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リアルサウンド

~ 風のリグレット



企画・監督
飯野賢治


脚本
坂元裕二






 飯 野 賢 治 氏 の ご 逝 去 を 心 よ り 悼 み、

 ご 冥 福 を お 祈 り い た し ま す。



 この本は、二〇一三年二月二○日に亡くなられたゲームクリエイター、飯野賢治氏の作品『リアルサウンド ~風のリグレット~』の脚本を、PC/携帯デバイスなどでの閲覧を目的として脚本家坂元裕二氏が公開されたテキストを、BCCKSで再編集させていただいたものです。
 元原稿はそのままに、読みやすさを考慮した整形を加えています。
 ※間違いなどございましたら、お手数ですが TwitterID:jamyama までお寄せください。



PCではBCCKS上で Google Chrome、Safari最新版でお読みいただけます。デバイスでは、リーダーアプリ「bccks reader」およびEPUBファイルをダウンロードして対応リーダーでお読みください。

坂元裕二氏が作品を公開されたページからの最終更新を引用

2013年02月23日05:33 説明
脚本家の坂元裕二と申します。飯野賢治さんと一緒に作ったゲームの脚本をここにアップします。
1996年、飯野さんと共に壱岐島や尾道に旅行することを経て、書いたものです。飯野さんは26歳で、僕は29歳でした。飯野さんのブログにその当時のことが書かれています。
http://blog.neoteny.com/eno/archives/2008_03_post_328.html

HTMLファイルで一括してアップしました。こちらでダウンロード出来ます。
http://u6.getuploader.com/kohta/download/645/realsound.html
予備 http://u6.getuploader.com/kohta/download/646/realsound.html

これで最終更新となり、放置しておきます。
転載される場合は飯野賢治企画監督作品として明記していただければと思います。



── 第 一 部 ──

      ○

   時を刻み、時計がかちかちと鳴っている。
   主人公、野々村博司のモノローグがかぶさる。



博司(M) 「時に人と人との出会いが、はじめてじゃないような気がするのは、何も前世なんて言葉で解決するようなことでは無いのかもしれない。幼いころ、まるでそれが世界のすべてかのように愛した、自転車や虫かごや学校の裏山も、今では何も思い出せず、遠い霧の向こうに音もたてずに隠れている。けれど記憶喪失の人間が自転車の乗り方は忘れないように、それは決して消えてなくなったわけではなく、ある日突然、霧は晴れる」


   蝉の鳴き声。
   小学校の始業ベルが鳴り響く。
   廊下を走り抜ける何人もの子供たちの足音。
   黒板を打つチョークの音が聞こえる。
   教室内で算数の授業が行われており、先生が簡単な計算式について教えている。
   扉が開く。


先 生 「どうした?」
少 女 「寝坊です」
先 生 「席に着きなさい」

   歩く少女、椅子に座る。
   隣の席の少年(幼い頃の博司)が小声で話しかける。


少 年 「朝、迎えに行ったのに」
少 女 「ごめん」
少 年 「今夜さ、十九号が来るんだって」
少 女 「十九号?」
少 年 「台風さ」
少 女 「台風?」
少 年 「すげえ大きいんだって。なあ、見にいかない?」
少 女 「いいけど──」
少 年 「なあ、何で朝出てこなかったんだ?」
少 女 「おじいちゃん、死んじゃったの」
少 年 「おじいちゃん?」
少 女 「死んじゃったの」
少 年 「──ふーん」
少 女 「何ページ?」
少 年 「百五十二──君んちさ、父さんも母さんもいないんだろ」
少 女 「いないよ」
少 年 「おじいちゃんしかいなかったんだろ」
少 女 「いなかったよ」
少 年 「どうすんの?」
少 女 「東京のおじさんちに行くの」
少 年 「東京?」
少 女 「転校するの」
少 年 「だって転校してきたばっかりだよ。いつ?」
少 女 「夏休みになったらすぐ」
少 年 「明日から夏休みだよ。じゃあ会えるの今日だけじゃん」
少 女 「かな」
少 年 「そっかあ──東京、行きたくないのか?」
少 女 「しょうがないし」
少 年 「──なあなあ、二人でさ、どっか逃げるってのはどう?」
少 女 「え?」
少 年 「学校とか行くのやめて、家とかも帰るのやめてさ、どっか行くの」
少 女 「どっか?」
少 年 「どっか」
少 女 「どっかって?」
少 年 「だから──ゴッホだよ」
少 女 「ゴッホ? 何処、それ。遠いの?」
少 年 「遠いかも。けど、すげえ綺麗なとこなんだよ。前にさ、絵で見たんだ」
少 女 「絵で?」
少 年 「うん、青い夜の絵。夜が青いんだ。海みたいに広い広い麦畑があってさ、ずうっと向こうの方まで何にも見えなくて、星があって月があって、他には何にもないんだけど、なんかさ、なんか起こりそうな感じがするんだ。どきどきしてさ、心臓が破裂するかと思ったよ。その絵のさ、下んとこ見たらゴッホって書いてあった」
少 女 「ふーん」
少 年 「ゴッホ、行く?」
少 女 「うん、行く。ねえ、それって駆け落ち?」
少 年 「え?」
少 女 「駆け落ちっていうのよ、男子と女子が一緒にどっか行くこと」
少 年 「じゃあ、それだ」
少 女 「わたし、東京行かなくてもいいのね」
少 年 「うん、行かなくてもいいよ」




   時を刻む時計の音。

博司(M) 「あの頃僕らはまだ幼くて、たぶん恋をしていたけれど、恋が何なのかは知らなかった。おしっこが漏れそうになったらトイレに行く。石ころを見つけたら川に投げる。先生に怒られたら廊下に立つ。蛙を見つけたら女の子のランドセルに入れる。だけど恋をした時はどうすればいいんだろ。僕たちは恋の使い道がわからなくて、それがいつも僕らの宿題だった」

   終業のベルが鳴る。
   放課後の帰り道、歩いている少年。
   追いかけてくる少女。


少 女 「ねえ、どうする?」
少 年 「何が?」
少 女 「もう忘れたの、一緒に駆け落ちするんでしょ?」
少 年 「あ、そうだ。なあ、それさ、台風見に行ったあとでいいかな? 台風、見たいんだ」
少 女 「いいよ」
少 年 「本当? うんと高いところがいいんだ。時計塔とかさ、あそこからなら見えるよ」
少 女 「あんなとこ登れるのかな」
少 年 「役場のおじさんが掃除してるとこ見たことあるんだ。中に階段とかあるし、絶対登れるよ」
少 女 「うん」
少 年 「じゃあ、時計台の前に、七時に待ち合わせしよう」
少 女 「うん。ちゃんと忘れないで来てね」
少 年 「忘れないよ」
少 女 「絶対よ」
少 年 「絶対行くって。どうせ明日から夏休みだし」
少 女 「夏休みが終わったら、駆け落ち終わりなの?」
少 年 「終わらないよ、夏休みが終わっても、ずっと僕らだけ夏休みなんだ」
少 女 「ずっと夏休み?」
少 年 「うん、ずっと夏休み」
少 女 「ねえ、こっち来て」

   道から外れ、草むらに入り込む。
   草をかき分け、倒れ込む。



少 年 「何?」
少 女 「野々村くんさ、キス、したことある?」
少 年 「え、何、何言ってんの──」
少 女 「無いんでしょ? ねえ、しようか? キス」
少 年 「──うん」
少 女 「じゃあ、目つむって」
少 年 「うん」
少年・少女 「せーの」

   風に草木が騒ぎ、虫が鳴いている。

博司(M) 「小鳥が挨拶したように、かちんと音の鳴りそうなそんな不器用なくちづけだった」


少 女 「誰にも言っちゃ駄目よ、わたしたちだけの秘密よ」
少 年 「うん」
少 女 「ありがとう」
少 年 「何が?」
少 女 「ううん。またあとでね」
少 年 「うん。七時に時計台の前でな!」

   再び時計の音が聞こえてくる。

博司(M) 「だけどその夜、僕らが時計台で会うことはなかった。夏休みが永遠に続くようなことはなく、予定どおり八月三十一日に終わり、そしてあれから十年とちょっとの年月が流れ、僕は大人になった。大人になった今も、あの日どうして彼女が時計台に来なかったのか、恋をした時はどうすればいいのか、何ひとつわからずにいる。何ひとつ」

   時計が鳴りやみ、目覚ましの音が鳴り響く。

      ○

   目覚ましの音が止められる。

女の声 「野々村くん──? 野々村くん──?」

   博司が寝起きの声で、

博 司 「あ?」

   博司の恋人、桜井泉水が傍らにいる。

博 司 「泉水──何時?」
泉 水 「三時過ぎてる。今日ゼミ出なかったの? そんなんじゃ単位取れないよ?」
博 司 「ああ──」

   歯磨きしてる博司。

博 司 「(歯を磨きながら、何かもごもご言う)」
泉 水 「何?」
博 司 「(もごもごと言う)」
泉 水 「夢?」
博 司 「うん」

   歯磨きを出し、うがいをする博司。

博 司 「夢見てたんだ。ほら、あの夏の、台風の夜のこと」
泉 水 「台風の夜?」
博 司 「小学校の時一緒に駆け落ちしようとか言ってた時のさ」
泉 水 「またその話?」
博 司 「なあ、あん時、どうして来なかったんだ? 俺時計台のとこでずっと待ってたのにさ」
泉 水 「──忘れちゃった」

   さっとカーテンを開き、窓を開ける。
   蝉の声が聞こえる。


博 司 「もう夏だな」
泉 水 「うん」

   息を吸い込む泉水。

泉 水 「雨、降るのかな? 雨降る前のちょっとぬるい感じって好き」

   息を吸い込む博司。

博 司 「本当だ。天気予報何て言ってたっけな? 台風来てたりしてな」
泉 水 「野々村くん?」
博 司 「うん?」

   間。

泉 水 「──歯磨き粉の味がする」
博 司 「夏休み入ったら、どっか海でも行こうか?」
泉 水 「就職の内定も取れてないのに、そんなにのんびりしてていいの?」
博 司 「はい、そうでした」
泉 水 「さ、早く着替えて。せっかくうちの会社の人事の小比木部長紹介してあげるのに、これで遅刻しちゃったら行くとこなくなっちゃうわよ」
博 司 「ああ。ごめんな、泉水に就職の世話までしてもらってさ」
泉 水 「気にしないで」
博 司 「なんか自分が情けないよ」
泉 水 「あ、駄目よ、そのネクタイ、小比木部長、あんまり派手なの好きじゃないから」
博 司 「ああ──」

   窓を締め、外の音が止む。

博司(M) 「彼女の名前は桜井泉水。あの夏の駆け落ちは結局彼女が約束の場所に来なかったことで未遂に終わった。それはそれで十年後にこうして付き合っているのだから構わないのだが、けれど、時折何か大切な忘れ物をしているような気がすることがある。とにかく、これから僕の身に起こった幾つかの出来事は、誰の身に起こっても不思議なことでは無いし、実際誰もが通り過ぎて来、ただ忘れてしまっているだけのことなんだ。忘れ物は今も落とし主を待ち続けている──」

      ○

   地下鉄の駅の構内、アナウンスが流れるホームに、
   慌ただしく人々が行き交う。
   博司と泉水が電車を待ってる。


泉 水 「きっと部長さん、博司くんのこと気にいると思うな」
博 司 「だといいけど」
泉 水 「上手く行くわよ」
博 司 「でも、なんか俺が就職するなんて信じられないよ。泉水は短大出てすぐ就職したんだろ? どう?」
泉 水 「うちの会社、結構自由だから、大丈夫よ」
博 司 「ああ──あ、そういや昨夜電話したんだけどさ、どっか出掛けてた?」
泉 水 「え? あ──ごめん、寝てたのかな」
博 司 「何回か電話したんだけど」
泉 水 「ものすごい寝ちゃってたから」
博 司 「そっか、俺てっきり──」

   何かに気付き、ふいに言葉が途切れる博司。

博司(M) 「あの娘──?」

   何かに目を奪われている博司に声をかける泉水。

泉 水 「どうしたの?」
博 司 「あれ」
泉 水 「何?」
博 司 「ほら、そこにいる、あの娘」
泉 水 「うん? ああ──どうしたの?」
博 司 「ほら、あの娘、胸んとこのポケットん中に──」
泉 水 「何?」
博 司 「見えない? シャツの胸ポケットの中に──」
泉 水 「何?」
博 司 「鳥」
泉 水 「鳥──?」
博 司 「ああ、ポケットん中にほら、ツグミかな? 入れてるんだ──」
泉 水 「ほんと──」

   かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。
   鳴き声をさえぎって、白線までお下がりくださいの声と共に、
   電車がホームに入ってくる。
   扉が開き、乗り込む人々。
   博司と泉水も乗り込み、走りだす。
   車内──、


車掌の声 「ご乗車ありがとうございます。次は、※※~ ※※~」
博 司 「大丈夫かな?」
泉 水 「うん?」
博 司 「さっきの娘も乗ってるよ。結構混んでるし、あの鳥潰されちゃうんじゃないかな」
泉 水 「うん──」

   その時、列車が揺れる。
   倒れそうになる乗客たち。
   博司も誰かにもたれかかってしまったらしく、どん
   とぶつかる。


博 司 「あ、ごめんなさい」
男の声 「いえ──」
博 司 「泉水? 大丈夫か?」
泉 水 「──」
博 司 「どした?」
泉 水 「──うん? 何?」
博 司 「いや、何かあった──?」
泉 水 「ううん、別に」
車掌の声 「※※~ ※※~(と、駅名を告げる)」

   駅に電車が到着する。
   扉が開いて、人々が降車する中、小さく鳥の鳴き声が横切る。


博 司 「あの娘、ここで降りるみたいだな──」
泉 水 「あ、ねえ」
博 司 「うん?」
泉 水 「ごめん、忘れ物してた」
博 司 「忘れ物?」
泉 水 「わたし、ここで降りる」
博 司 「何で? じゃあ俺も行くよ、何、ガスの元栓?」
泉 水 「ううん、ごめん、今日キャンセルさせて?」
博 司 「え!? 何だよ急に、人事部長待って頂いてるんじゃないのか?」
泉 水 「わたしから連絡入れとくから。ごめんね、夜、電話する」
博 司 「お、おい、どうしたんだよ──!」

   扉が閉まり、再び走りだす電車。

博司(M) 「けれどその夜、彼女からの電話は一度として鳴ることは無かった」

      ○

   廊下を歩いてくる博司、部屋のインターフォンを鳴らす。

博司(M) 「次の日になっても連絡は取れず、彼女の部屋をたずねてみた」

   繰り返し鳴らすが、返事は無い。

博 司 「(ため息)」

   廊下を引き返す。
   公衆電話に入り、プッシュフォンを押す。
   呼び出し音が鳴り続くばかりで、相手が出ない。


博司(M) 「さらに三日が過ぎ、何人かの友人たちにそれとなく聞いてみたが、彼女の行方を知っている者はひとりもいなかった。これって、もしかしたらきっと、普通、一般的には、失踪と呼ばれることなのかもしれない」

      ○

   博司の部屋。
   ふいに電話が鳴り、慌てて出る。


博 司 「もしもし──!」
男の声 「あ、俺、俺、麻雀のメンツ一人足りないんだけどさ?」
博 司 「(がっかりし)悪い、今忙しいんだ」

   受話器を置く。

博司(M) 「忙しいもんか。一日中電話の前に座ってるだけなんだ。この五日間、何度も最後に会った日のことを思い出してみた。何か彼女を傷つけるようなことを言ってしまったんだろうか──ごめん、忘れ物してた、わたし、ここで降りる──その前、その少し前。電車ががくっと揺れて──そしたら何かを思い出したように彼女は──何を? 彼女は何を思い出したんだ? 何を見たんだ?」

   再び電話が鳴り、慌てて受話器を取る。

博 司 「もしもし?」

   やはり相手は男であり、名前は三井武司。

三 井 「もしもし、三井だけど?」
博 司 「ああ──」
三 井 「暗い声だねえ。泉水ちゃんからまだ連絡無いんだろ?」
博 司 「切るぞ」
三 井 「就職先もまだ決まってないんだろ?」
博 司 「──ああ、実は彼女が紹介してくれる会社、あてにしてたからな、結構危ないんだ」
三 井 「困ったことになったな」
博 司 「まあ、就職のことは彼女に頼ってた俺が悪いんだけど、それより彼女が何か事故にあったんじゃないかと思ってさ──」
三 井 「事故じゃないよ」
博 司 「どうしてそう思う?」
三 井 「四五日前の夜、泉水ちゃんのこと見たって奴がいてさ」
博 司 「四五日前!? 泉水がいなくなった頃だよ。何処で!? 何処で見たんだ!?」
三 井 「表参道のファミレスにいたらしいよ」
博 司 「ファミレス? 何してたんだ? 一人でいたのか?」
三 井 「(口ごもり)さあ、そこまでは知らないけど──とにかく俺が聞いたのは、それだけだから」
博 司 「そっか──ありがとう」
三 井 「まあ、あんまり心配するなよ。泉水ちゃん、意外としっかりしてるしさ」
博 司 「ああ──とりあえずもう一回部屋の方に行ってみるよ」

   受話器が置かれる。
   扉が閉まり、鍵がかけられる。
   誰もいなくなった部屋で、電話が鳴りだす。
   留守電に切り替わる。


留守電の声 「もしもし、ただいま外出しております。御用の方は発信音のあとメッセージをお願いします」

   発信音が鳴り、先方の声が入る。
   咳払いをし、風邪をひいたような感じだが、トーンとしては明るい声だ。


女の声 「もしもし、野々村くん? もしもし、いませんか? 留守ですか? ええっと、泉水です。また電話します」

   あっさりと切れる。

留守電の声 「六月十一日、午後八時五分、伝言一件です」

      ○

   廊下を歩いてくる博司。
   部屋のインターフォンを押す。
   案の定返事は無く、ノックしてみる。


博 司 「泉水──? 泉水──?」

   繰り返しノックするが、返事は無い。
   廊下を戻り、歩いていく。


博司(M) 「ドアが開かなくてもわかる。泉水はもうここにはいない。あきらめて引き返そうとしたその時、ひとりの女が階段を駆け上がって来た。すぐにはその女が誰なのかわからなかったけれど、すれ違ったその時──」

   ふと鳥の鳴き声が聞こえる。

博司(M) 「え──?」

   鳥の鳴き声が近づいてくる。
   はっきりと聞こえる。


博司(M) 「あ、あの娘──」

   部屋の扉がノックされる。

博司(M) 「どうして泉水の部屋のドアをノックするんだ?」

   繰り返し、ノックされる。

博司(M) 「泉水と知り合いだったのか?」

   引き返し、駆け足で廊下を戻る博司。

博司(M) 「知らないところで何かが起こっている、そんな気がした。泉水が少し遠く思えた」

   声をかける。

博 司 「あの──?」

   彼女の名前は、高村菜々。

菜 々 「うん?」
博 司 「どなたですか?」
菜 々 「わたし?」
博 司 「君、前に会ったことあるよね」
菜 々 「え──」
博 司 「あるよ」
菜 々 「どこで?」
博 司 「会ったっていうか、前に地下鉄で君を見かけたことがあるんだ」
菜 々 「あ──」
博 司 「うん、ほら、その鳥でおぼえてるんだ」
菜 々 「ああ」
博 司 「この部屋の人に何か用なの?」
菜 々 「用っていうか、これ拾ったの」
博 司 「手帳? あ、泉水の手帳だ」
菜 々 「そう、桜井泉水さん。中に住所が書いてあったから届けに来たの」
博 司 「そうだったんだ。あん時落としたんだな。ありがとう」
菜 々 「何?」
博 司 「いや、わざわざありがとう。僕から渡しとくよ」
菜 々 「君には渡せないの」
博 司 「どうして?」
菜 々 「だって君は桜井泉水さんじゃないでしょ?」
博 司 「そりゃそうだけど、僕はほら彼女の──」
菜 々 「他人の手帳を勝手に見ちゃいけないでしょ?」
博 司 「そりゃそうだけど、だから僕は彼女の──」
菜 々 「彼氏?」
博 司 「彼氏」
菜 々 「彼氏にも読まれたくないようなことが書いてあるかもしれないじゃない?」
博 司 「僕にも読まれたくないようなことが書いてあるの?」
菜 々 「それは知らないけど──」
博 司 「けど、中見たんだよね?」
菜 々 「見たような見てないような──とにかく直接本人に手渡すから」
博 司 「その本人がいないんだよ」
菜 々 「いない?」
博 司 「いなくなっちまったんだ、君がその手帳を拾った日に」
菜 々 「ふーん」
博 司 「何度電話してもいないし、こうしてここに訪ねて来てもずっと留守なんだ」
菜 々 「ふーん」
博 司 「だからその手帳は何か手掛かりになるかもしれないし」
菜 々 「大げさね。中にいるんじゃないの?」
博 司 「いないんだ」
菜 々 「だから、ほら、うんこして紙が無くて、トイレから出れないとか?」
博 司 「五日間も?」
菜 々 「それ、相当臭くなってるかもね」
博 司 「──」
菜 々 「あ、怒った?」
博 司 「怒ってません。怒ってないけど、俺はそういう、女の子がうんことかシモネタの話するの好きじゃないんです」
菜 々 「うんこの話して何が悪いのよ、うんこうんこうんこ」
博 司 「耳元でうんこうんこ言うなよ」
菜 々 「じゃあ何、君の泉水ちゃんはうんこしないってわけ?」
博 司 「うんこはするけど、うんこの話はしません──(ため息をつき)そんなことはどうでもいいんだ。第一、君にあれこれ言われる筋合い無いと思う」
菜 々 「あ、そう、じゃあこの手帳は持って帰りますね」
博 司 「返してくれよ」
菜 々 「返します、返しますよ。でも、それは君じゃないの」
博 司 「頼むよ。何か事故とか事件に巻き込まれたかもしれないんだ。今こうしてる間にも彼女が──」
菜 々 「だったら部屋ん中入って確かめてみればいいじゃない」
博 司 「どうやって? 鍵も無いのに」
菜 々 「うーん──じゃあさじゃあさ、ベランダから行ってみれば?」
博 司 「ベランダって、どうやってさ?」
菜 々 「だから──」

   隣の部屋の前に行き、扉を激しくノックする菜々。

菜 々 「こんばんわ? いらっしゃいませんか?」
博 司 「おい、何すんだよ、そっちは隣の部屋──」

   繰り返しノックし、扉が開く。

隣の男 「はい?」
菜 々 「こんばんわ」
隣の男 「こんばんわ──?」
菜 々 「隣の桜井ですけども」
隣の男 「あ、どうも──?」
菜 々 「部屋の鍵失くしちゃったんですけど、もしよかったらおたくのベランダ貸してもらえます?」

      ○

   激しく風が吹きつける。
   博司と菜々は隣の部屋のベランダに立っている。


博 司 「あいつ、隣の住人の顔も知らないんだ」
菜 々 「都会の無関心さってのも時には役に立つのね──ここ、何階だっけ? あ、下見ない方がいいわよ」
博 司 「何で?」
菜 々 「ここ乗り越えて、隣に移るんだから」
博 司 「え──」

   さらに強く風が吹きつける。

菜 々 「手貸して?」
博 司 「止めた方がいいよ。お、おい──!」

   手すりに捕まり、ベランダの向こう側に渡る菜々。

博 司 「危ないってば、落ちるぞ」
菜 々 「うわあ、風すごいね、スカートめくれそう」

   風に菜々のスカートがはためいている。

博 司 「パンツ、見えるぞ」
菜 々 「大丈夫よ、履いてないから」
博 司 「え──」
菜 々 「冗談よ」
博 司 「──手放すぞ」
菜 々 「放すよ」
博 司 「お、おい」

   たん、と無事隣のベランダに降りた。

菜 々 「(息をつき)来れる? 手貸してあげようか?」
博 司 「結構です」

   風が吹きつける中、博司も息を荒くさせながら、向こう側に行く。
   無事に降りる。


博 司 「(息をつく)結構びびるね」
菜 々 「ねえ、窓閉まってるみたいよ」
博 司 「え? そりゃそうだよな──(諦め)しょうがないな」
菜 々 「どうしようか?」
博 司 「だから、しょうがないね」
菜 々 「そうよね、しょうがないよね」
博 司 「うん」
菜 々 「そこの消火器取ってくれる?」
博 司 「何すんの?」
菜 々 「ちょっと離れてて」
博 司 「え?」
菜 々 「せーの」

   激しくガラスが割れる音。

博 司 「あ──! な、何てことすんだよ!?」
菜 々 「自分だってしょうがないねって言ったじゃない」
博 司 「違うよ、俺はしょうがないから引き返そうって──」

   あっさりガラス戸が開けられる。

菜 々 「開いたよ」
博 司 「ちょっと待って」
菜 々 「何?」
博 司 「手帳は見ちゃいけないのに部屋には勝手に上がり込んでもいいわけ?」
菜 々 「あんまり難しいこと聞かないでくれる?」
博 司 「──(ため息)」

      ○

   部屋に入ってきた二人。

博司(M) 「バジル、マジョラム、ローズマリー、レモングラス、ペパーミント、カモミール。泉水は幾つものハーブを部屋で育てていた。そして今その全てが枯れていた──」

   新聞紙などを広げている菜々。

博 司 「何してんだよ?」
菜 々 「ここ、ちゃんと塞いどかないと、泥棒入っちゃうでしょ」
博 司 「もう二人入ってるよ」
菜 々 「どっかガムテープ無いかな──やっぱ誰もいないみたいね。荒らされてる様子は無いけども」
博 司 「けどなんか、ハーブに水もやってないし、もう十日以上帰ってないみたいだ」
菜 々 「五日前には会ったんでしょ?」
博 司 「ああ──ただ、ここんとこずっと俺から連絡取ってもつかまらなくてさ、いつも向こうからだったし。泉水、家帰らないで何処に行ってたんだ?」
菜 々 「わたしに聞かれても」
博 司 「君に聞いてないよ」
菜 々 「怒らないでよ」
博 司 「(ため息をつき)どうなっちまったんだよ──」
菜 々 「──彼女、泉水ちゃんだっけ?」
博 司 「ああ」
菜 々 「どういう付き合いだったの?」
博 司 「どうしてそんなこと聞くの?」
菜 々 「別に──何かいなくなる理由でもあったのかなって」
博 司 「いなくなる理由なんか無いよ──小学校の頃から幼なじみでさ──」
菜 々 「幼なじみ──」
博 司 「ああ、昔からこう、髪が長くて、白いワンピース着て麦わら帽子が似合うような娘でさ、可愛かったんだぜ?君とは大違いでさ?(と、微笑う)」
菜 々 「あ、そう」
博 司 「一度さ、俺たち駆け落ちしようとしたことあってさ?」
菜 々 「駆け落ち?」
博 司 「彼女の家の都合で転校しなきゃいけなくなくなって、それで。子供のくせに馬鹿みたいだろ? まあ、子供だったから余計に純粋に考えてたのかな」
菜 々 「ふーん。それでどうなったの?」
博 司 「彼女が待ち合わせ場所に来なかったんだ。そのまま夏休みの間に彼女、転校しちゃってそれっきりだったんだけどさ、大学で東京来てから偶然再会したってわけ」
菜 々 「ふーん」
博 司 「すぐには思い出せなかったんだけどさ、だんだん、あの頃のことがよみがえって来てさ、運命っていうか、赤い糸っていうか──(自嘲気味に苦笑し)何でこんな話君にしてるんだろ。馬鹿みたいだよな、運命だなんだ言ったって、このざまじゃな。就職は決まらないし、彼女は消えちまうし、情けねえ──(と、ため息)」
菜 々 「──留守電でも聞いてみれば?」
博 司 「留守電?」
菜 々 「何か連絡入ってるかもしれないでしょ?」
博 司 「──(ひと息つき)そうだな」

   受話器を取り、番号を押す。

博 司 「あんまりそこらじゅう触るなよ」
菜 々 「うん、ハーブに水あげとこうと思ってさ」
博 司 「あ、そう」

   暗証番号を押す。

博 司 「あ、一件入ってる──」

   聞き入る。

女の声 「もしもし、野々村くん? もしもし、いませんか? 留守ですか? ええっと、泉水です。また電話します」
博 司 「泉水だ! 泉水から連絡入ってる──!」

   聞き入る博司。
   受話器を置く。


博 司 「──良かった」
菜 々 「何て?」
博 司 「何も──留守しちゃってたから──けど、とりあえず無事だってことだけでもわかったし、なんか風邪ひいてるみたいだったけど、明るい声だったし──」
菜 々 「良かったね」
博 司 「ああ──ああ、失敗したな、こんなことなら家にいればよかった」
菜 々 「──お茶でも入れるね」

   立ち上がり、台所の方に行く菜々。

博 司 「ありがとう──って、ここは君の家じゃないぞ! まったく何考えて──」

   台所の方から声がする。

菜 々 「ねえ、名前、何だっけ?」
博 司 「桜井泉水」
菜 々 「じゃなくて、君の」
博 司 「野々村博司」
菜 々 「野々村博司くん」
博 司 「はい」

   傍らに菜々が来る。

菜 々 「ねえ、これ見て」
博 司 「うん?」
菜 々 「時刻表、あったの」
博 司 「時刻表? どうしてそんなもの──」

   時刻表のページをめくる。

菜 々 「あれ──」
博 司 「うん?」
菜 々 「ねえ、紅茶好き?」
博 司 「あんまり」
菜 々 「君じゃなくて彼女よ?」
博 司 「ああ、よく自分で入れて飲んでた」
菜 々 「アールグレイ」
博 司 「かな」
菜 々 「ほら、アールグレイの葉っぱが落ちてる。彼女きっと紅茶入れながらこのページを見てたのよ。ほら、ペンで印付けてある」
博 司 「何処?」
菜 々 「ええっとね、夜行列車だ」
博 司 「夜行?」
菜 々 「うん、十一時三十三分発──」
博 司 「十一時三十三分──」
菜 々 「うん、ええっと、特急──」
博 司 「かえで?」
菜 々 「うん、そう、特急かえで」
博 司 「そうか──」
菜 々 「知ってるの?」
博 司 「僕と泉水が生まれた街に帰る列車だよ」
菜 々 「何だ、里帰りしてるんじゃない」
博 司 「じゃあ何で俺に言わないで──」
菜 々 「行ってみれば?」
博 司 「え?」
菜 々 「十一時三十三分でしょ? 今から一回家戻ったとしても間に合うんじゃない?」
博 司 「間に合うとは思うけど──」
菜 々 「他に手掛かりは無いんでしょ?」
博 司 「うん──そうだな、家でじっと待っててもしょうがないし、行ってみるか」
菜 々 「うん、行こう」
博 司 「ああ──え? 行こうってどういう意味?」
菜 々 「わたしも行くことにしたの」
博 司 「──はい?」

      ○

   夜の駅。
   騒がしいターミナルは、出発する人、見送る人の群れでごった返している。
   構内アナウンスが流れる。


駅員の声 「十一時三十三分発、特急かえで号は十三番線より間もなく発車致します。ご乗車のお客さまは──」

   歩いてくる博司と菜々。
   列車の前に来る。


博 司 「別に止めはしないし、何処に行こうと君の自由だけど、どういうつもりなわけ?」
菜 々 「だってこの手帳、返さなきゃいけないでしょ?」
博 司 「だからそれは──」
菜 々 「駄目、わたしが直接彼女に手渡すの」
博 司 「──あ、そう」
菜 々 「それに──」
博 司 「それに、何?」
菜 々 「たぶん君ひとりじゃ、彼女見つけられないわよ。わたしが手伝ってあげる」
博 司 「初対面なのに何でそんな──」
菜 々 「初対面じゃないわよ」
博 司 「え──?」
菜 々 「この間地下鉄で会ったでしょ?」
博 司 「ああ、そっか──まあ、いいや、邪魔すんなよ」
菜 々 「はい、野々村博司くん」
博 司 「あ、そういや、まだ名前聞いてなかったな?」
菜 々 「わたし? わたしは菜々」
博 司 「菜々」
菜 々 「そう、高村菜々」
博 司 「高村菜々さん?」
菜 々 「はい」
博 司 「その籠ん中の鳥、何?」
菜 々 「ライカ?」
博 司 「ライカって名前なんだ?」
菜 々 「そう、一緒に連れていこうと思ってさ」
博 司 「何なの、その鳥?」
菜 々 「何って、ライカは、わたしの星座」
博 司 「星座? 牡牛座とか獅子座の?」
菜 々 「そう、わたしの星座」

   籠の中で鳥がはばたき、優しく鳴く。
   列車が発車するベルが鳴り響く。


博司(M) 「こうして僕と菜々との奇妙な旅がはじまった」

      ○

   走る列車内──、
   窓を開けて、外に顔を出す菜々。


菜 々 「ああああああ」
博 司 「鉄柱に顔ぶつけても知らないぞ」
菜 々 「(戻り)わたし、夜行乗るのはじめて」
博 司 「(小声で)周りから白い目で見られてるじゃないかよ」
菜 々 「何よ、せっかくの旅行なんだからもっと楽しそうな顔したら?」
博 司 「楽しくなんかないよ」
菜 々 「楽しくないの?」
博 司 「当たり前だろ。ある日突然彼女が失踪したんだから」
菜 々 「まあ、その気持ちもわかるけどね」
博 司 「え──君も同じような経験したことあるの?」
菜 々 「うん」
博 司 「そうだったんだ──」
菜 々 「すごく気に入ってたパン屋さんがある日突然、駐車場になってたことがあるの。ショックだったなあ」
博 司 「──(ため息)」
菜 々 「冷凍みかん食べる?」
博 司 「いらない」
菜 々 「冷たくて美味しいのに(と、ほおばる)」
博 司 「少しは寝たら? 着くのは朝になるよ」
菜 々 「どこで降りるの?」
博 司 「阿九美町ってとこ」
菜 々 「阿九美町」
博 司 「そう、そこが僕らの生まれた街」

      ○

   相変わらず列車は走っている。
   静かな夜の中を走っている。
   小声で話す博司と菜々。


菜 々 「ねえ? もう寝ちゃった?」
博 司 「うん?」
菜 々 「眠れないの」
博 司 「だったら静かにしてなよ。他の人たちは寝てるんだから」
菜 々 「ねえ、泉水ちゃんってどんな娘だったの?」
博 司 「泉水は──転校生だったんだ」
菜 々 「うん」
博 司 「小学校の時にさ、転校してきたんだ。今もよく覚えてるんだけど、夏の少し前の日、遅刻しそうで校庭を走ってると、彼女が前を歩いてた。役場の人に連れられて。普通転校生って母親なんかと一緒に来るだろ? けど、彼女は違った。役場の人が、博司くんこの娘と仲良くしてあげてちょうだいって言って、俺、うんって頷いたんだ」
菜 々 「うん」
博 司 「彼女、何でか両親がいなくてさ、おじいちゃんちに、あのおじいちゃんも肉親かどうかわからないけど、一緒に住んでて、その日から俺、一緒に学校から帰ったりとかするようになった」
菜 々 「そして好きになった?」
博 司 「ああ──初恋だった──」

   がたんがたんと小刻みに揺れながら列車が走る。

      ○

   波が寄せては返す。
   海の音に混じり、バスが停車し、そして走る音が重なってくる。


博司(M) 「僕の生まれ育ったこの小さな街は海沿いにあり、細長いその形から、よくへちまにたとえられる。海岸線に沿って街の東西を往復しているバスがあり、その真っ赤な車体がこの街のちょっとした名物になっている。その昔、町長が変わり者だったそうで、都心から払い下げてきた古いバスを、塗り替えたことが由来らしい。地元のひとたちは下品だと言うが、海沿いに真っ赤なバスが走るこの街を、僕は結構気に入っていた」

   駅に着く列車。

車掌の声 「兎来美町~ 兎来美町~」

   駅から出てくる博司と菜々。
   静かに蝉が鳴いている。


菜 々 「(欠伸をし)眠い」
博 司 「だからちゃんと寝ろって言ったろ」
菜 々 「でも、気持ちいい朝」
博 司 「ちょっと俺、そこの公衆電話で留守電聞いてくるよ。泉水から連絡入ってるかもしれないし」
菜 々 「うん」

   電話ボックスに駆け寄り、扉を開く。
   受話器を取り、かける。
   呼び出し音に続き、


留守電の声 「もしもし、ただいま外出──」

   留守電に切り替わるが、暗証番号を押す。
   伝言が流れる。
   風邪気味の声。


女の声 「もしもし、野々村くん? 泉水です。今日も留守みたいね。ええっと、あの──きっと心配してるよね。ごめんね。今はまだ上手く話せないの。とりあえずわたしは元気にしてます──また電話するね」

   受話器を置き、電話ボックスを出る。
   菜々の元に駆け寄り、


博 司 「伝言、入ってたよ」
菜 々 「そう」
博 司 「元気にしてるって」
菜 々 「良かったね」
博 司 「うん──」
菜 々 「どうしたの?」
博 司 「──本当はおとなしく東京で待っててあげる方がいいのかもしれないなと思ってさ」
菜 々 「彼女がそう言ってたの?」
博 司 「いや──」
菜 々 「──ねえ、帰ってきたの久しぶりなんでしょ、懐かしいんじゃない?」
博 司 「けど、だいぶ変わっちゃったから。あんなとこに煙突なんか見えなかったよ。街外れに製紙工場が出来たってのは聞いたことあったけど」
菜 々 「泉水ちゃんもここに降りた時、最初にあの煙突を見たのかな」
博 司 「本当にここに帰って来てるんならね──どっちにしてもこの街に、彼女が消えた鍵があるのかも」
菜 々 「うん」
博 司 「とりあえず、昔の同級生んとこにでも行ってみよう」

      ○

   小学校に博司と菜々が来る。
   放課後のベルが鳴っている。
   校庭で子供たちがドッヂボールをするなどしてる。


博 司 「ここで先生やってる娘がいるんだ。泉水と同じ大学だったし、何か知ってるかもしれない」

   歩いていく菜々、振り返り。

菜 々 「どうしたの? 行かないの?」
博 司 「うん──」
菜 々 「ここなんでしょ?」
博 司 「ああ──ただ、なんとなく、ずっと頭の中にあった風景と違うなってさ」
菜 々 「あ、ここが君の通ってた小学校なんだ?」

   はしゃぎまわる子供たちの声。

菜 々 「子供の頃の記憶なんて、あてにならないものよ」
博 司 「そういうものなのかな──」
菜 々 「わたし、体育館のあたりで待ってるね」
博 司 「ああ──」

   板張りの廊下を歩く。

博司(M) 「決して改築されて見る影もなくなったというわけではない。板張りの校舎も、青い瓦屋根もたぶんあの頃と変わっていない。ただ、自分がおぼえていた──いや、想像していたものとはあまりにもかけ離れた風景が目の前にあった。思い出はいつも、もうひとつの世界を作りだす」

      ○

   たてつけの悪い引き戸を開け、入ってくる博司。

博 司 「すいません、こちらの先生で島田麻実さんいらっしゃいますか?」
教 師 「島田? そんな先生はここにはいませんよ」
博 司 「え──」

   別の席にいた吉川麻実が声をかける。

麻 実 「はいはい、わたしです。何でしょう?」
博 司 「あ、野々村博司と言いますけど──」
麻 実 「野々村くん?」
博 司 「あ、麻実?」
麻 実 「久しぶりイ。わたし、結婚したのよ」
博 司 「そうなんだ。ちょっと時間あるかな?」

   時間経過──、
   廊下を走る子供たちの声。
   話している博司と麻実。


麻 実 「泉水?」
博 司 「最近会ってないか?」
麻 実 「会ってないわ。東京にいた頃何度か会ったけど、こっち戻ってからは全然」
博 司 「そっか」
麻 実 「野々村くん、泉水と東京で会ったことあんの?」
博 司 「うん? うん、まあ、ちょっとね──」

   他の教師が声をかける。

他の教師 「吉川先生、職員会議はじまりますよ」
麻 実 「あ、はい、今行きますから──あ、そうだ、園川くんなら知ってるんじゃない? 今でもときどき泉水と電話で話すとか言ってたから」
博 司 「園川? ああ、野球部だった奴ね。何であいつが泉水のことを──?」
麻 実 「さあ、知らないけど。彼、今、駅の南口の商店街にあるスワンソングってバーで働いてるのよ」
博 司 「へえ、意外だね、あいつが飲み屋だなんて」
麻 実 「会えばもっと意外に思うかもよ?(と、くすくす笑う)」
博 司 「何で?」
麻 実 「行けばわかる。夜にならないと開いてないと思うけど」
博 司 「ありがとう、行ってみるよ」

   博司、行きかけると、

麻 実 「泉水のこと探してどうするの?」
博 司 「うん、まあ──」
麻 実 「わたし、昔からあの娘のこと、あんまり好きじゃなかったな」
博 司 「え──」
麻 実 「わたし、小学校の時一度階段から落ちたことあったんだけどね、あれって、泉水に落とされたのよ」
博 司 「え──!?」
麻 実 「正確には、自分で落ちたんだけどね。あの娘にすごく冷たい目で見られて、あんたなんか死んじゃえばいいって言われたのよ。それでわたし、怖くなって──」
博 司 「ど、どうしてそんな──」
麻 実 「わたしが野々村くんのこと好きだったこと、ばれたからかな」
博 司 「え──」
麻 実 「(微笑って)冗談よ。忘れて?」
博 司 「何だよ、脅かすなよ」
麻 実 「じゃあね」
博 司 「じゃあ」

      立ち去る博司、ふと振り返り、

博 司 「麻実?」
麻 実 「うん?」
博 司 「本当に冗談なのか?」
麻 実 「(誤魔化すように)時間出来たら電話ちょうだいね?」

      ○

   体育館に博司が来る。
   足音から何からひとつひとつの音が館内に響く。
   鍵盤の音がひとつ鳴る。
   誰かが弾いてるピアノの音が聞こえてくる。


博司(M) 「体育館に入ると、途切れ途切れにピアノが鳴っているのが聞こえてきた。それは曲というよりも、何か、雨音のようだった。朝、学校に行こうと目を覚まし、ふと窓を開けると、いつもちょうどこんな感じで雨は降っていた。雨の音──、青い音──、月曜日の音──、弾いているのは、菜々だった」

   しばらく聞き入るが、落ちていたバスケットボールを蹴ってしまう。
   床を跳ね、館内に音を響かせて転がっていく。
   途端にピアノの音が途切れる。


博 司 「何だよ、止めるなよ」
菜 々 「弾けないもん」
博 司 「今弾いてたじゃん」
菜 々 「弾けないもん」
博 司 「別に無理にとは言わないけどさ」

   菜々、ピアノの蓋を閉め、ステージから降りる。

菜 々 「どう? 収穫あった?」
博 司 「夜まで時間開いちゃったよ」
菜 々 「じゃあ、ライカの餌買いたいんだけど、どっか無い?」
博 司 「駅前のスーパーならあるよ、行ってみよう」
菜 々 「うん」

   歩きだす二人。

菜 々 「今こういう古い学校って少ないだろうね」
博 司 「だろうな。ここはあの頃とほとんど変わってないみたいだし」
菜 々 「ひとつ変わったことがあるよ。ほら?」
博 司 「うん? 蛍光灯?」
菜 々 「昔はさ、みんな裸電球だったじゃない?」
博 司 「ああ、そういえば──」
菜 々 「ねえ、思い出がいつもセピア色に見えるのは、あの裸電球のせいだったのかもしれないね」
博 司 「ああ──(微笑って)なんか、ここが自分の通ってた学校みたいな言い方するよな?」
菜 々 「そお? 小学校なんて何処も似たようなものだから」

      ○

   商店街の通りを歩いてくる博司と菜々。

菜 々 「ねえ、野々村博司くん」
博 司 「何?」
菜 々 「別に、呼んでみただけ」
博 司 「おまえな」
菜 々 「あ、おまえだって、馴れ馴れしい」
博 司 「おまえおまえおまえ」
菜 々 「子供ね。ねえ君、シャンプーハット無いと髪洗えないでしょ?」
博 司 「当たり前だろ、あれ無いと目に入って痛いじゃんか」
菜 々 「──あ、そう」
博 司 「君、付き合ってる男とかいないだろ? いないよな」
菜 々 「何、その言い方、とげがあるな。自分こそ絶対もてない」
博 司 「いいんだよ、俺は泉水ひとりにもてれば」
菜 々 「逃げられたけどね」
博 司 「──」
菜 々 「あ、傷ついた?」
博 司 「傷ついてないし、逃げられてません。今はまあ、何か事情があるみたいだけど、ちゃんと留守電だって入ってるし、第一、君みたいにがさつで無神経な女とは全然違うんです」
菜 々 「──ふーん」
博 司 「あ──怒った? 言い過ぎた?」
菜 々 「別に──」

   自転車が鈴を鳴らしながら傍らを通る。
   ぶつかりそうになった──、


菜 々 「(軽く悲鳴)」

   急ブレーキがかけられ、自転車が止まる。

菜 々 「危ないじゃない、もう」

   自転車の男・玉木稔──、

玉 木 「ああ、すいませんすいません、どうもすいません──あれ?(と、くすくす笑う)」
菜 々 「え? 何よ?」
博 司 「(小声で)おまえのこと笑ってんだよ」
玉 木 「野々村くんでしょ?」
博 司 「え?」
玉 木 「野々村くんですよね、僕です、僕。中学の時同じクラスだった玉木ですよ(と、くすくす笑う)」
博 司 「ああ──」
玉 木 「いやあどうもどうも。ここ、僕んちなんです(と、くすくす笑う)」
菜 々 「(小声で)なんかよく笑う人ね」
博 司 「(小声で)嫌な感じだろ──(玉木に)不動産屋やってるんだ?」
玉 木 「ええ、パパの跡継ぐことになりましてね、まだ見習いなんですけどもね。どうぞどうぞ、お茶でも飲んでってくださいよ。今みんな出払ってて誰もいないし」
博 司 「また今度に──」
菜 々 「(小声で)泉水ちゃんのこと、聞いてみれば?」
博 司 「(小声で)気が進まないな」
菜 々 「(小声で)何か知ってるかもよ?」
博 司 「うん──」

      ○

   不動産屋の中、博司と菜々にお茶を出す玉木。

玉 木 「はい、どうぞ」
博 司 「ありがとう」
玉 木 「あー、わかった」
博 司 「あ?」
玉 木 「この娘、あれでしょ、野々村くんのこれでしょ?」
菜 々 「そうそう」
博 司 「馬鹿、そんなんじゃねえよ」
菜 々 「馬鹿、そんなんじゃねえよ、だって」
玉 木 「またまたまたあ、照れちゃってるんだから(と、ひひひと笑う)」
菜 々 「(小声で)やらしい笑い方」
博 司 「(小声で)こういう奴なんだよ。(玉木に)おまえさ、昔の友達とかと会ったりする? 会ったりしないよな、おまえじゃ」
玉 木 「会うよ。僕んとこほら、こういう仕事だし、駅前にあるから、結構みんなうちの前通るんだよね」
博 司 「今こっちいないんだけど、桜井泉水っておぼえてる?」
玉 木 「ああ、うん、よく知ってるよ」
博 司 「最近このあたりで見かけなかった?」
玉 木 「ううん」
博 司 「けど、今見てもわからないだろ?」
玉 木 「だってあのひとって、結構あれじゃない、淫乱な女性でしょ? だからよくおぼえてるんだよね」
博 司 「──今何て言った?」
玉 木 「うん?」
博 司 「淫乱って言ったろ?」
玉 木 「聞こえてるんじゃないの」
博 司 「どういう意味だよ?」
玉 木 「そうだよね、野々村くん、昔から噂とかそういうのにうとかったもんね。桜井泉水って中学高校ん時から男とっかえひっかえ、すごかったんだから」
博 司 「適当なこと言うなよ。第一泉水は小学校の時に転校したんだから、おまえがその頃のこと知ってる筈ないだろ」
玉 木 「知ってるもん。あの人、隣町の学校に通ってたんだから」
博 司 「泉水は東京に行ったんだ」
玉 木 「野々村くん、誰の話してるの?」
博 司 「おまえこそ誰の話してるんだ?」
玉 木 「僕はね、何回もこの目で見たんだもん。いつも違う男と歩いてたもん──」
博 司 「いい加減にしろよ!」

   机を叩き、玉木に掴みかかる博司。

玉 木 「暴力反対!」
博 司 「嘘言え、取り消せよ!」
玉 木 「だって本当のことだもん!」
博 司 「取り消せって言ってるだろ!」
菜 々 「止めなよ」
博 司 「離せ! こいつ、泉水を侮辱したんだぞ!」
玉 木 「侮辱じゃないもん。僕はただ事実を述べただけだもん。事実と侮辱は全然違って──」
博 司 「黙れ!」

   博司、玉木を殴った。
   倒れ込む玉木。


菜 々 「止めてよ!」
玉 木 「嘘だと思うんならみんなに聞けばいいさ、おまえ以外の人はみんな知ってることなんだから」
博 司 「何だと──!」
菜 々 「止めてってば!」
博 司 「君には関係ないだろ!」
菜 々 「嫌なの!」

   真剣なひと言──、

菜 々 「人が言い争うの見るの嫌なの」
博 司 「──(息をつく)」
菜 々 「もう行こ? ライカの餌買いに連れて行ってくれるんでしょ」
博 司 「──ああ」

      ○

   鳥の鳴き声。
   鳥籠を開けて菜々が餌をあげているのだ。
   傍らでぼやいてる博司。


博 司 「チクショー、ふざけやがって──」
菜 々 「まだ怒ってるの?」
博 司 「泉水の悪口言ったんだぞ」
菜 々 「──信じてないの?」
博 司 「え?」
菜 々 「別に、泉水ちゃんのことあの人が言うような女だなんて思ってないんでしょ?」
博 司 「当たり前だよ。泉水は──」
菜 々 「なら、いいじゃない別に、誰が何言っても」
博 司 「──まあな」
菜 々 「さ、もう夜よ。今度はいい情報が入るといいね?」
博 司 「ああ──」

   歩きだす博司と菜々。

博司(M) 「信じる? 信じるってどういう意味だろう? ある日突然失踪してしまった彼女の何を信じるんだろう?菜々のポケットに緑色の表紙の手帳がささっていた。泉水の手帳。ここに何かが書いてある。どうして泉水がいなくなったのか、ここに書いてある」

菜 々 「(悲鳴)──な、何、お尻触ってんのよ」
博 司 「あ、いや、そうじゃなくて──」
菜 々 「あ、今手帳取ろうとしたんでしょ?」
博 司 「見せてくれよ」
菜 々 「泥棒」
博 司 「泥棒ってな、だいたいそれは──」
菜 々 「僕の彼女の手帳。しかしその彼女は今──」
博 司 「わかった、それ以上言うな」

      ○

   店に入ってくる博司と菜々。
   水っぽい感じの曲が流れる店内。
   五六人程度の客がテーブルで酔って話してる。


菜 々 「同級生の男の子でしょ? どの人?」
博 司 「あれ、いないなあ──?」
菜 々 「店出てないんじゃない?」
博 司 「ちょっと、あのカウンターの女の子に聞いてみるよ」

   女がいるカウンターに歩み寄る博司。
   女はグラスに酒を注いでいる。


博 司 「あの──」
店の女 「はい?」
博 司 「ここの主人に会いたいんだけど?」
店の女 「わたしよ」
博 司 「あ、いや、園川って言って、男なんだけど──」
店の女 「(男の声に変わり)俺だよ」
博 司 「え──」
店の女 「よお、野々村、久しぶりだな」
博 司 「おまえ──園川?」
店の女 「おお」
博 司 「──いつから?」
園 川 「(女の声を作り)昔からよ。高校の時、あなたと一緒にお風呂入ったこともあったわね」
博 司 「(絶句)──」
菜 々 「(ぷっと吹き出し、爆笑する)」

   時間経過──、
   話している博司と菜々と園川。


園 川 「失礼ね、そんなじろじろ見るもんじゃないの」
博 司 「ごめんごめん」
園 川 「あら、綺麗な彼女ね」
菜 々 「ありがとう」
博 司 「彼女なんかじゃないよ」
園 川 「そうなの? 何? 今日は。いい男でも紹介してくれるわけ? 何ならあなたでもいいけど?」
博 司 「(苦笑し)実は、泉水のことでさ」
園 川 「ああ、よく話すわよ」
博 司 「本当に? 最近いつ話した?」
園 川 「最近は連絡無いのよね、最後に話したのが一年ぐらい前かしらね」
博 司 「一年、か。まだ再会する前だ」
園 川 「その時は、早く帰って来てうちで働けばって言ったのよ」
博 司 「(苦笑し)泉水は女だよ」
園 川 「うちの店は女の子も働いてるの」
博 司 「けど、彼女にはこういう仕事は向いてないからな」
園 川 「何言ってんの、あの娘、ずっと銀座で働いてんだから」
博 司 「え──」
園 川 「元々わたしが東京にいた頃、二人で水商売の苦労、よく話し合ってたのよ?」
博 司 「──(笑って)悪い冗談よせよ」
園 川 「(男声で)冗談なんかじゃねえよ、野々村」
博 司 「頼むからどっちかに統一してくれよ」
園 川 「(女に戻り)本当よ」
博 司 「まさか──」
園 川 「別に信じてくれなくてもいいわよ、わたしは水商売やることが悪いとは思わないし」
博 司 「それはそうだけど、ただ彼女は──」
園 川 「(少しむっとしており)彼女のこと探してるんなら、実家の人に聞いてみれば?」
博 司 「実家? 実家って、何? 泉水は子供の頃に両親いなくなってるし、おじいちゃんも死んでひとりぼっちのはずじゃ──」
園 川 「何言ってんのよ、泉水の御両親は健在よ」
博 司 「え──」
園 川 「疑うんならその目で見てくれば? 未分里坂の上の近くの家で夫婦仲良く暮らしてるわよ」
博 司 「そんな馬鹿な──!?」
園 川 「(男声で)いいか野々村、泉水はおまえが思ってるような娘じゃないぞ」

   沈黙。

博司(M) 「グラスの中の氷が急速に溶けて行くように思えた。天井から吊り下がったミラーボールが静かに回り続けのを僕は見ていた。菜々は何も言わずに、そんな僕を見つめている。グラスの中身をひと息で飲み干す。水のように薄く思える。どうやら、しらふではこの街を出れそうに無い」

      ○

博司(M) 「細長く、驚くほど急な未分里坂。その坂を登り切った場所にあるそこは、どこにでもあるようなごく普通の家だった。庭先には犬小屋があり、どこにでもいるような柴犬が眠りに就いている。灯のともった窓の向こうに食卓が見え、どこにでもいるような老夫婦が食事をしていた。ただひとつ違うのは、表札にはっきり桜井との二文字が記されてあったこと。呼び鈴を鳴らす勇気など、僕には無かった」

      ○

   小学校の体育館。
   静まり返った館内に、博司と菜々、二人の靴音だけが、きゅっきゅっと響く。
   静かに転がって行くバスケットボール。


菜 々 「あ──あ──あ──」

   声を響かせてみせる。

菜 々 「しんとしてるね」

   口笛を一瞬吹いてみせる。

菜 々 「どしたの、またこんなところに戻って来て。体育館に泊り込むつもり?」
博 司 「別に──」
菜 々 「別にって──」

   静まり返る。
   明るく装う菜々──、


菜 々 「困ったことになったわね。どうしようか?」
博 司 「──」
菜 々 「(尚も明るく)ねえ、何シュンとしてんのよ。あ、そうだ、バスケやろうよ、バスケ! わたし、こう見えてもね──」
博 司 「うるさいな!」

   怒鳴った。
   静まり返る。


博 司 「──放っといてくれないか?」
菜 々 「けど──」
博 司 「君にだってあるだろ、ひとりになりたい時ぐらい」
菜 々 「(低く呟く)無いわよ、そんなもの」
博 司 「──あ、そう」
菜 々 「ねえ、野々村博司くん」
博 司 「──」
菜 々 「返事してよ」
博 司 「──」
菜 々 「──何か事情があるのかもしれないよ。彼女だって別に嘘つきたくてついたわけじゃないかも──」
博 司 「十年間ずっと信じてきたんだ──あの日教室で泉水、おじいちゃん死んだって言って、両親もいないから東京に転校するって言って──何でそんな嘘を──」
菜 々 「野々村くん──」
博 司 「何でそんな嘘──!」

   静寂。
   しばらくの間ののち、ぽん、とピアノの音がひとつ鳴った。
   菜々がピアノの前に座っているのだ。


菜 々 「六歳の誕生日の時に、お父さんとお母さんが、ピアノを買ってくれたの」
博 司 「何だよ、急に──」
菜 々 「って言ってもアップライトの小さなのだったけど、でもはじめて家に来た時はすごく嬉しかったな。それでね、わたしのお母さんがピアノ弾ける人だったから、その日から教えてくれることになって黄色のバイエルをはじめたの──けどね、上手く弾けなかったんだ。当たり前なんだけど、子供だから指も短いし、お母さんがこう弾くのよって、タリラリランって弾くの見て、わたし悔しくてさ、一生懸命弾いたけど、やっぱり駄目だった。指も痛くなるし、いつまで経っても上手く弾けなくて、結局わたし、嫌になって放り出しちゃったの。ピアノ蹴っ飛ばしてね、こんなのなくなってしまえばいいって思ったの。お父さんもお母さんも悲しそうな顔してた。そうしてもうそれっきりピアノ弾かなくなって、いつのまにか埃がたくさん積もって、上には新聞とかティッシュの箱が置きっ放しになるようになった──わたしが七歳の時だった、お父さんとお母さんがいっぺんにいなくなったの。わたしまだよくわからなかったんだけどさ、二人とも、それぞれ他に好きな人見つけて、わたしをよその人に預けて、いっぺんにいなくなっちゃったの。わたしだけ、いなくなっちゃった──わたしね、自分のせいだと思った。自分がいけない娘だから、お父さんもお母さんもいなくなったんだって。そしたらわたし、どうしたと思う? 今思うと、ほんと馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうんだけどさ──わたし、ピアノの練習はじめたの。その頃家にはもうピアノが無かったから、画用紙に鍵盤書いて練習したの。必死んなってした。一日中鳴らないピアノを弾いてた。勝手に思い込んでたんだ、ピアノが弾けるようになったら、お父さんとお母さんが帰って来るんだって、勝手に信じてたんだ。馬鹿ね──しばらくして黄色いのバイエル全部弾けるようになった。なったんだけど、当然お父さんもお母さんも帰ってくるはずなんてなくって、相変わらずわたしだけいなくなってた。わたし、どうしてだろうって思った。ピアノ弾けるようになったのに、どうしてだろうって思った──馬鹿ね」

   静かに、短いフレーズを幾つか弾く菜々。

菜 々 「昔よく、夜中にお父さんとお母さんが言い争いをはじめると、それ聞きたくなくて枕元のラジオのスイッチを入れたの。きっと放送終了の曲だったのかな、この曲聞くと、不思議と気持ちが落ちついた──」

   淡い曲。
   静かに、止む。


博 司 「菜々ちゃん──」

   黙ってる。

博 司 「菜々ちゃん──泣いてるのか──?」

   博司、歩み寄ろうとする──と、

菜 々 「なああんてね(と微笑う)」
博 司 「──え?」
菜 々 「本気にした?」
博 司 「──嘘なのか?」
菜 々 「単純だね、簡単に信じちゃってさ?」
博 司 「おまえな!」
菜 々 「さてと、泊まるとこ探しに行こうよ、野宿なんて嫌よ。勿論君と同じ部屋もね」
博 司 「ちょっと待てよ」
菜 々 「何、心配した?」
博 司 「したよ」
菜 々 「きっと泉水ちゃんもそうだったのよ」
博 司 「え?」
菜 々 「泉水ちゃん、君の気を引きたかったのよ、心配して欲しかったのよ」
博 司 「何のために──?」
菜 々 「君のことが好きだからに決まってるじゃない」
博 司 「そうなのかな──」
菜 々 「そうよ。これぐらいのこと気にしてどうするのよ。頑張れよ、女の子が簡単に手に入っちゃったら気持ち悪くて熱出ちゃうわよ」
博 司 「そうかな」
菜 々 「そうよ」
博 司 「(苦笑)」
菜 々 「あ、やっと笑った」
博 司 「うるせえ──なあ、どう思う?」
菜 々 「うん?」
博 司 「あの日、泉水は地下鉄で何かを見たんだ。何かを見つけたから、泉水は急に電車を降りたんだ」
菜 々 「うん」
博 司 「何を見たんだろう?」
菜 々 「うん」
博 司 「あの時君もあの車両に乗ってたんだよ、何か知ってるんじゃないのか?」
菜 々 「知らないよ」
博 司 「本当に?」
菜 々 「──(真剣に)本当よ」
博 司 「そっか──なあ、さっきの話は? 本当に嘘なのか?」
菜 々 「本当よ、本当に嘘よ」
博 司 「君、なんか俺に恨みでもあんのか?」
菜 々 「恨み? 恨み、か──そうね、そんなようなものかもしれないね」

      ○

   電話の呼び出し音が鳴っている。

博司(M) 「そうして僕と菜々は、安ホテルを見つけると、部屋を二つ取り、それぞれの部屋に分かれた。一缶七百円の缶ビールを冷蔵庫から取り出すと、自宅の留守番電話を聞いた──」

   呼び出し音が切れ、博司の留守電になる。

留守電の声 「もしもしただいま外出しております。御用の方は発信音のあとメッセージをお願いします」

   暗証番号を押し、伝言が流れる。

女の声 「もしもし、野々村くん。泉水です。元気ですか? わたしは、野々村くんに会えなくて寂しいけど、でも元気です。今日、あの日のことを思い出しました。いつか一緒に台風十九号を見に行った日のことです。またあの台風が来ます。もう一度あの場所で、あの時計台の前で会えたら──。野々村くん、わたしは今でもあなたのことが好きです。信じてください」

   伝言が終わり、切れる。

博司(M) 「台風十九号──」

   再び受話器を取り、三桁を押す。
   天気予報だ。


天気予報の声「大陸より張り出した高気圧が上昇し、現在太平洋側より、台風十九号が接近しております。台風十九号は尚も勢力を拡大しながら、毎時二十五キロで北上し、今夜には紀伊半島より上陸するものと思われます──」

   受話器を置く。

博司(M) 「次の行き場所が決まった」

      ○

博司(M) 「泉水。なあ、泉水。悪戯好きな泉水。僕はこんな夢を見たんだ。夏休みの前の日、二人の子供たちが約束をした。子供たちは十年経ってからその約束を果たすんだけど、何かとても大事なことを忘れていることに気付くんだ。大人になった子供が、一体何を忘れたんだろうとかんがえてみる。それは、君の顔だった。ああそうか、君の顔か、と思う。君の顔が、声が、名前が、何ひとつ思い出せない。彼はほんの少しさみしくなって、もう一度君に会おうと思って、またあの時計台に行った。とても風が強くて、丘の上にある時計台に行くのに、とても時間がかかった。だんだんと陰り行く日差しの中に、時計台のシルエットが見えた。長い長い影が伸びて、彼の足元までも届いていた。約束通りに彼を待ってる君の後姿が見えた。かーんかーんかーん、時計台のてっぺんで鐘が鳴りはじめた。一日が終わりかけている。夏の匂いがした。泉水。彼は君の名前を呼んだ。だけど、君は振り向きはしなかった。どうしてだと思う? 彼女は泉水じゃなかったから。あれは、誰? 君はいつから君じゃなくなったんだ? その時、時計台の前で彼を待っていた影が振り返った。その見知らぬ誰かの影は、微笑んでこう言った」

   あの日の少女の声が聞こえる。

少 女 「わたしの夏休みは今も続いているから、だからここから離れられないの。わたしはあなたの思い出だから、ここから離れられないの。約束したの。ここで一緒に台風を見ようねって」

   鐘の音が鳴る。

博司(M) 「なあ、泉水、君の顔が上手く思い出せないんだ」

   鐘は鳴り続ける。
   高まっていく。

── 第 二 部 ──

      ○

   翌朝、ホテルのフロントあたり、鳥が鳴いている。

博 司 「おはよう」
菜 々 「おはよう。どうしたの、元気そうね」
博 司 「そうかな? 別に、普通だよ──(照れつつ)泉水からさ、また留守電入ってたんだ」
菜 々 「本当?」
博 司 「ああ──まあ、色々あるけどさ、あいつのこと信じることにしたよ」
菜 々 「──そう」
博 司 「とにかく今は会って話したい」
菜 々 「そう──好きなんだね」
博 司 「うん?」
菜 々 「彼女のこと」
博 司 「ああ──昨日今日の仲じゃないんだ。俺と泉水は幼なじみで初恋なんだから。十年かけて再会してるんだ。何があっても乗り越えて行けるさ」
菜 々 「うん。で、どうするの今日は? また聞き込み調査?」
博 司 「いや、時計台に行く」
菜 々 「時計台?」

      ○

   走り、叫ぶ博司と菜々──、

博 司 「待ってくれえ!」
菜 々 「待ってえ!」

   停留所から路線バスが出て行く。
   乗り遅れた博司と菜々。
   走ってきた為息が荒く、そしてため息に変わる。


菜 々 「──この次は何分待ちなの?」
博 司 「何分なんてもんじゃないよ。この路線は一日三本しか出てないんだから」
菜 々 「えー、どうするのよ!?」
博 司 「歩いて行くしかないな」
菜 々 「だって台風近づいてるのよ」
博 司 「いいよ、君はホテルに戻ってなよ」
菜 々 「何よ、強気になっちゃってさ、昨夜は泣きそうな顔してたくせに」
博 司 「俺は行くよ」

   歩きだす博司。

菜 々 「ちょっと待ってよ」

   付いていく菜々。
   歩く二人。


菜 々 「ねえ、時計台ってどんなところなの?」
博 司 「今は結構高い建物も増えたし、煙突や何かもあるけど、俺が子供だった頃はさ、この町で一番高い場所だったんだ」
菜 々 「へえ」
博 司 「小高い丘の上にあって周りが樫の木に囲まれてるから結構いいとこなんだけど、ただ町の外れだし、遊ぶところも無いからさ、あんまり行く人はいないんだよね。確かあの真っ赤なバスと同じで、当時の町長の発案らしいしよ」
菜 々 「へえ」
博 司 「馬鹿町長がまたくだらないもの作ったとか言って、うちの親がよく文句言ってた」
菜 々 「でもわたし、その町長さん、結構好きかもな」
博 司 「俺も」
菜 々 「アンバランスで不格好だけど、愛嬌のある町よね」
博 司 「ああ、だってその時計台なんて真っ黄色な煉瓦で出来てるんだよ?」
菜 々 「え?」
博 司 「うん?」
菜 々 「青、じゃないの?」
博 司 「違うよ、黄色だよ」
菜 々 「黄色? 青い時計台じゃなかったっけ?」
博 司 「何言ってんだよ、見たこともないくせに。実際この町に住んでた人間が言ってんだよ?」
菜 々 「──そっか、そうよね──」
博 司 「ああ。あの頃はあそこに登れば町が全部見渡せたんだ。台風だって見えたはずだよ。泉水、今頃もう来てるかもしれないな。急ごう?」

      ○

博司(M) 「そこに泉水はいなかった。泉水だけではなく、あの時計台そのものがそこに無かった。樫の木に囲まれ、時計台があったはずのその場所にはただ野原が広がっているばかりだった。思い出の風景から時計台だけがすっぽりと抜け落ちている」

   呆然としている博司と菜々。

菜 々 「何にも無いね」
博 司 「どういうことなんだ──」
菜 々 「確かにここにあったの?」
博 司 「あったよ。間違いない」
菜 々 「ねえ、あそこにいるおばさんに聞いてみれば?」
博 司 「あ、ああ──」

   おばさんの方に駆けていく博司と菜々。

博 司 「あの、すいません、ちょっとお聞きしたいんですが?」
おばさん「はい?」
博 司 「昔、ここに時計台がありましたよね?」
おばさん「時計台? ああ、あったわよ」
博 司 「やっぱり。何処に行ったんですか?」
おばさん「おととしだったかしら、火事で燃えちゃったのよ」
博 司 「火事──?」
おばさん「煉瓦作りだったから全焼ってわけじゃなかったけど、危ないからってその時に取り壊したのよ」
博 司 「そうだったんですか──」
おばさん「作り直すって話もあったらしいんだけどね、反対意見が多くて結局ほら、あそこの公園を作ったのよ」

   立ち去るおばさん。

博 司 「どうもありがとうございました」
菜 々 「また壁にぶつかっちゃったね」
博 司 「だったらあの留守電は何だったんだ? 泉水はここで一緒に台風十九号を見るつもりじゃなかったのか?」

      ○

   ぎーこぎーこ、とブランコが揺れている。
   博司と菜々が乗っている。


菜 々 「ここから見る景色も結構綺麗じゃない?」
博 司 「ああ──」
菜 々 「ねえ、元気出しなよ。きっと見つかるって」
博 司 「ああ──何、君、励ましてくれてるわけ?」
菜 々 「別にそういうわけじゃないけどさ──」
博 司 「ありがとう」
菜 々 「そんなんじゃないって言ってるでしょ」
博 司 「あ、そ──しかし、おまえ、何で俺に付き合ってくれてんの?」
菜 々 「何でって」
博 司 「もしかして俺の命でも狙ってんじゃないの?」
菜 々 「命? 狙ってるかもよ。バーン」
博 司 「(苦笑)」
菜 々 「何で倒れないのよ?」
博 司 「本物の銃じゃないから」
菜 々 「けど女の子がバーンってしたら、男の子はうわあって死ぬ真似してくれるんじゃないかな、普通そうするんじゃないかな?」
博 司 「だって俺と君って、普通じゃないから」
菜 々 「普通じゃないんなら、何?」
博 司 「何だろ? こういうの何ていうのかな? 第一何でおまえ、俺に付き合ってくれてるわけ?」
菜 々 「君の命を狙ってるからよ、バーン」
博 司 「うわあ(と、撃たれた真似)」
菜 々 「(微笑う)」

博司(M) 「菜々が微笑った。その時が菜々の顔をちゃんと見たはじめての時だったかもしれない。今までずっとここにはいない泉水の顔を見ていたから」
菜 々 「うん?」
博 司 「え?」
菜 々 「何じろじろ見てんのよ、顔に何か付いてる?」
博 司 「あ、いや、別に──」
菜 々 「変なの」
博 司 「(苦笑し)何だかんだ言いながら、君といると、結構楽しいな」
菜 々 「え──」
博 司 「最初会った時はとんでもない女だとか思ったけど」
菜 々 「今はどう思ってるわけ?」
博 司 「今は──(誤魔化すように)ほら、見てみな」
菜 々 「うん?」
博 司 「子供の頃、よく自転車でこの丘を滑り降りたんだ。最高気持ち良かったんだぜ?」
菜 々 「スペースマウンテンより?」
博 司 「もう全然、シャツが風を集めてこんなに膨らんじゃうんだ」
菜 々 「自転車乗ってくれば良かったね」
博 司 「ああ──(何か気付き)あ、ちょっと待って」

   博司、何かを取ってくる。

菜 々 「ダンボール? 何するの?」
博 司 「これを、半分に折ってこうして──ほら、乗って」
菜 々 「大丈夫?」
博 司 「いいからいいから。ほら、君が前に座るんだ」
菜 々 「うん」

   風が吹き上げてくる。

菜 々 「ここからだと、なんか町に向かって滑り落ちてくみたいね」
博 司 「だろ? 行くよ」
菜 々 「うん」
博司・菜々「せーの!」

   土を蹴る。
   丘を勢い良く滑りだすダンボール。
   颯爽と走る。
   声を上げて騒ぐ博司と菜々。


博司(M) 「ひととき、ほんとひととき、泉水のことを忘れた」

   風を切り、どんどん速度を上げ、滑り続け──、

菜 々 「野々村くん、水たまり水たまり!」
博 司 「え──」

   二人の悲鳴。
   飛び上がる二人、水たまりに突っ込む。
   跳ね上がる水音。
   起き上がる二人。


博 司 「うわあ、ぐちゃぐちゃんなって──」

   ぷっと吹き出す。

博 司 「おまえ、その顔(と、笑う)」
菜 々 「何よ、野々村くんだって、すごい顔(と、笑う)」

   泥だらけの互いの顔を見て、笑う。
   楽しそうに笑う。


博司(M) 「どうしてだろう、菜々の笑顔がほんのちょっと懐かしく思えた」

      ○

   泥の雫を垂らしながら、もう一度丘の上に戻る博司
   と菜々。


博 司 「あー、びびったあ。子供の頃は全然平気だったのにな」
菜 々 「(微笑う)──ねえ、どうする? 上でもう少し彼女が来るの待つ?」
博 司 「──いいよ、行こう」
菜 々 「泉水ちゃん、来るかもよ」
博 司 「来ないよ──来ないと思う」
菜 々 「どうして?」
博 司 「それより、この泥、何とかしなきゃさ」
菜 々 「どっかシャワー無いかな」
博 司 「あるわけないよ、ホテルに戻ろう」
菜 々 「この恰好でバス乗るの? みんな、ゾンビでも来たのかと思って逃げだすわよ」
博 司 「確かに君のその顔じゃあな」
菜 々 「自分だって──(何かに気付き)あ──」
博 司 「うん?」
菜 々 「シャワー、だ──」

   ぽたんとひとつ水音がする。
   天気予報の声──、


天気予報の声「台風十九号は徐々に北上を続け、今夜にも本州を直撃する模様です。現在降りつづけている雨も夜には暴風雨となり──」

   さらに、もうひとつ水音がする。

菜 々 「雨」
博 司 「え?」
菜 々 「降ってきた」
博 司 「ほんとだ」

   ひと粒、またひと粒と落ち、そして一気に雨が降りだした。
   かなりの大降りだ。


博 司 「あそこで雨宿りしよう」

   激しく降りだした雨の中、駆けだす二人。

博司(M) 「道路沿いに廃屋となったドライブインを見つけ、雨から逃げるようにして駆け込んだ。帰りのバスはまだしばらく来そうにない」

      ○

   雨がトタンの上などに落ちている。
   不安に響く。
   駆け込んできた博司と菜々、息をつく。


菜 々 「わあ、すごい蜘蛛の巣」
博 司 「(咳き込み)ひどいな、こりゃ──しばらく止みそうにないし、我慢しよう」
菜 々 「近づいてるのね、台風十九号。台風来る前に、今のうち帰った方がいいかもしれないよ」
博 司 「帰れなくなったらここに泊まればいいさ」
菜 々 「ちょっとした遭難ね」
博 司 「いいじゃん、デートしてるんだと思えばさ?」
菜 々 「こんな、泥だらけんなって、雨に降られるようなデートがある?」
博 司 「俺の友達で初デートで百貨店の書道展に連れてかれた娘がいるよ、それよりは楽しいだろ?」
菜 々 「まあね。けど、泉水ちゃんとなら、こんな目に合っても楽しいんじゃない?」
博 司 「(黙り)──」
菜 々 「うん?」
博 司 「泉水の話はいいよ、一時中止」
菜 々 「野々村くん──」
博 司 「雨が止んだらさ、東京に帰ろう」
菜 々 「どうして? まだ泉水ちゃんが──」
博 司 「まだ諦めたわけじゃないけど、もう無理なんだと思う。彼女だってこんな風に探されるの迷惑だと思うし」
菜 々 「けど、留守電が──」
博 司 「もういいんだ、俺の初恋は今日でオシマイ」
菜 々 「野々村くん──」
博 司 「そう気付くのがちょっと遅かったけど──それよりこれじゃ風邪引くよ、燃えるもの集めて火を起こそう」

博司(M) 「菜々? 僕はひとつ思うことがある。だけど、それはまだ確かなことじゃないから、それはまだ見つけたばかりだから、僕はその思いを、もう少しの間口に出さずにいよう」

   時間経過──、
   雨は降り続けている。
   焚き火が燃えている。


菜 々 「それで、それで?」
博 司 「学校の裏手に誰も住んでない家があってさ、俺たちそこを幽霊屋敷だとか言って、よく探検ごっこしたんだ。そこに秘密の基地とか作って、宝物隠してさ」
菜 々 「宝物って?」
博 司 「海で拾って来たコーラの瓶とか、綿飴の袋とか、蛇の脱け殻とかさ、今考えたらくだらないものばっかりなんだけどね」
菜 々 「ふーん」
博 司 「あ、そうそう、あとあれ、ゴッホっているだろ?」
菜 々 「あ、うん、ひまわりの?」
博 司 「うん。俺さ、子供の頃、あの人の名前のこと、どっかの地名だと信じてたことがあってさ?」
菜 々 「地名?(と、微笑う)」
博 司 「昔、何にも知らない頃に親父の持ってた雑誌にゴッホの絵が載っててさ、下んところにゴッホって書いてあったんだ。それで俺、その風景画がゴッホって場所なのかと思い込んじゃってさ」
菜 々 「(微笑う)」
博 司 「それで俺、親父にばれないようにそれ切り抜いてさ、隠しておいたんだ、秘密基地に」
菜 々 「ふーん」
博 司 「いつか絶対ここに行こうって決めて、駆け落ちしようとか言った時もそこに行くつもりでいたし」
菜 々 「うん」
博 司 「はじめから何か間違ってたんだよ。そんな場所世界中探したって何処にも無いのになさ──馬鹿みてえ」
菜 々 「馬鹿じゃないよ」
博 司 「うん?」
菜 々 「わたし、好きだな、子供の頃の君」
博 司 「じゃあ、あと十年早く出会ってれば何とかなってたかもしれないな?(と、微笑う)」
菜 々 「かもね?(と、微笑う)」
博 司 「菜々は──(言いかけて止め)君はさ、子供の頃どんなだったんだ?」
菜 々 「子供の頃?」
博 司 「昔から、明るかった?」
菜 々 「明るくなんかないよ、昔も、今も」
博 司 「そうかな?」
菜 々 「わたしは──忘れちゃった」
博 司 「何だよ?」
菜 々 「いいの」

   籠の鳥に向け、鳥の鳴き真似で舌を鳴らす菜々。
   鳴き返す鳥。


博 司 「大丈夫かな、ライカも結構濡れちゃったろ」
菜 々 「うん──ポケットん中で温めたげよっと」
博 司 「逃げるぞ」
菜 々 「大丈夫」

   扉を開ける。
   耳元で鳴く鳥。


博 司 「そういや前にその鳥のこと、星座って言ってたよな、あれ、どういう意味?」
菜 々 「うん──野々村くん、星座、何?」
博 司 「俺? 牡牛座」
菜 々 「わたしね、星座が無いんだ」
博 司 「え? 無いわけないだろ、二月二十九日だって星座はあるんだから」
菜 々 「誕生日が無いの」
博 司 「何だよ、それ」
菜 々 「うん? うん、あのね──」

   ふいに、羽音。
   鳥が羽ばたいた。


菜 々 「ライカ──!」

   菜々のポケットから抜け出し、飛び立つ鳥。

博司(M) 「菜々は手を伸ばした。鳥は菜々の細い指先を少しだ けかすめ、一瞬のうちに飛び立った。割れた窓ガラスをす り抜け、まるで何かを見つけたみたいに外へと飛び去って 行った。菜々に名前を呼ぶ暇さえ与えてはくれなかった。 外に出たって青い空なんて無いのに」

   だんだんと遠ざかり、小さくなっていく羽音。
   扉を開け、外に出る菜々。
   激しい雨音。
   水たまりをはね上げ、走る。


菜 々 「ライカ!」
博 司 「どうする気だ?」
菜 々 「探しに行ってくる!」
博 司 「無理だよ!」
菜 々 「けど──!」
博 司 「無理だよ、こんな雨の中、どうやって探すんだ!?」
菜 々 「──嫌!」

      ○

   時間経過──、
   依然として雨は降り続いている。


博 司 「(心配そうに)菜々──?」
菜 々 「(虚ろな声で)あ、呼び捨てだ」
博 司 「大丈夫だって──」
菜 々 「ねえ、ライカ、帰って来るかな?」
博 司 「ああ、帰ってくるよ」
菜 々 「(薄く微笑って)君って、嘘つきだね」
博 司 「──」
菜 々 「──ねえ、野々村くん?」
博 司 「うん?」
菜 々 「借りてもいいかな?」
博 司 「あ、ああ、幾ら?」
菜 々 「違う」
博 司 「何?」
菜 々 「貸してくれるかな? 肩」
博 司 「肩?」
菜 々 「うん、今にも倒れそう。もたれかかってていい?」
博 司 「──ああ」

   博司の肩にもたれかかる菜々。
   眠そうな声。
   以下、小声で会話する二人。


菜 々 「昨日ね、夢を見たの」
博 司 「夢?」
菜 々 「うん、子供の頃の夢」
博 司 「ああ、俺もよく見るよ」
菜 々 「わたしね、子供の頃のわたしがね、お友達と待ち合わせして、ある日森の中に入るの。そしたらさ、出会ったの。誰だと思う?」
博 司 「ある日? 森の中? 熊さん?」
菜 々 「(微笑って)ううん、わたし、あの歌は好きだけど、残念ながら熊さんとは出会わなかったし、お嬢さんって声をかけてもくれなかった」
博 司 「じゃあ何?」
菜 々 「蜜蜂」
博 司 「蜜蜂?」
菜 々 「うん、蜜蜂が飛んでたの、わたしの顔のすぐ横を。わたし、動いたら刺されるんじゃないかって思ったからさ、じっとしてたの。蜜蜂の羽音って聞いたことある?」
博 司 「ぶーんって?」
菜 々 「うん、ぶーんって。ぶーんぶーん」
博 司 「ぶーんぶーん」
菜 々 「ぶーんぶーん」
博 司 「ぶーんぶーん」
菜 々 「ぶーん──ねえ、蜜蜂の羽音って、なんか幸せな感じしない?」
博 司 「幸せな感じ? するかな?」
菜 々 「するよ。だからわたし、もうそれ以上何処にも行くの止めて、ずっと森の中にいることにしたの。ずっと森の中にいて蜜蜂の羽音を聞くことにしたの」
博 司 「ずっと?」
菜 々 「ずっと。だって誰も迎えに来ないし、外に行ってもしょうがないし」
博 司 「しょうがないことないよ」
菜 々 「しょうがないよ」
博 司 「どうしてそう思うの?」
菜 々 「だって、森の外は、世界は汚れてるから」
博 司 「──待ち合わせした相手は? 待ち合わせの友達んとこに行ってあげなきゃ」
菜 々 「ううん、いいの。その人は他に友達を見つけたから」
博 司 「──なんか寂しい夢だな」
菜 々 「さみしくなんかないよ。だって蜜蜂のしあわせな羽音を聞いてるんだから」
博 司 「うん──」
菜 々 「だから野々村くん、もし森の中で蜜蜂と一緒にいるわたしを見つけても起こさないでね?」
博 司 「──起こすよ」
菜 々 「どうして?」
博 司 「だって──君はそれでいいかもしれないけど、他のひとたちが、みんなが寂しがるよ」
菜 々 「みんなって?」
博 司 「みんなさ」
菜 々 「君は? わたしがいなくなると、君もさみしがる?」
博 司 「ああ、寂しいよ」
菜 々 「泣く?」
博 司 「少し」
菜 々 「じゃあ、言って?」
博 司 「うん?」
菜 々 「きみがいないととてもさみしいって」
博 司 「──きみがいないととてもさみしい」
菜 々 「嘘つき」
博 司 「──」
菜 々 「(微笑う)──ねえ、野々村くん」
博 司 「うん?」
菜 々 「今、わたし、いいこと思いついた。すごくいいこと」
博 司 「何?」
菜 々 「なっちゃえよ」
博 司 「え?」
菜 々 「わたしの彼氏になっちゃえば」
博 司 「──」
菜 々 「──(苦笑し)黙ってやんの」
博 司 「──ああ──(と生返事)」
菜 々 「(微笑う)」
博 司 「あ──」
菜 々 「うん?」
博 司 「その手には引っ掛からないよ」
菜 々 「え──」
博 司 「また俺を騙してるんだろ」
菜 々 「(少し黙り)──ばれた?(と、微笑う)」
博 司 「俺も馬鹿じゃないからね。そろそろ君の性格もわかってきたよ」
菜 々 「あ、そう。あーあ、残念」

      ○

   雨が降り続いている。

博 司 「止みそうに無いな。どうする、行こうか?」

   返事が無い。

博 司 「何だ、眠っちゃったのか──」

   寝息が聞こえる。

博司(M) 「菜々のポケットからあの緑の手帳がはみ出して見えた。ここに、泉水の失踪の原因が書かれている。手を伸ばせば届くところにある。今なら菜々は眠っている。手を伸ばせば、すぐそこに、泉水がいる。だけど、もう僕はこんなものを見る必要はないんだ。泉水のことはもう忘れたんだ。彼女がどうして姿を消したのなんて知らなくていいんだ。彼女が今何処でどうしてようと、もう僕には──」

   雨が降っている──、
   激しく高まっていき、ふっと雨音が消え、
   静寂。


菜 々 「何してるの?」
博 司 「──」
菜 々 「あ──見たの──?」
博 司 「──知ってたのか?」
菜 々 「──何が?」
博 司 「知ってたんだろ? これ読んで、何もかも知ってたから俺に見せようとしなかったんだろ」
菜 々 「わたしはただ──」
博 司 「泉水には他に付き合ってる男がいたんだな」
菜 々 「──」
博 司 「今あいつはその男と一緒にいるんだな──(と、自嘲的に笑う)」
菜 々 「野々村くん──」
博 司 「そのこと知ってて、だましてたのか、俺を」
菜 々 「だましてなんかないよ」
博 司 「知ってたくせに、俺のことかわいそうな男だって、心の中で思って哀れんでたんだろ」
菜 々 「そんなこと──」
博 司 「俺に同情してたんだろ」
菜 々 「ねえ、野々村くん」
博 司 「あざ笑ってたのか?」
菜 々 「──もういいじゃない」
博 司 「何がいいんだよ」
菜 々 「諦めたんでしょ? もう泉水ちゃんのこと、忘れることにしたんじゃなかったの?」
博 司 「──」
菜 々 「なのに、どうしてそんな辛そうにしてるの?」
博 司 「そんなんじゃ──」
菜 々 「そうじゃない。そうでしょ? 違う?」
博 司 「(黙ってる)」
菜 々 「ほらね」

   菜々、駆け出し、出入口のドアを開ける。

博 司 「何処行くんだよ!」
菜 々 「来ないで」
博 司 「この雨ん中、何処行くっていうんだ?」
菜 々 「悪いんだけどさ、ちょっとさ、ひとりになりたいんだ」

   外に飛び出していく。
   追いかける博司。
   殴るように、激しく雨が降りつけている。


博 司 「菜々!」

   追いかける。

博 司 「待てよ!」
菜 々 「待たない!」
博 司 「俺は──俺は──」
菜 々 「ごめんね」
博 司 「え──」
菜 々 「ひとりにして?」

   背を向け、駆けていく菜々。
   遠ざかっていく。
   立ち尽くし、見送る博司。
   ただ雨が降りつづける。


博司(M) 「菜々の後姿が雨の向こうに見えなくなると同時に、僕は自分自身の姿も見失った。それが菜々のせいなのか、泉水のせいなのかはわからなかった。ただ世界がちょっと色あせて見えた」

   高まる雨音、ぷつんと途切れ──、

      ○

   博司はホテルの部屋にいる。

博司(M) 「なおも雨は降り続け、僕は夜になる前にホテルの部屋に戻った。知らず知らずのうちに自宅の留守番電話を聞いていたのは、すべてが夢だと言ってくれるような気がしたからだろうか。けれど、そんなことがあるわけもなく──」

   留守電の伝言が流れる。

三 井 「もしもし、俺、三井だけど。泉水ちゃんのことでさ、この間言えなかったことがあるんだよ。あん時は泉水ちゃん、ファミレスにいたって言ったけど、ほんとはホテルのバーで男と一緒にいたらしいんだよ──あんまり気落とさないでさ、とりあえず帰ったら電話くれよ」

   受話器を置き、切る。

      ○

   扉をノックする。

博 司 「菜々──菜々──?」

   繰り返すが、返事は無い。

博司(M) 「菜々が帰って来ない。東京に戻ったんだろうか。そんな筈は無い。荷物はまだここにある。菜々は今もあの雨の中を──」

   扉のノックを止め、駆けだす博司。

      ○

   博司、ホテルのフロントの男と話す。

博 司 「あの、二十九号室の野々村ですが?」
受付の男「はい、野々村さま」
博 司 「一緒にチェックインした十六号室の者はまだ戻ってませんか?」
受付の男「十六号室──高村菜々さまですね。ええ、鍵はお預かりしたままですが」
博 司 「そうですか──まだ雨、止みそうに無いですよね?」
受付の男「ええ、大雨洪水警報が発令されてますし、どうやら台風が直撃しそうですからね。今夜は外にお出にならない方がよろしいかと」
博 司 「そうですか──」

   戸惑い、その場を離れる博司。
   間。


博司(M) 「ふと見るとフロントの隣に観光案内板があった。漫画的にデフォルメされた地図上で、真っ赤なバスが町を横断していた。先程までいた時計台の跡地は修正されており、その周辺にも何も無い。菜々、一体どこにいるんだ。行くあてなんて無いはずなのに──」

   空気が一瞬張り詰める。
   何かを見つけた。


博 司 「え──!?」

博司(M) 「地図の南側に、あるはずの無いものが描かれてあった。どういうことなんだ? これは一体何なんだ?」

博 司 「あの、すいません?」
受付の男「はい?」
博 司 「ここに描いてある、これって時計台ですよね?」
受付の男「どれですか? ええ、そうですね」
博 司 「けど、時計台って街の北側にあったんじゃ?」
受付の男「ああ、あちらの方はずいぶん前に燃えましたからね。今残ってるのは南側の方だけですよ」
博 司 「──南側にも時計台があったんですか?」
受付の男「ええ、この街には昔から北端と南端の二箇所に時計台があったそうですからね。南の方はちょうどほら、海を見下ろす位置にあるんですよ」
博 司 「──そんな──」

博司(M) 「そんな馬鹿な。時計台が二つあるなんて。だったらあの夏の日、駆け落ちしようと言って待ち合わせしたのは、どっちの時計台だったんだ──」

博 司 「すいません、この海側の時計台にはどうすれば行けますか?」
受付の男「普段でしたらバスが出てますがね、今は走っていないと思いますよ。まさかお客さん、今から行かれるんですか? それは止した方が──」
博 司 「ありがとうございます」
受付の男「お客さん!」

博司(M) 「待ち合わせはあの黄色い時計台じゃなかったのか。だとしたら──まさか──」

博 司 「あの──!」
受付の男「はい?」
博 司 「南側の時計台っていうのは、何色なんですか?」
受付の男「色? ああ、青ですよ、青」
博 司 「(息を飲み)──!」

   時を刻み、時計の音がかちかちと鳴りだす。

博司(M) 「十年前の夏、台風十九号が訪れた夜、青い時計台の前で僕を待ち続ける、一人の女の子がいた」

      ○

   時計が鳴っている。
   あの日の二人の会話が回想で流れる──、


少 年 「今夜さ、十九号が来るんだって」
少 女 「十九号?」
少 年 「台風さ」
少 女 「台風?」
少 年 「すげえ大きいんだって。なあ、見に行かないか?」

     × × ×

少 年 「二人でさ、どっか逃げるってのはどう?」
少 女 「駆け落ち?」
少 年 「え?」
少 女 「駆け落ちっていうのよ、男子と女子が一緒にどっか行くこと」
少 年 「じゃあ、それだ」

     × × ×

少 年 「じゃあ、時計台の前に、七時に待ち合わせしよう」
少 女 「ちゃんと忘れないで来てね」
少 年 「忘れないよ」
少 女 「絶対よ」
少 年 「絶対行くって」

     × × ×

少 年 「夏休みが終わっても、ずっと僕らだけ夏休みなんだ」
少 女 「ずっと夏休み?」
少 年 「うん、ずっと夏休み」

      ○

   警報のサイレンが鳴っている。
   豪雨の中、走る博司。
   息を切らし、走る。
   風が唸り、雨がたたきつける。
   町には既に人影は消え、他には何も聞こえない。


博司(M) 「むかしむかし、僕は同級生のある女の子と駆け落ちする約束をした。彼女がひとりぼっちになって、転校しなければいけなくなったからだ。けれど待ち合わせ場所に彼女は来なかった。あの時、彼女は本当に来なかったんだろうか。約束の場所を間違えたりしてはいなかったか。そして彼女の名前は本当に桜井泉水という名前だったんだろうか。もっと違った名前じゃなかったか。思い出せ、思い出すんだ──十年前の夏、台風十九号が訪れた夜、青い時計台の前で僕を待ち続ける、一人の女の子がいた。彼女は僕との約束を破ったわけでもなく、桜井泉水という名前でもなく──」

   再び無音となり、時計の音が鳴る。

      ○

   時計の音が鳴っている。
   博司と菜々の会話が回想で流れる──、


博 司 「ここが自分の通ってた学校みたいな言い方するよな」
菜 々 「そお?」

     × × ×

菜 々 「わたしが七歳の時だった。お父さんとお母さんがいっぺんにいなくなったの」

     × × ×

菜 々 「青、じゃないの?」
博 司 「違うよ、黄色だよ」
菜 々 「黄色? 青い時計台じゃなかったっけ?」

     × × ×

菜 々 「だって誰も迎えに来ないし、外に行ってもしょうがないしさ」
博 司 「待ち合わせした相手は? 待ち合わせの友達んとこに行ってあげなきゃ」
菜 々 「ううん、いいの。その人は他に友達を見つけたから」

     × × ×

菜 々 「ねえ、野々村くん!」

      ○

博司(M) 「十年前の夏、台風十九号が訪れた夜、青い時計台の前で僕を待ち続ける、一人の女の子がいた」

   走ってくる博司。
   息を切らし、見つめる。


博司(M) 「この青い時計台の前で──」

   時計台の前に来た、博司。
   鉄の扉をぎいいっと開ける。
   階段を上がっていく。
   かーんかーん、と鉄の階段を踏む音が吹き抜けに響きわたる。


博司(M) 「あの日、幼い日の彼女はここで一人何を思っていたんだろう」

   立ち止まる。

博 司 「菜々──! 菜々──!」

   返事は無い。

博司(M) 「煉瓦造りの壁に何か石で削ったような落書きがあった。かなり古いものだ。色あせ、消えかけ、埃が積もり、よく見えない」

   埃を払い落とす。

博司(M) 「かすかに読み取れた、相合い傘だ。幼い子供の字。不器用な文字でふたつの名前が書いてある。ふたつの名前。十年前に書かれた、ふたりの名前。左側には僕の名前、野々村博司。右側には──高村菜々、と書いてあった」

   かすかに階段を上がってくる音がする。
   だんだん大きくなる。


博司(M) 「十年前の夏、台風十九号が訪れた夜、青い時計台の前で僕を待ち続ける一人の女の子がいた。その娘の名前は、高村菜々。菜々──」

   空き缶が転がる音がする。
   転がっていき、壁に当たって止まる。
   間。


菜 々 「よお」

   あっさり言った。

博 司 「よお」
菜 々 「何してんの?」
博 司 「別に」
菜 々 「どうしてここにいるのよ?」
博 司 「──傘持って来た。ほら」
菜 々 「いらない、こんなの」

   捨てる。

菜 々 「どうしてここにいるの? 怒ってたくせにどうして来たのよ?」
博 司 「だって──」
菜 々 「だって、何?」
博 司 「だって、同級生じゃないか」
菜 々 「──」
博 司 「君、だったんだね?」
菜 々 「──」
博 司 「うっかりしててさ、十年遅刻してしまった」
菜 々 「──どうせ寝坊でもしてたんでしょ?」
博 司 「ごめん──なんてそんな言葉ですむことじゃないか。なんていうか、俺──」
菜 々 「どう? 綺麗になった?」
博 司 「驚いた」
菜 々 「驚いた? わたしは綺麗かどうかって聞いてるのに、驚いた? 何じゃそれ」
博 司 「(苦笑)」
菜 々 「野々村くんは十年振りに会ってもあんまり変わってないかな」
博 司 「そうかな」
菜 々 「うん、あの日地下鉄で偶然見た時、すぐにわかった、あ、野々村くんだ、野々村博司くんだって」
博 司 「そうだったんだ──」
菜 々 「綺麗な娘連れててさ、良かったねって思ってたのよ。そしたら彼女、手帳落として行って──」
博 司 「それで俺のこと心配して──?」
菜 々 「心配っていうか──ねえ、見て」
博 司 「うん?」
菜 々 「ほら、こっちの窓から台風が見えるのよ?」
博 司 「本当だ」
菜 々 「十九号でしょ?」
博 司 「ああ、十九号だ」
菜 々 「台風十九号──やっと見れたね」
博 司 「ああ、こっちだったんだな、君が来たのは」
菜 々 「だって、こっちからだと、ほら見えるから」
博 司 「何が?」
菜 々 「海。海が見えるから」
博 司 「本当だ。知らなかった」
菜 々 「しっ」
博 司 「え──」
菜 々 「静かにして? 目を閉じて、耳をすますの」
博 司 「目を閉じて、耳をすます」
菜 々 「そう、台風が来てる時にここに来ると、すごく騒がしいのに何だか気持ちがすうってなる感じがするのよ」

   激しい風と雨の音がゆっくりと消える。
   かすかに波音が聞こえる。
   波音も消えて、静まり返る。


博 司 「なんか、静かだな」
菜 々 「世界がふってなって止まってる」
博 司 「ああ」
菜 々 「海の底にいるみたい」
博 司 「ああ」
博 司 「あの日、ここでこうしてたんだな、君は」
菜 々 「うん」

   台風を見る二人。
   博司、ぽつりと話しだす。


博 司 「昔、うちの学校に転校してきた娘がいたんだ」
菜 々 「──うん」
博 司 「夏のある日、その娘が僕に言ったんだ。おじいちゃんが死んだって。両親もいないからおじさんに引き取られて東京に転校するって」
菜 々 「うん」
博 司 「ちょうどその頃、他に好きな娘がいて、別に転校してきた娘のことは何とも思ってなかったけど、俺、なんか寂しくなって、なんか駆け落ちすることになった」
菜 々 「うん」
博 司 「結局駆け落ちは失敗して、夏休みが終わって、学校に行くと、その娘はもう学校に来てなかった。東京に転校したあとだったんだ。結局うちのクラスにいたのは一学期だけだった」
菜 々 「うん」
博 司 「その娘がいなくなってからしばらくは寂しかったけど、半年過ぎて一年二年経つ頃には、いつのまにか自分の都合のいいように、駆け落ちの思い出を、初恋の思い出とすり替えてた」
菜 々 「うん」
博 司 「一緒にゴッホに行こうって約束したあの娘のことは、二度と思い出さなくなってた」
菜 々 「うん」
博 司 「ごめん」
菜 々 「──(微笑って)いいの」
博 司 「けど──」
菜 々 「いいの。わたし、君のそういうところ好きよ」
博 司 「菜々──」
菜 々 「だから、もういいの」
博 司 「さっき君が言ってくれたこと」
菜 々 「うん?」
博 司 「そういうのも、ありかな?」
菜 々 「うん?」
博 司 「だから、君と付き合ったりするのも」
菜 々 「え──」
博 司 「ありだと思うんだ」
菜 々 「──(微笑って)馬鹿ね、冗談で言ったのに、すぐそういうのに引っかかる」
博 司 「俺、もう一度やり直したいんだ。あの約束の続き、もう一度ここから──」
菜 々 「あ、いけないんだ。泉水ちゃんに言いつけてやろ」
博 司 「君から先に言ったんだぞ」
菜 々 「何が?」
博 司 「なっちゃえよって、彼氏になっちゃえよって」
菜 々 「あれは──あれは、もう賞味期限が切れました」
博 司 「──」
菜 々 「もう、腐っちゃった」
博 司 「──」
菜 々 「だから、捨ててください」
博 司 「──捨てられない」
菜 々 「きっといつか忘れるから」
博 司 「忘れない」
菜 々 「忘れてしまうから」
博 司 「忘れない!」
菜 々 「野々村くん──」
博 司 「忘れないから!」

   空き缶が蹴飛ばされ、転がる。
   二人は黙っている。
   抱き合う二人を感じながら──、
   ぽたんぽたんと、雨の音が静かに消えて行く。
   眩しい陽光を浴びた波の音が優しく聞こえる。


博司(M) 「やがて朝が来て雨が止み、太陽が顔を覗かせると濡れた道路に光をばらまいた。僕と菜々はそんな光のかけらを拾い集めながら、海沿いの道を歩いた。波音が静かに帰り道を教えてくれる。世界はこんなにもみずみずしくあることが出来る。動きはじめた真っ赤なバスが走り過ぎ、僕らは、おーいと手を振った」

   遠く鐘の音が聞こえる。

      ○

   通りを歩いてくる博司と菜々。

菜 々 「ねえ、見て」
博 司 「うん?」
菜 々 「空」
博 司 「うん?」
菜 々 「虹」
博 司 「ほんとだ──」
菜 々 「何かいいことあるかもね」
博 司 「ああ、きっといいことあるよ」

   列車の出て行く音が聞こえる。
   踏切の音が聞こえる。
   駅である。
   歩いてくる博司と菜々。
   駅員に声をかける博司。


博 司 「すいません、東京行くには何時の列車になりますか?」
駅 員 「十時五分ですね。成瀬駅まで行っていただいて、そこから乗り換えることになります」
博 司 「どうも」

   博司、菜々に、

博 司 「ちょっと早く来すぎたかな」
菜 々 「いいじゃない、そこのベンチで待ってよ?」
博 司 「ああ」
菜 々 「そうだ、お腹すいたでしょ? そこのスーパーで買い物行ってくるよ」
博 司 「じゃあ俺も──」
菜 々 「いいよ、ここにいて。何食べたい?」
博 司 「果物とかおにぎりとかそういうのでいいよ」
菜 々 「OK」

   席を立つと、行く菜々。

菜 々 「ねえ、野々村くん」
博 司 「うん?」
菜 々 「呼んでみただけ」
博 司 「馬鹿」
菜 々 「(微笑う)」

   駆けだしていく菜々。

博 司 「(微笑う)」

   蝉が静かに鳴いている。

博司(M) 「台風が立ち去り、十年ぶりの謎々が解けてしまうと、途端に町の風景が平和に見えた。おだやかな夏の中、線路が長く続いている。駅舎の瓦屋根の一枚一枚を数えてみたくなる。東京に帰ったら、菜々を色んなところに連れて行ってあげよう。僕はそんなようなことを、うとうとと考えていた」

   欠伸が出る──、
   ふいに、背後から女の声がする。


女の声 「野々村くん」
博 司 「え──?」
博司(M) 「僕を呼ぶ声がした。僕は振り返った。一人の女がそこに立っていた──」
博 司 「泉水──どうして──?」
泉 水 「ずっと実家に戻ってたの。さっき、園川くんから聞いたから、あなたがこの町に帰って来てるって──(と、涙声)」
博 司 「泉水? 泣いてるのか──?」
泉 水 「わたし──わたし──!」

   駆けだす泉水。

博司(M) 「泉水が真っ直ぐ僕の胸に飛び込んできた。きっと他人から見れば、駅で再会した恋人同士のように見えたことだろう──いや、つい昨日までなら実際にそうだったし、何よりそれが僕が一番望んだことだった」
泉 水 「ごめんね──ごめんね──(と、泣いている)」
博 司 「泉水──」

    激しく沸き起こる蝉の鳴き声。
    ふいに、何か物音がする。
    蝉の声が途切れる。
    何かが地面に落ちた。


博司(M) 「振り返ると、地面に落ちたスーパーの袋から、こぼれたりんごが僕の足元に転がってきた。綺麗な真っ赤なりんご。僕を見ているのか見ていないのか、菜々はただただ地面に落ちたおにぎりを袋に戻そうとした。菜々、そんなことしなくていいんだ、いいんだよ、勘違いするなよ、僕は何も──」

   駆けだす菜々。

博 司 「菜々!」

   追いかけようとする博司。

泉 水 「野々村くん!」

   泉水の声に臆し、一瞬立ち止まる博司。

博 司 「──あとで話そう」

   再び走り、菜々を追う博司。

      ○

   海岸。
   駆けてくる菜々、追いかけてくる博司。


博 司 「待てよ!」
菜 々 「待たない!」
博 司 「待てったら!」
菜 々 「離して!」

   博司に引き止められ、止まる二人。
   息が荒い。
   寄せては返す波の音。
   淡々と流れる時間。


博 司 「──菜々?」

   黙っている菜々。

博 司 「俺は──」
菜 々 「おめでとう」

   明るく言った。

菜 々 「良かったね。彼女、見つかってさ」
博 司 「違うんだ」
菜 々 「頑張った甲斐があったね」
博 司 「そんなんじゃないよ、誤解だよ」
菜 々 「誤解だよ、だって。安っぽい言葉。浮気した男が彼女に言ってるみたい」
博 司 「なあ、聞いてくれよ」
菜 々 「何をよ。おかしいよ、わたしに何を話すのよ、素直に喜びなよ? 彼女、戻って来てくれたんだから。あんな手帳なんか見なかったことにしてさ、ね?」
博 司 「──」
菜 々 「わたしとも会わなかったことにしてさ、ね?」
博 司 「──」
菜 々 「彼女のところに戻りなよ。そのためにこんなとこまで来たんでしょ?」
博 司 「──」
菜 々 「どうせわたしなんかじゃ就職のお世話だって出来ないしさ?」
博 司 「そんなこと関係ないよ」
菜 々 「今度こそ! 今度こそ、ぎゅって捕まえて、彼女のこと離しちゃ駄目よ?」
博 司 「僕はちゃんと君と──」
菜 々 「何がちゃんとよ?」
博 司 「だから──」
菜 々 「勘違いしないで?(と、冷たく言う)」
博 司 「え──」
菜 々 「それこそ誤解よ。わたし、別に君とちゃんととか、そんな風に考えてなかったんだから」
博 司 「どういうことだよ──?」
菜 々 「からかってただけよ? だって君、純情だしさ、好きとか言うと、本気にしてさ、面白かったんだもん」
博 司 「冗談だろ?」
菜 々 「そう、全部冗談だったの。あーあ、笑っちゃうなあ」
博 司 「菜々──」
菜 々 「──どうしたのよ? 何でそんな悲しそうな顔するの?」
博 司 「俺は本気だったから。冗談なんかじゃなかったから」
菜 々 「──あ、そう。それは良かったね」
博 司 「菜々!」
菜 々 「わかったでしょ? わたしはそういうことなの。だから早く──早く行って!」
博 司 「菜々!」
菜 々 「行って!」

   動かない博司。
   深く深呼吸をする菜々。


菜 々 「じゃあわたしが行くわ。じゃ、ね」

   歩きだす菜々。

博司(M) 「そう言って菜々は小さく微笑むと、背を向けた。僕はただ、滲んで行く風景の中で菜々の後姿を見送っていた。僕のハンカチはひどくくしゃくしゃで、しわを伸ばしてる間に、彼女の目から涙が落ちてしまった」

   海鳥が激しく鳴いている。

        ○

   列車が走っている。
   車内──、
   車掌のアナウンスが流れる。


車掌の声「ご乗車誠にありがとうございます。当列車、午後五時四十二分に東京駅へ到着する予定となっております」

   揺れる列車の中、口々に楽しそうに話す乗客たち。 席には、博司と泉水。

博 司 「これ手帳、さっきの娘が拾ってくれたんだ」
泉 水 「そう──読んだ?」
博 司 「ああ」
泉 水 「そう──」
博 司 「教えてくれないか、どういうことだったんだ?」
泉 水 「──彼とは野々村くんと付き合いはじめる前からなの」
博 司 「だったらどうして俺と──」
泉 水 「彼には奥さんがいるの」
博 司 「──そっか──そういうことか──」
泉 水 「何度も別れようとしたけど、ううん何度も別れたの。けど結局は元に戻ってしまう。彼のところに行けばまたつらくなるのはわかってて、それでも他に行くところも無くて──そんな時だった、野々村くん、あなたと再会したのは。小学校の時同じクラスだった野々村くん。あなたとなら、あなたと付き合えば、きっと彼と別れられるって思った」
博 司 「俺はダシにされたってわけか──」
泉 水 「そう思われても仕方ないね」
博 司 「だってそうだろ?」
泉 水 「ごめん──でも信じて? はじめはそうだったかもしれないけど、だんだん、だんだん、あなたのことを好きになりはじめてた」
博 司 「だったら、どうして!?」
泉 水 「彼とは別れたわ」
博 司 「──」
泉 水 「家にいたら彼からの電話があって、また元に戻っちゃうと思ったから、しばらく実家にいることにしたの」
博 司 「どうして俺に何も言わずに?」
泉 水 「不倫の彼と別れたいからしばらく留守にするわって言うの? 嘘もつきたくなかった。すっきりした形で帰ったら、正直に全部話して許して貰うつもりでいたの」
博 司 「そんな──」
泉 水 「ねえ、信じて、わたし、あなたのこと──」
博 司 「駆け落ちの話は?」
泉 水 「え?」
博 司 「俺が君に、十年前の駆け落ちの話をした時は?」
泉 水 「わたしじゃないわ。本当はあなたが何のことを言ってるのか全然わからなかったけど、そう思ってくれてるんならそうしようって──あなたと彼女との思い出を盗むことにしたの」
博 司 「──」
泉 水 「あなたが一番好きなのは、思い出の中の彼女だって気付いたからよ」
博 司 「それは──」
泉 水 「ううん、それでも良かったの。男の人ってそういうものだって知ってたから」
博 司 「──じゃあ、あの留守電は何だったんだ?」
泉 水 「留守電?」
博 司 「君が失踪してからも、何度か留守電が入ってた。俺のこと、励ましてくれてたじゃないか」
泉 水 「野々村くん、わたし、あなたに電話なんかしてない」
博 司 「え──」
泉 水 「それ、わたしじゃないよ」
博 司 「そんな馬鹿な──じゃあ、あれは一体──」
泉 水 「どうして? どうしてわたしの声じゃないって気付かなかったの?」
博 司 「──思い込んでたんだろうな──」
泉 水 「そう──あの日、一緒に地下鉄に乗ってて、わたし、急に降りたでしょ?」
博 司 「ああ──何を見たんだ?」
泉 水 「見たんじゃない、聞こえたの」
博 司 「聞こえた?」
泉 水 「あの時、急に電車が揺れたでしょ。乗ってる人たちみんな倒れそうになって、あなたも後ろにいた人にぶつかったわ」
博 司 「ああ──」
泉 水 「あなた、ぶつかった人に、ごめんなさいって言って。その人、いえってひと言だけ言ったの。野々村くん、あの時あなたがぶつかった人が、そうだったのよ──」
博 司 「え──君の?」
泉 水 「勿論彼もわたしに気付いてなかったし、ただ偶然乗り合わせただけよ。だけどね、わたし、すぐにわかったの。彼がこの電車に乗ってるんだって。いえってひと言で、すぐに彼の声だってわかった。彼だってわかったの」
博 司 「──」
泉 水 「ひとの思いの差って、そういうところに出るね」
博 司 「そうかもしれない──」
泉 水 「──やっぱり駄目みたいね、わたしたち」

   ため息をつく泉水。

泉 水 「だけど、これだけは信じて? あなたのこと、好きになりはじめてたのは本当よ」
博 司 「──」
泉 水 「だってあなたが初恋の男の子だったから」
博 司 「──」
泉 水 「小学校の頃、ほとんど話したことなかったけど、ずっとあなたのことが好きだった。遅刻して誰もいない校庭を走っているあなたを、いつも窓際の席から見てた」
博 司 「俺もそうだった。いつも泉水のことを見てた。それは確かなことなんだ」
泉 水 「あの頃どちらかが勇気を出して声をかけてたら、あの娘が転校してくる前に声をかけてたら、わたしたち、もっと違ってたかもね。もっと早く、別の出会い方をして、別の付き合い方をして──ううん、やっぱり同じことかな」
博 司 「ああ」
泉 水 「初恋は初恋でしかないものね」
博 司 「ああ」
博司(M) 「そのひと言を最後に、東京に着くまで僕らは何も話さなかったし、それ以上話せるようなこともなかった」

   列車が駅に到着し、構内アナウンスが「東京~」と流れる。

泉水の声「さようなら」

      ○

   扉を開ける。
   博司が自分の部屋に帰ってきた。
   外を走る電車の音が聞こえており、窓を閉める。
   冷蔵庫を開け、缶ビールを出して、飲む。
   何となくTVを点ける。
   お笑い番組をやっており、笑い声が聞こえる。
   すぐに消す。
   泉水の言葉を思い出す。


泉水の声「わたし、あなたに電話なんかしてない。どうしてわたしの声じゃないって気付かなかったの?」

博司(M) 「毎日のように僕に声をかけてくれた留守番電話は泉水からのものではなかった。だったら、あれは一体、誰からの電話だったんだ?」

   博司、留守番電話の再生ボタンを押す。

留守電の声 「伝言、十二件です」

   再生がはじまる。

女の声 「もしもし、野々村くん? もしもし、いませんか? 留守ですか? ええっと、泉水です。また電話します」

博司(M) 「菜々──。今度こそすぐにわかった。これは菜々の声だ。何のためにこんなことを──?」

   番号を押し、伝言を飛ばす。

菜々の声「もしもし、野々村くん? 泉水です。今日も留守みたいね。ええっと、あの──きっと心配してるよね。ごめんね。今はまだ上手く話せないの。とりあえずわたしは元気にしてます──また電話するね」

   番号を押し、伝言を飛ばす。

菜々の声「もしもし、野々村くん。泉水です。元気ですか? わたしは、野々村くんに会えなくて寂しいけど、でも元気です。今日、あの日のことを思い出しました。いつか一緒に台風を見に行った日のことです。またあの台風が来ます。もう一度あの場所で会えたら──。野々村くん、わたしは今でもあなたのことが好きです。信じてください。また電話します」
留守電の声「伝言、以上です」

   短い発信音と共に、留守電が切れる。

博司(M) 「どうして気が付かなかったんだ、どうして気付いてあげられなかったんだ。菜々は自分の思いを話していたんじゃないか──」

   部屋を出て行く博司。
   扉が閉まる。


博司(M) 「あてもなく、僕は菜々を探しに街に出た」

   誰もいなくなった部屋で、電話が鳴りだす。
   留守電に切り替わる。


留守電の声「もしもしただいま外出しております。御用の方は発信音のあとメッセージをお願いします」

   発信音が鳴り、

菜々の声「もしもし、野々村くん──菜々です」

      ○

   夜の街。
   繁華街の喧騒の中を歩く博司。
   不安げに救急車が走っている。


博司(M) 「思えば、僕は彼女の住所も電話番号も聞いてなかった。もう二度と彼女には会えないんだろうか」

   時計の音が鳴りはじめる。

博司(M) 「もしも、もう一度あの時からやり直せるのなら、もしも、あの夏に帰れるのなら──。会いたい。菜々、君に会いたい」

   時計の音が止み、放課後のベルが鳴る。

      ○

   帰り道の、少年(幼い頃の博司)。
   誰かが走って来る。


少 女 「野々村くん──!」
少 年 「え?」

   息を切らし、追いかけて来た少女(幼い頃の菜々)。

少 女 「ふう、追いついた。ねえ、帰り道こっち?」
少 年 「う、うん」
少 女 「わたしもこっちなの。一緒に帰らない?」
少 年 「おまえ、誰だよ?」
少 女 「今日転校してきたの」
少 年 「転校生? ああ」
少 女 「役場の人が仲良くしてねって言ったら、野々村くん、うんって言ったでしょ?」
少 年 「言ったよ」
少 女 「一緒に帰ろ? いいでしょ?」
少 年 「いいけど──あんまりくっつくなよ」
少 女 「どうして?」
少 年 「なんか、女くせえ」
少 女 「当たり前でしょ、女なんだから」
少 年 「おまえ、親は? 今日、転校してきたんだったらお母さん来てるだろ、一緒に帰れよ」
少 女 「お母さん、いないの」
少 年 「お父さんは?」
少 女 「いないの」
少 年 「出掛けちゃったの?」
少 女 「ううん、ずうっといないの」
少 年 「ずうっといないって?」
少 女 「わたし、生まれてすぐよそに預けられちゃったから」
少 年 「え──」
少 女 「野々村くん、転校したことある?」
少 年 「ううん」
少 女 「今までね、色んなとこ行ったのよ。だから転校するの慣れてて一人でも来れるのよ」
少 年 「ふーん」
少 女 「今はね、おじいちゃんとこにいるの」
少 年 「ふーん」
少 女 「ねえ、いい物見せてあげようか?」
少 年 「何?」
少 女 「あのね──」

   鳥の鳴き声。

少 年 「鳥?」
少 女 「うん、ツグミ」
少 年 「何でそんなのポケットに入れてんの? 学校に動物なんか連れて来たら、先生に怒られるぞ」
少 女 「怒られるかな? でも、これね、わたしの星座なの」
少 年 「星座?」
少 女 「そう、星座」
少 年 「星座って?」
少 女 「あのね──(と、笑ってしまう)」
少 年 「何笑ってんの?」
少 女 「だって──あのね、わたしの本当のお母さんって、すごく、おっちょこちょいだったの。だってね、何でかって言うとね、わたしには誕生日が無いの」
少 年 「え──」
少 女 「なんかね、施設にわたしを置いてっちゃう時にね、施設の人に誕生日教えるの忘れてっちゃったんだって。おっちょこちょいでしょ?(と、笑う)」
少 年 「う、うん──」
少 女 「だからね、わたしの誕生日ってね、施設のおばさんが適当に作ってくれたんだって。でもさでもさ、そういうの嫌じゃない? 本物の誕生日じゃないし。だからね、思い切って誕生日は無いことにしたの、わたし」
少 年 「ふーん」
少 女 「だけどほら、学校のみんなとかって、星占いとかするでしょ? 自分の星にお祈りしたりとか。そういう時、星座が無いと不便なのよね。だから」
少 年 「そ、そっか──」
少 女 「野々村くんもさ、この子にお願いすれば、何かいいことあるかもよ?」
少 年 「いいよ、それは君のだし」
少 女 「うん。でもね、今日先生に言われたの、明日から学校に動物持って来ちゃいけないって──どうしよう──」
少 年 「──」
少 女 「しょうがないか──」
少 年 「──チュンチュン」
少 女 「え?」
少 年 「チュンチュン、チュンチュン」
少 女 「どしたの?」
少 年 「明日から、学校にいる間だけ、俺がそいつの代わりしてやるよ、俺がおまえの星座になるよ」
少 女 「野々村くん──」
少 年 「チュンチュン、チュンチュン、チュンチュン──」
少 女 「でも、それじゃ雀よ?」
少 年 「そっか、じゃあ──ピヨピヨ、ピヨピヨ」
少 女 「それじゃ、ひよこみたい」
少 年 「そっか──今日帰って研究しとくよ」
少 女 「うん、ありがとう。優しいんだね、野々村くん」
少 年 「う、うるせえ」
少 女 「良かったあ、野々村くんに出会えて」
少 年 「──あ、じゃあわたしんち、ここだから。じゃあね」
少 年 「あ、おい」
少 女 「うん?」
少 年 「名前何ての?」
少 女 「この鳥、まだ名前無いの」
少 年 「鳥じゃなくて──」
少 女 「どんな名前がいいと思う?」
少 年 「名前──名前、か──ライカってのは?」
少 女 「ライカ?」
少 年 「ライカ犬って言って、昔、はじめて宇宙に行った犬の名前なんだ。人間が行く前に試しでロケットに乗せられてさ」
少 女 「ふーん」
少 年 「ごはんも水も燃料もみんな、行きの分だけしか無いのに宇宙に行ってさ、帰って来なかったんだ」
少 女 「じゃあライカは宇宙に行って星になったのね? この子にぴったり。うん、今日からこの子のこと、ライカって呼ぶね。ありがとう」

   行こうとする菜々。

少 年 「あ、名前──!」
少 女 「だから、ライカ」
少 年 「じゃなくてさ──君の」
少 女 「わたし? わたしは菜々」
少 年 「菜々」
少 女 「そう、高村菜々。おぼえてくれた?」
少 年 「うん、高村菜々」
少 女 「忘れないでね」

   現実に戻るように、列車のベルが鳴る。

      ○

   地下鉄のホーム、電車を待っている乗客たち。
   駅のアナウンスが流れている。
   博司が来る。


博司(M) 「人が昔を思い出して、ついつい笑顔になるのはどうしてだろう。笑顔になって、いつか涙がひとつ落ちるのはどうしてだろう」

   かすかに鳥が鳴いている。
   通りすぎていく博司。

      ○

   軽快な音楽が流れる中、コンビニで買い物をしている博司。
   バイトの青年がレジを打っている。


青 年 「七百六十二円になります」
博 司 「──」
青 年 「お客さん?」
博 司 「はい?」
青 年 「七百六十二円になります」

   金を出す博司。

博司(M) 「思い出はいつもセピア色で、近づけば遠ざかる逃げ水のように、もう二度とこの手には戻ってこない」

   店を出て行く博司。

青 年 「いらっしゃいませ」

   鳥が鳴いている。

      ○

   通りを歩いている博司。
   傍らの車道を車が行き来している。


博司(M) 「ただ、ひとつ確かなことは、この世界には、かけがえのないものがあるということ。とりかえしのつかないことがあるということ」

   鳥が鳴いている。
   通りすぎていく博司。

      ○

博司(M) 「果たせなかった約束が引き出しの中に、郵便受けの中に、留守番電話の中に、ただ積もっていく。ただ降り積もっていく」

   公衆電話のテレカの返却音が鳴っている。
   歩いてくる博司。
   立ち止まり、電話ボックスの扉を開け、中に入って行く。
   受話器を取り、かける。
   呼び出し音が鳴り、博司の留守電が出る。


留守電の声「もしもしただいま外出しております。御用の方は発信音のあとでメッセージをお願いします」

   留守電の発信音が鳴る。

留守電の声「伝言、一件です」
菜々の声「もしもし野々村くん──菜々です」
博 司 「菜々──」
菜々の声「おかえりなさい。まだ家に帰って来てないのかな。わたしはさっき戻ってきたところです。野々村くん? 今どうしてますか?」
博 司 「君の留守電聞いてるよ」

   以下、留守電の菜々の言葉に合わせ、話す博司。

菜々の声「何となく話がしたくて、電話しました。でも留守じゃしょうがないね」
博 司 「馬鹿、もっと早く電話しろよ」
菜々の声「別に何が話したいってわけじゃないけど──ただ、なんかさ──なんかね。なんか、なんかね──なんかさ、話したいなって」
博 司 「なんかな」
菜々の声「野々村くんってさ、歯磨き粉何使ってるのかな?」
博 司 「そんなことか」
菜々の声「この間安売りでホワイト&ホワイト買い過ぎてさ、ああいうのって腐るのかな?」
博 司 「知るかよ、そんなこと」
菜々の声「夜、何食べた?」
博 司 「これからコンビニの弁当だよ」
菜々の声「風邪ひいてない?」
博 司 「大丈夫」
菜々の声「卵酒飲んだ方がいいよ」
博 司 「だから、ひいてないって」
菜々の声「食べ物、何が好き?」
博 司 「オムライス」
菜々の声「どうせオムライスとかだろうな」
博 司 「(ぷっと吹き出す)」
菜々の声「それじゃあ──」
博 司 「おい、待てよ」
菜々の声「あ、そうそう、ひとつ大ニュースがあります」
博 司 「何何?」
菜々の声「ライカが見つかりました。あのあと、ふらふらお散歩してたら、見つけたんです」
博 司 「良かったな」
菜々の声「実を言うと、ちょっとした大冒険があったんですよ。屋根の上に登ったりとか、散髪屋さんに虫取り網を借りたりとか」
博 司 「(笑う)」
菜々の声「でも今は無事にわたしのポケットの中で眠ってます」
博 司 「そうか──」
菜々の声「けど、またいつかどっか行ってしまうかもしれない」
博 司 「大丈夫だよ」
菜々の声「その時は──ねえ、野々村くん、覚えてる? 忘れてるだろうな。はじめて会った時のこと」
博 司 「思い出したよ」
菜々の声「もし、もしもさ、この鳥がいなくなってしまったら、そしたら野々村くん、またあの時のように──」
博 司 「ああ」
菜々の声「わたしの星になってよ」
博 司 「ああ、なるよ」
菜々の声「なんてね、嘘よ」
博 司 「なるってば」
菜々の声「けど、もしそうなったら、わたしね、すごくわがまま言うと思うんだ」
博 司 「言っていいよ」
菜々の声「遅刻したら許さないし」
博 司 「しない」
菜々の声「待ち合わせ場所にはわたしより、十分早く来て欲しいし」
博 司 「ああ、これから先、十分ずつ遅刻した十年を返すよ、だから──」
菜々の声「あとね、夜中に寂しい時は電話してくれる?」
博 司 「飛んでいく」
菜々の声「毎日ちゃんと好きだって言って欲しいな」
博 司 「──好きだ」
菜々の声「名前付けて言って欲しいな」
博 司 「好きだ、菜々」
菜々の声「そんなこと言えるわけないよね」
博 司 「言えるよ」

   ふいにテレカ切れの発信音が鳴る。

博 司 「あ──」
菜々の声 「いつか、そう、また十年して、会えるといいね」
博 司 「十年なんて言うなよ、今会いたいんだ」
菜々の声 「それでもときどきは、電話とか」
博 司 「電話じゃなくても」
菜々の声 「手紙とか」
博 司 「手紙じゃなくても」
菜々の声 「わたしのこと」
博 司 「呼び続けるよ、君の名前を呼びつづけるよ」
菜々の声 「わたしね、あのね、野々村くん、君に会えて、よかったって思う」
博 司 「ああ、君に会えてよかった」
菜々の声 「好きよ」
博 司 「菜々」
菜々の声 「好きです」
博 司 「菜々」
菜々の声 「野々村くん、好きよ」
博 司 「菜々──!」

   ぷつんと切れる電話。
   切れた受話器からプープーとだけ鳴っている。


博 司 「──俺も──菜々、俺も君のことが好きだ」

   間。
   受話器を置く。
   かすかに鳥の鳴き声が、聞こえる。
   だんだん近づいてくる。
   博司、扉を開けて、出て行く。
   ひとりつぶやく。


博 司 「また会えるよな──」

   鳥の鳴き声が大きくなる。
   主題歌が入る。
   余韻を残しながらも、放課後の校庭ではしゃぎ回る
   子供たちの声が聞こえる。


博司(M) 「僕らは歩いていく。すべては長い長いひとつの時の流れの中にあって、どんなことも引き返すことなく、ただ前へ前へと進んで行く。僕らは歩いていく。過去と未来を繋ぐ線路に耳をあてながら旅を続ける」


       END

底本:
坂元裕二さんが二〇一三年二月二三日にアップした
一九九七年 セガサターン用ゲーム『リアルサウンド ~風のリグレット~』の脚本
をもとに作成しました。
http://blog.livedoor.jp/skmtyj/

リアルサウンド ~風のリグレット~

2013年2月24日 発行 初版

著  者:飯野賢治:企画・監督 坂元裕二:脚本

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