃうでしょう? それおもしろいなと思って。さっき名づけの話があったけど、メールってのはまさに「メール」だという気がする。そういう意味での、それぞれのソフトのリアリティというのがすごく担保されてるような気がしてて(笑)。そういう意味では、Twitterのほうが早いっていうのは、電話だとかそういうものに近くなってるっていうか。
千房:あとみんな、サーヴィスごとに言うこととかやること、態度を変えるというのを普通にやってる気がする。たとえば、地震の直後にTwitterがすごい変わったじゃないですか。なんか……みんな有益な情報しか流しちゃいけないとか、震災関係の大切な情報を埋もれさせないように、あんまり情報もってない人は黙ってるとか(苦笑)。
(一同笑)
千房:そのときInstagramは、けっこうふつうにみんなご飯(の写真)とか、のどかな風景だったりを上げてて(笑)。でもやってるのは同じ人のはずなんですよ。ウェブのサーヴィスごとに、見えてる世界が変わってきちゃうっていうか……うん。それぞれのリアルさっていうのも違うし。
谷口:前に(千房さんが)言ってたインターネットの質感みたいなことの、質感の差はまず、そこにありますよね。
畠中:最初に出てきたマテリアルの話とインターネットの話は元々別に考えられるけど、それをうまく橋渡しできるんじゃないかっていう感じがあって。それがさっきのyoupyのFlickrなんだけど。あそこに上げられているのは、コンピュータで再現可能な、すべての色数でしょ?
youpy:はい
畠中:まさに、デジタル・マテリアリズムみたいなところがあるわけじゃないですか。でも全部の色を上げていくっていうのは、API使ってうんぬんかんぬんっていう……システムの話になってくる。漠然と「フルカラー」という言葉を使っていても、実際に一色一色を見せられると、「そんなの認識できないじゃん」ていうくらいの微妙な差異しかない。それがリアリティにつながってたりする。そのことと、システムを使ってコンピュータで扱える全色を逐一上げていくっていう……まあ意味のあるようなないような(笑)行為をね、遂行するためにそれを使うということ、そしてそれができちゃうってことも、インターネットにおけるリアリティのひとつという気がします。それが、ふつうの写真とかさ(笑)、どっかで撮った写真じゃなくて、色だっていうのがおもしろいなと思うんですけど。
千房:Flickrが大自然ぽいっていうのは、おもしろかった(笑)。
渡邉:みんな、バーベキューの写真とかを「この写真いいでしょ?」みたいな感じで見せてくれるんだけど、そんなもん僕にとっては全然どうでもよくて、そのどうでもいい感じが、草っぽいんですよね。あとアップしたら、それっきりであまり変動がないところも自然を感じさせます。
畠中:それだけで聞くと「ああミニマリズムでしょ」って話になっちゃうんだけど、でもそれをなんかこう自然とね(笑)、結びつけるていうのは、ちょっとおもしろい視点だなと。
渡邉:ちなみにさっきSemitranparent Designの萩原(俊矢)くんが、このUstのタイムライン上に「でも最近は自然じゃなくて国家っぽくなってる」と書き込んでいました。たしかに昨今のGoogleとかFacebookとかには、よくはわからないんだけれども背景に大きなシステムみたいなものの気配を感じますね。もちろん自然にもある種のシステムが潜在しているわけですが、それよりももうちょっと恣意的ななにかを感じるってことだと思います。
栗田:GoogleはPageRankってシステムで機能していて、ランクが高い人からリンクをされるとランクが上がる。Facebookだと、トップページに3時間前とか10時間前の投稿がウォールに出てきたりするじゃないですか。で、チャットのところには、よく知ってる人と、全然この人コンタクトとってないなっていう人がいて、それが毎回変わるんですね。更新すると、そのたびにウォールが変わる。みんな違うウォールを見ているし、自分も毎回違うウォールを見ている。僕にはそれがすごく不自然に感じられて、なんだろうなあと思っていたんです。で、確認はできてないんで間違っているかもしれないんですけど、自分がよく見てる人だけじゃなくて、自分のことを見ている人もアルゴリズムに入れられてるんじゃないかなって思うんですよ。そうやって気になられてる人も出てきたら、すごい中毒性が出てくるんだろうなと思って。Facebookはアメリカで学生を中心に立ち上がったサーヴィスなので、好きな女の子とか男の子のことをチェックして、それで(結果として相手のウォールに自分が掲載されて)「この人よく出てくるな」と思わせたり……とうまく人間の行動にはめてる感がある。だから、Twitterのタイムラインは常に時間軸で展開していくという信頼性があるけど、Facebookにはそれがないから不気味に感じることもある。GoogleもGoogle+がスタートしてからソーシャルな要素で検索結果なども変わってきましたよね。
千房:Twitterってやっぱりルールが明快で、それを使ってる側もそれをわかって使ってるという感覚がある。Googleもアルゴリズムをわかりやすくしているけど、Facebookはほんとにそこらへんが全然わかんなくて、下手したら人と人を好きにさせたりできるかもしれない(笑)。勝手にくっつける。その人がいっぱい出てくると、なんか気になりだして、そのうちに人の心まで動かしちゃうとかってできるような気がしてて。なんか、そこらへんの……知らないうちにそれが浸透するっていう感じはちょっと気持ち悪いかもしれない。
栗田:僕、Googleのほうが国より信用できるとか、Facebookに住民登録したいとか、あとGoogleに税金払いたいとか言ってて。でも最近話題になっていたのですが、GoogleアカウントをBANされちゃった人が抗議文をネットにアップしていて、もうすべての人生をとられちゃったみたいな気分になったって。有料アカウントで、3、4ヶ月かけて全部のデータをGoogleに入れたのに、全部BANされちゃったと。それぐらい、ふだん使っているウェブ・サーヴィスは日常にあるものだから、だまされたら怖いですよね。
千房:まあ、相当数の人がだまされてるってことになるからね(笑)。
栗田:でもBANされたらすごい悲しいだろうなあと思って。だから複数アカウントを作って、メールを全部複数アカウントに転送したりとか、そういうのをいちおう考えてはいるけど、だんだん最近は甘くなってきてる。

谷口:APMTのトークのときにも、江渡さんに「最近インターネットが変わってきた感じ、なんかありました?」って聞いたら、さっき千房さんが話したように、震災直後のTwitterが、もう震災の話題ばっかりで危機感がすごいあったって話をしていました。震災直後は、電話はつながらないけどSkypeとTwitterは全然動いてたって話があって、それ以来、いままでのんきにただ独り言をつぶやいてたメディアが、連絡手段になってきちゃった。だから、さっきの話のようにいろんなものをGoogleに依存して、個人情報なりなんなり全部預けるっていうのが、国とか、そういった……システムに近いような、インフラに近づいてる部分もありますよね。
栗田:でも、前のほうがインターネット広かったなあと思うんですよね。いまはソーシャルなサーヴィスでインターネットが動いていて、逆に狭くなっている気もしますよね。昔はもうちょっと遠い人が掲示板に入ってきたりした。そういう意味で、このあいだできたTurntable.fm(http://turntable.fm/)[*15]というサーヴィスは、(ウェブ上で)DJブースみたいなクラブを作って、いろんな人が入ってきて、チャットすることができる。(それを見ていると)Web1.0が懐かしいなというか、(いまのインターネットの流れが)もどかしい人もいるんだろうなあっていう感じがする。
谷口:それ系だと、ロシアン・ルーレットみたいにチャットを繋ぐチャットルーレットというサーヴィス(http://chatroulette.com/)もありますね。
栗田:あれFacebookが投資したんですよね。あれもさっきの一人しか見てないUstみたいに、ボンっと全然知らない人と会っちゃう。でもあれやるにはすごい勇気が要りますよね(笑)。
 いままでいろいろ出た話題は、物質——モノとしてのリアリティとか、自分の経験のなかに落とし込めるリアリティ、インターネットのリアリティとか、そのリアリティのいくつかの側面ということになるのかな。あとは所有できるリアリティだとか。インターネットは、コピーはできるけどドメインはオリジナルなもので、ユニークだから、ドメインを所有するって概念がけっこう強い。ウェブサイトはコピーできるけど、そのドメインにあるウェブサイトは一個しか存在しない。それで昔、ゼロワン(0100101110101101.org)がネット・アートとしてJODIとかのサイトをまるまるコピーして、「どっちがオリジナルですか?」みたいなのをやったりとか[*16]。そういうデジタル/インターネットでの信用性、確実性、信頼性みたいなところで、ずっといろいろな人がアート作品を出してきた。
畠中:たしかにね、ネットの世界がすなわち自分の世界だって同一化しちゃうと、なにかそこにゆらぎを与えて、ゆすってやんないと、それがほんとにその世界なのか、そうじゃないのかっていうのがわからなくなってしまう。でわからなくなってる状態だから、たとえばさっきの「○○にいます」というつぶやきを信じちゃう。もしくは、嘘かほんとかっていうのを見分けたり、さらには嘘もあるということが、すでに世界だっていう(笑)、ひとつのリアリティになってるっていうこともあるのかな、と思いますね。
で、ここで少し休みましょう。5分ぐらい? 5分から10分ぐらい、ちょっと休んで……
千房:[TwitterのTLを見ながら]じゃこの、既存のネット展…「千房さんの既存のネット展覧会に対する違和感を聞いてみたいです」ってあるんですけど……タイムラインに。これはじゃあ後で。
渡邉:後半では、その来たるべきネット・アートの新しい展覧会のフォームについて話しましょうか。
畠中:いま、話題がちょっと拡散しているので、後半はそれぞれ一つずつふりつつ、話を聞いていきましょう。ということで、ちょっと休憩。

12|「ゴットは、存在する。」
——サーヴィスのもっている力を利用する

「ゴットは、存在する。」展示風景
撮影:木奥恵三
エキソニモ《噂》2009
撮影:木奥恵三

畠中:では後半といいますか、第二部かな? ひきつづき座談会をやっていきましょう。前半で、「ウェブ・サーヴィスによって形成されるリアリティ」という話がでましたけれど、後半はちょっと方向を変えて……みなさんが作品を作るにあたって参照される他の作品とかもあるでしょうから、そういったものも含めて、表現としての「インターネット・リアリティ」ていうかな? を感じるものとか、そのへんについて話しあってみたいと思います。どうしましょうか、千房さんから?
千房:表現……うーんなにがあるかな……
畠中:たとえば、さきほど《SUPERNATURAL》の話がありましたけれども。あとucnvさんのYouTubeの作品とか。
千房:じゃあれはどうでしょう、《噂》ってやつ。これは「ゴットは、存在する。」っていう展覧会をやったときに作った作品で。

  《噂》(http://gotexists.com/search.html)

千房:モニターが天井からぶら下がってるんですが、そこにTwitterの画面みたいなものが流れてます。それをよく見ると、「ゴット」ということについてみんながつぶやいている。見てると「ゴット」っていうのがあたかも存在するように見えるんだけど、なかでやってることは実は「神」という言葉をTwitterでサーチして、その「神」を「ゴット」に置き換えて出してるんですよ。つまり、この作品とは関係なく「神」という言葉をつぶやいた人たちのつぶやきが「ゴット」に置換されて流れているんです。やっぱりTwitterが(この作品を作るうえで)すごい前提になってて。(Twitterのサイトならば本来画面左上に出てくるべき)Twitterのアイコンが壊れてて出てないんですけど、それでもみんなこの画面を見た瞬間にTwitterってわかる。あと、この流れてくるスピード……このスピードの速さで感じる……ある感覚っていうか。ただ文字が出てくるだけなんだけど、ツイートをしたことがある人から見ると、こんだけの人がこんだけツイートしてるってことの、すごいザワザワ感みたいなのが感じられるじゃないですか。Twitterのストリームの“のどごし”みたいな。
(一同笑)
千房:その感覚が作品にできると思って、やったんですよ。あと、これただ「神」を「ゴット」に置換してるだけで、よく見るとほんとにおかしいんですよ。「ゴット奈川県」とか「東方ゴット起」とか(笑)。ここでやってるのって、実は小説だと思ってて。つまり、ふつうに正しいTwitterのタイムラインが流れてくるっていうのは、いまのこの世界を反映してるじゃないですか。でもそこをちょっと書き換えるとフィクション……ゴットが存在する世界が、これだけで表現できちゃうっていうか。それだけで小説を一つ書くぐらいのことが実現できるっていう。だから、そういうサーヴィスのもってる力みたいなものをすごい使ってやってる。これもほんとTwitterみたいなことをみんながやってるからこそ、できるようになった作品ですね。
畠中:これそれぞれ書いている人は別になんの……他意もないですから(笑)。自分の書きたいことを書いてるだけだから。
千房:そうそう。
畠中:「神」という漢字と、あとなんだっけ? 「God」もそうだったっけ。
千房:そうですね、「God」とか。「God」も「Got」に置換したりとか。
畠中:あとなんだっけ、ネ……
千房:あ「ネ申」(笑)? 「ネ申」も「ゴット」に置換される。ネットの世界で「神」ってすごいよく使われるじゃないですか。「神曲」とか「神動画」とか。それもすごいおもしろいなと思ってて。あと「ゴット」っていうのも引っぱってる。だから展示に来た人が「ゴットなう」みたいにつぶやくと、それも出てくるんです。
畠中:これは「ICCメタバース・プロジェクト」の展示のときに作ってもらったものですね。
千房:そうですね。つぎに《祈》という作品ですが……
千房:これはマウスを二つ合わせてあるんですが、マウスって手のイメージと結びつくじゃないですか。このようにマウスが合わさってると、祈ってるように見えちゃう。実際は、祈ってるということはまったくないですよね。ただマウスが二つくっついてるだけ。でもそこからイメージとして「祈る」ってことが起きる。しかも、これはほんとに偶然だったんですが、光学式マウスを二つくっつけたらカーソルが勝手に動き始めたんです。「祈りが通じて奇跡が起きた」みたいな(笑)、その瞬間がつかまえられたっていう作品です。これは僕らのなかではオブジェなんですよね。置いてあるのはほんと、パソコンのふつうの機械だけなんですけど。でも情報のオブジェだと思ってます。
 この画面に映っているのは、「PRAY」でGoogleイメージ検索した結果です。いろんな人が祈ってる画像があって、その上をカーソルがピクピク動くんです。画像の上にくると指(のアイコン)になったりとかするんです。別にクリックもしないし、なにも起きないんですよ。インターフェイスって、本来はなにか反応するためにあるわけじゃないですか。マウスクリックして、次のページを開くとか。そういうのを全部剥奪している。製作中は試行錯誤のなかで、カーソルの軌跡で絵が描けるとか、マウスが乗ったら変化が起こる――音が鳴るとか――ようなのを、いろいろ試してみたんです。でも全然おもしろくなくて。崇高じゃないんですよ。ただ検索結果があって、その上を動いてるだけでその先がないのが一番崇高な感じがして(笑)。「これヤバい!」って感じで……そういう感覚で作りました。
 「ゴットは、存在する。」(を構成する作品のひとつ《化身》)……これは、メタバース空間に一人のアヴァターがただ立ってる。会場では、キーボードとマウスが誰も触れないようにケースに入れられて立入禁止のロープが貼られた状態で展示してあって……誰もコントロールできないアヴァターだけが立ってるという状態。これは彫刻作品だと思ってて。
畠中:
千房:いままでの僕らの展示は、電動工具使ってわーっとか、物質的なところをすごいいろいろ作って、表面がけっこう激しかったりしたじゃないですか。パワフルだったりとか。そうすると、観る人はそこに目を奪われて、実はその裏で情報空間でひねったりしてるということに気がつかれないっていうところがあって。「あれすごいカッコよかったよ……見た目が」みたいな(苦笑)、そういうとこで終わっちゃうのがすごいイヤで。だから「ゴットは、存在する。」では表面を完全にとっぱらって、むきだしのコンセプトただそれだけをやってみたんです。これはけっこう賛否両論で。
畠中:以前は展示するときに、いろんな物質感のあるようなものを取り入れてたっていうのは、やっぱりなんかそういう……不安があったわけね(笑)。
千房:そうじゃないですか(笑)。
畠中:質感みたいなものが足りないっていう思いがあったってこと?
千房:そうじゃないですかね。どんどん過剰になってくのって、どっかに恐怖心とか不安があって、それを乗り越えるために展示会場でずっと徹夜してガンガンガンガン、モノ組み立ててっちゃうみたいな。
畠中:さっき強度という話があったけれども、ネットでだけ、あるいはコンピュータだけでなにかをやっているということに対するある種のものたりなさへの、一種のサーヴィスとしてやってたというわけですね。でももうちょっとその考えを深めていくと、もう「これでいいんだ」といい意味で開き直ったというか。メタバース空間に立ってる人、あれはまさに3Dのモデルだし、実際に3Dのデータを——とりあえずね——もった、人型でしょ。だからそれは三次元の……マッスはないけれども、そのデータは一種の彫刻だと。
千房:あとは、データつまりアヴァターとインターフェイスがネットワークでつながってる。そこまで含めた立体物っていう感じがしてて。
畠中:そこはもうつながってるもんね。空間のなかの人とね。
千房:接続されたキーボードやマウスまで含めた全体が、モノ、オブジェクトみたいな感じがしてて。それを誰も触ることができない状況にすることで、触れない、誰もコントロールできない人間みたいなものが、神のような存在になるんじゃないかみたいな(笑)。

《化身》2009
撮影:木奥恵三

13|インターネット空間ならではの歩き回りかた

畠中:これからやろうとしてるのはさらに先にいった、もう展示空間がなくても成立するような展覧会。そういうインターネット・オリエンテッドな展覧会を、構想するとしたら? っていう話になってくるわけですよね。
千房:さっき、既存のネット展への違和感について話してくれって(TwitterのTLに)あったんで、ちょっと話しましょうか。普通の展覧会って、たとえば展覧会場に行った時点ですごい特別な空間に入ってる。そのうえで展示会場を歩いて、作品に出会うわけじゃないですか。そういうことのデザインがちゃんと練られているような気がしてて。歴史があるっていうか。で、観終わって会場から出てくると「ああなんかいい経験した」みたいなことになってるんですけど、ネット展だと、たとえば作家名があって作品(へのリンクを)クリックすれば見られる。それを見て、観終わって閉じて、また次クリックして見て……ということが、作品を見るうえで作品が特別なものに見えないというか、クリックするという行為の意味や重さと作品を観るということとの関係性がつりあってないような感じがしてて。やっぱり、作品とどこで出会うかみたいなこととかも全部含めて成立してないと、いい体験にならない気がするんですよね。
畠中:美術館を順路どおりに見ていくっていう現実世界の経験の代わりをインターネット上で展開してもダメで、そこではその空間なりの、つまりインターネットの空間なりの歩き回りかたがあるはずだっていうことになりますよね。
千房:そうですね。
畠中:それはなんなのか? っていうと、たとえばさっきから言ってるように、サーヴィスのあり方みたいなものとちょっと絡んでくるかもしれないし……
youpy:あとブラウザの拡張とか、そういうのもあると思いますね。
畠中:そこで、どういうことが考えられるんだろうっていうことなんですけど。
栗田:インターネットは自分の意思でクリックできて、基本的に自分の行きたいところに行けるけど、逆に他の人との共通体験を感じさせるのが難しい。展示だと、みんな同じ空間を歩くわけで、そういう設計がされてますよね。
千房:でも例えばTwitterのタイムラインで見たリンクをクリックするっていうのと、やっぱりちょっと違うじゃないですか。そこで急にブワッて出てくると、それはそれで特別な出会い方ができたりするとか。なんかそこらへんの……たぶんデザインのような。
畠中:なんかないですか、思い出横丁は?
渡邉:座談会の最初の方でも、これまでのネット・アートの展覧会は、実際の美術館での展覧会の劣化コピーだという話がありましたが、まさにそのとおりだと思うんですよね。美術館の成り立ちを改めて振り返るまでもなく、美術館はそこに行くこと自体がある種のイニシエーションのような体験ですし、そこから先、建物の中に入って、展覧会場で順路に沿って美術作品を鑑賞していく、といったこともイニシエーションだといえるでしょうし。それに比べてインターネット上でアートと呼ばれるものを体験するときの経験の強度はたしかに低い。もちろん、そういったイニシエーション的経験が必要なのかという問題もあります。そういえば、ICCの最初の企画で1991年に「電話網の中の見えないミュージアム」という展覧会がありました[*17]。僕はリアルタイムで体験していないのですが、これは電話やFAXで専用の番号にアクセスしたり、パソコン通信で専用のフォーラムにアクセスしたりすると、アーティストが制作した楽曲や画像、映像、インタラクティヴ・コンテンツなどを体験できるというものです。電話はともかく、当時はFAXがようやく家庭に普及し始めた状態で、コンピュータも一般的に普及しているとはいえない状態ですから、結構体験の強度は高かったんじゃないかなと思います。
 僕としては、もしいまインターネットで展覧会をやるのだとすれば、TwitterとかFacebookのタイムラインにbit.lyとかの素性の知れない短縮URLを流して、なんとなくそれをクリックした人のブラウザで突如として何かが始まるとか、あるいは展覧会の出品作品となる画像や映像を放流するTumblrのアカウントや、「インターネット・リアリティ」的なものをリブログしまくるアカウントを用意して、それをフォローした人のダッシュボードを占拠する、とかそういう感じがいいのかなと思っています。要するに、そういったSNSを通じたコミュニケーションが普遍的な生活様式の一部になり、日常の一部となっている。そこに作品を埋め込むことで、日常と展覧会が交錯した状況を作り出すのがいいのかなと思います。セレンディピティに訴えるというか。
 とはいえ、実際、谷口くんがおもしろい小作品をTwitterで色々と放流していますが、ある種のネタとしてすぐに消費されてしまう側面があって、favoriteが20個くらい付いて終わりっていう刹那的な感じですよね。それはそれでよしとして、小品を大量に生産するための枠組みを考えるか、小品を延命させる仕組みを考えるか、というのもひとつのポイントでしょうね。
谷口:イニシエーションがあったほうが、作品の強度というか観る体験が増すんじゃないかって話がありましたが、音楽でいえば、昔はレコードをかけるまでに、ケースから出し、プレーヤーに設置し、そっと針を置いて……と、ある種儀式的に聴いてたんだけど、いまはもうMP3でiPodに入ってて、好きな場所から好きなように、曲順もランダムに流しっぱなしで聴くようになっている。そのように鑑賞体験が簡易化、変化していく一方で、平倉圭のゴダール論では、DVDをパソコンで再生して、1フレーム単位の精度で観ていって分析をしていったわけですよね。そのように、コンピュータとかクリックの軽さみたいなことから、ボトムアップ的に鑑賞の体験の精度/制度が変わるような……キーポイントを見つけられると、もしかしたら変わるんじゃないかなという気がします。それがなにかはまだわからないですが。
畠中:いまのゴダール論の話ってさ、(従来の)映画を観る経験、体験とは乖離した話だよね。映画館でそういうふうに観ることはできないから。昔だったら、映画館に入って全部通して観る。それを覚えて(あとで)書くということがあったわけだけど、いまはDVDなりなんなりで観て、1コマ1コマ分析することができる。でもそれは映画を観るという体験とはちょっと違っていて、それがものを分析する態度と鑑賞する態度は別だっていうスタンスを生んだともいえて。だから、観ておもしろいということと、それを考えるために違う観かたをするっていうのは、別のものとして用意しなきゃいけない。で、いま我々がしているインターネットのリアリティだとか、コンピュータにおけるリアリティって話は、どうやら後者のことを考えているような気がするんだけど。それは、ある種メタな態度じゃないですか。
谷口:そうですね。先に栗田さんが話されていた、Web上ではみんな見るもの/見かたが違うっていう問題もあると思うんですよね。Webに比べたら、映画はまだそういった視聴条件の多様さの度合いが低いと思うのですが、それでも今「映画を観た」と言った時にそれは必ずしも映画館ではなくて、レンタルしたDVDかもしれないし、違法にYouTubeなどにアップロードされた画質の悪いものかもしれないし、iPhoneなどの端末で低い解像度で観ているかもしれない。視聴条件が多様になっていて、しかもそれがオリジナルな視聴経験に対しての代替としてという意識も薄くなっているんじゃないでしょうか。で、Webの場合はそもそもブラウザごとで見え方が違うのがデフォルトで、視聴条件を完全にはコントロールできないですよね。接続速度が遅かったり、マシンのスペックが低いと、まさに平倉圭のようにコマ送りにならざるをえないというか……。それで思い出すんですけど、JODIのソースコードに原爆の図面がAAで描かれているwebの作品(http://wwwwwwwww.jodi.org/)あるじゃないですか。あの作品の場合、通常のブラウジングではなくて、ソースコードを見ることで初めて作品の全貌が理解できるんですよね。それは先述した視聴経験の問題でもあるのだけれども、見え方が多様にならざるをえない状況の中で唯一、同一性を保つソースコードに作品のコアになる部分を託しているんだともいえる。また、そもそもwebブラウザってかなり初期の段階から「ソースコードを見る」って機能があって、Netscapeとかはhtmlエディタの機能がセットになっていたりもして、視聴とか受容のありかたが、改変、創作するということも含めて多様というか、曖昧ですよね。
畠中:それが、ネット展というものの正しいあり方なのか? ってことなんですよね。たとえばさっき話に出た「電話網の中の見えないミュージアム」で使われていた電話やFAXは、その先の類似するテクノロジーを予見させるようなものとして出てきていたわけだよね。で、実際にインターネットの時代になると、画像はFAXじゃなくて、もっといいものでダウンロードできるという世界がきたわけじゃない? やる(企画する)側はさ、もう確実にそういう時代が来るっていうのがわかってて、当時のテクノロジーでその先のことを仮に体験させてあげるっていう、そういうプロセスがあったと思うんですよね。
 だから、メディアのもっている性質に忠実な見せかたをするということを考えるとき、美術館で観るのとインターネットで展覧会を——展覧会という名前自体いいのかどうかわからないけど——観る体験が違うという大前提にたつと、それは、いまある展覧会の観かたを置き換えるということではなくて、その先の展覧会の観かたというものが含まれているべきなんじゃないかという気がする。そういうものを構想するっていうことでもあるかなと思うんだけど。
千房:たとえば僕らも、ふだん勝手にやってるじゃないですか。ちょっとおもしろいスクリプトを書いたら、Twitterで「こんなん作ったよ」ってつぶやいたり、すごい日常のなかに入ってる。だからわざわざ展覧会やる必要あんのかみたいな話もある(笑)。
畠中:それを展覧会とわざわざね、銘打ってやる必要があるかどうかっていう。
千房:でもその流れていっちゃう部分を、ひとつ(筋を)通すっていうか、「これはこういうもんなんじゃないか」みたいなのをズバッと言って、まとめるみたいな。まとめサイト的な(笑)。
谷口:Togetterにまとめといたよみたいな(笑)。
渡邉:実際、去年ぐらいからソーシャル・メディア界隈で「キュレーション」というキーワードがブレイクしていますから、逆輸入的にTogetterとかNaverまとめをつかったネット・アートの展覧会というのはアリかもしれない。さっき言ったような小品のすくい上げとか、延命にもつながりますよね。
千房:それをやるのがICCでだったら、意味があるっていうか、なんかそういう……権威じゃないですけど、あるんじゃないですか。野良でやってるのを……
畠中:苦笑
千房:……ICCが、展覧会としてリンクしたりすると、「あ、これはこういう見かたがあって、こういう考えかたがあって、こうおもしろいものがあるんだ」ってことが見せられるのかもしれないですね。

14|インターネットという制度/制約にアプローチする

畠中:始まる前にいろいろ話をしたりアイディアを出し合ったりしたなかで、ひとつ中心になる話題だろうなあというものは——さっきもずっと話してるけど——インターネットで展覧会っていう形式を再現できるかという話じゃなくて、なにかもうインターネットそのものが表現されてるようなもの。それは展覧会じゃなくて作品でもよくて。だから、こういうデジタル、あるいはインターネットっていう、プラットフォームみたいなのを使う作品においては、別に、これまでの美術のモデルを継承しなくてもいいだろうっていう。でその、メディア自体がもっている条件に忠実な存在のしかたとか、プレゼンスがあるんじゃないか? っていう話が中心だったような気がするんですけど。
谷口:そうすると、さっきのクリック(するという行為)が軽いって話も軽いままでいいってことですよね? 軽いままで、その条件に適合した作品や展覧会の作りかたを新しく考えるべきだ、みたいなことですよね。
畠中:でも、もちろんそのクリックっていうのを疑ってもいいんだよね。
谷口:ええ
畠中:疑うにせよ従うにせよ、うん……
千房:iPhoneとかTwitterのおかげっていうか、インターネットってまったく別物になっちゃったって感じがしてて。自分の……たとえばパソコンの前に座ってないとできなかったものが、もうどこでもつながってる。それってほんと劇的な変化だから。
栗田:ネット展をどうやるかというのとは別に、インターネットを題材にした作品をどう見せられるかっていうところもあると思うんですけど。インターネットそのものを使った作品て、解釈が難しいっていうか一般の人には伝わりにくいと思うんですが、それを——ネットじゃなくて展示会場でもいいんですけど——どう見せられるか? 物理的なモノじゃないものとか、いまのところプロジェクターしかないっていうか。そのへんも、考える余地があると思う。
千房:あと、ネットがそれだけ普通になってっちゃうわけじゃないですか。美術ってなんか美術館だから成立してるみたいなところあるじゃない? 別にたいしたことないものも、美術館に置いたらすごく見えて(笑)、そこで価値がついちゃうとか。そういう、ギャラリーで見せることに最適化された作り方がされてるじゃないですか。ネット展って全然そういうことじゃない。ふつうの美術展だったら、朝コーヒー飲んだり新聞読んだりしながら、作品見てるわけじゃないじゃないですか。わざわざ来て、「ありがたく拝見させていただく」みたいな。そういうのとは全然違いますよね。やっぱ、その構造が。
youpy:展覧会には「そこに行かなきゃいけない」っていう物理的制約があったから、しょうがなく美術館というのが存在していたけど、インターネットになってそういうのが必要なくなったから、まあそういうのなくてもいいかなっていうか、うん。なくても……必要ないというか。
畠中:まあ美術館にある作品は、美術館になきゃいけない必然もあるんだけど、その……「本物」とかね。そういうのが当然あるんだけど、インターネットだったら、本物がある場所に一点しかないっていうことは条件としてなくてもいいわけじゃないですか。そうなると、どっかのリンクからとんできてもいいわけで、それこそさっきの非・場所、非・物質っていう特性が生きてくるっていうことですよね。
 美術館が制度だっていうのは確かにそのとおりだけど、一方では、インターネットもおそらく制度だから。制度っていうものに対してどうアプローチしていくかっていう問題は、美術館だろうがインターネットだろうが等しくあると思うんです。
谷口:美術館に行かなきゃ見られないのは、作品が物質的なものですよね。同じように、インターネットだったら「クリックして見なきゃいけない」っていうルールとか制約があると思うんですよね。そういった制約というか、どうしようもなさを引き受ける形っていうか、もしくはそれに対して抗うみたいなことを、なんか考えられないかなと思うんですけど。最小単位からこう、積み上げていけないかな、と。○○しなくちゃいけないどうしようもなさっていうのは、物質的な質感とか抵抗だと思うんですよね。そういったものを正しく捉えるってことが、重要なのかなという気がします。
youpy:YouTubeやVimeoのシークとかも、そういう制約のひとつだと思う。そのサーヴィスごとにインターフェイスが決まってるという、ひとつの制約で。そういうのをいかにずらしていくかみたいなところが、おもしろいのかなって。
谷口:そういう一種の物理現象に近いようなところがある気がする。たとえば、堀尾(寛太)さんとか梅田(哲也)さんの作品であったり、もしくはフィッシュリ&ヴァイスの……キッチンのテーブルの上とかでいろいろ食器とかを組み合わせる作品あるじゃないですか[*18]。これらの作品に働く、どうしようもなさというか、制約のひとつとして重力があげられると思うんですよね。こういうふうに組み合わせたらものが落下しちゃうから、こういうふうな組み合わせでいく……っていう、重力との戦い、制約に対する戦いみたいなのものがある。そういった重力に近いなにか、制度みたいなものがインターネット上にどのような形で存在するかっていうことに着目してくっていうことが、ひとつ方法としてありうるんじゃないかと思うんですよね。
千房:物理現象ってみんなに共有されてるじゃないですか。だからピタゴラ装置みたいの見てると、こう期待してこうなるはずがこう裏切られたとか、そこでみんなけっこうおもしろがってる。ネットのリアリティっていうのはそれにけっこう近いのかもしれないですね。たとえば、ブラウザの上って左上が一番重要じゃないですか。ウインドウが可変だから。そこ(左上)だけ絶対動かないんですよ。重要なロゴマークってだいたい左上にあったりとか、あと左上に座標の原点があって、そこからXYが始まったりとかする。だからそこにすごい重力がある気がして(笑)。それをみんな感じてると思うんですよね。
栗田:ブログだと、いまだに前のエントリーが右の矢印なのか左の矢印なのかって統一できてない問題とか(笑)。
千房:そうそう。紙とかは多分強烈に、そういうのがルール化されてデザインされてるような気がするんですけど。ネットにもそういうのがすごい確立されてるというのがあって。物理現象に近いもの(笑)が、もう立ち上がってきてるような気がするっていう。
 そのうえでなにかを……たとえばVimeoのなかにYouTubeが入ってるとか、ツイートの順番が入れ替わっただけで時空が狂ったように感じるとかっていうのをやると、なんかこう……重力が狂ったような(笑)、そういうことがいまできるって感じがするんですよね。(「神」が)ゴットに置き換わってると違う世界になっちゃう(笑)とか、ほんと簡単なことをちょっとやるだけで、リアリティが変わっちゃうって感じがするんですよね。
youpy:それはやっぱり、みんながインターネット使って、身近なものになってきたからって、こと……
千房:かな……?
畠中:ある程度の共通なその……リテラシーっていうか、そういうものをもってその……「触ってる」ってことだよね。
千房:さらにいくと「GIFとJPEGどっちが硬い?」みたいな(笑)。それはかなりマニアックな感じだと思うんですけど。

15|インターネットでできること/インターネットそのもの

畠中:最初に立ち返ると、「インターネット・リアリティ」って話で始まったけど、30年ぐらい前に「コンピュータ時代の芸術って何?」と言われたりしたのと同じように、いま「インターネット時代の芸術ってなんだろう?」って提起することができるかなぁと思うんですね。インターネット時代以降の芸術のなかにはインターネットを表現するというやり方もあって、たとえばインターネットで起こっているいろいろな話——N次創作とか——を図式化するみたいなことも、ある意味ではインターネットが普及した時代に特有の、時代に影響を受けた表現といえるかもしれない。でも、図式化するんじゃなくて、もっとそれそのものをずばり使っていくというやり方もある。構造化されてるものをどうやって使っていくか。さらしていくかといってもいいかもしれない。構造はなかなか見えにくいものだから、それをオープンにする、さらけ出してみせるというような。インターネット・リアリティという話の前に、みなさんが実際にいま取り組んでいる、この時代に特有な表現とはなにか、っていう話でもいいかなぁと思うんですけど。
千房:最初はたぶん、インターネットでこんなことができるようになったということで、もの作ると思うんですよ。でも、「できる」、つまり技術的な可能性とはちょっと違う表現があってもいいんじゃないかなって。そのインターフェイスをずらすことで感じるのとか、そういうのは「できる」ことじゃないじゃないですか。いちおう「できる」ことではあるけど、そこは中心になってなくて……なんか、インターネットでできることっていうより、インターネットそのものが環境になってるみたいな。
谷口:確か、APMT6のときに江渡浩一郎さんが、初期は《WebHopper》(1996)のようにインターネットを視覚化するような作品であったり、《RemotePiano》(1996–97)のようにインターネットからピアノが演奏できるとか、そういう「インターネットでできること」をやってきたって、ズバリ本人が言ってたんですよね。90年代から2000年代前半ぐらいまではそうだったと。そこで「できること」はひととおりやっちゃった感があって、場所や空間というか、qwikWeb(http://qwik.jp/)のようなサーヴィスや仕組みを作るほうに移行していったんですよね。さっきFlickrとかVimeoなどのサーヴィスの質感が……平野として立ち上がってきたって話をしましたけど、じゃあいまはその質感から立ち上げるっていうふうな、そういう三つめの段階にきてるのかなって気はするんですよね。
 さきほど、ブラウザの左上が重要で、そこに重力があるんじゃないかっていう話がでましたが、そういった基本的な物理現象みたいな事の単位を前提に、ネット上で作品を見せる場がどのように設計可能なのかを考えられるんじゃないかなと思います。
畠中:「質感から立ち上がる」っていうのは、どういうことですか? VimeoならVimeoの質感から発想していくってことなのかしら。
谷口:初期のインターネットを使った作品は、やっぱりインターネットでできること、つまりコンセプチュアルにインターネットを読んで用いてきたと思うんですね。だけどいまは質感のレイヤーになっていて、絵画とか彫刻に近いような感じが……ここで絵画とか彫刻をひきあいに出していいのかわかんないんですけど、まあ近いようなことが起きてると思うんですね。たとえば、真っ白なキャンヴァスにとりあえず赤い絵具をまず、一筆目に置くじゃないですか。そしたら、その隣に何を置いたら気持ちいいかっていう、快感の度合いっていうか強度がある。それに応じて次の色を置いてくっていうふうな感じでコンポジションをするっていうのが、絵画とか彫刻の基本的な構成の単位になってると思うんですよね。例えばもっとわかりやすいのは音楽。音楽の場合、一個「ラ」って音を出したら、その周波数に対して整数倍で倍音が出て、その倍音に、物理的に共鳴する別の音が……心地いい音として響いて、それで調性とかが理論的に体系づけられていく。絵画とかの場合そこまで体系づけられていないけれども、心地よさとか、もしくは逆に不快感、不協和音みたいなものの、そういう小さな積み重ねというか、隣になにを置くかみたいなことの強度や弱度の積み重ねで進んでくところがあると思うんですよね。で、たとえばucnvさんのYouTubeのシークバーをVimeoにもってくるっていうのは、方法論としてはすごいコンセプチュアルだと思うんですけど、でもそこで感じる体験は、そういった質感のコンポジションだと思うんですね。なにかそういったことが、質感から立ち上がるってことなんじゃないかと思うんですけど。
畠中:ああなるほどね。ちょっといま、二つの軸が錯綜してるように感じるんだけど。例えばGIFとJPEGが質感として区別できるようになる——絵を描くのと同じように、デジタルな方法論を使って、同じような体系化された気持ちよさだとか美しさだとかっていうものを再現することができるんじゃないかっていうことと、さっきのVimeoとYouTubeの話っていうのは僕のなかでは若干ズレがあるっていうか……
谷口:もしかしたらそうですね、GIFとJPEGを隣に置くような、話をしてしまったかもしれない。
畠中:あえてVimeoのなかにYouTubeの質感をもってくるっていうのはむしろ……デペイズマンじゃないけど、異なったもの同士のぶつかり合いっていうやり方ですよね。だからなんか……僕のなかでは一緒にならないっていう気がするんですけど(笑)。どうなのかな?
谷口:二艘木(洋行)くんの絵画とか、Paint FXだったりとか、Computer Club……
youpy:Computer Club Drawing Society(http://www.computersclub.org/drawing_society.html)
谷口:……っていうのは、単純にGIFとかJPEGでできる新しい質感みたいなことを追究してる方向がありますよね。さっきの例えはちょっと悪かったですね。ただサーヴィスの質感という問題はちょっと錯綜してる部分ありますね。ただなんかそのあたりが、質感から立ち上がることのヒントにならないかなとは思ったのですが……。
千房:VimeoのなかにYouTube置くっていうので……実はVimeo自体がすごく不自由だっていうことが見えてきちゃう。やっぱああいうウェブ・サーヴィスって、「できること」が開かれていくって方向性に向かっている感じがする。「このサーヴィス使ったら写真がこんなふうにできる」とか、ああできるこうできるみたいな。それに対してYouTube(のシークバー)があるだけで、そこの部分だけはすごく不自由だったことに気づいちゃうみたいな……なんかそういう感じがすごくしたんですね。すごくコンセプチュアルな。
畠中:そうですね。さっきの「インターネットでできること」と「インターネットそのもの」っていう言葉は僕、ちょっとひっかかってて。それすごい重要だと思うんですけど。「インターネットそのもの」こそが、まさにその、インターネット・リアリティでありインターネット・アート……インターネット時代のアートっていう…ことだとしたらね、いまその二つはどう……完全に切り分けられるのかって僕のなかでちょっとあいまいになってて、あの……ちょっとそこが…僕の中でまだ整理がつかないところなんですけど。
youpy:たとえば、Photoshopのエフェクトをそのまんま使ったものが、Photoshopでできることをそのまま表わしてるという……みたいなこと?
渡邉:そうだと思います。それと冒頭のプレゼンでも少し触れましたが、ああいうのって作られかたを読む感じがありますよね。なぜここにこの要素を配置したのかとか、このエフェクトを使ったのか、どのような快楽が描き手にあったのか、そういうことが手に取るようにわかる「気がする」。そうしたことがあまりにも見えすぎてしまうのがおもしろい。ちなみにいま僕、二艘木洋行さんがデザインしたTシャツ着ているんですけどね。お絵描き掲示板で描いた画像のTシャツ(笑)。きょう、どこかでPaint FXとかの話をしようと思って。
 とはいっても、あの手の絵画というか画像の発表の形式って、異常にオーソドックスだったりしますよね。Paint FXの場合、Tumblrを使ってはいるので、それ経由で見る分にはいいですが、公式ページにアクセスすると極めてWeb1.0的というか、真っ白なページにひたすらimgタグで画像を貼って、brでスペースをつくってレイアウトをして……とか全然気の利いたヴューアーとかじゃないし、ソーシャル・プラグインなんてものもついていない。二艘木さんにしてもそうで、どこかの画像掲示板のシステムをそのまま発表の場にしている。
youpy:画像掲示板というローテクな技術を使うことで、なんか……違和感が際立つというか、それをあえてやってるような感じがします。
渡邉:そうですね。あと、画像掲示板って見る側も投稿できるように開かれてる場合もあるので、アクセスするとちょっと緊張するんですよね。ここで俺が描いちゃったらどうなるんだろうって。クラシックのコンサートで演奏中に叫んだらどうなるんだろう、みたいな感覚に近い。
谷口:あと、画像掲示板がサーヴィスとして若干廃墟っぽいっていう……
千房:ちょっと緊張するよね。
渡邉:それにお絵かき掲示板は、JavaやActiveXを使っていることが多いので、やたらロードに時間がかかったり、何か許可を求めるダイアログが出てきたりして、妙に不穏なものを感じさせます。
千房:
栗田:そうなると、それをうまくやった形がpixivになる、みたいな。普通になっちゃうけど。
渡邉:なめらかなコラボレーションだとか、あるいは人気みたいな他者との関係性の可視化を欲求するとpixivみたいなSNSになっていくでしょうね。

16|インターネットそのものによって変わる美意識/コンピュータの身体性

谷口:さっきの、畠中さんが言っていた「インターネットでできること」と「インターネットそのもの」の切り分けの不十分さというか、そのあいまいになっている点をもうちょっと掘り下げて、明確にしたいんですけど。
畠中:なんていうんですかね……さっきpixivの話が出たけど、pixivはたしかにインターネット・オリエンテッドな場かもしれなくて、実際にそこでイメージがたくさん生産されてるわけだけど。でも実際に(pixivで公開されている)絵だけを見たときに、それがインターネット・オリエンテッドかっていうと、そうじゃないかもしれないって思えるような部分もあるじゃないですか。そこのところの切り分けがどうなんだっていう。
youpy:僕は、(pixivは)あくまでインターネットを使って絵を発表してる場でしかなくて、それはインターネットとはあんまり関係ないというか、インターネットそのものではないという感じがする。
畠中:そうね、ストレートに言いたかったんだけど(笑)、まあね……[youpyに]ありがとうございます。
youpy:pixivとかで発表するってことがインターネット活動かというと、全然違う気がする。
畠中:美意識だとかも、ごっそり変わりたいっていう気持ちもちょっとあって。だからさっきグリッチの話が出てたけど、いまグリッチだグリッチだっていうのは、なんとなくそういうのがね、ちょっとこう……感じられるからじゃないですか?
youpy:そうですね。そういう生々しさみたいな……
畠中:それがいままでの美意識だとか審美観みたいなものを、つきくずそうとしてると、いうような……感じ?
千房:pixivってたぶん、「できること」に近い気がする。絵描いてる人たちが、自分で発表するってすごく敷居が高いじゃないですか。それが簡単にできるよっていう……それはなんか、インターネットでできるようになったことであって、そのものを表わしてるものではないっていう。
youpy:それは、できたものがなにかっていうのは関係なくて、みんなでものを作っていくってことができる場であるってことですよね。だからそれが絵であろうとなんであろうと関係なくて。たまたまそれが絵だったっていう。
千房:できることのほうに中心があるっていうか。
youpy:そうですね。
畠中:そうだよね。
谷口:グリッチが……いま流行りぎみなんで(笑)、ここで話すことに若干抵抗があるんですが、
(一同笑)
谷口:さっきの僕のプレゼンのなかで、自分が見ている主観とは別に、世界がただこうあるっていうさまを経験することがリアリティにつながるのでは、という話をしましたが、その為の契機として、ケガをするとか、しびれという事故のような出来事があると。それが、例えばカニエ・ウェストのPVを見ていたら、グリッチしてカニエ・ウェストとして見ていたものがただのデータ、ピクセルのかたまりだったことに気づかされる……というように、グリッチをそういった事故のようなリアリティの立ち上がる契機として位置づけられるんじゃないかなと。
千房:地デジとか見ててもそう……あれがなんかビビビッてなると、突然デジタル感が立ち上がってくる。
畠中:フィリップ・K・ディックじゃないけど、急に現実がさ、こうぼわぁっとぼやけてくるみたいな。その確からしさみたいなものが喪失するっていうか。
谷口:そういうただのデータに触れたときに、「リアルだ」って言うんだと思うんですよね。さっき言った、「僕が死んでもデータはあり続ける」……僕が生きてないと、ピクセル/データの集合であるカニエ・ウェストはカニエ・ウェストとして認識できないから、僕が死んでしまったらこの僕が見ていたカニエ・ウェストは見えなくなるかもしれない、でもこの僕とは無関係にデータは存在し続けることに対する、地続きのリアリティというか。
千房:なるほどね
渡邉:座談会っぽくなってきた。
(一同笑)
畠中:いろいろ散乱するなあ(笑)。
谷口:難しいですよね。
栗田:グリッチでいま思い出したんですけど、僕の知り合いのデザイナーがフォトグラファーのサイトを作るときに、フォトグラファーってオリジナル・コピーをすごく大事にするから、オリジナルのJPEG上げたくないっていう話になったそうで。Flashサイトなんですけど、元データはグリッチしてる画像で、それをグリッチを修正するプログラムで表示させてるんですよ。つまり、データとしてはきれいなJPEGは(サーバに)ないんですけど、一般の人が見るFlashサイトではきれいに見える。そういうデザインをしている人たちもいたりしますね。
渡邉:暗号鍵と公開鍵みたいな感じなんですか?
栗田:そうですね。いわゆる暗号化して、Flashで復元してきれいになる。だから元のFlashたたいてソース見て、実際に読み込んでるJPEGにアクセスすると、グリッチした画像になっている。なのでサーバ上には——まあすぐスクリーン・キャプチャしたら取れちゃうんですけど——いちおうオリジナルはない。
youpy:あと、ucnvさんが、このまえグリッチについてのプレゼンをしていたんですけど[*19]、JPEGにもいろんな圧縮形式があって、ほかにもPNGとか、全部同じに見える画像をそれぞれグリッチすると、まったく違う画像になったりとかするという、それがおもしろいなと。
渡邉:「仕様を読んでグリッチするのがマナー」みたいなことを言ってましたね。正しくグリッチしようっていう。
畠中:笑 なるほどね。
千房:「正しくグリッチ」ってなんだよっていう(笑)。
渡邉:仕様を踏み外すと、画像がそもそも表示されないですからね。
千房:それだめなんだ(笑)。
渡邉:要するに、JPEGがペケマークになっちゃう。
千房:ああ、なるほどなるほど。壊れちゃうってことね。
谷口:なんか物理現象っぽいところありますよね。
渡邉:そうそう、画像の形式を維持したままグリッチさせるためには、やっぱり仕様をしっかり読まないとっていう。
千房:生かさず殺さず的な(笑)
谷口:たとえば楽譜だったら、人間が演奏できないといけないっていう制限があって、その制限の範囲がその楽譜の身体性といえるかもしれない。そうすると、コンピュータに読まれるように画像形式を維持してグリッチするというのはコンピュータの身体性という問題とつながってくるかもしれない。
渡邉:そうそう、人間とコンピュータの身体性の差異に触れるというか、ヒューマン・インターフェイスの話としてもいろいろ考えさせられるプレゼンだったなと。
畠中:それはどこでやったの?
渡邉:Ruby会議っていうイヴェントですね。そこでucnvさんが場違い感あふれる感じで呼ばれて、プレゼンをされてたんです。「とっさのときにグリッチできるように」ということで、Rubyで動画をグリッチする便利なツールを開発されているということをメインで発表されていました。
畠中:さっき便利とアートって言ってたけどさ、じゃあグリッチって便利とか有用性とどうつながるかっていうと、ちょっとおもしろいよね。それこそもしかしたら、真にアートかもしれないし。有用性ということでいえば、グリッチの有用性って……
渡邉:乏しいですよね。でも、ucnvさんの場合は、□□□の「ヒップホップの経年変化」という楽曲のプロモーション・ヴィデオをグリッチ加工して、経年変化をグリッチで表わしていました(http://kuchiroro.com/special/cd/3/index.html)。
畠中:なるほどなるほど
youpy:たぶんそれが手法として定着すると、やっぱりそれが便利とか、いうことになるんじゃないかって
畠中:それがスタイルになればね。
渡邉:テクノロジーを逆説的に使いだすと、それにふさわしい使い方が見つかるってことは、やっぱあると思う。「正しい誤用」というか。
畠中:むかしフィードバックを作るエフェクターがあったけど、そういうのだって、そうだよね。ほんとだったらアンプに近づけてやらなきゃいけないところを、エフェクターで作るっていう。たしかにそれが、なんかしらのスタイルになれば、それを作れる人は便利なものを作ったってことになる。

17|ネットのスピード感に対峙する
——「なるべく手間をかけない」というスタイル

畠中:いまちょっと、どこに向かってったらいいのかってことなんだけど。インターネット・リアリティって言ったときに、いろんな要素がからんでくる。だから、それぞれの話をしたほうがよくて。これは次回以降も継続的にやってくものでもあるから、例えば、次回はなにかひとつテーマを絞って、それについて議論を深めていこうっていうもっていきかたもあると思う。今日はいろいろ出すっていう会にするっていうのは、ありかと思うんですけど。
youpy:なんかあとひとつ、やっぱり、どれだけ手間かけないかみたいなのもあると思うんです。
栗田:ああ
千房:うん
栗田:それはパーカー・イトーの最近の作品にも通じるところがありますね。
畠中:手間かけないっていうのはどういうことですか?
栗田:労力をかけないで作品を作る。
畠中:ああ、なるほどなるほど

  The Most Infamous Girl in the History of the Internet
  (http://www.parkerito.com/parker_ito/)


栗田:これは最終的にはキャンヴァスの作品なんですけど、ここに描かれている女の子は——昔からインターネットやってる人だとわかると思うんですが——ドメインが失効したサイトに出てくる画像なんです。たぶん最初はアメリカのホスティング会社の人が、画像素材からランダムにこの大学生の女の子の写真を選んで使った。ドメインが失効しちゃった自分のサイトを見たらこの女の子が出てくるから、自分のサイトをこの子に乗っ取られた気分になると。それで「Most Infamous Girl in the History on the Internet(インターネットの歴史上最も悪名高き女性)」っていうレッテルを貼られてしまった。そこに目をつけたパーカー・イトーというアメリカのアーティストが、それを実際の絵にする作品を作ったのですが、彼がやったのはそのJPEGをメールで送るだけ。中国に、JPEGを送ると実際のキャンバスに絵を描いてくれるサーヴィスがあるんです。作家本人は、注文がきたらその会社にメールでJPEGを投げるだけで、匿名の女の子の絵が、匿名の——誰が描いたかわからない——中国の人によって描かれるという、匿名—匿名の作品。彼は「なるべく手間をかけない」と言ってて、この作品はすごくうまく通った例だと思うんですけど、これもインターネットの濃さのひとつなのかな。
谷口:TwitterとかTumblrでネタとして消費される速度が増してるということについては、SPEED SHOWっていうイヴェント[*20]もあったりするじゃないですか。手間をかけないでなるべく早く作るということが、そういったスピード感に対応しているのかなという感じもしますよね。
渡邉:あとAmazon Mechanical Turk[*21]を使った作品もありますよね。
栗田:川島高さんとアーロン・コッブの《Ten Thousand Cents》[*22]ですね。1万分割された100ドル札を、Amazon Mechanical Turkを通じて(1ピースあたり)1セントで一般の人に描いてもらって、さらにそれを再形成してできた100ドル札の絵を100ドルで売るっていう作品。まじめに描く人もいれば、すごくふまじめに適当に描く人もいるんだけど、いわゆる文脈が評価されて、2年前にアルス(・エレクトロニカ・フェスティヴァル)で展示もしていたりした。どの国で使われてるかとか、そういうリサーチ結果もちゃんと出していて……(作業依頼時にはプロジェクトの全貌が明かされていないので)描く人は何に貢献してるかわからないけど……作品の一部である。これはもう、絵画としてはなんの意味もなくて、インターネット(上のサーヴィス)を使ってみんなが行動したっていう、インターネットそのものを使ったところに価値があったわけです。
千房:インターネット・リアリティっていったときに、僕らが出した、インターフェイスやデータ形式、サーヴィスの質感じゃなくて、コミュニティのほうを指すこともあると思うんですよね。僕コミュニケーション不全なんであんまり得意じゃないんですけど(笑)。でも、そういうコミュニティがいろいろあるっていう部分にも、インターネットらしさっていうか、リアリティがあるかもしれないですよね。
谷口:さっき渡邉くんがプレゼンで、APIに触れられるようになったことが大きいって言ってたじゃないですか。《Ten Thousand Cents》でAmazon Mechanical Turkを使ってみんなに一個一個作業してもらうのって、すごいAPI的だと思うんですよね。実際は実在する人物に流れ作業で作業させているのだけれど、API的にアクセス/リクエストできるようにインターフェイスがとても洗練というか、抽象化されている。身近な例でいうと、震災のときにそういったサーヴィスを作ってる人もいましたが、電車の駅名とか路線名で検索すると、Twitterでなにがあったのか報告をつぶやいてる人がいて、それで電車の運行状況がわかるんですよ。そうすると、そのTwitterでつぶやいてる人がBot的に機能するっていうか、検索Bot化するといったこともある。
youpy:便利とアートの区別があいまいになってる感じがする。便利なものが、同時にちょっとアートっぽかったりとか。逆にアートっぽいものが便利だったりとか。Twitterにhitode909っていうユーザースクリプトとかブラウザの拡張を作ってる人がいるんですけど、まあ……すごいアートっぽい、めちゃくちゃなものを作ってるんだけど、たまに便利っぽかったりする……とか、やっぱりそういう差があいまいなのがおもしろいかな。それって結局、ucnvもそうだけど、開発者がアートの世界に入り込めるようになったというのがけっこう大きくて。開発者ってなるべく楽をして開発しようとするじゃん。そういうのがアートに逆輸入されてるっていうか。パーカー・イトーの「なるべく苦労しない」というのには、そういう開発者的な視点もちょっとある。
渡邉:どこか民芸というか、鶴見俊輔がいうような「限界芸術」を思い起こさせますよね。「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」っていう。
谷口:便利なものがアートっぽくなっちゃうというのは、便利さを追究したインターフェイスを通じて実在する人物のデータにアクセスしていくことで、その人物が、僕らが知ってる人間観とちょっと違う形で立ち上がってきちゃうっていうこともあるのかなと思います。さっきのTwitter使って検索Bot化しちゃう感じとか、Mechanical Turkとか。個人個人は自由に、みんなバラバラに描くんだけど、総体としてできあがったものはちゃんと100ドル札になっちゃうわけですよね。それは単純に、人をマスでみるのか、個で見るのかって違いなのかもしれないけれど、誰でも容易にAPIにアクセスできるようになって、そういったマスとしての人、個としての人っていう、人間観のスケールがフレキシブルに動いてしまう、二重化する、というのがありますね。
 すごい拡散してますけどね、話が(苦笑)……。
(一同笑)

18|今後の展開

千房:なんか、「メディアアート?の人が〈pixivはだめだけど、glitchはいい〉とか言っててすごいベタ」って(Twitterで)つぶやかれてますけど。
渡邉:そんなふうな言い方はしてないでしょう(苦笑)。別に両者を比較してるわけでもないし。もしかして、停滞している議論を見かねて燃料を投下してくれたのかな。だとすれば、ありがたいことですけど。
千房:
畠中:なんていうのかな、見る方向を変えると、違うように見えるから。たとえば、美学的な観点からみるのと、社会的な観点からみるのとは全然違うし。pixivというプラットフォームによってできたコミュニティだって、当然この時代特有の現象なんだから。インターネットっていうテクノロジーができたことによって、いろんなものが現象するわけだから、その現象がなんなのかっていうことを捉えていきたくて。それになにが一番ふさわしいかっていうことは、結局のところ恣意的にならざるをえないかもしれないけれども。でもだからこそ、いろんな観点から話ができるといいと思うんですよ。「次はもっと美学的なところでやってみよう」とか。
千房:そうですね。コミュニティっぽいところにフォーカスしてやったりとか。
畠中:そうそう。それはたとえば、「じゃ今度誰々に話聞いてみよう」っていう感じで組み直せるとおもしろいかとは思うんだけど。話題ごとに、ふさわしいっていうかご意見番になるような(笑)人に、話を聞いてみたいっていう気はあるしね。
千房:そうですね。
畠中:ただ、まあやっぱり……なんかしら時代に特有ななにか、まあ形式っていうとアレだけれども、形式みたいなものがあるんじゃないかっていうつもりで話をしてるんだよね?
栗田:ネットのアーティストって、その形式をのっとるのをけっこう醍醐味にしてるから、わりと難しいですよね。システムを自分の自由にできるっていう前提でものづくりに取り組むという姿勢の人が、個人的には好きだけど、そういう人たちをひとつの枠組みにするのがネットっぽいのかというと、わかんないけど。
畠中:そうね、だからインターネットっていう制度っていうのは、従うにしろ壊すにしろ、そういうものがあってこそだから、そのへんを壊さなきゃいけないというよりも、壊す対象となるものはなんなのかということを考えていけるんじゃないかなぁと思うんだけど。
谷口:抗うべき何かってことですよね。
畠中:うん。エキソニモなんかずっとそういうことをやってきてるような気がするんだけどな(笑)
千房:そうですかね? ふふふ
畠中:ずっとそういうことをやってきて……もう、その筋では知られた存在なわけだから。今日はずいぶん拡散してるけどね。だから、たとえば次回は、なにかテーマを決めて、話していくのがいいのかもね。
千房:なにがいいんだろう……
谷口:冒頭に千房さんが、インターネット・リアリティってのがまずあって、そのサブセットとして質感とか、ソーシャル・ネットワーク、インフラがあるという話をしてましたが、そういったサブセットが、ここまででだいたい出尽くした感じがありますよね。そのなかで、今後どうしてくか、焦点をしぼっていくっていうのが、まずあるのかなと思います。特に、インターネット展覧会を設計するうえで、どこからいこうかっていう話になると思うんですけど。
千房:それか、それぞれ絨毯爆撃でこう……
谷口:全部つぶしてって(笑)
千房:掘ってくっていうか、うん。ていうのもあるかもしれないですね。
畠中:そうですね。僕はやっぱり、ヴィジュアルでも音でも質感というのがけっこう重要だと思っていて。たとえば、こういう話だと、やっぱりグリッチとか、そういう話になるじゃん(笑)? 音楽でもヴィジュアルでもね(笑)、そういうのありがちなんだけど、それをあんまり、グリッチとかにとらわれずに考えることはできるかっていうことなんだけどね。コンセプチュアルに突き詰めていくと、たとえばさっきのyoupyのFlickrの作品に行き着くってことも、明らかだし。いろんな切り方で切ってかないと見取り図が描けないってこともあるよね。個々のトピックについて掘り下げていくことは可能だけど。グリッチだなんだっていう話で、やってくのは可能でしょう。キャラでもいいしさ。だから、今日はもうちょっとそれぞれのこだわりみたいなところでくるかな? とも思ってたんだけど(笑)
(一同爆笑)
渡邉:ダメだしで締めるつもりですか(笑)
畠中:いやいやいやいや、そういうわけじゃなくて(笑)。もうちょっと自分のこだわりみたいなところで突き詰めていっても、いいですよ今日は(笑)
(一同笑)
畠中:次回は「質感てなに?」って話とかね? 「コミュニティってなんだろう?」ということでもいいかもしれないし。コミュニティとはちょっとずれるかもしれないけど、作品がそれ自体で完結していないものもあるじゃないですか。誰かがそれを使って創作できるような、ソフトウェアを開発するのとちょっと近い……
youpy:ライブラリがあって……
畠中:うん。そういうのだって、誰かの創作っていえるようなものになってるわけじゃないですか。そういうありかたも、こういう時代特有なのかなって気もするし。
千房:そうですね、うん……うん。
渡邉:そうですねえ……たしかに全体を俯瞰しようとするあまり、拡散した感は否めないので、次はサーヴィスごとに固有の質感とか、それこそPaint FXとかPost Internet[*23]みたいな個別のムーヴメントについて掘り下げるのがよいのかなと思います。もちろんサーヴィスの背景にあるクラスタの問題もアリだとは思いますが。
千房:あとなんか……Botと人間の違いみたいなところもけっこう気になるんですよね。
渡邉:たしかにTwitter上にいろいろなBotがいますが、それがBotなのか人間なのか、っていうのはどうでもよくなってきていますね。Botが精巧になってきているということもあるし、それこそyoupyさんとかfuba様みたいに人としての知性を感じさせない言動を繰り返す人もいるということもある。
千房:じゃあ人間とBotどう違うの?とか。Ustの視聴者数「1」が自分みたいな(笑)……そこらへんの、ネット上での人間の存在感の問題ってすごいあるような気がして。
渡邉:有名人ができちゃった結婚をしたり、亡くなったりしたときに、ご本人とか関係者のウェブサイトにアクセスすると、すごく重いときがあるんですね。そうすると「ああ、いまみんなと一緒にいるんだな」と思ったりしますね。野次馬が集まってる感じです。そういうのは昔からありましたね。ただ、最近はブロードバンドが普及し、サーバのバックボーンも大きくなっているので、あまり起きなくなりましたけど。
千房:まえCBCNETでやってた、Merce Deathのライヴ[*24]。Ustreamでライヴやってたんですよ。四つぐらい画面使って。それにアクセスが集中しちゃって、Service Unavailableになっちゃった。その感じが、なんかほんとにみんな……
栗田:そう、(定員)300人のライヴハウスに入れないみたいな…
畠中:
千房:狭いライヴハウスの外から、[覗き込む動作をしながら]こう……たまに見えるみたいな。
栗田:そうそう。あれはすごい感動的なライヴだった(笑)。
渡邉:あと、Ustの遅延をあらかじめ織り込んで演奏できる大野さんの感性も、今回の話とちょっと関係する部分もあるでしょうね。
栗田:そのインターネットはこっち側なのかあっち側なのかって。
渡邉:どっちで演奏してんの?みたいな(笑)。
栗田:しかもそれぞれの回線の状況でみんな見てるライヴが違うのとか、すごいインターネットっぽかった。みんな違うものを見ているんだけど、一体感があった。
千房:あとさっきの話で、ずいぶん戻っちゃうけど……コンテクストが消失するとかって話。それってどういうことだったんでしたっけ?
栗田:簡単にいうと、それぞれのTLが違うみたいな話。
千房:ああ。だからもう、同じことがいえなくなっちゃうみたいな。
栗田:そうそう、同じものを見てるとは限らないって。
谷口:印刷物だったら、みんな同じクオリティで同じものが印刷されるから、同じものを見てるっていえるんだけど、ウェブだと、Firefoxで見るのとSafariで見るのでは全然レンダリングが違っていて、フォントも違うかもしれないし、(作るのが)へたくそだとレイアウトが変わっちゃうしみたいなことがある。Twitterだったら、フォローしてる人が違うからユーザーそれぞれで見ているタイムライン、情報が全然違うって話ですよね。
千房:昔のほうがめちゃくちゃ違ったじゃないですか。90年代にウェブ制作やってたときは、その違いはすごく好きでしたけどね。印刷物とかだと、同じものをみんなが見てるって前提で話が進むけど、でも本当は実際には見てるものって人によって違うはずですよね。目が悪い人いい人でも違うし、いろいろな条件で変わってくるし……そもそも同じものを見ているのかどうかって確かめる手段がない。だからウェブは、実際に全員バラバラのものを見てるということが目の前で証明されてるって感じで、すごい気持ちよかった。
渡邉:テクスト論みたいな話だね。
谷口:ハナからみんな違うみたいな。
千房:うん、そうそうそう。それを大前提にして作れる世界ってすごいいいなって思って。……まあ拡散しますけどね(笑)
(一同笑)

千房:でも……拡散するほうがいいな(笑)
渡邉:そういう意味では、ここからが本番ですよ(笑)
(一同笑)
谷口:でもいまの話の流れだと、人の気配みたいなことが、少し筋としてありましたよね。数字の「1」とか、アクセス負荷でみんな来てる感じがするっていうか。
千房:それもね、インターネット・リアリティ……
谷口:たとえば次に話題をしぼるとしたら、インターネットにおける人の存在感はどういうとこに感じられるかみたいなことから、まず……基準というか想定される人間像を……つまりこのインターネット展覧会に作品見に来てくれる人たちってのが、どんな人たちなのかなっていうことから(笑)、それはカウンターの「1」なのかもしれないし、みたいな。
千房:そこでひとつ、できちゃいそうですよね。
谷口:ていうのはできるのかもしれないですね。
千房:あとネット上の物理法則みたいなのを一回やってみるとか……
渡邉&谷口:うん
渡邉:あと、今日はデスクトップ・リアリティの話をあまりしなかった気がするんですけど。
千房:ああ
渡邉:なにかしら確実に差異はあると思うので、そういった部分を整理してもいいのかなと。先ほど、畠中さんが二つの軸が錯綜しているとおっしゃっていましたけど、その軸がデスクトップ・リアリティとインターネット・リアリティなのかな、などとも思いました。
千房:うちが前やった《Desktop BAM》っていう、マウスカーソルをコントロールしてライヴするやつがあって。それは、デスクトップ上でQuickTime Playerをバーッて並べて、ものすごいスピードでこう……スクリプト制御してるから、人間の手を超えたスピードでバババババッて演奏するんですよ。それ見てると、やっぱりマウスカーソルって人間がコントロールするものだから、それが高速で動くとなんかすごいことが起きてるって感じがする。実際はそんなのコンピュータからしたら当たり前なんだけど、でもマウスカーソルが動かされることで、なんかこう……超越的な身体性が感じられてくる(笑)っていうのは、インターネット・リアリティじゃないけど、デスクトップ・リアリティかなと思って。
youpy:shiwasu.appもそんな感じがする。
谷口:ああそうですね、僕が昔作った……
渡邉:shiwasu.appなつかしい!
谷口:起動すると、マウスカーソルがランダムにいろんな方向にいって、一回クリックしてそこで「shiwasu(師走)」ってキーを叩くっていう……で、これを高速で数十回繰り返す、いやがらせみたいなアプリですね。
千房:ああ
youpy:で、そのときiTunesをたまたま開いてて、「師走」ってプレイリストができた。
(一同笑)
youpy:それすげえと思って。
渡邉:奇跡ですね
栗田:すごいそれ(笑)
谷口:竹田(大純)さんはそれでお母さんにメール送ったって……
渡邉:「師走」ってメールを送った。
千房:それおもしろいね。
谷口:いまの話は、マウスカーソルが人称っていうか人格っぽいものになってるってことで、それはエキソニモの《祈》もそうだけど、マウスカーソルが人の手を想起させるという……
千房:《Desktop BAM》のほかに《断末魔ウス》(2007)って作品もあって、雑誌でその作品のことを書いたときに、なんかコンピュータの身体性がどうのこうのって書いてて[*25]。そのときに、間違って「コンピュータの身体性」って書いちゃったんだけど、名古屋で水野(勝仁)さんという、けっこういろいろメディア・アートの批評とかやってる人が、そこにすごい反応して。それで逆にこっちも、「あ、〈コンピュータの身体性〉って言葉おもしろいな」みたいな感じで(笑)、コンピュータの身体性をテーマにして《Desktop BAM》を作ったりして。コンピュータに身体はないから矛盾してるけど、「コンピュータの身体性」っていえるっておもしろいな、と。うん。ネットではないけど。
谷口:まとまらない……
千房:まとまらない……
渡邉:まとまらない……
(一同笑)
畠中:まあ、今日はこういう感じでいいかなと思いますけどね。次回にね、テーマをしぼって話をしていければ、と思うんですけど。……どうでしょうか、なにか言い忘れてるとか(笑)、あれば。
一同:………
畠中:うん、まあ……
(一同笑)
畠中:インターネット・リアリティという言葉をどう掘り下げていくかということが、それぞれの中にたくさんあるんだと思うんですけど、それを次回からはまとめていく……まとめるというか、テーマをちょっとしぼっていきましょう。ただ、今日いろいろ出たものは、最初に千房さんからありましたけど、見取り図みたいにして整理すると見えやすくなるんじゃないかという気がしました。だからそのあたりは整理しつつ、また次回……って、まだ決まってないですけど(笑)、二回目につなげていきたいなと思いますが。
千房:そうですね。まあ僕は、予想以上にインターネット・リアリティっていうのが共有できてる、できたような気がして(笑)。
畠中:うん
千房:まあ見てる人まで伝わってるかどうかは……自信ないけど。
(一同爆笑)
畠中:まあ…そうね、ここにいる……まあ我々は感覚的には共有できたところがあったかもしれません。うんうん。いや、でも……わかったと思いますよ。といったところで。
(一同笑)
畠中:いいのかな? ちょっと……まとめにはなってないですけど。いろんな事例が出たってことでいいかなと思うし、次に続けやすくなってるのではないかと思います。

千房:そうですね。一つひとつテーマしぼって、人を呼んだりすると、おもしろいんじゃないですかね。
畠中:そうですね。これはある種の公開研究会みたいなもので。いずれ文字起こししたりする予定ですけど。時期はあんまり期待しないでいただくとして(笑)。それで次回に続けつつ、今年度のウェブ企画のほうにも、ご期待いただければ、というところでしょうか。
特別ゲスト、急に来たyoupyさんと、千房さん、渡邉さん、谷口さん、栗田さん。どうもありがとうございました。
畠中以外:ありがとうございました。

[終わり]

脚注

*1
iPhoneが発売されてからまだ5年も経っていませんが:iPhoneは2007年6月発売。2008年7月に後継機種iPhone 3Gが日本でも発売された。
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*2
《IAMTVTUNERINTERFACE》:参考⇒ http://www.vimeo.com/702662
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*3
《UNIQLO_(SUPER)GRID》:参考⇒ http://redundant-web.net/09_watanabe.html
http://watanabetomoya.com/work/supergrid/
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*4
IS Parade: Twitterのユーザー名やキーワードを入力すると、そのフォロワーやキーワードを発したユーザーたちのアイコンがキャラクターになり、ブラウザ上を行進する。auのISシリーズのプロモーションとして企画され、制作者の林智彦、千房けん輔、小山智彦は平成22年度(第14回)文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門大賞を受賞。
http://archives.aid-dcc.com/isparade/
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*5
《somehow camera》:参考⇒ http://watanabetomoya.com/work/somehow-camera/
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*6
Max/MSPでいったら単なるbangですからね:bangは、Max/MSPにおける特別なメッセージ(オブジェクトから別のオブジェクトへ渡される情報)の型。bangメッセージを受け取ったオブジェクトは、それをきっかけにオブジェクト自身がもつタスクを実行する。
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*7
《jump from...》:参考⇒ http://okikata.org/work/work/jump-from.html
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*8
《夜の12時をすぎてから今日のことを明日っていうとそれが今日なのか明日なのかわからなくなる》:参考⇒ http://okikata.org/work/work/12.html
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*9
《lens-less camera》:参考⇒ http://okikata.org/work/study/lens-less-camera.html
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*10
最近(Twitter上で)アーサー・C・クラークが死んだっていうニュースがあったじゃない?:2011年7月22日、Twitterのナヴィゲーション・サイトのアカウントがアーサー・C・クラークの死去を報じた古いニュース記事についてツイートしたことをきっかけに、多くの人がTwitter上で哀悼の意を表した。実際は2008年3月19日に逝去。
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*11
TwitterのOAuth:OAuthは、ウェブ・サーヴィス間でユーザーの認可情報を移譲させるために開発されたオープンなプロトコル。ユーザーは、外部サーヴィスにすべての権限を与えることなく、自分の同意のもとに必要最小限の権限のみを移譲することができる。Twitter社のブレイン・クックらを中心に、2007年12月にOAuth Core 1.0の仕様が策定された。
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*12
ジョン・ラフマンとかのあれ:さまざまなアーティストが、Googleストリートビューに掲載されている画像を自分の作品に利用している。ジョン・ラフマンは、Googleストリートビューから、アクシデントなどの“決定的瞬間”やカメラ故障によるノイズが混入した画像などを収集するプロジェクト「Nine Eyes」で知られる。
http://9-eyes.com/
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*13
《twitter骰子一擲》:参考⇒ http://okikata.org/work/study/twitter.html
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*14
Twitterにおける「現在」の表示が……〈現在〉は30秒なんですよ:実際には、使用するクライアントの違いなどによって、2—30秒でばらつきが出る。
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*15
Turntable.fm:現在はライセンス上の制約によりアメリカ合衆国からしか利用できない。
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*16
昔、ゼロワン……「どっちがオリジナルですか?」みたいなのをやったりとか:0100101110101101.org《Copies》(1999)のこと。jodi.orgのほかにHell.com、Art.Teleportacia.org がコピーされた。三つのコピーサイトは現在も彼らのサイト内で見ることができる。
http://www.0100101110101101.org/home/copies/index.html
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*17
ICCの最初の企画で1991年に「電話網の中の見えないミュージアム」という展覧会がありました:会期:1991年3月15—29日
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*18
フィッシュリ&ヴァイスの……キッチンの上でこういろいろもの組み合わせる作品あるじゃないですか:ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイス「均衡」(1984/85)のこと。不安定な状態で組み合わせた日用品がなす一瞬の均衡状態を撮影し、「つかのまの彫刻」としてさまざまなタイトルをつけた写真作品のシリーズ。
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*19
ucnvさんが,このまえグリッチについてプレゼンしていたんですけど:「Visual Glitch, using Ruby」(「日本Ruby会議2011」、2011年7月18日)
http://rubykaigi.org/2011/ja/schedule/details/18S02
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*20
SPEED SHOWっていうイヴェント:アーティスト、アラム・バルトル(Aram BARTHOLL)が2010年に始めたプロジェクト。インターネット・カフェにあるパソコンを全て借り切り、そのパソコンで作品を鑑賞する一晩だけの展覧会を行なう。出品作品は、一般的なブラウザやプラグイン、もしくはパソコンにプリインストールされたソフトウェア(インスタント・メッセンジャーやヴィデオ・チャットなど)だけで鑑賞可能でなければならないという決まりがある。
http://speedshow.net/
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*21
Amazon Mechanical Turk:Amazonのウェブ・サーヴィスのひとつ。プログラマー(リクエスター)がコンピュータだけで処理するのが困難な仕事を「タスク」として登録すると、ワーカーと呼ばれる人がそのリストのなかからタスクを選択し実行するシステム。ワーカーは、労働の対価として金銭的報酬を得ることができる。サーヴィス名は、18世紀の発明家ヴォルフガング・フォン・ケンペレンが開発した“オートマタ”「The Turk」(実際は中で人が操作していた)に由来する。
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*22
《Ten Thousand Cents》:参考⇒ http://www.tenthousandcents.com/
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*23
Post Internet:インターネットが浸透し、それが特別なものではなくなった状態。さらにはそれを前提としたインターネットでの表現活動の潮流。2008年ごろにアーティスト/批評家/キュレーターのマリサ・オルソン(Marisa OLSON)によってその呼称が考案されたといわれており、その後2009年から2010年にかけて、批評家のジーン・マクヒュー(Gene McHUGH)が同名のブログ http://122909a.com/ にて、その詳細な定義や作品紹介を行なっていた。[渡邉]
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*24
まえCBCNETでやってた、Merce Deathのライヴ:Merce Deathは、大野真吾による一人バンド。別々の場所にいる複数の演奏者がそれぞれUstreamで中継しながら即興演奏を行なう「World Jam Band」というプロジェクトを2007年から行なっている。CBCNETでは、大野による連載の最終回として2010年7月12日に「World Jam Band」のライヴが開催された。
http://www.cbc-net.com/dots/shingo_ohno/06/
参考⇒ 「リアルタイム・ウェブの現在とこれから」http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20100504(2010年5月4日、ICC)
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*25
雑誌でその作品のことを書いたときに、なんかコンピュータのなんか身体性がどうのこうのって書いてて:カーソルって、中途半端な存在なんですよね。映像なんだけど、映像とはみなされない。動画を再生する時は、脇に避けられる。動きがカクると、不安に思われる。画面の中にありつつ、自分自身の身体の一部のような存在。みんなが当たり前に受け入れているんだけど、それが何なのか、ちゃんと理解されていません。コンピュータの身体性を語る上で、カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます。——「exonemo’s view:〈カーソル〉」(『Web Designing』Vol. 108(2010年7月)特集2「エキソニモが知っている」、p.77)より
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座談会「インターネット・リアリティとは?」

2013年2月13日 発行 初版

著  者:インターネット・リアリティ研究会
発  行:インターネット・リアリティ研究会+ICC

制  作:大岡寛典事務所/畑友理恵

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bcck: http://bccks.jp/bcck/00112840/info
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