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食べ物が出てくる小説作品集
高田馬場駅からほど近い、そのビルのエスカレーターを上がると本屋がある。そこは、ぼくが榑松君を待つ場所だ。けれど、今日はそこには行かず、ビルの下にあるパン屋に直行した。そこがぼくらのステージだ。パン屋の前にギターを置いて、通りゆく人を眺める。シャッターが下りると、ぼくらは歌いだすことに決めているのだけど、榑松君が来る気配も、シャッターが下りる様子も、まだない。仕方がないのでギターを取り出し、アルペジオの練習をボソボソと始めることにした。小心者のぼくは榑松君がいないと歌えない。目線を前に向けることなく、コード弾きを繰り返した。前を向くのは、恥ずかしい。そうやってボソボソしてると、誰かに声をかけられた。
「 あ、うどんやさんですよね?」
その女の子はおそらく早稲田大学文学部に通っている。それがどうしてわかるかというと、ぼくは大学生でもないのに、そこの学食でバイトしているからだ。ぼくは主に麺類や丼ものを作るコーナーにいて、彼女ともニ、三度言葉を交わしたことがあった。だけども、その場所以外で会ったことはないせいか、とても不思議な感じがして、少し緊張した。
「 あ、あぁ、どうも。近くに住んでるんですか?」
「 はい、この辺で一人暮らしです」
と、彼女はにっこりと笑った。学食で話す時も、そんなふうににっこりと笑う。ぼくはその笑顔に、少しドキッとする。
「 ここで歌ってるんですか?」
そう聞かれ、「あ、はい」と答える。
「 へぇ、すごいですね」
と言われるが、へたくそなことを彼女はまだ知らない。
「 すごくないです、全然」
ぼくは猛烈に首を振る。それを見て、彼女はまたうれしそうに笑った。
「 すごいですよ。見知らぬ人の前で歌えるなんて。すごく勇気があると思います」
ぼくが歌えるのは、榑松君がいるからなのだ。一人でなんか恥ずかしくて歌えはしない。ぼくの勇気というのは、一人では生まれることがないのだ。
「 勇気なんてないです。ただ、好きなことを友達とやってるだけで。その友達がいなかったら、おれは何かをできるような感じじゃなくて……」
そのあとの言葉を探していると、対面に座っていた彼女は立ち上がり、ぼくの隣に移動した。彼女が、ちょこんと座りこむと、夜の風が彼女の髪のにおいを連れ来た。ぼくはまたドキッとして、汗がにじんだ。
「 うどんやさんの見てる風景はこんな感じなんですね。こっち側に座る勇気が私にはやっぱりないです」
「 って、言いながら、座ってるけど……」
彼女は、「あ、そうですね」と言って、笑う。
「 ギターって、指、痛くないですか?」
「 最初は痛かったけど、もう指先がかたくなったから、痛くはなくなりました」
ぼくがそうやって左手の指先を見ていると、彼女はその手をとって、そこに触れた。
「 うわぁ、ほんとかたい」
汗ばんでるのがバレないか。ぼくはそれだけが心配だった。その感じが不自然だったのか、ぼくらの会話は途切れた。そして、少しして、彼女が切り出した。
「 ……うどんやさん、あしたも学食にいますか?」
「 え、はい、うどんじゃないとこにいるかもしれませんけど」
「 えー、うどんのとこがいいです。私、うどんやさんの作るうどん、好きなんです。特に関東風の」
少し濃いめのつゆの関東風。彼女がそればかりを頼むことをぼくは知っている。
「 あ、ありがとう」
「 あの……」
彼女が口ごもって、何かを言おうとした。ぼくは息を飲み込む。
「 あの、私……」
高田馬場駅を降りて、本屋へ向かう。エスカレーターを上る前、あのパン屋が視界に入る。あれはもう、十年も前のことか。彼女も榑松君も、もうどこにいるのかわからない。もしも今そこにぼくらがいたとしたなら、うまく話せるんだろうか。いろんなことがありすぎて、複雑になってしまったこともある。ぼくは本屋に行くのをやめて、パン屋の前に腰を下ろした。もう、胸が苦しくなることはない。むしろ、ただ優しくなってしまうほどだ。まだ少しかたい左手の指先に触れているとき、少し遠くから、ストリートミュージシャンの歌声が聞こえてきた。あのときのぼくらは、この景色がすべてだった。
ショッピングモールのフードコートでセルフのさぬきうどんを注文する。私はここのうどんが気に入っている。小腹が空いたときにはちょうどいい。ちょうどおやつ時だったので、CDを買ったあとにそのうどんを食べた。あぁ、やっぱりおいしい。満足して、紙コップに水をためる。それを一気に飲み干すのが、至福のときだ。飲み終えて、紙コップをゴミ箱に捨て、本屋にでも寄ろうかと考える。と、そのとき私に聞こえてきた声。
「 そっちじゃないよ。赤いほう」
ゴミ箱の前に幼い子がいて、少し離れたところから、母親がその子に言っている。
「 こっち?」
幼い子は、「 燃えるごみ」のほうを指差している。
「 そう」
母親はうなずく。あ。もしかして、私。「 燃えないごみ」のほうに紙コップを捨てた? それを見た子どもが、同じようにしようとしたのだ、きっと。私は、なんだか大人失格のような気持ちになる。その子がそれをちゃんと「 赤いほう」に入れたのを見届けると、恥ずかしい想いになって、私は赤くなった。ちゃんとしなきゃ、私。そう思いながら、チョコレートサンデーに目がくらんだ。やっぱり子どもだ、私。
一人暮らしとは言っても、実家までは電車で三十分だ。何の予定もない週末、おれは電車に乗って実家に帰ることにしている。その日はあいにくの雨だったが、迷わず、傘を持って家を出た。駅について、三十分すると、しっかりと育った町に着いた。傘を広げ、そこから少し歩く。特別、家族に会いたいというわけではない。会いたくないというわけでもないけれど。会いたいと思うのは、実家で飼っている、愛犬の「 ピース」くらいだ。「 ピース」の片方だけ垂れた耳を思い出すと、笑顔がこぼれる。ピースを思うとき、その名の通り、心は平和になる。いい名前だ。おれは自分で付けたその名前を、誇る気分になった。
そんなとき、平和には似つかわしくない音が、耳に入り込んだ。それは目の前で起こった。雨で郵便バイクがスリップしたのだ。幸い、車や歩行者はおらず、大きな事故になることはなかったが、郵便局員は痛そうに、腰を押さえていた。
「 だいじょうぶですか?」
倒れたバイクを起こして、郵便局員にそう言った。
「 すみません、大丈夫です」
頭を下げた郵便局員を見て、おれは驚いた。すぐに誰だかわかったが、胸の名札を見て確信する。彼の名は、和田やすを。中学時代の同級生だ。十年ぶりの再会だ。彼のことは「わだやす」というふうに呼んでいた。
「 わだやす! わだやすだよね?」
「 え、あ、あぁ、ユキオ? 久しぶり」
わだやすも、すぐにおれのことがわかった。
「 久しぶり。郵便局に勤めてるんだ?」
「 うん、そう。そっか、卒業以来会ってないもんね。ユキオは何してるの?」
「 スタジオミュージシャンの、見習いみたいなもんかな」
「 ミュージシャン? すごいね!」
「 いや、スタジオミュージシャンだし、まだ見習いだし、全然すごくないよ」
デビューするのをあきらめただけだ、と言おうと思ったが、やめた。雑用ばかりで嫌気がさしていて、なんとか、こなしているだけの日々。それを誇ることはできない、そう思った。
「 そうか、でもまだ曲作ってるんでしょ? こんど聞かせてよ。中学のときに聞いたやつ、オレ、好きなんだよね」
「 中学のときのって、なんだっけ?」
「 なんだか忘れたけど」
「 忘れたのかよ」
そう言って、おれは笑った。わだやすも笑ったけれど、「 でも、すごくいいと思ったことは忘れてない」と言った。そして、「 じゃぁ、配達があるから」と、わだやすはバイクにまたがり手を振った。腰は大丈夫かと心配したが、話した様子と走り去る姿からは、問題ないように見えた。それを見届けて、おれはまた歩き出した。
実家に着いた。ピースがしっぽを振って出迎える。頭をなでるとピースはくるくると回って、喜びを表現した。それからドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。なんだ、出掛けてるのか。バックから鍵を取りだし、ドアを開ける。いつもと変わらない家の中の様子に安心し、自分の部屋に入った。そして、押し入れを開けた。取り出したのは、中学校の卒業文集だ。わだやすと会って、少し懐かしくなったのだ。当時好きだった子の名前を見つける。たしかもう結婚して、子供もいるという話を何年か前に聞いた。
「 ありがとう。忘れないよ。ほんとにありがとう」
その子の書いた寄せ書きのとなりに、
「 生きてることは、素晴らしい」
そう書かれた自分の言葉を見つけて、こそばゆい気持ちになる。そうだ、必死で、この子のとなりを確保したんだよな。そう思いながら、寄せ書きを見渡すと、わだやすのところにたどり着いた。
「 私はあなたの、心の中に。昨日の給食は、胃の中に」
それに吹き出しながら、そうだ、この曲だ、と思い出した。そして、部屋の片隅に飾られたギターを手にし、おもむろに歌い出した。
♪遠く離れた恋人よ あなたと別れる日が来たよ
思い出はきれいになるから なるべくプレゼントは捨てるよ
それでも私はあなたの心の中にいるでしょう
昨日食べた給食の ソフト麺が胃の中で
消化されても思い出せるように……
「 いい曲だねぇ! それ!」
卒業式の前日にわだやすが言った。
「 この歌詞、俺とおまえの共作な。印税、半分やるから」
「 ほんと? じゃぁ、十年後には、武道館だね」
「 いいねぇ!」
二十五才のおれは、そんな会話を思い出ながら、その曲を何度も何度も繰り返し、歌う。十年前に消化されたはずのソフト麺の味が、心にそっと沁み込んでいた。
「 せっかくスカート履いてきたのに、何も言ってくれないんだね」
彼女はドーナツショップでホットティをレモンで飲んでいる。
クラムチャウダーをほうばる彼に、ふてくされながら。
「あ、ごめん」
彼の返事に、彼女はため息をついて、またホットティを口にした。
-スカート履いてよって、いつも言ってたもんな、なんで今日に限って気がつかないんだろう、バカなおれ-
-なによ、せっかくスカート履いてあげたのに、全然興味ないじゃん、なんか損した-
ふたりの間に不穏な空気が漂う。
「 ねぇ、私に興味なくなった?」
「 いや、すごく好きだけど」
好きという言葉も、そう簡単に言われては、ぐっとこない。彼女はもっとなにか、あたたかいものが欲しいと思っている。たとえばそれは、ホットティなんかじゃなくて。クラムチャウダーでもないんだけど。
「 おいしい? それ」
彼はクラムチャウダーをもぐもぐと食べている。
「 食べる?」
「 うん」
「 熱いから気をつけて」
「 うん」
彼がそう言ったにもかかわらず、彼女は「アチッ!」とくちびるを抑えた。
「 だいじょうぶ?」
「 うん、でもすごいね、こんなに熱いの平気で食べれるなんて」
「 あなたが猫舌なんだよ」
そう言って、彼は、クラムチャウダーをフーフーと冷ました。
「 子供じゃないんだから」
彼女は小さく笑った。
「 大人でもないけど」
彼はいたずらににやけて、クラムチャウダーを彼女に食べさせた。
「 恥ずかしいなぁ」
「 いいんだよ、恋人同士なんだから」
なにかあたたかいものが、ふたりの体を包み込んだ。
「 海にいきたい」
考えてみてほしい。外は雪だ。この雪の中、車を走らせ、海に行くと言うのか。
「 うん、海を見たい」
彼女が頑ななことは、2年の同棲生活でとうに気付いている。が、そう言われても、下手したら海に着く前に凍え死ぬ。ついこの前だぞ、海に続く国道で車が雪で立往生するニュースがあったのは。
「 今日から明日は雪の予報ないし、大丈夫だよ」
それでも、この寒さだ。海の音が癒しにはならないんじゃないかな。
「 じゃぁ、ひとりで行ってもいいの? きみはきっと私が心配で眠れなくなっちゃうよ」
どうやら彼女もぼくを把握している。うん、その通りだ。ぼくは心配ごとがあると、落ち着いていられないタチなのだ。頑なな彼女は最後はいつもその台詞で、自分の主張を勝ち取る。わかってはいるが、それを言われると、まぁいいか、となるのだ。
そうして、出発した車は、無事に海にたどり着いた。心配は杞憂に終わって、ぼくはほっと一息ついた。
「 近くまで行ってくるね。待ってていいから」
車を止めると、彼女はそう言って、雪の積もる浜辺を歩いていった。この海は流氷をつれてはこないけれど、まるでシャーベットのようなシャキシャキとした音が、彼女の足音と重なって聞こえた。ぼくは車の中で、自販機で買ったコーンポタージュを飲みながら、やがて佇んだ彼女の後ろ姿を見つめていた。そういえば、彼女と出会ったのは夏の海で、そのときは、ぼくが夕陽を見つめていたんだっけ。あのとき、彼女はぼくにそっとハンカチを差し出した。戸惑うぼくに「綺麗ですもんね、夕陽。泣けちゃいますよね」と、ゆっくりと笑いかけて「 どうぞ、どうぞ」とおどけたのだった。ぼくはそれに答えるように笑って、そのハンカチで涙をぬぐった。ぼくはそのとき、死のうとしてたことを忘れて、生きてることがうれしくなった。彼女がいなければ、ぼくの今は存在していないのかもしれない。
コーンポタージュが、缶の底にたまっている。ぼくは手でトントンとそれを叩く。叩くと、缶が口に当たって、痛い。あのとき死にたかったわけは、きっとこのコーンポタージュのような悪循環だったんだなと今では思う。そうして叩くのをやめたコーンポタージュの缶を置いたとき、さっきまでそこにいたはずの彼女を見失った。
え、どうした?
まさか海に?
そんなことないよな?
でも、足を取られて……
最悪のシナリオが頭をよぎる。ぼくは車から降りて、雪の中を走る。晴れた今日は、ところどころがアイスバーンのようになっていて、つるっとすべった。すべって、起きて、走って、波打ち際に彼女がいるのを発見した。よかった、ひと安心だ。
「 あ、来たの?」
振り返らずに彼女がそう言ったのが聞こえた。そろそろ帰らない? やっぱり寒いし。そう聞いてみると、彼女は「そうだね」とつぶやいた。ぼくはそこで彼女が泣いているのがわかった。そっと横に行き、ハンカチを差し出してみる。綺麗だもんね、海。泣いちゃうよね。そうやって笑って見せると、彼女はふっと笑顔に戻った。
「 死のうとしてるみたいだった?」
ぼくは首を横に降って、あなたはおれの太陽だから、そんなことはしないよ。と、言った。
「 でも、心配したんでしょ」
いたずらに笑う彼女の手を取って、ぼくは海をながめた。風邪引くよ。太陽でも風邪引くの? 太陽が風邪を引いたら、大変だ。そんなことを言ってぼくらは笑った。
シャーベットみたいな海の音が聞こえる。それはなんだか優しく深い音だ。まるで彼女の寝息のようだと思った。
「 コーンポタージュ、残ってる?」
「 飲みたいの?」
「 うん」
「 じゃぁ、ファミレスにでも行こうか」
ふたりして熱にうなされることになるのは、明日になってからのことだ。
窓から小さな風が吹き抜ける。リビングのソファーにだらりと腰掛けた私は、深く息をついた。
「 まぁ、しばらくゆっくりしたらいいさ」
離婚してへとへとになった私を、お父さんは温かく迎え入れてくれた。お母さんは私が中学生のころ亡くなっている。それから東京の大学に入るために上京するまで、私はお父さんと、ふたりで暮らしてきた。上京してからは、学費を稼ぐために、お父さんに内緒で水商売のアルバイトをした。お酒を飲んで、男の人と話す。本当にそれだけで、危険な目に遭うことはなかったのだけど、どこか後ろめたい気持ちがあって、お父さんにそれを言うことはなかった。
「 うん、そうする。ほんとにすごく疲れた」
「 今日は何がいい? クリームシチューにしようか?」
小さいころ、私が何かで泣いたとき、お母さんはクリームチューを作ってくれた。それを食べると私は泣きやんだのだ。お母さんがいなくなってからは、それをお父さんが受け継いだ。私はもう大人になったので、クリームシチューでなくても泣きやむことはできるけれど、お父さんの気遣いに甘えることにした。
「 うん、ありがとう。ちょっと部屋で休むね」
私は昔使っていた自分の部屋に入った。東京にいても一年に何度かはこの部屋に帰ってきている。お父さんは私のいない間もきちんと掃除しているから、むしろ帰るたびにきれいになっている気がした。いつもの配置、いつもの西日。それは私をひどく安心させた。そして、帰ってくるたび確かめるようにする行為を、今日もまたおもむろに繰り返した。
”拝啓、西脇ユキ様”
その手紙を西日が差し込む部屋に広げると、二十二才だった私と彼が、脳裏に浮かんでくる。
「 ミキちゃんは東京の人?」
「 ううん、北海道」
「 ほんと? 俺も札幌だよ」
「 あたしは小樽だよ」
「 へぇ、じゃあ近いね。なんかうれしいなぁ」
彼は私の源氏名を呼んだ。だから私は「 ミキ」のまま彼に答えた。ほんとうは札幌にいて、中学生のころに小樽に引っ越した。そう言おうとも思ったけれど、私は「 ミキ」なのだ、そう思ってやめた。私は彼が「 たてうちくん」だとすぐにわかった。笑うとできる片えくぼと、そのときそれをなでる仕種が、中学生の時と変わらなかったから。彼の名前と昔話をおもむろに引き出して聞くと、やっぱり「 たてうちくん」だということを確信した。
小樽に引っ越した中学生の私は、たてうちくんと文通をした。ちょうどお母さんが死んでしまったときで、途方にくれている私を、たてうちくんは一生懸命手紙で勇気づけてくれた。その手紙の一文字一文字を、いつしか愛しく思うようになって、それが恋だったことをいつしか知った。
たてうちくんと東京で逢うなんて。私はすごくドキドキしてしまって、氷をかき混ぜる動作を必要以上に繰り返した。私が「 ミキ」ではなく「 ユキ」だと知ったら、彼は何を思うのだろう。だけど、彼は私を「 ユキ」だとは思っていない。それが少し悲しい。彼がいっしょに来ていた仕事仲間と店を出るとき、私は彼にキスをした。
「 置いていかれちゃいますよ」
「 あぁ、うん。そうだね」
あのね、私が手紙を出さなくなったのは、たてうちくんのせいなんだよ。”彼女ができたよ。西脇さんも早く彼氏ができるといいね”それを読んでしまったからなんだ。だから、これはさよならのキス。私の淡い幼い恋と、さよならするよ。たてうちくんとはもう会わない。私は次の日、お店をやめて、住んでいた部屋も引っ越した。引っ越した街で、やがて結婚することになる彼と出会った。そのときの私は、とても幸せだと思っていたけれど、結局、別れることになってしまった。
「 ユキ、買い物、行かないかい? 無理ならいいんだけど」
ドアがノックされたあと、お父さんの声が聞こえてきた。私はたてうちくんの手紙を引き出しに戻して、ドアを開けた。
「 もう行ってるかと思ったよ」
「 あぁ、行こうかと思ったんだけど、クリームシチューの材料、忘れちゃってな」
「 仕方ないなぁ」
私は少し笑いながら、ベッドにもたれて、言葉を続けた。
「 お父さん、再婚しないの?」
お父さんは腕組をして少し考え、それから言った。
「 まだ、お母さんのことが好きだから、そんな気になれないんだよ」
それはなんとなく私と同じだと思い、なぜか少し、おかしくなった。
「 それならどっちが早く再婚するか、勝負しない?」
私は、にやっとなって、そんなことを言っていた。お父さんは、少し驚いた顔をして、やがて少しずつ優しい笑顔を浮かべた。
「 あぁ、いいよ。お父さん、負けないから」
クリームシチューの材料を買いに行こう。私は、起き上がって、お父さんの腕につかまった。
マイナス二十五度の世界は、「 寒い」ではなく、「 痛い」だ。
仕事を終えて駐車場まで小走りをすると、「 痛っ!」という言葉と「 さささ、すすす……」という、とにかくサ行のなにかしらが口からこぼれてしまう。駐車場にたどりつき、車に乗り込んでも、スターターのないオンボロ車の車内はひどく寒かった。フロントガラスは寒さで凍り付いて何も見えない。「 痛い」が「 寒い」に変わっただけましだと思いながら、エンジンを回す。徐々に姿を現す、フロントガラスの向こう側。あぁ、そうだ、今日はいつもの店で彼女と待ち合わせだ。温かいスープをふたりで食べよう。そのときの彼女の表情を想い浮かべるだけで、心が温かくなっていくのがわかった。
*
「 涼子さん、今日ごはん食べに行きません?」
仕事終わり、後輩が声をかけた。あいにく今日は彼と会うことになっている。
「 ごめん、今日は用事あるから」
後輩は判を押したように、「 あ、デートですか?」と聞いてくる。彼女は私が誘いを断ると、いつもそう言うのだ。それは今では「 おつかれさまでした」のような事務的な挨拶にさえ思えてしまう。「 おつかれさまでした」というのが苦じゃないように、そう聞かれてもけして苦ではないからいいのだけど。
「 うん、そうだよ」
「 いいなぁ、私もデートしたいなぁ」
「 あれ、彼氏いなかったけ?」
「 別れました」
この一連の流れも挨拶のように、彼女は付き合っては別れることを繰り返している。まぁ、私も若いけど、若い時はたくさん恋をしたらいい。まるで親心のように、そんなことを思う。
「 今日は、二十五℃だそうですよ、外」
もちろん夏ではない。いちいち「 マイナス」など付けないだけだ。
「 今のは聞かなかったことにする」
気持ちが萎えるほどの寒さだ。あぁ、そうだ、今日はいつもの店で彼と待ち合わせだ。温かいスープをふたりで食べよう。そのときの彼の表情を想い浮かべるだけで、私は温かくなっていくのがわかった。
*
おれたちはふらりとレストランに立ち寄った。「 ふらり」というほど、軽やかな気分ではない。むしろ、どうしようもなくなって駆け込んだ、に、近い。別れ話をこんな寒い中でするなんて、彼女はどうかしている。
「 とにかく、あったかいとこで話さねぇ?」
彼女もそれには異論はなかった。あたりまえだ。駆け込んだ、その店のあったかさに、ほっとする。
「 ご注文お決まりでしょうか?」
注文ボタンを押したんだから、あたりまえだろ。まったく、どいつもこいつも。別れ話に金なんかかけてたまるか。
「 本日のスープ2つ」
彼女が「それだけ?」と言ってくる。
「 他にあんの?」
「 ないけど……」
おれはウエイトレスに「 以上で」と告げる。「 かしこまりました」と言い残し、ウエイトレスはその場を立ち去った。隣の席では幸せそうなカップルが、会話を弾ませている。やがて、スープが運ばれてきた。横目で見ると、隣の席も同じスープだ。
「 とりあえず、食うべ?」
彼女は「 うん」とうなずき、スープを口にする。おれも同じように口にする。「 うまいっ!」「 おいしい!」「 うまっ!」「 おいしー!」同じタイミングで言葉が漏れ、隣の席のカップルとハモった。おれたちは思わず顔を見合す。
「 あ!」
彼女が驚く。隣の席の彼女も驚く。
「 先輩!」
どうやら、ふたりは知り合いのようだ。それぞれぎこちなく挨拶をしながら、「 このスープ、おいしいですね」と、はにかんだりした。
*
その店に入るなり、2組のカップルが同じスープを食べてるのが見えた。今日はスープを食べるつもりはなかったのだけど、あまりにもそれがおいしそうに見えて、ぼくはそれを注文することにした。そのスープが来るまでのあいだに、母からメールが届いた。
<誕生日おめでとう。寒いだろうから、体に気をつけて元気で>
ぼくは返信をする。
<ぼくを産んでくれてありがとうございます。かあさんも体に気を付けて>
そう打っていたところで、スープがやってきた。スープは思った以上においしくて、なんだか幸せな気分になった。こんど、かあさんが来たときは、このスープを食べさせてあげよう。スープをケータイのカメラに収めて、メールを返した。
*
「 今日は、やけにスープが出ますね」
少し手が空いて、私は厨房の綿谷さんに声をかけた。綿谷さんはぶっきらぼうに「 今日は底抜けに、寒い日だからな」と、答えた。
「 そうですね。外は二十五℃だっていいますもんね」
「 そうか、そりゃぁ、スープも出るわけだ」
綿谷さんのスープはいつだって人気だ。今日が特別なわけじゃない。特別ではないけれど、誰かにとっては、少し特別なのかもしれない。私はぼんやり、そんなことを思った。
「 ほら、また注文入ったぞ」
私は仕事モードに切り替えて、足早にホールに向かった。
仕事から帰って、真っ先にベッドに倒れこんだ。直後に彼氏からのメールが来たけれど、それを返信する余裕はなく、後回しにすることにした。そうして、しばらく動かずにぼーっと天井を見ていた。天井の「 井」の字の真ん中に点が入ると「 天丼」になる。そんなことを考えていると、天井に天丼のシルエットが浮かんできた。
「 天丼食べたいなぁ……」
そうつぶやくと、グーッとお腹が鳴った。あぁ、そういえば。昨日、母から届いたダンボールをまだ開けてなかったっけ。それを思いだし、部屋の隅に置いておいたダンボールを開けた。そこに天丼は入っていなかったけれど(入っていても困るけど)、春野菜やら栄養ドリンクやらが入っていて、少しはお腹も満たされそうな気がした。2日も連絡を怠れば心配した母が電話をよこすだろうと思って、その前に今日は私から電話をすることにした。
「 もしもし、私」
「 あぁ、届いた?」
待ってたかのように、母の声は高くなる。
「 うん、届いた。ありがとう」
「 よかった。あ、ねぇねぇ、いま思ったんだけど、”オレオレ詐欺”ってあるけど、”ワタシワタシ詐欺”ってないね」
楽しそうに母はそんなことを言った。彼女は思ったことをすぐ言ってしまう人なのだ。私はしょうがないなぁと思って、「 そうだね」と言っておいてあげた。
「 少し疲れてるんじゃない?」
私の対応が悪かったのか、母はそんなふうに心配した。別にいつも通りの対応なのだけど、疲れてることは正解だ。だけど素直じゃない私は「平気」とそっけなく返してしまう。
「 それならいいけど。あ、そういえばねぇ、あなたがお父さんにあげた”ミドリノナントカ”ってやつあるでしょう?」
「 ミドリノホネノツラナッテ」
花屋さんで仕事をしている私は、父の誕生日に、その変な名前の多肉植物をあげた。
「 あぁ、そうそうそれ、お父さん、相当気に入ってるみたい」
父は昔から少し変なものが好きだ。緑の葉っぱがくねくねとした茎からつらなって生えるその植物は、父好みだと私は直感でわかったのだ。
「 そう、よかった。やっぱりお父さん、へんなもの好きなんだね」
「 うん、しかも名前まで付けて呼んでるのよ、笑っちゃうわ」
母は、ふふふとこらえきれない声をもらした。
「 なんて名前?」
「 あなたの名前」
「 私の?」
「 うん、淋しいんじゃない? たまには帰って来なさいよ」
「 帰っても、あんまり話さないじゃん、お父さん」
「 口ベタだからねぇ。でもほんとはものすごくうれしいの。わかるもん、私。可愛いよね」
母のおのろけを聞きたいとは思わないので、「 そりゃぁ、よかったねぇ」と”母の母”のような気持ちで言っておいた。そうして電話を切って、彼氏にメールの返信をしようと指を動かした。その作成途中でメールをするのをやめた。私は彼に電話しようとボタンを押した。そしてこう言うのだ。天丼作るから、一緒に食べよう、と。
コートのポケットから手を出すことができない。そのぬくっとしたあたたかさをいつまでも閉じ込めておきたい。たとえばモツ鍋を食べるときのような、あたたかさだ。そんなことを思うぼくの隣を、彼女は歩いている。彼女がこうしてぼくを呼び出すときは、たいてい何かにつまずいているときだ。それは季節ごとにやってくる。だから、ぼくは彼女と、1年に4回会うことになる。今日は、4回目、季節は冬だ。彼女も同じようにコートのポケットに手を入れている。空には星が瞬く。とても綺麗だ。
「 口笛、吹ける?」
彼女はぼくに聞いた。さっきからこんなふうにとりとめもない話ばかりしている。口笛は吹けないことはわかっていて、吹いてみた。スカスカした北風のような音を鳴らすぼくに、彼女は大笑いした。ぼくも、自分で自分がおかしくなり、いっしょになって、笑った。
「 へたくそだねぇ。そんなにできないと思わなかった、ははは」
彼女は、けらけら笑っている。
「 ちなみに、今、何吹いてたの?」
「 <夜空のムコウ>のはじまりのところだよ」
ぼくも、けらけら笑ってる。
「 全然わからなかった。もう一回やって?」
そのフリを待ってたぼくは、また思いっきり、スカスカした北風を吹いてみる。ぎゃははは! ぼくらはどうやらツボに入ったようで、それを5回続けてみた。そして、ちょっと飽きてきたなってころ、彼女はやっと落ち着いた口調になった。
「 <箸が転んでもおかしい年頃>って、こういう感じ?」
「 それ、高校生くらいの年頃じゃないの? おれらもう二十八になるっていうのに」
「 そっか、でも面白い。なかちゃんといると、<箸が転んでもおかしい年頃>になっちゃうよ。これって、恋なの?」
そんなことを彼女が言うので、ぼくはまた、吹けない口笛を吹いてやった。ぎゃははと彼女は笑う。
「 そんな出まかせばっか言ってないで、空でも見てごらんよ。今日は”なんとか流星群”が見れるんだってよ」
ぼくらは空を見上げた。だけど、なんとか流星群らしきものは見当たらなかった。
「 そっちこそ、出まかせじゃないの?」
彼女は小さく笑った。
「 まぁ、いいじゃん」
ぼくも適当だ。
「 でも、星がきれいだね」
「 うん、きれいだぁ」
「 なんか、すっきりした。いろいろ」
それは本当にすっきりしたような、柔らかい言い方だった。
「 そっか、それはよかった」
「 ありがとう」
「 いいえ、こちらこそ」
「 今度はモツ鍋が食べたいなぁ」
彼女もポケットの中に、モツ鍋のようなぬくもりを感じたのだろうか。ぼくは少し、うれしくなる。
「 あぁ、いいよ」
ぼくはポケットから手を出して、思わず彼女の頭をポンポンと触れた。彼女はそれに、少し笑って、つぶやいた。
「 はぁ、モツ鍋食べたいなぁ……」
空にはモツ鍋座があるんじゃないかってほど、空を見上げて彼女は切実そうに言った。
まったく子どもっていうのは、無力だ。
まだ隣の県に行くだけでも大きな何かを超えた気分になるというに、山梨から北海道はあまりにも遠すぎる。あの、こもった空気の中で、「 ほうとう」はもう食べられない。
「 ジンギスカンっていう羊の肉の料理があるんだぞ。それがまたうまいんだ。な?」
父さんは何かを確認するようにそう言ったけれど、まったくもって勝手だ。「 父親の仕事の都合で」。ありきたりのキーワードで転校してきたぼくは、その冷たい気温が心まで届くように、とにかく淋しくて仕方なかった。
そんな淋しさが消えないまま、教室では、それっぽい挨拶を終えて、指示された席に座る。となりの席の女子は「 よろしく」と小さく会釈をした。ぼくも「 よろしく」と遠慮がちに返すと、その子はニコッと笑った。少しだけ淋しさが和らいだ。それから何もなかったかのように、授業がはじまった。
ぼくはあまり集中ができず、窓の外を眺めたりした。空にほうとうが浮かんだりしながら。それを見ながら、片手で机の中に手をやる。なんとなく不安なときはいつもそうするのだ。そうしてると、机の裏側に何かが張り付いていることに気付いた。箱の中身はなんだろな、みたいな気持ちになる。細長い長方形の……封筒? ぼくはそれを剥がして、目で確かめた。
<拝啓、転校生様>
そんな表題が書いてある。となりの席の子に聞いてみる。
「 ねぇ、おれが来る前、誰か転校した?」
「 うん、ちょうど入れ替わりで、転校した女の子がいたよ」
そうか。その子が置いていった手紙か。ぼくはそれを家に帰ってから読むことに決めた。
家に帰ると、待っていたかのように母親が声をかけてきた。
「 学校どうだった?」
「 あぁ、まぁ、楽しかったよ」
母親には安心してほしいので、適当なことを言っておいた。
「 そう。よかった。それにしてもこっちは寒いねぇ」
「 そりゃぁ、北海道だし」
ぼくはまた適当なことを返して、自分の部屋に入った。早く手紙を読みたかったのだ。
「 きょう、ジンギスカンだから」
ほうとうが食べたいというのに。またそんな気持ちになりながら、手紙の封を切ってみる。
拝啓、転校生様
はじめまして。あなたは誰ですか?
あなたの名前がわからないので、私の名前も言いません。
と言っても、クラスの子に聞けばすぐにわかることでしょう。
だから書かないことにします。
って、まわりくどいですね。ごめんなさい。
そんな出だしで手紙は始まり、その後もまわりくどく遠慮がちな文章が続いていた。
今のクラスが好きなこと、転校したくないこと、新しい場所は不安なこと。
あなたは、どうですか。
あなたも、不安ですか。
転校したくなかったですか。
答えは聞けないけれど、
あなたはそんなことないと笑っていたら、
なんだか少しうれしいです。
ぼくは、そのまわりくどい手紙を何度も読み返した。寝そべりながら、椅子にすわりながら、頬杖をつきながら。そして最後の1文を読んだとき、それがどんな意味を持っているかわかった気がした。
ところで、ジンギスカンはおいしいです。
いつかまた、食べたいです。
ぼくはこの子に、ほうとうを食べてもらいたい。いや、正確に言えば、一緒に食べて笑いたい。どうやら、これは恋なのだ。会ったこともないけれど。ぼくはその手紙に返事を書くことにした。
<拝啓、転校生様>
あなたは誰ですか?
ぼくのこともきっとあなたの友達から知ったりするでしょう。
だから名前は言いません。
って、ぼくも真似してまわりくどく書いてみました。
そんな出だしで書き始める。
同じように不安だけれど、笑っていることに決めたこと、
とても寒いけれど、クラスメイトはあたたかいような気がすること。
そして最後に、
山梨のほうとうはおいしいです。
いつかまた食べたいです。
そう書いてみた。ぼくに、この子の住所を聞く勇気があるだろうか。とにかく今日は、ジンギスカンを食べることにしよう。そう思って、部屋のドアを開けた。
鈴木の家で、すき焼きを食べている。鈴木の家のすき焼きは、おいしい。おそらく世界一、おいしい。俺は勝手にそう思っている。そのおいしさに俺は、遠慮もせず、ごはんをおかわりしてしまう。
「 やっぱり、男の子は食べっぷりがいいわねぇ」
そう言って、鈴木のお母さんはごはんをよそってくれる。
「 すみません、なんせカップラーメンしか食べてなくて」
高校2年の夏、鈴木久美子は徳島に引っ越した。俺は、ギターの購入のためにアルバイトして貯めたお金を、徳島への渡航費にあてることにした。東京湾から出航したフェリーに乗ったのは朝で、鈴木の家にたどり着いたのは、その日の夜だった。
「 それはお腹すくわね。たくさん食べて。クミはあまり食べないから、ごはん、余るんじゃないかって心配だったのよ」
「 じゃぁ、遠慮なくいただきます。ほんと、このすき焼きうまいんで、ごはんもすすみます」
「 あら、そんなにおいしそうに食べてもらえるとうれしいわ、ね、クミ」
俺とお母さんが鈴木のほうを向くと、鈴木は箸を持ったまま、泣いていた。
「 泣くほど、おいしいのね」
お母さんはそう笑って、鈴木の皿に、肉を入れた。
「 ごめん……松原くんが、その席にいるから、なんかお父さんがいる感じがして……すごい懐かしい気がしちゃったんだ……そしたら、へんな感じになって、なんか泣けてきた……」
そうか、鈴木はお父さんが亡くなって、母親の地元のほうに戻ったんだ。俺はなんとも言えない気持ちになって、どうしていいかわからず、とりあえずごはんを口にかきこんだ。その勢いで、のどをつまらせて、ゴホゴホと咳き込んだ。
「 あ、だいじょうぶ? クミが変なこと言うから、松原くん咳き込んじゃったじゃない」
お母さんはそう言って、俺の背中をさすった。鈴木もこちらにやってきて、とんとんと背中を叩いた。
「 タ、タイム、タイム!」
俺はなんとかごはんを飲み込んで、そのあと、水を一気に流し込んだ。
「 ふぁぁー! はぁ……あの、どっちかにしてください、さするか、叩くか」
俺の言葉に、鈴木とお母さんは顔を見合わせて、笑った。
「 え? なに?」
「 だって、お父さんと同じこと言うんだもん」
「 てことは、ふたりとも、いつもこんな感じだったの?」
「 うん、懐かしいなぁ」
そう言った鈴木は、今度は泣かずに、優しそうな笑顔を浮かべた。お母さんも、同じ笑顔で、手を叩いていた。
「 松原くん、うちのお父さんにならない?」
明らかな冗談を、お母さんが言う。
「 なりません」
「 なるなら、娘婿でしょ?」
鈴木がちょっと怒ったような口調で言った。俺はたぶん、このとき決めたのだ。将来は「 鈴木」になろうと。この食卓を、守ろうと。なにより、このすき焼きを食べ続けようと。そんな決心も知らずに、ふたりはケラケラ笑っていた。俺は、世界一おいしいすき焼きを、また味わった。
雑貨屋で見つけたそのスプーンは、持つところが虹のようにアーチ状に反っていた。その商品のポップには<食べにくいことこの上なし!>と、堂々と書かれていて、その潔さにぼくは心が躍った。
「 でも、可愛いね、なんか」
彼女もそれを気に入ったようで、次の瞬間には「 買っちゃおう」と手に取った。
「 食べにくいことこの上なしだけど?」
ぼくが確認してみると、
「 いいの、置いてあるだけでも可愛いし」
そう言って、にっこりと笑った。ぼくはその笑顔が何よりも好きなのだなと思い、彼女をぎゅっと抱きしめたくなった───
本棚の上に置いてある、ふたつのそのスプーンを見ながら、そんなことを思い出している。
「 どうかした?」
彼女と暮らし始めて4年ほどが経つ。「 まだ4年」とも言うのかもしれないが、新しい発見が少なくなる歳月には十分だ。その代わりの安心感もあるのだから、それは決して悪いことではない。マンネリと安心感の、その中間地点にぼくらはいるのだろう。
彼女がテーブルにカレーを置いた。
「 またカレー?」
怒ったふうでもなく、あきらめたふうでもなく、ツイッターでつぶやくかのように、言った。
「 好きでしょ、カレー」
つぶやきは続く。
「 好きだけど、ずっとだと、ちょっとね」
彼女はそれを受け流した。ぼくは少しまずいことを言ってしまったかと焦った。決して、彼女に飽きてしまっているという意味ではないのだけど、そうとらえられても仕方なのないような言い方ではなかったか。
「 あ、いや、カレー好きだよ。毎日だって飽きないよ」
フォローするかのような口ぶりだ。ぼくは「 うん、そう、つまり」と次の言葉を探している。
「 毎日は飽きるよ」
彼女がつぶやく。
「 そんなことないよ」
「 そんなことある。だから、今日はあのスプーンで食べてみよう」
彼女は本棚の上のスプーンを指さした。
「 え、あれで? <食べにくいことこの上なし>だよ?」
「 いいの、いいの」
そう言ってそのスプーンを水洗いすると、「 はい」とぼくに手渡した。手渡された時点からもう、持ちにくい。そして食べようとすると、腕が肩まで上がってしまう。
「 うわ、ほんと、食べにくい」
彼女も同じになっているのを見て、ぼくは大笑いしてしまう。彼女も自分の不格好さに笑ってしまっている。笑いながら食べるそのカレーは、ぼくにとってもう「 いつもの味」になってしまっていて、それがとてもうれしいと思った。
「 おいしい?」
いまさら聞かれても、おいしいに決まってる。だけど、いまは心から伝えたい。
「 おいしいよ、ありがとう」
ぼくは不格好な彼女をぎゅっとしたくなっている。
帰りの電車に乗り込むと、ちょうど、はじっこの席が空いていた。あたしは、そこにため息をつきながら座る。ため息の理由はとてもつまらないことだ。今朝の食事は母の手抜きで、昨日の残りのカレーだった。母が手抜きすることは別にかまわないのだけれど、そのカレーを食べる父に少しいらついてしまった。
「 一晩かけたカレーはおいしいね」
母の再婚相手であるその人を、まだ「お父さん」とは呼んではいない。名字である「あたらさん」と呼んでいる。あたしも同じ名字に変わったのだけど。だからって別に嫌いなわけでもない。けれどやっぱりまだあたしに気を遣う感じには慣れていないのだ。
「 あ、そうですね」
そう返す言葉もぎこちない。
「 そろそろ敬語やめなさい。家族なんだから」
手抜きした母親がそう言う。
「 いや、無理しなくていいよ。自然にそうなればいいんだし」
と言いながら、あたらさんはカレーにソースをかけた。カレーにソースをかける意味がわからないあたしは、それでいらついてしまう。
「 おいしいんですか、それ?」
「 うん、おいしいよ。食べてみるかい?」
とても食べる気にはなれない。
「 いいです。あたしには、ちょっとそれはないです」
「 じゃぁ、何をかけるの?」
「 何もかけないですよ。だってルーがかかってるじゃないですか」
「 そっか。そう言われてみればそうかもね」
そう言ったあとのあたらさんは少し淋しそうな顔をした。あたしはそれを申しわけなく思いながら、いらつきを抑えられずにそのまま学校へ向かった。そんなつまらない理由で一日を不機嫌なまま過ごし、こうして帰りの電車の中でため息をついている。ため息では下に落ちていくばかりなので、上に向かって息を吹きかけてみる。前髪がそれでふわっとなびくと、見上げた棚の上に本が置いてあるのを発見した。誰かが忘れていってしまったのだろうか。あたしはふいにそれを手に取り、パラパラとページをめくる。どうやら小説のようだ。なんとなく目を通しはじめると、いつのまにか夢中になった。それはもう、「 ガタンゴトン」の音さえ聞こえなくなるほどに。そんなふうに物語に入り込んでいて、気がつくと文字がにじんだ。それがあたしのこぼした涙だったことを知り、あわてて指でぬぐった。そうしてるとき、「 よかったら」と、あたしの前にハンカチが差し出された。目の前にいたその人は、若い感じではないけれど髪の長い綺麗な女性だった。
「 あ、ありがとうございます……」
あたしは反射的にそれを受け取って、涙をふいた。そして返そうと思った時、ドアが閉まり、その人もホームを降りてしまった。
「 え、あ、あの、これ!」
その声が車内に響いて、あたしは少し恥ずかしくなってうつむいた。そしてまた小説を読むふりをした。さっきまであんなに夢中になっていたのに、急に頭は違うことを考え出していて、あたしはハンカチで目を抑えた。
帰ったら、もう少し素直になって、あたらさんと話してみよう。今日はこんなことがあったんだよ。そんな他愛もないことを話してみることにしよう。カレーにソースをかけたりもしてみよう。案外おしいのかもしれないし。
ハンカチをしまうと、小さな笑みがこぼれたのがわかった。
飲み会を少し早めに抜け出して、
立ち寄ったコンビニ。
あったかい。
そこでおでんを注文する。
「 つゆ、多めに入れてください」
「 じゃぁ、大の容器にしましょうか」
「 すみません、具が3つだけなのに」
「 いいえ」
店員さんも、あったかい。
いっしょに買ったお茶も、あったかい。
コンビニを出て乗る車、すっかり寒くなっている。
エンジンをかけると徐々に、あったかくなってくる。
通りすぎていく街並みは、
クリスマスに向けたイルミネーション。
信号待ちで停まった刹那、
横断歩道を手をつないで歩く親子。
あったかい。
いつもはHDDからのお気に入りの歌、
でも今日はFMラジオを受信する。
そうしたわけは、とくにない。
ただなんとなく、なんとなく。
そこから流れてくる2003年の恋の歌、
あのときせつなかった恋の歌、いまはなぜか、あったかい。
あったかくて、笑っちゃう。
家について、ドアを開ける。
きみがぼくを出迎える。
暖房のかかった部屋は、あったかい。
「 おでん買ってきた」
「 ありがとう、あれ? 具が3つしかないけど?」
「 食べてきたから。でも、つゆは飲みたい」
「 うん、いいよ」
きみはおでんを食べ始める。
ほくほくしてる姿が素敵すぎる。
「 熱い?」
「 ううん、あったかい」
「 少し、暖房効きすぎてない?」
「 そんなことないよ、暑い?」
「 いや、あったかい」
ここはどこよりもあったかい。
どれほど寒くなっても、だいじょうぶ。
きみがいるから、あったかい。
知らない番号が、携帯電話のディスプレイに点滅表示されている。
ぼくは彼女と雑貨屋めぐりをしているところで、トイレに飾るのにちょうどいいポストカードを選んでいた。ぼくらはこのところ少し倦怠期で、お互いに心が足りていない気がしている。「 もしもし」と電話に出ると、聞いたことのない幼い女の子の声がした。
「 もしもし、つきちゃんいますか~?」
「 え?」
戸惑っているとまた「 つきちゃんいますか~?」 と、女の子は繰り返した。
ぼくはつきちゃんの友達でも親でもないので、これは間違い電話だなぁとわかった。だけど、幼いその声をまだ聞いていたい気持ちになってしまって、
「 つきちゃんはいないけど、おでんくんはいるよ」
と、そんなことを口にしていた。女の子が「 おでんくん?」と聞き返す。ぼくは少し調子に乗る。
「 代わりますかー?」
「 はい、代わってください」
ぼくは声色を変えて、おでんくんになりすました。「 でんがらでんが、でんが、でんが~」と歌いだすと、女の子もつられて歌いだした。でんがらでんが、でんが、でんが~♪しばらくそうして、おでんくんのまま「 つきちゃんに電話しないの?」と聞いてみると、女の子は思い出したように「 あ、間違えました」と、今になって間違い電話だったことをぼくに告げた。
「 じゃぁね、でんで~ん」
「 でんで~ん」
電話を切ると、とめどない優しさがあふれ出てきて、それをこぼさないようにとケータイを眺めた。彼女がそれを覗いてきて、言った。
「 楽しそうだったね」
少し妬いてるのかとも思ったけれど、それを言わない代わりに「 子ども、ほしいねぇ」と、つぶやいてみた。彼女は少し驚いた表情をして「ほんと?」と確認した。
「 うん、ほんと」
彼女は小さく笑いながらハナウタを歌った。ぼくはそれにつられた。
<しあわせはほら、足元に落ちている>
そう書いてあるポストカードを買うことにした。
人が倒れている。バス停の前。畑で、じゃがいもを収穫していた私は、それを見つけて、手を止めた。それから気になって、バス停の方へ歩き出した。ふと、死んでたいらどうしようと思い、鼓動が速くなった。そうして、歩く足が止まった。あのときのように、また世界の終りを迎えてしまわないか……いや、でも、とくにかく安否を確認しなくちゃ。また私は足を前に進めた。
バス停の前に着いた。倒れているのは男の人だった。うつぶせになっているが、顔は見える。背丈はそれほど大きくはない。顔の感じから言うと、まだ若い。私はおそるおそる声をかける。
「 あのぅ……」
反応はない。もう一度声をかけ、上体を手で揺すってみる。すると、道が少し斜面になっているためか、その人はくるりと回って仰向けになった。
え? 死んでる?
一瞬、そう思ったあと、その人は目を開けた。
「 うわぁ!」
思わずそう大きな声を出してしまうと、その人も同じように、声を上げた。そのあと「 だ、だれですか?」と、私に向かって言った。
「 あ、いえ、倒れてるのかと思ったので」
「 え? あぁ、寝てただけです。あ、あれ? ベンチで寝てると思ったのに。オレ、寝相悪いんですよねぇ」
その人は頭を掻いて笑った。その笑顔は私よりあきらかに若い。おそらく二十代だ。もうすぐ四十才の私とは、無邪気さがまるで違う。
「 轢かれますよ、こんなところで寝てたら」
そう忠告すると、その人はぐぅーっとお腹の虫を鳴らした。
「 あ、すみません」
また、同じように無邪気な笑顔をみせた。「 ちょっと待ってて」と私は言って、畑に戻り、じゃがいもを手に取った。そしてバス停に戻ると、その人にそれを手渡した。
「 そのままじゃ食べられないけど、よかったら」
「 いいんですか、すみません。なんかうまくいきそうだな、プロポーズ」
その人はそう、つぶやいた。
「 プロポーズ?」
「 はい、オレ、彼女と遠距離恋愛中なんですけど、今日会ってプロポーズしようと思ってるんですよ。指輪じゃなくて、このじゃがいも、あげようかなぁ」
また同じように無邪気に笑って、頭を掻いている。私は、夫がプロポーズしてくれた日のことを思い出した。私にじゃがいもを差し出し「 ここでぼくとずっと、暮らしてください」と言ったのだ。「 じゃがいもでプロポーズする人なんていないよ」と私は笑って、そのじゃがいもを受け取った。半年後、式を挙げる日の一ヶ月前に、彼は不慮の事故で亡くなった。じゃがいもではなく、指輪ができあがりましたと、オーダーメイドのジュエリーショップから連絡があったのは、その1週間後のこと。それはネックレスになり、今も私の首元を彩っている。
「 うまくいくと、いいね、プロポーズ」
「 ダメだったら、ここに倒れてるかもしれないので」
「 そのときはまた、じゃがいも、あげるから」
バスが来た。その人は私に頭を下げて、バスに乗り込んだ。扉が閉まり、ウィンカーが点滅する。バスはゆっくり走り出した。
私はまた、畑に戻る。少しだけ何かを期待してる私は、そうか、こんなにも時が流れたんだなぁと、じゃがいもを手にしながら、思っていた。
「 これはいわゆる、職権濫用ってやつではないの?」
誰もいない夜の教室で乾杯をしたあと、ぼくはセージに言った。
「 うん、そうかもしれない。明日には俺、クビになってるかも」
飲んでも飲まなくても笑い上戸なセージは、そう言って笑っている。ことの始まりは、先週のこと。小学3年生の娘が持ってきた学級通信に、担任の産休のお知らせが載っていた。
「 先生、変わるのか」
娘にそう聞いてみると、
「 うん、男の先生がくるんだって」
と、ニコニコ笑った。それは好物のきんぴらごぼうを食べるときと同じ顔だ。娘はどうやら、大人の男が好きなようだ。ぼくは将来が少し怖くなりながら、学級通信を眺めた。そこに、見覚えのある名前が載っていた。伊藤セージ。彼が、産休の間を受け持つ臨時講師らしい。中学時代の同級生と同じ名前だ。ただの同姓同名だよな、そう思うことにしたが、数日後、コンビニで彼と遭遇した。
「 あれ、すーちゃんじゃね?」
そう中学時代の愛称で呼ばれると、ぼくもすぐに、
「 セージ、ひさしぶり」
と、返した。そのあとすぐに、学級通信のことを話すと、彼は確かに臨時の講師であることがわかった。教師の採用試験には何度も落ちているのだが、臨時で講師に採用されたのだそうだ。育った町ではない場所で、しかも娘の担任になるなんて。ぼくらは、それを奇跡のように思ってテンションがあがった。
「 じゃぁ、今度、教室で飲まねぇ?」
「 それ、面白そうだなぁ」
軽いノリでぼくはそう返事をしたのだった。それが本当になるとは思わずに、少しビクつきながら今、教室にいる。
「 いい大人がやることじゃないな、これ」
と言いながらも、口にしたビールの味が体に沁みて、爽快な気持ちになってしまう。
「 すーちゃん、誕生日きた?」
「 あぁ、先月」
「 じゃぁ、いい大人だな。おれ、まだ二十九だし」
「 二十九か、少しうらやましい」
「 なに言ってんの、子供もいて、ちゃんと家庭を築いて、すごいことじゃん。俺のほうがうらやましいよ」
セージは、つまみのソーセージを口にした。セージ、ソーセージ。ぼくは中学の頃に必ず言っていた言葉をこぼした。セージは「 やっぱり、いい大人じゃないな」と、ソーセージをちぎって、ぼくに投げた。それをぼくは口でキャッチした。懐かしすぎるその感じに、なぜか胸が痛んだ。
「 そりゃぁ、すごく幸せなんだけどさ」
ぼくの言葉にセージは「なになに、語る?」と、ビールを口にした。
「 いや、昔、体育で、バック転やったことあったしょ?」
急な話の転換に、セージはきょとんとした。ぼくはそのまま続ける。
「 すぐにできて、楽しくて何回もやってさ。そしたら、何回目かに、失敗して骨折てさ」
「 あ、覚えてる、それ。病院から戻ってきて、授業中の教室にすーちゃんが入ってきたとき、なんかかっこよかったよなぁ」
セージは無邪気に笑っている。
「 そうそう。でもさ、あのときから、失敗することを考えるようになって。それを気づかれないようにするのもうまくなって。なんか、だめだよね、そういうの」
「 それが大人になるってことかもしれないけどな」
「 そうか……ちゃんと幸せだけど、あれからたぶん、何事も本気になってない気がして」
セージはソーセージをちぎった。そしてそれを、ぼくに投げる。ぼくはそれを口でキャッチする。次から次へと、かなりのハイペースだ。なんとかぜんぶ、キャッチすると、口がソーセージで膨らんだ。セージはそれを見て、大笑いしている。ぼくも口を膨らませたまま、涙が出るほど笑った。
「 いま、本気だったしょ?」
なんとかソーセージを飲み込みながら、ぼくはうなずいた。少し落ち着いたあと、セージは言う。
「 きっと、本気じゃなきゃ、家族は守れない。すーちゃんは、気づいてないかもしれないけど、本気になってるさ。りっちゃん、すごく愛されてる感じするよ」
娘の名前を、セージが言う。あぁ、そうだった、彼は娘の担任だったのだ。娘が大人の男に弱いことを思い出したぼくは言った。
「 絶対、手、出すなよ」
「 当たり前だろー」
「 十年経ってもだめだからな」
「 十年か。二十歳くらいかぁ。大人だしなぁ。うーん」
ぼくはソーセージを投げた。セージはそれに食らいつく。こんな馬鹿げたことが、ぼくをたまらなく安心させていた。
ポケットティッシュを街中でいかに差し出されずに通り過ぎるか。
俺はティッシュ配りをしているひとをみるたび、それを実行してみる。配る人のティッシュを差し出すタイミング、それを見計らって歩く速さを変える。重要なのはコースどりだ。あまり離れ過ぎてはいけない。これは自分の中のルールで、そうだな、2メートルも離れたらコースアウトということにしている。常に受け取れる距離にありながら、差し出されずに済むというのが美しいのだ。けれど失敗したら、受けとらなければならない。そのときは素直に負けを認める。言い訳はしない。それが武士道だ。だけど俺はほとんど負けることがない。たいてい少し前をいくひとに付いていき、その人が受け取るタイミングで、その後ろを通過する。それが勝利の方程式だ。今日も連戦連勝を続けていて気分がいい。
そう思いながら歩いていると、また勝負の時が来た。俺はいつもの作戦をとる。少し前の人に付いて行きながら、タイミングを計っている。
「 お願いしまーす」
女の声がする。弁当箱を配っている。いつものことだ……って、え! 弁当箱? なぜに弁当箱? 俺はそれに吸い寄せられてしまう。そして、当たり前のようにそれを受け取ってしまう。
「 ありがとうございまーす」
俺はすかさず、彼女に問い詰める。
「 なんで、弁当箱?」
彼女はニコニコしながら答える。
「 お弁当屋がオープンしたので、宣伝です」
なんて大胆な発想!
「 くれるの、これ」
「 はい、これを持ってきていただけたら、お弁当詰めますので、よかったら来てください」
「 お店どこ?」
「 箱の底に地図が書いてあります」
箱をあけて底を見てみる。確かに地図が書いてある。
「 明日にでも行っていい?」
「 はい、ぜひいらしてください!」
彼女は目をキラキラさせている。
*
「 松野さん、最近ずっとお弁当ですね。彼女に作ってもらってるんですか?」
俺の弁当をのぞきこんで、後輩の女子社員がそう言った。
「 いや、これは弁当屋の弁当だよ」
「 え、でもお弁当箱、使い捨てじゃないですよね」
「 これに入れてもらってる」
「 へぇ、そんなことできるんだ。私も入れてもらおうかな。どこにあるんですか、そのお店」
そう言われて、俺はせかせかとごはんを口にかけこんだ。そしてまだ、飲み切れていない状態で、ごはんの下の地図を見せた。
「 ここ」
俺はひとつだけ嘘をついた。このお弁当は、あの店のお弁当ではない。あの店の彼女が作ってくれるのだけど。そう、あれから弁当屋に通い詰めた俺は、いつの間にか彼女を好きになり、付き合うようになったのだ。あのとき彼女がティッシュを配っていなくて、ほんとによかった。なんて思ってるさなかに、俺はくしゃみをした。
「 あ、ティッシュ持ってない?」
ティッシュも必要なのだけど。
<今日はコロッケにしてください。材料は冷蔵庫にあります>
いつからそうなったのかはもう忘れてしまった。とにかく”母が買ってきた材料で、私が晩ごはんを作る”というのが、ふたり暮らしの我が家のルールになっている。はじめて「 パエリア」を作ってくれと言われた時は困った。「 パエリア」なんて言葉、聞いたこともなかったのだから。そのせいで私の部屋には料理の本ばかりが並ぶ。「 パエリア」はスペインのバレンシア地方の郷土料理だと、そのときはじめて知った。だいたい純日本人顔の母から「 パエリア」なんておしゃれな横文字が出てくるとは思わなかった。理由を聞けば「 スマスマ」でキムタクが作っていたからと、なんとも母らしい答えで、私はあきれてしまったけれど。パエリアはなんとか形になってできたけれど、もともとの味を知らなかったので、成功か失敗かの判断もできなかった。それでも母は「 おいしい」と言っていたので、よかったことにする。私はスペインで暮らす予定もないから、これでいいのだ。そんな感じで私の料理のレパートリーだけは増えていった。
今日はコロッケか。コロッケも元は外国料理だというが、これだけ日本人になじみがあるのならもう、日本の家庭料理と言ってもいい。私はパエリアよりも、コロッケの味を知っている。タマネギを切って涙しながらそんなことを考えている。それからまたパエリアのことを思いだした。
「 サフランっていうのは入れた? 買うの忘れちゃったんだけど」
パエリアを食べてるとき母が言った。
「 サフラン? あぁ、レシピには書いてあったけど、高いらしいよ」
「 そう、じゃぁ、なくてもいいね」
「 そうそう、おいしいんでしょ?」
「 おいしいよ」
「 なら問題ないじゃん」
私たちはそうやって笑った。私はまだタマネギを切っている。そしてまた違うことを思いだしている。
サフランというスパイスは、その名の通りサフランの花から摘み取られている。パエリアに入れなかったサフランの花が気になった私は、園芸店に出向き、サフランを探した。そこで私はサフランではなく「 犬サフラン」という花の球根を見つけた。犬サフランは、土や水は必要ではなく、置いたままでも花は咲くけれど、毒性があり、あやまって食べると死にいたることもあるのだと、園芸店のおじさんは教えてくれた。
「 タマネギに似てるからねぇ、球根は」
おじさんがそう笑ったのを思い出して、タマネギを刻んでいる私の目からまた涙がこぼれてきた。私は犬サフランの球根を買い、当時付き合っていた恋人にそれをあげたのだ。あげて少したったあと、私たちは別れてしまった。別れたショックで、タマネギと間違って食べたりしてないだろうか。そんなことするはずがないとわかっていはいるけれど、なぜか不安が心にうずまいている。どうしよう。ちゃんと生きているのか確認したくなってしまった。
だけど、だめだ。私たちはもう別れたのだ。きっと私じゃない誰かがちゃんと心配してくれている。そうだ、だから大丈夫だ。私の知っている彼は、そんなに弱いひとではないのだ。
「 ちょっと切り過ぎじゃない、タマネギ」
知らぬ間に母が帰ってきていて、私に言った。
「 え、あ、おかえり」
「 ただいま。タマネギしか切ってないし。仕方ないから、じゃがいもは母さんがやるわ」
私はその言葉におどろく。
「 なに驚いてるの? 母さん、実はコロッケだけは得意なんだから」
「 コロッケだけって」
そう笑って返すと、
「 泣いてるのか笑ってるのかよくわかんない顔してるねぇ。面白い子」
母はふふふと小さく笑う。
「 ていうか、キャベツ忘れたでしょ?」
母は「あっ」と声を出したあと、
「 でも、プリンは買ってきた」
と、自慢げに言った。私はちゃんと、心配されている。そういうことは大切なんだなと思いながらまた、タマネギを刻んだ。
「 恋」と書いて「 れん」と読む。彼女の名前だ。
恋と出会ったのは、僕が小学6年生のときで、恋はまだ、1年生だった。僕らの学校では、6年生が定期的に、1年生の面倒をみるという習慣があった。授業の手伝いをしたりとか、けんかの仲裁をしたりとか、給食をいっしょに食べたりだとか。教育実習みたいなそれは、教師の息抜きだったんじゃないかと、今はなんとなく思う。まぁ、6年生に責任を植え付けるという、教育項目もあるのかもしれないけれど。教育がどうのこうのというのは置いといて、とにかく僕はそれが楽しかった。そのころ思春期に差し掛かりはじめていた僕は、いろいろと思い悩むことが多くなっていた。それが、1年生の教室に行くと、みんなが待ちわびたような顔をしてくれて(それが錯覚だとしても)、とても癒されたのだ。
とりわけ、恋には好かれた。恋はいつも僕の服のはしっこを、ちょこんと指でつまんで、ニコニコ笑っていた。「 恋ちゃん、わたしも、ふく、つまんでいい?」違う女の子がそう言って、恋の服をつまんだ。その子の服を、また違う子がつまんだ。そうやってクラス全員が、服をつまんだ。僕がちょっと走り出すと、みんなもつられて走り出して、列車のようになった。一斉にきゃははと声をあげて、笑い出す。そんなことが、懐かしく胸に残っている。
あれから十二年たった今日、僕らは再会する。十二年間、音信不通だったわけではない。中学入学と同時に、僕は違う町に引っ越したのだけれど、ある日、恋から手紙が届いた。まだ2年生の、幼い字だった。
「 恋ちゃんのおかあさんにねぇ、恋ちゃんが荒野に手紙書きたいって言ってるって言われて、住所教えたのよ」
母親はそう言って笑った。それから僕は恋と文通を続けた。恋の文字は成長とともに綺麗になり、時おり送られてくる写真も、月日とともに大人になっていった。
「 荒野くん」
十九才になった恋が、そこにいた。
「 恋、おおきくなったね」
「 きれいになった、じゃないの?」
「 きれいにも、なったね」 <も>は余計だと言って、恋は少し、ふくれた。
「 彼女は来てないの?」
恋は僕の彼女と会いたかったのだ。僕も彼女に恋のことを話していて、彼女も恋に会いたがった。けれど、残念ながら彼女とは最近別れてしまったのだ。そう伝えると「 それは残念だなぁ」と恋は言った。そのとき、恋の顔がうれしそうに見えたのは、僕が恋のことを好きだからだろうか。恋の左手の薬指には婚約指輪が光るというのに。
「 彼氏は来てないの?」
「 楽しんできていいよって」
「 よくできた彼氏だね」
本当にそうだ。たしか、僕とさほど年齢も変わらないと言っていたし、恋を幸せにしている。それは手紙の中からもちゃんと伝わった。僕なら、他の男と会うと言ったら、きっと嫉妬する。たとえ二人きりじゃないとしても。結果的に二人きりになるとは、なんとも少し、痛かった。
「 うん、すごく好きなの」
恋はニコニコと笑顔になる。それはまるで1年生のときのようで、僕はびっくりしてしまう。
「 変わらないね、笑った顔」
「 子供ってこと?」
「 そうとも言うけど」
「 そうか、やっぱり荒野くんは、いつまでも、私のこと1年生にしか見えないのか」
それがどういう意味かは僕には解釈できず、いや、都合のいい解釈にしたがっているのがわかり、返す言葉を失った。
「 なんてね」
いたずらっぽく笑いながら、恋は僕の服をちょこんと、つまんだ。僕には恋が1年生にしか見えていないわけではないが、1年生のときの記憶が、いつまでも寄り添う。そのおかげで、恋が好きだと思う気持ちを、優しい想いに変えることができる。
「 列車になったの、覚えてる?」
「 覚えてるよ、楽しかったね、あれ」
「 楽しかったな。あんな感じで生きていけたらと、俺はずっと思ってたな」
「 荒野くん……私、あんな感じで幸せになるね」
「 そうか、それはとても素敵なことだよ」
「 うん」
なにかを決めたような、「 うん」だった。
「 ごはん、食べに行こうか?」
「うん!」
ごはんを食べることを決めた「 うん」を、ニコニコと笑顔になって恋は口にした。そして僕は決めたのだ。1年生の恋と6年生の僕であることを。僕らが幸せであるために。
夕暮れに染まる道を、僕らは歩き出した。
小学生のとき「友達」だと信じて疑わなかった子に言われた。「 あんたなんか友達なんかじゃないよ。かわいそうだから付き合ってただけ」それ以来、私には友達がいない。
友達のいない私は、昼休み、会社の屋上に行って、ごはんを食べる。中学校でも高校でも、そうやってきた。短大のときは屋上に入れなかったから、少し離れた公園に行って、ごはんを食べた。ひとりで、空を見ながら。会社に入ったころは、違った。同期入社の人や、先輩にもがんばって声をかけ、誘われれば、合コンや飲み会にも積極的に参加した。全然興味のない男の食事の誘いにも、意を決して付いていった。
学生時代も同じだったのかもしれない。そんなふうに最初は意気込んで人生を楽しもうとするけれど、結局私は疲れてしまう。疲れて、一人でいることを選んでしまう。知り合いはいても、友達はできない。それもそうだ、私は誰にもほんとの気持ちをさらしたりはしないのだから。友達がいないことにはもう慣れた。私はおそらくこの先も、「 友達」と呼べる人とは出会わずに、人生を終えるのだろう。そう思いながら、ゆかりのおにぎりを口にした。
ゆかりのおにぎり───
そういえば、私にも一人だけ友達がいた。「 ゆかり」だ。高校のとき、数か月だけ一緒に屋上でごはんを食べた。そのときの記憶がよみがえる。
その日も高校生の私は、屋上でごはんを食べた。購買で買った、パンと牛乳だ。私には、屋上に行くだけのぶんのエネルギーがあればいい。パンと牛乳だけでそれは十分足りてしまうのだ。空にもおいしそうなパンが浮かんでいる。それを見ながら、私はパンを牛乳で流し込んでいた。
「 食べる?」
見たことのない女性が、私の横にいた。生徒ではなさそうだ。私よりいくつか上の年齢に見える。彼女はおにぎりを私に差し出した。
「 あなた、誰? 新任の先生?」
「 まぁ、そんなとこ。食べないの? ゆかりのおにぎりおいしいのに」
「 ゆかり? ゆかりさんって言うんですか?」
そのころの私は「ゆかり」という食材を知らず、それが彼女の名前だと思ってしまったのだ。
「 そうね、ゆかりと呼んで」
彼女はそう笑いながら言った。なんとなくバカにされたような気分になって、私はプイッと反対側を向いた。
「 いつもここで食べてるの?」
ゆかり(そう呼ぶことに決めた)が聞いてくる。
「 そうだよ、悪い?」
「 ううん、ぜんぜん悪くない。ここ、空が近くて気持ちいいもんね」
ゆかりは何かを言おうとするわけでもなく、ただ、そんなふうにつぶやいた。そのとき、その一瞬だけで、私はなんだか胸のつかえが取れた気分になった。彼女も同じ感覚をしているのかもしれない。錯覚かもしれないけど、その空気は似てるかもしれないと。でもそれを悟られたくない気持ちにもなって、なんともいえない動揺が、心に広がっていった。
「 私、恭子」
気づけば、自分の名前を口にしていた。
「 恭子ちゃんね。わたしは、かなえ」
「 かなえ?」
「 ゆかりでもいいけど。ねぇ、明日もいるの、ここ」
「 たぶん」
「 じゃぁ、また明日ね」
ゆかりはそう言って、屋上を後にした。それからゆかりは毎日屋上にやってきた。ゆかりのおにぎりはいつも「ゆかり」だ。だから私の中で彼女は「 ゆかり」という名前になった。ゆかりとは、どうしてかわからないけど、なんでも話すことができた。あの一瞬は間違っていなかったのだ。彼女といると私は、私でいれるような気さえした。これが「 友達」というものなんだろうか。私の中でそういう思いがうずまいた。けれど、小学校のときの言葉が、私を否定した。私と友達になってくれる人なんかいない。ゆかりはただ、ひまつぶしで、私といるだけなんだ。そう思いながらも、私はゆかりに聞いた。私は愛の告白なんかしたことがないが、あれもきっとこんな感じなんだろう、そのくらいの緊張感だった。
「 ねぇ、ゆかりって……私の友達?」
ゆかりはゆかりのおにぎりを食べながら、答えた。
「 あれ? 友達じゃないと思ってたの? だいぶ前から友達だと思ってたんだけど」
私はそのとき、どんなことを言ったのか憶えていない。でも、心と体が、初めて自分のものになったような記憶は残っている。
それから数カ月して、ゆかりは私の学校から去った。私たちはそれをわかっていたけれど、なぜか、お互いの連絡先を聞いたりはしなかった。
「 工藤さーん!」
屋上に上がってきたのは、同期入社の吉岡さんだった。吉岡さんとも、深い話はしない。大人になってから友達を作るのは、子供の時より難しいのかもしれないと、当たり前かもしれないことを今更思っていた。
「 おつかれさま」
そう挨拶をして、また空を見上げた。
「 ねぇ、工藤さんて、高校、音広女子だよね?」
吉岡さんは少し、興奮気味だ。
「 え、そうだけど」
私はよくわからず、そう答えた。
「 いま、テレビでカナエが出てたんだけど、工藤さん、カナエの知り合い?」
カナエ? 何の話? 私は混乱して、言葉が出てこなかった。
「 ダンサーのカナエだよ。超有名じゃん」
カナエ、カナエ……あぁ、最近海外のナントカっていうすごい歌手と共演したっていう……カナエ、ダンサー、私の母校……え、あ……ゆかり!
あのころ、ゆかりは臨時でダンス部のコーチをしていたのだ。あのゆかりが、「 カナエ」だったってこと?
「 ゆかり、なんて?」
「 ゆかり? カナエでしょ? 音広女子高校、卒業生の工藤恭子さん、屋上で話したこと覚えてますかーって」
私はなんて言っていいかわからず、言葉がでない。吉岡さんは続ける。
「 アナウンサーが、その人とはどんな関係ですかって聞いたら、友達です、だって。工藤さん、カナエと友達なの? すごいね!」
私の目は私に断りもなく、涙をこぼした。それを拭いてから、余ってたゆかりのおにぎりを、吉岡さんに差し出してみた。
「………食べる?」
あのときのゆかりみたいにしたつもりだけど、私の手は震えている。吉岡さんはきょとんとした。
「 テレビ……まだやってるかな」
そう聞いてみると、吉岡さんは我に返って「 うん、やってるかもしれないから、いこう」と私の手を引いた。ゆかり、私、もうちょっとがんばってみるよ。
空にはパンがいくつも浮かんでいた。
学校での仕事を終え、待ち合わせのカフェに向かう途中のこと。ジョギングをする人とすれ違った。彼の吐く息のリズムと風の音に胸が高鳴る。それに呼応して、カフェまでのあと少しの道を走ることにした。カフェに着いて、いつもの席に座っている彼女を見つけると、ぼくは息を整えた。そして穏やかに声をかける。
「 となり、いいですか?」
「 あら、水しかありませんけれど」
わざとらしく彼女はそんな言葉をつぶやく。まだ息が上がっているのを見抜かれたようだ。
「 じゃぁ、その水で給水を」
「 どうしようかしら」
迷ったそぶりを演じながら、彼女はおかしくなってきたのか、くすくすと小さく笑った。
「 走ってきたの?」
「 あぁ、走りたくなって」
「 若いね」
「 若くないから、ちょっと疲れた」
そう言いながら、彼女の対面に座った。彼女の先に若いカップルが横並びで座っているのが見える。横並びで座っても絵になるのが若さというものか。十九のころのぼくらなら、そうしていても絵になったのだろう。今は横並びで座るのは、少し違和感がある。夫婦でも、恋人同士でもないのだし。息もようやく落ち着いて、ぼくはそんなことをぼんやりと思った。
「 何考えてるの?」
ふいに彼女が聞いてきて、ぼくは違うことを答えることにした。
「 人間には六十兆もの細胞があってさ、日々、死と再生を繰り返していて、だいたい6年くらいですべての細胞が新しく生まれ変わるっていう話をしたんだ、学校で」
「 うん」
「 で、帰りにある生徒に聞かれたんだけどさ」
「 うん」
「 先生はもう6回くらい生まれ変わってると思うんですけど、変わらないものはあるんですかって」
「 変わらないものかぁ……なんて答えたの?」
「 あるよって」
「 言い切ったんだ」
「 あぁ」
言い切れる自信はない。けれどぼくには、そう言いきってあげることが大切だと思ったのだ。そういう言葉の力を、彼はきっと知っているだろうから。そんなことを口にせずとも、彼女はぼくの真意を汲み取ったように答えをくれた。
「 そうしてあげるのがいいね」
彼女はそう言って、水を口にした。もしかしたら。夫婦でも恋人でもない彼女とこうしていることは、今までずっと変わらずにいたことかもしれない。十九のころと、座る場所は変わったけれど、ぼくらの心の場所は変わらずにいるのかもしれない。
「 結婚しないの?」
と、ぼくは今まで何度聞いたかわからないことをまた聞いてみる。
「 そっちは?」
何度となく聞かされた言葉が返ってくる。
「 どうだかね」
彼女もそれを真似してくる。
「 どうだかね」
やっぱりこの心地良さはまだ、変わることはなさそうだ。
北欧調の高い天井に、暖炉の温い空気が漂っている。店内は思いのほか、暖かくはない。運ばれてきたホットコーヒーに冷たい手をかけたヨシヒコは、その手が温まるの感じてから離し、つぶやいた。
「 おまえといると、疲れるんだよな、うん」
そうなんだよ。好きとか嫌いとかじゃなくて、疲れてしまうんだよな。それって致命的だな。ヨシヒコは腕組をして、コーヒーカップの取っ手のあたりに目をやりながら、そんなことを考えた。そうして、いま考えたことをヨシコに伝えようとした。
「 それってさ……」
続けるヨシヒコの言葉をさえぎるために、ヨシコは、彼の顔の前に手を広げた。じゃんけんでいう、パーの形だ。ヨシヒコは思わずチョキを出してしまう。あぁ……私が彼を好きなのは、こういうところだ。そう、ヨシコは思った。またいつものように笑ったら、この別れ話を取り消してくれるかもしれない。そんなことをまだ期待している自分がくやしいと、ヨシコは下を向いて、ため息をついた。手はパーにしたままだ。
「 これって別れ話だよね」
ヨシコの問いかけに、ヨシヒコは間髪入れずに返す。
「 そうだよ」
ヨシコは、少しの時間を置いたあと「 わかった」と答えた。
「 じゃぁ」
ヨシヒコはそれだけ言うと、椅子から立ちあがった。
「 じゃぁ」
ヨシコは無理やりに笑顔を作って、うなずいた。ヨシヒコはコーヒー代をテーブルに置いたとき、よくある別れの風景の中に自分がいることを、感じた。あ、やべぇ、うそ、泣いた? 思いもしない涙にヨシヒコは焦り、足早にヨシコの元から立ち去った。周りをよく見ていなかったせいか、店を出たところで、ヨシヒコは足元にあった何かとぶつかってしまった。
「 いてっ!」
声を上げたのは、ちいさな男の子だった。
「 あ、ごめん、だいじょうぶかい?」
「 だいじょうぶだけど、プロ野球選手にはならなかったんだね」
男の子が唐突にそんなことを言ったので、ヨシヒコは首をかしげた。なんだ、こいつ。なんの話だ? ……あ、いや、あれ、こいつ、もしかして……ヨシヒコは、思ったことを言ってみる。
「 おまえ……おれ?」
男の子は、にっこりと笑って見せた。
「 そうか、ごめんな、プロ野球選手にはなれなかったよ」
男の子はムスっとしながら、もうひとつ文句を言う。
「 それに、女の子には冷たいし、ぼくって、そんなもんか」
ヨシヒコは、そう言われて、無性に哀しくなった。
「 ごめんな、おれ」
*
彼が私を好きではないことは、ずっと知っていた。それでもよかったのだ。恋に落ちたのは私のほうなのだから、仕方ない。ヨシコはそう自分に言い聞かせて、ようやくパーの手を戻し、顔をあげた。
「 パフェ、食べたいんだけど」
女の子が座っている。
「 え?」
あっけにとられるヨシコを気にすることなく、女の子は店員を呼んで、パフェを注文した。
「 ちょっと、勝手に頼まないでよ」
怒ったふうにヨシコが言うと、女の子は、”やれやれ”という顔をして言った。
「 そんな怖い顔してるから、振られるんだよ、わたし」
「 余計なお世話です。ていうか、あなた誰……」
そう言ったところで、女の子が「わたし」と言ったことにヨシコは気づいた。私? 私って、……私?
「 あなた……私?」
女の子はチョキを出して、笑って見せた。やがて、パフェがやってくると、女の子はそれをモリモリと食べ始めた。
「 もっと、お行儀よく食べなよ」
ヨシコが言うと「お行儀良くなかったから、ふられたのかな?」と、女の子は返してくる。どのみち、私なんだから、しかたないか。それにしても私、こんなモリモリ食べてたのね。ヨシコはちいさな自分を見て、ほほえましく思った。
「 私も、パフェ食べようかな」
ヨシコは振り向いて、店員を呼んだ。
「 あ、同じパフェ、もうひとつ」
女の子のほうを見ず、注文する。
「 同じ?」
店員が聞き返す。
「 はい」
ヨシコは当然のようにうなずく。
「 あの……どれでしょう?」
「 あ、これのことじゃないですか?」
ヨシコにとって聞き慣れた声がした。女の子はいない。ヨシヒコだ。メニューを指差している。
「 じゃぁ、これ、ふたつ、お願いします」
「 食べるの?」
ヨシコは思わず、彼に聞き返した。
「 食べるよ」
「 あ、いや、そうじゃなくて、なに? 忘れ物? え? なに?」
まくしたてるヨシコの言葉を、彼はパーの手を出して、さえぎった。
「 あのさ、ちいさいころって、どんな子だったの?」
「 え?」
「 とりあえず、それ、聞き忘れたかなと思って」
ヨシコはきょとんとしている。
「 教えてくれない?」
チョキを出した彼女を見て、ヨシヒコは思わず笑ってしまった。北欧調の高い天井から、温い空気が落ちてきた。ふたりは、そう思った。
一年続いたぼくらの付き合いが、三ヶ月前に始まった遠距離恋愛で終わることになる。一ヶ月ぶりに彼女に会いに行く理由は、それを告げるためだ。「 あのさ、わかってるかもしれないけど、わたしたち、たぶんダメだよね」電話で彼女にそう言われたとき、不思議と何の違和感もなく、同じことを思った。「 うん、そうだね。ダメだったんだね」おそらく彼女は浮気をしてはいないし、他の誰かを好きにもなっていない。それはぼくも同じだ。そうでないならこんなふうに、想いを静かに消していくことなどできないはずだ。「 じゃぁ、別れようか」ただ、彼女にそう言われた時は、ちょっと心が揺れた。別れることに異論はない。けれど、別れの儀式みたいなものは必要だと思うのだ。たとえば、卒業式のように。一つの区切りをぼくらはちゃんと確かめていかなくてはだめだ。ぼくはそう思うのだ。それを告げると、彼女も「 そうだね」と静かに答えた。ぼくらはいま、こんなにもお互いの心を理解している。それだけが少し、皮肉に感じた。
一ヶ月ぶりに会う彼女は、一ヶ月前と変わらずおしゃれをしていた。それは別にぼくのためじゃないんだなと思いながら、それでもきれいでいようとする気持ちはなんとなくうれしかった。
「 別れるのって、もっとドロドロしたものかと思ってた」
彼女はそう言いながら、アイスコーヒーに砂糖とミルクを入れる。ストローでそれを混ぜている手つきが、妙に色っぽいと感じながら、ぼくは答えた。
「 ドロドロしたものだよ。こんなふうに別れることってめったにないと思うよ」
「 そうなんだ。私、はじめてだからよくわかんないんだ、別れるのって」
穏やかな口調で、続ける。
「 けど、どうして会いに来たの? 電話で別れてもよかったのに」
ぼくは腕組をして、ゆっくりと言う。
「 きみも俺もおそらくね、いまは静かに別れると思ってる。だけどね、そんなふうにはならないよ。だから一度お互いを忘れなきゃ。忘れるためには、ちゃんと別れないと」
彼女は、首をかしげている。
「 忘れなきゃいけない? 私、またすぐ友達に戻れるような気がするんだけど」
「 戻れるかもしれない。でも、ダメだ」
「 どうして?」
「 知らなかったかもしれないけど、本当に好きだったから」
「 それは、私もそうだったけど」
ぼくらの気持ちは何一つズレたりなんかしていない。だからこそ、ちゃんと別れるべきなのだ。しばらく沈黙が続いたあと、彼女はゆっくりつぶやいた。
「 なんか、ちゃんと別れ話してるみたいだね」
ぼくはニコッとほほ笑んで「 ちゃんとすることは大事なんだよ」と、言った。その刹那、ぼくの心はきゅうっと絞られたみたいに苦しくなって、笑顔が引きつった。
「 そっか、大事なんだね」
彼女の目からも、小さな涙が流れた。会いに行かなければきっと、ときには苦しみが続いても、ぼくらは何事もなかったかのように日々をうまく乗り越えただろう。だけど、ぼくは会いに行った。それは、この恋に感謝をしたいから。終わりを見届けてあげたいから。
少しだけ、彼女を抱きしめたくなる。それはまだこの恋に可能性がある証拠。それでも、ぼくらは別れるのだ。いつかまた会いに行けるように。いつかまた恋をするために。
ぼくは涙をこらえて、彼女と同じアイスコーヒーを口にする。砂糖もミルクも入れなかったその味が、またひとつぼくを大人にする。
湖のほとりに車を停めて、ぼくらはさっき自販機で買った缶コーヒーを口にする。
「 絶対、<あつい>と表記するべきだよね」
彼女はそう言って<あたたか~い>缶コーヒーをドリンクホルダーに戻した。
「 うん、でも徐々に冷めていくと、ちょうどいいとも言えるしな」
徐々に終わっていくこの恋は、なんだかちょうどいいなぁと、ぼくはぼんやりと思った。ゆらりと揺れる波音が鼓動のように漂っていて、助手席の彼女も、同じリズムで揺れていた。
「 あたたかいのが冷めていくのは好きじゃないけど、熱いのが冷めていくのは、いいかもしれないね。でも、ずっとあたたかいのってあるのかな」
ぼくが腕組をしてそんなことを考え出すと、彼女も同じ体勢になり、
「 どうだろうねぇ」
と、ルーフを見上げた。
「 あ」
抑揚なく、彼女はそんな1文字を吐いた。
「 どうした?」
「 さかな、いた」
「 え、さかな?」
ルーフを覗いてみたけれど、そこには魚は見当たらない。
「 うん、いた。っているわけないか、見間違いかも」
彼女はあっさり言葉を取り消した。でもぼくは気になってしまい外に出た。そして車の上を見渡したけれど、魚はそこにはいなかった。
「 見間違いだよ」
缶コーヒーを持ちながら彼女も車から出てきた。
「 空にさかながいたらおもしろかったのに」
と言うと、彼女はぼくをバカにしたように笑った。
「 いるわけないよ」
「 いたって言ったの、そっちだろ?」
ぼくもバカにしてみると「そうだった」と今度はちいさく笑った。外は少し寒い。手をさすっていると、彼女は持っていた缶コーヒーをぼくに差し出した。
「 これ、あったかいよ」
それに手を当てて、暖をとる。それはもう熱くはなくなっていたけれど、ちょうどよくあたたかい。ほうっていたら冷めるけど、ほうっておかなければあたたかいままでいられるだろうか。彼女も同じことを、思っているだろうか。波音はただ、鼓動のように漂っていた。
どうやら私は、モテる。恋人を待つ日曜日。電車の時間を間違えて、待ち合わせ場所に三十分も前についてしまった私は、近くのドーナツショップに入って時間をつぶすことにした。そこで、ミルクをすすりながら考えている。「 モテ期」というやつだろうか。昨日も私は告白された。その人は仕事の後輩だ。彼は私に恋人がいるのを知りながら、私を好きになったのだそうだ。私なら恋人がいるとわかった瞬間に、その人への興味がなくなる。だから、そんなふうに好きになるのは、正直理解できない。まぁでもとにかく、その彼は私を好きだということを力説してくれた。それを聞いているうち、私を好きだということは本当のような気がした。だけどもちろん、ごめんなさいだ。私には二股を良しとする倫理観はないし、今の恋人と別れるエネルギーもない。
そういうのも含めて、二十代になってからの私はとにかくモテている。男の人の手も握ったことのなかった十代とは正反対だ。だから、最初のころは、そういう状況に戸惑いながらも、うれしさを隠せなかった。でも最近は「 モテる」ということと「 本当に愛される」ということは別なような気がしている。それは、贅沢な悩みだろうか。
ミルクをすすって、頬杖をつく。そしてふいにまわりを見渡してみる。そうすると、私が座る席から対面する席には、左から順に人生の縮図のように人が座っていることに気がついた。
まず、一番左の席には、小学校高学年くらいの女の子3人組が仲良く座っている。「 3人」というグループ構成は女子にとって絶妙だ。2対1になりそうな構図を「 2」のうちのひとりがフォローにまわり、自分達は「3」であることを守ろうとしている。そうやってバランスをとっている。でもそれぞれにとって大切な人は「どちらか」だったりする。でも自分のことは二人とも好きに違いない。そんな気持ちを悟られないようにしている。女子のバランスはやっかいだ。私はそれに苦心してきた。
その隣のテーブルには、高校生くらいのカップルがいる。彼女は薄めに化粧を施し、ひらひらとした白のかわいいスカートを履いている。彼の二の腕はちょうどいい具合に焼けていて、美しく引き締まっている。きっと、サッカー部のキャプテンだ。彼女はマネージャーといったところか。と、私は勝手に妄想する。うらやましいなと思う。私の十代とはまるで違う世界を、彼らは生きているんだ。キラキラがまぶしいなと思って、目を背けた。
背けて、移した視線の先は彼らの隣のテーブル。そこにいるのは二十代半ばくらいのカップルだ。いや、よく見ると左手の薬指には指輪が。若い夫婦だ。彼は彼女にどんなふうにプロポーズしたのだろう。彼女が彼にしたのかもれないけれど。いずれにせよ、ふたりはずっといっしょにいようと思ったのだ。「ずっといっしょにいたい」、そう思ったことは、私はただ一度だけだ。その人は私をずっと好きでいてくれた。でも、どうしてだろう。好きでいてくれると不安になった。私があげる分の「好き」では、その人は満たされないのが、いつかわかってしまった。その人とは別れた。もし、お互いの想いの分量がおなじだったら、ずっといっしょにいたのだろうか、あの家族のように。
と、一番右側のテーブルを見て思った。そこには三十代くらいの夫婦と、4、5才くらいに見えるふたりの子供が座っていた。その家族のまわりには、目で見えるかのようなやわらかい空気が漂っていた。パフェがうまく食べられなくて、口のまわりを汚したひとりの子供。それを母親がナフキンで拭き取った。その子は父親のケーキをせびる。父親が自分のケーキをその子の口もとにやり、”あーん”と食べさせようとしたのを、もうひとりの子供が、横取りして食べた。
「 あ、なにするんだよー」
「 パパの”あーん”は、わたしのなの!」
私はそんな光景を見ながら、自分が「モテる」なんて考えていたことなど、どうでもいい気持ちになって、少し泣きそうになってしまった。
「 あー、やっぱりここか」
人生の縮図の前に恋人が立ちふさがって、それは見えなくなった。あぁ、もう待ち合わせの時間になったのか。
「 あれ? ごめん、ここ待ち合わせ場所じゃないよね?」
「 きみとはいつも、かくれんぼしてるみたいだ」
彼は笑いながら、いすに座って、メニューを取った。やがて「本日のコーヒー」を注文して、メニューを戻した。<本日のコーヒーの種類は、店員にお尋ねください>彼が戻したメニューを手にとって、私はそう書いてあるのを見つけた。
「 コーヒーの種類、聞かないの?」
「 あぁ、何が出てくるかわからないほうが、面白いから。って、何にしてもコーヒーなんだけどな」
「 へぇ。私は、何が出てくるかわからないのは不安だな」
「 だけど、きみ自身は、何が出てくるのかわからないし、どこにいるのかなかなか見つからないよ。まぁ、そういうところが、面白いんだけど」
その台詞は、私が唯一「 ずっといっしょにいたい」と思った人が、いつか私に言った台詞とまるで同じだった。もしかして、私は本当に愛されているのだろうか。まだわからないけれど、これからは私から愛してみようと、思った。彼の後ろには、やわらかな空気が、見え隠れしていた。
とある休日の午後、ふと新しいマフラーが欲しくなって、ショッピングモールへ出かけた。チャラチャラした若者の店には入る気にもならず、かといって大人の雰囲気が漂う店では手が出ない。ちょうどいい店はあるにはあるが、これといって気に入ったものが見つからない。なかなかないなぁと思って、スターバックスで一服することにした。
一服といっても、タバコは吸わない。ぼくには休憩することを「一服」と言うくせがあるだけだ。スターバックスから、子どもが遊ぶ広場が見えて、なんとなくそれを眺めた。店員から勧められたキャラメルエクレールラテは甘すぎて、少しずつしか飲めなかった。おいしいのだけれど。
そんなとき携帯が鳴る。友達からだとわかって、電話に出た。
「 いまなにしてんの?」
三年は会っていないはずなのに、友達は昨日もあったようにそうに聞いた。
「 買い物してる」
「 一人?」
「 そう」
「 あれ、彼女とは別れたの、あのショートボブの」
「 そんなのもうずっと前の話だよ」
「 そうか、あの子、可愛かったのにな」
「 そうだな」
そんなことをつぶやいて、子ども広場に目をやると、あのショートボブの彼女……と似た女性がいた。その場は井戸端会議場みたいに母親の群れができている。けれど、その彼女は、子どもといっしょになって遊んでいる。
「 そうだ、おれ、もうすぐ子ども生まれるんだ」
友達はうれしそうに言った。
「 そうか、それはよかったな。おめでとう」
「 だから、よろしくな、出産祝い的なもの」
「 急に連絡してきたと思ったら、そういうことかよ」
ぼくは、笑いながらそう答えた。あのショートボブの彼女……に似た女性は、子どもに「もう行くよ」というような催促をして、靴をはかせた。まだ遊び足りなそうな子どもは駄々をこねている。それを、丁寧にたしなめて、彼女は立ちあがった。
「 まぁ、それだけじゃないんだけどさ、子どもが生まれたら時間取れなくなるし、その前に、また遊ぼうや。みんな呼んで」
「 昔みたいに、バカなことするとか?」
「 そう、捕まらない程度のな」
女性はマフラーをしている。もちろんぼくが好きだった、あのときのマフラーじゃない。あのときの彼女も今は、きっと、新しいマフラーをしているだろう。そう思って、キャラメルエクレールラテを飲みほした。甘すぎるけれど、おいしい。
「 出産祝い、持っていくよ」
友達は「サンキュー!」とバカみたに声をはりあげた。子ども用の、ちっちゃいマフラーな。ぼくは立ち上がって、歩き出した。
「えぇ、ですから月にいまして。いや、ふざけていません。本当なんです。そういわれましても……まぁ、がんばってみますが、間に合うかどうかは……」
彼は、まじめな男である。そして、<嘘も方便>という言葉が嫌いだ。とても正義感の強い男である。ゆえに、処世術は下手である。まじめな彼は、考えた。どうして、こうなったのだろうか。彼はいつも通り、会社へ向かう道を車で走っていた。その途中、妻から電話がかかってきた。まじめな彼は、ラッシュになることのないすいた道でも、電話には出ない。きちんと車を駐車スペースまで走らせ、そこに停車し、妻の携帯へとかけなおした。「 あ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」妻はそう言った。「 あぁ、かまわないけど。できる範囲のことなら」彼は嘘がつけないため、<できる範囲のこと>を強調した。「 レモネード買ってきてほしんだけど。帰りにでも」「 それって、どこにでも売ってるのか?」彼はレモネードについては、無知であった。「 そうだね、月に行けば売ってるかも」妻は彼の知らないことを知るのが好きである。そして、そのとき、彼を茶化すのが趣味なのである。「 月? レモネードだから、きっとレモンが関係してるんだな? レモンと月の因果関係はなんだ?」彼は、まじめにそう聞いた。妻が、ふふふと笑ってるのを聞いて、やっと茶化されてることに気がついた。「 まぁ、いいさ。誰かに聞いてみるから」彼は自分のまじめさを知っているため、妻のような機転の効く会話ができる人に憧れている。だからこのときも怒ることなく、レモネードのことを考えながら、会社へと向かったはずなのだ。
それが、なぜ、月にいるのだ。
月には公衆電話がポツンとおいてある。携帯電話はもちろん圏外で、公衆電話でつながるものかと思ったが、いちおう、会社に電話をかけてみた。
「 月? めずらしくふざけてます? まぁ、なるべく早くきてください。待ってますから」
一蹴された。仕方ない、世の中はそういうふうにできている。まじめな彼は、生きにくい世の中だと感じた。さて、どうしようか。彼は、クレーターのないところに、寝そべって、地球を見てみた。あれがぼくの故郷か。誰かが言ってた「 地球は青かった」って本当なんだな。きれいだ。遠くからは。彼は立ちあがって地球のほうへ歩いてみたが、地球は全然近づいてはくれなかった。そういえば、ちいさいときに、月から離れてみようと思う時があったな。全力で自転車をこいで、少しは月から離れたと思ったのに、少しも遠ざかってはいなかった。彼は、そんな少年の日のことを思い出した。あの時の月は満月で、怖いくらいに黄色だった。ん? 黄色? 黄色……レモン……レモネード! 月とレモネードの因果関係は、「 黄色」だ! 彼は大発見をしたような気分だった。さっそく妻に電話しよう! 公衆電話に入り、妻の番号を押す。プルルル……ルルル……6回目に妻は出た。
「 はい」
「 あ、おれ、おれ!」
「 公衆電話?」
「 あぁ。いま月にいるからさ」
「 月?」
「 あぁ、それはいいんだ、信じなくても」
「 信じるよ」
「 え?」
妻の言葉に、彼は驚いて、次の言葉を忘れてしまった。
「 あなた、嘘つけない人だもん」
彼は、青い地球を見ながら、あの星の中に、ぼくの妻がいる。ふと、そう思った。そして、それが愛しくてたまらなかった。
「 レモネードはあった?」
「 ……あったよ、帰ったら渡すよ」
彼は、嘘をついた。が、彼は嘘がつけない。だから、会社にまた電話した。
「 あの、レモネードって、なんですか?」
「 用意しておきますから、早く来てください」
よかった、これで嘘にはならない。さて、どうやって帰ろうか。
中途半端な色気を振りまく深夜番組を、ごろ寝しながら見ている。時刻は午前2時。コーラが飲みたい。そう思った。くちびるを意味ありげに這わせながら、テレビの中の女がコーラを飲んでいたからだ。別に欲情などしていない。ただ、体が炭酸を欲している。それだけだ。家の近くに自販機がある。俺はその欲求のままに、百二十円を持って家を出た。
チェ・ゲバラというキューバの革命家の顔が描かれたティシャツに、灰色のハーフパンツ、そしてサンダルという出で立ちだ。いくら部屋着でも、ファッションセンスのかけらもない。誰もいないからいいのだけれど。秋が始まったばかりの外は、ちょうどよく優しい空気が漂っていた。
自販機までは歩いて1分もかからない。ただ、それはあくまで歩けばの話だ。俺はたった今、歩けなくなった。なぜかって? ちょうどいま、俺の肩にアゲハ蝶が止まったからだ。
俺は、今、木だ。
枝葉の連なった、おおきな木だ。
幸いにも俺の名字は「 大木」という。いまこそ、その名字を全うする時が来たのだ。
俺はただ、じっとした。アゲハ蝶がこの木を飽きるまで、俺は「 木」になり続けた。
そうしてどれくらいの時間が過ぎただろうか。アゲハ蝶は、やがて俺という木から飛び立っていった。それは一瞬のようでもあり、永遠のようにも感じた。その時間俺は「 木」になれたのだ。その感覚は、言いようがないくらい、心地よかった。そうして木から人間に戻った俺は、満足して部屋へと引き返した。そして、またごろ寝して、テレビを付けた。コーラのCMが流れている。
「 あ、コーラ」
俺はコーラが飲みたかったことを思い出した。思い出したが、コーラはいまとなってはどうでもよくなっている。このまま心地よく寝ることにした。テレビを消して、眠る準備をはじめたとき、ケータイにメールが届いた。彼女からだ。
「 今から行ってもいい?」
俺はいつだって彼女に会いたいけれど、こんな真夜中に彼女一人で出歩くのは危険だ。そう思って「 いや、俺がいくよ。こんな時間に外に出るの、危ないし」と返した。返事はすぐに返ってきた。
「 ありがとう。でもね、もう来ちゃった」
玄関のドアを開けると、彼女が立っていた。ファッションセンスのかけらもない恰好をしているのを、開けてから、気が付いた。
「 来ちゃったのか」
「 だめだった?」
「 時間が時間だからな、なにもなくてよかったけど」
「 そうだね、こんどから気を付ける」
そう答えた彼女の肩に、アゲハ蝶だ。あのアゲハ蝶か。俺は彼女の手を取って、彼女とアゲハ蝶をゆっくりゆっくり部屋に招き入れた。
「 なに?」
彼女はアゲハ蝶に気づいていない。「 しぃー」と俺は人差し指を口許に立てる。そしてまた、ゆっくりゆっくり、一歩ずつ誘導する。彼女とアゲハ蝶がちょうど電灯の真下に来たときに、俺はそっと彼女にキスをした。その瞬間、アゲハ蝶が飛び立った。
「 あ、アゲハだ」
彼女が見つけて指をさした。
「 あぁ、さっき俺の肩に止まって、俺、しばらく木になった」
あのときのアゲハに違いない。
「 木?」
「 あぁ」
「 優しい人だね」
彼女はそう言って笑う。俺はそれがたまらなく愛しく感じた。「 優しい」という彼女の気持ちが、とてつもなく優しい。その気持ちのままに、俺は彼女をベッドに導いた。
「 アゲハが見てるよ」
「 俺は、おまえしか見えてない」
彼女が目を閉じる。静かに電気を消しても、そのぬくもりが消えたりはしない。世界でいちばん、好きな温度を抱きしめる。彼女が俺という木から、飛び立ってしまわないように。月明かりが差し込む部屋に、アゲハ蝶の羽が開く音と、ポケットの中の百二十円がこすれる音が、聞こえた。
期末テストが終わった。おそらく成績は中の上くらいになるはずだ。ダメだと思う感覚と、ばっちりと思う感覚のズレがあまりないとき、ぼくの成績はだいたいいつもそんなところに落ち着く。勉強は好きでもないし、嫌いでもない。いわば歯磨きみたいなものだ。だからこれといって疲れたりはしない。でもテストは違う。同じ歯磨きでも、何も食べてないのに、歯磨きしろと強要されるような、そんな感じなのだ。
そんな歯磨きが終わって、いや、テストが終わって家に着くと、無性に炭酸が飲みたくなった。もしかして大人が仕事から帰ってビールを飲むのって、こんな感じなんじゃないだろうか。冷蔵庫を開け、シロクマの絵が描いてあるビールを手にしてみた。それにしても何でシロクマなんだろう。シロクマがビールなんて飲むわけないのに、その絵とビールはすごくマッチしている。これを最初に描いた人は、表彰ものだとぼくは思う。こういう絵を描く時間はきっと歯磨きではないのだろう。、ぼくはビールのかわりの、サイダーを開けた。
「 ぷふぁ~」
それ以外の文字はありえなくらいの勢いで、そんな擬音を口にしたあと、ソファに寝転んだ。そうしてるとき、母親が帰ってきて、びっくりしたように「 あら、帰ってきてたの、おかえり」と、ぼくに声をかけた。
「 ただいま。かあさんもおかえり」
ソファでグダグダとなりながら、そう返事をした。
「 ただいま。テストどうだった?」
「 いつもどおりだよ」
その返事もいつもどおりだ。
「 いつもどおりって、それはいいけど、もうちょっといい点取りたいとか、そういう欲はないの?」
おおきなお世話だ。
「 ないよ」
ぼくは素直に答える。
「 ほんと欲ないよね、昔からさ。親としては手がかからなくていいけど、もうちょっと情熱的になってもいいと、かあさんは思うけどなぁ。勉強じゃなくても、部活とかさ、友情とかさ。はやりの草食系ってやつ?」
部活も友情も、ぼくなりに情熱的にこなしているのだけど、どうもそれは伝わっていないらしい。それで草食系とくくられるのは腑に落ちない。ぼくはささやかに反論した。
「 草食系って、恋愛に積極的じゃない男のことを言うらしいよ。別に欲がないのが草食系じゃないでしょ。肉も食うし、おれ」
「 え? 恋愛には積極的なんだ?」
「 そうだよ、おれなんかが待ってたって、誰も来ないんだから、こっちから行くしかないでしょ」
そう言ったけれど、一度告白して振られた経験しかぼくにはない。そしてそれ以来、怖くて告白なんかできない。そういえば、ぼくは振られたその日、夜中に冷蔵庫をこっそり開けてビールを飲んだ。あのシロクマの絵が描いてあるやつだ。一口飲んだだけで、ビールは苦くてまずいとわかった。あんなものを飲む大人の舌は、きっといかれてしまっているんだ。そう思いながらも、ぼくはそれを飲み干した。そして、一晩中泣き続けた。そのときのことを思い出すと、胸が痛くなってしかたない。あれ以来、告白したその子とは、学校で会っても気まずいままだ。それまで友達だったけれど、ぼくらの関係はそのとき壊れた。壊れたまま卒業していくのだろうか。それは愛を学ぶための卒業だろうか。ビールが苦いように、人生も苦いものだ。苦いビールが好きな大人は、苦い人生を楽しめるのかもしれない。それが大人になるってことか。だけどぼくには、それはまだ、苦いだけのものだ。あぁ、だめだ、やっぱり胸がいたい。ぼくはソファに顔をうずめた。
「 なんだ、男らしいとこあるじゃん。でも、やみくもに押すだけじゃ、だめよ。女の子の心は卵みたいに繊細なんだから」
「 なにそれ。あー、シロクマになりたい」
卵みたいに繊細なのは、思春期の男子だって同じだ。事実ぼくはこうして、歯磨きと失恋でボロボロじゃないか。
「 シロクマ?」
「 そう、シロクマ。ビール飲んで星をながめる、シロクマだよ」
ビールのカンに描かれたあんなシロクマになってしまいたい。
「 それ、似合ってるかもね。あんた、優しいから」
優しいだけじゃだめなんだよ、かあさん。
「 とわくんはやさしいけど」。
その言葉のあとに振られたんだから。
ソファでうずくまったまま、手を伸ばしてテレビのリモコンのスイッチを押してみると、ニュースが流れた。温暖化で、北極の氷が溶け、シロクマの生態も変わりつつある。そんなことを言っていた。優しいだけじゃだめだけど、とりあえず地球には優しくしようと思った。大人になって、ビールを飲みながら、星をながめられるように。
「 脳科学的には異性の間に友情は成立しません。同性といるときの脳の働きを友情とするなら、異性といるときに働いている脳は、恋愛のときに働く脳と同じだからです」
ふとつけたテレビの中で、学者がそう言っていた。ぼくは別れた彼女からのメールを読み返しながら、缶ビールの蓋を開けた。ドレッシングや缶ジュースを無意識に振ってしまうくせがあるぼくは、それが缶ビールだってことを忘れていて、蓋を開けた途端にその泡が顔に飛び込んできた。
「 私、あなたにもう甘えられない。本当はずっと友達でいたいけど、それって、難しいよね……」
携帯電話の画面にビールの泡がかかって、その文字がにじんだ。すぐにそれを拭き取ったけれど、防水機能が付いていることを思い出した。いらない機能だと思っていたけど、こんな風に役に立つなんて。テレビからセパレートタイプの携帯電話のCMが流れる。それもどうやって役に立てたらいいのか、まるで思いつかない。でも、それもきっと誰かが、あったらいいなと思って作ったのだ。誰かにとってそれは、役に立つものになるのだろう。そんなことを考えながら画面を拭き取った。
表情を変えることのない文字は、いつまでも優しくて困るばかりだ。いっそ、壊れてしまえばよかったのか。
「 ギャル文字にでも変えてみようか」
いつか、笑いながら彼女はそう言って、ぼくの携帯をいじり、メールの文字を変えてみせた。
「 ははは、似合わないよ、その文字」
「 でも、面白いでしょ?」
「 うん、面白い」
ぼくはその時のように、メールの文字を変えてみる。やっぱり似合わないその文字を読みながら、それでも優しぎるその気持ちがぼくの心をぎゅっとつかむ。そのとき、電話がかかってきた。
「 もしもし」
付き合いの古い女友達の声だ。
「 久しぶり」
おそらく一年は連絡していない。それでも昨日も会ったかのような声を出していた。それは彼女も同じだ。
「 久しぶり。飲む?」
彼女はいつでも唐突すぎる。
「 飲みたいの?」
「 まぁね」
「 もう飲んでるから」
「 なんだ、出来上がってたんだ」
「 あのさ、脳科学的には、異性の間に友情は成立しないらしいんだけど、どう思う?」
ビールの匂いに包まれて、ぼくがそんなことをぼけーっと言葉にすると、彼女はせきを切ったようにしゃべり出した。
「 同性同士の友情と異性の友情は違うんじゃないの? 同性と同じように友情を求めるからごちゃごちゃするんだよ。もっと言ったら、その人同士でしか築けない関係があるのに、それを言葉にしようとなんてしなくていいのに、まったく……」
「 いいこと言うね」
「 ……って、詩人が言ってた」
「 詩人?」
「 うん、どこかの国の」
「 適当だね」
「 ねぇ、誰だっけ? さっきの?」
周りの誰かに聞くように彼女は声を上げる。あぁ、きっと何人かで飲んでいるんだな。
「 楽しそうでよかった」
そう言ってみると、「 うん、ありがとう」と、彼女は答えた。それから何か適当な理由をつけて、電話を切った。本当の理由はまた彼女のメールを読み返したくなった、ただそれだけのことなのだけれど。もしかしてセパレートタイプの携帯電話は、そういうときは役に立つのかもしれない。
ぼくらはまた友達に戻れるだろうか。恋人になろうなんて思わないから、ただ、話がしたいと思える関係になれるだろうか。それともいつかすべてを、忘れてしまうのだろうか。2杯目のビールも無意識に振ってしまう。蓋をあける前にそれに気が付いたけれど、迷うことなく開けた。ひとりでビールかけだ。そのにおいに、いまは埋もれていたかった。
娘は最近、カーテンを開けることを覚えた。どうやらそれが、マイブームになっているらしい。開けるのはいいが、閉めはしない。夜でも開けっぱなしにして、ニコニコしている。
「 もう夜なんだから閉めなさい」
ぼくはゆっくりと、そう言う。
「 もうちょっと」
娘はすぐには引き下がらない。
「 そういうところは、ママに似たな」
と言ってみると、妻は「どういうところ?」とぼくに聞いた。
「 素直じゃないところ」
できるだけ優しい言い方をしてみるけれど、妻はちょっと不機嫌になる。それもぼくは想定済みだ。
「 素直だよ、私」
「 素直じゃないのを受け入れないのは、素直じゃない」
「 屁理屈男めー」
その言葉を娘はまねして繰り返す。
「 へらくつおとこめー」
口の回らないその言葉に、ぼくと妻は一緒になって笑ってしまう。娘はなんで笑われてるのかわからないといった表情をして、また「 へらくつおとこめー」と言った。やがてその言葉は歌になり、娘はそれに合わせて踊り出した。一通り踊り終わると、疲れたのか「 よっこらせー」と腰を下ろした。
「 あ、<よっこらせー>も、覚えたのか」
それは妻の口癖だ。腰を下ろすとき、まるで学芸会の演技のように、抑揚のない<よっこらせー>を口にする。
「 そんなこと言ってる?」
気付いてないことにびっくりだ。
「 言ってるよ、気付かなかった?」
「 うん。そっか、気を付けよう」
そんなことを話してるうち、娘のすやすやとした寝息が聞こえてきた。
「 踊り疲れて、寝たのか」
「 けっこうはげしく踊ってたもんね」
ぼくは娘を抱きかかえ、寝室へと連れていった。ベッドに寝かせてしばらく娘の寝顔を見ていると、かすかに声が聞こえた。
「 星が見えるね」
「 星?」
聞き返してみるけれど、返事はない。どうやら寝言だったみたいだ。ぼくは娘のほほをつんつんとつついてから、部屋を出た。
「 起きなかった?」
リビングに戻ると、妻がそう言った。カーテンは閉まってる。
「 うん、寝言、言ってたけどね。カーテン、開けようか」 と、ぼくはカーテンに手をかけた。
「 もう夜だよ?」
「 星が見たかったんだね。だから、カーテン開けたかったみたいだよ」
「 星? ここからじゃ、あんまり見えないよ」
「 あの子には見えるんだよ。目をつぶっても、見えるくらいだから」
妻は立ち上がって、冷蔵庫を開けた。そこから生ビールを取り出して、ぼくに差し出した。
「 飲む?」
「 うん、飲むか」
見えなくてもあるものが、見えるようになるのは、ビールを飲んだときくらいになってしまったら悲しいと思う。だけど妻とこうして飲むビールは、格別かもしれない。そんな気持ちにぼくはなった。
よっこらせー。妻が腰を下ろす。ぼくは彼女のほほをつんつんとつついた。
妹はそれを懐かしむように、カクテルグラスの中を覗きこんでいた。
「 プールの中って、こんな感じだね」
小さくつぶやいて、物憂げにほほ笑んでいる。そのカクテルの中にはラズベリーが沈んでいて、それが、たまらなく、おいしそうに見えた。
「 プールなんて、十年近くも行ってない気がする」
強い酒が得意ではない私は、妹と似たカクテルを飲んでいる。けれどラズベリーは入ってない。入っていたら少し恥かしいと思う、そんな年頃だ。
「 私、夜中にさ、学校のプールに忍び込んだことがあるんだ。彼と」
妹がグラスをかたむけると、ラズベリーも一緒にかたむいた。
「 最近の話?」
「 何年か前。あれ、楽しかったなぁ」
「 それって、青春ぽいね。なっちゃんも、もう大人なのに」
ふふふと笑って、妹はカクテルを飲みほした。グラスにラズベリーが残っている。
「 だいぶ大人だけど。そうかぁ、結婚かぁ。あの人も結婚するのかぁ」
妹の顔は少し赤い。
「 するのかぁ、とつぶやけるくらい、思い出になってるんだね」
頬杖をついたあと、腕組をする妹。そして、納得したように「大人だからね」とうなずいた。
「 それ、食べないの?」
私はラズベリーを指差す。
「 食べてもいいよ、お姉ちゃんは子供っぽいなぁ」
私は手のひらでそれを受け取り、口にした。アルコールがしみこんだ、甘い味。妹の思い出を、私は味わっているような気分になった。
「 えっと……梅酒ばばあ、で」
彼女は8杯目の「 梅酒ばばあ」を、頼んだ。
「 結局、梅酒ばばあ、なんだね」
梅酒ばばあって言いたいだけじゃないかと、ぼくは疑う。
「 いや、本当は赤ワインを頼もうとしてたのよ。けどねぇ、いざ、メニュー見ると、梅酒ばばあ、って言っちゃうんだよねぇ」
やがて、やってきた梅酒ばばあを手に取り、彼女は8回目の乾杯をした。ぼくは、6杯目のジンライムで、グラスを合わせ、「 何の乾杯だか、わかんないな」と笑った。彼女は、かなり酔っている。
「 つまりさぁ、女の友情は脆いものなの」
そのセリフも、十回目くらいだな。そう思いながら「 そうなのか」と十回目くらいの返事をした。
特に恋愛が絡んでくるとね、もう取り返しがつかないわけ。彼女はそう言って、テーブルに顔を埋める。手はしっかりと梅酒ばばあを握りしめている。
「 でも、その子は友達なわけでしょ?」
ぼくはジンライムをゴクリと飲んで、そう聞いた。
「 うん、そうだけど……でも、ひどいこと言っちゃったもん。たぶん、許してくれないし、私も素直に謝りたくないし……」
友達の彼氏の態度が気に食わなくて、思わずその男に説教してしまった。けれど、友達は彼氏の肩を持つから、余計に喧嘩になってしまった。6杯目の梅酒ばばあ、のところで、ぼくはなんとか話の大筋をつかめた。彼女は細部にまでは話をしようとしないし、ぼくも聞きだそうとは思っていない。だから「 なるほどね」と言って、うなずいた。
「 どうしたらいい?」
テーブルに顔をうずめたまま、彼女はつぶやく。
「 どうしたいの?」
「 そりゃぁ、仲直りしたいよ。でも……」
「 そう思ってたら、また友達になれるしょ。きっと」
彼女は顔をテーブルから戻して、サイコロステーキの横にあるコーンを、フォークでかき集める。
「 男の友情は、そんなもの?」
「 うん、まぁ、そんなものかな」
「 そっかー。いいなぁ……」
彼女のフォークに乗ったコーンは、途中で一粒落ちた。ぼくはそのフォークを「 貸して」と、手のひらを差し出した。彼女は不思議そうな顔をしながら、フォークをぼくに渡した。フォークを手にしたぼくは、コーンを鉄板の上に戻した。そうして、フォークの先で、コーンを一粒、刺した。
「 はい」
彼女の口の前に、そのコーンを持っていく。彼女は条件反射のように、それを食べた。
「 一気に全部取ろうとするから、こぼれるんだよ。一個一個、取っていけばいい。はい」
またぼくは同じように、コーンを彼女に差し出した。彼女はコーンを食べて、「 そうかー。うん、そうなんだね」そう言って、9杯目の”梅酒ばばあ”を頼んだ。
彼女から手紙が届いたのは、それから数ヶ月たったあとだった。手紙の文章は、メールでもいいほど短い。けれど、手紙だからわかる気持ちが、そこには綴られていた。
<仲直りしたよ。やったぜ!
何もかもうまくやりたいというのはわがままかもしれないけれど、
どれかひとつにしぼると、がんばると、不思議といい方向に変わりました♪
無意味な喧嘩にならなくて、ほんとによかったです。ありがとう>
「 よかったね」と一言、メールで返事を送ろうと思ったけれど、やっぱり手紙を書くことにした。よかったねの一言と、また、梅酒ばばあを飲みましょうと言葉を足して。そういえば、ぼくは梅酒ばばあを飲まなかったのだ。たとえば、ふたりで、ひたすら梅酒ばばあだけを頼んでみる。
「 あ、えっと……梅酒ばばあ、で」
「 うーん、どうしようかなぁ……ワイン……じゃなくて、梅酒ばばあ、で」
「 すみませーん、やっぱり梅酒ばばあに変更してくださ~い!」
なんてことをして店員から「 梅酒ばばぁは、終わってしまいました」と言われるのだ。
うん、楽しい。そんなくだらない遊びを考えながら、ぼくは便せんを封筒に入れた。おそらくもう、会えなくなると、知りながら。
私は結婚した今でも彼に恋している。
「 きっと、私の方が先に死んじゃうね」
そうを彼に言うと「 それは、とても困る」と、ほんとに困った顔をする。私は、それに恋している。
「 かあさん、死んじゃうの?」
息子が彼に聞くと、彼は答えた。
「 死なないよ。でも力が出ないときがある。そのときは、きみがパンを焼いてくれ。そして、それを投げてくれ」
「 ジャムおじさんだ!」
「 そう、きみはジャムおじさん。かあさんは、アンパンマンだ」
なんてことを真剣に話す。
「 だれがアンパンマンだって?」
私がちゃちゃを入れる。
「 かあさんは女の子だから、アンパンマンじゃないよ」
息子の助け船だ。
「 ねぇ、聞いた? ”女の子”だって! 私まだ、女の子なのね、うれしいなぁ」
私は、きっと息子にも恋をしている。
「 女の子だから、バタコさんだよ」
と、息子は付け加えて、微妙な気分になる。
いや、チーズかもしれない。と、彼。チーズはオスじゃないの? と、息子。じゃぁ、ドキンちゃんだな。と、彼。ドキンちゃんは食パンマンが好きなんだよ。と、息子。じゃぁ、おれは食パンマンな。と、彼。だめ、ぼくが食パンマンだ。と、息子。
「 私って、ドキンちゃんなの?」
ふたりはきょとんとして「 違うの?」と聞き返した。
「 メロンパンナちゃんではないの?」
ふたりは「 うーん……」と声をそろえる。どうやらメロンパンナちゃんではないらしい。食パンマンになりたい親子なら、私はドキンちゃんでもいいかなぁ。私は彼らに、恋している。
わりと空いた電車の中で、その人はぼくと同じようにドアにもたれかかっていた。座らない理由は、はじっこが埋まっているからだろうか。斜め前のはじっこの席では女子高生が文庫本を読んでいる。そのはす向かいのはじっこの席ではおじさんが手すりに顔をうずめている。その対面のはじっこの席では、小さなこどもが靴をぬいで窓にへばりつき、母親がとなりでメールを打っている。それぞれの時間が流れていると、ぼくは腕組をして思う。
そしてまたふと視線を戻すと、ドアにもたれかかるその人に光が差し込んでいた。それはまるでスポットライトに照らされたみたいで、ぼくはその人に見とれてしまった。そして、そのにおいにも。それはその人のにおいではなく、彼女の手にぶら下がった箱に入っているプリンのにおいだ。箱に入っているのがプリンだと、凡人にはわかるまい。だけどぼくにはわかる。不思議なことに、プリンのにおいだけには敏感な嗅覚があるのだ。その能力の活かし方がわからないまま、大人になってしまったのだけれど。
その人とプリンを見つめ続けるのはあやしいので、ぼくはふっと視線を外し窓の外をながめた。流れる風景はいつも通りだ。いつも通りの毎日が過ぎていくようにこうやって、心の景色も流れていく。
そういえば。
「 イチローがね、<歳を取っていくと心の脂肪がたまるから、それをためないようにしていかなくちゃいけない>って言ってたよ」
昔の彼女がそんなことを言っていた。
「 心の脂肪って?」
「 うーん、なんかよくわからないけど、歳を取るといろんなことを知ってしまって、シンプルなものが見えにくくなるっていうようなことだった気がする」
曖昧な記憶に浮かんできたのは、そんな曖昧な彼女の解釈だった。シンプルなもの。それってどういうことだろう。好きなものを好きでいつづける想いだろうか。太陽に照らされたビルが窓を突き抜けて車内に影を落とす。流れている景色とともに、それは形を変える。形を変えながらも、好きでいつづけるものもきっとある。そんなことを考えているとき、電車は次の駅に到着して、ぼくの前からプリンのにおいが遠ざかった。
彼女は駅を降りる間際、はじっこに座る女子高生にハンカチを差し出した。文庫本を読みながら、いつのまにか涙を流していたようだ。
「 よかったら」
「 あ、ありがとうございます……」
そうして涙を拭きとっている間、ドアが閉まる音がした。
「 え、あ、あの、これ!」
女子高生は立ち上がったが、ドアは完全に閉まりきり、電車は間もなく動き出した。何事もなかったようにハンカチを差し出した彼女が、ホームをゆっくり歩いていくのをぼくは見ていた。彼女には心の脂肪があまりついていないのだ、きっと。
まだかすかに残るプリンのにおいに包まれて、ぼくはまた外の景色をながめた。
初めて迎えた私たちの娘の誕生日。誕生日にはチーズケーキと決まっている私の家系。ゆえに娘もまたチーズケーキでお祝いするのは、当然のこと。そんな習慣は珍しいと夫は言うのだけれど、幸いにも夫はチーズケーキが好きで、何も問題はないのだ。
「 あと何回チーズケーキを食べたら、この子はお嫁に行ってしまうのかな」
生まれたころに父親を亡くし、母親の手で育てられた私には「父親」という存在がよくわからない。
「 父親って、そんなことを思うんだ」
「 そんなことを思うのは、はじめてだよ」
そんなふうに、夫は笑った。思春期のころ、友達は「 父親が嫌い」だと、当たり前のように言うようになった。私は、その意味がよくわからなくて、少しだけ淋しい思いをした。それは、父親がいないという淋しさではなく、その話がわからないという淋しさだった。「 ほんとうに淋しいことは、淋しいと思える相手がいないことよ。だから、おかあさんは淋しくないの。おとうさんがいなくて淋しいと思えるからね」小さいころ聞いた母のそんな言葉が、思春期の私の心を苦しませた。淋しいと思える相手がいない。父親がいなくて淋しいと思えない私は、とても淋しいのだと。
ほんとうの淋しさを見ないように、私は明るく振舞った。そのとき読んだ何かの本に「 笑顔でいればいいことがある」と、今思えばありふれた言葉が書いてあって、私はそれを頑なに守ることを選んだのだ。それは半分当たっていて、半分外れていた。夫がまだ恋人だったころ、私と私の友達と三人でお酒を飲んだことがあった。「 どんなところが好きなんですか」酔った友達はそんなことを彼に聞いた。そういうのはいいいからと話をそらそうとしたのだけど、彼は淡々と答えたのだ。「 好きというか……淋しい顔をしてるのが、すごく気になって。笑わせたくなってね、なんか意地になっちゃって」彼はそう照れくさそうに言った。そのとき、無理して笑顔でいた自分のことを、はじめて知った。うまく笑えてると思っていたのに、私の笑顔は借り物だったのだ。
彼は、私が無理をしなくてもいい、唯一の人になった。そしていま、私の娘はそんな夫の、ほっぺたをつねっている。それをいやがることもなく、夫は娘をぎゅっと抱きしめる。娘は「 は」なのか「 へ」なのかわからない言葉で、うれしそうに笑った。
「 そういえばね、結婚したときにこれを渡されたんだ、お義母さんに」
夫は押入れからビデオテープを取り出したあと、私にそんなことを言った。
「 お母さんに?」
「 子どもが生まれたら、その子の初めての誕生日に、一緒に観てくれって」
ビデオデッキにテープを入れた。再生されると、画面に赤ちゃんの映像が流れた。
「 今日は、ゆうちゃんの1才の誕生日でーす」
母の声だ。画面に映るのは、赤ちゃんの私らしい。丸いケーキがテーブルの上にあり、ケーキには一本のローソクが立っていた。
「 おまえもいつか、お嫁に行くんだな」
その言葉が聞こえて、カメラは見知らぬ男の人を映した。
「 これって、お義父さん?」
夫が聞くけど「 うん、たぶん」としか答えられなかった。写真では見たことがあるけれど、それがイコールこの人なのかと、私には結びつけられなかった。
「 ははは、うちのお父さんもそんなこと言ってたかも」
母が笑っている。
「 来年はチーズケーキでお祝いだな」
「 チーズケーキ好きだねぇ」
私の誕生日が毎年チーズケーキだったのは、そういうわけなのか。ビデオの中の父親は笑顔だったけれど、ふいに涙がひとつぶだけ落ちたように見えた。赤ちゃんの私は、それを拭おうとしている。でも、うまく触れなくて、つねってしまった。いてっ。と、父親は声を出した。
「でも、痛いってことは、まだ生きてるってことだな」
ビデオは、そんな家族の風景を何分か映した後、やがて砂嵐に変わった。
夫は私の顔を見ている。何か言われると、泣きそうで、「あのさ、私のほっぺた、つねってみてよ」 と、先に言った。
「 お、ほっぺた、つねってほしいんだって。ほら、かあさんのほっぺた、つねってあげな」
夫は娘にそう言って、娘を私の顔に近づけた。娘はぎこちなく私のほっぺたに手を近づける。そして、ぎゅっとするのかと思いきや、ゆっくりなでた。
「 あれ、なんだよ、つねらないのかよ」
夫が文句を言っている。
「 すべすべだから気持ちいいんだ、きっと」
俺だってヒゲそってすべすべなのに、と、わけのわからない反論をして、夫は、私のほっぺたをつねった。ちょっと痛かったけれど、それが生きてるってことだと思うと、うれしかった。
私はまだ、なほちゃんのことを、ほとんど知らない。それはそうだ、まだ二十四時間も一緒に過ごしていないのだから。好きになった人の、娘。それが、なほちゃん。もうすぐ九才になる。今日が、はじめてのご対面なのだ。
「 なほは、パパのことが好きなんだけど、なおちゃんは、どうなの?」
台所でクッキーを一緒に作りながら、なほちゃんにそう聞かれた。ちょうどオーブンが、チン! と音を上げたところだ。ドキドキしながら「 好きだよ」と答えて、オーブンから焼きあがったばかりのクッキーをお皿に移した。なほちゃんは「 よかった、気が合うね」と言って、クッキーにチョコペンで何かを描いた。
「 なにを描いたの?」
「 パパ」
そう言ってそのクッキーを私に見せて、すぐさま食べた。
「 もったいなくない? きれいに描けたのに」
「 食べないほうがもったいないよ」
なほちゃんは、ニコニコ笑う。それからまた、チョコペンを手にして、クッキーに絵を描いた。
「 それは?」
「 なおちゃん」
やっぱりすぐさま、なほちゃんは、クッキーを口に入れた。そうして、まだ食べきれていないまま、もごもごと何かを言った。
「 ちゃんと食べてから、しゃべったらいいよ」
私は、ミルクをコップに注いで、なほちゃんに渡した。それをごくごくと飲みほして、なほちゃんは一息ついた。
「 やっぱり気が合うね。ミルク飲みたかったしね。それに、「 なお」と「 なほ」で名前も似ているし。わたしたち、いい感じじゃん」
なほちゃんは相変わらず、笑顔だ。でも、もしかしたら、精一杯気を遣ってくれているのかもしれない。そんなふうに思えて、なほちゃんがとても愛しく思えた。
「 なおちゃんも、なんか描いてよ」
なほちゃんは、私にチョコペンを渡す。私はクッキーを手に取り、そこに絵を描き始めた。その途中で、なほちゃんが言った。
「 描いたら、すぐ食べるんだよ?」
「 どうして?」
「 そのほうが、楽しいから」
私は描き終えた絵を、なほちゃんに見せた。そして、それをすぐさま、口に入れた。
「 今のは?」
もごもごしている私に、なほちゃんがミルクを注いでくれる。それをぐびっと飲み干して、私は一息ついた。そして、言った。
「 なほちゃんだよ」
「 わたし?」
「 うん」
「 なんだ、ちゃんと見たかったなぁ」
「 すぐに食べたほうが楽しいんでしょ?」
「 うん」
なほちゃんは、大きくうなずいている。私は、笑顔になって、チョコペンをなほちゃんに渡す。次は何を描くのだろう。それはわからないけれど、わかったこともあった。私にとって、なほちゃんは、確実に愛しいものになってしまったということだ。
「 ありがとう」
その文字を、次は私が描こうと思っている。
「 最も長く続く恋、それは片思いだ」
昨日、田中君がクールな声を装って、言った。どうやら、カッコつけたかったらしい。そのセリフは少し前に観た映画の中で、使われていた。映画の中のイギリス人はカッコいいと思ったけれど、日本人で、ただの高校生の田中君は、カッコよくは見えなかった。そもそも、私は田中君に興味などないのだ。初めて告白されときは少し意識をしてしまったけれど、それからもう、五十回くらいは断っている。
けれど、私にも責任はある。たった一度、一度だけ流されるようにキスをしてしまったのだ。そのとき、田中君が少しカッコよく見えたのは本当だ。それは、やっぱり一時的な感情だったとあとで思うのだけれど。田中君の片思いを終わらせるには、付き合ってしまえばいいのかもしれない。私と付き合ったって、きっと幻滅するだけだ。そんなことも思うけれど、そうするのは田中君の思うつぼのような気もする。そして、私たちはきっと傷つくのだ。それが怖いだけなのかもしれない。そんな気持ちもどこかにある。私はモテるなどと思ったことはないが、田中君にだけは、相当モテてしまっている。あぁ、困った。
困った人がもうひとり。お父さんだ。お父さんはたぶん、お母さんに片思いしている。それが両思いではないことは、もう証明されている。ふたりは離婚しているのだ。なのに、お父さんは気にも留めずに、お母さんに猛アタックを繰り返している。お父さんに恋の女神は微笑まない。私は女だからわかる。終わった関係は、元には戻らないのだ。残念だけれど、お父さんにチャンスはない。たぶん、近くにいるからいけないのだ。なんでふたりは、離婚して隣同士になるのだろう。親権は母親にあるので、私はお母さんと暮らしているけれど、お父さんの部屋にも出入りする。そうしてときどきは、三人でごはんを食べることもある。私のためでもあるのかもしれないけれど、本当に離婚しているのかと疑いたくなる。それでもお母さんはまた一緒になるつもりはないと断言している。
「 これ、五十嵐君の差し入れなんだけど、食べる?」
お母さんが私に言う。お母さんはお父さんのことを”五十嵐君”と呼ぶ。それは私の前の名字でもあるわけで、変な感じがするのだけれど、結婚前はお父さんのことをそう呼んでいたらしい。離婚したから前の呼び方に戻しただけ、お母さんはそう言っていた。
「 イチゴ大福? お父さん、これ好きだよね」
「 私の好物だからじゃない?」
「 お母さんの好物だったんだ。よくもまぁ、飽きずにお母さんにアタックするよね。嫌じゃないの?」
お母さんは、にやにやして「 ゆき子は嫌じゃないの?」と言った。
「 何が?」
「 田中君に猛アタックされて」
「 あぁ……嫌という感じじゃないけど、困るっていうか」
お母さんはイチゴ大福を頬張りながら「 ふーん」と小さくニヤけた。それから、ゴクっとお茶を喉に通らせたあと、続けた。
「 毎日のように電話かけてくるから、田中君の声覚えちゃったわ」
私は高校生になったというのに、携帯電話を持っていない。経済状況も鑑みても、持たない方がいいと思っているのだ。友達は少し困っているようだけど、私はそんなに困らない。そんな私ゆえ、田中君は、毎晩、家に電話をかけてくる。話すこともそんなにないので、私はただうなずいて、田中君が切るのを待つ。田中君は、たくさんしゃべらない。だから、長電話になって迷惑っていうこともない。メールだったら無視できるのに。そう思うことは少しある。
「 最も長く続く恋は、片思いなんだってさ。田中君が言ってた。田中君てお父さんみたいだなぁ。お父さんもお母さんに片思いだもんね」
「 そうだねぇ、男の人は現実味がないから。でも、ゆき子は田中君を好きで困っちゃうわけだ?」
私はイチゴ大福を喉につまらせて、お茶を流し込んだ。そうして胸を叩く。胸のふくらみが腕に当たって、あ、私って女なんだなぁと、咳き込みながら脳の片隅が思う。
「 だいじょうぶ?」
お母さんが私を心配する。なんとかつまったイチゴが喉を通って、私は涙目で「 だいじょうぶ」と言った。
「 お母さんが変なこと言うから、つまっちゃったよー」
「 変なこと言った?」
お母さんがそう聞き返したとき、電話が鳴った。田中君の時間よ、と、お母さんは笑う。私が少しあきれたように電話に向かうと、チャイムがなって、「 加奈子さ~ん」と声が聞こえた。私は「 お父さんだ」と言って、笑った。
田中君もお父さんも、叶わない恋をしている。女ならそんな恋は時間の無駄だ。でも、それさえ気が付かない、ふたりのことを、少し羨ましくも思った。
「 もしもし」
「 あ、もしもし、えっと、話ししてもいい?」
今日はどうやってフッてあげようか。羨ましくても、時間の無駄だ。私は受話器越しにニヤついている。
「手紙」をテーマにした小説作品集
太陽が教室を橙に染める少し前。風はときどき強く吹き、それが窓に当たって、音を立てる。人生に疲れました。さようなら。奥田孝二、通称「オクダコ」は、そう書いたメモを私に差し出し「どう?」と聞いた。
「全然ダメ、ありきたり」
オクダコは、口を尖らせて「 なんでだよぉー」と言って、こんどは、頬を膨らませた。私たちはクラスでただふたり、テストで赤点を取って、追試を受けていた。それが終わったとき、オクダコは机に顔をうずめ、「 あー、死にてぇ」とつぶやいたのだ。「 じゃぁ、遺書を書いてよ」ふざけてそう言ってみた私に、オクダコが渡したメモがそれだ。
「 ありきたりって、遺書なんてそんなもんだろぉー」
オクダコは身振り手振りが大きい。
「 そんなもんっていうけど、見たことあるの?」
「 ないけど、河野は見たことあんのかよ」
「 ないけど……でも、もっと感動させてほしい」
「 死ぬのに感動もクソもねぇだろぉー」
「 そんなこと言ってるから、赤点なんだよ」
「 おまえもだろ。あぁ、わかったよ、感動的な遺書を書いてやるよ!」
オクダコは何かに火が付いたように、せっせと遺書を書き始めた。1枚書くと私に渡して、私はそれを「 ダメ」と言って丸めてゴミ箱に投げた。その筆圧から、オクダコの情熱が伝わる。
”もうこの世界に用はありません、さようなら ”
”俺が死んでも、世界は変わりません、さようなら ”
”給食費を盗んだのは俺です、死んでお詫びをします、さようなら ”
”みんな嫌いになりました、さようなら ”
”テストが俺を殺しました、さようなら ”
オクダコの言葉は全部、1行だ。私は次から次へとそれを丸め、ポイポイと流れ作業のように、捨てる。
「 ひとつくらいないのかよぉー」
「 ないよ」
「 絶対、感動させてやるからな!」
「 よろしく」
と答えながらも、私は次に読むそれをまたゴミ箱に投げるつもりでいる。だって、遺書なのに、情熱的というのがよくわからない。だから疲れて筆圧が弱くなるまで、私は合格を与えないつもりだ。私って性格悪いなぁ、そう思いながら、オクダコのメモを受け取った。そして、同じように丸めようとしたその手を、止めた。次の瞬間「 いいね」と一言、こぼしていた。そう言った自分にびっくりしながら、私はそれをながめていた。
「 マジ? 感動した?」
「 うん」
素直にうなずくと、オクダコはバカみたいに「 ヨッシャー!」と、ガッツポーズを見せた。
「 そんなにうれしいの?」
そう聞く私に、オクダコはゆっくりと手を下ろして、ゴミ箱に入った丸めたメモを広げて見ていた。
「 あぁ、確かにダメだな。こんな後ろ向きな言葉は、ゴミ箱にポイだ」
「 そうそう。この世界には用があるし、私が死んだら、世界は変わるし、給食費も盗んでないし、みんな好きだし、テストは私を殺さないしね」後ろ向きだけれど、情熱的なその文字が私は嫌いではない。それを言うのはやめておいた。なんだか悔しいから。
「 だな。帰るか」
オクダコの表情は、「 死にてぇー」と言ってたときと同じように「 生きている」顔をしていた。
「 うん、帰ろう」
私はゴミ箱に捨てなかった、最後の遺書を黒板に貼り付けた。
”また会いましょう、さようなら ”
ここは新しい道なのか、いや、このカーナビが古いのか、それともこんな場所なんてないのか。とにかく画面上では、真っ白な場所を走っている。街を抜けて、山道を上って下りて、現れたのは次の街ではなかった。フロントガラスに映るのは、ただまっすぐな道が続く荒野だ。
とりあえずまだ、燃料には余裕があるだけよかった。もしここで力尽きたら、サハラ砂漠に不時着して王子さまと出会った、サン=テグジュペリみたいになるのかもしれない。「 星の王子さま」の最初の場面を思い出しながら、車を走らせていると、あろうことかタイヤがパンクした。さては、本当にサン=テグジュペリになれということか。車を降りて、スペアタイヤを取り出した。少しばかり、王子さまの登場を待ってみるけれど、あらわれる気配はない。どうやらぼくは、大人の世界に満足してるんだな。いいように解釈してみて、タイヤ交換に精を出した。
ジャッキアップで、車体を浮かすと、浮いた車体の下に、小さなビンが落ちているのを見つけた。それを手にとって見てみる。コルクでふさがれたビンの中には、紙切れが入っていた。それを取り出そうと、強くしまったコルクをなんとか抜いたが、紙はビンの口に引っ掛かって取り出せない。工具やドライバーを使っても無理だ。割ってしまおうかと思ったけれど、なぜかそれは気が引けた。どうしようかと思っているとき、車内に「鼻毛抜き」があることを思い出した。ピンセットのようなそれは、ビンの口から紙を取り出すのにはちょうどいい。その「 鼻毛抜き」で紙をようやく取り出すことができた。鼻毛を抜くだけが、こいつの仕事じゃないのだな。そんなことで、少し感心してしまった。そうして紙を広げると、そこには短い言葉が綴られていた
”どうして、うまれたの? ”
幼い感じのその文字は、少しにじんでいた。雨に打たれたのか、それとも涙なんだろうか。ぼくは、ペンを取り出して、その言葉の下に、書いた。
”すきなひとに、逢いにいくためだよ ”
それをまたビンに戻した。ぼくはタイヤ交換に戻る。はやく終わらせて、海へ行こう。カーナビは海を教えてくれるだろうか。いや、教えてくれなくても、ぼくは行くことに決めたのだ。海にこのビンを流すことを。ぼくはいま、そのために生きている。
「 おれはあなたの字が好きなんだ」
彼女からの手紙がポストに入っていた。それを読むと、ぼくはいつも、その言葉と、その字のかたちと、ぬくもりが愛しくなる。それを伝えようと電話をかける。手紙よりも先に、声が聞きたい。
「 そう? でも、もっと大人の感じの字を書きたいんだ。なんか、少しガチャガチャしてない? 私の字って」
電話の向こうの彼女は、謙遜した。
「 ううん、そんなことないよ。今まで見た字の中で、あなたの字がいちばん好きだな」
彼女は照れたようだ。
「 いちばんって……。ありがとう。じゃぁ、あんまりうまくならないようにするね」
下手じゃないのにな、とぼくは思いながら、その遠慮がちな話し方と声にきゅんとなってしまって、なにも言えなくなった。ぼくは彼女に手紙を書きたいけれど、本当のことはそこには書けない。彼女は他の誰かと暮らしているから。ぼくの手紙を見られたら、彼女はきっと困るだろうから。
一行書くのでさえ、何十分も時間をかける。ゆっくりすぎる一文字一文字は、なかなかきれいに書けない。その字が愛しいと、彼女は思うだろうか。思わなくてもいいか。「 手紙をかくよ」ぼくの想いを知ってか、知らずか、「 うん、待ってる」と、やさしい声で彼女は、答えてくれた。彼女が笑うことの多い生活なら、それがいい。それを思い描いているときのぼくは幸せなんだと、伝えたい。ぼくは世界でいちばん好きな字を指でなぞっていた。
「 さくらももこは二十歳の誕生日に、ひとりでひたすらまっすぐ続く道を歩いたんだそうです」
二十九才の誕生日に、六つも年下の後輩は言った。私がちびまるこちゃんみたいだと、彼女はよく言っていて、だから”ささくらももこ ”なんてワードも頻繁に登場する。私がまるちゃんなら、彼女はさしずめ、たまちゃんといったところだ。彼女の精神年齢が高いのか、私が低いのか、おそらく後者であるけれど、とにかく彼女は私のお気に入りだった。
「 二十歳かぁ。私、そのころの思い出、なにもないな」
と、つぶやくと、
「 じゃぁ、三十路の誕生日は何か思い出に残ることをしたらいいですよ」
彼女はそう言って笑った。
「 アラサーと呼びなさい、アラサーと」
そんなふうに笑いあったのは、もう一年近く前のことになっていた。私はあれから、会社をやめて、しばらく旅をした。イタリアに行って、オーストラリアに行って、タイに行って、インドに行った。それなりに楽しく、それなりに苦しく、それなりのカルチャーショックを受けたものの、何かに確信を得た想いは、あまりなかった。私はきっと期待し過ぎているのかもしれない。それが29才で出した答えなのかもと、ぼんやりと思ってみた。
そんなとき、彼女から手紙が届いた。どうしてなのか、私たちはケータイ番号や、メールアドレスは交換せず、お互いの住所だけを教えあっていた。なんとなく、気軽なつながりではいたくなかったのかもしれない。
手紙を広げて、読んでみる。
元気ですか。もうすぐ誕生日だったと思います。
三十路ですね! まっすぐな道を歩いてください。
私はもうすぐ……
アラサーと呼ばない彼女に、なんだかくすぐったいような気持ちになる。けれど、よかった。この手紙を読んで、私はまっすぐな道を歩こうと決めた。どうせなら、日本一のまっすぐな道を歩いてみたい。思い立ってすぐにパソコンを立ち上げる。そして、「 日本一まっすぐな道」と、検索して、見つけた。国道十二号線、北海道美唄市から滝川市に続く二十九・二キロの直線道路。三十才の誕生日、その道をずっと歩いていこう。そして、旭川で暮らす彼女に会いにいこう。それからブーケをもらわなきゃ。結婚、おめでとう。お互い、まっすぐな道を、歩いていこう。
本当は双子のはずだった。だけど、母さんのお腹の中でぼくが ”にいちゃん ”と呼んでいたその彼は、この世に出ることなく、死んでしまった。その事実は両親も知っている。だけど、ぼくほどそのことを深く思ってはいないだろう。信じられないかもしれないが、にいちゃんは生きているのだ。ぼくの心の中にだけじゃない、ぼくとは別の世界で、確実に。その証拠は、こうやって届く、手紙だ。
元気か? 最近なにか悩んでるようだな。
女のことか?( 笑)
それとも漠然とした将来のことか?
まぁ、いろいろあるよな、人生は。
おれのところもな、そっちとたいして変わらなくて、
いろいろ悩んでばっかりだよ。
でも、タケもがんばってるから、
おれもがんばろうと思うよ。
じゃぁな、母さんを大事にな。
まるでぼくのことをわかってるかのように、にいちゃんの手紙は届く。たぶん他の誰かの言葉だったら聞き流してしまうかもしれない、当たり前の手紙ばかりだけれど、にいちゃんだから、ぼくの心にすっと入ると思うのだ。それは、うれしいとき、かなしいとき、さみしいとき、にいちゃんの住む世界から、ぼくが見えているかのように。ぼくはにいちゃんに返事を書く。
にいちゃん、元気? ぼくは元気だよ。
悩み事は残念ながら女の子のことじゃないんだけど(笑)
漠然とした将来のことだよ、やっぱり。
にいちゃんはやりたいこととかある?
にいちゃんのことだから、やりたいことばっかりやってるのかもな。
そう思うと、ぼくもがんばらなきゃね。
ありがとう、にいちゃん。じゃぁ、また。
それを、郵便ポストに入れる。いつも同じポストだ。そのポストなら必ず届く。ぼくはそう信じて疑わない。その手紙を書いた後、父さんが死んだ。ぼくはその1週間前に、父さんの勤めている郵便局の入社面接を受けていた。いわゆるコネでの入社だった。郵便局から採用の通知には、”この通知を受け取ったものは、二日以内に来局すること ”と書いてあり、ぼくはすぐに郵便局へ向かった。
「 あぁ、来たね」来局したぼくに、支店長が声をかけた。
「 ちょっと早すぎましたか」
「 いや、きみ以外は二日以内に来るようにとは言ってないから」支店長は穏やかにそう言った。
「 え? そうなんですか」
「 いや、きみに伝えるかどうか迷ったんだけどね、ちょっと見てもらいたいものがあってね」
そう言って、支店長は歩きだした。ぼくはそれについて行く。
「 これが、きみのお父さんのロッカー。きみにはここを使ってもらおうと思ってるよ」
「 はい……わかりました」
それだけのことで呼んだのかと思い、あっけにとられた。それから手持ちぶさたになった手で、扉を開けてみることにした。ロッカーの上段のところに、きれいに整理された手紙が入っている。それを一通、支店長が手に取る。
「 これ、きみのだね?」 ”にいちゃんへ ”と書かれた手紙は、まぎれもなくぼくのものだった。
「 きみのお父さんに聞いたのだけど、もともと、きみは双子だったようだね。きみが幼いころ、お兄さんに手紙を書いて渡したいと泣いたことがあったそうだね。きみのお父さんは、ポストに入れたら届くよと言った。そして、きみは手紙をポストに入れた。それをお父さんは回収して、きみに手紙を書いた。そういうことらしい」
ぼくは、恥ずかしいような、やるせないような、なんとも言えない気分になって、言葉が出なかった。支店長が続ける。
「 きみが幼いころは、きみの字を真似て幼い字を書くのが難しいと、よく言っていたよ。きみが悩み事を打ち明けるようになってからはね、なんて答えていいかと相談されてね、おかげでここで働くひとにとっては、きみがまるで息子だったり弟だったり、家族のような存在になってしまった」
そう言って、小さく笑った。そしてこれが最後の手紙だ、と局長はぼくに差し出した。それを広げて読んでみる。
やぁ、元気か。
女のことじゃなかったんだな( 笑)
おれのしたいことか。
おれは人の気持ちを届けるひとになりたいんだよなぁ。
たとえば、郵便屋とかさ。
タケはタケの道をいけばいいよ。
タケが信じてるものをそのまま信じ続けられるように。
じゃぁ、母さんを大事にな
母さんを大事に━━
にいちゃんを演じながら、父さんは気づいてほしかったのだろう。そして、父さんも母さんもぼくと同じように、にいちゃんをたいせつにしていることを、ぼくは初めて知った。
これからぼくは、ひとの気持を届ける人に、なるのだ。
「 はじめまして、よしのたつきです」
五年二組に転校してきた彼女は、そうあいさつをした。黒板には「 吉野樹」と書いてあった。「 樹」と書いて「 たつき」なのか。私も同じ字の名前で、「 いつき」という名前だ。それだけで親近感の沸いた私と彼女はすぐに友達になった。たつきは、わりとおとなしい色白の女の子で、話し方もゆったりとしていた。私はといえば、肌は焼けていてドッジボールで男子とも本気で投げ合うような、そんな活発な女の子だった。性格は違うけれど、その違いはむしろ心地よかった。それにすごい共通点も見つけた。私たちは誕生日が一緒で、生まれた時間もほぼ一緒なのだ。
「 すごいね! たつきに出会ったのは、運命だね!」
興奮する私に、たつきはいつものようにゆったりと、でもうれしそうに答えた。
「 私はいつきと、同じ時間を生きてきたんだね。そういう人がいるって、すごいなぁ」
「 すごいよね! 同じ時間、同じ日数なんだね。私たち何日くらい生きたのかなぁ」
「 一年、三六五日だから、十年で三千六百五十日だよねぇ。うるうどしもあるけどさ。だいたいね。私たちは、もうすぐ十一才だから、四千日くらいかな?」
ぱっと計算してしまう、たつきに驚きながら、四千日も生きてる私たちは、すごいなぁと思った。それから私は思い付いたように、こう言った。
「 じゃぁ、私、七七七七日目に結婚する!」
それが何歳なのかわからないけど、私はそう宣言した。
「 じゃぁ、私は一万日目に結婚する」
「 一万日目って、春かなぁ?」
「 うーん、わかんない」
計算の早いたつきも、さすがにすぐあきらめた。
「 春だったら、桜の木の下で結婚式だね!」
「 すてきだぁ」
そうやって私たちは笑った。たつきが笑顔になるのは、なにより、うれしかった。そんなことを大人になって思い出したのは、今日、たつきから手紙が届いたからだ。
~拝啓、樹さま~
そうやってはじまる手紙の終わりはいつも、
かしこ 樹より
で終わる。
それは私が北海道に転校し、たつきが沖縄に転校してから、ずっと続いてきたやりとりだった。たつきの手紙を読み終えて、私は返事を書く。
~拝啓、樹さま~
手紙、ありがとう。
沖縄はまだ二十℃もあるんだね。こちらはもう初雪も降ったよ。
同じ日本とは思えないね(笑)
たつき、結婚おめでとう。
まるで自分のことのように、うれしいよ。
でも、少し、淋しくもあるよ。
だって、同じ時間を生きているのに、
樹だけ、少し先に行ってしまう気がするから。
ねぇ、知ってる?
私たち、ちょうど今日で七七七七日生きてるんだよ。
そんな日に結婚の報せが届くなんて、
やっぱり私たちは運命みたいなものがあるんだね。
色白だった、たつきが沖縄で、
焼けてた私が北海道で、
たつきが七七七七日で結婚するなんて、
子供のころとなんだか逆だよね。
でも、たつきは私の半分のような友達だよ。
幸せになってね。
追伸
私は一万日を目指すぞ!
かしこ 樹より
私たちの七七七七日目は、春ではなかった。だから、桜の代わりに、コスモスの花びらを封筒に入れた。私の半分がずっと幸せであるようにと、想いを込めて。
妻に先立たれて数カ月が経ち、僕の暮らしも、少しずつ「 生活」に戻っている実感があった。子どもには恵まれなかったけれど、彼女がいるだけで僕の心は退屈せずに、笑っていられた。それを失くしたのだから、当然心はどこかに置き去られた。もしかしたら人によっては「 短い」と感じるのかもしれないが、僕にとってはこの数カ月は彼女と過ごした二十年の月日よりも、長い長い時間だった気がする。僕はもう、一生分を生きた気さえしているのだ。「 生活」は続くけれど、彼女といたときのあの気持ちには、もうなれそうもないと感じている。
「 織田信長の言葉、人間何年?」
垂れ流しのテレビにクイズ番組が映っている。ずいぶんざっくりとした問題だなと思っていると、おバカキャラクターのタレントが、「 二、三年?」と答えた。僕は思わず、「 短っ!」と声を発してしまう。
「 正解は五十年です」
と告げられると、そのタレントも「 短っ!」と驚き、まわりを爆笑させた。確かに短いけれど、いまの僕にはその五十年がちょうどいいと、ぼんやり思った。数ヵ月後には、ちょうどその月日がやってくる。終わりにはふさわしい。弱気な心がやってくるけれど、ふと時計をみると、薬を飲む時間だと気が付く。体はまだ、生きたがっているようだ。僕は薬を入れた戸棚を開ける。けれど、なかなか見つからない。あれ、ここじゃなかったか。明らかになさそうなところまで捜してみる。そうしていると、ふだんは開けない戸棚から見覚えのない手紙を見つける。それが妻が書いたものだとすぐにわかったのは、彼女が晩年にお気に入りだったAfternoon Teaのロゴが入った封筒だったからだ。便箋には僕へのメッセージが書いてあった。
あなたがこれは見つけるのは、いつのことになるでしょう。
もしかして見つからないまま、あなたも逝ってしまうことだけはなしにしてね。
少しずつ物覚えが悪くなってるから、ちょっと心配です。
たぶん、私は愛の伝え方がうまくなくて、あなたはやきもきしてたことでしょう。
だけど、知ってた? 私は、あなたがとても好きだったこと。
たぶん、最後までそれを伝えられなかったと思います。ごめんなさい。
なので、ここでちゃんと伝えることにしました。
私を好きになってくれて本当にありがとう。あなたが私を幸せにしてくれました。
あなたの初恋の話を聞いたとき、私、すごくいいなと羨ましがったのを覚えてる?
「 じいちゃんばあちゃんになったら、縁側でお茶しよう」と約束して別れたっていう話。
あれ、私、ほんとに素敵だなぁって思ったんだ。
その話、私、いつも聞きたがってたでしょう?
その彼女と、私が死んだあと、ほんとにそうしてくれたら素敵だと思った。
まだ、あなたはおじいさんではないけど(笑)
だから私、あなたの実家に行ったときとか、お義母さんにその話を聞いたり、
あなたのいないとき、昔の写真とか年賀状とかえを見せてもらってた。
それでね、その彼女に連絡したの。
彼女、驚いて不思議そうにしてたけど、あなたのその話、ちゃんと覚えてたよ。
なんでだろう、私、そのときすごくうれしかったなぁ。
これで後悔なく、安心して天国に行けるなぁって思った。
別に強制はしないけど、そうしてくれたら、私はすごくうれしいよ。
それも、伝えたかったんだ。
そのあと、僕の初恋の彼女の連絡先が書いてあり、最後に、”それじゃぁ、またね ”と添えてあった。愛の伝え方がうまくないと、妻は言うけれど、僕はそんな彼女だから、ずっと恋をしていられたと思う。「 縁側でお茶しよう」か。確かにそんなことも言ったな。僕は電話をとり、本当にごく自然な感じで番号を押した。僕の「 生活」にふたたび、色が付いた気がした。
「 みんなと過ごす時間は短いですが、いい思い出ができるといいです」
いつも同じようにあいさつをする。けれど「 いい思い出」が増えると困ることを、ぼくは知っていた。転校の多い子どもがみんなそう思っているかは知らないけれど、「 めちゃくちゃいい思い出」が今でもぼくの胸を苦しくさせている。そんな思い出が多いほど、別れはつらいのだ。だからあるときからぼくは感じ方を変えるようにした。「 めちゃくちゃいい思い出」になりそうなとき、ぼくは人と少しだけ距離を置く。そうすると、それは「 そこそこいい思い出」になり、別れのときの痛みは、少し減るのだ。そうやって、予防線を張ることを、自然と覚えていった。
それでも、「 いい思い出ができるといいです」と言うのは、とっつきにくいやつとは思われたくないからで、その一言は極めて有効なのだということも、学んだ。そうやって転校してきたこの学校でも、「 そこそこいい思い出」ができ、また次の学校へと転校する。明日は、別れのあいさつをしなくちゃ。まぁ、いつものようにだな。そんなことを思いながらの帰り道、少し前に、クラスメイトの中山亜沙美が歩いてるのがわかった。彼女は「 あっちゃん」と呼ばれていて、ぼくは心の中でだけ、そう呼んでいた。視線を彼女の肩のあたりにやる。彼女の肩にかかる髪が少しだけなびく。それが、なんとなく好きだとぼくは思っていた。少し距離を置かなければ。そう思って、立ち止まったとき、あっちゃんのかばんから、何か紙のようなものがすべり落ちた。彼女はそれに気づいていない。ぼくはとっさに、そこまで走って、それを拾い上げた。手紙だ。彼女は少し前を行っている。何の手紙だろう。気になって、それをながめていると、彼女が振り向いて、「あっ」と声をあげた。ぼくもそれにつられるように「 あっ」と声が出て、それから、「 これ、落ちたよ」と告げた。彼女はそれを黙って受け取ると、ぼくの制服の袖をつかんで、「 ごめん、ちょっと」と、引っ張っていった。
「 ちょっとって?」
あっちゃんは「 ごめん」を繰り返して、少し先にあった公園までぼくを連れてきた。やっと袖を離すと、ブランコに腰をかけ、顔を覆った。仕方がないので、ぼくも隣のブランコに座った。
「 中身、見た?」
手紙のことかと思い、「 見てないけど」と答える。
「 そっか……私、ふられたの」
なんと答えていいかわからないので、「 手紙で? ”フラレター”ってとこか」そんなことを言っていた。
「 なにそれ、笑えないよ」
それもそうだと思った。
「 とむらくんは誰かを好きになったことないでしょ」
「 そんなことないけど」
「 そんなことあるよ。本気で好きになったことあるなら、そんなふうにちゃかさないはず」
あっちゃんは冷静な口ぶりで、そう言った。
「 そうか、ごめん」
少し気まずくなって、ブランコを揺らしてみた。
「 ……明日、転校だね」
あっちゃんもブランコを揺らした。
「 うん、まぁね」
「 まぁね、って、淋しくないの?」
「 淋しいけど、仕方ないし。それに別れには慣れてるし」
「 慣れるものなのかなぁ? ふられるのも」
「 それとこれとは話が違うから、わかんないよ」
「 同じだよ。きっと慣れるものじゃないよ。とむらくんはきっと、怖がってるんだ。怖がって人と距離を作ろうとしてる。そしたら、別れるのもつらくないから。違う?」
違うとは言えなかった。あっちゃんはぼくを見抜いている。でもだからって……
「 出会うことが別れることだとわかってても、そう言う?」
「 言うよ。たとえ別れても、私は人と出会ったり、好きになることを選ぶよ」
彼女の言葉に強い意志を、ぼくは感じた。
「 そうか。あっちゃんは強いな」
おそらく、ぼくは初めて彼女のことを「 あっちゃん」と呼んだ。それは、本当に自然にこぼれた。
「 強くなんかないよ……ただ、なんか悲しくなった。せっかく仲よくなった人に、別れるのがそんなに淋しくないなんて言われたら」
「 それは、ふられたひとのこと?」
「 違うよ。とむらくんのことだよ」
ぼくはそれでもあっちゃんと仲よくなったという自覚がなくて、そう言われてもピンとこなかった。ただ、彼女の肩にかかる髪がなびくのが、好きなだけだった。だけどもう、ぼくはわかってしまった。こうして距離を縮めてしまったことで、明日ぼくが転校することが、悲しくなるということを。ほら、だから、ダメなんだって。ごまかすように、ブランコを思い切りこいでみる。あっちゃんも同じようにそうした。彼女がぼくといるのは、たまたまだ。ぼくがそこにいただけだ。それでもいいからもう少し、この時間が続けばいい。どれだけ別れが、つらくとも。ブランコが、揺れるたびに軋む音が、儚く聞こえた。
1.二〇〇一年の彼女
二十世紀の終わりと二十一世紀のはじまりの瞬間、私は初めて彼の体温を知り、幸福に満ちあふれた。この幸福はきっと未来永劫続く。そう信じて疑わないまま、元旦に朝帰りをした。いや、正確に言うと、昼帰りになる。家に帰り、一息ついても、その気持ちが体中を包み込んでいた。二十世紀の大半は、私の味方をしなかったけれど、二十一世紀は、今のことろ、私に幸福しかくれない。そんなことを思って、ゲラゲラと一人で笑いだした。
「だいじょうぶ? 正月だからって、浮かれ過ぎだよ、おねえちゃん」
妹がそれを見て、心配と言うよりは、あきれたような口調で、言った。それから「 はい」と、私に届いた年賀状を手渡した。
「 万博のハガキ、届いてたよ」
にやける私を尻目に、妹はそう告げる。
「 万博のって?」
「ほら、覚えてない? 八五年のつくば万博の。未来への手紙を書いて、二十一世紀の元旦に届くとかいうの、あったじゃん」
確かに幼いころ、万博に行ったことは覚えている。けれど、そこで何をしたかを私ははっきりと覚えていない。ただぼんやりと、未来ってすごいことができるんだなぁって思ったことだけは、間違いない。
「 あったっけ? まぁ、いいや」
そう言いながら、手渡された年賀状を見てみると、その中に確かに一枚、”私へのハガキ ”がまぎれていた。そこには少女の私の文字が羅列されていて、花を持った女の子の絵が描いてあった。私は妹を部屋から追い出して、彼に電話をかける。さっき別れたばかりだというのに、もう彼のぬくもりが恋しくなる。三回目のコールで彼が電話に出た。
「 もしもし、私」
「 うん。おかえり。ちゃんと帰れた?」
「 うん」
はぁ……どうしようもなく幸せだ。
「 よかった」
「 うん、ありがとう。あ、あのね、今日ね、一九八五年の私から手紙が届いたんだよ」
「 一九八五年っていうと、六才くらい?」
「 うん。つくば万博でね、二十一世紀の元旦に届く手紙を書いたの」
「 へぇ、ロマンチックだね。なんて書いてあったの?」
「 うんとね……」
私は私が書いたそれを読もうと思ったけれど、ある考えが浮かんできて、読むのをやめにした。
「 このハガキ、封をしてあなたに送るね。でも、それ、そうだな……二〇一〇年まで開けちゃダメね」
「 なんか、玉手箱みたいだね。それもまたロマンチックかもね」
そんなふうに彼が笑うと、私の心と体は溶けそうになった。あれは、紛れもなく幸福だったな。二〇一〇年になって、ふと初めての恋を思い出していた。彼は、あの手紙を開けたのだろうか。
2・二〇一〇年の彼
「 玉手箱っていうのは、化粧道具の入った箱で、それを男に渡すっていうのは、その時代の愛の証しだったんだって。でね、乙姫が玉手箱をあげたのは、浦島太郎が浮気したとき、浮気相手に玉手箱をあけさせて、相手を、老人にしてしまおうっていう、乙姫の女心だっていう説もあるんだって。女って、怖いのよ。ふふふ」
それは10年前の恋人が、教えてくれたことだ。ぼくはこの手紙の封を切るべきか、少し悩んでいる。たぶんこれが初恋でなければ、何のためらいもなく、別れたあの季節に開けてしまったことだろう。律儀に彼女との約束を守ってきたのは、けして今も彼女を想っているからではい。むしろ思い出になって、とても若かったことに笑ってしまえるくらいだ。
だけど封が切れないのは、これが玉手箱のように、今のぼくの彼女を老人に変えてしまいそうな気がする、そんな幼い気持ちがまだ残っているからなのだと思う。ぼくは、彼女をそんなふうにはさせたくない。
「 ははは、そんなこと思ってるんだ。へんなひと」
二〇一〇年の恋人はそんなふうに穏やかに笑った。「 へんなひと」と言うときは、むしろ喜んでいるときだ。彼女は、ぼくの昔の恋をいつも聞きたがる。それは純粋な興味なのだと今ではわかる。だからぼくは別に隠すこともなく、聞かれたなら答える。
「 じゃぁ、私も未来への手紙書こうかな。それ、二一一二年に読んでくれる?」
「 それ、ドラえもんが生まれる年じゃん」
そう答えると、彼女はきゃははと手を叩いて笑った。
3・ふたり
「 いらっしゃいませ」
花屋の店員の顔を見て、彼は驚いた。
「 あ」
彼女も同じ文字が言葉になった。二秒ほど時間が止まったあと、彼女は彼に笑いかけた。彼はそれにこたえるように、ほほ笑んだ。
「 誰かにあげるの? 花」
穏やかな口調で彼女が言う。
「 うん。彼女の誕生日なんだ」
彼も穏やかに言葉を返す。
「 花束を駅のコインロッカーに入れて、そのカギを彼女に渡したりするんだ?」
「 そんな恥ずかしいことをしたのはあのときだけだよ」
「 そうなの? あれ、誰でも喜ぶと思うけどなぁ。で、どんな花束作る?」
「 うーん、そうだなぁ……」
ふたりはそんな夢を見ている。それが夢だとふたりにはわかった。
「 これ、夢の中だから、起きたらきっと年を取っているはずだよ」
彼女の言葉に彼はうなずき、「 まるで玉手箱みたいだ」と笑った。それが大人になるということだと思うと、ふたりはおかしくてたまらなかった。
あなたへ
元気ですか。いつも会ってるのに、手紙なんて変かな。
でも、最近のデジタル社会に対抗して、
たまには手書きで思いを伝えてみることにするね。
実はこう思い立ったのも、年賀状を書くときに、
お手紙入れ(靴箱)を見たら、あなたからの手紙がもう十一通くらいあって、
読み返したからなんだ。
星砂の入ったビン、宮沢賢治の詩、お笑いのライブチケット、
あなたは私にないものを色々持っていて、いつのまにか私にとって、
その言葉や勢いがあたりまえになってることに不思議な力を感じたんだ。
前に話したことがあると思うけど、私、中学生のときは、
その時の邦楽ならイントロだけでだいたいわかって、
その音楽の歌詞を手紙に書いたり、友達に送ってみたりして、
「 キザだー!」と言われていたんだよ。
それが二十歳を過ぎた今は、手紙はともかく、
歌詞があまり気にならなくなった。
というより心に響いてこなくなったのかなぁ。
そんな自分に比べて、あなたの言葉の力と心の力に驚いているのです。
あなたの手紙って、いつも思うんだけど、何かがあるんだよね。
言葉のあたたかさ、文の間の空気。
私はその感覚にもう、まいっています。
あなたが、私の大好きなにおいのついたマフラーを顔を近づけた瞬間みたいに、
あなたからの手紙は、私を新しい、柔らかな世界にいざないます。
あなたの言葉の泉は、あとからじわっと効いて、
私の心をマッサージしてくれます。
いつも一緒にいるときは、私のストレートな言葉や、わがままや、
かと思えば楽観的な性格で、ずいぶん、ふりまわしているように思います。
それは、あなたへの甘え、私の心のスキマをうめてくれる、
あなたの言葉を待つ、私の愛情表現なんだと思う。
でも、それでいつも大変な思いをさせているでしょう。
そんなあなたに、いつもは言えない、感謝の気持ちをこめて。
いつかディズニーシーに行きたいと、あなたに言いました。
まだ行けてないけど行けなくてもいいです。
私は、もう、魔法にかかっています。
ありがとう。
私の特別に大切なあなたへ。
これからも一緒にいてください。
わたしより
壁掛けにしているレターボックスが、その重さに耐えきれなくなたのか、突然、バタン! と、床に落ちた。ばらまかれた手紙を拾いながら、彼はふと、8年前のクリスマスに届いた手紙を読み返した。もしかして、これはプロポーズだったのだろうか。そんなことを思っていると、手紙の中の文字は少しずつ消えていった。やがて、全部の文字が跡形もなく消え、色褪せた便箋だけが、残った。そうか、あの日々は幻だったのかもしれない。彼は妙に納得して、手紙をしまった。
「 もう魔法は解けたけれど」
便箋の中で、その文字が静かに、浮かび上がっている。彼はそれに気がつかない。
「 プロポーズだったよ」
彼がそれを読むことになるのは、まだ先の話。
仕事が休みの平日。恋人と別れたばかりの私は、とにかくじっとしているのが嫌で、部屋の掃除を始めた。はっきり言って私は、がさつだ。付き合っている間、何度言われたかわからない。掃除にしたって、私の思っているレベルの「 きれい」を、恋人はきれいだとは思わず、何度もダメ出しをした。
私からしたらそれは、「 あら、これでお掃除したつもりかしら?」なんて口にする昼ドラの、嫌味な姑のようにさえ思えた。男のくせに、細かいのだ、あいつは。掃除機をガンガンと壁にぶつける。女のくせに、きめ細やかさがないんだよ、おまえは。とは、言葉にされたことはないけれど、恋人はおそらく私に向かって何度も、言いかけたことだろう。足りない部分を補い合えたらよかったなと今なら思うことはできる。できなかったから、別れたのだ。仕方ない、そう思いながら、またガンガンと掃除機を壁に当てた。
その壁に、メールボックスがかかっている。ガンガンとぶつけたせいか、それが壁からもげて、落ちてきた。
落ちた拍子に、一通の手紙が飛び出して、それを掃除機が吸いこもうとした。反射的に手を伸ばすと、前のめりになり、それから足にコードがからまった。
”ドカドカッ ”
漫画ならそんな擬音だったに違いない。私は派手に転んだ。手紙は吸い込み口の手前で、事なきを得た。足にからまったコードのプラグが抜けて、掃除機は吸い込むのをやめたのだ。私はその手紙を拾い上げる。中身を広げて読んだあと、メールボックスの中にそっと戻した。
それから、携帯電話に手をやって、ふぅーっと一息ついてから、電話をかけた。4回ほど呼び出し音が鳴ってから、「 もしもし」と声が聞こえた。
「 今、掃除してたの」
唐突な私の言葉に「 そうか」と別れた恋人は言った。
「 そしたら、手紙が落ちてきて」
「 うん」
「 それがあなたからの手紙で」
「 うん」
「 ひとつ気が付いたことがあって」
「 うん」
「 あなたの文字って、ちっちゃいね」
「 うん」
「 それだけなんだけど、なんだか気持ちが晴れたよ」
「 そうか、よかった」
「 うん」
「 掃除、やめちゃうんだ?」
彼は私のことをよくわかっている。がさつで気分屋の私は、飽きっぽいのだ。わかっているということと、
付き合っていけるということは違うのだろう。それは少し、せつないけれど、今の私は、それでいいと思っている。
「 気が向いたら、またするよ」
「 じゃぁ、気が向いたら、また会おう」
「 うん、そうだね」
掃除をやめて何をしよう。そうだ、手紙でも書いてみようかな。もし私が明日死んでしまうなら、伝えておきたいと思うこと。大逸れているけれど、そんなことを書いておきたい。
掃除機を申し訳程度に隅っこに追いやる。そうして、便せんを探してみるけれど、それがどうして、見つからない。仕方ない、買いに行こう。どうやら私の人生には、やるべきことがまだまだあるようだ。
お盆に帰省をすると、ぼく宛ての郵便物がたまっていた。もう七年も前に実家を出たというのに、未だにダイレクトメールが届いている。通信教育の案内だったり、よく行っていた古着屋のセールのお知らせだったりと、思い当たる節はあるが、今のぼくには必要ない。そう思って、わざわざ両親が保存しておいてくれた郵便物を、ひとつ、ひとつと、ゴミ袋に入れた。そうしているとき、ふとその手が止まった。
手にしていたのは、薄い緑色の無地の封筒で、知らない名字が、差出人の欄に記されていた。けれど、それが誰か、ぼくにはすぐにわかった。ぼくは、ハサミで丁寧にその封を開けた。便せんは真っ白で、そこに、短い言葉が綴られていた。
元気ですか。
先日、実家に帰って掃除をしていたら、
懐かしいものを見つけました。
これは、確かあなたのものだったと思い、
送ることにしました。
あなたにちゃんと届くといいのですけれど。
これのおかげで、私は生きていけた気がします。
ありがとう。
あなたもきっと、もう、大人になったのでしょうね。
私は娘が生まれて、今度はこの子のを、
大事にしようと思います。
あなたも、大事なものを、
見つけているといいなと思います。
その言葉とともに、封筒の中から、小さなこどもの歯が出てきた。これは、きっと、ぼくの乳歯だ。幼いころ、ぼくは人見知りが激しくて、友達という友達がいない、とても暗い子供だった。ぼくの乳歯が抜けたのは、そんな暗い時代の真っただ中だった。黒板の前で作文を読んでいた時のことだ。突然、ぼくの乳歯はぼろっと抜けた。それをみたクラスメイトに「 入れ歯だ、入れ歯だ!」と冷やかされた。先生は「 あら、よかったねぇ、上に向けて投げよう」と、たしなめたが、恥ずかしくて、涙が出そうになった。それをこらえて、うつむいた。
そうしているとき、彼女が「 あ、わたしもー!」と声をあげたのだ。彼女もまた「 おー、こっちも入れ歯だー!」と冷やかされたのだけれど、そんなことは気にもせず、ぼくの前にやってきて、歯を交換しようと言った。ぼくはうつむいたままだったが、ぼくの歯を拾いそれを自分のポケットにしまって、彼女の抜けた歯を、ぼくのポケットにいれたのだ。彼女はにっこりと笑っていた。
それからぼくは、彼女の歯をお守りのように大事にした。彼女も、ぼくの歯を大事にしていることを、教えてくれた。
「 わたしもほんとうは、生きていることが怖いの」
中学生のころの彼女はぼくにそう言った。それでも、この歯を持ってると思うと、とても安心するの。そう言って、ぼくにキスをしたのが、高校生のころ。けれど、ぼくらは恋人という関係にはならなかった。なんとなく、それよりも優しくて強い想いがある気がしたからだ。それをなんと呼んでいいかはわからなかったけれど、恋人になる手前の気持ちが、ぼくらをつないでいた。高校を卒業してぼくらは、離れ離れになった。物理的な距離が遠くなるだけで、ぼくらは変わらないと思っていたけれど、それを確かめることは、できなくなっていった。それでも、ぼくはあの歯を大事にし続けた。
手紙を封に戻して、乳歯を机の上に置く。ぼくが持っている彼女の乳歯は、一人暮らしの部屋にある。ぼくはまだ、それ以外の大事なものを見つけていない。今ならわかる。あれは、恋だったのだと。恋じゃないなら、愛だったのだと。彼女はぼくの初めてのともだち。それはいつまでも変わらない。だから、ぼくも大事な人を、見つけなきゃな。そんな想いで、乳歯を、上に向けて投げた。
岡村優子の教育実習も、今日で終わりだ。早くしなきゃと、公也は焦っている。彼女に渡したいものがある。手紙だ。女子大生を好きになるほど、中学生の公也はませていない。だから、ラブレターではない。公也は、ちゃんと同級生が好きだ。その子のことは、幼稚園からずっと好きだった。だけど仲良しなわけじゃない。遠くから見るような、それが恋かもわからないような、淡い想いだった。小学校は別々になり、会うことはなくなってしまった。途中で転校してしまったらしいのだ。これでもう会うことはできなくなった。子供同士の物理的距離は遠い。そして、精神的距離も近いわけではなかった。それを思った時、子供の公也はそれまでの人生で知ることのなかった、胸の奥が痛くなるような想いで泣いた。公也はずっと、その子のことを想い続けていて、小学校の時は、誰も好きになることはなかった。それが恋だったと、公也は最近知った。
中学校に上がり、すべてが新しくなった世界で、公也は気持をリセットしようと考えた。特別誰かを好きになろうとはしないけど、あの子のことを忘れてみようと考えた。尋常じゃないくらい勉強してやろうとか、部活にすべてをかけてやろうとか、はたまた、遊びつくしてみようとか、そんなことを四月の教室でぼんやり考えた。
「 竹内くんて、幼稚園どこだった?」隣の席の、女子生徒が公也に聞いた。「 ひかり幼稚園だよ」続けて、「 何組?」と聞いてくる。
「 えっと、さくら と ゆり だよ」彼女は、あぁ、やっぱり、と笑った。
「 やっぱりって?」
「 こーやくんでしょ?」
「 そうだけど、立石さんも さくら か ゆり だったの?」
立石優奈。公也は、その名前に記憶はない。好きだった子も優奈という名前だったな。そう思ったあと、だめだ、あの子のことは忘れなくちゃ、と、公也は、頭を小さく振った。
「 うん、さくら だったよ。覚えてない?」
「 うーん、ごめん、立石さんと同じ名前の子は好きだったんだけど」
言わなくても言いことをつい言ってしまって、公也は、ちょっと恥ずかしくなった。
「 吉原優奈さんのこと?」
「 うん、あれ、知ってるの?」
「 それ、私だよ」
公也は、フリーズする。その間に、彼女は続ける。
「 親が離婚してね、苗字変わったの。で、こっちに戻ってきたってわけ」
これは奇跡か。公也の心臓は急に速くなる。よくみれば、短い髪や少し釣り上った猫みたいな目や、あごの右にあるホクロは、たしかに優奈のそれだった。気付かなかったのか。公也は自分を責める気持ちにもななる。平静さを保とうとがんばるが、声が裏返ってしまう。
「 あ、ああぁ、そうなんだ……久しぶりだね」
そこで公也はある重大なことに気がつく。知らないうちに、告白してしまっていたことに。顔が真っ赤になっているのがわかる。最悪と最高がこんがらがった再会を、公也はどう受け止めていいのかわからなかった。
それから、時間は過ぎていき、優奈と公也の関係は、少しずつ変わっていった。知らないうちに告白していたこともなかったかのように、ごく自然に話すようになった。そして、公也は、優奈が時折見せる、遠くを見つめるような淋しい表情が気になるようになった。何か淋しい想いを抱えているのではないか。想い過ぎなら、それがいいと思った。でもできれば、笑ってほしい。ただ公也はそんな気持になっていた。
けれど、これが思春期と言うのか、優しくしたり、喜ばせようとしたりするほどに、むず痒い気持ちが公也を支配してしまい、結局中途半端にするだけが精一杯だった。そんな気持ちを、公也は手紙に書いた。それを岡村優子に渡そうと思っている。担任は中年で、女の子の気持ちなんてわからないだろう。かといって、他の女子に聞いたり、家族に話したりするのも恥ずかしい。いちばんわかってくれそうなのが、彼女だ。公也はそう、思う。けれど、いざとなれば恥ずかしい。世の中はなんて恥ずかしいことが多いのだろう。けれど、男にはやらなくちゃならないときがある。意を決して、公也は岡村優子の最後の授業の前にこっそりと、教壇に手紙を隠して入れておいた。岡村優子は忘れ物がないかと、いつも授業のあとに教壇の中を確認するのだ。そんな間接的な渡し方が、全然男らしくないということに、公也は後から気付いたのだけど、このときは、「 やることはやった」と、むしろ誇らしげな気持ちになった。
授業を終え、岡村優子は予想通り、教壇の中をのぞいた。そして、手紙を見つけ、教科書といっしょに持ち去るのを公也は確認した。
「 こーやくん、岡村先生のこと好きでしょ?」
優奈は、その刹那、そう言った。
「 え、何言ってるの。そんなわけないしょ」
公也の動揺は隠せない。
「 岡村先生のこと、すごく見てるけど、いつも」
「 そ、そんなことないよ」
そんなことあるような口ぶりで言ってしまった。
「 ふーん」
「 あのなぁ、おれが好きなのはきみだと言ったでしょ」
あ、また言ってしまった。公也は2秒後くらいに恥ずかしさがあふれてきて、いたたまれなく、教室を出た。教室を出たどころか、全速力で家へと帰ってしまった。
あれから十年がたった。
「 それで、あの後、私がこーやくんに岡村先生の手紙を届けに行ったんだよね」
優奈は、チューハイを飲んでいる。
「 うん、先生さぁ、おれにどんな手紙くれたか覚えてます?」
十年後の岡村優子は、三十代になったけれど、あのときと変わらない印象を与えている。
「きみたちのことは覚えてるけどね、自分が何を書いたかは忘れちゃったなぁ」
岡村優子は、教師にはならなかった。本当は教師になるつもりだったけれど、就職活動のさなかに、妊娠が発覚したのだ。それを機に優子は結婚した。今はパート勤めをしている。優子の教え子と言えるのは、彼らだけだった。彼らは岡村優子にとって、とても印象深い生徒だった。
「 これ、読んでください。先生のだけど」
公也は、岡村優子が自分にくれた手紙を渡した。その手紙は、とても短い内容だった。
うまくできなくてもいいんじゃない?
誰かを好きになった自分を、
ちゃんと好きになっていればね、
いつか彼女も笑ってくれるよ、がんばってね
「 これきっと、そのとき読んでた漫画とかの受け売りだった気がするな」
岡村優子は笑った。
「 でも、おれはそれが力になりました」
「 そっか、でもまさか結婚しちゃうとはね、おめでとう」
公也と優奈は顔を合わせてほほ笑んだ。
「 先生はちゃんと、笑っていますか?」
岡村優子は少し間をおいてから、「 まぁね」と返した。岡村優子は教育実習のときにもらった公也からの手紙を、大切に保管している。そこに書いてある、あまりにまっすぐに、でももどかしい気持ちは、紙の上でキラキラと輝いていて、心がいっぱいになってしまった。やっぱり、教師になりたい。けれど、もう遅いだろうか。きみたちみたいな生徒に、また巡りあいたい。岡村優子の中に秘められた想いは、彼らによって、またキラキラと輝きだした。
いま僕は、あなたとはじめて会った日のことを思い出しています。秋晴れの穏やかな日。あなたは制服姿で、ちょこんとお母さんのそばに、立っていました。お母さんが僕のことを、「 これから一緒に暮らす人」だと、紹介すると、あなたは僕の顔を見ずに頭を下げました。前髪を揃えた、おさげの黒い髪。それに隠れた、あなたの顔。風が吹いて、あなたの頬が見えたとき、僕は、あなたに「 よろしくお願いします」と頭を下げました。
それから、ガストに行って、三人でごはんを食べました。あなたはチーズインハンバーグを頼んで、それを黙って食べていました。「 それ、おいしそうだね」と、僕が聞くと、あなたは独り言のように、「 お父さんが好きだったから」と答えました。僕が「 そうなんだ」と言葉を返したとき、お母さんの携帯電話が鳴りました。それは、仕事先からの電話でした。「 直人君、ごめん、仕事行かなくちゃ。陽子のこと、よろしくね」お母さんはそう言って、先に行ってしまいました。あなたは、相変わらず、チーズインハンバーグを黙々と食べました。僕は和風おろしハンバーグでした。
「 それね……」と、あなたがつぶやきます。「 私、好きなの」和風おろしハンバーグを指さす、あなた。それから、「 お父さんがチーズインハンバーグで、私が、和風おろしハンバーグだった。だから、今日は、逆」そう、続けました。じゃぁ、交換しようかと、僕は言ったけれど、あなたは首を横に振りました。ハンバーグを食べ終えた僕らは、パフェを頼みました。
僕とあなたは、それから、明け方まで、ガストにいました。ほとんど話すこともなく、パフェとドリンクバーでやりしごし、あなたは携帯電話をいじくって、それに飽きると、文庫本を読み始めました。あなたが、家には帰りたくないと言ったのは、僕とふたりきりになるのが、怖かったからなのでしょう。あのとき僕は、あなたの父親になることは、すごく難しいことだと思いました。けれど、僕には希望がありました。あなたが読んでいた文庫本は、僕が好きな作家の小説だったからです。そんな小さなことに、僕はすがっていたのです。
仕事を終えたお母さんがガストにやってきて、僕らを見つけて、言いました。
「 ふたりとも、いったい何時間かけて食事してるの? フランス人じゃないんだから」
その言葉に、僕もあなたも笑ってしまいました。
僕はいま、なぜか、そんなあなたとの出会いの日を、思い出しているのです。僕はあなたのお母さんを太陽だと思っています。そして、あなたは太陽の子。太陽の子、陽子。あなたは、僕の希望です。あなたにとって、僕は、父親でしたか。僕は、あなたを、幸せにすることができましたか。自信はありません。だけど、ひとつだけ、自信を持って言えることがあります。僕は、あなたの父親として、数え切れないしあわせに出会うことができました。ありがとう。僕は、しあわせです。ありがとう、太陽の子、陽子。あなたも、愛することを、やめないでください。
その日は、秋晴れで、時折穏やかな風が吹いていた。道には陽だまりが落っこちていて、私はそれを見ていた。それは、私の、なんとも言い難い、もやもやのように思えた。
「 結婚したい人がいるのだけど」と母に言われたとき、私は一言「 そう」と返事をした。母が離婚してから十年ほどがたって、もうすっかり、母とのふたり暮らしに慣れていたころだ。だから母の再婚相手に「 よろしくお願いします」と言われても、何をお願いされているのかわからなかった。私の生活に「 父親」はもう異質な存在になってしまったからだ。その人とガストに行って、ハンバーグを食べて、パフェを食べて……「 帰りたくない」と、困らせてしまったんだ、確か。そんな出会いだった。
あの日と同じような秋晴れが広がっている。穏やかな風も、あの日と同じだ。お墓の前にいる、ということが、あの日との違いを物語っている。
私がバッグから、お供え物を取り出すと、母は不思議な顔をした。
「 まさか、それ、お供え物?」
「 そうだよ」
まぁ、母の言いたいこともわかる。けれど、私はこれをお供えしたいのだ。
「 陽子って、ときどき、おもしろいよね」
「 母親譲りなんだって」
母が「 まったく、もう」と、わざとらしくふくれたのを見ていたら、私は、なんだか優しい気持ちになった。あの人はたぶん、母のこんなところを太陽だと思ったのだろう。母はお墓に水をかけて、花を添えた。私も同じようにしながら、お供え物を、お墓に置いた。
「 ほんとに、それでいいのね?」
母が念を押して確認する。
「 だから、いいんだってば」
母はあきらめて、手を合わせた。秋晴れの、穏やかな風が吹く午後。レトルトの和風おろしハンバーグを置いて、私も手を合わせた。ありがとう、お父さん。
問4 罫線④のときの主人公の気持ちはどうであったか、書きなさい。
古着屋で、BUONA GIORNATAのジャケットを買った。最近はそのジャケットが気に入っていて、休みの日はほとんど、それを着て出掛ける。残念ながら、デートではない。デートなんて言葉は、もう忘れるくらいに、彼女がいたのは遥か遠くの記憶。おかげで一人の時間の使い方はずいぶんうまくなった。今日もまた、あの隠れ家的な喫茶店に行くか。そこにある旅の本を片っ端から読むことにしよう。そう思って、一人の時間を楽しむことにした。
店に入って、席に座り、いつものようにジャケットを脱ぐ。そのとき、いつものものではない違和感が内ポケットから伝わってきた。ん? なんかあるぞ。ぼくは内ポケットに手をやった。なにやら紙切れが入っていることに、気がつく。古着屋の商品には、ごくまれに、そういう類いのものを、取り忘れていたりすることがある。それは四つ折りにされていた。広げてみると、赤い丸と、100という数字が記されていた。国語の答案用紙だ。名前は薄れていて、読み取れない。明かりに透かしてみようと、答案用紙を天井の電球のほうに向けた。すると、後ろに文字が書いてあるのが見えた。ぼくは答案用紙を裏返した。
<問4なんですけど、人には人の気持ちが、どれくらいわかるのですか。>
それに対して、違う字体の文字が、答えている。
<すごくわかるときと、ちっともわからないときがあります。わかったり、わからなかったりするから、人にはいろんな気持ちがあるんだと思います>
それを読んでいるとき、頼んでもいないのに、コーヒーが運ばれてきた。
「 いつものでよかったかな?」
マスターがそう聞く。
「 はい、いつもので。ありがとうございます」
ぼくは最後にデートをした彼女を思い出した。彼女のことは手に取るようにわかっていたはずなのに、ぼくを好きじゃなくなっていたことだけわからなかった。それは全部わかってないのと同じなのかもしれない。そう思って、コーヒーを口にする。なぜか、いつもよりも少し苦い気がした。
「 あれ、いつもより苦い気がするんですけど」
「わかった?」
と、マスターは不敵な笑みを浮かべた。そうか、人生は苦いものか。100点の解答ができたとしても、本当の答えは、胸の中にあるんだ、きっと。それが、いちばん大切な答えなのかもしれない。ぼくはいまも、彼女が好きだ。残念だけど、そうなのだ。そうして苦いコーヒーを、また飲んだ。
1・岡本君
その日、いつも降りるバス停で降りなかった理由は単純だ。窓の外の月をずっと眺めていたら乗り過ごした、それだけのこと。家に帰っても誰が待っているわけじゃないし、遅くなったって構わない。そう思って、そのバスにしばらく揺られることにした。
体ごと窓にもたれかかって、月を見ていると、その距離がどんどん近くなっていくような気がした。いつかぼくは思ったっけ。月がどんどん近付いて、その光から逃れられなくなって、夜が来なくなる日が来るんじゃないかって。月明かりとバスの中の蛍光灯の光に包まれていると、いまがその日なのかもしれないという錯覚に陥った。今日はよく眠れそうだな。そう考えているとき、終点のバス停に着いた。そこはぼくの住む町が見下ろせる丘の上で、子供の時に遊んだ場所の風景に少し似ていた。
「 なぁ、昨日 ”キャプテン翼 ”見た?」
と、岡本君が言っていたことを思い出す。
「 見たよ! あれ、絶対ありえないよな?」
「 ありえないよ、でもここ、ちょっと似てない?」
「 あぁ、似てる、似てる! こんな感じの丘からあの下に見える学校に、ボールを蹴って飛ばして、それをキーパーがキャッチするんだぜ? できるわけないよな?」
「 無理だろ、やっぱり。でも、もしかして……」
「 もしかして? もしかしねーよ。でも、もしかして……」
バス停のベンチに座って思い出し笑いをしてしまう。もしかするわけないだろ、バカだな。月は相変わらず綺麗に光っている。上を向いてばかりじゃ、首が疲れてしまうな。そう思って、下を見てみると、そこに紙切れが落ちていた。
<書を捨てよ、旅に出よう>
一行だけそう書かれていた、ただの紙切れ。ぼくはそれを紙飛行機にした。あの下に見える学校まで届くかな。 ”もしかして…… ”それを実は本気で思っていたあのころのような気持ちで、ぼくは紙飛行機を飛ばしてみた。それは思いのほか、風に乗って、遠くまで飛んでいった。それを見逃さないようにしていたけど、闇の中に消えて、その行方を見失ってしまった。もしかしてそれは、岡本君の元まで飛んで行ったのかもしれない。ぼくはまた上を見上げて月を見た。その光は、ただ優しかった。
2・回復の呪文
さっきから紙飛行機が空の中を旋回している。不思議なことにそれは地上に落ちる気配を見せない。
「 あの紙飛行機、全然落ちないけど」
ぼくが指をさして言うと、岡本君もそれを見つめた。しばらく見とれて立ちつくしていると、大きな風が吹いてきて、その紙飛行機はさらに上昇した。
「 すげー……」
ぼくらは同じ言葉を同じタイミングで吐き出し、顔を見合わせた。
「 見た?」
「 見た」
うなずいた岡本君の顔があまりにもマヌケで、ぼくは大笑いした。岡本君はそれにつられたように笑いだして、ふたりで緑の繁る野原に倒れこんだ。それからまだ落ちようとしない紙飛行機をながめながら、深呼吸を繰り返した。
「 笑い過ぎて死ぬかと思った」
岡本君はそうおどけてみせた。ぼくは小さく笑った後、話をそらした。
「 つーかさぁ、見つかんないねぇ、あれ。えっと、なんだっけ……ミドリノ……えっと、ミドリノ……」
「 ミドリノホネノツラナッテ」
「 あ、そうそう、ミドリノホネノ?」
「 ツラナッテ」
ぼくらは ”ミドリノホネノツラナッテ ”という奇妙な名前の植物を探しに来たのだ。
「 トウダイグサ科ペディランサス属、ティティマロイデス ”ナナ ”コンパクタ」
呪文を唱えるかのように岡本君が口走る。
「 よく覚えたなよな? 略して ”ホイミー ”じゃだめなの?」
と、ぼくはドラクエの呪文を唱えてみる。その呪文は体力を回復させるための呪文なのだ。
「 見つけたら、まだ死なないで済むかな」
「 バカ言うなよ! 死ぬわけないじゃん!」
岡本君がもうすぐ死んでしまうことは、少し前に母さんから聞いた。ミドリノホネノツラナッテの正式名称くらい長い病名を聞かされたけれど、ぼくにはそれも悪い呪文のようにしか聞こえなかった。こんなにも生き生きしている岡本君が死ぬなんて、ぼくには想像することができない。きっと嘘なのだ。というか、ドッキリだ。きっとそうに決まってる。どこかにカメラがあって、ぼくの困惑する表情を映して楽しんでるのだ。
「 だよなー。死ぬわけないよなー」
「 当たり前だ。生きて生きて生きまくるんだー!」
ぼくはわけもなく空に手を伸ばし、声をあげた。
「 おれもだー!」
そう声をあげた、1週間後のこと。ぼくは岡本君とさよならをした。あの日の帰り道、ずっと飛んでた紙飛行機がいつの間にか落ちていて、それをぼくは拾った。そしてそれを、岡本君が眠る桶の中に入れた。
「 トウダイグサ科ペディランサス属、ティティマロイデス ”ナナ ”コンパクタ」
やっと覚えた呪文を口にする。
「 何か伝えたの?」
母さんがぼくに聞く。
「 ミドリノホネノツラナッテ。回復の呪文なんだ」
もう回復しないことはわかったけれど、それがぼくのお別れの言葉だ。
3・ラブレター
好きだって
言ってなかったねと
花は言う
通りかかった花屋さんの窓に、そう書かれたポスターが貼ってあった。それを見たとき、小学生のころの記憶がフラッシュバックした。
「 これ、読んで」
彼はそう言って、私に手紙を差し出し、逃げるように去っていった。私はそれがラブレターだと思い込み、急に体が熱くなっていくのを感じた。そして彼と同じように一目散にその場から離れた。家に帰り「 ただいま」と言うと「 おかえり」の声も確認せずに、自分の部屋に駆け込んだ。そして押し入れの中に忍び込み、少しだけ明かりが入るようにして、彼からもらった手紙の封を切った。
手が震えて、うまく開かなかった。私は深呼吸をして、胸の鼓動を抑えた。心臓の位置って、ここなんだ。いまならきっとそれをつかめる気がする。そう思って膨らみはじめた胸をぎゅっとしてみると、ますます私はいけない気持ちになり、泣きそうになった。だめだ、この手紙を開けたら、私は爆発してしまう。そんな想いにすらなった私は、押入れから出て、その手紙をそっと机の中にしまった。押入れの外は明るくて、私の心を少し楽にさせた。
「 贈り物ですか?」
花屋の店員に声をかけられて、記憶の中から私は戻った。
「 あぁ、そうですね……あ、いや、その……」
私は言葉に詰まってしまう。
「 よかったら花束作りますから、声かけてくださいね」
私の動揺とは関係なく店員は笑顔を見せる。私は無意識に次の言葉を告げる。
「 えっと、あの…… ”ミドリノホネノツラナッテ ”っていう……花じゃないんですけど、植物っていうか……」
店員は心地のいい間をあけてから、答えた。
「 あぁ、ありますよ。どうぞ、こちらです」
そう言われ、それがある場所に誘導される。私はそこで、”ミドリノホネノツラナッテ ”を初めて見た。
「 へぇ、こんな形してるんですね。というか、そのままの名前なんですね……」
ミドリノホネノツラナッテは、くねくねと曲がった茎から葉っぱが連なって生えていた。記憶の彼が言っていた言葉が聞こえる。
「 おれらの命もつらなって一つなのかもしれないよな?」
それから私が彼からの手紙の封を開けたのは二年たったあと。そこには短い言葉が記されていた。
そういえば、好きだって言ってなかった。元気でいろよ、いつまでもな。
もしもすぐにあの手紙を開けていたなら、私は彼に”好きだ ”と伝えたのだろうと思う。そしてもっと、つらい想いをしていたのだろうと思う。私は彼が好きだった。
「 また立ち寄りますね」
花屋の店員は「 お待ちしてますね」と、笑顔で軽く首を揺らした。
花屋を出てから、夕飯の買い物をする。袋から飛び出たネギを見つめてふと思う。そしてそれを空につぶやいてみる。私はとても元気だよ、岡本君。
素敵なよしこさん
「 今日から、<素敵なよしこさん>と呼ぶことにする」
いつものように古書店でアルバイトをする私のもとにやってきた彼は、軽い挨拶のあとに、そう言った。彼は吉高君という私の教え子だ。と言っても、教育実習で行った中学校の生徒だっただけ。実習が終わったあと、彼は古書店で私を見つけた。「 あぁ、よしこさん」と私のことを呼ぶ。なんと呼ばれようが構わない私は、気にせず「あぁ、吉高君」と返した。彼はセルバンテスの「 ドン=キホーテ」を手に取り、一人ぶんだけあるイスに腰掛け、15分ほどそれを読んだ。そして、「では、また」と、帰っていった。それからほとんど毎日、それを繰り返している。話はあまりしないのだけれど、なんとなく私は彼が来るのが楽しみになった。
そんな吉高君に話しかけられ、私は少しドキッとした。しかも、<素敵な>と変な冠を付けられるとは、何事か理解できずにいた。
「 なにそれ。素敵なのはうれしいけど」
女子大生が男子中学生にドキマギするのはカッコ悪いと、私はなるべく落ち着いた声を出した。
「 いや、よしこさん、素敵だなと思って」
明らかに彼の方が落ち着いている。年上の女には興味がないのか。私は年下には興味がないけれど、ちやほやされるのは嫌いじゃないと、教育実習のときに感じていた。そんなことを考えてしまうのだから、私は教師になるべきではないと思っている。だから、「 よしこさん」でもかまわないのだ、きっと。
「 おもしろいね、吉高君は」
「 学校では、 ”つまらないやつ ”と評判だけど。じゃ、また」
彼は「 ドン=キホーテ」を棚に戻し、足早に帰っていった。
彼を大学の中庭で見つけたのは、次の日のこと。紅葉がかる木の下のベンチに制服姿の彼がいる。
手にはやっぱり「 ドン=キホーテ」だ。私は彼に近づいて声をかけた。
「 学校サボっちゃだめじゃない」
「 少しは先生っぽいこと言うね、素敵なよしこさん」
相変わらずの落ち着いた声だ。
「 ねぇ、その”素敵なよしこさん”ていうのは、やっぱり変だよ」
「 そうかな」
と、彼は腕組をする。その仕種は大人のようであり、でもやっぱり子供で、どこかアンバランスだった。私はそれをほほえましく思って笑った。
「 なに笑ってるの?」
「 ううん、なんかね」
私は彼の隣に座る。 ひゅーっと秋の風が吹き抜けて、しばらく沈黙した。それを破った彼が、そっと話した。
「 最近ねぇ、新しい母親ができたんだけど。あ、実の母親は小さいときに死んだから」
「 いいの? そんな話、私にしても」
「 うん」
「 じゃぁ、続けて?」
「 その新しい母親が、 ”よしこ ”って名前でさ」
「 私といっしょだ」
「 うん。ほら、なかなかすぐに ”母さん ”とは呼べないでしょ? だから、 ”よしこさん ”と呼んでるわけ。よしこさんがふたりになってしまったから、先生のことは ”素敵なよしこさん ”と呼ぼうと思って」
「 ”先生 ”ではないのね」
「だって、先生っぽくないし」
吉高君は、そう言って無邪気に笑った。それは少年という感じの笑顔だった。
「 じゃぁ、また、素敵なよしこさん。あ、これ借りてた。持ってきちゃった。ちゃんと店長には了解得てるから、万引きじゃないよ」
彼は、「 ドン=キホーテ」を私に手渡した。うちの古書店から持ってきたのか。
「 これ、どんな話?」
「 ただのおっさんが、自分を騎士だと思い込んで、みんなに笑われる話だよ」
吉高君はベンチから立ち上がり、手を振って歩き出した。私は手を振り返して彼を見送った。彼が見えなくなってから、「 ドン=キホーテ」をパラパラとめくった。
この話が彼の言う通り、みんなに笑われる話だとしても、吉高君はそれでも騎士になろうとしているのかもしれない。なんとなくだけれど、その本を見つめながら、私はそう思った。それなら、私は彼のために ”素敵なよしこさん ”を演じることにしようか。
次の授業がはじまる。私はそれをバックにしまって、校舎へ急いだ。
自由なよしこさん
【 鈴木さんに電話】
ケータイのメモ機能に、それだけ書いてある。確かにそれをメモしたことは覚えている。ただやっかいなのは、用件と、なんという名前の鈴木さんか忘れてしまったということだ。もしかしたら何度か電話をしたかもしれない。そう思って履歴を見てみるけれど「 鈴木さん」は履歴に残っていない。
しかたなくアドレス帳を開くことにした。ところが「 鈴木」という名字は、サ行の半分を埋めている。こんなにも鈴木さんがいるとは。えっと、なんていう名前だったけな。久美子、梢、智子……そもそも女だったけな、男だったけな。章史、康之、雄二、祐二……「 すずきゆうじ」がふたりもいるぞ。ひとりは思い出せるけど、ふたり目は記憶にない。まったく、大学に入ってから、名前だけのやりとりが一気に増えて、誰が誰だかわからなくなってしまった。どうしようかと画面をスクロールして、「 鈴木」の欄が終わると、ふいにぼくの手は、止まった。止まって選択されたアドレスには、「 素敵なよしこさん」という名前が登録されていた。それは、とても懐かしい響きだ。その残響がぼくの脳内を漂いはじめている。
彼女はぼくの恩師だ。恩師と言っても、中学生のとき、たまたま教育実習にきただけなのだけど。教育実習で彼女のアドレスを手に入れたわけではない。そんな大それたことを、できるわけがない。ただ、先生と生徒という以外の接点がぼくらにはあった。彼女がアルバイトをしていた古書屋に、たまたまぼくが立ち寄ったのだ。ただそれだけだったけれど、そこから「 素敵なよしこさん」との距離は少しずつ近づいた。「 素敵なよしこさん」と呼び始めたのも、そのときできた継母が「 よしこ」という名前だったからだ。まだ少しふてくされていたぼくは、継母を母親としては見ることができず、他人のように「 よしこさん」と呼び、同じ名前の彼女のことを「 素敵なよしこさん」と呼んだのだ。彼女はそれを嫌がったけれど、何度も呼ぶうちに、それを当たり前のことのように受け入れてくれた。そしてぼくらは、その古書店や、彼女の通う大学のキャンパスで、本の貸し借りをしながら、いろんな話をするようになった。そうやってぼくは、彼女を好きになっていったのだ。それは、ぼくの初恋だった。
中学校を卒業する日、「 素敵なよしこさん」は、ぼくらのクラスにやってきた。クラスメイトももちろん、教育実習のことを覚えていて、誰もが彼女を歓迎した。男子は、大人の女性を見るような不純な目をして、はしゃぎ、女子は、可愛いものを愛でるような純粋な目をして、はしゃいだ。私見だけどぼくにはそう見えた。( 中には嫉妬した目の女子もいるかもしれないけれど、ぼくにはわからない)とにかく、卒業というイベントで高揚したクラスメイトは、彼女を取り囲んで、口々に「 先生!」と言葉にして、はしゃいだ。本物の先生である担任さえ、取り囲む側にまわっている。ぼくだけが、遠巻きに彼女を見ていた。
「 みんな、覚えていてくれてありがとう、卒業おめでとう」
クラスメイトはここぞとばかりに、彼女に抱きついた。それを丁寧に受け止めてから彼女は、黒板に文字を書きだした。
「 私は教師にはならないけど、このクラス、好きでした。だから、みんなが困っている時は、教師になろうと思います。何かあったら、連絡してください」
黒板には携帯番号とメールアドレスが書かれていた。そのあとの行動は無意識だった。ぼくは咄嗟に、黒板へと走り出し、それをすぐさま消していたのだった。
「 なにするんだよー、吉高ぁ!」
誰かにそう言われてぼくは、
「 いや、個人情報だからさ。こんなに堂々と書いちゃだめでしょ」
と、それらしいことを口走った。ぼくは嫌だったのだ。ぼくだけの「 素敵なよしこさん」でいてほかったのだ。彼女はぼくのほうを見て、笑みを浮かべた後、「 じゃぁ、吉高君に教えておくから、みんな吉高君に聞いてくださいね」そう言った。クラスメイトは「 はーい」と素直に返事をし、それから担任が席に着くようにと指示した。席に戻る間に、彼女にメモを渡された。それから「 素敵なよしこさん」は、あいさつをして、先に教室を出た。
ぼくらは、担任から一人ずつ「 贈る言葉」をもらい、その都度誰かが、泣きだした。ぼくも涙をこぼしていた。けれどぼくの涙は、みんなとは違う。贈る言葉や、みんなとの別れに涙してるのではない。彼女に渡されたメモ用紙に涙が落ちる。
吉高君、私はもうすぐ結婚します。
吉高君にとって私は、「素敵なよしこさん」でいられたかな。
吉高君といろんな話が出来て、うれしかったよ。ありがとう。
お母さんのこと、大切にするんだよ。
にじんだメモを強く握りしめて、それから立ちあがっていた。
「 吉高!」
誰かに呼びとめられた気がした。けれど、ぼくはまた自分の行動を抑えきれなかった。ぼくは教室を飛び出し、一目散に校舎を駆けていった。校門の手前で、彼女を見つけた。
「 よしこさん!」
彼女が振り向く。
「 吉高君……」
その顔を見て、ぼくは誰よりも何よりも、愛しさを感じずにはいられなかった。
「 あの、おれ……あなたのことが、好きでした!」
心臓の音が全身を覆う。ぼくはただ彼女をじっと見つめる。彼女は、一度下を向いてから、顔を上げて泣き顔を笑顔に変えた。
「 卒業、おめでとう」
彼女はそう言って、深くおじぎをした。ぼくはそれを永遠のように見ていた。
スクロールの止まった携帯電話のアドレス帳に、「 素敵なよしこさん」のアドレスは載っていない。ただ名前だけを、あの日、登録したのだ。大学を卒業した彼女を、古書店でも、この街のどこかでも見かけることはなかった。高校を卒業してぼくは彼女の足跡を探すように、彼女と同じ大学に進学した。いつか彼女と座って話したベンチに座ると、それだけで違う世界にいるような気持ちに支配された。ぼくはまだ彼女を卒業できていないのではないだろうか。そんな想いに駆られているとき、「 鈴木さん」から電話がかかってきた。登録が「 鈴木さん」だったのだ。
「 あ、吉高さん? 鈴木だけど、わかります? えっと、この前、ゼミでお世話になった……」
「 あ、そうだ、その件で電話しきゃいけなかったんですよね? すみません、鈴木さんって知り合い多いから、どの鈴木さんかわからなかったところで」
「 そういうのってありますね。私も、他の鈴木さんによく会いますし」
少し話してみると、彼女の輪郭がはっきりと思いだされた。そうだ、名字だけしか聞いていなかったから「 鈴木さん」と登録したんだ。
「 あ、ところで鈴木さん、下の名前教えてもらってもいいですか?」
「 よしこです」
「 え?」
「 よしこです。自由の由の字で、由子といいます」
ぼくは言葉を失ってから、「じゃぁ……」と続ける。
「 はい?」
「 素敵なよしこさんと呼んでもいいですか?」
彼女はそれに対して「いいえ」とはっきり口にした。
「 自由な由子さんですから」
きっぱりと言い切った「鈴木さん」に、ぼくは虚をつかれた。それがツボにはまったのか、大笑いしてしまった。そして「自由な由子さん」も何故か、つられて笑いだした。もしかしたら、こんどは卒業できるかもしれない。ぼくは、なんとも自然な気持ちで、そう感じていた。
「学校」をテーマにした小説作品集
「 連弾したいねぇ」
と、アキに言われて私は目を丸くする。その言葉の響きに、何やら危険なものを感じたからだ。つまり、その、銃で撃ち合うみたいな、そういうことかと。
「 何を想像してんのさ? ふたりで一台のピアノを弾くことでしょ」
あぁ、それを「 連弾」というのか。確かに彼女は今、昼休みの音楽室で、ピアノをうっとりと弾いていたところだったのだけど。
「 でも、私、ピアノ弾けないけど」
彼女は「 それは、知ってる」と、大きくうなずいた。
「 じゃぁ、連弾できないじゃん」
私は新しく覚えた「 連弾」と言う言葉を、さっそく使ってみた。うん、なんだか少しエレガントになったような気がする。これで、ピアノが弾けたら、さらにエレガントなんじゃないだろうか。私は、ニヤニヤとそんな想像をした。
「 何を、ニヤニヤしてるのさー。またおかしな想像してるんでしょ」
アキはそう言いながら、私のわき腹をつついた。私は、それをよけながら、ふと窓に目をやる。春のはずなのに、ちらほらと雪が落ちている。
「 春は、まだ先かねぇ」
つぶやいた私の言葉の終わりに、ピアノの音が鳴り始めた。アキが「 なごり雪」のイントロを弾き始めたのだ。アキは私と同じで、古い歌をよく知っている。だから、気が合うのかもしれない。そんなことを思っていたとき、クラスメイトの、ハル君が音楽室に入ってきた。「 あっ」というような顔をしたハル君は、こちらに近付いてきて、アキの肩越しから、鍵盤を覗いた。そうして、高いほうの音に手を触れて、アキに合わせるように、ピアノを弾き始めた。これが、「 連弾」というやつか。ふたりの奏でる「 なごり雪」を聴きながら、私は窓の外を眺めた。ピアノには、ハルとアキ。
「 ハル君に教えてもらったのだけど」
あぁ、そういえば、古い歌はいつもハル君から、アキに伝わるんだった。ふたりのピアノが静かに終わると、ハル君は言った。
「 今度は歌ってよ、ナツ」
名前を呼ばれて私はドキッとする。アキはモジモジと、照れくさそうにしている。
「 歌はいいから、また、ふたりで弾いてよ。それ聴いてるほうがいい。ハル君とアキ、なんか、息合って、いい感じだよ」
十年後に、隣り合うのは、ハルとアキなんだろう。なごり雪は、静かに、時間を流している。
修学旅行の添乗にも、慣れたものだ。女性添乗員を期待する男子生徒の期待外れの目や、たいしてイケメンでもないぼくを見る女子生徒の目も、今となっては気にならなくなった。それは成長と見るべきか、あきらめと見るべきか。どちらかよくわからないけれど、何事も慣れるというものだ。とは言え、今日は事情が違う。ぼくの気分は最悪だ。理由ははっきりしている。昨日、大学時代から付き合っていた彼女にふられたからだ。
ふられる予感はしていた。いつも返ってくるメールの、(笑)という文字が、笑。と変わっていたからだ。別にそれがすべてじゃない。ただ、画面のくすんだ雰囲気を、それが象徴しているように見えたのだ。あぁ、たぶんこれからぼくは電話をして、ふられることになるだろう。そういう心構えをして電話をすると、予定通りふられた。失恋だけは、何度経験しても慣れることはない。いくら心構えができても、意味はないのだ。成長もあきらめもなく、ただ転がり落ちる。でもふられても人生は続くし、仕事もしなくちゃならない。わかっているけれど、この傷はなかなか深いのだ。その深い海の中、ぼくは何事もないような顔を無理に作る。おとなってやつは、心と行動が噛み合わなくても、やっていけるんだな。それは、強くあるけれど、淋しい気もした。
「 あの、このバス、カラオケってできますか?」
ぼくと同年代に見える若い女性教師に、そう声をかけられた。
「 あぁ、はい、できますよ。準備しますか?」
「 えぇ、なんか、うちの男子生徒が、バス乗る前から、カラオケしたいですってしきりに言ってくるので。すみません」
「 いえ、かまいませんよ、けっこうそういうのあるので」
ぼくはそう言って、準備をはじめた。その仕草を見たからか、まわりがざわざわと騒ぎはじめた。いいぞいいぞ、その若い感じ。ぼくはそんな瞬間が実は好きなのだ。準備はすぐに終わったが、曲を入れる生徒がいない。どうした、もう準備は終わっているぞ。
「 あれ、京野くん、歌いたいんじゃないのー」
女性教師が、そう声をかける。京野という彼は、「 えっと、あの」となにか落ち着かない。それならぼくが歌ってやろうかと、思い始めていたとき、ようやく彼は曲を入れた。
「 恥ずかしがりやで、彼は」
女性教師はぼくにそういって、頭を掻いた。
「 いや、最初に歌うのって、なかなか勇気要りますよ」
「 そうかもしませんね」
曲が流れ出して、タイトルが映される。さよならをするために? ビリーバンバン? えらく古い曲だ。
「 これ、古い曲ですよね? 中学生がよく知ってますね?」
「 あぁ、これ、去年の合唱祭で歌ったんです。そういえば京野くん、歌いながらボロボロ泣いてたなぁ」
「 泣いたんですか?」
「 えぇ、たしかその日、飼っていた犬が死んでしまったとかで、どうやら歌に感情移入しすぎちゃったようで」
そう説明されると、すすりなく彼の声が聞こえてきた。歌はボロボロだ。それをクラスメイトが、なぐさめるような、元気づけるような感じで、隣と隣、肩や手をつないで一緒に歌い出した。ぼくは間奏になったところで、マイクを通して声をかけた。
「 あのー、ぼくも歌っていいですか?」
その声に呼応したみんなは、大きく腕をあげてピースをした。
「 なんか、すみません」
女性教師が笑ってぼくに言う。
「 昨日、ふられたんです」
「 え?」
「(笑)の、かっこがなくなって、笑。ってメールが返ってきたんです。どう思います、先生」
「 それは、淋しいですね」
ぼくはそれから、一気に心の堤防で止まっていた悲しみが、流れ出した。京野くんとぼくは同じくらいボロボロになりながら、「 さよならをするために」を歌った。それを、みんなは笑ながら、そして少し泣きながら、合唱した。目的地に着いて、みんなを下ろすと、運転手さんがぽつりと言った。
「 あれは、運転に集中できねぇな」
「 すみません」
ぼくは深々と頭を下げた。
「 集中できないようじゃ、運転手失格か。楽しかったけどな」
顔をあげると、運転手さんは目をつぶって、眠る体勢に入っていた。
目の周りは少し、腫れていた。
きっかけは、誕生日が同じ、ということくらいだった。それを知ったのは、二十歳のときの同窓会だ。十五才だった彼女は、僕と同じ時間年を取り、大人になっていた。その頃の僕が感じた「 大人」というのは、彼女がブーツを履いていたっていう、それだけのことだった気がする。十五才のときの彼女とは、特に仲が良かったというわけでもない。彼女に声をかけたのは、おそらくブーツ姿だったからだ。彼女は、僕のことをよく覚えていて、そう言えば、誕生日一緒だよね、と、僕の知らなかったことを言った。
「 え、同じ? じゃぁ、これからは毎年、誕生日おめでとうって、伝え合おうか、メールとかでさ」
手にした、ジントニックを片手に、僕は彼女にそう返事をした。
「 そうだね、恋人がいないときはね」
釘を刺すように彼女はそう返して、カシスオレンジを飲み干した。
それが、十二年前の出来事だ。
それから、僕らは、毎年「 誕生日おめでとう」と伝え合ってきた。それは、彼女の言った約束と違って、どちらかに恋人がいるときもだった。そして、恋人のいない今年、初めて誕生日に彼女と会うことになった。それが、今日だ。待ち合わせ場所にやってきた彼女は、パーカーにキャップ、下はデニム、足元はスニーカーという、誕生日の主役とは思えないラフな格好をしてきた。それでも、スニーカーのピンクのラインが女の子っぽい。そういう僕は、仕事帰りのスーツで、これまた誕生日の出で立ちではないのだけれど。居酒屋に入ると、彼女は、日本酒を注文した。僕は、泡盛だ。乾杯をしながら「 飲むもの変わったね」と、彼女が笑う。「 十二年も経てば、そりゃ、変わるよ」僕も笑う。
「 でも、誕生日じゃないときは、泡盛なんて呑んでなかったよ」
誕生日以外なら、僕らは二年に一度くらいの割合で、会っていたのだ。
「 そっちだって、日本酒なんて呑まなかったじゃん」
「 今日は、誕生日だからねぇ」
「 俺もね」
その店の看板メニューの、「 やきとん」に舌鼓を打ちながら、僕は、彼女のスニーカーを見ていた。そうしていると、なぜか、二十歳のころのブーツ姿がよみがえる。彼女は、その視線に気がついて、「なでしこっぽいでしょ」と言った。
「 ピンクラインだしね」
彼女は、「 久保田」という名の日本酒を口にして、ふふふとこらえきれないように笑う。
「どうした?」
僕が聞くと、「 修学旅行」と言って、また笑い出した。それから、ちょっと落ち着いてから、彼女は、話を続けた。
「 修学旅行でさ、靴下は真っ白じゃなきゃダメっていう規則があったんだけど、覚えてる?」
というかそれは、学校指定になっていて、修学旅行だからダメっていうわけじゃなかった気がする。まぁ、今となっては、その規則もよくわからないのだけど。そんなことを答えてみると、彼女は「 でもね」と続けた。
「 女子の間では、ワンポイントのデザインならいいんじゃないかって、けっこう反発したんだよね。でもそれは好ましくないからダメってなったんだけど。それでムカついて、密かに、靴下の見えない部分に、ピンクのハートマークを入れたの。ふふふ、変な反抗の仕方だよね」
そうか、可愛い反抗だ、そう返すと、彼女の久保田はすすんでいった。
「 うん、可愛い。さらに可愛いのが、えっと、清水寺に行ったでしょ。本堂の入り口にさ、鉄下駄があったわけ。その鉄下駄を触ると、女の子は一生履物に困らないって書いてあって、だから、触りまくったんだよね。靴下の怨念の如く」
あぁ、そうか。僕が彼女のブーツやスニーカーに目がいってしまうのは、そのせいなのか。なんだか謎が解けたみたいで、僕は思わず、大きく深く頷いた。
「 それ、効果あったじゃないかな。なんか、俺、好きなんだよね、ブーツもスニーカーも、それから……」
少し酔ってきたのか、僕は余計なことを言いたくなる。彼女は、キョトンとした顔をしたあと、視線を外して、小さく言った。
「 鉄下駄、触った?」
「 え?」
どう答えたら正解なのかわからず、僕はとりあえず泡盛を飲み干した。
「 鉄下駄を触ると、男の人は、浮気できなくなるんだって」
僕は、即答した。
「 触った、触った、触りまくった!」
彼女は、ふふふと笑いながら、「誕生日おめでとう」と、グラスを持ち上げた。
僕らは、一つ、年を取った。
七組が泣いている。一組のぼくには、届かない。遠藤先生が言う。
「 彼女は精一杯生きました。どうかそれを覚えておいてください。十四年間の短い人生だったけれど、楽しかったと言ってくれました。それを忘れないでください。彼女がいたことをどうか、忘れないでください」
ときに言葉を詰まらせて、涙をまぶたに浮かべながら。七組は、泣くこと以外を知らないように、体育館中に響くくらいの音で泣き続けている。ぼくにはそれがうらやましい。七組の生徒であった田中さんは、七組の生徒と確かな心の交流をしたのだと思う。彼女の死を悲しむ声を、こんなにも響かせることができるほど、七組と彼女の絆は大きかったのだ。ぼくは田中さんを知らない。それは七組ではないから。彼女との面識すらほとんどないから。人を想い、泣ける気持ちはどんなふうなんだろう。そのときのぼくにはそれがわからずに、ただ七組のほうを見て、その悲しみとは違う淋しさを胸に抱き続けた。
そんな想いを抱いた数日後のことだ。休日の昼間、いつもより遠くまでの散歩をした。飼っている犬の散歩だ。いつも通らないようなところを通っていると、道に迷ってしまった。ぼくがきょろきょろしていると、その人はぼくに声をかけた。
「 あなた、西中のシイナくんよね?」
「 え?あ、はい、そうですけど」
声をかけてきたのは、ぼくの母親と同じくらいの年代の女性だったけれど、ぼくにはその人が誰だからなかった。ぼくは愛犬にお座りをするように命じると、彼はおとなしくその場でお座りをした。
「 私、田中ユキエの母です」
田中ユキエ? えっと……ぼくが思い出すしぐさをしていると、その人は続けた。
「 七組だった、田中ユキエの」
あ!あの、田中さんの!
「 あぁ、そうなんですか。あ、でも、なんでぼくのことわかったんですか」
田中さんとは面識がないはずなのだ。
「 あなたのことは、よく娘の話に出てきてね。写真も何枚かあって。だから、すぐわかったのよ」
「 ぼくがですか? ぼく、田中さんとはほとんどしゃべったことないと思いますけど……」
「 うん、それも知ってる。あ、シイナくん、よかったら線香あげてくれないかしら」
どうしてぼくの話が出てくるのか不思議だけれど、これも何かの縁だと思い、ぼくは家に上がることにした。犬も入れてかまわないと言うので遠慮なく入れることにしたが、興奮するとまずいので、ドアのところにつないでおいた。田中さんのお母さんのあとに付いていき、仏壇のある部屋に入る。田中さんの遺影を見た。こんなに可愛い顔をしていたのか。ぼくは少し驚いたあと、線香をやり、遺影に手を合わせた。
「 あなたのこと、好きだったのよ、あの子」
「 え?」
またぼくは驚いた。
「 でも、ほんと会った記憶もないんです」
母親は小さく笑った。
「 遠くから見てたのね、きっと。トラックを走るきみが美しくて泣きそうだったとか、そんなことばかり言ってたよ」
そういえば……そういえば、ぼくが部活でトラックを走っているとき、夕焼けの向こうに人影がよく見えた。いつも同じ場所に。ぼくはそれが少し気になっていた。あれが彼女だったのだろうか。
「 そうだったんですか。それは、うれしいです」
「 それ聞いたら、あのこ喜ぶわね」
ぼくはまた遺影を見た。この子はぼくのことを見ていてくれたのか。そしてもう、この世にはいないのか。そう思うと、心が苦しくなるのがわかった。だめだ、この場にいると泣きそうになる。
「 あの、すみません。ぼく、ちょっと帰らなきゃいけなくて……」
抑えきれなくなりそうで、ぼくは立ちあがった。
「 うん、ごめんなさいね……でも、ありがとう」
母親もぼくを気遣ったのかもしれない。帰り道、ぼくは犬に引っ張られながら、空を見ていた。人を想い、泣ける気持ちがぼくにもわかってしまった。それは思った以上に心が揺れることだけど、いつかやさしさになる予感がした。ぼくの中で彼女が生きるのは、きっとこれからだ。それは、なんとも言えない、不思議なことなのだけど。
田舎の町で育った私が、都会に出てきてもう、十年経つ。はじめは、ドキドキしながら入った、オシャレなお店にも、今は日常のように入ることができる。新しくオープンしたばかりのブックカフェに立ち寄りながら、自分の成長をふと思い知って、思わずにやけた。あぶない女だ。
そんなとき、ある一冊の本が目に入った。そして、その瞬間に心臓が高鳴っていくのがわかった。
あぁ、これは。
私の記憶が、高校時代まで巻き戻る。
通学で使う駅の、三つ手前にその本はあった。一つ乗り遅れると、次が来るまで一時間近く待つことになる田舎の駅。たいていが同じ町からの通学で、だから、三つ手前でわざわざ降りる学生は少ない。そんな三つ手前の駅で私が降りる理由は、いくつかあった。ひとつは、その駅には図書館が併設されているということ。もうひとつは、そこで、読みたい本があるということ。そして、読みたい本の下巻がいつでも貸し出し中だということ。上巻を読み終わってしまった私は、早く下巻が読みたいのだった。けれど、下巻はなかなか返却されない。だから、私は、仕方なく上巻を何度も読み返した。何度読んでも、面白い本なのだ。そんなふうに、その日も私は上巻のページを捲った。そのとき、私の耳に声が入った。
「 もしかして、それ上巻?」
この駅では珍しい、男子学生の声だった。制服からして、同じ学校だと認識する。けれど、見たことはない。
「 え、あぁ、そうですね」
その人の手に、下巻が握られているのが見えて、私はそう返事をした。
「 やっぱりなぁ。君、いつも上巻ばっかり読んでるよね。俺、下巻から読んじゃって、上巻が気になって仕方がなかったんだよ」
ということは、私たちは、お互いに上巻と下巻を独占していたということなんだろうか。というか、下巻から読むという感覚が私にはよくわからない。私は「 はぁ……」と気のない返事をして、上巻のページを閉じた。
「 いや、まだ読んでるんならいいんだけど。読み終わったら、次読ませて。俺もそれまで下巻、読んでよっと」
私は、いや、そうじゃなくて、という言葉を返すタイミングを失ってしまって、また、上巻の表紙を開いた。そのまま一時間が過ぎると、私たちは、列車に乗った。彼は、私の斜め前に座って、すぐに瞼を閉じた。ときどき、カクンと首を手すりにぶつけては、そのたび、頭を掻いていた。私は、それをずっと見ていて、少し笑ったりしながら、ときどき心がきゅうっとなった。その感情が何かわからないでいると、一滴だけ涙が落ちた。そして、ほんとにそのとき同時に、彼も一滴、涙が落ちたのが見えた。
次の日、私は下巻を読んだ。だけどちっとも、頭に入ってはこなかった。つまらなかったのではなくて、私は上巻を読む彼の姿が見たくて、列車を三本も見送ったからだ。けれど、結局彼はやってこなかった。次の日も、その次の日も。彼が転校したのを知ったのは、卒業間際になってからだった。
ブックカフェにいることを思い出した私は、その本を手にとって、上巻を読んだ。やっぱり面白いなぁと思いながら、下巻のほうに目をやる。
彼が読んだ下巻。
私が読んだ上巻。
彼もどこかでこの本を見つけて、私を思い出したりしてるだろうか。下巻から読む本のように、後から答え合わせをすることが、人生にはあるのだと思う。それなら、私の幸せはどこから始まったんだろう。少し感傷に耽っているとき、携帯電話にメールが入った。夫からだ。
「 今日は、久しぶりにデートしよう」
私は年甲斐もなく、大きなハートマークを送り返す。それから下巻を棚に戻して、夫の待つ場所へと、急いだ。
黒板消しをベランダでパンパンと鳴らしていた昼休み。チョークの白が目の前に漂って、世界が一瞬消えた。なにもない世界だ。そう思った次にチョークの白は消えて、また同じように時間が流れ始めた。
「 スガちゃん、そうじゃないよ。貸して?」
担任の木村先生に黒板消しを渡してみると、先生は両の手を全開に広げてから、トップスピードでそれを戻し、パーンと大きな音を鳴らした。チョークの白はさっきよりも大きく漂い、世界はまた一瞬消えた。しばらくまた、その中にいた。
「 これくらいやらなきゃ」
先生が自慢げに言い、ぼくは「 なるほど」とうなずいた。
「 どうかしたの?」
先生はぼくに聞く。どうかしたように見えたのだろう。思春期の男子なんて、いつだってどうかしている。だから、「 どうかしてるけど、どうかしてない」と、極めて誠実にぼくは答えた。
「 そうか、それはそうだな。俺も中学生のときは、どうかしてたけど、どうかしてなかったしな」
そんなことを言うところがぼくには心地よく、この先生を好きだと思うところだった。
「 おとなって楽しいですか?」
ぼくはベランダにもたれかかって、校庭でバスケットに夢中になるクラスメイトを見下ろしながら、そんなことをつぶやいた。
「 中学生はどうなの?」
先生はすぐに答えを言わない。いつもまず、相手の反応を見る。
「 意外と、繰り返しで、張り合いがないっていうか。体育祭とか修学旅行とか、そういう何かに向かってるときは、気持ちに火がつくのだけど。なにもない日は、本当になにもないなぁって、最近思う」
先生は「 なるほどね」と隣でうなずいた。
「 つまんねーって感じだ?」
「 うん、そんな感じ。なんのために生きてんのかなぁって思うこともあるしなぁ……」
バスケ部のクラスメイトがスリーポイントを決めた。思わず、「 おっー!」と声をあげてしまう。先生も同じ場面を見ていたようで、「 あれはすごいな」と感心した顔で言った。スリーポイントを決めたチームがハイタッチを繰り返す。その光景を眺めたあと、先生は空にある雲を指して、言った。
「 あれが、生きる意味だとしよう」
「 あれって、あの雲のこと?」
「 そう。あの雲も、少しずつ形が変わっているのはわかる?」
この短時間では、あまり変わったようには見えないけれど、雲の形が変わっていくのは、あたりまえのことだ。
「 そりゃぁ。雲だから」
「 生きる意味も、同じ。明日には変わってるかもしれない。だから、今日の意味を、今日感じていたらそれでいいさ」
「 そうやっておとなになって、どう? 楽しいですか?」
と、最初の質問を繰り返した。先生は黒板消しをパーンと鳴らした。チョークの白が空を舞う。
「 楽しいねぇ。だって今、楽しくない? 俺は楽しいんだけどなぁ、生徒と話すの」
ぼくは先生の持っていた黒板消しを奪って、大きくパーンと鳴らした。チョークの白もほとんどなくなってしまって、見えた世界にスリーポイントショットが決まっていた。ぼくはまだ少し、子どもでいようと思った。
「 じゃぁ、最後に何か質問ある?」
二者面談もこの生徒で最後だ。彼は、クラスでは特別目立つわけでも、脇役に徹するわけでもないような、どこかつかみどころない生徒だ。いつもはこんなこと聞かないのだけど、そのときはひと区切りしたかったのか、そう聞いていた。そして、その子がそんなことを聞いてくるとは思ってもいなかった。
「 先生は、どうして不倫してるんですか」
私は思わず「 え?」と声を出し、動揺してしまう。そしてそのときほど、嘘のつけない自分の性格を嫌だと思うことはなかった。
「 どうしてそんなこと知りたいの?」
あぁ、違う。「 そんなことしてないよ」とか「 バカなこと聞かないの」とか、そんなようなことを言えば終わるはずだったのに。バカなのは私の方だった。
「 ただ、単純にどうしてかなと思うだけです」
”まぁ、いいじゃない ”と言って終わらせよう。
「 どうしてかなって思うのは、変だと思うから?」
だから、違うって。なんでそんなこと言っちゃうかなぁ。
「 いいえ、不倫するのは変じゃないですけど、 ”不倫 ”という字には ”不 ”っていう字がありますよね? ”不 ”って言う字は打ち消すということじゃないですか。つまり ”倫理を打ち消す ”。倫理的なことじゃないんでしょうか」
倫理を持ち出されるとは。そこまで聞かれてしまったのなら仕方ない。私も私の性格通り、嘘を付かずに答えよう。
「 坂下くんも、女の子を好きになったことあるでしょう?」
「 はい、あります」
「 そのとき、倫理的だとかそうじゃないないとか考えた?」
「 いや、考えてないと思います」
「 そう、それと同じことだよ。考えてたらできないんだよ、恋っていうのは」
「 だけど先生には向いてないと思いますよ」
彼に言われて、また「 え?」と聞き返した。
「 先生、嘘付けないし、白黒はっきりしたいタイプでしょ? それって、不倫するの、すごく疲れると思いますよ」
確かにそうなのだ。私は嘘をつけず、何事もはっきりしたい。その方が人生が明確になるからだ。だから不倫するにしても、相手の迷惑にはならない距離で、お互いの生活に介入しないようにしてきた。そういうルールをはっきりと作って、割り切って付き合っている。それは明確であるはずだ。だけどじゃぁ、どうして疲れているのだろう。どうして彼の帰り際に、もう戻ってこないかもしれないという不安を覚えるのだろう。また会いたくなるのをどうしてあんなにも我慢しきゃいけないのだろう。それはやはり、 ”倫理を打ち消している ”からなのだろうか。
「 うん、そうかもね……それでもいいと思っていたんだけどね」
私は力なく答えた。
「 わかりました。ありがとうございました。僕からの質問はそれだけです」
そうして彼が立ちあがろうとしたのを、私はさえぎって言った。
「 じゃぁ、私からも質問するけど、いい?」
「 進路のことならもう充分だと思いますけど」
「 ううん、そうじゃなくて。どうして私が不倫してること知ってたの?」
そう聞くと彼は、ニヤッとして、
「 知りませんでしたよ」
と言った。それから、 ”どうして不倫はいけないんですか ”と聞こうとしたのを、間違ってしまっただけだと笑った。
「 不倫は文化だとか言う人もいたけど、坂下くんはどう思うの?」
「 だからって男はみんな浮気すると思われたら困ります」
彼はきっと倫理的にそう思うのではなく、純粋にそう思っているのだとわかった。これは私の想像でしかないけれど、おそらく彼は私が不倫していることを知っていたに違いない。だからって、それを弱みにするつもりもないだろう。私だって、弱みを握られたなんて思ってもいない。ただ、私の心のもやもやが、とれたことだけは間違いなかった。
「 じゃぁ、以上です。気をつけて帰りなさいね」
「 はい、さよなら」
彼の後ろ姿は夕焼けと溶け合って、まぶしかった。
「 あの、ちょっと写真撮りたいのだけど」
というとたいてい、「 え?」という顔をされる。その、「 え?」という瞬間がたまらなくいやだ。たとえそのあとに、「 写真部のコンクール用に」と言って、「 あ、まぁ、いいよ」と表情を変えてくれたとしても。それなら風景写真でも撮っていればいいのだけど、ぼくが撮りたいのは人なのだ。この矛盾は、困ったものだ。まるで毎日ナンパしてるみたい。何度ナンパしても慣れることはない。きっとぼくはナンパに向いてないのだ。そんなことを思いながら、今日だってナンパして、何人か撮ることには成功した。けれど、「 これ!」といったものには出会えない。なかなか難しいものだ。
ぼくは屋上に行って、そこから部活動をしている生徒をレンズ越しにのぞく。これって傍から見たら盗撮? だとしたら、空はかわいそうだ。何の許可もなく盗撮されまくってる。そんなことをぼんやり考えて、地べたに寝そべった。
音楽室のほうから、ピアノの音が聴こえてくる。ぼくはその音が好きだ。いつも聴こえる「 パッヘルベルのカノン」。
タッタラタ、タラララララ、タッタラタ、ラララララララ…
本当は、それを弾いている彼女が好きだ。ぼくは彼女のことを撮りたいのだ。やさしい音色を奏でる指を、心にしみこむやさしい顔を、少し膨らんだ胸のあたりの鼓動を。ぼくは泣きたくなる。彼女だけを、ナンパしたい。
タッタラタ、タラララララ、タッタラタ、ラララララララ…
どんな顔をされても何度でも。
タッタラタ、タラララララ、タッタラタ、ラララララララ…
あぁ、もう、好きだ。
私の腕には、無数の傷痕がある。それは他の誰でもなく、私自身がカッターで切りつけた痕だ。そう言うと、リストカット癖があるのかと思われるけれど、そうじゃない。発端は思春期だ。十三才になった夏のこと。何がきっかけかわからないけれど、突然アトピーを発症し、夜になると決まって背中がかゆくなりだした。病院で塗り薬や飲み薬をもらったけれど、たいした効果が出ず、一晩中のたうちまわるほどひどい症状だった。のたうちまわって、明け方の四時くらいになると、気絶したように眠った。そうして起きると、かゆみはなくなる。けれど、夜が来るとまた、かゆくなる。
私は夜が来るのが怖かった。ある夜、のたうちまわっていた私は、カッターを手にした。はっきり言おう、手首を切って、死のうと思ったのだ。死ねば楽になれるんじゃないか、そう考えた。背中のかゆみに耐えながら、そっとカッターの刃を近付けた。目をつぶると、涙が出てきた。ゆっくりと目を開けた私は、カッターの刃を手首じゃなく、手の甲の手前の方に押し付けていた。やっぱりまだ死にたくない。そこから、血が流れ出した。その赤い色を見ていると、不思議と心が落ち着いた。そして、痛みに意識がいったのか、かゆみはすーっと消えてるように感じたのだ。私はそのとき、これでなんとか生きることができる、そう確信した。
そうやって、付けてきた傷が、腕に刻まれている。アトピーはそれから数ヶ月して、完治した。けれど、傷痕は消えることがない。そのために、私は真夏でも長袖を着た。残った痕は私のコンプレックスになってしまった。この傷を一生抱えていかなければいけないのか。思春期の私はまたもや絶望した。本当に手首を切ろう、そう考えるのも一度や二度ではなかった。そんなときに声をかけてきたのが、本橋君だった。
その日、私は例のごとく、体育を休んで教室にいた。 ”例のごとく ”というのは、アトピーがあったときから、激しい運動は控えるようにと言われていたためだ。治ってからも、私は体操着に着替えるのがいやで( 体操着は半そでだから)、その理由を押しつけて、体育には参加しなかった。私は一人、教室で、自習と言う名の暇を持て余していた。そこに本橋君はやってきたのだ。
「 よぉ、那珂川~ 元気かい?」
私を見つけるなり、本橋君は満面の笑みで言った。本橋君は、はっきり言って、ちょっと抜けているところがあって、いつでもバカみたいにテンションが高いのだ。
「 元気だったら、体育やってるよ。ていうか、本橋君、体育は?」
「 今、器械体操やっててさー、バック転の練習してたんだー。したらさー、体操服のズボンがぱっくり割れちゃってさー。はははー」
本橋君はやっぱりバカだ。お尻のやぶれた体操服を私に見せて、笑っている。何がそんなに楽しいんだろう。私は「 ふーん」と興味のない返事をした。
「 恥ずかしいから、ジャージ取りにきたんだー」
「 そう」
私の返事は自分でもわかるくらい冷たい。
「 それにしてもさー、那珂川、暑くないの? いつも長袖着てるよなぁ」
クラスメイトは、私が長袖を着ていることに、あまり干渉しない。おそらくアトピーがひどかった時期に学校をよく休んでいて、なんとなく事情を察知しているのだと思う。こんなふうに直接的に聞かれて、私は少し戸惑った。そして、胸の鼓動が速くなっていくのを感じた。
「 長袖だったら……何よ?」
必死の抵抗で、そう口にして、本橋君を睨んでいた。
「 だって、那珂川、暑そうなんだもーん。半そで、着ろよー」
本橋君は、空気を読む力が欠けているのだ。きっとそうだ、やっぱり、バカだ。私はわじわじと気持ちがムカついてきて、気が付くと、とんでもないことをしていた。
「 これでいいの」
私の上半身は、下着一枚になっている。とんでもなく破廉恥だと、頭では思う。けれど、ムカついて、私はそうするのを止めたりはできなかったのだ。さすがに本橋君は、あっけにとられていた。それから、自分の半そでのワイシャツを手に持って、私の方へ近づいてきた。
「 な、何よ!」
「 全部脱げなんて、言ってないし」
そう言って、ワイシャツを私の体にかけた。私は我に返って、腕の傷をサッと隠した。本橋君は、笑った。
「 隠すところ、間違ってるじゃんよー。普通、おっぱい隠すだろー。那珂川って面白いなー」
本橋君は傷痕をなんとも思わないのだろうか。私は、おそるおそる聞いた。
「 ……気にならないの? この傷」
本橋君は私の腕を覗きこんだ。それから、「 かっこいいな」とつぶやいた。
「 かっこいい?」
「 うん。おまえ、闘ったんだろ? で、勝ったわけだよ。いわば、それは名誉の傷なわけだ。勲章と言ってもいいか。かっこいいよ」
やっぱり、本橋君はバカだと思った。けれど、強張っていた私の体は、一気に力が抜けたようになって、すごく軽くなった気がした。気のせいかもしれないけど。
「 前から思ってたんだけど、本橋君て、バカだよね」本橋君は「 なんだとー」と怒った風になりながら、「 教室でいきなり裸になるやつよりましだー」と私をからかった。
「 まぁ、バカでもいいさ。生きてるからなー。それより、よかったら、もう一回、おっぱい見せて?」
本橋君はニヤニヤしている。
「 最低」
私は机に置いてあったノートを、本橋君に当たらないように投げた。本橋君は、「冗談だって」と言いながら教室を出て言った。そういえば、本橋君はジャージを取りに来たというのに、すっかり忘れてしまっている。ぱっくり割れたズボンのまま逃げる本橋君は、とことんバカだ。私は本橋君の半そでのワイシャツを着た。それは少し汗ばんでいて、さわやかな匂いはしなかった。
「 あぁ、さわやかじゃないさ。生きてるからなー」
きっとそう言うに違いない。私は、傷の付いた腕で、涙をそっとぬぐった。
「 名前を交換しよう」
明日から夏休みがはじまるという日の、帰り道。私は、陽子ちゃんに声をかけられた。陽子ちゃんは、その名前の通り、太陽のように明るい子で、クラスに光を灯す存在だと、私は本気で思っていた。私は彼女と同じ「 ようこ」という名前だ。けれど、私の「 ようこ」は葉っぱの、葉子。本当の葉っぱのように、私の存在はちっぽけだ。そして、どちらかというと、暗いと思う。そんな暗く、ちっぽけ私に太陽が降り注ぐ。そう言ったら、大袈裟に聞こえると思うけれど、それくらい、私と陽子ちゃんの存在は格が違うのだ。
陽子ちゃんと私が、帰り道を歩いている。太陽の陽子ちゃんは、クラスのみんなに分け隔てなく振る舞うけれど、私とは、長く話したことはなかった。それはそうだ、葉っぱなんだもの。今、こうして陽子ちゃんと、歩いていることが、とても不思議だ。そんな陽子ちゃんに、名前を交換しよう、と言われて、なんと答えればいいか、私はえらく戸惑っている。え、でも、私も「 ようこ」なんだけど。ようやくそう言葉を返すと、陽子ちゃんは、わかってるって、と深くうなずいた。それからニコッと笑う。本当に太陽のような子だなぁ、私はそう思う。
「 夏休みのあいだ、葉子ちゃんが、太陽の陽子ね」
陽子ちゃんの言っていることがよくわからなくて、私は首を傾げた。
「 わたし、太陽の陽子より、葉っぱの葉子のほうが、なんかいいなぁって思うんだよね。だから、交換」
屈託なのない笑顔は、太陽そのものだと私は思う。私は太陽のほうが羨ましい。葉っぱの何がいいのか、さっぱりわからない。
「 葉っぱのほうがいいの? 私は太陽のほうがいいな」
「 じゃぁ、話が早いね。私が葉っぱで、葉子ちゃんは、太陽。そういうことにしよう」
「 でも、それって、何か意味があるの?」
「 ないよ。あ、でも宿題に名前書くとき、ちゃんと交換した名前、書くんだよ」
陽子ちゃんはそう言うけれど、それでは、陽子ちゃんがあきらかにかわいそうだ。陽子ちゃんのほうが、はるかに成績がいいのだから。そんなことを言うと、「 いいのいいの、秘密を共有してるみたいで面白いじゃん」と、陽子ちゃんは笑った。
「 陽子ちゃんて、面白いね」
「 あ、今、太陽の陽のほうで呼んだでしょ?」
「 わかるの?」
「 わかるよ、同じだったもん、今までと」
そう言われて、私は自分が陽子で彼女が葉子であることを意識してみることにした。
「 葉子ちゃんて、面白いね」
私の言葉に彼女は「 そうかな、陽子ちゃんこそ、面白いよ」と返した。不思議なことに、彼女が私のことを「 陽子」と呼んでいることが、わかった。それが、今までに味わったことのない、穏やかな感覚を呼び覚ました。
「 それじゃ、陽子ちゃん」
「 うん、またね、葉子ちゃん」
そうやって夏休みは始まり、私は「 陽子」になった。
さっそく宿題に「 陽子」と書いてみると、問題がすらすらと解けた気分になった。実際は、わからない問題はいつまでたってもわからないのだけど、そうやって考えていること自体が楽しい感覚になっていた。図書館に行って、「 陽子」の名前で本を借りると、どんな本でも、教養がつくような気がしたし、お盆に祖父母の家に行ったときは「 陽子です」と名乗って、ずいぶんと明るくなったねと言われた。サザエさんとのジャンケンには毎週勝つし、毎日のように買う「 ガリガリ君」は、三日に一回当たりを引く。って、それは関係ないか。でもそんなことさえ、「 陽子」だからなんじゃなかと思えてきた。
夏祭りがあると、私は、浴衣に着替えて出掛けた。浴衣ある? 母にそう聞いたとき、母は目を丸くした。浴衣でお祭りに行くなんて、本当に小さなときだけだった。小学校にあがり、中学二年生になった今の今まで、お祭りに行くことさえなかったのだ。母は嬉しそうに着付けをし、「 気をつけてね」と私を送り出した。あまり友達のいない私は、誰も誘うことなく、お祭りに向かった。葉子ちゃんが来ているかもしれない、それだけの理由だった。けれども、葉子ちゃんは来ていなくて、その代わり、密かに想いを寄せていた横倉くんを見つけた。
「 え? 迫田さん?」
横倉くんは私の名字を口にして、驚いた顔をした。私は、うん、とちいさくうなずいた。
「 迫田さんて、下の名前、なんて言うの?」
私は、一瞬迷ったあと、「陽子だよ」と、太陽を意識して言った。
「 あ、田中さんと同じなんだね」
やっぱり葉子ちゃん( 本当は陽子ちゃん)は名前を知られてるんだ。私が陽子を名乗るなんて、なんだかやっぱりおごましい。私はなぜか変な罪悪感を覚えた。そうして、「 ごめんなさい」とうつむいたまま言った。え? という横倉くんの声が聞こえた。ほんとは、ほんとはね……私は、くちびるを一度噛んでから顔を上げて、横倉くんを見た。
「 陽子じゃなくて、葉子なんだ」
横倉くんは一度首をかしげて、それから戻して言う。
「 うん、聞こえたよ」
「 えっと、だから太陽の陽子じゃなくて、葉っぱの葉子なんだ。私って、葉っぱみたいにちっぽけなの。陽子ちゃんみたいに、光じゃないの」
なんとかわかるように、言葉にしているとき、横倉くんは、ちいさく笑っていた。やっぱり私は、人に笑われるくらいなんだと、心がざわざわと揺らいだ。そんな私に横倉くんは、「 迫田さんって、面白いなぁ」と言う。「 面白くないよ」と私は、胸がぎゅっとなりながら口にする。
「 葉っぱが重なりあって、風に揺れるときの音とか、ひらひらと舞って落ちていくときの落ち方とか、笹舟になって流れていく様とか、そういうの、俺、好きなんだよね。だから、まったくもって、葉っぱはちっぽけじゃないよ。それに、その浴衣姿も、すごく似合ってる」
それじゃ、と言って横倉くんは行ってしまった。私は全身を真っ赤に染めながら、その場に立ち尽くして、横倉くんの背中をずっと追っていた。立ち尽くす私の肩に、ポンと手が置かれる。
「 やぁ、陽子ちゃん」
本当は陽子ちゃんの葉子ちゃんが、ニコッと笑っている。浴衣姿の彼女は、どこからどうみたって太陽みたいにキラキラとしている。私は、「 ねぇ」とつぶやく。それからゆっくり言葉を続けた。
「 陽子ちゃんは、やっぱり太陽みたいだよ。私の名前は、ちっぽけだったでしょ?」
「 葉子ちゃんの名前、わたし、好き。でも、横倉くんのほうが、葉子ちゃんの名前、好きそうだね」
私はたぶん、太陽と縁日のライトに照らされて、真っ赤をとうに通り越えている気がする。名前、もとに戻ったね。どちらからともなくそう言って、私は、葉子になっていた。
「 ところで、宿題はできた?」
陽子ちゃんがいたずらっぽく、聞いてくる。
「 私にしてはできたほうだよ」
私の返事も、いたずらっぽくした。
「 宿題の名前も、戻さないと」
「 うーん、どうしようかなぁ」
陽子ちゃんは私の浴衣の帯に手をかけて、「 よいではないか」とささやいた。こんなところであられもない姿にはなれない。「 おぬしも悪よのう」そう答える。陽子ちゃんは、何も悪くないというのに。
「 あっ」
ふざけあう途中でも、私の視界には、それが映りこんだ。ひらひらと近くの木の枝から、葉っぱが落ちる。横倉くんの好きな落ち方かなって、考えると、葉子という名前が愛しく思えた。
夏休みの教室に、一人の生徒がいた。彼女は窓を開けて、外を見ている。補習の授業があるわけではなく、部活に来たわけでもない。彼女が教室に来た訳は、私とたいして変わらない、そう思って、彼女に声をかけた。
「 こんにちは」
彼女は首だけ傾けて、それから「どうも」と返事をした。私も彼女の隣に行って、外を見た。
「 先生って、夏休みも学校に来るんだね」
外を見たまま彼女は私にそう言った。
「 そうだよ。来たくないけどね」
「 来たくないんだ?」
「 うん。だから少しあなたがうらやましい。って言ったら、教師失格かな」
彼女は一学期、一度も学校に来ていない。私もできれば学校に来たくない。いわゆる五月病というやつが長引いている。四月はわりと順調だった。けれど五月に入り、徐々に私の事務処理能力の低さがあらわになった。まだ生徒たちや保護者とのトラブルはないが、人為的なミスを頻繁に起こす私に、周りが迷惑を感じている。それがわかって、私は極度に落ち込んだ。
なんとか一学期を乗り切って、やっと学校の夏休みがやってきたと思ったけれど、教師の夏休みは生徒と同じではない。一日もはやく夏休みが来てほしい、私はそう指折り数えていた。
「 失格だね、それ」
「 そっか。だめだね」
「 ね、なんで教室にきたの? 別に用事ないんじゃない?」
図星だ。確かに教室に用事はない。だけどそれなら、彼女も同じだと思う。
「 職員室には友達がいないからね」
私はそんなふうに答えた。嘘じゃない、本当のことだ。
「 仕事って友達作る場所じゃないんじゃない?」
まったくその通りだと、私は大きくうなずいた。彼女は私よりも大人の考え方だ。立派だと思う。私はちっぽけだ。
「 先生、友達いないのかぁ」
いるよ、とは言えなかった。はっきり言って、友達と呼べる友達は、いたことがない。それは淋しいことだと、私ははっきりわかる。だから強がって「いないことはないけど」と口にしてしまう。どこまで情けないんだ、私は。
「 じゃぁ、あたし、友達になってあげようか」
「 え?」
「 あたしも友達いないし、ちょうどいいじゃん、あまりもの同士でさ」
私はびっくりして動作が止まってしまった。それから間のいいチャイムが鳴って、時計のほうに目をやった。チャイムが鳴り終えると、彼女はドアの方へ向かっていき、ガラガラと扉を開けて、そこで振り返って言った。
「 じゃぁ、あしたもまた来るから。あしたはメアド教えてね」
そう言って彼女は手を振った。私も反射的に振り返していた。
友達……
私は窓にもたれかかってしばらく、風に吹かれた。そうしていると、「先生!」と校門のあたりから声が聞こえた。彼女が大きく手を振っている。
「 気を付けて帰るんだよー!」
大きな声を出して、私も同じように手を振った。夏休みが過ぎて、二学期になって、私たちはどんなふうに変化するだろう。先のことはわからない。けれど、とりあえず、あしたは来てほしい。友達と会えるなら、私の五月病もいい加減治る気がするのだ。そうしたら、こんどはちゃんとスタートできる。そんな気がしていた。
そこに座りこんで、みんなと同じようにうつむき泣いているふりをしてみる。セイジ、モリちゃん、ナガノ、イシノ、よしくん、なつくん、ブンブン。そう呼び合った仲間がそうしているから。
野球部の最後の大会への気持ちは泣けるほどだったのだなと、ぼくは客観的に思う。ねぇ、タクローもそう思うよね? なんて思って、タクローのほうを見てみると、あれ、泣いている素振りなんてこれっぽっちも見せないいつものようにボケーっとしている。
ぼくは少し笑いそうになって、それをこらえようと、顔を伏せた。それが涙をこらえてるように見えたのか、顧問はぼくの背中をぽんぽんと叩いた。
ぼくはこの顧問が嫌いだ。ぼくが笑っていることすら見抜けない、おまえはこの状況に酔っているだけなんだ。胸糞悪い。そう思いながら隙間からタクローを見てみると、小さくにやりと口元が緩んでた。どうやらタクローにはばれているらしい。それがなんだかうれしいのだ。
「 三年間、がんばったな。今日までの努力は無駄にならない。先生は君たちを誇りに思う……」
そんな予定調和のような言葉を顧問はぼくらに捧げた。あぁ、こいつ酔ってるわ、やっぱり。くだらなくてまたタクローをみると、思い切り鼻をほじくっているのが見えて、また笑いそうになる。まったく、おまえってさ。いいよ。しめっぽい集会が終わり、ぼくはタクローと自転車をこいで帰った。ぼくはさっそくこらえていた笑いを開放する。
「 さっきさぁ、鼻ほじってたしょ? あれ、笑わせようとしてた?」
「 あたり」
そう言って、ぎゃははと笑いだした。
「 声が出ちゃうとこだったじゃんよー」
おかしくて自転車がよろけてる。
「 そしたら俺の勝ちだったんだけどなぁ」
タクローは悔しそうに空を見上げた。ぼくも同じようにして、少し静かになる。
「 みんなほんとに泣いてたのかなぁ。いや、でも真面目に練習してたし、やっぱりほんとに泣いてたんだろうなぁ」
ぼくは少し、それがうらやましいのだ。泣いてしまえるほどの想いがみんなにはあることが。ぼくは勝つことや負けることにあまり興味がなく、ただ楽しいと思えることがあればよかった。だからきっと、タクローとこうしているのだ。
「 どうかねぇ。でもスガちゃんて、けっこう"とりつかれてた"と思うけどね」
「【 とりつかれてた】って?」
「 なんだかんだでいちばん上手いし、楽しそうだったもん」
楽しそう? そりゃぁ、プレーするのは楽しいのだ。でも、そのための筋トレだとか戦術練習だとか、そんなものを楽しいと思うことはなかった。だから、もうそれをしなくていいと思うと、せいせいするくらいなのだ。
「 でもたぶん、とりつかれてはいないよ。これから先、とりつかれることってあるのかなぁ」
「 あるよ、女とかさぁ、恋愛とかさぁ、エロいこととかさぁ……」
「 全部一緒じゃん!」
タクローはファーストを守っているのに、ファーストゴロを取らない。すぐに一塁ベースに入ろうとする。だから仕方なくセカンドのぼくがファーストゴロを取る。そのたびぼくは、「 取れよ」と文句を言うのだけれど、「 いいじゃん、ゴロ取るの好きでしょ?」と笑う。仕方ないなぁと思いながら、そういうのが案外嫌いじゃない。ぼくらの関係はそんなふうなのだ。それに、とりつかれているのかもしれないと、ふと思う。
「 あー、彼女ほしい」
タクローは自転車のスピードをあげた。
「 俺も!」
そう雄たけびをあげながらぼくもスピードを上げて、タクローを追い抜いた。この先どれくらいのことにとりつかれるのかわからない。もしかしたら、とりつかれないのかもという不安もある。だからいま、こうしているのだ。そう思うと、たまらなく胸が高鳴った。
教室のドアを開けると、浦まゆみがいた。浦まゆみは、俺の方に目をやり、「 清水も、宿題しにきたの?」と言った。明日から二学期がはじまる。つまり今日が、夏休み最後の日、というわけだ。
毎年のように宿題をためこんでは、前日に教室で全部片付けてしまう、というのが、俺の流儀なのだ。貸切状態の教室で、思う存分、宿題に取り組む。その空間を自分が支配している、という優越感が好きだったのに、今年はそうはいかないみたいだ。
「 浦も?」
「 うん。教室の方が集中できる気がして」
そんな浦まゆみの机には、手のひらサイズの扇風機が回っている。集中はできるものの、クーラーのない教室は、いくら窓を全開にしても暑いのだ。扇風機とは、考えたものだ。そう思いながら、席に座る。俺は、水を凍らせてきたペットボトルにタオルを巻いて、それを首や額に押し付けて涼を取った。
「 それ、冷たそうだね」
浦まゆみは興味深そうに、俺の方を向いた。
「 あぁ、これ? 部活とかでよくやるでしょ」
「 清水って、運動部だったっけ?」
「 いや、写真部だよ。部員、俺一人だけど」
「 一人? すごいね、孤高な感じがする」
孤高と孤独は紙一重だよ、自虐的にそう言うと、浦まゆみは愛想笑いを浮かべて、それから、宿題に戻った。俺も、宿題を始めた。集中して問題を解き続けていると、やがて、チャイムが鳴った。
チャイムが鳴り終わると、申し合わせたかのように、ふたりとも、ふーっと息を吐いた。浦まゆみは、すべての宿題が終わったらしく、机の上は、扇風機だけになった。
「 終わった?」
俺がそう聞くと、浦まゆみは声を出さずに、体だけを大きく[くの字]に曲げた。顔がずいぶんと赤い。
「 浦、だいじょうぶ?」
俺はペットボトルに巻いたタオルを、浦まゆみに差し出した。
「 ありがとう」
し息が上がっている気がする。
「 保健室、行く? あ、保健の先生いたっけな」
俺の心配をヨソに、浦まゆみは「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返した。
「 清水の名前って、何だっけ?」
タオルを額に当てながら、浦まゆみは、そう聞いた。
「 名前? 涼だけど」
「 清水涼。めっちゃ涼しい名前なんだねぇ。そう思ったら、なんか涼しくなってきたよ」
と、よくわからないことを返されて、やっぱり、保健室に連れていった方がいいんじゃないかと、俺はますます心配になってしまった。浦まゆみは、尚も続けた。
「 清水、私の写真、撮ってくれない?」
「 どういうこと?」
「 だって、写真部なんでしょ? いいじゃん」
写真部とは言っても名ばかりで、三年生になり、部員が俺だけになったところで、ほとんど活動はなくなってしまった。だから、写真の腕なんてないんだよ、と言ってみても、浦まゆみは聞かなかった。
俺は仕方なく、携帯電話を取り出して、「 はい、チーズ」と適当にボタンを押した。浦まゆみは不満げに「 携帯じゃなくて、カメラで撮ってよ」と文句を言った。部室にあるんでしょ、取ってきてよ、と付け加える。たった一人の部員のための部室なんてないけれど、カメラなら、顧問が持っている。それが理科室にあるロッカーの中に保管されているのを、俺は知っていた( たぶん、部員である俺しかしらない)。渋々、「 わかった」という俺の顔を、浦まゆみは、自分の携帯電話で撮った。あとで送るからと、赤外線通信でアドレスを交換して、俺は理科室へと向かった。
ひょんなことから浦まゆみのアドレスを手に入れて、俺は、正直、舞い上がった。浦まゆみが好きだったというわけではない。女子のアドレスを初めて手に入れたことが、うれしかったのだ。そう思っていたのだけれど、理科室に向かう途中、空にまっすぐ長く伸びる大きな飛行機雲を見つけて、思った。これを浦まゆみに見せてあげたい。そう思うと、俺の顔は、さっきの浦まゆみのように赤くなったのがわかった。もしかして、俺は浦まゆみを好きになったのではないか。そして、浦まゆみは俺を好きなのではないか。感情の高ぶりを感じながら、窓から顔を出し、携帯電話を空に掲げた。
シャッター音が鳴る。それと同時に、俺は手をすべらせた。携帯電話が地上に落ちていく。それが地上に着く前に、俺は、廊下を猛ダッシュした。1秒あるかないかというあいだに、鈍い音が聞こえた。壊れたか! あれには、浦まゆみのアドレスと、ピースサインの笑顔が入っているというのに! もうこれ以上のスピードは出ない、というほどの早さで階段を駆け下りた。携帯電話の落ちた場所にたどり着いたとき、息はこれでもかっていうほど、弾んでいた。
深呼吸をして息を整え、携帯電話を拾い上げる。携帯電話の画面は真っ黒だ。どのボタンを押しても反応はしなかった。絶望感に包まれながら、両ヒザをガクっと地面に落としたとき、救急車のサイレン音が、耳をつんざいた。それは学校に向かっていると、わかった。
「 清水!」
そう呼ばれて、振り向くと、担任の小林先生がいた。俺の視界は先生の何十メートルか後ろの景色を捉える。浦まゆみが、担架に乗せられて、救急車の中に入っていったのが見えた。
「 浦ぁぁぁぁ!」
救急車に向かって走り出した俺を、小林先生は制止した。
「 落ち着け、清水! 大丈夫だから!」
「 何があったんですか! 俺も乗せてください!」
「 いいから、落ち着け。浦は持病があってな、それがちょっと悪化したらしい。明日、学校で報告するから、今日は家に帰れ。絶対大丈夫だから」
諭すようなその言い方に、俺は少し落ち着いたが、それはただ、救急車が行ってしまった、という虚無感だったんじゃないかと思う。俺は、またヒザを地面につけた。空にまっすぐ長く続く飛行機雲の線が、少しずつ、空の中に消えていった。
2
「 そろそろスマートフォンにしようと思うんだけど。だから、よかったら結婚しようよ」
唐突に彼女にプロポーズされた。何の前触れもなく、だ。
「 どうしてスマートフォンにしようと思うのと、結婚が結び付くの?」
俺は頭の中を整理しようと、冷静にそう返事をした。
「 だって、家族割とかあるし、何かとお得なんだよ」
そうか、とつぶやきながら、今は使っていない携帯電話に手を伸ばす。飛行機雲を撮りたくて、窓から手を伸ばし、すべらせて落としてしまった携帯電話だ。すぐに修理に出して、無事に戻ってくると、真っ先に電源ボタンを押した。黒い画面は起動して明るくなり、それからすぐメールが届いた。日付は、夏休み最後の日だった。送信者は、浦まゆみ。すごい! と書かれた件名と、写真が添付されていた。本文は、短い。〈 ここから、よく見えるよ。〉浦まゆみの撮った飛行機雲は、僕が撮ろうとしていたものより、はるかに綺麗に撮れていた。
「 まだ、そのオンボロ持ってるの?」
彼女が、俺の肩越しから顔を出して、その写真を覗きこむ。浦まゆみは、あのとき、一命をとりとめた。この携帯電話が、壊れることなく、まだ電源が入るように、浦まゆみの人生も、まだ続いている。そして、浦まゆみは「 何かとお得だから」と、俺に求婚までしているのだ。彼女は、一命をとりとめてから、何かと「お得」に弱い。曰く「 生きてるだけで、お得なんだもん」だそうだ。
「 俺はこのとき、君を守る人生を決めたんだよ。知らなかったでしょ?」
彼女は俺の首に腕をからませながら、こらえきれないように小さく笑って、「 知ってたよ」と、言った。
「 え?」
と戸惑う俺を、振り払うように、彼女は窓の外を指差した。俺も彼女も「 すごい!」と声をあげた。青い空にまっすぐに伸びる飛行機雲が、ふたりの未来を示しているような気がした。
「 とにかくさぁ、何かしたいんだよ、こーさぁ、気持ちがパーって晴れるような、でかいこと」
ホウキをギターにしながら、モトヤスが言った。今は掃除の時間で、僕らは音楽室にいる。転校初日の前川さんが、所在なさげに佇んでいるのを気にしながら、ぼくはモトヤスの話の方に、集中した。
「 でかいことって、どんなことさ?」
ぼくが、そう聞くと、モトヤスは、上下する黒板の五線譜に、ト音記号書いた。
「 日常が、この小さなト音記号だとする」
「 うん」
「 そして、こうやって、休んだり、とび跳ねたり、ダラーっとしたりして、毎日は過ぎていくわけだ」
モトヤスは、休符の記号を書いて「 休んだり」と言い、スタッカートを書いて「 とび跳ねたり」と言い、スラーを書いて「 ダラーっとしたり」と言った。スラーの「 ダラーっと」は少し違うんじゃないかと思ったけれど、それを言うのはやめた。今、モトヤスはノっている。ぼくはそれを察知した。モトヤスは続ける。
「 簡単に言うと、休み時間、体育、放課後。そんな流れだな」
「 なるほど、わかる」
「 こんな退屈なことって、あるか? こんなちっぽけな日常は、俺は望んでないんだよ」
「 で、どうするわけ?」
モトヤスは、五線譜の上に書いたト音記号たちを、手のひらで消し去った。それから、黒板を上下させ、五線譜のない黒板に十六ビートの上の部分を書きだした。下の部分が足りなくて、また黒板を上下させる。こんどは五線譜の黒板に、五線譜を無視して目一杯に、十六ビートの下の部分を書いた。そうして、「 見ろ!」と大きな声をあげた。「 俺たちは、この十六ビートくらいのでかさで、毎日を生きてやるんだ」
そのでかでかとした十六ビートを見て、ぼくは、この世界がまるで自分のものになったかのような、高揚感を感じていた。
「 いいな! これだよな! これくらいのでかさで生きたいよな!」
ぼくとモトヤスはハイタッチをして、「 イエーイ」と声をあげた。
「 だけど、きっとおとなになったら4ビートくらいで生きると思う……」
はしゃぐ僕らの横で、ぼそっと声があがる。前川さんだ。そうだった、前川さんはずっと所在なさげにそこにいたんだ。
「 4ビートって言ったら、バラードだぜ? そんな辛気臭いの、俺はお断りだな」
モトヤスが言う。すると、前川さんは、黒板の五線譜に4ビートを、1……2……3……4……とリズムを刻みながら書いた。
「 バラードじゃないと、女の子は抱けないよ?」
ぼくとモトヤスは、顔を見合わせて、動作が止まる。
「 だ、抱けないって……?」
ぼくはドギマギしながら、前川さんに聞いた。
「 バラードじゃないと、抱いてほしいと思わないもの」
「 前川さんて……抱かれたことあるの……?」
つばを飲み込む音をたてた後、モトヤスが聞いた。
「 ……そういうものなの」
そう前川さんが答えたとき、音楽室に先生が入ってきた。先生は前川さんに用があったらしく「 ちょっといい?」と、前川さんを音楽室から連れだした。その際に「 黒板消しなさい」と先生は言った。
ぼくとモトヤスは、何秒か時が止まってから、我に返って声を出した。
「 やっぱり、バラードだな」
モトヤスの言葉にぼくはうなずく。
「 あぁ、抱きたいもんな」
黒板の十六ビートを消している途中で、手が止まる。前川さんの書いた4ビートがゆっくりとリズムを刻む。ぼくもいつか4ビートを刻みながら、女の子を抱く日が来るのだろうか。そう考えると、体中に血が巡っているのがわかった。前川さんは、魔性の女か。日常は、退屈で、楽しいのだ。大人はきっとそうなのだ。女の子を抱く日も、もうすぐだ。たぶん、モトヤスもそう思っているに違いない。モトヤスがホウキで床を掃く音で、それがわかった。そのリズムも4ビートだったからだ。
”むしょうにアジフライ ”
自転車をこぐリズムが、その言葉とうまく合う。ただそれだけの理由で、何万回とそれを心で唱えた。 ”何万回 ”は言い過ぎだろうか。何千回に修正しておこう。とにかくそれくらい唱えていたということだ。
ぼくのクラス( 一年四組)では、毎朝、その日の日直がみんなの前で「 一分間の話」をしなくてはならない。別に「 深くてイイ話」や「 トリビア」でなくてもいいのだが、ぼくらの机には、「 深イイレバー」と「 へぇボタン」が用意されている。わざわざ担任がぼくらの人数分注文してそろえたそうだ。どんな話でもいいというのだが、そのレバーやボタンがあるゆえに、ぼくらはやけに「 深くてイイ話」や「 人生には必要のないムダ知識」を話したくなった。
たとえば、昨日の田中さんの話には、みんな感動した。田中さんには、パン屋で働くお姉さんがいるのだが、そのパン屋さんで、よく話をするようになった男性がいるという。その男性は仕事柄、出張が多いのだそうだ。出張から帰ると、いつも決まって「 四葉のクローバー」を渡してくれるのだという。男性には妹がいた。その妹は十万人に一人という割合の病気にかかっていた。男性は妹に四葉のクローバーをあげる約束をしていた。でも、その約束を果たせないまま、妹は死んでしまったのだ。その妹に、田中さんのお姉さんはそっくりだったという。男性は、罪滅ぼしのためか、お姉さんに四葉のクローバーを探して、あげ続けたのだ。四葉のクローバーが自然界に存在する確率は十万分の一。それを探し続けて、あげ続けた彼に、お姉さんはプロポーズした。
という、ロマンチックな話だった。みんなはそれに感動で、「 深イイレバー」も「 へぇボタン」も押すことができず、やがて、拍手が巻きおこった。ぼくももちろん感動して、スタンディングオベーションをしたくらいだ。そんな話の次の日に、「 むしょうにアジフライ」だ。ぼくの話は田中さんの話とは違った意味で、フリーズされてしまった。
「 心で唱えたアジフライの数だけ、アジと玉子のとむらいを、しなきゃなぁと思ったりで」
そう付け加えて、話を終わらすと、田中さんがひとり「 へぇボタン」を押した。その間が絶妙におかしな空気を生んで、教室は爆笑に包まれた。ぼくは、少し、ほっとして、頭を掻きながら席に座った。
帰り道、公園のブランコに田中さんが座っているのを見かけた。ぼくは引き寄せられるように自転車を降り、近づいて、隣のブランコに座った。
「 間違えちゃった」
ぼくに気づいた、田中さんはそう言った。
「 間違えたって?」
「 ほんとは、 [深イイ] にしたかったんだけど」
どうやら、今朝の話のようだ。
「 あぁ、でもあのおかげでなんかウケたし、よかったよ」
「 うん、でも、ほんとにいい話だと思ったんだよ」
"むしょうにアジフライ" のどこにそんな要素があったのかわからず、ぼくは困ってしまって、今朝の言葉を唱えた。
「 むしょうにアジフライ」
続けて田中さんは言った。
「 アジと玉子のとむらいを」
そう言った田中さんのほほをなでる髪に見とれてることに気がついて、ふっと目を逸らした。逸らして戻した視線の先、ブランコの真下で目が合ったのは、四葉のクローバーだった。ぼくはそれを摘み取って、彼女に渡した。
「 え?」
「 じゃぁ」
ぼくは恥ずかしくなって、その場を離れた。自転車にまたがり漕ぎ出すと、プカプカプー、プカプカプー。こんどはそんなふうに唱えていた。プカプカプー、プカプカプー。
「 いっしょに帰ろう?」
田中さんが追いかけてきて、声をかける。
「 プカプカプーだ」
と、ぼくは答える。
「 え?」
「 なんでもない」
「 気になる」
君が好きだと言えないぼくの、代わりの言葉、プカプカプー。この気持ちのとむらいは、まだできそうにないと、ぼくは思う。
プカプカプー、プカプカプー。
「 だいたい女なんてさ、自分の幸せしか考えてないんだから」
十五才になったばかりの依田サキオは、淡々とした口調で言う。
「 自分の幸せねぇ」
大学生のぼくは彼の家庭教師だが、正直、彼に教える勉強は皆無だ。簡単に言うとサキオは優等生で、だからといって、難関の学校を受けるわけでもない。ぼくがいる意味はわからないが、そうしていることで、サキオの父親は安心しているのだそうだ。ぼくは家庭教師らしいこともせずにバイト代がごっそり入る。なんだか申し訳ない気分に少しはなる。
「 そう思わない? 先生の彼女もそうでしょ? ていうか、彼女いたっけ?」
だから、話し相手にはなろうと思っている。
「 あぁ、いるけど」
「 いるんだ。あ、でも先生の彼女なら、自分の幸せ以外のことも考えてるかもな」
サキオはそういってニヤついた。サキオの頭の中は、だいたいわかる。
「 俺の将来が大したことなさそうなのに、それを好きな彼女は、自分の幸せを考えてるようには見えない。 とか、そんなこと言いたいんだろ?」
「 あ、正解。さすが先生、頭いい」
「 サキオは、女にトラウマでもあるのか?」
ぼくはなるべくひとりごとのような気持ちでつぶやいた。サキオがなにかを抱えてるとしたら、ぼくにはそれをどうにかできる力はないと思うからだ。サキオはぼくの質問とはまるで関係のないことを言った。
「 たまに、海に行きたくなる」
ぼくはそれに答える。
「 海か。俺もいきてぇなー。行くか?」
サキオはニヤついた。また何かたくらんでる。
「 男ふたりで行ってもつまらない」
「 クラスの女の子でも誘えば?」
「 先生の彼女も行くならいいよ」
そういうわけで、ぼくと彼女とサキオは海にきた。正直、彼女は断るだろうと思っていて、サキオにも、「 やっぱり無理だ」という台詞を用意していた。そして、「 やっぱり女は自分の幸せしか考えてないんだよ」とサキオに言われ、「 そうかもな」という返事をするというのがぼくのシナリオだった。それが彼女は二つ返事で「 いいよ」と返したものだから、ぼくはこの先の展開がまったく読めなくなってしまった。それから、もうひとつの誤算が、彼女とサキオはやけにフィーリングが合うということだ。「里絵子さん」と呼ぶサキオの口ぶりは、初対面とは思えない。もはや、ぼくと彼女との会話より、確実に彼女とサキオのほうが弾んでいる。傍からみたら、ぼくが余り物だ。ぼくは十五才相手に嫉妬していることに気がつき、ひとり、波打ち際に立ち、水平線の向こうを見つめた。
「 先生、黄昏てんの」
サキオが近づいて、ぼくに言った。
「 あー、そうだよ。やっぱり女は自分の幸せしか考えてないんだな」
と、ぼくは吐き捨てるように言っていた。
「 妬いてんの。 大人げないなぁ」
サキオの余裕な口調が気に入らない。あぁ、そうだ、ぼくは大人げないのだ。
「 俺さぁ」
サキオがぼそっと言葉を吐いて、続けた。
「 母さんは男作って出ていくし、父さんは、よくわかんない女にだまされるし、そういうの見てたら、女っていうか、大人って、自分のことしか考えてないんだなって思うようになってしまってさ」
ぼくは「 そうか」と一言だけ返す。
「 だから、あんまり大人になりたくないし、人を好きになりたくないと思った」
ぼくはなにも答えずに、水平線を見ていた。それから仰向けになって、打ち寄せる波にたゆった。服はびしょ濡れだ。だけど、心地いい。サキオは驚いた顔をしている。それから、「 それ、気持ちいいの?」と聞いた。
「 キスくらい気持ちいい」
と、ぼくが笑ってみると、「まじで?」とサキオも仰向けになって波にたゆった。
「 こんなに気持ちいいんだ、キスは」
「 あぁ、だから人を好きになれよ」
どんな理論かわからないけど、ぼくはそんなことを口走っていた。
「 それって、愛?」
「 さぁ」
「 里絵子さん、先生のこと好きらしいよ」
「 それは、愛だな」
そんなことを言っているぼくらのもとに、遠目から見ていた彼女がやってきた。そしてなにも言わず、同じように仰向けになって、波にたゆった。
「 先生、これが愛じゃない?」
「 これは、完璧な愛だな」
と、ぼくとサキオは笑った。
「 何が愛なの?」
彼女に聞かれたとき、ここがベッドの上なら、そのまま覆い被さってしまうだろうとぼくは思った。だけど、ここは海。我慢して、空を見上げた。愛が伝わりますようにと。
一ヶ月前にぼくは、自殺を計った。どうやら余命が長くないことを知り、それなら自ら命を絶とうと考えたのだ。それが健全な考え方かはわからない。でも、もともと世の中との相性が悪いと思っていたぼくは、そうすることを、ためらわなかった。けれど、それは失敗に終わってしまった。その後の人生を考えてなかったぼくは、拍子抜けしたけれど、余命は変わらないんだと、ただ死を待つことにした。
自殺のことがあって、学校へは行く気にならなくなった。けれど今の状態では、入院生活にはならないようだ。検査と薬を服用しながら、ただ家で安静にしていた。しばらくそうしていると、ひどく退屈になり、散歩に出るようになった。初めは心配していた家族も、夕方にはちゃんと家には帰ってくるのがわかると、とくに何も言わずにそれを受け入れるようになった。また自殺をするつもりなど、今のぼくにはない。自殺するにもパワーがいるのだ。奇しくも失敗により、それをぼくは学んだ。そのパワーが今はない。
行く場所は決まっている。川沿いにある、古いデパートの屋上だ。屋上には、テニススクールがあって、その横のスペースはパターゴルフコースや、子供用の乗り物、ゲームセンターなどが並んでいる。ぼくは、それらに用はない。ぼくが向かうのは、電圧系統の熱を発した円い建物の、その裏側。( 電圧系統かどうかは、わからないけど、そういう感じの建物)「 関係者以外立ち入り禁止」とは書いていないが、わざわざそこに入っていく一般客はいないようなスペースだ。そこに、ぽつりとベンチが置いてある。ぼくはそこに座り、鞄からマジックペンを取りだす。そうして、ベンチの隅に、詩を書く。ぼくの詩ではない。とある歌の歌詞だ。ここへ来るたびに、一行ずつ書き加えていく。それが、ぼくの密かな楽しみなのだ。
その日も、続きを書こうとしたとき、ふと違和感が目に飛び込んできた。今日は四行目を書こうと思っていたのに、四行目はすでに書かれている。そしてそれは、ぼくの字ではない。誰かが、この続きを書いたのだ。誰なんだろう。ぼく以外にも、ここを自分の居場所にしているやつがいるのだろうか。そう思いながら、ぼくは五行目の歌詞を書いた。そうして、川の流れる町を見降ろして風に吹かれたあと、ぼくはその場所を後にした。ここですることは、それだけだ。まるで時間が永遠に感じられる。心臓が止まっても、ここなら安らげる、そんな気がしている。そんな時間は、ぼくにとっては大切な時間なのだった。
その次に、そこへ行ったとき、また、次の行が書きくわえられていた。その文字は、前に書かれた文字と少し違う。違う人なのか。そう思いながら、ぼくは次の行を付け足した。その次に行ったときにもまた、次の行が書きくわえられていた。また同じように、前とは違う文字の形をしている。それは明らかに女子の文字だとわかった。ここは、意外と知られている場所なのかもしれない。次の行を書く。今度はどんな文字の人が、次の行を書くだろう。ぼくはそうやって、少しずつわくわくするようになっていった。それが、あと一行になったとき、急に胸が締め付けられるように痛くなった。それは、病気の痛みではないと、ぼくはすぐにわかった。体が痛いのではない。心がぎゅっとなっているのだ。こんどの一行を書きくわえたら、その歌詞は完成してしまう。そうしたら、もう書くことはなくなってしまうのだ。すなわち、それはぼく自身がなくなってしまうのと同じだ。そんなふうなことを思ったのだ。そう思うと、また命を断とうかという考えが浮かんできた。あの場所から落ちれば、今度はちゃんと死ねるだろう。幸いなことに、あの場所の下の通りは、人通りがほとんどない。きっと誰かにぶつかったりして、迷惑もかけないだろう。ぼくは、そんな想いを抱きながら、いつもの場所へと向かった。
空から、雨が落ちてきた。と、思ったけれど、落ちていたのは、ぼくの涙だと気が付いた。ポタポタとそれを垂らしながら、テニススクールとパターゴルフのコースをすりぬける。
「 おかあさん、これ、乗りたい!」
子供が駄々をこねている。ハンドルのついたパンダの乗り物だ。昔はよく乗ったっけ。ポタポタ、涙は枯れることがない。そうしてぼくは、最後の一行を書くために、ベンチの方へ、足を踏み入れた。すると、その狭いスペースに、何十人と男女が、窮屈そうに立っていた。
「 え? えっと……」
顔をあげて、涙を拭きながらぼくが言うと、一人の男子が「やぁ」と手を上げた。
「 里崎ぃ~ 調子いいなら、学校こいよ」
ぼくの名字を口にしたのは、横山君だ。彼は、クラスメイトだ。
「 そうだよ、もうすぐ文化祭だよ」
隣の席の、南さんが、言葉を付け足す。みんなクラスメイトだ。みんなして一体、なんだというのか。ぼくは混乱して「 えっと……」とばかり繰り返した。
「 たまたま、里崎がここにいるの、学校サボったとき、見かけたんだよ。でも、なんか声かけづらくてさ。里崎が帰ったあと、ここに歌詞が書いてるの見つけてさ。続き書いてみた。みんなで、それ、一行ずつ書いてたんだよ」
横山君がそう言った。
「 それじゃぁ、みんな、一回ずつ学校サボったの?」
ぼくがそう聞くと、みんなはニヤニヤしながら、うんうんとうなずいた。
「 体、平気そうなら、くればいいじゃん」
「 机、余ってるの嫌だし」
「 やっぱ、全員いないと、五組じゃないっしょ」
みんなは口々に言った。けれど、ぼくの存在はクラスにとって必要だったとは思えない。友達という友達も、はっきり言っていないのだ。ぼくはなんと言っていいかわからなかった。
「 いやぁ、俺らも、よくわかんねぇんだよ」
横山君はよくしゃべる。きっと世の中とうまくやっていけるタイプだ。ぼくは彼をうらやましく思う。
「 わかんねぇけど、里崎が自殺しようとしたっていうのあってから、俺ら、たぶん変わっちゃったんだ。考えるようになった。それは、誰かに強制されたりすることじゃなくて、本当に自然にさ。それで、これが、俺らの答え。そういうことなんだよ」
どういうことなのか、はっきりとしたことはわからなかった。けれど、彼らが変わってしまったように、ぼくも、いま、変わってしまったことがわかった。自殺なんてしない。そう、決めた。南さんが、何かをぼくに差し出した。それがマジックペンだとわかった。
「 最後の一行、書いてよ」
ぼくはペンを受け取り、そうして、ゆっくりと、歌詞を書き入れた。その瞬間、みんなはその歌を歌いだした。その歌は、一日の終わりに、みんなで歌おうと決めた歌。担任が青春時代に流行った歌だと言っていた。その時代に生まれていないぼくらには、それを歌うのが新鮮に思えた。
ぼくの命はあとどれだけ動いてくれるのかわからない。それでも、今、ぼくは歌っている。それが、すべてだ。屋上に柔らかな風が吹く。
「 きみたち、何してるのかな」
警備員らしき人に声をかけられる。ぼくらは一斉に走り出す。何も悪いことしていないはずなのに。ん? したのか?
「 おい、こら! 待て!」
ぼくの命はまだ、動いている。
本屋で、探していた漫画に手を伸ばしたとき、ちょうど同じ本を取ろうとした人と、手がぶつかった。ベタなドラマのような展開に、倉持優輝は少しドキッとした。
「 あれ、倉持くん」
残念だ。自分自身に残念だ。田辺望( クラスメイト、男)にドキッとするとは、不覚だ。優輝はそう落胆したが、色白で、細い腕をしている田辺を、女に間違えても仕方ない、と、そんな言い訳をして、自分を納得させていた。
「 よぉ、田辺。奇遇だなー」
優輝が気を取り直して返事をすると、田辺は興味ありげに、聞いた。
「 それ、好きなの?」
田辺は優輝が取ろうとした漫画を指差している。
「 あぁ、たまたま親父の部屋にあったのを昨日読んだんだけど、一巻がなくて、探してるんだよ」
なぜかその漫画は、優輝の父親の部屋にも、本屋にも一巻だけが置いていなかった。優輝は二巻からでも話が面白くて読み通してしまったのだけど、どうしても一巻が気になっている。
「 一巻なら、うちにあるよ、貸そうか」
田辺はあっさりと、そう言った。
「 え、マジ? おー、ぜひ貸してくれ」
優輝が喜んでいる隣で、田辺はまたあっさりと、言った。
「 ぼくさ、この本棚にある漫画くらいなら、一巻だけ全部持ってるよ」
"この本棚"にある漫画は、ゆうに五十作品はある。その一巻だけを持っているのか。二巻以降は読まないのか。なんだこいつは。優輝は首をかしげた。
「 一巻だけ持ってても、つまんなくねぇ?」
素朴な疑問を田辺にぶつける。
「 漫画、そんなに好きじゃないからね」
と、淡々と言葉にしたあと、田辺は「でも」と悦に入った表情で話した。
「 1が並んだ本棚って、美しいんだよね。わからないかなぁ、ほら、こうやってさ……」
田辺はおもむろに、本棚にある漫画の一巻だけを、ひとつの場所にまとめて見せた。たしかに「 1」がならぶその光景は、不思議ときれいだなと、優輝は感じた。けれど、「 2」や「 3」じゃだめなのか、そう思って、優輝は「 2」を並べてみた。
「 2じゃ、だめだよ、倉持くん」
「 なんで、1がいいんだ?」
優輝がそう聞いた矢先、不審な行動を見かねた店員が、ふたりに近づいてきた。
「 きみたち、ちょっと」
「 ちょっとって、なにか?」
優輝がそう聞くと、店員は「 ちょっと来てもらえるかな」と、田辺の手を取った。その瞬間、優輝は店員の顔の後ろ方に視線をやり、指をさして「 あっ!」と声をあげた。店員が後ろを振り向き、田辺の手を離した瞬間、「 田辺! 走れ!」と声を出し、ふたりは猛ダッシュした。店員はふいをつかれたが、ふたりのあとを追いかけた。店を出ても猛ダッシュは続いた。自分史上最高のダッシュだ。その感覚に、いつしかふたりは酔いしれ、ただ、走り続けた。どれくらい走ったかわからない。「 待て!」と聞こえていた声がいつのまにか、消えていることに気がついた田辺が、優輝に声をかけた。
「 ねぇ、もういいんじゃない?」
息が上がっている。
「 あぁ、そうだな」
優輝もぜーぜーと息を吐き出している。スピードをゆるめ、ジョックになっていく足を、徐々に落ち着かせる。そうしてふたりとも同じタイミングで立ち止まると、田辺が腰に手を当てながら、言った。
「 逃げたみたいになってたけど、ぼくたち別に悪いことしてないよね?」
「 そうかもな」
優輝も腰に手を当てている。
「 そうかもって、じゃぁなんで逃げたの」
「 なんか、はじまる予感がしたからさ……あ、それでさ、なんで「2」じゃだめなんだよ?」
優輝は急にそれを思い出して、聞いてみた。田辺は、ちいさく笑ってつぶやいた。
「 いま、言ってたことだよ」
「 え?」
「 はじまるからさ。1は、はじまりだから。だから、美しいんだよ」
田辺が満足そうにそういうのをみて、優輝はまた首をかしげた。そうしてから、笑った。あの本屋には、もう行けないなと、思いながら。
放課後の校庭は、運動部の掛け声で、ごった返している。その真ん中、ちょうど、野球部とサッカー部が陣地を分け合う境目。中島空は、トランペットを持って、立っている。中島空は吹奏楽部だ。吹奏楽部の活動場所は、校庭ではない。音楽室からは、管楽器の音が聞こえる。なのに、中島空は、校庭だ。図書委員のぼくは、図書室のベランダから、それを不思議に眺めていた。
中島空が、深呼吸の仕草をしているところに、時折、野球やサッカーのボールが飛んでいく。けれど、中島空は慌てるそぶりを見せない。ボールは彼女の周辺を通り過ぎていく。まるで彼女のまわりだけ、吸い寄せられない何かがあるかのように。
普段の中島空は、人を吸い寄せる力がある。特に目立つことをしていないのに、休み時間にはいつも誰かしらに声をかけられている。僕も昨日は、どうしても思い出せなかった洋楽の曲の話を、中島空に聞いてみたりした。中島空は「 あぁ、それね」と淡々と答えを教えてくれた。それだけなのに、その話をしているときには次々と人が入れ替わり立ち替わり、中島空の周辺に集まった。
僕が中島空を気になりだしたのは、廊下ですれ違ったときのことだ。僕はそのとき、大量のプリントを抱えて教室に向かうところだった。すれ違った中島空は本当に自然な言い方で「 半分持つよ」と僕に声をかけたのだ。女の子に重いものを持たせるのはよくない、そんな入れ知恵が僕の脳裏にはあった。けれどその、あまりにも自然な言葉に僕は「 あぁ、ありがとう」と言葉を返してしまっていた。中島空は「 いいえ、とんでもないです」と返事をした。それから、中島空は、つぶやいた。
「 私、空になりたいんだよね」
それは独り言のようだったので、僕は聞こえないふりをしてやり過ごした。それ以来、中島空のことが気になっている。けれど、僕は恋をしたことがあるので、断言できる。これは恋ではない。恋ではないけれど、あたたかい。中島空にある、人を吸い込む力は、そういうもののような気がした。
そんな彼女が、校庭の真ん中にいる。誰も寄せ付けないような気配を漂わせながら。僕は何故かそれを見ながら、涙をこぼしていた。
「 すみません、貸出ししてほしいんですけどー」
図書室から、僕を呼ぶ声が聞こえた。僕は指で涙をぬぐって、ベランダから図書室に戻り、貸出カウンターの席に着いた。
「 なにかあったんですか?」
黄色のラインの入ったジャージをその子は着ている。それは二年生であることを示す色だ。下級生のその子は「 恋よりあたたかいもの」というタイトルの小説を借りた。貸出カードを確認する。そこに記入した彼女の名前は「 片岡海」。その少し下に「 中島空」の名前があった。
「 いや、なにもないけど。あのさぁ……君は恋よりあたたかいものは、知ってる?」
片岡海は、一瞬困惑の表情を浮かべたあと、何かを思い出すように目線をななめ上に向けた。そうしてから、小説のほうに目をやって、答えた。
「 これに書いてあるかもしれないので、読んでみます」
僕は「なるほど」とうなずいた。そのとき、校庭から、管楽器の大きな音が聞こえてきた。きっと中島空が鳴らした、トランペットだ。僕はカウンターを飛び出して、またベランダのほうに向かった。
「 それ、先輩にとって、恋よりあたたかいものですか?」
片岡海は人差し指を校庭のほうに向けて、言った。僕は「どうなんだろうね」と首をかしげる。ベランダに出ると、中島空が、校庭の真ん中でトランペットを吹いていた。空を向くトランペット。その音色は、少し悲しげに聞こえる。なぜか胸がざわざわと波立ってくる。やっぱり、いつもの中島空じゃない。
ぼくは図書室の方に体を戻す。片岡海は、図書室の椅子に座り、小説を読み始めていた。響き続ける、中島空のトランペット。彼女に「恋よりあたたかいもの」を届けてあげたい。僕は、その気持ちに従うように、中島空の元へと、走り出した。
キタジアキコとぼくは、中学三年間だけの付き合いだった。恋人としての付き合いではなく、たまたまクラスがずっと同じだったということだ。だけど、三年間ずっと、ふたりでクラス委員を務めてきたのは、たまたまと言えるのだろうか。その事実を、クラス替えで知り合った仲間は、意外と知らない。ぼくとキタジは、いつも立候補するわけではなく、半ば強制的に推薦されてしまうのだ。誰かがぼくを推薦すると「 じゃぁ、副委員はキタジだな」と声があがり、キタジが推薦されると、その反対になるのだった。キタジは少し男勝りな部分もあったけれど、そういうことを面倒に思う性格じゃないようで、すんなりと受け入れる。ぼくはどちらかというと争い事が面倒なので、はいはい、と、受け入れる。それを見抜かれていたのかなと、今となっては思う。
そんなことを、二十年も経ってから思い出したのは、二十年前に、キタジに借りていたCDが、なぜか車の座席シートの下から出てきたからだ。
「 何のCD?」
五才になったばかりの娘が、ぼくに聞いた。今日は動物園に行く予定で、車に乗り込んだのだ。
「 思い出のCDだよ」
そのCDは秋の文化祭の一週間前に、借りたはずだ。そのさらに一週間前に男友達とカラオケに行ったとき、友達がそのCDの歌を歌った。ぼくはその歌に衝撃を受けた。その話をクラス委員の集まりのときに、キタジにしたのだ。
「 あ、アタシも好きだよ。貸してあげよっか?」
キタジはぼくにそう言った。「 マジで? ありがとう」と返すと「じゃぁ、家来て? 一緒に聴こう?」と言う。女子の家に誘われたことのないぼくは、平常心を保てずにいたけれど、なんとか「 あぁ、わかった」と答えた。
半日で学校が終わった、その日、家に帰ると着替えてすぐに、キタジの家に向かった。キタジを好きだと思ったことはないはずだが、何故だかドキドキが止まらない。キタジの家に着くまでの道に、紅葉と落ち葉の綺麗な、通りがある。そこはあまり車が通らない。ぼくは道の真ん中で、落ち葉をクシャクシャと踏んだ。キタジの家に着くと、深呼吸をして呼び出しボタンを押した。
「 はい」
キタジの声がした。
「 あ、来たけど……」
名前も告げずに、ぼくがそう言うと「 いま行くー」と、キタジは答えた。「 くー」の部分の言い方に、ぼくはハッとする。胸の奥で音がするようだった。玄関のドアを開けてキタジが出てきた。
「 こっち来て?」
手招きして、キタジはガレージの車に乗り込んだ。
「 それ、親父さんのじゃないの?」
中学生が車を持っているわけはない。ぼくの質問も的外れだと気付いたけれど、キタジは「 そうだよ、ここで聴こう?」とぼくを助手席に導いた。ぼくは言われるがままに、車に乗り込んだ。キタジは、運転席のシートをずらして、その下に手を伸ばした。
「 ここにあるから」
手を伸ばしてCDを取ると、ケースを開けて、オーディオプレーヤーにそれを入れた。曲が流れ始める。
「 なんで、そんなところにあんの?」
ガーガーと鳴るエレキギターが、心に刺さる。音量を少し下げて、キタジは言った。
「 そんな音楽ばっかり聴いてると、不良になるってオヤジに言われたからさ、ムカついたんだよね。だから、ささやかな反抗」
親父さんの車の中にCDを忍ばせて、密かにそれをかける、ささやかすぎるけれど、それは痛快な気もした。ぼくはキタジにドキドキしていたことも忘れ、なんだか、心がふわっと和らいだ。
「 じゃぁ、俺もさぁ、これ、大人になったら、車の中に忍ばせるよ」
「 えー、でもさ、大人になったら、誰に反抗するわけ?」
「 あ、そうか。できればムカつかずに生きたいもんな」
「 うん、そうだよ。ムカついていいのは、若いうちだけだよ。ムカついてばかりの女は男に愛されないからさ」
ムカついてばかりの女は男に愛されないのか。ぼくは、ささやかに反抗しているキタジを、今は愛せるような気がしているけれど、大人になると変わってしまうのだろうか。そんなことを考えた。
「 もし、ムカついてばっかりだったら、俺が愛してあげようか」
その言葉は、本当に自然にこぼれた。ちょうど、エレキギターのガーガーとなる曲が終わって、ピアノの旋律が綺麗なバラードが流れ出したところだ。それに気づいて、ぼくらはちょっと気まずくなる。キタジは、少し焦りながら「 ムカついたら、落ち葉をクシャクシャ踏みまくるよ」と言って、わざとらしく笑った。
今なら少しわかる。ムカついてばかりの女を、愛するのは大変なこと。けれど、ムカつかせてしまうのも、自分の至らなさだと。それでも、キタジ、俺は、落ち葉をクシャクシャ踏みまくるような女に、惹かれていってしまうんだよ。
動物園について、車を止めると、綺麗な紅葉が広がっていた。落ち葉で、道も綺麗に色づいている。車から降りた娘は駆け出して、落ち葉の上を、とび跳ねた。
今日は朝から雨が降っていた。でも、ミストみたいな雨だったから、傘は持たないで、そのまま家を出た。通学路で会う人たちは、みんな傘を差していた。傘を差していない私は、少し浮いた感じになっていると思って、それは面白いと思った。だから、ニヤニヤして歩いた。
ミストみたいな雨でも、意外と濡れていたことに、学校に着いてから気がついた。下着が透けてセクシーだと笑われて、さすがにそれは恥ずかしくなって、トイレでジャージに着替えた。
何事もなく、一日の授業が終わって、帰ろうとしたとき、先生に呼び出された。どうやら、テストの出来が悪かったらしい。やるときはやるので、心配しないでください、と、笑って言っておいた。追い込まれないと力を発揮しないのを、どうにかせぇ、と、言われた。とりあえず、笑っておいた。
そうやって職員室を出たあと、ユカから借りた本が机に入れたままだと気が付いて、教室に戻った。机から本を取り出して、バックにしまったとき、ベランダに誰かがいるのがわかって、声をかけた。振り返るとそれは田畑さんで、田畑さんは、「 傘、持ってないの?」と聞いた。それから、朝、私を見かけて、傘に入れてあげようと思ったのだけど、恥ずかしくて、声がかけられなかったと言った。
ヨーロッパでは、傘ってあんまり使わないんだって。と、昨日テレビで聞いたことを言ってみた。田畑さんは、「 いいなぁ」とつぶやいていた。傘、きらい? って聞いてみても、答えてくれなくて、それから、ずっと夕焼けを見てた。
帰らないの? と聞かれて、一緒に帰る? と聞き返してみると、田畑さんは、「 いいの?」と、びっくりしていた。
帰り道、またちょっと雨が降っていた。それは朝のミストみたいな雨じゃなくて、粒の音が聞こえる、日本の雨だった。田畑さんは、傘を広げようとして、「 やめた」と言った。私は「 うん」と笑って、走り出した。水もしたたるいいおんなだと、誉め合って、笑った。
そして、風邪を引いた。風邪を引いたときだけ食べられる、フルーツの盛り合わせを母が買ってきた。いい一日だ。おやすみなさい。
言葉なんか、たいしたことじゃない。今日、俺はそれがわかった。晴れていても陽の当たらない、校舎の裏。ここには花壇がある。こんなところに植えても、花なんか咲かないだろう、俺はそう思う。視線の先にはバスケットゴール。雨の中には、誰もいない。君、以外は。傘も差さずに濡れていた。それを見つけた俺は、君に歩み寄り、傘に入れてあげたんだ。君は、そっと泣いていた。
「 どうかしたの、風邪ひくよ」
「 ううん、なんでもない」
「 なんでもないわけがない」
「 ううん、平気だから、ありがとう」
小さくそう言ったあと、君はあいつを見つけたんだ。そして、俺なんか世界にいないように、あいつのもとに駆け出したんだ。君は、あいつの傘に入り、その胸で泣いていた。あいつは、きっと優しい言葉をかけている。ありがとうなんて、思ってもいないのに、言うな。俺の中の嫉妬のかたまりが、悪魔のように翼を生やそうとしている。わかっているよ、あいつが「 いいやつ」だってことは。わかっているから、絶望した。
「 どうしたの、風邪ひくよ」
「 いいの、こうさせて」
「 僕の胸でよかったら」
「 うん、あったかい」
少し離れたその先で、そんな会話が広がっている気がする。それがほんとじゃなくたって、世界はふたりのものだ。俺は傘を捨てる。言葉なんか、たいしたことじゃない。同じ言葉も、あいつが言えば、君の世界は変わる。言葉に力があるんじゃない。気持ちに力があるだけだ。俺は、君とあいつを世界にするための風景なんだろ、きっと。俺は君の世界を、何ひとつ変えることはできない。
どうして生まれながらにつがいが決まっていないんだ。その人以外、惹かれあうことがなければ、誰も間違ったりしないのに。不倫も浮気も片思いもない、幸福な世界になるというのに。「 風景」の俺は、ふたりの世界を通りすぎる。俺の心はすべてをくすませている。
そんな俺に何か球体のようなものが迫ってきた。それは俺の胸に当たり、落ちた。ニュートンなら、こんなとき、万有引力を発見して万歳でもするだろうか。俺には、それが胸ではなく心に当たったようで、万歳などできるわけがなかった。そして、ただ、それを拾い上げた。
「 梨、好きか?」
目の前にいたおじさんにそう言われる。そういえば、見かけたことがあるぞ、と思っていると、その人が用務員のおじさんだと思い出した。俺の胸に当たったのは、そのおじさんが投げた梨だった。
「 まぁ、好きですけど」
「 そうか。じゃぁ、もう一個」
おじさんはまた、俺に梨を投げた。俺は今度はそれを、キャッチした。
「 がんばれよ」
「 がんばれ」なんて、社交辞令みたいで嫌いだ。嫌いなはずなのに、俺がいま、一番欲しがってた言葉だと気がついた。ただの用務員のおじさんの「 がんばれ」が、痛いほど心に刺さるなんて。
言葉なんか、たいしたことじゃない。でも俺は、風景なんかじゃない。雨でわからなくなった涙といっしょに、俺はただ、梨を食べた。
ただトラックを何周も何周も走りつづける彼を、私は見ている。 ”見ている ”という表現は、多分間違っていて、それは、 ”見惚れている ”に近い。友達はそれを、恋だとはやしたてるけれど、私と彼との間に、そんな大きな川は存在しない気がする。確かに、 ”見惚れる ”という字の中には、 ”惚れる ”という言葉が混じっているのだけど、これは恋とは違うと思う。たとえば、夕焼けとか、雪景色とか、たぶんそういうものを見るときの気持ちなんだと思う。
「 見てるだけでいいの?」
友達の言葉に私は戸惑う。
「 夕焼けを見るとき、他に何かいる?」
そう答えてみる。
「 彼は、夕焼けなの?」
と、聞かれると、即答はできないのだけど。
「 彼は彼だけど、夕焼けではないけど、そういう感じなの」
「 たとえばケーキではないわけね?」
「 ケーキ? なんでケーキなの?」
「 ケーキを見てたら、食べたくなるでしょう?」
それって、彼を食べたくなるかどうかってことなのか。そんな想像をして、私はかーっと頬が熱くなった。
「 ケ、ケーキなんかじゃないよ」
あわてて否定してみると、友達はニヤニヤ笑って、
「 やらしい想像したくせにー」
と言った。彼はケーキなのかな。たとえば彼に、ぎゅっとされたいのかな。そう考えて、ドキドキしてみるけれど、でも、それでも彼を見ると、私はただ見惚れてしまっていた。
「 ケーキ、ケーキ言うから、甘いもの食べたくなってきたよ」
私が話をそらすと、友達のお腹がぐーっと鳴った。ちょっと間があいてから、私たちは顔を見合わせて笑った。そんな私を知らないまま、彼はただトラックを走ってる。
「 先、行ってるからあとから来てよ」
うん、と答えて、また彼に見惚れる。夕焼けと溶け合う彼のすべてが美しすぎる。いつのまにか涙がこぼれた。彼の見ている世界に、私がいないとしても、私は彼を、ながめていたい。
最近のじいちゃんは、元気がない。それもそうかと、ぼくは思う。なんせ、四十年近くも寄り添った、ばあちゃんに、先に逝かれてしまったのだ。当たり前だったものをなくすと、そうなるかもしれない。じいちゃんは「 男は強くあるべきもの」それが口癖だった。その信念のゆえか、少し強面な印象をぼくは持っていた。けれど、今のじいちゃんは、少し強い力で押したら、倒れてしまうような気がする。じいちゃんに「 弱さ」が見える。それが、少し、淋しいと思う。
それはそれで、心配に思うのだけれど、高校受験を控えたぼくはぼくで、何かと余裕がない。じいちゃんを気にしながらも、わからない将来や、上手くいきそうもない恋なんかに、心がボコボコにされている。ぼくはぼくで、大変なのだ。そんなことを、一人、カピバラを見ながら、思っている。
今日は県民の日で、学校は休み。歩いて行ける距離にある、ミニ動物園の入園料が無料になるってことで、ぼくは勉強の合間に、ここに来たのだ。カピバラは、何を考えているのか、さっぱりわからないけれど、そのフォルムを見ているだけで、ぼくは少し楽しくなって、楽になる。
「 ユウキは、カピバラが好きだな」
ぼくは声をかけられる。その声は、やっぱり心なしか元気がない。
「 じいちゃんも、来てたんだ?」
「 あぁ、家でじっとしているより、散歩でもしているほうがいい」
「 まぁ、そうだよね」
勉強ばかりしていては、体も心も凝り固まる。けれど、好きなことを学ぶのなら、心も体も解放されるはずだ。たとえば、薬剤師になりたいという、明確な目標を持っている、コズエは、とくに化学や生物のときなんか、楽しそうだ。ぼくは、そのコズエの顔が好きだ。化学も生物も好きではないぼくは、コズエの顔ばかり見ている。
「 カピバラの何が好きなんだ? じいちゃんには、よくわからん」
ぼくのほうに目をやらず、じいちゃんはカピバラを見たまま、そう聞く。
「 かたち、かなぁ。見てるとさ、楽になる感じ」
枯れ葉が落ちてきて、それがカピバラの頭に乗っかる。それをカピバラはまったく気にしない。ぼくと、じいちゃんは、思わず、笑ってしまった。
「 確かにな、かたちはいい。そのかたちだけで、楽になるっていうのは、あるかもな」
じいちゃんは、うなずきながら、そう話す。それは「 弱い」というよりも「 優しい」という感じがする。
「 じいちゃんには、そいうのは、ある?」
「 あったけどな、今はない」
ばあちゃんのことかな、心でそう呟きながら、それを言葉にするのは、やめた。けれど、じいちゃんは、それが聞こえたかのように、「まぁ、ばあちゃんのことだ」と、言った。ぼくは「そうだよね」と答える。枯れ葉は、カピバラの頭に乗ったままだ。
「 おまえは、優しいな。いい名前を、付けてよかった」
「 名前?」
「 優しく生きる、で、ユウキ。じいちゃんが付けたんだ」
「 優生」という名前の由来を親に聞いたことはあったけれど、じいちゃんがぼくの名前を付けたのだとは知らなかった。しかも、「 男は強くあるべきもの」と考えるじいちゃんが、「 優しく生きる」なんて、想像もつかない。
「 男は強くあるべきもの、じゃないの?」
強さと優しさが結びつかないぼくは、そんなことを聞き返した。
「 まぁ、そのうち、わかることになる」
風が吹いてきて、カピバラの頭に乗っていた枯れ葉が落ちた。その枯れ葉は落ちてから、舞いあがった。その行方を目で追うと、枯れ葉は、なんと、じいちゃんの頭の上に、乗っかった。それを見て、ぼくは笑う。じいちゃんは、おどける。その、かたちが好きだ。
あぁ、こういうじいちゃんは優しいなと、ぼくは思う。ぼくはこんなふうに、強く優しく生きていけるだろうか。また風が吹いて、枯れ葉は、そっと、落ちていった。
「 もう、その写真、捨てたほうがいいね」
休み時間にベランダで、生徒手帳に挟まったカレとの写真を眺めてた。あたしとカレがキスしてるところ。正確には「 元カレ」だ。
「 仕方がないって、次だよ、次」
ユミの言うことは、すごく正しいと、あたしは思った。
「 どうせなら、燃やしちゃえ。そしたら、すっきりするよ。あたし、燃やしてきてあげようか」
それがいいと、あたしも思う。でも、それは自分の手でしたほうがいいはずだ。
「 いや、自分で行く。燃やしてやるわ」
あたしはそう、決意した。ユミの心の中がもしも、”ざまぁみろ”だとしても、それをひどいなんて思いはしない。あたしはあたしと向き合う。そして、きっと慰めてくれることに、素直に甘えようと思ってる。それが、正しい恋の終わらせ方なのだ。
昼休み、「 一緒にいくよ」というユミの申し出を断って、あたしは一人で焼却炉に向かった。そこに着くまでの時間が、まるで永遠のように長く感じたのは、カレとの思い出に浸っていたからだろう。あたしにはまだ迷いがある。それでも足を止めることはない。足を止めなければ、必ずそこにたどり着く。まるで誰かの名言のようだけど、これは、あたしのただの感想だ。
思い出の中からふっと抜け出して、焼却炉にたどり着くと、そこには先客がいた。クラスメイトの戸塚君だ。
「 何してるの、戸塚君」
あたしが声をかけると、戸塚君は顔をこちらに向けた。
「 何って、仕事だよ」
あっけらかんと、そう答えた。
「 仕事?」
「 焼却係だからね」
あぁ、そういえばそんな係もあったかも。戸塚君はあまり目立つタイプではなく、というか、思いっきり目立たない存在で、あたしが戸塚君に話しかけたのも、おそらくこれが初めてだ。
「 何か燃やしにきた?」
戸塚君に言われて、あたしは用事を思い出し、胸ポケットから生徒手帳を取り出した。
「 へぇ、生徒手帳を燃やすんだ? いいねぇ」
戸塚君は感心した声を発したけど、残念ながら生徒手帳は燃やさない。
「 違うよ、どこに生徒手帳を燃やす人がいるのよ」
「 あぁ、生徒手帳は燃やさなかったけど、校則の書いてあるページ、ぼく、燃やしたよ」
普通のことみたいに、戸塚君は言った。あたしはちょっとびっくりした。戸塚君はそういうタイプじゃないのだ。戸塚君のことをまるで知らないのだけど、そういうことをしそうにはどうしてもみえない。
「 え、どうして?」
あたしは聞いてみた。
「 だって、くだらないじゃん。髪はこうしろだとか、靴下はこれで、靴はこれで、あげくに不純異性交遊禁止だとか、何時代の話? って感じしない?」
それはそうだけど、かといって戸塚君は、特に校則を破っている感じもしない。そして、なにしろ、そんなに反抗的な雰囲気をまるで感じないのだ。
「 戸塚君て、意外と反抗期?」
「 清瀬さんは?」
逆に聞かれて困ってしまった。
「 うーん」
「 で、用事は?」
戸塚君はさっさと、次の質問をした。あ、そうだ、カレの写真を燃やすんだ。燃やして終わりにするんだ。あっ。生徒手帳から、写真がするっと抜けて、それは戸塚君の足元に着地した。それを戸塚君は拾い上げた。あたしは、あちゃーと顔をしかめた。見られないように、こっそり燃やしたかったのだ。
「 これ、燃やすの?」
「 え、あー、いや……」
あたしはなんだか恥ずかしくなって、うまく答えられなかった。
「 燃やしちゃおう、ついでだし」
「 ついで?」
あたしは、 ”ついで ”という言葉に敏感に反応してしまって、思わず、声を荒げてしまった。
「 ついでって何? カレとの大事な思い出なんだよ! そりゃぁ、ふられたけどさ。でも、あたしはすごく好きなんだよ。ずっと一緒にいたかったんだよ。そんな想いがあるのに、それをそんなわけのわかんないプリントといっしょになんかしないでよ!」
戸塚君は、「 へぇ」と何度かうなずいた。それから、「じゃ、燃やすね」と言った。
「 だから、それは!」
「 ぼくの命はあと三年くらいらしい」
「 へ?」
「 つまり、大人にならずにぼくの人生は終わるんだって」
あたしは、身動きがとれない。
「 ぼくは別に無理やり校則を破るつもりはないけど、したいカッコをするし、彼女がいたらセックスだってしたい。そういう気持ちを燃やしたいんだ。こんなわけわかんないプリントも、どうせなら燃やして、わけわかんない気持ちも燃やしたい。この命だって、あと三年しかないなら、燃やして終わりたいじゃない? まぁ、スポーツに打ち込んだり、燃えるような恋愛をしてたら、わかりやすくこの命は輝くのかもしれないけどさ。ぼくは、そういうタイプではないからね。だから焼却係をやってるんだけど。あんまり理解できないと思うけど」
戸塚君の言うとおり、あんまり理解できなかった。でも、戸塚君が命を燃やしたいと、輝かせたいと思う気持ちは、わかった。
「 写真、燃やして?」
「 いちおう聞くけど、いいの?」
「 あたしも、また燃えたいんだ。恋して、命を燃やしたいんだ。だから、それはもう、終わり」
そのために、ここに来たんだから。
「 わかった、いっしょに見届けよう」
あたしは、戸塚君といっしょに、終わった恋を見届けた。焼却炉の中で燃えた写真は、けむりとなって、空へ昇った。キャンプファイヤーみたいだと思った。
昼休みが終わった後の授業が始まる。あたしは戸塚君が気になって、チラチラ見ていた。きっとみんなは戸塚君のことを特に気にしてはいない。相変わらず、目立つことなく、淡々とそこにいる。あたしは、心でエールを送る。戸塚君、恋、しなよ。
友浦君の選んだ映画は正解だと思う。この町の、映画館はふたつ。ひとつは「 ポルノ」しかやらないところ。もうひとつが、中学生の私たちでも入れるところ。けれど、ずいぶんと古びていて、一ヶ月に三本くらいしか上映しない。それも、最新作はほとんどなく、リバイバルのものばかりだ。
映画を観に行こう。と、友浦君に言われて、あっさりと私は「 いいよ」と返事をした。いちおう、友浦君と私は付き合っている。「 いちおう」というのは、「 好きです」「 私も」というやりとりをしたからなのだけれど、いまいち、「 付き合う」という感覚が、わかっていない。友達に相談すると、「 チュウしたら、恋人だよ」なんてことを言うので、「 近頃の若いもんはすぐ、チュウしたがるなぁ」と、言い返しておいた。おかげで私は、「 オヤジィ」というありがたくないあだ名を付けられてしまった。私は、純朴な少女だというのに。
そんなことを思い出しながら、友浦君と映画を観た。他にやっていた映画は、ホラー映画とサスペンス映画。人を怖がらせて金を取るなんて、どうかしてる。そう言うのをわかっていたように、
「 片瀬は、お化け屋敷も、入りたくないって言ってたもんな」
と、友浦君は笑って、残った恋愛映画を選択したのだ。裸の男女が出てきたらどうしよう、と少しは焦ったけれど、その映画は、いたって純情な高校生の物語で、そんな際どいシーンはなかった。だから純粋に映画を楽しめたし、友浦君とも変な空気にならないで済んだ。
映画館の乾きすぎた空気と、映写機から差し込む光。そこに舞う誇りと、友浦君の髪の匂い。それは非日常だ。なんだか、秘密を共有したような気持ちになった。「 付き合う」というのは、そういうことなのかもなぁ。私は、世の恋人同士が、映画館に行く意味が少しわかった気がした。
そんな非日常の空間をあとにして、私たちは歩き、小さな城のある広場のベンチに座って、話をした。ここは学校帰りにも寄る、私たちの日常の場所だ。その日常の中で、友浦君は、何かの返事の代わりに、キスをした。私はそれに驚いて、友浦君が顔を離したあと、目を背けた。けれど、悪い気はしなかったので、私は冗談ぽく友浦君に言った。
「 近頃の若いもんはすぐ、チュウしたがるなぁ」
「 片瀬、ファーストキス?」
友浦君に聞かれて、「 うん」とうなずこうとした刹那、脳裏に古い記憶が蘇った。それはたぶん、二才くらいの記憶だと、はっきりわかった。私と母は、カレー屋さんに入る。そこに男の人がいた。たぶん、母と同じくらいの年齢だと思う。私たちは、いっしょにカレーを食べた。私は小さなお皿に母のカレーをよそってもらった。でもたぶん、私は、男の人の食べているカレーが食べたかったのだ。私は駄々をこねた。けれどうまく伝わらない。私が泣きそうになったとき、男の人が、私の口元にスプーンを持っていき、「 はい、どうぞ」とカレーを食べさせてくれた。私は、それを食べて、めいっぱい笑った。
そうして、その男の人が帰るとき、乳母車に乗った私は声をあげた。
「 チュウ、チュウ」
それを言った後の、母の言葉も覚えている。
「 すごい! チュウしてほしいんだって。パパ以外の男の人にチュウせがむの、初めてだよ」
母は感心したふうだった。男の人の言葉も蘇る。
「 え、ファーストキス奪っちゃっていいの?」
「 チュウ、チュウ」
私はなおも、そうせがんだ。そうして、男の人は、私にチュウをした。そうか、ファーストキスは、あの男の人だったか。それから私がその人と会うことはなかった。それは母が、その人と会わなかったからだと思う。母のともだちだったひと? それとも、もっと深い仲? 帰ったら、母に聞こうか。やめておいた方がいいか。私は少し、考え込む。
「 いや、別にファーストキスじゃなくてもいいんだけど……」
友浦君の声がした。私は記憶の中から、戻った。
「 ううん、ファーストキスだよ。ありがとう」
そう言って、友浦君にキスをした。
「 近頃の若いもんはすぐ、チュウしたがるなぁ」
友浦君は、私の頭を撫でて、笑った。それは、あの男の人の仕草と、そっくりだった。
「 6階のエレベーターの横から差し込む夕陽が好きだなぁ」
二学期最後の美化委員会の終わりに、多田くんは、そう言った。
「 多田くんの好きなものって何?」
そんな私の質問の答えが、それだ。
「 6階って、どこの?」
「 ロビンソンの」
ちょうど、教室に夕焼けが入ってきたところだ。腕を組んで、体をゆする多田くんの顔は、綺麗なオレンジに染まった。その顔が、忘れられない。
”ロビンソンの、6階のエレベーターの横から差し込む夕陽 ”
それは、生まれた町の中心部にある、デパート。私が小学生の時に建てられたそのデパートは、今でも古びていない。そう思うのは、多田くんの顔が浮かんでくるからだろうか、私は、6階のエレベーターの前のベンチに座り、そんなことを考えた。
「 あぁ、おかあさん、そんなところにいたの?」
十四才になった娘が、私を見つけて、隣に座った。好きな子に誕生日プレゼントを渡したいから、一緒に選んでくれと頼まれたのだ。男の子へのプレゼントなら、お父さんと選べばいいじゃない、私がそんなことを言うと、お父さんは怒る気がするから嫌だ、娘はそう答えた。そういうわけで、私は娘に連れ出され、ロビンソンにやってきたというわけだ。
1階から、ぐるぐると店を見てまわり、6階までたどり着いた。それにしても、十四才の体力は、うらやましい。買い物は楽しいけれど、アラフォーの私は、トイレに立ち寄って、それからベンチに座ると、少し、休みたくなった。
「 決まった? プレゼント」
「 ううん、考えれば考えるほどわからなくなるんだもん。あー、困った」
娘は上を向いて、足を投げ出している。
「 その子とは、仲良いんでしょ?」
「 うん、まぁね」
「 じゃぁ、何をあげても喜ぶよ」
「 そうかなぁ。変なものあげて、気まずくなるのも、嫌なんだよねぇ」
聞いたところによると、まだその子とは、付き合っていないらしい。娘は、その子のことが好きだけれど、友達に戻れなくなるのも嫌なのだと言う。
「 あ、そういえば、私のパパって、おかあさんと、同級生だったよね?」
娘は ”パパ ”と ”お父さん ”を使い分ける。 ”パパ ”と言うのは、娘が生まれる前に死んでしまった、実の父親のことだ。娘には実の父親の記憶はない。私の再婚相手、娘にとっては、物心のついたころから、その人が父親だ。彼のことは ”お父さん ”と呼んでいる。
あなたの本当のお父さんは、死んでしまったの。そう私が告白したのは、娘が五年生になるときだった。学校で血液型占いが流行ったようで、そこで「A型同士だとB型は生まれない」ということを、知ったのだ。B型の娘は、A型同士である私たち夫婦に、その疑問をぶつけた。そうして、自分の ”お父さん ”と血がつながっていないことを知ると、実に淡々としたふうに、「 じゃぁ、私にはお父さんが二人いるんだね」と言った。そして、「 ややこしいから、本当のお父さんのことは ”パパ ”と呼ぶことにする」と、高々と拳を上げて、そう宣言したのだ。
私は、そのときの娘の心境を、どうとらえていいのかわからなかった。無理に理解しようとしているのか、ただわかっていないだけなのか。そんな私より先に、娘の ”お父さん ”である、私の夫は、彼女をぎゅっと抱きしめた。その胸の中で、娘は、育った。
「 あ、 ”パパ ”ね。うん、中学のときの同級生だったよ」
私は思い出すように、答えた。
「 そのときから付き合ってたの?」
「 付き合ってたわけじゃないけど、好きだったかな」
「 あ、じゃぁ、私と同じじゃん。パパの好きなものってなんだった?」
「 好きなもの?」
「 うん。こうなったら、パパの好きなものを、プレゼントしようかと思って」
私は、あぁ、親子なんだなぁと、感慨にふける。私も好きな人に、好きなものをプレゼントしようとしたのだ。娘はB型だけれど、私の発想と同じだ。私は、にやけながら、答える。
「 ロビンソンの、6階のエレベーターの横から差し込む夕陽、だったかなぁ」
娘は「 え?」と顔をびくつかせ、人差し指を、窓のほうに向けた。
「 これ?」
夕陽が、差し込んできている。娘は立ちあがり、窓の方に歩いていって、腕を組んだ。そして、ゆっくりと体をゆする。あぁ、彼女の中には確実に、多田くんがいるんだ。娘は振りむいて、「 じゃぁ」と口にした。
「 私も、これ、プレゼントする」
娘は納得したように、「 うんうん」とひとりで何度もうなずいた。オレンジ色に染まるその顔を見ながら、私は、彼女のふたりの父親に、ありがとうと、心で、つぶやいた。
なんの申し合わせをしたわけでもなく、マリコとは、同じ中学、同じ高校に通う縁だった。しかも、その六年間、ずっとクラスメイトになるという、小さくはない奇跡を、私たちは共有した。「 奇跡」は言い過ぎか。でも、何千人と通うような学校でのことだから、そのくらい言っても過言ではないと思う。それでも、だからと言って親友になるほどの距離にいたかというと、そうでもない。私たちの会話はたぶん、数えるほどだったんじゃないかと思う。
マリコは周りから少し引いた感じの佇まいがあって、「 大人」に見えた。それは同時に「 つまらない人」とも言えた。あのころは、大人=つまらない、というステレオタイプな考えをしていたのだ。けれど私が、大人がつまらないというわけじゃないと思い始めたのは、マリコの存在が大きかったんだと思う。それは、中学二年生のときに、クラス全員でカラオケに行ったのがきっかけだ。
そのカラオケの目的は、「 合唱祭の練習」だった。当時の担任は体育の教師のくせして、合唱祭で優勝を目指す、と高らかに宣言した。私たちは、音楽の教師が担任している五組には敵わないと、どこかあきらめムードがあったのだけど、体育教師の担任は「 秘策がある」と言いだした。それが、カラオケだった。彼は、クラス全員を、カラオケボックスに連れていったのだ。
「 だいたいおまえらは、腹から声が出ていない。どうしてかわかるか、勇気が足りないんだ。人前で歌う勇気。一人一人が楽しく歌えば、それでいい。それで五組に勝てる」
それで五組に勝てるとは思わなかったけれど、楽しく歌えばそれでいい、それはそうかもしれないと、私は思った。それでも、私たちは躊躇した。担任の言うとおり、人前で歌う勇気が、私たちにはなかったのだ。見かねた担任が「 仕方ねぇなぁ」と、マイクを取った。そしてサザンの「 勝手にシンドバッド」が画面に表示された。そのイントロがはじまるか否かのところで、その画面は突然消えた。担任は「 ララ」と歌っただけで、フリーズした。
「 あ、ごめんなさい」
そう言ったのは、マリコだ。リクエスト曲を送信したつもりが、演奏停止ボタンを押してしまったらしい。それで空気は一変し、部屋は笑いでうずまいた。そんな中、マリコは曲を入れ直し、やがて歌いだした。
『 マリコの部屋へ電話をかけて』
「 悪女」という中島みゆきの曲だった。マリコが「 マリコ」と歌っている。その一瞬でまた、笑いが起こったけれど、すぐにその場は静寂に包まれた。しっとりと艶っぽい歌声に、正直私はドキドキした。周りもきっとそうだったんだと思う。マリコの歌が終わると、大きな歓声があがり、それから、ただのカラオケ大会が始まった。結局、合唱祭では五組が優勝したけれど、どのクラスよりも、私たちは一人一人が楽しく歌っていたんじゃないかと思う。あとから聞いた噂によると、あのカラオケはマリコが担任に提案したらしい。本当のことは確認していないけれど、マリコならそういうこともありえると、私は妙に納得した。あれ以来、マリコとカラオケに行くと、私は必ず「 悪女を歌って」とリクエストした。いつ聞いても、何度聞いても、マリコの歌声にドキドキした。
私には親友はいて、マリコはそういう感じではないけれど、六年間、教室をともにした意味は、それだけであるような気がした。
「 え? ごめん、何かあった?」
職場の飲み会で、私は突然泣きだしてしまった。それを心配した同僚の男が、私の肩に手を置いた。涙の理由はすぐにわかった。隣のテーブルの誰かが、「 悪女」のフレーズを口ずさんだのだ。その瞬間、卒業以来会っていないマリコの顔と声が浮かんできた。マリコの部屋に電話をかけて、それを歌うのは、マリコじゃない誰かなんだよね、本当は。私はスマートフォンを取り出してみる。アドレス帳にマリコの名前はない。どこがスマートなのさ。なんて毒づいていると、同僚はわかったように「 うんうん」と、わかりやすくうなずいた。マリコもどこかでこんなふうに、私のことを思い出したりしてるだろうか。私は同僚に尋ねる。
「 君の彼女に、電話していい?」
「 なに、それ?」
「 電話をかけたいの」
「 部屋にいないかも」
「 悪女だね」
「 意味わかんないし」
これ以上深入りしたら、私が悪女になる。
「 二次会、カラオケだって。俺、人前で歌う勇気ないんだよな」
「 じゃぁ、五組に勝てないね」
「 酔っぱらってる? さっきから意味わかんないんだけど」
小さくない奇跡は、たぶん日常の顔をして、私たちの前で漂っている。たとえば、肩に手をやった同僚の彼女の名前が、「 マリコ」だったりすること。小さくない奇跡で、私たちの世界は動いている。そんな大それた想いに支配されながら、私はそっと「 悪女」を口ずさんでいた。
その階段は、千段ある。その先は、神社だ。百度往復すれば、願いが叶うと言われているが、パワースポットと言われる、その神社の ”お百度参り ”は、とりわけ信仰の度合いが強いらしい。千段の過酷なお百度参りなら、確かに効果がありそうな気はしてくる。
高校時代、ボクシング部だった俺は、その千段の階段を、ほぼ毎日、上っては、下りた。通算なら、百度参りどころではない。ロードワークの最後に現れるその階段を初めて上ったとき、部活仲間の畑中は、威勢よく、吐いた。以来、ボクシング部では、その階段のことを「 ゲロ階段」と呼ぶようになった。
そもそも畑中は、線が細くて、体の弱い男だった。性格は優しくて、笑顔の似合う、穏やかな風貌。とても、ボクシングをやるようには、見えない。だから、千段の階段を上り下りすれば、吐いてしまうのも無理はない、と、誰もが思った。ボクシングセンスもなく、いつ辞めてもおかしくはない、そんなふうに、畑中のことを見ていた。けれど、畑中は部活を辞めなかったどころか、一日も休まずに、練習をした。スパーリングでさえも、まともにパンチが当たったことはなかったが、ゲロ階段を、一度もギブアップしなかったのは、畑中だけだ。畑中は、頂上の神社の祭壇で、いつも手を合わせた。最初のうちは他の部員も、手を合わせていたが、面倒になって、すぐに階段を下りるようになった。畑中だけは、上るたびに、手を合わせるのをやめなかった。
俺と畑中は、特別仲がいいわけではなかった。ただ、畑中のそういう部分は気になっていたし、それに関しては、尊敬にも似た想いも抱いていた。最後にゲロ階段を上ったその日、畑中は、俺に言った。
「 僕らさぁ、通算で言えば、百度以上、お参りしてるよね」
最後だからと、俺もすぐに下りずに、祭壇の前に来たのだ。
「 畑中だけだけどな、ちゃんとお参りしてたのは。おまえだけは、お百度参りの効果あるんじゃないか?」
俺は笑いながら畑中をつっついた。畑中は体を敏感に反らせながら、「 だよね、効果あるよね」とうなずいた。
「 つーか、何をいつもお願いしてんの? 早く童貞捨てられますように、とか?」
俺は同じ調子で、ふざけて笑う。畑中は、「 それもあるけど」と調子を合わせた後、すっと表情を戻して、言った。
「 僕さぁ、小さいころ、いじめられててね、世の中に絶望してたんだよ。まぁ、わかるでしょ? ほら、いじめやすいでしょ、僕って」
畑中は、自分を俯瞰で見るような言い方をした。そして、俺は、畑中をいじめてるつもりはないけれど、そういう対象になりやすいだろうと、理解してしまった。そう思った自分自身に、腹が立つのを感じながら、「そんなことないんじゃないか」と、答えた。その答え方にも、モヤモヤとしながら。
「 いいんだ、気を遣わなくても。昔の自分を思い出すと、自分でむかついたりするくらいだし」
畑中の口調はどこまでも客観的だ。そこに畑中の抱えてきた気持ちのせつなさを感じる。畑中は続ける。
「 まぁ、暗くなるから、話しは端折るけどさ、そんな僕を守ってくれたのが、いとこのマリエっていう、六才年上の姉ちゃんだったんだ。マリエはね、すごく勝気な女性で、 ”男はサムライ ”だ、とか言って、僕に柔道だの、剣道だの、護身術だのを、教えてくれたんだ。僕は、何やってもセンスないから、強くはならなかったけど。でも、不思議とさ、そうやってマリエといると、いじめられてることとか、気にならなくなっていった。僕にとってマリエは、道しるべのような人なんだよ」
俺は、全く知らなかった畑中の過去に、どう対応していいのかわからなくなりながら、気になったことだけを、聞き返した。
「 そのマリエと、お百度参りには、どういう関係があんの?」
「 マリエは結婚したんだけどね、子供が出来にくい体なんだって。それを、だんなさんの親は嫌がって、離婚させようとしている」
その言葉に俺は、急に怒りがこみあげてきて、
「 なんだよ、それ! 親なんて関係ねぇし、子供がいなくたって幸せになれるだろうが!」
と、畑中の肩をつかんで、大きく体を揺すった。畑中は大きくうなずいて、「 僕もそう思うよ」と、俺の手をゆっくりと下ろさせた。
「 でも、僕にも正解はわからない。マリエにとって、いちばん幸せなことが、僕とは違うことかもしれない。だから、ここにくるたび、祈っているんだ。マリエが、ただ、幸せになりますようにって」
そう言ったあと、畑中は、目を閉じた。それから、つぶやくように、言った。
「 僕にできるのが、こんなことしかなくて、情けないけど」
畑中は、いつものように手を合わせた。俺も同じように、手を合わせた。畑中、おまえは、すごく強い男だと思う。だから、俺も、おまえの幸せを祈る。目を開けてもまだ、畑中は、手を合わせていた──
高校時代の記憶とともに、千段ある階段を上りきって、鳥居をくぐる。神社に入ると、畑中が俺を見つけて、手を上げた。
「 やぁ、来てくれたね」
畑中は、右手を差し出した。俺はその手を、がっちりと握る。
「 吐きそうだけど、いいか?」
冗談交じりにそう言うと、畑中は「 それは、僕の役目だっただろ」と笑った。俺は、吐く真似をして、手を離した。その手をポケットに突っ込んで、俺は笑った。
「 お百度参り、効果あったな」
畑中は、高校を卒業する少し前、入院した。今となっては笑い話なのだけど、入院当時の畑中の様子から、俺は勝手に死が近付いているんじゃないかと、思いこんだ。入院先にマリエもやってきて、俺に「 なにかあったら、頼むね」と言われたことも、その思い込みに拍車をかけた。俺はそれから、あの千段の階段を、上り下りし、 ”お百度参り ”をした。畑中が死ぬなんて、あってはならないことだ。その想いだけで、意識が朦朧となりながら、足を前へと進めた。そして、百度の往復が終わると、俺はベッドの上だった。隣のベッドに畑中が寝ていて、俺が目を覚ますと、畑中は、これでもかってほど、大笑いした。あれほど笑った畑中は、後にも先にも、ちょっと記憶にない。
「 君が、僕の幸せを祈ってくれたからね。だから僕は、マリエの幸せだけを、祈れたのかもしれない」
マリエはあれから離婚し、畑中は、マリエとの交際を経て、プロポーズした。畑中は、まぎれもなくサムライだと、俺は思う。ふたりの結婚式は、千段段上った頂上の、この神社。
「 改まって言うなよ」
照れくさくなって、俺はわざとらしく、頭を掻いた。
「 ありがとう」
「 あぁ。よかったな、畑中」
畑中は、こくりとうなずき、それから「 もう準備行かなきゃ」と、境内の方へ駆け足で向かっていった。あぁ、これで、思い残すことはない。俺はゲロ階段の方へと向かう。やっぱり、吐きそうだ。残り少なくなったらしい、俺の心臓は、まだ鼓動を刻んでいる。
寒い日が続いている。今朝のニュースでも「 今日はもしかしたら、雪になるかもしれません」と、三日前から同じことを言っていた。けれど、未だに雪は降っていない。「 タイヤ、変えてないのよねぇ、どうしようかしら」母は、困ったなぁとつぶやいたが、どれだけ寒いと思っても、この街に雪が降るのは年に数回程度しかない。車じゃなくても交通手段があるのだし、おそらく、タイヤは変えないだろうと思う。
一方で、まだ幼い妹は今日こそ雪が降らないかなぁと、このところ、窓の外をずっと眺めている。「 雪だるま作るんだ」そんな妹を見ながら、母は「 結衣の小さいころとそっくりね」と、うれしそうに笑った。私も幼いころは、そんなふうに窓に張り付いていたのだろうか。十も年の離れた妹は、まるで自分の子供みたいに、愛しい。だから、今日こそ雪が降って、妹の喜ぶ顔が見たいと思う。そんな想いで、空に祈りを込めながら、私は家路を辿っていた。
そのとき、強い向かい風が吹いてきて、私の体は押し戻された。そうして「 あっ」と声をあげて、気が付く。教室に忘れ物をした。それは、図書室から借りてきた絵本だ。両親をなくした少年が、雪の日に作った雪だるま。それが冬の間だけ、少年と一緒に暮らす。春になって雪だるまは溶けてしまうのだけど、暖かい思い出がいつまでも残る、という少しせつない話の絵本。昼休みにその絵本を見つけて、妹に読んであげたくなったのだ。明日でもかまわないけれど、やっぱり、今日がいい。くるっと体を反転させると、向かい風は、追い風に変わった。それに背中を押されて、思いのほか早く、学校に戻れた。
ガラガラと教室のドアを開けると、窓際の一番後ろの席に誰かが座っているのが見えた。その席はタナダくんの席だ。「 おぅ」と私に気付いたタナダくんは、右手を小さく上げた。私も「 やぁ」と軽く手を上げる。タナダくん以外、誰も教室にはいない。
タナダくんは本を机に広げている。そして、手には別の本を持っている。手に持ったその本の装丁の色合いが、遠目から見る限り、私の借りた絵本と似ているように見えた。気になってタナダくんのほうに近づいてみると、それは、やっぱり私の借りた絵本と同じだった。
「 タナダくんも、その絵本、読んでるんだ?」
私がそう声をかけると、タナダくんは、のんびりとした口調で、返事をした。よく見ると、タナダくんの目は少し赤い。泣いていたのだろうか。
「 あぁ、これかい? 佐崎さんの机のそばに落ちてたから、拾ったさ。やっぱり佐崎さんの借りた絵本だったんだ? 面白い絵本だね」
タナダくんは今年の春に、北海道から転校してきた。両親が離婚して、今は母親の実家で一緒に暮らしていると、どこからともなくそんな話を耳にした。タナダくんの話し方には、今もまだ、イントネーションになまりがある。標準語圏で生まれ育った私は、そのなまり方が、少し羨ましくもあって、タナダくんと話すと、そのなまりに少し、つられる。
「 やっぱり私のかい」
隣の席に座って、そう言うと、タナダくんは首を傾けた。そして口角を上げながら、私に絵本を返した。たぶん、私の訛り方は、変なのだ。私は恥ずかしくなって、視線を下に向けた。視界には机の上に広げた本が見えた。それは本ではなく、地図だと気付く。私は、体を地図の方まで近付けて、それを覗きこむ。
「 なしたの?」
タナダくんの声が、私のつむじのあたりから聞こえてくる。一瞬、ドキッとしたあと、何事もなかったように体を戻した。
「 え、いやぁ、どこの地図?」
できるだけ冷静な声で私はそう言った。
「 あぁ、これは北海道のページだけど」
「 北海道かぁ。故郷が恋しくなったとか?」
「 そんなんじゃないけど。ただねぇ、見てると、いろいろ、思うことがあって」
「 思うこと?」
そう聞くと、タナダくんはパラパラと地図をめくり、関東のページを開いた。それから、指を県境の赤い線にあてて、それをなぞった。そうしながら、タナダくんは言う。
「 たとえばこんなふうに、県堺が引いてあるしょ? でも、地図にしかないじゃん、そんな線。それが面白いなぁって。雪なんか降ったら、真っ白でどこがどこだかわかんないかもしれないよね」
悪いけどタナダくんの言いたいことが、全然わからなくて、私は「 そ、そう」と不器用な返事をした。タナダくんはマイペースに今度は世界地図を取り出して、ヨーロッパのあたりを広げた。どこ? と聞くと、旧ユーゴスラビアあたりだ、とタナダくんは答えた。私は首をかしげる。
「 この辺はちょっと前まで内戦を繰り返していたとこだよね。でも、戦争をやめたのは、雪が降ったからなんじゃないかって思って」
「 雪が降ると、戦争が終わるの?」
私の首は斜めのままだ。このままではまっすぐに戻らない。
「 雪が降ったら、足跡が付く。楽しいから、あっちにもこっちにも。して、そのうち、国境なんて越えちゃってさ、線があったことなんて忘れちゃうんだよ。いや、忘れるというか、もともと、国境なんてないことを思い出すというか。そうやって平和になったらいいなぁって思う」
タナダくんの言わんとしてることが、私にもなんとなくわかった。たとえば、友達とケンカした日、もう絶対話すもんかと心に決めたのに、その日に雪が降って、すぐに仲直りしたことが遠い昔にあった。それを思い出したからだ。私の首は真っすぐに戻る。
「 男と女にも国境があるなら、雪でそんな線、消してしまえればいいのな」
タナダくんは独り言のように、つぶやいた。それは、タナダくんの両親のことだろうか。そして、タナダくんは、絵本のように、ここで、雪だるまを待っていたのだろうか。私は何とも言えずに、タナダくんから視線を外した。視線を窓の外にやると、ちらちらと白いものが落ちてきているのが見えた。
「 雪かな?」
「 雪だ」
タナダくんが窓を開けると、強い風が入り込んできて、私のスカートは巻き上げられた。
「 あ! ごめん!」
タナダくんはすぐに窓を閉めた。風の消えた教室は、すぐに静まり返って、チクタクと時計の音だけがやけに大きく響いた。その音よりもはるかに速く、私の胸の鼓動が波打っている。耳たぶが赤くなるのも、手にとるようにわかった。
「 あ」
タナダくんが抑揚なく、そんな文字を口にした。
「 え」
まるで猿芝居かのような感嘆詞を私が吐くと、タナダくんは「おー」と言って、地図を見た。国境の上に雪がちらほら。雪が原型を留めていたのは一瞬で、すぐに水になった。「 佐崎さん、ちょっと離れて?」
「 え」
感嘆詞が、また口からこぼれる。
「 窓、開けたいから」
私は、後ずさりをして、窓から離れていった。気が付けば、ドアのそばだ。
「 そこまで離れなくても」
タナダくんは小さく笑い、それから、窓を開けた。強い風が、タナダくんの前髪をふわっと持ち上げる。ドアの近くの私のスカートは巻き上げられなかったけれど、冷たい空気が、耳たぶを、心地よく冷やした。
「うわぁ、しばれる!」
そう言いながら、タナダくんは、地図を手にして、それをベランダに置いた。そして、バタン! と、勢いよく窓を閉めた。タナダくんは、窓の外を見て、私を手招きした。
「 え」
また同じ感嘆詞を口にしながら、私は、窓の方へと近付いていく。
「 ほら」
タナダくんは、ベランダに置かれた地図を指さしている。
「 国境がなくなっていくよ」
地図の上には、雪が積もっている。窓に張り付いて、それを眺めるタナダくんは、「 面白いなぁ……」と、ため息のように、つぶやいている。その姿は、雪を待つ妹のように思えて、私はタナダくんが、愛しくなった。
「 うん、国境なんて、ないね」
私は優しい想いで、そう答えて、タナダくんに笑いかけた。タナダくんは、いつまでも窓に張り付いている。風が、次のページをめくった。そこにもまた、雪が降り積もり、国境を消していった。
「 帰ろうか」
チャイムが鳴ったところで、タナダくんが、窓から離れた。
「 うん」
私は静かにうなずいて、タナダくんの横を歩いた。校舎を出ると、地面も白く色づいていた。私たちは、それに足跡を付けていく。私はタナダくんの、雪だるまになれたのだろうか。タナダくんは、そっと、私の手を握った。その手は、とても、暖かい。その熱で溶けてしまってもいいと、私は思っていた。
それはただ、ひとり丘の上のベンチに座り、落ちていく太陽を見てた時のこと。
「 きれいだね」
ぼくのとなりにやってきて、そうつぶやいたのは、まだ赤い風船が似合いそうな幼い女の子。
「 うん。きみはひとり?」
「 かくれんぼしてたら、いつのまにかみんな帰っちゃったみたい。私、隠れるの得意なんだ」
女の子はニコニコ笑っている。
「 そう。みんな探してるんじゃない? この公園広いしね」
「 それなら、まだ隠れてることにするよ」
「 そうか」
ぼくは受験に失敗した中学生。サッカーの強いあの学校に入りたかったけれど、スポーツ推薦を取れなかった時点であきらめるべきだったかもしれない。あきらめきれず、一般入試にも挑んだけれど、進学校でもあるその学校に、ぼくの頭では足りなかったみたい。
「 おにいちゃんは、かくれんぼ得意?」
女の子は無邪気だ。
「 かくれんぼ? 隠れるの下手でね、すぐ見つかってたなぁ。だから、おにのほうが好きだったなぁ。おれね、見つけるのは、すげー得意なんだ」
ぼくは昔を思い出し、そう笑った。
「 ふーん」
女の子は急に黙りこくって、夕焼けを見てた。まぁ、子どもだからな。くるくると気持ちは変わるよな。そんなことを思って、ぼくも夕焼けを見た。少しして、女の子はつぶやいた。
「 わたしも隠れるの下手だったらよかったな」
「 そしたら、すぐ見つかっちゃうよ」
「 もう見つかっていいのに。おとうさんと、かくれんぼしたの、わたし。でも、まだお父さん、わたしを見つけてくれないの」
この子はお父さんに捨てられたのか。
「 そうか、それじゃ、 ”もういいよー ”って言ってみたらどうかな」
そんなことを言ってみると、女の子は素直に ”もーいーよー ”と、大きな声で言った。
「 やっぱりこないよ」
女の子はうなだれた。
「 そっか」
ぼくはそれしか言えずに、また夕焼けを見た。女の子も同じようにした。
「 あ!」
女の子が声をあげた。その視線の先にぼくも目をやってみと、こちらに誰か近づいてくる。
「 おかあさん!」
女の子は母親のもとへ駆け寄り抱きついた。
「 また、かくれんぼしてたでしょ。みきちゃんたちが、家にきたよ。また、見つけられなかったって」
ほんとに、かくれんぼが得意なんだなぁと、ぼくは感心した。女の子は笑っている。
「 それからねぇ……」
母親は、女の子に何か耳打ちしている。それを聞いて、女の子は「 え! ほんと!」とびっくりした。それから、ぼくのもとへ戻ってきてヒソヒソと耳打ちした。
「 あのね、おとうさん帰ってきたって」
ぼくは、うんうん、とうなずいて、
「 よかったね」
と頭をなでた。女の子は満面の笑みをうかべ、ぼくのほっぺたにチュウをした。
「 ありがと!」
あっけにとられているうちに、女の子は母親のもとへ戻っていった。母親は、軽く会釈をする。ぼくも、それを返す。女の子が手をふる。ぼくも、それを返す。
どこでもいいか、サッカーできるなら。
少し暗くなってきて、月がかすかに明るく見えた。
あの子がまた屋上にいた。あの子がいるから私も屋上にいくわけではない。ただ、私が屋上にいくとき、彼女もまた屋上にいるだけ。彼女はピアスの穴を七つも開けている。それだけはちょっと気になる。
「 それ、痛くないの?」
彼女は私のほうに顔を向けた。その角度が軟なそのへんの男よりもかっこいいと、私は思った。
「 これ? べつに」
足元にアリがいる。そういえば、アリの大群が人を食べてしまうという話があった。こんなふうにぼけーっとしてたら、私も食べられてしまうんじゃないかと、ぼんやり考えた。
「 あんた、暇なの?」
彼女に聞かれる。暇かどうかと聞かれても、昼休みに屋上にきただけ。そういう時間の使い方をしてるだけで、私は返事に困った。
「 いやぁ、どうかな」
「 なにそれ」
「 うん、とりあえず今は暇かな」
なんて言ってみると、彼女は小さく笑った。
「 おもしろいね。あんたさぁ、 ”女子高生のカリスマ ”みたいなの、好きじゃないでしょ?」
何をどうやったらその質問に結びつくのかよくわからなかったけれど、確かに私は、そういう類のものにキャーキャー言えるような性格ではないのは確かだ。
「 うん、そういうのはちょっと」
「 あぁ、やっぱりね」
「 どういうこと?」
「 いや、昨日までは ”普通の女子高生 ”だと思ってたんだけどさ、なんか今日になったら、そんな感じがしなくなった」
”女子高生のカリスマ ”が得意ではないけれど、私は ”普通の女子高生 ”だと思っている。けれど、なんとなく彼女のニュアンスもわかるような気がして、それに深入りすることはやめた。
「 ふーん。そんなものかな」
それから少し間があいた。それは雲が少し形を変えるくらいの、間隔で。
「 ねぇ、最後の晩餐ってあるじゃん?」
彼女がしゃべりだす。
「 人生の最後の食事のこと?」
「 そう。で、最後の晩餐ではないんだけどさ、世界が明日終わるとして、最後に歌いたい歌ってなんかある?」
即答していた自分に少しおどろく。
「 終わらない歌」
「 ブルーハーツの?」
「 うん」
「 世界が終っちゃうのに?」
「 うん」
「 やっぱり、おもしろいね、あんた」
彼女は小さくハナウタで「 終わらない歌」を歌いだす。私もつられてリズムに乗った。ハモってみると、わたしたちはおかしくなった。
「 だから、終わっちゃうっていうのに」
明日じゃなくて、いま、笑っていた。
ゴミ捨て場は、体育館の裏を通った先にある。近所の高校の食堂でパート勤めをしている私は、ゴミ捨て係りに任命された。「 任命」なんて、厳かな言い方をしたけれど、どちらかといえば、「 命令」に近い。少しばかり若い私は、おばちゃんたちにとって、使いやすいのだ。三十路は越えているけれど、小娘なのだろう。ゴミ捨て係りを押し付けられた意味も、だんだんと分かってきた。体育館の裏では、何かと面倒な場面に遭遇する。生徒がタバコを吸っていたりとか、抱き合っていたりとか、イジメかケンカかわからないことが起こっていたりとか。それに遭遇して、気まずくなるのが、嫌なのだ。なるほど、これは、誰もゴミ捨てには行きたくないわけだ。少しは良くしてもらっているパートさんには、気を付けてね、と言葉をもらったが、私はいったい何を気を付けるのかと、よくわからなかった。私には、そういうものを見過ごす感覚がなく、つい口を挟んでしまうという性質があったのだ。タバコを吸っていた生徒から、それをとりあげ、抱き合っているカップルには、それ以上はするなと忠告し、イジメやケンカには、割って入って、説教をした。そして、その中でも、ある一人の生徒に遭遇する確率が高いことに、私は気付いた。おのずと、その生徒を説教する機会は増えていった。
うるせえな、ばばあ。そいつは、そんな暴言を吐く。ムカついたので、ある日から、そいつの大盛りの注文を受け付けないことにした。
「 なんだよ、大盛りって言っただろー!」
「 大盛りにしたかったら、器の大きい男になるんだな」
そう言い返すと、そいつは「 ちぇっ」と言って、口を尖らせた。ざまぁみろだ。すると、そいつは、翌日、どこからか大きいどんぶりを持ってきて、私の前にそれを差し出した。
「 持ってきたぜ、大きい器」
まったく分かっていないと思いながら、私はそれに、笑ってしまって、思わず大盛りどころか、メガ盛りくらいのご飯をよそった。
「 こんなに食えねーよ!」
「 食え、若者よ」
そう返すと、そいつは、しょうがねぇなと、笑った。そいつが一人で体育館の裏にいたのは、六時限目の最中だ。ゴミ捨て場に向かうところで、私はそいつと目があった。
「 授業中でしょ、何してんの」
私は急かすように、そう言った。
「授業より大切なもんも、あんだよ」
そいつの言っていることは、よくわかった。自分が高校生の時を思い出せば、そのとおりだからだ。けれど、大人になってしまった私は、そのままのことは言わない。
「 それは、授業にでてるやつが言うことだな」
私の言葉に、そいつは、はははと、声を漏らした。そうして、「 なんかすげーな」とつぶやいた。
「 なにがすごいの?」
「 あんまり、覚えてないけど、母親って、そんな感じなのかなって」
そいつの言葉には、どこか郷愁じみたところがあった。私は、特に何も聞かずに、答えた。
「 どうだかわかんないけど、きみも、愛する人を守れる男になりな」
そいつは私に顔を向けて「 授業行ってくる」と、Vサインをした。私は、心でVサインを送り返し、ゴミ捨て場に向かった。
*
夫の転勤で、私はパートを辞めることになった。それを職場に伝えると、何故か学校から「お別れ会」を開くので、ぜひ出席してほしいとお願いされた。意味が分からず、困った顔をしてると、校長室に呼ばれて、説明された。
「 あなたに説教された生徒達が、感謝の気持ちを伝えたいと言っているみたいで。ほとんどのクラスからそういう話が出てまして」
私はいつのまにか、そんなにも説教をくりかえしていたのかと、少し恥ずかしい気持ちになった。
「 あなたは、立派な教育者です」そう続けた校長先生に、「 それは私の仕事ではありません。私は、おいしいごはんを作って、ゴミを捨てにいくのが仕事ですから」と返した。校長先生にまで説教してしまったかと、自分の性格を身にしみながら、私は、体育館の裏の通りに足を運んだ。そこには、予想通り、あいつがいた。
「 またサボってんの?」
そいつにいうと、「今日はテストで、もう終わりだろうが」と、憎まれ口を叩かれた。
「 テストは受けたんだな。偉い」
「 なんじゃそりゃ。学生はテストしてなんぼだろ」
「 人生はテストだらけだよ、がんばれ」
「 くそみたいだな、人生ってやつは」
ポケットに手を突っ込んで、下を向き、地面の砂を足でならす。そんなそいつの、頭を、私はそっと撫でた。
「 手紙、書いてもいいか。いや、年賀状でいい。一年に一度でいい、それだけで、安心する気がするんだ」
そいつの髪はさらさらとしている。まだ、子供の、つやがある髪だ。私は、「かまわないよ」と言ったあと、でも、私が好きなのは、旦那だけだ、と付け足した。
「 誰が、あんたみたいなおばちゃん、好きになるかよ」
そいつは、私の手を払って、口をとがらせたあと、Vサインをして、笑った。
「 器の大きい男になるんだよ」
そいつは、背を向けて、走り出した。私も彼に背を向けて、歩き出した。その背中に、一瞬のときめきを覚えたのは、内証にしておかないと。
つぼみのままの梅が風に吹かれる。もうすぐまた、春が、やってくる。
超短編詩物語集
虹
虹は雨に感謝してる。
「 雨が降るから、僕がいる、ありがとう」
かめ
かめはゆっくり歩いてる。
「 そう? ちょうどいい速さで歩いてるだけだよ」
かめは照れくさそうに笑った
私もそうしようと思った
遠距離恋愛
牛の絵文字でだきしめる
ネズミの絵文字でキスをする
ぎゅうってして、チュウ
会えないぼくらのしあわせな遊び
花
貰った花、渡した花
みんな枯れていった
でもその花を見たときの
気持ちは忘れてない
心にいつまでも咲いてるから、
時々水をやる
貰った花、渡した花
みんな咲いている
待ち合わせ
僕がコーヒーに砂糖を何個入れるのかを
知っている君を見かけました
待ち合わせの本屋
いつの場所で立ち読み
心臓がいくつあっても足りないので
コーヒーの渦をずっと見てました
茶柱
茶柱は湯飲みの中で寝そべってる
「 あっ!」
あのこがのぞいてる
茶柱はがんばって立とうとしてる
「 あのこに、いいことありますように」
おにぎり
梅のおにぎり
夜中にこっそり、おかかの服を着た
こっそり並んで朝を待つ
誰にも気付かれないように
タネがばれないように
すべり台
公園のすべり台は虹のデザイン
こどもは虹をすべっていく
おとなは少し恥ずかしい
だから心だけがすべっていく
虹を渡れたあのころのように
風船
風船、夜空に舞ってった
手紙といっしょに舞っていた
よだかがくちばしでいじめると
パーンとはじけて落ちてった
拾い上げた、そこの君
「 ぼくとお茶でもしませんか?」
春夏秋冬
春は夏に恋をした
夏は秋に恋をした
秋は冬に恋をした
冬は春に恋をした
みんな出会って別れた
きっと来年も好きになる
うれしい時間
たとえば、11時11分とか、12時12分とか
ふと時計を見たとき、うれしかったりする
いちばんうれしい時間と出会った
恋人が生まれた日付と同じ時間
春蝉
まだ春だというのに
セミは鳴いてしまいました
「 しまった! まだ早かった!」
と、焦るセミ
「 おや、もう夏か、お祭りでもするか」
取り返しがつかないので
セミはとりあえず鳴き続けました
今日だけ、夏気分
つくし
つくしがえいっ! っと顔を出す
「 あれ? まだ冬?」
だけど桜は咲いている
「 春だよなぁ……」
花見に行く人
桜の下につくしがいたら
春を教えてあげてください
言葉がじゃまになる
言葉がじゃまになる
だからぼくは寝転んで
ただ雲の流れを見てるんです
ここが青空じゃなくたって
あなたが青空ならいいなって
あーあ、やっぱり言葉がじゃまになる
春セーター
春セーターが空を泳ぐ
強い風に舞い上がったのだ
「おや? こんなところで」
いつかなくした、靴下
「あら、こんなところで」
帽子とスカートと手袋にも出会って
風に服を着させてみると
風はおだやかになりました
雨粒
雨粒、空から落ちてるとき
「 もう、どうでもいいや」
なんて思ってた
きれいな女の子の胸に落ちたとき
「 生まれてきてよかった」
なんて思ってた
そして、川になって流れたさ
けんか
ともだちとけんか別れした帰り道
小さな星が降ってきて
僕のおでこに当たった
「 いてぇ〜! なんだよ!」
星を殴ってやろうかと思ったけれど
星がごめんねというので、やめた
明日、僕もあやまろう
風に会ってしまった
風に会ってしまった
昨日はもうだめだと思ってたのに
風に会ってしまった
明日はどうなるかわからないけれど
今日はどうやら、やっていける
コーヒーカップ
コーヒーカップの持ち主のことを
コーヒーカップは好きでした
「 熱いコーヒーを冷ましてあげる」
そんなふうに思うのに
コーヒーカップの持ち主に触れられると
ドキドキしちゃって、冷めないのでした
あみだくじ
あみだくじ、あみだくじ
ジクザク、ジクザク
辿っていって、辿っていって
まだゴールまでつかない、あみだくじ
「 あ……」
あのこに、また会う日もくるかもね
プロフェッショナル
赤ちゃんは赤ちゃんのプロフェッショナル
じいさんはじいさんのプロフェッショナル
悩める子羊は悩める子羊のプロフェッショナル
なんにも極めてなくたって
「生きる」ことの、プロフェッショナル
ヒコーキ雲
ヒコーキ雲、空を自由に飛びまわり
世界中を気ままに飛び回り
いつしか、空が真っ白に
「 空に、何が描きたかったんだっけ?」
真っ白で、もう描けなくなった
夜が来て、やっと、空が晴れた頃
星は、ひとつひとつ、その場所で輝いていた
「 空は、僕だけのものじゃなかった」
ヒコーキ雲は、反省しました
心のドア
僕の心のドア
いつも閉じたまま
でも、君が僕の前に立ったとき
自動ドアみたいに開いたよ
雨の日
雨の日、空は泣いているのかと思った
だから、僕はとても悲しい気持ちになった
「 悲しいんじゃなくてね」
空は言った
「 歌っているの」
そうかと思って、僕も心で歌ってた
あのこに出逢う、少し前
また明日
約束しないでも会えた、「 また明日」
約束しても会えなくなった、「 また明日」
大人と子供の真ん中で、
何度も言った、
「 また明日」
やさしい手
さよならする手
できるなら 行ってしまわないで
声にできない手
君よりも泣いていた
「 よいこでまってるね」
震え何も出来ない手
必死で抑えてた
よしよしする小さな手
涙をなぞる小さな手
世界で一番やさしい手
北風
冬が寒いのは
北風たちが競走して
強い風になるから
一番になった北風は
春には春一番を吹かせます
一番になれなかった北風たちは
春には優しい南風になるのです
今日の占い
今日の占い、一位は、ハモリ座!
友達のカラオケや
路上ミュージシャンの歌に
勝手にハモっちゃおう!
好きな人と、同じタイミングで、
同じことを言ってしまう
幸福な魔法がかかる、絶好調な一日です!
しゃぼんだま
桜が好きなら、
花火が好きなら、
僕のこと好きだろ?
君の心に届くまでは、
割れたくないのにな
二人だけの海
「 もうすぐ夏だってさ」
「 ほんとう?」
「 だから、海に行こうよ」
「 海の中よ、ここ」
二人だけの、海へ
風邪
君が風邪をひいたとき、僕は優しくなった
君の風邪が僕にうつったとき
君はもう元気になっていて
僕に優しくなった
僕の風邪が誰かにうつったら
誰かは誰かに優しくされるのかな
優しい君の声の中
僕はぼんやりそんなことを考えた
このまま風邪をひいてようかなぁ……
図鑑
食べられる草、食べられない草、
図鑑には載っている
食べられない草、
食べてしまってお腹を壊した人、
もしかしたら死んでしまった人、
図鑑には載ってない
その人のおかげで僕は、
お腹を壊さずにいるのかもね
メダカ
ほんとは、海で生まれたかった、メダカ
川はなんだかちっぽけだ
「 空を見てごらんよ」
君が言ったから見てみたよ
水の中から見上げれば
空はプカプカ、青い海
川もなんだか幸せだ
朝焼け
朝焼けはいつも起きてばっかり
星空がうらやましい
星空いつも寝てばっかり
朝焼けがうらやましい
それを見ている人間のことが
とてもとてもうらやましい
くしゃみ
朝起きると、5回連続でくしゃみした
どこかで、僕の噂を5人がしてるのかなぁ
有名人は、くしゃみがとまらなくて大変かもなぁ
開けっ放しの窓を、僕はそっと閉めた
心絵
君の心の絵と
私の心の絵を重ねたら
どんな絵になるでしょう
それが好きな絵だったら
私たちはうまくいく
そんな気がしてる
バラ
バラは美しいけれど
トゲトゲの体が好きじゃありませんでした
だけど、バラの恋人は
手のひらでギュッとバラを抱きしめるのです
「 ごめんね」
と、泣くバラ
抱きしめる恋人
恋人にだけ、美しければ、
それでよかった
水面
光を映す、水面の鏡
太陽がそれを見て思うよ
「 水面は熱くないかなぁ……」
水面は太陽に言うよ、心を込めて
「 あなたのおかげで、あたたかいよ」
影は水面をよけて、寝ていた
今だけは冷まさないように
趣味
趣味は何と聞かれたとき
サッカーとか映画とか読書とか言うけどね
心の中では、こんなふうに言っている
「 趣味は彼女を愛すること」
かたち
まる、ころころころがった
しかく、台になってのっかった
さんかく、うえにむかってる
くしにさしたら、おでんだね
譲り葉
新しい芽が出ると
譲り葉は新しい芽にその場所を譲ります
譲った譲り葉、落ちていく
「 楽しかったなぁ」
思い出といっしょに落ちていく
ひらりひらり……
「 こちらへどうぞ」
風が道を譲ってくれました
また思い出がふえました
ミルク屋
暗くて細い通り道
ミルク屋さんが通り抜ける
「 わっ!」
ミルクをこぼしてしまったよ
暗くて細い道がミルク色
なんだかうれしくなる、ミルク色
網戸
まだ寒い頃は
僕なんかなんであるんだろうって
毎日退屈に過ごしてた
でも、春になって
あったかくなって
僕は僕でよかったって思った
優しく吹いてくる風を
僕がもっと優しくしてあげるよ
(蚊も入れさせないぞ)
ハンガー
何もかかってないハンガー
自分の重さしか感じない
「 ただいまー」
上着はハンガーへ
「 今日は暑かったー」
自分以外の重さを知るハンガー
それは幸せになる重さ
愛してる
「 愛してる」という言葉を知った男の子
「 どんな意味?」
ママに聞いたら
「 大好きってことだよ」って
花にも空にも虫にも
友達にも赤ちゃんにも郵便やさんにも
みんなに愛してる
あのこにだけはうまく言えなかった
「 大好き」
あなたの愛
あなたの愛は元気ですか
すくすくと育ってますか
水をやるのを忘れずに
撫でることを忘れずに
愛の形を忘れずに
冬眠カエル
冬眠のカエルが
眠りから覚めてゲロゲーロ
けれども、まだ起きないカエルもいます
「 眠るにも体力がいるのさ、
このカエルは起きたら相当元気だぞ。
まだ寝かせとこう」
友達が言ってたから
心の中で
「 もう春だよ」
って、教えてあげたよ
ピアノ
あの人は
私のきれいな音が好きだって
言ってくれたけど
♪ボーン、ボーン
こんな低い音も
好きになってくれるかしら?
影
靴を脱いだら、影が靴にくっついていた
「 ついてきていいよ」
僕は影を呼んだ
影はこめんねと言いながら足にくっついた
影だって僕の一部なのだ
晴れ時々神様
よく晴れた日曜日
神様は雲のベッドの上
ごろん、ごろんとして
落っこちた
落ちた芝生の上に寝転んだ
ごろん、ごろん
それを真似する、雲の上
ごろんごろんとして、落っこちた
今日の天気は、晴れ時々神様だ
三日月
三日月が泣いてる
だから、黄色い月くずが
夜空から落ちてきた
三日月の涙は枯れてしまって
夜がキラキラしています
紙コップ
僕の手が冷たい時
紙コップから伝わるのは暖かさ
僕の手が暖かいとき
紙コップから伝わるのは冷たさ
想い合うほど
ふたつでひとつの心
木陰
木陰でひとやすみしてるとき
ひだまりが転がってきました
「 ちょっとあったまりすぎちゃってね」
と、苦笑い
僕もつられて笑いました
木陰もきっと笑ってたのでしょう
わすれもの
わすれもの、わすれもの
昨日にわすれもの
もう取りにいけない
と思っていたけど
今日になり
昨日のわすれものが
心に届いたよ
だからもう少し、生きてみる
残ったドア
目の前にドアがいっぱいで
「 あの…」
って声をかけたら
「 開けてはダメ…」
って
そうやって、一つずつドアは消えてった
残ったドア、開けていい?
街で
君に似た人を見るたび
僕は目で追っている
たくさん見かけたのに
君はどこにもいなかったよ
オネスティ
「 優しいのね」
「 優しいよ」
「 優しいけど、ずるいのね」
「 それが好きだと思ってたからね」
僕らはいつも誠実さを求めていたけど
それはときどき誰かを傷つけた
「 好きだったよ」
「 知ってた」
もっと深い気持ちがあることを
僕らは知ってしまったんだ
つぼみ
ずっとつぼみのままの花
仲間の花は、もう咲いた
つぼみのままで、話す花
咲くまでまだまだかかりそう
それでも何にも怖くない
もう咲いてるかも、遅咲きの花
くもり空
曇り空はどんよりしています
スズメが曇り空を突き抜けて、言いました
「 泣いてしまうとしても、笑顔になれるとしても、
そのための準備をしてるんだ」
突き抜けた空から
風が流れていきました
雨上がり
雨上がり
虹が出た
「 悪かったよ」
「 うん、ごめんね」
手を繋いで帰る帰り道
雨上がり
虹が出た
わたあめ
曇り味のわたあめは
あんまり甘くないけれど
食べ終わったらいつも
太陽が笑ってた
別れ話
「 話がある」と君が言った
別れ話だとすぐにわかったのに
君と話すのが久し振りで
それがうれしかった
この別れ話が
終わらなければいいのにと
君も思ってる気がした
カレンダー
月末の日曜日は
上の段に3つ乗っかかられて
ちょっと重かった
だから、日曜日が来るたび
いいことがあって
軽くなってくれないかなぁ
そんなことを思ってた
赤色
「 あのこのこと好きなんだろ」
「 きらいだよ」
「 うそつけ」
「 おまえこそ、あのこのことが、
好きなんじゃないの」
「 バカいえ」
黄色の子供、橙色になった
白の子供、ピンクになった
ふたりが好きな赤色のあのこ
温度
お風呂は41℃が体にいいって、どこかで聞いた
君を愛する温度はどれくらいが、ちょうどいい?
熱すぎるとのぼせちゃう?
ちょうどいい温度になっていたい
変わりない道
特別変わった道じゃなく
他にたくさん人が通る
そんな道を歩いてる
変わった道が好きな人を
横目でチラチラ見てる時
心の中で叫んだよ
変わりない道で何が悪い!
僕はもう決めたよ
君に会うために生きることを
向日葵
向日葵が咲きました
兄弟そろって、早めに
「 太陽のない季節に咲いちゃったなぁ」
少しあわてる弟
「 太陽の方を向けばいいんだよ」
のんびりやの兄
雨にうたれても、あせることのない黄色
しあわせ
おいしいものを食べる
きれいな空を見上げる
道端の花を見つける
涙をふいてあげられる
「 ねぇ、しあわせ?」
「 うん、とても」
ふたりで話せるというしあわせ
靴ひも
ふたりは靴ひも
ケンカしたときはほどけてる
気がつかなければ、結べない
ふたりは靴ひも
気がついたなら、結ばれる
水
生まれたときは雪だった
落ちた場所は川だった
流れてもうすぐ滝になる
その先には海がある
いろんなものになるけれど
僕の正体はずっと僕
君が見ているどれかに
僕はいるから
ハンカチ
ハンカチは言いました
「 雨ばっかりで、全然乾かないよ」
女の子は泣くのを止めました
「 雨の日は、泣かないからね」
一日
水鳥が土の上を歩く
「 はじめまして」
「 はじめまして」
水鳥が空を泳ぐ
「 こんにちは」
「 こんにちは」
水鳥が水面に帰る
「 ただいま」
「 おかえり」
「 さよなら」と、落ちていく夕焼け
魚
悲しいことがあった魚は
空を泳ぎたくなりました
だけど、空には鳥が飛んでいて
きっとすぐ食べられてしまうなと思ったら
海がいいなと思いました
海を空だと思って泳いでみると
魚はとても気持ちがよくなりました
雷
ゴロゴロ、ゴロゴロ
「 あ、雷だ!」
寝返りをうっただけなのに
寂しい涙が雨になりました
海がきこえる
海のない僕らの町を
彼女とふたりで歩いていたら
彼女は言った
「 海のにおいがしない?」
さっき食べたシーフードのせいだろ
僕は茶化してみせた
「 違うよ、海が聞こえるのよ」
わかってるよ
僕は彼女を抱き寄せた
ふたつの鼓動はさざ波のようだった
ドライアイ
二階から目薬が降りて来て
「 最近、ドライアイじゃない?」
と、言った。
「 そうでもないから、帰りなよ」
と言うと、目薬は
「 あなたの愛は乾いてる。ドライアイだよ」
仕方がないので、愛を補充した
見えないものがよく見えた……気がした
まち
できたてのころは
昼はにぎやかで
夜は静かで
朝は、すごく優しかった
僕の姿はどんどん変わっていくけど
できれば僕を
優しいままでいさせてください
箱
彼女が誕生日にプレゼントをくれた
小さな箱ひとつ
中には時計が入っていた
だけど、幻のように手にはとれない時計なのだ
「 時間をあげるわ。
あなた私といると時間を忘れてしまうでしょ」
手にはとれないけれど、ある時間
僕は笑って、ふたりだけの時間を箱に閉じ込めた
コンプレックス
コンプレックスが歩いてました
僕の前で立ち止まって
「 やぁ、いつもごめんね」
と言いました
知らないふりをしようと思ったけれど
「 そんなことないよ」
と答えました
ちょっと、すっきりしました
夢
夢という字はどうして
草かんむりなのなかぁ
夢は摘めるものなのかなぁ
彼女は今日も、花を摘む
風船2
風船、膨らむのを待っている
ドキドキ、ワクワクしながら待っている
そんな気持ちが大きすぎて、
気付いたら期待に胸が膨らんでいましたとさ
太陽の恋
太陽は月のことが好きになった
太陽が知ってる月は、まだ昼間の白い月
「 月は夜にはもっときれいになるんだよ」
通りかかった鳥の子が教えてくれた
「 いまよりきれいになってしまうのかぁ」
うれしいようなさみしいような
太陽は恋を知りました
だるいさん
最近のだるいさんは、ちょっと変だ
「 やぁ、だるいさん。今日もだるそうですね」
「 だるいの名にかけて、だるくしなくちゃな! がんばるぞ!」
元気なだるいさんも悪くない
蛇口
蛇口はのどが渇きました
「あぁ〜、水が飲みたいよ〜」
子供らが蛇口をひねるたび
蛇口ののどには水が流れていきました
羽根
羽根をなくしたオス鳥が歩いている。
その子を好きになったメス鳥は一緒に歩く。
「 先に飛んでいってかまわないよ?」
と、オス鳥。
「 一緒に歩いたほうが楽しいわ」
と、メス鳥。
世界一優しいメス鳥の羽根をなでると、
ふたりの心は空を飛ぶようでした
カーテン
カーテンを開けるのが
好きになった女の子
閉めるのは嫌いです
「 どうして?」
「 空が見えないから」
窓に星が降ってきます
七夕 第一夜
七夕をすっかり忘れていた織姫。
一日遅れて天の川へ
そこにいた彦星
ふたりはごめんと謝った
ふたりの心は一つだったみたいです
夏祭り
夏祭り、浴衣の袖
金魚掬いをするときに
袖を気にするあの仕草
君は知らなかったでしょう
それに見とれていた僕を
夏祭り、少年の夏
星
星は動けないので、少し退屈でした
でも、よくみたら
青い星がぐるぐるまわっているのを発見しました
「 お〜! あの惑星きれい!」
ずっと見てたら
目が回ってしまいました
ここにはないもの
遠くを見てるひとがいたので
どこを見てるの、と聞きました
「 ここにはないもの」
だと言っていました
遠くを見てもそれが見えないぼくは
足元にあるものを、ちゃんと見ようと思いました
携帯電話の恋
きみがぼくのことばかり見てるときは
恋をしているときなのさ
きみのこと好きなぼくは
きみの好きな人からメールがくるように
いつも祈ってるのさ
電話はちょっと嫉妬する
ホタル
「 わかるの?」
「 わかるよ」
みんな同じように光る蛍
「 どうして?」
「 愛してるから」
特別な気持ちが
宇宙を照らす
それも愛
「 あんたなんて、いてもいなくてもいっしょよ」
機嫌の悪い妻が言うから、答えてみる
「 じゃあ、いるよ」
「 勝手にして」
妻は洗濯しながら、鼻歌を歌っていた
紳士
「 紳士は本をめくるとき、
一緒に人生もめくってる」
と、彼女が遠い目をして言うので、
「 君のスカートをめくるとき、
一緒に愛をめくってる」
と、言ったら、笑われた
そんなところが好きだと、
言ってくれた
ラフレター
手紙を書こう。
君を笑わせる手紙。
君が笑うなら、僕は幸せ。
「 ははは」
手紙にまで笑われた。
おかえり
帰る場所のない旅人
空き地で見つけたのは
どこでもドアみたいな扉
「 まさかな」
扉を開けてもどこへもいけなかったけれど
「 おかえり」
って、聞こえた気がした
宇宙より広いな、大きいな
空は広いな、大きいな
海はそう思った
宇宙は広いな、大きいな
空はそう思った
宇宙は何を見たら
そんなふうに思うんだろ?
「 火星は熱いから、さわっちゃだめ」
ちっちゃい君の心は宇宙より広いな、大きいな
恋の終わり
恋の終わりがやってきて
にっこり私に笑いかける
だから淋しいこともなく
あったかい気持ちになったんだ
あなたがそばにいてくれる
それが恋の終わり
旅人
旅人は歩いた
疲れたら休んだ
楽しかったら、笑った
悲しかったら、泣いた
「 どこに向かってるの?」
「 幸せ」
旅人は答えた
思ったことを答えた
嫉妬
僕を嫉妬させた彼女は言った
「 嫉妬した?」
「 したよ」
「 ごめんね」
「 好きだよ」
と、僕は彼女を抱きしめた
淡い夢の中で
七夕 第二夜
彦星は天の川へ行きました
「 あれ? 織姫いないなぁ?」
困っていたところに、織姫からメールがきました
「 来月、来て?」
仕方がないので
天翔ける英雄と一緒に飲みました
一人旅
一人旅が苦手なのは
この素敵な景色を
独り占めするのはもったいないから
そのときはじめに浮かんだ
その人を想っていると
私の中には愛が、あることを知るのです
それがあなたへの気持ちです
夏の北風
夏に生まれてしまった北風
暑さに負けて、ぬるくなってしまった
「 ごめんね」
太陽が謝るのだけど
「 南風になったみたいだよ」
と、北風は思っていました
やま
春、山はおおあくび
僕もつられておおあくび
夏、山は汗をかく
僕も一緒に汗をかく
秋、山は赤く染まる
僕も恋して赤くなる
冬、山はくしゃみする
僕も寒くてくしゃみする
雨の日、山の涙が流れ出す
僕の涙も流れ出す
あの子の国
あの子の国では
首を縦にふるのは「 いいえ」、
首を横にふるのは「 はい」
あの子と話したいなら
今まで覚えたことは、忘れることだね
言葉の旅
僕がそれを口にした瞬間から
言葉は旅に出た
砂漠も海も摩天楼も
全部見てきたけどそこに
居場所はないと思った
「 そういえば、こんなふうに言ってたよね」
君の心のふるさとで
僕は言葉とまた出会った
それはもう、ふたりの言葉だ
泣き顔でスマイル
海にも入っていないのに、
プールにも入っていなのに、
水の中にいるようだ。
「 涙があふれてるよ?」
そう言われて気が付いた。
「 どうりで涼しいわけだ」
猫になりたい
僕は犬だけど
猫になりたかったんだ
猫になれたら
好きなときに好きな場所に
行ったりできると思って
「 散歩いくよ」
僕の尻尾はくるくるまわる
君についていくのも、悪くない
半分月
自信のない月は
本当の姿を半分だけしか見せない
もう半分を見せても
嫌いになったりしないかな
嫌いになんか、なれないよ
やさぐれ色
色えんぴつに、新しい色が加わりました
「 やさぐれ色」です
どんな色なかのかって?
「 やさしいグレー」です
風鈴
風鈴が夏を冷まします。
「 りんりんりん…」
おや?
「 リンリンリン…」
早すぎた鈴虫の声。
少し冷やしすぎました。
夏の模様
君が夏の模様を描いた
そこに僕も描かれていた
「 秋も冬もいられるかな?」
「 それは今はわからないわ」
君が夏の模様を描いた
僕の絵には秋も冬もずっと一緒にいるよ
カフェオレ・デイズ
牛乳はもう卒業だ
でもコーヒーはまだ苦い
混ぜてカフェオレが、ちょうどいい
大人になりかけ、十三の夏
すき焼き
「 好きなものを焼くから、すき焼き?」
「 違うと思うよ」
「 お好みのものを焼くから、お好み焼き」
「 それはそうかもしれない」
「 すき」というのは奥が深いと
子供の僕は思ってた
大人になっても思ってた
アイス
冷たいねって言われて
落ち込んでいたら
なめられた
僕はアイス
冷たいままで
そっと愛す
十六の夏
君に触れるとビビビときた
これは恋かと思ったら
「 それはただの静電気」
と笑われた
「 ほんとの恋なら、
触らなくてもビビビとくるのよ」
年上の人に恋した、十六の夏
夏
「 ちょっと暑くしすぎた?」
「 うん、ちょっと」
夏は悲しかったので、
冬の場所に太陽を向けました。
またね
けんかして泣いた小鳥
それを見て泣いた小鳥
泣き止んで笑う小鳥
それを見て笑う小鳥
またねって手を振った小鳥
またねって手を振った小鳥
もう会えなくても
仲良しな小鳥
々
彼女の名前には
「 々」という字が入ってる
名前を入力するときは
「 佐々木」を名前の間に入れて
「 佐」と「 木」を消した
まだそれが「同じ」という読み方だとは
知らずにいた
二十歳のころ
ソファー
君が疲れて眠る
君の重さを感じてる
「 ベッドで眠りなよ」
僕は強がるけれど
君の寝息と離れたくない
ほおづき
「 ほおずきはね、頬杖しながら鳴らす花なんだよ」
「 だから、「ほおずき」なの?」
「 花言葉は、「偽り」だけどね」
「 うそかよ」
電話
片思いの女の子
電話が鳴るのを待っています
「 そんなに見つめられると、照れちゃうよ」
勘違いの電話
わかってるけど、ちょっと幸せ
風の強い日
風の強い日にだけ
その猫はやってくる
にゃぁにやぁ
たんぽぽの綿毛と並んで
風に飛ばされる
風が強い日、耳をすませてみてごらん
ヒュルリララ
ラララ、ラララ、ヒュルリララ
あれは恋をしたころの音
シャララ、シャララ、ケセラセラ。
あれは誰かを忘れるための音
「 別れることにはもう、慣れました」
と、おばあさんは言いました。
たくさんの出会いが別れを笑顔に変えたのです。
ラララ、ラララ、ヒュルリララ
あれは出会いと別れの音楽
おはよう
いつもの道を歩くあの子に
「 おはよう」と挨拶
気づいてくれたかな
嫌なことがあって
寂しい顔になったあの子に
「 大丈夫かい」と髪をなでる
気づいてくれるかな
楽しくてしかたのないあの子が
走り回って風を作る
ぼくの友達が増えたよ、ありがとう
また、会いにいくよ、おやすみ
人の影
人の影は自分では笑うことができないので
少し悲しかったのです
「 笑ってあげるから、落ち込まないで」
女の子は影のために
笑ってあげました
女の子が笑うたび
影はうれしくなりました
君の夢
君の夢はなんですか
その夢が君を傷つけているなら
その夢はもう、見なくていい
幸せに暮らすことのほうが、大切だから
後悔
後悔がやってきて、僕に言った
「 あんなこと言うんじゃなかったな」
後悔と一緒にビールを飲んで、僕は泣いた
いつの間に眠ってしまって、ふと目が覚めると、
後悔はいなくなっていた
「 あんなこと言うんじゃなかったな」
またそう思ったけれど、
いなくなった後悔は笑っている気がした
コーヒー
コーヒーが好きになってしまって
夜、眠れなくなってしまった男の子
雨が、ぽた、ぽた、ぽた……
雨は音符になって、子守唄
朝にはやんでいますように
僕の夢
「 あなたの夢を教えて?」
あのこが聞くから、僕は言った
「 世界中の本を集めた図書館みたいな家で、
君と一緒に暮らすことだよ」
僕はまだ夢をあきらめない
カレーのにおいがするとこに
カエルの子は帰るよ
どこに帰るよ?
カレーのにおいがするとこに
カラスの子も帰るよ
どこに帰るよ?
カレーのにおいがするとこに
それがどこか見つからないとき
カエルの子は作るよ
カレーのにおいがする
家族の家を
憧れ
深海魚は空を知らない
でも「 空」という言葉を知った
深海魚は空に憧れた
深い海の底、見たこともない空を心に描く
そのころ鳥は
海を泳いでみたいと思っていましたとさ
空の奥で
雷が光るとき
ゴロゴロと泣いているのはね
せっかく光ったのに
誰も喜んでくれないから
空の奥のほうで
光る星に憧れています
ダジャレ警部
「 ダジャレ警部! 警部宛の手紙が、
何者かに盗まれました!」
「 さらわれレターだな」
「 今入った連絡によると、
藪の中で発見されたそうです!」
「 やぶレターだな」
遠くへ行こう
遠くへ行きたいと思ってるとき
足元の石ころが言った
「 おれをおいていってもいいのかい?」
よく見るとそれは
心の破片
振り返れば、ぼろぼろ落とした道が続いてる
それをだれかが拾って
笑顔になった
僕はまた遠くへ行こう
落としながら、拾いながら
満月
暦は満月
でも雲がカーテンをして
どこにも見当たらない
でも満月だと思うと
雲のカーテンは美しい
「 見える?」
「 見えるよ」
雲は満月を隠してる
君の好きなとこ
「 君の好きなとこが十個あるとしたら、
イヤなところは十一個あるよ」
と言うと、君は怒った
それは好きなとこだ
トビウオ
トビウオ、飛べなかった
だから名前を変えた
「 飛べ魚」に
「 飛んでやるぞ!」
トビウオ、飛べそうだ
あいさつ
「 こんにちは」
「 ふむ」
ひげの生えた殿様ガエルは
あいさつをしない
それをミドリガエルは
おかしく思った
「 こんにちは」
「 こんにちは」
ひょっとこガエルのおじさんは
あいさつをしてくれた
素敵な大人もいるもんだ
新聞
テレビと天気予報のとこだけ見てた子どものとき
新聞は僕に言ったさ
「 中身も見てよね」
彼女の服を脱がすオトナのとき
僕はその言葉を思い出すのさ
さかさま
コウモリを見つけた
「 どうしてさかさまなの?」
って聞いてみたら
「 君がさかさまなんだろ」
って言われた
そっか、と思って
僕は逆立ちをしてみる
違う世界があったよ
五円玉
五円玉がその一生で、幸福だった瞬間は
好きなあの娘の手の上に乗ったとき
その娘は五円玉を財布にしまったあと
彼氏と手をつないだ
それを見たとき、五円玉の役目は
終わったのだった
それですべては
風のうたも、花の声も
聞こえてこない私の耳
あなたの心の中が
もしも私にわかったら
それですべては報われる
あのひと
神様の手が僕をなでた
それはとてもあたたかくて、優しかったけれど
あのひとにはかなわない
あのひとになでてほしい
それは叶うことはないけれど
「 叶わない恋はどうしたらいい?」
「 あきらめてしまえ」
そう言って神様の手が僕をなでた
僕がほしいのは、あのひとだ
夏の終わりに
土の中での生活は、苦しくもなく
疲れるわけでもなかったけれど
物足りなかった
「 行こうよ」
「 え……うん……」
あなたが外へ連れ出してくれなかったら
笑うことを知らなかったかもしれない
夏の終わりにセミはそんなことを思っていました
優しさのはじまり
彼女は恋人ではなくなってしまった
「 今度は何が始まるのかな」
と、彼女
「 たぶん、ただ好きだって気持ちが、
続くんだよ」
僕はそう言ってみた
「 じゃあそれは、
出会ったときに戻るようだね」
彼女は明日から
僕の妻となる
楓
「 夕陽に色を付けてもらって、
なんだか今風だなぁ」
でも、雨と風に色をさらわれて
「 なくなっちゃった……」
でも、蛍が楓にとまってくれた
楓の心は照らされたのだ
台風
台風がきた日、僕は葉っぱに言葉を書いた
それを台風に乗っけて飛ばした
進路はいまのところいい
君の住むところまで、台風と一緒に飛んで行け
ごめんなさい
最近「 ごめんなさい」を覚えた男の子
つまずいて倒れそうになった
女の子を助けたときにも
「 ごめんなさい」
女の子は
「 いいえ、ありがとう」
男の子は、「 ありがとう」とドキドキを
覚えました
鏡
鏡は自分の姿を見たことがありません
だけど恋人ができたのでわかりました
「 君が僕を覗くとわかるんだ
君が僕を幸せにしようとしてること」
恋人こそが、鏡だったからです
歌
音楽の授業が好きだった
僕が苦しいとき
「 つらいことがあったときは
大きな声でうたうといい」
と、先生は言った
今はつらくなくても歌ってる
音は楽しいと、教えてくれたから
わたげのなみだ
あれは私の幼き日
母の手に引かれた散歩道
わたげのなみだが落ちてきた
「 かあさん、わたげが泣いてるよ」
「 そうね、旅立つときは、淋しいね」
私はあした、嫁ぎます
バースデイ
「 年はとりたくないなぁ」
「 代わりにとってあげるよ」
「 ありがとう」
「 僕の誕生日に、とってね」
「 それじゃ、おんなじだよ」
「 少しの間だけ、とらないですむよ」
「 少しだけかぁ」
「 おめでとう」
「 うん、ありがとう」
テクテク
涙が落ちた場所はアスファルト
「 こんなとこで死ねるか」
涙はテクテク歩き出す
大地に溶けるために歩き出す
十年たっても
「 しあわせだね」とつぶやいてみると
「 しあわせだね」と返ってくる
十年たっても変わらずに
「 少し怖いね」とつぶやいてみると、
「 少し怖いね」と返ってくる
十年たっても変わらずに
何十年たっても変わらずに
こだまが響きますように
夜空のタマゴ
「 ツキがないなぁ……」
夜空を見てたら
お腹がすいた
そしたら、夜空でタマゴが、
星から星へ渡ってた
少しずつひび割れ
「 割れた!」
出てきたのは、生まれたての、
お月様
ペットボトル
空っぽになったペットボトルは
捨てられる
それでもまたリサイクル
空っぽになったぼくのこころは
どこにいく
誰かにリサイクルされるなら
捨ててしまおうか
オレンジ月
夕暮れに憧れた月
昇ってくる時、泣きながら
夕暮れを食べた
すると、夜がやってきて
月は夕暮れのオレンジに
泣いてる誰かに
オレンジを配ろう
月はそうして
黄色に戻っていきました
トカゲ
家出して、網戸に張り付いてたトカゲ
夕飯を食べる家族を見てたら
泣いてしまいそうになった
「 おなかすいたなぁ……」
さぁ、お家へ帰ろう
誰かの庭に
どれくらい知りたいと思っても
なんとなくピンとこないこと
あきらめかけたそのときに
出会うこともある、その不思議
自分の庭に咲かなくても
誰かの庭に咲いたりする
そのとききっとわかるんだな
あなたがいてくれてうれしいこと
星屑
屋根に上って
そこに落ちてる星屑を集めた
それを固めて、手のひらくらいの
星を作った
それを空に投げて遊んでた
「 あ、流れ星!」
みんなが願いをかけたので
僕はせっせと星を投げ続けた
足跡
大きな大きな足跡
「 誰のだろう?」
それは雲から落ちた、白熊の
小さな小さな足跡
「 誰のだろう?」
それは土から生えた、野の花の
大きな小さな足跡
「 誰のだろう?」
それはいっしょに歩いてきた
ぼくたちの
甘い風
友達が口を開けてぽかんとしてるから
「 なに、ぽかんとしてるのさ」
と、聞いてみた
そしたら、「 風が甘いんだよ」なんて言う
甘いお酒を呑んだからだとは、言わずにおいた
空の涙
空が泣いているとき
私ができることと言えば
ただそれを見てやることだけだ
だから見ている
「 それ、ちょっと照れる」
空は私を見てくれた
「 私もちょっと照れてる」
空の涙はあったかい
夜が来ない国
夜が来ない国に、夜がやってきて
人々は怖くて仕方なかった
あるとき、男が歌いだす
つられてみんなも歌いだす
夜が来ない国に、初めての朝焼け
夜が来ない国の、初めての朝でした
動物園
娘がなかなか寝付けない
明日、動物園に行くからだ
「 寝ないと、明日起きれなくなっちゃうよ」
「 ヒツジさんとかも寝てる?」
「 うん、寝てるよ」
「 じゃぁ、寝るっ!」
Zoo...Zoo...
夢で羊に逢ってるな
花は空を
花は空を見ていました
空は海を見ていました
海は風を見ていました
風は雲を、雲は虹を
虹は砂を、砂は太陽を
太陽は、花を……
「 花は空を見てるなぁ、空には僕もいるよ」
太陽の光は、花を育ててる
嘘
「 愛してるって嘘ついてくれない?」
「 どうして?」
「 一度でいいから、聞きたくて」
「 そんなうそはつけないよ」
「 やっぱりそうか」
「 もう愛しているもの」
秋の夜長
秋の夜長に、本を読む
秋の夜長に、雨を聴く
秋の夜長に、星を見る
秋の夜長に、夢を見る
ほんとは、あなたに、抱かれたい……
秋の夜長の、せつなさよ
電池
ふたり並んで寝転ぶ電池
いつも一緒にいたのに
一方が先に切れそうです
「 先になくなるみたい」
もう一方は、力を振り絞る
「 一緒になくなろうよ」
最後の電源を入れると
大好きな音楽が流れた
歩いていこう
「 どうして人は歩いているんだろう?」
空から鳥は思っていた
雲は笑って言ったよ
「 飛んでいるのと同じことだよ」
太陽は遠くから、みんなを温めた
音楽
寂しい時に、部屋で音楽を聴いている
夜はもう寒くなってきたから
窓を開けることもない
そしたら音楽は、苦しそうだった
その苦しさを僕はわかって
窓を開けた
すると音楽は喜んで
窓の外へ飛び出していった
部屋に音はなくなった
夜空で♪が☆になって歌ってた
玄関先では鈴虫が秋を奏でたんだ
懐中電灯
懐中電灯は「 暗闇を照らす課」で働いている
同期の照明は出世して上司になった
たくさんの人を照らすことのできる照明を
すごいなと思ってる
ひとりしか照らせない僕は
ひとりを一生懸命照らすしかないな
ときには照らさないことも仕事だ
懐中電灯は素敵な仕事をしている
月どろぼう
月がなくなりました
「 どこにいったの?」
「 夜を見てればわかるよ」
夜を見てました
「 あっ!」
雲が月を乗せて、逃げてたよ
砂漠の花
砂漠に落ちた僕は
水がほしくて探していた
でも見つけたのは花だった
なんでこんなところに?
って聞いたら、花は泣き出した
その涙を飲んで、喉が潤った
この花に水をやりたい
そう思ってまた、水を探しにいった
秋のアジサイ
梅雨に滅入ったアジサイは
秋に咲いてみました
けれども、仲間もいないので
せつなくなりました
「 わぁ、初めて見る花!」
鈴虫がびっくりして、羽を鳴らす
「 初めて聞く音……」
アジサイは、心地よくなりました
屋根
屋根はどんな時も空と友達
「 ごめんね」
雨の日、空はあやまる
「いいよ、おかげできれいになるよ」
空は屋根に虹をかけました
ドローイング
絵を描いてみる
下手くそでも描いてみる
落書きでも描いてみる
ノートには
喜びも悲しみもいっぱい
色褪せていくとき
あたたかい気持ちに包まれる
みかんの涙
まだ青くて若いみかん
柔らかくなれなくて
きっとすっぱいんだろう
「そんなことないよ」
と、みかんが泣くので
食べてみた
やっぱりすっぱい
いや、しょっぱい
みかんの涙だ
ゴール
ゴールにたどり着きました
ゴールは言いました
「 ありがとう」
それがうれしかったので
次のゴールを目指しました
今までの「 ありがとう」といっしょに
見えなくてもあるもの
心は見えないのに、ちゃんとある
たとえば、雲がかかったあの向こう
この町の月は隠れていようとも
あなたの町には輝いてるの
それを思うとうれしいのは
見えなくても、ちゃんとあるからさ
月とチーズ
月がチーズに見えたねずみが
月を食べに行きました
でも月までは遠いので
クリスピーみたいな星を食べて
星から星へ渡りました
星が見えない夜は
ねずみがきっと食べたのです
エンピツ
古く短くなって
持つのもやっとになった
かわいいエンピツ
私が大きくなるにつれ
あなたは小さくなった
まるであなたはお母さん
いろんなことを教えてくれた
まるであなたはお母さん
いつまでも忘れないよ
似てないふたり
スズメバチが、空で
すずめと出会いました
「 やぁ」
「 やぁ」
ふたりは気まずくなって
「 じゃぁ」
「 じゃぁ」
って
ふたりは思いました
「 全然似てないや」
サラダ
サラダは花がうらやましい
赤、青、黄色、きれいに色がついたのに
花のように愛でてくれずに、食べられる
だからせめて
食べる私の色になれ
孤独
孤独が好きな人に会いました
孤独が好きなので
相手になんかしてくれないだろうと思ったら
たくさん話をしてくれた
「 どうして?」
と、聞いたら、こう言った
「 出逢ってしまったからね」
ランドセルから一言
ランドセルに、
たてぶえは、入りません。
道
前にも後ろにもはるか遠くに続く道
それをこの道は知っているけど
道は歩くことができない
ただそこにいるだけ
「 どんなふうな道だったのかな。
どんなふうに続いていくのかな」
道は知らない
道の分まで、歩いていこうよ
月のポスト
月のポストに手紙を送った
届いてるのかな
いつも不安になったてた
ある日、月から手紙が届く
-私も月を見ているよ-
あの人からだ
あの人のにおいがした
お箸から一言
自分に「 お」は付けなくていいっす。
自分、呼び捨てでいいっすよ。
でも、お椀には、
「 お」を付けてやってほしいっす。
空のスクラップ
僕は毎日、空をはさみで切って
それをスクラップしている
それは僕の宝物なのだけど
ある日、切り取っていたとき
空が泣いた
くぅ、くぅ……
泣き声を聞かれたくなかったのか
空はあっというまに夜をつれて来た
僕はもう空を切り取らない
ストーブ
ストーブのボタンを押しました
おかげで寒い部屋があったか
「 あったかいね」
「 うん、あったかいね」
君のボタンはどこにあるのか知らないけれど
君といると僕の心はあったか
ただ、それたけで
洗濯物
「 一緒に踊らない?」
と、言われてみても、
僕は踊るのが苦手。
仕方ないな、と、風が吹く。
「 上手に踊るのね」
君は僕に見とれてた。
洗濯物のフラダンス。
戦場
戦車が行き交う川のほとりで
スズメは川に言いました
「 ねぇ、きれいだね」
川は言いました
「 そっちこそ」
夜には星が輝きました
みかん会議
目の前にあるみかんは甘いのか酸っぱいのか会議
議論は平行線を辿ったので、食べてみた
「 甘酸っぱいね」
みかんは誰かに恋をしていたのだ
おつかれさまの国
最近「 おつかれさま」という言葉を覚えた女の子
言うのが楽しいから誰にでも
疲れてないけど、おつかれさま
そしたら大人は笑ってる
ほんとに疲れて、おつかれさま
それでも大人は笑ってる
大人って変だなぁ
ほうき星
毛布に包まっても
なんだか寒い冬の夜
「 おやすみ」
夜空に言ったら
ほうき星がそれを掃いた
せつなくて、また毛布に包まっていたら
「 おやすみ」
と、時間差で
すぐにあったかくなった
優しい人
優しい人になりたいなら
優しい人といよう
優しいことや優しい言葉をくれる人が
優しいわけじゃないよ
たいせつなことが何かを知っている人といよう
その人といると優しくなるような
そんな人といよう
極楽
「 昨日、天国に行ってきたんだけど」
「 楽しかった?」
「 まぁね。きみがいたら、もっと楽しかったんだけど」
「 じゃあ、こっちが天国だ」
「 いや、極楽だね」
「 へへへ」
毛布
毛布は思ったよ
「 僕はどれくらい暖かいのだろう」
誰も使っていない毛布は知らなかったけど
ある日、彼女が使ってくれたよ
「 あったかいね」
そう言われると
毛布はどんどん暖かくなっていくのが
わかったよ
一日遅れ
彼が星を見ているとき
彼女は青空を見ている
あした、星をあげる
あした、青空をあげる
遠く遠く離れたふたり
一日遅れて、空を交換した
一日遅れで、想いが届いた
襷
秋が冬に襷をつなぐ
ちゃんと走った
精一杯
襷をかけた冬が走り出す
春が待つ場所まで
精一杯
ハエ
ライオンがのっしのっしと歩きます
動物たちは逃げ出します
「 ははは! 世界は私のものだ!」
声をあげるライオンの顔には
ハエが止まってます
ハエの親子は話しました
「 ライオンの顔は気持ちいいね」
「 そうだねぇ、ふかふかだもんねぇ」
「 でも、トラもなかなかだよね」
「 そうだねぇ、なかなかだよねぇ」
ライオンはそんなことには
気づいていませんでした
答えのある日、ない日
答えのある日、背中に翼が生えた
それがいい答えでも悪い答えでも、
飛べる気がした
答えのない日、紅茶に砂糖を入れた
甘すぎて飲めなかったことを、友達と笑った
幸せから目をそらさないでいられた
風景
夜にひっそりと泣こうと思った空
わからないように小雨を降らす
小雨に気付いた白い花
「 あったかい雨だな」
朝は青空
空は白い花の上に
小さな小さな虹をプレゼント
夜空に飾れなかった六等星が
虹の橋を渡ってた
行ってきます
レジ
千円「 行ってきます」
一円「 あ、いってきます」
百円「 ただいま」
十円「 ただいま。あ、募金します」
ATM
一万円「 お久しぶり」
二千円「 あ、元気だった?」
いま、いくら?
雪の日
晴れた日は寒い
風も何もなくても
雪の日はあったかい
雲がふたをしてくれる
君の手はかじかんでるから
僕がふたになってみせるよ
腕時計
いつも着けてる腕時計
たまたま着け忘れた昨日
すねて時を止めてます
仕方ないので
違う腕時計を着けようとしたら
カチカチカチ……
「 ごめんね」
カチカチカチ……♪
影と光
光と影は仲良しで
いつも一緒にいる
「 あれはなに?」
光を照らすだけじゃわからないので
影が前を歩く
「 あ、見えた!」
影は光を導く係り
マンホール
マンホールに落ちるように
恋に落ちたふたり
魔法が解けて、闇の中
闇を出たら、あったのは
頼りないけど、愛しい世界
小雨
小雨は空から落ちるとき
つぶやいた
「 もっと大きな雨になりたかったな」
暗い気持ちで落ちていく
傘を持たない女の子
「 小雨でよかったな」
明るい気持ちで駆けていく
小雨、少し笑ったよ
日直
黒板に、ぼくときみの名前が
並んで書いてある
みんなは外の雪に夢中
先生だって外を見た
ぼくだけ、きみと並んだ名前を見てた
今日が終わらなければいいなぁ
彼は私
彼は私、私は彼
同じものを見て
同じものを食べて
違う感想を言うけれど
私たちはもうほとんど同じものでできている
彼は私、私は彼
ガラスのコップ
ガラスのコップは
冷たいものを容れるコップ
でも1度間違えて
暖かい紅茶を容れられた
「 あちっ!」
もう間違えたりしないのだけど
暖かいのも容れてほしいな
冬になると、そんなことを思うのです
壁
目の前に壁
硬そうで大きな壁
行き止まりかとあきらめてたけど
あきらめきれないので、壁に触れてみた
「 あ、やらかい」
壁だと思ったそれは、はんぺんだった
それを食べたらお腹いっぱい
ちょっと休んでまた歩こう
お休み
風の日は、雨はお休み
雨の日は、雪はお休み
雪の日は、お日様はお休み
お日様の日は、雲はお休み
だけど、どこかの誰かの上には。
好かれたり、嫌がられたりしながら、
誰かの上には。
空に休みをあげたくなる
紙切れ
町を歩いていたら
一枚の紙切れが舞っていた
舞い上がって落ちた紙切れを見ると
そこには何も書いてなかった
ふと、空を見ると
言葉が降ってきた
#楽しかった?#
落ちた紙切れの上に乗る言葉
楽しかったよ
5センチの木
「 5センチの木」が
5センチ以上には伸びないのはなぜか
長年研究は続いたが未だ解明されていない
「 ねぇ、なんで5センチで止まっちゃうの?」
「 だって大きくなったら、
君が見えなくなっちゃうでしょ」
5センチの木の友達は、2センチの小人
明日の風
明日の風が、今日来た
今日は今日の風に吹かれたかったけれど、
今日の風は「 せっかくだから」と、
明日の風に譲った
今日のことは
忘れずにいたい
メリークリスマス
怒ると私のことぶったりする
やぁくんは悪い子だと思う
だから、やぁくんにサンタさんは
きっと来ないと思ってた
でも、来たんだって
お母さんに聞いてみたら
「 悪い子なんてほんとはいないのよ。
ちょっと寂しいだけなの」
やぁくんにも、メリークリスマス
離れない
あなたと出逢った、夢の中
夢だとわっかて、覚めないで
君は何をしてるかな?
夢から覚めても、離れない
ストーブ2
ストーブ付けたら暖かい
離れられなくなってしまう
外はこんなに寒いから
ストーブ消しても暖かい
離れられなくなってしまう
あなたが抱いてくれるから
道しるべ
自信のない道しるべ
「 僕の道しるべがほしいのだけど」
通りかかったモグラに言うと
モグラは笑って言いました
「 その道でいいんじゃない?」
モグラは迷っても、後悔しませんでした
みずたまり
涙が落ちてみずたまりになって
そこに映ったわたしの顔
あれ?
泣いているはずなのに、笑った顔
涙たちが笑って作ったみずたまり
もち
もちがふくれる
「 怒ってるの?」
「 怒ってるよ!」
ふくれたもちをのりで包むと
かじかむ指先あたたかい
もちは笑った
あわ
おとなしいあわがいました
まわりのあわは楽しそう
「 ほんとは楽しいんだけどな」
と、つぶやいたけど
楽しそうには見えません
「 ほら」
あわははじけてみせたのでした
雲は僕らの存在を
雲は僕らの存在を
あまりに小さくて知らないでしょう
雲から落ちた雨粒は
やがて僕らのほうまで落ちて来る
「 人はこんなに大変だったのか」
雨粒はまた雲になるため空へいく
あまりに小さな僕らを見守るために
お天気男
何をするもどこにいくも
心はお天気
気分次第で何にもなれる
心の声に、身をあずける
彼はお天気男
レンガ
積み重なるレンガ
一番下は重かろう
一番上はつらかろう
真ん中へんはきつかろう
ゆっくり降ろしてやろう
「 こんなに重かったんだなぁ」
だから少しずつゆっくりと
降ろすと明かりが見えてきた
宇宙の食事
宇宙は地球を食べようとしました
青々として何だかおいしそうだったから
大きく口をあけようと思ったとき
地球が歌ってる声がしたので
つられて歌ってしまいました
「 食べたら、歌もなくなるのかな」
宇宙は食べるのをやめて
地球で歌うちっぽけな生き物を見ていました
根っこ
春がくるまで、いまはじっと
春を思い描いて、いまはじっと
想いの花を咲かすため
いまはしっかり根を張ろう
春風
春風が通りすぎた
「 あと少し待っていて」
そう言って去っていった
また逢えるって
信じることができた
螺旋階段
学校からの帰り道
公園を通り過ぎたところ
螺旋階段を見つけた
くるくる昇って雲の中
オレンジ色の中から
街を見下ろすと
みんなありんこみたい
あのひとだけが光って見えた
好きだよ
飛行船
晴れた空に浮かぶ飛行船を
浅瀬で魚が見上げてた
くしゃみをした次の瞬間
魚は飛行船の中に
飛行機とすれ違うとき
こどもと目が合った
「 ここ、海?」
「 空だよ」
くしゃみをしたら、夢の中
小さな君
小さなことを見逃す僕だから
小さなことばかり気になる君が好き
僕ががんばって見つけた小さなことを
自分のことのように思ってくれる
小さな君の大きな心が大好きだ
プロポーズ
枯葉のじいさん、風に舞う
「 待って!」
枯葉のばあさん、追いかける
ふたつは舞い上がり
若い葉のころに舞い戻る
「 また探しに行くよ」
「 ちゃんと見つけてね」
ふたつはゆっくり落ちていく
百
みかん百個分のビタミンよりも
みかん百個食べたいよ
メール百回分のやりとりよりも
君に百回会いたいよ
ファールフライ
打ち上げられた白いボール
いつまでたっても落ちてこない
「 おっと!」
やっと落ちてきたボールをなんとかキャッチ
「 空にさわってきたよ」
白いボールは笑ってた
月の散歩
月が太陽のところへ出掛けに行った
それに気付いた太陽は言った
「 きちゃだめ!」
「 遊ぼうよ」
「 だめ!」
「 ちぇっ……」
仕方がないので雲に隠れてかくれんぼ
太陽は小さく笑った
日記
「 君がどんな人だったかを僕は知ってるよ」
と、日記は言った
「 でも、いまどんな人なのかを知らないよ」
と、淋しそうだった
仕方ないから日記を書いたら、うれしそうだった
そんなことを日記に書いた
風のうたたね
風がうたたねしていると
いつのまにやら宇宙まで来てしまった
七等星や惑星に照らされて
思ったよりも明るいので
風は起きてしまった
「 雲の上じゃないと眠れないや」
風は地球へ帰っていきました
てつぼう
てつぼう、さむそう
さかあがりのできない女の子
一生懸命練習してた
てつぼう、あったかそう
五線譜
電線に並ぶ鳥の音符
音楽家がピアノで奏でる
歌が下手な鳥は、あちこちに飛び回り
五線紙にない音を奏でる
やがて鳥たちが飛び立つと
雪の音が聞こえた
もう少し、冬でもいいかと思った
彼女
手が冷たいのを気にする彼女
「 手、つなごう?」
「 冷たいよ? 私の手」
「 僕の手はそれをあっためるためにあって」
冷たい彼女の手を握る
「 あったかい?」
「 うん」
「 それはよかった」
彼女の手はあたたかい
たぬきと月見
たぬきが月を見上げてた
私も真似して見上げてた
三日月にウサギが腰掛けていた
たぬきはぽんぽこお腹を叩いてた
ウサギは体を揺らしてた
私のお腹の子も踊ってた
きみが生まれる、ちょっとまえ
冬の夢
浴衣の君を押し倒したら
君の目が何かを言った
僕がそれに戸惑ってる
なんだか泣けてきてしまったところで
目が覚めました
君が笑っていることが
僕の夢でありますように
たこあげ
凧上げ、たのしい
蛸揚げ、おいしい
蛸上げ、たのしい、おいしい、びっくり!
「 空も泳げば気持ちいいな」
タコが墨をはいて
すっかり夜になりました
どこかで
雪が泣いてると思ったら
雪が雨に変わったからだった
「 雪はどこにいったの?」
「 雨になったのよ」
「 雪は?」
「 どこかで降っているよ」
どこかで雪が泣いてる
どこかで空は笑ってる
こたつ
こたつはひとりでいたくありません
ひとりでいるとすぐに寒くなってしまうから
誰かがこたつをつけました
「 はぁ〜、あったかい」
誰かのおかげで、こたつもあったか
まだ冬でいいよと、こたつは思いました
手紙
あのひとから手紙がきて
私の頭の中の天使が喜んだ
あのひとから手紙がきて
私の頭の中の悪魔も喜んだ
悲しいこともあるけれど
うれしいこともあるよと教えてくれた
あのひとからの手紙がきて
私は喜んだ
かばん
かばんの中から出てくるものは
遊び道具ばっかりだ
心の中もそうなら
楽しいことをいつも取り出せる
春トンボ
思いが水面に映る、思い川
水面を見ていた春トンボ
映したのは、初めて飛んだ秋の空
「 ぼくは飛べたんだな」
春トンボは、それを見て
大丈夫だと思っていました
はじまり
おはようと僕が言うと
おはようとあなたが言う
そんな一日のはじまり
それは優しさのはじまり
あれは夢
夢で逢った人と出逢った
「 久しぶり」
とその人は言った
「 久しぶり」
と僕も言った
あれは夢じゃなかったのだ
風の音
そこに行くのは少し怖いけど
ゴーゴーゴー!
風が言ってるから
背中を押してくれてるから
ゴーゴーゴー!
カメラ
僕は君の事が好き
まばたきをするたび
君が見える
カシャ!
君の笑顔が写った
あと23回まばたきをしたら
さよならだ
天国から君へ
僕はいま天国にいるよ
君が泣くと雨が降る
その雨、すごく温かい
君が走ると風が吹く
その風、すごく懐かしい
君が笑うと虹が出る
その虹、触ってみてごらん
いつでも会えるよ
またね
忘れな雪
忘れたふりをたくさんしたけど
あの雪はまだ降り積もってる
私の心を溶かすのは
きっと春のような人なのです
今日もちらちら
忘れな雪
こんなにも好き
「 どれくらい、好き?」
と、彼女
えんぴつでラブレター
何度も何度も書き直したら
えんぴつ、持てないくらいに短くなった
「 こんなにも、好き」
レンタル翼
翼を借りに行ったら、断られた
「 君には翼がついてる」と
「 借り物の翼で飛んでも、楽しくねぇぞ」と
僕は飛べるのかもしれない
君が好き
雨のち晴れの日がすき
君のこと思うと優しくなれるのと、
雨のち晴れの日は似てるから
だいすき、世界でいちばん、君がすき
海と空
海は空を見ていた
青い空、白い空、雨の空
青の下では、青い海
白い下では、白い海
雨の下では、雨の海
「 雨の日は、笑ってあげたいな」
いつも想い合う、海と空
パズル
「 おーい、おーい」
どこからか声がする
「 ここだよー」
あっ!
部屋のすみっこにパズルのピース
「 やっと見つけてくれたね」
僕の心にぴったりのピース
もうなくさないよ
低い空
低い空に浮かぶ雲
「 もっと上に行きたい!」
それを聞いた小さな鳥
雲の上に羽根を落とした
羽根を手にした低い雲
翼になって、空を泳いだ
「 上じゃなくても、楽しいな」
てくてく
ひとりで歩くのは寂しいな
「ひとりで僕は歩けない」
靴がそんなことを言っていた
「 連れてってくれてありがとう」
ひとりじゃないかも
歩いていこう、てくてくと
つなぐ
春が冬に言いました
「 手をつなごう?」
冬は答えます
「 つないだら終わるでしょ?」
「 じゃぁ、待ってる」
と、春
ほんとは春の暖かい手に触れたかった、冬
夢の中で、手をつなぐのが、精一杯
同じ速さで
まだ咲きたくない、つぼみ
「 どうして?」
「 ちょっと怖い…」
「 ゆっくり咲こうか?」
早く咲きたい、つぼみ、
まだ咲きたくない、つぼみと、
同じ速さで咲いていく
冷やし中華
とあるラーメン屋にて
”冷し中華…”
「 冬に冷し中華か、ちょっと食べていくか」
「 いらっしゃい!」
「 冷し中華、ひとつ!」
「 お客さん、貼り紙見たの?」
「 え?」
”冷し中華、やめました。”
蜂のころ
僕は昔、蜂だったので
花の甘い蜜が大好きでした
たった一つの花が好きでした
花から花へ渡る友達も
うらやましかったのだけど
たった一つの花が好きでした
僕が蜜を吸いすぎたので、
花は疲れてしまいました
僕は人になったのだけど
やっぱり一つを吸いすぎてしまいます
信号
行ってもいいよ
行かなくてもいいよ
通り過ぎる信号機が黄色ばかりの日
行ってもいいよ
行かなくてもいいよ
全部自分で選んできたから
きっとここまでこれたのさ
ため息の捨て方
ため息を手で転がして、よく丸めるたら
空に向かって投げましょう
それは小さな雨になって
洗い流してくれるでしょう
せっけん
ゴシゴシ……ゴシゴシ……
「 君をきれいにするために、ぼくは命を削れるさ」
ゴシゴシ……ゴシゴシ……
君のにおいは、ぼくのにおい
せっけんは、なくなりました
ワンコール
「 元気ですか」とワンコール
「 元気だよ」とワンコール
「 大好きだよ」とワンコール
「 ありがとう」とワンコール
つながっていることを
確かめるためのぼくらの約束
「 またね」ってワンコール
「 またね」って、ワンコール
順番待ち
雨が上がって差す光
ほんとは雨が上がったからじゃなく
雨のあいだも差している。
だけど今は雨の番
光は順番待ってるとこ
虹と一緒に待ってるとこ
のんびり時計
みんなちょっと急ぎすぎてるか
時計はゆっくり進んでみました
でも、人はすぐに時計を直します
またゆっくり進んでみたら
人は壊れたと思って、捨てました
それを拾った誰か
「 なんだか安心するなぁ」
同じリズムで歩いていきました
日めくりカレンダー屋
彼の仕事は「 日めくりカレンダーめくり屋」
その名の通り、日めくりカレンダーをめくる人
「 変な仕事だね」
もしも彼がめくらなかったら、世界は止まる
それを知っているのは彼だけだ
世界が止まったことは、未だない
そんな人に
たとえば、つくしになった日に
気付いてあげる人になる
たとえば、おでんになった日に
染み込む心の人になる
春だからじゃなく、雨だからじゃなく
音楽室
音楽室を掃除していたら
音符が落ちていた
気にせず掃いて捨てそうになると
寂しい音がした
あのこが寂しい顔をしたので
僕は音符をベランダに並べた
音符は空に歌ってた
あのこは笑顔になっていた
帰国子カラス
イギリスから帰国してきたばかりのカラス
「 車〜! 車〜!」
あ、まちがえた!
「 カ〜! カ〜!」
いい発音で、声からす
パソコン
余計なものを詰め込み過ぎて
読み込みが遅くなってしまったパソコンみたいな頭の中
あれもこれも正しいけれど
答えはいつも心の中
君を抱きしめたいと思うことだけ
葉っぱみかん
ぼくだけ葉っぱがついてる
と、葉っぱがついてるみかんは
他のみかんを見て思いました
カゴの中のみかんは
どんどん食べられていきます
「 ぼくだけ残っちゃった」
葉っぱのついてるみかんは
神棚に置かれました
「 ぼくって貴重なんだなぁ」
ランプ
彼女はランプのことが好きでした
けど、風が吹いて消えてしまうと
ランプが見えなくなりました
そっと手を伸ばすと
ランプに触れることができました
「 まだ、あったかい」
見えないけれど
いてくれてうれしかったのです
たくあん
たくあんをじーっと見てる、女の子
どうしたの?って聞いたら
注意してるの。だって
信号機の意味を習ったばかりだそうだ
その日の夜は
きみにおやすみと言えたなら
その日の夜は優しいよ
優しくなった次の日は
誰かをそっと支えるよ
届くといいな、この想い
貸さないよ
「 君に借りたいものがあるんだけど?」
「 なぁに?」
「 愛を少しだけ」
「 貸さない」
「 怒ってる?」
「 貸すわけないでしょ。もらってよ」
紙ふうせん
誰かが忘れた紙ふうせん
強い風が吹いてきて飛ばされました
雲にのっかり、一休み
のんびりゆられて落ちてった
あのこのとこまで飛んでゆけ
季節屋
このたびは当店の春をご注文いただき
まことにありがとうございます
まだ春が届いていないとの苦情もありますが
いましばらくお待ちくださいませ
春が入り次第、順次お届となります
ご迷惑おかけして申し訳ごさいません
追伸 つくしのこを同封いたしました
小さな春をお楽しみください
なかよし
なかよしは手をつなぐ
なかよしは好きと言う
好きと言ってもいい人と
好きと言ってはいけない人が
おとなにはいると聞いた日は
なんだか胸の奥から音がした
その日ぼくは大人になったのだ
光と木の葉
光は走っていました
誰も追いつけないほどの速さで
目を回しながら、風に舞った木の葉が聞きました
「 どうしてそんなに速く走っているの?」
光は言いました
「 みんなに光を届けたいからだよ」
木の葉も誰かに届けたいと思いました
春色スカート
彼女のスカート
春色スカート
めったに見られない
春色スカート
「 どうして離れるの?」
遠くから僕は
春色スカートを眺めたかった
あの時、手をつないでいればと
時々、思います
たんぽぽ
強い風が吹いて
たんぽぽは寝そべった
「 そろそろ春でもいいのにさ」
寝そべるたんぽぽの目の前で
つくしのこが顔を出す
「 やぁ。もう春?」
「 うん、春だよ」
思春期の手前
紅茶を頼むと
「 レモンかミルクお付けしますか」
と聞かれるのでいつも
「 レモンで」
と答えてしまう
ほんとはミルクがいいけれど
大人ぶってみたいから
ああ、でもやっぱりすっぱいな
2013年4月29日 発行 初版
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