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Alec Empire(ATARI TEENAGE RIOT)
PIKA☆(TAIYO33OSAKA/ムーン♀ママ/ex.あふりらんぽ)
後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)
これは、東日本大震災からまる2年を迎えるにあたって、音楽やカルチャーに関わるもの達が、どうやって復興に協力しているのか、また原発に対してどのような考えを持っているのかを知ってもらいたくて作った本。
きっかけは、2011年5月の渋谷クラブクアトロ。アーティストが出てきて、「原発反対」を叫んだ。それに呼応し、お客さんも叫んだ。けれども、その場所では反対が叫ばれるばかりで、「これからはこうしよう。次のエネルギーは、これが良いと思う」等の具体的な政策に触れられることはなかった。また、高円寺や渋谷等でも反原発デモは増加し、「原発反対」を掲げるのがブームのようになりつつもあった。人々が原発について考えるようになったのは素晴らしいけれど、シュプレヒコールをするだけでは何も変わらない。ブームは去ってしまうものだし、もっと継続的に具体的に、各々がこの問題に取り組むべきではないか。なぜなら「絶対安全」だったはずの原発で、メルト・ダウンは実際に起こったのだから。それは、原発がある限り、世界中のどこでも起こることだから。
そこで、実際に考え行動している人たちの言葉を紹介すれば、各々が考え行動する一歩になるのではないか。また紹介する人たちが、音楽やカルチャーに関わりながら生きる我々と同じく大の音楽好きであれば、政治家や専門家の言葉よりも身近に感じるのではないか。そう思い立ち大友良英にメールをした。彼へのインタビューを第1回としてOTOTOY(http://ototoy.jp)で始まった連載企画『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』の2011年6月から2012年4月までの9つの記事と、2013年2月の大友良英への再度のインタビューをまとめて、この本が出来上がった。
日本中が心を傷めた2011年3月11日。今や多くの人々が日常を取り戻し、各々の生活を営んでいるように見える。けれども、まだ、故郷に帰ることができない人々がおり、仮設住宅に暮らす人々がいるということ、そして、福島第一原子力発電所の事故の被害はほとんど回復していないということを、決して忘れてはいけない。そうした被災地のことを思いながら、この本を読み進めてほしい。
みんなで粘り強く、日本の再生と復興を行っていくために。
飯田仁一郎(OTOTOY編集長/Limited Express (has gone?))
インタビュー:飯田仁一郎
記事執筆、構成:水嶋美和
表紙デザイン:井上沙織
編集:上野山純平
第一回で紹介するのは、ギタリスト、ターンテーブル奏者、作曲家、映画音楽家、プロデューサーの大友良英。福島出身の彼は、いち早く地元に向い、いち早く行動を起こした。それが、遠藤ミチロウ、和合亮一と共に2011年8月15日に開催する世界同時多発フェスティバル『PROJECT FUKUSHIMA』。なぜ、そのようなフェスを開くのか? そしてその先に見ている景色は? Sense of Wonderでお会いした時には「福島の復興に一生を捧げる」と言っていたその強い思いを、じっくりと聞いてみた。
──『SWITCH』の「世界を変えた3日間、それぞれの記録 2011.3.11-13」に掲載されていた大友さんの記事、読みました。
最初はみんな慌ててるだけだもんね。オレもそうでした。
──あそこから福島の原発事故に対してリアリティを感じ始めたのはいつ頃ですか?
感じたのは初日だよ。福島出身だから当然あそこに原発があるのは知っていたし、どう考えたってやばいはずなのに報道は何も言わないし、もしかして大丈夫なのかなとも思った。でもいくらなんでもここまで酷いとは思わなかったね。海外のメディアが大げさに騒いでて、日本はどうせその逆だから間をとればいいくらいに思っていたけど、そんな話じゃなかった。海外の報道の方が正しかったわけで、僕らはやはり麻痺してたんだね。
──大友さんのご実家は福島のどちらですか?
福島市。
──そこは避難指示区域内ですか?
全然違いますよ。福島市や郡山市、二本松市あたりの中通りと言われてる地域の多くの場所で、チェルノブイリで言えば避難勧告でてもおかしくない線量を示しているのに、行政からは完全に放置されている地域です。本当はすぐに対策を練るべきです。今僕の実家があるあたりは、放射能値は福島市内にしてはそれほど高くない。とはいえ高いですよ。でも、同じ市内でも僕が育った渡利の方はちょっとびっくりするくらい高い。避難指示出したほうがいい地区、福島市にもあると思うんですけどね。でも国も行政もまったく動いてくれない。
──大友さんは実際に行かれたんですよね。福島市の街の現状はどんな感じですか?
最初に行ったのは震災の一カ月後です。それ以前はガソリンもないし食料も少なかったんでオレが行っても足手まといになるだけだと思って行かなかった。当時は壊れた部分はもうだいぶ直っていて、見た目には気持ち悪いぐらいにいつもと変わらない。山も川も空も自然は素敵なままで、線量計持ってないと何の問題があるのかまったくわからない。だから厄介なんですよ。目に見えないし何も感じないから。でも実際に福島で今起こってるのは、本当に痛ましいくらいの出来事で、家族は離散し、そこに残った人達も不安と絶望に苛まれ、もしかしたらこのままでは健康被害も出かねない。なのに行政による対策がほとんどなされてない。ほとんど放置と言っていい状態です。これって本当に非人道的な事態だと、わたしははっきり言いたい。
──最近、『SHARE FUKUSHIMA』(津田大介主宰のセブンイレブンいわき豊間店で行われたイベント。2012年6月11日開催)でいわき市まで行って、そこで現地の人から聞いた話なんですけど、あっちの方は避難区域から避難した人で人口が増えて、夜の街は割と元気になってきているそうですね。
素朴な気持ちとしては元気って聞くだけで良かったと思うんだけど、根本的な問題が解決していないからね。大変なのはこれから。
──根本的な問題とは、具体的には何ですか?
放射能の中で、自分たちにも他人にも健康被害を出さないようどう生きてくかをちゃんと考えて、放射能をこれ以上拡散させずに除去していくことと、こんな事故を二度と起こさない世の中をつくること。大き過ぎる課題だけど、その二つだと思うな。それが「反原発」という言葉に集約されてしまっていいのかどうか、オレはわからない。その言葉を掲げ出すと思考が止まっちゃう気がするんだけどね。「脱原発」も「原発推進」も、どれも非常にシンプルな言葉で分かりやすくて元気がいいじゃない。まあ、それでも被災してない地域はそれでいいけど、現実に放射線の被害に直面している人達にとっては、実際に目の前で戦争が起こってるのと同じわけですから、まずはそこで生命を大切にしつつどう生きて行くかというのが問題なんです。それに根本的には原発だけの問題じゃない。既に世界中に原発がたくさんあって、解決するなら、そういうものに依存してきた世の中のシステム自体を変えていかなきゃいけない。それは何世代にもわたってみんなで考えていかなきゃいけない問題で、だからもちろん最初は威勢のいい掛け声は必要だけど、それ以上に具体的に変えて行くための継続する体力と地道な思考が必要なんだと思う。福島はまだそんな段階じゃなくて、とにかく人々は傷ついている状態だから、その怪我をどうするか早急に考えて、まずは生きて行くためのスタート地点に立たなくてはいけない。これがさせてもらえてないんですよ。すぐに動かなくては内部被曝という形で被害が拡大しかねないのに、とりわけそれは子供達に大きな被害を出しかねないことなのに、国や行政がそのことに全然危機感を持ってないようにしか見えない。個人で動くには限界がある大きな問題を前に挫けそうになりますよ。そんな中でやってくためにも、僕らは栄養のある物を食べて素敵な音楽を聴いて身も心も体力をつけないと。瞬発力だけではやれないことがあって、僕らはそれをやろうとしている訳だから。早急にやるべきことと同時に、長期戦に向けて動き始めてなくては。でもまずは何より国や行政が本当に危機感を持って動いてくれないと本当に解決しないし、被害が福島以外にも広がっちゃいますよ、このままだと。
──Sense of Wonderでお会いした時も言ってましたよね。一生捧げるって。
捧げるって言い方したかな。それはちょっと大げさだけど、残りの人生はこれに多くを費やすことになると思う。一生かかる問題だと思うし、オレの代だけじゃ済まない問題ですよ。正直上の世代にオレ文句言ってやりたいですよ。とりわけ団塊の世代より上の人達には大きな責任あると思います。僕らはバブルの後処理をさせられた世代で、また尻拭いかよって思うけど、自分も含めてある年齢以上の人間がつくって来た世の中がしでかしたことですから。若い世代にしてみれば自分たちに全く責任の無い問題を今後処理していかなくちゃいけないわけで、それを考えると、せめて今生きてる僕らがなんとかしてかなくちゃって切実に思う。ただね、責任者を吊るしあげたいんじゃない。それは他の誰かがやってくれればいい。文句も実際にはたまにしか言いません。そんな時間があったら実際に福島で生活している人達と何が出来るかを優先して考えたい。早急には、そこなんだから。
──原発反対の声を上げる人も居れば、推進派の人も居るし、黙ってしまう人も居る。色んな立場の人が居る中で、大友さんが選んだのは福島で行動を起こすことなんですね。
いや、福島だけじゃないですよ。福島だけの問題じゃないし。東京でも関西でも、海外でも動きます。でも私がやるのは「反」とか「推進」といった主張をすることじゃない。福島を行き来する中で思ったのは、今自分が早急にやるべきは、放射能の被害をこれ以上広げないことと、そのためにも福島の人達とこの過酷な現実をどう正面から受けて動くかを一緒に考えること、そして福島でなにが起こってるかを伝える回路をつくることだと思ったんです。主義の問題ではなく、現実を把握し伝えることと、対策を練りそれを伝え実行していくこと。これをやるだけでいっぱいいっぱいです。もちろんデモでも反対運動でも東京とか関西の人はどんどんやればいい。でもオレは福島出身で否応なく直接的にこの問題に関わってしまっているから、とにかく被害をこれ以上出さないために動くしかない。今なら被害を最小限に食い止められる可能性があるわけですから。具体的な知識や対策は勉強しながらですが、文化を作っている人間として発言し行動していく責任を感じてるんです。
──大友さんは8月15日の『FUKUSHIMA!』をやって、その先に見ているものは福島の人たちの笑顔?
質問の意味がよくわからないけど、単に福島の人だけに向けている訳じゃないですよ。東京にも放射能は量は少ないけど降っているし、関東の農家の人達も自分の作物から放射能が出ないか内心びくびくしてると思うんだよね。ただ今は福島が突出して酷い状況になっているから、まずは福島で起こってることに僕らはどう立ち向かっていくのか。実際に3月15日に福島にいた人達は内部被曝をある程度してる可能性高いでしょ。だとすると子供たちの被害を特に考えなくてはならない。将来癌や身体に何か症状が出てからでは遅いですから。それに、被曝だけでなく、こんな恐怖を味わい続けてるだけでも十分被害は受けているわけで、だからこれ以上被害を広めないためにも、僕らはこの問題を考え続けないといけないんです。『FUKUSHIMA!』でやりたいのはこの問題意識を皆で共有して、みなで考えて行こうという提案だと思ってください。もちろん音楽イベントですから笑顔が生まれるのは嬉しい。笑いたいですよ、皆で。でも僕らは戦時下にいるんです。決して平和な日常の中にいるわけじゃない。そんな中のフェスなんです。
──今、大友さんに光は見えていますか?
最初の方は本当に何も見えなくて真っ暗でした。本当に落ち込んだ。でも、今はちょっと光が見えて来た感じがしてます。そのきっかけは、NHKで「ネットワークでつくる放射能汚染地図」という番組を作った放射線衛生学の科学者、木村真三先生に会ったことです。彼は隠蔽しようとする厚生労働省に辞表を突きつけて、事故後直ちに現地に入って実態調査をはじめたんです。そんな人がいるという事実がまずは希望でした。彼らのチームが調査をしNHKで事実を公表してくれたおかげで、僕らは初めてスタート地点に立てたんです。確かにその事実は福島の人間には厳しい内容でした。でも安全だと言われ続けるよりも、ただ無闇に危険だとネットやテレビの安全な場所から言われるよりも、実際に命がけで現地に入り実態調査をもとに被害を出さないための対策を住民の身になって考えてくれる科学者が一人でも二人でもいてくれたことが大きな希望でした。その上僕らのプロジェクトにも賛同してくれてフェス会場の線量検査から様々な勉強会まで引き受けてくれたんですから、本当に嬉しかったし、これで具体的に動けるって思いました。なにより心強く思ったのは彼がチェルノブイリの被害を食い止める研究を専門にしていたってことです。福島の20年後30年後はチェルノブイリの今なわけですから、そのことを一番知ってる人とともに対策を練れるというのは本当に暗闇に照らす光なんです。
──『FUKUSHIMA!』をやる上で、気付いたことやわかったことはありますか?
あるある。いっぱいありすぎて言い切れないですよ。そもそも最初やるって決めた時に放射能のことをここまでやっかいだとは思わなかったし、原発ってのがどんなものなのかもちゃんとは知らなかった。そんな程度の知識でした。はじめる中で賛否の声が出て来て、実際に勉強して行く中で知ったことだらけなんです。賛同には、放射能の問題にふれずに「福島が元気になっているのを見てほしい」「風評被害をこれで飛ばしたい」みたいなものもあったけど、そういうのは全く賛同できないし、そもそも福島元気じゃないし、被害は風評だけじゃないですから、そういう手の行政がやりがちな隠蔽が一番よくないなって思います。この種の隠蔽が風評被害を生む訳ですから。本当に風評被害を防ぎたいなら、正確な情報を出し、正確な知識を与えることしかないとオレは思ってます。そうやって本当の被害を最小限に止めることが本当の意味での不評被害対策だと思うんです。逆に「福島に人を呼ぶべきじゃない」って言う人の意見も沢山ありました。最初はそっちのほうが正しいのではとも思いましたよ。それどころか「福島からすぐ逃げるべきだ」って意見の人ももちろんいて、実際にある地域はそのとおりだと思うんです。でも全域が住めないほど汚染されてるわけではない。福島という行政区分だけでなにかをするにはこの被害は無理があるんです。実際放射能はまだら状に広がってますから。だから新たな汚染地図を作ることが必要なんです。これなしにただ逃げろとか安全だとか言っても始まらない。それだけじゃなく、社会的な困難もあります。簡単には地域から出ることできないんですよ。様々な事情で避難出来ずにそこで住んでいる人のことを考えると、そうした一見科学的に見える正論だけで問題は解決しないなって思ったんです。重要なのは正確な情報をまずは得た上で、どう対策していくかです。ネットで調べた知識で、遠くから逃げろっていわれてもそれがいくら正論だとしても人は動かないですよ。でも、そうしたいろんな意見を頭から否定するんじゃなくて、一個一個丁寧に考えていくのが大切だなと思いました。事実、少なくとも福島市のフェス会場周辺の西側は、気をつければ生きて行けるレベルだと僕らは判断したんです。でも『FUKUSHIMA!』をやるにあたって、万が一この先今以上に危険な、人が住めないような放射線量が出てしまったら、迷わずにきっぱりと中止するつもりです。そういう勇気をもちたいですし、もし線量が多少あがったとしても対策を練っていけるならその方法を最後まで考える。今福島で生きるってのはそういうことだと思うんです。とにかく隠蔽したり安全だってごまかさずに、僕らが国に対して不審に思ったことと同じことを繰り返さないようにフェス開催のプロセスを見せつつやっていくことが大切だなって思ったんです。
──放射線に対する対策っていうのは?
芝生を刈ったりビニール・シートを敷けば放射線量は結構落ちるんです。実際に会場の芝生は定期的に刈ってますし、舗装部分に流れ出た土は掃除除染する予定です。ただビニール・シートは夏の暑い中芝生を腐らせてしまうし、気温も上げて現実的ではないので、風呂敷をみなで敷く大風呂敷プロジェクトをフェスのオープン前にやろうと思ってます。風呂敷でも充分に対策になるそうです。念のため言っておきたいのは、あくまでも念をいれたいということで、風呂敷を敷かなければフェスは出来ないというほどの線量ではないとわたしは考えてますよ。
──舞ってるんじゃなくて、積もってるってことですか?
そう。雨に当たるとまずいとかみんなすごく誤解してるけど、4月以降の雨にはヨウ素やセシウムはほとんど入ってない。この間会場に行って放射線を調べたんだけど、あるのは原発からやってきたセシウムと元々自然の中にあるカリウム。それもほとんどは地面にあるものです。ヨウ素がないってことは現時点では降り続けていないという事なんです。福島市内も微量ではあるけど線量は下がってきているし、空気中にセシウムが舞ってるわけじゃないから風の強い日以外はマスクは必要ないと思ってる。気をつけなきゃいけないのは、今後食品や飲料という形で体に入ってしまう内部被曝のほうです。こちらのほうが恐ろしいし、これは福島だけの問題じゃなく、本当に今真剣に対策を練らないと全国に放射線を拡散することになります。
──『FUKUSHIMA!』と現地の人との距離感はどんな感じですか?
正直現時点では全然わかりません。ただメンバーの半分は地元の人なんです。一番やっちゃいけないのは、地元を置いていって東京から元気な人が来て正論をぶちまけていくみたいなことにしてはいけないなってことです。この過酷な現実の中でどう生きて行くべきかを正面から考える… というのがプロジェクトの趣旨ですから。実際福島に行き出した最初のうちは外の人が来るだけで嬉しいって言ってくれてて、福島の人達は自分たちが切り捨てられちゃうんじゃないかって思ってたんだと思う。オレも一番最初に心配していたのはそこで、とにかく福島を孤立させちゃいけないなと。だから、外の人に向けては、まずは福島の現状を見てほしんです。こんな放射線量が高い所に人が住んでいるということを、実際に見て、福島の人達と知り合って考えて欲しい。福島の人に対しては、外の人達と交わる機会を作りたいなって。放射線被害の土地って情報だけで福島を知るよりは、友人の「だれそれが住んでる福島…」ってなったほうがリアリティがまったく違うと思うんです。福島の人にしてみれば、外に友人がいれば、そこの街に遊びにいったり疎開もしやすくなるかもしれない。今回は互いに顔が見えるようにしたいというのがすごく大きいですね。フェスはそのための打ち上げ花火みたいな大きなお祭りなんです。ただこれは短期で終わるもんじゃない。長いプロジェクトとしては『スクールFUKUSHIMA!』というのを考えていて、こちらはもっと地道なものをやってく予定です。
──それは具体的にはどういう内容なんですか?
和合亮一さんが詩の学校をやったり、オレはまずは福島でやるフェスに出る為のオーケストラのワーク・ショップをします。秋からは長いスパンで市民音楽家養成講座みたいなものをやれればと思ってます。あとはさきほど名前の出て来た放射線の専門家の木村先生に「子供のための放射線教室」とか、大人のための勉強会をやってもらう予定です。最初に県の指名で福島に来た長崎大学の山下教授っていう放射線の専門家が「大丈夫、安全だ」って言ってしまったが為に逃げ遅れた人っていっぱい居ると思うんだけど、そういう住民の被害のことをちゃんと考えてない人の意見ではなく、被害を出さないために住民の身になって考えてくれる人と勉強会を開ければって思ってます。だから本当に信用できる人の話を聞ける勉強会を開く。
──そういう人達はまだ福島には来ていない?
今までは現状を調べるので精いっぱいだったと思うけど、もう来てますよ。何人も。そろそろ彼らの話を聞く機会が出て来ると思う。もちろん、東京でもやるべきだよね。特に内部被曝しないために今後食べ物をどうするか、実際にどの程度の放射能が体にどういう影響を与えるのかを考えつつ、より具体的に生活に即した形で勉強会を開かなきゃいけない。
──大友さんにとって、なってほしい未来像とはどういうものですか?
これまでの世の中ってのは、皆が同じような生活を享受するために、とにかくなんでも巨大にしてくって方向だったと思うんです。日本中で同じテレビ番組を見る。日本中で同じような100Vの電力を使う。みなが車に乗り、みなが同じような携帯を持ち、みなが同じようなコンピニやスーパーで買い物をし、全国同じチェーン店のレストランで同じようなものを食べる。そういうのって、戦後、貧しかった日本が豊かになるために必要だったんだと思います。でも、もうその目標は十分達成したわけだし、むしろそうすることの弊害が見え出したわけだから、違う生き方をしてってもいいんじゃないかな。例えば音楽の世界で言えばメジャーの音楽に対してそうではない動き、インディーズ的な音楽のありかたというものがあるじゃない。メジャーのやり方に縛られずに居心地の良い音楽を作る為に自分たちで産地直送の音楽をつくるような方法。今は日本中みんなで歌える歌は無くなったけど、でもそれぞれの生活や趣味に応じた素敵な音楽はかってより沢山ある。これってこの先のヒントになると思うんだけどなあ。発電だって小さいインディーズ発電みたいなのいっぱいあって、例えばあそこは240Vでいい音になる電力販売してるから、僕らはそこを使おうか… みたいな選択肢のある電力供給があってもいいと思うんだけど。送電線だけ国が管理して、もっと色んな発電方法が増えればいいんだと思う。音楽に話を戻せば、スポンサーに頼って音楽を作ってきて、そのために原発にノーと言えないミュージシャンがたくさん居るなんておかしいでしょ。テレビでも何でもそうなんだけど、大企業のスポンサーで成り立つ文化が主流をしめるってあり方はそろそろ終わりにしたほうがいいと思うな。全部なくせとは言わないけど、そうじゃない仕組みをどんどん作っていかないと。そもそもミュージシャンって言いたいこと言うのがミュージシャンなんじゃないの? メジャーと契約してるから言えないって根本的におかしいじゃん。かつてタイマーズが東芝EMIにリリースを拒まれた事件を、二十数年間先送りにして解決できなかったツケだと思う。ミュージシャンが自由な発言が出来ないって、もうそれだけで根本的におかしな世の中ですよ。そういう意味ではそんな世の中を放置した責任、僕らにもあるってことです。
──ヨーロッパやアジアって、貧乏でも楽しそうにしてる人がたくさん居ますよね。
そうだよね。何で日本ってこんなに豊かになろうとしてるんだろう。しかも頑張ってる割に全然豊かにならないし、豊かにする部分を間違ってるよね。東京で一人暮らしの部屋に払う家賃があればヨーロッパやベトナムででかい一軒家に住めるよ。確かにヨーロッパやアジアにはお金はなくても豊かな暮らしがたくさんあって、日本は何でああならないんだろう。
──「原発が無くなると豊かな暮らしがなくなるよ」って脅されて、「それでもいいです」って言える勇気がみんなにあると変わるのかなって思う。
どうもそうはならないよね。そんなに今の状態を維持しなきゃいけないほど、今が豊かなのかよって思う。アートには「こういう暮らしがあるよ」という生活への提案力があったはずですよね。かつて、THE BEATLESやTHE ROLLING STONESを初めて見た時に「男の人が髪を伸ばしてもいいんだ」「ネクタイ締めなくていいんだ」って思った人は沢山いたはずで、それはどんな運動よりも世の中を実際に変えたと思うんです。でもその影響をもろに受けたはずのオレより上世代が、若い頃はともかく、実際に世の中に出たら80年代にはバブル経済を作ってみたり、こんな世の中を作っちゃったわけで、今となってはあの革命はなんだったんだろうって失望があるんです。石原慎太郎が都知事選に当選して高円寺のデモがほとんど報道されなかった4月10日、その失望はピークに達したかもしれない。でも冷静に考えると、あれは震災後わずか1ヶ月後の出来事なんですよね。現実には石原慎太郎の票はずいぶん落ちたし、高円寺には一万五千人がTwitterだけで集まったんだよ。それってすごいことだと思うんです。何十年もかけて作ってしまったひどい状況を変えて行くのにそんなに慌てなくていい。事実声を上げる人も増えているし、この取材自体も一年前では考えられなかっただろうしね。
──確かにそうですよね。大友さんが今、急いでとりかからなくてはいけないと思う問題は何ですか?
内部被曝をどれだけ防げるかでしょう。特に子供に対して。今から対策を練って危機感をもってみんなで考えていけば内部被曝は絶対防げるはずです。とは言え僕らだけが言ってもどうにもできないから、国や農水省や自治体に本当にちゃんとしてほしいね。農家の作物から放射能が検出されたらちゃんと国が買い上げて保証する、そういうシステムが無いと農家の人は自分の生活を守る為に嘘をつくかもしれない。そこにこそ税金を使っていいと思う。原発は国策でやってきたことなんだしさ。そういう責任の取り方こそ必要だと思うんです。
──ではそのために大友さんがやることは、声を上げること?
ひとつはそうです。オレ程度の知名度でも多少はメディアにでますから。それだけに間違ったことは言えないなって思ってる。そもそも専門家じゃないんだから、そこは一線を引きます。でもオレだけじゃなくみんなが自分の意見を言ってほしい。アングラな人達だけじゃなくて、普通にテレビに出てる影響力のある人がいっぱい言えばいいと思うんだけどなあ。なんで言えないんだろう。もし言えないんだとしたらそこが根本的に間違っているんだから、そこも変えなきゃいけないと思うよ。意見を言えない世の中自体そもそもおかしいじゃない。そこを変えれば何か変わっていくんじゃないかな。あともう一つは、具体的に出来る範囲で動いて、動かしていくことです。実際福島でそういう活動をはじめてます。
──大友さんは8月15日の『FUKUSHIMA!』以降、どういう風に動こうと考えていますか?
まずはさっき話した『スクールFUKUSHIMA!』。あと、この問題が福島だけの問題じゃないということをみんなに知って欲しい。今年はフレッシュな話題だから色々と注目してもらえるけど、そのうち忘れられていく。だから時々打ち上げ花火を上げて思い出させることも必要。毎年『FUKUSHIMA!』が続くなら、その度に現状を見てもらえるきっかけになるし。あとは本を出したり、地道な運動かな。今はみんな自腹で動いてるけどそんなんじゃ絶対に続かないから、そこを何とかする仕組みも考えていかなきゃいけない。それからチェルノブイリにも行きたいです。福島の未来がそこにあるわけですから、どうすればいいかを知るためにも行きたい。とにかく、みんなどんどん忘れて日常に戻っちゃうから楔をしっかり打ちたいですね。
──そうなんですよね、持続力がもたないんですよ。地震が起こった時はみんな何かやろうという動きがあったんですけど、三カ月経った今、やる人とやらない人との距離がどんどん離れていってる。大友さんのように長く続けていく覚悟を決めている人と、日常に戻って行く人とに分かれていって、続けていく人はどんどん貧乏になっていってるんですよね。
オレだってこのままじゃ本当に破産する。厳しいですよ、こんなことやるの。でも今やらなかったらって思いでやってるんです。そのくらい切実なんです。やる人、やらない人の距離の話だけど、オレだって神戸の震災の時ってここまで切実じゃなかった。友達も居たけどみんな被害はそれほどではなくて、リアリティの無いことにモチベーションを継続しろといっても無理じゃない? たまたまオレは福島出身だったからこうなっているだけで。ただ今回の件は福島だけの問題じゃなくて、東日本、へたしたら西日本も関係してくることだし、大げさでもなんでもなく世界の未来の話だと思ってる。そんなでかい問題を福島だけで背負うのは重すぎますよ。だから、ちょっとおすそわけするからみんなにも考えて欲しいって思ってる。そりゃこんなうざったいことに面と向かっていたらきついし嫌になる。でも安心して寿司や野菜サラダを食える世の中に戻したいじゃない。線量計持たずに暮らせるような未来を作りたいじゃない。直接福島に関係のない人みなにいつも深刻になってほしいとは言わないし、そんなの無理だと思うけど、でもそれぞれの暮らしの中で自分の問題として考えてほしいなって思ってる。関わりに応じて温度差があるのは当然だと思う。その温度差の中で、それぞれの立場で考えてくれればいいんじゃないかな。そのためにも福島で何が起こってるのかをちゃんと伝える必要があると思ってるんです。
(2011年6月17日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/2011071800
大友良英
1959年生まれ。ギタリスト/ターン・テーブル奏者/作曲家/プロデューサー。ONJO、INVISIBLE SONGS、幽閉者、FEN等複数のバンドを率い、またFilament、Joy Heights、I.S.O.など数多くのバンドに参加。同時に映画、CF等、映像作品の音楽も手がける。近年は美術家とのコラボレーションも多く、自身でもサウンド・インスタレーションを手がける一方、障害のある子どもたちとの音楽ワーク・ショップにも力をいれている。著書に『MUSICS』(岩波書店)、『大友良英のJAMJAM日記』(河出書房新社)など。
BLOG:「大友良英のJAMJAM日記」
http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/
第二回で紹介するのは、日本ロック・シーンでは欠かすことの出来ない存在、ソウル・フラワー・ユニオンのヴォーカル/ギターの中川敬。阪神淡路大震災では、アコースティック・チンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」として、被災地での演奏を中心に精力的な活動を展開、そして、災害弱者(阪神淡路大震災の時は、介護が必要なお年寄りや自立身体障害者の方)に焦点をあてた「ソウルフラワー震災基金」を立ち上げ、援助をし続けた。2011年3月11日の東日本大震災以降、15日に「満月の夕(ゆうべ)」をメッセージ付きでYouTubeにアップ。その「満月の夕(ゆうべ)」を聴いた時に、涙がとまらなくなったことを、今も忘れることは出来ない。その後彼は、被災地を巡り、被災した人々に向けて、歌い続け、Twitter等で、現地の状況を伝え続けている。
──実は僕は兵庫県の西宮市生まれで、阪神大震災時は学校が遺体安置所になってたんです。
いくつの頃?
──高1ですね。だから昨日(2011年8月19日)のソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライヴを見てても、すぐにうるっと来てしまいました。
今回(東日本大震災)、やっぱりどうしても、記憶を重ねあわせてしまうよね。
──そうですね、どうしても。この「REVIVE JAPAN WITH MUSIC」の主旨なんですが、震災が起こってすぐにOTOTOYで東日本大震災救済支援コンピ『Play for Japan
(http://ototoy.jp/feature/index.php/20110616)』を作って、東京でも原発反対のムードがすごい盛り上がったんですね。ライヴでアーティストが「原発反対!」って言って観客が「うおー!」っとなったり。デモも頻発して、その時に少し違和感を覚えたんです。「原発反対!」と声を上げて終わってしまうのはまずいんじゃないか。その後、僕らはどう行動すべきなのか。そこを軸に置きながら、中川さんの今の活動を教えて頂ければと思います。まず、3月11日、震災が起こった時に中川さんが一番最初に思ったことは何ですか?
大阪の北摂に住んでて。それでも、あの時は揺れたよ。テレビで震源地を確認したら東北で、「え? 東北なのにここまで揺れたん?」っていう…。そのままテレビを付けてたら、1時間後には、田園風景が津波に飲み込まれて行く、名取市の凄惨な光景が目に飛び込んできて…、言葉を失ったな。ずっとテレビやTwitterで情報収集をしてて、夜には火の海になった気仙沼の映像が報道されて、何が起こってるのかよく飲み込めないまま、電源喪失状態の福島第一原発の情報も入ってきて…。
──11日に震災が起こって、15日に「満月の夕(ゆうべ)」のラフ・ミックスをソウル・フラワーのオフィシャル・サイトにアップして、行動としては早かったですよね。
みんなそう言うけど、俺にとって11日から14日までの体感時間は、十日ぐらいあったよ。すごく長く感じた。13日あたりから「俺に何ができるのか?」っていう思いが交錯し始めて。14日ぐらいかな? (七尾)旅人や曽我部(恵一)が自分の曲をネット上にアップし始めたりして、Twitterでは「中川敬、原発のRTばっかりしてへんと、さっさと東北に歌いに行け!」ってな感じの勇ましいTweetがやって来たり(笑)。面倒やけどDMで「阪神大震災の時に初めて被災地に入ったのは震災の2週間後。あれは呼ばれて行ったんやで~」って説明したら「すいません、興奮してました」ってリプライが来たり(笑)。そういうのがいっぱい来るのもあって、自分の立ち位置を見つめ直さざるを得ない状況の中、ソウル・フラワーのTwitterのタイムラインに1996年テレビで演奏した「満月の夕(ゆうべ)」の動画が流れてきて。こんなのもあったな~と思いながら聴いてたら、コメント欄に「この曲を聴いて、やっと泣けました」っていう東北の被災地の人のメッセージが載ってて。それを読んだ後にもう一度この曲を聴いたら、なんか涙が止まらなくなってね。で、その後、妙にすっきりして、「さ、やれることからやっていこ!」と思って、ちょうど初ソロ・アルバム『街道筋の着地しないブルース』に収録するための、1月に録ったばかりの「満月の夕(ゆうべ)」のセルフ・カヴァーがあったから、制作途中段階やけど、聴きたい人だけ聴いてくれたらいいと思って、メッセージを添えてアップしたんよね。
http://www.breast.co.jp/soulflower/sfu20110314.html
──その後、被災地に行ったのはいつ?
4月後半。スケジュール的になかなか行けなくて。3月後半に自主企画のイベント『闇鍋音楽祭』が大阪で2日間、東京で2日間、横浜で1日あって、まずはその開催がどうなるかという問題があった。3月18日頃から、数人の友人がボランティアで被災地に入り始めて、連日、被災地の状況を電話で確認しながら、沖縄の伊丹英子と『ソウルフラワー震災基金2011』
(http://www.breast.co.jp/soulflower/sfu20110328.html)を立ち上げる話をしたり。4月に入って「あ、ソロ・アルバムの制作、止まってるやん!」ってなって(笑)、残り数曲をレコーディングしたりしてて。4月24日にアースデイ(『アースデイ東京2011』。東京・代々木公園で行われたイベント)で、ギターと三線持って東京に行くことは決まってたから、じゃあ大阪から車で向かってそのまま東北を周ろうかなと。高木克、奥野真哉、石田昌隆(音楽ジャーナリスト)や、あと、スケジュールが合致したスタッフの数名で。それが最初。
──被災地を訪れた時の最初の印象は?
本当、言葉を失った。あまりの酷い惨状に、目の前の光景が現実として胸に落ちてくるのに相当時間がかかった。
──最初はどこへ行ったんですか?
友人の上野祥法(元ロフト・プロジェクト、元ピースボート)が震災直後からボランティアで石巻に入ってて、彼に現地を案内してもらった。石巻の保育園に文具が足りてないっていう話を聞いてたから車に乗せて持って行ったんやけど、先生の一人が「ソウル・フラワー・ユニオンの中川さんですか!?」ってなって、いきなり記念撮影大会(笑)。なんか気持ちをラクにしてもらったよ。その後は女川に行ったんやけど、波止場から数キロのところまで壊滅状態で、俺らは1時間ぐらい言葉もなく歩いてた。するとBO GUMBOSの岡地くん(岡地明)から「石巻のラ・ストラーダっていうライヴ・ハウスに船が突っ込んでる。そこの店長に会ってくれないか?」ってメールがきて、帰りに石巻で店長・相澤さんと邂逅。で、今度はTwitterで繋がってた仙台の若手バンドのメンバーと「今から会おうか?」って話になって、直接仙台の状況を聞いて、次は、神戸長田のFMわぃわぃっていう阪神大震災の時に立ちあげられた災害FMの代表・日比野さんから「亘理町でも災害FMが立ち上げられたからそこに寄ってくれ」って連絡がきて、亘理町に行って、次は、白石のカフェ・ミルトンに立ち寄って。せっかくここまで来たのなら福島で岡地くんに会って帰ろうかって…。関西人からすると大陸のような東北なんやけど、俺のポンコツ車で、見事に分刻みのスケジュールで周ることができた。
──その時、ライヴは?
楽器は持って行ってたし、ボランティアにも「演奏しますか?」って聞かれたけど、その時はしなかった。押しつけるものじゃないしね。でも結果的には良かったかな。まず徹底して人の繋がりを作ることができたし。
──なぜ歌わなかったんでしょう?
そういう気持ちにならなかった。ミュージシャンである前に人間、ホモサピエンス。被災して大変な人たちに、逆に気を使わせてしまうかもしれない。「遠くからエンタメさんがやってきました。さっそく今から演奏します~」っていうのもどうかな?って。やっぱり「呼ばれて、演る」っていうスタイルやね。阪神淡路大震災の時のソウル・フラワー・モノノケ・サミットでも徹底してそうしてたしね。被災地でゲリラ演奏はしてない。それと、その段階で、5月に演奏しに来る予定が決まり始めてたしね。
──ソロ・アルバムに関しては4月に数曲レコーディングしたとのことですが、震災の影響は受けましたか?
そうやね。結局3月11日より前に書いてた歌詞は白紙に戻して書き直したりした。
──どういう風に変わりました?
例えば、アルタンの「プリティ・ヤング・ガール」のカヴァーを「風来恋歌(ふうらいれんか)」っていうタイトルにして、日本語詞で歌ってるんやけど、元々の原詞は、風来坊が旅先で女性に恋をするラヴ・ソング。俺も当初は、ある程度そこに忠実に自分の歌詞を書いてたんやけど、曲を録り始める時にもう一度見直すと、もうちょっと大きな意味での別離の唄に変えたくなった。別に被災地のことを直接的に歌いこんでるわけじゃないけど、自分の頭の中に映り込む光景が、3・11以降、完全に変わってしまってね。で、それを録り終わった後にインストを2曲入れようと思って。うちの子供が4歳なんやけど映画の『男はつらいよ』にはまってて…。
──4歳で寅さん? すごい(笑)。
「寅ちゃん」って呼んでる(笑)。震災が起こる前に家族で晩飯時に連日観てて「男はつらいよのテーマ」も入れようかなって冗談半分に言ったりしてたんやけど、歌詞の内容がアルバムに合わないからやめてた。でも、「風来恋歌」を録り終えて、何かインストを録ろうって思った時に、ふと頭の中に、失恋した寅次郎が北に向かう光景が降りてきた。70年代の、貧しくても笑顔を絶やさない、人なつっこい、半漁半農の、人間の尊厳に満ち溢れた東北の情景。そこから「男はつらいよのテーマ」をインストで録ろう! っていうことになった。
──では、実際に被災地で歌い始めたのは5月?
4月末に「避難所暮らしが一カ月半続いて、みんな疲れてる。そろそろ唄や芸能の出番じゃないか」って、被災地から情報が入ってき始めた。そこで先述の上野が、山田洋二さんの事務所から『男はつらいよ』、手塚治虫さんの事務所から『ジャングル大帝』のフィルムを借りてきて、被災地で上映したりし始めて。その話を聞いて、「よし、歌いに行こう!」。ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーのスケジュールは埋まってたし、モノノケ・サミットは人数が多いから移動が大変やし、俺一人の弾き語りは音楽的に未知数過ぎる(笑)。これはリクオやな。ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザン。で、「一緒に周らへん?」ってリクオに声をかけたら「行こか!」って。
──アコースティックですよね?
うん。5月は6箇所回ったんやけど、後半の3箇所はPAシステムも何もなくて、俺の人生の中でここまで大きい声で歌ったことはないっていうぐらい、大声で歌ったよ(笑)。
──それにギターは負けないんですか?
阪神淡路の時もメガホンで歌ったりしたんやけど、みんなすごい耳を澄まして聴いてくれる。そりゃベストな状況ではないけど、あれはあれでまた独特な音楽空間になる。まあ、ホモサピエンス、数十年前までPAシステムとか持ってなかったし(笑)。
──ニューエスト・モデルやソウル・フラワーのことを知っている方は居ましたか?
あくまで被災した人たちに向けたライヴやから、Twitterでの公表も3日前ぐらいにした。仙台や気仙沼から、30、40代ぐらいの、元々俺らを知ってくれてる奴らが、どの避難所にも数人ずつぐらい来てくれた。
──やはり年輩の方が多かった?
そうやね。阪神淡路の時と比較して最初に思ったのはそこ。常時若者が都会に出て行く土地柄やから、阪神淡路大震災が都市の災害だったっていうのを改めて感じた。しかも阪神淡路はもう16年前やから、当時の年寄りと今の年寄りは違う世代。当時は民謡とか戦前の壮士演歌の「通り」がよかったけど、今の年輩は、実は演歌世代、フォーク世代。そういうことって普段あんまり考えないよね。
──当たり前のことなんですけど、確かに考えないですね。
でも、みんなやっぱり民謡は好きやね。「斎太郎節」の時とか、みんな歌ってたし、若い子も知ってた。リクオが歌う石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」とか、俺が歌う「お富さん」とかは、タイトルを言うだけで避難所がどよめいたり(笑)。あと、やっぱり「アリラン」や「安里屋ユンタ」を演ると、阪神淡路の時同様、歌ったり踊ったりする人が現われる。普段出自の話なんてせずに暮らしてるけど、音楽が鳴り始めた瞬間に踊り方でルーツがそこに立ちのぼる。
──そこから6月、7月と何度も行かれてますが、具体的にはどこを周りましたか?
6月にはラウドマシーンの西村茂樹も被災地にボランティアで入り始めて、上野と西村、ブッキング・マネージャーが2人になった(笑)。5月は石巻、女川、南三陸の志津川と歌津、6月はソウル・フラワー・ユニオンの仙台ライヴの後に、行けるメンバーだけで石巻、女川、気仙沼、陸前高田、大船渡の避難所で演奏した。
──その仙台でのライヴが神がかってたって、僕のTwitterのタイムラインで盛り上がってました。実際、やってみてどうでしたか?
心から歓迎してくれて…。ステージ上からみんなの顔を見て、感無量になったよ。みんな泣いてたな。みんな心に溜めてるものがたくさんあるんやと思ったね。でも、あんまり泣かれると俺も演奏しにくくなって、泣きたくなってくる(笑)。若い頃は「泣きの音楽」なんていややった。でもホント、泣くっていいな。心底に、澱のように沈殿した思いは、吐き出さないと次になかなか行けないよね、人間は。この話はなかなかMCでは出来ないんやけど、5月の一回目の避難所ライヴ、女川総合体育館でやった時、ライヴ自体はすごい盛り上がって…、その後に60代後半ぐらいのあるおっちゃんが近付いて来て握手を求めてきて、「お兄ちゃんありがとうね、音楽っていいね」「音楽っていいね」って繰り返し言った時にうわーって号泣して。俺の手を握ったまま泣き崩れて、周りの人もびっくりしてて、「おっちゃん元気でいてよ。俺また来るし」って言うたんやけど、「ありがとう、ありがとう」ってずっと泣き続けてて。阪神淡路で200回以上ライヴをしたけど、初めての体験やった。後で聞いたら家族も仕事も家も全部なくした人らしくて…。その時、せっかく古い流行り唄とか出来るんやから、やっぱり俺らは音楽を演りに行かなあかんって心底思った。「忙しい」「しんどい」とか言うてたらあかんよ! 音楽やりなさい、中川敬! って(笑)。それは、ほんま辛かった。日本男児って基本、我慢をする。避難所暮らしがずっと続いてて、プライバシーがないから余計に泣けない。
──中川さんは今被災地の方で活動をしていますが、世の中の情勢やみんなの意識は原発の方にかなり傾き始めていますよね。
未だに何も収束していないし、今も福島第一原発は相当危ない。もっと被災地のことを考えたいって思うんやけど、どうしても意識は原発の方に向いてしまう。でも「復興」は「原発」と切り離せないよ。
──被災地はまだ決していい状況になった訳ではないのに、みんなの意識が原発反対に動き始めている。その中で、中川さんはどうバランスをとっていきますか?
いやいや、着地しないままでいるよ。ひとつだけはっきりしてるのは、人間、体一つしかないわけやからピンポイントでやっていくしかない。被災地で知り合った人のところに支援物資を送るとか、マスコミが取り上げない原発や汚染状況の情報を広める、とか。
──原発に対して、今ミュージシャンが動けることはありますか?
俺はニューエスト・モデルの初期の頃から自分なりに原子力ムラに対して異議申し立てをやってきてて、自分史の流れの中で、今自分に出来ることを着実にやっていこうと思ってる。誰も彼もが、必ずしも、メッセージを歌に託すという表現形態でなくてもいいと思うしね。例えば、忌野清志郎さんのやり方とか、本当素晴らしい。こないだの『フェスティバル FUKUSHIMA!』の(遠藤)ミチロウさんのスターリン246も素晴らしかったし、ニューエスト・モデルみたいな暗喩のメッセージもイイね(笑)。今、俺の場合、被災地とやりとりをしてるからかもしれないけど、一人一人の心のひだに寄り添うような唄って何なのか、自分なりに模索してる。それぞれがそれぞれのやり方をすればいいんじゃないかな。例えば、斉藤和義くんには斉藤和義くんのやり方があるし。俺は俺の作法でやる。受け身のロック・ファンが勇ましいヒーローを待望するような形ではなく、ひとりひとりが世の中を能動的に変えて行くような、そこに至る道筋に今興味がある。
──福島でも演奏はしましたか?
7月、南相馬にリクオと克と演奏しに行った。ガイガーカウンター持って、いろんな場所の線量も測ってみた。南相馬には大熊町や双葉町から避難してる人も多くて、演奏終わった後に立ち話したおばちゃんも双葉町出身やった。「原発推進派が多い辺やんね?」って聞いたら「そうなの。私もずっと安全なものやと思ってて、原発反対なんて考えたこともなかったよ~」って言ってた。「もう家にも帰れないわ。最悪よ!」って。街中は子供や若者の多くが疎開してるから空気が独特やね。福島第一原発で未だに何が起こるかわからない状況の中で、それぞれ動けない事情があったりして…。ここにきてもなお、「国策」に振り回されている。
──南相馬での演奏はどうでした?
スーパーの中で、集まったのは数十人ぐらい。手拍子する人もいれば、ずっと笑ってる人もいれば、考え事をしながら凝視してる人もいたし、いろんな人がいるよね。知的障害の女の子が「アンパンマン・マーチ」で大盛り上がりやったよ。ただ、いつであろうがどこであろうが、ライヴでは俺らも音楽をするしかない。被災地ライヴのMCでは、あまり今回の災害のことには触れないようにしてて、神戸の被災地でのエピソードを挟み込みながら演ってる。ライヴを観てる間は、辛い日常を考えずに済む時間を作りたいしね。
──実際、関西とは違います?
一口では言えないね。一説には、東北人気質で大人しいとか聞いてたけど、例えば気仙沼ではすごい盛り上ったし。各地、漁師町気質っていうのもあるらしいし。終わった後で、あるおばちゃんに「「満月の夕」を聴いてちょっと泣きそうになったけど、なんとか泣かなかったよ!」って笑いながら言われたり。ただ、やっぱり阪神淡路大震災の時は、やっぱり「関西人同士」やったんやな~、と思うところもあるね。苛酷な体験をした人がみんなにギャグを飛ばしまくってるようなノリは、「関西人気質」ということもあったのかもね。溜め込まずに、ズバズバ思ってることを言うようなところとか。
──中川さんはいろんな被災地で活動をしてますが、中川さんのような活動を出来ない人はどうしたらいいですか?
いやいや、みんなに「出番」があるよ。みんな同じことをやる必要はないし、「活動出来ない人」なんていない。
──その活動とはどこからどこまでのこと?
何でもあるんじゃない? 例えば、ネットで東北と繋がりが出来て、友人とのやりとりの中で自分が関われそうなものを探したり。「復興」と「原発」は切り離せないわけであって、「今は私、脱原発デモを頑張る」とか。自分の街に疎開して来た被災地の人のケアをするとか。活動的な人のバックアップをするとか…。いやいや、ほんと無数にあると思うよ。世の中、いろんな性格の人がいて、それぞれがそれぞれにシックリくるやり方があるはず。昔から、困った時はお互い様。これは長期戦。みんなに「出番」が回ってくるよ。
──中川さん的にはどれぐらいの長期戦になると思いますか?
なってほしくないよ、もう。はよ終わって欲しいわ。心平穏に過ごせる日々が、一日でも早く、みんなに戻って欲しい。
──とはいえ10年、20年かかりますよね。
ひとつ言えるのは、今後日本列島で暮らしていくということは、この状況を引き受けざるをえないということ。「引き受ける」ということは、まず「知ること」やね。子どもがいるのなら、細かくまだら状にあるホット・スポット、食品の産地も調べながら購入するようにする。大手食品企業や各行政の体質も注視やね。もちろん、どうしてこういう事態になったのか、こんな「テロ」まがいのことを引き起こしたシステムについて具体的にちゃんと知って、声を上げていく。一人一人がこの社会をちゃんと引き受ける。動く。次世代の子どもたちにバトンを渡せるように。
──福島産の桃が安全基準を通ってても一箱100円で叩き売りされていたり、気仙沼の漁場が潰れてしまったり、次の生活の糧がない人がいっぱいいますよね。
第一次産業の問題は深刻。賠償の道筋をはっきりつけなあかん。急がないと。そこがはっきりすれば、自主避難を選択出来る人も増えるし、次の人生に向かえる人も増える。みんなが次の段階に進めるような頑強なシステムを作らないと。それに、日本の食品の放射能暫定基準値もとんでもないからね。チェルノブイリ被災三か国の基準で、水が2ベクレル/リットル、野菜60ベクレル/㎏、果物70ベクレル/㎏。きっと、全摂取量を合せて年間1ミリシーベルトっていうことが考えられてるんやろうね。それに対して日本は500ベクレル…(2011年8月段階)。生産者であろうが消費者であろうが、声を上げていかないと好き勝手にされる構造に組み込まれてるっていうことを、否応なく突きつけられたのが、今回の3・11やね。
──その状況の中で、音楽はどういう風に復興に役立っていくと思いますか?
まずは、喜怒哀楽を出せる場所としての「音楽」。被災地のある場所でライヴをした時、俺は気付かんかったんやけど、ライヴ中に喧嘩があった。その二人は元々知り合いで「お前のところはあまり被害がないけど、俺は家が流されたんだ!」ってことから喧嘩になって、最終的にお互い仲直りしたらしいんやけど、止めに入った人が「いや、良かったんです。やっと感情が出せたんですよ、彼らは」って言ってた。あともう一つエピソードがあって、4月に初めて女川に入った時に、「瓦礫」の中にターンテーブルを見つけて、写真に撮ってTwitterにあげたら、「これ、俺のかもしれない」っていう人が現れて、DMでやりとりして直接電話で話してみたら、それが女川の蒲鉾(かまぼこ)本舗「高政」の高橋正樹くんで、熱心なソウル・フラワーのファン。仙台でのライヴはほぼ見に来てくれてて、しかも大学生の頃に阪神淡路大震災の被災地にボランティアで入ってて、モノノケ・サミットの機材を運んだことがある、という(笑)。(日本経済新聞記事「ターンテーブルがつなげた思い」 http://www.nikkei.com/article/DGXZZO33501180U1A800C1000000/)音楽人同士の繋がりって、他の「趣味が同じ」っていうのとはちょっと違うんよね。例えば、酒を酌み交わしながら、いきなりバカ話を出来る関係になったり。他に南三陸志津川でも、トモちゃんっていう熱心なニューエスト・モデルのファンと出逢って、彼もギャグばっかり言ってるような男なんやけど(笑)、『ソウルフラワー震災基金』のことでお世話になってる。彼は、自分の家も店も全部流されて、遺体運びに始まるあらゆる苛酷な状況を体験して、今は仮設住宅で暮らしてる。女川の避難所ライヴを観に来た山崎君というソウル・フラワー・ファンの男は、潜水士で、震災以降、三陸沖の海中にずっと潜って、遺体や建築物の捜索をやってる。人と人を繋ぐ力。これも「音楽」の力やと思うよ。
──感情なんですよね、音楽は。
「音楽」は、単にそこで鳴ってる「響き」だけじゃないねんな、俺にとって。「音楽は世界を変えない」って言い方があるけど、そういう風に言うのはもうやめようやないかってずっと俺は言ってる。もちろんそれは「メッセージ・ソング」の類いのことを言ってるんじゃないよ。「音楽」はそんな簡単な小さな世界に収斂されてしまうようなものじゃない。ホモサピエンスはずっと「歌ってる」よ。七万年ぐらい前に壁画を書き始めたわけやから、抽象概念をそのあたりでゲットして、そこからずっとこんなことをやってるんやな(笑)。歌ったり、笛吹いたり、太鼓叩いたり、踊ったり…。で、人と人が繋がっていく。これはもう、否応なく!
(2011年8月20日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/20110930
中川敬 NAKAGAWA TAKASHI
ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のヴォーカル/ギター/三線。前身バンド「ニューエスト・モデル」に始まり、並行活動中のチンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」や、アコースティック・ユニット「ソウル・フラワー・アコースティック・パルチザン」と、多岐にわたるバンド/ユニットのフロントマンとして、ライヴを通じて多くの人々を魅了している。また、トラッド、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエ、ラテン、民謡、チンドン、ロックンロールなど、あらゆる音楽を精力的に雑食・具現化する、これらバンドの音楽性をまとめあげる才能をして、ソング・ライター/プロデューサーとしての評価も高い。
ソウル・フラワー・ユニオン
80年代の日本のパンク・ロック・シーンを語るには欠かせない存在であったメスカリン・ドライヴとニューエスト・モデルが合体する形で、1993年に結成。95年、阪神淡路大震災を機にアコースティック・チンドン・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」としても、被災地での演奏を中心に精力的な活動を開始。99年には、韓国にて6万人を集めた日本語による初の公演を敢行。トラッド、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエ、ラテン、民謡、チンドン、ロックンロールなどなど、世界中のあらゆる音楽を精力的に雑食、それを具現化する祝祭的ライヴは、日本最強のオルタナティヴ・ミクスチャー・ロックンロールと評される、唯一無二の存在として、国内外を問わず高い評価を得ている。
オフィシャル HP
http://www.breast.co.jp/soulflower/
オフィシャル Twitter
https://twitter.com/soulflowerunion
オフィシャル myspace
http://www.myspace.com/soulflowerunion
ソウルフラワー震災基金からの報告とお願い
http://www.breast.co.jp/soulflower/sfu20110328.html
猪苗代湖ズとして「I love you & I need youふくしま」を発表。そして10月にはサンボマスターとして、福島県を西から東へ1日ずつ移動しながら行われた野外ロック・フェス「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」で録音された「I love you & I need youふくしま」のライヴ・ヴァージョンを発表。今回は、両バンドの唄とギターを務める福島県出身の山口隆にインタビュー。震災後、多くの原発反対デモが起こった中で彼が選んだ行動は、「原発反対!」と叫ぶのではなく、「I love you baby ふくしま」と切々と語りかけることだった。彼はどんな気持ちで歌うのか? そして故郷への思いは?
──3月11日14時46分、地震が起こった時は何をしていましたか?
高知県にライヴをしに行って、ちょうど取材を受けているところでした。最初はどこが揺れているのか全然わからなくて、どうやら東京と東北が大変なことになっているらしい。でも両方大変なことになるってどういうことだろう? 現実感がまるでなく、まさかここまで大きな事が起こっているとは思わなかったですね。でも近くの喫茶店でテレビを見せてもらって、10分ぐらい経って何が起こっているのかがわかってきました。そこからしばらくはなるべく正しい情報を多くの人に伝えられるよう、Twitterで情報を慎重に選んでRTしていました。
──最初に起こした行動は、RTだった。
はい。最初は自分の中から言葉を発するべきではない。自分ごときが、不遜だと思ったんです。けれどRTを続けていると、結構な数の方が「なぜ何も言わないんだ」と言ってきて、そこから「これは言うべきなんだな」と思い、正しい情報を流すと同時に自分の言葉、詩を発信し始めました。それから3日ぐらい経った頃に、猪苗代湖ズの「I love you & I need youふくしま」をリリースする話になりました。とにかく、自分の故郷が大変なことになっているので。
──その時、どんな思いでしたか?
東北全体が、いや、東北だけじゃないよね。日本中が大変なことになっていて、とにかく動くしかねえな、という感じでした。
──猪苗代湖ズには山口さんの他にも箭内道彦さん(クリエイター)、松田晋二さん(THE BACK HORN)や渡辺俊美さん(TOKYO No.1 SOULSET)もメンバーとして参加していますが、震災後、自然にこの4人が集まったんですか?
いや、猪苗代湖ズもこの曲も震災以前からあって、「アイラブユーベイビー福島」というタイトルだったんで、この曲をリリースして収益全額を福島県に寄付したいという話を箭内さんにして、近藤洋一(サンボマスター/ベースとコーラス)にプロデュースを依頼したんです。
──「I love you & I need youふくしま」は山口さんが発端だったんですか?
確かに僕が作詞作曲をしましたが、箭内さんも松田くんも俊美先輩もみんな何かやりたかっただろうし、誰が最初というのはないです。本当は木内泰史(サンボマスター/ドラムとコーラス)の助けも借りたかったけど、あいつは千葉県だし、そっちはそっちで被害が深刻だったから機材だけ借りました。その時東京はまだ計画停電で電気を使うこと自体どうなんだっていう雰囲気だったし、レコーディングの最中に停電になってもいけないですから、猪苗代湖ズのメンバーと近ちゃん(近藤洋一)で名古屋へ行ってレコーディングしました。それが震災後一週間ぐらいの動きですね。必死でした。
──その一週間で、行動を起こせたミュージシャンもいればそうじゃないミュージシャンもいた。その中でそこまで早く行動を起こせた山口さんの、その時の心境について聞かせてください。
行動に移そうと思って行動したという感じではないんです。ライヴをやると決まっていたら、会場に着いたら普通にライヴするじゃないですか。やるのが当たり前、というのも変な言い方ですが、それと似た感覚でした。目の前でどんどんニュースが流れていって、それを見て行動を起こすことは自分にとって何の違和感もなかったです。ただ近ちゃんとも話したんですけど、これに続いてチャリティー・ソングを作る人は絶対に出てくるはずだから、先陣を切らなきゃいけない。生意気にもそんなことを考えてました。ただし、ミュージシャンがそれぞれの思いをもってそれぞれのタイミングで動けばいい。行動が早かったから偉い、偉くないというのはあまりないと思います。
──あの震災の直後、音楽に向かえなくなったミュージシャンもいた中で、山口さんがすぐに音楽を手段として選んだのは?
そこに対しては、何の疑問も持たなかったんですよ。音楽をやるのが当たり前だった。
──3月に猪苗代湖ズとして「I love you & I need youふくしま」をリリースして、半年以上経ってから10月にサンボマスターとして同じ曲をリリースしたのはなぜでしょう?
猪苗代湖ズでやることとサンボマスターでやることに、そこまで区別はないんですよね。3月に猪苗代湖ズとしてリリースした音源も木内の機材を使ってるし、近ちゃんにはプロデューサーとして参加してもらったし、彼らとも一緒に作った意識なんです。
──それを敢えてサンボマスターとして再びリリースしたのは?
サンボマスターでも出したかったんです! 猪苗代湖ズも最高だけど、サンボマスターも最高のバンドなんで。猪苗代湖ズで出した時も、先ほど言ったように木内も近ちゃんも二人ともすごく協力的で、収益の全額を寄付するって言った時も「当然でしょ」って感じで、この2人ともこの曲をやるべきだと思ったんです。今年の夏フェスにサンボマスターで呼んでもらった時は毎回「I love you & I need youふくしま」を演奏していて、あと箭内さんが「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追(2011年9月14~19日の6日間、福島県内を移動しながら行われたフェスティバル)」をやったでしょ。あれでちょうど震災から半年だったんですよね。そこで見た福島の人達は本当に力強くて僕は感動したんですけど、もっともっと自分達のやり方で応援できるのではないかって思ったんですよ。応援なんて偉そうだし生意気だなって自分で思いますけどね。周りの友達はちゃんと福島で子供作って育ててるのに、僕は東京でロックンロールって叫びながらふらふらしてるだけ。福島に対して何もできていない。「I love you & I need youふくしま」にしても、僕がこの曲を全国で歌いたい、それだけのことなんですよ…。今言葉に困っているのは、僕には「俺はこうだぜ!」って壇上から声を発する気持ちがあまりないからなんです。「聴いてもらえねえかな」って、単純にそういう気持ちなんです。
──「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」では6日間ずっと出演していましたが、どうでしたか?
色々ありましたね。いかんなあ。絶対泣かねえぞって思って演奏するんだけど、やっぱり泣いちゃうんですよね。
──じゃあ、今回配信した「I love you & I need youふくしま」の最中にも?
そうなんです。お客さんもミュージシャンも、こんなに福島に集まってくれた。その空間を音源として出したいという気持ちもあったんですよね。
──お客さんの反応はどうでしたか?
すごかったです。普通のロック・フェスとは違っておじいちゃんおばあちゃんも来てたし。俊美先輩が最終日だけ出れなくて、5日間ステージで着ていたつなぎを近ちゃんに託して、近ちゃんがそれを着て代わりに猪苗代湖ズでベースを弾いたんですよ。もう、泣けてしょうがなかった。でもこれと同じことが、規模の大小はあれど全国で同時多発的に色んなところで起こってると思うんですよね。ミュージシャンそれぞれが自分の思いで動いて、他と繋がろうとも思っていないのに繋がっている。僕も何年か音楽活動を続けてきたけど、こんな状況は初めて見ます。日本のミュージシャンってすごい。福島県民としても本当に有難いことです。みなさんの活動に敬意を表します。
──このフェスにはどのような気持ちで臨みましたか?
来てくれるお客さんの恋人になりに来た。それぐらいのライヴやってやるぞって気分でしたね。
──終わった後は?
精根出し尽くして、あと1年ぐらいは何もできないみたいな状態で帰った記憶があります(笑)。
──「LIVE福島」は今年のフェスの中でもとても大きな意味をもったフェスだったと思います。このフェスの主宰の箭内さんって山口さんから見てどういう方なんでしょう?
本当に不思議な方ですよね。近くにいると超人でも何でもないし、見ててダメなところもいっぱいあるんですけど(笑)、そういう普通の人がボロボロになりながら、6日間のこのフェスを成功させた。ロックンロールをやっていると、純粋じゃない人もたくさん見るんですよ。でもあの人は本当に純粋。そこが一番の才能なんじゃないかな。
──山口さんにとって、震災後、何か大きく変わったことはありますか?
一番でかく変わったのは意識ですね。「これは恥ずかしがっている場合じゃねえぞ」と思うようになりました。僕はロックやハードコア・パンクが好きで、「1,2,3,4 I don’t like you」で始まることが僕の教科書の中では正しいことだったんですよ。でもいざサンボマスターを始めて心の中から言葉を出そうとした時、なぜか「あの子が好きだ」「あの子のために歌うんだ」が出て来たんです。「もっとかっこいいこと歌いたかったんだけどなあ」って思ってたんですけど、震災以降でさらに変わりました。心の声が自分に命じていることを歌うべきだと思ったし、色んな人の活動を見てて、ロックンロールがどうやって人の心に響くのかがわかった。ロックンロールの意味を教えてもらいました。そして、俺ももっとロックンロールをやんなきゃなって思ったんです。
──山口さんから見て、今の福島の状況はどうでしたか?
うん。みんな頑張ってますよ。でもやっぱり助けが必要です。情報は錯綜してるし、土地ごとでそれぞれ困難を抱えてるし、それがまた新しい困難を生んだりして。まだまだやれることだらけですよ。みんな歯ぁ食いしばっているっていうのが僕が見た福島の正直な感想ですね。でも、震災後二週間ぐらいしてやっと地元の友達と連絡をとれるようになって、みんな口を揃えて言ったのが「歌出したんだろ。こっちは大丈夫だからお前が頑張れ」「いいからとにかく歌いに来い」だったんですよ。すげえなって思いました。
──それが言えるのはすごいですね。では、これから山口さんが頑張る方法として、次に何をするかは考えていますか?
とにかく、日本中でこの歌を歌って回る。今年は呼んでいただいたフェスにはなるべく出るようにしました。これを日本中で歌いたいんです。そしてこの曲をいいと思ってくださった方がダウンロードしてくれたら、そのお金が福島の対策本部に行くんですよ。それは当然僕にとっても有難いことだから、今はそれをやるしかないなと思います。
──では最後に、今の日本の状況は相当深刻なものだと思います。その中で、音楽やロックに出来ることって何だと思いますか?
生意気なんですけど、精神的に立ち上がることもままならない人達を元気づけることでしょうか。闇が巣食っているところで歌いたい。僕が出来ることはやはりそこだと思うんです。音楽は日本の闇を食いつくすことができる。その力があると、僕は思います。
──それを具現化する行動が、日本全国で歌うこと。
そうですね。日本のミュージシャンはもうそれをやり始めています。そしてそれを、同じ日本のミュージシャンとしてを誇りに思います。
(2011年10月14日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/2011111100
サンボマスター
山口隆(唄とギター)、近藤洋一(ベースとコーラス)、木内泰史(ドラムスとコーラス)によるスリー・ピース・バンド。メッセージ性の強いストレートな歌詞と、ファンクやソウルからの影響を感じさせるロックンロール・サウンドを特徴とする。2000年に結成。2003年7月、オナニーマシーンとのスプリット・アルバム『放課後の性春』でメジャー・デビュー。同年夏の「FUJI ROCK FESTIVAL '03」ROOKIE A GO-GOステージに出演し、12月には1stアルバム『新しき日本語ロックの道と光』をリリースする。2005年発表のシングル『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』がドラマ主題歌に起用され、大ヒットを記録。さらに2007年9月に東京・両国国技館にてワンマン・ライヴ「世界ロック選抜<ファイナル>サンボマスター vs サンボマスター」を敢行。それまでに発表していたレパートリー全55曲を6時間かけて披露し、大きな話題を呼んだ。その後も、シングルがCMソングやアニメのエンディング・テーマに起用されたことで、着実に新しいファンを獲得。2011年4月には、CD2枚組に計34曲、初回限定盤DVDにビデオ・クリップとライヴ映像それぞれ11曲+特典映像という、計57曲が詰め込まれた初のベスト・アルバム「サンボマスター 究極ベスト」をリリースした。
サンボマスター official website
http://www.sambomaster.com/
猪苗代湖ズ
福島県で生まれ育ち、今は東京や横浜で暮らすミュージシャンとクリエイターの福島県人バンド。メンバーであるクリエイティヴ・ディレクター、箭内道彦が実行委員長を務めた、『風とロック芋煮会』(2010年9月 福島県・裏磐梯高原にて開催)を機に結成された。もちろんバンド名の由来は、福島県の中央に位置する、日本第四位の大きさを誇る湖、『猪苗代湖』から。昨秋の『風とロック芋煮会』では、大自然に囲まれた故郷の野外ステージで郷土愛をかき鳴らした。この時に生まれた曲が、福島への想いを真っすぐに歌いあげた『アイラブユーベイビー福島』である。
猪苗代湖ズ official website
http://www.inawashirokos.jp/
第4回目となる今回は、結成当初から政治的なメッセージを中心に楽曲を創り上げ、BPM220以上でビートを打ち鳴らすデジタル・ハードコアの雄、ドイツを拠点に世界中で活動するATARI TEENAGE RIOTのAlec Empireにインタビューを敢行。原子力発電所が爆発し、情報は操作され、誰を信じて良いか分からなくなった時、常に発信し、発言し続ける(デモに参加し拘留された事も)アタリが叫ぶ「行動を起こせ!」の言葉は、多くの日本人にもエネルギーを与えた。FUJI ROCK FESTIVAL'11で、日曜日のトリだったにも関わらず、レッドマーキーは満員。更には過去最大のモッシュ・ピットを引き起こしたのは、来場者が彼らを切に求めていたからだろう。
2011年11月17日(木)@恵比寿LIQUIDROOM。彼らは、2011年2度目の来日を果たした。このインタビューは、その出番前に行ったもの。真摯に、そして強くはっきりと話すAlec Empireのインタビューを、FUJI ROCK FESTIVAL'11時のインタビュー(http://ototoy.jp/feature/index.php/20110828)とあわせて読んで欲しい。今こそ、我らは行動を起こすべきだ。
──再来日ありがとう。FUJI ROCK FESTIVAL'11のライヴは、どうだった? フロアは、見た事もないような大きなモッシュ・ピットが出来ていたけど。
とにかく最高だったよ。過去のフジも最高だったけど、今回はより強く、自分達の音楽と政治的なメッセージをオーディエンスに届けることが出来たと思う。と共に、より深く、オーディエンスと繋がれたと思うよ。海外のメディアから、「日本人に、君たちのメッセージは果たして伝わっているの?」って質問をよく受けるけど、今回のフジでは、過去に例を見ない程特別な瞬間を作れたと思うんだ。
──私にとっても特別なものでした。東日本大震災のあった東北はとても寒い地域ですが、みんなとても我慢強いんです。でも実は、やっぱり心に傷をおっている。彼らにとってATARI TEENAGE RIOTが叫ぶエネルギーは、歌詞の内容が分からなくても、必ずメッセージとして伝わっていると思います。日本の原子力発電所が爆発した時に、アレックは何を感じましたか?
最初に話を聞いたときは、とてもショックで悲しかった。ニック(エンドウ)(ATARI TEENAGE RIOT/noise control,vocal)の家族が日本人だし、日本に行く機会も多かったから尚更ね。あと、小さい頃にチェルノブイリ原発事故があって被害を受ける可能性もあったから、今回の日本の原発事故も人ごととは思えなかった。と同時に、震災後に冷静な対応をし続ける日本人のメンタリティーにはとても希望をもらったよ。何故かと言うと、その頃ヨーロッパの経済は最悪で、ある政治家が「この原因は、国民の強欲さが問題なんだ」と言っていたが、その部分こそ本当に日本人に見習うべきだと思えたんだ。メディアは被害の大きさばかりを伝えるが、伝えきれていない個人レベルでは、さらに悲しい出来事が起きているはずだしね。
──原発事故が起こってしまった今、全く臆することなく来日出来ていますか? また今、日本の人々に伝えたいメッセージとは何でしょうか?
来日するにあたっての恐怖は、何故だか分からないけど抱くことは無かったね。育った環境がベルリンという土地柄もあって、ベルリンの壁や冷戦という事実に、常に危機感を感じていたんだ。だから、恐怖というよりも何かやらなければという意識がすぐに生まれたよ。メッセージというのは、すごく難しい質問だ。本当に大変な状況だと思うが、強い気持ちをもって乗り越えてほしいと思う。ショックな反面、ポジティヴなニュースも目のあたりにしていて、それが僕らのエネルギーにもなっているんだ。ある子供が、家族を皆失ってもしっかりとインタビューに応えている姿を見た時に、とても勇気を貰えたんだよ。
──以前に、インターネットに政府の介入は必要ないと言っていましたが、今も日本では福島の情報が伝わりづらい状況です。こんな世の中で、ミュージシャンは何が出来るでしょうか?
とにかく行動することだよ。一方で、政府側の人間の中からWikiLeaksで告発が起きたように、そういう選択肢もあるってことを認識する必要がある。政府側の人間ということ関係なしに、個人で間違いを発見した時に、それを言う言わないを選択出来るということを考えたほうがいい。大衆の人達は、その動きを待っているだけではなくて、力を信じることが必要だ。政府を動かすのは自分達なんだっていうのを忘れては駄目だ。途中で諦めたらすぐにそこで止まってしまうからね。最近だとアメリカで起きたウォール街のデモだね。あれは僕らのアメリカ・ツアー初日のことだったんだけど、ツアーが終わる頃にはベルリンにもデモの波が来ていて、世界中で多発していたんだ。音楽もそうだろ? 自分で音を作って「これ伝わるかな?」なんて考えている暇なんてない。とにかく行動していくことが重要だ。
──政府の監視はどんどんきつくなっているように感じています。そんな中で、ATARI TEENAGE RIOTがメッセージを発信し続ける大きな理由を教えて下さい。
ドイツでも検閲の監視があり、問題提起するようなことをライヴで言うと放送されなかったり、ベルリンのフェスティバルでメイン扱いだったのに、テレビでは放映されなかったりするんだ。以前に、ネオナチと警察の関係を問題提起している曲をDJでかけようとしたら、周りのDJに「やめとけ」って言われたことすらあったよ。でも、そこで黙った時点で問題がある側と同じだと思うんだ。簡単な道を選んでばかりいると、よりシチュエーションを悪くするということを理解したほうがいい。俺はそういうところに溜まりたくないんだ。その罪悪感でおかしくなってしまうんだよ。
──正に今、音楽で出来ることとは?
「Re-arrange Your Synapses」だよ。音楽は人に考えさせて、行動させることが出来るんだよ。特にATARI TEENAGE RIOTの音楽は、ただエンターテインメントとして聞くだけではなくて、音圧を人の体に響かせるフィジカルな効果を持っているんだ。それってパンチみたいなもんだろ。
(2011年11月17日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/20111216
ATARI TEENAGE RIOT
アレック・エンパイア(Programming,Shouts)
ニック・エンドウ(Noise Control,Vocal)
CX キッドトロニック(MC)
1992年、アレック・エンパイアを中心に結成。それまでのロックとテクノの既成概念を覆し、ドイツ国内においては幾度となく発禁を受ける過激なメッセージと極端にヘヴィなサウンド・スタイルは、デジタル・ハードコアというジャンルを作り上げた。1996年、アレック・エンパイアはビースティ・ボーイズと組みレコード契約、アルバム『Burn Berlin Burn』を完成。それ以降、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ウータン・クラン、ベック等とのツアーが続き、バンドは全盛期を迎える。そして1999年、3rdアルバム『60 Second Wipe Out』をリリースした。
2000年のオーストラリアのビッグ・デイ・アウト・フェスティヴァルに出演した際には、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ナイン・インチ・ネイルズ、ザ・クラッシュのジョー・ストラマー、フー・ファイターズ、プライマル・スクリームなど蒼々たる面々がステージ袖で彼らのパフォーマンスに目を奪われた。しかし2001年、MCカール・クラックの死をきっかけに2010年9月までバンドは事実上解散の状態となっていた。
2010年に再結成を記念して、日本を含むワールド・ツアーを行う。その成功に続く形で、新たなメンバーとしてCX キッドトロニックを迎え、2011年6月に最新アルバムをリリース。
2010年にNMEが大絶賛し、今年レッド・マーキーの大トリとして出演したフジロックでは、登場前から異様な盛り上がりを見せ、まさに決起集会の様相を呈した。途絶えることの無いモッシュとエアーを巻き起こし、ステージとフロアが混然一体となった爆発的パフォーマンスはライヴ・アルバム『RIOT JAPAN IN 2011』に凝縮されている。
ATARI TEENAGE RIOT official website
http://www.atari-teenage-riot.com/
日本中が騒然となった2011年3月11日の東日本大震災から約10ヶ月。今や、多くの人々が日常を取り戻し、各々の場所で新年を迎えた。けれども決して忘れてはいけないことは、故郷に帰ることが出来ない方がいるということ。まだ仮設住宅に住んでいる方がいるということ。そして、日本中に散らばった原子力発電所は止まっていないし、福島第一原子力発電所の事故も収束していないということ。2012年最初の『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』では、2010年福島県双葉郡に移転し、2011年3月11日よりいわき市に避難し、仮事務所にて活動を続けるNomadicRecordsの代表取締役(2013年3月現在はいわき市平に事務所を開設)、そして我々と同じく大の音楽好き平山〝two〟勉氏の赤裸々な言葉で今の福島を伝える。再生も復興もこれから。我々は2011年を忘却せずに、2012年を彼らと共に生きていく!
──情報が錯綜し、どの情報を信じていいか分からなくなってしまった今、福島県いわき市の現状を、現地で活動するNomadic Recordsの音楽プロデューサー平山〝two〟勉さん(福島県富岡町出身)に語ってもらう今回のインタビューは、とても意味があると思っています。OTOTOYに来る音楽好きに、同じ音楽好きである平山さんの言葉ならダイレクトに届くと思うのです。
震災直後、真っ先に動き出したのはミュージシャン達でしたね。彼らは東京をはじめ、音楽活動を通して日本各地に繋がりがあるので、救援物資を届けたり、炊き出しをしたり、フリー・ライヴをしたり。瓦礫撤去などのボランティアに積極的に行く人もいました。自分も一時期club SONIC iwaki(福島県いわき市にあるライヴ・ハウス。以下、SONIC)に避難させてもらってたので、SONICを拠点にしたそういう動きも見てました。
──避難する前、平山さんはどこにいたんですか?
最初の爆発の時(3月12日)は、まだ地元の(福島県双葉郡)富岡町に居ました。原発からは9㎞しか離れていないので、もしかしたら被曝しているかもしれませんね。翌3月13日にいわきの親戚の家に避難したんですけど、そこでテレビを見る他何もできないのがもどかしくて、SONICで場所を借りてインターネットで救援物資の募集をしたり、連絡網を作って地元の人達の安否確認の情報を収集、発信したりしてました。
──SONICは、原発から何㎞ぐらい離れているのでしょうか?
40㎞ぐらいです。当初はいわきも屋内退避の指示が出ていたので、街中はゴースト・タウン化してました。避難していった人も多かったし。今規制されているのは20㎞圏内で、中に通じる道にはどこも検問があって、自由には入れないようになっています。
──平山さんも避難してからは、入っていませんか?
4月22日の20㎞圏内警戒区域指定までは、取り締まりが緩かったので、何度か入りました。当初地割れが酷くてそっちの方も恐かったですね。それ以降は地元住民の一時帰宅と、中に会社がある人は仕事関係のための公益立入というのが許可されているんですよ。それで自分は合計10回ぐらいは入りました。
──中はどういう状況でしょうか?
道路の陥没や海沿いの瓦礫は4月中旬ぐらいまで放置されていましたね。津波で行方不明になった人の捜索も3月後半に一斉捜索が始まるまで放置されていたんです。未だに見つかってない人もいます。それから徐々に自衛隊が片付け始めて、今は仮ではありますが瓦礫もだいたい片付いて道路も通れるようになってきました。でも津波で壊された家が避難してる間に無断で片付けられて、戻ってみたら何も無くなっていたという人も周りにはいたんです。
──泥棒が多発しているという話を聞きました。
商店やスーパーのガラスが割られて物が盗まれていたり、一般家庭にも泥棒が入ったりしていましたね。薬局や猟銃店での盗難もニュースになりました。ウチは幸い無事でしたが、知り合いは結構やられてます。許せないですよね。人の弱みにつけこんで…。
──今、20㎞圏内はゴースト・タウンになっている?
富岡駅は津波で流されて、どこの家も地震被害の修復は手つかず。電気と水道は止まったまま。夜は真っ暗でゴースト・タウンには違いないです。でも主要な道路や信号(点滅)は復旧し始めてます。そういう最低限のところは復旧し始めたんですね。富岡のNTTに設置されているライヴ・カメラ(※1)でも確認出来ます。原発関係の車が頻繁に通ってるのが見えますよ。たまに動物も登場します。
──20㎞圏内に住んでいた方々は、将来的に戻れると考えておられますか?
半々ですかね。住んでる地域の線量にもよります。解除されても戻らない人は多いでしょう。11月に第一原発がある双葉郡大熊町で町長選があったんです。2人が立候補して、1人は「町内を除染してみんなで戻ろう」、もう1人は「もう除染しても住むのは難しいだろうから、みんなで他の場所に移住しよう」という公約で立ったんです。勝ったのは前者の「みんなで戻ろう」と言う候補でした。でもその後に色々と動きがあって、町長から「比較的線量の低い町南部を除染してそこに町を作る」という話もでてきた。そうすると、そこで引っ越しするならわざわざ線量の高い圏内じゃなくてもいいじゃないですか。それでまた喧々諤々と同じ町内の人同士で対立してしまったり、他の町から「大熊町は何を考えているんだ」と言われてしまったり、同じ福島県人同士でもう切ないですよ。20㎞圏内でも今度の4月までには「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」に線引きするようなので、そこでまた問題がでてくるでしょうね。放射線量で線を引くので分断される町がでてくる筈です(その後2013年3月25日に富岡町の警戒区域再編が決定。平山の自宅は居住制限区域に)。
──平山さんの意見としては、どうでしょうか?
両方の道を確保、支援するべきだと思います。年輩の方は地元で死にたいって人もいる。うちの両親も富岡にお墓の土地は買ってあるし。ある程度の年齢で子供がいないのであれば、それなりに安全が確保された時に、帰りたい人は帰ってもいいでしょう。でも子供や若い女性はどう考えても帰るべきじゃないですよね。除染といってもどこまで継続的効果があるかわからないわけですから。だから大熊町長選のように2つの選択肢を対立させるんじゃなくて、尊重し合いながら進めていけば、そんな軋轢は生まれないと思うんです。ただ、町として過疎化は避けられないですよね。高齢者と原発関係者だけの町に…。人の命、安全を第一に考えれば、当然、現実的にやむを得ない。国や自治体がどう決めた所で、移住するのは個人の選択ですから。自分は戻れるのなら戻りたいと思ってます。
──20㎞圏内に残された動物たちもニュースになっていましたね。
犬猫以外に牛やダチョウも街中をうろついてます。12月の時点でもまだいて、一時帰宅する人はエサをもっていったりしてますよ。牛と車の事故というのも数件起こってます。ペット救済に関してはNPO団体がいくつかあるんですけど、団体同士が情報を共有できていないから、効率的に救えない状況だとも聞いてます。だいぶ減ってきましたけどね。そこは国がリーダー・シップをとらないとどうにもならない。
──ペットはわかるんですけど、ダチョウはどこから来たんですか?
大熊町にダチョウの牧場があったんですけど、可哀想だと思ったのか、誰かが柵を壊して放しちゃったんですよ。そこから南下して来ました。しばらく富岡に落ち着くのか、寒くなるからさらに南下するのか、どうなるんでしょうね? 動物の救済に関しては国や自治体の対応があまりにも遅くて、残念すぎます。家畜にしても、もっと早い段階なら今程被曝する前に救い出せた筈です。
──いわき市に避難した人がたくさんいて、人が増えすぎて困っている状況にあると伺いました。そこに対して県や国はどのように対応するのでしょうか?
仮設住宅にしろ、借り上げ住宅にしろ、これまではまず住居を何とかする事だけで国も自治体も精一杯だったと思うんですよ。いわきの津波被害者も沢山いたわけですから。ただ一時避難という前提なので、長引けば長引く程色んな問題がでてくるのは避けられない。その対応は… 方向性がまったく見えてこないです。
──平山さんは、仮設住宅に入っているのでしょうか?
うちは借り上げの方ですね。一般のアパートで生活しています。
──自主避難の方と強制避難の方とで、補償される金額にすごく差があるというのは本当ですか?
それは意味合いがちょっと違いますね。強制避難は20㎞圏内や飯館村など線量の高いところからの強制で、自主避難というのはそれ以外の、例えばいわきや福島、郡山等、避難指示は出されてないけど、放射線の影響を考えて自主的にという意味なので。簡単に補償の内容を比べる事はできません。でも自主避難者も補償するって方向を政府が出しましたね。当然のことですけどね。それと、40㎞圏やら何㎞圏やら、その外側の人も補償しようって話になって、そうなるとちょっとでも線引きの外に住んでる人が不公平じゃねえかって話に発展して、福島は一律平等に補償しろとか、難しいですよね。
──当面の一番大きな問題は何でしょう?
いわきに限って言えば人口増加に伴う住宅難、職業難と来る3月の進学の問題。そして医療従事者の負担増なんかですね。勿論、農業と再会のメドがたっていない漁業も。ただ福島といっても凄く広いので、会津地方、中通り、そして浜通りの第一原発以北では、それぞれ抱えている問題が違ってきているんです。外から見る以上に状況は複雑です。
──なぜ、多くの方々がいわき市に移るのでしょうか?
やっぱり福島の他の地域より温暖だし交通の便もいい、更に双葉郡の人にとって元々馴染みのある地域なんですよ。近くて土地勘もあるし、線量も地域によるけど東京と変わらないくらい低い。今、福島県内外に避難している人でいわきに来たがっている人が沢山いて、もしこの先、仮設住宅なり借り上げ住宅なり住める場所が増えたとしたら、いわきの人口は更に増えていくでしょうね。そうするとさっき言った問題が余計に深刻になるのは目に見えています。ただ、同じ浜通りでも第一原発の北側にある南相馬は逆に人口が減ってるんですよ。線量の問題で、鉄道も分断されていて高速道路もない (2011年12月JR常磐線原ノ町駅~相馬駅区間のみ開通。2012年4月常磐自動車道南相馬IC~相馬IC間のみ開通)。まったくいわきと違う状況で、問題はより深刻です。それもいわきに人が流れてくる一因といえるでしょう。
──前に畠山美由紀さんへインタビューしたのですが、彼女は宮城県気仙沼市の出身で、母校の小学校に歌いに行ったそうなんです。そこで盛り上げようと思って歌ったら子供たちも一緒になって歌って、盛り上がった。だけど福島では、盛り上がる曲よりも「テネシーワルツ(1948年に作られたアメリカの歌曲。テネシー州の州歌)」の方がしっくり来たと話してくださったんです。
(畠山美由紀インタビュー http://ototoy.jp/feature/index.php/20111209)
肌で感じてしまうものがあったんでしょうね、きっと。ACIDMANがSONICで東北人在住者限定のライヴをやった時も、雰囲気がいつもと全く違って、逆にお客さんの方からひしひしと伝わってくるものを感じ取ってました。あそこに集まった人達は、それぞれ色んなモノを背負ってきてたわけですから。ただ表面的には5月くらいから普通にロックしてますよ。夏には箭内道彦さんの「LIVE福島」や大友良英さんの「プロジェクト FUKUSHIMA!」もあったけど、それ以前から音楽に関しては平常になりつつありました。でも単純に音楽を楽しむ、陽気にというのとはまた違うかもしれないです。陽気の中にも何かひきずっているものがあるんです。暗い影が抜けきらないというか…。福島でのフェスに関して言えば、音楽を楽しむという以上に、音楽を通して色んな思いを共有するという気持ちの方が見てる側にとって強かったと思います。あれだけ泣いてる人がいるフェスというのは他にないですからね。それは双葉郡の人は勿論、どの地域の人も、こういう事態になって、傷ついた故郷を思う気持ちが以前とは比べようもないくらい大きくなったという事だと思います。例えば自分も6月に南相馬の鎮魂祭で、坂田明さんがサックス1本で独奏した「ふるさと」を聞いた時には号泣してしまいました。さっきの畠山さんといえば「わが美しき故郷よ」を初めて聴いたときも、あの時と全く同じ感覚で涙がこぼれてしまいましたね。曲の素晴らしさもあるんですが、自分にとっては帰れないかもしれない故郷という思いがこみ上げてきて…。本当の意味で盛り上がったり、笑い合えるのはまだ時間がかかると思います。
──再生に向けて、目指すところがまだ明確に見えていない状況なのでしょうか?
これもまた地域によって復興への道筋が違ってきますけど、「見えていない」と言った方が正確かもしれませんね。まだ何も収まっていませんから。冷温停止とか言っているけど周りの地域の線量は一向に落ちていなかったり、メルトスルーした核燃料があったり、汚染水が漏れていたりするわけで。それが本当に収まれば、やっと復興への道筋が見えてくるんだと思います。だからさっき「ひきずる」という言い方をしてしまいましたが、背負って生きていかなきゃいけない覚悟がいると思うんです。この土地でこれからも頑張っていくという覚悟、子供がいるから福島から出るという覚悟。それはもうしょうがないし、市町村ではなくそれぞれが決めるべき道。しかしそこでも避難する、しないで住民同士の軋轢が生まれてしまうという…。福島県内には夫は仕事があるので福島に残り、妻子は他に避難というパターンの世帯がすごく多いんです。
──家族がばらばらになってしまうんですね。
そうです。
──覚悟を決めて残る人と避難して行く人の割合はどれくらいでしょうか?
双葉郡でいえば半々でしょうか。若い人ほど戻らないでしょう。ここでは線量の高さと帰るという人口は多分反比例してくると思いますね。原発から離れれば離れるほど、これからもやっていこうという気持ちになれる人が多いのかもしれない。線量の高い地域の人からは諦めの声も聞こえます。福島県全体では県外避難が10万人を越えているとも聞くし、今後も増えていくだろうと。でも避難したいけど事情があってできなかったり、避難したくないけどさせられたり、地域と立場で全く変わってくるので全体の割合というのは一概にはいえませんが。
──平山さんは、国からの補償は十分貰えていると思いますか?
最低ラインだと思いますよ。ただ「これでいいか?」と言って出された額に文句を言ってもまた交渉が滞ってしまうし、東電にしても国にしても自分にしても、どこかで区切りを付けないと一向に先には進まないので。自分の様に動ける世代ならば、補償をあてにする前に自分から動いていかなければいけないと思います。しかし何十年もそこに住んできた高齢者や、うちの両親のように長く商売をやってきた人達にとっては、もっとそれなりの補償が必要ではないでしょうか。
──では、平山さんがその中でレーベルを続けていこうと思えるモチベーションはどこにあるのでしょう?
3年前に東京から帰ってきた時には骨を埋める気でいました。そして拠点を福島に移してから、今関わっているバンドたちと出会って、彼らのやる気や覚悟を目の当たりにすると、自分も福島でレーベルを続けていこうと思えたんですよね。こういうことがあったから、逆に意地でも福島でやってやると。幸せな事に応援してくれてる人も沢山いて、すごく支えられています。沢山の新しい出会いにも感謝したい。そういう人達に報いる為にもね。あと、音楽に関していえば、以前から福島の地域性が育ってくればいいなとずっと思ってたんです。アメリカならニューオリンズ、シアトル、シカゴとか。日本でも沖縄や福岡にも独自の音楽性、カラーみたいなものが感じられますよね。いわきのシーンにもそういう地域の特色が出てくればいいなと。例えば「日本のマンチェ」みたいな。そして「いわきの、福島のバンドはいいよね」って言われたい。独自性はまだ見えないですが(笑)。
──震災以降、バンドマンが抱える難しさは感じますか?
難しさというと?
──やはり東京でバンドをするのと、いわきでバンドをするのとでは気持ち(覚悟)が違うんじゃないかなと思ったんです。
なるほど。2月にNomadic Recordsから出るいわきのnotice itに関して言えば、ボーカルの政井大樹は津波に流されて、肉親を亡くしたり…。でもメンバー同士で励まし合いながら、5月にライヴ活動も復活して、レコーディングというモチベーションを上げる材料を自分達で用意して頑張ってます。彼らが震災前と何が変わったかというと、やはり意識じゃないでしょうか。自分達は福島のバンドなんだっていう自覚。この土地に根ざしていくんだという。それは仙台の雨ニモ負ケズからも感じます。
(雨ニモ負ケズ インタビュー http://ototoy.jp/feature/index.php/2011110301)
でも大体今まで通りやってるんじゃないですかね。そうしてて欲しいという思う部分もある。しかし、中には今でも第一原発で働いてるバンドマンもいて、積算線量などから揺れる心情も聞いたりしてるので、ずっとここで頑張れ、とは自分からは言えない場合もあります。
──平山さんがレーベルとしてこれから一番やりたいことって何でしょうか。
福島を含む東北から発信したいという気持ちは元々ありましたけど、震災を経てその思いは倍増しましたね。「絶対にやってやる、このまま潰れないぞ」って思っています。状況は厳しいし、レーベルとしての力不足も痛感してるので、まだまだですけど。
──震災以降、ライヴ・ハウスに人は増えましたか? 減りましたか?
一時期復興バブルみたいな、有名なアーティストがガンガン来てくれていた時期は、当然ありがたい事に増えてましたね。でも今は以前とあまり変わらないような。震災直後は、ライヴ・ハウスが再開してそこでライヴを見ていると、うるさい音楽なのに見ているだけでしばらく泣けてきたんですよ。それがもう感覚的にも営業的にも平常時に戻ってきましたかね。
──それは、平山さんも望むことですよね。
そうですね。音楽に関してはもうだいぶ前にスタート・ラインに戻ったと思う。なのでこれからは、土台を作る為にも若い世代にもっと音楽を聴いて、ライヴを見て、積極的にバンドをやってもらいたい。これは福島にレーベル活動の拠点を移した時からずっと考えていたことなんですけど、それを再確認して、行動していきたいと思います。
──それは、彼らにとって音楽を希望にしてほしいということ?
うーん、それは大げさかもしれない。
──もっと自然なものとしてあればいい?
そうですね。普段の生活の中に、当たり前に音楽が増えていけばいいと思います。でも、こういう経験を経たからこそ、そのありがたみや価値は、他のどの地域の誰よりも彼らはわかっている筈です。
──今、地域によって情報や関心のギャップが激しいですよね。西に行けば行くほど地震や原発に対して関心が薄くなっていって、東京でも、マスコミをずっと追っていると他のニュースが入ってきて、どんどん関心が薄くなってしまう。いわゆる「時代が流れていく」ということなんでしょうけど。でも過去のことにしてはいけない。そこにとてもジレンマを感じているんですけど、平山さんはどうでしょうか?
福島では震災や原発に関係のあるニュースが今でも毎日のように流れてくるし、新聞にもそれに関連した記事が溢れているんですけど、たまに東京に出ると温度差とか時差を感じますね。話の中で「そんな当たり前のことも知らないの?」と思うことも多々あります。逆に「福島に来てみたら皆普通に生活していて拍子抜けした」とか。表面的な所だけを見てもわからないのは無理ないですけど。でも、だからといっていつまでも嘆いているだけというのも嫌じゃないですか。それだけだと精神的にも病んできますし。被害者意識だけでは何も生まれてこない。そういう思いもあって、自分の出来る事として、我が町の現状を知ってもらう為にも「富岡インサイド」(※2)というウェブサイトを立ち上げました。福島全体ではなく、富岡町に限定してますが、現状を「知ってもらう」、情報を「共有する」、それを通して人と人が「繋がっていく」というのが趣旨です。
──「富岡インサイド」は平山さん一人で作ってるんですか?
色んな人に情報を貰っていますが、基本的に一人で作っています。写真や動画を時系列で並べて、町の変化を記録したり、オフィシャルにはない富岡町関係の情報を掲載したり。短いスパンではなかなか状況の変化はわからないかもしれないけど、これを1年後に見た時には「ここまで復興したのか!」と思えるかもしれない。そういう復興への足跡を記す事もある意味被災者義務だと思ってます。そこに辛い辛いって嘆きながら、感情を入れて伝えてしまうと、逆に敬遠されて他の人を情報から遠ざけてしまうこともあるでしょう。だから、事実を事実として伝えるための作業をやっていかなくてはいけない。そう思って作っています。まめに更新しているので、見て頂けたら幸いです。
(2011年12月8日取材)
※1 NTT富岡ライヴカメラ
http://www.nttfukushima.com/live/tomioka/Default.html
※2 富岡町支援応援情報サイト/富岡インサイド
http://www.tomioka.jpn.org/
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/20120106
代表取締役 : 平山〝two〟勉
1999年9月9日、ノストラダムスが地球が滅びると予言した日にノーマディック・レコードは誕生。インディーズという名のフィールドに参入し、ちょびっと注目の的となる。同時に1999年から1年間、渋谷FMにてインディー系の音楽番組「Emotional Cool」を企画、製作。現在も大活躍中のBump Of ChikenやSnappers、Herman.H&Pacemakers、木下理樹(ソロ時代)、スネオヘアー等もゲストに出演し、当時この手の番組としては最も熱く濃い内容で高い評価を集めていた。2000年7月には独立法人化し、三軒茶屋を本拠地とする。音楽レーベルとしてはそれぞれが誰にも似てない、個性派ぞろいのアーティスト達を生み出し、あえてレーベル・カラーをいうならそれぞれが唯一無二であるという事! 以降、様々な栄光や試練を経ながらも、更なる世界征服を目指して疾走している。業界最小単位の規模でありながら、現在も第一線で活躍するACIDMAN、the ARROWS、今村寛之(STARBOAD/ex. POWER&GLORY)、金澤ダイスケ(フジファブリック/ex. Sunflower)、okuji(winnie/ex. planet fisherman)、トマソン(オトナモード/ex. シルバニアスリープ)、板持良祐(your gold my pink/ex. cutie pies)、中野真一(Apricat Spectra/ex. BobLife)などを生み出した発掘と育成の奇跡のレーベル。2010年福島県双葉郡に移転。2011年3月11震災によりいわき市に避難/仮事務所にて活動。現在はいわき市平に事務所を開設。
Nomadic Records official website
http://www.nomadic.to/
第六回目でインタビューしたのは、デザイナー/イラストレーターの小田島等。3月19日に西に退避し、放射能が怖いと何度も言う。今までの『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』でインタビューした行動し続ける人たちとは、正反対である。それでも、彼の発言の一つ一つから勇気を感じるのは、人間は弱いものであることを認め、その上でこの時代を生き抜く決意を感じるから。非常に興味深いインタビューとなった。2012年の3月11日を迎える前に、是非読んでもらいたい記事である。
──小田島さんは現在、東京と関西を行き来しながら活動されてますよね。3月11日以降、様々な生き方がある中で「こういう生き方もあるんだよ」ということが小田島さんとの話の中から見えればいいなと思い、今回声をかけさせてもらいました。震災後、東京を離れて西の方に移住した人もたくさんいましたが、そこではどういうことが行われているのか、果たして良かったのか悪かったのか、そういう声は東京の少なくとも僕の所までは届いてこないんですよね。
飯田さんって、今いくつ?
──33歳です。
僕は今度40歳。80年代にチェルノブイリ(原子力発電所事故)が起こって、RCサクセションで忌野清志郎が反原発を歌って東芝とモメて発売禁止になって、それが高校生の時だった。いとうせいこうさん、景山民夫さん、桑原茂一さんもテレビや「宝島」で原発について話していたし、広瀬隆さん(反原発活動家)の著書「危険な話 チェルノブイリと日本の運命」とかも読んでて、それがずーっと尾をひいてたの、もちろんね。それから、新藤兼人監督とお仕事させて頂いたことがあるので、名作のほまれ高い「原爆の子」「第五福竜丸」を何度も観た。で、そういう素地もあったからか実際に福島で原発事故が起こった時は、失神するかと思った。
──小田島さんは、今はちゃんと外に出て生活できていますか?
今は外に出ていますよ。そう、3月に東京の線量が上がった時は直ぐに肉体に変化、影響がありました。首のリンパの腫れ、百日咳、ふくらはぎの筋肉のこむら返り、バファリン飲んでも効かない頭痛。下痢。風呂の排水口の抜け毛の量が増えた。ざっとこんなカンジ。因果関係はわからないけど、周りでも同症状の人が突然増えた。妙な、サイケな立眩みもあったな。あと、精神面から来る不眠。それから、鼻糞の質が変わったんですよ。圧倒的な取れ高、粘着の具合が変わってきて、鼻の穴の中全体が痛かった。わしの鼻の穴はガイガーカウンターかと(笑)。関東東北の若年層は鼻血が出たみたいですね。この辺の話を関西や九州地方の人に話すと「え? 嘘でしょう?」ってみんな言います。僕は花粉とかアレルギー系何も無いんだけど、放射性物質には弱いみたい。
──今、関西ではピカチュウ(ムーン♀ママ/ex.あふりらんぽ)たちが原発に対する活動を始めているじゃないですか。小田島さんはどうですか? 何か動いていますか?
それがねえ、特にしてないかも。自分自身で何か動いたかってことでしょ? 美術ライターの工藤キキさんが主催したチャリティー企画と、自分のパンダの絵を名古屋のしまうま書房で売って寄付した。それくらいですね。あと、署名、菅首相へメール。東電と東京都、京都、大阪府へ電話。家でできることをしたけど、「動いてる」って程の事はしてない。あとね、いわゆるガチの活動系の人に「なぜ活動しない?」とやんわり圧をかけられた事があって、それは本末転倒だなと思った。気持ちはわかるけどそんなことで争ったら、二次災害になっちゃう。
──今から動こうと思っているとか。
「動き」とは違うかもだけど、漫画を描こうと思ってるんです。どういう漫画がいいのかなって、考えています。やっぱり我々の仕事の一義にあるのは、みんなの頭をマッサージして柔らかくして、色んな物事を理解しやすくするのを手伝うことだと思うんですよ。それを、手を緩めないでやり続けるべきなんだなと。2011年に活動休止したムーンライダーズなんてまさにそういうことをやり続けて来た人たちで、色んなことをアナライズして、感受性を鍛錬、情報精査のスパーリングをしてくれていたでしょう? フランク・ザッパなんかもそういう部分があって、僕、そういうアーティストが好きなんですよ。知れば知るほど、もの作りをしない人にも、作ったことがあるぐらいの感受性を与えてくれる。僕も、そうありたい。弱いんですけど、自分なりに何かしようと考えるとこれしかできない。
──Twitterでつぶやいたり?
ああ、うん(笑)。
──あれはあれで勇気のいることだと思いますよ。
勇気はいりませんよ(笑)。つぶやくのはタダだし、仕事の合間にもできますし。
──小田島さんは地震が起こってからの3日間、どういう風に過ごしましたか?
東京の家にいた。仕事があったから外出はしましたね。で、3月19日に西に退避したんですよ。だから一週間くらい濃いのを(放射能を)吸っちゃってる。って言うと、東北の人にとても、悪いですね。
──でも、事実としてそうですよね。
初めの3日は家から出なかった。家族は快活に出かけてたけどね。そう言えば震災から2、3日後ぐらいでしたか、枝野(幸男官房長官)さんが「日本の景気のために経済活動をしましょう」ってアナウンスしていましたね。ところで飯田さん、まずいかな? 今活動してないのって。
──でも小田島さんは『Play for Japan
』(OTOTOYからリリースした東日本大地震チャリティ・コンピレーション・アルバム http://ototoy.jp/feature/index.php/20110616)に絵を提供してくれたり、表現はしていますよね。あと、この企画では強い人にばかりインタビューをしていたので、逆に今刺激的に感じています。こんな風に「怖いんだよ、危ないんだよ」とちゃんと言えることは、大事なことだし勇気のいることだとも思いますよ。
勇気とかじゃないですよ。ただ怖い、病むのは嫌だ、それだけ。「東京はキエフと同じで安全圏ではない」という記事も見たし、事故の質はチェルノブイリとは違うしね。僕も、たぶん弱き者の一人だけど。というか、「弱き者」って誰がどう決めるんだって話になっちゃうけど。僕らはどうしたらいいのかって考えてしまう。その憤りが箭内(道彦)さんの顔かなあ。
──猪苗代湖ズで紅白歌合戦に出た時の?
うん。悔しそうだったもんね。僕らが知らない事も知ってるんだろうなって思って観てた。そうだな、あと東電に電話した時の向こうの反応が印象的だったな。
──どうでした?
クレーム担当の人が出て「私たちが現在第一に最善を尽くしているのは福島第一原発を修復することであり、貴方様の引越し資金は出せません」って。
──なるほど(笑)。
でもその人に言った。「もしかしたら、あなたも犠牲者の一人ですよ。だから、いつか白木屋行きましょう」って。心からそう思うもの。
──津波や原発事故の映像を見た時、小田島さんはどういう風に思われましたか?
いやあ… うん。デジタルチックだなと思った。
──デジタルチック?
望遠で原発が映っていて、粒子が荒れていて、子供が見たらトラウマになっちゃうんだろうなって。僕が子供の時にニュースで見た浅間山荘事件みたいな感じで、数年後経ってから「あれは何だったのか?」って思い返すんだろうな。気が付いたら周りに体調不調を訴える人々が増えて、未来の子供たちに「昔の大人たちはテキトーだったんだ」って思われちゃ嫌ね。その頃にはTwitter無くて、何も残ってなかったりしてね。とか、色んなことを考える。あと、亡くなった方が15848人、行方不明になった方が3305人(2012年2月10日現在発表)という被害が出てね、その、感覚的な喪失感が凄い。欠損を感じるというか。霊的な話ではないですよ。あくまでも感覚的に。
──そういった感覚は、今もひきずっていますか? それとも通常に戻りつつありますか?
哀しいかな、通常に戻りつつあります。テレビのバラエティ・ショーにかき消されてしまったというか。良くないことですね。
──小田島さんは関西では不安なく暮らせていますか? それとも、日本ではどこに行っても不安ですか?
全国で瓦礫を受け入れてるし。どこで地震が起こるかわからないし、こんなに日本中原発だらけなんだから不安なく暮らせる訳がないですよ。食品の産地偽装のニュースもあったし。今年の頭に東京の線量が3月と同じくらいまで上がったというのを聞いて、やっぱり怖かった。「脱」や「反」はあるけども、その前にただ怖い。
──震災以降、小田島さんは自分の作風が変わったと感じましたか? 僕は先日の個展で見た時に変化したなと思いました。
絵描きの人って、妙な、天命とも言える必然的サイクルがあって。そういうことを信じて生きている生き物なんです。自分のサイクルと世間のサイクルが合致する瞬間があると言えばいいか。僕の場合、原発事故の一年前ぐらいから2人の若者の影響でまた無邪気に絵を描き始めるんです。1人は銀杏BOYZの『DOOR』のジャケットを描いた画家の箕浦建太郎くん。もう1人は漫画家の大橋裕之くん。彼らが、「オダジー、デザインばっかりやってないでもう一度無邪気に絵描きましょうよ」って言ってくれたんです。でも僕その時、解せなかったんですよ。今は時代がすごいスピードで回っていて、USTREAMとか色んな表現媒体が出てきてるのに、今更BACK TO BASICって計算上合うのかな? って。でも、不思議と描き出しちゃうんですよね。そしたら中学高校ぐらいに感覚ごと戻っちゃって。原点回帰したら僕死んじゃうんじゃないかって思ったほど。
──えっ、死ぬんですか?
不思議なもんでアンディ・ウォーホルって最晩年に初期のモチーフを振り返るんですよ。死ぬってわかってないのにね。死ぬの嫌だなーって思いながら、半信半疑で無邪気に絵を描き始めて、すると原発事故が起こった。「あ、これのことだったのか」って思った。思いがけないオチが付いたような。1点しか作れないもの、PC作業のようにやり直しがきかない、という「絵」に再び向き合ってる自分に必然性を感じましたね。この間の個展「Nido-Ne + バッド・インスタレーション」も原発事故と退避をテーマにしました。僕なりに、どんな状況でも絵は描けるし、いかようにも受け身はとれるんだよっていうのを示したつもり。
──先日の個展に行って、すごいエネルギーを感じたんです。チープな言い方になってしまうけど、生きるエネルギーをすごく感じました。
目的をもって、ホワイトキューブにあらゆる仕掛けをしていく。それに意味づけをして、宣伝もして、智恵を使って、人が何か行為をしてうごいめいている。そしてその行為は、誰もが知っている大事故にまつわるものだった。そういうことを、まんべんなく、ちゃんとやりたかったんです。
──小田島さんは絵を描く時に、見る人のことを考えますか?
いや、そこは考えない。素ですね。
──あれが小田島さんの素ってことですね。
頭の中にアイディアが浮かんだ時、理由を付けてしまいそうになるんです。でも、やめます。やめてとりあえず描いてみる。今回描いた絵の中には河童とかの水辺を連想させるモチーフが多かったんですけど、水との共存が危ぶまれている中でああいったモチーフが浮かんで来たのも、あとあと考えると納得なんです。直感と分析って二足歩行ですから。
──なるほど。『Play for Japan』のジャケットの男の子と女の子の絵は、どういう状況で描かれたものだったのでしょうか?
「がんばろう」とか「ひとつになろう」とか、どうかな? と思ったんですよね。「君のこと好きだよ」ぐらいしか言えないんですよ。「愛してる」だとこの場合重い。僕もいつか被災してどこかの体育館で避難所生活をすることが、もしかしたらあるかもしれない。そうしたら、他の家庭の人達と共存しなくちゃならない。その中で、心の中で「好きですよ」「我慢できる関係ですよ」と言う。そこが大事なのかなと思ったんですよね。そういう微笑の絵ですよね。しかしね、あの絵の依頼が来た時は嬉しかった。原子力発電所が爆発しても、絵の依頼が来ると嬉しいものでね。同時に、悲しくもなりました。業が深いなと。嬉しいと感じて、そう思った。
──あの絵を描かれた時は、まだ関西には拠点を置いていなかった?
うん。考えたら『Play for Japan』は行動が速かったですね。音楽ってどこにでも侵入できるじゃないですか。そこが素晴らしい利点。絵の人ももっと何かできたらな。
──今年も『Play for Japan 2012』というタイトルで、音楽だけではなく、絵も、写真も、全てを『Play for Japan』としてやろうと思っています。また改めてオファーさせてください。
(2012年1月16日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/2012021400
小田島等
1972年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。デザイナー/イラストレーター。1990年に「ザ・チョイス」入選。95年よりフリーになり、CD、書籍等のアート・ディレクションを多数手がける。同時に漫画やイラストレーションも描く。著作に漫画『無 FOR SALE』(晶文社)、古屋蔵人、黒川知希との共著『2027』(ブルース・インターアクションズ)、監修本に『1980年代のポップ・イラストレーション』(アスペクト)。タナカカツキ『オッス! トン子ちゃん3』にトリビュート・コミックで参加(ポプラ社)。BEST MUSICとしてCDアルバム『MUSIC FOR SUPERMARKET』(Sweet Dreams)をリリース。2010年6月には初の作品集『ANONYMOUS POP』(ブルース・インターアクションズ)を上梓。同年には大橋裕之、箕浦建太郎と全日本ポスト・サブカルチャー連合を結成。
小田島等 official website
http://www.odajimahitoshi.com/
第七回目でインタビューしたのは、元あふりらんぽで現在はムーン♀ママとして活動しているPIKA☆。東日本大震災から1ヶ月後の2011年4月に「ぴかりあ超女ポジティブみーてぃんぐ」のお誘いメールをもらっていたのだけど、伺う事が出来なかった。彼女は、何度かそのようなミーティングを繰り返し、いつのまにか「TAIYO33OSAKA」というでっかいプロジェクトを立ち上げてしまった。このプロジェクトには、音楽、トーク、フード、絵、占い、マッサージ… たくさんのカルチャーが、所狭しと並ぶ。何故、このようなプロジェクトを始めたの? このプロジェクトで、何を考えたいの? このプロジェクトのゴールってあるのかな? まだ20代の彼女が50人以上のスタッフと共に行う「TAIYO33OSAKA」について、そんな単純な質問をぶつけてみた。ちなみにPIKA☆と共にインタビューを受けてくれた池田社長は、元OTOTOYの編集部で、彼女の動きに感銘を受け、このプロジェクトのために大阪に移住した男だ。
──まず、震災が起こった時のPIKA☆の感情の動きを聞かせてくれる?
PIKA☆:Twitterを触っている時に地震が起こって、「眩暈かな?」って思ってたらタイムラインに「揺れた?」「揺れた揺れた!」って流れてきて、すぐに画面がカオスになった。異常事態やと思ってテレビを付けたら、どえらいことになってるし。2002年ぐらいから異変は感じてたんですよね。桜の咲き方も変やったし、小さい所で自然がおかしくなってきてるなって。他の国でも大きい地震が立て続けに起こってて、その流れが日本に来た時に、こうなることを知っていた気がした。なのに、そのままにしてしまっていた。そういう自分に対してもガツンと来るものがあったなあ。
──じゃあ、意識はしていたってこと?
PIKA☆:ちょうど1年前に「ミツバチの羽音と地球の回転(監督/鎌仲ひとみ)」って映画を見てから原発を気にするようになって。それで2011年11月あたりに「原発って何だ?」をテーマにしたフェスをやろうと思ってたんやけど、その矢先に震災と原発の爆発がきちゃった。以前からも「ヒロシマナガサキ(監督/スティーヴン・オカザキ)」ってドキュメンタリー映画にあふりらんぽで出演させてもらう機会はあった。
──なるほど。原発に対する意識は高かったんやね。じゃあ震災が起きてからの1、2カ月間、PIKA☆の気持ちはどういう風に動いた?
PIKA☆:すごい波がありましたね。とにかくみんなでコミュニケーションをとりたかったから、4月にTwitterで呼びかけてそういう機会「ぴかりあ超女ポジティブみーてぃんぐ」を作ったんです。
──3月11日以降、活動している人たちの動きも、大きく2種類あると思っていて、一つは原発に対して考えていく人。もう一つは被災地の復興を目指していく人。僕も自分で被災地を見に行って思ったのは、まずは被災地を復興させることに力を注ごうと思ったんです。PIKA☆はどっちに?
PIKA☆:地球が汚れていく。汚れていくって言葉も違うよな… ただ人間が住めなくなるだけの話やから。でもあの放射能を海にだだ流しにしているシーンは強烈やった。うちはツアーで海外にいっぱい行っていて、世界中に友達がおって、その人たちに迷惑をかけていることが申し訳なかった。あふりらんぽでは世界中を楽しませたいと思って演奏してたのに、ステージで使っていた電気も元は原発から来てて、そこに気付かなかった自分が悔し過ぎた。今でも怒っています。
──じゃあ、4月にPIKA☆が企画したイベント「ぴかりあ超女ポジティブみーてぃんぐ」も、未来のエネルギーを考えるためだったの?
PIKA☆:というより、「東電のうそつきー!」っていう世間のムードがすごかったやん。確かに責任をとらなあかん立場ではあったけど、問題の責任全部を誰かのせいにしてる世の中をどうにかしたかった。あと、責任問題抜きで、今の日本の状況についてみんなで本音で話し合える場所も欲しかった。あの時の日本って、言い合っている場合じゃなかったし。
──なるほど。池田くんの意識はどう? 関心が被災地の復興から原発問題に移ったように思えたけど。
池田社長:俺は実家が福島だからね。震災が起こってすぐに「ギブミーベジタブル(池田社長が主催するチケット代わりに野菜を支払い、アーティストへのギャラも野菜で支払うイベント)」で集まった野菜を飯田さん達と一緒に気仙沼に届けに行って、タダごとじゃなくなっているんだろうなって思っていたけど、想像以上だった。
──2人が企画、運営に携わっているイベント「TAIYO33OSAKA(以下、33)」について聞きたいんだけど、このタイトルを考えたのは誰?
PIKA☆:DODDODOやオニとか色んな人に相談して、3月3日やし33かなって。みんなで決めました。
──なるほど。最初から3月3日に行うフェスを目指して動いていたってこと?
PIKA☆:もともとはもっと早い、2012年の3月を目指していたんですが、実際に動きだしたらそうはいかなかった。テーマも大きいから、もっと長い目で続けないとあかんプロジェクトやなと思って、来年2013年まで引き延ばすことにしたんです。
──2013年にはどういうことをするの?
PIKA☆:どでかい祭。もう、なんじゃこりゃーってやつ。
──そのどでかい祭について、今言えることはある?
PIKA☆:みんなやっぱりアイディアは持っているんですよ。実際にそれを行動に移す機会がないだけで。それをできる場所を作ったり、メディアに出てなくてもすごい活動をしている人はいっぱいおるから、そういう人に表に出てもらってみんなで影響しあえるような場を作ったり。もちろん、専門家に話を聞かせてもらう場を作ったりね。例えば、西成(大阪最大の簡易宿泊街)のおっちゃんからオノ・ヨーコさん、宮崎駿さん、うちらみたいな人間、誰もが同じ立場で、みんなでコミュニケーションをとれるのが祭やと思う。みんなでバンドするみたいなね。
──このイベントで、何かを変えたいと思っている?
PIKA☆:後のことはわかんないですよね。あと、そこに向かってる今の過程こそが大事やと思う。今、人との繋がりがどんどん広がっていってて、自分自身勉強できているし、このイベントを動かすことでみんながポジティヴになっていってる。そういうポジティヴ・パワーを広げて行きたい。このイベントがどれくらいの規模まで広がっていくかはわからんけど、原発どうのこうのを越えたその先に、みんなで行きたいな。
──みんなっていうのは?
PIKA☆:みんな… それぞれの幸せは違うんですけどね。それでも、みんな気持ちいい状態になれる瞬間が私はあると思うんです。めっちゃ誠心誠意こめて人とぶつかればみんなが幸せになれることってあると思う。あふりらんぽのライヴや活動の中でその可能性を感じることは多々あったし。
──では、「TAIYO33OSAKA」に池田君はどう関わっていったんですか?
池田社長:4月の「ぴかりあ超女ポジティブみーてぃんぐ」に行ったんですけど、PIKA☆とは共通の知人が多かったんだよね。そこで初めて会って、その後に一緒に気仙沼や8月15日の「フェスティバルFUKUSHIMA!(大友良英、遠藤ミチロウ、和合亮一が中心となり、福島市で開催された世界同時多発フェスティバル http://ototoy.jp/feature/index.php/2011100500)」に行って、9月に「TAIYO33OSAKA」をやりたいって話を聞いて、これはやった方がいい。俺が手伝おうと思ったんです。
──池田君がそう思った理由って何だろう?
池田社長:震災時、俺は東京にいて、その後宮城、福島、関西に行ったんですけど、それぞれ距離が離れていると関心の強さも違うし、知識量も違う。温度差がすごいあるんです。でも今起きてることって福島だけの問題じゃない。これは何とかしないとって思ったんです。「フェスティバルFUKUSHIMA!」みたいに被災地でそれをやるのも大事だと思うけど、まだこれから知っていく人たちと一緒に学んでいくのも、被災地を復興させることと同じぐらい大事なことなんじゃないかなって。
──なるほどね。でも「それってうまくいくの?」と思ってしまう。僕も実家は関西やけど、帰省した時の関東と関西の温度差に「あら?」って思ったもん。震災や原発のことを話しても「こっちは紀伊半島の台風のことばっかりだよね」って言われて、そりゃそうやなと思った。身近な事件に強く反応する方が自然だから。その点で、「TAIYO33OSAKA」の活動は、どれくらい賛同を得てるの?
PIKA☆:今はまだ分かりづらいって言われている。でも、イベントに来たらみんな何かを思って帰ってくれるし、まず知らん人に知ってもらいたいっていうのがすごく強くあるから。
──このイベントには原発反対のムードが漂っているけど、それを明確に打ち出してないよね?
PIKA☆:いや、「脱原発のプロジェクトではないです」ってはっきり言ってる。何でそうなったかっていうのは、やっぱり「33」は新しい祭やから。新しいものをつくるんやったら、片方側の人間だけが集まってるんじゃあかん。てか、片方とか、そんなんも無い。みんな一緒、同じって言いたいんです。わかりやすい形で実現するのは少し難しいけど、今模索しながらやっています。
──じゃあ、PIKA☆は原発についてどう思う?
PIKA☆:うちの話で言えば、脱原発派。でもそれは原発を否定しているわけじゃないんです。実際、原発を守りながら働いてくれている人もおって、大阪万博博覧会の時にはみんなが原子力が生んだ電気に夢を見た訳やん? そのおかげで戦後ここまで復興して、その危険性が見えたからって一気に敵に回したらあかんと思う。だから、原発の存在と、私達がその恩恵をうけてきたことをまず認めて、説得して、これからのことを一緒に考えていけたら最高やなって。地球人が太陽を自分のものにしたかったっていう発想から始まったことで、「でもやっぱり無理やったねえ」で終わらせたらいいのに、そこに向かって怒り散らして「反対!」っていうのも可哀想やなあとうちは思ってしまう。だから、うちは、脱原発も原発も責めないし否定もしない。そういう姿勢をとっていれば、自分と違う意見の人でも話を聞いてくれるようになると思う。みんなで間違ってしまっていたんじゃないのかな。
──震災後、東京では反原発運動がすごく盛んで異様な盛り上がりだったんです。でも僕はそこにすごい違和感を感じていて、「原発反対」なんてずっと昔から言われていることで、でも代替案が出て来ないから進まないんじゃないの? 次は何がいいの? それを伝えてよ! って思っていたところで、鎌仲ひとみ監督の「ミツバチの羽音と地球の回転」を見た。自然エネルギーという明確なこの提案が嬉しかったんです。このREVIVE JAPAN WITH MUSICを始めたのも、「脱原発!」とか「反対!」とか強い言葉だけじゃなくて、その先のことをどう考えているのか、みんなに聞きたかったんだよね。「33」では、これからのエネルギーについてどう考えてる?
PIKA☆:一応3月3日はソーラー発電でいく予定。あと人力発電で自転車もやろうかって話してて。アクションはどんどん起こしていきたいけど、その前にあまりにも知識がなさすぎるから、色んな人に話してもらって学んでいってる状態。もんじゅ(福井県敦賀市にある日本原子力研究開発機構の高速増殖炉)も見学に行って、そこで働いている人とも話をしてきた。
──じゃあ、姿勢としては「新しいエネルギーを作ろう」ってこと?
PIKA☆:うーん… 「新しいエネルギーを作ろう」じゃなくて、「エネルギーはここにある」ってテーマです。
──そのエネルギーって?
PIKA☆:自分のエネルギー。自分が本気にさえなれば、難しかろうと今あるもので何でも作れるねん。なかったら探しにいけばいい。それをもっと言いたい。自分達が実感してきた言葉を使いたい。かつ、このプロジェクトでは受け手と作り手に分かれたくないんです。みんな作り手なんです。この世界も。だから分かりづらくなっているんかもしれへんけど、みんなで「33」って祭を作りたいねん。
──なるほど。PIKA☆個人で「原発反対」「次は自然エネルギーだ」って言った方が、伝わりやすくはあるもんね。
PIKA☆:うん。でも「33」にその考えは持ち込みたくない。私が脱原発なのと「33」とはまた別なんです。新しいものを作るための場所やから、フラットというか、ニュートラルに透明であり続けなくてはならない。反対派の人も推進派の人も、冷静に建設的に同じ場所で自由に声が出せる場所を作りたい。
──関西の人たちは、PIKA☆たちがやっている活動にどれくらいついて来れているの?
PIKA☆:じわじわと広がってる、うねり始めてるなっていうのは感じます。でもやっぱり色んな人から「よう分からん」って言われるし、集客もそんなによくはないねんけど、何か新しいことを始める時ってこんな感じなんやろかと思ってる。
──今、スタッフは何人くらい?
PIKA☆:具体的に、協力してもらっているのは50人ちょっと。実際に一緒に動いてくれているのは10~20人かな。それを仕切るのはめっちゃ大変なんですけど、めっちゃ面白いんですよ。なんか会社みたいになってきて。飯田くんにOTOTOYの話も聞きたかってんな。OTOTOYって最初から会社やったん?
──もちろん。
PIKA☆:「33」も、もしや会社になってったりすんかなぁ? って気もするんやけど、どう思う?
──ちゃんとするなら会社になった方がいい。ボロフェスタ(飯田が主宰の一人を務める京都のインディー・ロック・フェスティバル)は会社じゃないけど、10年続けた先にやっと見えて来たものもあって。「33」も2013年3月3日で燃え尽きて灰になってしまったら意味がないやろうし、続けるためにも会社にするのはアリかもなあ。
PIKA☆:「33」をどんどん大きく、それこそ世界規模にしたいねんな。もちろんそのためにはいろんなノウハウを勉強せなあかん訳やけど。ほんまに、世の中の概念を仕組みから変えたいねん。愛のあるお金を巡らせたい。今言った「33」を会社にするって考えは、みんなで本当にいいものを考えて、何か新しいものを興して、世の中に巡らせていくってこと。今は祭って呼んでるけど、それをビジネスに置き換えることはできないのかなって思ったりしてて。
──なるほど。でもボロフェスタは祭にしたかったから、ビジネスにすることは諦めてんなあ。
PIKA☆:そうなんや。ビジネスって言葉に対してすごい汚いものってイメージがあってんけど、避けていくよりも飛びこんでいった方が理解できるんかな?
──ビジネスが汚い、悪いものっていう概念は、僕はもう全然ないなあ。音楽だけやってた20代の頃はあったけど。今OTOTOYの編集長として必死に働いてるわけやけど、誰のためかっていうと、一緒に働いてくれスタッフやOTOTOYの商品をいいねって言ってくれるお客さんやOTOTOYが好きで集まってくるアーティスト達のためやねん。
PIKA☆:わかるわそれ!
──それがあるから頑張れる。そしてOTOTOYがビジネスとして成功したら、かなり多くの人間にお金を渡せることになる。だから、もちろん全てに当てはまるわけではないけど、ビジネスってとても大事だと思っているよ。紳士的な経営者にもいっぱい出会ってきたしね。
PIKA☆:そういうところをほぐして紐解いて、もっとビジネスじゃない人にも伝えていきたいねんな。もんじゅで働いてるおっちゃんもめっちゃいい人やったし、そういう人たちや中のことを知った上で、「さて、ほんまにいいものって何やろうな?」というのをみんなで考えていく。「みんな」って言葉も怖いんやけど。でも物事を動かす、人の意識を変えるのには、大勢の力が必要やと思う。
──「33」のお金周りのことを聞きたいんだけど、今、お金はイベントで集めてる?
PIKA☆:うん。でもなかなか難しいなあ。マイナスやわ。でも「33」のメンバーってほんまにみんなめっちゃいい人で… 「33」のシステムってご存知ですか?
──33%で分配するんだよね?
PIKA☆:そう。イベントで得た収益から、経費とお店に必要なお金を引き、純利益33%をイベンター、残りの67%をアーティストで分配するんです。(TAIYO33OSAKAが得た33%の収益は、今後の祭り基金として活用)。だからイベントではなかなかお金は貯まらないんですよ。でもこの間の「PAOS!(「TAIYO33OSAKA」のプレ・イベント)」に出演してくれたざxこxば、クリトリックリス、山本精一さんはじめ、ほんとみんなエネルギーのことを考えてて、そういう思いで演奏してくれたり、その日のために新曲を作ってくれてたり、新しい流れが生まれ始めてるなあと感じてます。そこに反原発だけでなくても、いろんな気持ちがあったらいいと思う。家に帰る時に何かしらの気持ちや考えを持ち帰る。そういう場所を作りたいんです。
──なるほど。何かの意思を示さなきゃいけない場所ではない。色んな意見の人が集まっていい。その考えが「33」の一番いい所であり、一番伝わりにくくしている所でもあるんだろうね。
PIKA☆:そうやねん。どうしても対立しそうになるねんな。
池田社長:それがわかりやすいからね、一番。
──でも戦いだしてからが本番ってところもあるでしょ?
PIKA☆:そうやね~。
──じゃあ2012年、「33」としてはどう動く予定?
PIKA☆:色々とやるつもりではいるけど、「何が出てくんのやろ!」ってワクワクしててほしい。実際、今うちも思いもよらん人に出会っているし、思いもよらんところに行ってみたいって気持ちがすごいある。奇跡本願ではなく、もちろん努力を土台にして、みんなのパワーを集めたい。みんなの協力あってのすごい祭にしたいし、そうなると思う。すでにそうなんです。
──大きいムーヴメントになって、たくさん人が集まり出したらいいよね。これからどうなるかなあ。
池田社長:いろんな人が繋がり始めて、中ではかなりいい感じに動き始めているんですけど、まだそれが外に出ていない感じがある。内輪ノリになっちゃわないようにしないとですよね。
──イベントってそこを気を付けないとね。一般層の人にどう伝えるか、その方法を考えるのがすごい重要。
PIKA☆:そのためには主催者がもっとポリティカルなところに足を突っ込んだり、自分の分野以外の場所にも顔出したりしないとなと思ってて、今めっちゃ走り回ってる。市民投票も請求代表人になって、みんなと動いたりみんなを動かしたりしてて、それによってちゃんと広まってきたし。
──PIKA☆がそういう動きしてるなら、これから音楽層意外にも広がっていきそうだね。
PIKA☆:でもやっぱりまだまだかな。うちがTwitter等で言い始めたことにみんな賛同して集まってくれて、信じて頼って有志のみで色々動いてくれている。私ももっと信じて頼って、もっと大きなネットワークを広げて、もっと多くの人と一緒に色々やりたいんです。ほんと感謝してます。
(2012年1月24日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/2012022900
PIKA☆
1983年12月7日、大阪阿倍野生まれ。2002年、高校卒業後、自身の写真個展のオープニングをきっかけに脳みそすぽんぽん野蛮娘2人組最強ロック・バンド「あふりらんぽ」を結成。ドラム、ヴォーカル担当。2003年、自力アメリカ・ツアーを決行。瞬く間に噂の日本人バンドとなり、ソニック・ユースのイギリス、オランダ公演前座を努める。アメリカ、イギリス、アイルランドなど、大阪を拠点に世界10ヶ国以上を飛び回る。2004年、「ジャングルで原住民族と電気もないなにもない生活がしてみたいっ!」という思いから、バンド・メンバーであるオニとアフリカ、カメルーンで約2ヶ月、世界三大音楽で有名な「ピグミー/バカ族」と森の中で歌って踊る。2005年にキューンレコードからメジャー・デビュー。「FUJI ROCK FESTIVAL」「RISING SUN ROCK FESTIVAL」「TAICOCLUB」等、多数のフェスティバルに出演。2006年にはUKのフェスティバル、「All Tomorrows Party」でオノ・ヨーコとの共演も果たす。2007年、あふりらんぽ活動休止をきっかけに、ソロ活動を始める。2008年、ギター弾き語りソロ「ムーン♀ママ」ミニ・アルバム『幸せの可視』を自主レーベルからリリース。2009年、平岡香純監督の映画「落書き色町」主演。調布映画祭フランプリ、ロッテルダム映画正式出品し、世界18カ国、40の映画祭で上映される。2010年、「あふりらんぽ」解散。本格的にソロ活動開始。ソロになってからも国内外の演奏活動に精を出す。音楽、写真、絵画、役者活動、パフォーマンス等、幅広い視野で唯一無二な人間力的表現活動を目指す。
PIKA☆ official blog
http://pikaloggg.blogspot.jp/
池田社長
1981年生まれ。音楽家、ライター、ディレクター、プロモーター。主な活動は雑誌、web上でのライター業、編集、アート・イベントの主催。音楽家として全国の音楽イベントやライヴ・ハウスにて活動中。入場料、アーティストのギャラが野菜のイベント「ギブミーベジタブル」を主宰。東日本大震災を受け、食の提供、こどもの心身サポート、地元工芸品などの制作販売支援などの活動を目的に設立した「まんまる」のメンバーでもあります。
まんまる official website
http://www.ooo-manmaru-ooo.com/
ギブミーベジタブル official website
http://gimmevegitable.web.fc2.com/
東日本大震災からちょうど1年を迎える今回は、箭内道彦へインタビューを敢行。2011年3月17日に彼から1本の電話があった。『猪苗代湖ズ』というバンドの『I love you & I need you ふくしま』という音源をリリースしたいから、OTOTOYで配信リリース出来ないか? 快諾したものの、当時はまさかこの曲が、至る所で聞こえてくるようになり、5000万円程を売り上げ、そして紅白歌合戦で歌われるなんて思いもしなかった。今になってみれば、「NO MUSIC, NO LIFE.キャンペーン」や東京メトロの「マナーポスター(家でやろう)」等のヒット広告を生み出した人。広告的手法でどうすればこの曲が話題になるのか、そして多くの売り上げを義援金として福島に送ることが出来るのかを、ちゃんと分かっていたように思う。一人一人の気持ちで復興は行われる。と共に、多額のお金がいることも事実で、ずっと復興支援をしていく上で、彼のような人間がいることは、とても力強いことのように思う。
──箭内さんって小田島等さん(イラストレーター/デザイナー)とお知り合いですか?
うん。
──前にこのコーナーで小田島さんに話を伺った時に、「NHK紅白歌合戦に猪苗代湖ズで出た時の箭内さんの顔が印象的だった」と話していたんです。箭内さんは今の日本のバックにある巨大な力のことを知っていて、そこに対して怒っていたんじゃないかって。
はは、それは深読み(笑)。ありがたき深読みですね。
──紅白歌合戦に出た時の箭内さんの気持ちを聞かせて頂けますか?
夏ぐらいから猪苗代湖ズのメンバーに「大晦日に予定を入れるな」って言っていて、でももちろんその時にNHKから打診の話があった訳ではないんですよ。出たかったんですよね。3月の震災以降、福島に少しでも多くのお金を送るために半分我を忘れて動いてきました。でも、福島の今を伝えることと忘れないでいてもらうことに対しては広告屋としての冷静な目も持っていて、2011年の完成形であり集大成となる最大のメディアはNHK紅白歌合戦だと思ったんです。
──では、広告媒体としての紅白歌合戦だった?
うん。でも誰がどう頼んでも出たくて出れるものではないじゃない。瞬間視聴率が40%で、それは日本の5000万人近い人が見てたってことで、そこで初めて猪苗代湖ズのことを知る人もたくさんいるだろうし、福島に送るお金を増やすことができる。歌う前にどんなMCをすればお茶の間を一瞬凍りつけることができるかも計算してた。とはいえ、空気を壊しすぎてはいけない場所なので、その中で精いっぱいやれることをやる。小田島さんがその時の僕の顔を見てそう思ったのは、そこの葛藤が見えたからかもしれないですね。あとね、あの演奏の後、僕以外の3人は号泣してたんですよ。
──へえ。
でも僕にその感覚は訪れなかった。
──なぜですか?
気持ちが裏方に回ってたんですよね。3人はミュージシャンだけど僕は違うからさ。じゃあ何で僕があの中にいるのかって問われれば、同時に裏方として猪苗代湖ズを広告していたからなんですよ。
──「I love you & I need youふくしま」をいろんな場所で聴くようになりましたが、そこについてはどう感じてましたか?
色々な使われ方をしたよね。驚いたのは右翼か左翼かはわからないけど街宣車で使われてたこと(笑)。
──すごいですね(笑)。
この曲がお金を生むように、この曲を大事に思ってくれる人なら誰でも使っていいですよって意を込めてJASRACに登録しなかったんだけど、その反面、曲が独り歩きし始めているのも感じ始めました。
──それはいつ頃から?
6月くらいですね。ある人がこの曲を聴いて「福島に残ってがんばれって言われてる気がする」と言っていて、それがすごいショックだったんですよ。僕は福島から逃げるなとも思ってないし、福島に人を閉じ込めたいなんて微塵も思ってない。でもやっぱり曲の使われ方や各々の解釈によって、そういう風に受け止められてしまうこともあるんだなと。避難してる人がこの曲を聴くと非難されてる気がする。すごい苦しかったって。そこで、あの曲で日本をひとつにしたり、福島をひとつにするのは不可能なんだって思い知りました。
──音楽の捉え方は人それぞれですもんね。
そうそう、自由なんだよね。そこの難しさを感じながら大晦日のNHKホールのスタジオに立ってました。
──その難しさについて、具体的に聞かせてもらえますか?
何で日本はこんなにバラバラになっちゃったのかな。脱原発とそうじゃない人との間にある溝とか、Twitterの中でお互いの行動や考え方を否定し合ってるのとか、戦う相手ってそこなの? って思うんです。宇宙からUFOが攻めて来たレベルのことが今起こっているのに、日本人同士がこんなに喧嘩しているのはまずいですよね。今自分が歌っていることで福島のことを伝えるのに貢献は出来ているだろうけど、いい反応ばかりでないこともわかってたし、小田島さんが言った僕の顔が印象的だったというのは、そこの淋しさも現れていたからかもしれない。もちろん、無駄なことをやったとは思ってないですよ。
──箭内さん自身は、原発反対の運動に関してどう思いますか?
僕は日本から原発がなくなることは素晴らしいことだと思うし、そこに協力したいと思ってます。でもその原発事故があった福島で暮らしている人がまだ200万人いる訳じゃない。そこから離れられない理由もそれぞれにある訳で、「逃げてない奴は自業自得だ」なんて言う人たちに賛同はできない。福島に残ることを選んで今日を生きる人たちのことは誰が励ますんだ。俺が担当しなきゃって思ったんです。
──箭内さんがミュージシャンとしてだけではなく広告屋の目ももって猪苗代湖ズで「I love you & I need youふくしま」をリリースした時、その目的はお金を作ることだったんですか?
そうですね。震災以降いろんなミュージシャンとメールでやりとりしてたんだけど、みんなどうしていいかわからず無力感を感じていた。その気持ちって今、日本中に蔓延してるんだろうなって思ったんです。そこを何とかしたかった。というか、その無力感はあなただけじゃなくてみんな持ってるものなんだよっていうのを伝えたくて、3月13日からUstreamの放送をうちの会社の4階で始めたんです。日替わりで菅波栄純(THE BACK HORN/福島県須賀川市出身)や猪苗代湖ズのメンバー、高橋優や物資を被災地に運んだ帰りのTOSHI-LOW(BRAHMAN)なんかと。怒髪天の増子さんも電話で出てくれたり。
──そんな中で「I love you & I need youふくしま」をレコーディングしたいと言ったのは、山口隆さん(猪苗代湖ズ/サンボマスター)なんですよね?
「とにかくお金を送りたいんだ」って。都合が良かったのは、「猪苗代湖ズ」もあの曲も震災後に作ったんじゃなくて、元々あったということ。だから3月17日から名古屋でレコーディングして3月20日から配信開始というあのスピードで出せたし、僕らが先陣切ることで他のミュージシャンも動きやすくなったと小林武史さんも言ってくれたんで、意味のある動きだったと思います。
──昨年、5000万円近い売上を福島に届けて、ある程度の目標は達成できましたか? それとも足りてなかった?
足りないと思います。一億円が目標で、「LIVE福島 風とロックSUPER野馬追」の収益と、3月14日に立ち上げた「THE HUMAN BEATS」っていうメッセージ・サイトへの、斉藤和義さんが協力してくれた寄付金と、「月刊 風とロック」を発刊しなかったことで生まれたお金や、福島から宮城、岩手、全国へとつないでいく「予定」シリーズの配信収益などの総計で、9300万円くらいにはなってるんですよ。だから3月までには一億円になるかなと思っているんですけど(取材日/2012年2月17日)、そこを達成したからってただの自己満足ですからね。僕、3月14日の時点で銀行に「一億円貸してください」ってお願いして、断られているんですよ。そこが出発点だったから、今思えば今の形でお金を集められて良かったなとは思います。たくさんの人たちの思いと力で。紅白に出ることの意味のひとつも、CDが売れてより多くの義援金にすることでしたし。でも、次に気にしなきゃいけないのはそのお金が誰に届くのかを把握することですよね。
──箭内さんはどういう理由で、どこにお金がいくようにしていますか?
僕が信頼している福島の人に相談して、最も公正だといわれている福島県災害対策本部を寄付先にしました。斎藤和義さんはギターをオークションで売って、そのお金でギターをたくさん買って福島の学校に送るそうです。それもそれでいい支援だなと。お金だけじゃない、支援を長続きさせるための第二段階に突入したんだなって。あと、全然関係ない話をしてもいい?
──もちろん、どうぞ(笑)。
去年の5月2日に行われた「Rock’n’Roll Show Love & Peace」って忌野清志郎さんのイベントで、ステージの転換中に清志郎さんに向けた著名人のコメントが流れてて、基本的にみんな「Love & Peace」って言うだけなんですよ。でも黒柳徹子さんだけがものすごく長く喋ってて(笑)。
──(笑)。
清志郎さんに謝ってるんですよ。あなたはずっと昔から原発反対って言ってたのに、私たちは聞く耳を持たなかった。その事を、今、本当に謝りたいって。もちろん清志郎さんが原発はいらねえと歌っていたその先に福島の原発事故を見据えていたかはわからないけど、黒柳さんの懺悔にハッとさせられた瞬間でした。今の原発反対活動については、声を荒げるのでなく、もっともっと上手なやり方があるんじゃないかなって思うんです。「原発反対」って強い言葉ひとつじゃなくて、やさしくコミュニケーションをとりながら効果的に届ける方法が。ただ、僕はまだ脱原発のところまでは辿り着けてなくて、とにかく今は福島に残ってる人たちのことを考えなきゃと思っているところです。
──箭内さんは今、原発への向き合い方を探しているところですか?
探してはいますね。もちろん、僕は原発なんていらないと思うし全部止まればいいと思う。原発反対のために力強く活動してくれている人にも感謝している。ただ、福島にいる人にとって、デモのシュプレヒコールはものすごく辛いものなんです。その間を埋めるメッセージがあればいいと思う。
──原発問題はすぐには解決しない。その中で、今福島に必要なものって何ですか?
いろんな人と話すけど、全県民に聞いた訳じゃないから本当に必要なものはわからないです。でもやっぱり一番多いのが、「何もしてくれなくていいから忘れないでください」ってことですよ。
──それは、事故のことを?
そうですね。福島のことを。紅白歌合戦の演奏前のMCでもそのことは言いました。福島の人たちはちゃんと声に出して言ってます。それに傾ける耳を持ってほしい。そのためには福島の中に若いリーダーが登場して、福島の行政の機能をどんどん整えてくれれば福島は変わっていくと思う。
──箭内さんは「I love you & I need youふくしま」を通して、福島の人たちにどうなってほしい?
そこはあえて決めていません。それぞれ判断してほしいとすら思ってない。「福島が好き」って気持ちを心のどこかにそっと置いておいて欲しいだけなんです。「明日から何かが始まるよ 君の事だよ」って素敵なことを歌ってるように聞こえるんですけど、「何か」としか言ってないんですよ。その「何か」を見つけなきゃいけないのはその人それぞれであるっていう… ある種残酷な、厳しい歌なんですよね。「福島においてきたんだ」っていうのも、僕らみたいな福島を出た人間が言う言葉ですよね。夢をもって福島を飛び出した人ともとれるし、避難を余儀なくされた人ともとれる。色んな意味を含んでるし、色んな立場に立てる歌なんです。山口くんが書いた詞なんだけど、うまくできてると思います。
──これから支援を続けていく上で、箭内さんのモチベーションは今どんな感じですか?
支援はしたいんだけど、そんなに自分に蓄えがある訳じゃないし、自分が倒れて会社を潰してしまっては何も支援出来なくなるし、支援しすぎたために会社を潰してしまっては福島の人に余計な心配をかけてしまう。そこはすごく難しいところです。今年の箱根駅伝で優勝した東洋大学のエース柏原竜二選手がいわきの出身だったり、横浜DeNAベイスターズの監督の中畑清監督も福島の矢吹町出身だったり、西田敏行さんだったり、猪苗代湖ズだったり、広告屋としての自分だったり、福島出身の人間が全国で頑張って輝いているんだっていうのをきちんと見せることも大事だと思っています。だから自分が潰れちゃってはだめだと思っています。
──忘れられないようにすることが、今、一番大事ですからね。
そうですね。いい人が出てくる県だと全国に思わせるのも一つの仕事だなと。
──日常の仕事と支援を両立させることってすごくエネルギーがいることで、みんな息切れしがちですよね。失速していくのも仕方がないことかもしれません。でも一方で、福島の人たちは淋しい思いをするかもしれない。
僕が何て言えば福島の人は心強いと思ってくれるのか。それは、今だけじゃなく継続的に福島を支援することを約束することだろうなと思って、だから僕、その頃は「福島と結婚します」って言っていたんですよ。だから一日でも長い支援のために健康に気をつけて長生きしますと。そして復興をこの目で見届けるために。
──いつぐらいまでそう言っていました?
5月頃ですね。でも僕はもともと約束ってすごく嫌いで、約束恐怖症ゆえに結婚もしてないし、簡単に会社を作っては解散したり違うものを作っちゃったりするんだけど(笑)。だからモチベーションという言葉はちょっと違うんですよね。自分をそこに閉じ込めておくために作った約束と暮らしていく覚悟かな。でも、幼稚園に演奏しに来てくださいって手紙がたくさん来るんです。もちろん全部に行く訳には行かないし、行ったところと行かなかったところがでてくるとまたややこしい。何とかしてあげたいけど、頼り合ったら両者とも不幸になる気がして、すごく難しいです。僕自身、「LIVE福島」とかでミュージシャンにどれくらい甘え続けていいのか迷っています。それこそ声をかけたら怒髪天なんて一生来てくれちゃうような人だからさ。
──いろんな難しさが、さらに交錯しているんですね。マスコミに対しての憤りは感じますか?
うーん… 喧嘩し合っていることに対する憤りはものすごく感じるけど、憤りから喧嘩を売ったり買ったりに発展してしまうから、そこを繋いだり包み込む動きが出来たらいいと思います。今は新しい社会を作っているところなんだけど、僕にせよ、小林武史さんにせよ、いとうせいこうさんにせよ、ゴッチ(後藤正文/ASIAN KUNG-FU GENERATION)にせよ、大友良英さんにせよ、みんなそれぞれに考えは違うし受け持つ担当も違う。それでいいと思います。担当の違う者同士が互いを尊重して時々話し合ったりすれば、また何かが前に進むかもしれないしね。
──新しい社会というと?
っていうと大きい話になっちゃうんですけど(笑)、僕は今までかなり古い社会を生きて来たのかもしれないって思ったんです。阪神淡路大震災の時に一体自分は何をしたのか。いくら寄付したのか。現場には行ったかなって考えると、多分何もしていない。震災後、仕事で沖縄に行ったんだけど、沖縄はずっと前から大きな問題を抱えている。そういう場所に対して、どれだけ自分のこととして感じることが出来ていただろうって。違う街のことでも自分たちのことのように感じて優しく心配し合える。そういうことがこれから必要なのかなと思った。
──なるほど。福島の話に戻りますが、福島は今後、どうやって復興を目指していけばいいと思いますか?
…本当に難しいですね。除染をどうにかして進めてほしいのと、福島に実際に住んでる人に、何が力になるのかを教えてほしいですね。お金なのか、音楽なのか、本当に必要なものが何なのかを。是か非かは別として、大阪の橋下市長のようにいちいちテレビに出て来るうるさい人が福島にいて、福島の内情をちゃんと全国に伝えてくれれば何かが変わるのかもしれない。「じゃあお前がやれ」って言う人もいるんだけど、僕は政治家にはならないので。
──さきほど言っていた「若いリーダー」ということですね。
そうです。5、6月あたりに自分がその位置に立つことを一瞬だけ考えたことがあったんですけど、「箭内さんがいなくなったら日本の広告はどうなるんだ」って熱く言ってくれる人もいて、思い直しました。
──震災後、音楽ではすぐに猪苗代湖ズとして動きだしましたけど、広告ではどうでしたか?
広告は音楽より出番が後でしたね。CMは結局全部ACになっちゃったし。ああいう時に流せないものを作ってるんだなって思った。広告単体で何かが出来たらすごくいいと思うけど、やっぱり猪苗代湖ズがここまでいろんな人に認知してもらえたのって僕が広告で学んだことや、そこで鍛えられた技術、育てて来た人脈があったのが大きくて、志や思いのあるものに寄り添うことで広告は初めてその力を発揮することができるんだなって… 今は思います。僕は紅白も広告だと思ってるし、「LIVE 福島」も福島の今を伝えるための広告だと思ってる。広告も、もしかしたら形が変わっていくのかもしれないですね。
──どういう風に変わっていくのでしょう。
物の売れ方が変わってきているから、自ずと広告の作り方も変わってきています。みんな同じ商品でも、こっちを買った方が環境にいいよ、世の中により役立つよってものにお金を使おうとしている。消費にもストーリーを求め始めている。それに伴い、広告自身もストーリーを持ち始めている。あと、震災直後に九州に行った時にみんな笑ってて、「東日本はこんなに大変なのに何だよ」って思っちゃったんですよ。でもそれでいいんですよね。西日本まで暗くなられちゃ日本まるごと真っ暗になるので。そこを広告の明るさをもって、生活や消費を健全な形で支えることも大事ですよね。だから、僕はこれからも目の前の商品を広告し続けていくんだと思います。
──話が変わってしまうんですけど、震災以後、土地ごとの意識の断絶が気になるようになったんです。僕の実家は兵庫なんですけど、そっちでは震災よりも紀伊半島の台風のことの方がリアルだった。西と東で直面している問題が違うんですよね。その溝は何とかならないのかなあって考えていて。
その溝を埋めるのは、地方出身者の役割じゃないかな。東京で楽しい思いしてんだから、その分故郷に何らかの形で返しなさいよってね。
──箭内さんにとって、東京は楽しいところですか?
やっぱり僕はそう思う。東京の楽しさがばれちゃったらみんな東京に集まっちゃって、日本のバランスがおかしくなるとすら思っているよ。だからこそ、東京に出てきてる地方出身者の責任ってすごく大きい。たとえば兵庫の声が東京に届かないんだったら、東京にいる兵庫の人が東京でその声をキャッチして届ける使命があるんじゃないかと。このコーナーにしても、OTOTOYさんが発信基地になってくれればいいよね。
──頑張ります。
こちらこそ、また新曲が出た際はよろしくお願いします!
(2012年2月17日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/20120311
箭内道彦
福島県郡山市出身。クリエイティヴ・ディレクター。1964年生まれ。主な仕事に、タワー・レコード「NO MUSIC, NO LIFE.」、ゼクシィ「Get Old with Me.」、東京メトロ「TOKYO HEART」「TOKYO WONDERGROUND」、サントリー「ほろよい」、ケイリン2011、グリコ「ビスコ」、桃屋「味付搾菜」「辛そうで辛くない少し辛いラー油」など。また、同郷のアーティストたちと4人で組んだバンド「猪苗代湖ズ」で、その収益全額を福島県の義援金にすべく『I love you & I need you ふくしま』をリリース。「だっぺズとナンバーザ」名義で『予定~福島に帰ったら~』にも参加。サイト『THE HUMAN BEATS』では、被災地への声と被災地からの声を、地元新聞社福島民報と協同し、避難所の壁に貼り出している。
猪苗代湖ズ official website
http://inawashirokos.jp/
「予定」 official website
http://yoteii.jp/
THE HUMAN BEATS website
http://thehumanbeats.jp/index_pc.html
2011年3月11日以降、OTOTOYでは『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』と題し、音楽やカルチャーに関わるもの達が、原発に対してどのような考えを持ち、どうやって復興を目指しているのかをインタビューで紹介してきた。
そして第九回目は、自身のバンド、ASIAN KUNG-FU GENERATIONだけでなく、音楽フェス「NANO-MUGEN FES.」を主催、レーベル&音楽ウェブ・サイト「only in dreams」を運営、そして新聞「THE FUTURE TIMES」を敢行し、震災後、最も発言が注目されるミュージシャン後藤正文に遂にインタビューをすることができた。
僕自身も、バンドLimited Express (has gone?)や音楽フェス「BOROFESTA」、レーベル「JUNK Lab Records」、そしてwebメディア「OTOTOY」を行っていることもあって、彼は同志であり、彼の活動は、指標であった。特にTHE FUTURE TIMESは、2011年夏に創刊準備号、そして冬に創刊号が発行され、切り口が未来のエネルギー施策や未来への生活の提案等、批評や否定だけになっておらず、それこそ本企画『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』で最もやりたかったことで、何度も読み返したものだ。
震災から1年が過ぎ、『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』も遂に9回目を迎えた。彼と話をして共通していたことは、我々には我々の立場で出来ることがまだまだあるってことだった。別れ際には、やり続けること、動き続けることを誓い、強く握手を交わした。
──僕がこの企画を始めたのは、震災後、あるアーティストのライヴを見に行ったことがきっかけだったんです。ステージ上から「原発反対!」って叫んで、お客さんも「原発反対!」って答えてコール&レスポンスが起きて、それ、何か違うなって。原発の問題は昔から訴えられ続けていることなのに、今に至るまで何も変わっていない。震災後だけのムーヴメントにするんじゃなくて、未来の話を具体的に話していかないと、こりゃだめだなと思ったんです。後藤さんはニュース・ペーパー「THE FUTURE TIMES」の編集長を務めていらっしゃいますが、これを始めようと思ったきっかけを教えてください。また3・11以降、後藤さんの心には、どのような動きがあったのでしょうか。
震災が起こる前から、自分たちが暮らしている社会が明らかに行き詰っている感覚があったんですよね。それは僕たちの暮らしというより、世の中の成り立ち自体に。そして震災が起こり、やっぱりどう考えてもおかしいと。そこに一石を投じるには何をすればいいのかを考えていて…、例えばデモ。今でこそいろんな人が参加し始めて開けたものになってきたけど、震災以前は社会に対して声を上げること自体が特別なことだったし、どんどんやった方がいいんだけど、僕としては「違うやり方も考えた方がいいんじゃないか」って気持ちが当時はあって…。とにかく何かやらなくちゃ、やりたいとは前から思っていました。
──何かやらなきゃ、何かやりたい、と思い始めたのは震災以降?
震災以降は、特に強くなりました。震災以前は日記に書いていたんですよ。原発に関しては青森県の六ヶ所村の問題から知って、ASIAN KUNG-FU GENERATION(以下、アジカン)のツアー中に現地まで説明を聞きに行ったんですよね。
──ってことは、「六ヶ所村ラプソディー(鎌仲ひとみ監督によるドキュメンタリー映画)」がきっかけ?
そうです。それから祝島の上関原発の問題を知って、これはちょっと見過ごせない事なんじゃないかと思って日記に書いたんですけど、「お前らミュージシャンも電気を使ってんだから、そんなこと言うなら全部アコースティックでやれ」みたいなことを言う人も出てくるわけ。それを言われると「まあ、そりゃそうだよな」って少しは思うんだけど、そういう極論でなくて、もっとまともな議論をしたいというか、それぞれ意志表明をできるようにならなきゃいけないという気持ちもあったし…。その時にもっと強く意見を言えなかったことは、今になって後悔しているんですよ。以前は、やっぱりネガティヴなリアクションがとてつもなく大きくて、避けてしまっていましたね。今と震災前じゃ、「NO NUKES」って叫んで応援してくれる人の数が違うでしょ? 以前は「原発が危ないわけねーだろ」って反応でしたから。だから、言い方、伝え方を変えなくてはと思って慎重に書いていました。
──ニュース・ペーパーという方法を思い付いたのは、いつ頃だったんですか?
震災が起こる少し前、音楽史の本をよく読んでいたんです。僕たちは西洋から文化を輸入してロックをやっているわけだけど、日本語を使って邦楽としてやる上で、これからどう活動していくのが自分たちの文化を作ることなのか、アイデンティティーを保つことなのか、そういうことを考えていて。そして本を読み進める中でポップ・ミュージックの成り立ちに行き着いて。ポップ・ミュージックの初期のひとつの形って中世の荘園を転々とヴァイオリンを弾いて回っていた吟遊詩人なんですよね。彼らは「どこの荘園ではこんな事件があった」「あの辺では戦の準備が始まっている」「どこそこでは何が流行っている」とかを歌い語りながら、ニュース・ペーパー的な役割も果たしていた。ポップ・ミュージックにはそういう機能があったんです。じゃあ、これを模倣してみよう。ポップ・ミュージシャンが時を経て、同じ役割を担おうとするのも面白いんじゃないかと思って。
──媒体が紙であることにこだわりはありますか?
紙やメディアに記すことの意味については、ずっと考えているんです。音楽も同じで、例えばOTOTOYで音源を買えば、CDよりいい音質で音楽を楽しめるじゃないですか。じゃあCDで出す理由は何? メディアを実体化することの意味は何だ? という問いが僕の中にずっとあって、その答えは、インターネットより肉体性をもって実生活に飛び出すことなのではないかと。ネットでは検索エンジンにひっかからないと情報を集められなかったり、それなのに目の前の情報に飛び付かないと追いつけないほどのスピード感があったり、広がりがないというか… バグが少ない感じがするんですよね。実体としてある物の強さって、そこにある、否応なくある、というところにある。例えば誰かが喫茶店で「THE FUTURE TIMES」を読んで、広げたまま店を出ちゃう。次にその席に座ったアジカンのことを全然知りもしないおじさんが、たまたまエネルギーの記事を目にして、「これ、使えるな」と思って手にとる。そういうことが起こり得るのが面白い。実際、南相馬で林業をやっている人がペレットストーブ(木質ペレットを燃料とするストーブ)の記事を読んで「これは私たちでも出来るんじゃないか」と検討を始めたそうで、これってネットの中だけだと起きないことですよね。完全に音楽の現場を跳び越しちゃっている。音楽をやっている人の記事には、やっぱり音楽好きしか集まらないんで。
──僕がこの連載記事を始めた時に読んでもらいたかった人は、やっぱり音楽好きだったんですよ。OTOTOYには音楽好きが集まるはずだから、その人たちにまず伝えたいと。後藤さんの考えは、そのもう一歩先なんですね。
さっきの吟遊詩人の話とも繋がるんですけど、僕には「越境せよ」というテーマがあるんです。音楽に関しても、ジャンルを渡り歩いていかないと蛸壷になってしまうという危機感があるんですよ。アジカンは日本語でがっちりやっているから邦楽ロックってことになりますよね。お客さんもみんな邦楽ロック好きばかりが集まっちゃって、閉じてくるんです。そうなると面白くない。世の中は常に整理されようとしているから、そこに抗っていかないといろんなものが閉じていくように感じるんですよ。アジカンとしては、「NANO-MUGEN FES.」で抗って、細分化を拒んでいます。何においてもそうなんだけど、ヒップ・ホップやロックンロールやジャズが生まれた時って、何かを越境して文化が衝突した時ですよね。僕たちがやっている事はもっと狭いことかもしれないけど、それでもジャンルを越境していく意識がないと、音楽が死んでいってしまう。「THE FUTURE TIMES」においてもその意識はありますね。
──「THE FUTURE TIMES」の編集部はどうやって作ったんですか?
Twitterで人を集めましたね。「俺、新聞作ろうかなー」ってつぶやいたら、わーっと反応が来て、取材で知り合った編集者の方が来てくれたり、会ったことのないイラストレーターの方もレスをくれて、作品を見せて頂いて良かったから声をかけていくとか。デザインはアジカンを一緒にやり始めて、途中で抜けてデザインの道に行った大学時代の友達にお願いして、第一号の表紙のイラストは中村佑介にお願いして。
──テーマは後藤さんが考えるんですか? 編集部で話しあって決めるんですか?
何となくのテーマは僕が持っていきますけど、まあみんな考えてることはそんなに違わないので。でも「やりたいことがあったら言ってくださいね」とは伝えています。一号に掲載された岩手のページはスタッフの意向で作られたものですしね。その辺の感覚はバンドをやっている感じと近いです。コンポーザーとして最終的なミックスを見るというか。
──後藤さんがこういう活動をするのについて、バンドのメンバーの反応はどうですか?
どういう趣旨で始めたのかちゃんと説明したし、みんなわかってくれています。「THE FUTURE TIMES」の活動はアジカンのスケジュールの網目を縫ってやっているので、スケジュールをちょっと動かしてもらうことはあるけど、基本的にバンドに負担はかけてないので。
──「THE FUTURE TIMES」では後藤さんもインタビューをされていますが、テーマはやはり「未来」ですよね。後藤さんは今がこのまま未来に続いたら、どうなると思いますか?
とにかく、放射性廃棄物の問題が気になっています。たった一カ所、フィンランドにオンカロという核の処理場があるけど、それもまだ動き出している訳じゃない。「INTO ETERNITY:地下深く 永遠(とわ)に ~核廃棄物 10万年の危険~」(監督:マイケル・マドセン)という映画にも出てくるんですけど、核廃棄物が無害になるには10万年かかる。10万年もあれば、その間に誰かが核廃棄物を解決する技術を開発するだろうっていう楽観的な思想に基づいて動いているんですよ。いろんな人の話によると、人類が言葉を発明して5千年強だと言われていて、5千年経ってもまだ正しく扱いきれていないじゃないですか。例えば、ラテン語を自由に扱える日本人がどれだけいるんだって話。現在の英語のような共通言語であったラテン語も、今では一般人には理解できないわけです。となると、もう、想像が及ばないですよね。想像もできない10万年後のことを前提にして物事が進められているんです。コストの面でも換算されていないんだから、これからどこかの世代が割を食う確率が高い。まあ、単純に言えば年金みたいなことをやってしまっているんですよね。もっとスケールがでかくて、もっと未来のことを考えていない、今生きている人たちだけの分配しか考えられていないやり方。これを続けていくと、とんでもないことが起きるんじゃないかって思います。
──実際に、起こりましたしね。
起こりましたね。そして同じものが日本中にありますね。使用済み燃料棒も原子炉の中に入っていれば、プールに入れておくよりは多少マシだろうけど、使い終わったら出さなきゃいけないわけでしょ。なら、もうなるべく原発を新設するのを止めて欲しい。僕が期待しているのは、どうにか原子力を使わないエネルギーに移行していけないかということ。仮に原子力を使い続けるならば、大量に出てくるプルトニウムとかを何らかの方法で無毒化するとか、放射能をなくすとか、分裂させるとか、そういうことを行えないと、この問題は未来永劫続きますよね。あと、人間が起こすヒューマン・エラーも怖いですよね。ああいう事故が起こって、責任が誰にあるのかがわからなくて、どうしようもなくなって、それを整理しないままもう一度使うっていうのは、筋道として危ない。
──後藤さんが今、可能性を感じてるエネルギーはありますか?
農業や林業に可能性があると思います。ツアーを回っていればわかるけど、使われてない田畑が全国にどれだけあることか。
──農地を使ったエネルギーというと?
というか、やっぱり生活ってものに根ざして考えるのであれば、グリッド自体を狭めた方がいいんじゃないか、という話ですね。例えば大分でとれた海産物を東京で食おうとしたら、そりゃ色んなエネルギーを使うでしょってこと。地産地消って理にかなっていると思うんです。その考えが大きく広がっていけば、東京で使う電気を青森や福島から持ってくるってどういうことなのか、どれだけムダなのか、意識しやすくなるだろうし。これらは知識人たちからの伝聞でしかないので、僕はドンと「これが正しい」とは言えないんですけど。産業って本当に大きいから、ミュージシャンの知識で産業が使っているエネルギーまでをどうまかなっていくかを考えるのは難しい。でも、ミュージシャンであると同時に僕らも一人の生活者ですから、望んで選んで進んでいくのが正しい道筋ですよね。ただ、今一番問題なのは、自分達でエネルギーを選べないことですね。異常ですよ、選べないっていうのは。
──そうですよね。いくつかの電力会社が独占してしまっています。
ドイツやスウェーデンの方式のように、自分がどこの電力会社からエネルギーを買い、それによって技術者にお金が落ちて、新しい技術が開発されることを知るみたいな仕組みになって欲しい。あと、みんな単純化するのは止めた方がいいと思います。例えば「東京電力は全員悪い」みたいな考え方は、絶対におかしいから。東京電力の中にも真面目に働いている人はいるし、新しいエネルギーを研究している人もいるだろうし、その人たちを責めるのと経営の責任問題を追及するのとはまったく別ごとなので、こんがらがらないで欲しいですね。
──Twitterで炎上しているのを見ていると、それは感じますね。
ひとつであることの不気味さをすごく感じます。今言った考え方の話もそうだし、だから、発電方法もひとつだと不気味なんですよ。いろんな意見や方法があって、それぞれに良い点、悪い点があって、抱えている問題についてはみんなで考えていかなきゃいけない。例えば原発がなくなったら、「原発で働いていた人はどうなるの?」「その人たちの生活のことは考えてるの?」とか言う人がいますけど。
──うん。
だったら「日本から一気になくなった炭鉱の街のことはどう思ってるの?」「それを復活させることについてはどう考えるの?」「夕張市が破綻したことについてどう思うの?」と訊いてみたい。でも… エネルギーの産業って実は今考えているようなことが繰り返されてきて、トレンドが変わる度に人の考え方やライフ・スタイルごと変えなきゃいけなかったんじゃないかと思うんですよ。そういえばこの間、恵比寿の写真美術館にフェリーチェ・ベアトが撮影した江戸時代の写真を見に行ったんです。そこで思ったことなんですけど、江戸の町は発展していたけど、田舎の方の日本人は西洋の人から見れば未開の部族みたいだったろうなって(笑)。でも、そういう時代があったということをもう一度振り返って直視した方がいい気がする。1860年代頃からものすごい勢いでここまで来て、便利なことが当たり前みたいな顔をして生活していますけど、日本人は長らく未開の部族みたいな生活してきたんだよって。
──震災から、もう1年以上経ちましたよね。僕は行動する人と静観する人で分かれ始めているのを感じます。最初の1年は危機感をエネルギーにして活動を続けてこれたけど、同じ意識のままこれから続けていけるかというと、ちょっと難しい。意識を変えないと続かなくなってきたところがあったんですよね。後藤さんはこれからも「THE FUTURE TIMES」を続けていく上で、どういう方向に舵を取ろうと思っていますか?
権威のないところで何が出来るか、というのは最初からコンセプトとしてあります。結局、国の歴史は国が作るんですよ、どこへ行ったって。権力が編纂するから、僕らには作れない。僕らが作っているのは民俗史なんです。民話です。柳田國男なんです(笑)。
──なるほど(笑)。
エネルギーの話じゃなくてもいい、未来に繋がれば。でも、今やっていることは未来に繋がると思います。世の中は個人の集積でしかないので、一人一人の意識が高まらない限りは何も変わらないと思うんです。個々の意識を少しずつ変えていくことが、今、僕たちにでき得ること。原発をなくすというところまでは直接的に担えないと思えます。だから、「花や実の部分までは手が届かないから、まずは土をやろう」みたいなイメージ。それをじっくり続けていくこと。10年続けたら何か変わるかもしれない。アジカンの「NANO-MUGEN FES.」も含めて、この抗い方には実感があるんです。僕らがフェスをやることで、アジカンの周辺には洋楽も邦楽も好きな人は増えてきましたからね。
──話を聞いていると、アジカンの活動も「THE FUTURE TIMES」の活動も、後藤さんにとって、表現活動としては同列なのかな、と。
10~20代は自分とバンドが一体で「これしかない」みたいな気持ちだったんだけど、歳をとってくると、徐々にセパレートしていきますよね。色々と自分で考えを進めていくうちに、ひとりの表現者として色んなところで面白いことをやりたいと思うようになった。もちろんバンドは好きでやっていることではあるんだけど、アジカンだけをやらなきゃいけないなんて誰にも決められたくない。
──「THE FUTURE TIMES」や「NANO-MUGEN FES.」は外側のオーディエンスに「こんな考え方もあるよ」「こんな面白い音楽があるよ」と提案する役割があって、アジカンの活動はそれとはちょっと違うのかな、とも思ったのですが、どうでしょう。意識は違いますか?
アジカンは一番大きい装置ですからね。僕が今持っている中で一番大きいロボットだから、それに乗るときにはやはり気合いを入れないと。その大きさを、やっと面白がれるようになってきた。
──今まではそうは思えなかった?
やりづらいと思うこともあったんですよね。インディー・ロックの現場では必要以上にビッグ・ネーム扱いされて煙たがられることもあったし、かと言って芸能寄りの現場に出ていけば「知らねーよ」って顔されるし。何だこれって(笑)。最近はそれを気にしなくなってきた。俺はやりたいことをやればいいし、誰に何と言われてもいいや。つまり、お前自意識過剰なんだよって(笑)。
──ふふふ(笑)。なるほど。
売れるか売れないかは大した問題じゃない。その核にある… 何だろう、言語化するのは難しいんだけど、その「一体何だろう」ってことに向き合ってさえいればいいと思うようになった。そういうのを気にしていると、置いてかれちゃうんですよ。例えば「FUTURE TIMES」で坂本龍一さんと対談させていただいて、表現者としても芸術家としても考えたくもないぐらい先にいる方じゃないですか。でも、坂本さんや先人たちが見ている場所があって、そこに僕も辿り着きたい。でも、それは誰かに褒められることではないんですね。だから、周りに何を言われようと「別にいいです」って感じ。
──震災や原発事故ももちろんそうだし、「FUTURE TIMES」を出したり、もっと前の「NANO MUGEN FES.」を始めたこともそうだし、色んな出来事がある中で、楽曲は変化しますか?
変わってはいると思いますが、バンドって面白いもんで自分の思い通りにはならないじゃないですか。だから、いかにメンバーと化学反応を起こしていくかってことだけかなと思います。
──まだバンドの化学反応を楽しめているんですね。すごい理想的だと思います。
楽しい… うーん、難しいですよ。メンバーとのビジョンも全く同じではないわけだし、それに対していちいち怒って「俺について来い」っていうのも僕は違うし。だったら考え方の違う彼らと何を一緒に作れるのかなって。そういう作業を経て、アジカンはポップ・ミュージックになるんだと思います。この間口の広さを与えてくれるのは彼らなんです。だから彼らとじゃなきゃできない。例えば僕がソロ曲を作ったところでアジカンみたいに色んな人に聞いてもらえる曲にはならないですよね。ビートルズもあの4人だからよかったわけで、ポール・マッカートニーなら知らない曲もいっぱいあるもの。
──ビートルズも早くに解散したし、昨年末でムーンライダーズも活動を休止した。でも、後藤さんが他にも色々活動している中で、まだアジカンに化学反応と言える感じが、とてもいいと思いました。僕もバンド(Limited Express (has gone?))をやっているから分かるけれど、すごく大事なところですよね。
最近、ミュージシャンが「ひとつのことだけに寄りかからない」ってことを意識し始めている気がするんですよ。
──それは、どういうところに?
飯田さんだって、バンドとは別にOTOTOYという場を作っているじゃないですか。それで良いと思います。バンドにはバンドの面白みがあって、楽しんでくれる人がいて、でもOTOTOYみたいに人が集まって会社を作っていくのも一つの表現としてあって、それに対して面白がる人もいる。いろんなところでいろんなことをやっている人を、僕は尊敬しながら、且つ心のどこかで張り合っているんです。
──張り合う気持ちは大事ですよね! 僕らも30代になって社会を意識し出して、でもミュージシャンであることは根底にあるじゃないですか。20代の頃って自分も周りもあまり考えなかったけど、今は社会との関わり方を考えるようになって、未来をちょっとだけ想像できるようになってきている。後藤さんはこれから、ミュージシャンとして社会にどう関わっていきたいですか?
もう少し怒った方がいいと思っているんですよ。僕たちの世代には何も用意されていなかったということを。この社会には空洞があって、この社会を作った人たちは高齢者への入り口に立っていて、否応なく僕たちより先にいなくなっていく。その時にまだ、自分たちの世代が空洞だったら嫌じゃないですか。どんな業界を見ていても思いますよ。上の人たちがとにかくつっかえています。だから、自分たちが活躍できる場を、自分たちで作っていかなきゃいけない。みんながそう思って動き出したらいいなと思うんですけど、実際のところ「NO NUKES」「NO WAR」という太文字だけでは世界は何も変わらないので。
──そうなんですよね。
僕たちがやっていること、音楽ほどプライベートなものは無いと思うんです。なぜなら、聴くことを誰かに肩代わりしてもらうことはできないから。だからこそ、人のプライベートな部分に訴えかけられる。そこから土を耕したり、種を撒いていきたいなと。そして、ひいては、社会が豊かになればミュージシャンにとっても幸せな時代が来るんじゃないだろうか。いい音楽を鳴らして、そこに対する拍手も今よりもっと大きくなるんじゃないだろうかという期待もある。だから話を戻せば、全部自分のためにやっています。この社会の不寛容さが解きほぐされて行けば、もっと瑞々しい芸術が世の中に出てくるはず。それはリスナーとしての自分も楽しいし、作品を作る上でも刺激になる。濃いやりとりをできるようになると思います。だから、ニュース・ペーパーを作ることも音楽活動もちゃんと繋がった上でやっているんです。全部自分に絶対返ってくると思います。
(2012年4月7日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/20120502
後藤正文
1976年生まれ。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカル&ギターであり、全ての楽曲の作詞とほとんどの作曲を手がける。これまでにキューン・ミュージック(ソニー)から6枚のオリジナル・アルバムをリリース。2010年にはレーベル「only in dreams」を発足し、webサイトも同時に開設。また、新しい時代やこれからの社会など私たちの未来を考える新聞「The Future Times」を発行するなど、音楽はもちろん、ブログやTwitterでの社会とコミットした言動でも注目され、後藤のTwitterフォロワー数は現在158,000人を超える。
ASIAN KUNG-FU GENERATION official website
http://www.asiankung-fu.com/
THE FUTURE TIMES
http://www.thefuturetimes.jp/
only in dreams
http://www.onlyindreams.com/
2013年の3月11日で東日本大震災から丸2年を迎えるにあたって、第一回でインタビューした大友良英に再度インタビューを行うことにした。この2年の間に、2012年7月に福井県の大飯原発が再稼働し、民主党から原発を推進する自民党に政権は交代した。またTVや新聞等では、被災地での復興の記事を目にすることは少なくなった。それでも、ねばり強く反原発デモは行われ続けているし、復興を支援し続けている人々がいることを忘れてはいけない。2013年で3年目を迎える「プロジェクトFUKUSHIMA!」の代表、大友良英も動き続けている一人。彼は、今何を思い、どんな未来を創造しているのだろうか? 『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』の第一回目の彼へのインタビューと共に、本稿を読み進めて欲しい。彼の言葉を参考にしながら、一度立ち止まって、各々が進むべき未来を、もう一度創造してみてほしい。
──震災のわりとすぐ後、大友さんとフェスで会って立ち話をした時におっしゃっていた「俺は福島に生涯を捧げるんだ」という言葉がすごく残っていて。
俺そんなこと言った?
──言ったんですよ。
捧げないよ。誰にも捧げねえよ(笑)。当時言っていたのは、この先の人生一生これをやることになるってこと。捧げるとかじゃなくてね。それは今も変わってないよ。
──僕は大規模な反原発デモが起こって、本当に世の中変わっていくんじゃないかと思った。だけど原発はなくならなかったし、政権は自民党に戻った。僕が今日大友さんに話を聞きたいのは、そんな現状とここ2年の時代の変遷をどんな風に思っているのか。また、大友さんの「プロジェクトFUKUSHIMA!」以外の動きです。
まずね、原発はそんな1年や2年でなくなるわけがない。それを無くならないと言って、がっかりしても仕方ない。廃炉の道のりはものすごく時間がかかるわけで、核のゴミまで考えたら、人類の生存年数をこえちゃうわけだから。だから1年2年ってタームで喜んだりがっかりしたりするんじゃなくて、長期戦で考えて動かなくてはって思ってる。それと問題は原発だけだとは思ってないってことも付け加えておきたいな。
「プロジェクトFUKUSHIMA!」はずっと続いていますよ。立ち上げた1年目は、特に最初の2~3ヶ月は放射能の問題一つとってみても、線量を計ってそれを検証する人が誰もいなかったし、実際いろんなもんが機能してない中で、自分たちでやらざるを得なかった。それもあって当時は派手な動きに見えたかもしれない。でも、見え方はともかく活動はその後もずっとしぶとく続いてるんです。ただ、その時と今の熱量って全然違うじゃないですか。1年目は日本中から手伝ってくれる人が集まって、一万人を超える人が集まって、賛否あったとはいえ成果を出せたと思っているのね。その後、線量を計るのは当然のことになって、動く人も増えて、専門家も福島に入っていく中で、僕らの役目も別の方向にシフトしていく訳ですよ。でも、根本にあるのは「福島をポジティヴに変えていく」ということで、そこはひとつも揺らいでない。「福島」を「日本」に言い換えてもいいと思う。やればやるほど、これは福島だけの問題ではないなって強く思うんです。そんな中で、福島に住んでいる人たちにとっては、問題と直面し続けることと、その中で行動していくことが日常の営みになっている訳で、僕らのやることも1年目とは当然変わってきてます。
──考えることが、多くの人の日常に定着してきたんですね。
そうだと思う。その上で震災後の社会をどうしていくかを考えるときに、課題は沢山あって。例えば、福島から避難した人と、福島に住み続けている人、両方にとって何がいい選択なのかひとつとっても答えは決してひとつじゃないし。いずれにしろ、僕らだけが動いてるんじゃなくて、本当に沢山のひとたちが動いてるのが現状で、それはプロジェクトを立ち上げた時と状況は全く違っていると思う。そんな中で僕らはなにをやってくのかを考え行動してるんです。
──その沢山の人たちというのは、専門家以外の人たちも含まれますか?
もちろんです。素人も専門家も両方ですよ。ただね、震災地域外の一般の人がずっと震災のことにかまっている訳にはいかないでしょう。やっぱり1年、2年経てばみんな自分たちの生活に戻っていく。そこも1年目とは全然状況は違います。でもそこを責めてる訳じゃ全然ないですよ。みんなも自分の暮らしで忙しいから当たり前のことだと思う。一方で現地には専門家やそれを仕事にしている人たちはたくさん残っていて、そのことはとても重要だと思う。個人じゃとても出来ないこと、専門家が動いてくれなくては機能しないことが山のようにありますから。一方で現地には専門家やそれを仕事にしている人たちはたくさん残っていて、そのことはとても重要だと思う。行政、専門家や業者が機能的に動かなければそれはとても無理なことです。検査体制にしても同じように賛否あるけど、それでも、機械もなくてどうしていいかわからなかった最初の状況を考えると、この2年で随分変わってきたと思う。避難した人にしても、避難先で落ち着けるようになったり、逆に避難先でやっていくのが厳しくて戻った人もいるし、家族が離散したまま今日に至っている人もいる。でもそのことが案外いい結果をもたらしているケースもある。どれもこれも本当に人それぞれいろんなケースがありすぎて、とても一言でいえない。誰にせよ、どんな状況におかれようと、それぞれの日常を過ごしていかなきゃいけない訳だからね。そのことを大前提に、先のことを考えなきゃいけないところに今来ているんだと思う。今度の3・11を過ぎたらもっと忘れられていく訳でしょ。それは人間の性として忘却しないとやっていけないところもあるし、一概に忘却がいけないとは思わないし、責められない。そうした人の性をわきまわたうえで、どうやっていくかを考えないと。文句だけ言ってもしょうがない。
──その中で、具体的にはどういう動きが必要だと思いますか?
みなが同じことを考えてる訳じゃないんで、ひとくくりには言えないってのが大前提の上で言えば、福島の人たちは「どうせ外の人にはわからない」と言って心を閉ざしてしまうような傾向があって、逆に福島の外の人は「福島のことはもういいから」ってどっかで思い始めているような傾向がある。もちろんそんなことはみなあんまり口に出しません。でも、その溝は新聞やテレビひとつとっても顕著に表れていて、福島のローカル新聞に放射能のことや原発事故のことが載らない日はなくて、東京のメディアとははっきり違ってきてる。沖縄も似たところがあって、基地問題が載らない日はないけど、東京で読むような一般の新聞には、原発や米軍基地の問題がメインのテーマではなくなってきてるでしょ。それぐらいずれてきていて、恐らくそのずれは修正できないと思うんです。でもだからといって「どうせ外の人には」ってなってしまうと、ますます溝は深まる一方で。かといって、福島、福島って言ったところで、福島と直接関係ない人のリアリティには響かないと思うんです。人は赤の他人に寄り添い続けることなんて出来ませんから。
そんな現状のなかで、長い道のりを考えてかなくちゃでしょ。すぐに結果を出すんじゃなく、思考方法や、社会とのコミットの仕方とか、そういうところから考えてかなくちゃって思ってます。1年目は、この状況下でどう生きていくかを考えるためのスタディだったと思うんだよ。放射能を隠すのではなく計って表に出す。その上で自分で考えて対策を練って、住むか住まないかは各々で判断する。で、これからはそうして始めた新しい日常の中で、どんな未来をつくっていくのかを考えるところに来ているんだと思います。そんな甘いもんじゃないって状況に置かれてる人もいるのもわかります。でも、そういう時期にきてると思うんです。まあそんなことを理屈で提案すると説教臭くなるし、僕は音楽家ですから、「プロジェクトFUKUSHIMA!」を面白いものにすることで自然に打ち出せていければいいなと思ってますけど。
──大友さんは大友さんの音楽の活動を続けて、それで自然と人が結びついていく。
この2年間の活動だけでも、今までの人生では出会うこともないだろうなって人たちと出会って、動いてる訳で、でも、人と人を結びつけるために動いてるんじゃなくて、動いてるうちに、自然にそうやって出会ってくって感じだと思うんです。特に震災後はこれまで福島を出たこと無い人が他の地域に行き、逆に福島に入る人もいて、人が大きくシャッフルしたと思うんです。震災は大変だったけど、でも、どうせシャッフルせざるをえないなら、そのことを肯定的にとらえていったほうがいいと思うんです。
今年は「あいちトリエンナーレ」から「フェスティバルFUKUSHIMA!」をやってくれって依頼を受けていて、それっていい機会だなって思ったんです。なんで愛知で福島? って言われれば、たいした理由なんてありません。愛知の人が僕らに興味を持ってくれて声をかけてくれた、それが全てです。でもそんな縁を大切にしたいなとも思ってるんです。せっかく愛知でやるなら、福島ナショナリズムみたいにになっていくんじゃなくて、福島を訴えるとかでもなくて、もっと開かれたたものにしたいなあ。別に本当に福島だけの問題じゃないと思ってるんで。愛知の人にメインになってもらって、福島から僕らが手伝いに行くくらいのかんじで、いろんな人と一緒にやれたらいいなあ。
──昨年のブログでも同じようなことを書いてましたよね。
うん、去年ぐらいから言ってることは同じ。別に人間の意見なんか一致しないもんじゃない普通。それが震災や原発事故が絡んでくると意見の違いが大きな争いになるし、人間関係が壊れたりする。意見なんて一致しなくてもいいというか、違う人たちがどう共存してくかでしょ。人類って近代以降ずっとその問題をやってるわけで、その意味じゃ、昨年どころか、80年代から僕の考え方の基本は変わってないと思う。
──では、他の問題点は?
これは福島だけではなく世界の問題なのかもしれないけど、今回の原発事故や震災が気付かせた大きな事実は、科学が万能ではなかったということ。それまで僕らは宗教のように科学を信じてきたと思うんです。それが大前提で、新宿に高層ビルを建てたり原発を作ったりして国は成り立ってきた。でも本当は科学が万能じゃないでしょ。宇宙がどうなっているのかまでは解明できていないわけだし。でも、実生活に関わる物事では、宇宙のことは関係ないし、まあほぼ科学で解明出来てコントロール出来てきた。というか出来ると信じることで近代社会みたいなもんが成り立ってた。なのに今はじめて、科学ではどうにもならない問題を僕らはつきつけられてるわけです。原発もコントロールできなきゃ、甲状腺で癌が出たってそれが原発由来かどうかも突き止められない。科学という神を信じられなくなったことで、社会の根幹が揺らいでるんだと思う。そういう意味では、みな心のどこかで自信を失ったままだと思うんです。そうなるとどうなるか、僕すごく嫌な予感がしてるのは、社会的な不安というか、暴力的な動きとか、レイシズムのようなものが出てくるんじゃないかって。
──レイシズム?
今ってもうみんながひとつの神様を信じれる時代じゃないから、そうすると人がまとまりやすいのは、共通の敵を見つけて攻撃することでしょ。手っ取り早いのが人種差別。今まではネットの中だけで行われていたことがリアルな空間にも出て来てるような気がして。一部の変な人だけじゃなくて割と多くの共感を集め始めているような気がするんです。思い過ごしならいいけど、でも「とうとう来たな」って気がして怖い。人って不安だってことをなるべく認めたくない生き物で、だから震災のことも原発のことも忘れるんだけど、一方でその不安が残した傷は多分心の奥底に残っていて、忘れようとすればするほど違う形で表に出てくるような気がするんです。人を攻撃するのって、自分の不安を打ち消すのに一番の特効薬のような気がするんです。本当はそんなことじゃ傷はいえないのに。自分以外のサークルを攻撃することって何の努力もなく自分たちが素晴らしいと思えることにつながるわけで。ちょっと前に教科書問題で日本と中国が揉めた時、中国で起こった反日デモで日本の料理店が攻撃されたけど、あんなのおかしいじゃない。教科書を作った会社を攻撃するならまだしも、何の罪もない料理店を攻撃したって、それは完全に人種差別でしょ。そんな稚拙なことは日本では起こらないと思ってた。でも、それと同じことが日本でも起こりつつあって…。さっきデモで世の中変わるかもしれないっておっしゃってたけど、同じデモでも、思っていたのとは反対側に変わり始めている気がして…。おっちょこちょいの音楽家の思い過ごしならいいんだけど。
──なるほど。
裏側にあるのは不安と自信喪失なんじゃないかな。あの事故直後にヘリコプターで水を撒く映像を見て、原発推進反対関係なく、みんな「あれ?」ってなったと思う。日本は自分たちのことを科学の国だと思い込んでいたから余計にね。その後のひどい状況を見てしまった無力感みたいなもの、その時に受けた喪失感はまだ回復出来てないと思う。本当にその傷を回復したいなら、原発の問題に正面からとりくんで解決の努力をしなきゃいけないのに、そこはごまかして、安倍(晋三)さんはより安全な原発を作りますって言いだしてるでしょ。一度ダメになった安全神話に次の安全神話を上塗りする大作戦に出てる。手っ取り早い解決法として安全神話の上塗りと他国の批判に走って、強い日本ってイメージを作っていく。どうもそれが世間には説得力を持っているらしい。これだと傷は修復しないで、見えないトラウマみたいになって、必ずそのしっぺがえしが自分自身に来ると思うな。俺はやっぱり背景にある不安をちゃんと自覚すべきだと思う。
──原発推進の世の中になった時、大友さんや僕らが出来ることって何でしょう。
少なくとも俺にはそれを止める力はないなあ。でも長い目で見て、俺はなくなるって思ってる。
──ではその中で、大友さんはどう動いていくんですか?
音楽家はそういった具体的政治決定に対しては無力だと思う。もちろん「NO NUKES」みたいなコンサートに出ることは出来るし、そういう動きをリスペクトしてます。ただ、少なくとも音楽家ってのは、具体的なスローガンを出すことではなく、世の中に対する考えかたを作品にして行くことしか出来ないと思ってる。何度も言ってるけど、音楽家は無力だよ。戦争も止められなければ、すぐそこで起こっている暴力ですらなかなか止められない。それどころか無力であるべきだとも思ってる。暴力と同じ土俵に乗るべきじゃないと思ってるし、直接的に物事や世の中を動かすためにある訳じゃないからね。それをしたいと思うのなら政治家か社会運動家になったほうが早い。
──じゃあ、音楽家に出来ることは?
音楽でしょ。それ以外に何があるの? 音楽がそういうものに対して無力であるからこそ、別の土俵の表現だからこそ、結果的には人間の根幹に関わるような力をもつとも思ってる。でも、それだけに安易にわかりやすい形で音楽が力をもってしまうようなことは嫌だなって思うんです。
その上でだけど、僕らは、単に演奏してるだけじゃなく、やる場所を作ってくことを含めて音楽な訳で、決して社会と無関係に音楽を作れる訳じゃなくて、当然、コミュニティの構成員でもある訳で、だから自分たちの納得のいく音楽をやるための場を作っていくことも重要で。具体的なこと言うと、今、クラブの問題で風営法改正のために多くのミュージシャンや関係する人たちが動いてるでしょ。そんなことやっても何も変わらないって批判もあるけど、でもね、15万人もの署名を集めて、沢山の弁護士が協力してくれて、ロビー活動にまでなって、このままいけば法律改正までいけるかもしれない。法律を変えるのってすごく面倒くさい地味な動きが必要だけど、それをすれば変わっていくこともあるって実感を僕らは経験した方がいいって思ってる。「どうせ世の中変わらない」になっちゃわないためにもね。例えばデモだけで世の中大きく変わるかっていうと、そんなことはない。むしろデモで大きく変わっちゃっうようならそれこそやばい世の中ですよ。だけど、あの夏のあれだけの人数でやったデモは決して無駄ではなかったと思う。すぐに答えがでないことであきらめるんじゃなくて、いろんな方向からしつこくじっくり攻めてくことで、変わってくことは絶対にあると思うんだ。もちろん直接世の中を動かすのは政治家だったり弁護士の動きなんだけど、彼らを動かすためのテコのような動きというか、彼等が動くモチベーション、動機になるのは僕らの意見な訳だからね。だから全然諦めてない。ただ、2011年とはやり方を変えた。
──どういう風に?
最終目標を決めて動くようなのはやめようと思って。言ってしまうとみんな結果を求めるでしょ。でも重要なのは、単に結果じゃなく、思考や行動のプロセスなんじゃないかな。結果が付いてこないことで挫折感を味わったり、自信喪失したり、どんどん疲れていく人たちを見てるとなおさらそう思う。被災地に入ったボランティアの人たちも、復興が一向に進まなくて疲れちゃう人いっぱいいるでしょ。でもね、あんな巨大な震災で流されちゃった家が1年間で戻る訳ない。でも結果が出ないことに敗北感を感じてしまって、その敗北感を基本にして動くと人ってやっぱりどこかに歪みが出てくるような気がするんです。こうあるべきだって目標がありすぎると、結果との間で、身動きつかなくなっちゃう。避難先でうまくやっている人って、どうせなら新しい土地で何かやってやろうって思っている人が多いような気がするんです。前の暮らしと同じものを求めるってよりは、まあ、まったく違うところに来ちゃったんだから、そこでなにか新しいことやるか… みたいな、そんな人のほうが、元気でやってるような気がします。被害者意識が強すぎる人はつらそうで…。もちろん責められないですよ。なんも悪いことしてないのに、そんな目にあってるんだから。残っている人でも、「本当はこんなはずじゃなかったのに」って思っている人より「なっちゃったものはしょうがないから」って思って動いている人の方がうまくいってるように見えます。東電に対して謝って欲しいとずっと言い続けていると、その人の人生がそのためにあるようになっちゃって、それはどうなのかと思いつつ、一方で東電は責任とるべきだとも思うし、だからすごく難しい選択で、一個人が巨大な企業や国に責任を取らせるって一生かける大仕事だから、それを被害者全員でやるべきとは思えないんです。それで何十年後かに裁判に勝っても… って思うこともある。でもそれをやる必要もあると思うし、本当に一概では言えない中で、役割分担していかないと、というのが現状の考え方かな。その上で俺はどうしようかなっていうと、自分がやってきた音楽の作り方と同じような方法でやってけないかなって。最初から結果を決めて、そこに向かって演奏するような音楽じゃなくて、即興を武器に、演奏する過程そのものが生命の根幹になるような音楽をずっとやってきてる訳だけど、そういう方法でやっていきたいなって。そういう発想方法の中に、未来の思想みたいなもんがあるんじゃないかなって、素朴に思ってるところがあって。とはいえ、この2年間「プロジェクトFUKUSHIMA!」で頑張ってきて、アイディアはもう尽きたんだよね(笑)。
──ははは(笑)。
ぶっちゃけ疲れました(笑)。一円にもならないどころかお金がどんどん出て行って、ほうぼうから文句も言われるし、メンバーも一人二人と欠けていくし。でもやめていく人たちを責められないよ。毎月福島と東京を往復するだけでもすごい労力なんだから。去年の10月ぐらいに中心になって動いてたメンバーがやめたのを切っ掛けに「もうやめる?」ってみんなに言おうと思ったんです。それで、会議を招集してどう言おうかうじうじ考えながら行ったら、既に福島のメンバーが集まって来年のフェスをどうするかでめっちゃ盛り上がってるんですよ。まいったなあ。とてもやめるなんて言える雰囲気じゃなかった。福島のみなが自分たちで動き出していて、形勢逆転して俺が彼ら彼女らに引っ張られるくらいの勢いなんだもん。で、みんなで新しい盆踊りを作るとか言って、「大友さん、曲作ってください」って、俺盆踊り比較的嫌いなんだけど(笑)。勘弁してよって言いながらもすごい嬉しかった。活動しててこのときが一番うれしかった。
──それは今でもそう?
そう。それに俺が引っ張っていくのって不健全でしょ。東京に住む半端な知名度のある人間が福島に乗り込んで引っ張っていくって嫌じゃないですか。福島の人たちが自分たちに必要なものを探してやってくのがいい。俺はそれを側面で手伝う。その流れの方が自然かなって。
──では、大友さんは今は「プロジェクトFUKUSHIMA!」の代表ではない?
名義上は俺と遠藤ミチロウさんと和合亮一さんのままですよ。だから何かあったら責任とるのは俺… って、おいって感じですよね。中間管理職ってこんな気持ちなのかな… やだな50代って(笑)。あ、でもね、やっぱミチロウさんや和合さんは、この二人はまったく意見とか合わないくらい違うタイプだけど、でも彼等が推進力だと思うんです。僕もそんな一人でもあると思うんです。でもね、今は、むしろ表に名前の出てきてないみなが、というか、ここで何かやろうと思ってる人たちが、動かせるような器としてプロジェクトが機能してるようなところもあると思うんです。
──その中で大友さん自身はどのように動こうと考えていますか?
まあ、みんなが疲れないように、楽しい器を維持してくことかな。あとは、閉じないようにすることだと思ってます。それとは別に個人的にはスクール的なこと。音楽の講座を開こうと思ってる。
──それは福島で?
いや、福島だけではなく、話があればどこでも行くつもりです。今までそういうレギュラー講師の仕事は全部断ってきたんだけど、最近いくつかの学校や大学から話をもらっていて、時間の許す範囲で受けようかなと思い始めてるんです。その代わり、そこの学生だけじゃなくて他所から来る人、学生じゃない人も必ず入れてくれってことにして、何回かのシリーズにして、さらにそのシリーズの後にはゼミ形式の少人数クラスにして、ってね。弟子をとるとかじゃないんだけど、今まで自分が培ってきたノウハウって誰にもちゃんと伝えてないからさ。さっきの未来をどうしていくかを考えるって話とも繋がるんだけど、それは原発どうこうの話以前に、もっと根本的な、民族なり考え方の違う人が共存する世界をどう創っていくのかという話で。僕らの好きな音楽って実はそれを無意識のうちにやっているでしょ。例えばジャズひとつとってもそう。ニューオーリンズの黒人たちの民族音楽だったものが、色んな地域の音楽と融合して、白人文化とも融合して、ヨーロッパや日本の音楽を巻き込みながら世界中で進化して、いろんな地域の民族音楽と結びついて新しいポップスを生み出したり、即興演奏みたいなもんまで生んで、いつのまにか初対面の人でも共演できるような形態を作っていったじゃない。ロックだって黒人音楽がルーツっていうけど、実は、色んな音楽が混ざり合ってて、ひとつのアイデンティティーだけで成り立ってるものではない独自の音楽を生んだわけでしょ。あらゆる人種、民族、言語の人が演奏できる形態って考えると、20世紀のジャズやロックを含むポップスって結構すごいことをやっている。そんな20世紀以降に生まれた音楽のあり方を丹念に見ていくことで、次の社会を作っていくための思想の萌芽みたいなもんが、いっぱい見つけられると思うし、ノイズのこと、映画の音のこととか、あるいは聴取ってことひとつとっても、それを丁寧に見ていくことで見えてくることって、いっぱいあると思うんです。そんな授業がやりたくなってて。秋頃からぼちぼちやれればって思ってます。多分この先、自分自身が目一杯音楽をやれるのってあと15年か20年くらいしかないと思っていて、だから生きてる間に自分がどうしてこんな音楽をやってきたのか、その根本みたいなのを伝えられたらいいなって思うんですけどね。
──ちょうど1年ぐらい前に、テレビで「福島のことを忘れないで欲しい」って言葉を聞いたんですよ。僕はその言葉にとらわれちゃって、こういう発信の場で福島の人に会うと「現状はどうですか?」って聞くんです。すると「いや、もう大丈夫」と言われる。「もう個人の問題だから、飯田さんに言えるようなことはないんですよ」って。
そんな質問をぶつけられたときに福島の人が恐れているのは、自分の発言が福島を代表した意見になっちゃうことだと思うんです。メディアのインタビューで答えたことが個人の意見じゃなくて「福島の人はこう言っています」と報道されかねないし、実際そんな目に遭ってる人、結構いると思うんです。これだけ意見が割れてるのに。だからみんな安易に発言出来なくなってるんじゃないかな。
──言葉通りに受け取ってしまっていたけど、そういうことじゃないんですね。
もちろん問題が解決しただなんて誰も思ってないですよ。でも「福島が汚染されてて酷いんです」なんてことを言えば、その一言で農作物が売れなくなるかもしれないって、ついつい思ってしまう。今は多くの農家が線量を計って、放射線の出ない作物をつくる努力をしてるのを知ってるから、なおさらです。それだけじゃなく、やはり福島が自分自身のアイディンティティの根幹になるわけですから、なるべく悪く言いたくないって気持ちも働く訳です。でも、実際の生活は、決して目をつぶってる訳ではない。かといって年中そのことを考えいたら、つらくて生きていけないってところもあって、不安も常にありつつ、それだけではない生活を取り戻そうとしてる。それに加えて村社会って部分もありますからね。都会に住んでいる人間には理解しにくいかもしれないけど。
──今初めて気がつきました。理解してあげられなかったんだ。
まあ自分に置き換えてみたら簡単なことで、ニューヨークに行って「日本はどうですか?」って言われても、俺は日本を代表してないから「俺の場合はこう思うけど」って言い方をするじゃない。
──しますね。
海外に行って日本を代表して発言出来る人がいたら、それは本当に日本を代表しているか、何も考えてない人だと思うんです。個人に日本を背負わせるのが重すぎるように、福島のレッテルを背負わせるのは重すぎる。だからそんなことに答えられないのは当然だと思います。それだけに、中と外を行き来して通訳をする立場の人がもっと沢山いるといいのになって思います。俺の通訳も決して福島を代表している訳ではないですから、沢山いたほうがいい。「福島を忘れない」のは本当に大切なんだけど、でもね、福島の中にもいろんな立場の人がいて、いろんな意見があって、一言では語れないですよ。かといって、そう言ったら、身も蓋ないというか、何も語れなくなっちゃうじゃない。その難しさを内側も外側も感じつつシェアできるといいなって思うんです。
先日甲状腺の癌が出たってニュースあったでしょ。まだ確たることは言えないと思うけど、でもそんなニュースを聞くたんびに心がきゅうっとなるんです。なんとも言葉に出来ない感覚です。これがこの先何十年も続くんだろうなって思うと、原発事故ってのは、本当にとてつもなくひどいもんだって思います。だれだって心がなえますよ。発言もしにくくなりますよ。でもだからって、あきらめたら負けなんで、しつこく地味にいきますよ、これからも。
──福島以外の人はどう動けばいいんでしょう? やっぱりOTOTOYから発信する僕としては、福島のことを忘れて欲しくないと思う。
もちろんメディアの人には関心を維持してほしいです。今大きな問題は、メディアがちゃんと機能してないことですから。問題点が何なのかを考えて、しっかりと文字にしていって欲しい。でも、福島に縁も所縁もない一般の人が、いつも福島のことを考る必要なんてないと思いますよ。人って自分の問題になって初めて真剣に考えるわけで。だからメディアなりアートの役割は、自分の問題ではないものに対して想像力を働くような作品を作ったり、それを情報にして伝えていったりってことなんじゃないかな。
──さきほどの「繋げる」ってこともそうですしね。
別に繋げることを目的にはしてませんよ。どうせなにか動けば繋がるわけで。さっきも言ったけど、震災が切っ掛けで、人がシャッフルしてるのが今で、それっていい機会だとも思うんですよ、いろんなことを考えるのにね。
──今日はたくさん気付かされました。あと最後に、戦争が近づいてきていると思うんです。なんでかはわからなくて、中国のことは全然嫌いじゃないのに、自分の中で少しずつ嫌いになっていく気がして。
はっきり言って中国も悪いと思うよ。悪いと思うんだけど、だからと言って俺の友達の中国人が悪いわけでは決してない。さっき話した「福島」ってくくりにしてもそうだけど、「中国」って言うだけで、その瞬間に顔が見えなくなるでしょ。そういう自分自身の思考方法から考え直していければいいんじゃないかなって思ってる。国の争いに、乗っかる必要なんて全然ないよ。
──でもちょっと、なんか、音楽には望みがありますよね。
いつも思うけど「戦争」って言葉の反対は「平和」じゃなくて「音楽」なんじゃないかって。おまけに祭って男どもの戦争衝動をうまく消費する仕掛けでもあるでしょ。そのうえセクシーなもんだしね。だから祭りはやった方がいい。こんなときだからこそなおさらね。人間の暴力衝動を音楽で消費しつつ、ついでに仲良くなれるなんて最高でしょ。その衝動を無理に抑えちゃうと、背景にある不安と自信喪失が暴力みたいな形で出てきかねないなって思うんです。
(2013年2月28日取材)
資料
http://ototoy.jp/feature/index.php/2013031100
大友良英
1959年生まれ。ギタリスト/ターン・テーブル奏者/作曲家/プロデューサー。ONJO、INVISIBLE SONGS、幽閉者、FEN等複数のバンドを率い、またFilament、Joy Heights、I.S.O.など数多くのバンドに参加。同時に映画、CF等、映像作品の音楽も手がける。近年は美術家とのコラボレーションも多く、自身でもサウンド・インスタレーションを手がける一方、障害のある子どもたちとの音楽ワーク・ショップにも力をいれている。著書に『MUSICS』(岩波書店)、『大友良英のJAMJAM日記』(河出書房新社)など。
BLOG:「大友良英のJAMJAM日記」
http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/
OTOTOYで、被災地への支援をするために企画したコンピレーション・アルバム『Play for Japan vol.1~vol.10』を2011年3月11日からたった6日間で創り、音楽情報配信サイトとして、少しでも復興に貢献することができた。その後、野菜を気仙沼に持っていったり、Limited Express (has gone?)として仙台でチャリティー・ライヴを行ったりと、手探りながらも、個人として協力できることをし続けた。けれどOTOTOYとしては『Play for Japan』以降、正直、何をしてよいかがわからなくなってしまった。被災地の状況を伝えるメディアは多くあったし、毎日、原発関連のニュースも流れてくる。少しずつ世の中の気運は「原発反対!」に変わっていったが、情報は多いものの、何を信じてよいかがわからなくなってしまった。TVや雑誌に出てくる専門家達の意見は、どこか遠くの世界の出来事のようだった。そんな時に、「はじめに」に記載したように、渋谷クラブクアトロでの「原発反対」のシュプレヒコールを聞いたことが、インタビュー企画のきっかけとなった。アーティストの言われるままにシュプレヒコールをするのではなく、自分達で考え、自分達で選択するきっかけになるような企画にしたいと思った。
実際に、ほぼ毎月、9回に渡った『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』は大きな反響をいただき、リリースする度に、OTOTOYのアクセス・ランキングのトップとなり、多くのコメントも寄せられた。また、この記事を読んで、支援に行ったり、イベントに行ったり、デモに行ったりしたという話を聞くたびに、編集部は勇気づけられた。
「復興のために行動する」「復興のために支援する」「原発推進」「原発反対」… 考え方は千差万別であってよいと思う。ただし、我々は考え続けなければならない。考え、そして未来を創造することが、次の未来、今の子どもたちの未来を創ることだと信じている。
最後に『REVIVE JAPAN WITH MUSIC』を読んでくれた皆様と、時間がないにも関わらずインタビューを快諾してくれた大友良英、中川敬(ソウル・フラワー・ユニオン)、山口隆(サンボマスター)、Alec Empire(ATARI TEENAGE RIOT)、平山〝two〟勉(Nomadic Records)、小田島等(デザイナー/イラストレーター)、PIKA☆(TAIYO33OSAKA/ムーン♀ママ/ex.あふりらんぽ)、箭内道彦(クリエイター/猪苗代湖ズ)、後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)の9人のインタビュイー、そして、このプロジェクトに最後まで付き合ってくれた水嶋美和、上野山純平、井上沙織、オトトイ・インターン、オトトイ編集部に最大の感謝の気持ちを贈る。
★この書籍の製本版の売り上げの製本手数料をひいた全額を、責任を持ってハタチ基金(被災した子どもたちが震災の苦難を乗り越え、社会を支える自立した20歳へと成長するよう、継続的に支援をする団体)に送金します。この記録を、ぜひ製本版であなたの手元に保管してもらえれば幸いです。
粘り強く、被災地の再建と復興に協力していきましょう。
飯田仁一郎(OTOTOY編集長/Limited Express (has gone?))
2013年3月13日 発行 初版
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