どうやって死ぬか。これは皆考えておくべきだと思う。
死は誰にだって平等にやってくる。屈強なプロレスラーだって、生まれたての赤ん坊にだって、威張り散らしてる政治家にだって、いつか息絶える時がくる。
だから今目の前で誰だかわからない女の子が飛び降りようとしているのを見ていても、極自然なことだと思えるのだった。
「ねえ、あっち行ってくれない?」
「どうして?」
先に屋上にいたのは私なのに、少女はこれ以上ないほどの不機嫌を顔いっぱいに表して、こちらを睨みつけている。
「飛び降りたかったら、どうぞご自由に。先にここにいたのは私の方なんだから、あなたに指図されるいわれはないと思うんだけど」
ぺら、とまた1ページ。ちょうど本もおもしろくなってきたところ。ここで読むのをやめることはできない。もし後1分で世界が終わってしまったら。私は本の続きを知らなかったことを悔やんで、何もなくなってしまった世界を1人成仏できずに漂うのだ。それだけは勘弁願いたい。
「あんた、私が死ぬとこを見たいわけ?」
せっかく乗り越えていたフェンスを再び跨いで、私の上に陰を落とす。本が読みにくい。
「あなたが死ぬかどうかなんて、私には関係ないよ。それより本が読みにくいから、そこ退いてくれない?」
さらに1ページ。物語は佳境。こんなわけのわからない女になんてかまっている時間がもったいない。しかたない、私がどこか別の場所へ行く方が早そうだ。ぱたんと音をたてて本を閉じ、重い腰を上げる。壁に左手をつき、思い切って足を伸ばす。日に日に立ちにくくなっている。でもできる限り、自分の足で地に触れていたい。
「ちょっと待ってよ」
屋内へと続く扉へ一歩踏み出すと、後ろから肩を掴まれた。心の底から後悔。なんだかめんどうくさいのと関わり合ってしまった。
「普通はさ、こういう時って止めるもんじゃないの」
普通じゃなくて悪うございましたね。死にたいのか、止めてほしいのか、よくわからない子。ほんとにめんどうくさい。
「人間、生きてりゃ誰だって死ぬの。今死ぬことを自分で選んだなら、それでいいんじゃないの」
だからさっさと離してくれないかな。私はベッドに戻って本の続きが読みたいんだから。
心からの訴えも虚しく、彼女はじっと瞳を下に向けたまま私の肩をさらに強く掴む。
「だって、怖いじゃん」
泣きそうな顔をして、いやすでに泣きかけている。ぐすっ、と鼻をすする音が汚い。
「ちょっとずつ、自分が死に近づいてるって、怖いじゃん。明日死ぬかもしれない。今日死ぬかもしれない。後何時間後かもしれない。そう思いながら毎日ここにいるばかりで何も変わらない。だったらいっそ自分でって、そう思うでしょ」
どんどん涙声になっていく。顔もぐちゃぐちゃだ。もしこの状態のまま飛び降りたりしたら恥ずかしいことこの上ない。私だったら、これだけでも成仏できない。やっぱりきれいに死んでいきたい。
「怖いとか、そんなことどうでもいい」
びくっと肩を震わせて、それでも私を掴む手は緩まない。
「みんないつかは死ぬの。健康な人でも事故に遭うかもしれない。殺されるかもしれない。いつ死ぬかなんて誰にもわからないの。あなたも、私もね」
こんな話をすることすらめんどうだと思うけれど、手荒に手をふりほどくこともできないし、また言葉を繋ぐ。
「あなたが死を選ぶのもどうだっていい。自分で決めた最期なら、納得するものでしょ。それを私が止めることはしない」
顔から出るものを全部出して、真っ赤に充血した目を私から逸らす。泣くくらいなら自殺なんて考えなければいいのに。
「死にたくないなら生きなさいよ。私はもう少しこの世界を見てからにするから」
本の続きも気になるしね、と心の中だけで呟く。ようやく私を離した彼女は何も言わず、ただその場に立ち尽くしていた。じゃあね、と一言、手すりにもたれるようにして階段を降りる。
ああ、やっと自由になった。早く部屋に戻ってゆっくり本の続きを読もう。死に方を考えるのは、それからでも遅くないだろうから。
今夜も食パンの袋をとめるやつに小人たちが群がり、その勝負のゆくえを見守っている。数は百ほどだろうか、あるものは目を見開いて黙り、あるものはひいきの選手に励ましの言葉をかけていた。食パンの袋をとめるやつは薄青く月明かりを反射している。
食パンの袋をとめるやつの両端に、ひとりずつ選手が立つ。互いににらみ合い、威嚇している。ルールは至極簡単、相手の陣地へ先に到着すればいいのである。一方は相手を邪魔してもいいし、無視してしまうのもいい。殴り倒してから悠々、相手陣地を奪うのもありである。また食パンの袋をとめるやつから降りてしまってもいいため、長い距離を走る必要もない。直線距離でゴールを目指していい。ただ、ひとつだけ特殊なルールがある。弧のちょうど真ん中にひとつ石を置く。それを一方の選手が取ると、もう一方が陣地にたどり着いてから十秒の猶予を得られる。石を持っていれば、相手にゴールされてから自分がゴールしても勝利、というわけだ。そしてその十秒は観客によって数えられる。ヒートアップした観客たちは大声でカウントを始めるのだ。
そしてもう戦いは始まっているのだ。ブルマンとラウンドは前傾姿勢のままピクリとも動かずに互いを探り合っている。観客のやじがうるさく飛び交う。風が吹いてラウンドの長い髪を揺らす。筋肉質で、ブルマンと比べて頭ひとつ分も大きなラウンドはこの競技のチャンピオンとして小人界に君臨していた。チラリと観客たちを見やる。そこには不安げに見つめる妹がいた。負けるわけにはいかないのだ…。鋭い目つきで再度ブルマンをにらむ。観客たちが、波がひくように静かになった。そして波が押し寄せるように、大きな大きな歓声をあげた。ラウンドが走りだしたのだ。その速さはブルマンを貫く矢のようだ。風を切り裂き食パンの袋をとめるやつから飛び出した。ラウンドは真っ向からブルマンをなぎ倒し、王者の勝利を見せつけるつもりだ。
ブルマンは冷静だった。愛しいワンローフを見た。ワンローフは祈っているようだった。突進してくるラウンドに一瞥を投げて、石の方へ全力で走りだした。細い体は軽やかに宙を舞う。当然ラウンドも動揺しない。力の勝負を避けられたところでやるべきことは変わらないのだ。ただ速さを競うのみ、石を取られる前にゴールすれば完全な勝利だった。二人の距離はほぼ一定だった。一方は石を、もう一方はゴールを目指していた。観客たちの歓声や罵声はうなりをあげて大きくなっていく。月がその輝きを増す。ラウンドは雷を思わせる速さだ。そしてついにゴールに立ち、王の雄叫びをあげた。歓声が豪雨のように降り注いだ。
振り返ることもしなかった。ラウンドの速さも強さも十分にわかっていたからだ。ただ全力だった。脚の筋肉が張り裂けるのもいとわないようだった。足の裏で食パンの袋をとめるやつを掴み、立ち上がった。そして右手を高く掲げた。ブルマンは石を取っていたのだ。寸前でダイブし、ラウンドの雄叫びが食パンの袋をとめるやつをビリビリと震わせるのを腹で感じながら。観客たちがどよめく中で、ワンローフのか細い声が響く。
「いい~ちい!」
「に~いい!」
ブルマンは走りだしている。荒野を駆けるガゼルのように。手には石を固く握り、目はギラギラと燃えている。次第に観客たちのカウントが大きくなる。
「さ~ああん!」
ある夏のことだった。三人は朝から探検に出かけていた。夏の日差しが汗を呼び、汗は体力をどんどん奪う。ワンローフは疲れ果て、座り込んでしまった。そしてしくしく、帰りたいよと泣きだしてしまった。そのとき強い強い風が吹いた。ワンローフの大事にしていた麦わら帽子がさらわれて、高く空へあがった。
ラウンドは静かにブルマンを見ていた。このままでは負けてしまう。食パンの袋をとめるやつに膝をついた。俯き、静かに息を吸い吐いた。そして顔を上げた。
「よ~おおん!」
目には闘志が宿っていた。ラウンドは諦めてなどいないのだ。小石を拾い、走るブルマンめがけ勢いよく放った。また拾い、放ち、拾い放った。滑稽なその姿に観客は涙を流した。もう王者の背中は見られない。そこにあるのはただ妹を思う兄の姿だった。
麦わら帽子は飛んでいく。ワンローフは気づいてさらに泣きじゃくった。走りだしたのはブルマンだった。ブルマンは風よりも速く走り麦わら帽子を掴んだ。そしてワンローフに駆け寄り渡した。微笑んで、涙を拭った。
「ご~おおお!」
いよいよカウントは大きくなっていく。どよめきも悲しみも喜びも一緒くたに、夜空を龍のように巡る。ブルマンは走る。ゴールへ一直線に。ラウンドの投げた石が額を打ち、血を流させた。だがものともしない。観客の声も風の匂いもなにも感じないかのように。いくつもの石が体を打つ。ラウンドは必死だった。涙さえ流した。それでもブルマンは止まらない。ぼろぼろになりながら走っていく。
「ろ~くうう!」
「な~なあああ!」
「は~ちいいいい!」
残り数ミリを走り抜ける。ラウンドはうなだれて、仰向けに寝転んだ。もう誰もブルマンとワンローフを止められないのだ。
「きゅ~ううううう!」
地も揺らすほど大きな歓声があがる。ブルマンはゴールに倒れこみ、またラウンドと同じく天を仰いだ。なにも聞こえないほどの声、小人たちの熱く沸いた歌声の中をワンローフは駆け寄り、微笑んで、血を拭った。
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4
健児はふん、と鼻から息を吐く。
「イエヤスのやつ、階段の掃除にはうるせえからな。滑ったらあぶない、なんて言って水拭きのあとに乾拭きまでさせるんだもの」
「今日もさせられた。田口が適当に拭くもんだから、二回も」
「げっ」
「で、何で体操服なの」
よくぞ聞いてくれた、というふうに悪人のような含み笑いをしてから健児は言う。
「練習ですよ、練習。くねくねとおかしな走り方をなさる我らがリーダー殿に、わたくし渡辺健児流の走り方を伝授させていただこうと思いましてな」そう言いながら体操服の半袖を少しまくりあげる。これは健児がやる気を出すときの癖だった。先日行われた50メートル走のタイム計測のときなどは気合いが入りすぎてほとんどノースリーブのようになっていた。
「デンジュ」
「うむ」
「我らがリーダー殿っていうのは?」
「お前だろ」
「げっ」
「げっ、じゃないよ。あんだけ大きな声で愛しの皆川に宣言しておいて、今さらやめようなんてのは無しだぜ。健児なら今から断っても大丈夫だろう、なんて思ってたんじゃないだろうな」
「げっ」
「男に二言は無い!」
そう言って健児は僕の肩をばしんと叩く。ちなみにこの「男に二言は無い」というフレーズは、健児いわくナントカという洋画の登場人物が言っていたそうで、それにいたく感銘を受けたため口にするようになったとのことである。授業中に難しい問題を当てられ、答えを言ったあとにこのフレーズを続け、盛大に間違えることもしばしばである。
「さぁ、体を温めるぞ!」
健児はもう一度僕の肩を叩き、僕が来た道を走ってゆく。どうやら学校へ向かうらしい。しぶしぶランドセルをがたがた鳴らしながら追いかけるが、すっかり遠くまで行ってしまった健児が眩しい春の光に手日差しをし、こっちを見ながらじれったそうにアスファルトを踏みならしている。まるで地団駄を踏む子供のようだ。体を温める必要もなさそうなほどに暖かい、春の日のことだった。
間違いなく子供だった。地団駄を踏むことだって、なんだって許される子供だったのだ。もしこの後にあんなことが起こってしまうと今の私が知っていても、あの出来事が当時の私の色んなことを変えてしまったとしても、その権利だけは誰にも奪えない。光に包まれ、息を、胸を弾ませた少年時代を奪うことは誰にだって出来ない。もちろん、自分にだって。
今、私の手の中には一枚の赤い布切れと一葉の写真がある。布切れの方はあの、光の柱が幾本もグラウンドに突き刺さっていた秋の日に私が頭に巻いていたものだ。その重さはあの時とまったく変わらないが、それを握る私はどうだろうか。春の日もあった。晴れ間の無い梅雨の日もあった。暑い夏も、風の強い秋もあった。しかしどんな日であれ、その全てが輝いていた。色々なことを変えてしまうほどの、涙に濡れる思い出もあった。しかしどの思い出だって、今思い返してみれば目映く輝いていた。そして私は写真の方に目をやる。困ったような笑顔の私と、泣きじゃくるかけがえのない親友。二人とも体は泥まみれだ。この写真は、運動会が終わったすぐ後に撮られたものだろう。
二つの思い出を机に置き、そうして私は再び過去に思いを馳せる。目を閉じてしまうほどの、眩しい思い出たちへ。
2013年4月1日 発行 4月号 初版
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