spine
jacket
この本には同じ名前の登場人物が複数登場します。
彼らはそれぞれの分身です。
分身(表紙「wall going side by side」梅澤竜也)

 目 次

ペガサス

出発の窓

まるで谷底のような

分身

永遠を見つめて

星の砂

透明人間

イカスミ

  ペガサス


 白いカーテンを開けると、めぐみはもうすぐ三歳になる娘りこを振り返った。
「帰ってきたわ」
 りこはめぐみの膝から降ろされたことが不満で、くしゃくしゃの顔をしていたが、すぐ笑顔になり何度も飛び跳ねた。
 めぐみはりこにかけ寄り抱きあげると、二人で歓声をあげながらぐるぐる回った。
 ドアを開けると、りこは小さな庭へ出た。
 大きな湖の真ん中の小さな島に、彼女たちの家はある。湖は夜になろうとしている空を映し、空も湖も夕闇と同じ青色に染まっている。
 りこは水平線に漂う白いもやを覗くように目を凝らした。一人の人影がぼんやりと見える。影はこちらに向かって歩いていた
「パパー!」
 りこが大きな声を上げると、影は左手を高くあげた。りこはまだ、湖の飛び石の上を歩くことができないので、庭の一番先で両手を握って、何度も飛びはねている。
 男がやっと庭にたどり着くと、りこは飛びついた。男はめぐみの顔を見ると、
「元気そうだね。りこも随分大きくなったなあ」
 家に入ると、めぐみはカーテンを閉めた。
 男はりこを抱き上げたまま、ソファへ座った。りこはまだ男の首に力いっぱい抱きついて離れない。娘をなだめながら、
「りこ、おみやげがあるんだよ。俺の鞄を取ってくれ」
 と言うと、りこは目を輝かせ男の膝から降りて、玄関に置かれた鞄を重そうに持って来た。そっと床に降ろすと、男は中からピンクのリボンがついた白い包みを二つ出した。
「こっちの包みには球根が入っている。秋には花が咲くよ。どんな花かはお楽しみ。庭に植えるといい」
「どこの花なの?」
 めぐみが聞いた。
「東にずっと行くと、大きな峠がある。その上に何時間もはしごを登らないと行けない街があるんだ。小さな街だけど、独立した文明があって、生物の生態系も独特なんだ。この花はとても綺麗で頑丈なんだ。だがもしかしたら、ここでは咲かないかもしれない。咲いたら写真を送ってくれないか」
「ありがとう。りこ、楽しみね」
「ほら、こっちの包みは絵本だ。一緒に読もう」
 男は抱き上げてソファへ座ると、りこは嬉しそうに、足をバタバタしている。
 めぐみは食事の支度をする事にした。キッチンへ行って、用意していた鱈とほうれん草のクリームパイをオーブンに入れ、スープが入った鍋に火をつけた。サラダをボウルから皿に移し、取り皿と共にテーブルへ置いた。
 庭へ出て小さな白い花を摘んでグラスへ入れると、木のテーブルの上に置いた。二人の隣に座った。
 絵本には、巨大な怪物が男と女と子供を乗せて海を渡っている姿が、描かれている。怪物はどうやら鯨らしい。だが口が大きく裂け、目は吊り上がっている。凶暴な容姿とは裏腹に、船のように背中に、人間を乗せている姿がめぐみにはおかしかった。
「この本もその峠の街で買ったんだよ。その街の言い伝えの話なんだ。あの街ではこれがクジラだと思っていたんだな。近くに海なんてないからさ。きっと俺みたいな旅人から話を聞いて作り上げたんだよ」
「ここにもクジラなんていないわ。りこもこれをクジラだと覚えるわ」
「まあ、それでもいい。実際に見るまで、どんな風に思い込んでいても、別にいいじゃないか」
 めぐみは大きくなったりこが、船に乗り込み、大嵐の海で船から振り落とされないように手すりに掴まりながら、クジラと対面している姿を想像した。
「それに君だって、ペガサスの絵を寝室に飾っているだろう。あれも本当にいると、きっと思い込んでいるぜ」
 二人は黙った。めぐみは頬杖をつくと、
「まあ、それもいい人生よね」
 と笑った。
 長い間走り続けたペガサスが、森を見つけ中へ入って行く。
 進んで行くと、ふとお腹をすかせていたことに気がついた。木の麓に生えた青い草と赤い木の実を静かに貪り続けると、次第に眠くなってその場で丸くなった。しばらく眠っていると突然、眩しい光がペガサスの瞼の裏を差した。目を覚ますと、一面に生えている草が一斉に青白く光っている。そしてペガサスの体も青白く染まっていた。起き上がって夜空を見上げると、星は一つも出ていなかった。
「毎晩、あの絵の前に立ってから眠るのよ」
 めぐみがそう言うと、男は頷いた。彼はりこの頭を撫でた。
 パイを焼いているオーブンの音が響く。
「どこに君を連れて行くか、いつも考えているよ。りこが大きくなったら、二人で行こう。若い頃のように」
 めぐみは男の手へ触れると、彼は握り返した。
 その時、鳩時計がなった。
 パイの焼き具合を見ようと、立ち上げると、りこもついて来た。
 手袋をつけパイを取り出すと、りこが隣から覗いた。
「美味しそうだねえ」
 二人は見合わせて笑った。

  出発の窓


「あ、また誰か飛び降りた」
 十二歳のりこが空を見上げると、誰かがヘリコプターから飛び降りていた。
 今日も快晴だ。
「気持ち良さそうだね、スカイダイビングって。大人になったら、何より先にやろうと思うわ」
 りこは叔父の京橋を振り返った。
 彼は砂浜にあぐらをかいて座っていた。
 りこの声かけに、ちらっと見上げたが、すぐにダイビングシューズの点検の続きに目を戻した。立ち上がってシューズで波しぶきをたてると、熱帯魚たちが、そのしぶきを避けた。
「カメラ取ってくれる」
 京橋が言うと、りこは黒の鞄から水中カメラを取り出し、彼に渡した。
 十年前、りこの両親が交通事故で亡くなった後、京橋は自分の兄の娘であるりこを引き取った。そして同じ年、勤めていた雑誌社を辞め、フリーの海洋写真家になったのだ。来年中学生になるりこには、それがどんなに大変だったか想像がつく。
 そう尋ねると彼は、
「自分が決めた予定は、どんなことが起ころうと変えない方がいいんだよ」
 とだけ言った。
 京橋は水中でカメラの点検をするため海へ潜ると、りこは砂浜を駆け上がり家へ戻った。
 海と目の鼻の先の距離に建つ、小さな白い家だ。
 時計は、ちょうど十一時三十分を指している。
 キッチンの窓から、京橋の波しぶきを見ながら、レタスをむいた。
 この窓から見る景色が、りこは大好きだ。庭の木の葉が生い茂って、青空と合っている。真夏になれば、入道雲も見える。
 サンドウィッチと、京橋の好きな焼きそばが出来上がりそうになると、りこは窓から吊るしている金色のベルを鳴らした。
 五分もしないうちに京橋は海から上がり、タオルで体を拭きながら家へ入って来た。
シャワーを浴びて着替え終わった頃に食事は出来上がった。
 二人は食卓についた。
 京橋が焼きそばにこしょうをかけると、
「ねえ。全国テストの結果見た?」
と、りこが聞いた。
「見たよ。この前より成績が下がったね」
 彼は焼きそばをほおばると、りこの顔を見ずに、
「来週からフィジーに行く。一ヶ月で帰ってくるよ」
「ねえ、それ隣のおばさんに言った?」
「いいや」
「またあ?なぜか私が怒られるんだよね。子供を一人で置いてくなんてって」
「でもお前は家事もひと通り出来るし、しっかりしているから、周りに迷惑をかけないだろう。生活費だって俺が置いていくし。俺はお前を子供扱いしていないんだよ」
 りこが口をとがらせると彼は、
「これ、うまいな」
 と、言った。りこは片足をぶらぶらさせた。
「ねえ。私も将来海洋カメラマンになって欲しいと思う?」
「どうしたんだ?突然」
「子供が同じ仕事に就くのって、親は喜ぶっていうじゃない。叔父さんは、父親じゃないけど」
「お前らしい写真が撮れるなら、嬉しいね。人の真似じゃなくてね」
「あっ、洗濯物が」
 窓を見ると、りこの赤いワンピースが空を舞っている。先週、京橋が買ってくれたワンピースだ。
 りこは箸を置いて立ち上がると急いでリビングを出て玄関の扉を開けた。そして全速力で砂浜を降りた。
「大丈夫、捕まえられる」
 腕を伸ばして、ワンピースを握る場面が頭をよぎった。
 しかし突然強い風がふいて、ワンピースは高く舞い上がってしまった。りこの顔に砂がかかって、思わず目をつぶった。
 次に目を開けた時にはワンピースは海の上を飛んでいた。砂浜から五十メートル以上は離れてしまっただろう。
 ワンピースの上空にはスカイダイビングをして落ちてくる人影があった。
「あの人がワンピースをつかまえてくれればいいのに。空中でひろって、それをその人が着ている服の中につめ込んで、海へ落ちたら、もしかしたらワンピースは濡れなくて済むかもしれないわ」
 しかし、ワンピースは海へ落ちてしまった。
 りこはためらう事なく、服を着たまま海へ入って行った。少し冷たいが泳げば大丈夫な温度だ。そのうち足が着かなくなったので、りこは顔をつけてクロールで泳いで行った。
 後ろで京橋が叫んだ。
「おい!スカイダイビングしている人とぶつからないように気をつけろよ!」
 りこははっと頭を上げたが、先ほどヘリから落ちてきた人は、りこの右方向の遥か遠くで海に着水していた。見上げると、ヘリコプターもちょうど去って行った。りこは振り返って、京橋に向かって、親指を立てた。
 泳ぎ進むと、やっとワンピースを手にした。
 ワンピースは海面に浮かんで、まだ表面は濡れ切っていない。これ以上海水が染み込まないように、優しく掴んで小さく丸め、片手で持ち上げた。そして立ち泳ぎで浜へ向かった。
 京橋がタオルを持って砂浜で立っていた。
 りこはタオルを受け取ると、ワンピースを押すように拭いた。
「おい、自分の体を先にふけよ」
「シャワーを浴びるから大丈夫よ。ごめんね。洗濯バサミでとめておくのを忘れていたみたい」
「すぐに真水で洗い直せばいい。いきなり海に入って大丈夫だったか?」
「平気よ。私を誰の姪だと思っているの?」
「俺だって魚じゃないんだよ」
 京橋は笑うと、
「早くシャワーを浴びるんだ」
 と、りこの肩を叩いた。
 りこは洗面器に水を溜め、その中にワンピースを漬けた。
 そして着ていた服を全て、洗い物かごへ入れると、シャワーを浴びた。タオルで体を拭いて、ワンピースを丁寧に洗い、洗濯機の中に入れドライ洗濯のボタンを押した。我ながら素早い作業だ、とりこは思った。
 濡れた髪をタオルで拭いながらテーブルへ戻ると、京橋はもう食べ終わって、オレンジの皮をむいていた。むいたオレンジの半分をりこの皿の前へぽんと置くと、
「なあ。これいいじゃないか」
 と言って、テレビの横に置いてある水槽を指差した。
 水槽には地球儀が入っている。地球儀は昨日図画工作の授業で、りこが作ったものだった。
りこは作っている時から、それを気に入っていた。
 家へ持ち帰って、自分の机の上に飾ってみたが、玄関にずっと置きっぱなしになっていた空の水槽を思い出すと、地球儀を水槽の中へ入れてみた。
 しばらく眺めてから、黒の画用紙に星の絵を描き、それを水槽の内側へ貼りつけた。それをテレビの横に置いたのだ。
「何か自分が巨人になったみたいで、面白かったんだ」
「いいね。地球儀の海に描いてある魚はクジラか?」
「よく分かったね。先生は分からなかったのに」
「俺だったら、オーロラや雷雲を、周りに作るなあ」
「ええ?凄く難しそうだよ。それって」
 京橋はオレンジをほおばった。
「りこはまだ自分のなりたいものが分からないんだな」
「叔父さんは、何歳の時にカメラマンになりたいと思ったの?」
「専門学生の時だ。でも海に関わる仕事に就くと決めたのは、十二歳の時だよ」
「今の私と同じ歳ね」
「焦る必要はないさ。でも、自分がどこにいたいか考えるのもいいんじゃないか。空と陸と海、それだけでも決められるだろう。これは役に立ちそうじゃないか」
 りこは水槽を見て、両眉を上げた。
 京橋は立ち上がると、二人の空の皿を持って、流し台で洗った。濡れた手をタオルで拭くと、また砂浜へ出ようとドアの前に立った。そして思い出したように振り返ると、にやっと笑った。
「でもな、もう少し勉強は頑張った方がいいぞ」
 ぷいっとりこが大きく顔をそらしたので、京橋は笑って出て行った。
 京橋が砂浜を降りて行く音が聞こえる。りこは振り返った。
 窓から彼の姿が見えた。白い砂浜と青い海、そして再びスカイダイビングをしている人影がまた見えた。

  まるで谷底のような


 男は一歳になる娘のりさを連れて、病室にいた。
「風邪ではないですね」
 医者が聴診器をりさの胸から離すと、机のカルテへ向かって言った。
「ただの頭痛だ。ご両親は偏頭痛持ちかね?」
「妻がそうです。この子もよく痛がるんですよ。遺伝でしょうか」
 医者は黙ってカルテをさらさらと書き始めた。
 男はため息をつくと、娘の顔を覗き込んだ。
 りさは、時々頭を抱えてうなることがあった。毎回病院へ連れていくわけではないが、一晩中痛がったため、妻がひどく心配し来たのだ。
 男が娘の額を撫でながら、
「一歳の子供には頭痛がないと聞くじゃないですか。だから風邪の方が、まだ安心なんですけどね」
 医者は振り返った。
「そんな事ないですよ。薬を出すので、また来て下さい」

 家へ帰ると、妻が心配そうに玄関に立っていた。
「風邪ではないらしい。痛み止めをもらってきたよ」
「こんな小さな子に薬を飲ませていいのかしら」
「医者がくれたんだから、大丈夫だろ」
「私は心配よ。嫌だわ」
 妻はぐずついている娘を抱き、額にそっと口づけをすると、りさの小さな手を優しく握った。
 男はダイニングテーブルの椅子に座って、その様子を眺めた。
 すると昨日久しぶりに会った、上司の顔が目の前に浮かんだ。正確に言うと、元上司である。優秀な男だが口が悪く、機嫌が悪い時に部下がミスをすると、必要以上に叱責した。男は上司と合わず会社を辞めようか悩んだが、上司は起業し、先に辞めたのだ。
 昨日は、彼が会社に残した荷物を取りに来たので、会ってしまった。挨拶だけしてすぐに別れたが、元上司の晴れやかな顔がいつまでも頭の中に残った。
 男は時々想像した。上司が家へ帰ってから過ごす姿を。パソコンに向かい、仕事や勉強をした後食事をし、一日の様子や人生の夢について妻と語り合い、眠りにつく姿を。その姿に自分と違いはない。しかし上司は自分よりずっと、効率よく毎日を過ごしているだろう。夢も正しい努力によって、叶うだろう。自分には及ばない夢を、彼は常に手に入れている気がした。
 男は眉をしかめると、頬杖をついていた右手で両目を覆った。
「奴の頭は効率良く出来ているのさ。部下の手柄を平気で自分のものにするような奴だからな。後ろめたさなんて微塵もない。あれほど恥知らずの人間がよくいたもんだよ。ああやってあの年まで生きていたんだ。あいつの妻だってどうせ似たようなろくでもない女さ。脳みそが単純なんだ」
 男が堰を切ったように言うと、妻はちらと見てりさを寝室へ連れて行った。
 元上司が自分の仕事ぶりを電話で自慢している姿を横目で見た時、突然大きな蟲に見えた事があった。見間違いと思ってじっと見ると、彼の視線を感じたのか、元上司は蔑んだ目で彼を見返した。

「寝たわ」
 妻は寝室から出てくると、ソファに座って目を閉じた。
 男は妻の隣に座るべきだと思った。だが立ち上がって娘の部屋へ入った。眠るりさの顔を覗き込んだ。
 長い睫の両目は閉じて、下ぶくれの頬の間に小さな鼻がある。その鼻が小さな寝息をたてている。
 娘には当然愛情がある。ただ時々どうしても彼には娘の存在を、理解できない時があった。
「お前はなぜ、俺の目の前にいるんだろう」
 そう思えてならない。妻だって同じだ。
 結婚する前から、彼女には違和感があった。性格が合わないわけではない。しかし、なぜ彼女と一緒に過ごしているのか、まるで本当は全然関わるはずのなかった人物が何か迷路に迷い込んで現れたかのような、不自然さをいつも感じていた。その違和感を拭う為に、いつも彼女を愛おしく扱った。結婚して彼女が当たり前に隣で存在するようになっても、この“境界”は消えなかった。生まれた娘すら、彼女と同類だ。俺は一生この孤独を感じたまま生きていくのだろうか…。
 男は目が回りそうになった。
 りさの痛みも本当か分からない。娘の頬に触れると、彼は薬を捨てるか妻に相談しようと思った。

  分 身


 キッチンでは圧力鍋がカタカタ音をたてている。鍋には肉じゃがが入っていた。
「料理なんて久しぶりだから、美味しくできるかどうか」
 めぐみは笑った。
「いいよ。手作り料理なんて久しぶりだ。嬉しいなあ」
 谷川は赤ワインを開けた。
「肉じゃがってモテ料理だって聞くけど、本当に男の人は好きなの?」
「俺は好きだよ。でもめぐみさんのイメージだと、洋食を作るかと思ったんだけどね。意外だったな」
「別に狙ったわけじゃないのよ」
 めぐみは笑った。
 谷川はめぐみと同じ三十一歳だ。昨年ダンスパーティーで知り合ってから、年に数回、仲間たちと一緒に会うようになった。今夜は自由が丘にある音楽プロデューサーの高波の豪邸へ、遊びに来ていた。仲間たちは二人を残して、お酒の買い出しに出かけている。
 谷川は赤ワインをグラスに注いで、めぐみに渡した。
「めぐみさんって会うたびに、話題があるよね。この前は自分の会社を作ったって聞いたのに、今日は来月からオーストラリアの職業訓練校に留学するって言うんだから」
「会社と言っても、ペーパーカンパニーよ。何をやるかはまだ決めてないの。元々祖父の会社なんだけど、亡くなったから名義を私にしただけ。小さな工務店だったから、会社ごと閉じてもよかったんだけど、将来使おうと思って、ね」
「ふうん。留学は?」
「自分の居場所を、日本だけに限定させたくなかったの。あれこれ考えるより、実行した方がいいでしょう?何か商売をしながら、一生世界中を飛び回りたいと思っているわ」
「よくそんな夢、実践しようとするなあ」
「だって人生なんて一度っきりだし」
「はは。ほんと、いいキャラしてるよね」
 オーストラリアに行ったら、しばらく谷川には会えないだろう。めぐみは圧力鍋を見つめた。
 鍋の音が大きくなっていく。鍋が震え始めたので、慌てて谷川は腕を伸ばして火を細めたが、鍋の音は止まなかった。
「止めようか」
 めぐみはカチッと火を消した。
 鍋の音が止むと、自分の呼吸と彼の呼吸が合っているのが分かった。夜中の一時が過ぎていた。
 めぐみはテーブルにワインを置きに行こうと振り返ると、高波たちが帰ってきた。買ってきたお酒やつまみをテープルに広げると、めぐみも肉じゃがをお皿に盛りつけた。
 そして音楽をかけてお酒を飲むと、友人たちは一斉に踊り始めた。
 めぐみもシャンパンを飲むと、一緒に踊った。しばらくして、めぐみは思いついたように、「私も曲を選んでいい?」と聞くと、高波は「もちろん」と言った。
 シューベルトのセカンドワルツをかけると、仲間たちはみんな笑った。
「この曲で踊るつもり?」
 めぐみは笑って頷くと、曲に合わせてステップを踏んだ。
 谷川がめぐみと向かい合って踊ると、高波もそれに続いた。谷川が笑顔で、めぐみの顔を見る。めぐみも一応笑った。
 谷川とめぐみの顔は似ている。目や鼻や口、一つひとつのパーツまで、見れば見るほどそっくりだ。顔だけじゃない。めぐみの爪の形は変わっていて、親指はほぼ台形だが、谷川のそれもよく似ている。もしかしたら体にあるほくろの位置も同じかもしれない。
 二人が似ていることを、一度高波が指摘したことがあった。
「世界に同じ顔をした人は三人いるっていうけど、君たちそれじゃないの?」
 めぐみと谷川は顔を見合わせた。
「それだったら、死んでるはずよ。ドッペルゲンガーっていうんでしょ?」
 その後の会話は覚えていない。誰かに遮られたのだろうか。だが高波の話はずっとめぐみの心に残った。確かに谷川の体は、初対面の時からそばにいても違和感を感じない。一目見た時から離れて暮らす兄弟に会ったように懐かしかった。谷川はどう思っているのだろうか。彼もあの会話を覚えているのだろうか。谷川が何も言わないので、めぐみも口にする事はなかった。
「自分の分身がいて出会える世界の方が、世界は面白いわ。私はただ、人生を楽しく過ごしたいだけなのよ」
 めぐみはそう思いながら、谷川の顔を眺めた。
 曲が終わったので、めぐみはダンスミュージックに戻すと、テーブルに行って炭酸水を飲んだ。
 谷川が来て、彼女の肩をぽんと叩いて片手を上げたので、二人は手を合わせ叩いた。
 谷川も炭酸水を飲むと笑って言った。
「オーストラリアに行く前に、また会おうよ」
 めぐみは顔をそらした。
 彼とセックスしている姿が目に浮かんだ。青い光に照らされた雲の波が、頭の中を横たわった。その雲の上をめぐみは手を伸ばし、滑らせるように撫でた。
 思わず頭を振ろうとすると谷川は、
「さっきの独立の話さあ、何か協力できることあったら言って。あいつらも結構顔広いし、何か役には立つと思うぜ」
 めぐみは踊る友人たちを眺めると、谷川を見て笑った。

  永遠を見つめて


 十歳のりこは、暗黒空間に浮かぶ部屋に住んでいた。
 その部屋は壁も天井もないので、暗黒空間から部屋の中は丸見えだ。360度に観客がいる舞台のようである。だが暗黒空間には、人間どころか生物が存在しないので、人目を気にすることはない。
ひょっとすると、何光年も離れた場所には生物がいるかもしれないが、闇が広大で、それすら分からない。第一、そこは宇宙でもなかった。宇宙に浮かぶ惑星も見当たらない。完全な暗黒だ。しかし彼女に怖れはなかった。
 りこは手作りのクッキーを二つ食べて紅茶を飲み干すと、椅子から立ち上がり裸足のまま部屋を出た。
 彼女が住む家は家と呼ぶには奇怪だ。舞台のような部屋が十室もあり、お互い少し離れて、暗黒空間に浮かんでいる。その部屋を結ぶのは白い階段だ。勿論、階段の両側にも壁はないので、落ちないように渡らないといけない。りこは最初こそ緊張したものの、今では小走りで渡るくらい慣れてしまった。
 りこは、トントンと調子よく階段の橋を渡ると、次の部屋へ入った。その部屋は床一面に水が張っていて、さざ波をたてていた。
「この時間は、夕方なんだわ」
 水面の1メートル上まで、ぼんやりとした青い夕闇の光が漂っていた。
 りこは水に両足を入れて、部屋の中央まで歩くと、そのまま立ちつくしていた。
 奥の部屋から博士が橋を渡って来るのが見えた。
 この奇怪な“家”は、博士のものだ。作ったのも博士である。博士はそれぞれの部屋に、ある役目を与えた。地球のどこかの場所を、切り取って、その部屋の内部にその場所を再現しているのである。りこは地球で暮らしていた頃の部屋を再現して貰い、基本はそこにいるが、それぞれの部屋を、例えば、太平洋の真ん中の景色やサハラ砂漠などの、居心地を楽しんでいる。
 博士はりこがいる部屋に入らずに、入り口で立ち止まると、じっと目を合わせて言った。
「また、ぼおっとしてるのか」
「うん。この時間が好きなんだ」
「太平洋は美しい。昔は船旅によく行ったものだよ。今夜は満月のはずだ。さっき予報を見たが、今夜は晴れるそうだ。数時間したら、ここの水面にも月が映るだろうよ」
「楽しみ!とっても綺麗だもんね。私も船旅に行ってみたいなあ」
「お父さんに連れて行って貰うといいさ。まだ夜まで時間がある。それまで部屋から上がった方がいいんじゃないかね。足がふやけてしまう」
 博士はふっふと笑うと、りこは口をへの字にして片足をあげた。
 博士は思い出したように人差し指を上げると、
「新しい部屋を作ろうと思ってるんだ。手伝ってくれないか?」
 りこは笑顔で頷いて、博士の元へ走った。そして背を向けて歩き始めた彼へついて行った。
「ねえ、今度はどんな部屋を作るの?」
「それをお前に考えて欲しいんだ。地球のどこの場所をコピーするか選んでくれないか?」
「本当?いいの?やったー。どこにしようかな」
「おい、飛び上がるんじゃない。落ちたら戻ってこれないぞ。そうしたら、息子に顔見せできんよ」
「だって嬉しいんだもの。新しい部屋はどこに作るの?」
「そうだな。この砂漠の部屋の隣に作るか」
 二人は橋を渡り終えると、砂漠の部屋に入った。
「ここは朝のようだ」
 砂漠は嵐だった。博士は砂埃を遮ろうと片手を上げた。そして振り返って、りこの手をとった。両足に力を入れないと、強風で吹き飛ばされてしまう。
「博士!この部屋の隣に作ったら、砂が飛んで来ないかしら?」
「距離を離せばいい。お前個人の部屋にしていいよ。もうすぐ十一歳だからね。私からのプレゼントだ」
「ありがとう。凄く嬉しいわ」
「お前が元気になって、よかった。ここに来た時は、全然笑わなかったからな。感情を出さないようにしているのが分かったよ」
 りこは目をそらした。りこの髪が激しく揺れ、顔を隠した。しかし博士がりこをじっと見つめている事が分かる。彼女は顔を上げて、博士を見た。
「ねえ、私はいつまでここにいていいの?」
「聞こえないよ。もう一度言ってくれないか」
「博士!私はいつまでここにいていいの?!」
 博士は驚いた目をしたが、すぐに微笑んで、
「いつまでだっていい。勉強はここでも出来るからね」
「私、パパみたいに気象庁に勤めたいなー。世界中の天気をパパから聞くのは楽しかった」
 りこは風に向かって、両腕を広げた。博士は笑って、
「それもいいな!」
「そうしたら、博士みたいな発明家と結婚するわ!衛星を使って、たくさんの地球の景色を切り取るの。大都会もいいわね。そして、ここみたいにたくさんの部屋を作るのよ」
「それなら、宇宙工学を勉強するのもいい。地球だけじゃなくて、色んな星の部屋が作れるぞ」
「それいい!面白そう!」
「あっ、電話が鳴ってるな」
 博士は、二つ奥にある部屋の方へ見渡すように顔を向けた。
 赤いランプが点滅しているのが、小さく見えたのだ。電話が鳴っている合図だった。
「ちょっと行ってくるよ。一緒に来るか?」
「大丈夫よ。風も少し弱まったし。部屋の真ん中にいるわ」
 博士が振り返りながら、部屋を出て、橋を渡って行った。
 りこは博士の背中を見送るとまだ濡れている箇所を、砂で拭いた。そして顔を上げると、じっと闇を見つめた。見つめながら、闇の底を思い浮かべた。博士の話では今のところ底が見当たらないと言う。
「もしここから落ちてしまったら、餓えて死ぬまで、永遠に落下し続けるのかしら」
 そして膝に額をつけた。風の音が耳の奥で響く。
「お母さん……」
 思わずそうつぶやくと、母の声が頭の中に響いた。
「りこ」
 りこは母と二人で乗船した午後を思い出した。
 母はりこの右手を覗いた。
「そんな写真、どこから持って来たの?」
 りこが握りしめていたのは父と母の結婚式の写真だった。
「私、大好きなの。この写真…」
 りこはうつむいて、恐る恐る答えた。
「そう。嬉しいわ」
 母は目をそらした。りこは声が出なかった。写真をポーチにそっとしまうと、母が突然抱きしめてきた。
「ねえ、りこ。寂しくなったら、海を見てくれる?私はここにいるから」
「嫌だよ。海は広いもん。どこにお母さんがいるか、分からないよ」
「でも私はお墓に入る気はないのよ」
「お父さんだって寂しいって言ってるよ。家族がばらばらになるって」
「りこ、これは私が何年も考えて決めたことなの。あなたにはまだ、私の気持ちが分からないでしょうけど、結婚したらきっと分かってくれると思うわ」
 りこは頭を左右に振った。母は強く抱きしめて言った。
「りこ、お父さんに優しくしてあげて。もし彼が誰かと結婚しても、反対なんてしないであげて。これは、彼を自由にさせる為でもあるのよ」
「お父さんは、再婚なんてしないって言ってるよ」
「今はね。でも、そのうち気が変わるわ。永遠なんてないのよ。人は生まれてくる時も、死ぬ時も、ひとりなの」
 りこの体が震えた。涙が出ないかわりに、唇を強く噛みしめる。
「ごめんなさい。りこ」
 母はりこの頭を撫でた。
「勝手だよ。お母さん……」
 そう呟くと、ふと気配を感じ、顔を上げた。
 目の前には、博士が立っていた。
「大丈夫か」
 りこの両頬は、涙で濡れていた。
 いつのまにか、風はやんでいた。
 博士は座ると、りこの頬を袖で丁寧に拭い、ゆっくりと頭を撫でた。
 撫でられながら、大きく息を吸い込み、目を閉じた。博士の手は温かかった。そして両目を開けると、博士を安心させるように、微笑んだ。博士はりこの肩に右手を置いた。
「無理しなくていいんだよ」
「うん」
「電話はお父さんからだったよ。お前の誕生日プレゼントを贈りたいので、何が欲しいか知りたいそうだ」
 りこは首を振った。
「何もないよ」
 博士はうつむいた。
「でも……、お父さんと話がしたいな」
 博士はりこの目を見た。
「それは、凄く喜ぶと思うよ」
 りこは、微笑んで頷いた。

  星の砂


「あ、懐かしい」
 ますみはコルクの蓋で閉じられた小さなガラス瓶を手に取ると、めぐみの目の前でつまんで見せた。瓶の窪みには、色あせたピンクの紐が結んであった。
 めぐみは瓶の中をのぞいた。
「星の砂ね。どこにあったの?」
「あんたの机の上。色んな雑貨と混ざって、籠の中に入っていたわよ。私も子供の頃、おみやげで貰ったのよね」
「それも誰かに貰ったお土産よ。誰かは忘れちゃったけれど」
 めぐみは瓶を受け取ってわずかに振ると、サーモンピンクのとげの砂が揺れた。耳をあてると、サラサラと音がした。
 ますみは首を傾げた。
「ねえ、夕飯何にする?冷蔵庫に、にらがあったわよ」
「じゃあ、餃子にしようか。他の材料もあるはずよ」
 二人は並んでキッチンに立つと、餃子と白米ご飯、野菜の浅漬けとみそ汁を作った。
 食事が出来上がって、ますみが座ろうとすると、めぐみはテーブルの中央に星の砂の瓶を置いた。
「いただきまーす」
 ますみが元気よく、声をかける。そして早速餃子を頬張ると、口をもぐもぐさせ、斜め上を見上げた。
「そういえば、子供の頃星の砂で出来た小さな星に行ったことがあるわ。砂がとがっているから、靴を履かないと、とても立っていられないの。サーモンピンクの浜辺と海だけの小さな星よ。綺麗だったわね」
「へえ、いつの頃?」
「七歳だったかな。父の仕事にくっついて、宇宙船に乗った帰りに寄ったのよね。不思議だったのは、海が青白く光ってたの。海の中から青い光がさぁーっと、波に沿って動いてたの」
「へえ。幻想的ね。光の正体は何だったの?」
「父は、チョウチンアンコウが住んでいるからだって言ってたけど、でもアンコウって深海魚よね。あれは浅い海だった気がするわ。まあ、子供の頃の記憶だから、詳しくは分からないけど」
「今でもその星はあるかしら」
「もう消滅しているかもね。この餃子美味しくない?」
「うん、久しぶりに食べたわ。一人だと作らないもの。デザート食べる?」
「ありがとう。食べ終わったら、頂くわ」
 二人は餃子を食べ、ご飯を頬張り、お茶を飲んだ。全ての皿が空になると、めぐみは食器を片づけプラムを冷蔵庫から取り出し、水で洗って、お皿に乗せた。
 早速プラムを一つ取って齧ると、残りのプラムが乗った皿をますみに渡そうとした。するとテレビの前に立っていたますみは振り返った。
「ねえ。台風が、今日にも上陸するって」
「大きいの?」
「らしいわよ。知ってる?台風って地球を冷やすために生まれるの。赤道付近の海水表面温度が上がると発生するのよ。だから地球が暑くなるほど、大きな台風が出来るんですって」
「へえ。とりあえず庭のハンモックを片付けなきゃ」
 外へ出ると、生暖かい風が全身にぶつかった。強風で、庭の木に激しく体当たりしているハンモックをはずして畳むと、駆け足で部屋に戻った。
 ハンモックはまだ濡れていないので、リビングに吊るし直す事にした。リビングのピアノの隣に吊るすと、ますみはその上に乗ってぶらぶらと揺れた。
 めぐみはキッチンに行ってウィスキーの瓶を手に取ると、ハイボールを作り、そのグラスをますみに渡した。
 窓がガタガタ揺れ始めた。雨戸は閉まっているが、ガラスの窓をほんの少し開けている。強風の残り風が、部屋に微かに入ってくる。めぐみはウィスキーを少し口に含んで、庭からハンモックと一緒に移した観葉植物の葉を撫でると、パソコンのスイッチを入れた。
「この風の音じゃ、しばらく眠れないわね」
 返事がないので振り返ると、ますみは静かな寝息を立てていた。
 めぐみは立ち上がって、何となく部屋をぶらぶらと歩くと、ふとテーブルの上の星の砂に目を止めた。近づいて瓶をつまんで、目の前まで持ち上げる。
 砂のとげの先をめぐみは見つめた。
 そしてそっと蓋を開ける。
 ポコンと音がなった。
 蓋が開いた音かと一瞬驚いたが、パソコンが起動した気配を背後に感じた。どうやら音はパソコンからだった。
 パソコンの前まで戻って画面を覗くと、そこにはオリエンタルブルーの色が一面に映っていた。 目を凝らすと、白い砂底が見えた。どうやら海の中のようだ。そのまま見つめていると、中央の奥から、何かがゆっくりと泳いで来た。チョウチンアンコウだった。
 アンコウの全身がくっきり現れるとその光で、辺りはターコイズブルー色となった。尾ひれが揺れ、砂を立て煙をたてている。
 ゆらゆら揺れるアンコウのランプに、めぐみは思わず指をあてた。
 すると、アンコウはめぐみを見つめ、ゆっくりと頷いた。挨拶のようだ。
「君とは直接会うことがあるかもしれないね」
 アンコウがそう言ったので、めぐみは指を引っ込めた。
「星の名前は?名前が分かれば、宇宙船で行けるわ」
「この星は、君の友人がかつて訪れた時より、ずっと遠く地球から離れてしまった。もしここへ来ることが出来ても、君は家へ帰ることが不可能かもしれない。宇宙の果てへ迷い込んで、故郷の星へ戻れない者は大勢いるだろう。だがもしかすると、私たちは会う事が出来るかもしれない。何せ将来がどうなるかは、今は何も分からないのだから。君がどう望むかも…」
「ええ。でもあなたと会う未来は楽しそうだわ。望遠鏡であなたがいる星を探してみる」
 アンコウは尾ひれを翻し大きく飛び上がるように振り返ると、来た方向へ去ってしまった。
 めぐみは思わずもう一度パソコンの画面に触った。
「何か言った?」
 ますみが眠そうに目をこすった。
「今ね、スカイプでチョウチンアンコウと話していたのよ。さっきあなたが言った砂の星にいたアンコウよ」
「まだあの星はあったのね。浅い海だと思ってたけど、岸の奥は深かったんだ」
「とても綺麗な色をした海だったわ。私いつか行くわ」
「不思議ね。私も今その星に行った夢を見たの。サーモンピンクの砂浜に立ってたわ。海を背にして、宇宙を眺めてたの。さざ波の音が気持ちよかったわ。そうしたらね、ウィスキー臭い小惑星が目の前を通過したの。どこかの酔っぱらいが酒を惑星にぶちあてたんだと思ったわ」
「何それ?変な夢」
 二人は笑った。
 窓が再び激しく揺れた。
「凄い風。外に出たら、体がなくなって、風になっちゃいそう」
「面白そうね。自然現象には生まれ変われなさそうだもの」
「もしかしたら、そんな人いたかもよ」
 ますみは笑ってまたハンモックに寝そべると、植物の葉が小さく揺れた。

  透明人間


 真夜中。
 めぐみは団地の外階段を降りて、自転車置き場と街路樹に挟まれた道を抜けると、満月の光に照らされた丘へ出た。
 丘の奥には真っ黒な海が見え、藍色の夜空との間に水平線が広がっている。
 めぐみはぶらぶら歩いて小さな池を覗くと、二匹の赤い金魚と一匹の黒のでめきんが泳いでいた。
「あなたたちは眠らないの?羊や牛は、もう夢の中よ」
 そっと話しかけたつもりだが、金魚は驚いたようでひらりと翻って、三匹でぱちゃぱちゃと泳ぎ回った。「しまった」と思い、ふと顔を上げると、小さな岩に座っている男の後ろ姿が、丘の奥に見えた。
 チェックのコートに、濃い茶色の帽子をかぶっている。めぐみは近づいて声をかけると、男は振り返った。
 男は透明人間だ。
 めぐみは彼の隣に座って、パイプ煙草を吸っている男の口からドーナツ形をした煙が、ひとつふたつ、プカプカと空へ浮かんでいくのを見つめた。
「お腹すいてない?家に昨日作ったレモンケーキがあるの」
 男は暫く黙ってから、
「ああ、ありがとう」
 と言って、立ちあがった。
 金魚が泳いでいる池を跨ぎ、二人は黙って歩いた。さっきの煙草の煙は、雲になったりしないのかしら。めぐみはそんなことを考えながら、透明人間を振り返った。
 男は咲いていたつゆ草を摘んで、まためぐみの後を歩いた。

 彼はコートの下に黒いスーツを着ていた。
 部屋に入ると、めぐみは彼のコートと帽子をコート掛けに掛けた。そしてカップを温めて紅茶を入れ、レモンケーキを二人分切った。
 フォークでさした一口サイズのケーキが彼の口の辺りから姿を消す。
 開いている窓から、かえるの鳴き声が聞こえた。
 男は食べ終わると、
「美味しかったよ。ごちそうさま」
 と、言った。
「泊まっていかない?」
「まだ結婚するか決めていない。それまでは関係を一旦止めようと思うんだ」
「何を迷っているの?結婚するほど好きじゃなかった?」
「結婚したら子供が出来るかもしれない。僕みたいな透明人間だったら、可哀想だよ」
「今までだって、子供が出来るようなことはしてたわ」
「浅はかだったんだよ、避妊もしてなかったし。それは僕が悪かった。君が妊娠しなかったのは、幸運だったと思っている。結婚しても、それは変わらないつもりだ。つまり、避妊は続くんだ。結婚生活にそれは不自然だろう?そのうち、君だって嫌がるよ」
「私はあなたといたいし、子供が透明人間だって構わないわ」
 めぐみは男が食べ終わった皿をじっと見つめた。そしてさっと二枚の皿を取って重ねると、流し台に持って行き、蛇口をひねった。皿が勢いよく濡れた。それを見つめると、途端に涙が両頬をつたい、顎先からぽたぽたと落ちた。手で涙を拭いながら、袖を撒くって皿を洗った。
 男は立ち上がると、コートを着た。ポケットに手を入れると、中から摘んだつゆ草をそっと出して、テーブルに置いた。
「僕の絶望に、君を巻き込みたくないんだ。もっと違う人生を送れたはずだと、君は思い続けるだろう。それに君の生活に合わせれば、僕がいつもそう思うだろう。それは不幸だよ」
 そして帽子をかぶると、静かに出て行った。
 閉じたドアの音を聞くと、めぐみは男が座った椅子に座り、テーブルに顔を伏せた。暫く泣き続け、やっと涙が止まると、横たわったつゆ草を見つめた。手を伸ばし、花びらをひとさし指でゆっくりと撫でた。

 三日後の夜、男はまたチェックのコートと帽子を被り、めぐみの部屋を訪ねてきた。
「散歩に行かないか」
 男の言葉にめぐみは頷くと、彼の背中へついて行った。
 二人で丘を歩いると、羊が一匹、木かぶの隣ですやすやと寝ていた。めぐみは立ち止まって、羊の隣で腰を降ろした。男も足を止め、彼女をじっと見つめているようだ。しかし透明なので、彼女を見ているのか、羊を見ているのか分からない。めぐみは見つめ合ったつもりだった。
 男が羊を挟んでめぐみとは反対側に座ったので、めぐみは息を飲んだ。黙って男の話を受け入れるつもりだったのだ。しかし再び涙が落ちた。めぐみは寝ている羊の背中にゆっくりと、うつぶせた。右手でそっと羊の背中を撫でた。羊の寝息に自分の呼吸を合わせると、羊の毛を指先でつまみながらめぐみは聞いた。
「あなたはこれからどうするの?ここから出て行くの?」
「海を渡って、地球の反対側に行こうと思う。僕の特性を生かした職業があるんだ。今日正式にオファーを受けたよ」
「それって危険な仕事?」
「僕が普通の職業になんて、つけるわけがないだろう?」
「ここにいれば安全なのに」
「仮に僕が向こうで成功して君を呼んだら、君は来るかい?」
 めぐみは起きあがった。唇を噛んでじっと見ると、
「呼ぶはずがないわ」
「そうだね。危険な仕事だから、誰とも結婚できないよ。こんな質問をしたのは、君がここから離れないことを自分でも分かって欲しかったんだよ。君はこの場所を愛してる。でも僕にとっては特別な価値もない。お互い求めているものが違うんだよ」
 その時羊が目を覚ました。
 ゆっくりと顔を上げたので、めぐみも起き上がった。羊は大きなあくびをして、モニャモニャ口を動かすと、めぐみの顔を見つめそっと頬にキスした。めぐみは羊の頬を撫でると、羊は立ち上がった。そしてめぐみの服の裾を口先でくわえて、引っ張った。立ち上がると、羊はとっとと小走りで奥へ進んで行った。振り返りながら、まっすぐと海へ向かっている。
「君について来て欲しいみたいだね」
 二人は羊の後を追った。
 海へ出ると、藍色の夜空に満月と無数の星が煌めいていた。その輝きの静けさにめぐみは不思議と違和感を感じた。岸辺には、木のボートがオールと一緒に浮かんでいる。
 羊は船をじっと見て、めぐみの顔を見た。
「これがお望みだったようだね」
 そう言うと、男はボートに片足を乗せて、めぐみを振り返った。
 めぐみは男の手を握ると、船に乗り込んで船先に座った。
 男は片足で船を蹴り押し出すと、岸辺から離れる船にすぐに飛び乗り、腰を下ろしてゆっくりと漕ぎ始めた。
 夜空を映した海が、輝いている。めぐみはひとさし指で水面に映った星に触れ、指先に小さな波を立てた。
 右方を見ると、遠くでイルカが飛び跳ねている。跳ねた影が、月の光で海に映る。
 気がつくと、二人が乗る船を囲む海が段々小さくなって、海から切り離されていた。船を囲む水は海と同じように波を立てている。男は続けて、オールで漕ぎ続けた。
 そして船は宙に浮かび始めた。船の周りの水が音を立てている。めぐみはわあっと声を上げて男を見た。男はまだ漕いでいる。船は星空の中を進んで行った。
 突然五つの星が一列になってめぐみの前を横切った。そして船の周りをぐるぐる回る。
 男を見ると、彼が控えめに微笑んでいるのが分かった。めぐみも同じ表情をする。
 一年前も似たことがあった。
 景色に気を取られ、めぐみは船から身を乗り出していた。振り返ると、彼は微かな声を上げて笑ったので、彼に寄り添い二人で夜空を見上げ続けたのだ。一緒に地球の反対側の世界へ旅をし、帰ったばかりの頃だった。
 思い出は頭の中を去った。めぐみは男から顔をそらした。
 体を乗り出し、手を伸ばして空に浮かぶ星に触れると、星は温かい息をふうっと吹いた。

  イカスミ


 飼っていたダイオウイカが、めぐみの顔をめがけて墨をふいたことがあった。
 それ以来、彼女の瞳はどんな色も青色に映してしまう。
 怒った夫はイカを丸焼きにし、夕食に食べてしまった。
 イカにはまだ、小さな子供がいた。
「この子は、どうする?」
「殺すのは可哀想だ。親の罪を背負わせることないよ」
 その子供も今では成人と同じ大きさになって、水槽の中を泳いでいる。
 時折、大きな目をぎょろつかせ、めぐみ達を見ることがあった。
「私たちのこと、恨んでいるかしら」
「君をこんな目に遭わせて、恨むだなんて図々しい。生かしておいただけでも、有り難いと思って欲しいね」
「この子には、そんなこと分からないわ」
「お人よしだね。もうこいつを飼うのはよそう。日曜日に海に行って、逃がそうか」
「正直寂しいわ。青い世界に慣れてくると、自分も水の中にいる気分になるのよ。この子が自分とは別の生き物だと思えなくなるの。それにこの大きな水槽を空っぽにするのも寂しいわ」
「じゃあ今度は熱帯魚を飼おう。それならいいだろう?」
 水槽を眺めるめぐみの顔を撫でると、夫は優しく抱きしめた。
 青い視界になってからは、めぐみには闇がない。闇もめぐみの瞳を通ると、濃い青色となってしまう。黒い墨をかけられたのに、なぜ視界が青色の世界になったのか、理由は不明だ。そもそも墨のせいでこんな視界になるとは聞いた事がない。今までたくさんの医者にかかったが、治る方法も原因が分かることもなかった。
 二人は歯を磨くと、一緒にベッドに入った。
 横たわる夫の顔を、めぐみは頬杖をついてじっと見る。夫はちらとめぐみを見て、天井に視線を移した。めぐみは夫のこめかみを撫でながら言った。
「青い視界になったこと、そんなに残念だと思っていないの。私はこの世界が気に入っているのよ」
「不自由じゃないか。せっかく楽しんでいた化学検査の仕事だって辞めたし。俺には君の目つきが気になるよ。墨を吹きかけられてから、あのイカみたいにじっと見るんだから」
「青色しか見えないせいで、世界が二次元に見えるのよ。本当にあなたが目の前にいるか、たまに心配になるだけ」
「結局不安なんじゃないか。君ががっかりするから最近はやめていたけど、また医者を探そう。根気よく探せば、治してくれる人が見つかるさ」
 そう言うと夫はめぐみのパジャマのボタンをはずした。二人は上着だけ脱がせ合うと、それをベッドの脇に落とし、抱き合って寝た。

 次の朝。
 朝ご飯を二人で食べ玄関でキスをすると、夫は仕事へ出て行った。
 めぐみは食器を洗い、ソファに座るとイカを眺めながら昨夜の夫の寝言を思い出した。三度も同じ女性の名前を呼んだのだ。めぐみの知らない名前だった。
 体をうねらせ、吐息を交えて呼んだので、めぐみはしばらく眠れず、朝になって誰のことなのか聞いてみようと思ったが、結局言い出せなかった。
 イカがギョロリとめぐみを見ている。
 めぐみはイカの周りを漂う水泡を見つめながら、知らない女性の胸を舐める夫を想像した。
「どうして聞けなかったのかしら。素直に気持ちをぶつければ、よかったのに」
 めぐみは服を着替え、薄化粧をすると、水着を鞄に入れて部屋を出た。

 平日の午前中の市民プールには、年寄りと幼い子の親子しかいない。
近くにある大学の学生が監視のアルバイトでプールサイドに点々と立っていた。
 このプールは壁一面が窓になっていて、プールの隣に広がる海と空を横目に泳ぐことができる。
 めぐみはここが気に入って、週に一回は来ていた。
 クロールを泳ぎ始めると、水流が体をなぞった。
「海へ放した方が、あの子にとってずっといいはずだわ。好きなところへ行けるもの」
 そんなことを考えていると、がんっと何かを蹴った感触がした。
「えっ」
 めぐみはすぐに立ち上がると、後ろで若い女性が鼻を両手で抑えている。両手からは、濃い色の液体がプールの水にしたたり落ちていた。
「ごめんなさいっ」
 アルバイトの監視員がプールに入り、彼女を連れて行った。めぐみも後をついていく。
 女性の鼻血は五分経ってから、やっと止まった。
 彼女はめぐみを見ると、頭を下げた。
「すみませんでした。背泳ぎしていたから、寄りすぎちゃったみたい」
「私の方こそ、ごめんなさい。大事に至らなくてよかったわ。もしよかったら送っていくわ。車で来たの」
「大丈夫です。アイスでも食べて、横になってから帰りますから」
「せめてアイスだけでも、奢らせて」
 二人は一階のプールを後にし、二階の娯楽室に向かった。娯楽室の入り口には、アイスの自動販売機がある。そこでチョコミントアイスを二つ買うと、畳で既に座っている女性に渡した。
 プールは二階建てで、プールの天井は二階まで繋がっている。プールの隣に娯楽室があって、ガラスからはプールが覗ける構造となっている。またプールと同じように、海も見渡せるよう、入り口から見て向かいは一面ガラス張りになっている。二人は海側のガラス窓に向かって並んで座った。
 女性が、アイスの包装紙をめくると、めぐみは
「気分はどう?」
「もう大丈夫です。気を遣って下さって、すみません。私が悪いのに」
「いいえ。お互い様よ。背泳ぎって怖いのよね。私も経験あるわ。ここへはよく来るの?」
「週1回は。スポーツインストラクターをしているんですけど、職場のプールだとお客さんだらけだから、ここへ来るんです」
 意外だった。確かに体つきは筋肉質だが、おっとりとしたお嬢様タイプに見える。職場で汗をかきながら声を張り上げている彼女の姿が想像できなかった。
「私の名前はめぐみ。あなたは?」
「ミホといいます」
「えっ」
 夫の寝言の女性と同じ名前だった。
「ただの偶然だわ」
 めぐみは笑うと、ミホは目を伏せた。
「何でもないの。今日は一日休日?」
「家に帰って休憩したら、仕事へ行きます。遅番なんです。仕事帰りの方も通えるように、夜十一時までやっていますから」
「そう。今日、無事に行ければいいけど。また会いたいわ」
「私もです」
 ミホは微笑むと去って行った。
 めぐみは彼女の背中を見送ると、海を渡る一隻のタンカーに目を移した。

 家に戻り、スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に詰め、小さな花をテーブルに飾ると、オムライスを作った。
 ミホも今頃食事をしているのだろうか。昼寝をして仕事場へ行くミホを想像すると、鼻を蹴った足先を思わず右手で触れた。
 夫はジムに通っていない。おそらくミホとは接点がないはずだ。しかし何かのきっかけで出会っていたら、夫が彼女に惹かれてもおかしくない。それほど、ミホは魅力的な女性だった。控えめだが明るそうで、幼くも老けてもなく、上品だった。
 めぐみは横になった。
 闇がないせいか、疲れやすい。目を閉じると、窓の光のせいで瞼の裏が水色となった。
 うとうととしていると、シャワーを浴びている夫の姿が見えた。そこにミホが入ってくる。二人は激しいキスをすると、濡れた体のままシャワー室を出て、ベッドになだれこんだ。二人の声にめぐみは耳を澄ませる。やがて声が止むと、寝息が聞こえてきた。 眠っている夫に近づくと、ミホはもういない。めぐみはそっと彼の頭を撫でた。

 夜、夫が帰ってきたので、めぐみは早速抱きついた。彼の首の匂いをかぐと、夫から腕を離した。
「何だか無臭になったわね。昔はもっと肌の匂いがあったのに」
「普通、逆だけどな」
「好きな匂いだったのよ」
 夫は服を脱ぐとすぐに風呂場へ行ってしまった。
 めぐみはキッチンに行き、コンロのスイッチをひねって鍋を温めた。
 シャワーを浴び終えた夫がパジャマを着ると、ちょうど食事がテーブルの上に整った。
 煮魚をつつきながら、めぐみは聞いた。
「あのイカ、どうやって海へ連れて行く?トラックを呼んだ方がいいかしら」
「そうだな。めぐみのおじいちゃんのトラックでも借りられないかな」
「聞いてみるわ。それにしても、結婚してから飼ったから、もう三年か。イカとの生活も結構楽しかったわね」
「次は熱帯魚が来るよ」
「一度、イカと一緒に泳いでみたかったわ」
「襲われたらどうする。危ないよ。それにあの水は汚いし。もう逃がすんだから、イカのために水を取り替える必要もない。水は熱帯魚が来た時に取り替えよう」
「ねえ、今晩はこの部屋で寝ない?イカの隣で寝たいわ」
「どうしたんだよ。突然」
 夫は目を丸くしたが、めぐみは無視して食事を終えると、皿を片付けて洗った。そしてシャワーを浴びると、客人用の布団を二つ出して、水槽の隣に並べた。
 二人は歯を磨くと、電気を消し布団へ入った。
「初夏だからよかったわね。冬だったら寒くて、ここじゃ眠れなかったわ」
 めぐみはゆっくりと起き上がると、夫の布団をはがし、パジャマと下着を脱がせると、水槽の波目が映った夫の体を眺めた。
 イカが二人に興味があるのか、ガラスに体をすり寄せながら、ぐるぐると泳いで二人を見ている。
 めぐみも裸になると、波目が映る自分の体を見つめた。
「水になったみたい」
 夫はめぐみを引き寄せると、唇に舌を入れ、めぐみの腕をなでた。
 プールで泳いだ時の水流の感触をめぐみは思い出した。抱き合いながら、なぜかめぐみは、セックスをするのは何だかもったいないと思った。もし二人で水になれたら、それがふさわしい姿だと思ったのだ。溶け合って、互いをすり抜け、そしてまた出会って溶け合う。体があれば、それはできない。
 めぐみは夢を見た。
 三階建ての白い建物の前にめぐみは立っている。また働くのだ。仕事内容は、以前と同じ石油の化学検査だ。めぐみは白衣を来て検査室に入ると、与えられた仕事をこなす。
 やがて終業時間が来た。更衣室で白衣を脱ぐと、お気に入りのトレンチコートとバッグを持って職場を出た。
 来週は近くの大学で、上司が出張講義をするので、その手伝いに行かなくてはならない。資料作成などの準備は明日から始めようと、めぐみはバス停のベンチに座って、予定を手帳に書き込んだ。手帳を閉じると、夕食のメニューを考える。シチューなら、材料を買って帰らないといけない。
 バスから降りて、スーパーに入り、買い物かごに品物を入れていくと、隣にいた男性と目が合った。彼とは時々このスーパーで会う。別の研究所に勤めている同じ年の男性だ。彼が目で合図をするので、めぐみは会計を済ませ、スーパーの袋を持ったまま、彼の後を着いて行った。彼の家に入ると、二人はいつも通り激しいセックスを交わす。時間はいつも三十分以内で済んでしまう。終わると、めぐみはすぐに服を着て、スーパーの袋を持って部屋を出た。
 そして家に帰って、シチューを作った。求められれば、夜また夫と寝るだろう。夫も誰かと寝た後かもしれないが、めぐみは問いただしたりしない。いつか夫と夫の浮気相手と、四人でセックスすることがあるかもしれない。嫉妬を抱くこともあれば、知らなかった夫の姿を見て、それを知る嬉しさを感じることもあるだろう。どちらの感情を抱いても、めぐみはいい気がした。夫にも同じように思って欲しいけれど……、めぐみはシチューをかきまぜながらそう考えた。
 ふと、めぐみは目を覚ました。
 隣には波目が映った夫の寝顔があった。
 めぐみは小さく息を吐いた。水槽の水の音が部屋を包んでいる。
「私ってお人好しじゃなくて、意外と自信家じゃないかしら」
「うん?」
 めぐみの独り言に、夫が目を覚ました。
 めぐみは微笑むと、
「昨日ね、プールで素敵な女性と知り合ったの。ミホという女性よ」

 日曜日、祖父から軽トラックを借りることが出来た。祖父の呼びかけで、数人の男たちも手伝いに来てくれた。
 荷台にダイオウイカを乗せると、イカの体が乾かないように、何枚もの大きなタオルを水で濡らし、イカの体にかけた。夫がトラックを運転し、めぐみはイカと一緒に荷台に乗り、イカの体を撫でながら、近くの海へ向かった。
 めぐみの好きな市民プールの隣にトラックを止めると、また男たちと夫とめぐみでイカを持ち上げ、防波堤の端までそろそろと運んだ。イカは海の気配を感じたのか、ソワソワして体を揺らし始めた。
「暴れる前に早く逃がそう」
 夫がそう言うと、みんな、「ああ」と返事をしながら、気が焦っているのがめぐみには見て取れた。防波堤の端まで来ると、「一、二の三」と声をかけ、イカの頭からゆっくりと海へ降ろした。
 海へ浸かると、イカは喜んでいるのかぐるぐると辺りを回って泳ぎ始めた。めぐみは思わず、服を着たまま海へ飛び込んだ。夫が大声で呼んだが、そのまま泳いでイカを追いかけ、一緒に海を潜った。そして泳ぐイカの隣へ並んだ。
 イカはめぐみをギョロリと見ると、足を差し出した。めぐみはその足を握った。
「ごめんね。ずっと狭い所へ閉じ込めていて。あなたのお母さんが生まれた海を楽しんで」
 イカは足を離すと、めぐみを振り返ることなく、素早い速さで闇が広がる海の底へ潜って行った。

分身

2013年9月12日 発行 初版

著  者:荒川 あい子
発  行:チェスナットホール

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荒川 あい子

昭和56年、東京生まれ。幼少をアメリカ・フィラデルフィアで過ごした後、、横浜で海を眺めながら育ちました。今は東京に住んでいます。

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