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発行にあたって
岡村詩野
本書は私、岡村詩野が講師をつとめている音楽ライター講座の2012年10月度の受講生たちによって制作された〝Year In Music〟、すなわち、その年の好盤をまとめた書籍である。当初は2012年中に発刊する予定だったが、様々な理由で約3ヶ月遅れての刊行となった。まずは遅れてしまったことをお詫び申し上げたい。
しかしながら、結果としてこれで良かったのではないか、と思っている。なぜなら、昨2012年から今年にかけて何か一つの大きな地殻変動が継続したままいくつかのシーンが地続きになって動いている実感があるからだ。例えば、私は昨年、『ミュージック・マガジン』誌12月号において〝新たな東京の音楽〟とタイトルがつけられた特集記事を執筆した。担当編集者とあれこれと相談しながら進めていったこの企画、誌面となった時には実に多くの反響を戴いたが、「東京拠点」「現在20代後半」「80年代生まれ」などいくつかのキーワードが登場したこの記事を執筆しながら確信したことは、東京に限らずどんな現場でも新たな動きが新たなポップスを形成し、それが徐々に世代を超えて大きな影響力を持ちつつあるのではないかということだ。そして、その拡散のスピードは思っていた以上に早く、思っていた以上にしっかりとシーンに根を下ろしたものとなっている。
となると、これはもう1年ごとの区切りを設けずとも、あくまで現在の動きを捉えたものとして瞬間、瞬間を切り取っていけば、それが〝Year In Music〟になるのではないか。そう実感したこともあり、本書は昨年度の作品からの選抜のみならず、今年1月から3月までのリリース作品のレビューも加え、〝Year In Music 2012~2013〟とした。そして、これは12年~13年初頭という、あくまでこの時期の動きを切り取ったものであるということをお伝えしておきたいと思う。
改めてご紹介すると、本書は岡村が講師を務める〝オトトイの学校〟内、音楽ライター講座の2012年10月期受講生によって選盤、執筆された初の電子書籍となる。受講してくれた約20名もの精鋭たちが、邦楽を中心に何度も意見を交換しながら選盤し分担して執筆した。全体的に偏りがあるのは、選者たちの思惑がそれだけストレートに現れていることによる、むしろ自然な反映であるとして、あれこれ言いながら多くの人と楽しんで読んでもらえればと思う。
夜を徹して追い込みの編集作業をしてくれた小川ワタルくんと受講生のみんな、デザインを担当してくれた笹村祐介くん、本当におつかれさま。間に入りディレクションしてくれたオトトイの学校の松田サトコさん、対談に参加してくれた飯田仁一郎くん(オトトイ編集長/Limited Express(has gone?))、渡辺裕也くん(音楽ライター)にも感謝の言葉しかない。現在の音楽ライター講座はこのように実地での執筆、編集など立体的なものになっている。興味のある方はぜひとも参加してもらいたい。また近いうちに次なる一冊を作る予定だ。
では、最後までどうぞゆっくりとお読みください!
2013年4月 岡村詩野
編集長 小川ワタル
オトトイ岡村詩野音楽ライター講座2012年10月期開始と同時に、この電子書籍制作がスタートしました。
同講座ではこれまで、受講生の手で音楽フリーペーパー『asatte』を発行してきました。創刊号は2011年4月期の受講生が制作し7月に発行、それから一期3ヵ月の講座ごとに季刊誌として号を重ねてきました。
私は2011年10月期から編集長を務めさせていただきました。当初の目標は、この始まったばかりのフリーペーパーの号を、着実に重ねることでした。つまり、必ず発行をすること。もちろん発行の前に、一定の質をクリアするという大事な条件を越えなければなりません。結果、幸いにも号を重ねることができ、この春には新しく編集長・坂本哲哉さんのもと第7号を発行することができました。
音楽フリーペーパー『asatte』のテーマについては、時にやや抽象的という指摘を受けたこともありました。例えばクロス・レビューなど、もっと具体的に音楽について書くべきだと。私が思ってきたのは、『asatte』は講座生の受講料で発行する、この点がとても大事だということです。資本およびそれに関わる経済活動とはまた別の所でフリーペーパーというメディアを生み出し、アマチュアの意見が載ること、このこと自体に大きな意義があると考えてきました。また、受講生の年齢、職業の幅も広い。よって多様な意見が載る。それらが載りやすいテーマを置くには抽象度高くテーマを設定するというのが、半ば意識的に決めていたことでした。
それが2012年10月期の講座では、フリーペーパーの形をいったんお休みして、電子書籍に挑戦することになりました。フリーペーパーを1年半(2012年10月当時)続けてこられたからこその、ステップ・アップであると考えました。電子書籍の形式上、お金をかけて発行するという形では見えにくいですが、受講料を払って〈場〉に来た皆で作るのだという気持ちは変わりませんでした。
テーマはずばり、〝Year In Music〟。これまでのフリーペーパーの抽象度高いテーマから、ぐっと具体的になりました。それはステップ・アップするにあたって、具体的なものにやっと踏み込む時期が来たと感じたからです。皆が音楽について腕をふるって書くなかで、個々の感情の内に衝突することもあったかもしれません。当然のことだと思います。しかしそのことにより残念ながら発行が伸びてしまったのも事実です。しかし私はこの制作における〈闘争〉を〈協働〉の場へと発展させ、電子書籍制作への強い動機づけにしたかった。誰が音楽を知っているかではなく、文章を書きたいという気持ちにこそ重きを置いて進めた、その結果を残すことに意義があると感じ、ここに電子書籍として、たいへん遅ればせながらではありますが出させていただきました。その〈協働〉のダイナミズムを感じ、さらに内容も楽しんでいただければ、編集部一同これほど嬉しいことはありません。
2013年4月 編集長 小川ワタル
――今年の音楽シーンの総括、および音楽メディアの動向なども含めてお話して頂きたいと思います。まずは邦楽の方から、印象的だったものがあれば。
渡辺裕也(以下渡辺):まず日本のインディーで特に印象に残ったものなんですけど、昔『C86』っていうコンピがあったじゃないですか?
岡村詩野(以下岡村):スコットランドの? NMEのね。
渡辺:そう。あれを模した日本のインディーのコンピレーション・アルバムが今年出ていて、それをキュレーションしたのがモスクワ・クラブっていうバンドで。ちなみにこのバンド、ミツメとひとりメンバーが重なっているんです。で、彼らが全国各地から数バンドを集めて『Ç86』っていうコンピを作ったんです。こういうタイトルの元に集まって、サウンドにもいくらかの統一感があって、確かに『C86』的な音楽への憧憬が感じられる。しかもこのコンピ、バンドキャンプからフリーでリリースされているんだけど、ダウンロードするとオリジナルの『C86』をカバーした音源も2枚組で付いてくるんです。作品としてすごく面白かったし、アンダーグラウンドのシーンとしてひとつのまとまりも感じました。ただ、ここに参加している人達のほとんどはとにかく露出がなくて。ウェブ上なんかでもほとんど顔を見せない。
岡村:なんでなんだろう?
渡辺:ねえ? それがなんか今っぽいというところでもあるんだけど(笑)。
飯田仁一郎(以下飯田):それにはミツメも入っているの?
渡辺:ミツメは入ってないです。ミツメはもう少しオープンな活動をしていますよね。このコンピに参加しているバンドとはちょっと印象は違うかも。でも、こうして全国から集まって作られていることが凄く印象的だったんです。コンセプトもしっかり統一されてて、まったくとっ散らかってない。
岡村:どういう点で統一されているの?
渡辺:まず、収録されているバンドはすべて未契約。で、リリースはそれぞれダウンロードとカセット・テープでやっている。それがこのコンピのおおまかな参加条件だったらしいんです。例えば、フィジカル・リリースでCDを出している人はなしってこと。
飯田:ええ~。
渡辺:そういうコンセプトがあって、そこに参加できるバンドの数も揃っていて、サウンドからも新しい傾向が見えてくる。ただ、それぞれ匿名性が高いんですよね。そこがシーンをわかりづらくしているところもあって。
岡村:なんでタイトルは『Ç86』なの? オリジナルの『C86』っていうのは、1986年っていうのと、カセットの収録分数にもかかってたし、あれ自体は当時NMEの付録で出た物で、イギリスのメディアが力を持っていた頃であり、新しい動きをコンパイルしようという様な比較的明確なコンセプトに基づいて作られていたんだよね。近年CDにもなったけど。あの頃はインディーとメジャーっていう二層がはっきり分かれていた時代だったから作られた物で。そんな中で、新しい『Ç86』っていうのを渡辺君が大きな動きの1つと見ている理由がもうちょっと聞きたいな。
渡辺:たぶん、『C86』が出た経緯は彼らもよく理解してて、そこへの共感やオマージュもあるんだろうなと。その上でこういうメインストリームとも既存のインディー・シーンとも違った音楽の打ち出し方があるっていう事をプレゼンしたいんだろうなって。フリーってところも重要だったと思います。特定の世代が『C86』っていうテーマの元でひとつの方向を向いて、それをコンピっていう形にしたのがすごく面白かったなって。まあ、ちょっと参加バンドそれぞれの年齢がわからないんでアレですけど。
飯田:こういうのがジェット・セットには売ってるんだ。ジェット・セットにしか売ってない匂いがするけど。
岡村:そうそう。そういう局所的な動きとして捉えるのであれば、どこでも買えるよっていう以外の物が、『Ç86』のようなオムニバスに限らず、CD―Rだけとかカセットのみ一部で販売するっていう作品が増えている。その象徴的な物の1つとして捉えることは出来るよね。
渡辺:だから今年の日本の音楽シーンの動きを象徴するどうこうっていう話とはまた別で、見えない所でそういう一体となった動きがあったのは印象的だったなっていうことです。
飯田:テープって買ったりする?
渡辺:めっちゃ買いましたよ。2012年は俺、たくさんテープ買いました。
飯田:へぇ~。需要ってあるんだ? テープって。
渡辺:この前、ミツメとジャッパーズ、Nag Ar Juna、SUPER VHSの共同主催イベントで、来場者にそれぞれの新曲とかレア・トラックを入れたカセットを配ってたんですけど、それはもはやダウンロード・コードも付いてなかった。でも、みんな喜んで持って帰ってましたね。
飯田:海外はどうなんだろうね? 海外は一時期warszawa(ワルシャワ)の店舗があった時には凄い売れてたけど。それがどういう需要かっていうのがわからない。(司会者に向かって)買う? テープなんて?
――テープですか? いや、買わないですね。
岡村:かけようがないでしょ?
飯田:そういうのを若い子が面白がってやるっていうのがね。友達に聴かせたいってあんまり思ってないのかな。
渡辺:まあ、テープはいいとして、個人的にいろいろ考えさせられたのはフリー・ダウンロード音源で。とにかく今はタダで配られている音源がネット上にたくさんあって、僕も気になったものは喜んでどんどん落としまくってたんです。でも、それが最近はもう切りがないというか、落としたまま聴いてないものがパソコンのなかで溢れちゃってる。たぶんその中にも面白い音楽っていっぱいあるんだけど。フィジカルでもデータでも、結局はお金を払って購入したやつの方がしっかり聴いてる。自分の好きな音楽を選ぶって、そういうことなのかなあと最近はよく思ってて。
岡村:フリーは駄目だと。
渡辺:というか、フリーでは興奮しなくなっちゃった。
飯田:興奮する音楽が現れなくなったんじゃないかな?
渡辺:う~ん…。そんなことはないですよ。ただ、やっぱりお金を払うって大事だなって思った(笑)。それはリスナーにとってね。だから、フリー・ダウンロードからの揺り返しで、これから適正な価格設定とかも出てくるんじゃないかなぁという気は少ししました。やっぱりOTOTOYでもフリー・ダウンロード音源は反応が大きいんですか?
飯田:フリーはプロモーションとしてどう使うかだと思うんだけど、でも今はやっぱりYouTubeをどうプロモーションで使うかだと思う。映像作家と話してもダントツに数年前に比べて発注が増えたって。それはもうアーティストがプロモーションとして作るのがサンプル盤じゃなくてPVになったというのが、完全に去年辺りから明確になったなと。来る発注書も「YouTubeの再生回数が何万回」って、まずそれがドーンと書いてある。そういう意味では映像が良かったアーティスト、例えばアニマル・コレクティヴが全曲映像を作って出したりとか。僕らも自分らのバンドでまずどうやって映像で見せていくかを考えたりとか、そういうことが多かったかなと思いますね。まず誰かアーティストを教えてもらったら、まずYouTubeでクリックする。YouTubeで「ああ、こういう人か」みたいな感じで知るっていう、そういう体験が出来た良い年だったなって気はします。
飯田:それ以外で言うと、数年前の海外からそうだけど、新しく斬新で「こんな音楽聴いたことない」っていう方向性じゃない気がする。どちらかというと「懐かしい」とかいうキーワードが今年聴く中で多かったなという気はしました。
渡辺:それは飯田さん的にはどうだったんですか? その「懐かしい」はどう捉えてるんですか?
飯田:数年前の海外のインディーのグローファイとか言いだした辺りから、俺が自分の音楽を作る上で参考にする物がどんどん無くなってしまって。やっぱりそういう現状はあるなって思ってて。チルウェイヴとか言いだしてからは洋楽のインディーっていうのは離れちゃったかな。ワクワクしなくなったというか。まあ個人的にアタリ・ティーンエイジ・ライオットに人生変えられてからはどうしても(笑)、うるさくてぱっと聴き新しいっていう物を求めちゃうっっていう感じが総括する感じですかね。どうですか詩野さんその辺は?
岡村:うん。一歩間違えば保守っていうことだよね。でもそれを私は全然悪い風に捉えてなくて、洋楽はチルウェイヴもグローファイも私は正直ピンと来ない方だけど、それもひっくるめた形で、例えば私は今はメジャーもインディーも無いと思っていて、そんな所で線を引くのはとっくに終わってると思ってるから、アナログでしか出さない人・CDでしか出さない人・配信でしか出さない人も含めて、そんなのは関係ないっていうのがまずある。それプラス、全体通して思うのは、さっき飯田君が言ってた「懐かしい感じ」にも繋がると思うんだけど、全体的にAOR志向とかシティ・ポップ志向とかにも繋がっていくと思うんですよ。どちらかというとフォルムそのものがポップス化している状況っていうのが感じられるよね。「ポップ・ミュージック」というよりは「ポップス」というような感覚。で、それは私は決して悪い事じゃないと思っていて、新しいポップ・ミュージックっていうスタイルではなく新しいポップス、大衆性的な物を纏ったもの。例えばアタリ・ティーンエイジ・ライオットの名前が出たけど、アタリは誰が聴いても面白いと思えるものではないと思うけど、局所的に物凄い大きなアタック出来てくるものだと思うけども、でも今この『Ç86』に入っているスロウマリコにしても、例えば最近だと今年出た(((さらうんど)))にしたって、ビデオテープ・ミュージックにしたって、聴きやすいというか、誰が聴いても良いなって思える、全体的にそういう音楽が増えているような気はするよね。それは悪い事ではないと思うんだけど、ただ見た目のインパクトであるとか、凄く大きな何か今まで体験したことの無いような衝撃を与える作品は減ってきているとは思う。だからといって悪いことでは無くて、元々ポップス、大衆音楽ってこういう物だよ、こういう良さがありますよっていうことを、新しくちゃんとアップデートしている感じは凄くある。特に若い世代も無意識に捉えてるかなあって気はするかな。
渡辺:シティ・ポップっていう言葉はホントよく耳にするようになって、例えばceroとかもそうだし、もっとキャリアがあるところで、かせきさいだぁが『ミスターシティポップ』っていうアルバムを出したり、山下達郎がまた若い人たちから再評価されてるムードがあったり。それは岡村さんはどう感じてますか?
岡村:シティ・ポップって一歩間違えばニュー・ミュージックなわけだよね。もうオリジネイターとしたらシュガー・ベイブだったりユーミンだったりティン・パン・アレー周りだったりするわけじゃない? もちろん今だったら山下達郎とか角松敏生とか竹内まりやとかが未だに影響力があって作品を出していて、そういうのをイメージして曲を作っていく人達、一十三十一(ひとみとい)だとか、かせきさいだぁもそうだし、そこそこキャリア・人気がある人もそういうことになっているというのは悪い事じゃないと思ってる。というのは、あの辺の音楽っていうのには、一見、パンクだとかオルタナティヴな感覚、あくまで音の質感としてのオルタナティヴ・ロック的な物とはかけ離れた物として今まではちょっと「ダサい」と思われていた。ある種、シティ・ポップって言ったらエッジが無くて、誰にでも聴きやすい物だと思われていたものが、それが割と方法論の面白さだとか、感覚的にそういう物をダサいと全く思わない世代からの見直しというのが起こっているのが今だと思うんだよね。だから私はそれについては関心がないってことは全く無くて、そういう所を割とちゃんと引っ張り上げたような方向に今来ているのはここ最近の傾向だし、それを指して「懐かしい」っていう感覚になるのもそれは当然だし。ただそれが方法論の面白さとか色んな物を同時に捉えていくことができる人たち、ceroもそうだし、ああいう人達がちゃんと同じ感覚ですくい上げているっていうのは面白い傾向だと思うけどね。
飯田:ceroはびっくりしましたね。あんなにブレイクするとは思わなかった。
岡村:ceroは凄いと思った今回。まあキーマンになってる人というのが、あだち麗三郎君とか。
飯田:あだち、岸田、MC.sirafuあたりは凄かったですね、この3人。
岡村:そうそうそう。人間交差点になって廻している感じ。一部の局所的な動きだといえね。あの辺の人たちがブレイクした1つのポイントとしては、世代が上の人達にもひっかかってくる音楽の感覚を持っているっていうことだよね。
渡辺:そうですね。それはあったかも。
岡村:それである程度リスニング経験のある私とか飯田君が「懐かしいなあ」って思えるような物を実は若い世代が、まあMC.sirafuは本当は若くないみたいだけど。
飯田:そうですね。僕より年上ですからね(笑)。
岡村:そういう人が出てきて。しかも若い人と組んで。スッパさんとかね。スッパマイクロパンチョップ。実は40歳位だけど、若い人たちと組んで、ceroとかと仲良しでしょ。そういう意味で若い世代も上の世代もやっと撹拌されてひとつになれている面白さっていうのが、シティ・ポップの名のもとに起こっているっていうのは面白い現象だよね。ただそれもいくつかある動きの中の1つだし、じゃあパンクとかオルタナ的なバンドが駄目なのかというとそうではないし、別の話だけど。
飯田:まあパンク・オルタナに関しては(自分達も)日本のシーンの中にいるけど、まあまあ今年は低迷期という言い方は非常に失礼だけど、なかなか難しい時期ではありますね。やっぱり波があって、今はもう沸々と新しい音楽を模索している時期で、今は作品に落とし込める時期ではないかな、と。すげぇパンク・バンドが今年出てきたか、オルタナ・バンドが出てきたかというとそうではないけれど、でもちょっと前にそういう苦渋の時代を送っていたのが実はHIPHOPで、それが今年、田我流とSIMI LABっていう新たなスターが久々に出てきたっていうのが面白いなとは思いました。
渡辺:たとえばTHE OTOGIBANASHI’Sとか、チルウェイヴ以降のサウンド感覚を持った若い人達が日本のHIPHOPの畑から出てきたりするんだから、動きはありましたよね。
飯田:現場は凄く盛り上がってるらしい。HIPHOPは。
岡村:そうだね。
飯田:みんな聴いてるのに、盛り上がってないって言われてたんだけど、今はみんなが聴いていてさらに盛り上がっているっていうのが今のHIPHOPの現場だってウチの担当が言ってます。
渡辺:日本のHIPHOPの人たちが海外のインディー音楽の流れをしっかり踏まえているのがすごく印象的で。日本のインディー・バンドとかもね。例えば田我流がOGRE YOU ASSHOLEを推していたりとか。なんか、変な選民意識がなくて、すごく健康的に音楽をやれてるのがいいなって。
岡村:実際ライヴを観に行ってる人達もHIPHOPリスナーとは違う人達だよね。SIMI LABも田我流も。
渡辺:違いますよね。
岡村:そういう面白さはあるかな。これは去年、一昨年からの動きではあるけれど、『サウダーヂ』とか『サイタマノラッパー』だとかのドキュメンタリー映画で、しかも地方性みたいな物も包括されていく、SIMI LABだったら相模原エリアに特化した動きが見えているとか。どちらかというと、ロックとかポップスの地域性みたいなものよりもわかりやすく、それを表に出したという意味でも大きな功績はあるよね。HIPHOPの人達は。
飯田:(田我流の出身の山梨県)一宮とかね。
渡辺:HIPHOPに限らず、その傾向はあるのかも。それこそceroとかもそうだと思うし。レペゼンじゃないけど。
岡村:地域というかそのエリアな物の中でやっていくってものがあるよね。だから逆に言えば一匹狼的な人が非常に出づらくなっているという事も言えるかもしれないね。どこかのシーンの中にいるとか、どこかと繋がっていればそれが芋づるで出てきやすくなってるけど、全くピンで動いてる人達は引っ張り上げづらくなってるのかなという気はするかな。
渡辺:さっきパンク・オルタナは難しい時期だったって話でしたけど、俺、ODD EYESがすごく好きで。で、あれなにが面白いって、歌詞なんですよね。フォークとかHIPHOPみたいな感じで、今の時代性がちゃんと言葉に表れているハードコアで、すごくかっこよかった。だから、そんなに低調な印象もなかったんですけど。だって、リリース自体はいっぱいあったじゃないですか。
飯田:リリースしてるバンドは個々がそれぞれ面白い人もいれば面白くない人もいるんやけど、じゃあ時代とマッチしてたかというと、もうODD EYESの出してる音は超時代っぽいんやけど、それが大衆を引き寄せるかというとそうではない。それはバンドには一切責任がなくて、音楽ってこういう流れが本当にあって。その流れにceroなんかは本当にマッチしていて、そのceroがマッチするにはトクマル君のブレイクがちょっと前にあったりとか、カクバリズムに入ったとか、カクバリズムがちょうど駒なくなってきたなというときに投入したのがceroで。みんなが応援したからとか、いろんな理由があるなぁと思ったりしてます。
渡辺:でも、ceroの高城君なんかはいまだに毎日自分のお店に立っているわけで。行けば会えるわけですよ。その普通のお兄ちゃんが、日によっては新木場のコーストでライブやってるっていう。まあ、トクマルさんとかになるとまた別なんですが。
岡村:あの辺のひとつブレイクのきっかけを作ってくれた、今のシーンの導火線になった人たちって、いわゆるインディー・ヒーローっていう人たちは一世代前にあったと思うけど、例えばトクマル君にしても二階堂和美さんにしてもSAKEROCKにしても、そもそも開かれたリベラルな感覚の持ち主だったと思うの。だからフォークも好きだけれどもHIPHOPも好きだし、打ち込みもやる。一人でもやるし他の人ともやるよっていう、すごく柔軟な人たちだった。だから、トクマルシューゴが誰と近いかっていうようなことを考えたときに、別にトクマル君のように弾き語りでギターが上手いタイプの歌い手じゃなくて、たとえば感覚としてオオルタイチに近い、そういうのがあると思うのね。でそういう物を彼ら自身が既に提示していた2000年代半ばに、それをもっとわかりやすい形で、それを受けたうえで見せてくれているのが今のceroとかああいう人たちだと思うのね。だからそれが『サイタマノラッパー』とか『サウダーヂ』みたいなHIPHOPの流れみたいなものと一緒になっていって、そこに違和感なくミックスするっていう感覚とも違って、結果として、もうすべてが同一線上で取捨選択できる中で、自分たちが自然とそれをやっているっていうような状態になっていて、それが異常にたくさん増えている、という感覚じゃないかと思うのね。それを一言でいうと、シティ・ポップス化しているという傾向がある。そして、『サイタマノラッパー』とか『サウダーヂ』とか見ても分かるけど、HIPHOPっぽいゴリっとした、いかつい感じはあまりなくて、すごく聞きやすいものを録ってたりとかね。彼らもそういう感覚でいたのかもしれない。そういうので行くと、なんとなくその都市の音とか町の音みたいなものをエディットするのではなくて、自然と出したものがそういう感じの人たちだったっていうのが、傾向として今年あたりけっこうわかりやすくあるのではないかという気がする。
渡辺:で、ここまでの話って、日本の動きですよね。HIPHOPでもシティ・ポップでもいいんですけど、この辺と海外の動きとの接点ってあるのかな。
岡村:シティ・ポップは海外でも割とあると思う。グローファイとかチルウェイヴもある種そうだと思うし、もうちょっとエスケイピズムが入っちゃってるけども、全体的にシティ・ポップスっていうか、AOR的な感覚だよね。シティ・ポップって日本だけの言葉だから。向こうではAORとかソフトフュージョンとか、ソフトジャズとか、ソウルジャズとか、どちらかと言うとカンファタブルな音楽性みたいなものに、インディロックも走っているような傾向にある。だから共通点としては絶対あると思う。ただ、今言ったようにいろいろな感覚でHIPHOPもやればフォークもあるよっていうような感覚も、日本の方がもう少しマーケットが小さくてエリアも小さい分、顕在化しやすいっていうのもあると思うけど、向こうではそもそもそういう傾向にあったと思う。それこそフリーフォークって言われた人たちの中には、アニマル・コレクティヴがいて、彼らは今は全くフォークではないけども、出てきたころはフォークのイメージがあった。でも彼らの根っこにはサイケもあればHIPHOPもあればハード・ロックもあるっていうような状況だったから。だから洋楽は全くそこからはかけ離れているという感じは正直しない。けれど、じゃあ今の日本の、これまでに名前が挙がったような面白い人たちに匹敵するような若い世代が、数年前だったらアニマル・コレクティヴやダーティ・プロジェクターズがいたけれども、今の海外にかたまりとして、大きな核弾頭になる人たちが、ここ1~2年はきわめて難しい。核弾頭になる人たちがいないから、形が見えにくくなっている。
飯田:取り上げられないですよね。
岡村:取り上げて、面白いのが、今年結局出たのがアニマル・コレクティヴもグリズリー・ベアもダーティ・プロジェクターズも、良い作品だったけど。
渡辺:どれもめっちゃくちゃいいんだけど、それはキャリアの成果が表れたものであって、新しい動きとはちがうってことですね。
岡村:良くて当たり前の人たちなわけでね。極端に言ったら。
飯田:30代の作品はみんな、アニマル・コレクティヴも、ほとんど良かった。
渡辺:でも、2012年はオッド・フューチャーがいたじゃないですか。
岡村:オッド・フューチャーおもしろいね。
渡辺:とりあえずオッド・フューチャー関連のものはくまなくチェックしてました。オッド・フューチャー本体のリリースもあったし、メンバーのソロや派生ユニットみたいのもガンガン出ている。フランク・オーシャンとかジ・インターネットなんか、しばらく新しい動きが見えてこなかったR&Bを一気に塗り替えちゃった感じすらあって。オッド・フューチャーみたいな10代~20代前半の若い世代からは、チルウェイヴ以降のアンビエントなサウンドを、HIPHOPとR&B全体に波及させていきそうな勢いを感じて、すごくワクワクさせられましたね。僕はけっこうそっちに関心がいってたから、あまり停滞感は感じなかったかも。面白いものもつまらないものも含めて、単純にいっぱい出てくるのが楽しかった。
岡村:あとは所謂R&B、HIPHOPはないけど、R&B指向、ルーツ指向っていうところでいくと、一般的に言われているのはヴィンテージ・ソウル、ヴィンテージ・ロックの流れだよね。今年私が海外で数少ない面白く思えたシーンは、やっぱアラバマ・シェイクスとか、ああいう、本当に若いのに、どルーツの音楽性というものに行った流れ、ジャック・ホワイトのソロもそうだけれども、そういう人たちが決してメジャーシーンではなくて、インディーベースで非常に懐かしい感覚、ヴィンテージな音作りに特化したロックなりソウルっていうのに向かっている若い人たちが多くて、私はそこら辺の方がむしろ面白かったかな。しかもそのおっさんくさい人たちが、実際におっさんじゃなくて、若いっていうのがすごく面白かったかな。
飯田:アラバマ・シェイクスのヴォーカル、本当に若くてびっくりした。おばちゃんだと思ってたのに。
岡村:若い若い。10代とかなんでしょあれ。
飯田:あれは50歳くらいにしか見えないけどね(笑)。
岡村:で、女性シンガーもすごくダイナマイな女性シンガーが多くて。
飯田:ラナ・デル・レイも。
渡辺:新宿駅にラナの広告がドーンってなってたのは強烈だったな。
岡村:H&Mでしょ。
渡辺:そうです。5メートルくらいの巨大なポスターになってて、ああ、ラナはもうここまできたのかって。
飯田:でかくなったね。
岡村:洋楽はそんな感じ。もちろん、イギリスの動きとか面白いのあったんじゃないかと思うけどね。私はあんまりイギリスの動きに全然面白さを感じられなくなっちゃって、マムフォード&サンズとかね、期待したけど今回はめちゃ大味で。
飯田:大味だったぁ。
渡辺:スタジアム・ロックみたいでしたね。
岡村:売れて当たり前な、で実際売れたわけだからね。洋楽はそういう女性のシンガーのポスト・アデル的な人がどんどん出てきていて。
渡辺:イギリスは新しいバンドがいっぱいでてきたじゃないですか、今年は。エジプシャン・ヒップホップのアルバムもついにでたし。あとはAlt-Jがマーキュリー取ったんですよね。
岡村:Alt-Jね。あとThe XX。
渡辺:あと、ジェイク・バグ!
岡村:新しい動きだよね。
渡辺:けっこう久々にイギリスの音楽がフォーカスされた感じがして、嬉しかったけどな。
岡村:ただ、こう言っちゃなんだけど、これと言ってはあんまりないよ。大きな引き金になりそうなアーティスト。
岡村:でもこういう状態だし、しかも向こうは顕在化しにくいし大きな動きが見えにくいから、ますます日本の若い子は「日本の音楽の方が手近だし面白いから」って言って、日本の音楽がつまらなければどうしようもないけど、これだけ面白かったら、そりゃ洋楽聞かなくなるよね。
飯田:そうですね。それ以外のいろんな社会的背景とか、国内盤を出せなかったり招集できないとか、実はもう伝える術もないみたいなところが。もう好きな人がネットで探すみたいな状況になってしまっているとは思ったりするかな。
岡村:そうね、海外に関してはもう、フジとかサマソニとかのフェスくらいしか、プレゼンできる場がなくなっちゃってる。
渡辺:今年のフジはお客さんがたくさん入って、チケットも売り切れたんですよね。
岡村:だってレディオヘッドが来たからでしょ。
渡辺:出演者とお客さんのどちらも平均年齢が過去最高になったっていう話もあって。
岡村:フジロックは完全に年齢層上がってる。出演者も見に行ってる人も。
渡辺:それは時代の成り行きとして必然的にそうなったという感じもします。
岡村:その一方で、例えば下北沢インディーファンクラブみたいなものをやって、あっちはフジなんかに出られないような、でも現場では人気あるアーティストがみんな一斉に見られるよっていう動きがあって。そうやって新しいフジロック、サマソニ的な、みんなでサーキットして回れるようなもので、都市にあるものでいうと、洋楽は出ないけれども例えばサマーソニックは昔よくそういう都市型のフェスとかって言ってたけど、本当にそれが実現化しているのはむしろ、下北沢インディーファンクラブなんかの方だと思う。インディーはインディーだけど、都市型の、本当に現場で動いて面白くなってるよっていう動きをプレゼンできる場としては、ああいうのが話題になって、すぐチケットなくなるっていうのもよくわかるよね。
渡辺:イベントをいっぱいやってる飯田さんは、どう見ましたか?
飯田:今年はフジ以外はアイドルに助けられた年ですね。確実に。
岡村:アイドルか。
飯田:アイドルに助けられたというか、アイドルをどう混ぜていくか。去年、一昨年くらいからアイドルが普通になった。AKB48とかPerfumeが出てきたときからもっと身近になって、アイドルもインディー化して、そうなるとインディーとインディー同士が出会って、その中で、リスナーがアイドルのBiSも楽しんで、SuiseiNoboAzも楽しんでっていうのがボロフェスタでも普通にあって、そして最後はGRAPEVINE見て、なんとなく感動するみたいな。その前にもTHA BLUE HERBが出て。象徴的だったのは、でんぱ組が出て、SuiseiNoboAzが出て、GRAPEVINEが出てTHA BLUE HERBが出てというのがもう普通になってきた。ミナミホイールでもそれが起こってたし、ぐるぐる回るとかも、フェスの中にアイドルが出てたりして。でもそれは僕ら主催者側も音楽的な観点から見ても結構楽しんでた。来年アイドルがどうなるんだっていうとたぶん結構しぼんでいくだろうけど、そういう中で今年はフェスの中でサマソニなんて完全にももクロが出たから成功したって言われていたし。そういう意味では実は、ちゃんとアイドル産業が大ブレイクしたことの恩恵は僕らも実は受けてて、それを受けているだけじゃなくて、楽しんだ。BiSやでんぱ組が出たりすることを楽しんだ。たぶんサマソニはももクロが出たことでプラスになった。
渡辺:BiSが出演するイベントに行くと、BiSのTシャツを着た人が対バンも全部観ているのは確かに印象的で。でんぱ組とかもそうですよね。これが、たとえばインディー・バンドのイベントで、目当てのバンドじゃないときはずっと外でしゃべってて、終わったらみんなすぐ帰っちゃう、みたいな状況をよく見ていただけに、すごくいいなって。単純にすごく楽しそうだし、そりゃバンドだってアイドルと一緒になにかやりたくなるだろうと思った。
飯田:今年の前半にずっと言ってたのは、「とにかくアイドルの方が面白い。何が面白いかって、現場が面白いんだ」って言ってた。それは僕らがパンクとかオルタナでライヴハウスが一体となってお客さんがぐるぐる回るような感じは、確実にアイドルの現場でヲタたちが起こしてる。じゃあ僕らはこういう仕事しているからその間を梯子するわけで、そうすると、ネストでやってる誰々のレコ発みたいな感じの方がゆったりしてるんです。みんな年齢層も高くて、腕組んで見てて。そんな状況が起こってたら、当然アイドルの方が元気ですよね。現場に行くとそういうことが何となく見えてきて。でも実はそのアイドルにも当然陰りが見えてきていて、次僕が面白いと思っているのは、禁断の多数決とか、アンアミンとか、タルトタタンにしても、みんな結構面白くて、でも面白いのは彼らが面白いんじゃなくて、仕掛け人が面白い。そういう時代が来年来るのかなと勝手に予想します。ももクロが面白かったとかじゃなくて、アイドルとかそういうのも全部ひっくるめて、今度は普通のバンドだけど、プロデューサーがしっかりしてるというのが結構今ふつふつと人気が出てきていて、多分ライトなアイドルファンとかもそういうのにまた流れていくんじゃないか。かわいい綺麗な女の子が歌ってて、それをしっかり誰かがプロデュースするという。
岡村:図式がはっきりしてるわけね。
飯田:そうそう。ちょうどこの前渋谷でシブカル祭をやったときに、そういう人たちでクアトロを埋めていたりとかしたから、次こういうのが来そうだなと。
渡辺:なるほど。アイドルで何かやろうとしていたような、ちょっと山っ気のある人が、今度はそっちの方に可能性を見てるってことだよね。
飯田:流れとしてはそういう風に行きそうかなぁと思う。
渡辺:OTOTOYで押しまくってたみそしる(DJみそしるとMCごはん)なんか、まさにそうか。
岡村:味噌汁ご飯ね。
飯田:味噌汁ご飯はもう激ヒットですよ(笑)。一番最初に詩野さんが言った、テープでしか出さないとかアナログでしか出さないのと同じように、彼女はOTOTOYでしか配信してなくて、それが非常に面白かったので大騒ぎして、メジャー各社が飛びついたみたいな状況が、実はあったりする。
渡辺:今のアイドル界隈にある熱気が、また違った場所に波及しつつあるんだ。
飯田:アイドルが絶対このままでは行かないから、多分その次っていうのが表れてきて、ピンの歌うたいに対してみんなが注目してる。アイドルでもなくて、歌うたいのピン。
岡村:男? 女?
飯田:女。
岡村:それはシンガーソングライターというスタイルではなくて?
飯田:ではなくて。もうちょっと大きいメジャーシーンにおいて、そういう人がブレイクしていく可能性が高い。
岡村:それは音楽性的には? もうちょっと開かれたポップなもの?
飯田:そうですね。でも、きゃりーぱみゅぱみゅみたいな、あそこまでじゃない。あれくらい作られたっていうよりも、もうちょっと自分たちが歌って、彼女が作ってますみたいなのを半分くらい演出するような。
渡辺:転校生みたいな?
飯田:アンアミンがすごいわかりやすいと思う。作られた感じもあるけど、確かに彼女が作っててもおかしくないなぁみたいな。
渡辺:そういうところとは別で、実際に女性シンガーソングライターも目立ってきましたよね。その辺に時代性とかは感じてる? たとえば、平賀さち枝とか。
岡村:もう間違いなく次ブレイクするの平賀さちえでしょう。間違いなく!
飯田:平賀さち枝VS南壽あさ子とかって言われてます。
岡村:次ブレイクするのは平賀さち枝とザ・なつやすみバンドでしょ。あの辺は全国ブレイクの可能性が十分あると思う。女性に関してはシンガーソングライターはやっぱりフォークだけど、歌っていることがなんか飄々としていているよね。全般的に例えばmmmも、全般的に決してシリアスではないのが面白いと思うのね。例えばceroもシャムキャッツも何にしたって、歌ってることはどこかシニカルではあるけれども、シリアスじゃなくて、俺が俺がでもないし、俺の歌を聞けっていうのでもない。かと言って死にたいとか、そういう特有のネガティヴなオーラが出ているわけでもなく、もっと飄々とした感じが面白くて。それは女性シンガーにも言えるんじゃないかな。だから平賀さんも割と近いところの景色を歌ってる人だけれども、決して何かすごい大きなテーゼがあるわけではなくてね。聴いてる方としてはある意味それは退屈な作業でもあるかもしれないけど、それがなんとなく時代の空気だなぁっていう気がするよね。
飯田:「普通を求めている」と僕はこの前それ何かの取材の時に言ったんです。普通がほしい。
岡村:まあ平賀さんとかはそう完全にそう。
飯田:普通がね、みんな流れ的にももう良い。
岡村:だからシティ・ポップっていうのもある種そういうことだと思う。普通のポップスみたいなものにちょっと毛が生えたり少し手が込んでたりして、方法論が変わってたりするのが面白いっていうのはあるかもね。確かにスタンドプレイ的なものはあまり求められていないかも。それはもう本当に、どの音楽もそうかもしれないね。「普通に良いね」みたいな。
渡辺:「普通に良いね」か。たしかに、ドラスティックに流れを変えちゃうような音楽を求めるようなムードがあまりないんだよな。
岡村:それは本当にそうだと思うね。
渡辺:それはそれでまあ、仕方ないのかな。
飯田:俺はさみしいよ。
渡辺:さみしいよね。ちょっとさみしいよ。
岡村:だからそれが当たり前になっちゃったらつまんないよね。だからもうちょっと、何でもいいから「うわっ新鮮だ! 」っていうようなものが出てきて、空気にメスが入るような感じがあると面白いなとは思うけど。ただ私は今年のこういうのってけっこう好きだけどね。個人的な好みで行くとね。
渡辺:何かなかったんですか。そういう尖ったものって。
――そうですね。来年への予兆を感じる何か。
岡村:何か一つ前の価値観を確実に塗り替えていくような、そういうような存在ってことだよね。そうなると私は、今すでにあるものの価値観を大きく変えていくような人って、誰かいるのかなぁって考えてんだけど、どうなのかしから? それはサウンドの面でもいいし、アティテュードでもいいし。
飯田:誰やろなあ・・・・・・。
岡村:私はロック・スタンダードっていうのが、例えばシャムキャッツにしたって、ああいう人たちはもっともっともっとスタンダードになっていかないといけないと思うから、あれはあれでOKだと思うわけよ。けれど、それに対する、〝かき回し〟役みたいなね、シャムキャッツを右とは言わないけども、右だったら超左派みたいなのが出てくると面白いなぁと思う。私はみんな仲良いからあれだけれども、みんなシャムキャッツだとかceroとか昆虫とか仲良しで、誰もそこをみんな否定しないじゃん、今のところ。否定する必要はないけれど、それに対して「あんな生暖かい、生ぬるいのはダメだよー」みたいなのが出てきたらもうちょっと面白くなる。もっともっと面白くなる。
渡辺:ていうか、否定されるくらいの規模にまで、バンド個々の状況がふくれあがってほしいなぁ、とすごく感じました。それぞれ2作目3作目となっていくなかで、もう袂を分かつじゃないけど、「ここから先は進む道が違うんだな、この人達は」というところが見たい。シーンで育ったバンドがそれぞれの方向に分散していく時期なのかなって。
岡村:いや、あの人たちは、もう頭一つ抜け出てブレイクするぜってなったら、つまんないよ。みんな、その空気っていうか、特に東京の言ってみればモラトリアムの雰囲気っていうのが、ポップスとしての機能を持って新しい都市の音楽っていう形になってる構造自体が面白い。
渡辺:じゃあ、やっぱりその構造とはまったく別のところに目を向けたヤツの登場が待たれるってことですか。
岡村:そうだね。
飯田:今年の2月にマルチネが風林会館で大ブレイクしたときは、めちゃくちゃ新しい時代が来たなぁと思ったんやけどね。そのあとが、もう一つ続かなかったんやけど。
岡村:マルチネか。
飯田:マルチネレコーズが本当にウェブだけでぽーんと宣伝して、それで400人来て、ほんで「おまえら、ユースト見ろー」って言って会場に来た人みんな追い返して、それが夜中の12時から6時までずーっと音が流れてて。で、ユーストの向こうで見てたら、初音ミクは出てくるわtofubeatsは出てくるわ、脱いだネエチャンは出てくるわ、狂乱みたいになってて。でもちょっと続かんかったねー。
岡村:tofubeatsはキー・マンだよね。今年の。
渡辺:決定的な曲がありましたね。
飯田:カウンターカルチャーではないんやけど、まさにそういうシャムキャッツとかceroとかと全く別シーンから来た完全にワケ分かんないカルチャーだった。
岡村:あと、今演劇が面白いとされているわけじゃない。快快とかね。演劇とかとコラボするっていう感覚の人たち、例えば蓮沼執太とかが一番例だけれども、ああいうように、他ジャンル・他エリアとの繋がりっていうのを、自分達の音楽で見せてる動きっていうのが、もう一つの動きとしてあるじゃない。そういうのが、これからどういう形で広がっていくのかなっていうのは正直興味深いよね。蓮沼君にしたって倉内(太)君もそうだしね。そういうような形で広がっていくと、特に演劇畑との繋がりみたいなものが、どういう形でこれからコミットして広がっていくのかなっていうのは。
——ヒッピー部は空間現代の音楽使ってますよね。フェスティバル/トーキョーで。
岡村:そうそう。ああいうのも一つ、見せ方としてただライヴハウスでやるっていうのじゃなく、そういうところでパフォーマンスとして面白いものを見せるっていうようなね、そういうイベントが増えてる。
——渡辺さん的にはどうですか? 予兆は。
渡辺:来年以降の? 別に予兆って言うか、最初と同じになっちゃうけど、ネット上にある音源をひたすら探しては聴いて楽しんでいたような一年前のテンションが、今ではもう変わっちゃってて。結局のところ、ここまでアーティスト側の傾向について話してきたけど、リスナー側のムードも確実に変わってくるだろうなって。一般的な音楽の聴き方に動きがないとつまんなくなるだろうし、逆に言うと何か新しい享受の仕方が出てくれば、一気に面白くなるんじゃないかな。ここまで音楽がタダみたいな形で無造作に転がっている状況だと、それがいい作品でもきちんとした評価がされないし、たいして聴かれないまま放置されちゃう。それを取りこぼしたくないから自分としては必死になるんだけど、やっぱり限界があるから。それこそ音楽性云々より、仕掛け方が面白い人にどうしても注目が集まっちゃいますよね。僕はそれよりも、ただその音を聴いた瞬間に「これで時代のムードが変わるぞ!」っていう感覚を味わいたい。仕掛けも大事だけど、それとサウンドの新しさが合致したものがひとつでも出てくると、そこで一気に変わるものがきっとあると思う。でも、同時に数もやっぱり大事で(笑)。だから、良い音楽にどんどん散財したい(笑)。それって結局、ミュージシャンじゃなくて、リスナーのためで。
岡村:うん。タダより高いものはないんですよ。今YouTubeでPVを作ってアップするっていう、リリース前にそれをアップして、プロモーションのツールとして利用する。昔で言ったら、そういう音楽番組でPVが流れるから見ようとかじゃなくて、それが今自由自在に好きなように見られるわけでしょ。ニコ動で自分でチャンネルを持てるっていう状況になってたりすることもあって、やっぱり視聴って言うことがあくまで体験として音楽に向かうひとつのきっかけみたいなのとしてより身近になってるっていうのは、悪い傾向ではない。ただ、それが結局聴いた気になってしまうで終わらないためには、「さあどうするのか」っていうところだよね。「ちゃんとお金出して買おう」っていう気になるのはやっぱり最終的には、アーティスト・パワーみたいのがないとさ、「1曲でいいやー。もういい! 」ってなっちゃうとだめだから、アーティスト・パワーっていうのを持ってる人たちが、どこまで次出てくるのかってことだよね。来年以降。やっぱりアーティスト・パワーを持ってる人たちって流れで行くと、やっぱり今日再三名前が出てるけど、トクマルシューゴ、二階堂和美レベルはまだあると思うね。それより後の人たちで、そこまでの力を持ってる人たちが、次今年出てきてるかっていうと難しい、正直言って。本当、難しい。ceroはブレイクしたけど。
飯田:あとオウガの、エンジニアとプロデューサーの力であそこまでにしたっていうのは、ミュージシャン的には非常に刺激的。
岡村:石原洋と中村宗一郎の力っていうのは、ものすごく大きい。彼ら(オウガ)が単純に作業上じゃなくて、音楽的な影響を受けてるってことだよね。彼らがいろんなものを聴かせて、彼ら自身の趣味を変えちゃったっていうことが、音作りにまで波及して、一つ前の『homely』ってアルバムから徐々に徐々に変わってきたって言う流れっていうのは、ものすごく大きい。だからエンジニアとかプロデューサーの存在意義っていうのが改めて問われている今に、ああいうちゃんと音作りができる、自分達の音をちゃんと作れる人たちがバックについている。オウガはそういう意味では本当に、言葉よくないけど、ラッキーだと思う。
飯田:YouTube作るためには自分達ではできないから映像のアーティストとコラボレーションしようとか、ファッションブランドとコラボレートしようとか、劇団とコラボレートしようとかっていうのは、けっこう実はバンド界隈積極的に行われてて。そういうのは面白い傾向。来年もっと強くなるんじゃないかなあ、と思ってます。
岡村:バンド主導でね。
飯田:うん。音楽以外の誰かとコラボレーションするとか、音楽でも自分達じゃできないこととコラボレーションして、自分達の作品をひとつ上にあげることっていうのが、「してもいいんだ! 当たり前やった! 」そういう風潮はあります。ここ最近、非常に。
渡辺:ね。その風潮が作品とかパフォーマンスとかにちゃんと落とし込まれてくるのは、またこれからの話なのかもしれないですね。そういう意味では、そろそろ決定的なモノがでるのかもしれない。その辺の動きから、びっくりするようなものが。
岡村:私は、国内の傾向は平たく言うと好きだよ。楽しいよ。こういう音楽がいっぱい出てくるって言うのは。本当に「ああ、ポップスがなんか楽しいなあ」みたいなのが、すごくいいなぁと思う。久しぶりに東京って面白いなぁって思うし、今。そういう点での面白さはあるけれども、こんなのがずっと続いていくと、これはこれでぬるいわけだよね。リスナーとしてはこれでいいけど、ジャーナリスティックな視点からいくと、こんなのじゃつまんないよ、ずーっとこんなのが続くと。それこそエッジなのがもうちょっと出てこないといけないし、かき乱し役はやっぱ出てこないとさ。・・・・・・なんとかしてよ。
飯田:なんとかしましょう。任してください。
——ありがとうございました。
一同:ありがとうございました。
2012年末某日 OTOTOYにて
文・構成 岡崎千紘・岡本貴之・田中三千穂・小川ワタル
〝等身大、身の回りで鳴るポップス〟をコンセプトに、ヒップ・ホップを中心に活動してきたイルリメとDJ/プロデューサー・ユニットのトラックス・ボーイズ(クリスタル、K404)により2010年に結成された(((さらうんど)))。彼らの1stアルバムは、ポップスを演奏し歌うことに対する率直な喜びが伝わってくるようなシティ・ポップの快作だ。元々エレクトロニカをふらふらと通過して作ったような、いびつなトラックに乗せてラップする姿から、イルリメはトリックスター的に捉えられることが多かった。しかし2008年から弾き語りライヴを開始、2011年には鴨田潤名義で弾き語りアルバムの『一』を発表するなどの活動を通し、近年はメロディアスな歌ものへ接近を見せている。(((さらうんど)))でのリリースも、こうしたイルリメの歌ものへの試みの延長にあり、本作で一つの結実を見ている。しかし、そこはトラックス・ボーイズなしには辿りつけなかった領域だ。
『(((さらうんど)))』においてクリスタルはほぼ半分の作曲・編曲を行なっている。その内、特に佐野元春のカバー「ジュジュ」は今回のアルバムの鍵となる曲で、選曲したクリスタルが語るように〝かつてヒップ・ホップに接近した佐野さんと、ラッパーであると同時に歌いはじめた鴨田潤=イルリメ〟を対比した曲になっている。イルリメは歌ものへの接近を図っていたものの、リリックでも見られた豊かな語彙と独特の表現を存分に生かして12年は小説まで執筆するなど、言葉を武器にしてきたアーティストである。弾き語りもまた、比較的多く言葉を発することができる余地があるアプローチな一方で、自身が掲げるジャンルとしてのポップスとは幾分かの隔たりがある。その隔たりに対し、語るように歌われる佐野の曲のカバーの制作を接点として、(((さらうんど)))はポップスへと足を踏み入れるための入り口を作り出したように見える。このように(((さらうんど)))にとってクリスタルの分析的とも言える視点は非常に大きな役割を果たしており、彼が作曲した80年代ディスコ・ポップをサンプリングしたきらきらした直球のシティ・ポップ「夜のライン」や、Ahh! Folly Jetの「ハッピーバースデー」のトラックに全く異なるベースと歌を入れて作られたアーバンな「冬の刹那」などはアルバムでも出色の楽曲となっている。
『(((さらうんど)))』には、イルリメが掲げたポップスがトラックス・ボーイズとの制作を経て具現化した姿がある。そこにはきらきらとした親しみやすさとともに、グループとして獲得した、ポップスを更新するような強さが兼ね備えられている。(小林翔)
1曲目の「All right part2」からアジカン・マナー全開。性急なスネアのビートに煽られて、思わず立ち上がってしまいそうな一瞬の高揚感を逃すまいと切り込んでくる歪んだギター。一転、クール・ダウンして歌い出す後藤正文のヴォーカルがいつもよりニヒルに感じるのはチャットモンチー橋本絵莉子との共演の賜物だろうか?『NANO-MUGEN COMPILATION 2011』にも収録されていたこの曲だが、自らの憂鬱をかき消すように歌われる〝オーライ、オーライ〟という単純明快なコーラスを聴くにつれ、3・11以降の後藤正文がおこなってきた活動に想いを馳せずにはいられなくなった。
オリジナル・フル・アルバムとしては2年3ケ月ぶり、7枚目となる今作はアジカンとしての真価が問われる1枚ではなかっただろうか。震災後、後藤正文はフリーペーパー『THE FUTURE TIMES』の自費発行、ソロ音源『LOST』の配信などを通じて、復興支援を続けてきた。さらに脱原発を訴え、抗議デモに参加。アジカンとしても「NO NUKES 2012」に出演し、2日間に渡る脱原発イベントのトップ・バッターを務めた。その一方で主催イベント「NANO-MUGEN FES. 2012」ではライヴで使う電力の一部に太陽光発電を利用することで、エネルギー問題に取り組む姿勢を見せる等、積極的に社会との接点を持った活動をおこなってきた。こうした活動がアジカンの血となり肉となっているのが今作『ランドマーク』である。
冒頭の「All right part2」の疾走感と、お得意の言葉遊びにニヤリとさせられている間に突入する「N2」は〝NO NUKES〟の意。原発を連想させる言葉の断片を、拡声器を通したような声でギターのリフレインに乗せて響かせる。トライバルなビートとリヴァーブの効いたギター・リフが浮遊感を演出する「AとZ」にしてもそうだが、この辺りの〝不穏な感じ〟は震災前のアジカンの楽曲には聴くことができなかった要素だ。後半、一際感動的なのが「踵で愛を打ち鳴らせ」。〝どうか君よ/嘆かないで〟と歌う後藤正文は、家族や友人、そして自分自身に向かって、明日への希望を歌っているように思える。
震災後の意識的な言動を音楽として昇華させた、2012年のメジャー・ロック・シーンで最も意味を持つアルバム。結成から15年以上というベテラン・バンドのアジカンだが、守りに入ることなく、ますます先鋭的な感性が発揮されたこの作品は、多くのロック・バンドの指針となるのではないだろうか。いまやアジカン自身が日本ロック界のランドマークなのだ。(岡本貴之)
今だから言えることがある。今だからわかることがある。その〝今〟とは、時代のことでもあり、人生のステージのことかもしれない。時と共に、考えも変わる。しかし、根底に流れるものはやはり一つ。今こそそれを大事に伝えていきたい。そんな彼の使命感と希望が伝わってくる。彼の年齢とキャリアから見える世の中の景色を、決して上から目線ではなく、〝僕はまだまださ〟と、隣で肩を叩きながら語りかけてくれるような気がした。
そのキャリアと実績は言わずもがな。くるりの岸田繁やチャットモンチーの福岡晃子がチャゲアスを夜な夜な聞いていたり、星野源や中田裕二、堂本剛らもリスペクトを公言するなど、現在活躍する多くのアーティストに影響を与えている。2009年にCHAGE and ASKAは無期限活動休止となり、ソロ活動を再開すると、スタンダード、昭和の名曲、そして自身の曲のカバーをリリース。また、ツアーを含むコンサートに加えイベント出演など、むしろ積極的に活動してきた。その一方で、オリジナル・アルバムどころか新曲さえも一向に発表されない状況が長く続いた。本作『SCRAMBLE』はソロ・オリジナル・アルバムとしては実に7年ぶりとなった。
7年もの時間がかかった理由のひとつが歌詞であると本人も認めているが、3・11が彼を含む多くのアーティストの表現に影響を与えたことは言うまでもない。慎重さを要求されたはずの言葉選びに対し、彼は敢えて捏ねないシンプルな表現を選択している。また、今作の収録曲はどれも、彼のキャリアに全く甘えることなく多種多様で、まさに〝SCRAMBLE〟である。これぞASKAの代名詞といえるバラード「いろんな人が歌ってきたように」は多くの人に訴えかけるように優しく、且つ力強い。ポップでつい身体を動かしたくなる「朝をありがとう」は爽やかでかわいらしい。タイトル曲「SCRAMBLE」はロックだけどどことなく昭和歌謡の雰囲気。今作のどの曲も、その曲調や歌い方、そして歌詞の細部に至るまで、これまでの彼のイメージに比べるとどれも新鮮に組み上げられている。それなのにどれもしっかりASKA節になっている。そんなシンプルな歌詞を纏った多様な曲たちが、『SCRAMBLE』というアルバムとして並べられると、7年分の愛と、今のASKAが詰まった、一つの作品として成立している。
これまで数え切れないほどのラヴ・ソングを歌ってきた彼が出した答えは、やっぱりラヴ・ソングを歌い続けることであった。彼自身を含めてすでに〝いろんな人が歌ってきた〟し、誰もが当然のように知っているはずなのに、〝I love you〟を口にすることはなぜか難しい。今こそ愛が必要だから、彼はより大きな愛をこれからも歌い続ける。そんな決意が現れている。(田中三千穂)
12年9月に青森で開催された「夏の魔物」。ロック界の妹分を自称するアイドル、アリス十番の次で出てきたBiSはライヴ開始前、「アリス十番さんたちはとてもロックなライヴだったので、私たちはアイドルらしいライヴをしようと思います」と言った。正直面食らって、驚いた。彼女たちが自身のパフォーマンスをアイドルとして捉えていると思っていなかったからだ。
ロック・シンガーとしてソロで活動していたプー・ルイの発案から2010年末に結成されたアイドル・グループBiS(Brand-new idol Society=新生アイドル研究会、の略)。彼女たちのメジャー・デビュー・アルバム『IDOL is DEAD』は〝新生アイドル〟を模索する彼女たちが辿り着く先を予言する。
楽曲はインディーズ時代と同様にプロデューサーの松隈ケンタがほぼ全て担当しており、ぶっといシンセとハードなギター・サウンドが特徴的なダンス・ロック「ASH」、オルタナ・ロックに〝ぺろぺろちゅっちゅー〟という印象的なサビが乗る「PPCC」など、全篇ハードなロック・サウンドで統一され、現在の邦楽のダンス・ロックと比べても全く引けをとらない。そのサウンドはインディーズ時代のアルバム『Brand-new idol Society』で聴くことのできたロック的アイドル・ポップとも一線を画すもので、今作の楽曲においてBiSのアイドル的側面はことごとく切り落とされている。
楽曲以外においてもBiSは自身のアイドル性を意図的にかなぐり捨てる。乱立するアイドル・グループの中でBiSは最も〝むき出し〟だ。挙げれば本当にきりがないが、顔にべとりと血をつけた彼女たちにぐいぐいとカメラが寄り、口の中に侵入して喉が接写される「primal.」のPVが端的に示すように、彼女たちは過剰に生身であろうとする。彼女たちは可愛い服を着た可憐な仲良しグループでいようとしない。服を脱ぎ捨て裸になり、グループ内の諍いを晒し続ける。こうした活動の行き着くところはいわば『IDOL is DEAD』というタイトルそのものだろう。
〝新生アイドル〟なんていうのはただの言葉だ。それでもBiSはそれを目指して自らのアイドル性を殺し続けているように見える。その地平でまだ彼女たちは「アイドルらしいライヴを」と言った。死んでも死にきらないBiSの〝アイドル〟への執着。その一心でファンと一緒に歌い踊るBiSの姿は、アイドルと呼ぶ他ないものであった。(小林翔)
2011年1月に1stアルバムを発表したceroの1年9ヶ月振りにリリースされた2ndアルバム『My Lost City』。今作は失われた架空の都市を舞台としたひとつの冒険物語が音楽になったような胸躍らせる作品となっている。アカペラのコーラス・ワークを聴かせるアルバム冒頭の「水平線のバラード」は、これから始まる冒険へのプロローグ。表題曲「マイ・ロスト・シティー」は特徴的なベースのリフが印象的なラテン・ナンバー。パーカッションやホーン、ピアノが緊張感を伝え、〝ダンスを止めるな〟というフレーズのリフレインが昂揚感を煽る。
中盤の「大洪水時代」は震災があったことで、注目されがちなタイトルだが、実はこの曲は震災前から演奏されていた曲だという。このタイトルにメンバーは悩んだというが、作品の核となる重要な曲である。しかし震災を連想させながらも決して暗さがないのは、全ての楽曲が力強さを感じさせ、尚且つ楽しい想像を喚起させるアレンジと演奏の力に因る所が大きい。バンドの正式名称〝Contemporary Exotica Rock Orchestra〟が示すとおり、オーケストラのごとく多くの楽器が奏でられる楽曲たちは、一曲ごとに表情を変えていく。土着的なリズムを取り入れていたり、大勢でコーラスする曲もあるが決して泥臭くならず、どこか都会的な感性に支えられた洗練さがあるのがこのバンドの人気の所以ではないだろうか。「スマイル」の曲中では〝笑いを忘れた恋人たちには/新しい明日が見えてくる〟という、FISHMANSの曲「100ミリちょっとの」の歌詞が突然現れる。以前から影響を指摘されているFISHMANSへのオマージュだろうか。アルバムは物語の登場人物が勢揃いしているかのような「Contemporary Tokyo Cruise」で一度本編が終わった印象を受ける。以降の曲はアンコール、いやカーテン・コールである。
このアルバムで歌われている内容は決して絵空事ではなく、現実とリンクしている部分も多い。それは、人間が生きていく限りいつどんなことが起こり、不可抗力で何もかもが一瞬で変わってしまうかもしれない、人生は毎日の瞬間が冒険のようなものだ、ということなのかもしれない。アルバムのラスト、これまでの物語を全て〝夢オチ〟にするかのように〝海が出てくる夢を見ていた/あるはずない/見たことない/誰も知らないパラレル・ワールド〟とラップ調に歌いながらフェイド・アウトしていく「わたしのすがた」の儚さが胸に残る。希望と喪失感が同居する時代を象徴する優れたコンセプト・アルバムだ。(岡本貴之)
YouTube上にアップされた数々の楽曲が注目を集め、音楽配信サイトOTOTOYからデビューした脱力系〝くいしんぼう〟女性ラッパー・DJみそしるとMCごはん。OTOTOY×KATA主催イベント「BANANA Shake」でライヴ・デビューを果たして以来、「シブカル祭。」やラジオ出演など、少しずつその名と活動範囲を広げてきている、今お茶の間に注目されるべきラッパーである。
〝おいしいものは人類の奇跡だ〟を合言葉に、ラップしているのは料理の手順。アニメ『キテレツ大百科』のコロッケの歌「お料理行進曲」を思い起こさせるスタイルは、これまであったようでなかった斬新な印象を与えられる。メニューは「ピーマンの肉詰め」から「マカロニグラタン」「えびちり」など、和洋折衷問わず食卓に対応している。「ピーマンの肉詰め」では〝肉詰め作業/詰まる爪の中〟、「ブリ大根」では〝今日はお手製ブリ大根で/彼の胃袋わし掴み〟などと、日常的で飾らないリリックはユルユルに緩みきっていて、やる気の無さそうな歌声も加わり笑いを誘う。すべて手抜きかといえばそうではなく、昭和歌謡やディスコをモチーフ、あるいはサンプリングしたトラックは非常によくできている。1曲1曲のストーリーがハッキリとしていて、リリックとトラックがうまく絡み合うようにできているのは、調理学校出身の彼女だからこそできる抜群の調合なのだろうか。
DJみそしるとMCごはんというその名から2人組のようにもうかがえるが、その正体はmiki osadaという23歳の女性ただ1人。トラックからリリック、PVも手作りだというから驚きだ。DIYを掲げて活動しているミュージシャンは数多く存在するが、その中でも彼女は究極のDIY精神の持ち主だろう。よくよく考えてみると、料理もDIYなのだ。
神聖かまってちゃんや禁断の多数決、ボーカロイドの流行も含めると、近年動画サイトからデビューへと足を進める傾向は高まってきている。DJみそしるとMCごはんは、誰もが音楽を簡単に作れる環境で、誰もが簡単に作れる〝料理〟という、2つの簡単さで現代音楽シーンにアプローチを仕掛けてきているのではないだろうか。手作り感満載にして高クオリティを保った彼女の楽曲たち、その絶妙なさじ加減は動画サイト時代の貴重な財産であるといえるだろう。
〝家カフェ〟ブームなどで、食材ひとつひとつの質よりも心がこもった美味しいごはんが喜ばれるこの時代に、手作りの温かさを再認識させる彼女のラップはまさに『Mother's Food』――〝母の味〟である。(梶原綾乃)
自分が彼らの存在を知ったのは2011年代々木公園で行われた脱原発集会「NO NUKES! ALL ST☆R DEMO 2」、ベースに久保田麻琴を迎えたステージであった。そこで彼らは「Human Error」という楽曲を演奏した。長い伴奏を後ろにストレートに反原発に対する思いを訴えていたが、思い切った作りの歌詞とサウンドに何だか訳の分らない気持ちになった。しかし、それは日本ではいつの間にか大衆的になって、周りを気にせず言いたいことを伝える役割が薄れつつあったロックという音楽において、痛快な一撃を与えたと言えるのではないだろうか。そんな彼らの次の一手と言える、より音楽的真価を問われるニュー・アルバムは果たしてどうだろう。
音楽的にいうと彼らは基本的に英語などの外国語と日本語が混ざって、時に造語を含む歌詞と、シンセが入ったり各国の民族音楽の影響が見られるが、それらはあくまでアクセント程度の王道のR&Rである。明るい元気あふれるロカビリー・スウィングのタイトル曲は、〝頭硬くてチンチン柔らかい/それ、逆逆/みたいなおっさんFever〟〝揚げ足とっては/擦り合い/指先一つで/他人事/チェルノブイリもぶったまげ〟と、今の日本を皮肉った歌詞が何とも痛快な曲である。かと思えばユートピアを思わせる「ブックラフィルミシュミシュ」や、ヴォーカルLeeの入院時の体験を綴る弾き語りの「日曜日の病院」なんて曲もある。そしてレゲエ調の「LIFE」の〝何度も/何度も/生まれ変わっても/再び君は鼻の先さ〟というフレーズが前向きな気持ちにさせてくれて終わる。
先述のイベントが縁でやることになったのかは分らないが、このアルバムのミキシングとマスタリングを担当した久保田麻琴は、バンドを「彼らの演奏はスタイルや技術でやってるのではなく、心と鼓動を使う」「本物で自然体のロック」と称している。彼の言うとおり、閉塞感漂うこのご時世で自由に生きることを彼らは歌う。それは京都を拠点に、今まで結成して10年間バンドとして頑張ってきた彼らだからこそである。たとえ国の関係が緊張していても「ケグリ」という韓国の民謡をサイバー・パンク調に歌う(過去の「イムジン河」問題に通ずる?)など世界を股にかける歌と行動。この世界を失いたくない、ある意味ではかなりスケールの広い正しいロックと言える。まだまだ荒削りではあるが、このようなバンドが広く人々に聴かれるべきだ。(小泉創哉)
大谷能生が音楽を担当した演劇作品『長短調(または眺め身近め)』(2010年)で初舞台を踏んだ萌が、ラップ・ユニットMoe and ghostsとしてデビューする。そんな情報が流れてきたのは佐々木敦のツイッターからだった。「萌のラップはビッチでもガーリーでもない」というコメントが印象に残ったフォロワーも、少なくないのではないだろうか。アルバム・タイトルは『幽霊たち』。しかもリリース日は8月15日というタイミングに、思わず心のなかで手を叩いた。東日本大震災以降のミュージック・シーンにおいて、幽霊や彼岸といった言葉が、どうも一つの大きなテーマになっているような気がしていたからである。タイトルからして、その大きなテーマに対する挑戦的な作品であると読み取ることができた。そして実際に聴いてみても、死生観を問う他の作品よりも頭一つ二つも飛び抜けてリアリティーを放つと感じられたのが、このMoe and ghosts『幽霊たち』であった。
そのリアリティーの理由は、萌の演劇的なラップにある。演劇とは、演者が生きながらにして変身や死を見せることができる効果的手法である。例えば本作の「ルー=ガルーガール」。真夜中の森にいるかのような遠吠えや虫の鳴き声に囲まれてラップする彼女は最後、〝すべて終わったらまた会おう〟と繰り返す。その語尾で〝おぅー〟と吠える様はまるで、獣に変貌した中島敦の『山月記』を思わせる。この現実に嫌気が差し、佐々木氏の言うところのビッチでもガーリーでもない、すなわち人間でない存在を求めたあげく、彼女は獣になってしまったのではないかと想像させる表現力がそこにある。
まるでエラーを起こし、勝手に文字をひたすら羅列するパソコンのように言葉を早口に吐き出していくその様は、明らかに常軌を逸したものだ。序盤「幽霊EXPO」で幽霊(=ユージーン・カイムのトラック)とひと晩じゅう戯れ、他でもトラックの緩急が彼女の言葉を補強しながら進み、最後「LADY OF THE DEAD」で、ついにゾンビに片腕をがぶりとやられて死んでしまう。そんな顛末なのだが、彼岸に片足を突っ込みながらこちらに何か言っていたのだから最終的にそうなるのも、やむをえないといえばやむをえない。
萌は、生きながらにして彼岸を語る存在として、不気味な魅力を放つ。その声もそうだが、語り部としての存在感は、ポスト岸田今日子を思わせる。死生観漂う2012年、霊界を知っている雪女、いや、砂の女的な不気味さこそ、待ち望まれていたものではないかと思う。(小川ワタル)
21世紀になって10年以上過ぎた現在。世界にまだ発見されていない辺境がこの地球にあると信じられる人は今どれくらいいるのだろう。世界旅行に行った事があるわけでもないのに、もう全ては見尽くされているとネガティヴな気分になり、自分の殻に閉じこもりがちな人も少なからずいるはずだ。そんな人にこそNRQの『のーまんずらんど』をお薦めしたい。
NRQという名は「新興住宅地」という意味を持つ「ニュー・レシデンシャル・クォーターズ」の略である。メンバーが多摩や八王子のニュータウンという何もない所で生まれ育ち、胸を張ってルーツと言える場所が無い自分達への皮肉と、ルーツに対する憧れを込めたユニット名だという。NRQは元々は牧野琢磨(ギター)と吉田悠樹(二胡、マンドリン)のデュオであり、吉田と器楽ユニットを組んでいた服部将典(コントラバス)と中尾勘二(ドラムス、アルト・サックス、トロンボーン、クラリネット)が後から加わり、現在は合計12弦とドラムスのインスト・バンドとして活動している。
NRQのメンバーは皆、曲は譜面にせず口伝で共有している。だから即興と曲との境界がはっきりしていない。メンバーの発起人でもある牧野によれば、何の強要もしないで、他人に完全に任せるという姿勢がバンドの重要なコンセプトとしてあるのだそうだ。『のーまんずらんど』はそんな彼らの2枚目のアルバムとなる。ハリー・スミスが編纂したボックス・セット『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』にインスピレーションを得てNRQをつくったと語る、牧野のギターからはアメリカのルーツ・ミュージックからの影響が感じられるし、吉田の奏でる中国の伝統的な楽器である二胡の調べに、悠久な気分をかきたてられる。そこにさらに服部や中尾の出すサウンドが加わり、ジャズにもワールド・ミュージックにもブルースにも聞こえなくはない。ただ、彼らが作り出す曲の魅力は、どのジャンルにも回収されないユニークな音があるところである。
ジャンルの中で正統性を求め、洗練された美しさを目指すのも音楽家の立派な一つの道である。ただ、NRQのメンバーはジャンルからこぼれ落ちる音にとりわけ愛情を注いでいるように思われる。それはまるで、どこにもルーツを持たない自分達自身を軽やかに肯定しているかのようだ。12年の11月21日にはNRQのリミックス盤『The Indestructible Beat of NRQ』もアナログ12インチ限定でリリースされた。同作には、『のーまんずらんど』収録曲のリミックスが収録されている。 NRQはこれからも、私達を見知らぬ〝のーまんずらんど〟へと誘い、刺激を与えてくれそうである。(小柳元)
思い返せば2010年のミニ・アルバム『浮かれている人』に収録されている「バランス」のPVで舞った多量の紙吹雪は、オウガ・ユー・アスホールにとって、ある一幕がおりていく様だったのではという気がする。その幕間にベーシストが脱退するという出来事があり、その後制作されたアルバム『homely』が2011年に発表され、新たな幕が上がった。それは今までのキャッチーさを取り払ったかのような、しかし音の多彩さとそれらが重なることでの重厚感があふれる作品だった。
さて、今回の『100年後』である。通算5枚目のアルバムであり、プロデューサーは石原洋、エンジニアは中村宗一郎と2008年から変わらぬ布陣。印象としてもコンセプト・アルバムであるという意味でも前作の流れをくんでいる。しかし、より曲のポップさが増している。メジャー・デビューの翌年2010年に地元の長野に自分達のスタジオを作り、制作活動の拠点を移してから、彼らの今いる場所ではどんな音楽の景色が見えているのだろうか。
タイトルの『100年後』とは、これから迎える〝未来〟なのか過去から到達した〝今〟なのか、近いのか遠いのか、視点によっては全然違う景色が見える。そのどちらにもとれる世界観が〝現在〟の彼らなのであろう。例えばプラスとマイナス、メジャーとマイナー、ベクトルが別方向に向いているものを同じ場所で成立させている。1曲目の「これから」ではメジャーとマイナーのリフが繰り返され、3曲目の「素敵な予感」ではポジティヴなタイトルにして少し不穏な空気を纏った曲調であり、4曲目の「100年後」ではマイナーなベース・ラインの上に牧歌的なギター・リフが乗っていたり、最後の「泡になって」も〝ここにはなにもない〟とドキリとした歌詞なのにどこか軽やかなメロディであったりと、2つの要素に振れる振り子の振れ幅の間に現在の彼らは立っているようだ。
結成当初は時に鋭利な刃さえも連想させるヴォーカルの出戸の声と、馬渕の美しいギター・リフが特徴的だったが、だんだんと水が滲んだような境界線が曖昧な印象に変化を遂げている。しかし、その音で作られた世界観にはぶれがない。そんな滲んだ世界の中から浮かんでくるポップなメロディや浮遊感に、彼らの音楽性の核がある気がしてならない。そして、それに希望や高揚感を感じるのである。
12年11月に新しくベーシストが加入したオウガは、また新たな幕が上がったのだろうか。今、彼らが組み込まれている〝ロック〟史は未だ100年経っていない。例えば100年後、その歴史で抜きん出た存在になっていることだってありえるのだ。それも1つの希望である。(岡崎千紘)
一人はアイヌの血を引き、その伝統楽器〝トンコリ〟の奏者であるOKI。もう一人は55年のキャリアを誇る沖縄民謡界の女王・大城美佐子。その二人が出会って作成したアルバムに『北と南』とは、なんと単刀直入なタイトルだろうか。もともとはOKIの2006年発表のアルバム『OKI DUB AINU BAND』に収録されている曲名だが、これ以上ふさわしいアルバム・タイトルはないだろう。本作の10曲中、アルバム・タイトルにもなっている3曲目「北と南」とそのダブ・アレンジの10曲目「南と北」はOKIのオリジナルだが、それ以外は沖縄民謡か沖縄歌謡曲である。沖縄民謡といえば独特の音階と三線、島太鼓、そして何より唄者(うたしゃ)の声との完成された関係性があり、それは強固な結びつきだ。そこにOKIのアイデンティティとも呼べるトンコリが入る余地はあるのか。
しかし1曲目の「固み節」からその懸念は払拭される。乾いた明るさがあるこの曲に、トンコリの素朴な音色が見事に寄り添っているのだ。大城の声と三線の旋律に沿うように、あるいは歌に応えるかのように幻想的な響きが合わさる。2曲目「恋語れ」ではベース音やシンセサイザーがふと顔を出し、大城の声にディレイのようなコーラス・ワークを施すなど、音数は決して多いわけではないのに不思議な音の広がりがある。また5曲目「ヨー加那よー」ではサウン・ガウ(竪琴)が使われており三線のバックにゆらめきのある音色を響かせており、いずれの楽曲も馴染みのある三線や沖縄民謡に新しい印象を与えてくる。それらはOKIのアレンジメントの技術もさることながら、それ以上に沖縄の音楽や、それを継承してきた第一人者で才能ある唄者大城美佐子への敬意を感じずにはいられない。お互いをぶつけ合ったり、大切に守られてきたものを壊したりするのではなく、寄り添う。その結果、沖縄民謡のアイデンティティを保ちつつも、ジャンルという枠をふわりと越えた楽曲に仕上がっているのだ。
珠玉の輝きを放つ民謡の中にあっても、やはりこのアルバムの象徴は「北と南」である。OKIがヴォーカルをとるこの曲は美しいメロディで、ギターのリフで合間に挟まれる沖縄音階や歌詞は、沖縄でのレコーディング作業や大城をアイヌの地で思い出しているようだ。また最終トラックの「南と北」の最後は波の音と三線の音色で終わる。静かに響く波の音は、北の大地に吹く風雪の音にも聞こえる。振り返るといずれの楽曲も、涼やかで広大な大地で沖縄の太陽を思い出したような、そんな印象も残す。〝北〟と〝南〟のルーツを思い合い、距離を超えて音と形になったのが、このアルバムだ。(岡崎千紘)
9人の大所帯を抱えるまるで楽団のようなバンド=oono yuukiは大野悠紀のアーティスト名であり、同時に大野を中心とするバンド名。参加メンバーはザ・なつやすみバンドや片思いでも活躍するMC.sirafuや、シンガー・ソングライターでアニス&ラカンカの片割れでもあるmmmなど各々自身のフィールドを確立している曲者たち。という顔ぶれを見ても、面白くないはずがない。9人が織り成すエネルギーとその奥行きの広さに圧倒するばかりだ。
そんなoono yuukiのこの2作目は前作『stars in video game』の技巧的で煌びやかな魅せ方とは打って変わって、ぐっと〝こちら側〟に近づいて来た印象を受ける。
インストゥルメンタルを軸にした本作は大人の子供心をくすぐるような「lotus」から駆け足で始まる。足がもつれそうになりながらも前進しようとする勢いとスピード感、そして何層にも重なった音色が不思議と懐かしい気持ちにさせ、また何度も転調された構成は聴いているだけでわくわく。まるで小学生の頃の夕方の帰り道を思い出させる。走っては歩いて、立ち止まっては遊びだし、その日その日に見つける謎の近道を見つけ通って、心地よい疲労感と共に帰路につく。そんな懐かしい風景に記憶が巻きもどってしまうのが本作だ。
大野の歌が入った楽曲もまるで童謡を思わせるようなシンプルで穏やかなものが多く、思わず鼻歌を歌いたくなってしまうほどすんなりと身体に入ってくる。歌詞は〝意気地なしの君と僕のために/何か作ろうとしてみたけれど/終わらない今日と昨日のせいで/うまくいくかわからない〟(「夜の光」)のように物憂い世界のものが多いが、インストゥルメンタルのものも大野の歌が入っている楽曲も一見温度差はあるもののメロディックで暖かだ。
本作を聴くと、前作は『TEMPESTAS』の為の作品であったとまで言っても過言ではないように思われる。前作ではoono yuukiというバンドと各メンバーの紹介的役割を果たし、そして本作では、音楽へ向かう彼らの〝楽しさ〟という至極素朴な感情の表現が大きなテーマになっているように思われる。演奏している彼らが楽しんでいるからこそ、〝こちら側〟、すなわちリスナーである私たちも思わず子供の頃の記憶に思いを馳せ、心踊ってしまうのではないだろうか。
アルバム・タイトルとなっている『TEMPESTAS』とはラテン語で〝嵐〟を意味。なるほど、このバンドのドラマティックな成長過程は嵐のごとく、という印象も受ける。1作目と2作目で全く別の姿を見せながら成長してきた彼らの変化からはこれからも目が離せない。(藤枝麻子)
街をぶらぶら歩く。たまたま寄ったレコード屋で気になったレコードを何枚か買う。それはジャズだったり、昔のポップスだったり、ロックであったりする。それを家に帰ってループさせる。その上でそのまま、今日あったことを次々にラップしていく。QNの3rdアルバム『New Country』はそんな日常の風景を鮮やかに描く音楽だ。
相模原を拠点として活動するラッパー/トラックメイカー、QNは2010年のデビュー後、わずか3年のうちに3枚のアルバム・リリースの他、Earth No Mad名義での活動、(現在は脱退してしまったが)所属していたSIMI LABでのアルバム発表など精力的なリリースを続けてきた。今作は現状、その幾多の活動の最新にあるものだ。
QNはリラックスしきっている。ギャングスタ的に振る舞うようなぎこちなさはなく、かといってピースフルなムードがあるわけでもない。ただ彼は21歳の自分の目の前にある出来事や感情を率直にラップする。友人とだらだらと過ごす日々を〝どこ行く? マック行く? 〟と、社会へ向けるいら立ちを〝笑うに笑えないに決まってるだろFuck you〟と切り取ってみせる。素晴らしいのは、そのリリックを引き受けるトラックにもハンドメイド的なゆるさがあることだ。今作では、ベースやビートはウッド・ベースやドラム・セットの生っぽい音のサンプリングを中心に構成され、その上でアメリカの50年代60年代辺りのポピュラー・ミュージックのような、軽快なピアノやギターのフレーズが印象的に用いられる。こうしたアコースティックな材料をパッチワークのように組み合わせ、QNはメロディアスでグルーヴィーなトラックを作り出す。標準的なヒップホップのトラックと比べると隙間が多く音圧は低いが、それと引き替えに獲得した開放感と聴きやすさを存分に生かし「Cheez Dogs」「Better」「船出〜New Country〜」など、メロディアスなフックを持つ良曲を完成させている。
『New Country』は、自分の身の回りにあるものを寄せ集めて、自分の身の回りの風景を率直に提示してみせる。ポップスが長い間請け負ってきた日常の風景を、ヒップホップを用いて今また新鮮に、瑞々しくラップするQNの姿は感動的ですらある。今、日本のヒップホップが到達している地点を示す上でも、幅広いリスナーに聴かれるべき作品。(小林翔)
もう、どこもかしこもフランク・オーシャンだらけ。海外主要メディアによる2012年の年間ベスト・アルバムは、彼のデビュー作『チャンネル・オレンジ』が軒並み席巻している状況だ。
サンプリングを巡ってイーグルスと揉めたミックステープ『Nostalgia, Ultra』に始まり、いくつもの客演や自身が所属するヒップホップ・クルー=OFWGKTA(以下オッド・フューチャー)での活躍など、リリース前から関心を引き付ける話題には事欠かなかったが、やはり決定打は彼が同性愛者であるとカミングアウトしたことだろうか。実際に作品中でもそれをうかがわせる描写が用意されていて、性差別的な発言も少なくないヒップホップの世界において、それがどれほどショッキングな出来事なのかは想像に難くない。
一方で、この作品がサウンド面でもR&Bの未来を指し示すものであったことはしっかりと触れておきたい。同作のゆらゆらと揺れるような音像は、「クラウド・ラップ」や「トリルウェイヴ」とも呼ばれながら徐々に台頭してきたアンビエントなトラック・メイキングが、いよいよR&Bの世界も飲み込みつつあることを示唆するものだった。
さて、ここで重要なのが、そうした時代の流れを実感させる強度を持った作品が、実はその『チャンネル・オレンジ』に先駆けて世に出ていたことだ。それがシド・ザ・キッドとマット・マーシャンズによるデュオ=ジ・インターネットのアルバム『Purple Naked Ladies』である。このふたりもまた、フランクと同じくオッド・フューチャーのメンバー。2012年はこのクルーから輩出される才能に何度も驚かされる年でもあった。
作品の基調となっているのは、『チャンネル・オレンジ』とも連なる、揺らめくような音像だが、『Purple Naked Ladies』におけるそれは、よりラウンジ・ミュージック的であり、どこまでも軽やか。音数を絞ったシンプルなビートと柔らかいシンセサイザーの音色は、鼓膜に優しく音圧を感じさせながら、そのムードに酔わせていく。
こうした音づくりのうまさもさることながら、なによりも素晴らしいのがシドのヴォーカルだ。オッド・フューチャーの紅一点である彼女もまた、レズビアンであることを公言しているが、その決して張ることのない穏やかな声は、フェミニンさとはまた違った響きをもっていて、とにかく抜群の色気があるのだ。間違いなく、いま最も評価されるべき歌い手のひとりだと思う。
ちなみに彼らは少し前に新曲〝Give It Time″を公開したばかりなのだが、これがまたしても素晴らしい。2013年も引き続き彼らの動向を追い続けることになりそうだ。(渡辺裕也)
まずはじめにこの作品はアルバムではなくシングルであることを読者にお断りしたい。だが、それだけ重要性がある作品だということをご理解頂きたい。2012年6月末、iTunes Music Storeで〝個人名義〟で総合ランキング一位になるという前人未到の快挙を成し遂げたtofubeatsの「水星」は、2012年最も印象深い出来事だった。
tofubeatsは神戸市在住の1990年生まれのトラック・メイカーだ。活動拠点を主にインターネットで行うという〝ネットレーベル〟のパイオニア的存在であるマルチネ・レコーズに所属している。また彼は、YUKIや東京女子流などのメジャー・アーティストの楽曲のリミックスも担当している。
まず、この作品を語る前に歌詞をちょっと読んでほしい。〝i-pod i-phoneから流れ出た/データの束いつもかかえてれば/ほんの少しは最先端/街のざわめきさえもとりこんだ/昼過ぎ新宿でも行こうか/ハウスの新譜チェック体ゆらしな〟と、まるで松本隆から脈々と引き継がれる都市風景を切り取った歌詞である。この曲はメロウな日本語ラップの王道を行く楽曲で、21世紀の「今夜はブギーバック」だと僕は思っている。「今夜はブギーバック」も元ネタがある楽曲だが、こちらもお笑い芸人の今田耕司の歌手名義KOJI1200から〝ブロウヤマインド〟がサンプリングされている。だが、「今夜はブギーバック」とは異なる部分も多い。この曲はカラオケ・ボックスで二時間で作られている。おまけにtofubeatsはブック・オフで中古CD(しかも100円とかの)を漁るのが趣味だそうで、二束三文で購入したサンプリング・ネタが使われている可能性がある。「今夜はブギーバック」が小沢健二とスチャバラパーという当時のカリスマ的ビッグ・ネームが楽曲を制作したというのに比べてしまうとあまりにチープな作りをしている。しかし、このインスタントな楽曲はその作りとは裏腹に商業的に成功し、影響力の大きさはYouTubeやサウンド・クラウドで検索すると、ミーム(遺伝子)が拡散され再生産されて行く様を観測出来るはずだ。まるで現実のフロアではなく、インターネットというフロアでこの曲が何度も再生再構成されているかのようだ。発表当時はインターネットが普及していなかっためであるが、これも「今夜はブギーバック」とは異なる点である。実際にOK?NO!!というSasakinoRecordsというネットレーベル所属のグループがカヴァーした曲がライムスターの宇多丸の耳に入りラジオで放送されたこともあることからもシーンの盛り上がりを確認することが出来、この曲を巡るミームはたしかに今後も引き継がれていくように感じてしまう。これは小沢健二の「今夜はブギーバック」が多くのアーティストにカバーされていくのを見ていった光景とダブらせて見えてしまうのだ。(こさかりょうじ)
法被を着たレッド・ツェッペリンこと、唯一無二のロック・バンドZAZEN BOYSの実に4年ぶり5枚目となるアルバムである。この4年間ライヴはもちろん、LEO今井とのユニット・KIMONOSとしての活動や、フロントマンである向井秀徳自身のソロ活動なども行われており、意欲的な充電期間であったように思う。作品枚数を振ったアルバム・タイトルや、ローマ字表記の曲名といった彼お決まりのパターンを捨て去った異例の1枚だ。
定番のフレーズ〝繰り返される諸行無常〟で、高らかに〝復活〟を宣言した「サイボーグのオバケ」から始まり、「すとーりーず」では、鋭角でキレッキレのギター・リフを披露。いつもの彼らであることに変わりはないが、前作よりバンドらしさを前面に引き出したサウンド作りがうかがえる。『ZAZEN BOYS III』から彼らが挑戦してきたシンセ・サウンドとバンドの融合。それがここにきてついに実現したのだ。骨太になったグルーヴは、タイトさを増したドラムや、より鍛錬されたベース・サウンドが進化を遂げた証拠である。しかし今回のアルバムにおいて、最も歩み寄ったのはシンセサイザーなどの電子音である。打・弦楽器の生音との違いを違和感とさせずに、ビートにぴったりと寄り添っているのだ。生音と電子音をバランスよく見事に共存させた「天狗」はZAZEN BOYS至上最も完成されたひとつの形である。〝ロック上級編〟と謳われることの多い彼らが、今回新たにバンド・サウンドとしてのZAZEN BOYSを全面に押しつくすことで、これまでで一番聴きやすく、分かりやすい物語を紡いでいる。
ところでこの『すとーりーず』というタイトルやジャケットだが、初めて公表された際には〝噺家〟のことではないかと感じていた。2009年9月に立川志らくと「マツリセッション独演会」を行ったこともあり、ZAZEN BOYSと落語の関係は密接に思えるからだ。しかし、『すとーりーず』とは、〝すとーりー性の解禁〟であった。ほぼ単語の羅列であったり、1節ごとに分断されたりと、セリフのように歌われていることもあったリリック。今作はこれまでとは違い、はっきりとした文脈と、流れをもったメロディアスさも披露されているのである。
日本語ロックの噺家・向井の力強い〝すとーりー性〟が今まで以上に伝わってくる今作から、彼らの新たな物語がまた始まろうとしている。このサウンドたちがどう鍛え上げられ、こねくり回され、新しいセッションへと変化していくのか。作り上げられたサウンドをぶち壊しては再構築を続ける、芸術性の高いライヴを早く堪能したくなる作品だ。(梶原綾乃)
シンガー・ソング・ライターmmm(ミーマイモー)と埋火の見汐麻衣によるフェイク・シスター・ユニット、アニス&ラカンカ。本作は千葉広樹や坂口光央らからなるザ・チル・ハーツをバック・バンドとして迎えたデビュー・アルバムである。
既に大人である2人が、ニュージャージー州からやってきたティーンネイジャーを演じるという無茶な設定にもかかわらず、違和感を抱かせない不思議なユニットだ。なぜなら、アニスとラカンカ両者それぞれが鳴らしてきた音楽(mmm、埋火)の声質、歌い方をそのままストレートに活かせているからだ。か細い高音や消え入るような発音方法など、もともと持っていた歌唱能力が2人を見事〝ネイティヴなアメリカ人〟に変身させているのである。アニスの低音、ラカンカの高音。それぞれがカントリーチックなサウンドに乗ると、吹き抜ける風と草原の匂いをくぐり抜けたような、ニュージャージー直送のフォーク・ミュージックが姿を現すのだ。2人で潜在能力を引き出して考え出されたその温かなハンドメイド・サウンドに、思わず頬が緩んでしまう。
自身の環境とは違った、フェイク・シスター・ユニットとしての活動。その理由は、音楽との出会いや憧れといった〝原点回帰〟にあるのではないだろうか。mmmと見汐麻衣はティーンネイジャーに戻れるならきっと、こんな音楽をやりたかったのだろう。姉妹でお金を出し合って買ったレコード(という設定)のミュージシャン名が数々と歌われていく「 you're cool」は、まさに音楽とのコミュニケーションを象徴した、原点回帰の証拠なのではないだろうか。人生を変えた音楽ひとつひとつとの純粋で衝撃的な出会いを、出会った時のそのままの気持ちで表現することでアニス&ラカンカ自身の音楽もまた音楽史、とりわけロック史においてのルーツ・ミュージックの1つとして溶け込むことに成功している。アニス&ラカンカとは、時を越え〝既存盤〟のような熱量の作品を現代にもたらす、いわば〝タイム・トラベル・ユニット〟なのだ。
音楽への喜びに純粋に向き合っている2人だからこそできたこのハーモニー、そしてそれを彩るお茶目で愉快なストーリー設定。いくつになっても忘れたくない驚きと感動をアニス&ラカンカは教えてくれる。時の流れには逆らえないけれど、音楽ならばそれは可能だ。複雑なティーンの心情に戻ったつもりで、かつて鳴らしたかった音を存分に鳴らしつくしていってほしい。(梶原綾乃)
ニューヨーク・ブルックリンの新しい礎となって久しいアニマル・コレクティヴの約3年振りの新作『センティピード・ヘルツ』で、彼らは〝アニマル・コレクティヴ〟の新規性を打ち出している。それはサウンド面の新機軸ではない。態度としての新規性である。彼らは『フィールズ』(05)以降、リヴァーブを多用することで、歌そのものの意味を喪失させ、祝祭的なサイケデリアを奏でてきた。それは『メリウェザー・ポスト・パヴィリオン』(09)で一つの形として結実したといえよう。昨今リヴァーブやドローンを媒介にした微睡むようなサイケデリアが隆盛を極めつつあるインディ・シーン。その潮流を生み出したのはまぎれもなく彼らであった。だが、今作で彼らはそのドリーミーな残響の波が広がるシーンから、明確に切断線をひいている。その切断が意図するものは、音楽と聴き手の間に新しい差異を生み出すことであるとであると同時に、新しい歌の書き方の模索であると私は感じる。
今作では、前作に収録されている「Summertime Clothes」のようなドリーミーで開放感溢れるサイケデリック・ポップ、すなわち、彼らの象徴ともいえるリヴァーブを使った痕跡はほぼ見当たらない。ライヴ感を全面に押し出したサウンド・プロダクションで、パワフルなドラムが刻むビートが鮮明に浮かび上がり、その上を、ノイジーなギターと電子音が自由奔放に戯れる。前作と比べ、格段に音数と音の動きが増え、情報過多になったその音像に、しばし呆然としてしまうかもしれない。しかし、その圧倒的な情報量を少しずつ取り除いていくと、骨格のしっかりしたチャーミングで生々しい歌だけが残る。この歌にじっと耳を傾けると、今作は、自らの手で消去した歌を取り戻し、新しい衣を纏って再生させるための試みであるように思えてくる。そう考えつつ、前作を改めて聴くと、その祝祭的なフォルムの背後から浮かび上がってくるのは、シンプルなメロディを伴う歌。そう、彼らは決して自らの音楽性とは断絶していない。彼らにとって必要だったのは、自らがひとり遊びによって作り出したリヴァーブがかかり続けるシーンを笑い飛ばすこと=自己諧謔性であったのだ。
そういえば、12年にリリースされたダーティー・プロジェクターズの新作も歌に焦点を当てた快作であったが、もしかしたら、ブルックリンは今後、〝歌〟に流れるのだろうか。と想像すると2012年はブルックリンにとって転換点になる年になるかもしれない。いずれにせよ、この『センティピード・ヘルツ』が我々にとって、耳の変容を促してくれる音楽であることには変わりはないのである。(坂本哲哉)
本作はビーチ・ボーイズの結成メンバーの一人、アル・ジャーディンの初ソロ・スタジオ・アルバムだ。2010年にダウンロードのみで発表され、この2012年に2トラックが追加されCDの形でリリースされた。約半分が彼のオリジナル曲である。
1曲目が始まって間も無く気付かされるのは、ビーチ・ボーイズ初期の頃からの彼の歌の特徴や魅力がしっかりと生きている事。今年の秋に70歳を迎えたとは思えない程だ。
本作についてはカバー曲やゲスト・ミュージシャンが注目されがちだが、興味深いオリジナル曲を2曲紹介したい。
まず9曲目の「San Simeon」。ブライアン・ウィルソンが書いたビーチ・ボーイズ初期の名曲「Don't Worry Baby」を彷彿とさせる曲で、実際に、あの曲を反映させるつもりで書いた、と本人が海外サイトのインタビューで語っている。両者とも基本的なコード進行はごくありふれたもので(本作の方ではあの特徴的な転調さえ無い)、バッキング・ヴォーカルの使い方とビートの組み合わせ自体が強いアイデンティティを持っている事に改めて気付かされる。歌は全く異なる落ち着いたテイストで、カバー曲でもあり新曲でもあるかのように楽しめる。
もう1曲はライヴ録音を下地に制作された追加トラックの一つである、14曲目の「Waves Of Love」。アルの持ち味である、所々でハスキーになる元気な歌がこの曲では特に生かされている。現代のアメリカのポップスやカントリー系の要素が強いメロディーのせいか、本作の中でずば抜けて若々しいトラックでもある。また、ビーチ・ボーイズ由来のハーモニーやリズムがたっぷり聴けるパートもあり、カール・ウィルソンの歌声も使われている、という聴き所たっぷりなトラックだ。
他の曲やゲストについてはリスナー自身であれこれと想像を巡らしたり調べたりして頂ければ、と思う。いろいろと発見できて楽しいはずだ。一つだけ取りあげるとすれば、ニール・ヤングとのコラボだろうか。素晴らしい出来だと思う。
ビーチ・ボーイズといえばブライアンやカールがピックアップされがちだが、アルもとても重要なメンバーなのだ。マイク・ラヴと共に全作品に参加しているし、今では最もしっかり歌えるメンバーだといえる。50周年再結成でも大切な役割を果たした。そんな彼の初作品がめでたくリリースされたことを祝福したい。(田中久仁彦)
ビバップなどのスタイルで演奏される、いわゆるモダンジャズの世界では、主に40~50年代に作られ繰り返し演奏された楽曲を“スタンダード”と呼ぶ。そして、そのスタンダードをより良くアレンジ/演奏することを、オリジナルを作ること以上に尊ぶ文化がある。
そうした中にあって、「Human Nature」は特殊な位置にあるスタンダードだ。ポップスターであるマイケル・ジャクソンの80年代のヒット曲だが、ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィスが同じ黒人であるマイケルへの敬意を込めてカバーしたことで、一足飛びにスタンダードへの仲間入りを果たした。こうした経緯から、ジャズメンが「Human Nature」を取り上げる場合、ポップスとジャズ双方の良さを尊重し、そのバランスをどのようにとるかを強く意識しながら演奏することが求められる。
その「Humna Nature」に、ジャズピアニストのVijay Iyer率いるトリオが挑んでいるのが本作だ。Vijay Iyerは1971年ニューヨーク生まれ。インド系移民を両親に持つ。米国のジャズ誌ダウンビートにおいて2012年の「ジャズ・アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞するなど現在のアメリカを代表するジャズピアニストである。
Vijay Iyerの本作での演奏は、90年代以降のモダンジャズの発展の流れを踏まえたものだ。60年代にフリージャズが登場して以降、長きに渡りモダンジャズは芸術としての推進力を失ったままだった。“不断に進化する前衛芸術”というジャズのコンセプトと、過去のフォーマットに則ってスタンダードを演奏するというモダンジャズの方法論が相容れないためだ。こうした閉塞を打ち破るため、90年代以降のモダンジャズのアーティストが試みてきたのが、“ジャズのリズムを残したまま、メロディーにポップスの要素を取り入れる”というものだ。フュージョンやAORのようにポップスにジャズを取り込むのではなく、ジャズの中にポップスを取り込むことで、新たな推進力とすることを目指してきた。
Vijay Iyerの演奏は、そうした試みの完成形だ。一つの楽曲の中で、ジャズがジャズのまま存在しながら、同時にポップスとしても響く。このことは、「Human Nature」を演奏する上で必要な要件をも完璧に満たしている。モダンジャズの発展と、「Human Nature」を演奏する意味を重ね合わせたVijay Iyerの慧眼は本当に素晴らしい。本作は、モダンジャズを一つ上の次元に押し上げた傑作だ。(吉田洋平)
前作『Does It Look Like I'm Here?』の青写真がアシュ・ラ・テンペル『Invention For Electric Guitar』だとしたら、約二年振りの新作『Just to Feel Anything』のそれはノイ!『Neu! 75』とカール・クレイグである。つまり、今作はクラウト・ロックとデトロイト・テクノの美しき邂逅である。オハイオ州クリーヴランド出身の三人組は、前作に垣間見られたドローン/ノイズからのテクノ的発想に、クラウス・ディンガーの疾走性を織り込むことによって、クラウト・ロックをデトロイト・テクノに接近させている。そのスピード感は快楽のスパイラルを描きながら上昇し、ポップ・ミュージックの地平へ再び辿りつく。そう、彼らは若い耳でクラウト・ロックを再びリモデルし、それをさらにアップデートしようとしている。
この疾走感への誘惑はおそらく、この二年間のエメラルズの各メンバーのソロ活動に眼差しをむけてみれば明らかになるはずだ。マーク・マッガイアはInner Tubeでラ・デュッセルドルフを再構築、ジョン・エリオットはMistで、スティーヴ・ハウシルトは自分名義で、タンジェンリン・ドリームの幽玄性を高速化させた。それは、ドラムのないダンス・ミュージックのうねりをそこで表現しようとしたからであろう。だとすると、それを発展させるならば、今作でのドラム・マシンの導入は安直であると思われるかもしれない。だが私は、彼らは極めて自然にその導入を選んだように思う。それはアルバム・タイトル曲「Just to Feel Anything」を聴けばはっきりとわかる。そこにはっきりとノイ!のミニマル・ビートの反復を感じるから、だけではない。デトロイト・テクノのエモーショナルな音の響きを聴きとれるからだ。単調に繰り返すリズムの上を、瞑想的なアナログ・シンセの音色とマッガイアの激情的かつ物憂げなギターが構築する重層的なドローンが疾走する。そして聴きながら思わず重ねてしまうのは、カール・クレイグの名曲「At Les」の持つ儚くメランコリーな美しさである。だからこそ、彼らはTR-808を使用するのに躊躇しなかったのだろう。彼らのさらなる感情の創出と音色・音響の発展にはアナログ・ドラム・マシンが必要だったのである。
クラウス・ディンガーが8ビートの反復性にみた夢は、デトロイト・テクノのマシン・ソウルを経由して、エメラルズという桃源郷へ足を踏み入れた。今作『Just to Feel Anything』をそう想像することは邪推だろうか。いや、私にはとても刺激的に思えてならない。エメラルズはドローンを基軸としつつもアンビエントとはまた違ったテクスチャーに向かって舵を切ったのだ。(坂本哲哉)
3年ぶりにリリースされた15枚目のオリジナル・フル・アルバム。エンジニアにGOK SOUNDの近藤祥昭を迎えての全曲アナログ・レコーディング。オープン・リールにかけられた魔法は、解けることなく後世まで語り継がれるだろう名盤へと化している。
1曲目「Spike & Me」から大胆なアプローチが炸裂。ジャズさながらにドラムとサックスの絡みで幕が開くと謎のラップが始まる。ムードを保ったまま唱えるその主は大谷能生。サプライズともとれる客演だが、直枝政広の本作でも衰えることのない艶やかなボーカルが入り、曲の全体像が見えてきた時には不思議と違和感は無くなる。カーネーションというバンドのリリックの語感が、元来ヒップ・ホップに通じていることへの発見やその裏付けとしてのスキルが露になった瞬間だ。意外性のあるベース・ラインも聴き逃せない。そして圧巻の音の太さ。大田譲も健在である。本作ではそのほかソウル・フラワー・ユニオンの奥野真哉や、山本精一といった豪華な顔触れが多数参加している。岡村みどりが編曲を手掛けた6曲目「Bye Bye」。それを再度岸野雄一がミックスし、収録曲の最後に持ってくるなど随所にこだわりをみせている。
これまでの作風との違いでいえば、カーネーションのお家芸とも呼べる予測不能な転調を用いたコードワークは影を潜め、シンプルに良い曲を最大限に聴かせることを選んだという印象を受ける。また、歌詞の内容について言及すると、どうしても深読みしてしまうのが震災以降の環境の変化についての影響だ。11年にリリースされたミニ・アルバム『UTOPIA』は、「Electric Company」や「女川」といった曲名もさることながら、まさにそれがテーマにあったと思う。しかし、今作の予告編かと思われたその楽曲群からは1曲のみ、「UTOPIA」だけが収録されているのをみると、震災への特別な意識はそれほど今作には反映させていないようにも思える。但し、何気ない日常の切り取り方がイマジネーション溢れるがゆえに聴く者の想像をかき立てることだってあるだろう。
本作は、彼らの卓越したセンスと熟練の成果が織りなす技で以て、様々な要素が渾然たるものへと昇華されている。そしてそれは聴く者を選ばず、また飽きさせないという本当の意味での普遍的なポップスとして機能している。聴けば聴くほど切なさや喜びといった多くの感情が湧き出てくるその深い味わいに酔いしれるとともに、世代を問わずもっと多くの人に聴いてもらいたいと切に願う。(肥後幸久)
カメラ=万年筆は、2010年に当時現役の音大生であった佐藤優介と佐藤望の二人で結成されている。これまで、坂本龍一トリビュート作品への参加や、自主制作盤を2枚リリースする等コンスタントに活動はしていたが、2012年、満を持して発表された『クーデター』が記念すべきファースト・アルバムとなる。楽曲を形成するその編成は多彩で、バンドやユニットというよりは、二人が主宰するポピュラー・オーケストラと呼ぶ方がしっくりくる。こうやって簡単なプロフィールを並べているが、正直謎は多い。本作の中身はさらにミステリアス。むしろ予備知識が邪魔になってくるかもしれない。
貴重な音楽との出会いは唐突だった。ディスク再生直後からいきなりグッと胸倉を掴まれたかのように惹きつけられてしまった。鼓膜が音を感知した瞬間に抱く快感は、あまりに刺激的でエレガントな体験。無軌道でありながらも、全てが計算され尽くしたかのように精緻でドラマティック。曲中に張り巡らされている伏線や時折見せるギミック、思い浮かんだ風景を思いついた言葉でそのまま書き起こしているかのような歌詞、途方も無いそれらの要素を上手く融合させ、ポップ・ミュージックとして機能させている手腕には畏怖すら覚える。曲によって野宮真紀や鈴木慶一をヴォーカルに迎えるという豪華演出も、あたかも初めからずっと傍に居たかのように自然な流れで登場してくるので違和感が無い。この巧妙なテクニックはマスタリングの概念を超えている。マジカルな様式美を前に、コクトー・ツインズやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインにも匹敵するものではないかと自問する。勿論、ムーンライダーズやピチカート・ファイブの影響は否めないはずだし、二人の青年を小山田圭吾と小沢健二に重ねる向きだっているだろう。クレプスキュールからの新たな刺客ということであっても納得してしまうし、〝クロスオーバーの垣根をさらに超えた新世代音楽〟といった触れ込みでフロアに新たなコーナーを設置するレコード屋だってありそうだ。
様々なアーティストを連想しながらも、固有名詞を並べるだけでは決して語ることの出来ない豊潤な教養を、特異な才能としてまざまざと見せつけられた気分だ。9曲27分という収録時間。終わって「もっと聴きたい」と嘆きつつ、ふとその短さにラモーンズの影すらちらついてしまったわけだから、「もう参りました」と言わざるを得ない。清々しいほどの、してやられた感。こちらが予想する展開をあっさり裏切ってくれる痛快さは、この年随一のものであり、まさに得体が知れないアルバムだ。今後、より一層、未知なる手法で多くの疑問符と感嘆符を与えてもらいたい。(肥後幸久)
2011年にミニアルバム『もしもし原宿』でデビューしたきゃりーぱみゅぱみゅの1stフル・アルバム。
『もしもし原宿』は国外でも話題をかっさらった「PONPONPON」による華々しいデビュー宣言とは裏腹に、その他収録曲はマイナー調の曲が多く、歌詞も普通の女の子としてのきゃりーの姿が色濃く出たアルバムだった。しかし『ぱみゅぱみゅレボリューション』では制作チームの戦略的に「PONPONPON」的な幼児的なテクノ・ポップが並べられ、彼女自身の物語性は退場し、全篇に渡って〝カワイイ〟世界観が全面に押し出されたアルバムとなった。
作詞作曲演奏は行わず、歌って踊る、とアイドルとやっていることは同じでも、彼女のパフォーマンスが有象無象のアイドルに回収されずにいるのは、あくまでも、それが体現するものが〝カワイイ〟であり、〝萌え〟ではないことによるものだろう。例えば東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べたように、萌えは細かい要素に分解されデータベース化されるものであって、原則的には何が萌えなのか説明可能なものである。これに対し、カワイイは、カワイイと思ったからカワイイというような、もっと感覚的なものと言うことができるだろう。
きゃりーぱみゅぱみゅは読者モデルの時代から自身の個性的なファッションを継続的に発信しており、いわゆる原宿系の女子に強い支持を受けている。様々な服を着こなし、新たなカワイイを提示できる彼女にとって、自分がカワイイと思ったものをいちいち説明づける必要はない。こうしたファッション・アイコンとしての彼女を、作詞作曲の中田ヤスタカ、PV監督の田向潤、アート・ディレクションの増田セバスチャンによるプロダクションが明確に生かし、最新型(あるいは近未来型の)カワイイを綿密に構築し、提示している。収録曲ではシングル・カットされた「つけまつける」、「CANDY CANDY」の他、彼女の〝語録〟から中田ヤスタカが拝借した「スキすぎてキレそう」が出色。
きゃりーぱみゅぱみゅというアイコンと、制作チームが一体となり〝カワイイ〟の最新型を提示する『ぱみゅぱみゅレボリューション』は国内に留まらず、アメリカのiTunesエレクトロニック・アルバム・チャート1位を獲得。戦略通り世界的な反響を得るに至った。今作のリリースを境にお菓子の家的世界観は一段落し、3rdシングル「ファッションモンスター」ではよりハードなダンス・チューンを発表。カワイイを拡張し世界へタイムレスに届けるきゃりーぱみゅぱみゅの活動に13年も注目する価値は十二分にある。(小林翔)
くるりは、90年代後半~00年代に日本のポップ・ロック・シーンを牽引する存在として人気を博してきた。1996年に立命館大学の音楽サークルのなかで結成。10枚目となる本作は岸田繁と佐藤征史に加え、正式メンバーとして吉田省念とファンファンが参加し、サポートメンバーとしてあらきゆうこやBOBOらが活躍をみせる。
本作での新メンバーたちの貢献度はとにかく高い。それは、くるり史上最速曲「chili pepper japonês」や、昭和歌謡のムードが漂う「argentina」といった半分おフザケのような楽曲において、特に明白に感じられる。多才な吉田が繰り出すギター、チェロ、バンジョーのおかげで確実に音楽性が広がっている。また、ファンファンによる伸び縮みのあるトランペットの音色が、無理なく馴染んで一曲一曲に輝きを与える。多くの楽曲で聞くことの出来るコーラスのハーモニーも美しく、メンバー間の関係が良好であることを感じさせるほど息が合っているから素晴らしい。
先行シングルとして発売された「everybody feels the same」には、新潟県柏崎市出身で原発推進を促していた〝KAKUEI〟(田中角栄)や、〝SPEEDI〟(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が歌詞に登場するが、それらに対して批判的かと言われたらそんなことはない。また、「crab, reactor, future」も正に〝原発〟がテーマなのだが、はっきりとした結論は見当たらない。一方で、高田漣参加の「soma」や「沈丁花」などの被災者の気持ちに焦点を当てた楽曲がジワジワと胸を打つのは、彼らが今〝原発〟を歌うことよりも、被災地に無惨にも残存する人々の悲しみを一番に伝えたかったからなのではないだろうか。
アルバムの締めを飾るのは、過去の作品である「ばらの花」、「ロックンロール」、「東京」の歌詞の一部の引用が、走馬灯のように、熱っぽいメロディーに乗せられて歌われる「glory days」だ。〝ときおり/思い出せよ/無くなってしまった過去も〟と震災前の世界にノスタルジーを感じつつも、未来に向けて歩み始める岸田の声が本当に力強くて頼もしい。不穏な世界に投げ込まれる音楽のとてつもない可能性を感じさせる。
本作には、震災によって生まれた価値観や意識の決定的な変化が、皮肉にも多大な影響を及ぼしたことは間違いない。これまで作ってきた温かくも切ない古典的な音楽性を大切に携えながら、〝今、ここ〟に生きる人々に向けたメッセージを放つ最高傑作である。彼らは今もなお日本を代表するロックンロール・バンドだ。(中川泉)
この『Allelujah! Don't Bend Ascend!』が発表されてもなお、ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラー(以下GY!BE)が〝政治〟というフィルターを通した視座からみられているのは極めて残念である。カナダ・モントリオール出身のこのバンドには、現在のUSアンダーグラウンド・シーンに脈々と受け継がれる音楽の豊穣さがある。今、エメラルズやワンオートリックス・ポイント・ネヴァーなど、持続音(ドローン)を媒介にして快楽を求める音楽が身近な存在になりつつあるのは彼らが残した爪痕であろう。それは、ノイズやドローンが現在のポップ・ミュージックの一つの意匠となるのを下準備したのは彼らであるということもできる。また、エメラルズに端を発するクラウト・ロック、アンビエント再評価の契機にあるのは彼らであるに違いない。そんなGY!BEが『Yanqui U.X.O.』(2002年)以来10年振りにアルバムをリリースしたのは、突然の事件ではなく必然の出来事のように思える。
そして、今作が単なる再結成作で終わらないのには理由がある。彼らは今作で、自らの音楽が悲しみの音楽であると同時に、希望の音楽であるということをはっきりと示しているからだ。それは、変えないという強さと変えるという強さとの共存である。アルバムには、約20分の壮大な長尺曲が2曲とそれを挟むように約6分の不気味なドローンが2曲収められている。インタールードのような2曲のドローンは、その重厚さと緊張感で我々を圧迫し、陰鬱な空気を作り出す。しかし、以前からライヴで演奏されていたという、「Mladic」と「We Drift Like Worried Fire」には悲しみと忍耐の背後に光明が透けてみえる。実験的なフィードバック・ギターが小さな爆発を繰り返しながら肉体性=大衆性を帯び、ピーク・ポイントへ達した瞬間に感じる昂揚感。それは極めてわかりやすい。だが、それは今まで彼らが持っていたある種特権的ともいえる暗黒の規律を圧し折ったことを意味するのではないか。つまり、その脱臼こそ彼らの希求であり、巷に溢れる実験性を笠に着て、音を垂れ流すだけのノイズ/ドローンに対する反抗であるといえるだろう。
もちろん、今作が今までと同様、我々を混乱させるかもしれないのは、その情報の少なさである。ただ、それ以上に彼らが鳴らす音がGY!BEの立ち位置は今であり、未来であるとはっきりと表現している。過去に戻るように輪を描きながらも、ポップそのものを変えるかもしれないノイズ/ドローンの可能性として再浮上してきた彼ら。今の彼らの未来はおそらく〝∞(無限)〟である。(坂本哲哉)
夏休みはポップスの永遠のテーマの一つだ。学生として過ごす中で特に自由で、期待と不安が混ざった時間。エヴァーグリーンであることをたたえたアメリカン・ポップスにはじまり、このテーマによって生み出された曲は枚挙に暇が無いだろう。そして、まさにそれそのものな名前を持つ東京の4人組バンドがザ・なつやすみバンドだ。
彼らのファースト・アルバム『TNB!』は「なつやすみ(終)」という曲からはじまり、先に書いたようなテーマで貫かれている。その音楽を聴いてまず思い出すのは、初期の荒井由実やシュガー・ベイブなどの70年代の東京のアーティストだ。しかも、彼らがプロになりきる少し前の、20歳前後で学生の感覚残っている時期を思わせる。特に荒井由実の、ジョニ・ミッチェルあたりを基にしたカントリーやジャズをフォークに溶かし込んだメロディやアレンジが最も近い。ザ・なつやすみバンドは、そこにスティールパンなどを入れて編曲の幅を広げることで、基にした音楽を自分たちのものにしている。
また、メンバーであるMC.sirafu がoono yuukiバンドなどに参加していることからもわかる通り、ザ・なつやすみバンドは基本的にインディー・ロックである。8ビートが刻まれる「自転車」や「悲しみは僕をこえて」はクラムボンなどを思わせる。そして、クラムボンにおける矢野顕子、サニーデイ・サービスにおけるはっぴいえんどのように、90年代にも70年代のアーティストを下敷きに音楽性を構築する手法があった。しかし、90年代と2010年代では、当然、その意味が違う。ひとつは海外の音楽を輸入するということ。70年代はもちろん、90年代も基にしている日本の音楽に加えて同時代の海外の音楽を取り込もうという姿勢があったが、ザ・なつやすみバンドにはそれがない。そして、この点が彼らの音楽を成功させている。
音楽のあり方が多様になった現在にあって、J─POPと単純にひと括りにできず、対比的な存在の洋楽の存在感も弱まっている。こうした状況では、誰に向けた音楽を作るか、ということが想定しづらい。ヒップホップであればB─BOYになるだろうが、ロックにはもうそのような感覚はないのだ。そんな中で、ザ・なつやすみバンドは日本のインディー・ロックという限定された範囲で共感できる歌謡曲を作り、夏休みというテーマを説得力のあるものにしているのではないか。彼らの音楽は、そうすることで荒井由実らの音楽性から情緒的で親密な雰囲気を抽出し、娯楽としてのエヴァーグリーンではなく、実際に生きられている思春期的な時間を音楽に写し取れているようだ。本人たちは無意識かもしれないが、レイドバックしているように見えながら、現代の音楽シーンへのこれはひとつの回答になっている。(滝沢時朗)
2011年2月2日、ザ・ホワイト・ストライプスが解散した。彼らは、97年にデトロイトでデビューし、オリジナル・アルバム6作品中3作品がグラミー賞を受賞するといった功績を残した。音楽の基盤は、ジャックのギターとメグのドラムという最小限に抑えた構成であるのにも関わらず、全身から溢れ出る衝動を見事に表現してしまう圧倒的な演奏力と歌唱力を持ち合わせていた。故に〝ガレージ・ロック・リバイバル〟と騒がれたが、60年代のロックンロールの他にも、ロカビリー、ブルース、カントリーや70年前後のハード・ロックなどを愛聴するといったディープなルーツ志向を持つ。また、自前のスタジオ(〝サードマン・スタジオ〟)を所有し、〝ロカビリーの女王〟と評されるワンダ・ジャクソンやカントリー歌手ロレッタ・リンのプロデュースをしたり、ボブ・ディランやザ・ローリング・ストーンズと共演したりするなど、彼の音楽の豊かな志向性は同世代ミュージシャンをみても類をみない。ジャックは、05年にザ・ラカンターズを結成、09年からはザ・デッド・ウェザーでドラマーとしても活躍している。
本作は、そのジャックの初となるソロ作品だ。〝ガレージ・ロック〟を想起させる激しいギター・プレイをみせる楽曲はほとんどなく、ピアノの音色が核となり、アコギが使用され、初めてのソロ作品だというのに余裕が感じられる。さらに繰り返し聞くうちにはまっていく感覚をリスナーに味わわせるのは、ギタリストとしての才能を突出させながらも余念のない総合的な音作りに自然と感服させられてしまうからであろう。
エレクトリック・ピアノの音が響く「Missing Pieces」、美しいピアノの音色が壮大な世界観を表現する「Weep Themselves to Sleep」、R&R調のエレキギターが効いた「I'm Shakin'」、叙情的なアコースティック調のブルース「Hip (Eponymous) Poor Boy」などバラエティに富み、画一的ではない楽曲を、一つのアルバムとしてしっかりとまとめ上げてしまう彼の器量は計り知れない。
ジャックの楽曲における 〝ガレージ・ロック・リバイバル〟という固定観念を払拭すべく作られたとも言える本作は、彼のルーツ音楽を存分に知ることができるとともに、その深さを証明した作品だ。(中川泉)
昆虫キッズやceroと共に、今東京のインディ・シーンで注目されている4人組バンド・シャムキャッツ。くるりやサニーデイ・サービスを思わせる素朴なポップスで、現代にいながらどこか古典的な味わいを表現し続けている希少な存在である。11年の3月に発売されたシングル「渚」は、多くの人々からの賞賛を得た現代のアンセム的ナンバーとなったことが記憶に新しい。
そして3年ぶり2枚目となるフル・アルバム『たからじま』は、前作のミニ・アルバム『GUM』同様、古里おさむ(uminecosounds)プロデュース作品。トロピカルな音色が全体を包み込む、ピースフルなサウンド作りとなっているアルバムである。水面に跳ね返る水のような音をアクセントに、熱帯果実のように甘いボーカルで魅せた「金太郎飴」や、ひとり夜中の楽しい妄想を湧き立てる片思いソング「おとといきやがれ」などに顕著であろうか。前作までは、ライブを直接パッケージングしたような、一発録り的衝動感を覚えるものであったが、今作は〝作品〟としての意識を強め、シンプルでさっぱりとした作風になっている。以前までは夏目(vo)がすべての作曲を担当していたが、今作では菅原(gt)ら他のメンバーも作曲に携わったことにより、バンドとしてのレパートリーを増強させた。新しい曲/新しい試みでありながらも、今までと変わらないシャムキャッツがここにいて、居心地が良い安心感がある。
そんな安心感を抱きながらも、どこか違和感を覚えるのは、ポジティヴな音楽性に反したネガティヴな詞世界であろうか。本人たちは意図してないそうだが、どこか震災の影響を勘ぐってしまうのは、時代のせいでもある。「SUNNY」では〝君のおなかの中に入らせて 僕はもうダメだから葬って〟と、曲のポテンシャルに対して一歩引いたテンションで自分と世の中を歌う。〝毎日楽しく生きれるわけがない〟と夏目が語るように、一見飄々としている音色には、現代に対する冷静な視点も持っていることがうかがえる。
そんな人生の気だるさを内面に秘めながらも、「なんだかやれそう」という曲名が表すようになんだかやれる根拠なき自信で満ち溢れている。きまぐれな猫のような生き様で、シャムキャッツは私たちの日常に〝どうにかなるさ〟と問いかけ、良い方へと引っ張っていってくれている気がする。人生も世の中も良いことばかりではないけれど、私たちの生きている場所こそが〝たからじま〟なのだと認識させられるアルバムである。(梶原綾乃)
〝サイケデリック〟が音楽のスタイルを表す言葉として使われるようになったのは、一般的に60年代からだと言われ、現在まで、いわゆる〝サイケ〟と呼ばれるカテゴリーで括られる音楽は多岐にわたり存在してきた。80年代にデビューしたジェイソン・ピアースも、当時のスペースメン3時代を含めて、90年代から続く現在のキャリアであるソロ・ユニット=スピリチュアライズドの活動に至るまで、内省的で抽象的、時に神経を蝕むような音から成る浮世離れした空間作りを特長とするがゆえに、その枠組みの中で語られ続けてきた音楽家の一人だ。2000年以降のUSインディを中心としたサイケのトレンドに、少なからず影響を与えていることも特筆すべき事実である。
さて、12年にリリースされた4年ぶり通算7枚目となる本作は、これまでのイメージとは異なり抜けの良い曲が多くてまず驚いた。オープニングのインストから導かれるように始まる2曲目「HEY JANE」。アルバム序盤にして大団円を迎えたかのように盛り上がっていく様は、実にキャッチーである。とはいえ凡庸なポップスに落ち着いたということでは決してなく、曲の構造等には意匠をこらしており、次第に聴き応えを感じていくのも確かだ。
ガレージ、ゴスペル、アシッドフォーク等の要素を、歪んだギターや浮遊感あるシンセとの組み合わせで壮大に仕上げるメソッドは、過去同様であり真新しいものではないが、ドラッギーなテイストを隅に配置し、煌きと温かみのあるサウンドを前面に出したプロダクションは新たな感触を生み出したとも言える。それはサイケを巡る本質的な音楽へのリスペクトが色濃く出た結果にも思える。以前ある雑誌で、意外にもジェイソンは、50年代に活躍したバディ・ホリーの『ショウ・ケース』をサイケの名盤として挙げていたが、それを考えると、彼が目指してきたサイケへの試みは、今作で一つの到達点を迎えたのではないだろうか。楽曲の良さを追求した結果、偶発的に作用した独特のピッチやノイズが隠し味のように後から効いてくる。その演出こそ、彼が生来的に意図してきたサイケの在り方なのかもしれない。
ジャンル分けに躍起となる市場の価値観とは別に、独自の解釈や音楽性で突き進む、アーティストとしての矜持を感じる1枚。ポップと狂気のコントラストが与える高揚感は、幻覚や陶酔とは一味違う今作ならではの効能=爽快感が含まれている。つまり、このアルバムはオーガニック仕立ての甘い良薬なのだ。(肥後幸久)
ノイズ・ミュージックは過剰さを是とすると考えることは危うさを孕む。過剰さを身に付けたそれは、もはや記号としてのみ消費されることになる。たとえそこで鳴っているノイズが美しく凶暴で極上なものであっても、想像する余白のないものはノイズたりえないだろう。今もなお、ニューヨークの最深部にソニック・ユースとともに鎮座するスワンズ。その首領マイケル・ジラはそのことを身体感覚として理解している。そして、その余白を生み出すために常に貪欲であり、誠実である。それは、この119分に及ぶ巨大作『The Seer』で再び証明されることになった。
14年振りの復活作となった『My Father Will Guide Me Up A Rope To The Sky』(2010年)以来2年振りにリリースされた今作。ここにおいてもその溢れんばかりの欲望を実現すべく、ノイズと静寂の作りだす音の濃淡を大胆に描き、それを綿密に紡ぎ合わせている。それは、まるで音の網の目を張り巡らしているようでもある。もちろん、ノイズと静けさの関係は形骸化したポスト・ロックが行き着くクリシェには陥っていない。それらの交差が頂点に達した瞬間にもたらされるカタルシスは前作を遥かに上回っている。それは、ゆったりとしたロング・ドローンから殺気に満ちたギターと暴力的なまでに打ち鳴らされるドラムが激しく交錯する「The Apostate」における凶暴さにはっきりとみてとれる。だが、そこには、前作にあったどこか重苦しく息ができないほどの圧迫感はない。むしろ心地良い緊張感を感じながらカタルシスの暴発を待つことができるのだ。それは、今作はあらかじめ用意しておいた容器に音をぎっちりと詰め込まず、音と音を反応させながら一つの生態系を織りなしていくことによって音の網の目を作り出しているからではないか。だからこそ、そこに想像の余白が現出するのであり、それが、スワンズが今でも〝ノイズ〟たり得ている所以であろう。そして、その余白を生み出すのは、紛れもなくマイケル・ジラの念である。
スワンズは、1982年に活動をスタートさせて以来、相も変わらず漆黒の暗闇の中に生息し続ける。今作においてもその唯一絶対の領域において、さらに凄みを増して、ノイズの余白を求めて飛び続けている。その道程はきっとまだ終わらない。スワンズは過去を前提にしつつも、二度と過去を繰り返そうとはしない。これは、10年振りに復活を遂げたゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーの新作と、図らずも共振しているかのようでもある。(坂本哲哉)
前作『ビッテ・オルカ』で世界的な成功を収めた後、リーダーのデイヴ・ロングストレスは「次は最初にやり始めたようなスタイルで成功したい」と考えたのではないだろうか。そんな想いから生まれたであろう本作は、バンドの〝第三期〟のスタートと位置付けられる作品である。
ニューヨークのブルックリンを拠点に活動してきた彼らは、音楽性や編成によってはっきりと二つの時期に区切ることができる。3枚目の『THE GETTY ADDRESS』までが第一期。暗くおどろおどろしいサウンドが特徴だ。女性メンバーはまだおらず、コーラスもデイヴによる多重録音が中心だ。4枚目の『Rise Above』以降が第二期で、女性メンバーのコーラスをフィーチャーしたポップな作風へと音楽性を変えた。
デイブにとって第二期の始まりは冗談のようなものだったのではないかと思える。ハードコア・バンド、ブラック・フラッグのアルバムを記憶を頼りに再現する、という『Rise Above』のコンセプトは、本気で音楽性を転換しようとした作品にしてはふざけすぎている(曲は全く似ていないし、似せる気も一切感じられない)。女性メンバーが二人加入して新たなスタイルが試せるようになったこと、ソロに近いスタイルからよりバンドに近い体制に移行したことなどにより、ちょっとした気分転換のような感じで作った作品だったのだと思う。
しかし、そうしてでき上がった作品は、これまで誰も作ることができなかった、同時代を代表する傑作となった。セールスは一気に拡大し、デヴィッド・バーンやビョークなどの大物との共演にも繋がった。こうした状況を受け、『Rise Above』の路線を踏襲した『ビッテ・オルカ』が作られることになり、彼らはさらなる成功を手にした。
飛躍の陰で、デイヴは自分が元々やっていた音楽と、評価された音楽の狭間で悩んだと思う。今回のアルバム制作にあたり、「一人で山籠もりをして曲を作った」と話しているのも、じっくりと進むべき方向を模索したかったからだろう。結果、デイヴが出した答えは〝二つの音楽性を融合させる〟ことだった。おどろおどろしいパートから始まり、ポップで高揚感のあるサビに至る「Offspring are Blank」と「About to Die」の2曲はその象徴である。デイヴの試みは完璧に成功しているし、アルバムは見事な傑作に仕上がった。ポップさの点では過去2作に劣るが、より高度で独自色の強い作品になっている。アルバムを作り終えた後、デイヴはこれまでにない充実感を感じただろう。しばらくはこの〝第三期〟が続く可能性が高い。(吉田洋平)
アルバム全体に、非常に親しみやすく美しいメロディーが溢れている。アレンジはクラシカルかつ音の隙間がたっぷりある静謐なもので、ロックらしさは希薄だ。歌の節の終わりをフワリと着地させ、バック・トラックに鋭角的な音をあまり使わない点など、アントニー・ヘガティやルーファス・ウェインライトなどにも通じるものだと感じる。
同時代のミュージシャンとの共振を感じさせる一方で、ダドリー・ベンソンの作品には、音楽的教養に裏打ちされた強いオリジナリティーがある。1983年にニュージーランドで生まれ、幼少期に地元の聖歌隊に入隊、ヘッド・ソリストまで務めたという。大学進学後は作曲を学んでいる。そうした素養が、彼の楽曲の多くで聴かれる多重コーラスや多人数での管弦の演奏に、フェイクではない本物感を纏わせている。
音楽家としての彼の魅力が最も強く現れているのがタイトル・トラックの5曲目「The Awakening」だ。ボーカルとチェレスタのみの静かな演奏で始まり、途中から弦楽器、男女混声のコーラスと徐々に音が増えていき、荘厳な盛り上がりを見せて終わる。ダドリー・ベンソンの歌唱はまるでバラードを歌うときのマイケル・ジャクソンのようで、柔らかだが力強く聴き手に迫り、胸が熱くなる。
ダドリー・ベンソンは、ニュージーランドの先住民族、マオリ族の歴史や文化に強い関心があるという。本人はマオリ族の血は引いていないようだが、研究のために改めて大学院に入り直すなど、その熱意は相当なものだ。本国で2008年にリリースされた本作では研究の成果ははっきりと分からないが、2010年リリースの『Forest:Songs by Hirini Melbourne』では歌詞の多くの部分にマオリ語が使われている。
日本よりやや小さな南半球の島国に生まれ、虐げられてきたマオリ族の歴史に焦点を当て、聖歌隊にいながら「キリスト教から思想的な影響は受けていない」と語る。ダドリー・ベンソンはマイノリティーの立場から見た世界を強く意識しながら音楽を作っているのだろう。だが、その音楽に内向きさや難解さは全くない。実際に本作はニュージーランドで年間ナンバー1のヒットになっている。
そんな〝マイノリティーの音楽〟が強いポピュラリティーを持つことができた理由は、同時代の音楽とリンクし、時代の後押しを受けながら、独自色を加えることに成功した点にあるだろう。そうした観点からすると、より大きなマーケットで受け入れられる可能性は高いと感じる。(吉田洋平)
狂気のノイズ・ラップをしているDeathgripsというグループの『No Love Deep Web』は契約先のエピックとトラブルがあり、その結果サウンドクラウドで無料配布されてしまったアルバムだ。アートワークは剥き出しの男性器が生々しくフューチャーされており、Ptichforkのレビューアーが評するに「2012年のどんなブラックメタルよりぞっとする」と感想を残した、いわくつきの作品である。
Deathgripsは凄腕ドラマーのザック・ヒル、プロデューサーのアンディ・モリンとヴォーカルのスティファン・バーネットのトリオである。日本のグループ、ボアダムスにも参加したことがあると言えば彼のドラムのスタイルが聴かずともイメージ出来るかもしれない。そのザック・ヒルが新たに結成したDeathgripsはアートワークが物語っていることが全てである。モザイク無しの剥き出しの男性器は「犯すぞ! このやろうっ! 」とアルバム全編を通しての剥き出しの攻撃性を象徴しているようだ。ここまでの攻撃性を剥き出しにする理由は一体何なのか。ヴォーカルのスティファン・バーネットのツイッター・アカウントを覗いてみたら、自分達が契約しているエピックレコードでこの作品がリリースされなかったことに対する抗議だったようだ。そして、サウンド自体もまるでエピックに対する脅迫状のような、変態系ドラマーザックが作り出す変態系トラックと、全身におどろおどろしいペイントが描かれた狂気のノイズ・ラッパー、ステファンの呪術的な儀式ラップが特徴的で、工場的な重くて攻撃的なトラックの上にステファンの極限的な呪術ラップはリスナーを幽霊屋敷に閉じ込めて試しているようにも錯覚してしまう。確かに「Lock Your Doors」のような明らかにホラー映画からインスパイアされた曲などがあるようにぞっとするような恐怖感や極限的な感情をテーマにされているように感じてしまうのは事実だ。
なんともおどろおどろしい作品であるが、このようなサウンドを(アートワークなんてもってのほか! )メジャー媒体でリリースすることが難しい作品であるのは間違いなく、これはメジャーレーベルであるエピックに対して明確なアンチーテーゼを叩き付けた作品であることは間違いないだろう。(こさかりょうじ)
ねじくれたポップさとどこか懐かしい雰囲気をあわせ持つメロディーと、〝おもちゃ箱〟や〝遊園地〟などの言葉で表される幻想的なサウンドで、国内外の音楽ファンを魅了してきたトクマルシューゴ。そんな彼が約2年半ぶりに、2004年の1stアルバムから数えて5枚目のオリジナル・アルバムをリリースした。前作と同じく、ドラム以外のすべての楽器の演奏とマスタリング以外のすべての作業を一人でこなす。ドラムは彼のライヴでも活躍している岸田佳也。
今作は彼の作品の中で最も緻密で複雑で、にも関わらず最もポップな作品なのではないだろうか。これまでの作品では、たくさん重ねられた楽器の音も、どこかの民族音楽から借用したリズムも、(決して悪い意味ではなく)全てが彼の支配するひとつの小さな町の中にすっぽりと収まっているかのようだった。それに比べると今作はとても自由でオープンな雰囲気を持っているように感じられる。彼らしい節回しや音使いをしっかりと残しながらも、例えば、往年のアメリカン・ポップスを思わせる「Shirase」や、サンバやショーロ等のブラジル音楽の香りが濃厚な「Helictite(LeSeMoDe)」などのように、よく知られた音楽のフォーマットを、あまり形を崩さずに取り入れている。おかげでより耳に馴染みやすい音楽になったようだ。
そして、それと共に今作をとても親しみやすいものしているのは、何といっても彼の歌である。これまでも彼の音楽にポップさを与えるのに大きな役割を担っていたその歌が、格段に表情豊かになった。彼の歌は過去作においては全体を通して概ねクールでフラットなものだったといえる。それは彼の持ち味の一つだが、今作ではやや力強く感情的な歌い方もほどよく織り交ぜられ、表現の幅がとても広がった。例えば、「Katachi」や「Poker」のコーラスの部分などにその変化がよく表れていると思う。ほとんど歌とアコースティック・ギターだけで聴かせる「Tightrope」も素晴らしい。また、ハーモニーの組み方や録音の仕方、エフェクトの使い方などにおいても新しい試みがなされたようだ。それによって歌の生々しさが増したのではないだろうか。
とにかく楽しくて聴きやすい仕上がりになっている今作、トクマルシューゴの音楽を聴いたことのない人が最初に聴く一枚としてもオススメのアルバムだ。(田中久仁彦)
フライング・ロータスことスティーブン・エリソンは2006年のデビュー以後、いわゆるビート・ミュージックの中心人物としてロサンゼルスを拠点に世界的に活動している。彼の4thアルバム『Until the quiet comes』は夢うつつの溶け合うまどろみの音楽だ。
2ndアルバム『LOS ANGELS』が発売して間もない頃、友人のiTunesでサウンド・トラックに分類されていたのを今でも印象深く覚えている。それは実際には間違っているのだろうが、妙に腑に落ちる分類であった。今でこそ「フライング・ロータス的な音楽」にビート・ミュージックという名前が付けられているように見えるが、彼の音楽はヒップホップ、エレクトロニカ、R&B、ジャズなど様々な要素が入り混じってその境がない。むしろ、つんのめるような不安定なビートとどこか不穏だが多彩な音が繊細に制御されながら次々に変化して決して元の場所に戻らないさまは映像的であると言えるし、サウンド・トラックという分類はそうしたフライング・ロータスの側面を端的に捉えているように思う。こうした彼の作品の、映像的な姿はアルバムを経るごとに深化し続けている。
前作『COSMOGRAMMA』はちかちかとした激しい電子音と鋭利なビートによる切迫した雰囲気をまとい、先人の黒人ミュージシャンよろしく宇宙と交信したかのような大作であった。一方、今作『Until the quiet comes』から伺えるのは夢と現実の境界が定まらない暗い場所をゆっくりと進んでいくような限りなく内省的な風景である。輪郭のぼやけたベースが近くで鳴り、楽曲の全体像がどこか明確でないが、その向こうで突然極端にクリアなビートや音が聞こえる。いや、聞こえたような気がしたのだけれども曲はすっかり変化してしまっていて、振り返るとよく分からない。声もたまに聞こえるが、すべからくもやがかかっていて判然としない。確かなものを掴むことのないまま次第に曲と曲の境目もぼやけていき、アルバムが終わり、タイトルが示す通りの静寂が訪れる。
聴く者の感覚を意識と夢の間に引きずりこみ、見えないものまでも浮かび上がらせるかのような『Until the quiet comes』。このアルバムの制作を通し、フライング・ロータスは他のビート・ミュージックには見られないスムースで有機的なサウンドを獲得。シーンの結節点として間違いなく後々も聴かれていくこととなる作品。(小林翔)
2006年のデビュー盤『Burial』以降、ダブ・ステップ界の第一線にあり続けたBurial(ブリアル)。ジェイムス・ブレイクなど若手らも相次いで深いリスペクトを公言し、昨今の存在感は更に揺るぎない。本邦では5年ぶりのソロ名義リリースとなる今作は、それぞれ昨年と今年に発表された『Street Halo』『Kindred』を日本独自編集で合盤化したもの。独立した2枚のEPと捉えるのが良いだろう。
前半部『Street Halo』は、彼のトレードマークである2ステップ・ガラージのリズムに、列車の走行を思わせる仄暗い反復ビート、そしてダブ・エフェクトの霧の重なった表題曲で幕を開ける。ブリアルのサウンドを特徴付ける、ピッチ変更したR&B経由のヴォーカル・サンプリング、全編を通底するノイズ音、メランコリックなムードの演出も見事。前作までの延長線上にして総集編でもある、充実の1枚に仕上がっている。
一方、実質上の最新EP『Kindred』である本作後半部は、いささか様相が異なる。冒頭「Kindred」のガラージ・サウンドはよりメタリックに修飾され、他方ヴォーカルはより甘美なエコーをまとう。楽曲構成は、幾分か長尺化しつつ、それ自体がドラマティックなものとなり、すぐれた小説のように響く。例えば「Loner」は急き立てるような下降音階のミニマルな反復と、静謐な間欠期を繰り返した末に、ゴスペル様の展開の中ではかなく消える。有機的なビートは、ラベル付けを自ら拒むかのように、従来のダブ・ステップを大きく逸脱し始める。空気と溶け合いながら、たゆたう霊のように感情をかきたてるヴォーカルも一段と印象的だ。総じて、彼が創りあげたダブ・ステップという枠組みを超えて、新たな生命が生起しているように思えてくる。最良のソウル・ミュージックにも似た、言語化され得ぬ感情の領域へのタッチ。エッジの効いたビートと、極度に人工的なサウンドエフェクトの中で、はっきりと胎動が感じられるのだ。
ここに至り、『Street Halo』は、行儀よくまとまってはいるものの、ブリアルがブリアルの亡霊をトレースしているような既視感を生んでいたと思えてくる。他方、『Kindred』は自身の亡霊を大胆な自己更新で振り払いつつ、豊穣なソウルの世界を描出することに成功している。総集編とあらたな決意表明、私は後者に軍配を上げる。2枚のEPを連ねることで鮮明に体感できるブリアルの最新モード、ダブ・ステップ以降の新たなサウンドの誕生を喜びたい。(金田渉)
71歳にしてなお現役で活躍するデビュー50周年の節目に産み落とされた新作は、スタジオ・レコーディング作品としては35枚目を数える。80年代後半から続く年間約100公演ものライブ、通称〝ネヴァー・エンディング・ツアー〟を行いながらも2、3年のペースで新作をリリースする体力と情熱は計り知れない。アスリートをも凌ぐその不死身の魂は鉄人の領域にあると言えるだろう。今作では現在のツアーメンバー全員が参加している。
とりわけ1曲が長尺であることが目立つ今作。なかでも表題曲「テンペスト」は45番まで続く長い歌詞で以て実に13分54秒にも及び歌われている。タイタニック号の悲劇がテーマであり、彼のストーリーテラーとしての歌声が寸分違わぬ定位で見事にマッチした今作のハイライトだ。基本的にどの曲もシンプルなフレーズが延々と繰り返される展開となっているのだが、にもかかわらず退屈で冗漫な印象を与えていないという凄みがある。デヴィッド・イダルゴ(ロス・ロボス)によるアコーディオンが緩急をつけ作品の要所を締めているように、各演者の持ち味を十分に引き出せていることが効いているからだろう。ロックスターとしての破天荒なイメージとは別に、プロデューサーとしての丁寧な側面を見せつけるわけだから手に負えない。何かの幻だろうか、クレジットには無い楽器の音まで聞こえてくる。こうした想像を喚起させる術はルーツ音楽だけでなく、彼が長いキャリアのなかで無意識に創り上げてきたルールによるものであろう。
殺人劇や、ジョン・レノンの死等をテーマに、全体的にダークでシリアスな雰囲気のものが占めているのも今作の特徴と言える。但し絶望だらけかといえばそうでもない。1曲目「デューケイン・ホイッスル」のような軽やかなスウィング、3曲目「ナロウ・ウェイ」での「追憶のハイウェイ61」をトレースしたかのようなスライド・ギターには、希望を残してくれているようで安心する。それはすなわち、この先もまだまだ作品を届けてくれるだろうという期待感にも近い。
自身の記録を更新するかのように届けられた新たな名盤。彼の意固地な性格の一面を象徴しているようにも思える。昨今のCMに倣い「ボブ・ディラン流して」と携帯電話に語り掛けてもそう容易くは流れてくれないのではないか。あらゆるコンテンツが多様化し利便性を伴う現代において、きちんと向き合って聞かれるべきものが奏でられているはずだ。(肥後幸久)
この『Dependent and Happy』を聴いてもなお、リカルド・ヴィラロボスは変態だと呼ぶ人がいたら、私はそれを信じることはできない――と大風呂敷を広げてみたものの、一発キメて恍惚としながら音楽を作る変人なのではと私もずっと思っていた。37分を超える長尺トラック『Fizheuer Zieheuer』(2006年)と全曲自らの新曲で構成したミックス・アルバム『Fabric 36』(2007年)は退廃的な音の鳴りとその音の抜き差しの整合性のなさによって、快楽主義の極致へと達してしまったかのように思えた。だが、この3枚目のフル・アルバムを体験したあとでは、その極致は狭きミニマル・テクノの彼岸でしかなかったということをはっきりと理解できる。そう、この『Dependent and Happy』において、生まれ故郷のチリをルーツに持つヴィラロボスはミニマル/クリックの地平を越えて、今まで以上にダンス・ミュージックに対して従順であり、ときに挑発的である。
このアルバムにおいて、今までの彼の作品に多くみられた、奇天烈なサンプル、微妙なイーブン・キックのズレ、精密なイコライジングなどの要素はふんだんに盛り込まれている。問題はその要素の使い方である。過去の作品においては、それらを足し算・引き算することによって効果的な音の鳴りを生み出してきた。だが、1+1は結局2にしかならない。ダンス・ミュージックの想像力はそれを構成する要素の足し算ではなく、それらを非線形に混ぜ合わせることでその強度を増す。ヴィラロボスは、昨今のリミックス・ワークで混沌とした複雑なトラックを連発していく中で、そのことを皮膚感覚として吸収していったのであろう。そして、それを見事にアルバムとして昇華したのが、今作なのである。淡々と躍動する4/4ビートは、絶え間ない反復で我々を拘束する。そこに奇妙なヴォイス・サンプルとエフェクト処理された金属音が混ざり合う。そして巧緻なビート/ドラム・プログラミングによって微妙に、ときに大胆に崩されながら、我々は解放へと導かれていく――。ここで起こっている出来事は1+1=2の世界のことではない。
『依存と幸福』。ダンス・ミュージックの命題を示唆しているかのようなアルバム・タイトルである。分かりやすさに依存する。それは決して悪ではない。だが、依存と幸福の間には解放という二文字が存在することを往々にして、忘れがちである。ダンス・ミュージックを世に送り出す人間は数多いるが、今、この二文字を馬鹿正直に考えているのは、ヴィラロボスだけではないだろうか。だからこそ、私には彼の姿は挑戦的に映る。ここにはかつてのような狂人めいた彼の姿はない。(坂本哲哉)
タイトル曲「アウト・オブ・ザ・ゲーム」のMVでルーファス・ウェインライトの歌に合わせて口を動かすヘレナ・ボナム=カーターを見て、演劇集団ダムタイプの故・古橋悌二氏に思いを馳せずにはいられなかった。ホモセクシャルでHIVポジティブだった彼は晩年の公演『S/N』(94年)で、〝未来のLOVE SONG〟とは何かを彼自身の言葉で観客に問いかけ、そして彼は女装をしてシャーリー・バッシーの「ピープル」をリップシンクで歌い、感銘を与えた。
"People, people who need people…"
この一節こそが、その時すでに死を間近に感じていたかもしれない彼の悟りだったのではないかと思う。ヘレナのリップシンクが古橋悌二氏のそれと重なったのもあるのだが、彼女の身ぶりのせいだけではない。何よりルーファスの歌から、〝人は人を必要とする(people who need people)〟という根源的なメッセージを強く感じ、しかもそれが何の抵抗もなく自然と心に沁み入ってきたのである。
ルーファス自身が古橋氏のように自らの死に直面したわけではないが、本作を出すまでの間に、彼は分身と言っていい母の死と、そして愛娘の誕生という二つの大きな出来事を体験した。私たちは生まれて死ぬまでこの一つの命で数多くの死を受け止めなければならない。それは言わずもがな、身を引き裂かれそうなほどに辛いことだ。最愛の母の死を受け、彼も失意のどん底にあったという。それが、愛娘が誕生したことによって一転、翳っていた心に陽が射したようだ。本作での彼は、母からもらった愛を今度は我が娘に惜しみなく注いでいるような、そんな言葉に満ち溢れている。例えば「モントーク」では、母の死が間近に迫るなかで書かれた前作とは対照的に穏やかなピアノに乗って、娘への愛が注がれている。これを聴いて思うのは、私たちは一つの命で、日々数多くの生を迎えてもいるということだ。生きる歓びを感じる瞬間は本来、授かった愛をバトンのように自分以外の生へと渡していくことではなかっただろうか。本作はそんなことを感じさせる実に温かみのある作品に仕上がっている。
またプロデューサー、マーク・ロンソンの貢献によっていつにも増してソウルフルな本作は、私たちの魂を震わせると同時に、自然と一緒に歌いたい気持ちにさせる。ルーファスの発言によれば、今回はより幅広いオーディエンスをターゲットにしているそうで、実際、より多くの人に響く作品になったのではないだろうか。古橋氏が晩年〝未来のLOVE SONG〟とは何かを問いかけこの世を去ったことは先述したとおりだが、ルーファスのこの作品は古橋氏の思う〝未来のLOVE SONG〟ではないだろうか。つまり〝人は人を必要とする〟という、性差を超えた、俗物的なシステムに取り込まれていない愛がここに存在している。(小川ワタル)
ジャズ・ピアニスト、ロバート・グラスパーの〝エクスペリメント〟名義での初作品である本作は、R&Bやソウルのシンガーやラッパーが全編に渡ってフィーチャーされたアルバムだ。前作までと同じく、ブルーノートからリリースされた。R&Bやソウルやヒップ・ホップなどの黒人音楽とジャズをこれほどまでに高い水準で並立させ、それでいて難解さを感じさせない、というのはそう簡単にできる事ではない。ジャズとその他の黒人音楽の両方で活躍してきた、この〝エクスペリメント〟の4人にはそれが実現できた。
例えば序章的な1曲目。この曲ではミディアム・テンポのヒップ・ホップのビートが支配的だが、単にヒップ・ホップのビートにジャズ的なハーモニーやコード進行を乗せた、というものではない。ここでクリス・デイヴが叩くビートには伝統的なジャズの演奏経験から得られるグルーヴ感が染み込んでいるし、ジャズ・ドラマーがヒップ・ホップを少しかじった程度では出せない音だ。グラスパーのピアノのタッチやフレージングも、そのビートと共に様々な表情を見せる。また、シンプルなビートの後ろにさりげなく、複雑にポリリズミックなアンサンブルが隠れていたりもする。そうした演奏がゲスト達の(これまたハイ・クオリティな)パフォーマンスを邪魔することはない。彼らはもっと弾きまくり、叩きまくれるのだが、適切に抑制されている。アルバム全体のサウンドの雰囲気もよくまとまっている。BGMとして聴いてもじっくり聴いても楽しめる作品だ。
グラスパーは、本作によってジャズの外側にいる人達をジャズの世界に巻き込みたい、と語っている。また、再びピアノ・トリオとしての活動もやりたい、とのことだ。つまり彼は、本作こそがこれからのジャズだと主張したり他のスタイルを否定したりしているのではなく、今やれる事、やりたい事にただ真摯に向き合っているのだ。
世の中には現代の他の黒人音楽の影響の外で進化しているジャズもあるし、伝統的なジャズもしっかりと生きている。彼のトリオもそれらのうちの一つだ。本作は、グラスパー自身がそう望むように、それらと他の黒人音楽または大衆音楽との間の架け橋になるだろう。また、方法論的な複雑化に依らないジャズの進化の一例を示した重要な作品だといえるだろう。(田中久仁彦)
当時ワシントンに住んでいた私は、スウェーデンのシューゲイズ・シーンの最高峰バンド、ザ・レディオ・デプトのメンバー、ダニエル・ジェイダーの別プロジェクトであるエレクトロ・ポップ・バンド、コーラルレーヴンのツアーバンドとして、ヤング・マジックもDCに来ることを知り、早速ライヴハウスへと足を運んだ。前座を務めた彼らのライヴはコーラルレーヴンのファンをも魅了する酩酊エレクトロ・サウンドで、幻想と現実の狭間にある世界へとフロアを呑み込んだ。ライヴを観て〝鳥肌が立つ〟という高揚感も、久しい体験だった。これが彼らとの最初の出会いだ。
デビュー・アルバムとなった本作、アフリカンやヒップ・ホップのビートに重なる男女のヴォーカルは、ラップもあれば時に呻きや叫び、囁きがあったりとまさに変容無限。重たく心臓に響くような低音のベースとドラムに、多彩鮮烈な電子音が散りばめられ、まるで珊瑚の海を浮遊しているかのような感覚だ。そして時に乾いた大地を踏みしめる感触と、植物や動物の誕生の瞬間が、1曲目の「Sparkly」から最後の「Drawing Down The Moon」まで走馬灯のように私の頭の中で再生された。これらはサイケデリックやシューゲイズ、ダブステップと呼ばれるさまざまなジャンルの要素を取り入れられたジャンルレスな世界観で表現されている。北米、アフリカ、ヨーロッパの計10ヵ国でレコーディングされた本作。旅をしながら創り上げられた楽曲からは〝自由〟や〝解放〟といった壮大なイメージが浮かび上がる。「Sparkly」のMVも彼らの世界観がよく表現された見応えある作品になっているので是非見てもらいたい。
私自身、1枚のアルバムを全曲通して聴きたいと思えるアルバムは正直そう多くはないし、そのような作品との出会いも久しく無かった。しかし本作に関しては飽くことなく、何度も繰り返し通して聴いた作品だった。その理由はアルバムとしての秀逸な楽曲配置にある事も確かだ。それに加えて前述したように生命感溢れる彼らの音楽表現が、人間として生きる自分の芯に通ずるモノがあるという実感を持てた事にあると考えられる。あなたもきっと、原始的で命の息吹を感じるこの楽曲たちに、自分の心とリンクするセンセーショナルな〝ナニカ〟を感じ取るはずだ。そして彼らの初来日が実現する事を、私は心待ちにしている。(荒木貴紀)
現在65歳で現役、〝純音楽家〟、〝和製ニール・ヤング〟と評される遠藤賢司の約2年ぶりの最新作。初期エンケンバンドの湯川トーベン、石塚俊明(頭脳警察)や、山本恭司、大塚謙一郎(曽我部恵一BAND)、森信行(元くるり)など豪華なバックバンドを携え、多くの楽曲でアンプ直エフェクターなしのギターをかき鳴らすエンケンは今もなお勇ましい。
今回のアルバムのテーマとしてとにかく欠かせないのは、〝3・11〟である。震災後には他にも数え切れないほど多くの震災関連ソングが発表されているが、エンケンの本作は何かが違う。〝復興応援ソング〟のような押し付けがましさは全く感じられない。
震災後に自身のブログにあげられた楽曲でもある「もうちょっとだけ頑張ってみようかな―2011年3月14日月曜晴れ―」は、震災直後の鬱々とした雰囲気を感じる一方で、それとは相反して快晴で何事もなかったような世界との間の心情をか細い小さな声で囁く。〝俺は一体何のために生まれて来たんだろう〟、〝畜生/俺はもう歌なんか歌えない〟という絶望感と、彼自身が弾くピアノが良くも悪くもマッチしていて居心地が悪い。
また、昨年の〝8・15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!〟にて披露された96年の楽曲の再録「夢よ叫べ ―2012―」でも、エンケンの力強い歌声に加わった山本恭司のエレキギター・ソロが、美しい響きを醸し出しつつも、感情的で行き場のない悲しみを助長しているようにも聞こえてしまう。
この微妙な雰囲気の中でも、一貫して歌われ続ける〝俺の音楽〟への自信と愛情は変わることは決してない。その上葛藤から解き放たれて〝だからもっと努力して/今ここで/ちゃんとやれ!えんけん!〟と自分に喝を入れる。被災地とはまた違った悲しみを抱える東京で暮らす私にとっても、もちろん他人事ではない。
彼は既存の社会体制に対する批判を直接的に歌うことはしない。本作でもエンケンは常に自らの生活や苦悩を歌っている。常日頃から〝日常〟を歌ってきた彼の楽曲だからこそ、震災によって崩壊した〝日常〟の変化が生々しく伝わってくるのだ。40数年間音楽一本でやってきた彼が葛藤する姿は、今まで何の疑いもなく暮らしてきたどんな立場の人にでも当てはまるのではないだろうか。日本人として忘れてはならない震災直後の想いをしっかりと形にしてくれた、そんなアルバムだ。(中川泉)
爆発音、押し寄せる津波の轟音、放射線測定器の警報、ノイズ……本作の所々で聞こえる不吉な音。これらは3月11日の地震が引き金となって発生した津波や福島の原発事故を想起させると共にトラウマティックな感情を呼び起こす。
1998年にデビューしてから常に時代に対峙してきたミュージシャン・七尾旅人は、音源配信ウェブサービスDIY STARSで〝DIY HEARTS 東北関東大震災義援金募集プロジェクト〟を地震発生約1週間後に開始するなど、事象に対するレスポンスがとにかく早い。そういうマインドをきちんと持っている表現者だ。
6枚目のオリジナル・アルバムである本作は、被災地の現状に真正面から向き合うことを出発点とし、音楽として形に残そうとする七尾の想いが存分に詰まっている。それは、実際に現地に足を運び、そこで暮らす人々と触れ合いながら作られた曲「圏内の歌」を代表とする。幻想的な優しいメロディに乗せた〝離れられない/愛する街/生きていくことを決めた/この町〟、〝子供たちだけでも/どこか遠くへ/逃がしたい〟という歌詞には、被災者の複雑な気持ちを汲み取り、思わず目を伏せてしまいそうになる現実を伝えようとする強い意思を感じる。〝ここを離れて/どこ行くの?〟と歌われる「Memory Lane」のシャウトが、まるで彼らの行き場のない不安を代弁しているようにも聞こえた。また、ソングライティングの才能が輝く「サーカスナイト」や「湘南が遠くなっていく」、ギターとパーカッションの融合で壮大な夜空を思わせるインストゥルメンタル「銀河を渡る子供たち」でみせるロマンチックで切なさが漂う楽曲の良さも相まって、独創的な作品に仕上がっている。
問題作『911FANTASIA』でファンタジックな物語的世界観から世の中に対して疑問を投げかけたと思えば、今度はもっと直接的で丁寧に人々の心に訴えかける。タイトル曲で歌う子供たちの可愛らしい声も、〝これから僕ら/やり直せるさ/どんな壁も/超えてゆけよ〟という七尾の決意も、共に紛れもなく純粋で頼もしい。政治もメディアも動かなければ、音楽が機能するということを証明する作品でもある。私たちに微かな希望を見せてくれると同時に被災地の痛いほどの虚無感を表現しきった本作は、未来に残すべき大切な1枚だ。(中川泉)
本作はロックバンド「髭」のフロントマン、須藤寿によるソロ名義初となるアルバムである。須藤のソロプロジェクトとして〝須藤寿 GATALI ACOUSTIC SET〟のクレジットを掲げてはいるが、共同制作者にはペトロールズの長岡亮介とFABのgomesが挙げられており、またプロデューサーには吉田仁を迎えている。その他にもゲストヴォーカルにコトリンゴを招き、かつまた9曲目「フェアウェル」は元DOPING PANDAのyutaka furukawaから歌詞もそのままに楽曲を譲り受けるという背景を持っている。
須藤といえば髭でのライヴMCからも窺えるように、実によく喋り、そして話上手だ。オーディエンスへ絶大なる感謝の意を表するにも、またその愛情を示すにも、喋りの面白さの裏側にきちんと巧みな言葉選びが成されており思わずうっとりしてしまうほどである。そんな須藤が今回打ち出した本作は、GATALIと称されるように〝語り〟つまり〝言葉〟に絶対的重きが置かれた作品である。これにより須藤は〝言葉〟で〝音楽〟を表現することを試みているのではないだろうか。
歌詞にはこれまでの髭には見られなかった、内に向けられた言葉が並んでいる。〝真夜中の静寂よ/捕まえて/僕たちを/この街は離ればなれ〟(「ウィークエンド」)〝胸が騒ぐこともなく/から騒ぎも意味がなく/ただ流れる/熱い血だけが/ただ流れる〟(「カーニバル」)そしてどの楽曲にも共通するのが、一音にあてられる言葉の少なさである。音楽と言葉の距離感をぴたりとくっつけ距離感をゼロにすることで、言葉を前へ前へと押し出している。よって音楽ありきの歌詞という言葉の概念を一旦取り壊し、言葉を魅せる方法を考えた末で浮上した音を掬い上げ、完成したのがこの形なのだと思う。髭のサイケデリックなバンドサウンドの中ではなく、「須藤寿 GATALI ACOUSTIC SET」での音数を極限まで減らして肉厚なコーラスで魅せるということを、このアコースティック・アルバムで着実に実行し、成功している。それは、髭のサイケデリックなバンドサウンドの中ではなく、「須藤寿 GATALI ACOUSTIC SET」でなければ果たせなかったのだ。
〝アーティスト須藤寿〟は怒ったり泣いたりする姿が全く想像もつかないほどに、彼独特の笑顔がよく似合う絶対的ポジティヴでピースフル、愛嬌たっぷりのキャラクター的要素に満ち溢れている。その完成された姿が魅力でありながら、まるでどこか別世界の住人のような印象を抱かせる。言葉と須藤寿が対峙し完成した本作で、我々はやっと彼の血の通った生肌に触れることができるのかもしれない。(藤枝麻子)
19歳でデビューしたシンガー・ソング・ライター、清竜人の4枚目のフルアルバムは戸惑いの1枚となった。声優にアイドル、妄想ミュージカル、アニソン、ゲーム・ミュージック。いったい何が、彼を変えてしまったのか……。大人びたソング・ライティングで、デビュー時から今まで彼は〝優等生〟めいた評価を受けてきたように思う。一方で、歌詞世界は未成熟な思春期のものだった。〝大人はいつも批判ばかり/僕を子どもみたいに叱っては/見知らぬ誰かと比べたり/もううんざりだ、分かったってば〟16歳前後に作られた処女曲「selfish」の冒頭部(英語詞を筆者が翻訳)が象徴的だ。大人びた楽曲と未成熟な歌詞のギャップは、彼の音楽の代えがたい魅力だった。
そんな彼の現在までのキャリアはそのまま、少年の成長物語だった。『PHILOSOPHY』『WORLD』『PEOPLE』とアルバム表題を並べれば、自己の哲学を築き、世界と対峙し、ついには他者と繋がり合うビルドゥングス・ロマンが浮かび上がる。しかし内面の成長を経て、彼の楽曲からデビュー時の輝きが失われていたのも事実だろう。〝大人〟として成熟するにつれ、優等生的な楽曲と青臭い思春期心性のギャップが消失し、結果として前作『PEOPLE』は、お行儀が良いだけのラブソングが居並ぶ印象が拭えなかった。同アルバム収録「ぼくが死んでしまっても」の〝たとえ抑えきれないほどの悲しみがきみを襲ったら/それをそのまま誰かへの愛に変えてほしい〟という歌詞はどこか偽善的で、周囲に愛されるための方便かのように響く。そこに彼の求める、心を通わせ合う他者(=PEOPLE)は立ち現れないだろう。いくら耳触りの良い言葉で取り繕っても、自分自身をさらけ出さなければ、他者と心を通わすことはできない。
それに気づいたからこそ彼は、今作で賭けに出たのではないか。自身の趣味や性癖をあからさま過ぎる程にむき出しにし、祈るように「りゅうじんくん大好き♥」と叫び続ける。他者とのコミュニケーション願望の裏に潜む強烈な自己愛を、嫌悪されるリスクを承知でさらけ出す大博打である。ともすれば箱庭的な自慰行為に陥りがちなコンセプトであるが、持ち前のバランス感覚を発揮し、見事なポップ・ミュージックへと昇華させている。お行儀良さの呪縛を逃れたためか、メロディーもまた、デビュー時のツヤを取り戻しているようだ。自己愛の開示によって開かれる、コミュニケーションの可能性。戸惑いの、しかし、まごうことなき傑作アルバムである。(金田渉)
山梨県一宮町をベースに活動するラッパー、田我流の4年振り2枚目のアルバム。ここまで感情剥き出しな音楽ってあるだろうか? そしてこれほど世の中にダイレクトにメッセージしている作品ってあるだろうか? 僕は近年聴いたことが無い。田我流のラップは生々しいが故に非常に耳が痛い。と同時に、爽快感すら覚えるのは、彼が時代の代弁者たる役割を自ら引き受けたその意思に対してリスペクトを感じるからだ。
震災後、多くのアーティストが震災で受けた悲しみ、喪失感、そして原発事故に対する不安といった感情を作品で表現している。歌詞の中にそれとなく匂わせていたり、演奏にその想いを込めているアーティストもいるだろう。しかし、誰もが感じている原発事故に対する政府や東電への怒りについて自らの主義・主張をダイレクトに伝えている作品はあまり見当たらない。日本では何故かミュージシャンが政治的な発言や主張をすることがタブー視されているような所がある。坂本龍一を始めとする〝物言うミュージシャン〟が発言し、行動すればするほど何故か叩かれる。一体このケチ臭い風潮はなんなのか。それが故に誰もが慎重に言葉を選び、自らのイメージを守ろうとしている様に思えてしまう。人々が言えない事を音楽に乗せてメッセージする事こそアーティストたる者の使命ではないのか……。 そんなもどかしさをぶち破り、大きなカタルシスを与えてくれたのが田我流の『B級映画のように2』だ。
収録曲「Resurrection」で自らの低迷期をラップすると共に〈ラップを通して気付いて貰いたい〉と意思表明をしている通り、このアルバムは実に明瞭なリリックがスッと耳に入ってくる為、早口のライムであっても非常に意味が捉えやすい。ゲストのベテラン・ラッパーECDやSIMILABのクルーの参加もあり華やかなアルバムでもあるが、やはり耳につくのが原発事故に対するストレートな怒りの表現である。特にECDを迎えた「Straight outta 138」は凄まじいばかりの2人のアジテーションが鳥肌モノであり、このアルバムのハイライトといえる。
このアルバムはHIPHOPというジャンルに馴染の無い人にも是非聴いてもらいたい。何故ならこの作品にはかつてロックがメッセージを発していた頃の匂いと熱さが確実に詰まっているのだ。田我流のラップが聴く者の心を鷲掴みにするのは、タブーも遠慮も無い感情の発露、そしてそこから感じる人間らしさ、優しさがストレートに伝わってくるからだ。田我流自身、ロックやポップスのアーティストに対するもどかしさを感じていたのではないだろうか。映画でもいまや低予算のB級映画の方が何にも縛られず本当に面白い表現をしている。「本物はここにある」。そんな意思をタイトルからも受け取った。(岡本貴之)
台湾の4ピースオルタナティヴ・ロック・バンド、透明雑誌は、その音楽性から、〝台湾のNumber Girl〟と言われているし、自らもその影響を強く受けていることを公言している。彼らは2006年に台湾でインディーズ・デビューした後、2007年に現在の編成となった。2011年には日本でもアルバム『僕たちのソウルミュージック』(原題『我們的靈魂樂』)をリリースし、さらにジャパン・ツアーを行なって大成功する。今作『透明雑誌Forever』は、台湾版の4曲に、日本版ボーナス・トラック2曲が加わり、日本メジャー・デビュー作となった。
さて、透明雑誌はいつまで〝台湾版Number Girl〟という肩書をつけているのだろうか。もちろん、日本でデビューするにあたり、日本ではあまり馴染みのない台湾のバンドについて、わかりやすい紹介が必要だったことは理解できる。しかし、日本でもすでに一定の評価を得ているし、もうそんな肩書は卒業してもいいのではないだろうか。というのは、彼らはすでに新しい道を歩き出そうとしているように感じられたからだ。
前作『僕たちのソウルミュージック』は、台湾にはこんなにカッコいいバンドがいるということを知らしめるために十分の作品であった。しかし、どうも、内に籠っているような雰囲気を感じずにはいられなかった。なんとなく外の明るさを感じながらも、やはり外に出るのは怖いし面倒くさい。外の世界に憧れはあるが、やっぱりいつもの仲間で地下に籠って、そこで大騒ぎしよう。仲間に入りたいなら歓迎だけど、わざわざ仲間を探しに出かけたりはしない。今のスタイルでも十分なのだから、と。それはまるで、〝台湾版Number Girl〟とか、〝インディーズ〟といった枠から決してはみ出すまいとしているようにすら感じられた。
しかし今作では、もう一大決心をして、〝思い切って飛び出そうぜ/全世界をぶっ飛ばしに行こう(就這樣衝出去吧/就去跟全世界打架)〟としているのだ。自分たちのことをわかってくれる人だけが自分たちの音楽を聞いてくれれば良いのではなく、音楽をやることの喜びや希望、音楽を通して伝えたいことを、より多くの人に訴えかけていこうとしているようだ。今作のリリースが7月であり、ちょうど夏の開放的な空気の下でみんなで聞きたくなるような、そんな明るくはじけた作品になっている。
彼らは今作で日本メジャー・デビューを果たした。台湾だけにとどまらず、より多くの日本の人々にも、〝透明雑誌の音楽〟を伝えたい。そういう意味も込められているのかもしれないとふと思う。日本と近隣諸国との領土問題が浮き彫りとなった2012年、そんなことまで深読みさせる1枚であった。(田中三千穂)
これは風景が浮かぶアルバムである。それは古い唱歌や童謡で歌われる四季や都会の街並みに近い。英語はサビ部分でたまに出るのみ。そして〝君〟という言葉がよく出て来る今の音楽にあって沢山〝あなた〟という二人称が出て来る。古典的なユー&ミーという語り口と言ってもいいだろうか。例えば、「今は帰らない」の場合、都会に住む僕は〝新宿を超えて/北へ向かえば/あなたの街へ/のぼる電車が〟〝新しいことに胸ははずむけど/うまくいかない/最初の扉〟というフレーズに共感し、〝ハロー&グッバイ〟以外は殆ど日本語の「江の島」では、サザンオールスターズのそれとはまた違う懐かしい景色を想起する。彼女は1987年岩手県生まれ。09年に作詞、作曲、ギターを始めたそうだが、やたらと前向きな励まし系ソングが横行する現在のJ―POPとはやや異なる、ノスタルジックな日常を綴った本作は貴重な1枚だ。
そうした特有の歌詞世界をさらに印象づけ且つグレード・アップしているのは、もちろん彼女が志向するナチュラルな音楽性だ。軽やかな感触のアコースティック・ギターと繊細な声。「目黒川」は決して達者ではないギターによるイントロに導かれて彼女の声が入ってきた途端にもうその世界に持っていかれる。「No Music, No Life」もサビでタイトルをそのまま歌っているが、やましさがなく自然に歌えている。ルックスは普通の女の子なのだが、ストリート・ミュージシャンとは趣を異にするその無垢でおぼつかない雰囲気がそのまま音楽性に現れていると言ってもいい。とはいえ、それは決してただ素人っぽいということではなく、ある種の〝素朴芸〟とでも言っていいほど。寄席のような伝統的な大衆芸能ともまた違う、エッセイやコラムのさり気無い文章にも似た、飾らない人間味あるテイストに近い。その音楽性をひき立てるためか今回参加したショピン、グッドラックヘイワのメンバーによる他の楽器のパートは少なく控えめで良い効果を出している。
今も昔もアコギを抱えて唄うスタイルのミュージシャンは多い。だが、本作を聴くとそのどれとも異なるように感じる。整然とされて余計なものがない。懐かしい感触だがむせ返るようなレトロでもない。それは過去の風景から今へと繋ぐ普遍的な〝歌〟と言えるもので、過去を踏まえて今に生きる彼女自身の目線から描かれたフレッシュな〝歌〟だ。窮屈な世の中に生きる僕は、不思議と彼女の歌世界の中に引き込まれていく。(小泉創哉)
キャロルでのデビューから40年。彼は一貫して本当の意味でロックンロール・スターのあるべき姿を追求してきた。彼以外にも売り上げ、知名度、音楽性やカリスマ性溢れるアーティストは存在する。それでも王道を外さず且つ新しい試みをしてきた日本人ならではのロックを作り上げた数少ない人物だ。その答えはソロとしての自主レーベル設立から3枚目のこのオリジナル・アルバムを聴けば分かる。
1曲目の「IT'S UP TO YOU!」から王道のブギー・ロックで〝本当はもう気付いて/いるんだろう/時代のせいばかりじゃ/無いことを〟である。誰も言えない事を言ってのけた。実際に作詞したのは今回初めて制作に参加したSA(エスエー)のTAISEIだが、彼の自然体のキャラクターとコブシがかった唱法から心に入ってくる。このようにアルバムはいつも通りの多様な作詞家陣による歌詞と王道なロックンロールだが、こだわりあふれるシンプルなバンド・サウンドとメロディと歌声を聴かせる内容である。
彼はキャロル時代から自分ではあまり作詞をしないが、自分の武器を見極めた上での判断だろう。いくつかの武器(メロディ、歌声、ライヴ等)を見極めた上で、その武器を活かせる作詞家の起用は正解であった。ノレて共感できる作詞を提供してもらうことで、自分の魅せ方を客観的に考えられたのだ。だから最近のシンプルな分りやすいロック・アイコン的な楽曲とキャラクターに無理がない。
例えば「JAMMIN' ALL NIGHT」はブルージーなギターとタイトに突っ走るドラムが印象に残るが、昔はよくあった右・真ん中・左の三つで組み立てた音像で大人びた歌の余裕さを感じさせながら、全体的に詞曲含め彼にしか出来ない古すぎず新しすぎない直球のロック・ナンバーになっている。複数の作詞家に任せているから詞に多様性が生まれるのは当然であるが、まるで矢沢自身の言葉を聞いているような錯覚を覚えるのには驚く。彼の一歩間違えれば聴衆が狭くなる強烈なカリスマ性が広く大衆に受け入れられているのはこのような所からであり、メーカーから離れて自分でレーベルを立ち上げてから倍近く売れているのも納得である。
この作品をキャリア40年の人間が出すのは大きな事だ。この作品を聴いて成り上がる人が出て来るのを期待する。「時間よ止まれ」の山川啓介が久々に作詞したタイトル曲の歌詞にある〝いのち賭けてもいいほど/美しい何かを〟というものを見つけてだ。(小泉創哉)
近年は新たな角度、目線からのフォークやポップスへの見直しが進んでいる。2013年度前半もそうした傾向は継続されている印象だが、ここには入れられなかったものの前野健太、デヴェンドラ・バンハートら安定した評価を得ている逸材やベテランもそうした風向きの中から次なるラウンドに入ったと確信持てるような作品を次々とリリースしているのが興味深い。デヴィッド・ボウイによる久々のアルバムもそうした現れの一環として聴くと面白いはずだ。
ラフなギター・サウンドとブリルビルディング系曲作りとに足をかける澤部渡=スカート。2012年には高校時代の作品から最新音源まで自らの選曲で全18曲を集めたアナログ盤『消失点』をリリースしたが、その約半年後に届いたのがオリジナルとしては3枚目となる本作だ。ライヴを積極的に行い、澤部も昆虫キッズやNRQなどのステージにも飛び入りするフットワークの軽さが躍動感に溢れた仕上がりに現れていると言える。
京都在住のシンガー・ソングライターのセカンド・フル。繊細なハイトーン・ヴォイスによる歌世界を武器とする人だが、ここではジム・オルークをプロデューサー…というより、アレンジを強化する役目として迎え、倍音も美しいヴォーカルを立体的に聴かせることに成功した。石橋英子のピアノや波多野敦子のヴァイオリンなどを、あくまで空間を残しながら配する様子は実に優美で造形的。平易な言葉を用いた歌詞も凛として響いている。
前野健太、昆虫キッズなど現在の若手に多大な影響を与えてきたシンガー・ソングライターの約3年ぶりの新作。旋律に縛られていないメロディが起伏に富んで聞こえてくるのは、辛酸舐めた40代の豊田の人間味の現れであり、共同制作者である宇波拓によるモダンな音作りとの好相性の現れか。とはいえ、川本真琴、久下惠生、三輪二郎、昆虫キッズののもとなつよらゲストは多数でも、彼の歌はポツンと都会の裏風景を切り取るのみだ。
30年以上のキャリアの持ち主ながら近年これまでになく精力的にライヴを行なっているJOJO広重を中心とした非常階段が、何とボーカロイドと合体。緑魔子による「やさしいにっぽん人」、JAGATARAの「タンゴ」のカヴァーを含む全4曲、感傷的な歌メロとノイズを合わせつつ現代のポップスとして昇華させていく。儚さ、強さを孕んだその恍惚の音の塊は、いみじくも広重が森田童子や佐井好子らに共感する側面をあぶり出すものだ。
サム・アミドンやスフィアン・スティーヴンスらと同じ遺伝子を持つ英国(ユダヤ系)の奇才と言ってもいいだろう。大学でアートを専攻、その後ブリテン諸島の伝統音楽に傾倒する過程で独自の表現力を磨いてきた。このファーストはそんなサムによる寓話集のような1枚だ。派手なビートや直接的な躍動感はないが、ユーモアや大衆音楽への忠誠心は満載。マムフォード&サンズなど昨今のフォーク勢とは異なる異才には違いない。
近年のフォーク回帰傾向と、この知る人ぞ知る伝説のシンガー・ソングライターの再評価とは無関係ではないだろう。70年代の米デトロイトに活動していたものの当時は全く売れなかったロドリゲスの生涯を描いた同名ドキュメント映画のサントラ。不遇時代を経た後、なぜか南アフリカで爆発的な人気となったロドリゲスの素朴でしたたかで味わい深い歌声に触れていると、発掘の余地はまだまだあるのでは?という気になる。
英バーミンガム出身の26歳の強烈なデビュー作。本国ではポスト・アデルとして期待されているが、音楽性の軸にあるのはそうしたわかりやすい普遍的ポップスではなく、ゴスペル+クラシック+西アフリカのフォーク+ジャズ…といったハイブリッド指向。とりわけ収録されている「Green Garden」の複雑で洗練されたコーラス・アレンジは驚くべきほどで、さながら女性版アントニー、ルーファス・ウェインライトといった趣もある。
ボニー〝プリンス〟ビリーとフォーン・フェイブルズのドーン・マッカーシーとによるエヴァリー・ブラザーズのカヴァー集。レア曲が中心でクリス・クリストファースン、スペンサー・デイヴィス・グループ、ボー・ブランメルズなど〝カヴァーのカヴァー〟のセンスも抜群だ。アパラチアン・フォーク、アイリッシュ・フォークなどに影響を受けた二人とクロース・ハーモニーを武器としたエヴァリーのと意外な共振がここにある。
【荒木貴紀】
見知らぬ地域で見知らぬ人々と交流する放浪の旅が好きです。2012年も音楽野外フェスの動員数が更新されたのは嬉しいニュースです!宇多田ヒカルの「桜流し」が個人的に2012年のヒット曲でした。
【小川ワタル(編集長)】
2012年の歴史的一日はやはり金環日食の5・21、EP―4復活ライヴだろう。また、2013年応援したいミュージシャンは、おおたえみり。ツイッターは@janjanrock
【小柳元】
新大久保にあるネイキッドロフトというライブハウスでイベントブッキングしています。新大久保なので、店のまわりでは常にK―POPが流れているのですが、僕個人としては最近イベントで偶然出会った、NK―POP(北朝鮮POP)が気になり出しています。
【岡崎千紘】
OKI meets大城美佐子「北と南」で興奮。くるりが「everybody feels the same」と歌ったことに何となく驚き、「SOMA」でなみだ。ライヴでは、オウガ「ロープ」の1年経ての完成度に震え、苗場で3日間太陽に灼かれたことが思い出。
【岡本貴之】
2012は様々なフェスに足を運び、新しい音楽と出逢えた刺激的な一年でした。印象的だったのは7月に行われた脱原発イベント『NO NUKES 2012』の会場でBRAHMANのTOSHI-LOWさんから頂いたサインの日付が「2011年3月11日」だったことです。
・2012年の1曲
七尾旅人「リトルメロディ」(アルバム『リトルメロディ』収録)
【梶原綾乃】
2012年は音楽にまつわる法律や規制で目まぐるしい中、有名バンドからニューカマーまで良作で溢れた1年だったと思いました。特に禁断の多数決『はじめにアイがあった』、ZAZENBOYS『すとーりーず』をよく聴きました。乾杯!
【金田渉】
ソウル・ファンク寄りのロックとポップスが好き。2012年の1曲は、奇妙礼太郎トラベルスイング楽団『LIVE GOLDEN TIME』のラスト「君が誰かの彼女になりくさっても」。まっすぐな歌声が、直球で胸に響きまくりました。twtr: @shoshoshosho
【小泉創哉】
大学生になったことで一気に世界が広くなった一年。だからこその苦労や喜びが沢山ありました。矢沢永吉の「IT'S UP TO YOU!」。2012年の一曲であるとともに、これからも生きていくうえで忘れないでいたいメッセージ。
【こさかりょうじ】
日本のインディーとかサブカルが好きです。2012年はシングルリリースやEPリリースの曲が印象的で、ツチヤニボンドの「20世紀青少年」、渋谷慶一郎 feat.太田莉菜「サクリファイス」などがお気に入りでした。
【小林翔】
会社そっちのけ、余計なことばかり考えた果てにフライローからアイドルまで原稿を書いた2012年。2012年の1曲には阿良々木月火「白金ディスコ」を推薦。書き仕事募集しています。ツイッターは@maculama
【坂本哲哉】
2012年はBurialに始まり、Burialに終わった1年であった。とはいえども、昨年(2011年)以上にエメラルズ周辺に大いに楽しませてもらったのもまた事実。でも、2012年の1曲はDean Blunt & Inga Copelandの「9」。やっぱり理解できないものは面白いですね。
【滝沢時朗】
2012年はインターネットを主な活動の場にしている音楽シーンが目に見えて実を結んだ年でした。その中でも特にヒップホップは充実していて、tofubeats『水星』、田我流『B級映画のように2』をよく聞きました。
【田中久仁彦】
ドラム叩きます(主にジャズ)。ジャンル問わず色々聴きます。とうとう三十路を迎えたこの2012年ですが、沢山の良い音楽に出会えた素晴らしい一年でした。ツイッターは@qunihico
【田中三千穂】
ここに参加したことで、しがない会社員の日常に、新しい風が吹き込まれました。生まれて初めてレビューを書いた、トクマルシューゴの「Decorate」は、2012年いちばん聞き込んだ作品になりました。
【中川泉】
現在大学4年生です。未だ震災や原発の被害がタブー化される空気の中でも、音楽を通して正確に現実を伝えようという多くのミュージシャンの志を強く感じた1年でした。2012年の1曲は、踊ってばかりの国「セシウム」。
【肥後幸久】
キリンジの堀込泰行さんの脱退や、トマパイの散開等、個人的に残念なニュースもありましたが、2012年も色々と素敵な音楽に出会えた気がします。
【藤枝麻子】
福島県出身の大学4年生です。2012年はあっぷるぱいの登場がとても印象的で、よって「あっぷるぱい」が私の年間ベストかもしれません。彗星の如く現れた彼らがもう気になって仕方がありません。
【吉田洋平】
2012年「メリトカリ」というWebレコードショップと吉田ヨウヘイgroupという名前のバンドを始めました。2012年の1曲はKindnessの「Gee Up」。特にプロモーションビデオがかっこいいと思いました。
【渡辺裕也】
元講座生の渡辺裕也です。今は音楽ライターを生業にしています。
装幀★笹村祐介
2013年4月7日 発行 初版
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